序話 空の遺物

「こうして1人と1匹は、共に旅立ちました」
 物語の最終頁に、今まで綴られてきた物語やその表紙が重なる。すると、軽い風圧が起こる。それによって、黒い布地が微かに波を打った。閉じられた本には、白っぽい動物の絵が描かれている。その上に乗せられた美しい手の持ち主は、空いた方の手で幼い少年の頭を撫でる。柔らかい金色の髪が、細い指の間から零れ落ちた。
 まだ5歳になったばかりの息子に、彼がお気に入りの童話を読み聞かせて寝かしつけることが、ここ数ヶ月間のソードの日課だった。この歳の子供に対しては少しばかり長い話なので、たいてい3分の1ほど読んだところで彼女の息子は寝入ってしまう。そのため、その日は最初から次の章まで、その次の日は続きからそのまた次の章まで、と途切れ途切れに読んでいくのが常だった。
 ところが、今夜はどうだろう。最初から最後まで読み終わって尚、幼い子供は寝付けないでいた。いつもは夢中になって何度も語ったその話に耳を傾けているというのに、先から幾度も大きく溜め息を吐き、窓から覗く大きな衛星を見上げ、なんとも落ち着かない様子だ。
 実は、彼はもう半日も前から、ずっとこんな調子だった。緊張感にも高揚感にも似たうずきが、小さな心臓の辺りを行ったり来たりしているようで、何をやっても一向に収まる気配は訪れないらしい。
 原因は分かっている。昼間、大学から帰宅した彼の祖父が語った、翌日の大学祭のお誘いの話のせいだ。
 ソードの方も、それを了解している。そっと苦笑をすると、息子を布団の上に横たえた。
「さあ、もう早く寝なさい。明日、起きられなくなってしまうわよ」
 掛け布団の上から小さな方を数回軽く叩くと、黒いスカートを揺らして立ち上がる。少年の枕元にある机に童話を置き、部屋の明かりを絞る。
「おやすみなさい」
 静かに部屋を出て、戸の隙間から中を見守る。残された子供は、数度寝返りをうっていた。しかし、やがて安らかな寝息を立て始めたことに苦笑し、そっと戸を閉めた。
 惑星に照らされて、童話の題名が微かに輝いていた。

