オレンジファウンテン

 16時51分。小さな文字で確認すると、携帯電話の蓋を閉じた。ストラップが揺れる。ガラスでできた赤いハートが、光を弾いた。コートのポケットに携帯電話を突っ込み、歩き出す。
 ベージュ色の石畳でできた坂道は、行き交う人で賑わっていた。大きな荷物を持ちながら、話に花を咲かせている女性達。野菜売り場で交渉している青年と老女。行ったり来たりを繰り返している男性。彼の目の前には、赤や黄色など色とりどりの花が並んでいた。彼はしばらく手を伸ばしたり引っ込めたりをした後、女性の店員に声を掛け、黄色い花を指差した。
 不意に横を、影と風圧が通り過ぎた。振り向くと、自転車は蛇行しながら見る間に小さくなっていく。坂の下では、同じように自転車を振り返り見る人が数名いた。彼等は、すぐに自転車を追うのを止めた。
 携帯電話を取り出し、蓋を開く。16時59分。今度は手に持ったまま、早足で坂の上を目指す。
 しかし、すぐに歩みは止められた。横並びになって歩く3人の若い女性。高い声で話し笑う彼女達は、人と肩がぶつかっても謝ろうとしない。後ろから声を掛けても、振り返ろうともしなかった。
 時計台の鐘の音が耳に届いた。踵を鳴らし、すれ違う人がいない一瞬の隙を突いて横に避けると、一気に抜き去った。そのままの勢いで石畳を踏んでいく。後ろから彼女達の文句を言う声が聞こえ、小さくなっていった。
 時計台の三角屋根が、徐々に近付いてくる。水の流れる音が聞こえ始め、やがて大きくなっていく。子供達の笑い声。アコーディオンの音色。鳩が一斉に羽ばたいていく。視界が開けた。
 噴出された水の玉は、夕日と同じオレンジ色に染まっていた。いくつもいくつも飛び出しては落ちていく。
 円状の広場の中央に設置された噴水は、向こう側にある海にも負けぬほど輝いていた。たまに水滴が潮風にさらわれ、顔に当たる。指で軽く払い、辺りを見回す。水平線に沈んでいく太陽のおかげで、人々の顔には濃い影ができていた。
 噴水を時計回りに1周し、淵に腰掛ける。時計台を見上げる。黒く太い針は、17時5分を差していた。
 海の方へ顔を向ける。目映い波の奥にタンカーが見える。大きな夕日の外側が揺れ、空を茜色に染め上げている。雲も例外ではない。潮風で遊ぶカモメに気を取られている間に、タンカーは見えなくなっていた。
 視線を広場へ、ずらす。時計台の下では、ジャグリングが行われていた。3つのクラブが交互に宙を舞う。高く上がる度に、周りを囲む子供達から歓声が上がった。クラブがしまわれると、今度は中国ゴマが取り出される。芸人の手より大きなコマは張られた紐を器用に行き来し、飛び上がった。コマを目で追うと、時計が見えた。17時22分。
 手にしたままだった携帯電話の蓋を開き、カレンダーを確認する。
『3月17日17時。噴水広場で、正志と待ち合わせ』
 蓋を閉じると、再び海の方へ顔を向ける。街灯に明かりが生まれた。すぐ下にある小旗がはげしくはためく。母親の手に引かれた少女の帽子が飛ばされた。
 立ち上がり、手を伸ばす。帽子は寸でのところで手に収まった。すぐに駆け寄ってきた少女の頭を撫で、帽子を被せてやる。こちらに一礼する母親の元へ戻った少女は、再び手を引かれながら手を振り続ける。母子が見えなくなるまで手を振り返し、噴水の淵に座り直した。
 携帯電話を見る。17時28分。
 メールの受信ファイルを選び、最新の件名を開いたところで視界に足が見えた。
 黒いエナメルの靴。黒いズボン。黒い上着。白いシャツ。
 靴に視線を戻す。相手はしゃがんで目線を同じ高さにすると、胸元から小さな箱を取り出した。紺色の蓋が開けられる。小さなダイアモンドで飾られた指輪とメッセージカードが入っていた。
――これからも、ずっと一緒にいよう。正志
 携帯電話を持ったままの手に、涙が落ちた。
「一緒にいこう」
 濡れた手に、2回りも大きな手が添えられる。しかし首を横に振って、更に深く折り曲げた。黒いスカートに、段々と染みが増えていく。
 涙で完全に世界が歪む前に、メールの1文が目に届いた。
『正志の通夜は、3月17日19時からです』