スリングショット 《前編》

 何か大きなものが、川に落ちたらしい。生き物みたいだ。水面を強く叩いて、もがく音がする。合間に、少年達の声も聞こえた。
 ボクは、少年達に関わるつもりは無かった。どう聞いても、良心的な音じゃないからだ。関わったら最後、トラブルに巻き込まれるに違いない。ボクは体も心も、か弱い。そこらにいる人間達とは造りが違うのだ。もし殴られたら、遠くまで飛ばされてしまう。どうか、こっちまで飛び火しませんように。ボクは祈りながら、首を縮めた。
 ボクがいる川岸には、草がたくさん生えている。歩きづらいけど、身を隠すのに適していた。たまに幼稚園児が、かくれんぼに利用してるくらいだ。ボクの体なら、まず見つけることはできない。つい三日前に子供に追いかけられた時も、ここに隠れたら見つからなかった。子供は、小さな生き物にも容赦がないから恐ろしい。
 今日は昼間に雨が降ったから、そこら中に露が残っている。月の光が当たって輝くのは綺麗だけど、体が濡れて冷えるところが頂けない。露が下に落ちると土の匂いが濃くなって、草の青臭さと混ざり合って鼻につくところも気に食わない。おまけに初夏の草は先がとんがっていて、体に刺さって痛いし痒い。それでもボクは我慢して、体を小さく丸めてやり過ごそうとした。動かなければ今日も絶対に見つからない、という自信があった。
 人間は、ぬかるんで歩きづらい場所を嫌う。それなのに、気配がボクの方へと近付いてくる。来るな来るな、とボクは念じた。多くの人間はボクを睨みつけて、棒を振り回して執拗に追い払おうとする。ボクは何もしていないのに、だ。本当は猫の足跡なのに、ボクが汚したって責められたことがある。本当は犬が咥えていったのに、ボクが盗んだって怒鳴られたこともある。ボク達は、お互いに出会わないことが最良の道なのだ。
 でもボクの努力もむなしく、一人の少年に見つかってしまった。彼は荒々しく草を踏みつけて、たくましい肩を怒らせている。ボクは恐怖を感じて、目を硬く閉じた。
「じろじろ見てんじゃねえぞ」
 額に、何かが当たった。土の上を転がっていく鈍い音から、たぶん石だと思う。ボクはすぐに目を閉じたのに、酷い言いがかりだ。額が、とても痛い。でも胸は、それ以上だ。ボクは涙ぐんだ。
「何してんだ。行くぞ、伊藤っ」
 新手がやって来たらしい。また、石を投げられるかもしれない。ボクは薄目を開いた。しかし新手の少年はボクには目もくれず、伊藤と呼ばれた少年の二の腕を掴んで引っ張った。ボクにとって新手の少年は、伊藤の暴挙を止めてくれる救世主だ。でも彼自身の目的は、伊藤と二人で逃げることらしい。伊藤は舌打ちをすると、ぬかるみに足をとられながら走り出した。新手の少年も後に続く。二人は、たまに転げながら、堤防の急斜面を駆け上がっていった。
 二人が行ってしまうと、辺りは静かになった。水の音もしない。少年達が濡れている様子は無かった。じゃあ、誰が川に入ったのだろう。ボクが首を捻っていると、重たい何かが草の上を引き摺られていくような音が聞こえた。ボクは音がする方へ顔を向けた。音の主は、橋の近くにいるみたいだ。ボクは喉を鳴らして、ゆっくりと近付いていく。本当は怖いけど、それ以上に気になるのだ。ここはボクの縄張りだから、変なものに入り込まれても困ってしまう。
 ボクが気に入っている川は、住宅街と商店街を分けるように流れている。川の南側が住宅街、北側が商店街だ。橋は商店街の入り口のようなもので、商店街の企画でも、たまに利用される。今は、大きな竹が飾られていた。色紙で作られた鎖や星や短冊が、細い枝に吊るされている。短冊には願い事を書くものだと、ボクは知っている。竹の下に短冊とペンが置いてあって、通りがかった人が自由に願い事を書いて吊るせるようになっているからだ。ボクは、いつも遠巻きから見ているだけだけど。
