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チュニジア

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旅行記
           
チュニジア(平成26年元旦脱稿)

今回の海外旅行は、私には特別な節目だった。私は過去11年間に胃がんと食道がんの入院治療を五回も繰り返してきた。爾来、自覚症状が現れる前にがんの再発・新発を発見すべく、愛知県立がんセンターで全身のがん検査(血液・CT・造影CT・内視鏡による目視・ルゴール染色・ナローバンドイメージング=NBI)を三ヶ月間隔で受けてきた。更に完璧を期して、全検査資料のコピーを使っての、名医によるセカンドオピニオン・サードオピニオンの診断も受け続けてきた。

 

   我が寿命は幸運が重なっても日本人男子の平均寿命である傘寿(数えで80)と予想し、死ぬ準備にも着手。豊田市営墓地の抽選に幸いにも当たり、3*3平米・総重量15トンの墓も完成。墓誌には自作の戒名『世界百余国漫遊大居士』を思い切って彫り込んだ。百余国とは魏志倭人伝からのパクリだ。平成25年のお盆には自分の墓参りも済ませた。百余国の最小値は101ヶ国。今回の旅は待望久しいその101ヶ国目だった。遂に結願(けちがん)

 
はじめに

   今や断捨離・野菜だけは自給自足の仙人生活。来宅する子・孫と会うのは正月だけ。日常生活は5km圏内。友人とのお付き合いは水・金の全ての日に出かけるゴルフかテニスと、500km圏内にある自噴掛け流し温泉に、仲間と二ヶ月間隔で出掛けるだけ。我が心境を表した『細々と生きている年金生活者』を人様に何と揶揄されようとも、ものは考えよう。極楽浄土で生きていると自己満足している余生だ。

 

   我が母校(福岡県立中学第1号・東筑・大先輩の高倉健氏は俳優としては森繁久彌氏に次ぐ二人目の文化勲章受章者・女優は森光子さんと山田五十鈴さん)は当時100分授業だった。世界史の先生は博覧強記の見本のような超物知り。教科書はあったが無視され、戦争の講義に何時も没頭。古代史で超有名なポエニ戦役の説明には何と100分間。

 

ポエニ戦役(カルタゴ対ローマ)は紀元前の三大戦役の一つだ(残りはヒッタイト帝国対エジプト帝国⇒世界最初の和平条約を締結したカディシュの闘い。アケメネス朝ペルシア帝国対ギリシアの都市国家連合群=ペルシア戦役)。これらは地中海世界と西アジア世界とのいわば文明の衝突・覇権争いだった。私はハンニバルの奇想天外な戦術にも拘らず、ポエニ戦役の敗者となったカルタゴの遺跡を何としてでも見たかった。

 

トピックス(順不同)

 

① 客室乗務員

   平成25820日に後期高齢者になった私には、カルタゴは想像以上に遠かった。離着陸の僅かな時間とはいえ、上空から眼下の景色を眺めるのは、かつては旅の楽しみの一つだった。しかし、いつの間にかその意欲はすっかり消滅した。窓際の座席は今や極力避けるようになった。景色を堪能するよりもトイレに出かける利便の方を優先した。今回は幸いにも往復ともに通路側の席を確保できた。

 

   長時間の夜間飛行中、友人に勧められた睡眠薬を飲む勇気はなく、眠るためにビールをガブ飲み。しかし、これには難点があった。世界に冠たるローマ皇帝と雖も排尿ばかりは他人には頼めない仕事だ。しかし、今回のカタール航空の客室乗務員は、私がトイレに近づくとドアをさっと開けてくれた。こんな気の利いたサービスに接したのは初体験。

 

   彼女たちへのサービス教育は徹底していた。トイレ帰りに私はハイネケンの缶ビールを所望した。さっと開栓。でも、足元不如意の私は『ここから座席までビールを持ち運ぶのは危険。座席位置の書かれた半券を示し、ここまで持ってきてほしい』。『畏まりました』。簡単な摘みと一緒に運んでくれた。客が飲まずにカバンに入れて持ち帰るのを防止するためか、必ず開栓して手渡すようにとマニュアルに書かれていると推定した。

 

② 費用

 

基本旅費・・・・・    139,000

燃料サーチャージ・・・・・30,000

海外入出国税・・・・・・・1,000

日本国内空港使用料・・・・2,650

旅客保安サービス料・・・・300

 

合計・・・・・・・・・・・172,950

 

変更分・・空港諸税追徴・・540

国内移動交通費往復概算・・2万円弱(詳細は失念)

総費用概算・・・・・・・・190,000

 

③ ホテル 

 

   チュニジアでは、どんなおんぼろホテルでも何故かシングルベッドが三台用意されていた。我が初体験だ。どうしてなのか質問するのも忘れていた。フランス人は長期休暇を満喫すべく、元植民地には妻・子と一緒に旅行に出かける人が多いためだろうか??

 

   いわゆるミニバーはあったが、中はいずれも空っぽ。ビールを飲みたかったが・・・。時には電源も壊れていて冷蔵庫が使えないことすらあった。

 

④ 食事

 

   今回の旅で一番難渋したのは食事だった。私はいつの間にかチュニジア側から見れば、極端な偏食者だった。定食でも、バイキングでも食べたい料理が見つからないのだ。同行者の何人かは2Kgも体重が増えたと喜んでいた。食欲は見るからに旺盛だった。でも、私は遂に2Kgも体重が減少。時計の金属製バンドがユルユルになった。この失った体重を平成25年内に取り返せるのか自信がない。

 

   日本では今、高齢者の栄養失調が度々マスコミで取り上げられている。特にタンパク質不足だ。多少は小太り者が長生きするそうだ。胃がんの手術で胃の2/3を切除している私は、三度の食事だけでは栄養不足になるのは必至。手術後には54kg46kgまで痩せこけた。当時64歳だったのに浦島太郎のように一気に20歳も齢を取ったかのごとく、顔には縦皺が無数。ぞっとした。

 

失われた筋肉を何とかして奪還するための間食では、ビールの摘みのたんぱく質で積極的に補填して来た。炭水化物中心のお菓子やケーキ類は一切食べない。何とかして動物性たんぱく質を食べるべく、摘み専用の121リットルの小型冷凍庫と、食材の解凍及びビール冷却専用の75リットルの超小型冷蔵庫まで購入した。

 

何とか58kg(胃がん手術前の40年間は注意深く54kgに維持・管理していたが、小太りが長生きと知り必死になって4kg増量した)の体重を確保。関取ならずとも、体重こそは体力・免疫力の源泉だと盲信している。

 

今秋からは主食のコメも『金芽米(きんがまい)』に変更した。金芽米とは精米技術の名称。お米のブランド名ではない。玄米の栄養と白米の食感を確保した技術だ。金芽米の富山産コシヒカリなどと呼ぶことになる。松坂屋豊田店では売っていなかったが、近くのトヨタ生協朝日店で入手。

 

   松坂屋豊田店の焼きたてパンは美味しいが私は食べない。炭水化物過多の偏食を恐れるのだ。一方チュニジアのパンは何故か全く美味しくない。1956年までフランスの植民地であった影響か、フランスパンの斜め切りの破片が山のように提供されていたが、パサパサで喉を通らない。一口食べるのがやっと。子供時代に食べたコッペパンにも劣る味覚だ。

 

 果物は糖度が低く、これもまた喉を通らない。果物ジュースは還元物ばかり。生ジュースがなく、飲みたくなるソフトドリンクもない。結局、多くのイスラーム圏内同様、旅行者から搾取するような高価なビールで空腹を満たす結果となった。

 

➄ 相部屋仲間

 

   今回のクラブツーリズムの団体旅行では相部屋希望者の受け入れもしてくれた。私は相部屋大歓迎。一人旅との差額(18,000)は同室者との交際費・チップ・お土産代に何時も当てる習慣。今回の男性相部屋希望者は三人。意外に少ないのだ。5泊の内、どの日が一人部屋になるのかは籤引きだった。

 

   半世紀前までは日本には生涯独身者は殆どいなかった。独身者は心・身のどこかに障害のある気の毒な方くらいだった。でも、あっという間に舞台は暗転し、別世界になった。相部屋希望者三人の中にも独身者が一人いた。今回の同行者の中には他にも類似の素晴らしい独身男性がいた。イケメン・長身、羨ましい程の立派な体型なのに独身だった。この方は一人部屋だった。

 

   我が生家には二歳年上の実兄がいる。帰省の折に情報収集。同じ集落内に無数の独身者がいるそうだ。日本全体に独身者が溢れているのは紛れもない事実のようだ。私の兄弟姉妹七人の子供は合計18人。既婚者には全員子供がいる。偏差値はピンキリのようだが、心身ともに健康なのが救いだ。

 

18人中最後に残った独身男は30代半ば。元南極越冬隊員⇒弟宅訪問時に南極土産の氷でオンザロック。氷がキンとはじける珍しい音がした。彼は道草を食っていたが近々結婚するらしい。披露宴はもはや恥かしいのか中止し、交際相手が懐妊したら婚姻届を出すらしい。甥を批判する気は全く起きない。

 

叔父に当たる私だって、仏教界とは訣別。葬儀には僧侶は呼ばない。仏壇も位牌も不要と遺言済み。自作の戒名を墓誌に彫り込み、生きている今から自分の墓参りをしている。価値がないと判断した日本の伝統や習慣などは完全に無視し、誰からも拘束されない生き方を、逆に自慢すらしている。

 

⑥ 国内電車

 

   今回は珍しく関空発着。宅配便で空港まで別送するほどでもないと考えて、自力でカバンを引きずって運ぶと決意したものの、拙宅から関空まで辿り着くのは体力の衰えたがん患者には一仕事。でも成田発着よりもマシだ。かつて団体旅行で一緒になったお爺さんは『エコノミーのカバンの重量上限は通常20kg20kgのカバンが運べなくなったら海外旅行は止める』と、言っていたのを思い出す。

 

成田の場合は中部=成田間の国内線の便数が極端に少なく、座席が確保できるか不安なだけではない。何故か夜間出発、早朝帰国便が多いのだ。団体旅行を当てにした格安便? 往復ともに成田での待ち合わせ時間が半日以上になる場合もざらだ。運が悪ければ成田泊だ。

 

   拙宅⇒自家用車(運転は荊妻)⇒トヨタ自動車元町工場前⇒名鉄バスセンター(高速バス)⇒近鉄名古屋駅(近鉄特急)⇒近鉄難波駅⇒南海電車難波駅⇒関空(南海電車)。片道概算6時間。名古屋駅でも、難波駅でも歩行移動距離が長すぎる。大きな駅は大嫌いだ。

 

   関西は関東と並ぶ私鉄王国。近鉄は新幹線と同じ標準軌。揺れも少なく乗り心地も抜群。南海は駅舎が素晴らしい。欧州のターミナル駅同様ホームが屋根で覆われ、吹き曝しがない。屋根は単なる雨除けではなく、屋根裏は各種配管・配線の取り付けにも活用されている。

 

   一方、愛知県下の私鉄は実質的には名鉄の独占。車両が古くて貧弱なだけではない。新名古屋駅のような地下での発着駅を除けば全線、ホームにこそ屋根はあるが壁のない吹き曝し。競争がもたらす果実がない。

 

でも、南海電車から久しぶりに眺めた商店街の栄枯盛衰も激しかった。鉄道に直行する通りが次々に現れた。小さくてもいわゆる商店街だ。しかし、人通りは少なく、シャッターが下りたままの店舗が多すぎた。左側に見えた通天閣周辺だけが少し賑わっていた。

 

JR環状線のターミナル駅に隣接する北の阪急本店・阪神・大丸や南の高島屋・近鉄本店に、郊外の富裕層の客を取られるのか、かつての繁華街は寂れる一方。心斎橋の元そごう本店は改築したのに客足は戻らず、隣接する元大丸本店に売却されたものの、両店ともに集客力はイマイチ。シャッター通りは地方都市だけではないようだ。

 

   私が電車に乗るのは久し振りだった。往きの南海電車急行内の雰囲気は一変していた。関西空港で降りた客は同じ車両内では私一人だった。通勤電車だったのだ。車内の雰囲気はかつてとは一変。何と2/3以上の若者が一斉に携帯端末を操作していた。私は既にシーラカンスのような石器時代人になっていることを悟らされた。

 

私は携帯端末を買ったことがなく、今後も買う気は全くない。日進月歩の電子機器は操作を覚えるだけでも老人には苦痛。字が小さすぎて眼鏡なしでは読めないし、キーも小さすぎて操作がしにくい。加齢による記憶力の衰えはないそうだが、思い出し力が激減するのだ。目の前にいる知人の名前が思い出せない現象がその典型例だ。若者が何に夢中になっているのか分からなかったが、お蔭で車内では会話も聞こえず静かだった。

 

   驚いたのは殆どのサラリーマンはノーネクタイ、そのためでもあるのか襟垢に汚れたシャツを見かけない。クリーニング業界の寡占化に伴う合理化が進んだのか、豊田市内でも家族経営のクリーニング店の殆どは廃業し、大手と契約している小さな取次店が今や溢れている。シャツ一枚の洗濯料金は100円~150円前後。みんな毎日取り換えているようだ。かつて大平首相がシャツは連続して二日間着る、と言っていたのが嘘のようだ。

   

⑦ 脚力強化法

 

   団体旅行では脚力不足で難渋する頻度が多くなった。整形外科医が各種のトレーニング法を提案しており、いろいろ試みたが長続きしなかった。一日の時間は一定なので何かをすれば何かを止めねばならない。背反事象だ。

 

   ある時、脚力の簡単な評価法を知った。椅子に座った状態から、片足立ちが出来るか否かだ。私は試行して愕然とした。フラフラとして立ち上がれないのだ。でも、我が日常生活を反芻したら、朝晩二回の入浴時に各10分間、単に体を温めているだけの時間があった。この時間を活用することにした。

 

浴室の壁面にはデジタル時計付のボイラー制御用のリモコンが取り付けられていた。窮余の策とは浴槽内で片足を交互に持ち挙げ、膝の後ろに両手を回し、伸ばした足を極力腹部に近づけるストレッチだ。一ヶ月間続けたころから若干の効果が感じられてきた。最初は足の指先と手の指先とは20cmも離れていたが、今では両者を接触させられるほど柔軟性が増してきた。その上、水平歩行速度が回復してきたのだ。

 

   今後も毎日焦らずに続けることにした。その途端に、今年の五月末から始めた毎週一回の散歩は中止してしまった。嫌いなことは長続きしない典型例だ。

 

ある時、熱ショックによるタンパク質の改質効果作用を知った。42℃の風呂に入りストレッチを繰り返せば筋力が増強されるのだそうだ。NHKの『ためしてガッテン』でも紹介されたそうだ。私はまさにその典型例を実施していたのだ。心なしか、太ももに力瘤のような筋肉が現れた。嬉しくなった。

 

NHKのためしてガッテンからの引用。イワシの頭も何とやら。害はなさそうだから続ける予定。

 

熱ショックたんぱく質とは!?

