番外編 第2話 黄昏色に染まる羽

 窓を利用して、何度も真新しい制服を調える。どこか、おかしいところは無いだろうか。
 昨夜は緊張と興奮で、よく眠ることができなかった。目の下に隈ができている。頬も紅潮しているような気がするが、玻璃では色まで判別するのは難しい。それでも、さっそく仲良くなった同室の先輩に「初々しくて好感が持てるから良いんじゃないか」と褒められたので良しとする。
「よしっ、頑張るぞ」
 両頬を叩いて気合を入れた時、窓に見覚えのある人影が映った。振り向いて確認する。やはり、入都審査の時に見た顔だ。
 学問の都に生徒として入るには、まず入都審査を受けなければならない。簡単な面接と学科試験だ。生活していくうえでの基礎知識なら小等学部、専門的なことを学びたいなら最高等学部というように、基本的には本人の希望で学部が決まる。しかし、いくら医者になりたくても文字が読めなければ授業に付いていけないから、まず小等学部で学ぶことになる。そのような振り分けをするために、審査制度が設けられているのだ。
 ちなみに、現在立っている場所は高等学部の1階の廊下だ。ここでは、各学科の入門編を学ぶ。云わば、最高等学部への登竜門と言ったところだろう。いきなり最高等学部に入れる者は、よほど外で独学なり先生を就けるなりして勉学に励んできた者だけだ。学都には飛び級制度というものがあるが、最低でも1年は学部に在籍しなければならない。
 同じくらいの背格好に、村の中では見たことがない金糸の髪と緑色の瞳。興味を持った人間が高等学部に、しかも自分と同じ文学部専攻を見越していると知ると、とても嬉しかった。学都に入る人間は、大小はともかく夢を抱いている者が多い。同じ志を持った友と、この先競い合いながらも共に歩んでいけたら、どんなに素晴らしいことだろう。
「やあ君、3ヶ月くらい前に入都審査を受けてただろ? 俺も、そこにいたんだ」
 意を決して声を掛けた相手は、横から盗み見ていた時より綺麗な顔をしていた。自分よりもずっと大人びた雰囲気を思っているのに、思い出そうとしているのか小首を傾げる様子はどこかあどけない。柔らかく流れる髪は羨ましくなるほどだが、前髪が長いのは気にならないのだろうか。
「俺、サエリハ。記者になりたくて、学都に入ったんだ。よろしくな」
 せいいっぱいの笑顔を作って、右手を差し出す。友好的に見えるだろうか。
「僕は、ハングといいます。同じ学級のようですね。よろしくお願いします」
 まとう空気に反しない、落ち着いた声と丁寧な言葉遣いだった。
 しかし、人見知りなのか友好的に見えなかったのか。もしかしたら、浅黒い肌を異様だと思ったのかもしれない。笑顔ではあるものの、温かみを感じられない。差し出した右手に視線は落としたものの、「もうすぐ集合時間ですよ」と言っただけで歩いていってしまった。
 確かに集合時間間近で、話すきっかけを作るにしては間が悪かったかもしれない。それでも、握手くらい交わしても良いではないか。
 彼とは、とうてい友人にはなれないような気がした。

 ◆◆◆

 学都に来て、数ヶ月が経過した。たまに故郷が恋しくなる時はあるものの、生活にはだいぶ慣れてきた。同じ学級の人間と軽口を叩くのも楽しいし、授業で言葉の知識も増えた。同室の先輩のおかげで、世代がまるで違う人間にも可愛がってもらっている。
 都はとても広く、まだ回りきれていない。それでも、気に入った景色というものができてきた。朝霧の中の中央区。快晴の下の南門。寮の屋上で寝転がって見上げる星空。
 今、この瞬間も好きな景色の一つだ。中央区を出て北東に掛かる橋の上。
 夕暮れ時になると、空の橙色と建物の黒が区別され、絶妙な輝度差となる。どの時間よりもくっきりとした明暗を小刻みに揺らげながら、自身も眩しく輝く水面。毎日見ても飽きることのない絶景だった。
 サエリハは両手の親指と人差し指を立て、目の前で長方形を作った。憧れの写真機のように、片目を瞑って覗き込む。すると、中央区でも特に高い建物の上から、何かが弧を描くように落ちた。それが長方形の真ん中に来るように追って、目を見開く。
 正体は、夕日に羽を染め上げた1人の少女だった。
 サエリハは長方形が崩れるのも忘れて、ただ呆然と目の前の光景に見入った。気付いた時には、少女の姿は跡形も無い。
「えっ、あれ? 今、確かに天使がっ」
 欄干に身を乗り出しても、ただ川の流れがあるきりだった。
「うわ、見失ったっ」
 こんな性格では、記者など向いていないのかもしれない。

