第3話

 翌日の夕方、佐和は校門付近で見慣れてきた背中を見付けた。「山根さん」と声を掛けると、山根は立ち止まって振り向いた。山根の表情は無感動のままだたが、構わず駆け寄る佐和のことを待っていてくれる。
「山根さんも今、帰り? 良かったら、一緒に帰ろう」
 山根が頷いたので、並んで歩き出した。佐和は鞄から白いシュシュを取り出す。
「これ、ありがとう」
 山根はもう一度頷いて、シュシュを受け取った。一旦は鞄に入れようとしていた手は、山根の頭に持っていかれた。白いシュシュは佐和の黒髪にも映えたが、やはり持ち主の方が似合う。そう思って、佐和は微笑んだ。激しい性格を持ち合わせていない山根を色に喩えろと言われたとしたら、佐和は迷わず白と答えるだろう。
「偶然でも会えて良かった。いつ返せるか分からなかったもん」
 主に使用する校舎は学部ごとに違うので、擦れ違うのは難しい。せいぜい朝に中庭で会えるかどうか、といったところだ。現に、昨日は山根と会えたが、今日は会えなかった。「どうして?」と山根が呟いた時、佐和は寂しさを覚えたのだが。
「明日、黒田さんの学科と、合同で講義があります、けど」
 首を傾げた山根に、佐和は目を見開いた。山根は鞄からカリキュラム表を取り出すと、木曜日の四講義目を指差した。よく見ると備考のところに『医療学科・保険衛生学科・獣医学科 合同講義』と書いてある。佐和が見逃していただけで、保健衛生学科のカリキュラム表にも同じことが書いてあるのだろう。必修科目の合同講義はここだけだが、選択科目では他にもいくつか学部をまたいだ合同講義があるらしい。
「先生の都合、なのか。二年生までは、合同講義があるみたい、です」
「そうなんだ。なんか、楽しみだね」
 山根は頷くでもなく否定するでもなく、ただ耳まで顔を赤く染めた。カリキュラム表を鞄にしまうと、俯いたまま何事か呟いた。佐和が聞き返すと、少しだけ声量が大きくなる。
「白猫は、どうなりました、か?」
 話題を変えたくなった山根は、一番気になっていることを口にしたのだろう。佐和は隣りで照れる山根と、透明度の高いアクアマリンの瞳を思い出して、微笑みを浮かべた。
「まだ動けないみたいだけど、目は覚ましたよ。一応、牛乳は置いてきたんだけど、飲んだかな」
「牛乳は、あまり良くないかも、しれません」
 佐和は、山根を見下ろした。彼女の顔からは、既に赤みが引いている。
「悪い……とも、言えないんです、けど。猫によっては、その、おなかを壊す子もいる、みたいで」
 猫は乳製品や魚が好きなものだ、と佐和は思いこんでいたが、どうやら違うらしい。確かに人間だって、人によって好き嫌いやアレルギーのあるなしが違う。猫にだって、個体差があって当然だ。
「そうなんだ。じゃあ、何を食べさせたら良いの?」
 山根は顎に手をあてて、小首を傾げた。
「怪我してる猫、なので……本当は、病院に行くと、体調に合ったものを出してくれるはず、ですけど。ただ、高くて。構わなければ、今から行きますか?」
 しばらく呻っていた佐和だったが、結局は病院に行くことにした。乗りかかった船だし、高いとはいっても処置代よりは安いだろう。先に値段を確認して、払うのが無理そうなら断れば良いのだし。
 佐和が頷いたので、並んで歩き出した。今日も山根は、佐和に付き合ってくらるらしい。正直に言うと、佐和はまだ動物病院の場所も山根の家の場所も、おぼろげにしか記憶が無い。道案内がいることで、とても安心できたのだった。
 あいざわ動物病院の駐車場には、車が1台停まっている。病院の入り口を開いたが、待合室には誰もいなかった。現在、治療中らしい。佐和が受付を見ると、真紀の隣りにもう1人座っていた。山根より強いくせ毛を持つ青年は、佐和達と同じくらいの年齢に見える。
「こんにちは、結衣ちゃん、黒田さん」
 挨拶をした真紀は、佐和と山根の視線の先に気付いて、小さく笑った。
「この子は、実習生の渡辺類君。獣医学会の渡辺会長のお孫さんの1人でね。今日から、うちに来てくれたのよ」
 次いで真紀は類に顔を向け、開いた手で佐和と山根を示した。
