第4話

 木曜日の4講義目。大講義室に向かう佐和は、複雑な思いを抱えていた。
 山根と机を並べられるのは嬉しい。佐和の中で山根との距離は縮まってきているし、山根のノートの取り方を見てみたいという好奇心もあった。勉強ができる人のノートというのは、上手にまとめられていて見やすいものが多いという。今まで佐和は他人のノートを見たことがないので、どれほど違うものなのか比べてみたかったのだ。
 しかし山根に会えば、白猫がどこかへ去ってしまったことを話さなければならない。
「残念がるだろうな」
 佐和は溜め息を吐いた。もっとも、ビニール袋に入った餌の意味を勘付いていたらしい山根は、早いうちに白猫が去ることも予測していたかもしれないが。
 それでも山根にどう切り出そうか佐和が迷いながらも大講義室に入った時には、既に席の半分くらいが埋まっていた。小さな講義室は床が平面になっているところが多いが、さすがに大講義室ともなるとスタンドの一角のように席が段々になっている。両端の机は中央に向くよう、少し斜めに設置されていた。下から見上げると、迫力がある。
 既に座っている生徒達の多くが、学科ごとに固まっているようだった。ここ数日の間で佐和が覚えた顔の多くが、右端の列に腰を落ち着けている。数人だけ見ない顔と一緒にいるが、きっと小中高のどこかで同級生だった人達だろう。
 佐和は山根を探したが、見当たらなかった。まだ来ていないらしい。そうすると、佐和はどこに座るべきか考えてしまう。山根は隅の方が好きそうな気もするし、中央の1番前の席で熱心に講義を聴きそうな気もする。だいたい、山根が自ら佐和と机を並べようとしてくれるのか。正直に言うと、佐和には自信が無かった。知り合ってからの数日間、先に話し掛けるのは常に佐和からだった。山根が内心で迷惑だと思っているなら、佐和とは離れて座るだろう。
 佐和が突っ立ったまま席を見上げていたのが気になったのか、同じ科の女の子達が手招きをしてくれた。一層のこと、そちらに混ぜてもらおうか。佐和がそう考えた時、後ろで人の気配がした。きっと邪魔だろうと壁に寄ったのだが、逆に声を掛けられてしまった。
「あ、噂の美人さんだ」
 佐和は振り返ると、首を傾げた。高校の頃に同じことがあって、「はい、美人ですよ」と笑ってやったら盛大に睨まれたことがあった。それ以来、こういったような場面の時は笑顔は作らず、あくまで『何のことですか?』という空気を装うことにしている。美人も大変なのだ。
 声を掛けたのは、知らない顔ばかりだった。男性が2人に、女性が5人。内、前を歩いている女性2人がリーダー格といったところだろう。この女性2人に関わると、非常に面倒くさい事態に陥る。佐和の勘は、そう告げている。しかし声を掛けられた以上、無視をすることもできない。仕方ないので、佐和は相手の出方を待った。
「あなた、どこの学科の人?」
「保健衛生学科ですけど」
 受け答えの仕方や声の調子で相手を逆撫でしないように、佐和は気を遣いながら言葉にする。
「へえ、獣医学科じゃないんだ」
 その言葉一つで、佐和は彼女達の学科を知ることができた。消去法でいけば、自然と彼女達が医療学科だろう、ということに辿り着く。
「山根さんと仲が良いから、獣医学科の人だと思ってた」
 山根を知っているということは、彼女達は山根の同級生なのだろう。佐和にとっては、どうでも良いことだが。ただ一点だけ、外からは佐和と山根が仲良く見えていた、というところは気に入った。だから、どうやって山根と知り合ったくらいは話しても良い、と思ったのだ。
 佐和が笑うと、後ろの女性3人と男性2人が息を呑んだ。これで前にいる女性2人からの心象が悪くなるだろうが、仕方がない。
「私、越してきたばかりで。道に困っていた時、山根さんが助けてくれたんです」
「あの子がっ!?」
 2人の女性が、揃って声を上げた。後ろの5人は声こそ上げなかったが、目と口を丸くしている。昔から山根を知っているなら、驚くのも無理はない。山根の極度の人見知りは、佐和でさえ気付いている。
 2人の女性は、困惑したように顔を見合わせた。
「それで話すようになったのは分かるけど、ねえ」
「うん。あの子、おもしろくないでしょ? あまり付き合わない方が良いと思うんだけど」
 佐和は聞き流しながら、7人の垣根の向こう側に目を向けた。山根が、こちらに向かって歩いてきている。
「高校の頃なんて、ほとんど授業出てないの。単位足りてんのかって感じ。なのに卒業できて、同じ大学とか、ずるくない?」
