第5話

 佐和が大学に入って初めて迎える週末の朝。佐和は意気揚々としながら校門に入った。出掛ける前に、ベッドの上にジャージを、玄関にランニングシューズを準備しておいたのだ。帰宅すれば、すぐにでもジョギングができる。どのコースにしようか、と考えるだけでも楽しい。今日は保健衛生学科と獣医学科の合同講義は無いため、あいざわ動物病院コースにしておくのが良策だろう。もしかしたら数日前のように、掲示板の前で山根と会えるかもしれないが。
 上機嫌で中庭に向かおうとしていた佐和だったが、驚いて足を止めた。佐和の1メートルほど前方のところを、黒い何かが凄い速さで横切っていったのだ。佐和は思わず、黒い何かが去っていった方を見た。黒い何かには細いしっぽが生えていて、背中はしなやかに上下している。茂みの中へ入ったので見えなくなってしまったが、佐和には黒い何かの正体が分かった。
「あの猫だ」
 茂みの中へ入る瞬間、黒猫の横腹が見えたのだ。そこには、十字の傷があった。
 驚いて足を止めたのは、佐和だけではなかったらしい。「え、黒猫?」というような声が、あちらこちらで囁かれているのが佐和の耳にも届いた。中には、「縁起悪くない?」という声もある。歩き始めた佐和は、それとなく携帯を取り出して日付を確認した。
「今日、13日の金曜日だったんだ。なるほどね」
 誰が言い出したかは知らないが、13日の金曜日に黒猫が横切ると不吉だ、という迷信があるらしい。佐和も子供の頃に聞いたことがあった。その時も、よくは覚えていないが口喧嘩に発展してしまったので、きっと佐和が余計なことを言ったのだろう、と思う。佐和だって自覚はしているのだ、一応。
 不吉とまではいかないが、さっそく困ったことになった。佐和が受けるはずだった1講義目が休講になってしまったのだ。晴れやかな朝を迎えていただけに、なんだか肩透かしを食らったような気がする。
「どうしようかな」
 1度家に帰っても良いのだが、再び登校するのは面倒くさい。購買に行って適当に飲み物を見繕った後、図書館にでも行こうか。それとも雑誌でも買って、中庭のベンチで読んでいても良い。幸い今日は、天気予報士のお姉さんが「絶好の、お洗濯日和ですよ」と言っていたほどの空だ。我ながら良い案かもしれない、と佐和は頷いた。ベンチが空いていれば、の話だが。
 どこか空いているか、と佐和は中庭を見回す。あるベンチに目が留まった。数日前、山根と話したベンチだ。しかし、今重要なのは、そこではない。ベンチの足元に、白猫がいたのだ。もしかして、という思いが佐和を動かす。もし佐和が助けた白猫なら、もう1度だけで良いから透明度の高いアクアマリンを見たい。
 白猫まであと10歩のところで、佐和はベンチの傍らに植わっている木を見上げた。風も無いのに、葉の擦れる音が強すぎる。枝が意思を持ったように震えた時には、佐和は白猫に向かって駆け出していた。白猫に大きな影が覆いかぶさろうとした瞬間、佐和は白猫を拾い上げる。白猫を抱え込むと転がるようにして、ベンチの向こう側に滑り込んだ。その直後、地面に横たわった佐和の背中に微振動が伝わる。中庭に、誰ともつかない悲鳴が響き渡った。
 肩で息をする佐和と、白猫の目が合った。次の瞬間、白猫は佐和の腕をすり抜けて、どこかへと逃げてしまった。相変わらず薄情な猫だが、走れるということは怪我をしなかったということだろう。佐和は息を吐くと、体を起こした。足に力が入らず、その場に座り込んでしまう。「大丈夫?」と問われる声が、なんだか遠く聞こえた。
 木は、根元から折れていた。無惨にも地面に叩きつけられてしまった葉は青く、何故折れてしまったのか不思議なほど若々しい。ただ、折れた部分だけが、樹皮も幹の内部の色もこげ茶色に変色してしまっている。そこだけが腐ってしまっていたのだ。
 腐った部分を見つめていた佐和は、急に腕を掴まれた。何事かと考える前に、引っ張り上げられる。まだ小刻みに震える足で立った佐和は、腕を掴んでいる人物を睨み上げた。しかし、すぐに目が丸くなる。佐和の腕を掴んでいたのは、カードキーを取り戻してくれた男性だったのだ。
「その頬の怪我、あまり良くないかもしれません」
 佐和は掴まれていない方の手で、自分の頬を撫でた。指に濡れた感触が残る。佐和は自分の手を見下ろすと、目を見開いた。中央3本の指に、血が付いていたのだ。指摘されるまで何も感じていなかったというのに、血を見てしまうと急に痛み出すのは何故だろう。
「今は切り傷で済んでいますが、徐々に炎症が広がるかもしれません」
 言うが速いか、男性は佐和を引っ張って歩き出してしまった。佐和は戸惑いながらも、おとなしく付き従う。昨日から気になっていたのだ。少しでも長く一緒にいられるなら願ったり叶ったりだ。治療を申し出るということは、彼は医療学科に所属しているのだろう。
 そんなことを暢気に思っていたものだから、校門の外へ向かっていると悟った時には、佐和は慌てた。
「どこに連れていく気? あなたが治療してくれるんじゃないの?」
 男性は振り返ると、首を傾げた。青い瞳に陰りはなく、実は意思疎通がうまくいっていないのでは、と佐和は勘繰ってしまう。
「治療だなんて、僕にはできません。でも僕の知り合いは、そういう傷に詳しいので、そこにお連れします」
 やはり、騙されているのではないだろうか。再び前を向いてしまった男性の頭を、佐和は胡散臭げに見上げた。もしかしたら、このまま拉致されて遠い異国に売り飛ばされるかもしれない。
 保健衛生学科の人間と行き会うことができれば、それとなく声を掛けて助けてもらうことができるのだが。あいにく、既に校門から外へ出てしまった。大学前の商店街は10時開店というところが多く、あまり人気がない。通勤時間も終わりがけなので、車通りも少ない。下手に抵抗すれば、乱暴に扱われるかもしれない。