 ◆◆◆

「リハー、おまえ最近『天使』探してるんだって?」
 2人の級友が声を掛けてきたのは、1限目が終わって数分経ってからのことだった。3日前に天使を見た時から、気になって色々と聞き回っているのだ。今更その話題を持ってくるとは、情報を得るのが遅いと言ってもいいだろう。
 写真機の雑誌に目を落としたままでいると、級友の1人が机の角に手を置いた。
「仕事のしすぎで疲れてんじゃねーの?」
 1度だけ、目だけを級友に向けた。からかいの色が、明らかに表情に出ている。だから、彼等には話をしなかったのに。
 2人に気付かれないように息を吐くと、彼等の向こう側から緑色の瞳がこちらを見ていることに気付いた。何かを訴えたそうにも見えるが、それも無視して視線を下に向ける。
「そんなんじゃねーよ。本当に見たのー」
「あはは、見間違いだって」
 2人は早々に話題転換をし、休み時間が終わるまでサエリハの気を引こうとあれこれ話をしていた。しかし、彼は2度と雑誌から目を離すことをしなかった。

 ◆◆◆

 学都に入ってすぐに、サエリハは学業の傍ら仕事を始めた。その点において、級友の言葉も否定はしきれない。試験の前日でさえ、仕事を入れることもあるのだ。
 それでも、辞めたいと思ったことは1度も無い。目的のために、お金が要るのは確かだ。しかし、それ以上に様々な人間と接点があるこの仕事が楽しくて仕方がなかった。喫茶店の店員として、注文を取ったり食事を運んだりしている。最近は常連の顔も覚えてきたし、逆に声を掛けられるようにもなった。
 現に今、運んでいる焼き菓子を頼んだ少女も何度か見た顔だ。村では黒髪の人間しかいなかったが、この辺りは濃い薄いは別として金糸の髪が多いのだということも知った。彼女もその1人だ。中等学部の制服を着ている。
「お待たせしました」
 焼き菓子を前に歓声を上げて喜ぶ姿がかわいらしい。残してきた歳の離れた妹も、菓子を見た時は同じように笑っていたことを思い出す。
 彼女の向かいに座る少女にも同じ皿を置く時に、顔が見えた。丸い大きな目がかわいい。店に入ってきた時の様子からすると学都に入ったのはサエリハと同時期、この店に来るのは初めてだろうと思ったのだが。最近、どこかで見た顔のような気がする。思い過ごしだろうか。
 首を傾げている間にも、次の客が入ってくる。ほとんどの学部が授業を終えるため、夕方から夜にかけては特に忙しい時間帯なのだ。
 今度の客は、3人連れ。前の2人は落ち着いた雰囲気と背格好から、どこかの学部の先生だろう。その後ろに続いて入ってきた人物に、サエリハは目を丸くした。同じ学級のハングだ。彼は他の級友とはまとう空気がどことなく違い、初日の短いやり取り以来1度も会話を交わしたことがない。
 彼と目が合ったかと思うと、睨まれた。それはほんの僅かな時間で、気付いた時にはもう視線を外されていたが。こちらに困惑と不快感だけを残して、深緑色の長いくせ毛を後ろで束ねた大男の後ろに付いていってしまった。
 睨まれるようなことをした覚えはない。理由は分かりかねるが、嫌われているのだろうか。仕事をしている姿が気に食わなかったのだろうか。ある程度の成績を収めている生徒が金稼ぎのために授業の合間や放課後に働くことは、珍しくもなければ禁止もされていないはずだが。
「お、ルエルじゃないか。偶然だな」
 大男は中等学部の少女達の側に寄ると、声を掛けた。大きな目をした少女は、ルエルというらしい。笑顔全快といった表情は、よほど男のことを慕っているのだと伝える。
「あ、ブライアン教授だー。久し振り」
 3人連れは、彼女達の隣りの席に座った。
「ついでだから、教授達も占ってあげるね」
「おお」
 ルエルは、占いが得意なのだろうか。占ってもらう側の人間は多いが、人のことを無償で占って回る人間は多くないだろう。なんだか盛り上がっていて気が引けるが、注文を取りに行かなければならない。意を決して席へ歩いていくと、急にルエルが立ち上がった。
「ルエル?」
「おいっ」
 連れの少女も男達も、一様に動揺しているようだ。ルエルに至っては、立ったまま放心してしまっている。
「どうされました、お客様?」
 放っておくわけにもいかない。声を掛け、肩に手を伸ばす。すると、サエリハの手が届く前に、彼の胸の中にルエルが飛び込んできた。そのまま背中に腕を回され、硬く抱き締められる。
「えーと」
 役得ではあるものの、戸惑いの方が大きい。こういう時、どうすれば良いだろうか。
 しかし、うまい考えが思いつく前に、ルエルが正気を取り戻した。回していた腕をはずすと、顔を赤く染め上げている。
「あ……ごめんなさい」
「わりいな。ちょっと連れが混乱してよ」
 大きな手が、左肩に置かれる。見ると、大男が苦笑しながら立っていた。
「いえ」
 まだ多少の困惑はあったが、いつまでも呆然としているわけにもいかない。注文を取って仕事に戻ったが、彼等が出ていってからもずっと集中することができなかった。

