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旅行記
           
北アメリカ
米国(平成7年12月19日脱稿)

      石油ショック発生直前の昭和48年の春、人類の誕生この方最高の生活水準に到達していたアメリカの各地を訪問する機会に恵まれた。摩天楼・御殿のように豪華でかつ美しい民家の数々・雄大な自然・大型車の大群・巨大なロブスター。

      円高ドル安が既に始まり、パックス・アメリカーナが揺らぎ始めていたとは言え、視野に飛び込んできたアメリカの豊かさには、ただただ驚くばかりであった。しかし、あれから僅か20年余で彼我の格差がかくも接近しようとは、神ならぬ身の誰が予想し得たであろうか?
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出発準備

[1]はじめに

   トヨタ・グループ6社の10名を越える精鋭と一緒に無我夢中になりながら数年掛りで、3軸NC型彫り機のためのアプリケーション・プログラム『TiNCA=TOYOTA integrated Numerical Control Approach』を開発した。その時に仲間と共に考え出した情報処理技術を論文に纏め『NCS=Numerical Control Society』主催の国際会議に応募したら、幸いにも発表の許可を得た。入社10年後、昭和47年の秋のことだった。

   当時、私が所属していた開発課(生技開発部の前身)に於ける海外出張のチャンスは、先端技術調査か、または国際学会での論文発表かのいずれかであった。所属長が課員への機会均等を考慮しながら社内での政治力を発揮して努力されても、出張にあり付ける者は1年間に精々1人であり、平均すれば定年までに実現出来るか否かと言う、気も遠くなり兼ねない程の小さな機会に過ぎなかった。

   『TiNCA』は数年来の論文精査と幾つかの先行試作プログラムの評価を踏まえて、プログラムの基本構造を抜本的に考え抜いて開発したものである。本質的にはいわゆる『CAM=Computer Aided Manufacturing 』に分類される応用プログラムである。私にとっては会心の大作でもあった。
            
   爾来30年近い歳月が流れたが、後輩達が絶えざる改良を続けた結果、今なお当社の代表的な大型システムとして活用されている。更に、当プログラムからの派生商品として当時の仲間が開発した『ケーラム』は、新規事業としても今や大成功している。

   当時、コンピュータ・プログラムの世界では、ソフトウェア・システムにそれを開発した会社の名前を冠する命名法が世界的にも流行していた。この分野の先駆的なシステムとしては、世界最大の電機会社『GE』の『GE−MESH』や同じく世界一の航空機製造会社『Boeing』の『F−MILL』(このシステムの場合は『B』の代わりに『Face Milling』の意味を込めて『F』を冠したが、例外に近い事例である)が有名であった。        

   開発初期の頃は『T−MESH』と名付けていたが、所属長から『名前が小いせえ!』と酷評されたので、少々大袈裟とは思ったが思い切って『TiNCA』と改名した。名は体を表すようになるのか、この名前は関係者にも大変気に入られ、『名前負けしないように』と頑張った若きシステム・エンジニア達の、プライド高揚にも繋がった。

   TiNCAは独りソフトウェアの分野に止まらず、当社独自の技術の名称に社名を冠した第1号でもあった。『トヨタ生産方式』を初め『トヨタ****』と言うネーミング法はこの後、堰を切ったが如く社内に流行して今日に至っている。

[2]作戦成功

   僅かに3週間の出張ではあったが、土曜日の出発で日曜日の帰国、更に途中にアメリカの祭日『Good Friday』を含む3連休もあり、密かに『This is The USA』と報告出来るような観光情報収集計画も織り込んだのであった。

   Good Friday の由来が分からず、豊田市内の牧師に質問したが即答出来なかった。日本の暦とは直接の関係がないためか、牧師すら知らないことに若干の驚きを感じた。調べてみると『Easter直前の金曜日と定められているキリスト受難の記念日』だった。『Easterとは春分後の満月直後の日曜日』と決められている事もついでに知った。従って必ず『3連休』が保証されているのであった!
       
   祭日とは曜日に無関係な暦上の固定日と思い込んでいた私には、新鮮な驚きが感じられた。だがよくよく考えて見ると、日本にも『春分の日』や『秋分の日』のように、固定日ではない祭日がある事を迂闊にも忘れていたのだった。

   この出張の真の目的は『この貴重な機会を活用して国際的な見聞を広めると共に、広く先進技術を現地で直接調査する事にある』と格調も高く提案した。出張先の選定は私の随意と言われたが、アメリカのどこに行って何をすれば目的を果たせるのか、自分で提案をして置きながら無責任にも、当初は雲を掴むような不安すら感じていた。

   当時の私の担当業務は『CAD/CAM』の企画調査及びその開発にあった。ご他聞に漏れずこの技術分野でも、アメリカの大企業が世界の牽引車であったが、同国の業界トップ企業と雖も、経済界に於ける日本の台頭を強く意識し、日本人の技術調査には強力な紹介者を介さない限り、訪問許可すら与えない程の世知辛い時代に既に突入していたのであった。

   日本アイ・ビー・エム、日本シー・ディー・シー、日本バローズ、日本ユニバックなど、アメリカの代表的なコンピュータ・メーカーの日本法人のトヨタ担当者を通じて、希望の会社の見学許可を取ろうと打診したが、いずれも確約には至らなかった。CAD/CAMで著名な大企業は全て超大型コンピュータのユーザーであり、上記の紹介ルートならば、どこかに必ず接点がある筈だと考えたけれども、現実はかくも厳しかったのである。

   仕方がない!ダメ元と、独力で訪問許可を獲得する道を探すことにした。まず最初に訪問したい大会社を選び直した。技術的には有名でも中小企業には、一見の外国人の相手をするほどのゆとりはあるまいと考えて削除した。
         
   次にアメリカの地図にその所在地をプロットし、出来るだけ特色のある大都市にある会社から優先的に選んだ。アメリカの各地を観光したいがための作戦である。次にその会社のエンジニアが発表した技術論文を集めた。
                      
   その後、各論文執筆者に『貴台の論文には強い興味を感じた。工場見学及び貴台との技術討論の機会を持てるようにご配慮願いたい』と論文を読む代わりに、お世辞を述べて、私の発表論文の要旨を添えた手紙を出した。照会には全てコンピュータ・メーカーを介した。『ギブ・アンド・テイク』の世界に時代は確実に入っていたと確信した結果だ。

   作戦成功!打診した全ての会社から訪問許可が下りた。誇り高きアメリカ人と雖もどうやら、台頭しつつあった日本の技術に若干の興味をそそられたらしい。

[3]論文作成

   英語の論文は、学生時代の恩師で私の仲人も煩わせ、平成7年秋には勲二等を授与された『岩崎松之助』先生が授業中に余談で紹介された方法を思い出しながら書いた。

   前回までのNCSや米国の電算機学会の論文集も参考にして、論文の構造を決定し、まず最初に日本語で全文を書き下した。次に和文英訳に取り掛かった。英訳の工程を念頭に置きながら、論理的に書いた積もりの日本語だったが、いざ英訳工程に入ると適切な動詞の選択に大変苦心するハメにもなった。  

   私の日本語を客観的に分析すると、いかに曖昧で意味が特定出来ない部分が多いかに改めて驚いた。岩崎先生は使い慣れた日本語で論文を書き下だした後、英訳しやすい日本語に予め変換されるそうだ。身の程知らずの私がその工程は無駄だと判断したのが間違いだったのだ。

   英文の推敲を効率的に実施するために、英文専用の簡単な『ワード・プロセッサー』も開発し、当時使っていた超大型電算機『UNIVAC1108』に組み込み、ラインプリンターをタイプライター代わりに活用した。スペル1文字の修正でも簡単に直せて重宝した。 
                       
   例えば、出発直前になって『path』の複数は『pathes』ではなく『 paths』だったことを思い出した時などである。原稿のチェックを頼んだ関係者は、この間違いには何と全員が気付かなかった。末尾が『th』で終わる名詞の複数形には『es』が付くと受験勉強で覚えてはいても、そのルールの例外とセットにして暗記していない人々が、思わぬところで馬脚を現したのであった。

[4]出発前教育…その1・英会話

   英会話の自習資料として、教育部から旺文社の『海外旅行英会話』が届けられた。カセット・テープ8巻と教科書4冊のセットになっていた。この教科書は単に英会話だけではなく、海外旅行に関する『ノウハウ』がふんだんに盛り込まれていた。勤務中で良いから教育部のLL教室で『聞きながら同時になるべく大声で発声しろ。しかも3回繰り返せ』とのご指示。

   この教科書に出てくる題材は海外旅行の事例から採られていた。出入国や税関手続きなどで使う特殊な単語もついでに覚えられた。ホテルのチェックイン、買い物での会話など実用本位だった。チップを渡す時の言葉は『This  is for you.』と言うんだそうだが、何となく相手を馬鹿にしているように感じたので現地では1度も使わなかった。勿論、チップをケチった訳ではなく、明るく『サンキュー』と言ってパッとコインを手渡した。      

   勉強をサボって困るのは自分自身であるから、この機会に頑張ることにした。3回も同じテープを聴くと、ヒアリング能力が多少向上したような気になるから不思議だ。また英語の勉強で肉声を発したのは、学生時代に教室で教師に当てられた時にほんの僅かな時間、教科書を読んだ時くらいだったので、24時間も集中的に発声したのは初めての体験だった。我が発音が外国人に通用するのか否かの本格的なチェックの機会は持たずの儘だった。

   出張直前に、大学時代に語学としての英語を学んだと言う、若いアメリカ人の女性から個人指導を受ける事になった。たった1回では何かを質問して急に英会話に上達するはずもないから、論文発表の時にスライドの説明用として読み上げる予定のもとに書いていた原稿を、音読して聞いてもらうことにした。

   『英語の発音に問題はない。技術論文としての内容は全く理解出来ないが、英語の使い方としての間違いはないし、文法ミスが無い事も分かる。技術面は専門家が聞けば分かるのではないかと思う』との評価を得た。
           
   『私の英語が日本人には聞き取れる』ことはこの時以前にも既に体験はしていた(大学時代に日本語は一切使わない主義の先生から、英語の授業を受けた事があった)が、『日本人特有の発音だから、日本人には分かりやすいのかも知れない』との疑念が取れていた訳では無かった。 

   母国語を英語として育った本物の外国人に、自分の英語を20分も連続して聞いてもらったのは文字通り初めての体験だった。しかも『1語1語正確に聞き取れる。私には貴方に教えるものが何にもない』と褒められた時、急に英語への視界が開けた嬉しさが込み上げてきた。発音に関しての自信を与えてくれたこの女性にちょっぴり感謝した。

   出発直前に、打ち合わせのために東京へ出張した。新幹線の中で外国人のグループ3人と隣り合わせになった。これは天の機会だ!英語力を試してみようと決心。アラブからの留学生だった。スライドの原稿を読み上げて聞いてもらった。今度は英語を外国語として学んだ人達だ。『発音に問題はない。誰にでも判るよ。心配無用』と全員が断言。やっと不安が消え始めた。

[5]出発前教育…その2・マナー教育

   当時、会社(元トヨタ自動車工業)全体の海外出張者数は年間僅かに 200人強であった。また当然の事ながら殆どの人に取って海外は初体験でもあった。教育部はこの分野でも教育ママ振りを発揮していた。ホテルの部屋の使い方と食事のマナーの勉強のために毎月1回、向こう1ヶ月分の出張予定者がマイクロバスに乗せられて『名古屋キャッスル』まで出掛けると言う、あり難いシステムが運営されていた。

   ホテルではお風呂の使い方を中心にして細々としたコメントを受けた。シャワーを使う時のカーテンの使い方の説明に熱心だった。日本人はまだ洋式のお風呂の使い方に慣れていない人が多いそうだ。新婚旅行を除けば私も都市ホテルの宿泊体験は、人生の折り返し点すら近付いて来た35歳になっても尚、たったの2泊(そのうちの1泊は結婚直前、東京への出張の機会を生かして、勉強のためプリンス系の『高輪ホテル』に大金をはたいて泊まった分)に過ぎなかった。

