-地域紹介-
  本村は天喜2(1054)年の開発であり村名を若林といい、戸数18戸即ち産土神(ウブスナガミ)として八幡宮を勧請し奉り、社殿を逢妻川の辺なる小高き丘に建てて、祀ったのが始まりといわれております。そして元永年間、寛喜年間修復を加え、永仁6(1298)年社殿を改築し正平11(1356)年屋根替えをしたそうです。(円楽寺記録口碑)文安3(1446)年、蓮如(レンニョ)上人の願いによって千葉三十郎(後都築三十郎)は、石川政康等とともに武州都築からこの地に移り住みました。都築一党の崇神の念は厚く、八幡宮社殿を改造し社地を調え、又祭事を厳かに行ったそうです。明応の頃、本多四郎左衛門が領主となり、字上野山に城を築き住みました。(三河国二葉松)本多氏は八幡宮を崇敬し、明応5(1496)年社殿の大改修を行っており、天正9(1581)年には都築半右衛門が、氏神八幡宮社殿を建てたとされています。(都築氏古系譜に記す)享保5(1720)年、代官及び村役人等十数名らは八幡宮の社額を奉納し、安永5(1776)年都築利左衛門は石燈籠一対を寄進したとされています。
 今では若林地区の住民の信仰を集めており多くの行事が行われ、5と0のつく日には境内で昭和51年頃から始まったという朝市が開かれて賑わいます。
<「神社由緒沿革」より引用>
 若林西町宮下の若林八幡宮にある雨乞御輿は、高さ約2m、重さ約100kg、屋根には鯱、鬼神の鬼瓦、竜頭、四君子の花(松・竹・梅)が飾られ、軒まわりには学者・仏人・神官・七福神などと思われる木目細かい彫刻があります。屋根には瓦がなく格子の間から水が抜けるようになっているのが特徴です。作者は不詳ですが江戸時代の作ではないかといわれています。
若林地区は、現在も北山・東山・狸山など「山」のつく地名が多く残っていることが示すとおり、大昔には南に入江、北に山があったらしく、非常に起伏が激しい土地で雨も少なかったようです。
 当時の農民がこの御輿を雨の降るのを願ってかついだ様子が想像できます。
<豊田市発行の「ぶらぶらてくてくガイド」より引用>