スリングショット 《後編》

 伊藤邸は、商店街を見下ろせる位置にある。運動不足のボクは、門に行き着くだけでも一苦労だ。息を切らしながらインターホンを鳴らして、取次ぎを頼む。山名が出てきてくれるものとばかり思っていたボクは、鍵が開く音に耳を疑った。
『申し訳ございません。ただいま、山名は立て込んでおりまして。玄関で、お待ちいただけますでしょうか』
 ボクはインターホンの前で突っ立ったままだというのに、黒塗りの門は独りでに開いてしまった。
「いや、でも勝手に入るのは」
『家主からも、柴様がいらした際はお通り願うよう仰せつかっておりますので、大丈夫ですよ』
 インターホンの向こう側から受話器が置かれる音がしたため、ボクは項垂れて敷地内に足を踏み入れた。五メートルくらい中に進むと、門が勝手にしまってしまう。辺りを見回したボクは、溜め息を吐いた。門衛はいないけど、木の影に紛れた警備員を見つけてしまった。警備体制が敷かれているからこそ、ボク一人でも敷地内を闊歩させるのか。普段から出入りがある花屋だから信用しているのか。金持ちの考えることは、庶民にはよく分からない。
 伊藤の敷地は、商店街が丸々収まってしまうのではないかと思うほど広い。だから、門から玄関までの道のりも長くて当然だ。途中にはガレージがあったり、茶室があったり、林があったりする。そのくせ、道には轡(くつわ)も落ち葉も無い。手入れが行き届いた広大な庭の中を進むにつれて、ボクは背を丸めて帰ってしまおうかと考えるようになった。花屋の細い通路に慣れたボクは、開けた所にいると落ち着かなくなってしまうのだ。
 ボクは気分を上げるため、青空を仰いだ。雲一つない空の中で、雀が気持ち良さそうに飛んでいる。ボクは雀を目で追っているうちに、嗅ぎ慣れた匂いが漂ってきていることに気が付いた。ああ、なんて良い匂いだろう。ボクは鼻をひくつかせながら、風を辿った。伊藤邸の西側まで来てみると、三階の出窓が開いていた。匂いは、その窓から降りてきている。ボクは、意識が頭から浮き上がる感覚に陥った。
「あれ?いつの間に」
 ボクが我に返ると、なぜか両開きの扉の前に立っていた。振り返ると、紺色の絨毯を敷き詰めた廊下が続いている。少し行ったところにベランダがあって、そこの窓が開いていた。天井から床まで届くほど長いレースのカーテンが、風を受けて揺らめいている。窓の外を見て、ボクが木よりも高いところにいることが分かった。きっと三階だ。さっきまで地面の上にいたはずなのに、どうしてボクはこんな所にいるのだろう。
 ボクは引き返そうかと思ったけど、一秒で覆した。奇妙なことだけど、来た道が分からない。それに、扉の内側から香る甘い誘惑に勝てそうになかった。
 もしかしたら鍵が掛かっているかも、と思いながら、ボクはドアノブを回した。抵抗なく開いた扉の向こうには、嫌味なほど豪華な部屋が広がっていた。敷き詰められた毛足の長い絨毯は、寝転がったら気持ちが良さそうだ。暖炉の上には、客船が描かれた大きな絵が飾られている。シャンデリアには火が入れられていて、そよ風が吹くたびに目映い光を放った。飾り棚が設けられた出窓が開いている。ボクが見つけた出窓は、ここだったのだ。
 ボクを誘う甘い誘惑は、簡単に見つけることができた。磨きこまれたローテーブルの上に、ボクもよく見慣れた庶民的な菓子箱が置かれている。大黒屋の味噌まんじゅうだ。ボクが蓋を開けると、味噌の甘い香りがより濃く立ち上った。舌の裏側から、唾が湧き出てくる。
 ボクはまんじゅうを一つ手に取って、薄いビニール包装の端を摘んだ。なるべく音を立てないように、丁寧に剥いていく。もう我慢できない。艶やかな茶色いまんじゅうに、ボクは欲望に任せて噛り付いた。咀嚼すると、舌に小豆の甘さと味噌の旨みが広がる。息を吐くと、甘くて香ばしい香りが鼻の中を駆けていった。
「何してるの?」
 不意に声を掛けられて、幸せを噛み締めていたボクは飛び上がった。着地に失敗して、まんじゅうと一緒に床に転がる。ボクは、至福のひと時を壊した犯人を見上げた。眉を吊り上げた彩葉が、仁王立ちをしている。明らかに怒っていた。彩葉にとって、ボクは怪しい人間だ。怪しい人間が部屋に上がりこんで、荒らしている。家の者なら、怒って当然だ。彼女にどんな罵声を浴びせられても、ボクは言い訳のしようがない。ボクは首を引っ込めて、両目を硬く瞑った。
「それ、おいしいの?」
 ボクは、再び彩葉を見上げた。少女は無表情のまま、首を傾げている。
「もしかして、見たこともない?」
 少女が頷くのを見て、ボクは新しいまんじゅうを手に取った。たくさんのレースが付いた黄緑色のワンピースには不似合いだけど、構わず少女の腹にまんじゅうを押し付ける。
「君は、もったいないことをしている。一つ食べてみるといいよ。新しい味噌の楽しみ方が分かるから」
 彩葉は数回瞬いた後、小さく吹き出した。ボクが口を尖らせると、今度は腹を抱えて笑い出す。少女の朗らかな声が、室内に響いた。
「すごい真剣っ。新しい楽しみ方って、何それっ」
「味と香りだよ。焼けば香ばしさと苦味が出るし、甘味にすれば甘さと濃厚な舌触りが楽しめる。今だって、まんじゅうの匂いに誘われたんだから」
「そんな匂いする?」
 彩葉が鼻をひくつかせるけど、いまいち分からないみたいだ。眉をハの字にして、小さな鼻の先にまんじゅうを近づける。彼女は小さく唸り声をあげて、「言われれば、するかも」と呟いた。
「とりあえず、今日の三時のおやつにしてみる」
 彩葉は、ワンピースのポケットに味噌まんじゅうを突っ込んだ。まだ宿題が残っているからと言い残して彩葉が出て行くのと、山名が現れたのは同時だった。彩葉は執拗なまでに山名を避けて、逃げるように走っていってしまった。きっと彩葉は、昨日のことで山名にこっぴどく叱られたのだろう。ボクは山名と顔を見合わせて、肩を竦めた。
「夏って、そんなに味噌に情熱的な奴だったか?」
「聞こえてたなら、入ってくれば良かったのに」
 ボクが溜め息を吐くと、山名は苦笑いを浮かべた。太い親指が、彼の背後に続く廊下へ向けられる。
「今のお嬢さんを見れば分かるだろ。俺は、嫌われてるみたいでな。笑い声を聞いたのは、久々だったんだよ。玄関で待たずに、何やってんだとは思ったが。邪魔したくもなくてな」
 用事を済ませて玄関に向かった山名だったが、肝心のボクが現れないため探し回ってくれたらしい。ボクと彩葉の会話も、途中からしか聞いていなかったようだ。ボクは客間に侵入したことと、まんじゅうを勝手に食べてしまったことを素直に白状した。山名は彩葉の機嫌の良さに免じて、家主へはうまく取り計らうと約束してくれた。ただし、次からは自粛するように釘も刺された。最後に、ボクは玄関でおとなしく待っていなかったことを、山名は立ち聞きしたことを、互いに謝りあう。
