第1話 X−DAY

「リハー。これから、遊技場に行かないか?」
 学友の呼び掛けに、サエリハは振り向いた。
 友人の姿と誘いの言葉の魅力とに、つり目も和む。実に人好きのする笑顔だと評したのは、彼の恩師だったろうか。
 褐色の肌に、金色の瞳。黒い髪は逆立ててあり、全身に纏っているのは黒い服。どこまでも個性的である自身を、彼は嫌いではない。周りの多くも、同じように思ってくれているようだ。
「遊技場って、新しくできたやつ?ああ、行く行く」
 『学ぶ人々の都』と称されるこの都市も、放課後となれば開放的だ。彼は特に悩む間もなく承諾した。
「だったら、ハングも誘おうぜ」
 軽い返事に気を良くした学友からの提案を、サエリハは苦笑しながら否定した。
「あーと、ハングは教授のとこ」
 自分の何倍もの高さがある茶色い石造りの建物を仰ぎ見た彼に倣い、4人の青年達も校舎を見上げる。前庭からいくら見上げたところで、校舎の奥にある教授棟を見ることはできない。それでも彼等は、友人のハングとその保護者であり彼等の教師の1人でもある教授の様子を、容易に想像することができた。
「『人遣いが荒い』って、今頃溜め息吐いてるぜ」
「明日は、また文句を聞かされないとな」
 苦笑いしながらも、学友達の瞳は穏やかなものだ。
 彼等は、親子の関係がうまくいっていることを知っている。

