T.左足首だけの幽霊

 闇だけが存在していた。
「エレナ」
 春が迫るもまだ冷える空気に、呼ぶ声はただ溶けていくのみ。
「ヴァレンティーナ」
 届かぬことは知っている。何度も呼んだ。それでも、飽きることなく呼び続ける。切なる思いを抱きながら、愛おしい名前を叫び続ける。
 もう、幾夜この行為を続けているだろう。はじめから数えることをしていないため、分からない。分かるのは、自分がいくつもの黒を手にしていることだけ。視界に広がる夜の色。己の髪。身にまとう服。手足に着いた炭の色。沈む心。
「エレナ」
 絶望を振り切るようにシャベルを振り上げ、勢いよく下ろす。壁の残骸に弾かれ、すっかり弱ってしまった身体は跳ね返されてしまった。道具は痺れを生じた手から離れ、転げた身はあちらこちらが痛む。惨めだった。涼しげに見下ろしてくる月が憎い。
「もしも……そう、もしもだ。おまえに力があるなら、私に貸してほしい」
 いつだったか読んだ物語の一節が、頭の中に滑り込む。少女が魔女に頼み込む台詞は、今の自分に似合いだと思った。
「どうか私に、愛しい人の消息を教えて頂戴」
 両手で顔を覆う。しかし、涙は抑えられなかった。いっそのこと悲しみも憎しみも希望さえも封じ込めて、心の奥底に捨ててきてしまおうか。
「今日は、このくらいにしておけ」
 いつも投げやりになった頃に、男の声は降ってくる。手を退かせば、灯りを携えた幼馴染が月を隠すかのようにして立っていた。差し出された手を素直に借りる。1人でも立ち上がれないことはないが、精神的に引き上げられる感じがした。声を掛けられるのは先の一言だけで、あとは互いに無言のまま帰宅する。
 少し前までは無かった習慣が突如終わったのは、それから5日ほど後のことだった。

 ◆◆◆

「おお、そう言えば。おまえはもう、聞いたか?」
 輝きに満ちた翡翠色の瞳の持ち主は、唐突に話を切り出した。香り高い紅茶を挟みながら、互いに口を開かず1刻余り。沈黙も嫌いではないはずの主も、さすがに気まずくなったと見える。
 しかし、肝心の『何を聞いたか』が抜けてしまっている。尋ねられても、答えようがない。ひどく困ったことに、彼にはよくあるのだ。目を向けると、「ああ、そうか」と相槌を打った。
「夜な夜な出るらしいぞ」
「何が、でございましょう」
 2度目は、わざとはぐらかしたに違いない。「何が」を強調してやる。まだ知らぬ、と悟ったらしい。目を細め、小さく笑い声を漏らした。
「左の足首だけの幽霊」
 顔の横に、右の親指と人差し指で長さを示される。目と口の間ほどの長さだと言いたいようだが、所詮は従者の内の1人からの聞きかじりだろう。実際に見たわけでもないのに得意気に胸を張るところが、妙に微笑ましく思える。
「なぜ左足と分かるか、と言うとだな」
「くるぶしの向きでございましょう」
 すっかり冷めてしまった紅茶を飲み干す。伏せた目蓋の向こうで、主が半目でこちらを睨んでいることだろう。してやったりだ。悟られぬ程度に笑みを漏らす。何度も繰り返されるやり取りの一つだった。
「おまえ、かわいくないぞ」
「ありがとうございます」
「褒めておらぬ」
 憮然とした表情が、かわいらしい。まだ少年の域を脱しきれていない彼は、2人で向き合い雑談を交わす時には年齢に見合う顔をする。公私を分ける姿勢は好感を持てるが、公の毅然とした態度は痛々しくも見えた。せめて休憩のひと時くらいは、感情を素直に表す男の子でいてほしい。
「申し訳ございません。それで、その幽霊は何をするのでしょう」
「家人に、靴をせがむらしい」
「靴を?」
 目の前の人は、腕を組んで頷く。ミモザ色の髪が、柔らかく揺れた。
「靴を頂戴、と言うらしい。恐怖で怯えたまま答えずにいると、泣きながら去るそうだ」
「もし、靴を与えたら?」
