第10話 行動開始

 大陸よりも平均気温が高い場所のはずなのに、空気が冷たい気がする。夜と昼間の温度差が、かなり大きいようだ。
「これから島に来る時は、上着を持参した方が良いよ」
「是非、そうするわ」
 目の前の優男の笑い顔にも、だいぶ慣れた。少なからず苦いものを感じはするが、軽く流しておけば良い。相手に悪意は無いのだし、自分は大人なのだ。これくらいで剥きになって、どうする。
「デス。エンプレスをよろしくね」
 頷くデスは、今にも寝てしまいそうだ。隣りに座るエンプレスも、眠そうに目を擦っている。2人とも、借りた毛布を頭から被っていた。これなら、屋根が無い車でも多少は寒さをやり過ごすことができるだろう。
 彼等はいったん森の向こうへと引き返すため、早めの出発となった。年少2人が出て行くのに、保護者がゆっくり寝ているわけにもいかない。同じ考えだったらしい、ラバーズとエンペラーとマジシャンと一緒に、庭まで見送りに来たのだった。
 3人とも長袖を着ていて、少し羨ましい。
「何をしに行くのかは知らないが、頼んだぞ。ホイール」
 結局、ホイールの目的が何なのかは聞かされていない。知るのは、目の前で両肩を竦めている未来視ただ1人だ。
「そっちこそ、頼んだよ。エンペラーとエステスの組が、一番大変なんだからね」
「分かっている。少なくとも俺やフール、デビルは、あの鳥のやっかいさを知っているからな」
「私も、気を引き締めていくわ」
 上に行けば、兄に会えるかもしれない。でも、そこで浮かれるわけにはいかない。周りは、敵だらけなのだから。
「そうだね。マジシャンも、よろしく」
「分かってるわ」
 マジシャンは、艶やかな紅を引いた唇を笑みの形に変えた。それだけで、同じ女性から見ても随分と色っぽく見える。
「それじゃ、各自の成功を祈る」
 ホイールは昨日自分達が乗ってきたホバーカーを起動させると、片手を数回振る。走り出した車は、数秒で門の向こうへと消えてしまった。
「さ、私達も朝食を終えたら、出発するわよ」
 マジシャンに促され、屋敷の中へと戻る。そのままの足で居間へと進むと、フールがジュニアから出されたお茶を堪能しているところだった。朝日を背にした彼は、とても優雅で高貴に見える。元はハミット卿から無理に譲られた地位だと聞いたが、そうとは思えないほど様になっていた。
「おはよう」
 微笑む彼の目の下には、うっすらと隈ができている。
「おはよう、フール。枕が合わなかったかしら?」
 自分達にしてみれば、この家の寝具は上質だと思える。しかし、自治領主ともなれば、それ以上の物を使用していてもおかしくはない。昨夜は、枕が変わっても気にはならない、と話していたのだが。
「いや、そうじゃないんだ。ただ、隣りの部屋が、あまりにも煩くてね」
 苦笑いを浮かべるのも、無理はない。三つ隣りにいた自分の部屋にも、罵声とも取れる話し声が聞こえてきたのだから。
 彼が眠れなかった理由にも、合点がいった。
 ちなみに諸悪の根源は、いまだに起きてきていない。
「そろそろ、起こしに行った方が良いかもしれないわね」
 溜め息を吐いたマジシャンが上の階へ行こうと一歩踏み出した時、壁に何かがぶつかる音がした。一斉に、天井を見る。何を言っているのかまでは聞き取れないが、怒鳴り声と鈍い音が続いている。
 どうやら、枕投げが始まったらしい。
「起こす必要は、ないみたいだね」
「止める必要は、あるかもしれないわね」
 先より長い溜め息を吐いて、マジシャンが居間から出て行った。昨夜も、「同じ部屋は嫌だ」だの、「いびきが煩い」だの、「そっちの枕の方が良い」だのと、子供のような喧嘩を散々繰り返し、その度にマジシャンかエンペラーが止めに行っていたのだ。
「朝から元気だな」
 ぼやくエンペラーも、さすがに眠そうだ。この中で眠そうにしていないのは、ジュニアくらいだろう。彼女は1人で、朝食の準備のために動き回っている。鼻歌を歌いながらの作業は、とても楽しそうだ。
「この組み合わせで上に行って、本当に大丈夫なのかしら?」
「不安でも、行くしかないよ。待ってるだけじゃ、どうにもならないさ」
 フールが困ったように笑う。確かに彼の言う通り、動かなければ何も変わらない。
 マジシャンの鋭い声と共に、ようやく十数回目となる喧嘩が終わった。