温めると細胞の中で「熱ショックたんぱく質」という物質が増えます。すると、さまざまな不思議な現象を起こします。トマトやレタスを温めると長もちするようになります。熱ショックたんぱく質は、細胞内のたんぱく質を修理することで“細胞を強化”してくれるんです。ただし、トマトは実験段階ですので、ご家庭での再現は難しいです。レタスは50℃のお湯に2分つけると赤茶に変色するのを抑制することができます。番組では差がわかりやすいように、温めた後、常温保存しましたが、ご家庭ではあら熱をとって冷蔵保存することをお勧めします。

人間の細胞にも熱ショックたんぱく質が存在。温度が上がると増え、免疫力とも深い関係があります。ただし、あくまでも実験段階の結果で人間の体の中で、どのくらい免疫力が上がるかはわかっていません。また、風呂で温めたレベルでは免疫力が大きくアップする事はありません。

長湯しすぎに要注意!

熱ショックたんぱく質は体温が38℃くらいになると増えると言われています。熱ショックたんぱく質の“修理パワー”を治療に活用するべく臨床研究している大学病院で、体験すると専用の機器を使って遠赤外線で温めても、38℃に上がるまでに3~40分かかります。入浴でも湯温によりますが、ある程度の長湯が必要です。よかれと思って長湯しすぎると、心臓などに負担がかかるほか、こんな危険性が考えられます。長湯しすぎには十分注意してください。のぼせてふらつく(特に高齢者の方は転倒事故につながる危険もございます)血栓ができやすくなる(42℃以上の高温で長湯をした場合)熱中症(特に高齢者や子どもは体温調節がうまくいかず、急上昇してしまうことも)

温めて血管若返り!

昨年から治療ガイドラインに掲載されるようになった「和温療法」。慢性心不全の方を対象とする治療法です。60℃と低めのサウナで15分間温めて、血管を柔らかく若返らせようとするのが狙い。血流がよくなると、血管内壁から一酸化窒素が出て、血管の筋肉をほぐして柔らかくしてくれます。すると、全身の血流がよくなるので慢性心不全による全身症状が改善。ただ、同じ血管若返り効果は運動でも得られます。健康な方でしたら、鼻歌が歌えるくらいのウォーキングを1日30分。週3日行うと、3週間で血管弾力が15%アップしました。

 

⑧ 参加者

 

   今回の参加者は38人。成田出発者が30人。関空が8人。女性が2/3位。両者はカタール空港で合流。女性添乗員は成田から。我が体験では30人を超えると何かと無駄になる時間が多すぎる。海外ではどこでもトイレの数が少なく、ガソリンスタンドなどでのトイレ休憩に時間が掛るだけではなく、バスの乗降にも時間が掛り、イライラするのだ。旅費が安いから我慢せよと言われているようなものだが・・・。

 

   今や日本では全国に1,000ヶ所を超える道の駅、380ヶ所(うろ覚え。正確さには自信はない)もある高速道路のSAは、大好きなデパ地下とも共存共栄するほどの賑わいだ。屋台・レストラン・簡易食堂・産直市場・お土産店に加えて綺麗な多数のトイレ。場所によってはコンビニや温泉すら併設されている。

 

これほど充実した休憩できる道路サイドの拠点を海外では一度も体験したことがない。年間六回の温泉旅行仲間との移動中には、何時もトイレ休憩にこれらを活用。ここでお土産を買うのが習慣になった。幹事が毎回指示する20分の休憩時間が短すぎるくらいだ。

 

⑨ 女性参加者

 

   高齢になった女性が身だしなみへの気配りを失うと、私は自分の身だしなみや外観は棚に上げながら、見るに堪えない心境になる。

 

   私は大人の女性を三分類している。産卵期の場合は新品と中古品の女性に分類。各種の調査報告によれば女子大生にも、昨今では新品は少ないそうだ。産卵期を過ぎれば老婆だ。自然界では産卵が終わった鮭に象徴されるように、存在意義がなくなると自然の摂理からかそのまま死んでしまうが、人間界ではその時点からの余生が長い。何と40年以上もあるらしい。

 

   いつの間にか、理髪店にも低価格革命が浸透し、1,000-1,500円床屋が全国展開を始めた。その効果か、高齢者も床屋に出かける回数が増えたようだ。一方、美容院は女性の虚栄心を擽(くすぐ)るのか、低価格競争には未だ陥っていないようだ。結果的には高齢女性の美容院通いの回数が落ちているようだ。

 

   野生動物のように髪の毛が伸び放題の老婆が増えた。伸びた髪の毛を麻縄(家庭菜園では必需品)で縛るなどの努力をしないためか見苦しくて堪らない。外観ではなく中身で勝負と言いたげな言動には一層呆れてくるから、私はからかいたくなるのだ。

 

   人生50年時代でも、女性の平均余命が米寿になった今でも産卵期の終了年齢には変化がないそうだ。医療技術他の進歩により巷には老婆が溢れている。それでもパートなどで働いている女性は身だしなみには多少は心がけているが、小金を持っているらしい海外旅行組の老婆の半数は、日本人の恥さらしの典型例だ。

 

   だぶだぶのズボン(昔はモンペと言った。今はパンツと言うらしいが・・・)は履き易いのか、ゴキブリやアヒルのお尻のように、ズボンの中で垂れ尻がフラフラと左右に揺れている。飛行機の搭乗員の女性のように長い髪を後頭部に集めて丸め、華やかで美しいリボンで飾る姿には凛とした輝きを感じるが、山姥(やまんば)のようにザンバラ髪を振りまく老婆には話しかける気も起きない。

 

⑩ 持参している小物品

 

   発展途上国に出かけるときには先進国とは異なる必需品がある。ガイドブックでは見落としがちであるが、痛い目にあって気づかされる物品が殆どだ。おまけに加齢と共にボケも進み、部屋に小物を置き忘れる場合もある。持参品は百均などで買える安物に限る。

 

   時計・・・スーパーで980円の腕時計を二個購入。一つは電波時計、もう一つはクオーツ。共に中国製だ。一年使ったが何の支障もなく、時刻は正確に刻まれている。でも、電波時計は国内旅行専用にしている。海外旅行で必須となる時差合わせ操作が面倒。今回はクオーツを持参。どこかで忘れても惜しくはない。

 

   浴槽の栓・・・外国人はシャワー慣れしているのか、栓がなくとも気にしないらしい。ホテルの半分くらいは、まともにお湯が貯められない。栓の種類は多種多様。一辺が10cm位の正方形のゴム製の厚くても柔らかい板には汎用性があり便利だ。

 

   ビールの栓抜き・・・必需品だ。部屋に置かれていないこともしばしば。客の持ち逃げが多いためか、最初から準備していないようだ。

 

   化繊の固いネットタオル・・・石鹸の品質が悪く、浴室に置かれているタオルでは泡が発生し難い。洗浄力はあっても気分が悪い。

 

   安全カミソリ・・・通常、浴室の備品にはない。電気かみそりは充電が面倒。日本から持参した安全カミソリ一本で間に合う。最近のステンレス刃の安全カミソリは、一ヶ月間は十分に使える。  

 

⑪ 人種の坩堝

 

   チュニジアは先住民であるベルベル人、カルタゴを建設したフェニキア人、カルタゴを滅ぼしたローマ人、ローマ帝国の衰退後に進出したゲルマン系遊牧民族であるバンダル人、バンダル王国を征服した東ローマ帝国人、東ローマ(ビザンティン)帝国を支配したアラブ人、ビザンティン帝国を滅亡させたオスマントルコ人、オスマン帝国の滅亡後に侵攻したフランス人など、私にはその歴史を追いきれないほどだ。

 

   多種多様な人種間の交雑の前には、男女の部品の大小・整合性は障害にはならないらしい。驚くばかりの柔軟性があるらしい。何よりもその結果が証拠だ。チュニジアは、結果として多種多様な外観の人種の坩堝となった国家である。

 

日本人だって弥生時代以前に周辺各地から移住してきた難民の坩堝だったが、過去2,000年間に亘りそれぞれの場所に定住した結果、外観はかなり平準化された。それでも南北を比較すると、皮膚の色・毛深さの程度には大きな差が見られるが、チュニジア人の外観のばらつきとは比肩すべくもない。

 

   JAの規格に統一された、デパ地下やスーパーの生鮮食料品市場の野菜や果物と異なり、一見しただけでは分類不可能な人々が街に溢れている。身長・体重・体型・皮膚の色も様々。国際線のエコノミー席に150kgはありそうな中年男子が乗り込んだ。

 

椅子の両端に挟まれた巨体は機械的に強く圧迫されると、腹部は前に伸びて前席に接近し、機内食を置くテーブルが使えない。人体も茹で卵のように、簡単に変形するのだ。たまたま空席だった隣席のテーブルを使い、本人には何時もの習慣だろうが、頭を90度器用に回転させて食事。

 

⑫ お土産

 

   海外旅行では適当なお土産はないものかと、キョロキョロしながら特産物探しをするのも楽しい。軽くて保存性もある珍品探しだ。中近東のバザール(屋根付きの商店街)には国産品以外にも、世界中から集めた安価な商品が山積みされているが、今回はどこでも売られていたサフランに注目。

 

   バザールや観光地廻りが目玉となるパック旅行は、一筆書きでの移動の世界。お気に入りの商品を発見したら速戦即決。大きな失敗を避けるためには、少しずつ買うのが鉄則。どこで買うのが一番お買い得になるのかは最後まで分からない。現地のガイドの案内にも我田引水の眉唾物がある。サフランは遥か昔、パキスタンで買ったが大変高かった記憶がある。でも、チュニジアではあちこちで売られていた。結局、数箇所で分散購入。

 

   最後に売上額では世界第二位(一位はウォルマート)のスーパー・カルフールでどっさり買った。バザールでの値引き交渉に努力した積もりだったが、カルフールが一番安かった。帰国後、インターネットで国内価格を検索したら、500-1,000/gだった。

 

サフランは紅茶と同じように熱湯に入れて数分経過させたら、香りの高いサフランティーができる。尚、サフランと紅花とは同じものと勘違いしている人もいるが、全く別物だ。また、紅花の色は花びらから採るが、紅花油は花びらからではなく種を圧搾して作る。

 

サフランと聞くと多くの人は料理に使用されるイメージが強くありますね。このサフランは、薄紫の花びらの中に、黄色い雄しべと、雄しべより長い雌しべが三本入っている花です。

料理やお茶などよく使用されるのはサフランの赤い雌しべです。サフランが料理に使用されるのは香りと色です。サフランを栽培する方法には、露地栽培と室内栽培があり、最近は露地栽培ではなく室内でより多く栽培されています。

サフランは球根で増える植物なので室内栽培では、質の良いサフランが収穫できないのが問題点と言えるでしょう。サフランを料理やお茶に利用する場合に大切になってくるのは雌しべを乾燥させる過程です。

サフランの要素には、着色力を決めるクロシンと風味を決めるピクロクロシンに加えて香りを決めるサフラナルが要素としてあります。このサフランの品質はISO企画で定められています。

水溶性であるサフランは水には溶けます。しかし、油やアルコールには溶けません。料理に使用するときにはアーモンドやポテト、トマトやバジルなどが相性のいい食材とされています。サフランを使用した料理には、パエリアのように、ご飯にサフランを混ぜ合わせて作るものや、モロッコ風のブイヤベースに使用するもの、ギリシャ風のサフランブレッドなどがあります。

料理にサフランが使用される理由としては、美容と健康を維持する効果が高いからだと言われています。自分で料理をすることが苦手な人は簡単にサフランが摂取できるサフランティーが良いでしょう。

サフランは料理だけでなく染料としても使われおり、染料としてサフランを使用する際には、ミョウバンとともに使います。

紅花と呼ばれるサフラワーは、私たちの生活と密接しており、主に食用で色を付けるときに利用されているので誰でも一度は目にしたことがあると思います。

紅花の紅という呼び方から昔は、「紅をつける」と言う意味は口紅を付けることを表しました。この口紅は紅花を利用した色素で作られ、エチオピアを原産地としたものが多い菊科の植物であるサフラワーはエチオピア以外では西南アジアが原産地となっています。日本では山形県が主に栽培地として有名です。

サフラワーの花びらは、染料として使用されサフラワーの種子は、食用油の原料である紅花オイルも作られているので知っている人も多いでしょう。

6月頃になるとサフラワーの花の収穫時期を迎えます。太古の昔に日本ではサフラワーは人が亡くなった時に使用され、遺体を埋葬する際に棺の中にたくさんのサフラワー(紅花)を入れていました。