「知らぬ。いまだ靴をくれてやった者がおらぬ。ここに出たら、自らくれてやるというのに残念だ」
 胸を反らせ、勢いよく鼻息を吐き出す。そうだろうと思う反面、この人も実は怖がりではないかとも思った。
「城下の家を転々としているそうだが、おまえの所には出ないのか?」
 今度は椅子から身を乗り出し、興奮から目を大きく開いている。「出る」と答えれば、「今日から泊まりにいこう」と言い出しかねない。
「私は幽霊ではないので、分かりかねます。町外れに転居いたしましたので、数ヶ月過ぎても来ないかもしれません」
 途端に、目の前の少年の顔が暗くなった。
「すまぬ。辛いことを言わせた」
「いいえ。あなたが、そのような顔をされる必要はありません。個人のことです。あなたに」
「関係なら、大いにあるぞっ。家族のように思っておるのだっ」
 立ち上がった彼は肩で息をし、必死な形相だった。嬉しくもあり、ありがたくもあり、頭が下がる思いもする。
「もったいないお言葉、ありがとうございます」
 同じように立ち上がり、形の良い頭を撫でる。「子供扱いするな」と小声で怒られた。
「まあ、そういうわけだから、落ち着いたら戻ってこい。おまえがいないと調子が狂う」
 金色の懐中時計を取り出し、時間を確認する。そろそろ公私を入れ替える時間のようだ。まるで聖職者の法衣のように、白い裾が翻る。
「仕事を山のように残しておいてやる。今から覚悟せよ」
 奥の間へと足早に歩いていく彼に、侍女や従者が近付く。次々と指示を出す主の背中は、優れた政治家に見えるのだが。
「ああ、そうだ。万が一にでも、おまえの所に幽霊が出たら教えろよ」
 振り返り、笑いながら告げる顔は、やはり17歳を迎えたばかりの少年のものだった。恭しく頭を下げると、今度こそ高らかに響く足音が遠ざかっていく。
「ジェラルド様。外に馬車をご用意しております。どうぞ、こちらへ」
 横から声を掛けてきた老人に従い、入り口へと歩く。縦にも横にも広い廊下であるが、通りすがった者は全てこちらに頭を下げていく。主の横に並び立てば当然である行為も、いざ1人になった時にもやられると落ち着かない気分にさせられ好きではなかった。彼等の上司という立場にあるので、彼等の行動は間違いではない。ただ、今は名ばかりの長期療養中ということになっているのも手伝い、常以上に後ろめたいのだ。
 吹き抜けになっている1階を抜け、白い石段を降りる。案内された先には、黒塗りの4頭立ての馬車が待っていた。身分を考慮されてのことだろうが、さすがに帰宅だけに使われるには立派が過ぎないだろうか。
 御者が開く戸の中へ、溜め息混じりに乗り込む。内装は、いちいち質の良い素材が使われている。壁や天井は、細かい彫刻がなされている。先代の趣味の一つだ。
「ジェラルド様」
 外から呼ばれ、顔を向ける。短くはない付き合いの老人は、白髪に皺だらけの顔でありながらも背筋だけは真っ直ぐに張られた糸のようだ。一線を退く前は、有能な先輩の1人だった。彼に「様」付けで呼ばれるのは、面映いものがある。
「ジャンルカ様と再び並び立たれる日を、心よりお待ちいたしております」
 陰りの無い青い瞳に頷くと、戸が静かに閉められた。頭を深く下げた老人は、すぐに後方へと消えていく。象牙色の城を振り返り見上げたが、門を出た辺りで顔を進行方向に戻した。どうにも馬の足音がうるさいと思えば、前の小窓の玻璃が無い。わざと抜かれたのだろうか。犯人は、目深に被った黒帽子から少しだけ表情を覗かせた男だろう。
「で、君はなぜ御者の真似事をしてるんだ」
 一度目は、聞き取れなかったようだ。何も反応が無い。揺れる中を苦労しながら小窓に近付き、同じ事を大声で告げてやる。
「筒にしろっ」