 ◆◆◆

「ハング」
 渋い色味の重厚な執務机の上に手を組んだ男が、満面の笑みを浮かべる。よく磨かれた玻璃を通して差し込む光を背にした彼の笑顔は、大天使宛らのものだった。それでも、ハングは嫌な予感しか抱けないでいる。
「ちょっと図書館まで行ってほしいんだけど、頼めるかな?」
 ほらきた、と言わんばかりにハングは睨んだが、彼の保護者の笑顔が崩れることはない。
「それで?今日は、何の資料を持ってきて差し上げれば、よろしいのですか?ハイエロファント教授」
 仰々しいまでの丁寧語で、そのうえ科白のほとんどは棒読みだ。それすら日常茶飯事だからだろうか。『ハイエロファント教授』は気分を害した風でもなく、むしろ満足げに一つ頷いた。
「明日授業で使うのと、論文用。会議に使う資料を複写しなければならないからそれと、新しく入ったらしい小説に資料集。あとは、ブライアンに薦められた本や何かも入ってたかな。ま、全部書いておいたから」
 いくつかに折られた大きな用紙を、ハングに手渡す。申し訳なさなど、微塵も感じられない。
「分かりました」
 ハングは保護者とのやり取りに微かな頭痛を覚え、こめかみの辺りを手で押さえながら速やかに退室しようとするが。
「待て。途中まで一緒に行こう」
 片手を挙げ、呼び止める男がいた。ハイエロファントに本を薦めた人物であり、彼の友人であるブライアンだった。彼の姿を認め、ハングは眉をひそめる。
「もっと、ゆっくりしていかれたらどうですか?ブライアン教授」
 そう口にした時には、既に真顔に戻したが。
 それでも、心境としては不快であることが、ハイエロファントには伝わっただろう。声が先まで交わされていた会話のものより、若干低めだったからだ。表面に不機嫌さを出さず柔らかく断ることは、彼なりの気遣いだった。
 しかし、ブライアンの方はまったく気付いていないのか、気にしていないのか。
「いや、もう帰らないと。うちの助教授が怒りかねんからな」
 いともあっさりと否定をしたばかりか、ハングの腕を掴んで引き摺っていこうとする。
「んじゃ、邪魔したな。またな、ファント」
 部屋の主に退室の意を表した彼は、学生の腕を放す気が毛頭無いらしい。
「あ、ああ。またな」
 無情にも、ハイエロファントの呆気に取られた顔は、扉の向こうへと消えてしまった。と同時に、ハングの頭痛は本格化する。おとなしく腕を引かれている彼は、前を歩いている大柄な男があまり好きではないのだ。それは相性以前の問題であり、彼の保護者が何故男を真の友人のように扱うのか疑問に思える理由があった。
 ハングの頭の中で、ハイエロファントとブライアンへの文句が羅列されていくうちに、図書館と生物学部棟の分岐路に来ていたらしい。
「ハング」
 低い声で呼ばれ、ハングは一旦思考を中断せざるをえなかった。
 お互いが向き合うようにして立つと、掴まれていた腕がようやく解放された。ブライアンの握力は体格に見合うほどの力があり、微かな痛みを感じたハングはその部位を反対側の手で包むように触れる。
「何でしょうか?」
 尋ねた口調は丁寧だったが、響きには冷たい棘が潜まれている。痛みと接触された嫌悪感、生物学部教授への微かな不信感から来るものだった。それを承知しているブライアンは、口元に深く皺を刻んで、苦笑を浮かべる。
「そんな邪険にするなよ。まあ、俺の立場じゃ仕方ないかもしれんがな」
 ブライアンがおどけるように肩を竦めたのは、僅かに数秒のことだった。授業の中でさえあまり見せない真顔に、彼は戻る。
「俺は、おまえの正体や周りの関係を一切知らされていない。妹のために、監視役をさせられているに過ぎない」
 『妹』のところでブライアンの深緑の瞳が揺らいだが、ハングはあえて無言で先を促した。
「おまえの血縁者が、研究所に半ば囚われの身にされているそうじゃないか」
 その言葉に、ハングは目を細める。彼の前髪は長く、その些細な変化に気付くことは決して容易ではない。それでもブライアンは見逃すことなく、肯定と受け取った。
「そんな彼には、1人の幼馴染の男の子がいたそうだ。何をしでかしたかは知らんが、その男の子は両親を……グドアールって男に殺されたらしい」
 それを聞いた瞬間、ハングの眉間に皺が寄った。眉の辺りの筋肉が細かく痙攣したことも、はっきりと知覚する。
 ブライアンは身に纏った濃紺色の大変質の良いコートの内ポケットから、1枚の紙切れを取り出す。
「ここに、彼の住所が書いてある。彼を訪ねてみろ、ハング」
「監視は、いいんですか?」
 ハングは、口角の両側を上げて聞いた。すると、ブライアンも笑顔で返す。
「ここにファントがいる限り、おまえは戻ってくる。ただ、あくまで『先生のおつかい』として、『仕方なく行く』んだから、あまり長く外に出られるのは困るがな」
「男の子に会って何を話しても、あなたは構わないと?」
「『他愛の無いお喋り』まで、面倒見切れるか」
「なるほど。しかし」
 ハングは、目の前の男の手中にある紙切れに手を伸ばす。
「どうして、こういうことをする気になったんですか?」
「妹のやることに疑問を感じてきたから、かな」
 ブライアンは一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに笑顔になる。その笑みは、普段のものよりは若干の鋭さを覗かせている。
「手駒を増やして、それを大いに利用してやれ。譲れんものが、あるならな」
 言われるまでもなく、承知している。紙切れを受け取ったハングは、不敵とも取れる笑みを作り、目の前の男に見せ付けた。
「当然ですよ」
 その不遜とも取れる態度に、ブライアンは大声で笑う。
「じゃ、またな」
 先まで紙切れを持っていた手を振り、生物学部棟に向かって歩いていった。ハングはしばらくの間、広い背中を見送ってから、図書館へと足を運んだ。
 図書館に入ったハングは、少し寒気を感じた。学都が誇る図書館にしては珍しく、閑散としているからだろうか。常なら座る場所も無いほどだというのに、どういうわけかこの日は人が1人もいない。
「こういう日も、あるのか」
 独り言でさえ、無駄に大きな響きとなって耳に届く。
 あまりにも暇なので、どこかへ休憩にでも行ってしまったのか、司書さえ姿を見せなかった。それに少々苛立ったが、別段用があるわけでもない。何かあれば声を掛ければ良いと決めてしまったハングは、ハイエロファントから貰った用紙を開いた。
 几帳面な字で、本の題名と棚番号が書かれている。細かに示されているのは、いつものこと。親切極まりないことだ、と皮肉に思う。親切ついでに、人に頼む本の冊数も減らしてくれれば良いのだが、と考えた回数も片手を悠に越える。本人に直訴したところで、「ごめん」の一言で終わってしまうことが分かっているため、端から諦めてしまっていたが。
 ハングは、ハイエロファントの笑顔に弱い。
 『天使のような』と評される彼の笑顔の噂は、学部内はおろか学都全体にまで及ぶほどに広まっている。ハングは都内の人間に尋ねられても、同意を示したことは無かったが。
 一つ溜め息を吐いて、止まってしまっていた手を動かし始める。本を探す方が先だと自身に言いくるめるのdが、どうにもうまくいかない。目的の棚を前にして、再び動きが止まってしまった。
 今日という日くらい、労わってくれても良いだろうに。
 そんな言葉が、ハングの脳裏を過ぎる。
 目が潤む。
 そんなに女々しい人間だったのだろうかと、自嘲の笑みまで浮かぶ。
 沈み行く思いを振り切るようにして棚を見上げると、眩暈に襲われた。
 少し休んだ方が良い、という結論を出したハングは、日当たりの良い場所を選んで席を占拠した。大きな1枚板の机に、顔を伏せる。既に、本を持っていくことが遅れようと、そのことで保護者が困ろうと、知ったことではなかった。睡魔に誘われる頭の中では、一つの決定事項のみが生まれていた。
 ファントが悪いのだ、と。

