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スリランカ(平成笛25年2月14日脱稿)

  

各旅行社は個人情報保護法違犯で訴えられるのを恐れるあまりか、参加者の氏名・住所のリストの提供を10年近く前から中止した。昔は慣例となっていた旅の途中でのタイミングを見計らって、参加者やガイドの自己紹介の場を作っていたが、それも廃止した結果、数年前からは初顔合わせの団体旅行が一層よそよそしい雰囲気に変貌してきた。 

   今回参加したクラブツーリズムのスリランカ旅行では、相部屋希望は幸いなことに受け付けていた。私は相部屋の受け入れが可能ならば何時も、大喜びで相部屋を申し込む習慣。誰とでも雑談をしながら会話を楽しめる自信があるからだ。同室者が女性ならば尚更大歓迎と補足もしたが、当然のこととはいえ実現したことはない。 

今回もいつもの旅のように一人旅と相部屋との差額(38,000)は観光土産代金と相部屋仲間との交際費と見なす習慣を堅持した。今回はコロンボまで幸い直行便。成田空港で大好きなオールドパーの1リットル瓶(3,700)を久しぶりに購入した。乗り継ぎ便の場合はハイジャック防止のためと称して、乗り継ぎの空港で開栓前でも没収される恐れのある酒は買う価値がなかった。

   相部屋申込者は私を含めて5名。スリランカでの宿泊は6泊。機会均等を目的に籤引きで単独宿泊日を、更に幸運な1名だけはポロンナルワ連泊日が単独宿泊日になるように決められた。相部屋の相手も籤引き。その結果、全ての相部屋希望者と同室になる日が最低一日はあるように、添乗員が割り振った。同行者と親しくおしゃべりが出来たのは、結果的には相部屋希望者との間のみだった。 

 

はじめに                            

   現地のガイドはテレビ番組の『おしん』(発展途上国では超人気番組だそうだ。でもドラマ嫌いの私は視聴したこともないが・・・)で日本語を学んだという中年の紳士。かつて日本とスリランカとの首脳会議には通訳として、呼び出された体験もあるという。高校に新設された日本語講座の先生の第1号だそうだ。日本語での表現力・説明力に驚愕! 流石は仏教国。仏教関係の知識も深い。

私は日本で生まれているのに、宗教としての仏教へ関心も知識も全く無い。延暦寺・東大寺・法隆寺・永平寺・善光寺などに出掛けても、観光対象としての寺院建築や仏像などを眺めているだけだった。高僧らしき人による解説にはいつも馬耳東風。この男は自らの性欲の抑制には、どんな工夫をしてきたのだろうかと、全く別のことを考えながら・・・。

   仏像にはその姿勢により立像・座像・涅槃像・入滅像の4種類があるそうだ。ある時、彼が千手(せんじゅ)観音と正しく読めたのには驚愕した。並みの日本人は『せんて』観音と誤読するのだ。発音やアクセントは関西や東北育ちの日本人よりも、遥かに上だった。

参加者

   私の記憶力はすっかり衰えていた。同室者の写真を撮ってはいたものの、2ヶ月しか経ってないのに、今や名前を全く思い出せないのだ。 

   旅行日程の中に同室者の写真を覚束ない記憶をもとに挿入したが、間違えている可能性もある。その節はあしからず・・・。 

費用

今回の旅行は成田から目的地のコロンボまで、何と直行便。

基本旅費・・・・・・・・149,000
燃油サーチャージ・・・・ 22,000
日本国内空港使用料・・・2,040
旅客保安サービス料・・・500
クラス変更料・・・・マイナス10,000
海外入出国税・・・・1,000
査証取得手数料・・・5,700

合計・・・・・・・・・170,240 

   最終日の予約ホテルが政府により突然徴用され、より安価なホテルに変更させられた結果、宿泊費の差額にお詫びの気持ちを込めて、クラス変更料として参加者全員に一律1万円が返金された。 

   国内線(中部=成田)は各自負担だったので、上記の合計金額には含まれない。豊田市トヨタ自動車元町工場前=中部国際空港間の高速バス代金(往復3,000円)込みでは、概算20万円の旅になった。足掛け8日間、一日当たり2.5万円は南部アフリカ旅行のほぼ半額だ。 

話題・・・順不同 

   トイレ 

   海外旅行で何時も困っていたのは、高級ホテルでも温水洗浄器が全くといってよいほど普及していないことにあった。已む無く排便後には朝風呂に入った。朝風呂の快適さに魅せられてリフォームをした11年前(平成14年真夏)からは、朝晩2回入浴する習慣になった。 

リフォーム以前の風呂はセントラルヒーティングの大型ボイラーからの給湯。ボイラーが沸騰するまで約20分かかり、それからの給湯になるため待ち時間は約30分と長く、元旦など特殊な日以外は朝風呂には使わなかった。追い炊き機能はなかったのだ。今や私はたった10分間で追い炊きできる朝風呂で髭も剃りながらのんびりと30分間過ごした後に、ビールを満喫しつつ、テレビの録画再生番組や新聞での暇つぶしに明け暮れしている。 

   しかし驚いたことには、スリランカではどこのホテルにも洗浄用のシャワーノズルが取り付けてあった。冷水ではあったが一年中が夏の、熱帯スリランカでは何の支障も無かった。しかし最初のころは我が肉体の一部なのに、目では確認できない肛門の位置が把握出来ずに困惑したが、直ぐに慣れた。 

温水洗浄器の元祖TOTOは関係社員を総動員して、老若男女の肛門の位置を自己申告させたら、ほとんど同じ位置だと分かったそうだ。同心円の中心は円の直径が変わっても同じ位置にあるのと同じことか。どんな世界でもパイオニアには、奇妙な苦労も避けられない。 

   交通整理

 

 

   大都市の中心部ですら交通信号機は殆ど普及していなかった。その代わりは人馬一体型の交通整理の警官だ。毛並みがピカピカに磨かれた馬に若い交通警察官が跨り手旗信号。手の位置が高いのでドライバーが見落とす恐れも少なく、臨機応変の対応も可能。自動的に点滅する信号機よりも解りやすい。初めて出逢った体験だ。このアイディアに思わず拍手喝采! 

   仕事に誇りを持っている若者の乗馬姿勢も美しいが、馬も仕事に慣れている。馬の足首が白く塗られているのには現地では気付かなかった。 

   気温差  

   海外旅行でも、海外出張でも同じことだが日本と現地との間に気温差(気候差)がある場合、困るのは衣類が二重になる点にある。寒さに極端に弱い私には、日本の11月後半には冬並の防寒対策は必須。その原理に半信半疑だったユニクロの、ヒートテック下着を初めて購入。試着して超満足。もっと早く買えばよかった。 

赤道とインドに挟まれている熱帯のスリランカは、日本の真夏並みの暑さ。仕方が無い。下着の交換は一日おきにした。下着が汗臭くなっても死ぬわけではないと痩せ我慢。 

晩秋とは言え、自宅からトヨタ自動車元町工場までの3Kmは暖房の効いた自家用車。空港行き高速バス(元町⇒空港までの途中の停留所は僅か3ヶ所)も、セントレアや成田の空港ビルディング内も暖房完備。飛行機の中は海抜3,000m前後の気圧だけではなく、湿度が低いので暑いどころかむしろ寒いくらいだ。熱力学的には空気温度(構成分子の運動エネルギーに比例)と体感温度(熱エネルギーの受け取りと発散の差に比例)とは別の概念。少しは薄着していてもヒートテック下着と愛用の牛皮のジャンパーを羽織れば我慢できると推定しての出発。 

スリランカは紅茶の国。愛着の旧国名を使ったセイロン紅茶とスパイス類が世界に冠たるお土産品。しかも、現地では安い筈と推定し、旅行鞄の半分は意図的に空にして出発。出発時は10Kgの鞄も帰国時には23Kgになった。帰国後、我が夫婦の親戚、結婚した子供たち、それぞれの知人友人に紅茶やスパイスをばら撒いた。 

   電波時計 

   近くのスーパーで980円の電波時計(もちろん中国製)を買った。海外旅行では疲れも手伝い、不注意でしばしば忘れ物をした苦い体験がある。忘れても980円だと気にならない。でも、スリランカとの時差は3時間半だった。 

出発直前になって詳細なマニュアルを読んだら、激安電波時計の針は1時間単位の時差修正しか出来なかった。がっかり。電池が切れていた古い腕時計(15年前にグアムで買った3,500円のスォッチ・・・スイス製の実用時計)を持ち出した。 

電波時計としては日本でだけ通用する簡易型だ。電波が受信できない場所ではクオーツ時計に自動的に切り替わる。こんなものでも我が日常生活には十分だ。25年間も使っていた機械式ロレックスは重いし、2日間使わなければ止まるし、定年後は無用の長物。定置式の自動巻き装置を買ったが、24時間稼働の自動巻き装置の方が時計よりも寿命は短く、三代目を使っていた。 

ロレックス(25年前の日本での正規価格は89万円。でもアンカレッジの免税店では約35万円)の保有価値もなくなった結果、嫌がる長男(2ヶ月前のブラジル出張の折に免税店で時計を買ったばかりとか・・・)に形見として無理やり押しつけた。長女と次女の婿には結納の時にそれぞれが希望した型式のロレックスをプレゼントしていたので、形見として渡す相手は長男しかいなかったのだ。 

   トヨタ後輩との奇遇 

   我がメール仲間の一人に、未だお会いしたこともないトヨタ後輩がいる。彼は定年後に喫茶店を開いていると勘違いをしていたままだった。 

平成25年元旦の年賀状を貰って恐縮し、お礼状を出した。私はメールアドレスを持っていない超高齢者19名(年末に9枚・1/710枚追加)にのみ年賀状を送り、その他の人には私のメールまたはホームページを見ていただけるようにと事前に連絡していたのだ。 

一部のメール保持者からも依然として年賀状を拝受したので、お礼は一日掛けてメールで返信。我が礼状への予期せぬ返信に驚いた。そのうちの2名分を本人に無断のまま勝手に転載した。  

その1 

石松さんの益々の健筆と健康をお祈りいたします。 

小生もホームページ『ドリー夢』の立ち上げを近日中に(何しろ、Web言語での構築に難儀しています)。そして、自分史“おもしろかりし我が人生”なるものを少しずつでも(現在58頁)進めようと努力しています。 

8月に70歳になりますが、4月から市民ホームの事務長を仰せつかっていますので、そちらのデスクではかどらせて進めようと思います。今年も配信の事、宜しくお願いいたします。 

その2 

返事を送信下さり、ありがとうございます。 

"オープンハウス・ドリー夢"は喫茶店ではありません。地域の会話の場として、また"ランカ・エコクラブ"で皆さまから無償提供していただいた品を、安価にて自宅及びフリマで販売(売上金は全額スリランカの友人・理事長の幼稚園支援に贈る)。それらの活動拠点として又、来客に女房の油彩を全部屋に飾り見てもらい、私の淹れる"フレーバーコーヒー"と音楽(Jazz , Pops, Classic, 歌謡曲etc.)で寛いで頂く。 

   そんな活動の場所と機会を提供しているのです。喫茶店ではないのでコーヒー代は頂きませんが、趣旨に感じて100円、1000円時には1万円寄付して下さる方があり、その善意が貯まって、何10万円の額になります。 

昨年は35万円送りましたが、スリランカでは350万円になったのです。時には、会話から縁談になり、2件が結婚に繋がりました。そんなこんなで年中忙しくしています。機会を作って岡崎市細川町にお越しください。  

その3 

スリランカの友人・理事長Mr.Tikiri Bandara氏が幼稚園(奥さんが園長)を開園した理由は・・・9年前にそれまで内戦が続いていたがゲリラ側との和平(1995年)ができた。彼が日本で社会人留学していた時に自国内の秩序、モラルの悪い事を実感して、将来スリランカの国を日本のような“よい国にしたい”・・・と決意して『その為には、幼時の教育から』との思いで、下宿していた春日井市の幼稚園を手本に、日本式の“ 希夢都=キムツ幼稚園” を開園した訳です。    

慈善事業的な運営(貧しい家庭の子は授業料を免除など)のため経営は苦しいのです。私たち夫婦が招かれて卒園式に参列(想像を超えた レベルの高い教育をしていて、卒園式は大学の大ホールを借りてのイベントで(2,250人もの来場。私も壇上でスピーチをしました)教育副大臣も参列するほどの、同国では称賛されている幼稚園になっていました。もう10年、20年後にはスリランカを良くする人材に成長する事を確信して来ました。そんな訳で支援をしているのです。 

彼らとは20年来の付き合いや現地を直視、対話⇒物質、経済的に進んだ日本での生活と同国との“幸せ度”を考えると、向こうの方が“幸せな生活”をしているのではないかとも考えさせられます。またの機会に記しましょう。今日はこれまでとします。   

上記とは別の友人から・・・ 

あけましておめでとうございます。本年も引き続きよろしくお願いします。 

さてご質問に対する返事ですが、貴兄がどのあたりまでご存じか分りませんので、重複することがあると思いますが。現状は以下の状態です。 

自宅から車で50分程度のところ、廿日市市津田という田舎に土地を購入したのは1973年でした。1975年に基礎工事を開始し、知人友人に手伝ってもらい丸太で小屋の棟上げをしたのが1977年です。⇒ ここまでは承知していました。 

その後、長い間放置しておりましたが、60歳になった時期に高校の同級生が定年になり、「何かしたいので、あの工事を再開せよ」と言い、工事を手伝ってくれて急速に格好になってきました。別荘というにはおこがましいのですが、作業小屋として使っています。長いことかかりましたが50平米の高床平屋の小屋です。中には昔式の囲炉裏を備えており、冬場は雪見酒を楽しむのに格好の装置です。 