 今夜の月は、半分より少し太い。月の光はとても明るいけど、橋の下だけが闇に支配されていた。川から橋の下まで、太い線を引いたように草が潰れている。闇の中から、雫が滴り落ちる音と荒い息遣いが聞こえる。ボクは勇気を振り絞って、闇に近付いた。ボクの目は多少の暗さならすぐに慣れることができる優れもので、草を潰した犯人の姿も見つけることができた。四つん這いになった少年がいる。カッターシャツが背中に張り付いていて、運動靴には水草が絡みついている。間違いない。川に入ったのは、この少年だ。
 少年は、ボクに気付いたみたいだ。彼はズボンのポケットから、小型のナイフを取り出した。刃が月明かりを反射して、怪しく光る。ボクは身を硬くした。一回だけ、ナイフより大きな刃物で切られたことがある。とても痛くて、治りきるまでに時間も掛かった。どうして人間は、ボクに攻撃的なのだろう。ボクは背中の毛を逆立てて、精一杯の威嚇をした。今までの経験からすると、あまり効果は期待できない。それでもボクは傷つきたくなくて、威嚇を止めなかった。自分を守ることに必死だったから、最初は何が起こったのか分からなかった。
 少年はナイフで、自分の左手首を切った。
 ボクの鼻にまで、血の鉄臭い匂いが届く。少年は呻き声を上げながら転がって、仰向けに倒れた。少年の左腕が、闇の中から外へと出される。ボクが近付いて見てみると、手首には鮮やかな赤い線の他にも細く盛り上がった傷跡が四本も走っていた。
 ボクの見立てだと、手首の傷は浅い。この傷だけで、人間は死なない。それでも少年は、弱りきっていた。手を伸ばせば触れられる位置にボクがいるのに、向けられたのは視線だけだった。瞬く黒い瞳に、敵意の色は無い。伊藤と同じ人間だというのに、この違いは何だろう。
「おい、小僧。名前は?死にたいのか?」
 ボクが人間に話しかけるのは、これが初めてだ。言葉は、今まで遭遇した人間を参考にしてみた。少し高圧的かもしれないけど、間違ってはいないはずだ。
「な……こ」
 少年は川の中でもがきながら、必死で呼吸を繋ごうとしたのだろう。痛めた喉から出る声は、掠れて酷いものだった。人間より耳が良いボクが注意深く聞き取らないと、音を拾うことができないくらいだ。少年は名前だけを口にしたけど、手首を見れば自殺願望があるのは明白だ。
 ボクは、少しだけ腹が立った。確かに、少年はいじめに遭っている。でもボクだって人間にいじめられても、頑張って一匹で生きている。もしもボクが人間の体を手に入れることができたら、いじめた人間に仕返ししてやるのに。
 ボクは、良いことを思い付いてしまった。
「無駄に死ぬくらいなら、ちょっと体を貸してくれよ。その代わり、おまえの望みを叶えてやるぞ。願いは何だ?金か?あいつらへの復讐か?」
 ボクも少年も、復讐の相手は同じだ。理不尽な理由で石を投げてきた奴を、思う存分に痛めつける。想像しただけで、ボクの胸は躍った。ボクは鋭い歯を見せて笑ったけど、少年は首を力なく横に振る。
「いい、よ。返さな……も良い。ただ、代わり、に」
 細くて筋が目立つ少年の手が、宙に伸ばされる。指が示したのは、橋に飾られた竹だった。しなやかな枝に結わえられた細長い紙が、表になり裏になりを繰り返している。ピンクの地の短冊には、控えめな字で『友人が欲しい。柴夏彦』と書かれてあった。

 ◆◆◆

 ボクが『柴夏彦』になって、八年が経った。石を投げてきた奴への復讐はまだできていないし、友人もいない。
 八年前のボクは、本物の夏彦のことなんて何も知らなかった。記憶が無いボクを、夏彦の叔母と名乗る女性が病院へ連れて行った。ボクは本当の意味での記憶喪失ではないから、検査をしても異常は見つからない。それでも人間は、起こった出来事に何かしら理由をつけたがる。病院から商店街へ帰ると、ボクは『溺れたショックで記憶を失くした、かわいそうな少年』になっていた。病院から許可を貰ったボクが登校すると『いじめられっこなうえ記憶まで失くした、面倒くさい存在』になっていて、先生からもクラスメイトからも煙たがられた。