「でも、すごい偶然だぞ。最初から、打ち合わせはこの部屋でって決めてたんだ」
 だから、シャンデリアに火が灯されていたのだ。ボクが納得した後、ようやく本題に入った。
 家主が考える茶会の規模や、希望する雰囲気。現場に立ち入ることができるスタッフの人数と、持ち込める花器の数。居合わせる人間の花の好みも、忘れずに確認する。アレルギーのあるなしも尋ねておく。打ち合わせは一時間弱で終わった。
 でも、ボクの仕事はこれからが本番だ。家に帰ったら、花の種類と位置を考えなければならない。発注ももちろんしなければならないし、必要があれば応援の手配もしないといけない。花屋は、結構な重労働なのだ。
 ボクは見積もりを出して再び伊藤邸を訪ねることを約束して、山名と一緒に客間を出た。改めて窓の外を見ると、近くに緑の葉で覆われた桜の木がある。視線を塀の向こう側に移すと、商店街や橋向こうの駅の屋根まで見渡せた。ボクが思わず立ち止まると、ベランダを伝って爽やかな風が吹き抜けていく。
「なかなか爽快な眺めだろ。わざわざ、三階の客間を選んでやったんだぞ」
 山名は胸を張っているが、ボクの目はベランダの柵に釘付けになった。白塗りの柵だけど、所々に茶色い線を引いたような模様がある。それに僅かだけど、手すりの支柱が歪んでいるように見えた。妖怪のボクは人間より目鼻が利くから、夏彦の身体から抜け出れば詳しいことが分かるかもしれない。でも、あいにく傍には山名がいる。夏彦が急に倒れれば騒動になってしまうし、突然おこじょみたいな動物が現れたら気味悪がられるに決まっている。
 ボクは後ろ髪を引かれる思いでベランダから視線を外して、山名に客間について話題を振った。山名の家ではないのに、彼は得意気に話し出した。
 庭に出ても、延々と山名の話は続いた。使用人に宛がわれる部屋も、必要以上に広いとか。庭を一周すると、走り込みをしたくらい疲れるとか。使用人が多くて、まだ顔と名前が一致しないとか。とりとめのない話ばかりだったけれど、ボクはいくら聞いても飽きがこなかった。
「見ろよ、夏。お嬢さんがベランダにいるぞ」
 彩葉を目聡く見つけた山名に続いて、ボクもベランダに近付いていく。彩葉が見送りに来てくれたのかとボクは思ったけど、すぐにさほど親しくなっていないことに気付いた。子供とはいえ、まんじゅう一つで人間の心を掴むのは難しい。
 彩葉は、顔を伏せたまま忙しなく左右を見回している。宿題をやると言っていたはずなのに、何をしているのだろう。宿題に必要なものでも落としてしまったのだろうか。それとも、ボクが押し付けたまんじゅうだろうか。ボクはつい味噌の味を思い出して、意識を飛ばしかけた。
「お嬢さん。落し物ですか?」
 山名が声を掛けることで、ようやく彩葉はボク達の存在に気付いたようだ。背筋を伸ばすと、小さな手を手すりに置いた。首を傾げた彩葉は、手に力を込めて身を乗り出す。少女の口が開きかけた時だった。
 ボクは、目を見張った。ベランダの柵が、積み木のように崩れる。手すりに手をついていた彩葉は、支えどころを失った。前のめりになった小さな体は、重力に逆らうことなく下へと引かれてしまう。ボクは考えなしのまま走り出して、落ちてくる少女を受け止めた。小さな体は軽いはずだけど、三階の高さから落ちたともなるとボクでは支えきれない。すかさず補助に入ってくれた山名も巻き込んで、ボク達は地面に倒れ込んだ。ボクは起き上がると、下敷きとなってしまった山名に礼を言った。それから、呆然としている彩葉を立ち上がらせる。へたり込んでしまうか、大泣きされるか。どちらかだろうとボクは覚悟を決めたけど、彩葉はどちらもしなかった。彼女は急に目を見開いたかと思うと、踵を返して屋敷の中へ逃げてしまった。
「まあ、走る元気があれば大丈夫だろ」
 立ち上がった山名が、ズボンに付いた砂を払いながら苦笑いを浮かべる。ボクは彩葉が逃げ込んだ戸を見て、頷いた。勝気な彩葉のことだから、もしかしたら人がいないところで泣いているかもしれないけど。とりあえず三階から落ちて怪我一つ無かったなら、ボクとしては一安心だ。
 伊藤邸の門で山名と別れたボクは、商店街へ続く坂道をゆっくりと下っていく。散歩は嫌いじゃないけど、肌を焼く太陽は苦手だ。ボクは、青空を見上げた。天気予報だと明後日から天気が悪いらしいけど、今は遠い南の空に迫力のない入道雲があるくらいだ。空気は湿気を含んでいて、ベランダで感じた爽やかな風が嘘のようだ。
 ボクが額にかいた汗を手の甲で拭った時、背後から小走りでやって来る人間の足音に気付いた。きっと急いでいるのだろう。そう思って壁側に避けたボクは、突然腕を掴まれて驚いた。ろくな抵抗もできずに、壁に押し付けられてしまう。ボクの目の前にある顔は、見たこともない男のものだった。強盗かもしれない。ボクは慌てて視線を動かしたけど、すぐ隣りには電柱があって商店街側の様子が分からない。ボクと見知らぬ男が止まってしまうと、他に足音はしなかった。近くに人がいなければ、助けも呼べない。
「君さ。さっき、屋敷のベランダにいたでしょ」
 必死にもがいて男の手から逃れようとしていたボクは、男の言葉を聞いて抵抗するのを止めた。屋敷のベランダというのが、伊藤邸の白いベランダだということは分かる。でも、ボクはベランダの上に立った覚えは無い。首を傾げるボクの目の前に、名刺が突きつけられた。男は、『千田直明』というらしい。均等割りされた名前の上には、『村山探偵事務所所属』と書いてある。ボクが男の顔を見ると、彼の薄い唇が弧を描いた。男は黒いキャップを目深に被っていて、顔に大きな影ができている。それでいて、目だけが鋭く光って見えた。男はボクには無い凄みがあるけど、肌の張り具合から推測すると夏彦や山名と同年代かもしれない。
「ベランダの柵に何か仕掛けたの、君じゃない?更に下に回り込み、彩葉ちゃんを呼んだ。口パクで何か言ったりしたのかな。そしたら彼女、下を覗き込むしかないからね」
 千田が口を開くと、グレープ味のガムの匂いがした。ボクは男の物言いに、口を尖らせる。
「知りません。友人も傍にいました」
 千田は短く相槌を打つと、あっさりとボクの腕を解放した。まだ痛みを感じて、ボクは掴まれていた箇所を見下ろす。そこには、千田の指の痕が赤く残されていた。
「まあ、いいさ。今日は証拠が無いからね。でも、次は仕留めてやるから、そのつもりで」
 千田は片目を瞑ると、鼻歌を歌いながら伊藤邸へと戻っていく。伊藤邸の家主は、沙織の死を不審に思って彼を雇ったのかもしれない。千田という男は、事務所から配属されてきたにしては感じの悪い人物だ。妙な憶測をして近所の人間を脅すだなんて、事務所にも伊藤邸にも悪影響を及ぼしかねない。