 なお聞きづらいので耳元で話せ、ということらしい。御者は胸元から紙の束を取り出し、後ろ手にこちらに渡してきた。適当な大きさに丸め、口を近付ける。三度目を叫んだ。「耳が痛い」との苦情に、「そんなことは知らん」と素っ気無く返してやる。
「チェーザレ。君の管轄は、よほど暇なのか」
「んなわけ無いだろう。おまえが抜けた穴のおかげで、こちらまで余計な仕事が舞い込んできてるんだ。直接、文句を言いに来たのさ」
「君の抜けた穴は小さいのか」
「馬鹿っ。それこそ無しだ。用が済んだら、すぐに戻る」
 馬車の速度が、俄かに上がる。即席の御者だが、見事な手綱さばきだ。先代が余興で行った馬車競争の折に、彼が話題をさらったことを思い出される。
「陛下とは、何をお話になった」
「なんだ。結局は、そこが気になって来たのか」
「なんだとは、なんだっ。わざわざ長期療養中であるおまえを呼び寄せたんだぞ。臣下としては、気になって当然だろうがっ」
「個人的な好奇心ではなくて?」
「それもあるっ」
 正直が答えに、思わず噴き出した。声を立てて笑うのも、久し振りだ。
「耳元で、人を笑うな。気に障る」
「すまん。陛下との会話だが、単なる城下の噂話だ」
「噂話?」
「左の足首だけの幽霊の話だ」
「ああ、あれね」
「知ってるのか?」
「かなり広まってる。知らん方が珍しい」
 チェーザレは手綱を手にしたまま、器用に肩を竦めた。
「俺の部下の中にも、家に出たって奴が数人いる。ニーノも、その1人だ」
「ニーノの所にも出たのか」
 ニーノは近衛隊隊員の1人だ。赤い巻き毛に、そばかすだらけの愛嬌のある顔をしている。彼が嫁を貰った時は、チェーザレと2人でからかいに行ったこともあった。
「あいつが宿直で留守にしていた時、出たらしい。翌日、宿直を同僚と交替させてほしい、と届け出があった。嫁と子供に泣きつかれたんだとさ」
「それは家族思いだな」
 苦笑混じりに言うと、しばらく沈黙の時間があった。
「悪い。今のおまえには、禁句だった。普段通りに振舞うから、つい忘れていた」
 彼ご自慢の稲穂色の髪を見ながら、らしくないと思った。頭では、軽い表面に反して優しく思いやりのある奴だと認識している。しかし、幼い頃から軽口を叩き合ってきた仲であるから、どうにも奇妙な感覚だ。そうさせているのは、他でもない自分だった。
「いや、気を遣わせてすまない」
「阿呆。今くらい頼れ。ほら、着いたぞ」
 俄か御者は、動く気が無いようだ。自分で勝手に開けて降りろ、ということらしい。老人の前とは、随分と態度が違う。若い時分に散々絞られたためだ。馬車を降りて、前に回り込む。チェーザレとは同じくらいの背丈であるが、今は見上げなければ顔が見えない。帽子に納まりきっていない稲穂が、陽の光を弾いて揺れている。
「なかなか新鮮な角度だ」
「確かに。おまえを見下ろす機会も、そうそう無いな」
 笑うと、八重歯が覗いた。本人は磨きにくいと不満がっているが女性には受けが良く、昔は友達連中の内で1番の人気者だった。
「おっと、いかん。目的を一つ、忘れるところだった」
 昔からそうだが、「君の服の内側は、どうなっているのか」と問い詰めたくなるほど様々な物が出てくる。腰の辺りから取り出されたものは、水色の封書だった。
「なんだ。好奇心以外にも用があったのか」
「もちろん。ご子息からの手紙だ」
 受け取って表を見ると、たどたどしい文字で『お父さんへ』と書いてあった。裏を返すと、およそ息子の趣味とは思えない、かわいらしい花の絵が描かれている。
「これは、イレーネ嬢のものだろうか」
 上からでも見えるよう、腕を伸ばしてやる。御者は、「ああ」と短く声を上げた。
「彼女の最近の趣味は、花を世話することらしい。親戚の者の中には『下女のやることよ』と、非難する人間もいるがな。心根が優しくなって良い」
