第5話 獣医の檻

 中庭には、大きな木が1本立っている。身長の2倍も3倍もあるので、幼い背ではとても敵わない。それでも懸命に手を伸ばすと、小鳥達が集まってきてくれる。
 彼等と遊んでいると、よく女性に注意された。厳しさの中に、少しの悲しみと深い慈しみを持った人。彼女は、少年の母親だった。
「どうして?」
 返ってくる言葉は、いつも同じだった。
「周りの人は、動物とお話できないからよ」
「動物と話しちゃいけないの?」
 母親の言葉が寂しくて、再度尋ねるのは毎度のことになっていた。家の近所はおろか研究所内でも、周りの人間から奇異の目でみられていたことは、幼いながらに薄々解っていた。ものすごく悲しいと、彼は思った。
 しかし、沈んで背を丸めた時には、背後から答えてくれる人がいた。
「そんなことないよ」
 いつでも少年の心を軽くしてくれる、同じ年頃の男の子の声。
「クランケット」
 振り返ると、少年の期待を裏切ることのない優しい微笑みがあった。
「僕は羨ましいな。僕も、動物と話してみたいよ」
 少年の力を理解していた、唯一の友達。「獣医になりたい」と言っていた彼の口癖が「羨ましい」だった。鳥寄せをしてみせると、心から喜んだ。
 少年の両親が逃げるようにして研究所を離れたことで、会うことは無くなってしまったけれど。
 クランケットは今、何をしているのだろう。

 ◆◆◆

 小鳥達の、軽やかで楽しそうな会話で目が覚める。セウスは野宿に慣れない身体を伸ばすと、一晩世話になった木の太い幹に手を付いて立ち上がった。
 前方に、緑色の高い金網で囲まれた、白い角ばった建物が見える。両親を殺したというグドアールが関わっているらしい研究所。今回の目的地だ。
 ここまで案内してくれた親切な小鳥達に別れを告げると、1人金網の前に立ち、様子を窺う。静かに佇む研究所の周りに、罠らしきものは見当たらない。背丈の倍もある金網さえ越えてしまえば、いつも容易く建物に近付くことができた。
 とりあえず侵入できる場所がないかと庭を一周してみるが、中に入り込めそうなところと言えば重く閉ざされた大きな鉄の扉だけだった。見た限り、どう頑張ってみたところで手動では開きそうにない。外に罠が無いのも頷けるほどだ。
「困ったな」
 呟いて、扉に近付く。すると驚いたことに、村にある唯一の喫茶店の自動扉のように簡単に横開きに開いてしまった。
「おいおい、いいのか?これで」
 中に入ってみると、明るい廊下が続いていた。埃一つ見当たらないような真っ白い世界は昔いた研究所を思い起こさせ、懐かしさから無用心にも1歩扉から離れた時だった。硬いものが衝突し合う音が響くのと同時に、扉が閉まる。慌てて触れるが、もう遅い。
「しまった」
 近辺の壁を探ってみたが、何の手掛かりも得られなかった。
「仕方ないな。奥に行ってみるか」
 廊下を1人、歩いていく。相変わらず何も無い。それが、今はかえって不気味に感じられた。壁を伝い、足音をできるだけ立てず、慎重に進む。
 やがて、横に扉が現れた時、突然けたたましく警報が鳴り出した。
「くそっ、やっぱりか」
 とにかくこの場から離れようと走りだそうとした瞬間に、横から人の手が伸びた。扉の中に引きづり込まれる。声を上げようと思っても、口が塞がれていてうまくいかない。
「警備ロボットが通り過ぎるまで、じっとしていてくれないか」
 すぐ傍で聞こえる声のどこか懐かしい口調に、知らず頷いていた。しばらくじっとしていると、廊下にけたたましい金属音が響いてきた。扉の前で音が止まり、セウスの心臓はどうかなってしまったのではないかと思えるほど早く鼓動を打つ。背に汗が伝ったが、特に何事も起こることなく音は遠ざかっていってしまった。
