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日中不再戦 中国東北部に関東軍の足跡を追う 悲劇の要塞「虎頭要塞」訪問 団長 稲子恒夫名古屋大学名誉教授 2000年6月2日(金)〜9日(金)・8日間の旅(23名の訪問団)
記録係 冨田好弘( 記録係(冨田)の認識の浅さと敗戦時、満2歳であったという事もあると思うが聞き違いや不正確な点が含まれているかと思うので正してほしい。 また、すべての行程が終了し訪問団解散時点で「中国東北部に関東軍の足跡を追う」に参加した感想をそれぞれがまとめようではないかということになったが、それとあわせて読んで頂くとなお全体的に全容がつかめると思う。 呼びかけは「いままで多くの日中不再戦の旅を実施してきました。中国の東北部にも足を運んでいますが今回は旧ソ連との国境地帯を訪ねます。満州事変を契機に軍部はソ連との国境に関東軍の精鋭60万人を配備します。“満蒙は日本の生命線”の掛け声のもと、難攻不落と云われた“虎頭要塞”も築きあげられました。同時に抵抗運動の激しかった国境地帯に大規模な開拓移民を送り込みます。また満蒙開拓青少年義勇軍をも大量に送り込みました。その後軍の無謀な拡大政策のもと、関東軍は南方地方に移動しますが、開拓農民は男を除いて女、子供、老人が取り残され、敗戦の事実も知らされず放置され多くの犠牲者を出しました。この旅では、それを確かめ不再戦の決意を固めたいと思います」と。この趣旨に賛同してさまざまな思いを持ち寄って訪問団が構成された。 4月28日、愛知県中小企業センターにて参加者への「説明会」が開かれた。 参加者の中には関東軍「虎頭要塞」に行ったことがある84歳という高齢の方、兄が戦死してその供養をしたい方、妹が残留孤児となり5年前に対日訪問で面会し帰国が実現した方、元開拓団で幼少のころ住んでいた所へ何としても行きたい方、自分は若いが日本の中国侵略の実相をこの目で確かめ後世に伝えたいため等など深い思いが語られ歴史的にも意義ある訪問団となることが確認された。 そして団長に名古屋大学名誉教授の稲子恒夫さん( 残念なのはこの企画の中心で努力された県連の大橋事務局長が体調不良のためドクターストップで参加できなかったことである。しかし、名古屋空港へ見送りと帰国時に元気そうな姿を見たとき「訪問団」の皆さんはほっとした様子だった。 第1日目 6月2日(金)午後12時40分 名古屋空港・国際線3階出発ロビーへ集合。 自己紹介、さまざまな注意事項、為替レート中国の一元が日本円で13、5円。広大な中国だが日本より1時間ずれる時差などの打ち合わせ。 その時、大橋さんが急にドクターストップで行けなくなったことと、参加者全員分の空港税をカンパして頂いたことをお聞きし、大橋さんや富士ツーリストの吉田さん、かっての「戦友」などの見送りをうけ23名で元気に出発。 添乗員は黒龍江省中国国際旅行社のチョウ愛濱(日本駐在員、男性)さんが紹介された。 中国国際航空Bー737ボーイングで天津へ、簡単な中国風の機内食をいただき2時間で到着。天津から列車で長春へ行く予定であったが事前に満席と分かり北京へ150キロ、バスで約2時間かかって移動。気温30度、どこまでもつづく田、畑、平野を通り広大な中国大陸を実感しながら、また大変化をとげつつある工業地帯、市街地をみながら高速道路を一路北京へ。 途中バスのなかで孫大利さん(男性)の案内で中国の交通ルールはすべて右側通行、信号赤でも勇気で渡るが事故の少ないのは慣れてきたためと説明。