 黄昏色の瞳が和み、柔らかく笑う。かつては無かった、父親の顔だった。彼の妻もまた、花を愛する女性であることを思い出す。穏やかな空気をまとった美女で、たまに無茶をする男にはもったいないほどだ。少し低い身分の出であるため、親戚縁者の中には快く思わない者も少なからずいるという。
「今では、ご子息も手伝ってくれるらしい」
「ほう。それはまた、仲良くなったものだ」
「我が愛娘が、少しでもご子息の心に安らぎを与えられれば良いのだが」
 10になる息子は、わけあってチェーザレが所有する別荘に預かってもらっている。預けた当初は沈んでいたが、一つ上のイレーネが傍にいることが幸いしたのだろう。少しずつ、心の傷を回復しているらしい。内容は分からないが、こちらに手紙を寄越すようになるほどだ。たった数週間で、とても良い方向に向かっていると言える。
「少しなものか。イレーネ嬢には、多大に感謝せねばなるまい」
「おまえに言われると、父としても鼻が高い」
「なんだそれは」
 苦笑すると、チェーザレは右の人差し指を横に振った。
「分かってないな。アントーニだって、同じことを言うぞ……そうだ。もうすぐ、アントーニが帰ってくるぞ」
「そうか。たしか、3ヶ月振りだな」
「ああ。彼の手腕をもってしても、かの国の崇高なるじじい共を説得するには骨が折れたようだ。帰ってきたら、どうやって口説き落としたのか、お聞かせ願おうじゃないか」
「そう、だな」
「おいおい、そんな顔するな。せっかくの友の帰還じゃないか。言いたくなきゃ、言わなければ良い。こちらに起こった事を、奴が知っているとは思えん。少なくとも、俺は告げてない。もっとも奴は聡い男だから、薄々勘付くかもしれんが」
 こちらを見下ろしているチェーザレの方が、よほど聡い男のように思える。ジェラルドが頷くと、彼は笑って右の拳を心臓の位置に置いた。
「今もベネデッド指揮下の元、警備隊が動いている。希望を持ち、待て。頼むから、夜な夜な1人で出歩く真似は、いい加減止めてくれよ。我が精鋭なる近衛隊も、あまり人数が避けず残念だが、できる範囲で協力しているしな」
 震える右手を心臓の位置に置く。チェーザレは胸を張り、1度強く叩いてから手綱を握り直した。
「では、また近い内に会おう」
 向きを変えた黒い馬車は、見る間に坂を降りていく。完全に見えなくなると、急に両足に重みを感じた。疲れている。
「近い内、か」
 足を引きずるようにして、2階まで蔦が伸びた家屋へ向かう。扉を押し開くと、室内に鈍い音が響いた。顔をしかめながら、自室へと歩く。まだ日が沈む前ではあるが、これ以上何かをしようという気になれない。階段を上ることすら億劫になり、結局は応接間のソファに倒れ込んだ。ローテーブルに腕だけを伸ばし、息子からの手紙を置く。なんとか守ったつもりだったが、封筒の角が折れてしまった。仰向けになり、長く息を吐く。こげ茶色の天井が、朝よりも低く見えた。
 我が物顔で使用している家屋は、ジャンルカの所有物の一つだ。本当の自分の屋敷は、数週間前の火災でほとんどが燃え落ちてしまっている。小物は使用人が持ち出してくれたが、限界がある。持ち出しきれなかった小物と運ぶのに困難な家具の大多数が炎に巻かれ、残った物も水浸しになったり匂いがこびり付いてしまったりで使える代物ではなくなっていた。使用人達は息子と共にチェーザレの元へ行かせ、半端な荷物だけが1階の廊下や応接間に散乱している状態だった。
「疲れた」
 ジャンルカが呼び出したのも、チェーザレがおかしな真似事をしてまで昼間に接触を図ったのも、本当の理由は分かっている。彼等は心配し、顔色だけでも窺いたかったのだ。数週間前の件で多大な世話を焼いてくれている2人の気持ちは、ありがたい。しかし、周りの目もある城の中で以前の通りに振舞うことは、主に精神面において疲労を促す行為だった。内に篭ってしまえば、片付けようという気さえ起こらないほど無気力なのだ。
