第1話

 ドラム缶を激しく転がしたような音がした。佐和は、思わず身を縮めた。そっと目を開けると、お伺いを立てるかのように空を見上げる。空は、灰色の雲で覆われていた。佐和は息を吐いて辺りを見回したが、虫の1匹も鳴いていない。後方にある鉄橋を、子供達が悲鳴を上げて走り去っていくのが見えるくらいだ。まるで、嵐の前の静けさだった。30分もしない内に、佐和がいる堤防にも雨風が吹き抜けるだろう。
「嫌だなー、早く帰らなきゃ」
 佐和が立ち上がると、更に鋭い音が地面を打った。佐和は短い悲鳴を上げて、しゃがみ込んだ。心臓が耳まで上がってしまったのではないかと思う程、音がうるさい。寒くもないのに、手足が小刻みに震えている。
「これは本格的にヤバイかも」
 佐和が震える足を叱咤して立ち上がると、前方にある茂みの葉が音を立てた。穴が空いたのと同時に顔を出したのは、1匹の黒猫だった。黒猫は全身を茂みの外へ出すと、体を振るって細かい葉を落とした。首輪こそしていないが、短い黒毛は艶やかだ。しかし、腹にできた赤い十字の切り傷が痛々しく見える。思わず佐和が手を伸ばしかけると、黒猫が佐和の顔を見た。黒猫の瞳は金色で、人を寄せ付けない鋭さがあった。黒猫は毛を逆立てることをしなかったが、佐和はおとなしく手を引っ込める。すると黒猫は目を背け、鉄橋の方へ走り去ってしまった。
 黒猫を見送った佐和は、もう一度空を見上げた。僅かな時間で、雲の層は厚みを増している。雨粒が落ちてくるのも時間の問題だ。大学の入学に合わせてパンプスを新調したというのに、ついていない。佐和は溜め息を吐いて、早足で歩き始めた。生い茂った草と木のおかげで、川はすぐに見えなくなった。
 しかし、100メートルも行かないところで、佐和は足を止めた。茂みの草が、ミステリーサークルのように綺麗に押し倒されている。周りの枝が、ところどころ折れていた。よく見れば、先が焦げている枝もある。唖然とする佐和の耳に、か細い猫の声が届いた。佐和は押し倒された草に踏み入り、目を凝らす。木の根元に力なく横たわる1匹の白猫を見つけると、傍にしゃがみ込んだ。
 雷が落ちたのかと疑った佐和は、白猫の毛を見て、そうではないと勘付いた。柔らかい毛には、帯電している時の浮き上がりが無い。白猫には焦げた様子も無ければ、手足も痺れていないようだ。佐和が白猫に手を近づけても、電気の気配は無い。手をそのまま白猫の口元に近付ける。白猫の息は乱れているものの、途切れることはなかった。
 佐和は顔を上げると、見回した。やはり堤防沿いの道には自分しかいない。木のお陰で下は見通せないが、河川敷から人の声が聞こえることもなかった。
「これじゃ、病院の場所も聞けないじゃない」
 苛立ちを覚えた佐和は、白猫を見下ろした。長い毛の一部が赤く染まり始めている。傷口はよく見えないが、動けないほどの大怪我を負っているのは間違いない。佐和は頭の中で、家までの距離と街までの距離を天秤に掛けた。向かう方面を決めると、黒い鞄を肩に掛けなおす。
「ちょっと乱暴だけど、ごめんね」
 佐和は歩いてきた道を、駆け足で引き返し始めた。茂みを抜けると、川から雨風が吹き上がってくる。佐和は、もう少しだけもってくれるよう祈りながら、白猫を抱えなおした。鉄橋の手前で堤防を降り、清閑な住宅地を走る。いつもは子供の遊ぶ声で賑わうだろう公園も、今は静かなものだった。
 このまま、誰にも会えないかもしれない。そのような不安が佐和の頭を過ぎった時、女性の後ろ姿を発見した。彼女は今にも、門へ入ろうとしているところだった。
「待って、待って、待ってーっ」
 女性は立ち止まると、佐和の方に振り向いた。顔を見れば、佐和と同じ年頃に見えた。彼女の表情は、戸惑いと怯えと驚きが入り混じっている。それでも佐和の息が落ち着くまで、彼女は黙って待っていた。
「動物病院の場所、教えてほしいんですけど」
 女性は白猫を見下ろして、小さく息を呑んだ。