ピラミッドで有名なエジプトミイラにも、サフラワーがたくさん使用されていたようです。遺体に供える花としてサフラワーが利用されているのは、サフラワーの香りがとても良かったからだと言われています。

サフラワーから色素を抽出するには紅花を太陽の光に当て乾燥させます。乾燥させた紅花を一日中水に漬け、黄色い色素が水に染み出すのを待ちます。後はしばらく漬け灰汁につけると化粧品用の赤い色素を抽出するようになっています。

健康面ではサフラワーは「紅花茶」というお茶として飲まれています。紅花茶の効用は、血行を促進する働きがあり、鎮静作用があるといわれています。紅花の甘い香りと、真っ赤な紅花茶は、健康食品コーナーで販売されているので利用してみてください。

紅花は英語でsafflowerサフラワーと言います。キク科の植物で花は黄色→赤となりますが、サフランはアヤメ科の植物で花は紫色。赤いめしべだけを着色料として使います。

 

   専業主婦の荊妻にはサフランは不評だった。『香辛料を使いこなしてカレーなどを作るのは面倒。日本では中間製品となるルーなど主婦の手抜き用の食材が溢れている』そうだ。結局、小瓶に詰め替えて、我が夫婦夫々の友人たちに配ることにした。

 

常々、荊妻には『主婦業としての家事は最低限で十分。残りの時間は、国内・外旅行やグルメ食べ歩きなど、好きなように過ごして構わない』と言い続けている。

 

   我が何人かの知人・友人は惚けた奥様や要介護の奥様の支援で掛かり切りの人も増えた。ペースメーカーを埋め込み身障者1級に転落した荊妻が、何時倒れるか不安だ。健康で私よりも長生きさえしてくれれば十分だ。

 

   私が生きている間に荊妻が要介護老婆になったときは、躊躇せず姥捨て山(特別養護老人ホーム等)に送り込む予定。がんで体力の落ちた私には老老介護は無理だ。一人暮らしになった時に備えて、宅配夕食の手続きを完了し、先週試行した。

 

   一番気に入った業者は今年から参入したセブンイレブンだった。一食単位で宅配してくれる。日替わりメニューの写真やその他の食品の写真付き雑誌が毎月送られてくる。ご飯付き(ご飯と5/)やご飯無し(6/)が有るが、共に500/食。

 

前日に申し込めば昼食も夕食も夫々に指定された時間帯での手渡し。代金は手数料なしでの銀行口座からの自動引き落とし。何と便利になったものか。指定された最寄りのセブンイレブンから配達された。でも、配達者は店員ではなくてヤマト運輸だった。

 

   料理内容は宅配夕食(8品・670/)では先行しているワタミに軍配。でも、ワタミは最低5日単位の申し込みなので不便。ヤマト運輸の宅配者によれば、利用客が徐々に増えてきたそうだ。

 

⑬ 酒を振舞われた。

 

   その1。 どこの海岸だったか忘れたが、テント張りの朝市のようなお土産店街でビールを探した。ソフトドリンク売りの若い店員に『ビールを買ってきて欲しい。地元のことには詳しいから知っている筈だ。チップとして2ディナール(130)出す』と言って探させた。が、結局見つけられずに戻ってきた。その時、私ががっかりしていたのに気づいた二人連れのイタリア人男性がいた。海難事故の救済を目的にボランティアとして短期間だが車で来たのだそうだ。

 

   二人共2m近い大男だった。『背が高いね! 部品も大きいのではないか! 羨ましい』と言ったところ『一寸こちらへ』と言って、自分たちの車まで案内し『これは、イタリアでは有名なブランデーだ』と言いながら紙コップに100ccくらい注いでプレゼントしてくれた。

   

   その2。 11/3午後、チュニスからの帰国便の搭乗手続きも完了。一服しようと立ち飲みスタンドにて生ビールを注文。『20ドル札で支払うが良いか?』『規則に成約され、お釣りはドルでは渡せない。ディナールになる』と回答。今更ディナールを受け取っても使い道がなく、がっかりした。

 

   そのやり取りを聞いていた隣席のチュニジア人が『がっかりするな、俺が支払うから』と言って、さっさと支払ってしまった。『なんとも申し訳ない。実は1ドル札なら三枚持っている』。財布の中を見せながら無理やり受け取らせた。ビール代は6ドル相当だった。

 

   成田出発便の場合は1ドル札をチップ用に旅行日程数に合わせて50100枚入手していたが、今回は出国時の関空着が遅くなり1ドル札に両替できなかったのが失敗の元。豊田市内の三井住友銀行では1ドル札が少ない100ドルパックのみの両替。私は後で使い難いパックによる両替をしていなかった。 

 

   その3 ケルンにて(平成1310)

 

ケルン中央駅の1階は切符売り場と駅中(えきなか)商店街だった。ホームは2階にある。ドイツでは入場券はなく、ホームまでの出入りは自由。列車の中での抜き打ち乗車券所持検査で捕まると罰金を請求される。

 

   長女一家が駐在していたケルンに、荊妻と共に様子見に出かけた。私はケルン中心街を一人で散歩したくて中央駅に出かけた。生ビールの立ち飲みスタンドに腰掛け、ケルンの地ビールを飲みながら、隣席の若い男に話しかけた。

 

『あなたは朝早くから、週日なのにこんなところでビールを飲むなんて貴族ですか?』

『ハンブルクでペンキ塗り会社を経営している。たまたま仕事でこちらに来ているだけだ。こんなまずいビールを飲むなんて』と言うや否や、我がビールを目の前の溝に捨て去り、これを飲め』と言って、彼のお気に入りのビールを私のために注文した。その一言がキッカケとなり暫くミニ国際親善。

 

   海外旅行中、私はこの種の体験をあちこちでした。欧米人の私への気配り(我がホームページの賢人読者各位も体験済みと思うが・・・)に何度も出会い、驚いた。

 

   一方、日本人のケチな行動に接するたびに失望の連続。日本人は仲間同士の場合はそれなりの付き合いをするが、団体海外旅行で知り合った程度の仲間の場合は、何かの序に奢ると言う人は大変少なく、失望するだけ。一寸奢るだけで人生が楽しくなるのに、何と狭量な人たちかと驚く。

 

⑭ 訪問国数 

 

   私のホームページの自己紹介欄には、がん寛解祝いとして2003年に出かけたエジプト以降の各年の訪問国名を書き込んだ。これを見たある人から『あなたの訪問国数には水増しがある、と疑問を持つ人がいるのでは? 赤い地図から大体のことは推定できるが、国名を全部書いては如何』との提案をされた。

 

   この人は国とは何かの認識が不足しているようだ。国の数は今でもはっきりとはしていない。およそ200弱だ。アラブ諸国はパレスティナを国として承認しているがイスラエルは承認していない。旧ソ連が崩壊したあとロシアを含む15ヶ国が独立した。私はロシアのモスクワ・サンクトペテルブルクや新独立国のうち12ヶ国を旅したが、ソ連時代だったら1ヶ国になる。

 

   私の訪問国数は訪問時点で国として国際的に広く承認されている数を足したものだ。昔に遡って現在の国名を数えると数が減ることになる。20世紀にはオスマントルコやソ連の崩壊だけではなく、アフリカやその他の地域では植民地が独立し、国の数が激増した。今後も国の数は増加すると予想している。

 

   シンガポールのような都市国家やロシアのような巨大な国も一つの国と数えるのには疑問が残る。本当は訪問した市町村の数を数える方に意味があると思っているが、市町村名も忘れたところが多いだけではなく、簡単に表示できるソフトも無い。国の数を数えるのは単なる遊びに過ぎない。

 

尚、訪問国を赤く塗っているのは『world66-visitded countries』の最新版による。


   出国窓口は沢山あったのに出国者は私一人。『こんなに客が少ないの?』。『この時間帯だと少ないのですが・・・』。

 

10/28

 

   関空の指定場所への集合時刻は20:40。定刻に到着。関空出発組8人の中の一番乗りだった。カバンの重さは11kg。旅に慣れてくると衣類は減少。チュニジアと豊田市の気温が殆ど同じなのも幸い。カバンの半分は空っぽ。着替えの大部分は靴下や猿股・股引などの下着。多少汗臭くなっても乾燥地帯だ

し、我慢出来ると判断。パジャマなどの寝間着は持参せず。

 

   JCBゴールドのラウンジに21:01に到着。何と21:00に閉店だそうだ。どこの空港のラウンジでもビール1缶は無料。ビールを所望したら500円という。ラウンジは空港ごとの独立採算制なのか? 中部国際だけはセルフサービスとは言うものの、生ビールが飲み放題なのに何としたこと。関空は客が少ないためか?



10/29

超巨大なカタール空港(到着時の建物⇒出発時の建物間の移動にバスで10分以上)で乗り継いで、チュニジアの首都チュニスに到着。人口ではチュニジア第三の都市。旧市街(メディナ)(世界遺産・その①)だそうだ。チュニジアは16万平方km。人口は約1,000万人。一人当たりの年間所得は8,000ドル。日本の二割。私が就職した1962年、日本の所得はアメリカの二割。其の時、アメリカの豊かさは別世界と感じていた。

 

小さな国なのに世界遺産は8ヶ所。今回はその中の7ヶ所を巡るべく、バスで東奔西走。簡易舗装に近いが、現地では高速道路と称している・・・。都市間の交通量が日本に比べれば極端に少なく、移動時間はほぼ計画通り。昼間の2/3はバスの中。

 

   チュニジアはローマ帝国屈指の穀倉地帯。360度、地平線まで全く山を見かけない場所も多かった。中央アジアの大草原でも大抵はどこかに山が見えたが、珍しい体験だ。

 

   チュニジアは、アフリカの北西部に位置するリビア・モロッコ・アルジェリアなどと一緒に、日没との意味のマグレブと呼ばれる国の一つ。メッカの西側に位置するため、モスレムは東に向かってお祈りをしている。

 

   地球上どんな場所でも、日が沈むだけではなく日出る地なのに、自国を中心に考えて隣国を日没する国とか、格下に見做したがるようだ。隋書』東夷伝に、倭王から皇帝に出した国書には「日出ずる処の天子(聖徳太子)・・・」と自称したとあり・・・。

 

   最近では韓国がその呼称が世界的に定着している日本海を、韓国の東にあるとの理由で東海と命名し、日本にも同意を求めて来た。日本海に面した海岸線の長さは日本列島の数分の一に過ぎないのに・・・。この種の幼児性に満ちた最近の韓国の政治家の言動にはいちいち付き合ってはいられない・・・。韓国は二度と出掛けたくない国の一つになった。

 

   丸いドームを見ると、イスラーム圏内に来たとの実感が湧いてくる。乾燥地帯の利点か雑草が少ない。今や世界中どこでも男の大部分はジーパン愛用者。丈夫で長持ちするだけではない。皺も撚り難くアイロンがけも不要だ。伝統的な民族衣装は今や冠婚葬祭やお祭り専用の絶滅危惧種のようだ。

 

 

 

欧州・中東・アジア各国には無数の巨大な城壁都市が今でも残っている。城壁には必ず出入り口があり、大抵管理人がいる。お疲れさまと声を掛けたくなる。

 

日本には住宅地を取り囲むこの種の城壁都市はなく、頑丈な門の建設事例もない。神社の鳥居や仏閣の門は単なる出入口の象徴に過ぎない。出入りを遮断する物理的な障害物にはなっていない。

 


展望台から市域を眺めると、古い石造りの家並の中に鉄とガラスの近代的な建物も建ち始めた。衛星放送受信用のパラボラアンテナが溢れている。

 


観光はチュニジアでは大産業。観光客の安全を確保するために、武装した屈強の若者がいた。

 

ある同行者が『革ジャンは暑くありませんか?』。未体験者の大いなる誤解だ。皮は

断熱材だ。夏は涼しく、冬は温かい。一年中愛用できる優れた素材だ。寒風は遮断するのに通気性は確保される結果、蒸れない。その上、軽いのも魅力。

 

私は冬季のゴルフでは、ズボンは韓国で購入した柔らかい羊の革製品を愛用している。今回の外出着は牛皮製のハーフコート。東レやクラレが人工皮革を開発したが、天然皮革に匹敵する品質には未だに到達していない。生きている親羊一頭の国際的な価格は1万円前後。安いものだ。

 

国内旅行でも海外旅行でも、私は何時も皮ジャンを愛用している。国際線は空気抵抗を極力減らすために飛行高度は13,000m前後。一方機内は乗客の健康に影響しない範囲での最高高度3,000m前後の大気圧(0.7気圧前後)に通常管理されている。離着陸に伴う機体の疲労破壊を避けるために、機体内外の圧力差を乗客の許容範囲で極力小さくしているのだ。機内の空気温度は快適値でも、気圧が低いため体感温度は低くなる(熱力学的な説明は面倒くさいから割愛)。私はその対策にも有効な皮ジャンを愛用している。

 

首からぶら下げているのはイヤホーンガイド。加齢と共に聴覚が衰えて来た私には必需品。でも、欠点がある。ガイドは自分の位置を原点にして前後左右の景観の説明をするが、聴く側にはガイドの居る位置が分からない時もある。その場合は説明が直感的には理解できなくなる。

 

 

水は乾燥地帯では貴重品。水を確保するためには、歴代の権力者は住民と共に想像を絶する努力をしてきた。噴水は飲めるのではないかと思えるほどに透明だ。

 

一方、日本各地に残存しているお城のお濠の水の汚さには、来日外国人は口にこそ出さずとも驚いているに違いない。せめて皇居のお濠の水くらいは綺麗にできないものか。下水処理場の膨大な水のほんの一部を導水するだけで簡単に解決するのに!!

