W.水色のリボン

 アントーニに付き添われ、帰宅した。馬車の中では互いに無言だった。流れる景色は一つとして頭に入らず、ただ胸ポケットに入れられた紙だけが鋭利なナイフのように冷たく存在していた。朝はジャンルカとチェーザレと馬車を共にし、希望すら感じていたというのに。今は、特に幼馴染のことを思うと吐き気がする。
「まあまあ、どうされました。ジェラルド様」
 よほど酷い顔色をしていたのだろう。出迎えてくれた使用人のアンナが、慌てた様子で駆け寄ってきた。幼い頃から家にいた彼女は、ジェラルドに自覚症状がない時でさえいち早く体調不良に気付いてくれたものだ。「大丈夫」と言っても、信用しないだろう。
「城内で、貧血を起こされたようです。今夜は、ゆっくりお休みになった方がいいでしょう」
「ああ、きっとお疲れになったのですね」
 よそ行きの口調で話すアントーニに、アンナは頷いた。丁寧な言葉と真摯な態度。外交官として他国へ赴いた時の姿が、垣間見える。普段から頼りになる男とは思っているが、更に信頼たる人物に見えるから不思議だ。
「すまない、アントーニ」
「気にするな、ジェラルド。仕事のことは、また明日聞く」
 黒い外套を翻すと、馬車に乗り込んでしまう。一度こちらに視線を送っただけで、間もなく城へ戻っていった。ジャンルカの予定に、13時から謁見というものがあったはずだ。アントーニも顔を見せるつもりだろうか。薄らと傷が付いた懐中時計を見ると、12時20分を差している。今から帰ったとして、昼食を摂る時間はおそらくないだろう。城で働く人間の中には、食事の時間が不規則になって当然という者も少なくない。アントーニも、その1人だ。それでも、申し訳ないと思った。
「ジェラルド様。今日は、もうお休みになられた方が」
 「そうだな」と返事をしかけて思い出す。今夜は、ジャンルカとチェーザレが訪れるのだ。
「いや。アンナ、今日は何時までここにいてくれる」
「17時までですよ。その後は、コンラード様のところへお伺いします」
「ああ、そうだったな」
 午前中だけでも復帰すると言った時、チェーザレは一つの提案をした。幼い頃の2人をよく知るアンナを、ジェラルドの元へ呼び戻そうというものだ。今の惨状を見ただけでも、仕事と衣食の管理とを両立できるとは思えない。素直に従ったが、条件を付けた。彼女によく懐いているコンラードが寂しがらないよう、12時から17時までの時間制限を設けたのだ。
「アンナを呼び寄せて、正解だった。さっそく頼み事があるのだが」
「ええ、ええ。なんでも仰ってください」
「今夜、2人の来客がある。応接室に、仮の寝台を用意してほしい」
 元から丸く大きな目が、更に大きくなった。
「応接室に、ですか」
「ああ。一つは簡易なもので構わない。私も手伝う」
 頼んでいる本人も、おかしなことを言っているのは分かっている。どう説明したものかと考えたが、アンナは何を問うこともせず頷いた。
「かしこまりました。でも、お食事の方が先ですからね」
 赤く膨らんだ頬が上がる。目を細め、優しい顔で微笑む侍女には昔から逆らえなかった。「分かった」と答えるのも幼い頃のままだ。冷めた心に、温かい光が灯った。

