第17話 正しい笛の使い方

 逃げた先の新しい研究所で、家族や両親の仲間達と、それなりに良い暮らしをしていたとセウスは思う。クランケットとは会えなくなってしまったし、今となっては思い出せない物を隠すようにしていたとはいえ、平和ではあったのだ。奴等が襲ってくるまでは。
「ここに隠れていなさい。何があっても、出てきちゃ駄目よ」
 暗い部屋にセウスとサリアを押し込んだ母親の顔は、一度も見せたことがないような厳しい顔をしていた。
「セウスに、一つお願いがあるの」
「なに、母さん」
 この時、自分は少し震えていた。もう会えなくなることを、悟っていたように思う。
「これを、大切に持っていてね。大事な預かり物だから」
 母親から手渡された物は、銀色に鈍く光る笛だった。
「本当の持ち主に、返してあげて。きっと、セウスなら出会えると思うから。決して、奴等に渡しては駄目よ」
「うん。分かった」
 母が安心できるように、力強く頷いた。精一杯の強がりが、伝わっていたのだろう。彼女は、微かに笑った。
「どこにいくの?」
 サリアが大きな目で母親を見上げた。幼いなりに状況が分かるのか、セウスの服を掴む小さな手は小刻みに震えていた。
 母親は、その問いには答えず、一度セウス達を抱き締めた。
「2人共、生きるのよ」
 そう言ったかと思うと、扉を閉めてしまった。
「母さんっ」
 叫んだ声も、思わず伸ばした手も、閉ざされた扉に阻まれてしまう。それでもセウスは、何度も同じことを叫ばずにはいられなかった。

 ◆◆◆

「セウスさん?」
 控えめな少女の声に、ようやく状況を把握する。半身を起こしたセウスは、しっかりとその少女の手首を掴んでしまっていた。
「あ、ごめん」
 謝りながら手は引っ込めたものの、少しばかり気まずいものがある。目を反らす彼に、少女は小首を傾げて微笑んだ。
「大丈夫ですか?だいぶ、うなされていたみたいですけど」
 あえて手首を掴まれたことには触れない優しさに感謝しながら、セウスは頷いた。
 13年前にグドアールが襲ってきた時の夢を見るのは、最近では珍しい。ここ2、3年の記憶を辿っても、学都で倒れた時くらいのような気がする。
 父親達が守ろうとしていた物を思い出そうとしても、白い靄が掛かっていて無理そうだ。ただ、今持っている笛は元々は預かり物だったのだ、ということは思い出すことができた。持ち主は分からず終いだが、ルージュと関係しているということは科学に関する人物なのだろう。
 朝食を済ませてからずっと、窓の外では少女とルージュが遊んでいる。昔の夢を見たのも、笛の真相を思い出すことができたのも、おそらく彼女のおかげなのだろう。彼女は生き別れた妹、サリアなのだから。
 本当は、もう2度と会うことはないと思っていた。まさか、あの町で水を掛けられるとは。向こうは今でも、自分が兄だと気付いていないようだが。もっとも今のセウスはグドアールを追う身で、いつサリアに魔の手が及ぶとも知れないから、知らない方が良いだろう。妹の元気そうな顔が見れたのだから、学都に戻ったらルエルにお礼を言わなければならない。