用意された人民元へ両替1万円は774元、中身が足りないぞと2人から。中国はどこへ行っても沿線の街路樹が地面から1m余り白く何か塗ってある、それは害虫から守るためと説明。 市内で夕食をとる予定だったが時間がなくマクドナルドの食べ物をチョウさんが一括買って乗り込む。ハンバーグ、ポテトチツプ、ウォータなどだったが不評との意見もあった。 寝台列車は軟座と硬座とあるが高級な軟座になると説明。北京駅へついたとき、人の多さにびっくり、ざっと1万人はいそう、「ここで演説をしたら」とか「即、公安がとんでくるぞ」などの会話。ビール350ミリが4元(54円)だった。 北京駅発20時30分の夜行列車(車内泊)で約10時間かかって瀋陽、長春(旧新京)へと。後で発表され分かったことだが2日前、北朝鮮の金正日総書記一行、50名が朝鮮半島西海岸、瀋陽、北京間を専用列車で往復し南北会談に備えて中国首脳と会談をした時に利用した同じ鉄道であった。 さまざまな思いを募らせながら話が弾む。戦後を含め13年間中国人民解放軍にいた体験をもつ副団長の永吉さん、野戦病院関係にいたこと、林飛行隊に所属し奉天の近くで解放軍に加わり、牡丹江へ。 中国では昔も今も徴兵制度はないが農民出身が多い、今は「エリート」でなかなか入れないとか。三大規律があり人道主義の精神が生きている。それは一つは命令には絶対従う、二つは捕虜を虐待しない、三つは人民のものは針、糸一つ取ってはならぬなど。 朝、明るくなった4時過ぎ農民がたんぼ、畑へぞくぞくと向かう光景が。 第2日目 3日(土)早朝7時 長春駅に到着 列車のトイレが汚い、水関係が悪いと意見が・・・チョウさんは北京発はまだきれい、その他へ行くともっと汚いよと答えた。 それに対して稲子団長「社会主義は清潔な便所から」を中央政府に報告を、それに対してチョウさん「ハイ報告します」と。 人民公社制度が文化革命後廃止され土地は国のもので耕作権(使用権)は個人に移行したが牛馬農耕が主力か、いたるところで2頭づつで作業をしていた。 長春は1931年3月1日、日本が占領、翌年、傀儡国家・満州国(中国では「偽満州国」と呼ぶ)デッチ上げ、首都「新京」とした歴史がある。 旧満州国(東北三省・黒竜江省、吉林省、遼寧省)は日本の広さの3倍で人口1億2千万人である。長春の人口はは市街地で280万人、全体で680万人である。200年の歴史をもち、北海道の また長春は戦争中日本人が20万人いて、70才代の中国人はほとんど日本語を話せる街でもある。「時の中曽根首相、女性問題の宇野首相もきた」と。 朝食はバイキングで食べ物は豊富でおいしかったと一様に。 この日は吉林省の役人で数度の来名時には「秘書長」の王玉昆さん(男性)に同行していただいた。王さんは名古屋で開催される平和のための戦争展に協力をしていただいている方である。 地下水を水源とする人工湖・南湖を見学して、長春テレビ塔へ208mの高さ、146m展望台の回転レストランでお茶のサービスをうけ、長春の街を一望した。 中国の人は収入の差が大きくそれによって歩く、自転車、バイク、自動車と交通手段も分かれている。家賃は収入の1割であるが、結婚費用はすべて男性が持つ、子育てもと、「男はつらいよ」と地元ガイドが。東北地方は側溝がない、雨が少なく、雪が多いがサラサラであるため。長春人民広場(溥儀・ラストエンペラーが新たに住む宮殿を建設中に敗戦で中止した中国で2番目に大きい人民広場)で楽しい踊りを見た。民族衣装姿が鮮やかで面白かった。 今夜の宿泊は長春一の5つ星、シャングリラホテルであるが荷物をおいて旧大和ホテルで昼食、ガイドが「高松宮」と同じ食事を出したと冗談めかしいことを言っていたが、皆さん満足していた。 溥儀第4婦人であった人が現顧問をしている長春老年大学で買い物をした。 偽皇宮陳列館(旧関東軍司令部)見学。 14年間(1931〜1945)