Beast Game

 空も祭りを楽しみにしていたかのように、晴れやかに澄み渡っている。音楽と人々の声で、通路をどこに向かおうと、ざわめきが絶えない。主催者としては嬉しい限りだろうが、幼少の子供が歩くには少々窮屈が過ぎる。連れとはぐれないよう、懸命に足の間をすり抜けようとするのだが、その度に押し潰される思いを味わわなければならなかった。
 様々な方向に向かっていた人々の流れがいつしか一方にまとまり、やがて緩やかになり、完全に留まった地点で、少年は隙間から顔を覗かせた。一つ息を吐き、金糸の髪を舞わせながら正面を仰ぎ見て、そこで彼の視線は釘付けになった。
 いや、彼だけではない。足を止めた誰もが、正面の建物の2階のベランダにある女性の凛とした立ち姿に魅了されていた。遠くからでも分かる、中央で分けられたくせのある長い髪は、赤と紫と黄と白をうまく混ぜ合わせたような独特な色をしている。それの先を風に遊ばせ、紅玉の瞳で真っ直ぐに前を見据えている彼女は、まさに唯一無二の存在に見えた。
 彼女は、ここから遠く離れた王都に住まう王女だった。名前を、マグノリアという。直接王の統治下にいない彼等の耳にも、王女の噂はよく届く。美少女であり、勉学にもよく励み、大きな行事には必ず顔を見せ民を敬う。先日は、彼女のためにパイが作られたという話題も上った。王位継承権を持つ次期国王である兄よりも人気の高い彼女が、南に浮かぶハミット島の視察の途中で祭りの最中である大学を訪問するという話が広まったのは、ここ数日のことだったろうか。それでこの年の大学祭は、例年に無く人が集まっているのだった。
 数秒経ち、マグノリアの隣りに白髪の青年が同じように立った。この大学からハミット島も含めた広い範囲を収めている自治領主だ。同じ紅玉の瞳でも、王女のものとはまた違った印象を受ける。少年の叔母にあたる線の細い女性が、彼に寄り添うようにして従った。
 だが、少年の目に見えたのはそこまでだった。3人が揃って一瞬の後には、もの凄い歓声が辺りを覆いつくし、こぞって前に出ようとする大人達に巻き込まれてしまった。王女の様子も、連れの様子も、構っていられない。蹴られ、転び、踏まれることの無いようにすることにのみ、意識を回す。必死になって足の合間を潜り抜ける。人の流れの少ない方へ、人のいない方へ。たまに手を付きながらも、とにかく走った。
 幼児の足にしてみれば、結構な時間を走り回ったかもしれない。建物の影に逃れ、服に付いた砂埃を払い、ようやく一息吐いた頃には、王女のお披露目も終了したらしい。遠くに聞こえていた歓声の嵐は、とうの昔に止んでいる。
 連れから完全にはぐれてしまった彼は、泣くことはしなかったが、不安な気持ちには駆られた。大好きな童話に登場する少年を思い出し、冷静になれと自分に言い聞かせる。とりあえず探して。見付からなければ、教授をしている祖父の名前を出せば良い。幼いなりに考え、壁伝いに歩きだした。
 しかし、歩けば歩くほど、静かで暗い隅の方へ進んでいるようだった。自然と視線は、足元へと下がる。一歩進むごとに温度が下がっているような気がして、引き返そうかと足を止める。
 その時、前方からかわいらしい鳴き声がした。少年がそちらを見ると、長い柔らかそうな毛で全身を覆われた、小さな動物がこちらを向いて座っている。それは読み慣れた童話の表紙から抜け出したのかと思われるほど、絵にそっくりな動物だった。長い耳と尻尾を持ったそれに、はじめは大きく見開かれただけだった彼の目は、次第に嬉しそうに輝きを増していく。
「ルージュッ」
「ごめんなさいね。そのこは、『ルージュ』ではないのよ」
 一旦は駆け出した少年だったが、自分ではない誰かが土を踏む音と女性の声に、再び足を止めてしまった。童話に登場する『ルージュ』とは違う動物は、ひんやりとした日陰独特の空気に見合った落ち着いた声に反応し、少年に背を向けて軽やかに走り出す。それを抱き上げた女性は、先ほど仰ぎ見た王女その人だった。
「あなたは、あの童話が好きなのね?私も好きだわ」