 セウスは「旅で疲れているだろうし、お詫びも兼ねて1、2日」と言われ、もう3日を妹の元で過ごしていた。サリアの今の生活を壊してもいけないし、きっと学都でハング達が待っているだろうから、すぐに立ち去るつもりではあったのだが。
「ルージュが止めるんだよな」
 笛が手の中にあるうえ、形見でもあり人の物でもあるとなると、置いていくわけにもいかない。
 セウスは溜め息を一つ吐いて、サリアを育ててくれた叔母の傍らに向かった。母親や養母の妹であり、自分の素性も知っているはずなのだが黙認してくれている。
「悪いね、手伝ってもらっちゃって」
「いえ、べつに。俺、居候の身ですし」
 叔母はすまなさそうに言うが、久々に家事を手伝うことができて少し嬉しいくらいだった。
「でも、意外だね。家事全般ができるだなんて」
「家で手伝っていましたから」
 この辺りでは、男が家事が得意というのは珍しいことなのだろうか。セウスが育った村では男でも家事は手伝っていたし、養母を助けたくて進んでやるようになったのだが。そう言えば、養父や養母は元気にしているだろうか。笑顔で送り出してはくれたが、今頃寂しがっていないだろうか。
「偉いわね。うちの娘にも、見習ってほしいよ」
 養父母の顔を思い出していると、叔母に抱きつかれた。「嫁に来い」と。
 真面目だった母や、おっとりとした養母と違い、快活な人らしい。しかし、性格は違っても周りにある温かい空気は似ていた。傍にいると、なんとなく安心する。きっと妹も、セウスと同じように温もりの中で育ったに違いない。そう思うと、救われる。
「あのこは、いつもああやって小動物と遊んでいるのさ」
 叔母が外を見て、溜め息混じりに呟いた。叔母の視線の先では、木の根元に座る妹が小鳥と戯れている。ルージュも、機嫌が良さそうに尾を振っている。彼女達の姿は、とても楽しげだ。笑顔で小鳥に話し掛けている様子から、サリアも動物達と会話していることが分かった。これも、血なのだろうか。
 外の様子に思わず笑みが零れた時、全身にざわめきが走った。
『助けて』
 心に直接響く声は、悲痛な叫びで訴えている。
『侵入者だ。助けて』
 大騒ぎで飛び立っていく鳥の声に、セウスは戸口へと走った。助けを求める声に、動かずにはいられない。
「セウス君?」
「すみません。すぐ戻ります」
 不思議そうに尋ねる叔母に早口で言うと、外に出る。すぐさまルージュを呼んだ。彼も分かっているのだろう。サリアのところから離れると、セウスの肩の上に軽々と飛び乗った。
「セウスさん。森へ行かれるんですか?」
 セウスと同じく動物の叫び声が届いただろうサリアが、尋ねながらも付いてこようとする。
「危険かもしれないから、ここにいるんだ」
 制すると、呼び声を無視して、森の中へと駆け出していった。