 ◆◆◆

「本当に、大丈夫なんですね?この実験は」
 ハイエロファントの訝る声が、頭の上に振ってくる。いったい誰と話しているのか、実験とは何なのか。その正体を一切掴むことができない。
「成功率は、100に近い数値が示されています。危険も害も無い実験であることは、ファントもよく知っているでしょう?君は過去に、何度もこの実験を行っているのですから」
 諭そうとする声が祖父のものだということに、彼は気が付いた。何の実験なのかということも。
「しかし」
 過ぎるほど慎重になっているのか、ハイエロファントはまだ唸るような声を出して渋った。
「教授が『大丈夫』っつってんだから、大丈夫だろ?ファントって、結構心配性なんだよな。一緒に住んでみて、よーく分かったよ」
 横槍を入れて苦笑しているのは、彼の兄とも呼べる存在だった。言葉の割に別段相手を茶化す風でもないのは、彼なりに傷を抱えているからだろう。
「仕方ないわよ。あんな事が、あったんだもの」
 穏やかな声は、日頃彼が「姉」と呼ぶ叔母のもの。実際に彼が『あんな事』を知るのは、この日からだいぶ経ってからになるのだが。
「そうね。それに失敗する確率が、無いわけではないんでしょう?お父様」
 祖父に問い掛けているのは、彼の母親だった。この日屋敷を出る前に、彼女は息子に「お母さんからの贈り物は、嬉しいお知らせよ。弟と妹、どっちが良いかしらね」などと言っていたことを、少年は覚えている。年端もいかない子供には、何のことだかさっぱり解らなかったが。
「まあ、それはそうなんだが」
 大学教授として名を馳せている老人は、相当まいっていた。このまま困っていれば、この先に起こる出来事を回避できていたかもしれない。
「冗談ですよ、お父様。この子に見せたいんでしょう?ファントも、嫌でしょうけど、今日だけは付き合ってくださいね?」
 少年の母親は楽しげに笑いながら、息子の頭を優しく撫でる。少年は約1年前、この校内で赤い髪の女性と出会ったその日から、『実験』やら『研究』やらといった類に興味を持ち出していた。今から彼等が赴こうとしている先の実験も、元々は少年から祖父にせがんだ事だったのだ。
 しかし、それが駄目なのだと、少年の中の彼は知っている。
「……今日は、特別だからな」
 溜め息を吐きながらも、ハイエロファントは承諾した。
 特別でなくても構わないと、もう1人の彼は叫ぶ。ハイエロファントの手を取り、先に行くのを阻もうとする。
 しかし身体が、この時点では存在し得ない彼の言うことを聞いてくれるはずがなかった。それどころか急かすように、握った大きな手を前へと引っ張っている。

――はしゃぐな。嬉しそうにするな。何も知らないくせに。

 彼の罵る声は、少年本人の耳にまで入ることはない。
「分かった、分かった。早く行きたいんだろう?でも、あんまり急ぐと転ぶぞ?」

――まったく分かっていないではないか。行きたくない。急ぎたくなどない。一層のこと、転んでしまえばいい。

 彼の呻く声は、誰の耳にも届くことはない。
「ほら、もう着くぞ。なんか俺まで、楽しくなってきたな」
「私も。来て良かった」

――良くない。引き返せ。

 彼ばかりが、焦りを感じている。
「ふふ。本当に嬉しそうね」

――頼むから、家族を巻き込まないでくれ。

 彼ばかりが、懇願している。
「最高の贈り物になりそうで、私としても嬉しいのですよ」

――嫌だ。止めてくれ。

 そう拒否すれば拒否するほど、彼は追い詰められていく。
「もうそろそろ実験が始まるな。どうだ?見えるか……グ……」

――止めろっ!

