第12話 眠り姫

 学都を出て、2日目の朝のことだ。前方にある半球状の白い建物に近付くにつれて、こちらを呼ぶ声がすることに気が付いた。肩の上にいるルージュは、耳を注意深く動かすこともなければ、鼻を嗅いで辺りを探る様子もない。聞こえているのは、セウスだけのようだ。
 声は、建物の内部から聞こえてくるらしい。高く澄んだ声は人間の女性のものだと思われるが、細かい内容までは掴めない。
 どうせ何があったとしても、侵入を試みなければならないのだ。セウスは声が気になることもあって、足早に建物に近付いた。
『どうしたのさ、セウス?』
 入り口と思われる壁の前で立ち止まった時、ルージュが怪訝そうに尋ねた。不意に速度を速めたため、驚いたのだろう。
 セウスは、相棒をきちめに制する。
「しっ。さっきから、この中から声がしてるんだ」
『僕には、ぜーんぜん聞こえないけど?それも、セウスの力なわけ?』
「みたいだな」
 正直に言うと、本人も戸惑っていた。人の声を感じるのは、ハング以来のことだ。しかも、今回は触れてもいない。能力は、成長するものだったのだろうか。
 唸っていると、また声が聞こえだした。建物の真ん前まで近付いたためか、今度は一言一句まで正確に聞き取ることができる。
『あなたが、セウスさんですね?お待ちしておりました。どうぞ、お入りください』
 言い終わると同時に、目の前の壁が音も無く上に開く。ちょうど、大柄の男が1人通れるくらいの四角い穴ができた。セウス以上に展開を掴めていないルージュは、忙しなく首を動かしている。
『な、なんなのさ。罠じゃないよね?』
 小動物特有の高い声が、廊下に響き渡る。
『ここの廊下は、迷路になっております』
「建物自体が、罠ってわけか」
 相手側にも届くよう念を込めて、言葉にする。
『その通りです。私の指示通りに動いてくだされば、迷うことなく私のところに辿り着くことができます。ただ』
「ただ?」
『内部には、何十匹もの獣が放たれております。これは私では、どうにもなりません』
 クランケットのところで見た類の獣なら、厄介だ。だが、なんとしても中心に行かなければ、侵入した意味が無い。ここは、声の主を信じてみることにした。
「分かった。獣はなんとか振り切ってみるよ。案内を頼む」
『はい』
 案内に従いながらも、慎重に進んでいく。会話が一方通行ではないこともあり、声の主の存在はとても助かるものだった。ただ、セウスが独り言を話しているようにしか見えないルージュは、顔をしかめて彼の顔を見つめる。その視線が、なんとなく痛かった。今のような状況に立たされた時は、幼い頃に何度も母親に言われた言葉が身に染みる。
 いくつめかの角を曲がった時、獣の群れが現れた。嫌な予感の通り、前回の研究所で見た狼のような姿だ。牙をむき出し、唸り声を上げている。いくら運動神経が良くても、逃げ切るのは難しそうだ。
 どうやり過ごそうか考えるより先に、女性の叫ぶような声が頭の中に響いた。
『セウスさんっ、笛ですっ。お母様から受け取られた笛をっ』
 なぜ彼女が笛のことを知っているのかと疑問が湧いたが、今はそこに構ってなどいられない。首から下げていた笛を取り出すと、勢いよく吹いた。
 肩を蹴り、地面へと着地したルージュは巨大化した。
「これっ、クランケットのと」
 思わず笛を見下ろした途端に、右上腕部に痛みが走った。1匹の獣が、容赦なく引っ掻いたのだ。袖は持っていかれたが、上着の厚みのおかげで傷自体は血がにじみ出るくらいの浅いもので済んだ。
 身を翻して再び飛び掛ってこようとする狼が、巨大なルージュの爪にやられていた。団体でルージュに飛び掛っていった狼達も、一掃されてしまう。
「凄いな」
 半刻も経たないうちに全ての狼が倒れ、感嘆と恐れの両方から声が漏れた。そんなセウスの左袖を、大きくなったままのルージュが引っ張る。
『ね、セウス』
「ああ、凄かったなルージュ。早く元に戻れよ。先に進もう」
『それができたら、苦労しないよ』
「はあっ?」
 つい、素っ頓狂な声を上げてしまった。戻れないとは、おかしなことだ。クランケットの時は、どうやって戻ったというのだろうか。
 頭の中で疑問符を浮かべていると、助け舟が入った。
『心配いりません。時間が経てば、ちゃんと戻りますから。ただ勢いよく吹いておいででしたから、しばらくはそのままかもしれませんが』