「暗いんだから、おとなしく家の中でジメジメしてろっての」
 山根にも、2人の声が届いたのだろう。踵を返すと、廊下を走っていってしまった。足音で気付いたのか、7人が廊下を振り返る。佐和は垣根が邪魔で追いかけることもできず、大きな溜め息を吐いた。
「で、あなた達が、いじめっこってわけだ」
 振り向いて佐和を睨む7人に、佐和は「いや、本当のことでしょ」と心の中でツッコミを入れた。
「要するに、嫉妬してるってことでしょ。あなた達が高校の頃に何してたかなんて、正直どうでも良いけど。その延長線を、大学にまで持ち込まないでくれる?」
 佐和が、佐和と垣根の間に人差し指で架空の線を引くと、垣根達は顔を真っ赤にして怒り出した。ちょうど先生が入ってきたので、大事にはならなかったが。垣根達は医療学科が固まっている左端の列に、佐和は手招きしてくれた女の子の前の席に座った。
 佐和は今までに、何度も口喧嘩で人間関係を壊してきている。今回も、面倒くさい奴だと居合わせた全員から思われているだろう、と思っていたのだが。意外にも、保健衛生学科の生徒達には受けが良かったらしい。席が近い人達から、小声でねぎらいの言葉が掛けられた。さすがに大学は、色々な人が集まっている。佐和はそう思いながら、講義に臨んだ。
 講義が終わった後、佐和は同じ学科の生徒達の誘いを断って山根を探した。しかし、食堂にも図書館にも購買にも中庭にも、思い当たる公共施設の全てを回っても、山根を見つけることはできなかった。4講義目が1日の締めくくりの授業なので、帰ってしまったのかもしれない。この時間から大学に残るのは、調べ物をする生徒かサークルに入っている生徒くらいなものだ。医学部でも、4講義目の後の時間をバイトに費やす人間は少なくないらしい。佐和も山根を探すのは諦めて、帰ることにした。
「アイロンでも見に行こうかな」
 白猫がいなければ、本職が獣医の小人さんは家にやって来ない。次に洗濯物を皺だらけにしてしまった時は、佐和が自分でどうにかしなければならないのだ。
 佐和は道に迷いながらも、何とか電気屋に辿り着くことができた。意外にもアイロン台が高かったが、手持ちの金でアイロンとセットで揃えられた。帰り道も迷いそうだが、幸せな重みが手にぶらさがっているから良しとする。小さいけど、ずいぶんと重みを感じる幸せだった。
 佐和が1階に降りると、出入り口付近が混雑していた。混雑の半分は、スーツ姿の人だ。駅に近い場所なので、会社帰りに寄る人が多いのだろう。佐和は人混みを擦り抜けながら、外へ出ようと試みた。腕や肩がぶつかったりぶつけられたりを何度か繰り返したが、なんとか外に出ることができた。
 出入り口から少し離れたところで息を吐く佐和の肩を、軽く叩く者がいた。佐和が振り返ると、そこには一目で日本人ではないと分かる男性が立っていた。淡いブロンドの髪をした男性の目の色は、白猫のものより少し暗い感じのアクアマリンだった。
「落としましたよ」
 驚くほど流暢な日本語を話す男性が差し出したものは、カードキーだった。部屋番号を確認すると、たしかに佐和の部屋のものだ。いつも佐和は走っても落ちないよう、カードキーを鞄の外側のポケットの最奥に入れている。今まで、まだ1度も落としたことはない。もしかしたら肩をぶつけられた拍子にすられたものを、目の前の男性が取り返してくれたのかもしれない。
「ありがとうございます」
 礼を口にした佐和は、息を呑んだ。自他共に認める美人である佐和でさえ魅了するほどの笑顔を、男性が浮かべたからだ。佐和は頬が熱くなるのを感じた。「それじゃ」と立ち去った男性の後ろ姿を、その背中が人混みの中へ消えるまで見送り続けた。
「なかなか、かっこいい子だったね」
「そうです……て、土井先生っ」
 背後からした声に頷きかけた佐和は、振り返ると飛び退いた。すぐ後ろに、土井が銀縁メガネを光らせて立っていたのだ。今日の土井は、濃いグレーのスーツ姿だった。Yシャツのボタンは1番上まで留め、ネクタイもしっかり締めている。
「仕事帰りですか?」
「いや。今から直人さん……と言っても、分からないか。あいざわの方の院長先生と一緒に、学会の会合に顔を出しに行くところだよ。直人さんが電気屋に行きたいって言い出したもんだから、寄り道してるんだ」
 土井は車の鍵を佐和に見せると、肩を竦めた。土井が送り迎えをさせられているらしい。佐和は首を伸ばして電気屋を覗いたが、院長らしき人物は見当たらなかった。