「ラストエンペラー・溥儀」が、傀儡皇帝として日本の天皇制、軍部とりわけ関東軍と一体で中国侵略と支配を強行した根拠地。戦後は極東裁判で溥儀は証人として日本侵略を批判し判決に服した。当時第1婦人から第5婦人までおり、関東軍の支配のもとでのリアルな実態が詳しく説明された。 その説明をされた「ちょう」さん(女性の方)が今年8月に開かれる名古屋での「戦争展」に当時、溥儀の使用したものを持って来名されることになった。再会が楽しみ。 満州国国務院、現在医科大学を見学。日本の国会議事堂と同じ時期に、同じ材料で作った建物だそうだ。その中に中国侵略に重要な役割を果たした、戦後A級戦犯となった岸信介の写真もあった。満州皇帝溥儀が閲兵台として立っていたところもあり、人民広場を背景として記念撮影。 夕食は長白山ホテルで飲み放題、しかしビールはシャーベット状であった。 稲子団長、事務局の五十嵐さん、田中さんは吉林省側と「戦争展」の打ち合わせを平行して行った。 5つ星のシャングリラホテルに帰るバスでガイドが日本の千葉中心で地震があったと。 12億5千万人の中にはワルイ人も、特に夜の電話、女性には気をつけての注意あり。早速、部屋に入ったらリリッと電話が鳴り、びっくり。2〜3回かかってくるのでどきどきしながら受話器をとると・・・「電気がつかんが、どうすれば」と同行者からだった。 第3日目 4日(日)早朝ホテルのロビーで稲子団長が「森首相がまた大失言をした」と報告。奈良での演説で民主党は共産党と組んで天皇中心の国体を変えようとしているので「国体を守らねば」戦前の国体擁護であり国民体育大会ではないよ、重大だ、国内では大騒ぎだなと騒然。最年長84才の渡辺さんがしきりと強調、「森失言で自民党崩壊だね」と。 バスで長春駅へ、本日の気温、最高31度、最低19度と。8時長春駅からハルピンへ、約3時間かかる。駅が混雑しているので集団行動を、「残留爺ちゃん、婆ちゃんにならないように」「忘れ物ないように、前に入れ歯を忘れたおばあさんが一週間後の北京を立つときまで届かずおいしい中華料理を食べたいと思ったけど残念だった」とのこと、くれぐれもとガイド。 駅のトイレだったか軍人と70才以上無料と書いてある。またトイレ談義はずむ、ソ連、米海軍、ベトナムなどの。待合室が3つに分かれていた、普通客、グリーン客、軍人用に。 列車に乗ったが隣の寝台車で大きな声でやり取りがあった。どこでどうなったのか、もめたあげく中国人は移動せず。われわれは寝台車4人用に8人座ってせまかった。後で分かったことだが予定していた列車が故障し連結するとき、寝台車に変わったことからトラブったのだと説明。 この列車はハルピン経由、チチハル行きと聞いた。話は弾んだ。京都から参加の桐畑さん、中国重点文物戦跡考古学調査の一環としての話、愛知でも参考にするといい。線路の両脇にどこへ行っても植えてあるポプラの木が戦時中、列車が狙撃される危険から日本軍がすべて切り倒したこと、気が遠くなるほど続くコーリャン畑、「ここはお国の何百里」と行軍した思い出ばなし、学校制度と文盲の状況、郵便配達事情などなど話題に。沿線にたくさんこんもりしたお墓があった、まだ土葬が多くあるようだ。