「吹き方なんかで、変わってくるのか?」
『そうですね。吹き方というか、吹いた時の感情によって違いが』
『あ、戻った』
「あああ、左の袖まで駄目にしやがったな」
 巨大なルージュが掴んでいた左袖は、鋭い爪によって親指大の穴が三つも空いていた。
「いくら特売品とはいえ、結構高かったんだぞっ」
『そんなの知らないよ』
 言い合う彼等を、笑う声がした。
『あ、すみません。でも、こんなに笑ったの、久し振り』
 我慢しようとすればするほど、笑いが込み上げてくるといった感じだ。控えめな笑い声に、自分でも頬に朱が走るのが分かった。
「もう、いいから。案内だけ頼むよ。そうだな、ついでに笛のこと知ってるなら、教えてほしいんだけど」
『お母様からは、何も?』
「そんな時間、無かったからな」
『そうですか……分かりました。知っている限りのことを、お話しますね』
 快く引き受けてくれたようだ。時折、案内を挟みながらも説明し始める。
『ルージュは元々、セウスさんのご両親にとって大切な人……私はセウスさんだと思うんですが、その人のために造られた動物です。一定の音に反応し、巨大化します。その音を出すことができるのが、セウスさんとクランケットが持つ笛です』
「なんでクランケットが?」
『クランケットが持つのは、云わば予備。セウスさんが一番信頼を寄せている人に、預けられたようですね』
「そうだったのか」
『セウスさんは、今でもクランケットのことを信じてくださいますか?』
「もちろん。親友だからな」
『ありがとうございます』
 当然だと言わんばかりに即答すると、なぜか礼が返ってきた。先からクランケットのことを知っているようだが、関係者だろうか。
『私は、クランケットの姉ですよ』
 こちらの思考を察したらしい彼女の言葉に思わず立ち止まると、何も無い空間に向かって叫んだ。
「えええっ、あいつ姉がいたのか?俺、1回も会ったことないよな?」
『そうですね。私は、内にいることが多かったので』
 言われて思い返してみると、幼い頃の自分達は外で転げ回っていることが多かった気がする。
『ね、いつまで突っ立ってるのさ?早く先に行こうよ』
 思わず懐かしんでいると、ルージュに冷めた視線を送られた。少女の声が聞こえていないルージュには、どこか面白くないのだろう。
「そうだな。案内を頼む」
『はい。では、そちらを右へ……先ほどの続きになりますが、そのルージュの力に目を付けた研究員達がいたのです。彼等はルージュを改造していきました。より強く、より美しい凶器へと』
 ハイエロファントが聞いたら、間違いなく嫌悪感を抱きそうな話だった。この件にもきっと、グドアールが絡んでいるに違いない。
『そこでクランケットは笛を預かる身として、一つの道を選びました。主治医となって、ルージュの凶暴化をできる限り抑えてやること。そのことに気付きつつも、クランケット以外にルージュの特殊な体調管理をする術を知らぬ研究員達は、反抗的な彼等を研究所に閉じ込めてしまいました』
 無機質な場所に閉じ込められていたのは、そのような経緯があったのか。幼馴染の離れていた時間の一角を知り、セウスは頷く。
『クランケットは、ルージュの力について教えを受けていました。それでも、改造されてしまった身体を完全に制御するのは不可能でした。そこで彼は、人よりも数倍良い耳を更に利用することにしたのです』
「それが言ってたやつだな?」
『その通りです。感情による音の違いで、ルージュの変化は変わってきます。吹き手が我を忘れてしまえば、たちまち凶暴化してしまうでしょうね』
「それを親の形見ってだけで、俺が受け取ってもいいのか?」
『もちろんです。クランケットもセウスさんを信用しているからこそ、託したのでしょうから。さあ、そこを左に入れば私のところに辿り着きますよ』
 早く、クランケットの姉の顔を見てみたい。セウスは小走りになって進み、扉を勢いよく押し開けた。
『いらっしゃい、セウスさん』
 声と共に、視界が開けた。そして、目の前の光景に立ち尽くす。肩の上のルージュ共々、驚愕した声を上げた。
「なっ」
『何これ、セウスッ?』
 半球状のため、中央に来れば来るほど天井が高くなっていく。そう考えれば、現在地は建物の中心だと判断できる。その一番高い位置まで届くかのような円柱形の玻璃から、淡く黄色い光が漏れていた。幻想的にも思える世界の中で、1人の女性が眠っていた。彼女はセウスの腰の高さほど浮いていて、見上げなければ顔を覗き込むことすらできない。