 ボクは腕を擦りながら、帰りの道を急いだ。千田から早く離れたかったし、茶会をどうするか考えなければいけない。しばらくは掴まれていた箇所に鈍い痛みが残っていたけれど、家に着く頃には痛みも赤みも薄れていた。叔母が、指の痕を怪しむことは無いだろう。ボクは心の底から安堵した。
 ボクが店に入ると、叔母と商店街の入り口にある服屋の夫人が話し込んでいた。彼女はお得意様ではあるけど、ボクは苦手だ。婦人は噂が大好きで、そこかしこの店先で話し込んでいる姿をよく見かけるからだ。沙織が実は殺されたのだ、と商店街中に話して回ったのも彼女だった。恰幅が良い婦人はボクに背を向けていたはずなのに、突然こちらを振り返った。つぶらな瞳と目が合ったことに驚いたボクは、慌てて会釈する。婦人は、軽い挨拶だけでやり過ごそうとするボクの気持ちなど察してくれず、腹を揺らして近付いてきた。逃げ出したい時は、花屋特有の狭い通路が恨めしい。ボクが花の入ったバケツを蹴って倒そうものなら、痕で叔母から大目玉をくらってしまう。ボクは不用意に後ずさりをするわけにもいかず、あっと言う間に婦人に追い詰められてしまった。
「なっちゃん、悩みでもあるの?最近、伊藤邸のことを聞きまわってるらしいじゃないの」
 ボクの頭の中は、真っ白になった。婦人が何を言っているのか、理解ができない。長々と後に続いた彼女の言葉は、ボクの耳には何一つ入ってこなかった。
 ふとボクが我に返った時には、既に菊の花を手にした婦人が帰るところだった。彼女は自分が喋りたいことを話してしまえば満足するらしく、聞き手の様子のおかしさは意に介さない。婦人は笑顔で「なっちゃん、またね」とボクに手を振ると、上機嫌で店を出ていってしまった。
「夏彦。伊藤さんの茶会の詳細は決まったの?」
 茎の切れ端を片付けながら尋ねてくる叔母に、ボクは曖昧な返事をした。ボクの頭は、まだ半ば呆然としている。「着替えてくる」と叔母に告げて、ボクは夏彦の部屋に向かった。中に入ると、ボクはなるべく動きやすい服を見繕う。ボクは薄手のジャケットを脱ぎながら、身に覚えの無い言葉を反芻した。
 ボクは、伊藤邸なんて興味が無い。彩葉が武器を手に店にやって来る前は、大口のお得意様という認識しかなかった。再開したばかりの山名のことならともかく、今更伊藤邸のことをボクが聞きまわる必要が無い。
 最近、ボクが身に覚えの無いことばかりが起こっている気がする。死ぬ前の沙織とボクが話していたという目撃証言。いつの間にか、伊藤邸の三階の客間に立っていたこと。ボクが伊藤邸のベランダにいたという目撃談。ボクが伊藤邸を聞きまわっているという話。
 さっきは千田の言うことを否定したけど、三階の客間に入る前のボクだったとしたら。記憶が無いだけに、否定しきれない。暑いくらいの陽気だというのに、ボクは指先から冷えが這い登ってくるのを感じた。もしかしたら本物の夏彦が目覚めて、不甲斐ないボクに憤りを感じているのかもしれない。だから夏彦は、ボクを困らせるために騒ぎを起こしているのだろうか。胸が壊れそうなほど、ボクの心音は大きい。もしも本当に夏彦に見限られていたらと思うと、ボクは吐き気を覚えた。
 不意に背後の戸が開いて、ボクの肩が跳ねた。
「夏彦。何か食べたい物、ある?お腹、空いたでしょ」
 ボクが振り返ると、廊下から顔を覗かせた叔母と目が合った。彼女の口元に浮かぶ皺を見て、ボクは悲しくなった。彼女は事故で夏彦の父親でもある兄を失って、一度は夏彦も失った。これで沙織や彩葉を襲ったのが本当に夏彦だったら、彼女は夏彦とボクを失ってしまう。夏彦は警察に連れていかれなければならないし、夏彦に見限られたボクは人間から逃げ回る生活に戻らなければならない。
 ただボクは、夏彦を疑うと同時に信じてもいた。たとえ彼がボクを見限っても、叔母を悲しませることは無い。夏彦が本当に叔母をどうでも良いと考えるなら、リストカットなどしていなかった。
「今すぐ僕を縛ってくれ。何があっても動けないように」
 これは、賭けだ。ボクが一歩も動けないでいる間に夏彦の偽者が現れれば、晴れてボク達は無罪となる。
 ボクの思いを汲み取れない叔母は、顔を強張らせた。ボクは叔母の両肩を掴んで、廊下の壁へと追い詰める。ボクは人間が苦手だったけど、八年の間に彼女に乱暴を働いたことは一度として無かった。目を潤ませた叔母は、首を小刻みに横へ振った。
「なに言ってるの。馬鹿なこと言わないで」
 どうして分かってくれないのだろう。言いがかりだとは分かっているけど、ボクは憤りを感じた。
「頼むから早くしてくれ。失くすのも、逃げるのも、もう真っ平だっ」
 夏彦になってからのボクの八年間は、孤独な時もあったけど辛くはなかった。叔母と花屋を続けていきたい。眠り続ける夏彦と一緒に歩いていきたい。いつの間にか、ボクはそう思えるようになっていたのだ。
 見開かれた叔母の目から涙が零れたけど、ボクは解放する気が無かった。ボクの言うことに従ってくれるまで、対峙するつもりだった。でも、ボクが更に言い募ろうとすると、表から叔母を呼ぶ声が聞こえた。
「喧嘩かい?千代さん」
 ボクの声が、外まで聞こえていたらしい。向かいのおじさんが、家の中にまで上がりこんできた。ボクは諦めて、手を下ろす。ボクでも人情の温かみは分かっているけど、たまに苛立つ時だってあった。怒らせたボクの肩に、おじさんの手が置かれる。ボクが横目で睨んでも、おじさんは笑顔のままだった。
「夏坊は、足が速いなあ。今まで、知らん男と公園におっただろ」
 ボクには身に覚えの無い目撃談に、ささくれ立った気持ちが萎えた。
「いや、僕は、今まで伊藤邸に」
 おじさんが見たのは、夏彦ではない。理解した瞬間に、ボクは叔母とおじさんを押し退けた。おじさんがボクを呼んだけど、今は気にしていられない。ボクは靴を突っ掛けて、走りながら無理にかかとを押し込んだ。外はさっきよりも温度が上がっていて、すぐにボクの額は汗をかいた。それを甲で拭いながら、公園を目指して駆けていく。公園と伊藤邸は、商店街から見ると間逆に近いところにある。石橋の一つ手前の四差路を右に折れて、ボクは木漏れ日の下を通り抜けた。
 神社に併設された公園は、半分が林の影に覆われていた。ボクは切れた息を整えながら辺りを見回したけど、夏彦に空似の人物などいなかった。代わりに、ベンチに腰を掛けて缶コーヒーを飲む男を見つける。視線が合うと、彼はボクを手招いた。ボクは、男の傍へ寄った。彼は昨日、沙織のために花束を買った男性だった。
「まだ、この辺にいらしたんですね」
 男はコーヒーを飲んで、苦笑いを浮かべた。ボクを見ても驚かないということは、彼も夏彦に空似の人物を見ていないのだろう。
「感傷半分、手掛かり探し半分ってとこだ」