「大変ですね」
「そうなんだよ。僕としては渡辺君も巻き込みたかったんだけど、どうも避けられてるみたいでね」
 土井は息を吐いて、首を横に振った。土井を嫌って避けているというよりは、緊張のし過ぎで会うに会えないのではないか、と佐和は考える。類は、学会会長の孫だ。土井は引き抜きの話が出るほどの腕前だから、会長なり周りの人間なりから噂話は聞こえていただろう。尊敬だとか、会長の孫というプライドやプレッシャーというものは、人を頑なにすることがある。
 土井もそこは分かっているのか、すぐに笑顔になった。
「同じ送り迎えなら、黒田さんを送った時の方が楽しかったよ」
「同じことを、何人の女性に言ってるんですか?」
 佐和が口を尖らせてそっぽを向くと、土井は笑い声を上げた。さっきの男性ほどではないが、土井も整った顔をしているし長身だし物腰は柔らかい。きっと昔から、女性にもてる人だっただろう。
「何人もってことはないよ。僕だって一途なところはあるし、振られる寂しさも知ってるんだよ」
 佐和が土井を見上げると、彼は見守るような優しい微笑みを湛えていた。佐和は、肩に掛けた鞄の取っ手を握り締める。中には、いまだに土井の気遣いが入っていた。
「真紀さんの電話。お試しって、土井先生の指示ですよね? ありがとう、ございました」
 土井に、佐和は頭を下げた。硬く目を閉じないと、涙が零れ落ちそうだった。
「ということは、彼は帰っていったんだね」
 口を開けば声が震えてしまいそうだったので、佐和は頷くだけにした。
「異種族間の恋は、不毛なだけだよ。小さな重み、僕が貰おうか」
 土井は、急に何を言い出すのだろう。眉を寄せた佐和が土井を見上げると、彼は佐和の鞄を指差した。鞄の中にビニール袋に入った餌がしまいっ放しということまで、土井にはお見通しなのだ。佐和は迷ったが、結局は土井にビニール袋を手渡した。土井は手にしていたケースファイルに、ビニール袋をしまう。
「しかし、そうなると山根さんも寂しがったろうね」
「それが、まだ話してないんです」
 俯く佐和に、土井は目を丸くした。
「何で? 喧嘩でもしたの?」
「喧嘩、というほどのことでも、ないんですけど」
 どう説明したら良いものか、佐和は困ってしまう。垣根達の言葉に傷付いて逃げてしまった山根は、佐和も垣根達の仲間だと疑っているかもしれない。そうなると当分は、佐和の言葉に山根は耳を貸さないだろう。それは、喧嘩よりも酷い状況だった。
 口を完全に噤んでしまった佐和に、土井は短く呻った。
「君達は、一緒にいて刺激しあった方が良いと思うんだけどね。黒田さんって誰かに、1人暮らしか寮生活をするように強く勧められたでしょ」
「はあ、まあ、兄に。大学を選ぶ時に、両親は実家から通えるところにしなさい、と言われたんですけど。兄が、これからを思えば家から1度出した方が絶対に良い、と言い張って」
 何でそこまで分かるのか、と佐和は首を捻る。土井は、「なるほどね」と何度か頷いた。
「お兄さんの意見に、僕も賛成だな。黒田さんと山根さんは一見すると、まるで違うように見える。でも、根っこの部分はとても近い。傷付くくらいなら1人でいる方がマシって思ってるタイプだ。でも、人相手にしろ動物相手にしろ、医療というのはチーム戦だから。いくら反りが合わない人間でも、意見が割れていざこざが起きても、患者のためには一丸となって立ち向かわなければならない。それが、今の君達にできる?」
 佐和は、垣根達のことを思った。彼女達が医者になり、佐和がレントゲン技師だったとしよう。患者がいて、レントゲンを撮り、チームの会議で容態の説明をし、今後の進め方を話し合う。想像の中でも、佐和の一言で喧嘩別れとなってしまった。
 極度の人見知りである山根も、同様にうまくいかないだろう。俯いてばかりでは信用を失いかねない。
 佐和の眉間に寄った皺を、土井は見逃さなかった。
「現役の医者でも僕みたいに、なるべく1人でやってしまいたいって思う人はいるけど。それでも必要な時は、仲間と協力しあうよ。もちろん、内面を変えることは難しい。だから不器用な者同士、刺激しあって、ゆっくり成長していきなさい」
 土井は笑って、佐和の眉間に人差し指を押し付けた。揉み解そうとする動きに、佐和は1歩後ろに下がってやり過ごす。
「何するんですかっ」
「仲直りのおまじないだよ」
 佐和は頬を膨らませながら、手で眉間を擦る。土井の指の感触が、なかなか消えてくれない。