「あ、あの。わ、私も猫を飼っていて。その、そこで良ければ」
 女性の声は、とてもか細く、聞き取りづらいものだった。それでも佐和は一言も漏らさずに受け取り、頷いた。
「良いです。お願いします」
「それじゃ、あの、こっちです」
 女性は、佐和に背を向けて歩き出した。女性が動くことで、門に付けられた表札が佐和の視界に入った。太字の明朝体で『山根』と書かれている。女性は山根というのだ、と1人納得した佐和は、横目で家を見た。表札は和風だが、家は洋風の造りだ。ふと佐和が2階を見ると、窓の中から黒猫がこちらを覗いていた。金色の瞳と目が合ったのは一瞬の間だけで、黒猫は顔を背けて窓の向こうへと消えてしまった。
「あの、すいません」
 遠慮がちに掛けられた声で、佐和は我に返った。見れば、山根が不安げな顔で佐和を見上げている。
「ごめんなさい。今、あなたの黒猫が見えたから」
 佐和は謝ると、今度こそ山根の後ろを歩き出した。緩やかに揺れる山根の髪を眺めながら、佐和は堤防で会った黒猫を思い出していた。傷までは確認できなかったが、あの黒猫は山根の飼い猫かもしれない。山根はきっと、黒猫が怪我を負っていることを知らないだろう。黒猫の大きな切り傷は、できたばかりといった感じだったからだ。
「やっぱり、ちょっと待って。あなたの猫も連れてきた方が良いかもしれない」
 山根は振り返ると、首を傾げた。口の動きから「どうして」と言ったようだったが、佐和の耳には届かなかった。
「さっき、堤防で見掛けたの。お腹に、大きな切り傷を作ってて」
「それは、たぶん。違う、猫だと思います」
 思います、の部分の音量が、やけに小さい。佐和が息を吐くと、山根の肩が跳ねた。佐和は首を傾げながらも笑った。
「なら、良いんだけど」
 山根は俯くと、両手を胸の前であわせて息を吐いた。佐和はますます首を捻ったが、山根が歩き出したので黙って後を追った。
 山根の猫が通うという動物病院は、住宅街の端にあった。『あいざわ動物病院』と縦書きで書かれたかんばんが、駐車場の端に経っている。3階建ての四角い建物で、3階が居住スペースになっているようだ。病院の入り口には、緊急外来も受け入れます、と書いた紙が貼られている。佐和の両手は塞がってしまっているため、山根がドアを支えた。待合室は狭いが、床が磨かれ清潔感があった。しかし、待合室にも受付にも人がいない。
「休憩中、とか?」
 佐和は山根を見たが、彼女も分からないようで首を傾げた。
「あの、受付に」
 山根が受付を指差す。指差した先には、ファミリーレストランで見かけるようなブザーが置かれていた。ブザーの後ろに、御用の方はブザーを押してください、と書いた紙が立っている。山根がボタンを押そうと指を上げたところで、診察室のドアが開いた。
「患者さんかな?」
 顔を覗かせたのは、銀縁メガネを掛けた長身の男性だった。一見すると涼やかな印象を持つが、声音はとても柔らかい。男性がドアを開いたまま「どうぞ」と言うので、佐和は山根と顔を見合わせて診察室に入った。
「ごめんねー。みんな、早めの夕飯中でね」
 男性は、緩めていた襟元を直し始めた。白衣が動く度、『土井』と書かれた名札も揺れている。
「ずいぶん早いんですね」
「うん。うちは緊急外来をやってるから、合間を見計らって休憩入れないとね。あ、そのこを台の上に乗せてくれる?」
 佐和は土井の言葉に相槌を打ちながら、白猫を診察台の上に乗せた。台の脇に体重が表示されると、佐和は心の中で感嘆の声を上げた。大学に通うために引っ越したマンションは、動物を飼うことを禁止されている。実家でも母親がアレルギーを持っていたため、動物とは縁が無かった。そのため動物病院に入るのが初めての佐和には、何もかもが新しく見えたのだった。
「もしかして、このこは君達の飼い猫じゃないのかな」
 物珍しそうに目を動かす佐和を、土居は見逃さなかったらしい。佐和は素直に頷いた。