 手掛かりを探しているということは、男は沙織が自殺ではないと確信しているのだ。ボクは黙って、男の顔を見下ろした。すると彼は、ポケットから携帯電話を取り出す。数個のボタンを操作した後、腕を伸ばしてボクの耳に近づけた。
『沙織です』
 ボクは驚いて、身を退いた。本物の沙織の声だった。ボクが男の顔を見つめると、彼は「留守電だ」と苦笑してボタンを操作した。また男の腕が伸ばされて、ボクの耳に携帯電話が近づいた。
『沙織です。今から、かわいい女の子と車に乗るところなの』
 沙織は、白い車に乗るところだった。ボクでは聞いたこともない車種の車だ。おかしなことに、車のナンバーやシートの色、芳香剤の形まで告げている。
『もし見かけたら、メールを頂戴ね。それじゃ、さよなら』
 別れの言葉を最後に、沙織からの通話は途切れた。彼女は、随分と早口だった。たった三十秒足らずの間に、車の特徴を可能な限り相手に伝えようとしていることが、ボクにでも分かった。
「滝つぼに落ちる四十分前に寄越されてた。あいつ、運転ができねえんだ。免許ってもんを持ってなかったからな」
 男は立ち上がると、缶をゴミ箱に捨てた。缶はゴミ箱の底で三回転がった後、音を鳴らすのを止めた。
「あいつは、自分の身が危険なことを察していた。こっから滝まで、車で約二十分ってことも分かった。だが、商店街に住む大半の連中にゃあ犯行は無理だ。おまえにもあるだろ?アリバイがよ」
 男に指摘されて、ボクは初めて夏彦の身体を縛り付ける必要がないことに気付いた。沙織が滝つぼに落ちたのは、平日の十六時三十分頃だ。商店街が活気付く時間帯だから、仕事をさぼろうものなら叔母に叱られるのは目に見えている。それに夕方の商店街の近辺は人通りが多いから、自然と目撃証言の数も増えるだろう。ボクは仕事をさぼったことで叔母に怒られた覚えはないし、沙織と一緒にいたという目撃証言も彩葉以外に出ていない。
 商店街に住む人間も怪しい行為をするのに、わざわざ夕方の時間帯を選ぶ者はいないだろう。売る側も客も顔馴染みが多いから、忙しい時間帯に不在だと「昨日は、どうしたんだ?」と誰か一人は必ず詮索する者が出てくる。叔母が熱を出して倒れた時も、そうだった。ボクが犯罪を侵すなら、もっとリスクの低い時間帯を狙う。
 そうなると、沙織と接点があって、商店街に馴染みが薄い人間の犯行の可能性が高い、というわけか。ボクが一人で納得していると、男に頭をかき回された。
「てことで、おまえは何を言われても、安心して暮らしてりゃ良いんだよ。間違っても、首突っ込もうなんて思うなよ。お迎えもきたことだしな」
 男の言葉でボクが振り返ると、公園の北側の出入り口に叔母と向かいのおじさんが立っていた。叔母は胸の前で手を揉み合わせていて、落ち着きがまるで無い。土を踏む音にボクが振り返ると、既に男は背を向けて南側の出入り口へ歩き出してしまっていた。彼は本当に、沙織の件にボクがしゃしゃり出るのを拒絶しているようだった。
 ボクは溜め息を吐くと、叔母とおじさんの元へ向かった。本当なら、あまり顔を合わせたくない。ボクは二人の前に立ったものの、彼等の表情を見ることなく視線を地に落とした。すると、おじさんに左の頬を抓られてしまった。あまりの痛さに、ボクは目だけを動かす。おじさんは微笑んでいた。
「なあ夏坊。千代さん、大切な話があるんだってよ。うまい味噌汁食いながら、一緒に聞こうや」
 な、と念押しされて、ボクは頷いた。味噌汁に心を動かされたこともある。でも、それ以上におじさんの筋張った腕や口元に寄った皺に、ボクが商店街で過ごした年数が刻まれているように見えたのだ。
「夏坊は、ほんとに味噌が好きだな。味噌で酔える奴なんざ、夏坊くらいなもんだろ。昔っからだもんな」
 ボクが味噌汁につられたと勘違いしたおじさんが、大声で笑う。ボクは数回、瞬いた。
「昔から、酔ってた?」
「おうよ。一回、祭りの時に踊りだした時があってよ。あん時は笑ったな」
 ボクが味噌の匂いを嗅いで意識を飛ばしてしまったのは、伊藤邸の時だけではなかったのだ。夏彦に見限られたわけでもなかったのだ。ボクの心には安堵が広がった。
 家に帰ると、叔母が味噌汁を作ってくれた。おじさんの言う通り、叔母の味噌汁は絶品だった。ボクが味噌汁を食べている間に、叔母が大きなアルバムを三冊抱えて持ってきた。ボクが苦しまないように、ずっと押入れの奥に隠してあったらしい。ボクが初めて目にするアルバムの中には、夏彦の子供の頃の写真が貼り付けてあった。
 死んだ両親だと叔母に教えられた男女と一緒に写った夏彦。あまり面影はないけど、山名らしき少年と写った夏彦。どの写真にも、夏彦の傍らには必ず夏彦に空似の少年が写っていた。
 橋に花屋に公園。商店街の建物は変わらないけど、住む人々はかなり若い。叔母も例外ではなく、写真では白髪の一本も無さそうだ。中には伊藤邸で、夏彦と夏彦に空似の少年、それに夏彦の父親と伊藤邸の家主が同じ枠に収まった写真まであった。
「夏彦のお父さんは、今の山名さんと同じように伊藤邸で働いててね。お母さんは、この花屋を手伝ってた。その間、夏彦は星彦と公園で遊んだり、商店街のどこかの家に上がり込んだりしてたのよ。双子だからか、一緒にしておかないとすぐに泣き出して」
 夏彦に空似の少年は、星彦というらしい。見間違えるほど似ているのは、双子だったからだ。ボクが彼の存在を知らないのは周りの人間が気を遣ったせいでもあるし、星彦が夏彦に会おうとしなかったせいもある。夏彦と星彦は、子供の頃から確執でもあったのだろうか。ボクは首を捻った。写真の中の夏彦はいつも笑顔で、自ら手首を傷つけたり、友人が欲しいと星に願いを託すような子供には見えない。ましてや双子の片割れに意地悪をするような陰険な性格には、ボクには見えなかった。
 ボクが黙ってアルバムを見下ろしていると、叔母が更に話を続けた。
「でも伊藤さんが離婚されて、二年くらい後に夏彦のお父さんとお母さんが居眠り運転なんかで死んでしまって。夏彦はうちに、星彦は高崎の兄さんの家に貰われたけれど、遠いからなかなか行き来ができなくて。そのうちに夏彦の記憶がなくなって、すっかり疎遠になてしまった。伊藤さんが再婚されるまでは、明るい話なんて無かったわね」
 ボクは味噌汁を飲み干すと、すぐに漬物を口の中に放り込んだ。漬物の酸っぱさで誤魔化さないと、味噌を食べたボクはあまりの心地良さに眠ってしまいそうだ。ボクは一つ伸びをすると、自分の部屋から日本地図を取ってくる。日本地図は学生時代から使っているもので、所々に開き癖がついていた。ボクは高崎が載っているページを開いて、家から一番大きそうな駅までの距離を確認した。食器を片付け始めた叔母に所要時間を尋ねると、電車を乗り継いで約三時間だと返ってきた。乗り物を使用して三時間掛かるという距離は、ボクが地図を見ただけでも遠さを感じた。