 

男性用の赤くて丸い帽子に宗教色を感じたが、被っている男(右端)は少ない。私は海外旅行の記念にあちこちの国で民族帽を買っていたが、今回は見送った。いわゆるキャップでも庇があるのに、この丸い帽子には庇も鍔もない。デザインが単純すぎて魅力を欠き買うのは見送った。

 

今回の旅行でも愛用している帽子は、ペルー(インカ帝国)のナスカの地上絵が鍔に刻印されている分厚い牛皮製だ。

 

 

   チュニジアと日本の時差は8時間。真夜中に目が覚めた。ルームサービスでビールを取り寄せるべく、フロントへ電話したが応答がない。やむなく、下着のままフロントへ出掛けた。受付には制服姿の男が二人いた。『ビールを二本買いたい』。『ビールはありません』と出まかせ。『そんな筈はない。夕食時にレストランで飲んだ。どこかにあるはずだ』。一人が何処かへ出かけた。ハイネケンの瓶ビール(小瓶)を二本持ってきた。『栓抜きがない。ここで開けてくれ』。

 

   室内から静かに出入りしていた積りだったが相棒が起きていた。遠慮する相棒に『ビールを一人で飲んでも面白くない。どうぞご遠慮なく』と強要。氏は元銀行マン。アメリカ駐在歴があるそうだが、アメリカ人の子供の英語は聞き取り難いと言う。耳から学ぶヒアリング能力は幼少時に体験しないと絶対音感同様、身に付けるのは難しいらしい。

 

我が孫の中で最年長の女児は慶応中学三年生。この秋に英検2級に合格。ドイツのケルンに一歳の時から5年間住んでいた効果だろうか? 外国語を学ぶ際の拒否反応が小さいらしい。


 

10/30

   いつの間にか日本人の旅のスタイルが変わっていた。小学生のようにリュックを背負っているのだ。両手がフリーになって便利なようだ。

 

   でも、私は30年くらい前に購入したアタッシュケースを使い続けている。書類を曲げずに収納できるし、飲物の保管にも安全だ。待ち合わせなどの場合は椅子代わりにも使えるし鍵も掛けられる。しかし、最近はアタッシュケースを全く見かけなくなった。10年ひと昔というが、一世代経つと別世界だ。

 

   クオーツ時計が普及したためか、集合時刻に遅れる人は殆どいなくなった。ホテルの外観やロビーはリフォームしたのか一見立派だが、室内の調度品や設備は中古のママ。テレビは見ないから古くても何の支障もないが、ブラウン管では何ともみすぼらしい。

 

   革ジャンの下に着ているセーターはペルー製品。アルパカの毛を使った手編み。カシミヤに似て軽くて温かい。我がお気に入りの愛用の品。

 

635

 

   中東やアフリカでの我が関心事は遺跡巡りとバザールだ。日本各地のアーケード街にはシャッターが下りた店が多くなったが、海外では滅多に見かけない。失業者が多いためか空き店舗も直ぐに埋まるようだ。バザール内を歩くとその国の庶民の生活が分かる気がしてくるから不思議だ。

 

   欧州各国の大抵の都市では、中心部にある広場に日本の朝市のような仮設商店が並んでいるが、単なる産直市場に感じて関心が薄れてきた。みすぼらしいのだ。

 

   スースは沿岸都市。鮮魚も豊富。この国の商人は、商品の見栄えなど気にせずに展示しているようだ。

 



638

生まれて初めて牛の生首を見た。売り物なのか、飾りなのか不明だが首の断面が大きいことに驚く。

 

   日本でも厖大な数の牛が食用に供されているのに、牛の頭はどう活用しているのか一度肉屋に聴いてみたい。マグロの巨大な頭は兜焼きで売られているし、香港の市場では豚の頭がゴロゴロ。イスラーム圏では羊の脳味噌は最高の御馳走だ。でも、牛の頭は見たことがなかった。牛タン以外にも食べられる部位はあると思えるのに。後で聴いたら、販売用の牛の頭だった。

 

   豚骨や鶏ガラなど、肉屋の廃棄物はラーメンのスープに活用されているのに、牛骨ラーメンというメニューには出会ったことがない。インターネットで検索したら、ほんの僅かではあったが売られてはいた。

 

   廃棄物でも美味しいのなら、松阪牛のサーロインステーキで出汁を取れば極上のラーメンができるのではないかとの疑問が生まれる。ラーメンとは高くても1,000円前後との前提が強すぎて、ラーメン屋は誰も挑戦しないのだろうか? 美味しければ2,000円でも私は食べたいのに。

 

   私が大学3(1960)の時、池田内閣が所得倍増計画を発表した。池田首相は『経済のことは私にお任せください』と言いつつ、カレーライスを食べながら庶民派を演出していた。でも、カレーライスが50円時代に、250円のカレーライスを高級ホテルで食べている、とマスコミにからかわれていたのを思い出す。

 

所得倍増計画(しょとくばいぞうけいかく)とは1960池田内閣の下で策定された長期経済計画である。閣議決定された際の名称は国民所得倍増計画(こくみんしょとくばいぞうけいかく)という。この計画では翌1961からの10年間に名目国民所得国民総生産)を26兆円に倍増させることを目標に掲げたが、その後日本経済は計画以上の成長に至った。立案は経済学者の下村治

 

 

640

   チュニジア人の女性通訳は女傑だ。モスレムかと質問したら、無宗教だと即答。彼女の衣装にモスレムの風習は見かけなかった。

 

   徐々に才女などから宗教離れが始まっていくのだろうか?

 

643

何処でもモスクは庶民の家とは格段の差を感じさせる豪華な建物だ。個人の資金力では建てられない。かつての宗教団体や権力者の力の強さを感じる。

 

今や大抵の国では所得の平準化が進み、個人には巨大な宗教建築を寄進する余裕がなくなった。世界的な巨大企業も非生産分野に投資しなくなった。昔と異なり国家もこの種の建築を残す余力がなくなってきた。豪華な建物はいずれも昔の遺産が中心だ。

644

   高速道路を疾走するバスから、我が安物のデジタルカメラでオリーブ畑を撮影したが、焦点が呆けてしまった。チュニジアのオリーブの生産量は世界で56位らしい。2011年の収穫量はスペインがダントツ。実の重量なのか、油を搾るための種の重量なのか不明だが、皮つきの実も食べるから実の重量と推定した。地中海の周辺各国が主産地だ。

 

Spain6,940,230トン

Italy3,182,200

Greece2,000,000

Turkey1,750,000

 

   高速道路沿いに広がるオリーブ畑は壮観だ。一枚の果樹園が優に1平方kmはある。日本では一枚の田畑でこんなに広い農場を見たことがない。周辺では人家が見つからなかった。

 

『どのようにして収穫するの? アメリカのサクランボのように振動を幹に与える機械で揺すり落とすの?』

 

『オリーブの実はコーヒーと同じように順々に熟すから、人手で収穫する。晩秋から三ヶ月かける。周辺各地から働きに来る人がいるから心配無用』だそうだ。野宿用のテント持参なのだろうか?

 

   ゲーテは明日死ぬと言われても『私は子供たちのためにリンゴの木を、孫たちのためにオリーブの木を植える』と言ったそうだが、オリーブの木は寿命が長いらしい。ここの木の幹はごつごつとして、屋久杉のように星霜を感じさせるほどに大変太かった。

 

オリーブの木の寿命は長く、エルサレムには推定樹齢1000年を超えるといわれる大樹があります。一般に樹

4年~5年で実をつけ始め、花期は5月~6月、収穫は10月末~12月初めです。

 

 

644

マトマタに到着。

 

   鷹をぼんやりと珍しそうに見ていたら、持ち主が手の上に突然乗せ、さっとカメラを取り上げて撮影。何という早業か! 更に帽子の上に移動。我が意思を無視して勝手に乗せたのだから、チップを渡さないなどとの野暮な発想は成り立たない。

 

   観光地でチップを集める必殺技とは、先手必勝。鷹の外観は若いブロイラーの大きさに見えたが、意外に軽かった。飛べる鳥と飛べない鳥との違いだ。

 

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北アフリカの先住民『ベルベル人』の竪穴と横穴を併用した地下住居を見学。山岳地帯では斜面に横穴を掘って住む人がいる観光名所も多いが、ここでは大きな縦穴を掘り、そこから横穴を掘って住居としていた。中庭には井戸も掘りナツメヤシも育てていたが、ベルベル人の努力に拍手喝采したい!! 非力な私には真似ができない。

 

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マトマタからドゥーズに移動。

 

二日目も真夜中に覚醒。眠り薬の代用品としてビールを飲むべく受付に電話したが、今回も知らぬが仏なのか応答なし。已むなく下着のまま消灯されていた暗い廊下伝いに受付を目指した。途中レストラン内でコックが二人、朝食の準備をしていた。

 

『ビールが飲みたい』『受付で相談してくれ』『廊下が真っ暗で道が分からない。途中まで案内してくれ』。やっと受付に辿り着いた。

 

『ビールが飲みたい。2本だ』『受付にはない』『待っているから探して来い』と命令した。一人が無数の鍵を手にして何処かへ出かけた。待つこと数分。お金を支払うのもひと仕事。レジの鍵を開け、お釣りを探して一件落着。チップを2ディナール渡してやっとビールを受け取った。チップ込みでも夕食時のビールよりも安かった。彼らは定価を誤魔化すようなことはしなかった。

 

   今度の同室者も起きていた。遠慮していたが、無理やり一緒に飲むことができた。昼間の疲れも手伝い直ぐにまた眠れた。

 

10/31

 

沙漠から登る朝日を鑑賞するためにホテル近くの駱駝ステーションに出かけた。沙漠は放射冷却で寒いとの宣伝に乗せられたからではない。それでも、民族衣装と頭を保護する布を借りた。私は防寒対策完備だったが、現地に来たからにはチップを落とすのは、旅行者の義務と常々考えていた。喜捨の習慣のあるイスラーム世界では、尚更のことだ。

 

660

 

   駱駝に乗るのはパキスタン・エジプト・モロッコに次いで今回で四回目。当地の駱駝使いにとって、商売になるのは早朝の日の出鑑賞の機会のみ。チップ稼ぎに必死だ。あらゆる機会を捉えては写真を撮ってくれる。

 

   駱駝は大変大人しい動物だ。でも、座った状態で客を乗せると、荒々しく一気に立ち上がる。客は振り落とされないように鞍に取り付けられている、目の前の半円形の輪を両手で必死に握って耐える。駱駝は乗ってみると意外に思えるほど身長が高い。

 

   駱駝使いは一人で数頭ずつの駱駝を紐で繋いで歩いた。当地にはモロッコのような高い砂丘はなく、平坦地に近かった。どこまで移動しても周囲の状況は変わらない。しかし、ある程度の距離を移動しないと、ほどほどの駱駝賃が取りにくいのか片道20分くらいは乗った。

 

 

 

 

駱駝から降りて全員一休みしつつ、日の出を待った。駱駝は人を降ろした後はその場所に微動だにせず座り込んで休憩している。

 

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   待ちに待った待望の日の出だ。太陽の直径分の自転時間は丁度二分間。ショーの時間はアッという間だった。

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蛇足。

 

12/14の世界ふしぎ発見で、全ての駱駝は沙漠での休憩時に何故太陽の方角を向いて座り込むのか、とのクイズが出された。日陰もない場所での体力消耗を防ぐには太陽光線を受ける面積が最小になるような姿勢を取るのだそうだ。

 

でも、私はこの説明には疑問を感じた。駱駝は乾燥に対して最強の動物だ。太陽光線に胴体を直交させ、横腹に熱線を浴びても然したる影響があるとは思えないからだ。

 

今回は日の出前だったが、駱駝は勝手な方角を向いて休んでいた。

 

 

   ナツメヤシの実を保護するためか、日本の巨峰の栽培と同じように、簡単な袋で覆われていた。もっと平均気温の高い西アフリカの国での栽培の場合は、袋は見かけなかった。樹勢が最盛期になると一本から250kg/年もの収穫があり、人間一人を養えるそうだ。どこのバザールでも各種の実が売られているが、甘くて大変美味しい。

 

 

669

 

ドゥーズからエル・ジェムに移動。

 

途中のトイレ休憩時に珍しい自噴の温泉に出会った。双六の様な四角の渦巻きに沿って流れて行き、最後に排水されていた。同行者が足湯の体験をしていた。丁度手頃な温度だった。私は靴下を脱いだり履いたりするのが面倒に感じ、足湯はしなかった。

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   エルジェムに到着。35,000人収容の円形闘技場(世界遺産・その②)だ。ローマ・ヴェローナに次ぐ大きさだそうだ。長さ149m、幅124m、高さ36m、アリーナの直径65m。保存状態も良く、3階からの眺めには一目置かざるを得ない。

 

   闘技場と劇場とは似て非なるものだ。ギリシアやその植民地の遺跡にも劇場はあるが、闘技場としては使われていない。人間と猛獣との格闘技などをするためには、猛獣の檻や猛獣を舞台に連れ出す人力エレベータなどそれなりの装置は必須だ。

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エル・ジェムからケロアンへ移動。

 

ケロアンがイスラーム世界では、メッカ・メディナ・エルサレムに次ぐ4番目の聖地とは知らなかった。ケロアン旧市街(世界遺産・その③とその④)を観光。ケロアンにある預言者ムハンマドの友人が眠るシディ・サバブ廟も別格の扱い。

 

 

 

 

 

 

 

680

この日は一人部屋の宿泊。今回の旅では最高のデラックスホテルとは名ばかり。浴槽の栓が閉まらずお湯が貯められない。保守員を呼びつけて一段落。

 

 

 

11/1

 

 

   高さ8m、厚さ2mの頑丈な城壁に守られた大きな門をくぐり抜けると、ケロアンの市街が広がる。

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   グランド・モスクは見るからに壮大だ。信者の汗の結晶だ。

 

 

 

 

   今回の相部屋参加者三人。いずれも定年退職者。旅慣れた人たちだった。楽しく過ごせたことに感謝。長身のイケメンは独身。

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ケロアンからナブールへ移動

 