   しかし、私がこの種の問題で一番驚いたのはホテル内の体験では無かった。昭和30年秋、高校2年の修学旅行(福岡県の代表的な進学校である東筑高校は、修学旅行を1年間繰上げて実施していた。3年生になると受験勉強に専念させるためだった。尚、プロ野球の仰木監督や映画俳優の高倉健は先輩に当たる)で泊った旅館での水洗便所の初体験である。山勘でトイレの紐を引っ張ったら轟音と共に水が溢れ出て…きた。その時に受けた驚愕は今なお忘れられない。しかしその瞬間、『一体どの様にして水を止めるのだ!?』紐を再度引いたが効き目がない。この時の不安心理はまさにパニック寸前だった。

   正式の『フランス料理の食べ方』も実習した。こんな実習ならば何回でも大歓迎だ。とはいえマナーの大先生が説明するような格式ある食べ方は、いくら伝統ある美しい作法といわれても、箸2本で全てを処置してきた私には大変煩わしかった。

   中でも、バナナにすら正式な食べ方があると聞いた時には、些か驚きを禁じ得なかった。バナナを左手に持ち、右手のナイフで軸方向に片側だけスリットを入れる。スリットを入れていない側をいわば蝶番い(ちょうつがい)と考えて2枚貝のように皮を開く。お皿の上にそのまま載せる。皮をまな板のように使って、ナイフとフォークで1口ずつに切って食べる。食べ終わったら、あたかもまだ中身が入っているかのように、開いていた皮を美しく閉じる。

   この『立派な教育』を受けた16年後にもなって、トルコで『正しいバナナの食べ方』に習熟していた紳士にやっと出会った。この方のマナーの素晴らしさはバナナの食べ方だけではなかったことに一層驚いた。バナナの食べ方がこの方のマナーの全てを象徴していたのであった。

   リンゴにすらも『正しい食べ方』があった。デザートとしてのリンゴは洗ったまま、皮付きで出されるそうだ。まず最初は縦に真っ2つに切る。片面を縦に更に2つに切る。次にV字形にナイフを入れて芯を切り取る。最後に皮を縦方向に剥く。後はナイフとフォークで3分割して食べるのだそうだ。

   日本人が柿の皮を包丁で剥くように、円周に沿ってナイフを動かすのは間違いだとの説明だ。真面目な生徒らしく先生の言う通りに頑張っていたら、皮を剥く時に手が滑って、とうとうリンゴを床に落としてしまった。今度は『落ちた物を拾っては駄目だ』という。ナイフの切れ味の悪さこそが問題に思えた。皮ごと丸かじりするのも正しい食べ方の1つに入れて欲しかった。

   アメリカでの初日、夕食を食べたレストランで、さっそく待望のリンゴに出会った。レストランの出入り口の大きな籠にリンゴが山と盛られていた。何と小さなリンゴであることか!サービス品である。好きなだけ持ち出せる。皆んな丸かじりをしていた。どうやらアメリカには堅苦しい『食事の作法』は無さそうだと気付く。

[6]行動計画の確定

   関係者と相談して訪問会社を確定した。当時のCAD/CAM技術を先導していた航空機工業からは、旅客機が主体のボーイング(シアトル)ロッキード・ジョージア(アトランタ)ロッキード・カリフォルニア(ロス・アンジェルス)、戦闘機が主体で米国最大の軍需会社であるゼネラル・ダイナミックス(サン・ディエゴ)世界の3大ジェット・エンジンメーカの一角を占めるゼネラル・エレクトリック(シンシナチ)を選んだ。

   勿論、ゼネラル・モータース、フォード・モーター、クライスラーの自動車3社(いずれもデトロイト)やCAD/CAMと密接な関係にある世界最大(当時)の工作機械会社であるシンシナチ・ミラクロン(シンシナチ)も選んだ。

   アメリカでは社名に『ゼネラル』を冠する会社は超一流会社に多い事にも気が付いた。今回だけでも3社もある。日本人が英語の勉強で最初に学ぶ『 General』の意味は『一般的』であるが、社名に使う時には『将軍』の積もりではないかと思った。日本にも私企業なのに『帝国ホテル』とか『帝国ピストンリング』など『帝国』を冠した大袈裟な会社名も多いが、命名者の気持ちは同じようなものだろうか?

   各社への照会に尽力してくれた電算機会社であるアイ・ビー・エム(サン・フランシスコ)ユニバック(ニューヨーク)コントロール・データ(サン・フランシスコ)もお義理で選んだ。電算機の価値は電子回路の設計とソフトウェアから生まれ、当時の工場内には学ぶべき生産技術が無い事を既に知っていたからである。

   訪問は1日に付き1社にした。訪問時間は9:00〜15:00である。早朝と夕方には各市内を駆け巡った。半分は観光をしたようなものだ。過去10年、海外生産部門での業務で技術調査に行く場合は、1日に3〜5社も駆け巡ったのに比べれば、初めての出張とは言え、たっぷりとした余裕があった。

   日本の電算機各社は『日本人駐在員とアメリカ人の営業マンが現地の道案内をするために、ホテルまで送迎に行く』と言う。そんなサービスを受けて良いのかしらと気になりながらも、反面あり難いなと思った。ところが出発直前になって、日本アイ・ビー・エムは『御社担当の者を同行させる』とまで言う。私の本心は少しは1人で異国を体験したかったのに!

   行動計画が纏まると、私は訪問先の各社にそれを郵送した。これは大変役に立った。例えばゼネラル・モータースに行くと『昨日尋ねたクライスラーにはどんな印象を持ったか?』などとしきりに聞くだけではない。人心の機微に触れていたのだ!彼等の行動は私に他社と比較される事を前提にしているから、公私ともに大変親切であった。言わば『大名旅行』が向こうから転がり込んで来たようなものだ。
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出発

[1]壮行会

   出発直前のある日、課員全員主催の壮行晩餐会に招かれた上に、餞別金まで貰った。当時の海外出張はかくも大袈裟なものだったのである。岳父(平成6年に勲二等を授与された学者だが、その時にはまだ海外渡航の体験はなかった)からも父からも餞別金を貰った。『お返しにどんな御土産を買ってくれば良いのか』との新たな悩みを付け加えられた。

   当時の唯一の贅沢として、会社は東アパート〓名古屋駅間のタクシーの利用を認めていた。こんなに長距離を1人でタクシーに乗るのも生まれて初めてだった。名古屋駅から羽田空港までは、仕事仲間の1人が文字通り鞄持ちで同行してくれた。浜松町から羽田までモノレールに乗ったのも初めてのことだった。

   羽田に着いたら日本シー・ディ・シーの専務が私を待ち伏せしておられた。事前の約束抜きだった。私に強い印象を与える作戦のようだった。たまたま当社の大型電算機の更新時期が迫り、新機種の評価選定には生産技術部門の主力ユーザーとして、私の意見も無視出来ない事情にあったのだ。時間潰しを兼ねてご馳走にもなり、空港内での手続きについても細々と教えてもらい、あり難かった。

   航空会社のチェックイン・カウンターに着いたら、私の到着を今や遅しと日本ユニバックの関係者が待ち構えていた。私の見送りに来たのだと言う。しかもそのうちの1人は私と同じ飛行機に乗るそうだ。初対面の人だった。その方の親戚一同約10人がお見送りに来ていた。

[2]離陸

   飛行機に乗ったのは生まれて2回目だった。独身時代のある夏にどうしても飛行機に乗りたくなって、名古屋から福岡まで『YS11』に乗って帰省したことがあるだけだった。

   ふと隣席を見ると日本ユニバックの先程の人がいる!出張目的を聞くと『アメリカの関係会社を尋ねる』のだそうだったが、その理由にピンと来るものを感じた。『日本アイ・ビー・エムの営業マンとは現地で合流する』との計画を伝えていたのだ。その内に頼みもしないのに、英語の機内放送がある度に解説を始めた。初旅で出会う全ての出来事に全神経を集中させて、感動を五感で満喫しようとしているときに『変な邪魔者』が闖入して来たとの困惑を感じた。

   その内に日本ユニバックのマル秘計画が判ってきた。私への案内役としての使命を帯びていながら、そうは名乗ることを禁じられている立場の人であった。ややこしい。事前にベテランの『鞄持ち』を付けたいと言えば、私が迷惑がって反対すると予想していたようだった。この人にとっても今回が初めての海外出張だった。私が反対すると本人には出張の口実が無くなりかねない立場だったようだ。

   窓の外が急に明るくなってきた。時計の進み方が2倍になったみたいだ。夜行便だったが興奮の余り一睡も出来なかった。その当時、日米間の国際線もアメリカの国内線も、飛行機の中では飲食のサービスが無かったような気がする。全く記憶にない。一説に拠れば、機内の飲食サービスの元祖は香港の『キャセイ』らしい。

………………………………追記・平成9年5月16日…………………………………     この追憶記を読んで頂いた海外体験豊富な多くの方々から『機内食のサービスは昔からあった』との御指摘を頂いた。私の出張以前にアメリカに駐在していた方々や、日本航空の親友も含まれていたから、私の失念に過ぎないことは明らかである。初旅の興奮は機内食を食べたことすら忘れるほどに、強烈だったのだ!
…………………………………………………………………………………………………

[3]アラスカ_

   飛行機の窓から見るアラスカには荒涼としたツンドラが広がっていた。地肌に残雪が見える陸地には、小さなスギナのように見える針葉樹がパラパラと生えているだけだった。木の密度が大変薄い。当時はまだ羽田⇒ニューヨーク間のノンストップ便はなかった。給油のためアラスカ内陸部の中核都市『フェア・バンクス』に降りた。早朝である。
                          
   小さな小さな空港ビルだったが、それでも売店と立ったまま軽飲食ができるロビーがあった。殆どがアメリカ人だった乗客が1列に行儀よく静かに並んでいた。割り込みをするような人はいない!
                     
   入国手続きはしていなくとも、ここは紛れることなきアメリカなのだ。異国の地、外国なのだ!との深い緊張感を程よい冷気の中で全身に感じた。映画や本で接する想像の世界ではなく、『今まさに外国にいるのだ!』との、言葉には表現出来ないほどの興奮を感じた。                    
   アメリカ人のマナーの良さに驚くと共に『日本人として恥ずかしくない行動を取らなければ』との判断から『何でも、とにかくアメリカ人の真似をしよう』と決意した記憶が、今尚『初夜』のように鮮明に思い出される。『もしもマナーが判らない場面に遭遇したら、周りの人の真似をしろ!』とは、勲二等の叙勲に輝かれた恩師『佐藤博』先生(東大の次に開設された九大航空工学科の創設者)が授業中に語られた余談を思い出したのだ。    
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東部

[1]驚きの連続・ニューヨーク

   @空港〜都心

   ジョン・F・ケネディ空港には日本ユニバックの駐在員が出迎えに来ていた。ケネディの顔が刻印されている特別なコインは、この空港でのみ入手出来ると聞き、早速記念になればと手に入れた。

   空港からニューヨークの都心まで、約30分掛かったが渋滞はなかった。高速道路ではなかったが、殆どが立体交差の道であった。掘割のように掘削された半地下の道が続き、両側に広がるなだらかな土手の上には大きな民家があった。

   防音壁など視界を妨げる障害物はない。自動車の排出ガスや騒音に住民からの苦情は出ないのか?と不思議に思った。各家は10mもありそうな大きな立派な木に取り囲まれている。日本庭園のように木を剪定している様子は感じられない。民家には塀も境界の仕切りもない。
                      
   家の周りは芝生で覆われ、敷地は200〜300坪は優にありそうだ。木造の2階建が多い。スライド用の写真を撮りまくった。出張中にスライドは36枚取りで25巻に達した。後になって判った事だが、私には高級住宅に当初見えたこれらの邸宅は、アメリカではごく普通の家だったのだ!