 ◆◆◆

「それじゃ、塔で会いましょう」
 軽く手を振って背を向けたマジシャンは、ラバーズと共に車庫へと向かう。彼女達はいち早く塔へ行き、外側から様子を調べる班だ。
「じゃ、僕達も出発しようか。一番大変だからね。待たせても悪い」
 鳥を目指す自分達は、フールが乗ってきた幌付きのホバーカーに乗り込んだ。
「うわ、いかにも高級車って感じね」
 座席の厚みが、どのホバーカーともまるで違う。座り心地も最高だ。おまけに計器はより見やすい仕様となっており、操作機器のいたるところが金属で縁取りされ、輝いている。
「僕は、あまり気にする方じゃないんだけどね。それなりの車に乗っていないと、周囲が変な目で見るんだよ」
「自治領主様も大変なのね」
 肩を竦める自分の横で、テンパランスが嬉しそうに笑う。
「お、今度は、エステスの運転じゃないんだな」
「どうして、そこで喜ぶのかしら?」
 テンパランスを横目で睨むと、助手席からエンペラーに宥められた。次いで、地面に立ったままのデビルに問い掛ける。
「おまえは、ホバーカーの速度に付いてこられるのか?」
「もちろん。ま、あまり飛ばさない程度にお願いできれば、こっちも楽かな」
「じゃ、尚更エステスの運転じゃなくて良かったな」
「エステスの運転も、面白そうだけどね。遊具として」
「だからっ」
 あれだけ喧嘩をしていた2人が、息を合わせてからかってくるのだから堪らない。思わず反論しかけたところで、フールにまで笑われた。
「もうそろそろ、出発して良いかな?」
「え? ああ、ごめんなさい。いつでも、いいわよ」
 フールが車を起動させる。浮き上がった機体は、そのままゆっくりと前進した。
 喧嘩をしていたことでマジシャンが駆る車より遅れて発進したホバーカーは、坂を下り、中央通を横断し、再び坂を上る。そのまま坂を上りきり、街を出たところで速度を上げた。速度の変化にも、曲がり角にも、上り下りにも揺れは無く、音は静かなままだ。高級車ということもあるが、運転手の腕が良いのだろう。
 ほどなく、街を囲む林の中へと入っていく。しばらく小道を走ると、大きな屋敷が見えるようになってきた。
「あれが、フールの屋敷?」
「そう。元は、ハミットとジュニアの屋敷だよ。ジュニアは思い出が詰まっていすぎて、ここにはいたくないらしい」
 笑顔で送り出してくれた人形の顔を思い出す。影を微塵も見せない彼女にも、哀しい思い出がたくさん詰まっているのだろう。それを乗り越え、様々な感情を豊かに表現する少女は、紛れもなく『人』だと思えた。
 林を抜けたホバーカーは広い庭を横切り、屋敷の横を通り過ぎて、裏手にある倉庫の入り口に横付けした。
「本当は屋敷に案内したいところだけど、今はそんなことも言ってられないからね」
 屋敷も圧倒される広さがありそうだが、倉庫も大きい。テンパランスの家、1軒分くらいの大きさを誇っているのではないだろうか。
 綺麗に整列したボタンをフールが素早く押すと、人の身長の2倍以上もある入り口が横開きに開いた。
「少し避けておいてもらえるかな?」
 フールの言葉に従い、入り口の脇へと下がる。彼が中に入ってしばらくすると、機械が動く音がした。何かが近付いてくる音と共に、徐々に風が伝わってくる。裾が捲くれ上がる頃には、その機体の一部が姿を現した。前に大きなプロペラが付いたそれは、ゆっくりと自分達の前に全貌を現す。
「そっちから上がって」
 叫ぶようにして言われた声も、プロペラが旋回する音のおかげで随分と小さく聞こえる。彼の指示に従い、備え付けの金属の梯子を伝って乗り込んだ。
「思ったより狭いのね」
 プロペラが大きい割りに、中はホバーカーと同じくらいの座席幅しかない。むしろ、天井に圧迫感があり、窮屈に感じるくらいだ。特にフールのホバーカーは、高級車でも更に上の種類のものだったから、この座席は粗末に感じてしまう。
「かなりの年代物だからね。チャリオッツという機種で、これでも欲しい人は、あのホバーカーの倍以上の値段でも欲しがるんだよ」
「今では、製造中止となっているからな」
 フールとエンペラーの言葉に、自分とテンパランスは「へえ」と呆けたような声しか出せなかった。自分達には、この価値がよく分からない。この中では年長者の部類に入るエンペラーには、分かるのだろう。心なしか、嬉しそうにも見えた。
 デビルが前の玻璃を叩き、一足先に飛び上がる。
「じゃ、僕達も行くよ。ベルトをきちんと締めてくれ」
 フールは一度だけ後ろを確認すると、デビルと充分な距離が取れたことを確認してから、機体を前進させた。今度は倉庫から出す時よりも速度が上がっている。一瞬だけ機体が揺らいだかと思うと、背もたれに背中を押し付けられた。軽い圧迫感と共に、景色が変わる。前方は、薄い青一色に染まる。横を見れば、一気に林が斜め下へと流れていった。
「すごいっ、飛んでるっ! 俺、こんなに高く飛んだの、初めてだっ!」
「私もよ」
「そりゃ、飛行機だからね」
 興奮を隠せずにいると、フールに苦笑された。
「こんな風景を、デビルはいつも見てるのね」
 飛行機の前を単身で飛ぶ、デビルの背中を見た。白い服をはためかせ、こちらを振り向きもせず、一心に天へと向かっていく。その姿は、天上の遣いにさえ見える。
 陽の光に反射する彼の白い髪が眩しくて、こっそりと目尻を拭いた。