 さて、どうしたものか。佐和は、頭を捻った。
「ねえ。そう言えば、まだあなたの名前も聞いてないんだけど」
 片手を押さえられている以上、今の佐和が使えるものは頭と口だ。とりあえず、なるべく情報を引き出す作戦でいこう。相手の弱味が見えたら、見逃すことなく捕まえて、少しでも優位に立てば良い。
 そんな素人の目論みは、そうそううまく行きっこない。男性が指差したものを見て、早くも佐和はそう悟った。
 男性が指差したものは、本屋のウインドウに貼られたポスターの中の1枚だった。内藤貢。ミステリーとファンタジー作品が得意な、最近話題の作家だ。度々テレビで見掛けるため、未読の佐和でも名前だけは知っている。ポスターは、3日後に発売される新作をアピールするためのものだった。
「内藤貢さんっていうんですね。有名作家さんと同じ名前だなんて、ちょっと羨ましいな」
 佐和は適当なことを口にしながら、内心では『そんなこと、あるはずがない』と疑った。咄嗟に偽名が思いつかず、適当にポスターを指差したに過ぎない。
「貢さんって日本名ですけど、他に名前があったりするんですか? それとも、ハーフ? クオーター?」
 佐和の質問に男性が答えなかったことが、佐和の中で『内藤貢は偽名である』という確信をもたらす。ここで、してやったりと喜んではいけない。結果的に、佐和が得られた情報は、無いに等しいからだ。
「昨日の夕方、住宅地であなたを見掛けたんですよ。すぐに見失っちゃいましたけど。角地にある、立派な門構えの大きな家。あそこって、貢さんのおうちなんですか?」
 男性は、また無言だった。
「貢さんって、海外の人に見えるじゃないですか。だから、意外だなって思ったんですよね」
 あまりに反応が無いと、質問するのも萎えてくる。佐和も山根ほどではないが、さほど親しくない人に声を掛け続けるのは苦手なのだ。山根や土井に気軽に話ができるのも、白猫という共通点があってこそだ。何か相手と共通点がないと、話も続かないし、相手自身に興味が持てない時もある。
 佐和は、長く息を吐いた。貢との共通の話題といえば、もう昨日の1件しかない。
「昨日、電気屋さんの前でお会いしましたよね。何か探し物でもあったんですか?」
 思い返せば、カードキーを返してもらった時、貢は何も持っていなかった。つまり、目ぼしいものが見つからず、何も買わずに帰るところだった、ということだ。
「それは」
 貢が、ようやく反応を見せた。佐和は注意深く待ったが、それは、の後に続く言葉は無かった。それでも何か探していたのだろう、というのは察することができる。何も無ければ、否定の言葉を続けるだけで良い。
「もうすぐ着きますよ」
 貢の言葉に、佐和は首を傾げた。そこは、佐和がジョギングコースの一つと決めた公園だった。意外な場所ではあるが、佐和にとっては都合が良いかもしれない。閑散とした昼間の団地よりは、まだ人がいる可能性がある。ベビーカーを押した女性が散歩のついでにママ会に参加していたり、手が空いた年配の人が散歩をしに来たり。営業のために外回りをしているサラリーマンが、休憩のために立ち寄るかもしれない。
 佐和は胸を撫で下ろして、男性の後に付いて公園に入った。煌びやかな木漏れ日が地面に映る朝の散歩コースは、夕方とはまた違う魅力を佐和に与えてくれる。佐和は、大きく息を吸い込んだ。左の頬が、少し引き連れる。男性の言った通り炎症を起こしかけているのか、薄らと痺れのようなものも感じた。
「あ、猫の集会」
 昨日、類が立っていた場所に男性が立ち止まった。芝生の上には、既に5匹の猫が寝転がっている。
「良かった。いましたよ、佐和さん」
 佐和は、勢い良く貢を見上げた。貢は構わず、佐和を猫の集会の方へ引っ張っていってしまう。
「ちょっと待って。いるって、何が? 何で、私の名前を知ってるの?」
 貢は1匹の猫の前で立ち止まると、猫を見下ろした。佐和の言葉は一切無視だ。いて良かったのは、毛玉があちらこちらにできているような薄汚れた野良猫らしい、というのは分かるが。
「すいません、長老。ぜひ、お力をお借りしたいのですが」
 餌をやりに立ち寄ったのかと様子を見ていた佐和は、貢の横顔をまじまじと眺めた。猫相手に、いったい何を話し掛けているのだろう。精神病院に連れて行った方が良いだろうか。佐和は、本気で心配し始めた。兄に電話をすれば、良い精神科の先生を紹介してもらえるかもしれない。
「この近くの大学にある木が、何者かによって倒されました。彼女は猫を庇って、傷を負ってしまったのです。明らかに、普通の傷ではありません。長老のお力で、治すことはできませんか?」
 真剣に語る貢の姿は、佐和から見ても申し分のない良い男だ。相手が猫、ということを除いては。佐和は溜め息を吐いた。目の前の光景が、残念でならない。
「この人間の娘に掛かった呪いか? これは、私には無理じゃ」
 猫の長老の口が動いたのを見て、佐和は飛び退いた。とはいえ、片腕は貢に捕まったままだから、遠くへ逃げることはできなかったが。
「ね、猫が日本語喋ってるっ」
「別に、喋っているわけではない。私の力で、おまえさんの耳に翻訳されて聞こえるようにしているのじゃ。感謝しろよ、娘」
 猫の長老は、髭を撫でる仕草はかわいいが、言葉遣いは尊大で少しもかわいくない。だいたい佐和は、この手のタイプとは反りが会わないのだ。貢に小声で「佐和さん」と呼ばれなければ、口喧嘩が始まるところだった。
 佐和は一つ咳払いをすると、頬を引きつらせながらも笑顔で尋ねる。