   マンハッタン中心部の大通りに入った。道の両側には30階を軽く越える高層ビルのジャングルが続く。陽がまだ高い時刻の割りに市内は薄暗い。窓を閉めた車の中からはビルの頂上が見えない。直方体の重量鉄骨ビルが中心だ。ギリシャ神殿を連想させる石造り風の重厚感のあるビルは意外に少い。

   ニューヨークの中心部の容積率は2000%(丸の内や西新宿の副都心は1000%)だが、土地が只みたいに安い地方の町でも、建ぺい率とか容積率の制限がこの国で必要になるのであろうか?一説によれば、既設の上下水道の能力の限界を越えると官民共に困るから、広いアメリカと雖も規制が必要になるのだそうだ。

   Aホテル・アメリカーナ

   学会の開催会場は『ホテル・アメリカーナ』のホールだったので、宿泊には同ホテルを予約してもらった。当時アメリカーナは世界一の高層ホテル(44階建て)を誇り、1つの建物で2000室はモスクワにあるロシア・ホテルの3000室に継ぐ規模だった。                              

   今でこそアメリカには2000室どころか4000室以上もある巨大ホテルすら珍しくもないが、我が日本にはアメリカーナ級は未だ1つもない。その後、新宿の京王プラザホテルが一瞬の間、高さだけだったが世界一に輝いた。

   案内された部屋の大きさにも驚いた。歩数で測ると当時住んでいた東アパート(ベランダ込みでも63.3u)よりも広い。その後で知ったことだがいわゆる『スウィート・ルーム』だった。約80uもある。
                 
   当時の出張手当ては、部屋代・食費・クリーニング代などの雑費込みで1日28$だったのに、ホテル代に34$も払った。日本ユニバックが最初は豪華にと判断したらしい。アメリカのドルベースの物価はあれから約10倍にもなった。金も原油も10倍になっているので、今ならさしずめ1泊 340$か?

   部屋の空調は水冷式ヒートポンプだ。張り巡らされているパイプの中を流れる水が熱源になり、熱量の過不足分だけをボイラーとチラー(冷凍機)で調整する方式だ。冷房でも暖房でもリアルタイムに選択出来た。春秋の季節には、同一ビル内の冷暖負荷が熱源を介して相殺し合うため省エネ効果も大きい。

   当時の日本のセントラル冷暖房では、冷房と暖房とを各部屋ごとに独立に運転する事は出来なかった。我家の東芝製セントラル冷暖房システムはシーズンの都度、冷暖の切り替えと調整にたっぷりと1時間も掛かり、最近はうんざりしているというのに。

   大きなベッドの枕元にある壁面には、これまた大きな絵が額縁に収まっていた。シングルベッドなのに枕が2個あったのにも新鮮な驚きを感じた。陶器製に感じた超大型湯船には清潔感が溢れ、服を脱いでいるだけの短い時間内にお湯が満杯になるのにも目を見張った。

   シャワーの性能にも感嘆した。独身寮(第2豊和寮)のシャワーはジョウロ(ポルトガル語)のように小さな穴が無数に明けてはあるが、小さ過ぎる穴は錆で詰まりやすかった。更に配管の断面積が小さく、隣のシャワーを誰かが使うと水圧が下がり、水温にバラツキが発生し、使う度に不快感を感じたものだった。
            
   このホテルのシャワーは縦に溝が掘られたネジが、大きな下穴に1つひとつ途中までねじ込まれているような構造だった。お湯はネジの頭に勢いよくぶち当てられ、十分に拡散されるだけではなく、目詰まりの心配もない。滝のように噴出するシャワーを浴びながら、これこそが本物のシャワーだと感嘆すると共に、アメリカの豊かさに驚きながらもそれを満喫した。
                            
   B超豪華なレストラン

   日本ユニバックの駐在員に連れられて、ホテル近くの海鮮レストランに出掛け、木目を生かした重厚感溢れる家具類が配置された客席へと案内された。蛍光灯の類は全く使われていない。白熱電灯の間接照明が主力だが薄暗い。高級レストランほど他のお客さんが視界に入らないように薄暗くしてあるのだそうだ。

   超大型のロブスターを食べた。子供の腕ほどもある。1匹でも最後は持て余した。デザートに出されたメロンにも驚いた。洗面器程もある大きな容器にかき氷をいっぱい入れ、その真ん中にスイカのように巨大な半球状のメロンが鎮座していた。アメリカの物質的な豊かさの土真ん中に投げ込まれて、その無言の迫力に押し潰されそうに感じた。

   Cニューヨーク市内

   ホテルの地階のレストランで朝食を取った。若い背の高い女性が大股で動きながら、きびきびとよく働く。従業員同士の私語がなく仕事に没頭している。朝から一所懸命に働いている姿を見ると清々しい気分になってくる。

   ユニバックの駐在員が休日をフルに使って、ニューヨーク市内の主だったところを案内してくれた。写真では何度も見ていた国連ビルが意外なほどに小さく感じて驚いた。周りのビルが大き過ぎるのだ。セントラル・パークを囲んで高層&高級マンションが林立していた。建物の外壁に石が多用され重厚感も感じた。

   エンパイア・ステート・ビルディングは世界貿易センタービルに高さ世界一を奪われたとは言え、アメリカ中のお上りさんで押すな押すなの人気であった。頂上の展望台に行くためには80階辺りでエレベータを乗り換えるシステムになっていた。
                                   
   そこでのエレベータの待ち時間は30分も掛りそうだった。招待されている晩餐会に遅刻しそうに感じ更に上へと登るのは諦めた。同行してきた日本ユニバックの担当者は無言のまま、失望の色を隠し切れなかったのが脳裏に焼き付いている。私だってここまで来たからには、本当は最上階まで上りたかったのだ。

   しかし、80階位からでも眺望の素晴らしさは十分に満喫出来た。目の前には『パンアメリカン航空』の大きく湾曲した壁面を持つ巨大なビル(賃貸床面積が20万uと言うから、池袋のサンシャインに匹敵する)が、シネマスコープの画面のように迫っていた。

   全ての建物には正面玄関の真上の目立つ位置に大きな数字が彫り込まれている。固定資産としての登録番号なのか、民家にも例外なくこの数字が張り巡らされている。郵便番号としても使っているのだろうか?訪問する時に目標となって大変便利だ。

   ブルックリンの貧民街にも出掛けた。写真を取るのは危ないそうだ。車の窓を閉めたまま、安全のため一時停止を一切することもなく通り過ぎた。昔は高級住宅街だったそうだが、今では黒人が主に住んでいる。元々の建物の素晴らしさはその外観のデザインから一瞬にして判るが今や薄汚れて、ゴミだらけの家畜小屋同然に荒れ果てていた。昔の1軒に数家族が住んでいる感じだった。

   アメリカで地下鉄を大規模に活用している唯一の大都市がニューヨークである。総延長はロンドンと並んで世界一を競う約 400km。東京(郊外電車も加えた鉄道網としてなら、もちろん断トツの世界一)の5割増だ。地下鉄に乗るのは危険であるとの付き添いの猛反対にも馬耳東風、せめて1駅の区間だけでも体験しょうと乗った途端に驚いた。地下鉄にも快速と各駅停車があったのだ!地上部の道路幅が広いために複々線も実現していたのだ。何と壮観な景色である事か。

   海岸通りには荒れ果てた繊維産業の工場の廃墟があった。窓ガラスが割れたままだ。ニクソン大統領が必死になって日本と繊維交渉をした背景が伝わって来た。今では『ウオーター・フロント』開発の結果、跡形もなくなっているに違いない。

    100年前に建てたと言う『ブルックリン橋』を通った。エッフェル塔を横倒しにしたような巨大な橋だ。アメリカに於ける大型構造物への挑戦はこんな昔から既に始まっていたのだ。技術の世界には突然変異は少ないとの実感を、このような過去の業績に接する度に感ぜずにはおれない。

   ホテルのすぐ近くに『ロックフェラー・センタービル群』があった。重厚感に溢れたビルだったが、柱と柱の間隔(スパン)が余りにも狭過ぎる。場所と言い名前と言いこれ以上に有名な貸ビルはないそうだが、私には美観よりも機能を重視した『世界貿易センタービル』の方が使い易いのではないかと思えた。

   ここのビルの谷間には1000u位の小さなスケート・リンクがあった。周囲には無数の万国旗が飾られていた。リンクでは色とりどりの衣装を着た子供達がスケートを楽しんでいた。ここに限らず、祭日でもないのにアメリカでは町中に国旗が溢れている。多民族の移民国家アメリカに於ける国民統合の象徴は、国王(天皇)の代わりに国旗が果たしていると直感したものだ。

   マンハッタンの先端からフェリーに乗って対岸に出掛けた。自由の女神の側からマンハッタンを振り返ると、ニューヨークが余りにも小さく感じられて驚いた。幅が狭いのだ。机の真ん中に置いた鉛筆立てのように、高層ビルが市の中心部に集中しているだけなのに気が付く。ニューヨークの町並みの広がりは永い間、写真から連想していた。写真からはみ出ている部分にも、写真に写っているのと同じ高層ビルが林立しているのだろうと推定していたのだ。           

   対岸の町並みは住宅街だった。日本と同じように電線は地上に張り巡らされている。ニューヨークと雖も、費用の掛かる電線の地中化が実現しているのはビル街と高級住宅街だけのようだ。

   DNumerical Control Society

   日曜日の夜、到着した時には国際会議の前夜祭が大きな宴会場で既に始まっていた。論文発表者には会費が免除されていた。立食パーティだった。身長わずか 162cm若干35歳の私は、6尺豊かなアメリカの大男達に挟まれて、子供のような存在に見えるようだった。そこで一計を案じた。

   当時のCAD/CAMの世界では、プログラムの大きさに一目置く習慣があった。『TiNCAはFORTRANで約8万ステップだ』と説明した。当時、最も有名なNCプログラムは米国航空宇宙工業会の会員各社と電算機会社が共同開発したATP3(約4万ステップ)だった。
                  
   プログラムの価値は大きさと直結はしないが、努力度の説明としては最適だった。トヨタ自動車を知らない人には出会わなかったが、そんな情報よりも8万ステップの威力は格段に大きかった。一瞬にして大勢の人に取り囲まれた。
    
   中でも世界3大ジェット・エンジン・メーカの一翼であるプラット&ホィットニー(他の2社は英国のロールス・ロイスと米国のゼネラル・エレクトリック)のゼネラル・マネージャーは感激の余り前夜祭の後、自室に招き入れて奥さん(アメリカでは夫婦同伴で学会に出席するのが普通である。昼間は学会事務局が準備したレディース・ツァーと称する観光に奥さんは出掛ける)に私を紹介したあと、夫婦で2次会にも招待してくれた。

   論文の発表を始めた途端に会場内が『ワッ』とどよめいた。ひょっと後のスクリーンを見たら、何と『ヌード』が写っていた。アメリカ人の好意あるイタズラであった。質疑応答を終えて、客席に戻ろうとしたら、出席者の1人がツカツカと近付き『素晴らしかった』と激賞した後『Cards』の発音が『Cars』に聞こえたと教えてくれた上で、発音の違いを特訓してくれたが、私には『同音異義』の疑念がどうしても晴れなかった。

   最終日の夜は晩餐会だった。収容能力1000人程の大宴会場の舞台では、プロの芸能人による歌を中心にしたショーが開かれた。後で見たラスベガスの輝くばかりのけばけばしい照明下でダンサーが踊りまくるショーに比べると、静かな学会の語らいの夜に相応しかった。ゼネラル・モータースからの出席者達と再会を約して別れを惜しんだ。

   Eメトロポリタン美術館?