   ナブールの特産物は陶器。その色鮮やかな陶器製品を眺めていたら、高知の皿鉢(さはち)料理を突然思い出した

 

皿鉢(サハチ)の由来[編集]

皿鉢は「さわち」以外にも、サハチサアチサラチサーチとも言われている。現代の皿鉢の源流である器は室町時代から作られていた。当時の器は比較的深みのある高坏で、浅鉢・深鉢・大皿・大鉢など器に合った名称で呼ばれていた。それらの器が皿鉢と総称され始めたのは江戸時代だと考えられている。土佐藩(現在の高知県)の禁令などに「砂鉢」「皿鉢」と記されており、その他「佐波知」「沙鉢」と当て字された記録もある。

器の種類[編集]

形状は円形ばかりでなく、小判型や矩形など様々で料理に合わせて使用されている。9寸(約27センチ)程度の小ぶりな器もあるが、今日では活け作り以外の皿鉢では一尺三寸(39センチ)がほぼ標準となっている。あまり小さな器は皿鉢と言わなくなっているものの、明確な区分は設けられていない。

 

   私は不定期だが松坂屋豊田店に出かけ、連日18:00から始まる刺身の半額セールの争奪戦に挑戦し一度に1015パック購入している。半額後の平均単価は500/パック。酒の摘みだ。大抵は小皿に移し替えることもなくパックのままお盆に乗せ、炬燵のテーブルに置いてテレビを見ながら、のんびりとビールを飲みつつ食べている。後片付けを簡略化するためだ。でも、何となく侘しい。

 

   お土産屋に並ぶ素晴らしい文様の大皿を発見したとき、衝動買いをした。この大皿に刺身を盛り付け直して、皿鉢料理の雰囲気に変えたくなった。店員が緩衝材として古新聞を使って梱包してくれたが、日本まで持ち帰る途中での破損を恐れた。

 

過去何回か破損の体験がある。仕方がない。悪いとは多少だが思いつつも、最後のホテルで緩衝材としてバスタオルを無断で借り、何重にも包み洗濯袋に無理やり入れた。割れることなく無事帰宅。

 

    あまりの美しさに喜んだ荊妻は飾り皿として、床の間に陳列。飽きが来るのを待つ始末。

 

   小さな一人用の浴槽があった。水風呂なのか、お湯が引かれているのか不明だが、推定している当時の生活水準では極端な贅沢だ。同行の人々は海に強く関心があったのか、こちらのお風呂を見に来る様子がない。海は遺跡ではない。どこでも同じ風景が見られるのに。人それぞれとは言うものの、ここまで彼らは何しに来たのだろうか??

 

 

 

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   この美しい紺碧の海は流石に地中海やエーゲ海の眺め。愛知県の太平洋沿岸の汚さとは対照的。40年以上もの昔、子供を連れて蒲郡にある保険組合直営の保養所に泊まり、歩いて行ける海水浴場に出かけたとき『海はバッチイ』と1歳の長女。こんな印象を残されては海水浴も台無し。

 

その後は少し遠くなったが民宿に泊まり、北陸の水晶浜で海水浴を楽しんだ。しかし、ここほどの美しさと広さには、我がお気に入りだった流石の水晶浜も格落ち。

 

敦賀半島の西側中央に位置し、砂浜からは常神半島が一望できる。砂は粒子が粗く丸い石で敷き詰められており、細かい水晶の上を歩いているような錯覚に陥る。海は遠浅で透明度が高く、北陸地方でも有数の渚として知られている。以上のような理由から日本の砂浜八十八選にも選出されている。

 

敦賀半島に数ある海水浴場の中でももっとも海水浴客の集まる砂浜のひとつである。また、半島西側にあるため「サンセットビーチ」としても人気が高く、夏に限らず夕暮れ時はカップルが集まるデートスポットとしても知名度が高い。

 

ケロアン⇒ケルクアン

 

   ケルクアンもフェニキア人の遺跡(世界遺産・その?)だそうだが、ローマ人の破壊は免れた。フェニキア人の植民地は北アフリカ各地にあったが、ローマ人に破壊されたのはカルタゴだけのようだ。

 

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   料理の美味しさは景色でも変わる気がした。規模こそ異なるものの、晴れた日に我が家の露天風呂が快適に感じるのも同じ理由だ。

 

 

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11/2

ガマルタ⇒ドゥッガ

 

   簡易舗装であっても平坦な土地に建設された高速道路は、日本のように両側の山の斜面の崩落や路肩が崩れるような心配はない。トンネルも不要。建設工事も簡単。

 

   ドゥッガの遺跡はヌミディア・ローマ・ビザンティン複合遺跡(世界遺産・その⑥)として、チュニジア国内では最も保存状態が良いそうだ。

 

 

 

 

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   誇らしげに表示さている世界遺産登録の記念碑。

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   アフリカを感じさせない規模だ。どこでも記念写真を撮りたくなる。これほどの数の列柱を見ると、当時の設計者や石工の努力は産業革命後の世界とは別次元と思わざるを得ない。

 

 

 

 

703

 

 

   

 

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   水洗化された公衆トイレ。下半身丸出しで男女の区別もなく、仲好く使っていたのだろうか? 人間の羞恥心とは環境や習慣で変化するのではないか?

 

   198912月に中国の工場を訪ねたとき、ドアのないトイレに男性作業員がずらりと並んでおしゃべりをしながら排便中だった。真正面から眺めると、仮性包茎が多かったのを思い出す。大きなビデオカメラを担いでいたためか、恥ずかしそうな表情に変わったから撮影せずに大急ぎで退散した。

 

 

 

 

 

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ドゥッガ⇒チュニス

 

   北アフリカ随一のモザイク収蔵数を誇り、アフリカのルーブル美術館と称されるバルドー博物館を見学。

 

   フェニキア・ローマ時代の保存状態の良い数え切れない程のモザイク画が展示されていた。モザイクを最初に考えたのは誰だかわからないが、天然の岩石を小さく砕き、それを貼り付けて絵にする根気にも驚く。

 

  モザイクという手法は室内装飾のために古代の世界各地で使用されていた。シュメールで都市文明が開花したウルク期には、コーン・モザイクと呼ばれる、円錐形の釘状の彩色土器や石(釘の頭の部分を彩色している)を使って神殿などの建築物が装飾されていた。ウルから出土した紀元前2600年から紀元前2400年頃に遡るとされる「ウルのスタンダード」は、持ち運びできるサイズの箱状の木材の各面に、貝殻や赤い石灰岩、青いラピスラズリを埋め込んだモザイクで、軍隊の行進や饗宴の場面が描かれている。マケドニア王国の宮殿のあったギリシアのアイギナ島では紀元前4世紀のモザイク画が発見されており、ヘレニズム様式のヴィラ(別荘)の床を飾っていたものと思われる。

 

モザイクで飾られた床は古代ローマの時代のものが有名で、グレート・ブリテン島からシリア地方ドゥラ・エウロポス北アフリカ一帯に至るまで広い範囲で発掘されており、豪華なモザイク床は贅沢なローマ時代のィラを特徴付けている。ローマ市では、皇帝ネロが建築家たちに命じ、モザイクを使って黄金宮ドムス・アウレア(西暦64着工)の壁や床を覆わせた。

 

4世紀末にキリスト教徒が建築したバシリカ(教会堂)では、床や壁のモザイク装飾はそのままキリスト教の目的のために流用された。キリスト教のモザイク装飾の最も偉大なものは東ローマ帝国の時代に花開き、首都コンスタンティノポリスをはじめ、イタリア支配の拠点ラヴェンナシチリア島の領土でもモザイクが大聖堂を飾った(ビザンティン美術を参照)。特にラヴェンナは「モザイクの首都」とも呼ばれるほど多くの遺産が残り、モザイクの研究や教育もさかんである。サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂サン・ヴィターレ聖堂ガッラ・プラキディア廟堂など世界遺産にも登録された建築群が公開され観光名所になっている。シチリアのヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレでも多数のモザイク画が発掘されており、世界遺産となっている。

 

モザイクは正教会の伝統を受け継ぐ国、例えばロシアなどでも教会や宮殿を飾るのに用いられた。東ローマ帝国のライバル、ヴェネツィアでも、サン・マルコ大聖堂の内外装をモザイクが覆っている。西ヨーロッパでは、労力のかかるフレスコ画の技術が、労働集約的なモザイク技術にかわり建物の壁面装飾の分野で主流になった。

 

イスラム建築では、モザイク技法は複雑な幾何学模様、アラベスクを作るために使われる。中国から伝わった、釉薬で彩ったタイルを用いた手法はモロッコなど北アフリカではゼッリージュ(zillij)、イランなど中東ではカーシャーニ(qashani)またはカーシーと呼ばれる。その最良の例の一つがイスラム教の支配下にあったイベリア半島にあり、アルハンブラ宮殿などに見ることができる。

 

近代においても多くの建築物がモザイクで飾られているが、異色のものはアントニ・ガウディとその弟子ホセ・マリア・ジュジョールが手がけたバルセロナグエル公園であり、動物のオブジェや波打つベンチが色鮮やかなタイルによるモザイクで覆われている。

 

バチカンのサン・ピエトロ大聖堂内の絵画は、遠くから見た時には油絵かと思っていた。接近して見たらモザイク画と気づき驚いた。日本人には何でも真似し改善する国民性があるのに、モザイク画を真似なかったのは何故か、気が短いからなのだろうか、私にはその理由が分からない。

 

大聖堂の壁面を飾るモザイクの装飾・絵画

驚くなかれ、大聖堂では、ドーム、天井から内陣、後陣に至るまで、聖堂を飾る装飾・絵画は、1点の例外を除き、全てモザイクだ!!繰り返す、遠目にはどう見ても油彩画やフレスコ画にしか見えない作品が、ほぼ全てモザイクなのだ。たとえば、ラファエロの「キリストの変容」、大聖堂のものはモザイク製のコピーで、本物はバチカン博物館内の絵画館にある。 

油彩絵画と見分けがつかないのは、中世のモザイクと比べ、17世紀以降大聖堂で採用されたモザイクは技法が進化を遂げ、超微小(ミクロ)なタイル片を開発・使用し、継なぎ目が見えなくなったためだ。加えて、大聖堂のモザイクが「多彩」な点も中世と異なる。 

大聖堂建設・完工に伴い、16世紀末に設けられた大聖堂建物管理局は、早い段階で、壁面は原則としてモザイクで飾るという方針を打ち立てた。そのような思い切った決断をしたのは、フレスコや油彩画が湿気に弱いのに対し、モザイクにはその心配がないからで、新方針のもと、既にフレスコ、油彩画で飾られた壁面も徐々にモザイクで置き換えられた。この結果、大聖堂は、やがて1万平米を優に超える壁面がモザイクで飾られるようになった。 

 

 いつの世男も女に囲まれると嬉しいらしい。ご満悦だ。

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11/3

 

ガマルタ⇒カルタゴ

 

   いよいよ今回の旅のハイライト、カルタゴ(世界遺産・その⑦)に到着。でも、旅の疲れがすっかり蓄積しぐったり。旅の旅程の最初に入れて欲しかった。

 

第一次ポエニ戦役(264年~前241)

第二次ポエニ戦役(218年~前201)

第三次ポエニ戦役(149年~前146)

 

ポエニ戦役の経過期間は百年を超え、優に四世代にも亘る息の長い戦争だ。日米間の太平洋戦争が4年弱で決着したのとは桁違いだ。この両者の戦争を続ける根気には驚愕するばかり。人類の戦争は大局的に見れば、兵器の進歩の影響もあり、決着までの時間は短縮されるばかりだ。

 

ふと、脳裏をよぎったのは『奥の細道の一節だ』。

 

   三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先、高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。


 夏草や兵どもが夢の跡


 卯の花に兼房みゆる白毛かな 曽良

   兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て雨風を凌。暫時千歳の記念とはなれり。

 五月雨の降のこしてや光堂

 

   ローマは恨み骨髄に達したのか、カルタゴに塩を蒔いて不毛の地にしたとの言い伝え(私には作り話に思えるが・・・)がある。でも、カルタゴの地はローマ帝国によって100年後に復興され、ローマ帝国ではローマ・アレクサンドリアに次ぐ大都市となったそうだ。

   

   美しく塗装された町並み。清掃も行き届いている。さすがは観光都市。

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我が右目は『眼瞼下垂』なのかもしれない。視界に異常は感じられなかったが、写真を見て疑問になった。日頃は毎朝の髭剃りで顔を覗くだけ。今まで気がつかなかった。

 

今日の巨大なコンテナ港とは異なるが、丘の上からの市街や港の眺望も観光資源の一つのようだ。

 

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   遺跡の無数の破片が集められていた。

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   アントニヌスの共同浴場。更衣室・温浴風呂・水風呂・サウナ・プール・噴水・談話室・トイレなど100を超える部屋があったとか。今日各地に乱立しているスーパー銭湯よりも遥かに立派だ。その耐久性に至っては月と鼈(すっぽん)。これらの設備の維持・管理は奴隷の仕事だったのだろうか??

 

 

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   カタール空港で合流した今回の添乗員。結婚もせずに頑張っているのは、海外旅行がよほど好きなのだろうか?