「長老には無理、とはどういうことでしょうか? その前に、私に呪いが掛かっているとは本当ですか? 無知な私に、分かりやすく教えていただけると、ありがたいのですが」
「なんじゃ、自覚しておらんのか」
 長老の目には簾のように毛が掛かっていたが、見開いたことで佐和にも色を知ることができた。右が青色、左が緑色のオッドアイだった。少しくすんで見えるのは、年齢のせいだろう。
「おまえさん、1度鏡でも見てみた方が良いぞ」
 貢がようやく腕を解放してくれたので、佐和は鞄からコンパクトを取り出した。蓋を開いて、小さな鏡の中を覗き込む。自分の左頬を目にした佐和は悲鳴を上げて、コンパクトを投げ捨てた。涙を浮かべながら、貢の腕にしがみ付く。体中が大きく震えて、そうでもしないと立っていられないのだ。
「落ち着いて、佐和さん。必ず治りますから」
 貢に諭されても、落ち着いてなどいられない。佐和は、大きく頭を振った。
「だって、言ったじゃない。あなたにも、そこの猫にも治せないんでしょっ」
「そうじゃな。放っておけば、全身に広がって死に至る」
 佐和は唇を噛み締めて、長老を見下ろした。佐和の見たものが全身に広がる。想像しただけで、佐和の息が上がった。
 鏡の中にあったものは、赤黒くただれた肌だった。切り傷を中心に、楕円の形で広がっていた。ラズベリーの表面のような細かな水疱がいくつもでき、盛り上がっていた。水疱は、皮が割れて黄色い汁が滲んでいるものもあった。もっとも恐ろしいのは、白猫を救ってから、まだ1時間も経過していないということだ。このままでは、1日も経たない内に、顔の全てが水疱で埋め尽くされてしまう。
 過呼吸になりそうな佐和の背を、貢が何度も擦った。
「落ち着いてください。放っておかなければ良いんです」
「そうじゃ。娘、そこに座って、まずは私の話を聞きなさい」
 佐和は意識して深呼吸を繰り返すと、貢に支えられながら芝生の上に座った。佐和の状況を知らない人から見れば、さぞかし穏やかな風景に見えることだろう。平日の昼間から公園で猫と戯れるなんて、と怒る人もいるかもしれない。佐和も、他人事であったなら同じように憤っている。
「人間どもは知らないが、この世には魔法を使える猫というものが少なからずいる。私のようにな」
 長老が片方の前脚を上げると、不意に突風が起こった。風は公園に植えられた木の1本に辺り、数本の小枝を切り裂いた。
「私達は、マスターと許されし者の2通りに分けることができる」
 長老が、今度はもう片方の前脚を上げる。すると、ピンク色の淡い光に包まれた判子が現れた。判子は佐和の親指1本分の大きさで、先には肉球が付いている。
「あ、かわいい」
 思わず伸ばした佐和の手が触れる前に、判子は消えてしまった。
「今のが魔法の源じゃ。マスターは魔法の力を得る代わりに、判子を管理する義務を負う。ただ、大きな力というものは欲深い者に狙われやすくてな。判子を守るために、マスターは許されし者を作る。判子を額に押してやると、魔法の力を分け与えることができるんじゃよ」
 佐和は頷きながら、自分にもやって欲しいと考えた。別に、魔法の力が欲しいわけではない。ただ、肉球を額に押されるという感覚を味わってみたいだけだ。きっと柔らかい弾力があって、気持ちが良いに違いない。
「許されし者の数は、マスターによって様々じゃ。信頼できぬ者に力を分け与えては、かえって危険じゃからな」
 芝生の上に寝転がっている猫達を、佐和は順に見回した。ただの猫の集会では、なかったのだ。
「ここにいる猫全員が、長老の許されし者ってことなのね」
「うむ。人間のわりに、なかなか物分りが良いぞ、娘」
 感心して何度も頷く長老に対して、佐和は目を逸らした。今は信じるしかない状況だから、話を聞いているだけだ。いつもの佐和なら、完全に無視している。さっきだって、貢を精神病院に送り込んだ方が良いのでは、と考えていたくらいだ。
「おまえさんの呪いは、どこぞの許されし者が掛けたものじゃ。もっとも、おまえさんは身代わりになってしまっただけで、本来の標的は庇った猫の方だったはずじゃが。呪いには、一つ原則があってな。呪いを解くことができるのは、術を掛けた者か、そのマスターだけなのじゃよ」
 左の頬の傷を治すことができる、一つの光明が見えた。佐和は長老に向かって、身を乗り出す。
「つまり、白猫を襲った奴かその上司を捕まえれば、私の傷は治るのね?」
 長老は、深く頷いた。佐和に、ようやく笑顔が蘇る。
「そこでだ。私の許されし者を2度も救ってくれた、おまえさんに問おう。白猫を救った時に、何か共通点はなかったかね?」
 佐和は、目を見開いた。
「あの猫、長老の許されし者だったの?」
「そうじゃよ。ここには今、おまえさんが見惚れた姿は無いがな」
 鼻を上に向けて目を細める長老に、佐和は口を尖らせた。アクアマリンの瞳に見惚れたことは確かだが、老人に図星を突かれるのは気に食わない。たとえ猫であっても、だ。
「優秀な奴なんじゃが、今は疲れておるらしい。力が弱まって、姿を隠すくらいしかできないようじゃ」
 佐和が白猫と出会った時、白猫は傷付き、意識を失っていた。体力を回復するのに、力を使ってしまったのかもしれない。白猫は3日で立ち去ってしまったが、治りきってはいなかったのだ。
 佐和は、ここで何か引っ掛かりを覚えた。
「共通点なら、あったわ。2回とも、お腹に十字の傷を持つ黒猫に会ったの」
 自分の左の脇腹に、佐和は指で十字を描いた。
「十字の傷を持つ黒猫か。確かに、私の許されし者ではないな」
「でも、別にもう一つ、気になることがあるの。その黒猫が呪いを掛けたなら、白猫には傷を治すことができない。なのに、どうして土井先生には治せたのかしら?」
