U.黄色い蝶々

「我が友よ、迎えに……なんだ、この惨状は」
 振り返ると、なぜか酷く驚いた様子のチェーザレが入り口に立っていた。自分の周囲を見回してみる。火災から救い出した物が、床一面に散らばっていた。足の踏み場もない。
「無いのだよ」
「探し物か」
 一言で納得したらしい。こげ茶色の革靴で小物を退け、スカーフを拾いながら近付いてきた。手伝ってくれるようだ。
「で、何を探してる」
「靴、だ」
「靴というと、今夜履いていく物か。しかし、今日は仲間内の飲み会であって、洒落た」
「違う。娘の靴だ」
「娘というと、エレナ嬢の?」
「そうだ」
 チェーザレは弾かれたように、胸の前で手を叩いた。部屋中に乾いた音が響く。
「つまり、エレナ嬢が見付かったのか」
「それも違う」
 輝きに満ちた顔が、見る間に暗くなっていく。
「すまない」
 表情を分かりやすいほど変えられると、申し訳ない気持ちになる。謝罪すると、即座に首を横に振られた。
「いや、おまえが謝ることではない。むしろ辛いのは、そっちだ。1人で浮かれてしまって、すまない」
「それこそ、君が謝ることではない」
 ジェラルドの身に降りかかった災厄を我が事のように思っているからこそ、出てしまった仕草なのだろう。そう尋ねると、彼は頷いて話題の方向を変えた。
「では、なぜ彼女の靴を探しているのだ。もう出掛ける時間だというのに」
「時間? そう言えば、さっき妙なことを言っていたな。迎えとか飲み会とか、なんの話だ」
 40歳に近いというのに皺があまりないチェーザレの眉間に、深く皺が寄る。なにか悪いことを言っただろうか。
「なんの話とは、なんだ。アントーニの帰国を祝しての飲み会に決まっているだろう。日時を書いたメモを昨日、郵便受けに入れておいたじゃないか。それなのに、人が迎えに来てやっても応答の一つも」
 早口でまくし立てていた彼は、突然黙ると部屋を出ていってしまった。怒って帰ってしまったのかと思ったが、青白い紙を手にして戻ってくる。不在の時間は短かったが、どこか疲れた顔をしている。
「これ、見てないんだな」
 目の前に、紙を突きつけられた。流麗な文字で『アントーニ帰国祝賀会』と記されている。見慣れた筆跡は、チェーザレのものだ。家庭教師が、文字に関して厳しかったらしい。子供の頃に愚痴を聞かされた回数は、片手では済まない。
「初めて見た」
「だろうな。もう一つ、質問だ。いつから靴を探している」
「君と別れた翌朝から」
 なぜか友人は項垂れた。
「2日か。どうりで、やつれているわけだ。その間、なにも食べてないだろう」
「食べてないが、もう2日になるのか」
「ああ、なるさ。探してる理由は後で聞いてやるから、とりあえず来いっ」
 今度こそ怒ってしまったらしいチェーザレに引きずられるようにして、外で待たされていた馬車に押し込められる。体勢を整えられない内に、走り出してしまった。
「今日は、君が御者じゃないのか」
 揺れる中で座りなおす。さすがに王宮と同じものとはいかないが、設えが良い。朽ち葉色の壁紙も落ち着いていて、好感が持てる。派手さより質を重視するチェーザレの人柄がよく現れた所有物の一つだ。
「嫌味だけは忘れないんだな」
 向かいに座った彼は、呆れたと言わんばかりに大きく溜め息を吐いた。
「今日は飲むつもりだからな。前後不覚に陥るとも限らん。帰りに事故は、ごめん被る」
 そう話す男が実際に前後不覚に陥ったところなど、一度として見たことがない。酒に強いということもあるだろうが、飲ませ上手なうえ世話焼きなのだ。気心が知れた友と4人で飲む時は、真っ先にベネデッドが潰れるため介抱に回ることが多い。部下と混ざって飲む時も、やはり介抱役になることが多いと聞いた。事実、何度か招かれた近衛隊の飲み会の席でも、話に聞いた通りだった。
「君が潰れる様を、一度見てみたいものだ」