 深く息を吐いて目を閉じると、後頭部の辺りが重力に引かれるような感覚に陥った。すぐに睡魔が、意識をさらっていく。

 ◆◆◆

 いまだ燻る屋敷の前に佇んでいると、後方で悲しみにくれるばかりだった使用人達の気配が変わったことに気が付いた。振り向くと、こちらに歩いてくる黒衣の男が2人。国主であるジャンルカと近衛隊隊長のチェーザレだった。頭を下げようとする人々を、ジャンルカは「よい」という一声だけで抑制する。
「ジェラルドよ。この度は、まことに痛ましい出来事である。私も、自身の事のように悲しく思うぞ」
 ジャンルカの本心であることは、向かい合っていればすぐに伝わってきた。威厳を保つような言い回しではあるが、目は今にも大粒の涙を流しそうなほど潤んでいた。自分が誇りを持って仕えている国主の正体は、あまりにも素直な少年なのだ。
「陛下御自らお越し戴いたばかりか、お声まで頂き、もったいないことでございます」
「言うな」
 2人でいる時はあと数個は飛んでくる苦言も、場が場だけに1回で留まる。これ以上声を出せば溢れ出るものがあったから、という理由もあるかもしれない。唇を噛んで何かを必死で堪えているジャンルカに代わり、チェーザレが口を開いた。
「今回のことで、陛下にある進言をさせて戴いた」
「進言?」
「陛下が所有されている土地のいずれかを、ジェラルド殿に賜れてはいかが、とな」
 思ってもみないことに、目を見開く。何を言っているのか、この男は。
「そんな不遜極まりない」
「よい。私が許可した」
 ジャンルカが許可したと言うのなら、この場は黙るしかない。使用人だけでなく、大勢の野次馬も集まっている状況だからだ。国主自らの見舞いに、仮の住処まで与えられる。どちらも異例のことだが、下手に公の場で断るのは主の立場を危うくさせかねない。
 チェーザレは羊皮紙を胸元から取り出すと、この地に集まった人々を見渡してから両手で広げた。
「僭越ながら、近衛隊隊長チェーザレ=バリオーニが代読させていただく。宰相ジェラルド=アルトゥージは、先代より現在に至るまで、よく国に仕えてくれている。特に私は、公私共に支えてもらっている。その働きは実に見事なものであり、臣下一同の模範である。今、困難に陥っている優れた臣を救えずして、どうして民の1人1人を救うことができよう。臣もまた、1人の国民なのである。日頃の感謝の意も込めて、私の所有する土地の一つを下賜するものとする。また他の者も、彼のように素晴らしい働きをしてくれた際は、恩に報いることを約束しよう。以上だ」
 羊皮紙を丸めたチェーザレは、再び辺りを見渡した。宣言文は、彼が助言しながら書かれたものだろう。1人の臣下を見舞いつつ、民衆の士気も高めている。良い意味で、狡猾な男だ。
「この場にお集まりの方々は皆、証人である。明日からも陛下のお言葉を胸に、仕事に励まれるよう」
 右の拳を心臓の位置に当てた彼は、深々と頭を下げた。あちらこちらから拍手が沸き起こる。顔を上げたチェーザレとジャンルカに促され、焼け跡の裏側に回っても、人々の興奮は耳に届いた。
「おまえが陛下からどの土地を賜るかまでは、民衆は知らなくていいだろう。ま、いずれ知れることにはなるかもしれないが」
 先までの固い表情を崩したチェーザレは、肩を竦めた。昔、彼には1人の熱狂的な熟女の支持者がいて、彼女から逃げ回るように別邸や友人の屋敷を転々としていたことを思い出す。その時は、落ち着ける期間は長くても1週間だった。もっとも豪族の妻であった彼女は金にものを言わせて、十数人の人間に身元を捜させていたのだが。結局は嫉妬深い夫の妬みを買い、熟女を賭けての決闘騒ぎにまで発展した。チェーザレとしては賭けの対象がまずおかしいのだが、先代のお気に入りでもあった豪族の顔に泥を塗るわけにもいかない。わざと負けた彼の左脇腹には、今も中指ほどの長さの傷が残されている。寒い日などは、たまに疼くことがあるらしい。