農業は冬が長く一毛作、秋に野菜を貯蔵する、土は良いので五穀(コーリャン、米、麦、大豆、トウモロコシ)中心。 ハルピン駅に到着(北京から約1300キロ)、この駅構内で伊藤博文暗殺されたと。駅前地下は防空壕として掘ったが今は地下街と説明。昔憲兵隊の建物、今は列士館、日本人で反戦の勇士として緑川英子の名が記してあると。昼食時に稲子団長へ面会が、黒竜江省社会科学院副院長、ハルピン日本研究所センター長の歩平さん。ハルピン市街(東北第二の都市400万)を案内、メインストリート、旧満州鉄道本社、大学群の学府路、国際博覧会センターなど、途中、犬をたくさん乗せたトラック、補身湯・ホシンタン(犬の入ったスープ)材料とのこと。 731部隊(平房、ハルピンより南方20キロ)の現場へ、まず「侵華日軍731部隊罪証陳列館」を訪問。侵略の動かぬ証拠、あの細菌戦に備えて3千人余の中国人、ロシア人を「丸太」と称して人体実験をした所。 ガイドのトウさん(男性)の熱烈な説明。怒り、ため息、何と残虐、非人道的なことが。 国連へ戦争関係の世界遺産へ登録申請中(広島の原爆ドームとポーランドのアウシュビッツ収容所はすでに登録済み)旧日本軍は敗戦直前に、その罪証を隠匿するため主要施設のほとんどを破壊した。 いま、第二次世界大戦史上ただ一つ細菌戦研究基地遺跡として発掘・保護・修復計画を始めたところ。第1期(2000〜2001年)地下発掘と開発、特にロ号棟・特設監獄を中心に地下細菌実験室の開発、731部隊本部建物、動力班ボイラー室、凍傷試験室、地下動物飼育室等11カ所の保護、整備。第2期(2002〜2004年)地下貯水池、地下ガス貯蔵室の発掘、殉難者の慰霊碑建設等。第3期(2005〜)1期、2期の地域以外の遺跡の保護と維持を目指している。 最近日本の新潟から2時間でハルピン国際空港へ来れるようになったことを考えると多くの日本人が来るようになるといいと思った。この地域の住民は真実を知らされず、少しの金を受け取り毎月1軒で5匹のネズミを出せ、出さないと殺すと言われていたこと、細菌戦が朝鮮戦争で実際にやられたことなども説明があった。石井四郎隊長の使っていた部屋も現在学校の一部として残されていた。 バスの中で谷口伊佐男さん( ガイドが中国の大学事情を説明。大学はほとんど国営、私学は0.1%、前は入学金が日本円で5000円(成績が良いことが絶対条件)95年から国は出さなくなり今は50万円納めたらOK。 目のまえをタイプの違ったバスが走っていた。通勤バスの普通トロリーバスは0.5角(1角は1元の10分の1)クーラー付きは2元とのこと。 ハルピン市内の旅行社とタイアップしているお土産屋に案内されたが値段がなく交渉で決まる楽しさはあったが売り手の「すごさ」には参った。みなさん良い記念になるお土産が買えたようだ。テレビ会社があったが中国と韓国の合弁会社と。 ハルピン東駅から乗るのに近道を通ったが途中通行止めの所を交渉してOK。しかし、段差が大きいので通れず隣のおじさんに話して自転車をどかして工事中の所をどんどん進んだ。待合室にて大きな荷物とたまごをたくさんもっていた元軍人の親子がいた。病気の父親を見舞いに行くと云う。永吉さんの通訳で一時の交流を楽しんだ。「お大事にー」の気持ちで別れた。列車は夕方5時15分発で、ロシヤ国境、虎林市へなんと約18時間、車内泊でと出発。クーラーなしだったが異国の地でトロイカ、蛍の光などすばらしい音楽に奏でられおだやかな気分になった。 訪問団の中には「友好運動の一環」と言う観点からマナーについての一般的常識が必要では、の意見も。