「それは難しい。どんな時でも潰されるようでは、近衛隊隊長は務まらないさ」
「君ほど、自分の仕事に誇りを持っている男もいないだろう」
「それはどうかな」
「そして、そんな男と並び立ち、対と言われることを、私は誇りに思う」
「そういうことを改めて言うな。恥ずかしい奴め」
 困ったような、照れたような。複雑な笑いが、チェーザレの口から零れた。ジェラルドとしては、真摯な思いだ。
「改めて言うことだ。私は、近い内に職場に復帰しようと思う」
 目をこれでもかと大きく開いた男は、なにか付いているかと疑わしくなるほど人の顔を見てくる。距離の近さが煩わしく、手で額を押し戻してやる。
「アントーニが帰国した。祝賀会には参加するのに、仕事は放置する、というわけにはいかない」
「確かに、な。悪い。友人が帰ってくることばかり頭にあって、肝心なことを忘れていたよ」
「それは仕方がない。私だって何もなければ、同じようにアントーニの帰還を喜んださ」
 火災の前にアントーニから手紙を貰った時は、無事と知れて嬉しいものだった。体格に合った大きな字で、各地の様子がつづられている。貴重な情報源でありがたかったが、早く会って直接話を聞きたいと願いもした。
「ああ、それは分かっている。だが、それだけではない。俺は身勝手な男なのだ。おまえがいない酒の席など、つまらなくて考えられなかった」
 それで近衛隊の酒宴に呼ばれたのか、と納得する。思えば、頻繁に呼ばれるようになったのは彼が隊長に就任し、部下の誰からも慕われるようになってからだった。
「それこそ改めて言うな。恥ずかしい奴め」
「しかし、事実だ」
 拗ねたように横を向いてしまう。自分でも今更だと気付いているし、恥ずかしいとも思っているのだろう。
「ジェラルド、無理はしてくれるな」
 目の前の男は、いまだ不貞腐れた顔をしている。復帰のことだと気付くには、少し時間が要った。
「もちろん。陛下にも、ご心配をお掛けしたくはない。しばらくは、職務も午前のみにしていただこうと思う」
「それが良かろう。陛下も、お許しくださるはずだ」
 ジャンルカの顔を思い出す。きっと笑って歓迎してくれるだろう。
「ところで、飲み会はいつもの所か」
「そうだ。『黄色い蝶』の主人は、アントーニ贔屓だからな。彼も帰還を喜んでいたよ」
「だろうな」
 『黄色い蝶』は、いつの間にか行きつけになっていた飲み屋だ。白い口髭が特徴的な主人は、特にアントーニを連れて行くと喜んだ。彼の異国の話は仲間内だけでなく、店内に居合わせた客まで巻き込んで盛り上がる。特に今は北東の峠の治安が悪いため、旅をするにも商売をするにも自粛が要請されている。左の足首だけの幽霊が持て囃されるほど新しい話題に飢えているのだから、重宝されるのも無理はない。
 馬車が静かに止まる。飲み屋がある通りは人がすれ違える程度の幅しかなく、歩く以外の手段が取りづらい。馬車に押し込められた時は明るかった空も、今は夕暮れ色に染まっている。チェーザレが御者に迎えの時間を指示し終えると、2人で小道を歩き出した。
「『黄色い蝶通り』も、久し振りに歩くな。いつ以来だろうか」
「たしか、前に来たのは年末だ。忙しい時に、君が『黄色い蝶』で飲みたいと騒ぎ出」
「すまなかった」
 年末の一件は、チェーザレにとって苦い思い出となったろう。年明けに向けての事務処理を山ほど抱えた内政府に多大な迷惑を掛けた罰として、書庫の整理を手伝わせたのだ。慣れないことをしたため筋肉痛になったのだ、という愚痴を手土産に屋敷を訪問されたのだから、こちらとしても苦い思いはしたのだが。
「分かればいい」
 特に不快になったわけではないが、お互い黙ったまま歩き続ける。次第に、蝶々を象った看板が見えてきた。城下町の通りは、全て各小道の象徴が名前になっている。この小道は他にも店が並んでいるが、一番細工に拘った看板であることから『黄色い蝶通り』となったらしい。