 ◆◆◆

「残念だったな、チェーザレ。夕食は済んでいるようだぞ」
 空の皿を見て悔しがるチェーザレに、ジャンルカが仁王立ちで言い放った。家主ならともかく、ジャンルカが得意気なのは何故だろう。溜め息が出るが、口を挟む気にはなれなかった。2人のじゃれあいは、時に何も意味を持たない答えが返ってくる。だいたいアンナを寄越そうと言い出したのは、口を尖らせている張本人なのだ。夕食を作ると言ったのも、本気ではないだろう。
「まあ、いい。機会があれば、作ってやる」
 いや、本気だったかもしれない。また一つ、溜め息が出た。「幸せが逃げるぞ」と、右隣りに立つジャンルカが呟く。
「ところで、アンナは」
「17時きっかりに、君のところの御者が迎えに来た。今頃は、コンラードの面倒を見てくれているだろう」
「我が愛娘と共に、な。彼女には、本当に世話になっている」
「まったくだ」
 アンナは、3人分の朝食まで用意してくれた。「食後の皿は、そのままにしてくださって結構ですよ」とのことだったが、構わず片付け始める。先日はチェーザレと共にいることで安心していたが、今は何かをしていないと落ち着かない。「私も手伝う」と、危なっかしい手つきで皿を扱い始めた少年が間にいてくれることが救いだった。
「で、話題の幽霊は、どこに出るのだ」
 水を切ると、ジャンルカが見上げてきた。期待に満ちた青い瞳は、昼間の空以上に輝いている。
「応接室ですよ。アンナと用意はしましたが、陛下のご寝所のようには参りません」
「私なら、大丈夫だぞ。だいたい、今夜は寝るつもりもない。今日は、私が幽霊と話してくれるわ」
「それは頼もしい。では、陛下。こちらへどうぞ」
 既に建物構造を覚えたらしいチェーザレが、家主に代わって案内を始める。まだ夜中とは言えない時刻だが、廊下には闇が広がっていた。先に歩く男は燭台を持っているが、全てを見渡せるわけではない。それでも最後尾を歩くジェラルドには、ジャンルカの肩が緊張のために上がっていることが目に見えて分かる。微笑ましくはあるのだが、これで幽霊と話ができるのだろうか。
 応接室に入ると、前を歩いていた2人に両腕を強く引かれた。何事かともがいた時には、アンナと共に用意した寝所の上の住人となっている。目を凝らしても闇のせいで犯人の表情が見えず、不安に駆られた。
「何をするんだ、チェーザレッ。陛下も、おふざけが過ぎますっ」
 叫ぶようにして言うと、額に温かいものが乗せられた。武器を扱うくせに綺麗な、幼馴染の手だった。蝋燭の炎に揺らぐ顔が、ひどく優しい。
「すまん。少し力が入りすぎた」
「私達は起きているが、おまえは休め。今日は疲れただろう。復帰1日目だからな」
 ジャンルカに右手を握られる。チェーザレに髪を梳かれる。柔らかさに、ささくれ立った心が癒されていく。彼等の真意を、ようやく知ることができた。
「お2人は、私に甘すぎます」
「よい。私も、おまえに甘えている」
「俺もアントーニも、甘やかしたくなるんだよ。おまえには、な」
 アントーニの名に、幼馴染を見上げる。髪を構っていない方の手には、燭台が握られたままだった。黒髪の持ち主が怯えないように、という配慮だろう。
「チェーザレ。昼間の件」
「おまえを庇うアントーニが正しい。そうでなくては困る」
 苦笑いを浮かべる。稲穂頭の男には、似合わない表情だ。
「おやすみ、ジェラルド。良い夢を」
 2つのぬくもりに誘われるように、ゆっくりと意識を手放した。