 ◆◆◆

 森の中を走っていくと、徐々に動物達の声が近付いてきた。
『匂いが近いよ、セウス』
 肩の上のルージュが、短く鳴いて知らせてくれる。草むらを掻き分けて進むと、広場に辿り着くことができた。そこでは数人の白衣を着た男達が、動物を捕らえていた。檻や箱の中に、既に数匹入れられている。悲鳴を上げている彼等を、研究材料にするに違いない。そんな光景を目の当たりにして、止めに入らずにはいられなかった。
「何やってんだ、おまえらっ」
 セウスの声に、研究員らしき男達が振り返る。
「なんだ、おまえは」
「誰だって、いいだろ。こんな所で、何やってんだよっ」
「何って、見たまんまだが。まさか夕飯のおかずを捕らえているようには見えまい」
 落ち着き払って言われる言葉に、腹が立つ。
「自治領区じゃ、研究目的で捕らえるのは禁止されてるだろ」
「俺達は、あいにく王都の者なんでね」
 「関係ないさ」と口の端で、研究者が笑った。
「自治領区で育った坊やは知らんだろうが、王都じゃこれが日常さ。こいつらは、俺達にとって消耗品なんでね」
 こいつらは、グレイスと同じことを言った。「消耗品」だと。
 抵抗はあるものの、セウスは魚を食べる。動物が研究材料に使われることも知っている。両親達も王都の人間だ。彼等が動物を実験に使わなかった、ということはないだろう。ルージュが生まれる時だって、様々な実験がされてきているはずなのだ。
 頭では分かっていても、目の前で助けを求められているのだ。動かないわけにはいかない。
 感情にしたがって笛を吹こうとした時だった。
「駄目、お兄ちゃんっ」
 様子がおかしかった自分の後を、必死の思いで付いてきただろう妹の叫び声で、瞬時に冷静になることができた。と同時に、ルエルが言っていた言葉を思い出す。
『上手な笛の使い方』
 今なら、できるかもしれない。
 気を取り直し、今度こそ笛を吹く。セウスの肩から飛び降りたルージュが、見る間に巨大化していく。それと比例するかのように、男達の恐怖心が強まっていくようだった。竦みあがっている彼等の足元に、巨大化したルージュの右前脚が勢いよく下ろされる。響く音と振動が、少し離れたところに立つセウスのところにまで伝わった。
 セウスは、しりもちをついている者、今にも逃げ出そうとしている者達に、目を向ける。
「これが、お前達がしている研究結果の一例だ。これに懲りたら、不用意に動物達に手を出すんじゃない」
 恐れおののいた男達は小刻みに首を縦に振ると、白衣が汚れるのを気にすることなく転げるように逃げていった。慌てた様子を見ていたセウスの頭に、不意に言葉が浮かび上がる。
『人は、己より優れたもの、強いものに、一種の憧れと強い畏怖を感じる』
 男の声だった。ハイエロファントの声の響きに近いものがあるが、それよりも少し低い。冷静で重いが、人の耳にはするりと入り込む。幼い頃に出会った人物のはずだが。
『セウス?』
 ルージュの声に、我に返った。目の前に、まだ大きいままのルージュの顔がある。
「いや、なんでも……そりより、ルージュ。おまえ、自我を保っているのか?」
 質問に、ルージュは2回頷く。風圧は凄いが、仕草としては元の姿とほぼ変わらない。
『そうみたいだね。占い師さんの言ってた通りじゃん。こつでも掴めた?』
「なんとか。サリアのおかげだな」
 振り返ると、木の傍らで心配そうにこちらを窺っていたサリアに駆け寄った。
「ありがとう。サリアのおかげで、冷静になれた」
 笑顔で声を掛けると、とんでもないと言うように、横に首を振った。
「そう言えば、さっき……ルージュが教えたのか?」
 先ほどサリアは、セウスのことを「お兄ちゃん」と呼んだ。出会ってから今まで「セウスさん」と呼び続けていた彼女は、正体を知らないと思っていたのだが。ルージュから返ってきたのは、否定の言葉だった。
『ううん、違うよ。引き止めて欲しい、とは言われたけどね』
 言い終えた直後に縮んだ彼は、後ろ足で耳の裏側を掻いた。『それ以外のことは、本人から聞けば?』とだけ告げて、後は素知らぬ振りをしている。これ以上の追求を彼にするのも無意味なので、サリアに視線を移した。彼女は申し訳無さそうに、こちらを見ている。
「ごめんなさい。私、知っていて水を掛けたんです」
「え?」
 知っていて水を掛けたとは、どういうことだろう。
「あの時、一目でお兄ちゃんだと分かって。なんとか話したくて」
 それで水を掛けて、足を止めさせたのか。無茶な行動ではあるが、相手は妹。健気な理由のため、怒るに怒れない。彼女の行動が無ければ、セウスは気付けなかったに違いないのだ。
「あの日のことは、怖くて記憶が無いけど。でも、お兄ちゃんのことは、片時も忘れたことが無かったわ」
「俺もだよ」
 瞳を潤ませる妹を、宥めるように抱き締める。水難がある場所にセウスを立たせた少女と、自分の存在を知らせてくれた妹に、心の底から感謝した。

 ◆◆◆

 サリアと叔母夫婦に改めて己の正体を明かしたセウスは、旅をしている目的や学都にいる協力者達のことを話した。彼女達は真剣に話を聞き、理解してくれた。翌朝には、町の出入り口まで見送りに来てくれている。
「お兄ちゃん」
 サリアが、抱きついてきた。
「また来てね。きっとよ」
 袖を掴む手は、微かに震えている。本当は引き止めたいものを、必死に抑えているのだろう。
「ああ、絶対だ。約束する」
 だから手を放して、と言おうとした矢先のことだった。奇妙な音が、極めて近い所からしたのは。
「ごめんなさい。今度は、わざとじゃないの」
 涙目で言う彼女に、セウスは笑うしかなかった。目に映っているのは、肩口が見事に裂かれた黒い上着。サリアの掴む力が予想外に強かったのか。セウスが安物を買ったことが災いしたのか。
 こうして彼の滞在期間は、また1日延びたのだった。