 

 

 

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   同行者の中のピカイチ美人。

 

『目の周りに毛虫のような部品をつけて飾るなんて、クレオパトラのような美人ですね』と言ったら

『眉毛には付け毛は貼り付けずに、ペンキを塗るだけですよ』と教えてくれた。荊妻は顔面装飾にはさして関心がないらしく、我が勉強不足だった。

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   奇妙な木を発見。葉はそら豆のように全て上に向かっていた。老人の持ち物は重力に抵抗する力もなく、素直に垂れ下がっているのとは対照的だ。強い生命力を感じた。

 

 

 

 

 

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   観光地でしばしば見かける写真撮影用の頭部のない置物だ。大昔の彫刻が活用されていた。

 

 

 

 

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   カルタゴの中心部の神殿などが復元・展示されていた。当時の繁栄が忍ばれる。

 

 

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  相部屋で同室になった仲間。彼は女性を楽しませる特異な才能の持ち主。私にはとても真似ができない技だ。氏のおかげで何人かの老婆とも話が弾んだ。感謝。

 

   写真を眺めると彼の生き生きとした若さとは対照的に、すっかり旅で草臥れ果てた我が表情が情けない。

 

 

 

チュニス発 15:00 QR1400 ⇒ 22:10 ドーハ着(所要時間 5時間10)

 

昼食は離陸2時間後、遅めの機内食。でも、疲れてくると食欲も湧かない。ほんの少しだけ摘み食い。

 

 

 

11/4

   ドーハ発 01:45 QR802⇒ 17:00 関空着(所要時間 9時間15)

 

   この日は移動だけだが、国際線の到着予定時刻は変更になることもあり、南海電車や近鉄特急の予約は取らず成り行き任せだった。

 

   定刻に関空に到着。荊妻はこの日は旅行中。難波駅構内で夕食用の握り寿司弁当を調達。近鉄名古屋駅からは地下鉄⇒名鉄豊田新線と乗り継いで名鉄豊田市駅に23:45頃到着。タクシーで帰宅したが我が家の玄関は2階。ドライバーにお願いしてカバンを2階まで持ち上げていただいた。感謝。

 

   やっと我がお気に入りの、鋳物ホーロー製風呂にて旅の疲れを流し、大好きなサントリーのプレミアム・モルツを2缶ガブ飲みしたら、たちまち酔いが回り爆睡。

 

おわりに

 

① 今後の計画

 

   101ヶ国の目標に到達したら、友人や知人から『今後の海外旅行計画は?』と矢継ぎ早の質問を受けた。我がゴルフ仲間には150ヶ国を目標にしている者もいるが、がんで闘病中の私には時間とお金が無限にあっても、そのような発想は生まれない。関心のない国に出かけるよりも、埴生の宿でビールを飲みながら、世界の珍味を少しだけ食べて昼寝をするほうがリラックスもできて楽しいからだ。

 

   とは言え、行きたい国が若干だがまだ残っている。体が動ける余生は後五年。春秋の2回に旅行すると最大でも10ヶ国だが、除夜の鐘とか加齢とともに消滅した煩悩に合わせて108ヶ国を目標にしたい。最初に行きたいのはアケメネス朝ペルシアの遺跡、ペルセポリスだ。

 

   2001911日に発生した New York のテロ直前には、イランのビザも取得し旅行の準備も完了していたのに、旅行社は安全のために急遽催行を取りやめた。振り込んだ旅費は返還されたが、僅かな金額とは言えビザ代とその取得手数料は丸損だった。

 

   イラン周辺では当分政治情勢は不安定のままだが、がんと闘いつつ生き延びている私には待ちきれない。旅行催行各社から毎月のように送られてくる旅行企画案内を検討中だ。

 

   ペルシア旅行のもう一つの楽しみは現地でのペルシア絨毯の購入。今までにも天津(中国)・ベトナムやエジプトの分厚い絨毯・パキスタンの絹と純毛の糸を使い分けた絨毯(薄くて1畳大⇒冬期の玄関マットに)・中央アジアの手織りの薄い絨毯(客間のカリン材製座卓のテーブルクロスに)・ペルーのアルパカの毛皮をパッチワークのように縫い合わせ、雄大な姿で飛翔しているコンドルを描いた2畳大の絨毯・ニュージーランドの羊8頭分の純白の毛皮を縫い合わせたムートンの絨毯・ヘレケ(トルコ)の絹の手織りの絨毯などを買い求めたものの、残念ながらペルシア絨毯を買う機会は未だ無く・・・。

 

   もちろん、デパートでいつでもペルシア絨毯を買うことはできるが、私は旅の記念としてその国のバザールで値引きの駆け引きも楽しみながら買いたいのだ。中でもペルシア絨毯はヘレケのトルコ絨毯と世界一を競い合う品質を誇っているから尚更買いたいのだ。両者の高級品は共に絨毯とは言うものの、床に敷くもの(足の裏が腫れるぞと脅された)ではなく、タペストリーとして壁に飾るものである。予算は僅か20万円程度だが・・・。

 

   欧州の先進各国への関心は数年前にすっかり失った。世界遺産のかなりの部分は単なる古さを自慢しているだけの修道院や名前だけが大げさな大聖堂。キリスト教国関係者の我田引水じみたお手盛り登録が多く、見れば見るほど宗教界に搾取された庶民の苦しみが連想されて、不愉快になるだけだ。

 

かつては我が憧れの国々だったが、一見豊かそうに感じられる生活水準も外面(そとづら)だけ。衣食住を多面的に知るに連れて、その実質的な貧困さに気づいたからでもある。歴史的には国民の僅か2%しかいない貴族と富裕層に富と所得は集中。大勢の国民はその日暮らしのまま。

 

今や中東各国のイスラーム文化圏の遺跡にも関心がなくなりかけた。遺跡が余りにも似通って、期待外れでがっかりするのも一因だ。飲食の習慣(禁酒・豚肉禁止)は異教徒には強制こそされないが青春時代の禁欲に似て、短期間とはいえ我慢させられるのも辛い。

 

残っているのはパプアニューギニアなど、最後の秘境社会(観光客用に祭りの踊りなどが再現されているだけ、とは承知しているが・・・)と、体力が衰えた時に出かける予定で後回しにしていた時差の小さい近隣諸国、例えばインドシナ半島周辺の仏教やヒンドゥー教の遺跡巡りだ。カンボジア・ラオス・ミャンマー・インドネシア(ボロブドールやバリ島)

 

その他、宗教の支配力が未だに強いブータンやネパールなど、物質的には明らかに貧困なのに、敬虔な人々が幸せそうに生きている実情を目の当たりにしたいとの願いも大きい。

 

② 仙人生活に突進

 

   長年に亘る海外旅行の目標も達成し、ほっと一息付いた今、余生の過ごし方や楽しみ方を大きく変え始めた。断捨離の強化(本質的には死ぬ準備と同じ)と快適な仙人生活での創意工夫だ。

 

① 江戸時代の生活

 

  鉄道やバスなどの交通機関のなかった江戸時代の庶民の生活圏は5km以内と推定。我が幼児期や小学生時代と同じだ。外泊は母に連れられて徒歩で出かけた親戚巡り(国民学校に入学したら、出かけられないからねと言われて。当時我が懐かしの郷里福岡県遠賀郡遠賀村に幼稚園はなかった)

 

福岡県外に出かけたのは小学校4年が終わった春休み(昭和243)に、父に連れられての日帰り秋芳洞(山口県)と修学旅行に出かけた別府温泉(大分県)の一泊旅行だけだ。外の世界は知らぬが仏、それでも私はブータンの人と同じように幸せだった。

 

   今や、我が生活圏は江戸時代並の狭さに舞い戻ったが、日々の仙人生活には超満足している。過去半世紀の間に、森進一の襟裳岬の歌詞のように何にもなかった我が生活圏豊田市も、トヨタ自動車の成長とともに快適な環境に進化発展し、ひとり暮らしでも何一つ不自由しなくなった。松尾芭蕉の『秋深き、隣は何をする人ぞ』そのものだ。近所付き合いは絶無。

 

 元禄7928日作、51歳。この夜は芭蕉最後の俳席が畦止(けいし)亭で開かれた。翌29日も、芝柏亭に場所を移して同様の俳筵が巻かれることになっていた。しかし芭蕉は体調悪く、参加できないと考えてこの句を芝柏亭に書き送った。芭蕉が起きて創作した最後の作品であり、29日から死の1012日までついに芭蕉は起きなかった。芭蕉絶唱の最高の秀句の一つである。

 

② 楽しきかな、自給自足

 

   狭隘な敷地でも工夫をすればミニ楽園に変えられる。敷地の一角の僅か20坪は豊田市固定資産課に申請して宅地内農地として分筆登記。固定資産税が1%下がった⇒ビール大瓶1本分だが、気持ちの上では100本分・・・。完熟牛糞堆肥・苦土石灰・培養土を毎年大量に投入したら立派な黒土の畑に変わった。年間50種を超える春・夏野菜や秋・冬野菜の種蒔きや移植。老人と老婆の二人暮らしでは食べきれない。

 

   中でもお気に入りは自然薯の『むかご』だ。地下の根を掘るために大きくて重たい専用の道具(耳垢取りを巨大化したような鉄製の棒を2本組み合わせた最新型)を購入し、当初は二時間も掛けながらたった一本の自然薯を折らずに掘り出していたが、体力の衰退とともに諦めた。

 

山で手掘りした本物の1m大の自然薯が一本5,000円もする理由も理解できた。さりとてパイプ栽培(見せかけの姿は似ていても、構成成分は違っている筈と独断)の安物自然薯(2,000)は食べたくもない。今では方針を変更し、むかご採りに専念。一本の自然薯の蔓から何回でも収穫すると優に5Kg(累積重量は根よりも重くなる)に達する⇒冷凍保管。中でもむかご飯は大好物だ。

 

芝生を植えた庭の周辺には目隠し用の貝塚伊吹以外に、ブルーベリー・甘夏・柚・カボス・桑(マルベリー)・アケビ・ムベ・キュウイフルーツ・グミ・温州みかん・金柑・イチジク・木苺・ユスラウメ⇒ピンクのユスラウメ酒・柿・蕗・ツワブキ⇒キャラ蕗・タラの芽(天麩羅にはせずサラダで喫食)・山ウド・・・。

 

山菜の女王と言われて久しい『コシアブラ』の苗を通販で購入し、3回も移植に挑戦したが全て失敗。残念無念。しかし、タラの芽は竹と同じように根が横に一直線に伸び、次々と筍のように新しい木が育ってくるので超満足し、コシアブラの失敗を補ってくれた。

 

実は小さくてもブルーベリーだって、たったの一本から累積10kgも収穫できるから冷凍保存。ムベも200個以上も収穫できる。ムベを知らない人もいたからびっくり。珍しいからお土産には最適だ。

 

しかし、木々の剪定作業は大変。梯子からの転落事故を恐れて、シルバーセンターのお爺さんたちに毎年一月に依頼。時給僅か1,155(加算された5%55円は事務経費)で働いてくれるから、細々と生きている年金生活者には天祐神助(てんゆうしんじょ)だ。剪定後には400kgのゴミが発生するが、シルバーのお爺さん達は軽四輪トラックを持っており、豊田市指定の焼却場まで運んでくれるのも助かる。

 

   農作業などの肉体労働を癒すのはテラスに作った露天風呂。冬場の快晴の日は最高。少し熱めの43(一時間後は41℃まで自然に下がる)にし、一時間のんびり過ごすと体中から老廃物が汗とともに吐き出される。微風が体に当たる時の爽やかさは言語では表せない快適さだ。

 

風呂上がりには庭の椅子にフルチン(全裸の意)で座り、火照った裸体を冷やしながら、花壇の花や鬱蒼と茂る野菜を眺めつつビールを賞味すると、これぞ正しく極楽浄土か天国かと思えるのだ。快適な余生を満喫するのにお金は不要だ。

 

   温泉は世界中にあるが、男女ともに全裸で入れるのは日本だけ(最近は韓・台などにも普及し始めたが少数派)。海外では水着の着用を義務付けられる(混浴とは言え私は、太った中古品の熟女や皺だらけの老婆の裸体などは見たくもない)。でも、動物界は全てフルチンの世界。もっともリラックスできるのは母胎の中での胎児と同じフルチンと断定。

 

日本の温泉旅館の大浴場や露天風呂にフルチン禁止令(徳川将軍ならばいさ知らず、現代の総理大臣の権限程度では不可能と断定しているが・・・)が発布されると一気に客が減り、観光ホテルの倒産は確実と私は予想している。

 

③ 古希を超えてからの余生

 

   あちこちの家庭で発生している老人・老婆の二人暮らしに波風が立つ理由に気づいた。専業主婦は子育てが終わると、昼間の八時間が完全なる自由時間になる。自宅で同居しているだけの居候の様な老人に、まともな昼食を用意するのが面倒になるらしい。

 

   トヨタ同期の知人は奥様に在宅率を管理され始めた。昼間は外出してボランティア活動をするようになったそうだ。大学後輩の一人は、奥様との約束で昼食は全部外食にした。予算は1,000円。豊田市内の100もの飲食店を廻り、お気に入りの店をいくつも見つけたそうだ。ところが奥様が最近、私も外食がしたいと言ってくっついて来るようになり、昼食費が二倍になったとぼやく・・・。

 

   私は荊妻不在の日は外食にすべく、回転寿司のスシロー・丸亀製麺の釜揚げ讃岐うどん・リンガーハットの長崎チャンポン・セブンイレブンのおでんがお気入りになった。食が細い私は1食500円程度だ。しかし、お気に入りのラーメンが見つからない。豚骨とか鶏ガラスープのラーメンは肉屋の廃棄物処理品だ。気分が悪くなる。それに麺と言いながら、うどん(稲庭うどんや讃岐うどん)や蕎麦(香りが命・朝挽き⇒十割蕎麦)のような美味しい麺の技術開発もロクスッポしていない。

 

   雨降りには外出が億劫だ。しかし、宅配食が豊田市でも今や普及開始。少食の私には品数の少なさと一食単位の注文でも受け付けて、手渡ししてくれるセブンイレブンを選択。人気抜群のワタミは日配とは言え最低五日分からの一括注文だから敬遠。必要なものを必要な時に必要なだけ配達してくれる『トヨタ生産方式』そのもののセブンイレブンは、正しく我がお気に入りだ。