   アメリカは世界的な美術工芸品の獲得競争では英仏に先を越されたようだ。さりとて自分で名作を生産するレベルの国産芸術家も少ないらしい。それでも戦後のパックス・アメリカーナのドルの威力で徐々に国宝級の蓄積を深めて来た。
  
   どの美術館だったか(ボストン美術館だったかも知れない)忘れてしまったが、レオナルド・ダヴィンチが描いた僅か30cm角位の婦人の上半身像があった。何と、特別室の真ん中に固定された防弾ガラス付きのケースに収まっていた。しかも傍らには、ピストル携帯の屈強の見張りがいた。   

   この調子だと『モナ・リザ』や『ミロのビーナス』を手に入れた場合には、核シェルターに展示したとしても大袈裟には感じられない。


追伸

   本旅行記の愛読者の一人で、美術関連に詳しい方(酒井敏光様・昭和39年東京大学卒)が米国へ出張したときに、たまたまこの絵をご覧になり、帰国するや否や同氏から、下記の貴重な情報のご連絡を頂いた。

   美術館の名前は『ワシントン・ナショナル・ギャラリー』でした。絵の大きさは、説明書によれば『38x37cm』でした。なお、これは米国にあるレオナルド・ダヴィンチの唯一の絵だそうです。


   Fアメリカ自然史博物館

   アメリカはさすがに化石に溢れた国である。完全に復元された30mもある恐竜の化石を見ると、大恐竜時代に吸い込まれて行くような気がしてくるだけではない。昭和20年代に月刊誌『面白ブック』に連載されて爆発的に読まれた『恐竜と戦う少年ターザン=真吾』になったような興奮に襲われた。

   化石も1種類に付き10頭近くも展示してある場合があった。馬が進化するに連れて、徐々に大型化した様子も一瞬にして理解出来るほどの物量には圧倒されるほどの迫力があった。ここに展示されている化石群から類推すると、全ての種は進化と共に体が大きくなって行くようだ。とすれば人間の平均身長が2mを突破するのも、単なる時間の問題に過ぎないか?

   Gニューヨーク郊外

   ニューヨーク郊外の高級住宅街の素晴らしい雰囲気には息も付けないほどに驚いた。大きい上にデザインも素晴らしい民家が続く。美しい庭木が鬱蒼と茂っている。日本ではついぞ見掛けた事もない夢のような景色だ。民家を写真に取ろうとしたら『キャノネット』の画面に入り切らない。厚かましくも無断で庭に入って大きな家の一部をバックに記念撮影をした。

   北部の『ウエスト・ポイント』と称する陸軍士官学校がある公園に出掛けた。普通のアメリカ人は眼鏡を殆ど掛けていなかったが、士官学校では逆に殆どの学生が眼鏡を掛けていた。詰め込み教育の密度が気に掛かる。近くには緑の芝生が張り巡らされた大きな公園があった。

   子供がアメリカ式の凧を揚げていた。ビニール製のユニークな形の凧だ。風がほとんど吹いていないのに、安定してよく揚がる。母親にお願いして1分間だけ貸してもらった。子供が凧を取られたと勘違いしたのか泣き出したので、お詫びを言って直ぐに返却したが、実に揚げやすい凧だった。

   Hニューヨーク駐在事務所

   ニューヨークの駐在事務所と言っても、ニューヨーク市に隣接したニュージャージー州の裏寂れた安っぽい仮設ビルのような建物の中にあった。些かがっかり。中島所長に呼ばれ、事務所で記帳した。

   『どうしてニューヨークに来る事を正式には連絡しないのだ。当事務所には出張者の保証人みたいな役割もあるのだ』私は『忙しい方々の貴重な時間を潰させたくはない。自分で出来る事は何でも自己解決しようとした』などと言い合った後、レストランへ全駐在員と昼食に出掛けた。

   私は当時も新聞は業界紙を含めて毎日2時間は読んでいた。何時の間にか自動車業界を初めとした日本国内の話題についての、私の独演会になっていることに気が付き『皆さんはどうして黙っているの?』と質問すると、中島さんは『面白いから聞いているのだ。遠慮は要らん。話を続けろ』と言われる。皆んな情報に飢えていたのだった。

   I空から見た摩天楼

   ニューヨークを飛び立ったら機内放送による摩天楼の案内があった。眼下にはおもちゃのように小さな摩天楼が見える。摩天楼の迫力は下から見上げたときにのみ感じるのだと気付く。サン・フランシスコの上空から『金門橋』を見下ろした時にも全く同じ体験を繰り返した。折角の親切な機内放送なのに、期待されていることとは正反対の印象を残念ながら持ってしまった。   

[2]アトランタ

   @またもやため息が出た豊かさ

   南部の中核都市『アトランタ』は既に初夏の始まりだった。ジョージア州議事堂の一角には伸び伸びと育った高さが1m近いチューリップが咲いていた。ユニバックの駐在員『神谷』さんが『南部の匂いがする』と言った。

   夜、ユニバックのアメリカ人の自宅に招かれた。そういうこともあろうかと予想して、出発前にフォスター作曲『故郷の人々』のメロディを暗譜し、妻の特訓を受けた猛練習の甲斐があった。応接間のピアノを借りて、早速腕のほどを披露した。南部の人々にとってはこの歌の別名である『スワニー川』は国歌みたいなものだ。これを切っ掛けに話が弾んだ。

   朝早くホテルを出てアトランタの高級住宅街を1時間くらい案内してもらった。何処までも続く自然林の中に道を開き、その両側にユッタリとした住宅街が続く。どの家も敷地は2000〜3000uはありそうだ。隣家との間には目に見える境界がない。原生林のままだ。
                             
   家は大きな平屋。強い日射を避けるのか大抵テラスがある。庭には芝生と花が植えられ、地肌が加工されているのは、公道から玄関までのアプローチとしての短い道のみ。大型車が天井のない駐車場に2台あるのが一般的だ。家の後も原生林のまま。結局どの家からも隣の家は木の影に隠れている。何と言う美しさ。何と言う豊かさ!

   A都心

   都心の雰囲気はインフラの面からは『リトル・ニューヨーク』だ。ビルの数こそ少ないが、都心に近付くと突然高層ビルが林立している。こんなビルを見上げていると、土地の広いアメリカで何故、土地の狭い香港のように高層ビルを建てるのか不思議でならない。

   中心街を歩いていたら、ここは本当にアメリカなのだろうかとの疑問に襲われてくる。出会う人の8割は黒人だ。ケニアのナイロビ(まだ訪れた事はないが…)も顔負けの雰囲気だ。しかし、良く見るとさすがにアメリカだ。黒人の表情が生き生きとしている。大股でかつ背筋を真っ直ぐにしてキビキビと歩いている。アトランタの主はまさしく黒人だ。
  
 B初めての喧嘩

   最初に訪れた会社『ロッキード・ジョージア』での事件である。出席者には論文のスライド上映時に朗読する原稿を配った。私が原稿を読み始めたら出席者全員の視線が、原稿から一斉に映写幕のほうに向いた。彼等には私の発音が理解出来たのだ!嬉しかった。ホテル・アメリカーナの大会場では原稿は配らなかったので、この動作には出会えなかった。

   質疑応答が終わったら、代表者がお世辞を言った後お別れの挨拶をするではないか。何としたことだ。日本ユニバックを通じて、ロッキード・ジョージアが世界に先駆けて開発した『コンピュータ・グラフィックスによるNCプログラミング』
の実演をしてくれるはずだったのではないか!?

   私は『CGSが真に有効か否かを評価するために、はるばるアトランタまで来たのだ(真の理由はもちろん別にあった。南北戦争の南部の根拠地でもあり『風と共に去りぬ』の舞台ともなったこの大地を垣間見たかったのだ。ロッキードのCGSは失敗作であることは、論文の紙背から既に見抜いていた)何故約束を破るのか!』と思い切り怒鳴ってみた。

   責任者は『我々はそのような依頼を受けてはいない。デモには所属長の許可がいる。チョット時間を下さい』と言って会議室から電話を掛けた。『この日本人はリーディング・エンジニアだ。うんぬん』許可は直ぐに下りた。個人の権限がはっきりしているアメリカの会社の素早い対応に改めて感激した。

   日本ユニバックの駐在員に聞くと『石松さんはアトランタに行きたいだけだと聞いていました』と口をモゴモゴ。雨降って地固まるとはこの事か。ロッキードからはアトランタを代表するような高級レストランにも招待され、南部の初夏を満喫した。

[3]ボストン

   @アメリカの京都

   ボストンこそは『The USA』発祥の地だ。メイフラワー号に乗った 102人の清教徒が、ボストン郊外のプリマスに上陸したのは1620年であった。アメリカに行くまでは私にはボストンとニューヨークとはどちらが北にあるのかも正確には記憶していなかった。ところが1度行った後は夢の中でも間違えないから、『百聞は一見にしかず』だ。ボストンはニューヨークの遥かなる北にある。

   早朝、日本アイ・ビー・エムの営業マンと市内の公園を散歩した。何匹もの野生のリスが走り回っている。大都市の中心にリスではあっても野生の小動物がいることに驚く。公園内の木々は大きく、芝生は美しい。一角にはチューリップが植えてあった。高さはまだ20cm、蕾も小さくアトランタとは天地の差がある。

   10階にも達しないレンガ造りの古いビルが多い。ニューヨークの摩天楼の無機的な世界とは異なり、ヨーロッパの町並みを連想させる都市建設だ。ボストンは地形的にも坂が多く(マラソンで有名な心臓破りの坂道を見るのは忘れてしまった)町並みに変化がある上に大型ビル特有の圧迫感を受けないため散歩していても、伸び伸びと感じて楽しい。

   50階建て前後の高層ビルが2棟だけあった。この落ち着いた町並みも終着駅は結局ニューヨークなのだろうか?その内の1本は珍しくも建築途中で放棄されていた。10階辺りのあちこちで柱の1階分の高さ分が座屈した結果、長方形になるべき側面の部分が3角形になっている。大型の窓ガラスが数十枚も割れ、ガラスの代わりにベニア板がはめ込まれていた。帰国後程なく、朝日新聞の『海外トピックス』欄に紹介されているのを発見したとき、急に身近な話題に感じた。今はどうなっているのだろうか?

   A高層ビルからの眺望

   健全なる片方のビルに登って周辺を見回した。はるか彼方まで家が建っている。おかしい!ボストンの人口は80万人のはずだ。何故だ!後で駐在員に確認すると 400万人と言う。この時、アメリカの都市人口の数え方は日本と異なることを初めて知った。

   ボストンでもサン・フランシスコでも、日本流に『市』と呼ばれている部分は行政区としての狭い市内だ。その後都市圏が郊外にドンドン広がった結果、市民生活に密着している経済圏としての都市圏の人口は、大抵の都市では行政区としての市内の数倍に達しているのだ。欧州では都市圏を意味する場合は大ロンドン、大パリのように呼称するから勘違いは起こさない。
                  
   眼下に見える満水を湛えた川の向こうには、公園のような緑に囲まれた『MIT=Massachusetts Institute of Technology』の広大なキャンパスが広がる。大きなビルが数十棟はありそうだ。 
                 
   研究所付きの単科大学と言うよりは、日本の総合大学の規模を連想させる壮大さだ。ここはいわゆるCAD/CAM研究のパイオニアだったが工場ではなかったので、訪問先の候補には選ばなかった。既に私の関心は実用段階のCAD/CAMに移っていた。MITは空中からの観察に終わった。

[4]ワシントン

@ 緑溢れる公園都市
                         
   ワシントンに着いた途端、都市計画者の強い意志を感じ取った。都心部の道路面積率は50%を越えるのではないか?日本では見た事もないゆとりだ。しかもこのアメリカにありながら高層ビルが全くない!国会議事堂や各種の記念すべき建物よりも高い民間ビルの建設は禁止されているのだろうと直感した。

   都市全体に樹木や花と芝生が溢れている。全体が公園のように美しい。起伏のない大平原に、放射状に広がる幾何学模様の道路が走っている。地図の解読が大変楽だ。身の安全を期して駐在員は、郊外の白人居住地の小さなホテルを予約してくれていた。初めて利用したホテルだったそうだが、駐在員は迷うことなく見付け出してくれた。

   狭い日本には『平野』願望主義があるためか『**平野』が地図に溢れている。佐渡ヶ島にすら『国中平野』がある。チョット大きいと『関東大平野』とまで大袈裟に言う。このような名前を付けた人はこの広大なワシントンに、どんな平野名を付けると満足するのであろうか? 
                   