 完全に音がしなくなると、救ってくれた手がセウスを解放した。知らず、身体が疲れを一挙に感じたのだろう。セウスは床に力なく座り込み、溜め息を吐く。
「大丈夫か?」
 頭の上から、落ち着き払った声が振ってくる。
「ああ、だいじょ」
 恩人を仰ぎ見て、絶句した。優しい色合いの金糸も、髪に合わせたかのような琥珀の瞳も、全てが今朝の夢の中で会った少年と重なったのだ。
「え?もしかして、クランケット?」
 指を差すセウスを、相手も驚いた顔で見ている。
「セ、ウス?」
「久し振り、だな。クランケット」
 セウスはどこか照れたように笑ったが、クランケットの方はまだ信じられないものを見たような顔をしている。長い間顔を見ることも無かった幼馴染が突然このような研究所に現れたのだから、当然と言えば当然だった。
「どうして、ここに?」
「おまえの血縁者って人に、教えてもらったんだよ。おまえを助けてくれって」
 クランケットは、眉をひそめる。
「血縁者?」
 怪訝そうにこちらを見る彼に、大きく頷いてみせた。
「そうなんだ。ハングっていって、わざわざ家まで来てくれてさ」
「ハング?」
「そう。学都の際高等学部生の……文学……だったかな。何かよく分からんけど、結構良い奴だったぞ。おまえに感じが似ててさ。やたら警戒心が強かったけど。あ、でもファントって教授には懐いてるみたいだったな」
 そこまで話して、ようやくクランケットも認識できたようだ。ひそめていた眉が解けたことが、物語っている。『ファント』という名は偉大らしい。
「あの人が」
 呟くクランケットに、セウスは思いついたように口を挟んだ。
「なあ、クランケット。おまえ、グドアールのこと、何か知らないか?」
「え?」
「ハングが教えてくれたんだ。俺の父さんと母さんを殺した奴だって」
 瞬時に、クランケットの表情が目に見えるほど硬くなった。
「まさか」
「クランケット?」
 明らかに様子がおかしいクランケットの顔を、覗き込む。
「グドアールのことは、教えられない。そして、セウスが、僕をここから出すことも不可能だ」
 クランケットから抑揚の無い声で告げられ、思わず彼の胸倉を掴み掛かる。
「何でだよっ。何で、そんなことが言えるんだっ」
「落ち着け、セウス」
 苦しそうな声で告げてくるが、感情は収まらない。大切な友人の言葉だからこそ、尚更だった。
「まさか。おまえ、グドアールに協力してるんじゃないだろうな?止めるんだ、今すぐっ」
「セウスッ。おまえの両親だって、グドアールに協力してたんだぞっ」
 形の無い刃が、胸に痛みを伴って突き刺さる。
「そう、だったんだろうけど、でも。結局逃げて、殺されたんだ。俺は、あいつを許せない」
 再び、力なく床に座り込む。膝というより、身体全身が空っぽなのに重いといった感じだった。
「たとえどんなことがあっても、俺はもう退くことはできない。だから、奴の情報が欲しいんだ」
 「頼む、クランケット」と俯いた彼を、クランケットはしばらく黙って見下ろしていた。セウスには長く感じられたが、実際には10数秒ほどしか経っていないかもしれない。友人が、重い口を開いた。
「今の僕は、セウスの敵にしかなれないかもしれない。セウスに理由があるように、僕にも理由があるから」
「クランケット」
 顔を上げると、彼は辛そうに幼馴染の顔を見ていた。
「今の僕にできることは、ここからセウスを出すこと。それから、セウスにご両親の形見を渡すことだ」
「形見?」
「彼等がグドアールに協力して研究、創作したものだ」
「それを俺に渡しちゃっても良いのか?」
「大丈夫だろ、それくらい。形見である以上、セウスにも受け取る権利はあるはずだ」