「そんな……嘘だろ?この人が、道案内してくれたっていうのか?」
 ただ驚くばかりのセウスに、再び声が聞こえた。
『そうですよ。初めまして、お2人さん。私は、アーベルと申します』
 今度の音は、耳から直接入ってくる。どうやら周りの機械を通しているようだ。ルージュも目を瞬かせている。
『え?え?』
「クランケットのお姉さんだそうだ。今まで話していたのは、この人だよ」
『ごめんなさいね、ルージュ。私の存在を知られたくないのか、機械を通して話し掛けられるのは、ここだけなのです』
「でも、俺を呼んで」
『私は、人の気配を感じる力があります。永遠の命によるものなんですけどね』
「永遠の命?」
 聞きなれない言葉に、首を傾げてしまう。
『昔、ペンタクルエースで研究されていた、生命科学の技術です』
「伝説の空飛ぶって所で?でもあれって、50年前に消えたって」
 たしか教授室で聞いた話では、そうだったはずだ。
『研究所自体は存在しませんが、技術は残っています。そのほとんどは法に触れるものですが、王都の裏側では研究が進められているのです。それに関連することで、セウスさんにお願いがあります』
「お願い?」
『私を殺してください』
 頭からつま先へ、冷たい感覚が通り抜けた。
「なにを」
『今の私は、とても不安定な状態にあります。玻璃に繋がっている線を抜けてくだされば、私の生命活動を止めることができるでしょう』
「どうして」
『まさか』
 ルージュの声が、微かに震えている。研究所にいた期間が長い彼には、思い当たることがあるのだろうか。
『そのまさかです。私はルージュと同様に、この身体を改造されています。ルージュと違い、制御ができなくなるのも時間の問題です。さあ、お早く』
 促されるままに、人差し指の太さもある黒い線を数本手にしてみた。鼓動の音が煩わしいほど頭に響いて、両手には汗を掻き始める。結局は、玻璃から溢れ出す光のぬくもりに、引き抜くことなどできなかった。手から線が音を立てて零れ落ちていく。
「できない、そんなこと。アーベルは、なにも悪くないのに」
『優しい人。愛しい弟と、同じことを言うのね』
「クランケットと?」
 再び見上げると、アーベルは悲しげに笑っているように見えた。
 しかし、次の瞬間には『いけないっ』と彼女が叫んだ。
「アーベル?」
『グレイスが来ました。私の後ろの壁が、非常口になっています。そちらは真っ直ぐに出られるはずですから、早く逃げてください』
『グレイスだって?』
 ルージュが驚いて、声を上げる。体が小刻みに震えているのが、肩に乗せられた小さな4本の脚で分かった。
「ルージュ?」
『私やルージュを改造した人物です。学都にも、何度か行っているようですが』
 ということは、ハングが行っていた監視役の監視だろうか。考え込みそうになると、アーベルが焦れたように声を荒げた。
『グレイスは、もうそこまで来ています。セウスさん、早くっ』
「え?ああ」
 足早に玻璃の横を通り抜けようとした時、アーベルが囁いた。
『クランケットのことは、気になさらないでください。ルージュがいたら、いくらでも出る機会はあったはずです。それをしなかったのは、あの子に迷いがあったからでしょう』
 セウスは一度振り返ったが、『セウスさん』と咎めるように名前を呼ばれ、走って非常口に向かった。入り口が開くより、セウスが死角に身を隠す方が寸秒だが早かった。
「調子はどうかしら?アーベル」
 今の声の主が、グレイスなのだろう。とりあえず、音の高さから女性であるということは分かった。
『使い物にならぬほど調子が悪ければ、と願うばかりですね』
「そうなったらなったで、新たに改造するだけよ」
『くっ』
 悔しそうに言葉を詰まらせるアーベルに、グレイスが高笑いした。
「ところで、誰かここに来たのかしら?」
『なぜ、そんなことを?』
「私のかわいい狼達が、倒れていたものだから。あなたには、できないでしょう?アーベル」
 風向きが怪しくなってきたらしい。ルージュもグレイスの名前が出てから、ずっと震えっぱなしだ。アーベルがどうにか時間稼ぎをしてくれているうちに、そっとその場を離れることにした。