日本が侵略しつくしたあとで立ち上がった中国人民の国の建設と暮らしぶりや文化の違いを日本と比較して批判するのでなく「人民の友好」を育てる見地に立って見ることがことが大切ではの意見も。 夕食は食堂車であったが、たまたま解放軍参加13年の副団長の永吉さんを囲んで話を聞いた、朝鮮の元山で生まれ密山、牡丹江、新京と移り安東で軍の病院関係におり1958年に帰国。日本共産党副委員長立木さんの奥さんと在満で同年、永吉さんは肺結核の大手術で戦死をまぬがれた。中国は「私の青春そのもの、人生の上で熱い思いでの地」と、弟はハルピンで餓死、妹は帰国目前の佐世保の船上で餓死。遺体の上陸許可がされず毛布にくるんで海へ。無念を語る永吉さんは「私が生きていて今やれることは日中友好へ貢献すること」「自分は昭和33年引き上げたが戦後残された戦友3万人の生死を賭けたことを思うと」「日中友好の本当に井戸を掘ったのは田中角衛ではないっ」と・・・他のグループもそれぞれ深い思いを語り合った。 第4日目 5日(月)早朝4時半ごろ通路の窓から明るくなった景色を何人も何も語らずずぅっと見ていた、麻山駅通過したとき「開拓者が多く入った地域だが」と誰かが言った、その当時の苦しかったことがうかんだのだろう、車窓からは針葉樹が多くなった。 列車が駅出発のとき快音を鳴らした、誰かが「いいクラクションだなー」とつぶやいたら「汽車は汽笛と言うんだよ」と元国鉄マンの勅使河原勇さん( この地は1945年8月下旬、集団自決があったところだそうだ。残留孤児が最大の発生地とも。虎林市へあと5時間。ハウス栽培の光景が多くなり丘陵地帯が広大で何処までも続く。 穆稜川に沿った普通の道路が舗装されているのを初めてみた。迷彩服で出勤、下はそれぞれのズボンだが、ファッションか。年金には所得税がかからない中国。一人っ子政策は街道委員会(町内会)から印を貰って子供を作る、前後も検査が・・・管理しすぎではの声が。 渡辺勝さん(84歳、 虎林市駅へ到着、黒竜江省関係の役人、ホテルの人など5人が出迎え。たくさんの人がいたが外国人が珍しいのかみんなが我々訪問団を見つめていた。虎林市人口30万人、昼食を虎林賓館でとり100キロ先の虎頭へバスで向かう。 虎頭要塞は旧ソ連との最前線基地、関東軍最大で最重要基地、「東洋のマジノ線」、8000人全員が地下コンクリート要塞で3ケ月補給なしで戦える体制をとったところ、8・15停戦命令が届かず戦闘が続けられ要塞に立てこもった約2500名の兵士、開拓民のほとんどが死亡。大きな記念碑に8・26ソ連勝利記念碑、スターリン万歳と記してある。バスは広大な原野(昔とあまり変わってない)を「100キロ以上」のスピードでガタガタ道を飛んで走った。佐藤久雄さん( いよいよイマン国境、ウスリー川、ロシヤ(旧ソ連)との国境へ着いた。船でロシヤの2つある国境監視塔近くまで接近、案内人が「中洲はロシヤ領。今、国境線を越えた。」誰かが「銃撃されやせんか」と。記録係の私は緊張したのか、とんでもない「ガタガタバス」だったからかおなかの激痛に見舞われ国境線越えたロシヤ領内でトイレの世話になった。 大虎の記念碑の前で記念撮影。虎頭要塞の前に「遺跡記念館」が建設中、あと2年したら完成とのこと、添乗員のチョウさんが「なぜここに日本軍が来たのか」中国人の共通の疑問と話す、ぐっさりきた。日本国民全体が考えるテーマでは。訪問団は5つある地下壕(すべて地下通路で一体化)の中の1つ虎東山要塞(700名収容基地)の中へ、現地の案内人が説明、「要塞」の一部であるが大陸侵略の意図とともに「全容実態」の核心に迫った思いだった。