 さらりと言ってのけるクランケットに、ハングとの血の繋がりを見た気がした。目の前の幼馴染を、初めて怖いと思った瞬間だった。
 呆然としているセウスに、クランケットが手を差し伸べる。
「床の上は冷たいだろう?ほら、早く立て。形見を紹介してやるから」
 言葉遣いは多少荒くなったが、昔と同じ様につられるようにして手を取った。その手のぬくもりが、なんだか嬉しかった。

 ◆◆◆

「ここ?」
 クランケットに付いて歩いていくと、何の飾り気もない白い扉の前に出た。
「そうだ」
 扉の前に立てば、音も無く開く。
「ルージュ」
 クランケットが中に呼びかけると、高くかわいらしい声で鳴くものがいた。
『あっれー、クランケット以外に人がいるー。めっずらしー』
「うん。この人はセウスといって、君を造った人の息子さんなんだよ」
『ふーん』
 獣語は通じていないはずのクランケットとルージュの会話が噛み合っているのは、さすが現在の飼い主といったところだろうか。
 感心する一方で、セウスは疑問も感じていた。
 これが研究していたものなのだろうか。全体としては白いのに、手足と耳と尻尾の先だけ紫がかった水色の毛が美しい動物は、確かに森の中でもお目に掛かれない種族ではあるらしいのだが。両親やグドアールは、何を目的として造ったのだろう。
 何より、こちらを見る目が生意気そうに見えて、引っ掛かりを覚えるのだった。
『本当にそうなの?何だか鈍そうだよ?大丈夫?』
 小さな口から出てきた言葉は、やはり憎らしいものだった。沈黙したまま動けないセウスを見かねて、クランケットが一つ咳払いをする。
「ルージュ。セウスは動物の言葉を理解する能力を持っているんだって、前に話しただろ?忘れたのか?」
『あっ』
 跳ねるように起き上がったルージュの顔には、『まずい』と全面に書かれてある。あまりの慌て振りに、セウスは文句の一つも言えなかった。
「ごめんな、セウス。でも、おまえのご両親の研究の成果には違いないんだ」
 クランケットは本当にすまなそうに目を伏せているが、こればかりは彼の非ではないだろう。むしろ、苦労していたんだろうな、と同情すら覚えた。
「ルージュ、セウスと一緒にここから出るんだ。頼むから、喧嘩なんかしないでくれよ?」
『分かった分かった。まっかせといてよ』
 片前脚を上げ、軽い調子で応じるルージュに、クランケットは尚も心配そうだ。そんな彼をよそに、ルージュはセウスに向き直る。
『てことで、よろしくね』
「……ああ」
 やっとで答えた声は、それは小さなものだった。声になっただけでも良い方か。
『じゃ、さっそく外に出ようよ』
 呆然としていたセウスは、ルージュの弾んだ声に我に返って、クランケットに詰め寄った。
「な、何?セウス」
「もう一つの質問の答え、まだ貰ってなかった」
「もう一つ?」
 不思議そうに尋ねる彼を、まだとぼける気かと睨みつける。
「俺がおまえを、ここから出すことは不可能だって。どうして、そんなことが言えるんだよ」
「それは」
『じゃ、聞くけど。セウスはどうやって、ここから出るつもりなの?』
 クランケットに助け舟を出すためか、いつの間にか彼の肩に乗ったルージュが鼻先を突きつけてくる。
「どうやってって」
『入ってきた鉄扉は、閉まっちゃってたはずだけど?』
 思わず、言葉を詰まらせる。そこを突っ込まれるのは、少し痛い。
『窓は高い位置にあるし』
 廊下の明るさは人工の照明ではなく、天窓から差し込む光のせいだったのだと見上げて気付く。天井までは高さが悠にあり、上るのは困難だ。
「だったら、おまえはどうやって出る気なんだよ」
『ここから出るには、二つの方法があるんだよ』
「なら、その方法で出りゃいいだろ」