   手持ちの日本書院発行の『高等地図』によれば、何とアメリカには『**平野』がない!あんまり広いと『平野』とは呼ばないのかもしれない。

   A著名な建物

   ホワイトハウスは安全確保のためか、さすがに周囲を柵で囲まれていた。柵の回りに見物客の行列が半周も続く。祭日には庭に入れるらしく、ゲートが開くのを待っているのだそうだ。広大な敷地の芝生の緑と、文字通り真っ白なホワイトハウスとの組み合わせは一幅の絵になるほどだ。

   国会議事堂もまた美しい芝生に囲まれていた。自動車のように大きな芝刈り機に人が乗って操作している。まるでトラクターのようだ。今でこそ日本でもゴルフ場で同様の機械を見掛けるが、当時の私には自走式芝刈り機と雖も、オペレータは機械の後にいて、歩くものだと思い込んでいただけに一層驚いた。

   国防省の建物は上から見ると五角形をしているために『ペンタゴン』と呼ばれている。外周の一辺が 400mもあるとかでアメリカでは最大の床面積を誇るオフィスビルだ。ところがどこが正面玄関か全く分からない。2辺だけ側面に沿って歩いたが全く同じ形をしている。一辺の真ん中には木製の超巨大な扉があった。何故か威圧感がある。塀も柵も何もなく建物外には守衛もいないので、外国人でも建物の真横まで近寄れた。

   Bアーリントン国立墓地

   日米の墓地に関する観念には天地の差があるようだ。アメリカの墓地はそれ自体美しい公園であり、観光客が大勢遊びに来ている。ここでは遊園地にあるような小さな遊覧車を5台位連結したトロッコが運行されていた。墓地内の名所巡りさえ賑やかだ。土地にもゆとりがあるためか、死者は1人ずつ埋葬されており、墓石の前には遺族が訪れた証拠ともなる美しい花が絶えない。
           
   『彼岸とお盆にお墓参りさえすれば、死者への義理は果たした』と考えているような日本人とは、死者との関わり方が何と異なる事か!それ所か日本人は、その他の時期には草ボウボウに荒れ果てたままに墓地を放置しながら、それだけではまだ気が済まないらしい。『墓場では幽霊が出る』などと、子供の頃から脅かして『とどめ』すら刺しているようだ。何時も大勢の人が訪れてくれる方が、死者にとっても遥かに嬉しいのではあるまいか!

   かの有名なケネディさんのお墓は、美しく磨きあげられたカラー大理石で飾られている。墓の中央部で燃える赤い炎は永遠に点灯されているのだそうだ。オリンピックの聖火台見たいだ。観光客の定番コースにすらなっており、この墓地でも最大の目玉だ。昭和天皇の御陵が観光名所になっているとは聞かない。キット立ち入り禁止扱いではないのだろうか?

   Cポトマック河畔の桜並木

   これ程に綺麗で豪華な桜並木は本家を誇る日本にもないのではないか?桜の木の枝振りはさながら劇場のどん帳のようだ。日本ではどん帳のような空想の世界でしか枝振りの良い桜にはお目にかかれない。しかもこの桜と満々と水を湛えて流れる川面との組み合わせから感じ取れる風情が素晴らしい。
                   
   日本も工業製品の押し売りだけではなく、アメリカ人が心底歓迎してくれてしかもこんなに安く付く贈り物を、もっともっと考え出すべきだと思わずにはおれない。
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中部

[1]バッファロー

   @ナイヤガラ

   エリー湖(海抜 175m)の水はナイアガラ川を経てナイアガラの滝となり、オンタリオ湖(海抜75m)へと導かれる。更にその大量の水はセントローレンス川で北東に導かれて、セントローレンス湾を経たのち、最後は大西洋に飲み込まれて行く。バッファロー市はそのゲート・ウェーの町として有名を馳せている。
          
   ここがまさかニューヨーク州の一角とは夢にも思わなかった。紅葉の形をした5大湖は北アメリカ大陸の中枢部にあり、東海岸に貼り付いているようなニューヨーク州とは遥かに離れた位置にある筈だ、との先入観が強過ぎたのだ。

   空港からナイヤガラの滝に至る道路に沿って、轟々と洪水のように水が流れている川があった。これこそはナイアガラ川のはずだと直感した。ナイヤガラの滝を見るまでの胸の高まりを一層掻き立ててくれた。

   日本アイ・ビー・エムの営業マンと、巨大な滝のアーチが一望出来るカナダ側のホテルに辿り着いた。滝の周りには日本の観光地そっくりの御土産物屋が密集している。電飾の飾り付けも美しい。ここまで来てメイド・イン・香港等の御土産品をうっかり買うのを避けるため、商品の品定めよりも原産地の確認に注意を奪われてしまった。畜産の国アメリカを代表する素材である革を使った民芸品には、メイド・イン・USAがさすがに多かった。

   ここがアメリカとカナダが隣接している国境の町と言っても、出入国の手続きは三河豊田駅の改札口みたいな通路でパスポートを見せるだけで済んだ。しかも当時カナダ$とアメリカ$とは等価値で、どちらの通貨ででも支払いができた結果国境の町特有の緊張感は全く味わえなかった。

   滝を見下ろす絶好の場所に展望台付きのタワーがあった。自然の美を壊す建造物ではあっても、この世界的な滝の全貌を満喫出来る場所は空中以外にはない。しかもタワーの建設を1基に限定する限り、タワー内の観光客の視野にはタワーが入らず大変合理的だ。滝を肴に酒を飲みながら、ノンビリと展望台のレストランで夕食を味わった。

   有名な滝は世界中何処でも山岳部にある場合が多い。そこでは背景の山や大きな滝の落差も景観のうちだ。華厳や那智の滝がその典型例だ。所がナイヤガラは大平原の真っ只中にあるために落差も55mと小さく、規模はともかくとして美しさについては若干の疑念を捨て切れなかった。

   事実は予想を遥かに超えていた。『量は質をも変える』との台詞を文字通り体験出来た。地響きを立てて落下する滝の音は、どんな立派な音響システムを導入しても復元は出来そうにもない。また滝の真正面に立つと、巨大な滝のアーチ全体が視界を覆い、70ミリの立体音響の映画と雖も『月とスッポン』のようなものだ。結局、人間には本物以上の自然は作れないし『本物を見ずして、講釈を垂れるな!』との実感を満喫出来た。

   今回この追憶記を書くに当り、最新のガイドブックを覗いたら、何時の間にかタワーがもう1本建設されていた!悲しい事にミノルタ・タワー・センター、つまり元を辿れば日本人の愚かな仕業だったのだ。

   Aカナダの片田舎

   ナイヤガラを起点にしたカナダへの近隣バスツアーに参加した。カナダの穀倉地帯の一角なのか、緑の大平原が続く。

   民家が急に小さくなった。デザインの上ではアメリカの民家と区別が付かないが、大きさだけは一見して3割は小さいと感じる。最近建てられている豊田市郊外の新興住宅地の民家と変わらない大きさだ。延べ50坪前後ではないか?国境はないも同然だったが、国力の差は隠せない。所得水準がかくも鮮やかに民度に反映するものかと、改めて驚く。

   民家と変わらぬ大きさの小さな教会に辿り着く。日曜礼拝の最中だった。ステンドグラスからの太陽光線が神々しい。20人足らずの信者を前にして、牧師の静かなお説教が続く。ガイドに『写真を撮ってもよいか?』と尋ねると『禁止ではないが…』と歓迎はしない様子。フラッシュを外してこっそり撮影した。

[2]デトロイト

   @フォード家の大邸宅

   都心の雑踏も縁遠い閑静な郊外の幹線道路に沿って、かの大富豪『フォード家の大邸宅』があった。バッキンガム宮殿を連想させる規模だ。普通のアメリカ人の民家には柵も塀もないが、この位のお屋敷になると立派な柵があってはじめて、それなりの威厳も備わって来る。

   広々とした大庭園には、セントラル・パーク顔負けの巨木が思い思いの場所で伸び伸びと育っている。枝振りのよい落葉樹が多かった。直径1mを越える幹、高さは優に20mはありそうだ。樹形も見事だ。恐らく移植した庭木ではなく、原生林の中にあった立派な木をそのまま残したに違いない。日本の富豪の大邸宅(?)の紹介がしばしばテレビに登場するが、井の中の蛙が『箱庭』を自慢しているようで空しい。

   Aデトロイトにもある海鮮料理

   航空輸送やコールド・チェーン網が発達しているアメリカは、今や全米どこの町でも海鮮料理が食べられるようだ。『日本人は生魚を食べる野蛮な民族』と言う欧米人は、自分の事は棚に揚げているようだ。彼等ほど『生牡蠣』にこだわる人種も少ない。日本人の場合には、天麩羅か鍋料理等の加熱用食材に牡蠣を使う方が、逆に遥かに多い。                    

   その日本でも、無菌牡蠣がやっと手に入るようになったが、魚屋では1個が 100〜200円もする。私がホテル等で開かれる立食パーティで真っ先に飛び付くのは、日頃口にする機会が少ない『殻付きの生牡蠣と紅鮭のスモークサーモン』である。お刺身やお寿司は常に後回しだ。いわんやビフテキ等はお腹が張るだけなので、今や決して手を出さなくなった。

   デトロイト川?だったかを見下ろせる高層ビルのスカイレストランで、洗面器一杯位もの殻付きの生牡蠣をたらふく食べた。こんなに贅沢に食べたのも初めての体験だった。

   BGMのテクニカル・センター

   全貌を捕らえる事も出来ないほどの広大なテクニカルセンター内に入ると、芝生の真ん中に長方形の大きな人工の浅い池があった。水が綺麗だ。藻が茂らないようにキチンと管理されていた。
                      
   さすがは世界のGMだ!私には日本のゴルフ場の評価も簡単にできるようになった。風呂やトイレ、池や噴水などの水回りが綺麗な所は例外なく一流だ。3階建て奥行き20m、長さ 100m位の同じ形の研究棟が、中央道路の両側に50m間隔位に整然と並んでいた。合計20〜30棟はありそうだ。
              
   当社の技術本館のデザインがGMのテクニカル・センターの建物のデッド・コピーであることは、残念ながら見た瞬間に分かった。しかし建ぺい率の制限一杯、立錐の余地もないほどに建物が込み合う当社とは雲泥の差だ。日米の土地資産の差はこんな所でも忘れずに顔を出して来る。

   GMではNCSで出会ったエンジニア達が、準備万端整えて待っていてくれた。私の持参資料の1つ、ラインプリンターで打ち出した用紙のヘッドライン(資料を層別するために、欄外に書き出す見出し)に『TiNCA』を見つけて大変喜んだ。実は『TiNCA』とは、GMが開発していた類似システムの呼称『iNCA』からの借名だったのだ!    

[3]シンシナチ 

   @程ほどの大きさの町

   オハイオ州の代表的な都市『シンシナチ』はデトロイトとアトランタを結ぶ線上の丁度中間点にある。ミシシッピ川の大支流である『オハイオ川』が町を取り囲むようにして流れていた。この辺りでは川幅は 100mくらいに感じたが、水量は両岸間を埋め尽くすほどに多い。

   シンシナチの都心は高々1平方Km位しかない。その部分だけ高層ビルが10本位わざとらしく聳え立っていた。アメリカの大都市構造は何処もニューヨークの小型版であることに気付く。数少ない例外だったボストンにも現在は高層ビルが増えたのではあるまいか?

   しかし1Km圏内に主要ビルが集中していると、ビル間の移動は徒歩でも可能であり、案外仕事も効率的に出来るのではないかとも思い始めた。この位の大きさの都市の方が住み易そうだ。

   A意外に質素だった駐在員宅

   シンチナチではホテル代を節約すべく『日本アマツール』の独身駐在員の家に泊めてもらった。平屋の長屋式借家だったが、ここでも1軒ずつ玄関には『大きな数字』が埋め込まれていた。

   アメリカの豊かさを満喫しているうちに『節約』と言う観念をつい忘れていた。風呂上がりに気の向くまま、シャワーを浴びていたら急に湯が水に変わった!