地下要塞の出口で加藤良一さん( 虎頭要塞を後にしたバスの中で河畠美智子さんのハーモニカ伴奏で歌詞を見ながら全員で歌を歌った、ふるさと、赤とんぼ、四季のうた、埴生の宿であった。さらに思いを深くした瞬間でもあったのでは。 遠く旧ソ連国境へ見渡す限りの大平原、ここが旧満州の最北端の地、そこで見たのが「大地の夕陽」だ。バスは停車しいっせいにカメラのシャッターが切られた、「・・・離れて遠き満州の、赤い夕陽に照らされて・・・」 夜のホテルで最年少の高橋誠君( 団長が「中国東北部、不再戦の地への旅はよっぽどの人しか来ない、現地での説明、案内はもっと日本語でも表記を」と強調。渡辺さん「ハルピンからとても良い旅に」 事務局の田中さん「自然環境の非常に良いところ、自然クーラー、大自然、料理がおいしい、最後まで楽しく」。 加藤良一さん(82歳)「戦死した兄の慰霊にきた。これまで旅行社が許可しなかったのでホテルの部屋でお経をあげた、現地でやれてホットしていると自作の歌を」と披露した。副団長の永吉さん「修学旅行で虎頭へきた、57年ぶりだ。」 現地ガイドのトウさん「一生懸命案内した。毎日が勉強、いいお客さんでした」と。「鉄砲じゃないよ」(大砲のことを)とヤジが。 添乗員のチョウさん「中国の旅はたくさんあるが、中国東北の旅がほんとうの旅。東北部で日本が何をしたか、日本国民は中国に対してあまい、政府は悪い態度、侵略の歴史を認めていない、日本の若い人に歴史教育をしっかりしていない、これが将来、障害になるのでは。新たな侵略者、加害者にならないために周りの人に話してほしい。私も頑張る」と力を込めた姿は印象に残った。そして「日中友好協会のみなさんとの旅は好きです」とも。河畠成治さん、美智子さん夫婦。ご主人が吉林省トンカ県の収容所で13歳のとき生き別れた妹が残留孤児となり5年前に帰国して感激の対面をした。その妹が住んでいたと言うのが虎林であったと話された。 第5日目 6日(火) 本日の行動予定は虎林を後にして密山、牡丹江へ。 それに先だって関良雄さん( 訪問団は密山へバスで3時間余 地方ほど移動時に「移動証明」がいるが、地方政府役人が同行すると何事もスムースであつた。途中密山市役所へ立ちより主任などが同行。 密山市は人口40万人、昼食時にもう食べきれないほどたくさんおいしいものがでた、別室では市幹部など10人ぐらいを接待していた。そのあと永吉さんが通った学校を56年ぶりに探して訪問した、市幹部の計らいであったがたまたまその学校の卒業生でもあった。「一つ確かな思い出の所へ来た。本当に良かった」と。みんなで拍手をして喜び合った。記念写真も。百貨店、自由市場で買い物を楽しんだ。おみやげに「テッペイ」という饅頭かお菓子かわからないが買った。 密山駅から4時すぎ列車で牡丹江へ向かう。到着は夜中の11時になる。食堂車にて夕食、四川省料理を含めて豊富で食べきれないほどあった。飲んで食べて長い時間、話し合ったが飲み過ぎたのか、話の中身は明確な記憶にない。団長から記録係も疲れてるねと叱咤激励。食堂車は満員であったが我々以外の人は何も食べず座っているだけ。どうしてか聞くと、一般席が満席で深夜列車であるため食堂車の一席を20元で乗務員から買っていると、仕事をもとめて瀋陽、北京方面へ行く人々だった。あとで分かったにせよ何か申し訳ない気持ちになった。 則武政雄さん( 深夜11時、牡丹江賓館到着 最高齢の渡辺さんが繰り返し「平和でこそ民主主義があってこそ発展がある。