自分の土地は、全部で1000坪ですが、今では大きな杉、ヒノキの林になってしまいました。ところどころ日当たりのよさそうな所を選んで耕しています。すでに10年以上になりますかねー。 

最近では、あまり手のかからないものをと、小麦、サツマイモ、そば などを主として作っています。これらは収穫後自作の焼酎になります(ここは内緒)。 

5年くらい前に、隣接する田んぼの所有者が高齢を理由に耕作を放棄されました。「田んぼを荒らすのはご先祖様に申し訳ない」とのことで、使ってくれと言われて、1反を畑に加えました。急に忙しくなりました。 

3年前に近所の百姓さんが、ビニールハウスの古いのがあるから使えと言って、幅6メートル長さ20メートルのハウスを作ってくれました。おかげで雨の日も、風の日も、寒い日も作業ができるようになり、労働過多となっております。 

皆、近所の百姓さんは高齢化し耕作放棄するところが多くなりました。高齢化し、作業が困難になり、後継者は、みなサラリーマンになり遠隔地で働いているので、帰る目途もなく、放棄せざるを得ないわけです。 

このたび別の近所のおじいさんが脳梗塞をやり無事回復はしたけれど、もう力仕事はできない。コメ作りを放棄するとのことで、私にコメを作らないかといわれています。全部で3反あります。やりかたは教えてやるので大丈夫といわれます。 

もうこれ以上手を広げれば、こっちが伸びてしまいそうなので、「ふにゃふにゃ」言ってかわしています。 

遅まきながら、「自分で働くより、人を働かせて利潤を得る」という素晴らしい方法を考え付き、3年前から着手しました。ミツバチの飼育です。 

1年目は2群の種蜂を購入し、ハチミツを収穫しました。たくさん取れます。夏が過ぎ秋になってからのある日、熊の襲撃にあいました。全滅です。 

2年目にリベンジをと、再度蜂を2群買いはちみつの収穫をしました。今度はやはり秋に、スズメバチの集中攻撃にあい全滅でした。 

昨年は悩みましたが、三度目の正直とばかり、再度種蜂を購入し、挑戦しています。今度はどうやら、スズメバチ、熊の襲撃被害は乗り越えています。現在越冬中です。もし、越冬に成功すれば、今年から初期投資なしで、蜜を収穫できます。当初目標としたことが実現します。すなわち、他のものを働かし、利益を得るということに成功しそうです。 

古代エジプトのファラオやナポレオンなどが蜜蜂を紋章にするくらい好きでした。多くの人間を支配すれば莫大な利益を得ることができるという知恵はここらから得たようです。 

蜜蜂は春になると、ほっておいてもせっせと花の蜜を集めて蜂蜜として保存します。これを飼い主は頂戴するという具合です。蜂は数が多ければ多いほど急速に集める蜜の量が増えます。(ひと箱で2から5万匹)本当に働き蜂は名前の通りよく働きます。 

花蜜はどこから集めるのかよくわかりませんが、半径約2kmの範囲まで行くそうですから、どこかから失敬するのでしょう。これって、窃盗かなー。 

こんなことで天気のよい日は農園に出かけています。毎日出勤していたころとあまり変わりません。「亭主元気でおらぬがよい」を文字通り実行しています。いつまで体が続くか。できるだけ続けてみようと思っています。 

ビニールハウスのビニールは3年が寿命のようです。もう3年農業ができるかどうか分からないので、ずいぶん悩みましたがこのたび思い切って新品に張り替えました。相当の出費です。3年は続けないと。 

コストを考えると、全く成り立たない話ですが、いまやコストから解放されています。毎年、季節が変わってゆくのを楽しんでいます。 

長々と書きましたが、こんな調子です。もし、広島に立ち寄ることがあれば、実見にお越しくだされば、幸いです。もうすぐ、花が美しい季節になります。楽しみです。おいしい蜂蜜や焼酎がたのしみです。いずれも糖尿にはよくないか。 

それではまた。 

大学同期生・工学博士・民間会社⇒元私大教授⇒我が暗黙のライバル。ウサギ()とカメ()⇒結局、卒業時に腕時計を獲得したのは私 

   食事 

   いわゆる発展途上国へ出掛けたとき、食事には最大限の注意を払ってきた。特に東南アジア・南アジアやアラブ諸国・アフリカでは同行者の下痢発生率が高いからだ。しかし、今回は聞き及ぶ限り、同行者に体調不良者の発生は全く無く、不思議だった。⇒ 調理時に加熱せざるを得ないカレー料理の賜物だろうか? 

   がんの経過観察中の私は次回(6回目になる!)の入院治療中の体重減少に備え、過去数十年間堅持していた54Kgの体重を一所懸命努力して58Kgに増量し、がん治療による痩せ代分を確保していた。一番心配したのは食欲不振や下痢に伴う体重減だった。 

   スリランカは香辛料大国。数え切れないほどの種類の香辛料が市場に溢れ、それらを組み合わせたカレー料理が毎食出された。カレーのバイキングが主力だ。でも、殆どは黒ずんだ色。イマイチ食欲が進まず・・・。 

   小学生(昭和20年代前半)のころ、卵掛けご飯は我が生家では最高の贅沢品。卵を茶碗に割ったとき兄弟姉妹は醤油で味付けしたが、私だけは卵の色が黒ずむのが嫌で堪らず醤油抜きで食べた。三つ子の魂は今も健在。見た目に色彩上の美観に乏しいスリランカ料理には旅行中最後まで食が進まず、ビールで流し込んだ。帰国後、真っ先に確認した体重が出発前と同じだったのでほっとした。 

   食欲が湧かないのはスリランカのカレーだけではない。ウナギのかば焼きだ。得体のしれないどす黒い液体(貴重なタレだそうだが・・・)を付けて焼かれるタイプだ。土壺を連想するのだ。『ドツボ。若き読者よ、ご存じだろうか?屎尿を入れて発酵させ、肥料として使えるまで入れておく畑など屋外に掘られた肥溜』。 

   ベッド 

   スリランカのホテルで困惑したのは夜具だ。いずれも洋式のベッドだが、毛布の代わりに薄いシーツが一枚用意されているだけだった。 

   超寒がり屋の私には、熱帯のスリランカといえども布切れ一枚に包まって寝るのは寒くて堪らない。外出着のまま寝ることも多く、こりごり。 

   仏像の体型 

   スリランカでは世界遺産を初め国中に仏像や仏像の絵が溢れている。そのいずれもが皺一つ無い丸々と太った体型だ。特に肩から手首までの腕が異常に太い。関取も顔負けだ。 

   ゴータマ・シッダルタよりも遥かに若死にしたイエス・キリストとは対照的だ。キリストの像や絵は老人のように皺だらけの骨皮筋右衛門を連想させるが、お釈迦様は赤ちゃんのように若々しい。同じ宗教界なのに、何故こうも対照的なのか、私には解らない。 

   寺院見学 

   スリランカの寺院の内部に入る場合は、履物は強制的に脱がされる。履物は下足番に無料で預けるが、出口で間違えられたことは一度も無い。下足番の記憶力に驚く。場合によってはさらさらとした砂道を裸足(靴下は履いていてもよい)で歩くが 靴下も汚れない清潔さだ。 

   アラブ諸国でモスクに入る場合にも履物を脱がされるが、そのときには薄いフィルムで出来た袋(スーパーの袋に似ている)に入れて本人が持ち回り、出口で袋を返却するのに比べると遥かにスマートだ。 

   紅茶 

   スリランカはセイロン時代からの紅茶の大産地。紅茶は栽培地の標高により三分類されている。 

スリランカの紅茶を一言で言うと、どの茶葉もクセが少なくて飲みやすいという特徴があります。紅茶は栽培される地域の気温や湿度によって茶葉の風味に特徴が出ますが、一般的に南に行くほどクセが少なくなると言われています。

インドのお茶どころよりも南に位置するスリランカは、一年を通して温暖な気候と豊富な雨量があるため、飲みやすい紅茶に仕上がるのです。

スリランカで作られる紅茶は、世界三大銘茶のウバをはじめ、ディンブラ、ヌワラエリア、キャンディ、ルフナの5産地が有名で、これらはスリランカの五大紅茶産地と呼ばれています。

スリランカの紅茶は、生産地による銘柄の違いだけではなく、茶園や製茶工場のある標高によってハイグロウンティー(12002500メートル)、ミディアムグロウンティー(6001200メートル)、ローグロウンティー(600メートル以下)の3つに分類されます。標高の違いにより、それぞれの茶葉の風味にも特徴が出るのです。

一般的には、ハイグロウンは花のような香りとしっかりとした渋味が特徴で、ミディアムグロウンは芳醇な香りとほどよい渋味、ローグロウンは濃い味わいですが、香りが弱い茶葉ができる傾向があります。 

   スリランカの紅茶は本葉が二枚になった時の手摘み。毎週一回収穫し、半年に一回機械で高さを揃えて剪定し一ヶ月間養生。背丈が高くなるのを防ぐ。収穫は一年中続けられる。木の寿命は100年。手摘みを厳守しているのは品質と仕事の確保。手摘み作業員は全国で何と20万人。背中に籠を背負い急な斜面を上り下りしながらの作業は見ていても大変。 

   高原は霧も深く品質が良く、価格も高い。大型紅茶工場を見学した。各工程での移送作業中に網状のコンベアから落ちた粉茶はパック詰めの原料となり、塵茶(ダストティー)呼ばわり。安いはずだ。 

   工場内で淹れたての紅茶を賞味。ほのかな香りと微かな甘みに本物の良さを認識。売店でお土産として各種合わせて小型のダンボール箱で一杯、30缶位購入。 

   紅茶をおいしく飲むのは準備が大変。私はゆっくりしたいときにのみ先達の築いた飲み方に従う。通常は最短時間で済むようにと薬缶のお湯が沸騰したら、ティーパックを投げ込んで数分待つだけ。 

英国王立化学協会『一杯の完璧な紅茶の入れ方』 

材料:缶入りのアッサム紅茶、軟水、新鮮な冷たい牛乳、白砂糖

調理器具:やかん、磁器製紅茶ポット、大きな磁器製マグカップ、メッシュの細かい紅茶濾し、ティースプーン、電子レンジ 

 やかんに新鮮な軟水を注いで火にかける。時間、水、火力を無駄にしないように適量だけを火にかける。 

 湯が沸くのを待つ間、4分の1カップの水を入れた磁器製紅茶ポットを電子レンジに入れて1分間最大出力でチンする。 

 やかんのお湯が沸くのと同時にチンしたポットからお湯をあけているように行動を同期させる。 

 カップ一杯あたりティースプーン1杯の茶葉をポットに入れる。 

 沸騰しているやかんまでポットを持っていき、茶葉の上に注いでかき混ぜる。 

 蒸らすために3分間放置する。 

 理想的な入れ物は磁器製マグカップか、あなたのお気に入りの自分用マグカップである。 

 先ず牛乳をそのカップに注ぎ、続けて紅茶を注ぎ、豊かでおいしそうな色合いの完成を目指す。 

 味わいのために砂糖を加える。 

 熱すぎる紅茶を飲もうとすることで起こりうる下品な飲み方を避けるため、摂氏60度から65度で飲む。 

 個人的な化学:紅茶を楽しむための最適な環境を手に入れるために、静かで落ちつきある自宅のお気に入りの場所で紅茶を飲むための位置を完成させようとする試みは、紅茶のひと時を特別な次元へと引き上げる。最高の結果のためには、あらかじめ冷たい雨がひどく降る中で少なくとも30分は重い買い物袋を担ぎ、犬を散歩させる。この準備は紅茶の味をこの世のものとは思えないものに変える。 

 一杯の完璧な紅茶と一緒に読むことを推奨する理想の読み物:ジョージ・オーウェル『Down and Out in Paris and London 

 ラフボロー大学のAndrew Stapley博士がこう記述している。 

あらかじめ沸かしたことのない新鮮な注ぎたての水を使うこと。あらかじめ沸かしたお湯は、紅茶の風味を引き出すために大切な混入酸素を失っている 

硬水は避けること。硬水中のミネラルが不快な紅茶の不純物を引き出す。硬水地域に住んでいるならば軟化処理(濾過)された水を使う。同じ理由でミネラルウォーターは使わない。 

完璧を期すために、われわれは紅茶ポットと缶入り紅茶の使用を薦める。紅茶ポットは磁器製であるべきである。金属製ポットは紅茶の風味を損なうことがある。ティーバッグはお手軽ではあるものの、ティーバッグは抽出を遅らせ、遅い抽出はよいことではあるが、分子量の大きいタンニンには好ましくない(以下を見ろ)。 

茶葉を多量に使う必要はない。カップあたり2グラム(ティースプーン1杯)が通常は適量である。 

紅茶の抽出はできる限り高温でおこなわれる必要があり、また適当に余熱されたポットが必要である。少量のお湯をポットに入れ何秒か回しても十分ではない。沸騰したお湯を少なくともポット4分の1は注ぎ、30秒以上置かなければならない。それからすばやく流れるように、紅茶ポットからお湯をあけ茶葉を加え、やかんから沸騰したお湯を注ぐ。 

 よりよい代替案は、電子レンジを使って紅茶ポットを予熱する! 紅茶ポットに4分の1水を注ぎ、1分間最高出力でチンする。その後お湯をあけ、茶葉を入れお湯をやかんから注ぐ。お湯をあけた直後、まさにそれと同時にやかんのお湯が沸いた直後にお湯を注ぐことが同期するように目指す。「紅茶ポットをやかんのそばに」持ってくることは、温度を高く保つ一助となる。 

通常3分から4分蒸らす(茶葉による)。より長く蒸らせばそれだけ濃いカフェインが紅茶に抽出されるというのは神話である。カフェインは比較的早期抽出されるものであり、カフェイン抽出はおおむね最初の1分間で完了する。 

しかしながらそれ以上の時間をかけることは、紅茶に色とある種の香りを与えるポリフェノール複合体(タンニン類)が出てくるために必要とされる。とはいえ3分以上の抽出では、いやな後味を残す分子量の大きなタンニン類を出してしまう。 

お気に入りのカップを使う。ポリスチレンのカップは決して使用してはいけない。これは紅茶をいつまでも飲めないほど熱いままにする(そしてまた牛乳をダメにする。以下を見ろ)。大きなマグカップは小さなカップに比べ熱をより長く持続させ、なおかつ余計な紅茶を必要とする!