「堤防で倒れているところを見つけたんです。雷に打たれたのかと思ったんですけど」
「あー、この傷は雷ではないね。でも、落雷に遭ったかもしれないと疑ったら、気軽に手を出しちゃダメだよ。感電するかもしれないからね」
 土井はメガネを掛けなおして、血に染まった白猫の毛をめくった。佐和は思わず目を背けたが、土井の言葉には小声で謝った。佐和の隣りで、山根が意を決したように顔を上げる。
「あ、あのっ。診て、もらえます、よね」
 佐和は目を丸くして、山根の顔を見た。土井は小さな声で笑った。
「ノラは診ないって病院も多いらしいけど、うちは大丈夫だよ。と言っても、僕は通いで、まだ5回目なんだけどね」
 息を吐く山根は、少しだけ微笑んでいた。俯いてばかりで気付かなかったが、かわいらしい顔をしていると佐和は認識した。目が大きくて、まつ毛が長い。常から美人だと自負している佐和でも、つい羨ましくなるほどだ。
 佐和が山根の横顔をこっそり観察していると、部屋の奥からピンク色のエプロンを身につけた女性が姿を現した。
「あら、土井先生。急患ですか?」
「ええ、そうなんですよ。僕1人で大丈夫なんで、真紀さんは新しいカルテを用意してもらえますか」
 「はいはい」と笑って返事した真紀は、再び姿を消してしまった。土井は佐和と山根に向き直ると、小首を傾げる。
「申し訳ないけど、君達も待合室に移動してもらって良いかな」
 白猫のことは気になるが、いれば土井の邪魔になってしまう。佐和と山根は、おとなしく待合室に移動した。受付には既に真紀が座っていて、佐和達の顔を見るなり微笑みを浮かべた。
「やっぱり結衣ちゃんだ。こんにちは。サクラちゃんは元気?」
「あ、はい。元気です」
 佐和や土井に話した時よりも大きな声で、山根は答えた。顔も俯いていない。真紀は山根にとって、歳の離れた姉のような存在かもしれない、と佐和は思った。極度の人見知り、というのもあるだろうが。
「白い猫ちゃんを連れてきてくれたのは、結衣ちゃんのお友達? カルテ作りに協力してもらえないかしら」
 会ったばかりで友達というのも違和感があるが、真紀の穏やかな空気に包まれていると否定もしづらい。結局、佐和は肯定した。山根が佐和の顔を見上げたのは横目に見えていたが、佐和はあえて無視した。
 真紀は山根の様子を気にすることなく、佐和にボールペンと初診用問診票を差し出す。
「猫ちゃんの名前は、無くても大丈夫。分かるところだけ書いてくれれば良いからね」
 真紀に促されるまま、佐和はボールペンを手に取った。分かるところと言っても、自分の名前と住所と携帯の電話番号、病院に来た理由くらいしか見当たらない。とはいえ、携帯と問診票を交互に見ながら書き慣れない住所を記すのは、なかなか時間が要る作業だった。
 佐和が書き終えて顔を上げた時には、外は大荒れとなっていた。窓を打ち付ける雨と木を揺する風を目の当たりにして、佐和は低く呻いた。動物病院からマンションまでの距離を考えるまでもなく、全身ずぶ濡れになるのは必至だ。
「こんな日に付き合せちゃって、ごめんね」
 巻き込んでしまったことが申し訳なくて佐和は謝ったが、山根は首を横に振った。
「猫が、心配だから」
 動物を飼っていると、こんなものかと佐和は思った。猫が好きだから心配ということもあるだろうが、つい飼い猫と重ねて考えてしまうのだろう。もしも逆の立場だったとしたら、佐和は山根ほど真摯に対応しないかもしれない。
「うん。でも、ありがとう」
 佐和は笑顔で、山根に礼を述べた。美人と言われ慣れている佐和は、写真を撮る時も人と話す時も、ある程度は表情を計算して作っている。親戚にさえ、常に作り笑いを浮かべるほどだ。しかし、この時は何の計算も無く、自然と笑みが零れた。
 笑顔を送られた山根は、佐和から逃げるように俯いてしまった。緩やかなくせ毛の合間から見える耳は、赤く染まっている。佐和はおろか、佐和の周りを囲む人間にもあまり見られない純朴さだ。