「既に盛り上がっているようだぞ」
 店の中を覗いて確認したチェーザレが、こちらを振り返る。笑って頷くと、彼は緑に塗られた木戸を押し開けた。
「我が友よ、よく帰ってきた」
「おかえり、アントーニ」
 両手を挙げたチェーザレの腕が、なんとも邪魔だ。腰を屈めて覗き込むと、鉄製の酒器を置いたアントーニが嬉しそうに立ち上がるところだった。
「おお、チェーザーレ。ジェラールド。相変わらずだな、元気だったか」
 それぞれに握手を交わすアントーニの手は、下手な武人よりも大きくて厳つい。乾いた手に触れるのも、久し振りだ。
「おまえには負けるが、俺も城の連中も元気だよ。ジェラルドは見ての通りだがな。主人、こいつは酒無しで。胃に優しいものを頼む」
 肩に回されたチェーザレの手によって、右に引っ張られる。奥にいた店主の顔を、ようやく拝むことができた。先客と一緒に飲んでいたのか、頬が少し赤い。
「我が国が誇る宰相殿は、顔色がお悪いな。無理して引っ張ってきたか、チェーザレ」
「馬車に押し込められたんだ」
「うるさいぞ、ジェラルド。その通りだがな」
 黒髪を掻き回される。元々梳くことすらせず乱れていたが、更に絡まったようだ。大きく玉になったところが頭皮に当って気になる。
「おまえ、ここのところ手入れを怠ってるな。綺麗な髪が、台無しじゃないか」
 掻き回していた男も気になったらしい。今度は、手櫛で丁寧に梳いてくれる。
「ジェラルドは、粥だな」
「勘弁してくれ。私も酒でいい」
 店主に勝手に献立を決められ、慌てる。周りが酒の中、1人だけ粥を食べるなど冗談ではない。4人の中でも、アントーニと競うほど酒が好きなのだ。虚しくなる。
「駄目だ駄目だ。陛下にお聞きしたぞ。長期療養中だとな。おまえの分は俺が飲んでやるから、心配するな」
「長期療養も、近日中で終わりだ。私の分は、飲んでくれなくても結構だ」
 チェーザレに捕らわれたまま、アントーニと睨みあう。不意に、椅子が倒れる音がした。驚いて振り向くと、今まで傍観に徹していたベネデッドが顔を紅潮させて立ち尽くしている。身体が震えているようだが、もう酔ってしまったのだろうか。
「ベネデッド、どうした」
「復帰するのか、ジェラルド」
 声も震えている。酔いの疑いが、ますます濃くなる。戸惑いながらも頷くと、「良かった、良かった」と涙を流した。アントーニと引けを取らない体格をした男は酒に弱く、感情も高ぶるらしい。多少扱いに困ることもあるが、普段が警備隊隊長として威厳に満ちた態度で振舞っているだけに、対比がおもしろい。隊長の変わり様が見たい。ただ、それだけのために飲みに誘う隊員も後を絶たないほどだ。
「ベネデッドが、あれほど喜んでいるんだ。今日は、粥で我慢しとけ」
「そうだぞ。俺も、1杯だけで我慢してやるから」
「では、チェーザレには酒と粥だな」
「なぜ、そうなる。粥で酒が飲めるか」
 チェーザレと店主の睨み合いを見てから、ベネデッドに視線を移した。彼は泣き続けている。紺色の袖には、染みができていることだろう。酔いのせいとはいえ、ここまで喜ばれると気恥ずかしい。苦笑する横で、稲穂頭は溜め息を吐いた。
「ああ、ああ、分かった。俺の今日の肴は粥でいいから、いい加減泣き止んでくれよ、ベネデッド。袖に隠れて、おまえの顔が見えやしない」
 チェーザレに頭を小突かれ、ようやくベネデッドは目の前から腕を外した。日に焼けた精悍な顔が、涙と鼻水で汚れてしまっている。こちらに向けられた濡れた黒い瞳は、幼い子供のもののようだった。
「せっかくの良い男が台無しだぞ。これ、使え。返さなくていい」
 小突いた男が、白いハンカチーフを提供する。
「おまえが、ハンカチーフを持っているとは意外だな。しかも、白い」