中国でのミニスカートの流行は治安が良い証拠、戦争は絶対にしちゃいかん」と力説。しかし、肩で息をされきつそう、お孫さん心配そうに。 第6日目 7日(水)今日、明日は2つの班に別れる(1班は図們、延吉方面、2班は牡丹江でゆっくり市内見学に) 昨夜心配だった渡辺さん元気な様子で顔をだされたので安心。 1班は稲子団長、事務局の五十嵐さんを中心に10名、それに添乗員のチョウさんが案内として随行、記録係の冨田はこのコースを希望したので2班の記録は事務局の田中さんにお願いした。 2班は永吉副団長、田中さん中心に13名、ガイドは権香玉さん(女性)。 1班は朝9時頃牡丹江駅発の列車に乗ってまずは図們へ、途中はじめて雨が降りだした、車中で昼食。パン、ザーサイ、ユバであった。車窓からずうっと外を見ておられた則武さん、1943年軍用列車で釜山、延吉、図們を通過して最終段階で満州の部隊に送り込まれた時のことを話された。 添乗員のチョウさんが図們、延吉は目前に北朝鮮との国境がある、朝鮮族の街(人口の90%)だが,しかし北朝鮮との自由往来は不可と。韓国人は北京経由でしかはいれないと。中国にはたくさんの少数民族がいる。朝鮮族もその1つであり国籍は中国であり、朝鮮族自治州として存在、これからすべての表記は二重表記(ハングル文字と中国語)であると。 3時に図們駅へ到着、専用バスで国境の街、図們江へ、ガイドは吉林省延辺大学院生(日本語学科)朝鮮族の申雪梅さん(女性)というはつらつとした方だった。ガタガタ道を猛スピードで走りながら日本語学科で習った言葉で説明してくれた。「スピードだして(社会)発展させましょう」と。図們江は白頭山を源流として517キロ流れて日本海へ。 いよいよ国境線、北朝鮮の山、街をこの目で確認した。橋の上に大きく白字で境界線と書かれていたその現場に、30元の入場料をだしてみんなで行った。中国兵がいる中で国境線上で記念撮影。ちょっと「線」を越えて北朝鮮へ足を踏み入れた人もあったが中国兵は何も言わなかった。北朝鮮側の警備体制はなにも見あたらなかった。その1週間後14日に南北朝鮮首脳合意が発表されたことが大きな背景にあったからか。 ガイドが日本のニュース知ってますか、地震が関東地域であったこと、森首相の「神の国発言」みなさんどう思われますかと。北朝鮮側の街( 延吉へ到着、まるで朝鮮にきたと錯覚するくらい朝鮮族の街である。霊峰長白山(朝鮮名白頭山)の玄関が延吉。観光客は年間日本人5%(3〜4千人)90%韓国人。途中、雨の中畑に落ちていた事故車を発見、軽トラと2台、少しケガしてるが大丈夫とその場をあとにした。中国ではパトカーも救急車も来ないそうだ。街にはタクシーがあふれていた、人口比で第2位のタクシー率とのこと、市内は5元でどこへでも、上限は遠くても10元。住居の屋根に変化が、入母屋風や草葺きなどと変化していた。夕食は朝鮮料理がたくさん、白酒、犬肉、「りんごナシ」など食べた。ホテルは白山大厦で5つ星だそうだ。ひさしぶりに日本のテレビ報道NHKを見た。 第7日目 8日(木)このホテルに江澤民国家主席が1991年に宿泊したとか、ホテルのパンフには4星級と。 延吉市内を見学へ、昨夜食べたりんごナシ畑を見た、43万本15キロ延々続く中国2位の広さがあり経営は個人ごととのこと。ここの教育は朝鮮語だが選択は自由、第一外国語は日本語、留学のトップは日本、朝鮮族は2人っ子政策で奨励金一人5000元、関東軍時代の間島省人口30万人(朝鮮族70%)。抗日パルチザンの英雄であった尹東柱の詩碑(出身校、私立龍井中学校)を訪問。