 佐和は肩を竦めると、時計を見上げた。あと10分足らずで午後6時になる。病院に入った時間を確認しなかったが、既に1時間くらいいるかもしれない。時計の次に、診察室へ続くドアを見た。防音機能でもあるのか、ドアが閉まってから一度も内部の音は聞こえていない。
「心配しなくても、大丈夫よ。土井先生は若いけど、腕は確かだから。何でも1人でやろうとするところが、玉に瑕だけどね」
 佐和の視線を感じ取ったのか、真紀がパソコンの画面から目を離した。
「うちって、昼夜通して緊急外来をやってるでしょ。常駐してるのは、私と私の旦那さんだけ。あとは有志で、交替で手伝いに来てくれてるのよ。中でも土井先生は獣医学会で評判が良かったから、何度も頼み込んで週1で来てもらえることになったの」
 佐和が適当に相槌を打ったところで、診察室へ続くドアが開いた。少しだけ疲れた顔をした土井が姿を現す。
「お待たせ。相変わらず意識は無いけど、会うことはできるよ。中へ、どうぞ」
 佐和と山根が診察室の中へ入ると、消毒薬の匂いで満ちていた。佐和が思わず眉を寄せると、土井は苦笑いを浮かべた。
「あー、この匂い苦手な人もいるよね。処置したのは別の部屋なんだけど、どうしても匂いは付いて回るんだ。ごめんね」
 どうりでドアの向こうが静かだったわけだ。佐和は内心で納得しながら、首を横に振った。病院に消毒薬が欠かせないことくらいは承知している。力なく横たわっている姿だけでも痛々しいのに、傷口から感染症でも入ったら一層いたたまれない。
「麻酔は使用していないから、傷を舐めないように気を付けてさえもらえれば、今日にでも連れて帰れるよ。病院で預かっても良いけど、どうする?」
 佐和が診察台の上を見下ろすと、白猫の目が震えた。わずかに開いた目の色は、透明度の高いアクアマリンそのものだった。か細く高い声で鳴いた猫は、かなりの卑怯者だ。佐和は全身を震わせた。佐和の心を鷲掴みにした張本人は、既に目を閉じてしまっている。
「連れて帰ります」
「え、大丈夫ですか?」
 思わず、といったように山根が顔を上げた。佐和が山根を見ると、すぐに俯いてしまったが。
「うーん、たぶん」
 佐和は首を捻りながら、冷静に己の現状を振り返ってみる。マンションはペット禁止だし、佐和は動物を飼った経験が無い。山根の言葉に、佐和の心には不安が生じた。やっぱり預かってもらえますか、という言葉が出掛かったところで、再び白猫の目が開いた。本当に卑怯者だ。
 佐和と白猫のやり取りを見ていた土井は、苦笑いを浮かべた。
「じゃあ、とりあえず君に様子を見てもらおうかな。もし無理そうなら、病院に電話してくれれば良いからね」
 佐和が頷くと、病院の奥が騒がしくなった。「ああ、もう6時か」と土井が呟くのと同時に、診察室の奥に設置されたドアが開いた。白衣を着た男性が姿を現す。土井よりも体格が良く、歳も少しばかり上に見えた。男性は佐和と山根に顔を向けると、軽く頭を下げた。
「こんにちは、結衣ちゃん。今日は、お友達の付き添いかな」
 山根は佐和と違って、適当に答えるようなことはしないらしい。何か言おうと口を開いたり閉じたりしていたが、結局は黙ったまま俯いてしまった。さすがに放っておくのも、かわいそうだ。佐和は「そんなところです」と言って、愛想笑いを浮かべた。悪気のない相手への答えに困った時は、笑って誤魔化すに限る。佐和の処世術の一つだ。
 男性は佐和と山根の様子を気にすることなく、白猫に視線を落とした。
「この子が、患畜さんか」
「ええ。もう処置は済みましたけどね」
「そうか、さすがだな」
 土井の言葉に、男性は何度も頷いた。年長者を唸らせるほど完璧な処置らしい。本当に腕が良いのだと感心している佐和に、土井が笑いかけた。普通の女性なら、悲鳴を上げてもおかしくないような美麗な笑みだった。残念ながら、同世代の女性とどこか外れている佐和は、胸をときめかせることなどなかったが。山根にいたっては、俯きっぱなしで土井の笑みさえ見ていない。