「アントーニ、これは応急処置に役立つ物だ。近衛に属する者としては、常に携帯するのが嗜みというものだ」
 得意気に胸を張るが、褒めるべき人物がチェーザレでないことをジェラルドは知っている。折り目が揃っているのは、一重に彼の愛しい貴婦人のお陰だろう。夫の身の回りの世話は侍女に任せる女性が多い中、彼女は好んで働くのだという。
「それなら、俺も持っている。警備隊も応急処置として」
「だったら、鼻をかむ前に言え」
 苦虫を噛み潰したような顔をしたチェーザレは、ベネデッドの頭を更に小突いた。泣き上戸も、ようやく涙が止まったらしい。「すまない」と小声で謝罪しながら、笑っている。
「で、長期療養とは、どこが悪かったんだ。ここか?」
 幼馴染の手から逃れ、アントーニと向き合う。彼は、自分の心臓の位置を指差していた。やはり、鋭い。
「相変わらず、話が早すぎて困る」
 思わず苦笑を漏らすと、彼は首を横に振った。
「いや、話の早さならチェーザレに劣る。俺は、おまえの屋敷が焼けたことくらいしか知らん」
「離れていたのに、そこまで知ってるんだ。たいしたものだ」
「茶化すな」
 アントーニに両耳を引っ張られる。本人は加減しているつもりだろうが、痛い。
「ま、言いたくないものを無理に聞き出すつもりはない、が。俺にも、何かできることはないか」
「俺にも、とは」
「さっき、ベネデッドに聞いた。おまえのためにチェーザレやベネデッド、陛下までもが協力している、と。友として、何かできることはないだろうか」
 真摯に話す時の彼の濃藍色の瞳は吸い込まれそうなほど深く、魅力的だ。外交の際にも、話術というよりは目の力がものをいっているのかもしれない。
「公私を混同しておこがましいかもしれないが、仕事を手伝ってもらえるとありがたい。まだ長い時間を外出するのは、精神的な負担が大きい。いくら部下やチェーザレが頑張ってくれても、限度というものがある」
「そんなに溜まってるのか」
「ジェラルドの仕事の速さを思えば、そりゃ」
 チェーザレは、両手をいっぱいまで広げた。振り返り見たアントーニはおろか、自分も溜め息が出る。そこまで支障が出ていたとは知らなかった。今回の件を、ジャンルカはどれほど広い心で捉えているのだろう。
「安心しろ、ジェラルド。書類整理は得意分野だ。しばらくは国に滞在する予定だから、共に片付けよう」
「そう言ってもらえると心強い」
「はいよ、ジェラルド。チェーザレも、待たせたな」
 主人が、2人分の粥を渡してくれる。次いで出てきた酒と見比べ、チェーザレは渋い顔をした。
「本当に酒と粥が出てくるとは、やってくれる」
「文句を言うなら、飲むぞ」
 酒に伸ばされたアントーニの手を、彼は素早く叩いて止めた。それを横目に、1口食べる。優しい味も、しばらく何も入れていなかった胃には焼けるほど熱く感じられた。3口目からは、止まらなくなる。自覚していなかったが、身体はよほど飢えていたらしい。
「良い食いっぷりだな」
 主人から、感嘆の声が漏れるほどだった。
「ところで、もう一つ陛下からお聞きしたのだが。おもしろい噂が流行ってるらしいな」
 アントーニとベネデッドは、茹でた豆を肴にしている。チェーザレも1粒、口の中に放り込んだ。
「左の足首だけの幽霊か。俺の部下のところに、実際出ている。噂じゃない」
「城には出ないのか」
「今のところ、城下町だけだね。少なくとも、俺が宿直の時に出たことはないな」
 今度は、粥を食べる。愚痴りはしたものの、結局は豆の塩気と粥とで酒を楽しんでいる。
「警備隊の中にも、家に出たって奴等が数人いる」
「客の中にも4人くらい、いたな」
「その数は、多いかどうか微妙なところだな。陛下からは、見ていない者の方が珍しい、と窺ったのだが」
「つい3日ほど前に、同じ話を窺ったぞ。からかわれたな、アントーニ」