「沙織と接点があって、商店街に馴染みの薄い人物、か」
 彩葉の証言が本当だとしたら、星彦と沙織には何らかの接点があったはずだ。おまけに星彦は、長いこと市外に住んでいるため商店街には馴染みが薄い。夏彦は今年で二十二歳だから、双子の星彦が車の免許を持っている可能性はある。条件だけを考えるなら、星彦は限りなく黒に近い。
 ただ一つ問題なのは、星彦を追い詰めたくてもボクには居場所が分からない。星彦はたびたび商店街の近くで目撃されているから、高崎には帰っていないだろうけど。
 ボクは、おじさんの顔を見た。今は、人情の温かみにすがるしかない。
「星彦が近くに来てるんだったら、会って話がしてみたい」
 おじさんは浅黒い顔に満面の笑みを浮かべて、商店街の住人に情報提供を呼びかけると約束してくれた。商店街の住人は企画がある度に結束するし、それぞれにお得意様がいる。商店街の人脈は馬鹿にできない。ボクがちょっと乗り気になっただけで、一時間もしないうちに星彦は見つかった。彼は、公園に戻ってきているらしい。
 ボクは彩葉から取り上げてそのままのスリングショットをベルトに差して、隣りの家の子供からキックボードを借りた。ボクは地面を思い切り蹴って、先を急ぐ。商店街から橋までは少しだけ下り坂になっているから、キックボードに乗ると走るより速くて快適だった。
 ボクが公園に着いた時、星彦はまだ中にいた。彼はベンチに腰を掛けて、書類に目を通している。ボクが遠目から見ても、鏡の立体版でも発明されたのかと疑うほど似ていた。彩葉や商店街の住人が見間違うのも無理はない。ただ、仕草の一つ一つが、ボクより星彦の方が上品に見えた。
 ボクは下唇を噛みながら、星彦に近付く。ボクに気付いた星彦が逃げようと腰を浮かせたため、ボクは思わずキックボードを転がした。星彦は、足に命中したキックボードもろとも地面に倒れた。彼が手にしていた書類が、宙に舞う。後で隣りの家の子供に、キックボードを弁償しろと訴えられるかもしれない。ボクは、キックボードが壊れていないことを願った。
 ボクは、膝を抱えて痛がる星彦を見下ろした。すると、星彦の下敷きになったA4サイズの封筒が見えて、ボクの心臓が跳ねた。封筒には『村山探偵事務所』と縦書きで書かれてある。宙に舞って地面に散らばった書類は、星彦が探偵に調べさせたものに違いない。ボクは、足元に落ちていた書類を一枚拾い上げた。書類には、ボクと夏彦が入れ替わった八年前の七夕について書かれてあった。夏彦が川で溺れるまでの経緯と、おおよその時間。夏彦を川へ落とし、警察に事情を聞かれた二人の少年の名前。ここまでなら、ボクでも聞き知っている。問題は、まだ文章が続いていることだ。
 取調べを受けた二人の少年は、別の二人の少年に指示されてやったと証言したらしい。指示したという少年の名前も書類には載っている。坂田と、というところまで読んだところで、ボクの肩に星彦とは違う手が置かれた。振り返ると、さっき缶を捨てて立ち去ったはずの男性が立っていた。
「千田さんっ」
 ボクは、ようやく起き上がった星彦と、散らばった書類と倒れたキックボードの惨状を見て片方の眉を上げた男性とを見比べた。
「千田さんって、村山探偵事務所所属の千田さん?」
 男性は頷くと、ボクに名刺を差し出した。昼前に、キャップの男が提示した名刺と寸分違わないものだ。でも、昼前の男と目の前の男性は、まるで顔が違う。ボクには、どっちが本物か判定する術がない。男性が星彦をだましているかもしれないし、星彦と組んで何か企んでいるかもしれない。
 困ったボクは、地面に落ちてそのままの書類を見回した。仕事ぶりを見る限り、目の前の男性は本物の千田なのだろう。ということは、昼前にボクを脅した男は誰なのか。
「この男っ」
 ボクは見覚えがある顔写真を見つけて、拾い上げた。写真の下に、小さな文字で『坂田信彦』と書いてある。
「この男が、千田さんを騙ってましたっ」
 ボクは坂田の顔写真が載った書類を、千田に突きつけた。千田は頷くと、落ち着いて話をしようと提案した。確かに、ボクには分からないことだらけだ。ボクが承諾すると、ボクと星彦と千田はベンチに座った。ボクと星彦は細身だけど、大人の男が三人並んでベンチに座るとさすがに狭い。星彦の足の痛みはなかなか引かないらしくて、座る前にも擦っていた。
「今年の始めに、同窓会があっただろ。夏は、いなかったけど。いや、いなかったから聞けたっていうか。八年前、夏が川で溺れたって話。実行犯は捕まったけど、みんなが坂田が裏にいたんじゃないかって疑ってた。だから、千田さんに依頼したんだ。千田さんは、父さんとも知り合いだったから」
 千田が、拾い集めた資料の中から一枚の写真を取り出した。たぶん、撮ってから、あまり日にちが経っていない写真だ。写真の中の坂田は、ボクが見たキャップと同じものを被っている。どこかの洒落た喫茶店で、坂田と山名が向かい合わせで座っていた。
「記憶がねえのが災いしたな。伊藤薫と坂田信彦は、学生時代から親しかった」
 ボクは千田の顔を見て、首を傾げた。
「伊藤薫?山名じゃなくて?」
「山名は、母親の旧姓だ。あいつは、あのお嬢ちゃんの腹違いの兄ってこった」
 ボクは、千田に手渡された資料に目を落とした。山名の母親の名前と、離婚に至るまでの経緯が書いてある。離婚の主な原因は、山名の母親の浮気だった。
「それな。実は、俺とおめえらの親父さんとで調査したんだ。嫁の金遣いが荒いって困った伊藤が、離婚理由を探しててな。浮気が発覚した途端、奴は即裁判に持ち込みやがった。浮気してたのは嘘じゃねえが、俺らが山名に恨まれるのも仕方ねえやな」
 ボクは、離婚後の山名親子のことが書いてある資料を読んだ。山名の母親は、離婚から二年後に病死している。当時十三歳だった山名は、児童養護施設に入所した。山名は年下の子供の面倒をよく見る反面、なかなか施設に帰ってこない日もあったらしい。彼は成績が良かったから、定時制の高校に進学した。でも卒業後は、ガソリンスタンドや整備工など、就職先を転々としていたようだ。
「おめえらの親父さんの事故な。ブレーキ跡が無かったから、親父さんの居眠りが原因じゃねえかって話だが。ブレーキを掛けたくても掛けられなかったんじゃねえかって、俺は踏んでる。まあ、十三のガキじゃ無理だろうし。俺の気のせいだろうがな」
 千田の気のせいでは、ないかもしれない。彩葉をベランダから落としたのは、山名だ。坂田はボクを脅すつもりで、大きなヒントをくれていた。思い起こせば、ベランダに彩葉がいるのを見つけたのも、彩葉の名前を呼んだのも山名だ。山名はボクに気付かれないように、口パクで彩葉を巧みに導いたのだ。