心苦しい案内ですがと言って説明が、同志社、立教大で学び治安維持法違反で逮捕、福岡刑務所で収監、九州医大で「毒針」で殺され人体解剖されたと。ガイドが街の人は通称、自転車をネズミ、マイクロバスをおばさん、トラックを酔っ払い、バスをおじさん、タクシーをお嬢さんと呼んでいると話す。熊が500頭いる東方熊楽園(経営者広島県出身の人)を見学、入ったところへ人間以上の大きな熊が放してあって、皆さん記念写真をびくびくしながら撮った。案内人の母は日本人であると紹介、熊の胆として薬や薬用酒として売っていた。サンプルのみ試飲した。バスの運転手さんに昨夜2時に赤ちゃんが誕生、一睡もしていないとのこと。「おめでとう、安全運転たのみます」と全員で拍手を送った。小学校の昼休みはほとんどの生徒が家に帰って食事、親も帰って一緒に、せまい範囲の学区だからと。 昼食は朝鮮風冷麺だった、変わっていて味付けがよく量はたくさん。日本帝国主義侵略東北史実展覧という建物で現地では通称、愛国主義教育基地を訪問したが補修中のため休館で残念、しかし広い建物を一回りした。 村山首相時に戦後50年で「日本の戦争責任」を明確にした国会決議の後、中国が全国的に省ごとに5年前建てたものの1つ。延吉空港へ着いた時、稲子団長が「運転手さんありがとう、6月8日は赤ちゃん誕生で忘れられない日ですね、拍手を」と。ガイドの申さんへは鋤柄昭一さん( 北京到着後市内菜館にて夕食。ホテル王府井大飯店に宿泊 第8日目 9日(金)いよいよ帰国。5時起き、夜は気づかなかったが目の前にあの天安門とその全景が見えた。その場所へ行きたいと思ったが今後の楽しみに。 早めの朝食をとりバスで天津空港へと走った。車中、先の2班に別れての行動内容を簡単に報告しあった、2班の永吉副団長、1班は稲子団長から。独自に訪問された 名古屋空港へ午後1時40分到着、空港ロビーには大橋さん、富士ツーリストの吉田さん、戦友などが出迎え、全員元気に無事帰国を喜び合い再会を約束して解散。一路家路に向かう。 チョウさんありがとう、お疲れさま。団長ほか世話役の皆さんご苦労様でした。 追記 この訪問を企画し、呼びかけした中で県連の大橋さんが言ってみえたことがある。 また、 不十分な記録報告となったが、参加者のみなさんがこれを筋として訪問団の成果を「語り部」として活躍されることを望みたい。 記録係の私は小さな農村地域に住んでいるが、敗戦の前日、アメリカの艦載機2機が停車していた名鉄電車を、襲撃し100人近い死傷者をだし、あたりが血の海となったことが語り継がれている。しっかりした公式の記録はない。またこの村では太平洋戦争で280人が出兵し、73人が戦死、村のほとんどの家の兄弟、父等が犠牲となっている。老人クラブの方から戦争当時の話しを聞いた生徒達が竹村小学校の学芸会で「竹村でも戦争があった」を劇にし、大きな反響を呼んだ。 これらの大きな背景に中国大陸への侵略があり、結果として広島、長崎への原爆投下、各地の空襲、そして竹村での戦争被害があった。昨年、地域によびかけわが家で開いた「竹村でも戦争があった・展」を草の根平和活動として発展させ、昨年に続き、中国東北部の「不再戦訪問」した私にとっても歴史の教訓として広く生かさなければと決意を新たにしたのである。 以上 2000年6月30日 記す (冨田好弘 不十分さはお許しください。不正確な点は正して活用してください。
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