 ◆◆◆

 2つの影が、こちらに駆けてくる。1人は、ジェラルドと同じ黒髪の男。大学で知り合った、ベネデッドという長身の人物だ。表情を崩すことを滅多にしない彼が珍しく大口を開け、息を荒げている。もう1人は、稲穂色の髪が水色の空によく映える男。小さい頃から最も慣れ親しんだ、幼馴染だ。
「ジェラルド、ジェラルドッ」
 幼馴染に勢いよく抱きつかれ、支えきれずに背中から転げた。芝のおかげで痛みは無いが。「ジェラルドッ、チェーザレッ」と、ベネデッドの慌てた声がする。チェーザレは普段から人と触れ合うことを好む質ではあるが、ここまで嬉しさを全身で表すことは稀だ。
「どうしたんだ、チェーザレ」
「試験、受かったって」
 ジェラルドの顔の両脇に手を突いて身を起こした彼だが、上から退こうとはしなかった。頬を上気させた稲穂頭と水色の空だけが視界に入る状態だ。ベネデッドはチェーザレの向こうにいるのだろう。気配はするが、目で確認できない。
「受かったって?」
「だーかーらー」
「3人共、仕官試験に合格していたぞ」
 チェーザレの頭より更に上の位置から、ここにいる誰よりも低い声が降ってくる。空があった場所に、何者かの顔が現れた。一つ年上のアントーニだ。
「本当に? でも、発表はまだ」
「こっそり聞いてきた。特に、チェーザレは落ちていないか心配で」
「なんだとっ」
 アントーニに掴みかかったため、上から幼馴染が退いた。すかさず起こしてくれたベネデッドの顔を見る。相好は崩れたままだが、仕方がない。相手から見れば、ジェラルドも似たような表情をしているのだろう。
「おめでとう、ベネデッド。街を警護するのが、学校に入った頃からの夢だったろう」
「そちらこそ、おめでとう。まだ夢の入り口に立てたところだから、己を磨くことを止めるわけにはいかないが。これからも昇進試験だのなんだの、色々大変だ。お互い頑張ろう」
 握手を交わしていると、目の前に何かが差し出された。大きな手には、水色のリボン。元を辿ると、既に城に仕えて1年になるアントーニが微笑んでいた。
「おめでとう、ジェラルド。未来の同士に、これを」
「おいおい。俺とベネデッドには無いのかよ」
「おまえ達は、武官を目指すんだろうが。特にチェーザレは、試験に通るのも怪しいと思っていたんだがな」
 紺色の上着のポケットから、ジェラルドが受け取ったリボンと同じ物が取り出される。
「ま、受かってしまったものは仕方がない」
「なんだよ、それは」
 チェーザレが心外だとばかりに鼻を鳴らす。本当に機嫌を損ねたわけではないらしい。受け取ると、アントーニはベネデッドを見た。
「なんだかんだ言っても3人の中では、ベネデッドが一番出世が速い気もするがな」
「俺が?」
 リボンを見下ろしていたベネデッドが、不思議そうに顔を上げる。
「ああ。真面目だし、腕も立つ。ちょうど警備隊は人数が欲しいところだからな。おまえは、良い時期に仕官する。運も実力の内だ。しっかりと街を守れ」
「もちろん」
 頷いた黒髪の男の顔は、誇らしげだった。
「その代わりと言ってはなんだが、近衛は難関だぞ。心して掛かれよ、チェーザレ」
「承知の上だ」
 国王や政治に深く携わる仕事を大雑把に分けると、四つの官職が上げられる。国内を治める政務官。国外とやり取りをする外交官。城下を守る警備隊。国王や親族を守る近衛隊。中でも近衛隊は最も人数が少なく、最も国家の信頼を得なければならない。常に、狭き門となっていた。
「俺は将来、必ず近衛の長となる」
 黄昏色の瞳を細めて言い切った幼馴染が、少し目映い。緑多き国を愛し、より良い方法を選び治める人間を尊敬する。いつか国の頂点に立つ人物を支えることが夢なのだ。13の夏、共に建国100年祭を楽しんだ時に聞いた言葉だった。
「そして、宰相ジェラルドと対の存在となるのだっ」
 夏の時点では、まさか夢に巻き込まれるとは思ってもみなかったが。
「宰相とは、近衛以上に狭き門だったと思うが」
 常に国王を傍で支え、政治の補佐をするのが宰相だ。国王にとって近衛隊隊長と宰相は、まさに『対』の存在。城に仕える全ての者の憧れの的だった。近衛隊隊長も宰相も、各1人しか選ばれないところは同じだ。しかし、一つ大きな違いがある。前者は近衛隊が自らの隊の中から、最も信頼のおける人物を選ぶ。後者の多くは政務官から選出されるが、法律では特にどこの官職からという決まりが無い。国王自らの許しを得た者でなければならないのだ。倍率から言っても、国王の目に留まる確率から言っても、宰相の地位を得ることは難しい。
「それでも、必ずなる。俺が言うんだから、絶対だ」
 難関を跳ね除ける笑顔が、目の前に現れた。いつの間にか、右手を握られている。温かくて、強い。
「観念して、付き合ってやれ。対として立てる確率は、相当低いがな。ジェラルドはともかく、チェーザレは難しいぞ。なんと言っても、筆記試験が合格点丁度しかなかったからな」
「そこは、これから努力して埋める」
「試験を受ける前に努力しろ」
 チェーザレの頭を小突いたアントーニは、ジェラルドの左側にしゃがみ込んだ。ベネデッドが、何事かと覗き込む。右手は正面に立つ稲穂頭に囚われたままなので、アントーニとベネデッドの頭の合間から見守るしかなかった。
「なあ、アントーニ。なぜ水色なんだ」
 ベネデッドの言葉とアントーニの手の動きで、予測は付いた。2人が退くと、予想に違わず水色のリボンが現れる。外交官の器用な手で、男の足には不似合いなほど綺麗に結ばれていた。
「左足に水色のリボンを付けると、幸福になると言う」
「それは、花嫁の話だろ」
 いまだ人の手を取ったままのチェーザレが呆れたように息を吐くと、アントーニは短く笑い声を上げた。
「いいんだよ。門出には違いあるまい」