 ◆◆◆

 急に引かれた椅子の音と、勢いよく板に突かれた己の手が起こした大きな音と手首に掛かる衝撃で、ハングは我に返った。彼の耳に、その心音は煩わしいくらいだった。散々に息が乱れ、気持ちが悪いと感じるほどの汗を掻いている。
「大丈夫か?」
 その声に弾かれるようにして、彼は前を見た。彼のものより、やや下にある見知った顔。
「あ……ファント、教授?」
「うなされていたけど、大丈夫か?」
 再度問うハイエロファントの周りには、本と書類の山があった。彼の前にある薄いコンピュータで、その内容を自然と知ることができる。日頃から機械系等をあまり好まない彼は、仕事くらいでしかコンピュータに自ら進んで触れることがない。
「起こしてくだされば、よろしかったのに」
 少々恨みがましい念を込めた目でハングが見ると、ハイエロファントは困ったように微笑した。
「そうしようかとも思ったんだけどね。熱があったから、そのまま寝かせておいたんだ」
 その言葉で、ハングは頭痛と眩暈の原因を悟る。目が潤んでいたことも、拗ねるにも似た感情のせいではなかったのだと知り、胸の奥で安堵する。
 ハイエロファントはハングの目に掛かる髪を分け、その奥にある額に手を伸ばした。冷たくて気持ちが良かったため、ハングはされるがままになっている。
「まだ少し熱っぽいけど、眠ったおかげでだいぶ下がったみたいだね」
 「良かった」と言って、ハイエロファントは微妙に熱が移った手を額から離す。
「どのくらい寝てました?」
「3、4時間くらいかな。私がここに来た時には、もう熟睡していたからね」
 目の前の青年が寒気で震えていることに気付いたハイエロファントは、彼の横の床を指差す。見ると、黒にほど近い緑色のコートが落ちていた。ハイエロファントの所持品だと、拾ったハングには分かった。元々、寝ている彼の背に掛けられていたものが、飛び起きたせいでずり落ちたのだろうことも。
「準備が良いですね。一度、自室の方へ戻られたのですか?」
 ハングがコートの袖に腕を通しながら尋ねると、彼の保護者は首を横に振った。
「いや、元から持ってきていたよ。部屋を出て行く時に調子が悪そうなことに気が付いたんだけど、連れていかれちゃっただろ?気にはなっていたんだけど、私もすぐに講義があったし。終わってすぐにこっちに来れるように、とりあえず自分のコートを持ってきたんだ。私の判断は、正しかったようだね」
 不意に、ハングは先ほど見た夢を思い出す。あの時も、そうだったと。
 俯いてしまった彼に、ハイエロファントは心配そうに尋ねた。
「どうした?辛いのか?」
「いえ。人の気配に敏感なはずなのに、公共の場で熟睡なんて、珍しいなと思って」
 彼が考えていたことを誤魔化すために言ったこれも、本当のことだった。彼は育ってきた環境のおかげか、警戒心が人よりも強い。そのため他人のいる所で眠ることなど、皆無と言っても過言ではないほどだった。例外は、目の前の保護者くらいのものだろう。
「ああ、そのことか。今日は貸切にしてもらったからね。1人も入ってこなかったと思うよ」
 それで無人だったのかと、ハングは納得した反面、目の前の彼を侮れない男だと思った。学都ご自慢の図書館を『文学部教授』という肩書きだけで何時間も貸切にしてしまえるのは、彼くらいだ。たとえ同じ教授職の人間でも、こうはいかないだろう。たった数年で学都の信頼をここまで得られたとあれば、素直に感心してしまっても仕方がない。もっとも、ハイエロファントには自治領主と友人だという強みがあるのだが。
「どうして、貸し切ったりしたんですか?生徒に資料を頼んだ意味が無いじゃないですか」
 その言葉に、ハイエロファントはきょとんとした顔を、己の保護対象に向ける。
「どうしてって、今日は……まあ、いいか。そんなことより」
 彼は一旦言葉を切り、机の上にある本の山の一つを傷まない程度の軽さで叩く。
「紙に記した本は、自分で探してしまって、ここにある。と言っても、最後の1冊が足りない」
「わざわざ残しておいてくださったわけですか」
「じゃないと、君が来た意味が無いじゃないか。そうだろう?ハング」