「僕はもう帰宅の時間だから、良ければ家まで送るよ。この雨じゃ、猫を抱えて帰るのは大変でしょ」
 佐和と山根は、窓を振り返った。ブラインドウの隙間から見える景色は、嵐そのものだった。土井の言葉に甘えたいところだが、初めて会った人に豪雨の中を送ってもらうというのも気が引ける。佐和が土井と山根の顔を交互に見ていると、目の端で土井が人差し指を天井に向けて左右に振るのが見えた。
「期待させて悪いんだけど。さすがに会ったばかりの女の子をどうこうしようだなんて、僕は思わないよ」
 土井の短い笑い声に、佐和は頬が熱くなるのを感じた。
「期待なんか、してませんっ」
 声を荒げた佐和と土井の目が合った。意外にも、土井の瞳にからかいの色は無い。彼は純粋に、佐和と山根を心配している。そう感じ取ると、佐和は急に頑なに拒むのも馬鹿らしいような気になった。
「そこまで言うなら、お願いしようかしら」
 口を尖らせる佐和に、体格の良い男性が低い声で「意地っ張りだな」と呟いた。佐和が眉を吊り上げると、山根はかわいそうなくらい目を泳がせた。
「院長の言うことは、あまり気にしないで。準備してくるから、待合室で待っていてくれるかな」
 土井は肩をすくめて苦笑いを佐和に送ると、すぐに院長に向き直った。
「ということなので、僕は帰ります」
「ああ、お疲れ様」
 奥へ引っ込もうとした土井が振り向きざまに、猫をそのままにしておくよう告げる。佐和は返事をすると、山根と共に待合室に戻った。真紀に手招きされたため、佐和は受付カウンターに立つ。奥から、土井が院長とは違う男性と話している声が聞こえてきた。引継ぎをしているのかもしれない。
「黒田さん。一応、診察券を作ったから渡しておくわね。裏に、うちの電話番号が書いてあるから。何かあったら、遠慮せずに連絡をちょうだいね」
 佐和は頷きながらも、内心では焦りを感じていた。財布の中にあまり金が入っていないことを、今更ながら思い出したのだ。動物病院は保険が効かないという知識は、テレビを通して得ている。しかし実際に、どれくらいの金額になるのかは想像できない。
「で、料金なんだけどね」
 佐和は生唾を飲み込んだ。持ち合わせの金で足りるだろうか。足りなかったら、ツケにすることはできるだろうか。初対面にも関わらず1時間近くも付き合せてしまった山根には、意地でも金を借りたくはなかった。
「初診料とカルテ代で、1500円いただきます」
 真紀の笑顔に、佐和は数回瞬いた。
「えーと、処置代とかは」
「野良の患畜さんからはいただかない、というのが土井先生のポリシーみたいよ。さすがに病院が潰れちゃうから、薬代はいただいてるけどね」
 佐和の中で、土井が雲の上の人になった瞬間だった。腕が良いうえ、利益も顧みない。獣医師会で評判になるわけだ。ただし、真紀が口にしないだけで、反発する者も多数いるだろうが。
 佐和が1500円を払っていると、玄関に黒いセダンが横付けされた。運転席から降りた土井が、傘を差して病院内に入ってくる。5メートルにも満たない距離だが、グレーのスラックスの裾は既に黒に近い色に変わっていた。
「猫ちゃんは助手席にいるから、後部座席に座ってくれる? 雨が酷いから、助手席側から乗った方が良いよ」
 土井に促され、佐和は山名に続いてセダンに乗り込んだ。外に出たのはわずかな間だったが、袖が冷たく感じる。車内は、ほのかにシトラスが香っていた。洋楽も流れているようだが、雨の音でほとんど耳に届かない。
 土井が運転席に乗り込んでいる間に、佐和は助手席を覗き込んだ。白猫は、淡い黄色のバスタオルにくるまれている。
「動かすから、しっかり座って。住所か電話番号、教えてくれるかな」