 ◆◆◆

 ホイールが向かった先は、森の東端にある小さな集落だった。そこの停留所の長椅子に、3人で腰を掛けている。
「ねえ、ホイール。こんなとこで、何やるの?」
 デスは足をぶらつかせながら、飴を頬張っている。落ち着きが無い彼のために、ホイールが買って与えたものだ。
「人を待ってるんだよ。ここが一番、港に近いからね」
 さっきから、車輪が土を踏みしめる音が耳に届いている。それは、段々と近付いてきているようだ。
 誰を待っているかは知らないけれど、それにホイールの目的の人物が乗っていると良い。早く、お姉ちゃんのところへ行きたいから。
「あ、来たよ。あの馬車に乗っているはずだ」
 常人の目にも、見えるようになってきたらしい。馬が歩く音が、更に大きくなってきている。あと、もう少しで止まるはずだ。
 30歩……15歩……1歩。
 馬の鳴き声と共に、馬車が止まった。中からする声に、思わず「あ」と声を上げてしまう。とても、よく知っている人物のものだ。
「やあ、エンプレス。迎えに来てくれたんですか?」
 柔らかい、大好きな声が頭の上からする。
「ワンドおじさん、ソードお姉ちゃん」
 声を掛けると、温かい手で髪を撫でられた。
「お久し振りです、ワンド教授。そちらは、お嬢さんですか? 初めまして。ホイールと申します。こちらは、デスです」
 薄い視界で、ホイールが手を差し出したことがかろうじて分かる。次いで、ワンドが軽く握り返して、頷く気配がした。
「久し振りです。デスのことも、知っていますよ。エンペラーとジャスティスの息子でしょう?」
「おはようございます。はじめまして」
 緊張しているのか、デスの挨拶はとても硬い声になっていた。
「さっそくで申し訳ないのですが、これから塔へと向かいます。お嬢さんは、私の屋敷でお待ちいただけますか? できれば、妹の相手をしてやっていただけると、ありがたいのですが」
「ええ、私で良ければ喜んで」
 ソードは快く引き受けたが、何故かワンドの周りの空気が重くなる。
「どうしたの? ワンドおじさん」
「いえ……ホイール。ジュニアは、塔へは連れて行かないんですか?」
 問われて、ホイールはとても驚いていたようだが。
「はい。いても、邪魔になるだけじゃないか、と思いましてね」
 次に現れた感情は、どこか泣き出しそうな、自嘲的な笑いに感じられた。