   駐在員いわく『貯湯式なんですよ。燃料はガスで安いんですが……』結果として分かった事だが、ベトナムのホテルと同じくらいの貯湯量ったのだ。標準的なアメリカ人は浴槽にお湯を張ることはせず、シャワーだけで済ませるようだ。そんな使い方には十分過ぎるほどのお湯の量だったのだが……。

   B天下のGE

   発明王『エジソン』が創立した世界一巨大な電機会社GEの、ジェットエンジン工場のインフラほど驚いた事はない。綺麗なレンガ張りの地下道で、全ての建物は結ばれていた。地下道に面して来客食堂や小規模ながらもショー・ウィンドー付きの商店も入っていた。さながらチョットした地下街だ。

   地上部の工場内道路は自動車による物流の大動脈に使われ、人車の移動は立体的に完全に分離されていた。地下道は只単に安全なだけではない。冬は暖かく風雨にも困らない。未だかつてこんなに立派な工場を見た事がない・

   シンシナチでは『日本アマツール』の駐在員に送迎してもらった。GEのエンジン工場は軍需工場でもあるためか、工場内への立ち入りを駐在員は拒否された。私はアメリカに来て初めて、待望の独りぼっちになったのだ!
         
   最早通訳の力に頼る事は出来ない。駐在員は『私が案内した日本からの訪問客で、この工場に入れたのは石松さんが初めてだ』と言う。かの『GE−MESH』の開発者が現役で活躍中であり、彼が特別入門許可を取り付けてくれていたからであった。

   いよいよ自前の英語をフルに使う時が来た。『案ずるより産むが易い』とはこの事か?何の支障もなく会話が弾む。工場見学も済み、予定していた調査は全てつつがなく完了。迎えに来る駐在員との約束時間までには、時間がたっぷりと余った。いろんな雑談に話が弾んだ。結婚相手の条件の順位付けもその1つだ。

   独身時代に結婚の条件を考えさせられた事があった。女子社員の社内月刊雑誌『輪』(昭和42年12月号)のシリーズ『こんな女性に』に一筆書かされたのだ。その時、ドイツのウィルヘルム2世が提案した、ベルリン・ビザンチン・バグダッドを鉄道で結ぶと言う『3B政策』を真似て、結婚の条件を『B』で始まる3つの英単語に象徴させて恥じらいもなく、抜け抜けと次のように書いた。 
     
   『家つきカーつきババ抜き』と言う言葉がこれほど流行したのは、マスコミの影響のみでは説明出来ない何物かがあるからと思う。わが国ではこれに先立って、与謝野鉄幹の『妻を娶らば才たけて見目麗しく情けあり』が久しい間、幅を利かせていたが、女性化時代を迎えたためか最近とみに影が薄くなって来た。  

   さて、私には車と女性には共通するものがあるように感じられる。その意味を説き明かしつつ、ここらで1つキャッチ・フレーズのモデルチェンジを試みたい。名付けて3B作戦。

Brains                                               
  
   Brain は脳味噌と言う意味を表すが、複数にすると脳味噌の働きと言う意味に転化する。 さて、車はスタイルが素晴らしいと言うだけでは売れない。装飾品ではなく実用品であるからなのは論をまたない。女性もまた同じである。                              

   また、車はそれが作られている材料がいくら高級品であってもあまり意味はない。どの様に加工されたかが性能に影響するからである。女性もまた同じである。                 

   恵まれた素質に生み落とされただけでは不十分である。成長した結果、脳味噌がどのように働くようになったかが重要である。                                     
Body                                                     

   Bodyが悪かったばかりに売れ行きが落ちてしまった車がある。BeautyはBodyのほんの1属性に過ぎない。Bodyについて最も重要な事は車なら耐久力、女性なら生命力にある。   

   さて、人間は哺乳類であることを、決して忘れてはならない。ダーウィンの進化論が正しいならば、母乳で子供を育てる方法が、何億年もの長い間、生命を試作した結果辿り着いた、最も優れた育児方法である。                                         

   従って、乳房こそは生命力の1つの象徴であり、それが貧弱な女性は適者生存の原則から見放された、滅び行く運命にあるとも言える。Brain しか無い女性は生命の泉を捨てて、角やひずめや尻尾の原料としては最適に配合された牛乳を飲ませたりしているが、オオカミ少年を作っているようなものである。

Background                                               

   私には、恋愛現象はBrainsとBodyの2つの条件で成立する確率が高いが、結婚現象には第3のパラメータが作用しているように、感じられる。                        

   例えば、評価の基準が流動的な特質については、人にはその子孫が民族の平均値に近付くように選ぶ傾向が見られる。  

   歴史的に見れば民族の平均値は、美の基準などに比べると格段に安定している。例えば、平安時代のウリザネ顔、江戸時代の柳腰、戦後のグラマーと変わって来た。いわんやツィッギーなどかげろうの命である。                                        

   さて、物には平均値とバラツキがある。不確定性原理から説き起こさなくても、QCに弱い人にもそれは公知の現象である。

   従って、親子兄弟姉妹をよくよく観察しなければならない。バラツキが大きい場合には品質管理は極めて難しい。 

   車もまた同じである。多量に生産されていてかつ重要な品質が安定していることこそ、何にも勝るセールス・ポイントである。

   ある時機会を得てお見合いをした。初めて会った人に話す話題も無く、単なる話の種の積もりで以上の話をした。即日破談になった。
 いわく、『人間性に乏しい』と。                

   私ならば@BodyABrainsBBackgroundの順だと言ったら、アメリカ人の場合は『Background』を最も重視すると言う。個人の能力を一番重視する国民と思っていた私には意外に思えた。冷静に考えれば、多民族の移民国家で、旨く生き抜くには『家柄』の効用は何よりも高い事に思い至る!アメリカは『WASP=白人・アングロサクソン・プロテスタント』が支配する国だったのだ!

   C郊外

   日本が当時アメリカにどうしても勝てそうにない産業は、電子計算機・航空宇宙機器・原子力・農業の4分野だと思っていた。そこで何とかアメリカの大農場を、機会があれば是非覗きたいと念願していた。

   シンシナチはいやしくも大ミシシッピ河の流域の一角。大農場があるものと信じ込んでいたので郊外へと案内してもらったが、がっかり。大農場にするほどの纏まった面積がない場合には、アメリカでは荒れ地のまま放置されているのだ。1町や2町の土地は農地ではないのだ。日本では勿体ないような適地もアメリカでは中途半端なのだ。

   あっちこっちドライブしていたら、1軒の園芸農家に辿り着いた。花を植えた鉢植えが温室内にあった。意外にも規模は日本の農家とさして変らない。この種の仕事は機械化出来る余地が少ないのだ。夫婦2人で働いていた。庭先で直売もしていた。日本の農家を訪問したかのような親しみをふと感じたのは、アメリカの豊かさに触れ続けて、いささか疲れ始めていたのが原因のようだ。

[4]ミシガン湖

   シンシナチからは、ラスベガス行きの直行便が無くシカゴ経由となった。海のように感じた水面をじっと覗き込んでいたら、傍らの婦人が『ミシガン湖』だと教えてくれた。教えたくなる雰囲気を感じたらしい。湖岸の形に並行して、大きな波が次つぎに打ち寄せるのがクッキリと分る。見ただけでは、海か湖かの区別は全く付かない。

   シカゴでの乗り継ぎの待ち合わせ時間は3時間。市内に飛び出すには残念ながら1〜2時間不足していた。暇潰しを兼ねて空港ビル内をうろつく。世界最大の発着機数を誇る『オヘア空港』はさすがに広く、空港ビル内の売店を梯子しながら時間を潰すだけでも退屈はしなかった。
                               上に戻る
西部

[1]ラスベガス

   @素晴らしい大自然

   シカゴからラスベガスへの飛行にはロッキーやコロラド山脈越えがある。どの山脈がロッキーなのかさっぱり判らないが、白銀が輝く切り立った美しい山々にどんな名前を付けようが、景色の素晴らしさには何の変わりもない。

   規模の雄大な山々の気高さを、天上から見下ろしながら観賞していると心が洗われて来るような気がする。天下の北アルプスと雖も、ここの山並みと比べられるのはいささか気の毒だ。

   次から次へと、パノラマのように変化して行く大山脈を見ながら、写真を撮り続けた。しかし現像してがっかりした。飛行機から見た景色の迫力がちっとも復元されて来ない。この時以来、写真に記録を残す趣味が消え失せてしまった。その瞬間の感動は専ら網膜に焼き付ける努力をする習慣へと変わった。安上がりに済むのも大変助かる。

   機内で日没に出会った。成層圏から見る夕日は、地上での印象とは全く別の太陽を見ているかのように美しかった。空気が澄んでいるから、空は青いと言うよりも黒いと言った方が的確だ。太陽がロッキー山脈に沈む姿には『神々しさ』さえ感じた。幸い西行きの飛行機なので、時間の進み方は半減している。ゆっくりと心行くまで美しい夕日を堪能出来た。

   Aラスベガス空港

   世界一の賭博の町に相応しく、空港ビルの中にもスロット・マシンがズラッと並んでいた。運試しにと挑戦したが収穫ゼロ。

   B夜景

   巨大なホテルが大通りに沿って林立している。不夜城の名に相応しい大袈裟なネオンサインが点滅している様は銀座の比ではない。当時、日本一大きなネオンサインは銀座にあった地球儀形の『森永キャラメル』の広告塔と聞いていたが、規模の大きさではラスベガスの比ではない。こちらは高層ビルが多いため、ビルに負けじとネオンサイン群もそれに比例して大型化しているようだ。

   Cディナー・ショー

   巨大ホテルのレストランには舞台があり、ストリップ・ショーが演じられていた。茶色のヘアーは皮膚の色とのコントラストが薄く、生えているか否かのレベルに感じた。髪の毛は金髪に染めても、ヘアーはそのままのようだ。ばれても気にしないらしい。ここのダンスはエアロビクスのように、大変エネルギッシュな動きだ。踊りと言うよりも過激なスポーツを眺めている感じだ。
                 
   踊りなれている筈のダンサーも疲労してくるのか、短時間でドンドン交替した。帰国後、日比谷にあった日劇ミュージックホールで見たショーは、振り付けられた動きが緩慢なため、手抜きダンスに思えて来た。

   客もドンドン入れ替わって行く。タイミングよくかぶりつきの席へと移動してしばらく見ていたが、同じ動きの繰り返しであることが分かり、飽きと旅の疲れも重なって早々と眠りに就く。

   早朝、飛行機の上からラスベガスの町を見たら、これぞ正しく究極の人工の町と直感。緑の芝生の境界はくっきりと識別出来る。『自分の敷地内だけにしか、自分が買った貴重な水は撒かない』と言う、人間の本性丸見えの生きた証拠だ。人工灌漑されていない土地は太古の昔からの砂漠のまま!