 『天使のような』と名高い笑顔で念押しをされ、ハングは渋々とだが立ち上がった。熱がある相手にまったく容赦をしない彼を、たとえ一瞬でも優しいなどと思ってしまった自分が馬鹿だった、と微小の後悔の念を抱きながら。
「あ、ちゃんと本の中身を確認してくるんだよ」
 保護者の言葉を背に受け、彼はふらつく足で棚を目指す。新巻棚の右から三つ目、上からは4段目、と目で追っていく。本の題名は、何といっただろうか。紙を確認し、次いで棚を見る。
「『愛しのグーへ』?」
 このふざけた題名は何だ、と思う。ブライアンが薦めた本というのは、これのことだろうか。もしもそうだったなら充分に有り得ると、常からの態度を考え、思った。
 とりあえず、手に取る。薄い箱。軽量のそれ。容量が多く入り、かさ張らないため、図書館では特に好まれるディスク型というものだった。化学製品等に制限がある今の大陸全土の法律の中で公認されているものの一つであり、冊子型に取って代わり主流となってきている。ただし収集家の間では冊子型の人気が高く、値も張るようだ。機械嫌いである彼の保護者も、冊子型の方が好みだろう。
 箱を開け、中身を確認する。確かに、ディスクではあるのだが。
「よしよし。ちゃんと中身を確認したね」
 ハングが気付いた時には、肩の後ろからハイエロファントが覗き込んでいた。
「『改造』。今、流行しているゲームだって?使い方次第では、怖いプログラムになりかねないのにね。まあ、大多数の人間は、その可能性にさえ気付かないんだろうけど」
 大きな溜め息にハングが振り返ると、眉をひそめた保護者がいた。嫌悪感を抱いているのは、明白だった。
「じゃあ、何故このディスクを本の中に隠すだなんて悪戯をしたんですか?万が一のために、図書館まで貸切にして」
 ディスクの正体を見て、彼はハイエロファントが図書館を貸切にした理由を悟った。彼より先に、本が人の手に渡る可能性があったからだ。それは、壮大で手の掛かった悪戯だった。
「悪戯の案は、ブライアンだぞ。私は、言われるままに図書館を借りただけだ」
 その渋面が、自分のせいにされるのは不本意だ、と訴えている。
「では、中身がこのディスクなのは?これも、ブライアン教授が?」
「……いや、私が選んだ」
 しばらく沈黙の時間が続いた後、文学部教授は口を開いた。
「これが欲しい、と生徒に話していただろう?」
 そういえば、とハングは同級生にそう漏らしたことを、うっすらだが思い出した。
「生徒が教授室に遊びに来た時に、聞いたんだ」
 言葉通り、ハイエロファントは人気があるため、他の学科の生徒や教授までもが遊びに来ることがある。生物学部教授であるブライアンが良い例だ。
 しかし、とハングは思う。自分から言うつもりは無かったのだ。友人達を、余計なことをと恨まずにおれない。
「こらこら、私の方から聞いたんだ。あの子達を、悪く思わないでくれよ?」
「……さっきから、人の思考を読んでませんか?」
「超能力者じゃあるまいし、読んでいるわけじゃないよ。表情で判るんだ。他の人なら、こうはいかないだろうけどね」
 ハイエロファントは宥めるように、ハングの頭を軽く2、3度叩いた。まるで子供扱いだったが、生徒は文句を言うわけでもなく、おとなしくしている。
「君が普通にゲームを楽しむために、このディスクを欲しがっているんじゃないことは、解ってるんだけどね」
 そこで一旦、言葉が切られる。彼はしっかりと保護対象を理解しているが、批難する様子は欠片も見られなかった。
「今日は特別、だから」
 彼が、ハングが心配したように、今日という日を忘れるはずがなかった。
「ファント……ようやく動ける時が来た。だが」
 そんな人を傷付けるわけにはいかないと、ハングは思った。
「これを使う時は、ファントの許可を貰うことにする」
 譲れないものがあるから、戦う。そんな心が自身の中にあることを、彼は知っている。それは決して弱さでも、愚かしいことでもないと、彼は信じている。
「許可が貰えるようなことしか、しないからな」
 人間として当たり前のことだと、彼は目の前の人に問い掛ける。
「父さん」
 譲れないものが、彼の顔を見る。その表情が、全ての答え。
「誕生日おめでとう、グドアール」

 ◆◆◆

――どうか今度は、当たり前の今日を失うことがありませんよう。