 眉間を擦り続けていた佐和は、土井の背後に体格の良い男性が立ったことに気付いた。佐和が声を掛ける前に、土井の頭にチョップが入る。チョップの勢いが良すぎて、土井は前のめりになった。
「コラッ、土井。おまえ、患者さんを口説いてるんじゃないっ」
「口説いてなんか、いませんよ」
 土井は頭を擦りながら、直人を見上げた。相当痛かったのか、整った顔を盛大にしかめている。
「寄り道が済んだなら、早く会場に向かいますよ」
 直人が頷くのを見ると、土井は「付き合せて、ごめんね」と佐和に言い残して去っていった。直人は佐和に手を挙げると、土井の後を付いていった。スーツ姿の二人は、とても獣医には見えない。行き交う会社員達に、すぐに紛れてしまった。
「私も帰ろうかな」
 佐和は眉間を擦りながら、土井達とは反対方向に歩き出した。アイロンを持っているため、さすがに走るのは苦労する。道を覚えながらジョギングコースを検討してみよう。そう考えた佐和は、道の状態や建物などを気にしながら足を進める。雨の日以外は、なるべく毎日続けたい。そうなると、走りやすくて景色が楽しめるコースが三通りくらい欲しかった。
 やはり緑が多いところを考えると、堤防と公園は外せない。少し下見に、と入った公園の中で、佐和は思い掛けない人物を見つけた。子供が遊ぶ遊具側ではなく、散歩に適した緑地の中。芝生広場との境に立つ木の下で、類が佇んでいたのだ。佐和が近付こうとすると、類はすぐに緑地の奥へと歩いていってしまった。
 佐和は類が佇んでいた場所に立ち、芝生広場を覗いてみた。そこには、猫が10匹ていど集まっていた。寝転がったり、毛づくろいをしたり、仲間と戯れたり。みんな、それぞれに楽しんでいる。
「猫の集会?」
 集会とは少し違うような気がするが、見ていると確かに癒される。類が佇んでいたわけだ。
「これは、きりが無いなー」
 佐和は苦笑すると、その場を後にした。ジョギングの時に、ここまで足を伸ばすのも良いかもしれない。
 次に佐和が行き着いたところは、閑静な住宅地だった。きっと、昔からあるのだろう。夕日に照らされる家や塀は和風のものばかりで、道幅も広くない。どの家も敷地が広く、庭を抱えている。佐和が垣根から中を覗いてみると、立派な松が植わっていた。
「ここを走るっていうのも、有りかな」
 佐和の実家の近くは洋建築が多かったため、和建築ばかりの住宅地に興味を抱いた。早朝を走るのは迷惑かもしれないが、夕日が沈む前の時間帯なら許されるだろう。
 住宅地を歩き回る佐和は、ここでも思い掛けない人物を見つけた。ある角を曲がった時に、前方に電気屋の前で会った男性が歩いていたのだ。佐和はそれとなく、男性の後を付けてみた。たった数秒だけの出会いでは、なんだか惜しいような気がしたからだ。
 ところが、男性に付いて角を曲がると、男性の姿は忽然と消えていた。驚いた佐和は、左右を見回した。佐和の右隣に大きな門が無ければ、また土井を疑うところだった。男性を佐和から隠したところで、土井には何も得るものは無いだろうが。
「もしかして、ここが家なのかな」
 佐和は呆然と、門と頭だけ見える屋根を見上げた。門は、格子が入った木の引き戸だ。表札は掛かっていない。知らない人に名を知られるのは嫌だから、とあえて表札を出さない人もいる。佐和も一人暮らしをする際に、表札を出すかどうかで迷ったのだ。マンションの住民に空き室だと思われても面倒なので、結局は出すことにしたが。
 格子の間から見える限りでは、門から玄関までは踏み石が置かれているようだ。塀から頭だけを出しているのは、手入れされた松の木。屋根には、大きな鬼瓦が設置されている。瓦は夕焼けの中でも黒々としていて、なんとも立派な日本家屋だった。
「すごいギャップ」
 もっとも、外国人が日本家屋に憧れて住みだす、というのは珍しくないのかもしれないが。男性が浴衣姿で縁側に座っている図を想像して、有りかもしれない、と佐和はにやついた。既に佐和の中で、住宅地がジョギングコースの一つになることが確定している。数日おきにでも走っていれば、いつか出くわすこともあるだろう。今日だって、2回も見てしまったのだ。
「さっそく、明日から頑張ろうかな」
 とりあえずのジョギングコースは、堤防と公園コース、閑静な住宅地コース、あいざわ動物病院方面コースの三つに決めた。山根とだって、数日おきに走れば会えるかもしれない。大学の人目がある中で捕まえるよりは、ずっと話もしやすいだろう。
 1人で納得した佐和は、跳ねる心地で帰路についたのだった。