 ボクの中学校生活は散々だった。でも夏彦の叔母に勧められて、高校に進学した。人間の歴史を学ぶなんて滑稽だ、とボクは思った。でも赤点を取ると補講があって、余分に勉強しなければならない。ボクは仕方なくテスト勉強というものをして、どうにか赤点を取らずに卒業できた。会えば話す程度の人間もできた。でもボクが記憶喪失だと知った途端、彼等の態度がよそよそしくなってしまい、友人にはなれなかった。
 夏彦の年齢で言うと二十二歳になったボクは、柴生花店を手伝っている。柴生花店は商店街の中央くらいにあって、店主は夏彦の叔母だ。夏彦の両親は、夏彦が十二、三歳の時に交通事故で他界してしまった。ブレーキを掛けた痕跡が無いことから、居眠り運転の末に壁に激突したと推測されている。中学生の夏彦は叔母に引き取られることで、転校を免れた。でも、いじめが始まったのも同じ時期のようだ。両親を失った寂しさと、今まで友達だった人間が掌を返すように豹変したことへの哀しみ。引き取ってくれた叔母を心配させたくないが故の、行き場の無い心の悲鳴。夏彦が行き着いた果てが、リストカットだった。一匹で暮らしてきたボクには、夏彦の繊細な気持ちなんて理解できない。
 午前中のボクは、一人で店番を任されている。その間に、叔母の千代は店の裏で家事を片付けているのだ。ボクは花には興味ないけど、店番をするのは好きだ。金のやり取りはほとんどレジに任せきりだけど、たまに苦手だった数学が役に立つ時もある。滑稽だと思っていた歴史だって、老人との会話に一役買っている。それに、たまに面白い客と出会うのだ。今日は、とても優柔不断な男性が一人。
 細い通路を行ったり来たりしている男性は、ボクが後ろ姿をずっと見ているのも気付いていない。男性は花選びに苦戦を強いられているようで、店内に入ってきてから既に二十分が経過していた。彼はたまに立ち止まっては、手を顎にやって唸り声を上げている。バケツに入れられた花を熱心に見下ろしているけど、長身の彼は腰が痛くないのだろうか。
 ボクが彼女用かと目を細めていると、ついに声を掛けられた。でも、いまだに迷っているらしい。男性の視線が泳いでいる。彼は男前の顔をしているのに、黒縁の眼鏡と無精ひげのせいで、どこか取っ付きづらそうに見えた。普段のボクなら避けて通る外見だけど、身を屈めた後ろ姿を散々に見せられた後だ。男性が、かわいらしく思える。
「墓参りに行きたいんだが、どうにも疎くてな。薔薇なんか飾って大丈夫か?」
 ボクが首を伸ばすと、男性の向こう側に赤い薔薇の蕾が見えた。薔薇は今日一番のおすすめ品だけど、墓参りとなると話は別だ。
「棘を取って飾る方もみえますが、止められた方が無難ですよ。生前、薔薇がお好きだった方には良いかもしれませんが」
 ボクは花屋の息子だから、嘘をつくわけにもいかない。正直に答えると、男性は更に唸ってしまった。彼の相手は、よほど薔薇が好きな人か似合う人だったのだろう。男性は長く息を吐き出した後、「いや」と否定の言葉を口にした。
「葬式が終わったばかりだ。止めとこう。適当に作ってくれ。ああ、あっちのチラチラしてるやつは大丈夫か?」
 男性の日に焼けた指が示したものは、白く小さな花を咲かせるかすみ草だった。
「大丈夫ですよ。他に、生前にお好きだったお色などは、ございますか?」
「あいつは、ピンクやら赤やらが好きだった」
 どこか遠くを見つめる男性は、唇を震わせて苦笑いを浮かべた。人間は、面倒くさいほど多くの表情を見せる。ボクはいたたまれなくなって、避けるように男性の顔から視線を外した。
「かしこまりました。お時間をいただきますが」
「構わん。ここで待たせてもらう」
 ボクは手ごろな椅子を探して、店の奥にある丸椅子を指差した。
「では、そちらに掛けてお待ちください」
 男性を店の奥に残して、ボクは花選びを開始した。まずは菊とかすみ草を手にとって、ピンク色の花を探す。なるべく形が良くて、日持ちのする花はないだろうか。ボクは店の入り口近くに置いてある花に目を付けて、物色しようと腰を丸めた。すると突然、Y字の物体がボクの目の前に突きつけられた。
「おまえが犯人だなっ」