 

変性蛋白を含むUHT牛乳ではなく、冷えた新鮮な牛乳を加える。さもないと味が悪くなる。牛乳は紅茶の前に注がれるべきである。なぜなら牛乳蛋白の変性(変質)は、牛乳が摂氏75度になると生じることが確かだからである。 

もし牛乳がお湯の中に注がれると、それぞれの牛乳滴は牛乳としてのまとまりから外れ、確実に変性が生じるだけの時間を紅茶の高温に取り囲まれる。もしお湯が冷たい牛乳に注がれるならば、このような状況ははるかに起こりにくい。 

一度完全に混ざってしまえば、ポリエチレンのカップが使われていない限り液体の温度は摂氏75度を下回るはずである。味を調えるための砂糖は最後に加える。牛乳と砂糖はともに紅茶が持つ刺激性を和らげるように働く。 

紅茶を飲む完璧な温度は摂氏60度から65度の間であり、もし上記の手引きが使われるならば、この温度は1分以内に得られるはずである。これ以上高い温度は、紅茶を飲む際飲み手に対して紅茶の過剰な空冷を必要とさせ、また毎日の会話中に下品な音が伴うことになる。 

ティースプーンを何秒か紅茶の中に浸しておくことは、とても効果的な冷却のための対案である。 

     高速道路 

 

   高速道路が建設され始めていた。彼らの企画力の雄大さには一目。最終的には片側4車線になるように土地を確保し、半分だけの工事をして供用開始。でも、道路を跨ぐ横断道路・IC・料金所の配置は4車線*上下2本の完成時の位置に建設していた。まだ殆ど車も普及していないのに・・・。 

   日本人は近視眼的発想のもとに名神高速を建設した。渋滞対策としての車線増設工事には、溜息が出るほどの工事費が掛った。名神高速道路建設には世銀からも借金をした。将来のことを思えば4車線*上下2本が適当と世銀から勧められたのに、借金恐怖感に囚われて辞退したそうだ。 

ところが価値観が変わったのか平成の今、国債を平気で乱発し始めた。でも、私は国債乱発には大賛成。インフレが発生し実質的な返済負担が軽くなる⇒損をするのは金融資産を後生大事に預貯金している愚かな高齢者。増税反対者から万遍なく資産を剥奪する一番簡単な方法だ。 

人類が紙幣(金貨は物質価値が温存されるから対象ではない)を発行して以来、長期的には全ての国でインフレは発生している。日本は1ドル360円時代から今日まで最もインフレ率が小さい国だったが、今後50年間に世界平均に追いつくと推定。日本の国債を買っている外国人から非難される言われはない。 

第1日目(11/15) 

   中部国際空港8:25発JAL3082⇒成田9:35

   成田13:20発UL455(スリランカ航空)⇒コロンボ19:45(日本との時差3.5時間) 

   何時ものことながら成田での乗り換え時間が長く、退屈。でも、コロンボまでの実飛行時間9時間55分間は無着陸なので助かった。ほぼ予定通りの時間に到着。何よりも驚いたのは中型機がほぼ満席になるほどの乗客数。日本人のスリランカ観光が軌道に乗ってきた証拠だ。 

   客室乗務員の殆どはスリランカ人。彼らにとっては最高の就職先。きびきびと良く働く若い乗務員に接すると嬉しくなる。リモコンで呼びつけてビールを頼むのには気が咎め、エコノミー症候群回避を兼ねて、自分でギャレー(客室乗務員コーナー)まで出掛けて注文。スリランカ産のビール(Lion)を指定すると素直に喜んだ。 

    

   ネゴンボのホテルに20:30到着。当日の同室者は千葉県で食品会社を経営する林氏。100坪の家庭菜園の維持管理が趣味。35歳の独身長男の今後が心配だとか。 

   冷蔵庫は空。その代わりなのか、各ホテルとも炭酸ガス抜きミネラルウオータ・500ccの無料サービスが増えた。その上、旅行社からも毎朝バスの中で500ccのミネラルウオータの差し入れがあった。 

超小型冷蔵庫はあってもミニバー(飲み物)なしのホテルも増えた。冷えたビールが飲みたいのに、ウイスキーの水割りで我慢。同室者にも持参のウイスキーを毎日薦めたが、今回は殆どの方が辞退されがっかり。ウイスキーの消費量が少なくなった、と業界関係者が嘆くのも無理はない。 

第2日目(11/16) 

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   同室の南氏。奥様は不幸にも15年前にご逝去。お子様も無く自炊しながらの1人暮らしとのことだが、私にはとても真似ができない。 

私の場合、荊妻が旅行中に1人暮らしの体験を強いられるが、痩せ我慢は1週間が限界。自炊に挑戦したが、面倒くさくて諦めた。 

   自宅から2Km地点にある売上金額日本一のスシローに出掛けて回転寿司を食べている間に、持ち帰り用の寿司を40貫注文。これで2日間は生きられる。味噌汁は永谷園のインスタントで我慢。更に松坂屋豊田店に出掛け18:00から半額になる刺身を1015パック購入⇒直ぐ食べるもの・冷蔵・冷凍に分類⇒ご飯だけは自炊し無機塩類は果物で補填。これで何とか1週間は生きられる。 

   この日の浴槽の栓は故障していて入浴が出来ず⇒フロントに強硬に抗議⇒修理人が道具持参で入室。いとも簡単に修復。最初から故障しているのは解っていたのだ。普通の外国人はシャワーで満足するらしい。 

   ネゴンボから世界遺産のあるアヌラダブーラへとバスで移動。

   インドのブッダガヤの菩提樹から株分けされて移植された樹齢2,300年と称されているスリー・マハ菩提樹。元祖の菩提樹は寿命が尽きたのか既に無いそうだ。柵でガードされているだけではない。階段を登って株元まで近づける人は特別の許可を貰っている人。 

観光客が紛れ込まないようにとの見張り番(警官?)が監視していた。長く延びた横枝は金色のテープで飾られた無数の柱で支えられている。スリランカ人にとっては宝だ。『イワシの頭も信心から』を連想。 

   同じ境内に植えられていた別の菩提樹は然したる保護もされていなかったが、私にはこちらの菩提樹の方が枝振りも良く立派に感じられた。若木の風格か! 

   高さ100mはありそうな巨大な『ルワンウェリ・セヤ大塔』。塔の周りを歩いての見学だった。 

 

塔の周りは無数の象の彫刻で飾られていた。エジプトのカルナック大神殿は、参道の両側に無数のスフィンクスが並べられ、恰もガードしているかのように鎮座していたのを思い出す。この大きなドームを支える構造を、中に入って観察したかったが許されなかった。中に空間があるとは思えなかった。砂を詰めているのではないかと推定した。 

直ぐ近くに岩を刳り貫いて作られた『イスルムニア精舎』があり、多くの仏陀が祀られていた。

紀元前3世紀ごろ、当時のデーワーナンピヤ・ティッサ王仏教の保護を目的にこの地に建設した。現在は当時の僧院の一部残ったものを修復し、公開されている。本堂には横たわった巨大な仏像がおり、その色鮮やかな色は日本浅草寺による援助で色の塗り替えを行っている。

近くの岩肌には御堂が造られている他、数多くの神々をモチーフにした仏教彫刻を見ることができる。また本堂の脇には寺院の北にある王宮庭園から発見された像が展示されている。 

第3日目(11/17) 

 

   連泊2日目になるこの日はスリランカ観光のハイライト。シギリア・ロックと名付けられている高さ195mの垂直の岩山。 

 

シギリヤの遺跡は、5世紀にカッサパ1世(英語版)(在位477495年)によって建造された、要塞化した岩上の王宮跡と、それを取り囲む水路、庭園、貯蔵施設などの都市遺構からなる。岩山の中腹には『シギリヤ・レディ』として知られるフレスコの女性像が描かれている。当初は500体ともいわれたが、風化が進み現在は18体だけが残る。 

シギリヤ・ロックは火道内のマグマが硬化して出来た岩頸で、形状は楕円柱、標高約370m、岩頸そのものの高さは約195m、全方位が切り立った崖になっている。 

 

   私は元気な観光客の振りをして歩いていたのに、ヘルパーの若者の目は誤魔化せなかった。往復1時間半程度のコースの支援はヘルパー1人につき20ドル。何度も執拗にヘルパーとして採用してくれるようにとの申し出を受けた。最後には1,000円まで値下げした。 

でも、心を鬼にしてお断りした。私はこの日に備えて大腿筋の強化をしてきたのだ。今回の最長老86歳のお爺さんは2人も採用。採用されて嬉しそうな屈強の壮年。彼らには一日に一回採用されれば20ドルは満足できる収入だ。 

   

   登山途中の洞窟内にあるシギリア・レデイの壁画を見に行くため、一方通行の螺旋階段を往復した。ほかの観光客の迷惑にならないようと必死で登った。    

 

消えかかったシギリア・レディの構成部品は形が極端に強調されている。男の願望の一端か? 

 

   延々と続く階段を登るのは坂道を登る登山よりも負担が重かった。力学的に考えれば、一定時間内の仕事量が大きくなるだけのことだが・・・。 

   頂上からの眺望は360度のパノラマ。境界層(粘性流体力学の言葉)が薄くなっている頂上では心地よいそよ風が吹いていた。快い疲労感に襲われた。我が仲間たちは全員無事に登ったそうだ。 

   日本でも200m級の高層マンションが普及し始めた。眺望の良さに加えて蚊の襲来もないのが魅力とか。でも、私は只になっても買う気は全くない。エレベータが万一止まれば万事休す。今の3階建ての持家でも階段が邪魔だ。友人はエレベータの設置を勧めるが、足腰の衰弱を早めるから導入する気は未だに起きない。 

私には露天風呂が人に覗かれない場所に設置できないような狭隘な敷地には、住む気がしない。自宅での露天風呂の快適さを何人もの友人に勧めたが、造った人は一人もいないのが不思議だ。 

 

近くにあった壮大な世界遺産の一角に、綺麗なムーンストーンが残されていた。建物の入り口にあり、それを踏んで自らを清めて中に入るのだそうだ。4つの同心円状の輪に分けられている。 

   誰がどんな根拠を元に考え出したのか一番外は炎、人間の欲望を表す。次は4匹の動物による四苦(象が生まれる苦しみ、馬が老いていく苦しみ、ライオンが病む苦しみ、牛が死ぬ苦しみ)を表し輪廻とする。更に、花の輪は愛する心、花を咥えた鳥は純潔、最後に蓮の花は天国を意味するのだそうだ。 

   その後も、ムーンストーンはあちこちで見たが、ここで見た浮き彫りが一番鮮明だった。この説明はスリランカ航空のパンフレットの受け売りだが、インターネットで検索すると、ムーンストーン(月長石)は6月の誕生石であり、神秘な力を持つと信じられている、とあった。 

第4日目(11/18) 

この日は相棒がいない日だった。相部屋希望者は奇数。誰もが一回だけは一人部屋に入れる。 

 

タンブッラ仏教石窟寺院   

 高さ100m足らずの岩山の頂上にある天然の洞窟に鎮座している、仏像や極彩色の壁画が世界遺産『タンブッラ仏教石窟寺院』だ。誰かが一所懸命に彫った仏像だが、数多のギリシャ彫刻やミケランジェロのダビデ象のような写実性に乏しく、只単に丸々と磨かれているだけで、神々しさを全く感じない。プラスティック製のキューピー人形みたいなものだ。 

ろうけつ染めの工房

    

   ろうけつ染めの工房を見学後、併設されている夥しい数の作品を販売している御土産屋に案内された。美しい労作。記念になるからと思って購入しても、自宅には今や飾るべき壁面もなく、見送らざるを得なかった。趣味がわからない知人や友人にプレゼントしても困惑されるだけだ。 

 

下山途中に出会った花嫁と花婿。どこの国でも、若者が一番輝いている瞬間だ。スリランカにはアーリア系のインド人も多く、色が黒いだけで目鼻立ちも素晴らしい美男美女だ。ここで記念撮影をする若者が多いのか、プロのカメラマンが待ち構えている。背後の若者が手にしている白い傘はフラッシュの反射板だ。 

スパイスガーデン 

スパイスガーデンにも立ち寄った。スリランカ特産のスパイスや薬用植物を集めている巨大な植物園だ。漢方薬のメッカ中国も顔負けの種類の多さには驚愕! 植物園の案内係が一つ一つの薬用植物の効能を詳細に紹介したが覚えきれなかった。 

でも、その中にバイアグラと同じ効能があると称する植物があった。植物園の一角には色んな薬草の大きな売店があり、86歳のお爺さんが『バイアグラの素』を大量に購入した。奥様に2年前先立たれた後、84歳の愛人ができた。毎晩勃起し挿入はするが射精に至らないのが物足りないとかで、薬物療法に挑戦するそうだ。 

スパイスガーデンの出口では大勢の商人がスパイスを販売。10cm*10cm*1m位の透明な袋を数珠のように12個連結し、それぞれに異なったスパイスを入れて販売。スパイスを選ぶ手間も省け効率的だ。数連纏めて買った。 

スパイスはスーパーでも売っていた。ここでは1ポンド位の大袋。黒コショウや白コショウなど誰もが使いそうな聞きなれた名前のスパイスをお土産用にどっさり買った。 

 

仏歯寺 

   仏陀の犬歯1個が4世紀にスリランカに持ち込まれたそうだ。遷都のつど保管場所が変わり、今はキャンディの豪壮なお寺に安置されている。超豪華な容器に厳重に保管。スリランカでは最も大切にされている国宝だ。 

   キャンディでは7月から8月にかけての満月には、キャンディ最大の盛大な仏教神事エサラ・ペラペラ祭りが開催される。仏歯が入れてある黄金の容器を象の背中に載せ、キャンディの街を練り歩く。最終的には100頭近くの象がパレードする。テレビでも見たことがあるが、信じる者は救われる世界だ。 

覚王山日泰寺 (かくおうざん にったいじ) は、愛知県名古屋市千種区にある超宗派の寺院である。 タイ王国から寄贈(明治33年)された仏舎利(釈迦の遺骨)を安置するために、創建(明治37)された。「覚王」とは、釈迦の別名。また「日泰」とは、日本とタイ王国を表している。 

どの宗派にも属していない超宗派の寺院であり、各宗派(現在19宗派が参加)の管長が、三年交代で住職を務めている(ただし境内北側に設置されている僧堂は、曹洞宗が管轄している)。住職は他宗派のお経を上げることもあるという。 

なお仏舎利は、本堂のある境内からやや離れた「奉安塔」の中に安置されている。 

境内には仏舎利を日本に寄贈したラーマ5世の像もあり、在日タイ大使は王の誕生日に参拝するのが習わしになっており、在日タイ人もしばしば参拝に訪れるという。 

弟子どもは残酷だ。死体をバラバラに分解し、骨の分捕り合戦をするとは!  