 ◆◆◆

 喫茶店が休みのため、いつもは慌しく行う帰り支度も今日はゆっくりだ。昨日のことがまだ頭を廻るため、仕事が無いのは正直嬉しい。鞄の中に雑誌を入れ準備完了といったところで、ハングが近寄ってきた。ずっと機会を窺っていたに違いない。
「ハング?」
「ちょっと、いいですか?」
 彼がサエリハはおろか級友の誰かに声を掛けるというのは、とても珍しい。驚きはしたが、すぐに笑顔で了承した。
 ハングは、最高等学部文学部にほど近い居住区に保護者と一緒に暮らしているらしい。高等学部は東、文学部は北西と離れている。単にそこへ向かうだけなら地下鉄を使った方が早い。しかし、サエリハが中央区に見に行きたい物があったこともあり、途中まで共に歩くことにした。
 誘うだけ誘っておいて無言のままのハングは、石橋の上で歩みを止めてしまった。欄干にもたれると、サエリハの好きな黄昏時の風景が広がっている。
「昨日は、すいませんでした」
「は?」
 聞き返すが、すぐに何のことかを悟る。
「ああ、別に。驚いたけどな」
 言いづらいことなのだろうか。口を小さく開いたり閉じたりしているハングを、黙って待つ。風で伸びた前髪が舞い、黒いものが視界の中で揺れる。そろそろ切り時だろうか。
「彼女は」
 見ると、横目でこちらを確認しているのが分かる。頷いて、聞いていることを示した。
「その、未来を視る力があって。それで」
「混乱した?」
「ええ」
 2人の間に、また沈黙が落ちる。ハングは言葉足らずで、頭の中で言葉を逐一補足していかなければならない。それに対して、特に嫌悪感は抱かなかった。
 ルエルという少女は、今サエリハが輝く水面を見ているのと同じように、未来を視る力があるのだろう。道を歩いていたら、いきなり目隠しをされたようなものだ。驚くのも無理はない。
 ハングという男は、ルエルが大切なのだろう。妹のように思っているのかもしれない。だから滅多と掛けない声を、あえてサエリハに掛けたのだ。牽制するために。
 ハングの言葉のどこまでが真実かは分からないし、外れた考えかもしれない。少なくとも、後者は当っていると思った。
「なあ、ハング」
 静かに目を閉じて、微笑む。目蓋の裏で、郷里に残してきた妹が笑っている。兄という立場での気持ちは、少なからず分かるつもりだ。
「俺、ここで初めて天使を見たんだ」
 ハングだったら、級友のように笑い飛ばしはしないのだろう。天使を見たことも、記者という夢も。
「悪いようにはしないから」
「……分かりました。あなたを信じてみます」
 数ヶ月経って、ようやく謎の生徒のことを分かりかけたような気がした。