 ボクが身を起こすと、腰くらいの背丈しかない少女が立っていた。商店街の奥にある伊藤茶園のお嬢様だが、らしくない格好をしている。Tシャツに半ズボンにサンダル姿だ。今の少女を金目当てで誘拐する人間なんて、まずいないだろう。見た目だけは商店街に馴染んでいる。でもボクは、少女が商店街を歩く姿など、これまで一度も見掛けたことが無い。商店街には、八年前にいじめが原因で川に突き落とされて、記憶まで失ってしまった青年が住んでいるのだ。親が、子供の心配をするのも無理はない。
 ボクは、少女の名前が彩葉(いろは)だということを知っている。花やという職業柄、茶会などがあると彩りを添えるために屋敷に招かれることがあるのだ。家主はきっと、花屋の息子こそが記憶喪失になった青年だと知らないのだろう。でなければ、ボクが屋敷の敷居を跨ぐことを許されるはずがない。金持ちの人間とは、そういうものだ。家主が知らないのは、商店街の住人がボクと叔母に気を遣って、八年前の件をいっさい口に出さないことが原因だろう。茶園以外の商店街の住人は、強い絆で結ばれていた。
 珍客と言える彩葉は、細い肩で息をしながら大きなつり目でボクを見上げている。伸ばされた左手には、無骨な武器が握られていた。Y字の棒の先に、見たこともないような太いゴムが取り付けられている。ボクは驚きはしたものの、少しも怖くなかった。Y字の武器は少女の手には大きすぎて、支えきれていない。更に子供の腕力では、太いゴムを引き伸ばすことなんてできない。
「スリングショットじゃねえか。誰だ、子供に持たせた奴は。危ねえな」
 花束を待っていた男性も騒ぎを聞きつけたようで、店の入り口までやって来た。彩葉の左手に握られている武器を見下ろして、目を丸くしている。
「スリングショット?」
 ボクは耳慣れない言葉に、首を傾げた。地元民に愛される商店街では、Y字の武器なんて見る機会さえ無い。
「スポーツ用だが、害獣駆除なんかにも使われる。関西じゃ、パチンコっつうらしい。うまい奴なら、鉛筆も粉砕できるって代物だ」
 男性は、妙なところで物知りだ。感心して頷いているボクの腿に、鋭い痛みが走った。ボクは目に涙を浮かべながら、少女を見下ろした。か弱い力では、ゴムを引いても武器にならないことに気付いたのだろうか。「こっち向け」と怒る彩葉は、ゴムを振り回す戦法に変えていた。確かに効果があることは、ボクが体験した。遠心力とは、時に偉大なものだ。
 自分に注目を向けるという望みを叶えた彩葉は、とりあえずゴムを振り回すことは止めてくれた。人に攻撃を加えることは子供にとって重労働だったようで、小さな顔が真っ赤に染まっている。
「私、見たんだもんっ」
 少女は、ボクの正体を見たんだ。そう思うと、脈拍が一気に上がった。こんな子供に今の生活を脅かされてしまうのかと思うと、首筋に寒いものを感じる。
 ボクは心の中で落ち着けと念じながら、強張る頬を無理に動かして笑顔を作った。まだ、彩葉が見たものがボクの正体だと決まったわけじゃない。ボクは小刻みに震える指先で、Y字の武器を取り上げた。「あ」と声を上げた少女に、二の腕を叩かれる。ボクが「痛い」と苦情を漏らすと、自分の手足でも十分に武器になると判断したらしい。彩葉は、おとなしくなった。
「で、何を見たのかな?」
「沙織姉ちゃんと話してるとこ」
 ボクは、まだ夏彦として暮らしていけるらしい。肩の力が抜けた。でも、沙織という名前に引っ掛かりを覚える。ボクは目を閉じて、記憶の中に埋もれている沙織を思い出す。
 沙織は今年の四月に彩葉の家庭教師になった女性で、同じ頃に花屋の常連客にもなってくれた。長く柔らかい髪を揺らして、温かな笑みを絶やさない。たしか、赤い薔薇やピンクのガーベラを好んで買っていたと思う。ボクには、彼女が悩んでいたり辛い目に遭ったりしているようには見えなかった。