 

   伝統舞踏を見た後、同じ会場で火を使った奇術を見た。最前列の特等席に陣取って観察したが、火傷防止のテクニックは分からなかった。 

 

   熾火(おきび)をたっぷりと広げた金属製の浅いお皿を持ち込んで床に置き、扇風機で火力を強くした。その上を若者が素足で歩いた。火傷の臭いも発生せず、何度も往復。真似をしてはならないとの説明はあったが、この『奇術』が成立する理由もわからないままだ。  

第5日目(11/19) 

 























同室の田中氏。東京都年金者文京友の会を主宰し、2012.年2月24日発行のNo.197号の『ゼロの焦点』を読んでの特集号を頂き拝読。 

『ゼロの焦点』という題名の意味は何だろうか?との氏の問いかけがあり、会合が盛り上がったそうだ。 

当日の冷蔵庫にはミニバーがあった。でも、栓抜きがない。フロントに電話するとルームサービスはしていない。明朝7時にフロントまでお越しください。急遽、添乗員に電話すると本人手持ちの栓抜きを貸してくれた。でも、このホテルのサービス態度は無性に腹立たしく感じた。 

ミニバーの中に缶入りの飲み物があった。飲んだ後プルトップを元に戻し、逆さにして冷蔵庫へ戻した。翌朝、ミニバーの在庫調べに来た男は数を調べただけで、冷蔵庫に鍵を掛けて退室。我が小さな仕返しだ。 

象の孤児院 

親を密漁などで失った子象、怪我をした象などの保護施設。成長した象はお寺や象使いが里親になるそうだ。 

1日2回、近くの川に水浴びに出かける。象はたいへん賢い。自発的に一列になって縦隊移動し、さも楽しげに水遊び。 

本年1/29に名古屋市の東山動物園でスリランカ象(アジア象の亜種)の子供が生まれた。日本の動物園では6例目とか。母親が先輩象の育児例を自然学習していない場合の育児は難しいらしい。興奮して子象を踏み殺したり、飼育係を殺したり・・・。 

 

   ガイドが紅茶の栽培法について熱弁を揮(ふる)った。毎週一回芯と本葉二枚とを手で摘み切る。半年に一回は木が高木化するのを防ぐために機械で高さを揃えて剪定し、一ヶ月間養生し、また手摘みを開始。日本と異なりスリランカでは一年中収穫している。寿命は100年。全国で20万人の茶摘み女性を雇用している大産業だ。 

   茶摘みを機械化しない理由は品質確保だけではなく、雇用確保だ。日本でも高級緑茶は一芯二葉の手摘みだが、新茶は超高値⇒私は産地の売店や道の駅で試飲はするが買ったことはない。

 

   大きな工場に案内された。コンベアに薄く広げられた茶葉が静かにゆっくりと移動。 

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   加工処理時間は不明だったが、製品置き場に到着。途中の工程で網状のコンベアから漏れ落ちた茶葉は『ダストティー・・・塵茶』と蔑視。ティーバッグに詰めて安く売るのだそうだ。日本ではティーバッグ入りの紅茶にもトワイニングなどの高価格紅茶が売られているが、塵茶が原料とは思えない。 

第6日目(11/20)

 

   超元気なお爺さん。名前は全く思い出せない。最初のころは『旅のしおり』に名前などをメモしていたが、旅も終わりに近づいて疲れも重なり、メモ取りも省略していた。        

 

   前日は茶園に到着したのが夕方で写真撮影もままならず。早朝、撮影のための停車の折に女性たちの茶摘み風景を道路から見学。茶摘み労働は能率給の世界。1日かけて3050Kg収穫するらしい。 

 

   山の斜面は日当たりがよく紅茶の栽培には最適地。イタリアの西海岸やライン川右岸(西向きに流れるところの南向き斜面)での葡萄の栽培に大変よく似ている。類似の選択は日本の蜜柑園も同じ。 

   流石は常夏の国、朝顔は一年中咲いているそうだ。  

第7日目(11/21) 

 

   ホテルで片側に肘掛がない椅子を発見。その使い易さに驚く。左側から近づいて座るのには最適だ。肘掛けは肘を掛けるのが目的ではなく、体を支えるためだ。我が居間の炬燵用に今でも使っている回転式肘掛椅子の左側の肘掛が一年前に取れてしまった。その結果、大変使いやすくなり、修理する気も雲散霧消。 

 

 

   高速道路沿いに水田が開けていたが、水田一枚の大きさが5畝(150坪、約500)前後と狭く、耕地整理もされていない。農業用水路も見かけず雨水(天水)を当てにした昔ながらの原始的な栽培法のままだ。逞しい若者が人力で田起こしをしている姿に、昔の日本の農業を連想。 

   スリランカに限らず海外では河川の本数が、日本と同じ程度の降水量でも、日本と比べて極端に少ないのが不思議。私にはその理由がわからない。山脈に谷があれば一本の川が発生するはずだと思いつつ・・・。 

   航空写真があれば無数の支流が集まって、アマゾン川のように一本の大河になるのも分かるが、それらしき写真にも出会えないまま・・・。 

   ここは直播栽培。水田の中に人が歩く通路が5m間隔位で用意され、畦(うね)の左右から種籾をばら撒くと推定。日本では戦後の一時期、並木植え(横方向の幅は広げ縦方向には密植して総株数を増やし、収穫増を期待する)、直近では省力化を目指して直播を試行した例もあったが自然消滅。これらは超効率的な田植え機械との競争に敗れたと推定している。 

   スリランカのような常夏の国では田植え機械(苗が育つ2ヶ月間も水田が無駄なく使える)と、農業用の水源や水路を完備すれば、ベトナムのメコンデルタのように三期作も可能だが、普及していないのは開発資金不足か? 

 

   スリランカの南部の港町、ゴールの旧市街は城壁に囲まれている世界遺産。日本は元寇の役以降、外国の侵略も受けず城壁は作られていないが、海外では至る所に城壁都市・城塞都市が残されている。 

   1500年代の後半にポルトガルによって建設された城壁の中に時計塔があった。奇妙な形をした大きな草刈鎌で雑草を刈り取っていた。 

 

道端で完熟した黄色いココナッツの絞りたてジュースを飲んだ。安くて美味しいとはこのための言葉のように感じた。 

   城壁の中に残された家の一つだが、観光客が歩く道に塵が落ちていない。 

 

   海岸に沿って歩道があった。ここにも枯葉を初め、塵が落ちていない。 

 

   コロンボでは今や高層建築が林立し始めた。この写真だけを見ていると先進国ではないかと勘違いするほどだ。 

   その一角には大きな湖があり、ガンガラーマ寺院がまるで浮かんでいるかのように建てられている。気持ちよさそうに寝そべっている涅槃像があった。 

   水上の寺院の周りには座像が並べられていた。背中が真っ直ぐな姿勢が何とも清々しい。 

第8日目(11/22) 

コロンボ発UL-45423:59⇒成田着11:50
   何事もなく、無事に成田へ帰着。 

おわりに 

蛇足 

   晩秋から不安定になっていたパソコンが1/10早朝遂に破綻。インターネットが使えなくなっただけではなく、1月末を目標にしながら予定の約半分、19ページまで書いていた『スリランカ』編も呼び出せなくなった。茫然自失。妻子の誰かが突然死(未経験とはいうものの・・・)したような心境に落ち込んだ。読者から見れば駄作でも、本人にとっては精魂傾けて書いた原稿をもう一度書くのは耐え難い苦痛。

   私が愛用してやまない広辞苑の初版は昭和30年5月25日だが、初版の原稿も組版も昭和20年4月29日の戦火で跡形もなく焼け失せ、編者新村出大先生(1956(昭和31年)文化勲章受章。1967(昭和42年)没時に、賜銀杯一組。優れた日本語研究に対し、毎年授与される「新村出賞」がある)は茫然とされた。でも、幸い一束の校正刷りが残されていた。多くの関係者と岩波書店の支援で10年後に遂に完成された。 

   新村大先生の災難とは比肩すべくもないが、今やホームページの維持更新は我が余生最大の生き甲斐。国内外旅行の目的も物見遊山から、そのための話題探しへといつの間にか変化。どんなにお金と時間が掛っても、復元したかった。 

   豊田市に昨秋開店したヤマダ電機に故障したパソコンを即日持ち込んで、年配のプロの修理人に相談。『内蔵ディスクの寿命です。でも、情報が消えたわけではありません。別のパソコンで中身は読み出せます』。幸い万一に備えて取り付けていたバックアップ用の外付けディスク(週一の頻度で更新。最後は1/3)も健在。即日、新型パソコンを購入したものの、初期設定をする気力も消失。ベテラン修理人に有償依頼。 

   大学後輩のパソコン通とプロバイダーの来宅サービスの専門家に頼んで、2週間がかりで、何とか情報の復元に成功。ホッと一息。しかし、旅行記の続編の執筆はすぐにはできなかった。復元した原稿を何度か読み返して、頭の中の短期記憶装置に格納し、気力が戻った2月からの執筆になった。 

   2/21にはプロバイダーが無償でケーブルを光ファイバーに取り替えてくれる。通信速度は現在の30倍⇒300Mb。こんな速さは私には不要だが、有償で貸与中の楽録をテレビのCMを自動的に削除できる録画装置に変えてくれるのが魅力。パソコンもXPからWindows8に変えた結果、やっと衣替えした心境になれそうだ。 

人体の美観 

   私は道路や通路を歩いているとき、すれ違う人の前半身を今までは漫然と眺めていた。髪型・化粧した顔・衣装などだ。ところが今回のスリランカの旅では事前に大腿筋の強化努力をしていたとはいうものの、思うような速さでは歩くこともできず、行列の最後尾からとぼとぼと歩く始末。結果としては同行者の後半身を嫌でも観察せざるを得なかった。 

   同行女性(殆どは産卵期も過ぎた老婆とはいうものの・・・)の体形に美観を発見できずがっかり。どうして前後部でこんなにも異なるのか、不思議だった。臀部が肥大化しているだけではない。臀部が腰部から吊るし柿のように垂れ下がっているのだ。 

世界平均に比べて5~10cm以上も短い脚が一層短く感じられる。臀部を左右にぶらぶらと揺すりながら歩く姿は、ゴキブリやアヒルにそっくりだ。性的な魅力は全く感じない。悲しい現実だ。もはや無用の長物になっている垂れ乳を引き上げる努力と同じように、何故垂れ尻対策にも気が回らないのか、女心は理解しがたい。 

   後姿を美しく見せる努力はアルゼンチンの女性が一番熱心だそうだ。彼女たちは垂れ尻を引き上げ、ぶらぶらし難い下着を開発し、腰部にぴったりと結びつけるだけではない。彼女たちの最大の努力はパンツ(スラックス)のデザインに集約されている。股下を極力浅くし、臀部の収納体積と揺動範囲を極限にまで小さくしている。その効果は歩く姿に顕著に現れる。 

   アルゼンチンの女性の魅力の原点は、国民的な舞踏『タンゴ』の普及にあるのではないかと邪推。タンゴの美しさは小股の切れ上がった女性の颯爽とした踊り方に、多くの男性が性的魅力を感じるからではないか、と思った。 

最後の海外出張は世界一周だった。その時の体験だ。100ドルのディナーショーでは古希を超えたかのような痩せ細った老人が、女性を軽々と持ち挙げて颯爽とタンゴを踊っていたのを思い出す。『コンドルは飛んで行く』を踊った時には、感動のあまり予期せぬ涙が突然溢れ出た。 

   男性の美観はゴルフ場やテニスクラブの大浴場だけではなく、2ヶ月に一回程度の頻度で仲間とともに出かける温泉旅館の大浴場でも長い間、観察してきた。フィレンツェのアカデミア美術館に展示されている、ミケランジェロの『ダビデ像』のような美しい体形は期待するのが無理とはわかっていたが、中高年以降の日本男子の体形の悪さにも聊か幻滅。 

   でも、ときどきテレビで視聴するフィギィアスケートの青年期の日本人の、鍛え上げられた足腰の美しさには芸術家の手も及ばない美観を感じる。ギリシャ彫刻も顔負けの美しさだ。啄木(はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢつと手を見る)とは動機は異なるが、入浴時に我が醜悪な肉体をふと見ると、これでも同じ日本人かとがっくりする。 

   肥満どころではない。サウナ風呂のひな壇に並んで座っている高齢者を見ると、腹部が関取のように半球状に盛り上がっている人が何と多いことか。小用時に自らの陰茎が見えないのではないかと、余計な心配をする。 

背部の形状は更に悪く、幻滅以上だ。臀部にモリモリとした張りがないだけではない。臀部が垂れ下がっているだけではなく、下部がどす黒く変色している人も多い。長い人生行路の熟れの果てとはいうものの、どんな職業についていると、このように変色するのか私には全くわからない。 

  幸いなことに我が背部は見ることができないため、知らぬが仏だが・・・。 

宗教観   

蓼食う虫も好き好きとはいうものの、種々の民族の宗教観の違いにはいつも驚く。宗教は国家の揺籃成立時代に構成員の価値観を統一し、他民族との闘いに有益だったが、今や先進各国では伝統化した単なる装飾品と化している。 

   日本では今後100年間で限界集落が消滅(我が確信に過ぎないが・・・)するにつれて、檀家がいなくなった末寺は打ち捨てられ、住職も失業。観光客の獲得に成功した総本山など、現在の僅か1割程度が生き残るのが関の山か? 