 山名の恨みは、両親の離婚に関わった人間とその家族を全て壊そうとするほど深い。更に彼は、じっくりと痛めつけることに快感を感じるようだ。夏彦が川で溺れた時は、自力で這い登った彼を見逃した。彩葉がベランダから落ちた時は、ボクと一緒に助けに入った。と思えば千田のように、あえて標的と親しい人間を傷つけることで、精神的に苦しめたりする。
 そこまで思い至ったボクは、気付いてしまう。八年前、ボクは夏彦ではなかった。ボクは身を潜めてやり過ごそうとするような、おとなしい妖怪だったのに。山名の両親の離婚なんて、まったく関わっていないのに。
 今更だけど、ボクの中で理不尽なことをされたという怒りが再燃した。
「あいつっ、八年前に川にいやがった。おまけに、石を投げてきやがってっ」
 ボクは、額を押さえながら立ち上がった。ボクの膝の上に置いてあった書類が、音を立てて地面に落ちる。「夏」だの「記憶が」だのと口にしながら困惑している二人を、ボクは振り返った。
「沙織は、おまえと親しいから殺されたのか?」
 目を見開いた千田は、苦笑いを浮かべると首を横に振った。
「それは、どうだろうな。沙織は止めるのも聞かずに、家庭教師と称して伊藤邸に入り込んだ。だから、奴等には邪魔だったってことも考えられる。証拠としては、これだけだ」
 千田が、地面に落ちた写真を指差した。山名が運転する車の写真だ。車は、沙織が留守番電話に吹き込んだ車種とナンバーと一致している。沙織が死んだ一件に、山名が関わっていることは間違いない。
 でも、なぜ沙織が滝つぼに飛び込んだのかが分からない。現場に争った形跡がないということは、沙織は抵抗しなかったことになる。沙織は自ら望んで飛び込んだのだろうか。それとも、山名に脅されて仕方なく飛び込んだのだろうか。それは、とても大きな差だ。何か理由が分かる糸口はないだろうか。
 ボクは目を閉じて、懸命に沙織が留守番電話に吹き込んだ言葉を思い出した。車の他に、何か言ってなかったか。ボクは唸った。たしか、かわいい女の子と一緒だ、と言っていた気がする。
「彩葉だっ」
 ボクには、彩葉をかわいいとは思えない。でも家庭教師として接していた沙織なら、彩葉をかわいいと思っていたかもしれない。彩葉だって沙織に懐いていたからこそ、Y字の武器を持って商店街までやって来たのだ。
 ボクは公園を見回しながら、ポケットを探った。公園の隅に、公衆電話が一台ある。でもボクは、携帯電話も財布も持っていない。困ったボクは千田に頼み込んで、携帯電話を貸してもらった。商店街の住人は、お互いの店や家の電話番号を記憶している。ボクも、花屋を手伝うことになってから必死になって覚えた。ボクは伊藤邸に電話を掛けて、彩葉に取次ぎを頼む。三十秒ほど待たされた後、「三時のおやつは、まだだけど」と高い声が告げた。
「まんじゅうの感想は後で良いから、一つ教えてくれ。スリングショットは、どこで手に入れた?あと、沙織を最後に見た後、どこで目が覚めた?」
 ボクの言葉を聞いて、すかさず彩葉は「一つじゃない」と揶揄してきた。そういう所がかわいくない、とボクは思う。
「どうせ、答えは一つだろ。目が覚めたら山名の車にいて、ダッシュボードかどこかからスリングショットを見つけたんだろうが」
「分かってるなら聞くな、ばーか。食べても感想教えてあげな」
 とてもお嬢様の発言とは思えない言葉の後、不自然に電話が切れた。ボクは何度か彩葉の名前を呼んだけど、不通を告げる音しか聞こえない。きっと、山名に遮られたのだ。呆然と電話を見下ろしているボクの肩を、千田が叩いた。
「伊藤邸に行くぞ」
 ボク達は、公園の脇に停めてあった赤いオープンカーまで走った。千田が運転席へ乗り込む。ボクは助手席に、星彦は後部座席に、それぞれ座った。千田は車が好きなようで、車体は磨かれて艶めいている。思わずボクが見惚れていると、後ろから星彦がシートベルトを締めるよう指摘してきた。たしかに警察に捕まると、聴取などで余計に時間を食ってしまう。ボクは星彦に向かって頷いて、シートベルトを締めた。
 でも、星彦の気遣いは意味が無かった。オープンカーは爆音と共に急発進をすると、風で目が開けられないほどの速度で走りだす。ボクには、この車種が全てそうなのか、千田の運転が荒いのかは分からない。ただ、ボクは今までにない恐怖を感じて、シートベルトを握り締めた。山名への怒りも、一気に吹き飛んでしまう。
「スピード違反で捕まったら、どうするんですかっ」
 星彦の叫びが、一応は聞き入れられたらしい。オープンカーの速度が落ちた。
「夏は、沙織さんが飛び込んだ理由が分かったんだな」
 ボクに八年前より昔の記憶が無いように、後ろに座る星彦には山名が現れてからの商店街での出来事を把握できていない。星彦の空白部分を埋めるために、ボクは彩葉がスリングショットを持って花屋に現れた時のことを詳しく話した。そのうえで、あくまで仮定だけど、と星彦に念押しをする。
「スリングショットの威力を沙織さんに見せつけ、次の標的を彩葉に定める。危険を承知で伊藤邸に入り込むような人だから、自分が直接脅されるよりも効果があったんじゃないかな」
 だろうな、と呟いた千田がハンドルの中央に手を掛けた。けたたましいクラクションの音と共に、オープンカーが商店街を駆けていく。ボクがふと花屋を見ると、驚いた顔をした叔母の顔が少しの間だけ見えて、後ろに流れていった。ボクは預言者じゃないから、彩葉を助けられるか分からない。でも、ボクの未来なら分かった。帰ったら、叔母に正座させられたうえ朝まで説教地獄だ。
 ボクが未来を憂える猶予もあまり無いまま、オープンカーは伊藤邸に着いた。どういうわけか、鉄の門が開いている。オープンカーが先へ進むと、答えがあった。旅行鞄を抱えた坂田が、ガレージの前に停められたスポーツカーに向かって走っていく姿が見えたのだ。金庫でも破ったのか、開いた鞄のファスナーから一万円札が覗いている。
「待てえ、坂田あっ」
 千田の声に気付いた坂田は、慌てた様子で白いスポーツカーに乗り込んだ。坂田が鍵を回した。でもエンジンが掛かる前に、オープンカーがスポーツカーの行く手を塞いでしまう。シートベルトを外した千田が、運転席の座席を踏み台にしてスポーツカーのボンネットに飛び移った。ボンネットが立てた音に驚いた坂田は、目を見開いて仰け反る。慌てて車を降りて逃げようとする坂田へ、千田は飛び蹴りをかました。地面へ突っ伏した坂田の肩を掴んだ千田は、坂田を仰向けにひっくり返した。坂田の腹に馬乗りになった千田が、坂田の胸倉を掴んで地面へと押し付ける。坂田の喉が、ウシガエルのように低く鳴った。
「山名は、どうした」
 興奮して顔を赤く染める千田に対して、坂田の顔は見る間に青くなっていった。星彦が千田の腕を引いたことで、ようやく坂田は咳き込みながらも呼吸を確保することができたらしい。彼の額には、汗が玉になって浮いていた。
