第6話 再開

 妹の敏感な耳が聞き取ったのは、低木の枝を掻き分ける音だったらしい。可愛らしい爪の先を見ていると、やがて長身の男が森から姿を現した。
 漆黒の髪に、浅黒い肌。金色の目。
 どれもが特徴的な部位は、気を失ったままの少年と酷似している。
「久し振りだな。覚えているか?」
 視線を向けられ、目を見張る。明らかに、こちらを知っているようだ。
 慌てて思考を廻らせてみる。幼い頃の記憶の中に、確かにこの人は存在した。
「……エンペラーおじさん……」
 『おじ』と言っても、血の繋がりがあるわけではない。叔母の旦那なのだ。
「そうだ。隣りの子は、君の妹か?」
 話題に上ったと分かった途端に、エンプレスはこちらを盾にして隠れてしまう。人の腰に回された手は、硬く握られていた。あやすように、自分の手を重ねてやる。
「ええ、エンプレスというの。歳は、11」
「そうか……デスより、三つ上か」
 袖に付いた葉を払い落として、エンペラーが近付いてくる。やはり、背が高い。
 彼はデスの前にしゃがみ込むと、軽々と抱き上げた。
「おそらくエステスも、デスには会ったことがないだろう」
「そうね」
 この再会は、何年振りなのか。
 頭の中で逆算しようとするが、上手くいかない。目の前の彼は、記憶の中の男と酷似している。もう10年近く会っていないはずなのに、まったく変わった様子がないとは、どういうことか。
 視線の意味を悟ったのか、こちらより先にエンペラーが口を開いた。
「話は、森の中で。ここでは、あまりに目立ちすぎる」
 『ここでは』といっても、人など自分達以外に存在しない。それなのに、目立ちすぎるとは。
 思わず上を見て、眉をひそめる。
「まさか、ペンタクルエースに何かあるの?」
「ああ。色々と、な」
 どこか含みのある言い方が気になるものの、ここにいても何の解決にもならない。テンパランスと目を合わせて頷くと、デスを抱き上げたエンペラーに続いて、森の中へと分け入った。
 しばらく広い背中に付いて歩いていくと、粗末な丸太小屋に辿り着いた。切り口の大雑把なところなどから、おおかた手作りなのだろうと窺える。
 中に入ると、微かに木の匂いがした。靴音と共に、床が軋む音がする。土間ではないのが、なんだか意外だった。
「ここが、エンペラーおじさんの家?」
「ああ、そうだ」
 水場だけが別室の、簡素な造りの家だ。エンペラーがデスを寝かせている間に、部屋を一周する。
「お、懐かしい顔だな」
 楽しそうな声に、思わずテンパランスの手元を見る。手にされた写真立ての中には、たおやかな女性の姿があった。自分より少し色素が薄い、柔らかそうな長い髪。垂れ気味で、父のものと同じ深い緑色の瞳。
 記憶の中の彼女が、顔をほころばせて自分の名前を呼んだ。
「……ジャスティスおばさん?」
「よく覚えている」
 背後から、エンペラーの声がする。笑っているのか、森の外にいた時よりも穏やかな声色に聞こえた。
「もちろん……とは、言いがたいけど。華奢な手なのに、とても器用だったことは記憶にあるわ」
 まだ島で暮らしていた頃に、髪を結ってもらった覚えがある。鏡に映った彼女はとても女性的で、優しい笑顔を浮かべていた。
 そんな彼女は、意外にも情熱的な一面があったらしい。今のエンプレスと同じくらいの歳の頃から、父と同じ科学を志していたようだ。父の反対を押し切って研究者の道を選んだことは、自分が大学生になって間もない時にワンドから聞いた。父と叔母の兄妹は、衝突を繰り返していたのだとも。
「ジャスティスおばさんは、元気なの?」
 自分としては、何気なく尋ねたつもりだった。
 しかし、振り向いた先のエンペラーは、険しい顔をしている。まるで禁句を口にされたかのような表情に、怯んでしまう。
 固まってしまった自分の肩に、テンパランスが手を置いた。けして責めようとしているわけではないのだと言うように、柔らかくて温かい。
「あのさ、エステス……彼女は数年前から、消息不明なんだ」
「え?」
 肩にある温度とは裏腹に、告げられた内容は冷たいもので愕然となる。そんなこと、母からもワンドからも聞かされていない。
「エステス達に色々あったように、こちらでも様々なことがあった」
 エンペラーの声は、低いが落ち着いていた。
「義姉は、知らなかったと思う。ワンドは……仮に知っていたとしても、あえて知らせなかったのではないだろうか。事実、それどころではなかっただろう?」
 父の死。兄の失踪。妹の誘拐に、弱視。母の入院。