 でも、彼女は六月の半ば頃、滝つぼに身を投げた。現場には、争った形跡も遺書も残されていなかった。地元の新聞社の記事を見ると、自殺との見方が強いみたいだ。ただ、商店街では他殺ではないかという憶測が消えない。沙織が滝つぼに身を投げて一週間以上経っても、伊藤の屋敷には常に無いほど厳重な警備が敷かれているからだ。うっかり夜中に傍を通りかかると、たとえ商店街の人間でも警備員に睨まれて冷や汗をかかされてしまうほどだ。おかげで沙織と伊藤家は、噂好きの奥様方の良い標的となってしまっている。
「お譲ちゃんは、沙織姉ちゃんを、いつ見たんだ?」
 男性がしゃがみ込んで、口を尖らせる彩葉に目線を合わせた。
「姉ちゃんが殺された一時間前」
 ボクは、小学校低学年の女の子が他殺だと確信していることに驚いた。逆に男性は落ち着いていて、声色を変えることなく質問を重ねていく。
「喧嘩でもしてたか?その後は、どうした?」
 彩葉が首を横に振ると、肩まで伸びた髪が舞った。
「笑ってた。その後は、寝ちゃったから知らない」
 男性は首を丸めて、長い息を吐いた。
「悪いが、それじゃ証拠不十分ってやつだ。だいたい、未成年の証言自体が重要視されん場合もある」
「子供だからって馬鹿にするなっ」
 彩葉は、意味が分かるところだけを拾ったらしい。頬を膨らませて地団太を踏む少女に、男性は顔を上げると慌てて誤った。
「馬鹿にはしてねえ。ただ、一時間前っつのがな。せめて揉めてりゃ、話は別だが」
 取り合ってもらえず目尻に涙を浮かべる少女と、弱りきって頭を抱える男性。ボクには、どちらも遠い存在に思えた。少女の話からすると、一番の当事者はボクのはずだ。でも、まるで身に覚えが無い。ボクは沙織と半月近くも顔を合わせていないのだ。そんな相手と一緒にいたという目撃証言が出るだなんて、理解に苦しむ。
 ボクが口を挟むこともできず、ただ二人のやり取りを見守っているだけの時間がどれくらい過ぎただろう。
「あらあら、いろちゃん。どうしたの?」
 一通りの家事を終えた叔母が、店側に姿を現した。最初は珍しい客に目を丸くしていたが、少女の目に浮かぶ涙を目聡く見つけたらしい。
「夏彦っ。何してたのっ」
 ボクは何もしていない。ただ男性が、少女を質問攻めにしてただけだ。男性だって、故意に彩葉を泣かせたかったわけじゃない。でも叔母は経緯を見ていないから、睨まれてしまうと言い訳のしようがなかった。今のボクや男性が反論しても、更に雷が落ちるだけだ。
「すいません、お母さん」
 謝罪の言葉を口にしたのは、ボクじゃなかった。ボクと叔母が向かい合ったまま呆然としていると、声だけで間を割って入ってきた人物が姿を現した。
「ご迷惑をお掛けしたのは、こちらです。夏彦君に落ち度はありませんよ」
 ボクとしては、彼が割って入ってくれたことは助かった。でも、彼の見かけは怖い。陸上かラグビーの選手じゃないかというほど、首から肩にかけての肉付きが良い。胸板も厚い。頭は角刈りで、真っ黒なサングラスを掛けている。彼がサングラスを外した。現れた鋭いつり目も怖かった。ボクより頭一つと半分も高いところに顔があって、威圧さえ感じてしまう。
 あまりの彼の強面ぶりに、ボクの手足は硬直してしまった。叔母は、叱り飛ばしたはずのボクに身を寄せた。彩葉も、さんざんボクを攻撃してきたくせに、ボクのシャツの裾を握り締めた。男性は身こそ退かなかったものの、苦笑いを浮かべている。
 胸ポケットにサングラスをしまった男性は、深く頭を下げた。背中を真っ直ぐに伸ばし、斜め四十五度の綺麗な礼だった。ボク達が彼を怖がったのは、とても失礼なことだった。身を起こした彼は微笑んでいて、試合後のスポーツマンのような爽やかな雰囲気を持っていたからだ。
「久し振りだな、夏」
 久し振りと言われると、ボクの頭は空っぽになってしまう。ボクにとって、商店街に暮らす人と馴染み客以外は、ほとんどが初めて会う人間だ。高校の同級生なら多少は覚えているが、中学校では孤立無援だったから同級生の顔も名前も覚えていない。彼は、中学時代の同級生の一人だろうか。ボクが強面の顔を見上げたままでいると、彼の太い眉の間に皺が寄せられた。一方的に再開を喜ぶ人間は、ボクが何も覚えてないと悟ると揃いも揃って、こんな顔をする。