「まだ屋敷にいるよっ。あいつ、おかしいんだよ。屋敷を手に入れるって言ってたくせに、ガソリン撒きやがってっ」
 千田が、坂田の頬を殴りつけた。ボク達は、山名を見つけないといけない。でも、目を離せば千田が暴走をしかねない。ボクは、どうしようかと星彦と顔を見合わせる。すると星彦が、警備員がボク達に向かって駆けてくるのを見つけた。ボクと星彦は、千田と坂田を警備員に任せて走り出した。
 ボクと星彦は屋敷の西側に走った。でも、特に変わった様子がない。伊藤邸は広くて、一緒に探しても時間ばかりが掛かってしまう。屋敷の西端から、ボクが南側、星彦が北側に別れて、東へ攻めていく作戦に変更した。屋敷の西端から東端までは、かなりの距離がある。でも、星彦が北側で頑張っているかと思うと、ボクも走るのを止めることはできなかった。
 山名は、ボクが受け持った側にいた。彼は一番東にある窓から、赤い携行缶を持って出てくるところだった。ボクと山名の間は、どれだけ足が速い人でも追いつけるかどうか、という微妙な距離が開いている。とりあえず、林が広がる南側に、山名が逃げ込むことだけは避けたい。ボクは小石を拾い上げると、ベルトに刺してあったスリングショットを構えた。でも、ボクはY字の武器なんて扱ったことが無いし、走りながらで左手も揺れる。予想通り、石は見当違いの方向へ飛んだ。石が飛んできたことに気付いた山名は立ち止まると、振り返ってボクを見た。ボクは山名の逃亡を阻止するばかりか、山名に追っ手の存在を知らせてしまった。
「へったくそ。どうせなら、ここ狙えよ」
 山名はボクに向かって携行缶を転がすと、自分の額を指差した。ボクはもう一度、小石を拾い上げて構える。別に挑発に乗ったわけではなかったけど、石は山名の顔の左側を通過した。彼も、ボクの腕を嘗めてかかっていたのだろう。乾いた笑いが、山名の口から漏れた。
「引きは上等。だが、俺を捕まえるのは無理だな」
 山名は身を翻すと、屋敷の北側へと続く通路に隠れた。ボクにとっては思う壺だけど、星彦と山名の体格の差を考えると安心はできない。ボクは走ることで痛くなった横腹を押さえながら、山名の後に続いた。ちょうど山名の向こう側に、星彦が現れたところだった。山名は挟み撃ちにされても怯むことがなく、星彦へと突っ込んでいった。ボクは松ぼっくりを拾って、スリングショットのゴムに引っ掛ける。引き絞った瞬間に、ボクの指の中で松ぼっくりの先が割れた。それでも構うことなく、ボクは松ぼっくりを放した。勢いよく飛んだ松ぼっくりは、山名の背中に命中する。山名は、小さく悲鳴を上げた。隙を突いて山名に近寄った星彦は、彼の腕を掴んで背負い投げる。それは綺麗な一本背負いだった。更に星彦は、倒れた山名を押さえ込んだ。
「おまえに負けないように、柔道を習ったんだよ。薫」
 星彦の押さえ込みは適切で、山名の抵抗は体を斜めにする程度で終わった。山名の太い指先が、芋虫のようにもがいた。
「何なんだ、お前等は。親子揃って、人の狙いをぶち壊しやがって。腹立つんだよっ」
 山名に睨まれた瞬間、ボクは後ろに追いやられる感覚に陥った。
「そうか。僕はある意味、薫に感謝してるよ。あの日、僕の願いは叶った」
 夏彦の口や指が、ボクの意思に反して動いていく。夏彦は松ぼっくりを拾い上げると、ゴムを引いて、目を見開いた山名の額に的を絞って弾を放った。松ぼっくりは、見事に山名の額に命中した。その一連の流れが、ボクにはコマ送りのように見えた。なぜかボクの意識は後頭部の隅へ追いやられたままで、つま先が随分と遠く感じる。
「これは彼の分だ。石じゃないのが残念だよ」
 夏彦だ。夏彦が目覚めて、自分の意識で動いている。
 ボクは夏彦の体から出ていくため、右の耳に寄った。でも夏彦の手が、まだ出ていくなと言うように右の耳を塞いでしまう。ボクはどうして良いか分からず、夏彦の目を通して山名を見た。山名の体は、小刻みに揺れていた。
「訳分かんねえよ。お前等まとめて殺してやるっ」
 突然、近いところで爆発が起こって、草木が震えた。夏彦は音と共に引っ込んでしまったようで、手足のつま先が近くなっている。ボクは西を見ると、すぐに山名に視線を戻した。山名は土と涙で顔を汚しながら、笑い声を上げていた。彼の手元には、火種になるようなものもボタンらしきものも無い。
「導火線の作り方を覚えたんだよ。燃え広がり方もな。彩葉は屋敷の中だ。一思いには逝かせねえ。じわじわと炙ってやる」
 ボクは高笑いをする山名に背を向けて、走り出した。遠くにいる警備員を大声で呼んで、屋敷の東側へ行くように指示を出す。ボクは屋敷の南側を走りながら、懸命に彩葉を呼んだ。たまに二階や三階を見上げても、人の影は見えない。
 爆発は、屋敷の最西端で起こった。じわじわと炙る、という山名の言葉が本当だとすると、彩葉は東側にいるはずだ。ボクが屋敷を見上げると、既に火の手は屋敷の中央付近まで迫っていた。煙は更に速い。黒煙が上がる西側に対して、白煙が中央より東側の天井を這っている様子が窓の外からでも見て取れた。  屋敷の南側は、逃げ惑う人々で混乱している。ボクは東側に戻ると、山名が出てきた窓に飛び込んだ。途端に、喧騒が止んだ。嵐の前の静けさ、というやつだ。既に煙の匂いが、わずかにだけど届き始めている。東側にも白煙がやって来て、黒煙に変わってしまうのも時間の問題だ。
 彩葉を呼ぼうと大きく息を吸い込んだボクは、甘い芳香がするのに気付いた。ボクは息を止めて屋敷を縦断し、北側に出る。肺の中のものを吐ききって、もう一度空気を吸い込んだ。やっぱり、甘い香りがする。一つ上の階からだ。
 ボクが匂いを確認している合間にも、白い煙が東へ東へと伸びてくる。今、屋敷の中の空気をかき混ぜるのは危険だった。ボクが階段を上れば手っ取り早いだろうけど、帰り道がある保障は無い。ボクは、他に道が無いかと見回した。ボクの真上には、通風孔がある。夏彦の体では、もちろん通り抜けることはできない。でも、ボクなら可能だ。ボクは、喉を鳴らした。屋敷の西側にある窓ガラスが数枚割れた。消防車と救急車とパトカーのサイレンが入り乱れながら、ボクの耳に入ってくる。ボクが迷っている猶予なんて、少しも無かった。
 ボクは目を閉じると、意識を浮き上がらせた。夏彦の耳の穴から外へ出ると、壁を駆け上がる。ボクは一度だけ、仰向けに倒れた夏彦を見下ろした。夏彦が起き上がる様子は無い。ボクは、通風孔へと体を滑り込ませた。ボクは元々、狭くて暗いところが好きだった。でも、ボクが夏彦になってからは、狭苦しくて安心できる場所に入るのも久し振りだ。ボクは通風孔を出ると、廊下に降り立って味噌の匂いを追う。四つの足で廊下を蹴れば、煙よりも速く走ることができた。