 佐和は顎に手を当てて、考えを廻らせる。1度目は、呪いが掛かっていなかった可能性もある。しかし、もし佐和が黒猫なら、1度目から仕留めに掛かる。
「その人間は、猫が化けたものかもしれないぞ」
 佐和は、長老を見て瞬いた。
「長老も、人間になれるの?」
「なれるが、私は人間が好かん」
 横を向いてしまった長老に対し、佐和も頬を膨らませる。やはり、どうにも反りが合わない。
「とにかく1度、その土井先生という人に会ってみましょう」
 またもや口喧嘩になりそうなところを止めたのは、立ち上がった貢だった。
「理由はともかく、白猫を助けてくれたのは確かですから。僕は会って、お礼が言いたいです」
 貢は、白猫の飼い主だったのか。差し出された手を素直に取りながら、佐和は1人で納得した。
「ありがとうございました、長老」
 貢が頭を下げるので、佐和も慌てて彼に倣った。傷の治し方を教えてもらった以上、猫だからと馬鹿にはできない。
 長老は首の後ろを後ろ脚で掻くと、芝生の上に寝転がった。これから日なたで一寝入りするのだろうか。佐和は笑うと、貢の後ろに付いて歩き出した。もう、貢のことを疑ってはいない。すると繋いだ手が暖かく、気恥ずかしく感じられてしまう。なんとも現金なものだ。佐和は貢に気付かれないように、小さく肩を竦めた。
 公園を出たところで、佐和は携帯の時計を確認する。芝生の上に長居をしてしまったようで、既に2講義目も半ばに差し掛かるような時刻になっていた。踊るような気分でジャージを準備していた時は、まさか初回から講義をサボるはめに陥るとは思わなかった。
「13日の金曜日に黒猫が前を横切ると不吉、か。迷信も、馬鹿にはできないな」
 溜め息を吐く佐和に、貢が振り返って首を傾げた。
「それって、黒猫を飼っている人は、どうなるんですか?」
 金曜日や黒猫が不吉と言われるのも、元はといえば西洋の宗教から来ているものだ。それを、まさか貢が知らないとは。
「本当に、すごいギャップ」
 笑う佐和に、貢は困惑したように眉を寄せた。佐和は笑いを納めると、小さく謝った。
「昔、私も同じことを言って、喧嘩になったことがあるわ」
 ある程度の年齢になると、喧嘩するほどの内容でもなくなってしまう。改めて妙なことを悟った佐和は、携帯を鞄にしまって空を見上げた。薄い雲がところどころに浮かんでいるが、天気の良い日だ。たまになら、授業をサボって街を歩くのも良いのかもしれない。
 しかし、迷信は本当に馬鹿にできなかった。佐和の陽気な気分は、あいざわ動物病院の入り口で消え去ってしまった。
「休みって、どういうこと?」
 入り口には、今日と明日の臨時休業を告げる貼り紙がされていた。下に、申し訳ありませんが、という常套句が続いている。佐和が辺りを見回すと、ちょうど向かいの家から中年の女性が出てくるのが見えた。
「すいませーん」
 佐和は大きく手を振って、女性に自分がいることをアピールする。
「病院が臨時休業なんですけど、理由ってご存知ですかー?」
 駐車場と道を隔てているので、大声を張り上げないと届かない。女性は左右を見て車が来ていないか確認すると、道路を横断して佐和と貢の元まで歩いてきてくれた。佐和は女性に頬が見えないように、貢の影に隠れる。不自然ではあるが、顔をさらして余計な心配をさせるよりは良い。
「真紀ちゃんのお父さんが、昨日の夜に他界されたんですって。今日がお通夜で、明日が葬式だって、今朝方ご夫婦で出掛けていったわよ。入院してる動物がいるから、2階には交替で人がいるかもしれないけどね」
 佐和はついでに近所に飲食店がないか尋ねてから、礼を言って女性を解放した。佐和と貢は、女性に教えてもらった団地内にある喫茶店へ向かった。知っている人の親族の訃報を耳にすると、亡くなった本人のことは知らなくても何となく、しんみりしてしまう。佐和は俯き加減で、喫茶店までの道を歩いた。
 女性が教えてくれた喫茶店は、床も壁も木材で造られた落ち着いた雰囲気の店だった。南向きの窓からは、優しい木漏れ日が入ってくる。意気消沈しかけている人間が来るには、もったいないような所だ。
「土井先生の連絡先、聞いておけば良かった」
 佐和はストローで、アイスコーヒーをすすった。コーヒー党の佐和だが、いつもより苦味が強い気がする。今日ばかりは、紅茶辺りにしておいた方が良かったかもしれない。佐和は野菜サンドに手を伸ばしながら、貢の前に並ぶメニューに目をやった。フィッシュサンドに、ミルクセーキ。あまりにも斬新な組み合わせに、注文をする時、佐和は我が耳を疑った。
「まあ、本人がおいしければ良いんだけど」
 貢は顔を上げると、「ええ、おいしいですよ」と笑顔で応じた。
 貢と出会ってから、佐和の中の常識が音を立てて崩れている。しかし、佐和は悪い気はしていない。むしろ、ギャップの大きさを楽しんでいる自分がいる。ただし、ミルクセーキを飲んでみるかと貢に勧められた時は、丁重にお断りをした。
「仕方ない。午後からは、地道に黒猫を探しましょう」
 ところが、どうにも地道にというのは、うまくいかないことが多い。白や縞模様の猫はそこら中で見掛けるのだが、肝心の黒猫が1匹もいないのだ。大学周辺や堤防、鉄橋を渡って川向こうまで行ってみたが、時間だけが無駄に流れてしまった。人とすれ違うたび、頬の傷を気にして貢の影に隠れていた佐和も、夕暮れに差し掛かると開き直ってしまい、堂々と顔を晒すようになってしまった。それでも、鏡だけは怖くて見ていない。コンパクトは、芝生の上に投げ捨てて、そのままだ。
「見つからない。どうしよう」