「我が友の困難な時だ。俺も、できるだけのことは協力しよう。なんでも言ってみるがいい」
 両肩に、幼馴染の手が置かれる。顔や身体に似合わぬ無骨さだが、本人は「国主を守る者として、まめがあり節が太いのは誇りだ」と話した手だ。力強く、温かい。
「私達は、いつでも助け合ってきた」
「その通りだ」
「では、一つ。しばらく1人になりたい」
「1人?」
 肩から外されたチェーザレの手は、しばらく行き場を探した後、彼の腰に落ち着いた。
「あー、俺達、邪魔したか?」
 幼馴染の弱った表情というのも、久し振りに見た。特に国主が代替わりしてからは、いつでも余裕があるといった笑顔を浮かべているからだ。今の国主は若く、近衛隊の長が切羽詰った顔をしているのは得策ではない、との判断らしい。今の顔は、友人として立っているからこそだろう。
「いや、そうではない。陛下や君が見舞ってくれたことには感謝している。私が言いたいのは今ではなく、明日からしばらく、ということだ」
「継続してってことか」
「ああ。現状は、精神的に重い。こんな時だからこそ動かなければならないのが本当だろうが、身体が持ちそうにない」
「ふむ」
「陛下や君は別だ。こうしているだけでも心強い」
「それは光栄だ。ということですので、聡明なるご判断をお願い致します。陛下」
 ジャンルカも彼を振り返ったチェーザレも、笑うとも言いがたく泣くとも言いがたい、変な顔をしている。
「私は、なにか失言しただろうか」
「いや。たまに素直が過ぎて、くすぐったくなるだけだ」
 「ですよね、陛下」とチェーザレが確認を取ると、ジャンルカは笑いながら頷いた。
「では、私の所有地の件に話を戻すとしよう。おまえの希望を尊重するならば、緑が多く静かな所が良かろう。となると、候補としては4箇所ある。おまえでも全てを把握できてはおるまい。それぞれの地図と間取りを描かせた物を用意させよう。好きな家を選ぶが良い」
「いえ、地図も間取りも必要ありません。4つの候補の内、1番小さいものをいただくことはできないでしょうか」
 ジャンルカは目を丸くしたかと思うと、忙しく瞬きを繰り返した。
「好きな物を選べと言ったのは私だから、拒否する権利は無いのだが。それで良いのか」
「小さいとは仰られても、火災を免れた荷物が入らぬ程のものは無いでしょう」
「それはそうだ。今まで暮らしていた屋敷よりは手狭に思うかもしれぬが、不便とは感じるまい。おまえが住めぬような家を候補に入れるほど、私は愚かではないぞ」
「それは失礼を申し上げました」
「構わぬ。で、本当に良いのだな」
「はい。陛下の広い御心、感謝いたします」
 片膝を付いて頭を下げると、上から「だから、それがくすぐったいと言うのだ」という苦言が降ってきた。
「私は『広い御心』を持っているらしいからな。すぐに宰相に戻れ、とは言わぬ。ただ次に私に会う時は、少しでもジェラルドらしさが戻っていることを望む。おまえに担がれると、むず痒くてならん」
「それは、あんまりでしょう」
「そう思うなら、日頃の態度を改めよ」
 ジャンルカが鼻を鳴らすと、チェーザレが「それは無理ですよ」と笑った。
「で、俺に言うことは無いのか」
「これを言うのは、おこがま」
「なんでも言ってみるがいい、と言ったのは俺だな」
 こちらの話を途中で切った彼は、肩を竦めた。「そうだったな」と、言葉を変える。
「しばらくの間、コンラードを預かってもらいたい」
「君のご子息を、か」
「無理だろうか」
「いいや。無理とは言わん。むしろ、イレーネが喜ぼう」
 腕を組んだ彼は、右の中指で左肘を小刻みに叩く。考えに集中する時の癖だ。