「ルイ君。この子達はお客さんで、黒田佐和さんと山根結衣ちゃん。結衣ちゃんは近所の子で、黒猫を飼ってるのよ。ルイ君と同じ、獣医候補生でもあるの」
 類が「こんにちは」と頭を下げたので、佐和と山根も頭を下げる。顔を上げると類は笑顔だったが、緊張しているのか、佐和にはぎこちない笑い方に見えた。
「今日は患畜さんがいないみたいだけど、どうしたの? 白猫ちゃんの話かしら?」
 真紀の鋭さに、佐和は目を丸くした。ゆったりと話す真紀はのんびりした性格に見えるが、やはり動物看護士をしているだけのことはある。受付業務を数多くこなしていると、飼い主の様子や変化も見逃さないようになるのかもしれない。
「あ、はい。そうなんです。どういった餌を与えたら良いか、分からなくて」
「うーん、そうねえ」
 真紀は立ち上がると、棚から白猫のカルテを探し当てた。椅子に座ると、ファイルを開く。
「たぶん問題ないと思うけど。念のため、土井先生にも相談してみましょうか」
 佐和達に向けたものなのか独り言なのか分からないまま、真紀は電話を掛け始めてしまう。佐和と山根は顔を見合わせて、真紀と相手とのやり取りを見守った。
 土井は本来の勤務先の病院で、休憩中だったらしい。相手先の受付が、すぐに土井に電話を取り付いてくれたようだ。真紀と土井の電話は、圧倒的に真紀の無言の時間が長かった。それだけ土井は、運ばれてきた時の容態やそれに適した栄養素などを細かく説明している、ということだろう。
 最後に真紀が礼を言って、電話は切られた。真紀は「さすが土井先生ねー」と呟いた後、佐和と山根に「もうちょっとだけ待っててね」と笑顔で告げて、奥へと行ってしまった。部屋の奥と佐和達を交互に見比べている類が、佐和には少し気の毒に見えた。
 受付に戻ってきた真紀が手にしていたのは、新品の餌箱ではなかった。透明のビニール袋に、黄土色の餌が成人男性の拳一つ分くらいの量が入っている。
「これね、うちで入院してる患畜さんにもあげてる餌の一つなの。お試しってことで、お金はいらないわ」
「いいんですか?」
 真紀が笑顔で頷いたので、佐和は素直に餌が入ったビニール袋を受け取った。
 真紀に礼を言うと、佐和と山根は病院の外に出た。そのまま並んで、山根の家まで歩いていく。途中で山根が一言、「土井先生のように、なりたい」と思いのほか強い声音で漏らしたのが、佐和には印象的だった。山根が家に入った後、佐和は二階の窓を見上げた。黒猫の姿は無かった。
 今日は天気が良いせいか、堤防まで来るとジョギングに励んでいる人がちらほら見える。佐和も、走って帰ることにした。パンプスは走るのに適していないが、白猫の顔を早く見たい気持ちの方が勝った。河川敷では、子供達がサッカーをしている。春の嵐の日と唯一同じだったのは、白猫が倒れていた場所の草や木の様子だけだった。
 マンションに戻った佐和がカードキーを空けてリビングに入ると、窓際に白猫が立っていた。
「立てるようになったんだ」
 佐和は満面に笑みを浮かべた。なんという回復力だろう。明日には、部屋中を飛び回っているかもしれない。
「どうしたの?」
 窓の外ばかり見ている白猫に、佐和は笑顔を消した。白猫は窓ガラスに両方の前脚を掛けると、交互に叩き出した。爪は出していないようで、ガラスを引っ掻く時独特の高い音はしなかった。
「外に出たいんだ」
 白猫は佐和の方を振り返って、一声鳴いた。かわいい声は、佐和に切ない心をもたらした。それでも佐和は窓に近付いて、鍵を開けた。窓も網戸も、猫が通れる分だけ開けてやる。白猫は佐和の足に耳の後ろをすり寄せた後、ベランダに出た。ベランダの柵の上に飛び乗り、木に飛び移って、家の屋根を伝って行ってしまった。一度も振り返ることなく、行ってしまった。
「ここ、6階なのに」
 猫の運動神経には恐れ入る。佐和は苦笑いを浮かべた。
「だから、お試しだったんだ」
 さすが土井先生ね、と言った真紀の。土井先生のようになりたい、と言った山根の。言葉が、佐和の中で蘇る。長々と土井が話していたのは、病状や栄養素のことだけではなかったのだ。
「私も、なりたい」
 しばらくの間、佐和は白猫が去っていった屋根の上を眺め続けた。