 佐和の口からは、泣き言ばかりが漏れるようになった。貢は、ずっと黙っている。佐和の様子に呆れてしまったのかもしれないし、歩き回って疲れてしまったのかもしれない。しかし、手だけはずっと繋がれていた。外すとすれば、トイレに行く時くらいだった。
 何度目とも知れない溜め息を佐和が吐いた時、前にいた貢が短く声を上げた。顔を上げた佐和は、息を呑む。10メートルほど先に、黒猫の後ろ姿があった。黒猫は1度だけ佐和を振り返ると、背中を向けて走り出した。貢と佐和は、慌てて黒猫を追いかける。走りながら、徐々に見慣れた景色に変わってきていることに佐和は気が付いた。2人は結局、団地の中に戻ってきてしまっていたのだ。
 黒猫は、ある家の前で立ち止まった。窓から黒猫が見えないか、と佐和が下から覗いた家。表札に『山根』と書かれてある家だ。
「やっぱり、あの猫だったんだ」
 佐和は貢の手を解いて、黒猫ににじり寄る。黒猫は背中の毛を逆立てて、佐和を威嚇した。魔法を使われては、たまらない。先手必勝とばかりに飛びかかろうとした佐和の体を羽交い絞めにして、貢が止めた。
「待って、佐和さん。この子には、十字の傷が無いっ」
 黒猫の横腹を、佐和は見つめた。貢の言う通り、そこには短い黒い毛が生えているだけで、十字の傷は無かった。冷静さを取り戻し、力を抜いた佐和の体を貢が解放する。そこへ、二つの足音が近付いてきた。
「黒田さん? 人の家の前で、何してるんですか?」
 佐和が目を向けると、山根は眉をひそめて立っていた。学校帰りのようで、A4サイズの書類が楽に入れられるほどの大きな鞄を肩から提げている。それが肩から滑ったかと思うと、鈍い音を立てて地面に落ちた。山根は両手を口にあて、小刻みに震えている。
「その顔、どうしたんですか?」
 山根の、今にも泣き出しそうな顔を見て、佐和は今の自分の顔の状況を把握した。
「全部を説明しようと思うと、ちょっと面倒なんだけど」
 佐和は小さく呻り声を上げた。猫を飼っている山根になら、魔法使いの猫の話をしてみても良いかもしれない。信じてもらえるかは微妙だが、興味くらいは持ってもらえるだろう。問題は、山根が1人ではない、ということだった。佐和は、ちらりと山根の斜め後ろにいる類を見た。
「山根さんこそ、どうして……ええと、渡辺君だっけ? と一緒にいるの?」
 山根は目を丸くすると、類を振り返った。
「え? あれ、どうして……一緒にいる、の?」
 山根の声は、語尾に近付くほど小さくなっていく。眉をひそめた佐和の耳に、貢が「気をつけて」と囁いた。山根は掌を合わせると、花も恥らうような笑顔で佐和に振り向く。人見知りの激しい山根が、佐和に初めて見せる表情だった。
「動物病院の近くで会ったんです。真紀さんに買出しを頼まれたんだけど、道が分からないって、とても困っていて。案内をしていたところなんですよ」
 いつになく流暢に話す山根に、佐和は息を呑んだ。大学で1日を過ごした彼女は、知らないのだ。今日、あいざわ動物病院が休みだということを。
「山根さん。真紀さんのお父さんが亡くなったって、知ってる? 今日がお通夜で、明日がお葬式なの。その間、あいざわ動物病院は、臨時でお休みなんだって。だから、真紀さんが渡辺君に買出しを頼むことは不可……」
 類が手を挙げたかと思うと、激しい旋風が巻き起こった。悲鳴を上げた佐和を、貢が抱き込んで庇う。風が収まってから辺りを見ると、黒猫は地面に爪を立てて耐えていた。山根は、類の傍で座り込んでいる。
「マスターの気配がする。そこから」
 類が佐和に向かって手を伸ばすと、佐和の眉間から鋭い光が放たれた。眩しさに、佐和は目を瞑る。猫の声に再び目を開くと、類の姿がどこにも無かった。代わりに立っていたものに、佐和は目を見開く。
「十字傷の猫っ」
 十字傷の猫が喚くように鳴いているが、佐和には何を言っているのか分からない。十字傷の猫には、佐和のために日本語に翻訳してやろう、という親切心など持ち合わせていないから当然だ。
 黒猫は山根と十字傷の猫の間に立つと、果敢にも毛を逆立てて牙を剥いた。十字傷の猫の足元に転がっている小石が、浮かび上がる。
「さくらっ」
 山根が黒猫に手を伸ばしたのと、佐和が貢の腕を振りほどいて駆け出したのは同時だった。小石混じりの風が山根に襲い掛かる直前、佐和は山根の前に飛び込んだ。小石が佐和の背中を、腕を、足を切り裂いていく。佐和の鞄が地面に落ち、中身はあちらこちらに散った。風が止むと、佐和は地面に倒れ込んだ。ぼやける視界の中に、十字傷の猫らしき姿は無かった。
「黒猫を追いかけます。佐和さんの傷は、僕が必ず治しますから」
 貢の声がしたかと思うと、足音が一つ遠ざかっていく。広い歩幅だ。彼の様子からも、十字傷の猫が姿をくらましてしまったことが分かる。佐和は起き上がろうと腕に力を込めようとしたが、痺れが生じ始めていて、うまくいかなかった。
 山根は、佐和の後ろで泣きじゃくっている。佐和への心配や不安、類を連れ歩いてしまったことによる自責の念などが、彼女の中で渦巻いているのだろう。佐和と、類を連れた山根が出くわしたのは、佐和が山根の家の前に立っていたからだ。山根のせいではない。それを佐和は伝えたいのに、声が出てこない。悔しくて悔しくて、佐和の目から涙が零れた。
 その時、さくらが1声鳴いた。
「落し物を届けにきてやったというのに、何という有り様じゃ」
 山根の泣き声が止まった。薄らとしか見えていない佐和の視界が、白い何かで占められる。佐和は懸命に口を開こうとするが、徒労に終わった。
「良い良い。何があったかは、おまえさんの状態を見れば分かるよ」
 佐和の額に、硬い何かが押し付けられる。すると途端に、物がはっきりと見えるようになった。白い何かは、長老の薄汚れた毛だった。あちらこちらに毛玉ができ、芝生の切れ端が引っ掛かっている様まで見える。佐和の額に押し付けられていたものは、長老の左前脚だった。