[2]グランド・キャニオン

   ラスベガスからは小さな飛行機でグランドキャニオンに到着。JRの田舎の駅舎を連想させるような空港ビルだった。豊かなアメリカと雖も、空港ビルは乗降客数に応じて規模が決まっているようだ。

   空港の近くには珍しいことに地面の上を這う鉄道線路があった。それまではニューヨークで一度だけ低速の古びた貨物列車が走る高架線を見ただけだった。

   コロラド川の浸食で出来たグランド・キャニオンの壮大さは、ナイヤガラと雖も位負けしそうだ。長さ数百Km・幅数Km・深さ1000〜2000mの立体的な巨大さから受ける迫力には、嫌でも自然の威力を感じない訳には行かない。時間さえあれば馬に揺られて、遥か下を流れる川辺まで降りて行けるそうだが、残念ながら見送らざるを得なかった。

   『60歳になり引退した』と言うアメリカ人夫妻に出会った。『ここには初めて来た』と言う。私の訪問ルートを説明したら大変驚いた。『平均的にはアメリカ人と雖も、そんなに沢山の代表的な都市を観光してはいない』と言う。そうかも知れない。私も日本に生まれながら、57歳の今に至るまで沖縄(追記。平成9年2月下旬、夫婦で出かける機会を得た)は勿論、四国や東北にすら出掛けていない。今春やっと北海道に行ったところだ。

   ラスベガスへの帰り道、低空を飛ぶ小型機からは、赤茶けた山肌にぱらぱらと生えている小さな木が見えた。所々にアメリカ・インディアンの居留地らしきみすぼらしい住居群が見えた。先住民に対する何たる仕打ち!『罰当たりめ』と罵らずにはおれない。

   やがて、巨大なフーバー・ダムが現れた。乾燥地帯なので雲一つなく、真っ青な水面に白波を蹴立てて走るモーター・ボートが『ミズスマシ』のように見える。一方ではこんな贅沢を楽しんでいる特権階級がいるかと思うと尚更腹立たしくなる。人種や民族間の生存競争では『勝てば官軍』の世界そのものだ。

[3]ロス・アンジェルス
                         
@ 猛烈な排出ガス 
                         
   手持ちの資料によればロスの年間降雨量はたったの 369mmである。砂漠と大差がない。しかし、ロスに近付くに連れて、だんだんと視界が悪くなってきた。ロスの上空では雲もないのに、厚いスモッグに覆われて下界は全く見えなくなった。この毒ガスのような空気の下で、大勢の人が我慢して住んでいるかと思うと『自業自得とは言えお気の毒に』と思わざるを得なかった。

   A平面的な町

   空港から車を飛ばして都心に向かうと、遠くの方に小さく見えた高層ビルがだんだん近付いて来るように一見感じるのだが、予想に反しなかなか近付いて来ない。太陽と月を地球から眺める時の視角は偶然にも共に『約30分』であるため、見掛けの大きさはほぼ等しいが、実際の距離には 400倍もの差があるのと同じ関係だ。当時の日本の標準的なビルの高さは『30m』だったが、ロスの都心に固まっている高層ビルの高さは、その数倍もあったのである!

   Bディズニーランド

   ロスの中心からディズニーランドへ行く途中には田園地帯があった。広大なイチゴ畑がどこまでも続く。これなら原価も安く付くだろうと質問しなくとも分か
る。温室らしき物はどこにもない。レストランでイチゴは季節商品と書いてあった理由が分かった。

   まず最初にディズニーランドの料金システムに驚く。2重取りではないかと思った。遊園地へ入るための入場料を取っていながら、内部でアトラクション毎にまた切符が要る事に最初は戸惑いを感じた。当時の日本の遊園地や大阪の万国博覧会会場では採用していなかったシステムだからだ。

   ディズニーランドにはゴミが落ちていない事で有名だが、私にはそんな事よりも、園内全てが舗装されている事に素晴らしい清潔感を感じた。雨の少ない砂漠同然の土地柄なのに埃っぽさがない。靴の上に土埃が付かない事に大変驚いた。
 
   ニューヨークの世界博で一躍有名になった『リンカーンの演説ロボット』があった。『人民の人民による人民のための政治』と主張した『3分間』の演説である。顔の表情に微妙に影響する小さな筋肉の動きまで、本物そっくりに復元されている。東宝の特殊撮影技術になる『ゴジラ』など足元にも及ばない。

   世界中のいろんな人形が音楽に合わせてダンスしている場面にも感動を超えるものがあった。動く人形の信頼性が高い。こんなに沢山もの人形が激しく動いているのに、故障している人形が只の1体も見つからない素晴らしさ!

   探検船に乗って運河巡りをすると、両側の密林にはこれまた本物そっくりの猛獣や篝火、土人達が踊る模型があった。そこには究極の『リアリティ』がある。
   
   ディズニーランドの魅力、人気の秘密はアイディアもさる事ながら、本物以上に本物らしさを感じさせる『リアリティ』にあるのではないかと思った。昨今はやりのコンピュータ・グラフィクッスによるヴァーチャル・リアリティからは得られ難い質量感のある世界だ。

   Cビバリー・ヒルズ

   IBM差し回しの『省エネ時代以前のキャデラック』を乗りまわした。これならば世界に冠たる高級住宅地であるビバリー・ヒルズ見物に出掛けても、『様になる』というものだ。

   ビバリー・ヒルズにはハリウッドの俳優も大勢住んでいる。ドライバーがこの家にはだれそれが住んでいる等と、いろいろ教えてくれたが、今や全部忘れてしまった。原則としてどの家にもプールがある。大きな庭木に遮られて、道路からは母屋は殆ど見えないようなお屋敷が続く。当時1軒30万$と称していたから、現在では 300万$はすると思う。
                              
   物知りドライバーによれば、当時のアメリカでのブルーカラーの年収はどんな立派な会社と雖も『1万$』以下、大部分は6000〜7000$だと言う。しかし、急速に上昇し始めていた『1$= 265円』で換算しても、当社の部課長クラスの年収には相当していた。

   玄関までのアプローチでは、日本のゴルフ場のように庭木が美しく刈り込まれている。庭師は日本人だと聞いたとき『やっぱりそうか。白人は人生を楽しみ、日本人はそのためにこき使われているのか』との悔しさが込み上げて来るのを、押さえる事は出来なかった。

[4]サン・ディエゴ

   メキシコとの国境の町サン・ディエゴにゼネラル・ダイナミックス社の工場があった。遠くにメキシコが見えた。山肌にマッチ箱のように小さな家が張り付いていた。後日トルコで見た貧民窟にそっくりだった。貧乏とはかくも悲しき事か!

   『瓶洗いのブラシ』と名付けられた珍しい街路樹があった。ブラシそっくりの形をした真っ赤な花が咲いている。長さ30cm位の真っ直ぐな茎から放射状に長さ3cm位の松葉のように真っ直ぐな花びらが伸びている。結果として円柱状の形となり、ブラシと名付けられたようだ。

[5]サン・フランシスコ

   @意外な寒さに驚く

   サン・フランシスコは福島市とほぼ同じ程度の緯度(北緯37度37分)なのに、アラスカから南下するカリフォルニア海流のために、8月でも平均17.7度と涼しく、1月は同 9.2度と暖かい理想的な気候だと聞かされていたが、寒がり屋の私のような人間には大変寒い。1年中、コートやセータが必需品になりそうだ。

   Aゴールデン・ゲート・ブリッジ

   1937年に竣工したこの橋は、1931年に落成したエンパイア・ステート・ビルディングと共に、アメリカの国力が名実共に世界一に到達した象徴でもある。航空工学を専攻し、材料力学・弾性力学・構造力学・航空機構造力学などに代表される応用力学の一端をかじった私に取って、この橋を見上げた時の感動は今なお鮮やかに蘇る。       

   戦艦『大和』の設計建造よりも本質的には難しかったと思う。当時の我が国の製鉄技術ではこれ程までに品質の揃った『ピアノ線』を量産する事は難しかった。設計技術以前の問題だ。

   今でこそどんなに巨大な構造物であっても、有限要素法(Finite Element Method)とスーパーコンピュータを使えば、構造解析は比較的簡単だ。困難さは計算技術よりも現場工事の方にある。人海戦術に頼る部分が未だ残っているからだ。
  
   当時の知識では巨大連立方程式の近似解法としては『差分法』や『逐次近似法』による手計算が主流だったので、厳密解には到底辿り着けず、気休めの計算をしている程度に過ぎなかった。結局は設計者の『勇気ある山勘』に頼らざるを得なかった。そのため当時の巨大構造物の設計では安全係数を大きく取る傾向があった。当然の結果として必要以上に大きな部材を使うようになり、観光資源としての立場からは予期せぬ迫力となって、私の感動も結局一層深まることにはなった。

   今や厳密な構造解析の計算技術が開発された結果、安全係数は小さく設定され、それに連れて構造部材は節約されて来た。しかしそこに見えざる『神の落とし穴』がぽっかり開いていたとは何と言う歴史の皮肉か!

   このアメリカ西海岸北部のシアトル郊外で、長大橋『タコマ・ブリッジ』が強風を受け、共振現象を起こして墜落したのは記憶に新しい。部材を節約した結果剛性が低下し、共振周波数が予期せぬ所に隠れていたのを見落としていたのであった。この事故解析は後日の膨大な風洞実験に待たねばならなかった。

   そんな事が走馬灯のように脳裏をよぎる時間もないほどの短時間に、超豪華車『キャデラック』は音もなく一気に橋を渡ってしまった。見晴らしの良い超高級レストランでは草鞋のように大きくて、しかも分厚い『アワビのテキ』をご馳走になった。アメリカでは『ビフテキ』位では高級料理の仲間には入れてくれないらしい。

   Bケーブルカー

   名物のケーブルカーは交通機関と言うよりも今では観光施設だ。ドアを開けたままでしかもスピードは自転車並だし、そよ風の中を散歩しているようなものだ。ケーブルは、安全のために道路に掘られた溝の中に、張り巡らされている。

   土地にゆとりのある筈のアメリカでも、サンフランシスコは例外らしい。ケーブルカーが走る道路の両側には小さな家がビッシリとくっつきあって建てられていた。大きさも日本の家と大差がない。土地の造成もせずに斜面の上に家を建てるため、床の下の深さはまちまちだ。

   C公園

   雨の少ないこの町にも緑溢れる巨大な公園があった。自動化された散水栓からは豊かな水が撒かれていた。ふと見ると『悠々と』と言うよりも『動くのも面倒』と言った感じで放牧されている動物がいた!バッファローだ!フランスのアルタミラの洞窟の壁画に描かれた牛にそっくりだ。

   公園の一角には特別に設置された大きな日本庭園があった。石で出来た太鼓橋や石灯籠に朱塗りの鳥居もあった。しかし、日本庭園にある『要素部品』を収集して、全体の構想も考えずに空き地に並べただけの感じがしたのは何故だったのか?   

   Dフィッシャーマンズ・ワーフ

   東のボストンと並び称されている海産物豊かなこの町には、海鮮料理専門のレストラン街があった。ここでは普通名詞である『フィッシャーマンズ・ワーフ』が固有名詞として通用している。

   今でこそ片田舎の我が豊田市にも、ピンは高級(?)フランス料理店から、キリには『ファミリーレストラン』まで、選択に困るほど各種のレストランが溢れているが、当時の日本にはホテルと高級料亭以外にはレストランなるものは殆どなかったように思う。しかしアメリカは正しく今の日本のレベルに到達していた。

   海岸沿いの一角に『あるわあるわ』と思うほどにレストランズがあった。何処が有名かなどさっぱり判らない。しかし何処に飛び込んでも、それまでの体験から当たり外れの不安は全く感じなかった。何処のレストランでも、真っ白なテーブルクロスが広げられ、その上にはメニューと価格が印刷された使い捨ての紙が広げられていた。
                                  
   日本との違いは実物大の『サンプル』が展示されていないことにあった。サンプルで客引きをするのは私の知る限り日本だけのようだ。これぞ究極の日本人的創意工夫の象徴だ。事前勉強が不足していた私達には、メニューの解読がいつもの課題だった。                    

   チップも渡すのだからと遠慮もせずに、ウェイトレスに『どんな料理か?』と説明を求める習慣が何時の間にか付いてしまった。彼女達は言葉による説明が不十分な場合には絵を描いてくれた。今では料理その物よりも、彼女達の悪戦苦闘振りの方が思い出深い。

[6]シアトル

   アメリカでの最後の工場見学はボーイングであった。日本最北端の宗谷岬よりも北に、何故こんな大きな工場を作ったのかその意図は聞き漏らしたが、初夏のシアトルは高山植物が一斉に咲いているように美しかった。道路の両側は原野のままであった。大地は緑に覆われ、黄色い花が絨毯を敷き詰めたように一面に咲いていた。
  
   ジャンボ機の故郷ボーイングは大変に親切だった。『F−MILLの開発者は既に退職しているが、何なりと質問して下さい』と10人余りの人が勢ぞろいしていた。英語に不自由しているだろうからと、日系の通訳までが待機していた。