 ジャンルカは、いまだ幽霊話に大きな関心を寄せているようだ。数日前はジェラルドの家の事情の話に触れてしまったが、今回は別段憂いもない相手だ。存分に面白がったのだろう。
「そのようだ」
 アントーニは、一気に酒を飲み干した。
「しかし、害が無いのは救いだな。なんか聞いて回ってるだけなんだろ?」
「ああ。『靴を頂戴』だったか」
 一斉に、視線が手元に集まった。銀製の匙を落としたのだ。幸いにも粥は食べてしまった後だったため、米粒が飛び散ることはなかったが。
「そう言えば、聞いた」
「陛下からだろ」
「いや。寝ている時に、少女の声で」
 友人はおろか、主人までもが身を乗り出している。
「見たのか、足首」
「いや。疲れていて、顔を上げるのも億劫だったから。声を聞いただけだ。今日の肴にしようと思って、忘れていた」
「そうか、見てないのか」
「だが、靴をくれてやった」
 気落ちした友人達は、ジェラルドの言葉で再び目線を上げる。
「くれてやった、だと」
「『靴を頂戴』と言われたんだが、とにかく疲れていて。やれば消えるかと思い、荷物の山を指差した。夢だと思っていたんだが、違ったらしい」
「それで、あの惨状だったのか」
 1人納得した様子のチェーザレに、ベネデッドが拗ねたように口を尖らせる。酔いに任せた仕草なのだろうが、大男にはあまり似合わない。
「あの惨状って?」
「迎えに行ったら、部屋の中が散らかり放題で酷いものだった。エレナ嬢の靴を探していたのは、そのせいか」
 けたたましい音が響く。再び椅子を倒したベネデッドは、顔を引きつらせていた。色も、あまり良くない。
「今度は、どうした」
 アントーニが尋ねるが、口を開いたり閉じたりするだけで答えは無い。どこか遠くを見ていて、こちらに視線をくれようともしない。さすがに心配になって、肩を揺さぶる。ようやく焦点が合った男は、人の腕に縋りつくように泣き始めた。
「ごめん、ごめん、ジェラルド。俺は、俺は」
「君が、どうした」
 どうにも様子がおかしい。肩を押して距離を取り、顔を覗きこんでやる。泣き上戸は、手を口元に置いた状態で言い放った。
「吐く」
「ここでは止めてくれっ」
 主人が叫ぶ。あまりの事に呆然としてしまったが、チェーザレに腕を引かれることで救出された。婦人が掃除用の鉄バケツを持ってくる。運良く間に合ったようだ。
「今日は、これが限界だろう」
 チェーザレがベネデッドの背中を撫でながら、こちらに言う。アントーニと顔を見合わせるが、見解は同じらしい。これ以上ここにいても、店側に迷惑を掛けるだけだ。窺いづらくなるのは、双方共に困る。話し合いの末、ベネデッドと帰る方向が同じであるアントーニに彼を任せ、解散することになった。『黄色い蝶』の出口で2人を見送ったが、足取りはとても危うい。
「あれは、アントーニの家で泊めてもらった方が良いかもしれないな」
「確かにな」
 アントーニの家は、『黄色い蝶通り』からほど近いところにある。ベネデッドの家まで向かうとなると、倍の距離を歩く必要がある。体格が似通った2人とはいえ、片方は酔っ払いだ。無事に着くのは、難しいかもしれない。
「ところで、だ」
 首にチェーザレの腕が回され、体重を掛けられる。重いうえに暑苦しい。
「俺も酔ったみたいでな。おまえのところに泊めてくれないか」
 耳に息を吹き入れるように話されるのが、また腹立たしい。彼の目的など、お見通しだ。
「あわよくば幽霊が見えるかもしれない、という魂胆なのだろう」
「はは、分かるか」
「見え見えだ、馬鹿」
 横腹を軽く殴ると、おとなしく身を引いた。
「今までは転々としていたが、おまえが靴を与えたことで状況が変わるかもしれない」
「次を要求されるかもしれない、ということだな」
「その通りだ」
 一つ、溜め息を吐く。億劫だったためにしたことが、かえって次の面倒事を引き起こしてしまったかもしれない。