 マグノリアは服の裾が土で汚れることも構わずに、少年に目線を合わせるように膝を付いた。話し掛けながら、もっとこちらへと言うように手を彼の方へと伸ばす。少年は、黙ってそれに従った。王女であるからという理由もあっただろうが、自分が好きな童話を彼女も好きなのだということに興味と安堵を覚えたからかもしれない。
「あなたは、どうして学校のお祭りに来たの?勉強は好き?」
 彼女の手は白く、小動物を抱く指も繊細で柔らかい。
「おじいさんが、ここの教授だから。勉強は、よく分からない」
「そう。童話の男の子と同じように、学ぶために冒険に来たのかと思ったわ」
 頷く度に揺れる髪は、光の中で見た燃える印象とは違った。手で掴もうとすると滑って逃げられるような、夕刻の水路のような、もっと流れのあるものに見える。
「王女様は、ハミット島へ冒険をしに行くの?」
「ええ、そうよ。空飛ぶ研究所を見つける冒険に行くの。私は……1人と1匹というわけには、立場上いかないけれど」
 微苦笑を乗せた唇は、艶やかでふっくらとしている。派手な化粧は好まないのか、紅の色は控えめだった。
「あなたも、きっと冒険をしに行きたくなる時が来るわ。私と少し話をしただけで、こんなに楽しそうなんだもの」
 優しく細められた目は。
「こんな所にいたのか。探したぞ」
 マグノリアが少年の向こう側を見、少年も振り返って見ると、息を切らした青年が立っていた。日陰でも分かる、王女や子供とは対照的な褐色の肌に黒い髪。南東地域の人種特有のものだった。走り回った後だからか、表情には多少の疲れが表れている。それでも、瞳は些細な光を取り込んで、生き生きとした印象を残していた。
「王女様にも、ご迷惑をお掛け致しました」
「いいえ。私も、楽しませて頂きました」
 恭しく頭を下げる青年は、少年にとっては普段の活発な彼らしくない行動に見えたからだろう。2人のやり取りを、ただ呆然と見守っていたところに不意に手を取られる形となった。繋ぎ慣れた手は、大きく温かい。
「それでは、失礼致します」
 そのまま手を引かれるようにして歩きながらも、しきりに後ろの王女を気にしている少年に、しっとりとした声は掛けられた。
「『学ぶ者に更なる英知を』」
 その台詞を瞬時に悟った彼が振り返ると、王女は微笑んでいた。ただ、紅の瞳はずっとまどろみの中にいるようで、自治領主との瞳の印象の違いはこれだったのだと、ようやく彼は感じることができた。それと同時に、戸惑いも生じる。
「……『教える者に大いなる感謝を』」
 台詞を返した少年は、王女から離れ、完全に建物の影から逃れても、ずっとくすんだ紅の持ち主のことが気に掛かっていた。なぜ、人々に愛され、環境に満たされた16歳の少女が、無気力で全てを諦めてしまったかのような奥底を持たねばならないでいるのか。
 同じくらいの年齢であるはずの青年を仰ぎ窺うと、彼は眩しいくらいの金の瞳でこちらに微笑み掛けた。日の光の下で見るそれは、活力と希望に満ちているように見える。今は好奇心もあるようで、顔を見るなり尋ね掛けてきた。
「今の挨拶ってさ、何?秘密の合言葉とか?」
 「いつの間に仲良くなったんだよ?」やら、「おまえも隅に置けないな」やらと、からかい混じりに肘で突かれるのを、身体を捻らせるだけの効果が期待できない抵抗をしながら、少年は否定した。
「違うよ。童話の中の台詞っ」
 次第にむきになってくる幼児に、影のような容貌に太陽の眼を持った青年は突くのを止めた。後見人の息子だからという前に、大切な弟同然の存在だったので。
「ああ、おまえが好きな、あの話か。そっか……さっきのってさ、大学祭の挨拶に合うと思わないか?」
 目の前の兄代わりが何を言わんとしているのかを薄々と勘付いた少年は、考えるように首を傾げる。そのような仕草を見せる弟を軽々と抱きかかえた青年は、跳ねるようにして大学の教授棟を目指して走り出した。
「よし。じいさんとこに着いたら、フールに言って、さっそく広めてもらおう」
 その口調の明るさと足取りの軽やかさに、少年は微かに抱いたわだかまりが溶けていくように感じた。