 彼は事情を知っていて、責めることも頼ることもしなかったのだろうか。
「それに、こちらも……一時は、連絡を取れるような状況ではなかったしな」
 それが気を遣ってのことなのか、本当のことなのかは、自分には量れない。しかし、もし後者だとするなら、連絡が取れないほどの何があったというのだろうか。
 家族のことも身内のことも、実は何も知らないのだということを初めて思い知らされた。いや、見ない振りをしてきただけなのかもしれなかった。
 エンペラーは思い出したかのように自分達に椅子をすすめると、お茶を用意してくれた。彼が椅子に腰掛けたところを見計らって、テンパランスが戸惑いながら口を開く。
「あの、俺、早くあいつを追わなきゃいけないんだけど」
「そう思うのは最もだろうが、焦るな。焦れたところで、空の上に行く方法など無いだろう」
「でもっ」
 テンパランスが両手を机について立ち上がるも、エンペラーに動じた様子はない。
「レンなら、あいつがいるから恐らく大丈夫だ。味方ではないかもしれないが、敵というわけでもない」
「あいつって、さっきの奴?」
「いや……もっと上の人物だな」
 口振りからすると、エンペラーの知り合いだろうか。
「ランス、落ち着きましょう。残念だけど手が無いのは確かだし、時間も掛かるかもしれないわ」
 空の上に行く方法を探し出すことも。ストレングスが連れ去られた理由を知るのも。
「それに……もう日没が近い」
 おそらく森を抜け、街に着く頃には、闇が支配し始める時間になっているだろう。そうなると、聞き込みをすることさえ難しくなるのは必至だ。子供を連れていては、入れる店も限られてくる。
 それに、今は考えを廻らせられるだけの材料が欲しかった。
 ようやく、ランスが腰を下ろした。が、その目は鋭い眼光をそのままにして、エンペラーへと向けられている。
「とりあえず、エステスの言う通り、落ち着く努力は、する」
 一言一言区切るようにして、彼は言葉を吐き出す。焦りや怒りを無理に抑えようとしているのが、こちらにも受け取れた。
「まず、目の前にある疑問を片付ける。デスを使って、レンをここに連れてきた理由はなんだ?」
「塔が突如、出現した。だから、義兄の縁者が……高い確率で、エステスが来ると思った」
「私が来たから、レンを攫った?」
 意味が分からず、髪に手をやる。まったく話が見えない。あさっての方から責められているようで、驚くことも焦ることも、何もできないのだ。
「無論、起因であり、直接結び付いているわけではない。一つの行動で、二つのことを読もうとしただけだ」
「二つ?」
「一つ。ストレングスは何かを知っているのではないか、ということ」
「何かって?」
 聞き返すテンパランスにエンペラーは金色の瞳を向ける。
「ジャスティスは、よくストレングスと会っていたからな……その行方だ。それと、これは勘でしかないが、おそらく塔のことも知っているだろう。これは先の一件で、ほぼ確信となったが」
 先の一件とは、青年がストレングスを連れ去ったことだろう。
「普通の塔ならいざ知らず、砂漠の、墓の位置に突如現れた塔だ。上が放っておくはずがない」
 エンペラーの見解に、素直に頷く。
「そして、一つ。君達を試させてもらった。どの程度で、デスに追いつくことができるのか」
 思わず、テンパランスと顔を見合わせる。
「それは、どういうことだ?」
「それは」
 エンペラーが口を開きかけた時、緊張感の無い音が部屋に響いた。
「……」
「……」
「……」
「……悪い」
 テンパランスが腹を押さえ、顔を真っ赤にしている。完全に、緊張した空気は霧散してしまった。
「少し早いが、先に夕飯を用意しよう。ここで休んでいてくれ。特に、エステスとエンプレスは疲れているだろうからな」
 そう言って、エンペラーは小屋の外へと出て行ってしまった。言外に「手伝う必要はない」と言われてしまっては、見送るより他にない。
「ごめん、エステス。エンプレスも」
 振り返ると、テンパランスが項垂れていた。この上なく落ち込んでいるのだろう。
「2人が来るって聞いたからさ。はりきって掃除してて……昼飯、食べてなかったんだ」
 良くも悪くも直情的なこの青年は、心から自分達を歓迎してくれていたのだ。苦笑は浮かぶものの、責める気になど到底なれない。
「そういうことなら、仕方ないわよ」
「ありがとう、ランスお兄ちゃん」
 テンパランスに、ようやく笑顔が戻ったのだった。