 佐和が背もたれに背中を付け、携帯で住所を調べる。その間に、土井は山根の家の電話番号をカーナビに打ち込んでいた。佐和が顔を上げると、自然とフロントガラスが目に入った。ワイパーで水を拭い去った先から、新たな雨水でフロントガラスは満たされてしまう。断らなくて良かった、と佐和は小さく溜め息を吐いた。
 セダンは山根を送った後、佐和が住むマンションに向かった。水捌けが悪いところでは、アスファルトに薄い水の幕が張っている。本当は堤防を走ると速いのだが、土井の提案であえて迂回する道を選んだ。越してきて日が浅い佐和は道を詳しく知らないため、カーナビが実に役立った。
 佐和が暮らすマンションは、ベージュ色の8階建ての建物だ。その内、1階は喫茶店になっている。モーニングサービスがあるため、忙しい朝に立ち寄ると便利だ。佐和も、既に2回ほど世話になっている。土井は喫茶店の駐車スペースにセダンを停めた。
「学生さんなのに、かなり良い所に住んでるね。ここ、女性専用?」
 土井が唸るのも無理はない。実際に、そこら辺のアパートより5万は家賃が高い。
 両親が出した1人暮らしの条件は、『学生に見合い、かつセキュリティのしっかりした所に住むこと』だった。しかし、周辺の学生マンションは、どこも満室だった。そこで両親が出した結論は、『仕送りは高くても良いから、周辺で1番の防犯設備を誇るマンションに住みなさい』というものだった。おかげで佐和は、働く女性や家族連れが暮らす中に1人だけ学生が紛れ込んでしまった、という肩身の狭い生活をスタートさせたのだ。
「家族連れも住んでますから、女性専用ではないですよ」
「それでも、こういう所ってペット禁止が多いんじゃない? 1階が飲食店だし」
 土井の鋭い指摘に、佐和は言葉を詰まらせた。目を泳がせている佐和を見た土井は、溜め息を吐く。
「仕方がない。最初に確認しなかった僕が悪いんだし、どうにかするよ」
 土井が白猫を抱えて車を降りたため、佐和も慌てて後に続いた。嵐の様相を見せていた風は収まり、雨も小降りになっている。それでも立ち止まっていれば全身が濡れてしまうため、2人は屋根の下へ走った。マンションを見上げると、いくつかの窓から電灯の光が漏れている。
 佐和はセンサーの上に指を置いた。すると、居住区への扉が開かれる。指紋認証式のオートロックだ。居住区の1階は郵便受けがある他は大家がいるくらいで、住民の部屋も共有スペースも全て2階以上に集められている。共有スペースには談話室の他、ルームランナーなどもあるらしい。佐和はまだ、共有スペースには足を踏み入れたことがない。
「入り口と、各階のエレベーターの乗り場に、防犯カメラがあるはずですけど。どうにかなるんですか?」
 佐和はマンションに足を踏み入れるのに戸惑いを感じたが、土井は気にすることなくホールに侵入した。そのままエレベーターに向かってしまうので、佐和は仕方なく付いていく。誰かが利用した後なのか、エレベーターは1階で止まったままになっていた。土井に続いてエレベーターに乗り込んだ佐和は、自分の部屋がある6階のボタンを押す。エレベーターが動き出すと、天井を見上げていた土井が呟いた。
「乗り場だけじゃないな。エレベーターの中にも、防犯カメラがある」
 佐和が驚いて見上げたため、土井は奥の角を指差した。確かに、丸いレンズのようなものが見える。
「知らなかった」
「この分だと、非常階段にも設置してあるね。でも僕には、防犯カメラもオートロックもカードキーも意味が無いよ」
 どうして住民でもないのに、カードキーだと知っているのだろう。何故、セキュリティの全てが無意味なのだろう。どこから聞いたら良いのか、佐和には分からなかった。ただ一つ、とんでもない人を招きいれてしまった、ということだけは分かる。
 佐和の表情を読み取って、土井は苦笑いを浮かべた。
「大人の事情、というものがあるんだよ。でも僕は、泥棒なんてしないから安心してほしい。獣医という尊い職業を得ているからね」
 土井は温かい瞳で、白猫をくるんでいるバスタオルを見下ろす。自分の職業に誇りを持っていることは、佐和にも容易に知ることができた。