「薫だよ、かーおーる。山名薫だって。小さい頃、一緒に遊んだだろ。覚えてないか?」
 彩葉の顔くらいなら隠してしまえるほどの手が、ボクの両肩に乗せられた。そのまま前後に揺さぶられる。抵抗することもできず、首が人形のように大きく振られたボクはたまったものではない。男性が止めに入ってくれた時には目が回ってしまい、乗り物酔いに似た気持ち悪さが胃に広がっていた。
「覚えて、ないか。そういえば川で溺れて、記憶喪失になったんだったな。すまない」
 山名の寂しそうな声に、針で刺したような痛みがボクの胸に走った。相手が、ボクを責めるつもりが無いのは分かっている。でも、ボクには偽者であるという負い目がある。負い目は見えない杭となって、容赦なくボクの心に打ち込まれるのだ。
「小学校の頃に、親が離婚してさ。引っ越す時に、おまえだけが泣いてくれたんだ。まさか、おまえが中学でいじめられるなんて」
 強く握られた山名の拳には、血管が浮き上がっていた。それだけで、夏彦への思いの強さを感じ取ることができる。ボクの中で眠り続ける夏彦は、山名にとって幼馴染で親友だったのだろう。彼が引っ越し先で夏彦のいじめ被害を聞いた時、悔しくて辛かったに違いない。
 八年前を思い出したのだろうか。ボクに背を向けた叔母の肩が震えている。
「最近、こっちに戻ってきてな。お嬢さんとこに、お世話になることになったんだ。近所なんだから頼ってくれよ。あの時の分まで、力になってやる」
 真っ直ぐに向けられた山名の言葉は、眠り続ける夏彦へのものだ。でも、ボクは山名の目を見上げて頷いた。友人が欲しいと願った夏彦の思いを、ようやくボクは叶えることができるかもしれない。
「じゃ、お嬢さん。帰りましょう」
 山名の手が、彩葉の頭に覆いかぶされる。彼は、力加減というものを知らないらしい。本人は撫でているつもりでも、彩葉の方はかき回されているといった感じだ。少女の苦情に聞く耳を持たない山名は、小さな頭を押さえ付けて下げさせた。
「それでは、お騒がせしました。夏、またな」
 ボクが頷くと、大きな手が今度は少女の細い腕を捕らえた。山名は、歩幅の差についても考えが及ばないらしい。彩葉の腕を引いて歩くのは良いが、付いていけない少女は引き摺られる格好となってしまっている。彩葉の意味をなさない声が辺りに響き渡る。虐待と疑われても仕方がない、と誰もが思うような後ろ姿だった。自ら彩葉を商店街まで捜しに来るくらいだから、山名はけして子供嫌いというわけではないだろう。でも、やる事が雑すぎる。山名は、ボクが頼る前にクビになるかもしれない。
 ボクは呆然と二人を見送っていたが、脇腹を叔母に肘で突かれて、我に返った
「すいません。すっかり、お待たせしてしまって」
 ボクは、花束を作っている最中だったのだ。危うく、忘れるところだった。慌てて花を選ぶと、花束の形を考えながら茎を切る作業に取り掛かる。バケツの中の水は少しぬるくなってしまっているけど、焦っているボクには心地良い温度だった。
「慌てなくて良い。急ぎじゃねえし、色々と参考になった」
 何が参考になったのだろう。ボクには少し不可解なところもあったけど、男性の笑顔に甘えることにした。ボクは手先が器用なわけでも、花に特別な思い入れがあるわけでもない。ただ、引き取られた先が花屋だったから手伝っている、というだけだ。ボクが作業速度を上げれば、見るも無惨な花束ができあがる。八年も夏彦をやってきたけど、いまだに細かい作業は苦手だ。
「そういや、訪問先に手土産を持っていきたいんだが、どっか良いとこ知らねえか?」
 不器用な指の動きを見るのが、そんなに楽しいのか。ずっとボクの手元を観察していた男性が、不意に口を開いた。どうやら、地元の人間ではないらしい。ボクは、沙織が来たばかりの頃に、市外の出身だと話していたことを思い出した。商店街に来る客が、みんな地元民なわけじゃない。
 ボクが、この辺りでお薦めする手土産といえば決まっている。