   でも、発展途上国では今なお、宗教の支配力は我が想像以上に強く、スリランカの仏教徒の真面目な信仰の日々は目に眩しかった。まだ未訪問の仏教国、ネパールやブータンなども同じ雰囲気ではないかと想像している。 

街の景観 

南アジアやアラブ諸国の町はどうしてゴミだらけにしても、住民は気にしないのか不思議だ。ペストが大流行した時代以前の欧州にそっくりだ。道路はどこでもゴミ捨て場として活用されている。スリランカの隣国インドはその典型以上だ。トイレのない家が首都デリーでも多く、早朝傘を持参して公園で野糞。乾燥地帯の効果ですぐに乾くとはいうものの、仄かな香りに包まれた町だ。 

その中でスリランカは超例外だった。市街地にも常緑樹が多く、寿命が尽きた葉が一年中絶え間なく落ちてくる。その葉はゴミと一緒に早朝、そこに住んでいる市民が掻き集めて処分していた。各戸の前の道路掃除は全員参加型の市民の努力の結晶作業。日本人以上だ。 

DVD

過去何十回も海外団体旅行を体験し、世界遺産なども数えきれないほど見学した。入場料金は旅費の中に含まれていた結果、領収書の類は通常受け取らないままだ。ところが今回のスリランカ旅行では、領収書どころか直径約8cmのミニDVD(通常のDVDは直径約12cm)も受け取った。合計4枚だ。 

現在世界で放送されている標準画質映像アナログカラーテレビ放送方式には大別してNTSCPALSECAM3方式がある。日本のテレビはNTSC方式(NTSCとはNational Television System Committee(全テレビジョン放送方式標準化委員会の略称)。世界的にはPALを採用している国が多い。 

スリランカの録画方式は知らないままだった。帰国後調べたら旧宗主国イギリスと同じPALだった。旧パソコンではミニDVDはセットすらできなかった。でも、我が新型のパソコンでは難なく再生できた。動画やスライドが内蔵されていた。ナレーションは英語だ。DVDは量産すれば単価は極端に安くなる。スリランカでは2方式のDVDを用意し、観光客の国籍に合わせて配布していると推定した。 

我が観光庁の重要な任務の一つは海外からの観光客の呼び込みだ。今や日本の世界遺産も増えてきた。観光庁が各観光地と連携を取りながら、どんどんDVDを配布するようになるのはいつの日だろうか? 目で直接見る自然遺産はその季節の一断面だが、DVDならば一年中のしかも一番美しく撮影できる天候も選べるというのに!! 

読後感  

注。読後感のうち最初の3名はホームページにUPする前に『査読』をお願いした方々からのコメント付きの読後感です。Wordで書いた原稿段階とUP後とは書式が異なるため、ページ数が異なります。 

スリランカ旅行記読後感(その1) 

今日は金曜日で職場は午前中で終了。月曜からの疲れ出るね。今週火曜日は祭日だったが、それでもしんどいね。仕事も溜まっているが、今日は麻生発言とかでこともあろうに円高、1ドル=94円突破を楽しみにしていたのにがっくりして仕事する気がしないので、仕方なくホテルで石松旅行記の読後感に着手。当初は1ドル90円にはなって欲しいと思っていたが、今や欲が出るね。100円にはなって欲しい。 

この石松旅行記だが、学生の論文でいえば未完成品、不合格だね。例によって地図なし、行程表なし。何処を歩き回っているのか、パソコン搭載の百科事典や地図でやっと把握。時給を貰いたいね。要するに、アヌラダブーラ、シギリア、タンブッラ、キャンディ、ゴールと回ったらしい。私はJICAの仕事で同国に5回出張した。案件としては、キャンディ・ヌワラエリヤの上下水道計画、ゴール港の地方港湾計画の2案件。 

そういう訳で、スリランカには多少の土地勘があるが、同行者でもないのに行かなかった旅行の感想などあるはずがない。旅行記募集も、旅行記作成もやめた方がいいのではないかと思う。 

そもそも今回の旅行記を読むとスリランカ旅行に行く必要もないのではないか?同行爺さんの写真など、自宅の近所でも撮影できる。更に、戒名、墓石、遺影が出来上がっており、生きている必要もないのではないかと思う。 

今回の旅行記は当初に第三者からのメールなど蛇足が続くので、それらは後回しにして、16ページから。 

16ページ)名神高速道路片側4車線計画には全く同意見。日本人が近視眼的なのは世界の常識、「日本的経営は長期的視点が特徴」などは全くウソ。東名などは片側6車線で作るべきだった。東海道新幹線も名古屋以西はお客が減るので回数券割引率も高くなるし、第二名阪もあるので、名神は4車線でいいだろう。ニュージャージー・ターンパイクもニューヨークに近づくと片側6車線、何度も運転したが、はるか手前から車線を移して行かないと、出口を通過してしまう。 

私も最近まで「円安待望」、老人なので「インフレ反対」だが、この両者が経済理論的には矛盾する要求らしいので、今やインフレ賛成に大転換。2%などとケチなことをいわず大型インフレで、老人資産は没収すべしだ。平和が続いたので社会が固定化した。数十年に一度は徳政令で債権・債務を全部チャラにして、再スタートすべきだ。経営不振企業の借金も、住宅ローン残高も、老人の金融資産も全部チャラ、世の中が若返るね。活性化する。 

本日の当地の英字新聞では日中戦争の可能性についてワシントン発の特電を大きく掲載、やはり究極の景気対策は戦争だ。第二の朝鮮戦争で米国も景気回復だ。今度は韓国でなく、日本が当事者だが、米国や諸外国にとっては日韓どちらでもいい話。いよいよ「第二の盧溝橋事件」か?今度は昔のシナ事変と違って中国が攻勢だ。 

17ページ)4行目、日本人の国債保有を外国人は非難していない。日本の銀行にとって、資金需要はないし、国債が一番安全有利な運用先だ。 

石松旅行1日目。こともあろうにスリランカ航空、最近はどうか知らないが、私のスリランカ出張は、当時評価ナンバーワンだったシンガポール航空で4.5往復。片道だけ1回スリランカ航空(3時間半だけ)に乗ったが数時間遅延で参った 

18ページ)真面目そうな紳士、でも私は、馬面は嫌い。理由は特にない。 

19ページ)また馬面。 

ネコンボとはどこかと思ったら、要するにコロンボ空港所在地。アヌラダブーラは知らなかった。マウリヤ朝のアショーカ王の長男が作った古都のようだ。 

21ページ)塔の高さは54メートル。数字に正確な石松氏にしては100メートルとはアバウト。誤差は5%まで。高さでスリランカ第三位だそうだ。 

23ページ)シギリアロックは有名だが行ったことはない。 

24ページ)ヘルパーを雇う気もないのに、気を持たせて値切るとはいやらしいね。WHAT IS ISHIMATSU?の問題だ。 

26ページ)ロックに全員登山とは大したものだ。私は事務所の2階までも手すりにつかまって往復、「老化は足から」を自覚した。 

高層マンションは私も住みたくない。停電もあり、火災もある。 

27ページ)ムーンストーンは知らなかった。月長石というらしい。 

28ページ)タンブッラという地名も知らなかった。 

30ページ)86歳爺さんにはあやかりたいものだ。 

31ページ)キャンディの高級ホテルには延べ4か月滞在、仏歯寺は知っている。しかし、当時はタミールのテロで仏歯寺が破壊された直後だった。 

覚王山の由来は知らなかった。この旅行記拝読で唯一の収穫。豊田工機社長の湯野川君の葬儀場だ。石松氏も覚王山あたりで葬儀をやってもらいたいね。 

33ページ)これも紳士だが、馬面。

  

スリランカ読後感第二部 

34ページ)石松氏宿舎は安宿だからルームサービスはないのは当たり前、添乗員を夜中に叩き起こすとは可哀想だ。私が泊まったのはキャンディでは超高級ホテル2つ、山の中腹と、川岸にあった。コロンボではヒルトンに3か月、快適だったね。 

象の孤児院は私も見学に行った記憶があるが、詳細は忘れた。 

35ページ)セイロン茶畑については、標高1,800メートルのヌワラエリヤへの往復にたっぷり見た。ヌワラエリヤでは元英国総督別荘に泊まった。紅茶工場も見学した。コロンボの港湾局の事務所の給仕の紅茶の入れ方は最高だった。おいしい紅茶が毎日出た。中国の高級レストランでの長い湯口のやかんの中国茶もいいね。 

40ページ)片肘かけのイスは中国にもある。当家でも一対2個ある。便利だ、しかも清朝時代の骨董品だ。ぼろ家というなかれ。 

41ページ)降水量が同じなら河川数も多いだろう。水田や湿地帯に一時貯めるのかも。  

途上国は、道路網は粗だが、河川数が少ないとは初耳、航空写真が無くても今はグーグル衛星写真で世界中見られる。 

稲作のことはよく知らないが、まだまだ収穫増加可能、日本でも終戦直後反当り7俵でこれが限界といっていたが、今や手抜き農業でも反当り10俵、途上国は日本の明治初期(3‐4俵)ではないか? 

42ページ)イギリスがコロンボ港を作る前は、ポルトガル人が作ったゴール港がスリランカを代表する港だった。ゴール港の泣き所は、はるかインド洋から来る大型波浪、私も一度ゴール港から小型船舶に乗って外洋に出たが、すごい揺れだった。スマトラ地震の津波でもゴール港は大被害を受けた。 

しかし、今や超高速のコンテナ船の時代になってコロンボ港の位置が問題になった。同港は幹線航路から北へずれており、コロンボに寄港すると2-3日損をする。もちろん、コロンボ港の貨物は、スリランカ着発ではなく、インドの各港から。インドの各港はコロンボよりも更に不利な位置にある。 

しかし、調査当時の2000年には、インド着発の貨物量はたかが知れており、コロンボ港自体が国際幹線航路から通過される危険性があった。そこで、ゴール港に大型防波堤を設置してもう一度国際港湾として復活させる案が浮上したが、日本チームはそれほどの積極さも無く、地方港湾として設計するにとどまった。しかし、日本人港湾専門家とゴール周辺を車で回った時に、彼はハンバントタが新国際港湾適地だといった。 

その時はそれで終わったが、今や中国がハンバントタに大型港湾を建設済みだ。当パキスタンのグワダルにも中国は大型港湾を建設した(近く第二期工事に着手)。中国の港湾計画担当者には世界的港湾配置図が出来上がっているようだ。 

46ページ)スリランカ原稿が19ページまで取り出せなくなったといっているが19ページまでには大した記事はない。それに必ず外付けHDDUSBに保存しておけば安心だ。私は1日数回以上、数か所に分散保存している。当方は仕事だから、年金生活者の暇つぶしとは事情が違うし、そもそもパソコン技術に全然格差があるね。 

初期設定が出来ないなんて情けない。XPはいいソフトだったが、今頃XPというのも19世紀人間だね。XPで出来る程度の作業しかしていないということになる。尾張一宮に「パソコンお助けレディ」がいるからご紹介しましょうか(岐阜大学名誉教授夫人、大分市出身、美人)? 