④ 飲食管理

 

   高齢化社会の影響か、マスコミには健康食品と称する各種のサプリメントの広告が溢れているが、私は一度も口にしたことがない。全ての食材は体内で消化され、消化器官から吸収され人体に必須な物質へと再合成される。猿の網膜を食べても、黒内障が治るわけがない。サプリメントに価値があるならば、その原料を直接食べれば加工費分だけは安上がりだ。

 

酒は百薬の長。がんにかかる前は毎日ビールの大瓶を3本飲んでいた(帰宅するや否やお茶代わりに一本、入浴後に一本、寝る前に一本。でも、遺伝子検査(31,500)をしたら酒には弱いが飲んでいる内に少し強くなるMNタイプと判明⇒このタイプが食道がんに最も罹り易いと知ったが後の祭り)。主治医からは禁酒を勧められたが、貴重なアドバイスとは理解しつつも拒否。自己判断の適量(大瓶は中止⇒上限は朝昼夕の缶ビール各1)を飲み続けている。

 

   胃がんの手術で胃の2/3を切除した私は三度の食事だけでは栄養不足。毎日1,2度はタンパク質中心の間食を心がけて来た。その結果だろうか、コレステロールが増加した。がんのサードオピニオンの医師と相談⇒医師は院内の内科医と相談。薬(リバロ)を飲んだらコレステロールは正常化。間食を止めるか、止めずに薬を飲むかの選択を迫られたが、私はどうせ限られた命、薬を死ぬまで飲み続けることにした。

 

⑤ がんとの闘い

 

   平成141219日に胃がんの手術をして以来、丁度11年経過。その間に5回入院治療したが、最後の手術(平成20618日、食道がんの摘出)から5年半経過。あと4年半は今までと同様3ヵ月間隔で愛知県がんセンターにて各種検査を続行予定。同じ資料でセカンドオピニオン⇒サードオピニオンの名医にも診断を仰いでいる。

 

   今春は兵庫県立粒子線医療センター長のセカンドオピニオンの医師(元主治医・愛知県がんセンター副院長)から拙宅まで電話による指示。『毎年一回PETを受けるように』とのアドバイス。PETは過去10回も受けたが一度も私のがんの発見はできなかった。しかし、ダメ元で受けた。鳴り物入りで喧伝されたPETにも弱点があると判明。従来法と参考までに併用するだけだ。

 

更に今春には『脳腫瘍・脳梗塞・動脈瘤・脳萎縮の疑いがある。がんの疑いが濃厚』と言い張って、主治医を通じて15年振りに脳ドックを受けた(主治医からの依頼ならば、自己負担は三割に軽減される)が、読影医師に『棚落ちもしていない高級スイカ並み。何の異常もない』と自信たっぷりに言われて気合抜け。

 

⑥ 埴生の宿も我が宿

 

   我が家は昭和49127日に新築入居以来39年経過。100年の耐久性を目標にし、装重量450トンの現場打ち鉄筋コンクリート三階建・全館冷暖房を自慢していたが、徐々に綻びが目立ち始めた。

 

11年前に思い切ってリフォーム。水回りの機器(風呂・キッチンセット・洗面台・トイレ)は更新、内装も更新、薄汚れてきた外壁は防水塗装。エアコンの性能も向上したので、セントラル冷房用のクーリングタワー・チラー(冷水製造機)・冷却水循環ポンプは撤去。都市ガスは契約解除。給湯(小型ボイラー)とセントラル暖房(大型ボイラー)以外は安全を期してすべて電化し、80Aの契約に変更。

 

   10年一昔とはよく言ったものだ。今夏から少しずつミニ・リフォームを開始。

 

網戸・・・戸車が摩耗して開閉がぎこちなくなった。アルミの枠も一緒に更新したら動きもスムーズになった。

 

ガラス窓・・・障子を撤去し、真空ペアガラスを嵌め込んだ樹脂被覆製サッシに変更。防音・断熱性能が格段に良くなった。超寒がり屋の私には30℃の温室生活には超満足。

 

壁の亀裂・・・外壁の数ヶ所にひび割れを発見。放置すれば雨水が浸透し鉄筋が錆びると予想し、防水工事を実施。職人は周辺の壁との色合わせ(カラーマッチング)が難しいとブツブツ。

 

鉄製手すりの塗装・・・10年置きに再塗装してきた。塗膜が部分的に剥がれ始めた。全長61.5mを再塗装。7社から相見積もりを取ったら、税込で何と89,000653,835円までバラついた。工事内容も大同小異、耐久性は何れも10年程度なのに。

 

墓や花壇造成など色んなミニ工事を計画した時の見積もりのバラツキは23倍程度だったが、今回の結果には驚いた。納得性のある見積に出会うまでは見積依頼先を追加するのが我が常套手段。一見の客・素人の客から暴利を貪りたがる輩が多すぎる。これが日本の悲しい現実だ。

 

玄関のドア・・・周辺の新築住宅のドアと比べると見劣りすると荊妻がブツブツ。最新型に取り替えた。LIXIL(旧社名はトステム)のカタログから選んだドアを指定し、6社から相見積もりを取り寄せたら、税込で300,000514,584円までバラついた。

 

   露天風呂から眺めた晩秋からの芝生は枯れ果てて美観がない。半信半疑で洋芝の種を二年前に1kg蒔いたが発芽率が低くて失敗。再度1kg蒔いたら、今年は雨が多かったためか青々と茂ってきた。しかし、一部不満なところもあり再々挑戦の予定。今後は一年中、毎週一回(冬季の回数は半減)の芝刈りが必須のようだ。でも、イタリア製二馬力の電気芝刈り機は快調(後片付けを入れても30分で完了)なので苦にはならない。

 

   ベランダに農機具が散乱して見苦しい。我がテニス友達は大工に頼んで100万円の農機具小屋を作ったそうだが、私は建物の壁面に農機具を吊るせるアルミ製の簡単な枠を取り付けることにした。鍬・スコップ・備中・杭打ち用の掛矢・レーキ・金属製箒・・・。設計は面倒なので職人に一任。

 

   築39年経過し古くなったと言って改築する必要性は全く感じない。どんなに立派な家を建てても普段の手入れを怠れば住みにくくなるものだ。在宅時間が長くなった今、私は家内外の粗(あら)探しを楽しみながらミニ・リフォームを続ける予定だ。そうすればするほど、家にも愛着が湧いてくる。子育てと同じだ。


 さらば、晴耕雨読

 

   『晴耕雨読』が引退後の人生の最高の生き方のように、大昔から喧伝されているが、私にはその真似をする気は全く起きない。わが余生には新聞・雑誌・書籍を読むニーズがない。無理に読んでも共感することが少なく、人生の浪費に感じるだけだ。新聞は付録のチラシ欲しさから朝日の朝刊だけ。土・日のみ日経の朝刊を購読。投資信託や株式などの統計データを見るためだ。

 

   新聞記事は各新聞社のホームページに出ているタイトルを読むだけで中身は連想できるし、週刊誌は新聞下欄の広告に記載されている目次のタイトルを見るだけだ。記事を読むのは時間の無駄と判断している(マスコミ関係者の知識レベルの低さと洞察力の無さに辟易しているのも一因)。こんな生活でも何一つ困ることはない。

 

   雨読の代わりはテレビの録画再生視聴だ。平均すれば毎日20タイトル録画し、二時間で視聴完了。映像番組中心なので5~10倍速・無声で視聴。ドラマや音楽番組は実時間(11.3倍速)での視聴を迫られるので拒否。中身に関心があるときのみ、世界ふしぎ発見・笑点・NHKや日経スベシヤルなどを見る程度に留めている。夫婦間のチャンネル争いは無駄。荊妻は別室で自分のテレビを見ている。

 

⑧ 断捨離の徹底⇒そのゴールは死ぬ準備

 

   今年私は数えの77歳。でも古稀から日も浅く喜寿のお祝いをする気持ちは起きない。がんの再発・新発もなく3年後の傘寿まで幸運にも生きていたら、子・孫も豪華ホテル(第一候補は和倉温泉の加賀屋)に呼んで、古希のお祝いと同額の100万円の予算で我が人生を祝福したい。使い残した予算は古希の時と同じように荊妻・子・孫のお小遣いにばら撒く予定。

 

   そのためにも断捨離は何としてでも後三年間で完了予定だ。

 

断捨離(だんしゃり)とは、不要なモノなどの数を減らし、生活や人生に調和をもたらそうとする生活術や処世術のこと。

概要[編集]

基本的にはヨガの行法、「断行(だんぎょう)」、「捨行(しゃぎょう)」、「離行(りぎょう)」という考え方を応用して、人生日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという考え方、生き方、処世術である。単なる「片づけ」や「整理整頓」とは一線を引くという。

断=入ってくる要らない物を断つ

捨=家にずっとある要らない物を捨てる

離=物への執着から離れる

やましたひでこの著書が発表されて話題になり、この考え方が人々に広く知られるようになった。

やましたひでこの著書群の説明によると、おおむね次のようなものである。日本では伝統的に「もったいない」という観念・考え方があるが、(これはこれでひとつの考え方・価値観ではあるが)この考え方が行きすぎると、物を捨てることができなくなり、やがて、すでに使わなくなったモノ、将来も使うはずがないモノなどが、家・部屋の中に次第に増えてゆき、やがては自分が快適に居るための空間までが圧迫され、狭くなり、また人は膨大なモノを扱うのに日々 膨大な時間や気力を奪われるようになってしまい、知らず知らずのうちに大きな重荷となっていて、心身の健康を害するほどになってしまう。断捨離は、こうした「もったいない」の観念(固定観念思い込み)にとりつかれて凝り固まってしまった心を、ヨガの行法を応用して解きほぐし、知らずに自分自身で作り出してしまっている重荷からの開放を図り、快適な生活・人生をとりもどすための方法である。

やましたひでこの著書の後、様々な著者によって、断捨離の考え方を扱った本が出版されるようになった。さらに自分と物との関係だけでなく、仕事のすすめかた[1]、人との関係(人間関係)にも断捨離を実践することをすすめる書物[2][3]なども出版されるようになった。この流れを受けて、著者のやましたは、「断捨離」という言葉を商標登録している。

「断・捨・離」は2010年の流行語にも選ばれた。近年では断捨離を実践する人を「断捨離アン[4]」「ダンシャリアン」などと呼ぶことがある。 [ 1]

 

   断捨離は2010年には流行語にもなった簡潔な言葉だが、昔から多くの人が実践していた人生の指針の一つだ。

 

書籍の処分・・・15年前の定年退職時(1998)に厚さ50m分の本を破棄した。爾来なんの支障も感じなかった。印刷技術の発達により必要になればいつでも本は安く買える時代だ。残りの本も全部処分する予定だ。

 

名刺の処分・・・業務上出会った方々の名刺も不要と判断し、厚さ1mにも達していた名刺を全部処分した。もちろん何の支障も発生しなかった。

 

夜具の処分・・・1998年秋に次女が結婚。老人と老婆の二人暮らしに戻った。押し入れの大部分は来客用の夜具が占めていたが、子・孫の来宅宿泊用にと一家族分の夜具を残して残りは破棄した。

 

電化製品の破棄・・・いつの間にか使わなくなった電化製品が蓄積された。大きな倉庫(棚面積延べ24)を作ったのが失敗の元。2013年夏、外国人業者から電化製品は無料で引き取るとのチラシを貰った。綺麗さっぱり一掃できた。彼らは輸出するらしい。

 

衣類の破棄・・・ネクタイを締めて正装する機会は年に数回以下になった。背広(夏・合・冬)・ジャケット(春・夏・秋、冬用は革ジャン)・礼服(夏・冬)・コート()とモーニングを残して、残りは処分。タンスやクローゼットが大変使い易くなった。がん寛解後に体重を4kg増量したが衣類は伸縮性に富んでいるのか、何の支障もなかった。

 

今後、新調する予定は全くない。唯一の不満は、松坂屋でオーダーした3万円/着のシャツのボタンが嵌めにくくなったことだ。首周りが1cmも大きくなるとは予想外だった。私は皿尻が少しは膨らむ筈と期待していたのに!