「あの判子じゃないんだ」
「判子はマスターの手の中にあれば、充分その機能を果たすからな。ほれ、もう起きれるじゃろうて」
 佐和は腕に力を込めて、起き上がった。さっきまでの脱力感が嘘のようだ。佐和は長老に礼を告げた。弾力のある肉球を楽しめなかったのは少し残念だが、硬くなった肉球も長老が生きた年数に触れられたようで悪くはなかった。
「これで私も、長老の許されし者になったってこと?」
「そういうことじゃが、制限があるぞ。人間でいうところの金曜日にしか、魔法を使えんからな」
「私を信頼ていないってこと?」
 佐和は口を尖らせた。しかし、昼間に会ったばかりだし、猫と人間だ。すぐに信頼しろ、という方が無理なことは、佐和だって承知している。佐和は尖らせていた口を元に戻すと、「当然だけど」と息を吐いた。それに、長老は頭を振る。
「魔力が高まる日にしか、魔法が使えないということじゃ。魔法の才能にも個人差があってな。例えばそこの黒猫は、いくら私が許しても弱い魔法しか使えないのじゃ。まして、おまえさんは人間でありながら猫用を使うのじゃぞ? 制限があって、当たり前じゃろうが」
 長老の言葉に、佐和は頷いた。要するに、質が違うのだ。
「しかも、額に触れて分かったが。おまえさん、呪いを掛けた猫と同じ匂いがするぞ。眉間に、肉球か何かを押し付けられたりしたことはあるか?」
 佐和は眉間に皺を寄せて、首を捻った。ここ数日の間にあった出来事を、順に思い返していく。
「土井先生に、仲直りのおまじないをされたことはあったかも。指を押し付けられたような」
 既に佐和には、あやふやな記憶となりかけているが。長老は目を見開いた。くすんだオッドアイが、佐和の目にも見える。
「正に、それじゃ。土井先生とやらは、間違いなくマスターじゃ」
 眉をハの字型にする佐和の隣りで、山根が身を乗り出す。彼女の眉は、逆ハの字になっていた。
「よくは分からないけど、十字の傷の猫と土井先生は仲間なの? 土井先生は、悪い人なの?」
 長老は、山根にも翻訳の術を施していたらしい。相手が猫だからか、非常事態だからか。山根は初対面にも関わらず、長老としっかり向き合って話していた。
「悪い人ではないよ。この娘に掛けられているのは、あくまでお守りの類じゃ。許されし者の中には稀に、マスターに歯向かったり、意に沿わないことをしでかす輩が出ることもある。健康に生きている者にとって、欲は切っても切り離せない存在なのじゃ。おまえさんにも、あるじゃろう? 食欲やら睡眠欲から始まり……例えば、佐和と仲良くなりたい、とかな」
 佐和が山根を見ると、彼女の顔は耳まで赤く染まっていた。2人の距離は、佐和が心配するほど遠くはないのかもしれない。佐和は胸を撫で下ろした。
「じゃが、人生初の友人を得る前に、この娘を治してやらんといかん。方法は二つ。十字傷の猫を追い詰めるか、土井先生とやらを探し出して治してもらうかじゃ」
「じゃあ、私。土井先生を探します」
 両手を握って宣言をする山根は、もう佐和を相手にしても俯くことはなかった。佐和は、まじまじと山根の顔を見る。消え入りそうな声で喋ることが多い彼女には、1度決めてしまえば困難にも立ち向かえる強さが眠っていたのだ。
「そうじゃな。時間も無いし、二手に別れるのが良かろう。お嬢さんには、私も付いていこう」
 山根は魔法が使えないから、というチーム分けに関して、佐和も異論は無い。異論があるとすれば、長老の態度だ。
「じゃあ、さくらは家の中で待ってて」
 黒猫に声を掛けると、山根は長老を抱き上げた。黒猫は不服そうに尻尾を振ったが、結局は玄関に取り付けられた猫専用の出入り口から家の中へと入っていった。
「もう1度、言っておくがな」
 長老は山根の腕の中から、佐和に向かって前脚を伸ばした。
「おまえさんは、金曜日にしか魔法が使えない。つまり、あと数時間で再び倒れることになる、ということじゃ。良いな、娘」
 何故、山根には「お嬢さん」で佐和には「娘」なのだ。やはり長老とは反りが合わない。佐和は返事の代わりに舌を出して、団地特有の細い道を走り出した。
 長老と話していた間にも、時間はかなり経過している。完全に日が暮れて、暗い夜道へと変化していた。頼りになるのは、街灯に、車のヘッドライトに、家庭から漏れる灯り。あとは月明かりと、たまに犬の散歩をしている人の懐中電灯や自転車のライトくらいだ。相手は黒猫だ。草陰などに身を潜められてしまうと、佐和には見つけるのが困難になってしまう。
「暗がりで、黒猫を探すのか」
 昼間でも、黒猫を見つけることはできなかった。さくらのように、十字傷の無い一般の猫もいるのにだ。あまりの効率の悪さに、佐和は目を瞑って空を仰いだ。
「あれ?」
 左腕と右腕に違和感を感じたような気がして、佐和は目を開いた。が、開いてしまうと、その感覚が消えてしまう。もう1度目を閉じてみると、やはり両腕に違和感がある。腕の中央から太い紐が出ていて、それを遠くから引っ張られる感じ。そう表現するのが、1番近い。どちらの腕からも、紐が数本伸びている。左腕の方が、紐がより太かった。
 そう言えば、と佐和は再び目を開いた。名前は知らないが、星が小さな黄色い点となって煌いている。
「もしかして、魔法使い同士は引き合うのかな」
 長老は佐和に触れたことで、初めて土井が佐和に掛けた魔法の存在を知った。対して十字傷の猫は、触れることなく土井の魔法の存在を見抜いたのだ。
 更に紐の細い太いは、マスターとの契約の強さを表しているのかもしれない。土井との契約はお守り程度だが、長老との契約は金曜日限定とはいえ魔法が使える。