「そうだ、2人を別邸に住まわせよう。世話は、君の使用人達に任せる。彼等もろとも、私が預かろう」
「それは、さすがに迷惑が掛かるだろう」
 楽しそうに案を話す友には悪いが、慌てて止めに入る。人差し指を左右に振ることで、簡単にあしらわれたが。
「迷惑なものか。実は、妻が妊娠中でな。我が娘の遊び相手が他にいれば、こちらも助かる。君のところの優秀な家庭教師に付いていただければ、申し分ない。別邸は東の山にあり、使用人には不便かもしれん。が、勉強するには打ってつけだ。更に、警備隊隊長であるベネデッドの実家も近い。安全面も優れていると思うのだが、いかが」
 ここまで並べられると、断る方が不遜と取られかねない。苦笑して「頼む」と言うと、左肩に手を置かれた。
「期間は、ご子息の心が癒えるまで、で良いだろうか。しばらく1人になりたいのだろう」
 これだから、目の前の友人は侮れない。
「その通りだな」
「では、引越しの準備などがあるからな。一時、失礼する。1刻ほど後に、また来よう」
「分かった」
 面と向かって握手することも滅多にない。細身の代物とはいえ剣を操るチェーザレの握る力は、思った以上に強かった。

 ◆◆◆

 日は既に傾いている。薄暗い中に、人の気配がした。
「もう1刻が経ったのか」
 声を掛けるが、返事が無い。7歩ほど離れたところで、ずっと佇んでいる。チェーザレは何をしているのかと不審に思いはするが、体が重くて頭を上げることさえ億劫だった。
「チェーザレ、どうした」
 仕事でもないのに、黙って立ち尽くすとは珍しい。疑問が心配に取って代わる頃、気配はようやく揺らめいた。
「靴を頂戴」
 聞き覚えのある声だが、チェーザレのものと掛け離れていた。もっと高く、もっとかわいらしい音だ。愛らしさと切なさを心にもたらす。
「靴?」
 どこかで聞いた言い回しだ。耳にしたのは最近のことだと思うのだが、眠気でうまく回らない頭では詳細まで思い出せない。
「靴を頂戴」
 相手は、よほど靴が欲しいらしい。与えなければ、居座ってしまうだろうか。わざわざ火災があった屋敷を狙うとは、迷惑な話だ。いや、火事場泥棒というくらいだから、火災の後に盗人まがいの人間が訪れるのは意外と多いのかもしれない。
「見て分かる通り、ここは火災現場だ。やれる物など何も」
 無い、と言いかけて止めた。引越しをしたような気がしたからだ。やはり詳しくは分からないが、焼け残った荷物なら近くに山積みにされたままだったと思う。
「いや、待て」
 声からして、相手は10歳前後の少女だろう。正体を確認しないまま決め付け、だったら女の子向けの靴も紛れていたはずだと思い出す。大きさは合わないかもしれないし、左右も揃っていないだろうが。とりあえず靴というものを与えさえすれば、立ち去ってくれるに違いない。
「そこにあるから、持っていけばいい」
 腕だけを上げて、荷物の山を指し示す。わざわざ探し出し、履かせてやる義理もない。靴は、意外なほど早く見付かったようだ。特に派手な音もせず、待ちくたびれる前に気配は消えていた。
「礼も言わぬとは」
 それが泥棒というものかと思い直し、寝返りを打つ。
 そう言えば、ジャンルカと顔を合わせたのは数週間振りだったことを思い出す。チェーザレとまともな会話をしたのも、然りだ。こちらを気遣って1人にしてくれていたこともあるし、仕事が忙しかったこともあるだろう。家のことは心残りではあるが、置かれた立場が立場なだけに数ヶ月もこのまま、というわけにもいかない。復帰する頃合かもしれなかった。
 まずはアントーニの復帰を祝う飲み会の席で、今の夢を種に話を咲かせてみようか。薄く笑って、再び眠りに落ちた。

 ◆◆◆

 翌朝になって、荷物の山を漁ってみる。女の子向けの靴だけが失われていた。