 

災害対策・・・行政はマスコミを介して災害時の非常食の準備を勧めているが、私は全く準備する気がない。関西淡路や東日本大地震の死者は圧死・焼死・溺死であり、餓死者はいない。唯一の心配は断水だが、私はビールで十分。海外旅行中、生水が危険な国ではビールを飲んだ。ビールは加熱処理されており最も安全な飲料だ。

 

交友関係の縮小・・・小・中・高・大学・トヨタ同期・社内の各種グループ合計15の懇親会や忘年会などは全て、数年前から欠席している。残しているのはテニス・ゴルフ(ロイヤルと加茂の二つ)・温泉旅行仲間。合計四つ。今年の年賀状は15(人生でお世話になった、パソコンも使わない超高齢者)

 

   私はトヨタ自動車に入社して定年退職するまで、無数の上司(係長~副社長まで)から君付けで名前を呼ばれた記憶がない。業務の上で名前を呼ぶニーズも不思議に感じるほどないのだ。でも、馬鹿丸出しを自認している私よりも、下には下がいるものだ。私に向かって君付けで話しかけたり、メールで『・・・よろしく』と書く輩だ。目線を高くしたがる馬鹿な輩とは一切付き合わない。交友関係は相互に尊敬し会える仲間に限っている。

 

   それにしても日本人の敬語の使い方能力の低さには驚愕(英語にだって敬語による品位ある表現の習慣があるのに、使えない馬鹿はうようよ)。社員が社長に報告書で『・・・よろしく』と書くはずがないし、総理が天皇陛下に『・・・よろしく』と言うはずがない。この場合にはどんな馬鹿でも無礼と気づくのに、私へのメールには『・・・よろしく』と平気で書くのは究極の馬鹿の典型例だ。

 

食材の選択・・・缶詰・熱処理をしているインスタント加工食品は一切食べない。これらに共通する欠点は高温加熱時に発生する異臭だ。食べ物の美味しさには味覚センサーで測定できる食味の他に香りがあるが、熱処理加工食品には異臭はあっても香りがない。ワイン・ウイスキー・ブランデー・純米大吟醸酒も香りが命だ。

 

世界的に普及しているインスタント・ラーメンは最も嫌いな食べ物だ。宮内庁大膳課の専任コックが天皇陛下に提供している筈がない。

 

   私は素材に何が含まれているか分からないハンバーグ・ギョーザ・魚肉ソーセージは一切食べない。我が酒の摘みの主力食品は単品素材だ。

 

刺身・牛のヒレ肉(メキシコ産の安価な1kgのブロック⇒5cm厚に切ってステーキに)・生ハム(スペインやイタリア産)・チーズ(欧州産)・馬刺し(カナダ産)・紅鮭(ロシア産。1月に専用装置を使い、自分で1年分を1週間かけてスモーク)・果物や家庭菜園の野菜だ。複合素材で唯一食べるのは欧州産のサラミソーセージだけだ。それだけに松坂屋豊田店での18:00に開始される刺身の半額セールの争奪戦に挑戦するのは生き甲斐の一つだ。

 

   賢人各位の余生の生き方と対比しながらの、辛辣な批判をも含む読後感を拝受するのが旅行記を書いた後の何よりの楽しみだ。

 

読後感

1週間ほどの旅行に80数ページの旅行記を執筆されるとは!記憶力と博識に敬意を表します。

1.サフランをお土産に頂戴し、感激しました。小さな雌しべを指先で摘み、乾燥して作るのですから人手のほどは想像を絶します。日本では高価に違いありません。

サフランティーにして飲みました。味覚嗅覚が衰えている私にはコーヒーや紅茶ほどのパンチはありませんでしたが、とにかくきれい!桜茶と比べ物になりません。
家内は混ぜご飯に入れるとどうかなと云っていました。

2.[日本人は仲間同志にはそれなりの付き合いをするが、団体旅行で知り合った程度の仲間や増して外国人には何かのついでに奢る人は少ない」とのご指摘に、全く同感。私もその通りです。日本は外国からの観光客を増やしたいとしているが、少なからぬハンディーになりますね。

3.「日本人の旅のスタイルが変わった。小学生のようにリュックを背負っている」とのお話に、私も当初 違和感を覚えました。

昔は、余所行きスタイルで浮き浮きした雰囲気があったが、最近はリュックに脚絆こそ巻いていないが、山菜取りにでも行く感じ。

しかし、我ながら慣れてしまえば他からなんと思われようとこのほうが楽だ。社会のためには余所眼も必要と思うが。

4.石松さんの旅行記は世界地図を片手にして読みます。今回は私所有の地図に載っていない都市名が多かった。

「ケロアン」もその一つ。ところが「カイルワン」の横にkairouanの添え字・・・これだ!かたかなの表示が無いほうが見つけやすかったのに!

5.石松さんの娘さんが「海はバッチイ」と。

私の生れは富山県で、岐阜県寄りの山の麓の町です。小学校低学年の時(第2次世界大戦開戦直後)初めて海水浴に連れて行ってもらいました。

城端線から高岡で氷見線に乗り換え伏木を過ぎ雨晴らしに近づいた頃、満員列車の窓から海が見えた。ワーと歓声が上がった。
「海は広いな大きいな、月が昇るし日が沈む」から想像していた海は、ほんとに大きいしこんなにきれいとは!絶句。

① トヨタ先輩・工・ゴルフ・テニス・温泉旅行仲間・敬妻・愛妻・恐妻家

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いつもホーム頁を読ませて頂き、パワーを貰っております。

大願達成おめでとうございます。老にして、不可能な目標を立て、達成せられ、まったく感心しております。世の高齢者に広く、知らしめて頂きたいと思います。また、自由奔放な余生の過ごし方に、深く感銘を受けております。

小生も趣味”10”の全てに上級を狙っており、家内から変人扱いを受けておりますが、 人様に迷惑をかけない限り、達成したく頑張っております。

老人クラブの会長を長く務めておりますと、つくずく人生の成功者とは老後のゴールデンタイム(金、暇あり、上司など気遣いなし)を悔いなく、楽しく過ごす方と思います。 (退職前は、偉く、威張っておられた方でも、惨めな余生を送っておられる方が多くおられます)

しかしながら、寿命は天の決めることです。後、数十年生きられるかもしれません。最期まで過去に浸ることなく、前向きに、健康で過ごされることをお祈りします。

② トヨタ後輩・法・ゴルフ仲間・多芸多能・豊田市先住民の頑張り屋に私は完敗。

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 チュニジア旅行記、拝読しました。

 いやはや、毎度のことですが石松さんのどこが「細々と生きている年金生活者」なんだろうと思います。

 余生の過ごし方、サイコーですね。そういう過ごし方が一番です。私も出来るだけ早く人間的しがらみなどを最小限にして石松さんのような過ごし方をしたいと思っています。

③ 医・世界的な病理学者・超野球界通・著書多数・でもお会いしたこともない方

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Tunisia編の旅行記を拝見しました。

逞しく過ごされているご様子に感服するばかりです。私は心臓、腰などに問題を抱えていますが、石松さんの気力を見習って余生を過ごしていきたいと思います。

季節の良い時には、吉村さん、魚住さんに時々ゴルフで遊んで貰っています。

それにしても、『世界百余国漫遊大居士』とは粋な戒名。高い金を払わずに自前で「居士」と名乗るところに価値がありますね。

「居士」は「裕福な人」の呼称でもあるようですが石松さんにピッタリですね。  

④ トヨタ後輩・工・若いころ、現在のトヨタ会長内山田氏他と一緒に私の仕事を支えてくれた英才の一人

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   何時もながら、旅行記の量に感心します。特に、今回は石松さんの外国旅行の一応の 区切りということもあり、旅行記の量に圧倒されます。

   私が書いた場合のことを考え合わせると、この量の旅行記をタイプするだけでも、長時間が必要です。その上に文章も考える必要、さらに書いたことが常識的にマーマー通用するかの検討にも、記憶力保持がものを言いますね。

   石松さんの記憶力保持の好例として、石松さんが高校の時に習った世界史の授業のことが書かれている部分を引用します―世界史の先生は博覧強記の見本のような超物知り。教科書はあったが無視され、戦争の講義に何時も没頭。古代史で超有名なポエニ戦役の説明には何と100分間―私も同じ先生に習って、確かポエニ戦争をうろ覚えに思い出しますが、石松さんの様な具体的なことはとても思い出せません。

   さて、石松さんは私の読後感が具体性に欠けるとのご不満をお持ちのように感じますが、これは以下の様な状況があります。

   アラブ圏ではアルコール摂取が難しいことは常識なのでしょう。石松さんもアルコールを飲むために色々試みた。その流れから、この旅行記で毎晩のように深夜ビールを飲んだ話が出てくると推察します。

   しかしこの旅行記の内容を具体的に自分の体験と照らし合わせるのは無理です。と いうのは、私はアラブ圏もアフリカも経験無し。アジアでも行ったのは中国、台湾、韓国のみ。アメリカにはハワイ、グアムを含めて1度も行っていない。

   この出不精は、夜寝具が不足すると風邪を引く。寝具過多だとやがて汗をかいて、寝間着を取り替えないと寒くなってやはり風邪を引くからです。風邪を引きやすいという最も初歩的な健康問題から、多くの楽しみを放棄してきた私に比べると、5回もの原発性癌を克服しながら、何度も国内外を旅行してきた石松さんには頭が下がります。

   癌以上に恐いのが認知症だそうです。これだけ詳しい旅行記を書くには旅行中克明にメモを取っている(出発時にはメモを取る気でいましたが、夕食時に仲間と一緒に飲酒すると酔いが回り、疲れも手伝って結局メモ取りは放棄していました)のでしょうが、それでも石松さんの記憶力には脱帽です。石松さんが何度も世界旅行をしたこともまた膨大な量の旅行記を書き続けてきたことも、若い記憶力維持に役立ったのでしょう。さらに、生き甲斐であり自分史でしょう。

   今後も国内外の旅行記の他に、ご自分の体の中の旅行記、特に認知症対策を楽しみにしています。

➄ 高校同期・理・真菌微生物の研究では世界的に有名な学者。千葉大学名誉教授

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チュニジア旅行記拝見、貴殿の旅行記は長い上、難しいので時間に余裕のあるときしか読めません。読み終わるのに2時間かかりました。しかし下手な小説よりは読みがいはあります。ともかく一気に読みました。

先ず本題のチュニジアに行く前にいろいろ電車の中を含めて話題が出てきて面白い。脱線続きでいつチュニジアに着けるか心配になってきます。

家庭を持たない男が増えたこと、関西の私鉄と比較しての名鉄、スマホ族の多い事などは同感です。先日もあるところで話をしようとしたら、スマホを覗きこんでいて一向に人の話など聞こうとしないので一喝してみたがそれも空振りでした。(一喝も聞き耳もたぬスマホ族)

38人とはツアー団体としては多いですね。ツアーコンダクターも大変だ、ドーハから乗り込んだ女性一人でこれだけの人たちの面倒をみるのですか。

胸に名前入りのバッチを付けるのですか。私はコンダクターが小学生か幼稚園児のようにいつも注意ばかりいうのが嫌いでツアー旅行は一度だけで懲りました。何人かの仲間との自主ツアーか一人旅にしました。

38人中女性が3分の2、産卵期終了後の婆さんたちが多いと書いておられるが、中々に美人とのツーショットの写真が2枚もありました。彼女たちは独り者なのでしょうか。婚活中の私としては興味あるところです。団体ツアーに行って仲良くなってうまく行ったというような話ありませんか。

そういう団体ツアーなら我慢して参加したいです。貴殿が言われるように化粧もしない皺だけが目立つ婆たちでは御免蒙りたい。

それにしても日本から1週間の旅で片道のフライトタイムが14~5時間、喜寿の年の老人にはきついですね。貴殿は元気です。それと101か国制覇の意欲の方がそうさせるのかも知れない。高校の歴史の先生がポエニ戦争を余ほど上手に語り、石松少年の胸とどめさせたのでしょう。

塩野七生著『ローマ人』にもかなりポエニ戦争は紙面を割いてますが、興味ある歴史的エポックであるのは間違いないでしょう。私も2008年の世界一周船旅の時、モザイク博物館やカルタゴの遺跡など回りましたので懐かしく写真を見せてもらいました。昔のトイレに座っている写真、私もどこかで撮っています、やることは皆一緒ですね。私はリビア・ベンガジ近くのやはりローマ遺跡でした。
  
貴殿の旅行記はうっかり読んでいると10年前のドイツの話が出てきたり、旅行とはあまり関係ない老老介護の話だったり、カルタゴの遺跡から突然に奥の細道が出て来たり、言わば古今東西なんでも関係づけられるのが面白いです。

もっとも老老介護は私にはしたくても出来ませんが、宅配夕食をすでにトライされたようで私も今度やって見ようと思ってます。家に居る時は極力自分で酒の肴は作って今までやってきました、甘えると呆けるのはないかと、出来るうちは自分で何でもすると決めてやってきました。旅に出るとこれがないので楽です。

実はこれをバンコックで打ってます。今年も寒い冬は南の国に移り住みで正月7日から出かけてきました。これで9年続けてです。最初はマレーシアKLが中心でしたが、4年前からバンコックがベースになりました。ここからあちこちに出かけます。

今年は貴殿が行って見たいと言われているイランに今週末から1週間行ってきます。ここからカタール航空で行きます。貴殿がカタール航空はいいフライトだと言っておられうれしくなりました。5人ですので大変割高だがよいチャンスですので出かけることにしました。

去年はここからネパールへヒマラヤを見に行きました。(ネパールに冥途のみやげ買いに行く)世界の屋根・ヒマラヤの山々を見てから死にたいと思ったので。ラオスのルアパパンへも行きメコン河で河クルーズを楽しんできました。

貴殿の『断捨離』ではないがお金も持って死ねない、子供たちに少しでも多く残そうなど毛頭思わないので、(もっとも迷惑はかけたくないので有料老人ホームは手配済み)自分の元気さと残金を見ながら(今後といってもせいぜいバッグをもって一人旅が出来るのは80歳まで)インターナショナル放浪老人を続けようと思ってます。

貴殿の次の旅行記を待ってます。 バンコック・柏屋旅館にて。

⑥ トヨタ先輩・工・気の毒に男寡・海外駐在歴20年以上

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ご無沙汰しています。 まずは101ヶ国達成おめでとうございます。 『世界百余国漫遊大居士』の戒名どおり、小生も昨年存命のお墓参りをしながら「さすが石松先輩様素晴らしいお墓ですね。これでは地震にも大丈夫ですね。 手をあわせながらここにはまだお休みではないのですね。ぶつぶつ・・・・・・・」と独り言を思い出しました。

いつもながら貴先輩の博識とあきらめない探究心に敬意を表します。

今回は失礼ながら一番心にとまりましたのは宅食宅配についてです。 ワタミにつきましては介護施設の全国展開で一昨年名古屋に第一号店をオープンし、宅食に注目していました。

しかし貴先輩ご指摘の点が小生も同感です。 そしてセブンイレブンが宅配のチラシは見ていましたが、ヤマトと提携していたのですか?

小生はまだ実績はありませんが、セブンイレブンに注目でしょうか?

それから池田総理の所得倍増計画の・・下村治様・・・経済の小生にはあのころの下村氏の強気のイケイケ理論が鮮明に思いおこされました。

108ヶ国目標はもうゆっくり達成いただくように、益々のご健勝を祈っています。

⑦ 大学後輩・経・銀行OB

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