 ◆◆◆

「空飛ぶ研究所……こんなにも跡形も無いだなんて」
 小さな島の半分を占める砂漠地帯。薄黄色い砂に足首まで埋もれさせ、喉の粘膜を乾燥させないよう布で口と鼻を覆うようにしながら、マグノリアは呆然とその惨状を見ていた。
 かつて王都、いや大陸全土から科学者や研究生達が集められ、盛んに生命科学の研究が行われていた場所。1都市の半分ほどの面積を持ち、ハミット島の上空を飛行し続けたその施設は、墜落して数年も経たずに『伝説』と呼ばれるようになっていた。
 それが、もはや見る影も無い。砂に突き刺さった、無数の鉄の破片。彼女の身長よりも遥かに高いものはいくつもあるが、これがどう組み合わさっていたのか、今となっては見当もつかない。
「こんなにも……こんなにも呆気ない。この調査が終われば、私は」
 王都から共に来ていた数人の従者達は、離れたところで砂や鉄を熱心に観察している。彼女の呟きは、せいぜい足元にまとわりついている小動物に聞こえるだけで、後は砂混じりの風の中に消えてしまうはずだったのだが。
「私は、なんだ?」
 自分でも、離れたところにいる従者でも、無論小動物の声でもない。それでも、その返事は確かに鼓膜を震わせ、脳内にまで達した。決して空耳などではない。
 しかし、目の前の鉄の残骸は砂に半分以上埋もれ、人が隠れられる場所などわずかに存在するだけだ。マグノリアは訝りながらも、鉄の墓場の一角に近付いた。
「誰?」
「大方、意に沿わぬ結婚でも、させられるのだろう?」
 誰何しているにも関わらず、答えもしなければ動揺もしない声の持ち主に、彼女は眉をひそめた。
「誰かいるの?この壁の向こう?」
 彼女は鉄の壁に手をついた。滑らかな表面。自身の足元は陽に晒された砂のおかげで温かいが、斜めに向いた壁は影になっているためか、思いのほか冷たい感覚が手の平を通して伝わってくる。
「『ペンタクル・エース』に、何を期待した?調査というのも、反抗心から来たものだろう?」
 不躾な質疑ばかり繰り返す隠れた相手に、王女は焦れた。
「姿を見せなさい。先から無礼なっ」
「大声を出すな。いらん者共が寄ってくる」
 鋭く制する低い声に肩を跳ね上げたマグノリアは、首を回して己の従者を確認し、こちらに気付いた様子が無いことを見て取って息を吐く。
「あなたは誰?何故ここにいて、私に話しかけるの?」
 苛立つ感情を懸命に押さえつけ、声を落とす。それすらも声のみの男は、せせら笑うのだ。
「何故、笑うの?」
「『誰』だの『何故』だの、先からどこに呼び掛けている?俺は、壁の向こうにいるのではない。おまえの足元だ」
 言われて、そんな馬鹿なと思いながらも、マグノリアは下を見た。壁に寄りかかるようにしてあったのは、人はおろか生命が感じられる存在でさえなかった。
「黒い、箱?」
 彼女は愕然と、それを見下ろした。鉄よりも遥かに軽い素材でできているだろう『それ』のどこに、今の会話を成り立たせる要素があったというのだろう。通信機の類かと一瞬頭を過ぎったが、即座にそれを打ち消した。
 この箱は、彼女の言葉を寸分違わず聞き取り、細やかな感情すらも読み取っていたのだ。
 この箱は、正確に彼女の位置を把握し、視線の先までも掴んでいたのだ。
 離れた場所から様子を窺っていたにしては、状況を分かり過ぎている。かと言って、通信とでも思わなければ説明がつかない。伝説の研究所には、そのような技術があったというのか。
 そこに集められた科学者達が何の研究を盛んに行っていたのかを思い出し、マグノリアは更に恐ろしい想像を廻らせる。その箱の大きさは、成人男性の頭がちょうど入るほどの大きさだった。
「まさか」
 幾分か青褪めた彼女に、男は愉快そうに笑った。
「なかなか面白いことを想像したようだが、それは間違いだろう。あながち遠くもないだろうがな。生憎、俺の頭は塔の下だ」
 その言葉に、マグノリアの思考は混乱した。塔というのが研究所が墜落したとほぼ同時期に崩壊した塔のことならば、彼は既に故人だ。墜落時に助かったのか、元々乗っていなかったのかは知らないが。塔が崩壊したのは、研究所が墜落した後だ。だがこの箱は、それらの事実を知っている。では、箱の仕掛けは事後に誰かがやったことなのか、事前に悟っていた本人の仕業なのか。だいたい、それならそれで中身はいったい何だというのか。
 考えれば考えるほど絡まった糸に追い込まれ、終いには塔の地下に新たな研究所でも築いたのかと考え出しかねない彼女を、箱の中身は再度笑った。
「俺は、俺の執着を追う。おまえが俺を手に取るならば、今の混乱も解けるかもしれんぞ?」
 つまりは誰かが箱を手の取らず立ち去れば、彼は永遠にそこに居続けることになり、彼は彼の執着というものを追うことができないのだ。随分と不躾な質問は、彼女の気を引く一つの手段だったのだ。
 自分が利用されようとしていることに気付いた彼女は、謎の解決に惹かれながらも、箱に手を伸ばすことに躊躇したのだが。
「隠れた所で『好きで王女に産まれたわけじゃない』と叫ぶ必要も無くなるかもしれん」
 マグノリアは赤面した。図星だった。彼女の奥底を何故、得体の知れない中身は的確に言い当ててしまえるのだろう。王女の心の内で、驚きと焦りがざわめいた。
「俺に、上辺だけでない笑顔を送る者はいなかった。俺のために心から心配し、叱ってくれる奴はいなかった。あいつに会うまでは」
 マグノリアは同情した。同じだった。彼女の立場上、なんとか気に入られようと上辺のみの笑顔と言葉で接してくる者も少なくなかった。そのうちに、誰もが奥底でそうなのではないかと疑心暗鬼に駆られるようになった。今では、民からの敬愛の声すら素直に耳に届かない。
「おまえは、おまえの執着を追わないのか?」
 マグノリアの心は、鷲掴みにされた。あまりに強すぎて、痛みと衝撃を彼女に与えた。何かが腰から背骨を伝って瞬時に這い登り、布を纏った皮膚が泡立つ。
「さあ、俺を手に取るが良い」
 男の声は、恐怖の対象であり、官能的でもあった。これを手に取れば、もう後に退けないことを短時間で悟っていた。それでも、抗えないだろうことも頭の隅で解っていた。彼の声は甘露のようで、たとえこのまま身を翻して帰ってしまったとしても、またここに戻ってきてしまうだろうことは、容易く想像できた。
「私は、私の執着を」
 きっと声を掛けられた時から胸の片隅にあった甘いうずきを、彼女は楽に受け入れた。先はした躊躇をすることもなく、黒い箱の男をその腕に抱く。

 ◆◆◆

「視察のこと、やってるわよ。王女も、王都に帰るみたいね」
 声も、仕草も、雰囲気も。全ての印象において『柔らかい』という形容詞が似合う女性。実の関係は叔母であったとしても、「おばさん」と呼ぶには誰もが抵抗を感じるだろう。自治領主の隣りに立った叔母の妹であるこの人は、あろうことか兄代わりの恋人であるらしい。少年は、常々もったいないと感じている。
 そんな彼女に呼ばれ、少年は素直に従った。映像には、大学祭の時に会話した王女が大きく映し出されている。視察場所であるハミット島での現地取材は禁止されていたのか、港で大型のホバーカーを背に取材に応じる彼女の画像しか出てこない。
 黒い箱を大切そうに抱いた王女はもう、まどろんだ瞳をしていなかった。少女は幸せそうに笑い、少年はそれを喜ばしいとは思わなかった。
 紅の瞳は、恐ろしいまでの輝きに満ちていた。

 ◆◆◆

 これ以降、マグノリアが公の場に立つことは2度と無かった。