 彩葉は、二階の廊下の最も奥にいた。黄緑色のワンピースはとても目立って、離れた場所からでもよく見えた。ボクが走る速度を上げると、甘い誘惑も濃厚なものになっていく。ボクは誘惑に負けないように、必死で我慢した。甘い誘惑の正体は、彩葉の傍らに落ちた潰れた味噌まんじゅうだった。ボクが彩葉にあげたものだ。ボクは味噌まんじゅうを包みごと蹴飛ばして、彩葉の顔を見上げる。彩葉は涙で濡れた目を瞬かせたけど、動く様子はない。ボクが不思議に思って彩葉を頭の上から順番に見ていくと、彼女の手足は細い紐で拘束されていた。
 ボクは彩葉の足首を縛る紐に噛み付いて、前歯と犬歯を使って繊維を削っていく。彩葉は一瞬だけ足を引こうとしたけど、ボクの意図を察したのか動くのを止めた。彩葉の足首を縛っていた紐を噛み切ったボクは、西側の廊下を見た。まだ向こう側が見えるくらい薄い煙だけど、確実に白い煙の本体が迫っている。ボクは彩葉のふとももに飛び乗って、手首を縛る紐を削り始める。彩葉は、縛られたことや爆発に恐怖を感じているのか。それとも、おこじょに似た動物が珍しいのか。ボクが紐を削っている間、彩葉が口を開くことは無かった。
 ボクが手首の紐を噛み切った時には、白い煙がボク達の真上を支配し始めていた。でも、煙は上に行くものだ。幸いにも、まだ夏彦の膝丈くらいの空気の層が保たれている。空気をかき混ぜなければ、しばらくは呼吸をすることができる。安心した反面、ボクは困ってしまった。煙の知識が無さそうな彩葉に対策を伝えるには、どうしたら良いだろう。考えてもすぐには良い案が浮かばず、ボクは彩葉に忌み嫌われる覚悟で口を開くことにした。
『いいか、彩葉。立つと視界が悪いし、息もし辛い。手をついて、ボクみたいに移動するんだ』
 ボクは彩葉に何をされるか分からない、と身構えた。でも彩葉は目を丸くしただけで、意外なほど素直にボクの言葉を飲み込んで頷いた。彼女がおとなしく従ったのは緊急事態だからかもしれないし、子供だからかもしれない。とにかく今は、どちらでも構わない。ボクは彩葉のふとももから飛び降りると、廊下を西に向かって歩き始めた。時々彩葉を振り返ると、彼女はボクが言った通り手をついて後ろを付いてくる。彩葉の表情を見る限り、人間の言葉を話す動物に対して嫌悪感は無さそうだった。
 ボクは、夏彦が倒れているはずの地点で立ち止まった。ここからは、一か八かだ。
『今から窓を開ける。煙と空気が混ざるから、できるだけ息を止めて目も閉じるんだ。ボクが合図をしたら目を開けて、窓の外に飛べ』
 彩葉が首を横に振ったが、ボクは構わず真上に飛んで窓の鍵を開けた。ボクだって、大きな賭けに出ていることは承知している。時間があったら、最初から夏彦として彩葉を迎えにきていた。ボクは、人の姿を捨てるつもりで彩葉を助けにきたのだ。たとえ彩葉本人が嫌がっても、今更止めることはできない。
『息を大きく吸って。止めろっ』
 ボクは勢いよく窓を開いて、彩葉より一足先に飛び降りた。子供の肺活量なんて、たかが知れている。時間勝負だ。ボクは夏彦の耳の穴に入り込むと、目を開いた。すぐに立ち上がると、彩葉の名前を叫んだ。窓枠に手を掛けた彩葉は、嫌がっていたのが嘘のように迷うことなく飛び降りる。ボクは、彩葉の小さな体を受け止めた。受け止めた時の衝撃は、三階よりも少しだけマシという程度だ。ボクは支えきれずに、彩葉ともども後ろへと倒れこんでしまった。ボクの腹に掛かる少女の重さは、助けた証でもある。ボクは幸せな重みと背中の痛みに挟まれながら、星彦がボクを呼ぶ声と砂を踏む音を聞いた。

 ◆◆◆

 ボク達が消防隊員に保護された後、懸命な消火活動もむなしく伊藤邸は全焼してしまった。翌日の新聞の中面にも、伊藤邸の火事は大きく取り上げられた。事の顛末を知った叔母は、ボクが無茶したことを怒りつつも彩葉を助けたことを褒めてくれた。
 彩葉は、掌に火傷を負っていた。飛び降りる時に触れた窓枠が、意外と熱かったらしい。重傷ではないものの、彩葉は念のため病院に通っている。ボクは毎回、彩葉の通院に付き合っていた。伊藤邸の家主から依頼されたこともあるけど、それ以上にボクが彩葉の傍にいたかったのだ。
 今日の通院は、おまけが二人もいた。星彦と千田が、ボク達の様子を見にきてくれたのだ。七夕だから、というのもあるかもしれない。今日は夏彦と星彦の誕生日だし、八年前のこの日に夏彦は記憶を失くしたことになっている。双子の兄は、いつまで夏彦の傍にいなかったことを悔やみ続けるのだろう。ボクが溜め息を吐くと、千田に呼び止められた。
「みんなで書いてみねえか」
 日に焼けた指が指し示したのは、橋に括りつけられた大きな竹だった。毎年、商店街の企画で立てられる七夕飾りだ。八年前と同じように、竹の下には短冊と紐とペンが用意されている。ボク達に一枚ずつ短冊を配った千田は、みんなでと言うわりに自分の分を取っていない。
「千田さんは、書かないんですか?」
「俺の一番の願いは、神様でも叶えられねえ」
 千田が苦笑するのを見て、ボクは尋ねたことを後悔した。きっと沙織を思い出したのだろう。
 ボクが目を逸らした先に、彩葉がいた。利き手に包帯を巻かれた彼女は、ペンを持ちづらそうにしている。火事の時に見たはずの小動物について、小さな口は何も語らない。身に迫る怖い記憶を掘り起こしたくないだけかもしれないし、気のせいだと片付けてしまったのかもしれない。火事の記憶を小さな身に押し込めた少女は、どんな願い事を書くだろう。
 八年前の夏彦は、どんな思いで願い事を書いたのだろう。
「昔ここで、ある人と出会った」
 風が、ボクの頬を撫でていく。昔も、今と同じように月が浮かんでいた。
「いじめられている彼とボクを重ねて、何か叶えて欲しいことはないか聞いてみた。そしたら、友人が欲しいって言ったんだ」
 体の奥で再び深い眠りについてしまった夏彦を思うと、ボクの目頭が熱くなる。意識を引き換えにした夏彦の切なる願いは、ボクにも星にも叶えられないのか。ボクが短冊に書く願い事は、毎年決まっている。『友』と書いたところで、ボクの頭と脛に衝撃が走った。特に脛に入った彩葉の蹴りは容赦が無く、ズボンが風ではためくと蹴られた箇所にあたって痛む。
「夏は性懲りも無く、友人が欲しいって書くつもりか?『彼』と会った時点で、必要ないだろ」
 指先でペンを回す星彦の笑顔を呆然と見るボクの背中に、また彩葉の攻撃が加えられた。子供は力の加減を知らないから怖い。ボクが振り返ると、チョップを入れた右手を挙げたままの彩葉が頬を膨らませていた。
「生まれる前の話ばっか、ずるいっ。私が友達じゃ不満なのっ?」
 ボクは笑おうとして、失敗した。ボクの唇が震えて、喉の奥も引きつった。勝気な彩葉の顔が、徐々に像を結ばなくなっていった。