当方NTT光ファイバーは10年以上前に導入、違うでしょ。 

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スリランカ読後感第三部

49ページ)限界集落消滅には100年かからないだろう。住民は高齢者だけだ。出産年齢者はいない。高齢者があと100年は生きない。日本の農林漁業のGDP構成比は1%。1%に金を掛け過ぎる必要はない。漁港なども作り過ぎ、集約すべき。過大な公共投資は、財政負担、老朽化、維持管理負担で跳ね返って来る。僻地は野生動物にお返しすべき。 

日本人はもう農業はやらない。家庭菜園は道楽であって産業ではない。製造業は海外に出て行くから土地はそんなに要らない。人間は交通便利、温暖な土地に集中すべき。北海道はクマとアイヌにお詫びして返還、東北地方も蝦夷に返還、南九州も熊襲に返還、琉球は独立させる。福島は永久無人地帯に。都会に集中といっても高層マンションは良くないね。 

僧侶が高額のお布施で贅沢しているのも良くない。小児科医と同等に彼らも人口移動について行っている。都会へ出た檀家の葬儀には出張する。限界集落で野垂れ死にはしない。むしろ最近の僧侶は都会に住んで法事の都度、限界集落に車で出掛けている。大体何軒かの檀家を梯子。葬儀は別だが。でも金になっても僧侶には成りたくない。手書きの塔婆作りは退屈な作業だ。石屋の墓石加工の方は、戒名彫も機械化しているが。 

僧侶にとっての脅威はやはり総人口の減少、でもこれは全産業共通、むしろ葬儀の簡素化が脅威だ。「地味葬」を超えて火葬場直行の「直葬」というのもあるらしい。高齢者の場合、定年退職してから30年、あるいは寝たきり老人を10年、友人知人もすでに他界となれば、葬儀参列者も限られて来る。石松氏葬儀の規模は子供の数次第だそうだが、これから石松氏も更に長生きすれば、子供達も定年になったり、リストラされたり、自動車産業が斜陽になったり、今の内がいいと思うね。 

これからは生涯独身者も多くなるし。見送る家族もいない。 

1ページ)個人情報保護法は最低、数年前親戚のサラリーマンに急用があって勤務先に電話したら、そういう社員が在職しているかどうかも個人情報なので秘密だから電話は取り次げないと。同法案にはそういう規定はないと思うが、世の中には馬鹿と気違いは一杯いるので、運用で混乱するような法律は作るべきではない。同法のおかげで、人事興信録も廃業になった。私は最後の滑り込みで興信録に全国10万人の名士の一人として掲載されている。同書は豊田市図書館にあるだろう。 

検察審査会、裁判員制度も止めた方がいいね。男女雇用機会均等法も本当は考え物だ。みんなそう思っていても言えない。アメリカでも男女の大学教授の能力差はひどかったが、差別訴訟では女性が強かった。 

中段の「誰とでも会話を楽しめる云々」は眉唾、石松氏は旅行業界の有名問題児になっているのではないか?クレイムモンスターとかいうらしい。モンスター対策有料講習会も東京ではある。 

ポロンナルワ連泊と書いてあるが、旅行記中にポロンナルワについての記載がない。何しろ、何時も「地図なし、行程表なし」の石松旅行記だから、本人も何処を回ったのか判らないのだろう。 

4ページ)石松邸で11年前まで朝風呂に入れなかったとは最低、ずいぶん質素な生活だね。一度現場検証したいものだ。私は40年来朝風呂主義、トイレについては北京ではウオッシュレットは各戸に十数年前以上から普及しているが、世界中の一流ホテルにどうして普及しないのだろう。バンコク空港のJALラウンジの楽しみはウオッシュレット。当地水道局の私専用トイレには洗浄用ノズルは付いている。 

(6ページ)私の電波時計はカシオの海外出張者用高級品、ちゃんとスリランカ時刻も表示できる。値段が違う。石松氏よりも格下のローレックス36万円級を使っていたが、重いし、3日連続休むと止まるので、大分前にコーツ時計に切り替えた。 

7ページ)こういう代金は要りませんというのが、一番高く付く。学生ならともかく、私のように一応社会的地位があると、350円置きますという訳にも行かない。君子危うきに近寄らず。当地でも代金は要りませんということがよくあるが、ちゃんと日本人レートを払わなくてはならない。 

8ページ)廿日市に元ライバルがいるとは知らなかった。スリランカ旅行記と全く関係ない記事。広島工業大学の元教授だろう。同校は、理事長がランドサット衛星写真の活用(リモセン)に力を入れている。私はGISにも一応見識あった(当時までは)ので、一度訪問したことがある。青森駅から特急日本海と山陽新幹線を乗り継いて広島へ。ライバルの現役時代は三菱重工広島かマツダ?あるいは広島以外? 

11ページ)スリランカに行けば魚、野菜、肉、全部カレーだ。慣れてくるよ。ウナギは、私は大好物、昨年は値上がりしてかば焼きが小さくなった。 

12ページ)五大紅茶は全部買ってきた。 

  トヨタ同期⇒一年で依願退職・74歳・東大工&経・波乱万丈の人生⇒僻み根性拡大・掘立小屋に満足⇒畳表が見えないほどの塵屋敷でブランド食品(松阪牛・越前カニなど)は食べたこともない乞食生活・典型的な守銭奴 

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足掛け8日間の旅行で50ページもの旅行記を執筆、日当たり6ページ強の中身の濃い宝!並みの人では無理、個人格差甚大、羨ましい! 

個人情報保護法は世の中を味気ないものにした。20数年前に家内と初めて海外旅行をした時、添乗員から参加者名簿が配られ、自己紹介もしあった。それがきっかけで会話が弾み食事の時も酒を酌み交わした。旅行後スナップ写真の交換や年賀状のやり取りもあった。 

高山の土産物店の店主にはその地へ行った時、立ち寄ったら10年の知己に会ったような懐かしさを感じた。土産物も大まけしてもらった。こんな話も今は昔、団体旅行はよそよそしい雰囲気になりました。 

3~4年前に北海道へパック旅行をした。夫婦単位の申し込みで、参加者は10数組。例によって所々で集合写真を撮られた。ある二組が集合写真になると雲隠れした。家内が「あの人たちは訳ありカップルよ!」。あるとき偶然 その人のバッグのネームタッグを見たら、別姓だった。こんな方のためには参加者名簿を作るのは酷か。 

見知らぬ人との相部屋は気が進みません。閉鎖的な性格か?狭心症の持病で夜なかの発作発生時、救助を求めることを心配してなのか?しかし、親しくおしゃべりできる得難いチャンスですね。ほぼ同じ境遇の人だし、相手の人生から思わぬ感動を頂戴できるかもね。 

「一杯の完璧な紅茶の入れ方」に感銘を受けました。紅茶を楽しむ環境作りの中で、「あらかじめ冷たい雨がひどく降る中で、少なくとも30分は重い買い物袋を担ぎ・・・」納得! 

石松旅行会ではテニスやウオーキングで汗をかき、温泉に入って喉を乾かし、そのあとビールを飲みながらだべリング。これが最高!」「完璧なビールの飲み方」です。 

② トヨタ先輩。工・ゴルフ&テニス&温泉旅行仲間・愛妻家&恐妻家&敬妻家⇒たった一泊の温泉旅行でも奥様の許可を仰ぐ方。 

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石松様のスリランカの旅行記拝読させていただきました。多くの知識と生活感の感じられる写真に接し非常に勉強になりました。読んで一つ気になった所を書かせていただきます。 

31ページの覚王山日泰寺に関する記述で【どの宗派にも属していない日本で唯一の超宗派の寺院】と書かれていますが長野の善光寺も超宗派の寺院ではないでしょうか。以前善光寺を訪問した時そのような説明を聞いたことを覚えています。 

参考にネットで検索するとその理由として【日本に仏教の宗派が生まれる以前に善光寺が創建された為】とあります。 

ご指摘に感謝・貴台のご説明の通りでした。私も一緒に善光寺に出かけボランティアの方の説明を聞いたはずなのに馬耳東風。『牛に引かれて善光寺参り』の由来だけが記憶に残っていました。 

昔、長野の善光寺近くに住んでいた不信人で欲深い老婆が、さらしていた布を隣の家の牛が角に引っかけて走り出したのを見て、その牛を追っていくうちに善光寺にたどり着き、それがきっかけで度々善光寺に参詣するようになり、信仰の道に入ったという言い伝えから。 

   トヨタ後輩・工・ゴルフ&テニス&温泉旅行仲間・写真家⇒毎月のように全国を撮影旅行 

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最新号の石松紀行読みました。楽しく一気に読めました。

年を重ねるにつれて益々脳が活性化されていっておられることに敬服しています。小生も少しは肖りたいと思うことしきりです。

最近ある賢者が言っていました。上手く生きることは上手くラストを迎えられる---と。何時来てもいいように、毎日を目一杯活動したい思います。有難う御座いました。

間も無く春到来です。楽しく迎えたいものです。

④ 知人。一昔前突然成人病で倒れられたものの、プール通いでリハビリ10年⇒元気になられた頑張り屋

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スリランカの旅

   どんな旅?

  足掛け2年にわたる短い6泊5日(20101228 ~ 20110103)の旅でした。

また私にとっては旅の中の旅でもありました。『歴史をたずね、自然と親しむレヌカーの旅』というバンコック発のツアーに参加した旅でした。この『レヌカーの旅』には3年前の暮から正月にかけてタイ北部ツアーに参加したことがあり2度目ということになります。

(その折つくった駄洒落;元旦に雑煮食べずに象に乗る)

それ以来面白い企画があるとメールで連絡をくれていました。今回も日本で申し込み、

支払いも日本より送金しました。

20万円ほどの送金でしたがUFJ銀行からタイの銀行に送金するのに8000円も

送金手数料を取られました。外貨送金と言うのは高いものですね)

 

 このツアーはタイに在住している邦人向け年末年始の休みを使っての企画でした。

今回のスリランカは『レヌカーの旅』としては初めて、言わばトライアル的ツアーでした。

参加者は夫婦ペア4組、単身者は7名(男6、女1)それにツアーコンダクターの

レヌカーさんを入れて総勢16名の旅でした。単身者のうち私をいれて3人はわざわざ

日本からこのツアーに参加するために来た人でした。また一組の若夫婦を除いては皆

レピーターで中には10回も参加したという人もいました。それ程この『レヌカーの旅』は

特徴がありマニアック的な旅のようです。(何がマニアックかは後ほど)そんなわけで

1回参加しただけでもう結構もう行かないという人が多いそうです。

 

 

 この15名中で私が最年長、次がレヌカーさんの1940年生まれ、お蔭で長老扱い、

喜んでいいやら悲しんでいいやら、このハードな旅の全行程ついて行けて皆さんに

迷惑をかけなければ素直に喜ぶことにしましょう。

 

 

   スリランカ どんな国?

 多くの日本人は『スリランカ』と聞けばセイロン紅茶くらいしか思いつかない。少し

時勢に関心ある人は島の北部で内戦があって最近は少し落ち着いているようだくらいの

知識です。

 ツアー参加を決めて『地球の歩き方・スリランカ』を買ってスリランカの地図を

はじめてじっくり見ました。もう少し参考資料はないかと豊田市の図書館で調べたが

スリランカとして一冊の本になっているものは見つかりませんでした。

 

 インドの東にイチジクの形をした島スリランカ(SRI=光輝く、LANKA=島)

面積は北海道の80%、そこに人口2200万人が住んでます。第二次大戦後の1948年

イギリス連邦セイロン自治領として独立、1972年に共和国スリランカとなる。今は

正式な国名はスリランカ民主社会主義共和国です。首都はコロンボの東10kmの

コーツテに1982年に遷都したが今のところ国会議事堂だけで実質はコロンボが首都、

人口200万余の大都会です。ここは16世紀初めからポルトガル、オランダそしてイギリスのアジア植民地化政策を進めるための重要な港であり、マラッカ同様に重要なインド洋の拠点でもあったわけです。

 

 光り輝く島スリランカの悲劇はシンハラ人(73%)タミル人(18%)ムーア人(8%)

という民族構成の上に仏教、ヒンズー教、イスラム教とキリスト教の4つの宗教があり、

シンハラ人は仏教、タミル人はヒンズー教、ムーア人はイスラム教を主に信じて、ポルトガルが来てからキリスト教(ローマンカソリック)に改宗したもの者(タミル人に多い)が今では10%ほどいて、民族、宗教それに最近のナショナリズム化の影響もありモザイク模様で争っていると言うのがスリランカの現状のようです。

 シンハラ人はインド北部、タミル人はインド南部(インドとスリランカは海上50キロの

距離しかない)から来たと言われており言語が書く文字も含めて違っている。言語も宗教も違えば文化もちがい一体になるのは容易ではない。これは今に始まったことではなく

時には争い時には融和しながら紀元前から続いている関係のようです。

これは駅名の看板ですべての公共物は共通語である英語を含めて3つの言語で表示されて

いる。

 

 

 タミル人はスリランカの北部に多く住んでいるとの事ですが、今度回ったコロンボや

島の中央部でもヒンズー寺院もモスクも見られ文字通りモザイク状況で住んでいる。

我々日本人からみて顔や体形からシンハラ人かタミル人かは区別出来ないが彼ら同士は

すぐわかると言うのがガイドの説明でした。

 

 この二つの民族の争いを旨く利用して植民地政策をやって大成功したのが英国でした。

19世紀から20世紀前半にかけてセイロンにやってきた英国人は我が世の春を満喫して

いたことでしょう。スリランカの中央部は標高1000メートル以上ありリトル・イングランドと言われているヌラワエリヤは1700メートル、まさに軽井沢、いや軽井沢がきっと

ここを真似て作られたのかもしれない。街の中心には公園、ゴルフ場に競馬場、人造湖

山の中腹に住宅と言う典型的な英国の街を実現させていました。

 驚いたことに明治維新の頃にはすでに鉄道をコロンボからここまで敷設して、

海岸沿いの暑いコロンボから逃げ出し涼しい高原でゴルフや競馬をやっていたのだから

まさに大英帝国でした。どうも20世紀後半からの世界の混乱の根源は大英帝国の植民地

政策が残していったもののように思われてならない。

明治元年は1868年、新橋と横浜間の陸蒸気が走ったのは1872年です。

 

              

 スリランカの歴史が古いのには驚いた、日本では縄文時代の紀元前3世紀頃から

アヌラーダプラを都としたシンハラ仏教王国が栄えていた。10世紀ころまでここが

都だった。ここは仏教の揺り篭と言われまだ大乗仏教も小乗仏教(上座)もなく

5世紀頃には中国僧法顕もここを訪ねている。タイやビルマの仏教もここを経由して

伝わっていったようです。シンハラ王室の王位継承やタミル人の勢力増大などで

都は南へ南へと移動してボロンナルワに、ポルトガルが入ってくる16世紀には南の

山の中キヤンデイに逃げ込んで、ポルトガルの力を排除するためオランダに頼り、

オランダが強くなってくるとイギリスに頼りして何とかシンハラ王国を維持してきたが

ついに1815年にはキャンデイにあった王国はイギリスによって滅ばされ完全な植民地

にされてしまった。因みにインドが完全に植民地化されたのは1877年ですから60年も

早いわけです。スリランカの植民地化はその後のイギリスがアジアやアフリカで植民地化を進めるモデルだったかもしれない。

英国人は最初コーヒーのプランテーションを試みたようだが旨くいかず、紅茶に

切り替えて成功して、そのプランテーション労働者を南インドからタミル人の大量

移民させたのも今日の混乱の原因の一つにもなっている。

紅茶プランテーションに貢献した英国人J.Taylor(18281902)  