 ◆◆◆

「帽子を頂戴」
 一気に、意識が覚醒する。目を見開いたところで、右手に痛みが走った。
「静かに。今、陛下が応対している」
 耳に近いところで、チェーザレの声がする。小さく頷くと、右手を捕らえている指の力を抜いてくれた。右手はぬくもりを感じるが、幼馴染の背の向こうから冷たい空気が流れてきている気がする。視線を動かすが、チェーザレの顔と暗い部屋の様子しか見えない。大きく動けば全てを視界に入れることができるだろうが、気を張っているジャンルカの集中力が切れてしまうに違いない。彼の身を案じつつも、これまで悪事を起こさなかった幽霊を信じることにした。近衛の隊長もいるのだ。大丈夫、と言い聞かせる。
「帽子、か。どんな帽子が良いだろうか」
「可愛い帽子。黄色い蝶々になれる帽子」
 ジャンルカが、こちらを振り向いたのだろう。前回の件で場所を覚えたチェーザレが、いまだ手付かずの荷物の山を指差した。
「あの中に、あるはずですよ。陛下の感覚で選んで差し上げればよろしいかと」
「ふむ、そうか」
 今回は、元から蝋燭を灯してあったらしい。ほのかな明かりが、部屋の隅へと移動する。ややあって、「これは、どうだろうか」という声がした。
「レースが付いている、白い帽子だ。私が被せてやろう」
 緊張していた少年の台詞とは思えない。だいたい、足だけの幽霊だというのに頭の位置が分かるのだろうか。天井を見据えたまま疑うが、これまた意外な言葉が国王から出た。
「よし、よく似合うぞ。踊ると、服と共に帽子も舞おう。靴がいただけないがな」
「この靴では駄目?」
「せめて、左右揃っていた方がいいと私は思う。ほら、これを履いてみよ……うむ。良いではないか」
 ジャンルカが褒めると、軽やかな足音が3度響いた。
「ありがとうございます、陛下」
 少女は、ジャンルカを認識している。今度こそ飛び上がったが、視線の先には少年の姿しかなかった。
「もう帰ったぞ、ジェラルド」
 振り向いた彼は、切ない笑顔を浮かべている。
「あの幽霊は、陛下のお知り合いですか」
「言っただろう、ジェラルド。今夜は、陛下がいらっしゃったから出てきたのだ」
 ようやく右手を解放してくれた幼馴染の言葉に、眉をひそめる。
「なぜ……それに、左足首だけではなかったのですか」
「なぜ、という質問には答えにくいがな」
 ジャンルカが、燭台を持って近付いてくる。彼の苦い顔を見るのは、久し振りだった。
「左足首だけではなくなっていた、と言うのが正しいと思う。おまえに靴を与えられ、両足を得た。チェーザレに服を与えられ、胴を得た。そして私に帽子を与えられ、頭を得たのだ」
「では、五体全てを得て」
「いや、いまだ顔と腕は無い」
 少年は言い切った。国王と幽霊のやり取りを見守ったチェーザレに視線を移すと、同意を示すように頷かれる。
「少なくとも、もう一度ここに現れるぞ。ジェラルド」
 低く喉が鳴った。今度は、両腕を得に来るのだろうか。考える内に、一つおかしなことに気付いた。
「左の足首には、何があるんだ?」
 彼女の左足首だけは、最初から人に見えていたのだ。物の力を借りて、得る必要がない。つまり、請うまでもなく何かがあったということだ。
「陛下に確かめていただきたかったものとは、左足首にある何かなんだな」
 疑問ではなく、確信だった。ジャンルカは、静かに口を開いた。
「今、ここでは何も申さぬ。次に現れた時には、おまえが確かめよ」
 まだ即位する前から今に至るまでの数年間、傍にいたのだ。震える声を聞き逃すはずがない。少年の固い声に、不安を覚えた。