「ということは、右腕の紐の先のどこかに十字傷の猫がいるんだ」
 だいぶ絞られたとはいえ、まだ先は長そうだ。長老の紐は8本しかないのに対し、土井の紐は30本近くある。結構な差だ。マスターが抱える部下の数の平均は、どれくらいのものなのだろう。
 とりあえず、佐和は先が近いところにある紐から辿ることにした。これが意外と複雑で、長老の紐が1本と土井の紐2本の先が、同じところに続いている。たまたま近い所にいるだけかもしれないし、1対2で争っているのかもしれない。どちらにしろ、複数の紐を同時に辿れるのは分かりやすい。
 順調に歩いていた佐和だったが、30メートルほど行ったところで止まらざるをえなかった。そこでは塀が立ち塞がり、更に庭と家がある。突っ切るわけにはいかないが、迂回していたら時間を食ってしまう。
「魔法を使えるということは、空も飛べるかも」
 塀と一方的なにらめっこをしていた佐和は、試しに地面を蹴ってみた。心の中で「飛べ」と命じると、体が浮き上がり、一気に2階建ての屋根と同じくらいの高さまで到達した。
「やった。飛べた」
 喜ぶのも束の間で、高度が2メートルほど下がってしまう。佐和は浮かんだり落ちたりを繰り返しながら、紐の先を目指した。とても不恰好で、映画やアニメの中のような魔法使いとは、まるで印象が違ってしまう。
「魔法って、意外に難しいのね」
 佐和が四苦八苦しながらどうにか辿り着いたところは、鉄橋脇の河川敷だった。水面は月明かりを映して綺麗な景色を作り出していたが、陸地には灯りが一つも無かった。
 佐和は観察するように辺りを見回しながら、ゆっくりと草むらを進んでいく。やがて草むらから、土に変わった。昼間の子供達の遊び場だ。サッカーゴールのポストが、闇の中に白く浮かび上がっている。その下に人が倒れているのを、佐和は発見した。
「内藤さんっ」
 貢に駆け寄った佐和に目掛けて、突風が吹き荒れる。佐和が思わず左手で振り払うと、突風が掻き消えた。
「さすが、私」
 佐和は貢の腕を掴むと、背負おうとする。しかし、男性の体重は重くて、なかなか背中に乗せられない。「軽くなれ」と心の中で念じると、不意に貢の体がタオルケットかと思うほど軽くなった。貢を背負って両腕を掴むと、今度は「飛べ」と念じる。2人の体が、ゴールポスト二つ分ほどの高さに舞い上がった。
 呪文というものは無い。やはり映像化された魔法使い達とは違う。佐和の場合は、ずっと飛ぶことを意識していないと、高度を保っていられない。それにも関わらず、下からは風の波が次から次へと押し寄せるので、短時間に左右へ避けたり高度を上げたり下げたりしなければならない。少しくらい待ってくれても良いじゃないか、と泣き言が出そうになる。相手は佐和と貢を敵とみなしているわけだから、仮に佐和の口から泣き言が出ても聞き入れてくれるわけがない。
「これは辛いかも」
 飛ぶことだけで精一杯の佐和には、貢のことまで気を回していられない。このまま2人で飛んでいたら、集中力が切れてしまうのは時間の問題だった。
 風が来る方向から、十字傷の猫がどこにいるのかは、だいたい見当が付く。佐和は頭上に両手を伸ばすと、一気に振り下ろした。
「雷、落ちろっ」
 佐和の小指が弾かれるように痛んだかと思うと、青白い閃光がいく筋にも分かれて地上へと落ちた。同時に、佐和と貢の高度が下がる。地面まであと50センチといったところで、佐和はもう1度「飛べ」と念じた。2人は目映い光の中を飛ぶ。高度は50センチのままだから、草むらに入ると体に葉の先が擦れた。
 佐和は堤防に上がると、茂みに潜り込んだ。どこかで見た場所だと思ったが、倒れた草と折れた小枝を見て思い出した。佐和が白猫を拾った場所だった。白猫が倒れていた場所に、貢を横たえる。茂みの中は灯りなどというものは無いから、貢だけなら十字傷の猫も見つけづらいだろう。しかし、傍に佐和がいると話が違ってきてしまう。右から伸びた見えない紐は、佐和と十字傷の猫を繋いでいる。
 佐和は茂みから出ると、上空に飛び上がった。今度は1階の屋根の高さまで高度を保ち、川の上へと移動する。月明かりにさらされた佐和は、十字傷の猫からも見つけやすいだろう。
「どうせ隠れても無駄なんでしょ? 私が相手してあげるから、出てきなさい」
 佐和が呼ばわっても、河川敷には静けさが広がっていた。十字傷の猫に、なめられているのかもしれない。佐和は、肺にいっぱい酸素を送り込んだ。
「そっちだって、隠れても無駄なのよ。私には、あんたの居場所が分かるんだから」
 佐和は右腕を上げて、振った。本当は紐によほど集中しないと、猫の居場所は分からない。はったりのようなものだったが、十字傷の猫はサッカー場に姿を現した。佐和は猫を見据えながら、地上へ降り立つ。
 そこからは、無我夢中だった。とは言っても、防戦の一方だ。相手が威嚇しながら激しい風を送り出してくるのを、佐和はひたすら腕を振って流すだけに留まっている。相手の攻撃が止まないから、反撃を仕掛ける糸口が見つからないのだ。これでは猫を追い詰めることはできない。
 佐和の横にあるゴールポストは、重機が押し潰してしまったのかというほど曲がってしまっている。佐和は徐々に、相手に押されているのを感じていた。最初はゴールポストより前にいたはずなのに、今はゴールネットと同じ場所にいる。どうして、と思った瞬間に、佐和の集中力が切れた。
 佐和は風に1メートルほど飛ばされ、地面を転がった。次の突風が来る前に飛び上がったが、どれだけ命じても屋根までの高さに達することはできなかった。もう日付が変わる時刻になってしまったのか。佐和は携帯を取り出そうとして、初めて鞄が無いことに気付いた。山根の家の前で十字傷の猫に襲われた時、鞄の中身を撒き散らしてそのままにしてしまったのだ。