「分かった。私は寝てるから、もし幽霊が現れた時は、君が対応してくれ」
「了解」
 チェーザレは八重歯を見せて、いたずら好きの子供のように笑ったのだった。

 ◆◆◆

「おい、ジェラルド」
「ん、なんだ。場所なら変わってやらないぞ」
 腕に掛けられた手を、ゆるい動作で払う。泊まっていくと言うチェーザレに客間を用意しようとしたのだが、そこでは幽霊が出ないかもしれないと断れた。ならばソファだけでも譲ろうと言えば、仕事で慣れているからと自ら床を希望したのだ。真夜中になって代われと言い出されても、迷惑なだけだ。
「そこで良いと言ったのは、君だろう」
「そうじゃない。出たぞ」
 言われて初めて気付いたが、彼は先から小声で話している。薄目を開けてみたが、特に変わったものは見当たらない。ただ、廊下へと続く戸があるだけだ。
「なんだ、何も無いじゃないか」
 再び目を閉じると、チェーザレに人差し指を引っ張られた。
「馬鹿。もっと下だ。言っただろう。足しかないんだよ」
「ああ、そうだったか。だが、私は『君が対応してくれ』とも言ったな」
「そうだった、な」
「では、寝るから起こすなよ」
 納得したのか、諦めたのか。指から手が離れていく。目を開く気にはならなかったが、眠りに落ちることもできなかった。疲れた身体は重く感じても、耳だけは聡く機能するらしい。
「今度は、何がお望みだい」
 驚くでもなく怖がるでもなく、半ばからかうような問い掛けに、相手は怯んだようだ。「ああ、怖がらなくてもいいよ」と、優しく諭す声が続いた。
「君の望みを聞きたいだけなんだ。なんでも叶えよう」
 では、あなたの命を頂戴と言われたら、この男はどうするつもりなのか。不用意な発言に少し呆れると、また指を引っ張られた。
『服を頂戴』
「服だってさ、ジェラルド」
 すぐに話を振ってきた男が腹立たしい。
「起こすなと言ったし、対応してくれとも言った」
「起きてるだろう。対応はするが、物の在り処が分からない。エレナ嬢の服は、どこだ」
「そこ」
 右手はチェーザレに囚われ、左手は己の体の下にあって痺れている。仕方なく右足を上げて、つま先を伸ばした。示す方向には、寝る前に積み上げておいた荷物の山がある。
「これは探し甲斐がありそうだな。少し待っててくれたまえ。たぶん、かわいいお嬢さん」
 幽霊を相手にしているとは思えない口調の幼馴染は、立ち上がると蝋燭を灯したらしい。ほのかな明かりが、目蓋の裏からでも見える。左手を自由にするために寝返りを打つと、背後から物音が聞こえた。たまに金属がぶるかる音もするが、多くは衣擦れの音だ。
「お嬢さんは、何色が好きかな。赤、青。ああ、これなんて、どうだろう」
 目ぼしいものを突き止めたらしい。幽霊話とは似合わぬ喜びの声がする。
「黄色のワンピースだ。踊ると、裾が翻る。黄色い蝶々になれるよ」
 どこかで聞いた言い回しだ、と思った。
「ほら、君によく似合う。靴がちょっと頂けないけどね」
『ありがとう』
 チェーザレと少女が笑い合う。そのような光景を、数年前にも見たことがあった。自分と彼の娘に、1着ずつ服を買ってくれた時のことだ。黄色と白の揃いのワンピース。『黄色い蝶』に行き着けになったのも、同じくらいの時期からだった。彼はこの時、まったく同じやり取りをエレナとしたのだ。
「消えたよ、ジェラルド」
 暗い天井を見上げていると、いつの間にか笑顔のチェーザレが覗き込んでいた。優しい瞳の色に、申し訳ない気持ちが込み上げてくる。
「すまなかった」
「なにが。床に寝かせたことか。それとも、人に家捜しさせたことか」
「全部だ」
「全部、か」
 床に座り込んだ彼は、背をソファに預けた。右腕に、人のぬくもりが伝わる。
「いつか、黄色と白の蝶が舞う夢を見たい」
「馬鹿言うな。現実にするために、俺達は探している」
「そうだったな」
 再度、目を閉じる。目頭が熱かった。