『それができたら、とっくの昔に出てるって。ねえ、クランケット。セウスを納得させるには、見せた方が早いんじゃない?』
「そうだな。こっちに来てくれ、セウス」
 導かれるままに、更に廊下を進む。最奥には、入り口の鉄扉と同じ大きさの扉があった。白く塗装され、材質も樹脂を加工したものが使われているらしい。クランケットが鍵を差し込んで開く戸、すぐに答えが知れた。
「確かに、俺の手に負えないな。普通のコンピュータにさえ、触ったこと無いからな」
 部屋の中は、見事なまでに機械だらけだった。画面やらセウスには訳の分からない計器やらが、左右の壁一面に引っ付いている。扉の正面の壁には、大きな画面。下にある操作機器で、この研究所の主要コンピュータであることが推察できる。
「ここのコンピュータのプログラムを狂わせることができれば、全員でここを出ることが可能なんだ。でも、これが難しくてね。獣医じゃ、専門外だろ?」
 苦笑するクランケットの顔を、セウスは見つめた。
「なったんだ、獣医に」
「そう。飛び級制度を使ってね。ルージュと一緒にいたのも、そういった理由からなんだ」
「へー、そっか」
 夢を叶えた幼馴染が目の前に立っているという事は、自分のことのように嬉しい事柄だった。ただ、資格を所有しているがために第三者に悪用されているだろうことが、気分を害されるが。
「確かに専門外だな。それじゃ、もう一つの方法っていうのは?」
「手動で開けるんだ。最初に会った部屋まで戻ろう」
 あれだけ重そうな鉄扉を手動で開くとは、どういうことだろう。実際は、軽い素材なのだろうか。それともクランケットが力持ちなのだろうかと考えて、そんなわけがないと首を横に振る。
 あれこれ考えていると、戻る時間はすぐだった。
「中に入らないのか?」
「そう。レバーは、ここにある」
 クランケットが扉の横の壁を押すと、開いてレバーが現れた。
「こんな所に」
「入り口と、だいぶ距離があるだろう?どういう仕掛けか知らないけど、レバーを引くのに全く力は要らないんだ。ただし、レバーを離せば、すぐに扉が閉まってしまう」
「だから1人じゃ出られない?」
「それもあるんだけど」
 襟元から取り出されたものは、銀色に輝く細長い笛だった。
「頼むぞ、ルージュッ」
 クランケットの笛が響いたかと思うと、セウスの身体は宙を舞っていた。床に叩きつけられると咄嗟に目を瞑るが、いつまで経っても衝撃は訪れない。深い毛の感触に目を開けると、巨大化したルージュの上に乗っていた。
「なっ、何だっ?」
 驚いて辺りを見渡すと、廊下の奥から警備ロボットらしき群れが見えた。それにいち早く気付いたクランケットがレバーを下げるのと同時に、ルージュも走り出す。扉の外が見え、セウスは更に驚いた。何も無かった芝生の上に、白い狼の群れが唸り声を上げている。己が難なく乗り越えた金網には電流が走り、爆ぜるような嫌な音を立てている。
「どうなってるんだ?……クランケットッ」
 後ろを振り返れば、扉が閉まる瞬間、警備ロボットに飲み込まれるクランケットの姿が目に入った。
「クランケットッ!」
『跳ぶよ、セウスッ』
 ルージュは軽々と金網を飛び越える。
 しかし、クランケットのことで頭がいっぱいになっていたセウスは、毛を掴んでいた手に充分な力が篭っておらず、空中へと投げ出された。金網は越えたものの、地面に叩きつけられ視界が暗転していく。
 研究所の警備は、侵入者のためのものではない。脱出者のためのもの。
「クラ、ケッ……ト」
 ハングが言った「助けて」という真の意味を、初めて悟ることができて。檻に入れられたままの幼馴染の名を呼んで。辛いと、痛いと、感じて。
 ルージュの声が傍らで聞こえて、遠のいていって……消えた。