「なんか、色々な意味でマズイんだけど」
 佐和は突風を寸でのところで避けながら、時計を探した。サッカー場を追われ、徐々に鉄橋に近付いていく。すると堤防近くに建つ家から、時計の鐘の音が聞こえ始めた。全部で11回鳴った。日付が変わるまで、まだ1時間の猶予がある。
「長老の嘘つき。もう魔法が使えないじゃない」
 佐和と長老は、本当に反りが合わない。佐和は頬を膨らませながらも、迫る風を左腕1本でやり過ごした。まだ完全に魔法の力が失われたわけではない。しかし、佐和の腕や足は痺れ始めていて、体を支えるのも辛くなってきている。
「本当にマズイよ」
 弱音を吐いた佐和を、突風が襲った。佐和は悲鳴を上げて、地面に転がる。佐和の体や顔は土まみれになり、口の中には草の苦い味が広がった。思わず細めた視界の中、十字傷の猫が歩み寄ってくる。佐和の背中に、寒気が走った。猫に恐怖を覚えるなど、生まれて初めてのことだ。
 佐和は震える腕で体を支えて起き上がると、地面に尻を付いたまま後退した。十字傷の猫の背が丸くなる。猫は黒い毛を逆立て、牙を剥き出しにする。そのうち、佐和の髪まで浮き上がり、頬の産毛までうごめき始めた。
 その時、目を見開いた佐和の視界の端を、何かが通り過ぎた。
「土井先生っ」
 視界の端を通り過ぎた何かは、土井だった。彼はホウキに跨って、十字傷の猫の遥か上を旋回している。
 土井に気を取られた佐和にできた隙を、十字傷の猫は見逃さなかった。佐和の周りに生えた草が音を立てたかと思うと、一斉に佐和に向かって倒れた。
「しまっ」
 た、と言い切る前に、佐和は左腕から伸びる紐の1本が急激に太さを増したことに気付いた。佐和の目の前に、長身の男性が降り立つ。淡いブロンドの髪が、月明かりで輝いている。
「内藤さん?」
 呆然と内藤の後ろ姿を見つめていた佐和に、内藤が振り向いた。彼は右腕1本で、草の葉混じりの風を塞き止めていた。その右腕と佐和の左腕は、佐和の手首の太さほどある紐で繋がれている。紐は、淡いピンク色の光を放っていた。
「佐和さん。少し、力をお借りします」
 佐和が口を開く前に、佐和の全身から力が抜けた。佐和は、背中から地面に倒れる。家鳴りのような音がしたかと思うと、足元から鋭い光が襲った。佐和は、硬く目を瞑る。光が襲ったのは、ほんの2、3秒のことだった。暗闇が、佐和の目蓋の裏にも戻ってくる。
「もう大丈夫ですよ、佐和さん」
 貢に抱き起こされ、佐和は目を開く。せっかく貢との顔が近いというのに、月明かりだけでは暗くて、彼の目の色がはっきりとは見えない。
「もう動けるはずですよ」
 佐和は、両手の指を動かしてみた。指は佐和の思うように動き、痺れや痛みを感じる箇所は一つも無い。貢に促されて立ち上がると、足の震えも止まっていた。
「顔の傷も、ちゃんと治ってますよ」
 佐和の顔を覗きこんだ貢は、笑顔だった。佐和は恐る恐る、左手を顔へ、頬へと近付けていく。最初は指の先で軽く触れる程度だったが、そこにあるのが滑らかな肌だと分かると丹念に撫で始めた。手元に鏡が無いのが残念なほど、触り慣れた肌だった。佐和の目に、涙が滲んだ。
「遅くなって、ごめんね。でも、間に合って良かったよ」
 土井の声に、佐和と貢は彼の方へと目を向ける。土井は、気を失った十字傷の猫の傍に立っていた。手にした竹箒が、礼服姿に違和感をもたらしている。
「本当にホウキに乗って来てくれるとは、恐れ入りました」
 礼の代わりに頭を下げた佐和に、土井は笑い声を上げた。
「真紀さんの実家から、お借りしたんだ。山根さんに呼ばれたのは良いんだけど、真紀さんの実家がここから遠くてね。いや、参ったよ」
 土井はしゃがみ込むと、十字傷の猫の右耳を引っ張った。一瞬だけ、青い光が佐和にも見えた。
「これで、この猫からは魔法の力が完全に失われた。君も、もう元の姿に戻っても大丈夫だよ」
 こちらを向いて笑う、土井の言っている意味が分からない。首を傾げている佐和の左手を、貢は両手で包むようにして取った。
「恩人のあなたを、危険な目に遭わせてしまい、申し訳ありませんでした。僕は、自分の力不足を痛感しました。しばらく、修行の旅に出ようと思います」
 貢の顔が、己の手の方へと下がる。温かく柔らかい感触が、佐和の甲に触れた。
「茂みに倒れていた僕を拾っていただいたこと、忘れません。ありがとうございました」
 貢の姿が淡い光となって溶けたかと思うと、1匹の猫の姿になった。佐和が見惚れたアクアマリンの瞳を持つ白猫だ。白猫は1声鳴くと、佐和に背を向けて走り去っていった。上下を繰り返すしなやかな背中は、堤防を駆け上がっていったきり見えなくなってしまった。
 佐和は、肩を小刻みに震わせる。
「私の初恋、返せーっ」
 叫んだ佐和は怒りのあまり、腕から延びる紐の存在をすっかり忘れていた。相手が遠くへ行けば行くほど紐の先も伸び、探し出すのは困難になっていく。
「だから、異種族間の恋は不毛なだけだって言ったのに」
 腰を丸めて大笑いをする土井を、佐和は睨みつけた。
「私は、人間だって思ってたんですっ」
 土井は笑い声を抑えると、「ごめん、ごめん」と謝った。まだ彼の口元がにやついているのが、佐和には気に食わない。佐和が頬を膨らませていると、土井は右手を佐和に差し出した。
「僕もね、人間だって思っていたよ。これはね、元は彼女のものなんだ」
 差し出された土井の右手には、淡い青色の光を放つ判子が乗っていた。佐和は、土井の顔を見上げた。
「僕は1度、失敗してるから。今日は、間に合って良かったよ」
 土井の微笑みが、佐和には泣き顔に見えたのだった。