 

歴史が古いだけにこの小さな島に世界遺産が7件も登録されています。上の赤字で

示した3つの地点を結んだ三角形の内側は沢山の遺跡群が残っていて文化三角地帯

Cultural Triangle)と称しています。ツアーは丹念にここを回らせられました。

 

 

 

 

   ハードなレヌーカ・ツアー

 初日 1228日 バンコックからコロンボへは夜中の移動10;20PM離陸

3時間半のフライトで到着が0;15AM(時差―1.5h)ホテルに入り就寝したのは

2;30AM 翌朝のモーニングコールは730AMでした。

ツアー・コンダクターのレヌーカさん、バンコック空港で参加者の紹介

 

 2日目 1229日 830AMより先に送られている資料をもってラウンジに集合して

レヌーカさんより『スリランカの歴史』のレクチャー、資料を忘れ部屋まで取りに行かされた。参加者は客ではなく生徒扱いです。

スリランカの仏像とか古代建築の解説など事前にバンコックの泊まっているホテルまで

届けられ、『前もって目を通しておいてください』というメモまでついていた。

 

 ホテルを1000AMころ出発、コロンボ市内をバスの窓から見物して160キロ先の

今晩のホテルのあるアヌラダプラに向う。途中生きている寺院ケラニア寺(歴代大統領が

就任時には参拝する寺)を参拝する。

高層ビルも立つコロンボの街

 

昼食を終わって230PM出発、道路の渋滞は激しく悪路も続き中々バスは進まない。

このようなバス旅行で一番困るのはトイレ、ついに男性はバスを止めて立ション(全行程で3回した)女の人はさぞ大変だっただろう。3時間半かかってやっとアヌラダプラに、

もうすっかり暗くなっていたが予定通りホテルに入る前に二つの寺を回る。

 生きている寺回りは大変です、境内に入るには裸足でなければ入れない。門の外で靴を

脱ぎ広い小石だらけの砂地の境内を歩くわけですから。

暗い境内を裸足で歩き参ってしまっている私、遠くに見えるのは仏塔。

 

 この日のホテル・チェック・インは900PM過ぎでした。部屋に行く前に

夕食、ゆっくり飲みながら語りながらというデイナーなんて『レヌカーの旅』では

考えられないと言うのがレピーターの言、覚悟を決めました。

 

 

 

 

 3日目 1230日 古都アヌラダプラからハイライトのシギリヤの岩山へ

 起床は600AM、730AM出発、紀元前2世紀ころから10世紀頃までのごろごろ

しているところを回る。世界遺産とはいえやっと発掘が少し始まり塔などは一部修復作業に入ったところのようだ。

仏教の揺り篭と言われた地であるだけにこの様な塔(ダゴバ)があちこちに見られる。

上の写真の塔は高さが55メートルあるそうで、紀元前2世紀ころに立てられたとか、

下は修復中のもの、塔の壁面に木や草が一杯生えていた。

                          コブラ使いの見世物

                        

古都アヌラダブラからシーギリヤ岩山遺跡まで40キロほど、途中は田園風景何だか

一時代前の日本の田園風景によく似ている。雨もぽちぽち降ってくる、突然雨に誘われて

1メートルはある大トカゲがバスの前に現れる。

 

岩山遺跡シーギリヤに300PMについていよいよ登るころになって雨も本降り(通常の

年は乾季で今年は異常とのこと)220m垂直な岩山も頂上は霞んでいた。

この岩山の頂上は平坦で敵にせめられぬように王宮をつくり世界の美女を500人も囲っていた王が5世紀ころいたという話が伝わっている。登る途中の岩肌には綺麗な美女の壁画が残っている。階段が全部で1200段、しかも岩壁の外に張り出すように作られていて高所

恐怖症の私にとっては死ぬ思いで登ってきました。登りより下りの方が怖かった。

1400年前の絵とは思えないほど綺麗に残っている。18人の美女が描かれている。

往きはよいよい帰りは怖い!!!!高所恐怖症のものにとっては曇っていて良かったかも。

2時間半の岩山登り降りでした。

4日目 1231日 ポロンヌルワからキャンデイへ

昨夜も予定より2時間半も遅くボロンヌルワのホテルにチェック・イン、疲れているので殆どの人は夕食をとって部屋に、幸いこのツアーには呑み助が4人ばかり居て飲んで寝なきゃ疲れはとれないと言いながら、レヌーカさんを酒の肴にして飲む。明け方目が覚めるほどの雨、雨季に逆戻り、これでは遺跡めぐりは今日はダメかな。しかし出発は予定より

30分早くなり730AM,ポロンヌルワは10~12世紀にシンハラ王朝の都、王宮や

寺院の遺跡が残っている。そこを半日かけて散策しながらいく予定だったが、この雨と

昨日の岩山登りで足が痛くなり、4人の人にバスにのって先に行くのが許された、私は

その中の一人に指名されやれやれでした。昨日のアヌラダプラの遺跡よりバスの駐車場やみやげ物売り場などもあり、トイレもまあまあのものがあって何とか世界遺産としての

観光施設が多少備わっていた。

雨に降られ靴の中まで水は浸みて泣き出したいほど、この後バスに収容された。

 

さすがマニアックな人が集まるツアー、雨などものともせず仏像やレリーフを見ながら

タイのアユタヤのどこそこの仏像と同時代では?とか言いながら写真に撮っている。

昼食は昨夜とまったホテルにとったが、晩、朝そして昼はビッフェ式で出ているものは

殆ど同じの食事でした。期待していた本格的インドカレーは食べられなかった。

インドとスリランカではカレーが違うのかな、タイの方が旨いカレーが食べられる。

 

昼食後13;30、1815年に英国に滅ばされた最後のシンハラ人王朝の都キャンデイに

向う。お昼にビールを飲んだせいもあってものの一時間も走らないのにもう尿意を、

北海道より小さな島に人口2200万人、人口密度が高いせいか、行けども行けども街道

筋に民家あり小便ストップできそうなところ無し、バスのスピードが益々遅く感じる。

キャンデイまで4.5時間、この間トイレ施設あるところ一つもなし、途中バスの燃料補給でスタンドに寄ったがお客用のトイレなし、女性優先にして男はみな木陰ですました。

(トイレの話ばかりで失礼、観光国になろうとしたらトイレは重要、その点日本は世界一)

 

キャンデイのホテルは山の上、チェックイン前にスリランカ民族舞踊見学と仏歯寺参拝

してから。仏の歯はお釈迦さんの歯、王朝を維持していくシンボル(三種の神器?)で

あり一般信者の信仰物でもあり、特に今日は大晦日、ご開帳があり物凄い人が来ると

言う話で民族舞踊は2030分で切り上げ、寺に向う。確かに大勢の人が待っていたが

外人扱いかすっと入ってご開帳まえの黄金色の大きな扉の前まで、そこに坊さんがいて寄進して一緒にお参りするだけで終わり、まあ立派な扉をみせてもらいその中に仏の歯があると信じればいいかと妙な納得して暗い堂から出てきました。写真は寺院内すべて禁止。

打楽器中心でタイの踊りより優雅さがない。

大きなバスは道せまくホテルまで行けず、途中まで行ってホテルの車が迎えに来るのを

待つ、暗いがたがた道をしばらく登ってやっとホテルにもう今夜も8時過ぎ、顔と手を

洗っただけで近くのレストランに、今晩は大晦日ということでガラ・デイナー、地元の人たちもきている12030人は入っている大きなレストランでした。

ツアーの最年長ということで乾杯の音頭をとらされたが大音響のバンドが入っていて

話はできない。食べるか飲むかしかないが、そのうちにツアー仲間の一組がフロアーあがりダンスを格好良く踊りだす、続いておよそダンスとは全く無縁に思えたレヌーカさんが踊りだし、それに吊られてか34人の仲間がフロアーに、ラテン系の曲ばかり皆さん

結構上手くステップを踏んでいる。

長老もどうぞと誘われたが、100日のクルージングあれだけ練習したがダメだったのを

思い出し、再びコンプレックスを味わった2010年の大晦日の夜でした。

5日目 2011年元旦 キャンデイからヌワラエリヤに

昨夜はガラ・デイナーで遅くなり夜中過ぎに寝たと言うのに今朝のモーニング・コールは

5時半、出発は6時、朝食はランチ・ボックスとなる。今日はベレデニア・ジャンクションという駅で815発の列車に乗るのに遅れてしまったら大変と言うわけです。元旦と言うのに道はスムースで発車1時間半前に客は誰もいない駅に着いてしまった。

新幹線並みの広軌だが線路が悪いのかバス以上にがたがた揺れる。キャンデイの標高は

300メートル、ヌワラエリヤは1700メートル山間を縫うように時速340キロで登って

いく、途中キックバックが一ヶ所あったが100キロくらいの距離を3時間半掛かった。

茶畑が延々と続く。今日はよく晴れて昨日がうらめしい。

 

列車をヌワラエリヤの町に近いオヤ駅で下車して先回りしていたバスでまた山道を

一時間ほど登って標高1700メートルのヌワラエリヤに着く、早速今晩のホテルに行き

午後1時半過ぎの遅い昼食にありつく、何しろ朝はランチ・ボックスでしたので。

腹が空いていたのか気圧が低いせいか昼のビールがよく効いた。

標高が高いので寒いからセーター必携と言われてたが長袖シャツで十分でした。

ホテルは外観も内部の造りも完全に昔の英国調(豪州や南アの田舎町あったホテル)で

駐在時代を思い出し懐かしさを感じました。

この街は英国が植民地化してから作った街で歴史的遺跡はなく、植物園が良いから

見に行くことになる。特にレヌーカさんのお勧めのジャカランダ(花が咲いているかも)

とチンチョーラ(香木で石鹸などにいれている)を探して歩く。しかしジャカランダの

花は咲いておらず、チンチョーラも見つけられず、高地なのか小雨模様の霧も出てきて

バスにかえる。ホテルとは45キロのところだったが道路工事中で大きなバスのすれ違いが大変で往復で一時間以上も掛かってしまい、植物園にいたよりもバスに居たのが長い

くらいだった。

今回の旅ではじめてホテル・チェックインが5時半明るいうちでした。夕食は7時その

間は自由、部屋に入り大きな昔式のバスタブにたっぷりお湯を張り疲れた足を揉む。

夕食前ホテル内を見て回っていたら玉突き台のあるパブ風のバーがあり、久しぶりに

ジントニックを飲みながら植民地時代のイギリス人に思いを馳せていました。

 

 

6日目 12日 山を下ってコロンボへ、夜行便でバンコックに、長い一日

今朝はゆっくり、ゆっくりと言っても900AM出発(予定表は1000だが、出発は予定より早く、到着は予定より遅いのがレヌーカツアー)朝食前小一時間ホテル周辺を散策する。セーターをもって出たが着るほどのこともない気温で爽やかだった。

昨夜の飲み代は部屋つきのサインで飲んだのでチェックアウト時に支払いがあり、

キャシュ・カウンターで少し待たされのでバスには最後の乗車になりレヌーカさんに

睨まれた。飲み代の一部にはガイドさん(35歳くらいの男性、シンハラ人)を慰めてやる

ビール代も入っていました。レヌーカさんはガイドを初めからバカにしているのか、名前は呼ばずいつも『Mr.ガイド』呼ぶ、これは聞いていてもあまり良い感じはしない。

 

バスは昨日登ってきた列車の線路に沿ってどんどん下る。コロンボまで160キロ、最初の

780キロで殆ど下ってしまう。標高1000メートル以上のところは茶畑、ところどころに

滝があり素晴らしい景観、道がよくバスがもう少し静かだと言うことないのだが・・・・・

この滝の見えるところにお茶の製造工程など説明したり、即売するPR館があり一休み

クワイ河マーチで知られる『戦場にかける橋』の撮影場所はタイではなくスリランカで

1954年に行われたそうです。

昼食はこの河沿いでとり215PM出発、コロンボ市の中心にある国立博物館に向う。

コロンボまで残り残り80キロほど、5時までに入らないと閉まってしまう。道は多少広くはなったがその分車も増えて走れない。ドライバーには相当なプレッシュアー、事故でも

起こさなけばいいがと思うほど無理して走る。結果は博物館前に15分遅れで到着、幸い

閉館は6時ということで入館許される。何はともあれ全員トイレをめがけてダッシュした。

白亜の威厳のある立派な建築です。1877年に時の英国セイロン総督W.グレゴリー卿に

よって造られた。それまで搾取一辺倒だった植民地政策を少し見直し懐柔策の一つとして

造ったようだというのがレヌーカさんの見解でした。日本は明治10年西郷さんの西南戦争の時代に最初から博物館として建てるのだから総督府してお金が余って困っていたので

しょう。閉館時間まで広い館内をかけるように回ってバスへ。(4日間見てきたところの

ものが上手く展示されていてゆくっり見たら面白かろうに)

 

予定表には8時の夕食前にまだ3つのことが残っている。『インド洋に沈む夕日を観る』

これは時間との競争、大混雑の海岸に急ぎもう殆ど沈んでしまって夕日の残照だけ見る。

続いてショッピング、大きなスパーにここのお土産は紅茶が一番、他には宝石類があるが

もう贈る人もなし全く興味なし、他の人が買い物を終わるまでビール飲んで待つ。

予定にはなかったがいろいろな国の骨董品を買い集めている人がいて全員で骨董品屋を

見に行く。間口は狭いが奥行きのあり屋根裏までいれると4階になっていてガラクタが

一杯、見分ける目さえあればきっとこのガラクタの中に掘り出し物があるかも知れないが

私には身近においてそれを愛でたり、他の人に得意になって見せるような趣味はない。

結局その人も何も買わずに店を出たが、その人の奥さん曰く『私が一緒だから買わ

なかっただけ』きっと家ではガラクタ集めで奥さんに文句を言われているのでしょう。

 