 6階に到着すると、『黒田』と書かれた表札の前まできた。幸いなことに、ここまで誰1人として擦れ違うことはなかった。佐和がカードキーを取り出そうと鞄を漁るが、すぐに土井から制止の声が掛かる。
「もう開いてるよ」
 佐和は疑わしそうに土井の顔を見た後、眉間に皺を寄せながらドアを押してみた。すると、何の抵抗もなくドアが開く。佐和は、ドアの鍵に当たる部分を見つめた。そのような所を注意深く見るのは初めてだが、壊れているようには見えない。オートロックなのだから、中にカードキーを忘れることはあっても、鍵を掛け忘れることなど無い。
「だから、意味が無いんだよ」
 佐和は土井を振り返った。1歩退く前に、白猫を押し付けられる。身を硬くする佐和に対し、「葉っぱが付いてるよ」と佐和の肩を払った土井は自然体だった。
「防犯カメラには、黒田さんと僕しか映っていないよ。大人の事情ってやつでね」
 佐和の肩を払った手が、白猫の頭を撫でる。白猫は眠りの深い場所にいるようで、どれだけ構われても目を開ける気配さえなかった。
「それじゃ、僕は帰るけど。何か酷いことがあれば、迷わず僕を呼びなさい。黒田さんがどこにいても、僕には分かるから」
 カードキーの1件を目の当たりにしている佐和には、土井の発言を馬鹿にしたりなどできなかった。佐和の行動パターンを知らなくても、監視などをしなくても、土井なら簡単に居場所を突き止めることができるだろう。
「魔法使いみたいに?」
 不意に口から零れた言葉だったが、意外としっくりくるように佐和には感じられた。防犯カメラに猫だけを映らないようにするだなんて、魔法のような技術だ。
 土井は、肩を竦めて笑った。
「じゃあ、黒田さんがピンチの時は、ホウキに跨って登場してあげようか」
 佐和が眉をしかめると、土井は笑いながらエレベーターに向かった。乗り込む直前に手を振って、土井の姿は扉の中へと消えてしまう。佐和は溜め息を吐くと、猫を抱えて室内に入った。
 ローテーブルの隣りに猫を横たえた佐和は、電気を付けた。途端に、室内が明るくなる。次に台所で手を洗った佐和は、ここで初めて自分の体を見下ろした。倒れた猫を抱きかかえたおかげで、紺色のブラウスは草と土で汚れてしまっている。土井のセダンは、助手席も後部座席も砂まみれに違いない。
 佐和は、夕飯の前にシャワーを浴びることにした。お湯に濡れると、手のあちらこちらに鋭い痛みを感じた。よく見ると、たくさんの小さな切り傷ができていた。猫を拾った時に、誤って草で切ってしまったのだろう。更に、自覚していないだけで、体がとても疲れていることに気付いた。慣れない大学や病院に行き、意識の無い猫を抱きかかえて走り、初対面の人と話したばかりかマンションまで送ってもらったのだ。体も心も、疲れを感じて当然だった。
 風呂場から出た佐和は、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。飲みながら、献立を考える。一度疲労を感じてしまうと、何をするにも億劫に思える。結局は、冷凍のパスタと即席のコンソメスープをローテーブルの上に用意した。テレビを付け、バラエティ番組を見ながらスプーンとフォークを動かす。
 1人暮らしを初めてまだ10日ほどだが、佐和は既に1人の食事が味気ないものだと強く感じていた。しかし今日は猫がいるためか、冷凍のパスタがイタリアンレストランのものに匹敵するほどおいしく思えた。
 佐和は洗濯機を回している間に、食器を片付けた。ついでに、猫の様子もうかがう。猫は、おだやかな寝息を立てていた。佐和が人差し指を猫の耳に近付けると、白く長い髭が嫌そうに動いた。
「1人は慣れてるって思ってた。けど、あんたのおかげで、そうでもないって自覚しちゃったじゃない」
 佐和は洗濯機が回っている最中ということも忘れて、飽きもせずに猫の寝顔を眺めていた。