 ◆◆◆

 戸が開いても、顔を上げようともしない黒髪の男。何に集中しているかなど、自分には微塵も興味は無いが。
「何してるの?」
 一応、社交辞令のように尋ねてみる。こちらに意識を向かせなければ、任務を完了させることもできない。
「ああ、お前か」
 ようやくこちらを見た男の目は、底知れないほど深く、濁っている。藻で覆われた池そのものだ。流れも無く、何も住めない。
 とても、つまらない色。
「言われた通り、連れてきたよ? 逃げ出せないようにしてある」
 男は満足そうに、片側の口角を上げた。
「ご苦労」
「それじゃ、僕はこれで」
 報告を済ませて、やっと任務完了だ。もう、ここに長居する必要も無い。
 さっさと踵を返して部屋を立ち去ろうとすると、背後から制止の声を掛けられた。別の任務でも、あるのだろうか。
「何?」
「おまえは、運命の相手に会ったことはあるか?」
「運命の相手?」
 いきなり何だ、と思う。任務以外の話を彼が振ってくるのは、かなり稀だ。
「さっき、俺が何をしているのか聞いただろう?」
「ああ」
 確かに聞いたが、別に答えが返ってくるのを期待していたわけではない。それこそ、珍しいことなのだ。今日は、それほど期限が良いのだろうか。
「そうだな……分からない、かな。僕の世界のほとんどは、『ここ』だからね」
 彼と長くいるのはあまり好きではないが、今回は少し愉快そうだ。どんな、ご高説が聞けるというのだろう。しばらく付き合うことにした。
「なるほど。俺も、そんな頃があった。全てが、つまらない。そんな世界だった」
 「今もじゃないの?」という言葉は、喉の奥にしまっておく。揚げ足を取って機嫌を降下させるほど、自分は愚かではない。
「僕みたいな世界でも、運命の相手に出会えるってこと? それって、どういう人?」
「もちろん、おまえにも可能性はある。それは家族かもしれんし、友人かもしれんし、恋人かもしれん」
 僕の場合、家族は抜きだ。それも、心の中だけにしまっておくが。
「その相手に会った途端、これまでの過去も思想も意味が無くなる」
 差すはずがないと思っていた池に、光が見えた。それは決して温かなものではなく、こちらの背中に悪寒が走るほどの念。『執着心』といったか。
「へえ、そうなんだ。なんか想像できないな。でも、楽しみにしてるよ。そんな相手に出会える時を」
 それだけ残して、部屋を出る。やはり長く共にいるべき相手じゃない。笑みは、引きつっていなかっただろうか。
 ひどい疲労を感じて、玻璃にもたれ掛かる。鳥は今、街の上を飛んでいるのだろうか。ちらほらと明かりが見える。情けない話だが、人の営みに安らぎさえ覚えた。
「デビル?」
 端から見ても、よほど様子がおかしかったのだろう。明らかに心配している色が織り込まれた声色に、振り返る。
 振り返ってみて、分かった。実は、既に自分は運命の相手とやらに、会っているのではないだろうか。それは確かに執着もあるが、温かい空気を心にもたらしてくれるものではないだろうか。
 かの人と同じ色の瞳に、笑い掛ける。
「僕の運命の相手は、もっと強い輝きを持った人だよ」
 素直に思う。君で良かった。

 ◆◆◆

「エステス?」
 我に返って、後ろを振り返る。月明かりの下で、エンペラーが心配そうな顔をして立っていた。
「ごめんなさい。誰かに呼ばれた気がして」
「空から?」
 答えに困って、再び夜空を見上げる。森が切れると途端に色が現れるほど、明るい月だ。離れたところに星もちらほらと見えるが、夕刻に見た大きな鳥の姿だけが無い。ほったらかしのホバーカーを移動させるには、好都合だ。
 振り切るように首を振ると、ホバーカーに乗り込み、鍵を回す。人が来るようなところではないが、一晩ほかっておいて夜露に晒すのも考え物だ。そこで、ひとまず森の入り口にあるというエンペラーの小屋まで、移動させることにしたのだった。
 エンペラーの案内で、森に沿って走らせる。数分もいかない距離で止まり、エンペラーが草木を分けると小屋が現れた。さすがに家ほど広くはないものの、ホバーカー1台くらいなら楽に入れることができる。
「家から離れてると思うけど、不便じゃないの?」
 小屋の中には、冬を越すための道具も入っているようだった。その中からエンペラーが、毛布を3枚取り出す。泊まることになった自分達のためのものだ。
「まあ、多少は。ここの他にも、5箇所くらいある」
「そんなに? そこも、こんな風に隠してあるの?」
「ああ。身を隠すためにな」
 エンペラーが、苦笑をもらす。追われる苦労を思えば、多少の不便さなど可愛いものなのだろう。
「だからこそ、エステスが無事に大きくなったことが嬉しいんだ」
 思わず、目を見開く。
「私も嬉しいわ。おじさんや、デスに会えて」
 次第に、像が結ばなくなってきた。鼻の先が、少し痛い。
「落ち着いたら、大陸にも遊びに来て。母さんも喜ぶわ」
「……必ず」
 あやすように頭を撫でる手は、幼い頃に感じたのと同じように、大きくて温かかった。