コロンボで一番立派な海岸沿いのホテルで最後の夕食、満天の星の下、冷えたビールを

片手に美味い料理を食べ、ゆっくり旅の反省でもしながらと期待したが、星どころか雨もパラパラきて屋根の下、ここもビフェ式のスタイル、高級なレストランだろうが大衆食堂なみの混みようで、しかも空港への出発時間は一時間後の930分、最後まで慌ただしい

食事でした。

レヌーカさんの奮闘振りと長老の私が何とか皆さんに迷惑を掛けずについていけたことを

祝って乾杯、そして今後の『レヌーカの旅』参加を許すという合格の言をくれました。

 

空港ではガイド・運転手に一人10ドルづつ(ドル札で渡す)集めたチップを渡す儀式を

やりました。チップの采配はすべてレヌーカさんです。彼女はガイドも運転手もあまり

評価してなかったので彼らは期待したほど貰えなかった筈、朝は早くから夜遅くまで

働かされて少々気の毒に感じました。

 

フライトはタイ航空TG308、出発時刻は日付かわって135AM、ゲート前で待つこと

2時間、やっと乗り込んだフライトは満席、一杯飲んでぐっと寝たいがなかなか酒も来ず、

まんじりともしない内に3時間半のフライトはおわりバンコックに朝630に着き、荷物を受け取ってそこで解散、ご苦労さんでした。

 

ハードなハードな旅は終わりました。面白い旅でした。機会あればまた参加するかな。

 

 

 

 

『レヌーカの旅』 余話(1) スリランカの自動車事情

もと車屋の性が古希を過ぎても抜けず、走っている車種、どこのメーカー、シェアーは

どのくらい、道路状況は、走り方は、積載状況など初めての国にいくと気になってしまう。

古いトヨタ車が元気よく走っているのを見るとうれしくなる。

ダイハツ・ミゼットのような三輪車、一昔前にはバンコックでもよく見受けられた

トクトクが庶民に足、バス停などにたむろしている。

国道13号線の幹線道路、中央線もあり路面もまあまあ、今回走った中では上等の部類だが

悠々と牛車が通る。インド程ではないらしいが牛や山羊が道に頻繁に出てきてその都度

急ブレーキ。追い越しは命がけ、最前席(長老ということでここを指定席にしてくれた、他の人は毎日一つづつ下がるのがルール)でしたのでハラハラのしどうしでした。

バンコックに帰ってTMAP(Toyota Motor Asia)の日本人スタッフに聞いたところ

スリランカは豊田通商扱いで年間4500台の市場でしょうということでした。関税が

滅法高く政府の割当てで決まるようで年により輸入量はちがうようです。街で見る車は

日本車が圧倒的でトヨタと日産は互角で、Isuzu のピック・アップもよくみました。

スリランカで名鉄バスが走っているかと驚きました。外観塗装もそのままで一般乗り合いバスとして使っているようでした。一応左側通行右ハンドルのイギリス式ですので中古車は日本から持って来やすいようです。

 

『レヌーカの旅』 余話、その2 米国人Olcott大佐

コロンボの中心コロンボ・フォート駅前に米国人オルコット大佐の銅像がたっている。

最終日この銅像を見学して話を聞くことになっていたが、時間切れで割愛されてしまった。

1880年イギリスがこの地を欲しいがままに振舞っていた頃、仏教はキリスト教より一段

低い宗教とされていたのを宗教論争をしかけ仏教を援護してシンハラ人からは仏教再興の

父と言われ敬われている。

私が何故この話に興味をもったかというのは ①米国人がどうしてスリランカまで来て

仏教を援護したのか ②この人は大佐というのだから軍人出身で何故仏教に関心をもったのだろうか ③丁度このころ日本にきたフェノロサが岡倉天心と仏教美術の発掘をして

いる。案外フェノロサとこのオルコット大佐はお互い知己ではなかったか 

と想像したからです。

このオルコット大佐についてもう少し知りたいので何かよい参考本でも知っておられたら

教えてもらいたいものです。

 

 

『レヌーカの旅』 余話 その3 レヌーカさんはどんな人?

今回のこのマニアックな旅で関心をもった一つがレヌーカさんその人自身です。

朝早くから夜遅くまで動き回り、雨などものともせずどんどん裸足で歩き、

現地ガイドなど足元にも寄れない豊富な専門知識を駆使して説明し、バスに乗ればすぐ

寝られる体質、しかももう古希を迎えられたというのにこのエネルギーは一体どこから

出てくるのでしょう。

 

S14年生れICU卒業後、都立大学で人類学をやりインドのニューデリー大学に留学、

そこでタイ人のレヌーカさんと知り合い結婚、3人の息子に恵まれたがご主人はもう

12年前に死去、ご主人はタイ政府の外交官でした。任地としては若いときに日本にも、

また今回のスリランカには1984年から3年ほど赴任されておりよく知っておられるわけ

です。その意味で懐かしの島スリランカで、レヌーカさんにとってはノスタルジアの

旅でもあったわけです。(もちろん昨年事前調査で来ておられるが)

 

どうしてこういうスーパーレイデイーが生まれるのでしょうか。一般的に言って女性は

海外で一人でやっていくのは男より強いように思う。レヌーカさんの場合言葉は日本語、英語にタイ語の3ヶ国語問題なし。メンタル的にはもう日本人ではなく、かと言って

タイ人でもなく、コスモポリタンの一人かもしれません。ほぼ同世代の人の中にも

凄い女性、時が時なら女傑と呼ぶのにふさわしいが居られるもんだと、古希まで平々凡々と生きてきた凡人の男はただただ感心するのみです。

 

レヌーカさんのホームページはhttp://www.renukatour.comです。著作なども紹介されています。

                       20111月 記す、加藤哲也

                                   以上 

 

 

 何時も見識高いレポート、コメントいただき感謝しています。貴兄に比べ小生のレポートはがさつで恥ずかしく思っていますが今更直せるわけもなく、 それでも読んでいただけるならと続けています。


 
貴兄のレポートに対してご返事は考察も必要で躊躇するのです。まして連続したお便りを精読していませんので「なんだ、読んでいないのか」と言われそうで申し訳ないと考えてしまうのです。小生のレポートはある意味では一方的なのです。独断と偏見そのものと思っています。
 
 
ところで新聞には「広告を読む」楽しみが有ります。広告は独断と偏見で一杯です。近頃のテレビもひどいですね。まともな番組はスポーツ中継くらいでしょうか。
 
 
クラブツーリズムで旅をされたのですね。この旅行社はいくらか上級な旅、ビジネスクラス、グリーン車はそんなに素晴らしいのか、クルージングは優越感を味わえるのか、なんだか初めての旅を勧誘されている様な気がします。ホテルに若干ご不満が有った様ですが、どうゆう理由だったのでしょかね。昨年「飛鳥」で旅しました。宣伝に釣られた気がしました。名前に酔っている旅人もいましたが、小生には瀬戸内海航路関西汽船の方が気楽でリラックス出来ます。
 
 
本信を書き始めた328日(に限らずいつでも同じですが)中日新聞広告は面白かったです。講談社現代新書「おどろきの中国」は三賢人が解き明かす中国だそうです。どこまで中国が分かっているのか、買っても良いけど「なんだ~」程度でしょう。同日「週刊文春」で「中国猛毒食品肉まん(豚の屍肉)」は日本人だけが食べているのだろうか、中国人は何を食べているのだろうか、そんな馬鹿なと思ってもこの週刊誌を読む人がいるのでしょう。日本は平和なんです。週刊誌は広告だけで内容は推測出来ます。
 
 
さて、貴兄レポートに対して恥ずかしながら少ない知見で少々述べます。
 
 
1.スリランカ旅行記 何時か述べましたが貴旅行記は通俗の旅行記に無い知見、感動が有って有益且つ楽しい読み物です。
 
 
1)クラブツーリズムはややハイクラスの旅行会社と認識していました。


 
ホテルでの問題は値段の問題では無かったのでしょう。国全体レベルなのでしょうか。一方街はきれいだったと記述がありました。45年前のインドに長期滞在したことがありました。国民の暮らし、街の汚さは今も変わらないと思いますがホテルは整っていました。当時の日本よりはるかに文化的でした。スリランカも英国植民地だったのですからイギリス式の文化は継承していたはずでしょうにどうしたのでしょうか。
 
 
2)トイレ洗浄器は水道が引かれておればインド、タイ、マレーシア、シンガポールでは昔から一般的です。シャワーではなく手で支えるホースです。

 

多分カンボジア、インドネシアでも同様と思います。インドでは水道の無い庶民はコップ一杯の水を使い道路脇で用足ししている習慣は今も変わりなくご存じでしょう。思うに、水は紙よりも割安なのです。水洗後の水気は 尻を振って飛ばすだけです。中国山間部では水は貴重品、紙も割高です。今でも天井からつるした稲藁でしごいて用足しします。稲藁は天井を一回りしてくれば乾燥パラパラと汚物は落ちて再利用出来ます。同様な方法は昔日本では竹べらで何回も使っていたと言います。
 
 
3)旅の楽しみは初めての人との交流です。

 

現地の人はもとより同行グループの人との出会いはうれしいものです。しかし今日では会社内でも疎遠、仲間意識の無い人が増えて来ました。


 
リタイヤされて久しい貴兄はご存知ないでしょうが、会社内では隣席の同僚とでもメールをやり取りする時代です。小生は出来るだけ飲み会、行き過ぎて「泥酔会」なる会を開催しています。小生の中国鉄道旅行の楽しみは車中で見知らぬ人との会話でした。

 

中国でも新幹線方式が普及して来ました。この車中には会話は有りません。日本でも同じですね。ローカル線の様には行きません。昔は飛行機内では隣の人との会話が有りましたね。ビジネスクラスではプライバシー優先の物理的壁が有ります。


 
貴兄の積極的交流は人生を楽しくしてくれるはずです。是非続けてください。
 
 
2.中国の将来はどうなるかのお訊ねが有りました。
 
 
1)小生は結局人生の大半を非民主主義国家で過ごしてしまいました。

 出だしは「人民行動党の一党独裁国家シンガポール」でした。次はイギリス植民地下の香港でした。この数年は共産党の中国です。幸いいずれの国地域でも経済発展真っ只中でした。国民生活は向上途上でした。 自由、民主主義でなくても経済発展しておれば政治はそれでも良かったのです。
 
 
2)中国経済は発展しています。

 

30年前いや20年前でも今日の中国は誰も予想出来なかった程発展しました。今、民主主義のかけらも有りませんが国民は豊かになりつつあります。中国の一部である香港・マカオではいくらか民主主義もどきが有ります。 北京から「台湾吸収への布石・民主主義は知っている」の外部発信でしょう。今書いている様な発言も中国公安を気にする必要は有りません。北朝鮮とは全く違います。しかし不公平、格差は著しくなって来ました。毛沢東時代は平等だったと言う人もいます。
 
 
3)そもそも14億の国民を自由、民主主義で統治することは無理だろうと思います。

 
 
これは本当に実力ある(評論家でない)政治家、学者の領域で小生では判断出来ません。唯、国の統治は人口数千万人から一億人程度がやりやすいのではないかと思っています。ドイツかフランス、アジアならタイ、フィリピン程度の人口なら民主主義が活きるのでしょう。


 
一億人を超えると銃規制も出来ないアメリカや実態の分からないインドを想定します。日本は国力も出せるし民意も反映し易い人口規模だと考えます。政治家は何もしなくても、あのひどい人でも総理になれる国です。
 
 
4)アパルトヘイト時代の南アフリカとの対比を述べられました。


 
少なくとも中国では文革以降教育水準が上がり国力は着いています。世界の工場と言われるのもそれなりの教育がなされた結果でした。他の途上国に駐在した日本人が中国労働者のレベルの高さに驚いています。毛沢東も元教育者で熱心だったと伝わっています。


 
古い時代には科挙の制度で優秀な人は社会に役立てる道が有りました。現在優秀大学への進学差別は無いとは云えませんが出自は大きな障害にはなっていません。1998年南アフリカへ旅をしました。黒人が自由を獲得して4年経っていました。教育レベルの低さをどう克服するのか興味がありました。その後の知見はありません。
 

中国習近平主席は南ア含めアフリカ支援に乗り出しています。中国はアフリカの先生になろう(実は経済侵略かも)としているのです。小生の偏見は、アフリカ支援は旧宗主国か中国にやって貰ったらという事です。日本はもっとアジア特にASEANと組んだ方が楽で実があると思います。

 

 5)有り余る労働力もさすがに不足して来ました。

 

教育レベルも上がって単純労働では国が成り立たなくなるでしょう。農山村地にも工場進出が進んでいます。そして将来は高齢者社会へ急速に進む事は自明です。日本が高齢者社会を克服した後(必ず成し遂げるはずです)中国は日本を学ぶ事でしょう。その為にも中国は日本と仲良くしなければならない、中国は分かっていると思います。 公害天国を返上した日本の実力を中国の識者、現代史を知る中国人は知っています。
 
 それにしても新聞のどの紙面にも中国の記事に溢れていることは日本メデイァのネタ不足を感じます。尖閣諸島を日本が報道すればそれを種に中国外交部は更に拡大して伝える。そんな感じがします。
 

お尋ねの答えになっていませんね。ごめんなさい。


 
では又。

・脱サラして香港で大成功された方

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