「六件先にある大黒屋の味噌まんじゅうなんて、いかがでしょうか」
 商品名を口にするだけで、甘い香りを思い出す。ボクは、舌の付け根から染み出た唾を飲み込んだ。
「そりゃ、おまえさんの好物なだけじゃねえか。ま、そんな顔されりゃ買ってみないわけにもいかねえな」
 男性が、白い歯を見せて笑った。ボクは、大黒屋の主人に感謝されても良いと思う。
 男性は優しい人で、ボクがどうにか完成させた二対の花束にも高評価をして帰っていった。久々に良い一見さんを得た充足感と彩葉の言葉が心に満ちたまま、ボクは昼休憩を向かえた。叔母に一時間の余暇を許されたので、ご飯を食べた後は、すぐに寝転がった。今日は午前の仕事を終えただけで、すっかり疲れてしまった。
 ボクは重い目蓋の欲求に任せて目を閉じると、意識だけを上へと持ち上げる。宙へ浮き上がる感覚がしたかと思うと、音も無く床の上に降り立った。ボクの目の前には、血の気が失せた夏彦の顔がある。夏彦になったとはいえ、ボクは彼の体から出られないわけじゃない。今もボクの足元を見れば、短い茶色の毛に覆われた四つの足がある。ボクの本当の姿は人間にも見えるけど、鏡には映らない。ボクは『おこじょ』という動物に似ているらしいけど、残念ながら自分の姿を見ることだけは叶わないのだ。
 ボクは人間の体に乗り移ることができるけど、逆に言うとそれだけしかできない。夏彦だって体を借りているだけで、中身を食ったりはしていない。夏彦は心のずっと深いところで、ただ眠っているだけだ。ボクが外に出れば起きることだって可能だし、中にいたって夏彦がその気になればボクを追い出すこともできる。でも、どれだけボクが獣の足で血の気の失せた顔を踏みつけても、夏彦が起きる気配はまるで無かった。
 夏彦は、生きることを諦めてしまっている。山名の言葉も、心の奥底までは届いていないかもしれない。せっかくボクに友人ができそうなのに、夏彦は喜ぶこともしないのだろうか。
 ボクが溜め息を吐くと、背後で電話が鳴った。ボクは飛び上がると、慌てて夏彦の耳の穴から中へ入り込む。夏彦となったボクは目を開いて、受話器を取った。電話回線の都合で多少割れてはいるけど、山名の声だ。
『よお、夏。さっきは悪かったな』
「気にしてないよ。それより、どうしたの?忘れ物でも、あった?」
 またな、とは言われたけど、これだけ早く会話ができるとは思わなかった。ボクは何か落し物でもあったかと首を捻ったけど、山名は短い言葉で否定した。
『実は伊藤邸で、沙織さんを偲ぶための茶会が催されることになったんだ。ああ、茶会って言っても身内だけだがな。そこで飾られる花だけどな。夏にやらせてほしいって推薦しといたから』
 ボクは心底、驚いた。柴家というなら、伊藤邸にも出入りがあるから話も分かる。でも今、山名が言ったのは個人名だ。ボクが不器用なのを知っているくせに新たないじめかとも思ったけど、すぐに思い直した。山名の記憶にあるのは子供の頃の夏彦であって、花屋になったボクではない。ボクが花束を作ったのも、山名が帰った後だった。
 山名は好意のつもりだろうけど、ボクは受けたくなかった。
「でも、ボクはまだ半人前なんだけど」
『伊藤の家主も、そろそろ一人で仕事ができるようになった方が良いって言ってたぞ。身内だけだから、少しくらい見栄えが悪くても大丈夫だってさ。目を掛けられてるってことじゃないか、夏。将来も安泰だな』
 伊藤邸の主人とボクは、会ったこともない。伊藤邸の主人は商店街の長だから、単に商店街の未来を気に掛けているだけだ。一つの店舗の評判が下がれば、他の店も影響を受けかねない。商店街の客足が鈍れば、伊藤邸だって多少の打撃は受けるのだ。
 ボクは、仕方なくメモ用紙になるものを探した。結局は、同窓会への案内状を手に取った。過ぎた日付のものだから、落書きしても構わない。ボク達は打ち合わせのため、明日の十時に伊藤邸で、と約束をした。
 山名は、どうして大雑把なのだろう。ボクは電話を切った後、溜め息を吐いた。