   『F−MILLの開発者に会いたい』と言ったのは、航空工学の一端を齧ったものとして、世界一の航空機メーカであるボーイングを訪問したいがための単なる口実に過ぎなかったので、真に受けて準備してくれていた人々には大変恐縮してしまった。

   航空機の複雑な形状をした強度部材は、数値制御工作機械を使い大きなアルミニューム合金の圧延材から、一体構造の彫刻のようにくり抜いて作っていた。工作機械のベッドは20〜30mはありそうだ。大きな物は恐竜の化石に限らず、見ているだけでだんだん興奮してくる。

   数年後ボーイングの取締役2人が、日本アイ・ビー・エムを通じて、『ソ連からの帰国途中に、私を訪ねたい』と連絡してきた。彼等はアメリカで交換した私の名刺を大切に持っていたのである!こんな人に会う用件もないがお世話になっている以上、断るわけにも行かず『飛行機の話になると今でも目の色が変わる』と言う東大航空出身の長谷川専務を担ぎ出した。

   『石油危機で原油が暴騰した結果、アラスカからアメリカ本土まで1000トンも原油を積める双胴式の超大型輸送機を開発中だ。アラスカでは冬期タンカーが使えないので飛行機で運んでもペイする。胴体の長さは100mを越える』と豪語したので『ニューヨークの真上で輸送機が墜落した時には、被害はどのくらいになるのか?』と質問したら『実はそれが問題だ』と正直に答えた。

   その後も時たまこの輸送機開発のニュースが新聞や雑誌に出ていたが、原油も程なく値下がりに転じたためか、この輸送機が完成したとの報道は未だにない。専務は大風呂敷に満足されたのか、額縁付きの『小原和紙の風景画』を夫々に御土産として渡された。私はお礼に『銀製のライター』を彼等から貰ってしまった。

   その時から10年後、別件で大阪の『新日本工機』を訪問したら『ボーイングの大型工作機械の殆どは当社が輸出したものですよ!今はもっと大きな機械を作っていますよ。何に驚いたのですか?』と事も無げに言う。 300トンもある工作機械とか、ベッドが50〜70mもある組み立て中の超大型工作機械を見せてもらって、日本の実力を再評価させられてしまった。『灯台下暗し』とはこんな事か!
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天国のようなハワイ

[1]西海岸よ、さらば
  
 シアトルからの帰国便は幸いな事にホノルル経由となった。私の出張がつつがなく終わるようにとの支援業務の特命を帯びて、日本から派遣されていた方々と別れを惜しんだ。でも、やっと自由の身になったとの開放感も同時に味わった。時々は、監視されているような気にもなっていたのだ。

   窓からは真っ直ぐに伸びた西海岸が見えた。太平洋からの荒波が打ち寄せ、白い波頭が続くのがはっきりと見えた。ほんの短い期間の間にアメリカで洗脳されてしまったような、軽い疲れも感じながら感傷的な思いにも若干だが浸れた。

[2]感動の第1歩

   @着陸

   飛行機の上から3つの小さな島が見えてきた。ハワイだ!ホノルル空港に着いたら、パック旅行の観光客が満面に笑みを湛えながら、一人ひとり『レイ』を首から掛けてもらっている。あの人達にとっても恐らく初めてのハワイ旅行に違いない。何と嬉しそうな表情である事か。日本人が本国では間違っても見せない幸せそうないい顔だ。

   早速タクシーでホテルへと向かった。やっと慣れてきた英語で話しかけたら、日本語で返事が来てしまった。日系1世の運転手だ。移民当初は日本時代より収入が増えたが、今は逆転してしまった。しかし『今更こんな年で日本に逆移民すれば、もっと生活は悪くなるから、こうして生きて行く他に選択肢はない』と諦めたそうだ。『明朝、気が向いたら電話してくれないか』と言われて名刺を受け取った。

   A散歩

   一流ホテルはプライベート・ビーチが確保出来る海岸沿いに建っている。ホテルの山側には空港から続く大通りがあり、歩道や並木も完備している。この大通りの内側にもホテルが林立しているが、ビーチを持たないハワイのホテルは哀れなものだ。

   背広にネクタイをして革靴のまま散歩に出掛けたら、 100mも歩けなかった。こんな不格好な姿で歩いている人は1人もいない。観光客はいっせいにハワイの正装に衣替えしていたのだ。急遽ホテルに舞い戻り『アロハシャツ』を買い、靴は脱ぎ捨て『裸足』で散歩をやり直した。気温は日本の真夏よりも低い感じだ。温暖な海洋性の快適な気候だ。                        

A 見せかけの海水浴
                         
   町並みの雰囲気を味わった後は直ぐにホテルに引き返し、今度は『海水パンツ』を買った。アロハシャツにも負けない派手な柄だ。部屋で着替えバスルームに駆け込み、大きな鏡に向かって記念撮影。泊まったホテルにはプライベート・ビーチがあり、海水浴に部屋からそのまま直行出来る。                     

   ホテルにはプールもあったが泳いでいる人はいなかった。本物の美しい海があるのにプールヘ行く人がいるはずもない。海水だったか淡水だったかチェックするのをうっかり忘れてしまった。カメラ持参で海岸へと走り出る。

   砂浜で遊んでいる人を見つけて『私が泳いでいるところを撮って!』とお願いした。写真を撮ったら直ぐに部屋へ舞い戻った。一刻千金に値する貴重な時間なので、のんびり泳ぐなどと言ったことは勿体なくて出来ない。ただし写真の上では『1週間のハワイパック旅行で泳ぐのにも飽きた』と言ったポーズで写った。写真には『滞留時間の証拠』は残らないのだ。

   ワイキキの浜辺の砂はアメリカ人がどこからか運んで来たものだ。関西空港を作るほどの量ではないが『自然のままこそがベスト』と言いたそうな日本人には何時まで経っても実行出来そうにない企画を、アメリカ人は思い切って実現してしまう。大したものだと思う。

…………………………………追記(平成9年5月19日)………………………………

   昨日のNHKニユースによると、和歌山県の白浜温泉では白砂青松を演出するために、オーストラリアから白砂を取り寄せたそうだ。温泉もライバルが増え、背に腹は変えられなくなってきたか?

…………………………………………………………………………………………………

   太平洋の海水は生暖かかった。気温と海水温の差が大変小さい。日本では真夏でも海水温は低く1日中泳いでいると寒くてかなわないが、ハワイはさすがに熱帯だ。海流の影響でどんどん海水は入れ替わるのか大変綺麗だ。いわんや蒲郡の海岸のような『ヘドロ』で汚れたイメージは全くない。

   1年中かつ1日中海水浴が出来るためか、海岸の人口密度は大変低い。芋の子を洗うような雰囲気は全くなく、正しく『パラダイス』だ。しかも観光客の公徳心が高いのか、海岸の砂浜が大変綺麗だ。ゴミや危険物が落ちていない。これだと海の中で『オシッコ』をするのも気が咎めるほどだ。

   Cインター・ナショナル・マーケット・プレイス

   ホテルのすぐ近くには広大なお土産物屋街があった。日本の商店街のように道路を挟んで両側に店舗が並ぶような形式ではなかった。公園のような広い敷地内には熱帯樹も茂り、思い思いのデザインとイルミネーションで人寄せを狙う無数の店舗が散在していた。車は全て進入禁止。

   買い物をしなくとも夜の散策だけでも楽しい。1時間くらいはアッと言う間に過ぎた。名残惜しかったので、早起きしてもう1回出掛けたら興ざめした。夜のとばりあっての美しさだった。

   Dディナー・ショー

   ホテルの見晴らしの良い2階のテラスはレストランになっていた。プライベート・ビーチには大きな篝火が焚かれ、舞台が組み立てられていた。バイキング・スタイルの夕食を食べながら、舞台で繰り広げられる『フラダンス』を初めとしたショーが続く。

   『ビッグ・スターズの登場』とアナウンスがあった。ふと目を走らせると、 150Kgはありそうな女性が2人腰蓑を付けて一所懸命に踊っている。本場で本物のハワイアンのメロディを耳に、生暖かい夜風を頬に受けながら旅の疲れも忘れてのんびりと過ごした。
                            
   只、残念だったのは話し相手がいなかったことだ。当時はまだ私も『うぶ』だった。今なら辺り構わず、誰にでも話しかけるところなのに!

   E素晴らしいインフラ

   巨大ホテルが林立しているのに、ハワイの水道水はどこから供給されているのか不思議だ。小さなこの島に降る雨だけで賄えるのであろうか?地下水なのだろうか?地下水には海水が混じらないのだろうか?沖縄が渇水で苦労しているのに何故ハワイには水飢饉が起きないのだろうか?
                 
   同じ事は下水処理にも当てはまる問題だ。ホテルの下水が海へ直行している様子は全くない。恐らくはワイキキからずっと離れた人目に付かない所に大型集中下水処理場があるはずだ。観光立地に生きるために資金を惜しまず投入しているとしか私には考えられなかった。

   ハワイの快適さは天賦の物ではなく、金と汗の結晶だ。日本の観光地でここまで美化に徹底して努力をしている所に出会った事がない。同じ印象を日本ではゴルフ場でも感じる。

   日本のゴルフ場はプレイ料は世界一高いにも拘らず、美しいのは人目に触れる所だけ。裏に回れば下水処理場が剥き出しになっていたり、茶店の裏では汚水が谷間に垂れ流しされていたりする所が何と多い事か。しかも意図的なのか下水垂れ流しの茶店は大抵谷の横にあり、次は谷越えのホールと言うのが定番だ。ああ!情けない。 
                                
[3]翌朝の観光タクシー

@ ダイヤモンド・ヘッド                     
 
  写真で見慣れた、筑波山のような形のダイヤモンド・ヘッドが岬に突き出ている。宝石のダイヤとどこに共通性があるのか見当も付かない。しかし観光客を呼び込むためには、覚えやすい素晴らしい名前を付けた方が勝ちだとは理解出来た。
    
   当社がかつてネーミングで大ヒットさせた『レーザー・エンジン』みたいなものだ。『位相を揃えて増幅した強力な光』と言う意味の『レーザー』とは全く違った意味が込められて作られた言葉だが、その真の意味の違いを知っているのは当事者だけで、お客さんは光のレーザーと何か関係がある、つまりは先端技術の固まりとばかり勝手に連想して誤解して満足している!

   ダイヤモンド・ヘッドの傍らには、間歇温泉のように海水が吹き出している
岩場があった。打ち寄せる海水が岩の隙間に流れ込み『ウオーター・ハンマー』の原理で高水圧が発生し、10m近い噴水が発生している。

   Aミニ・グランド・キャニオン

   ワイキキとは島の反対側に一連の山脈があった。山肌には縦に筋状の谷間が無数にある。洗濯板を斜めに立て掛けたような景色だ。その山脈の内陸側の崖の上に立ったガイドは『ここはハワイのグランドキャニオン』と言う。名前は大袈裟だが言われてみると、そんな気がしないでもない。これも『借名の威力』の類いか?

   風が年中強いそうだ。『ここの崖から投身自殺を試みても風で体が吹き上げられ、下まで落ちない』と言う。嘘もここまで徹底すると、それもガイドの腕の内かとも思えて来る。

   B先住民部落

   グランドキャニオン近くの平地に、平屋の社宅みたいな団地があった。家まで建ててやったと言う名目で、観光客の目に付かない所に、先住民を移住させて隔離していたのだ。いい場所は結局は彼等から取り上げて、先住民を保護動物のように扱っている。白人のしそうなことだ。

   C免税店の初体験

   パンアメリカの売店だからと安心して、最後の買い物をした。売り子に勧められるままに『箱入りの葉巻セット、香水セット、ブックタイプのナポレオン3本』を買った。日本価格がいくらかも知らない儘だった。日頃全く縁のない品物だ。帰国後デパートで同じナポレオンが 60000円で売られていたのを知り、免税店の安さに満足した。

   最後の最後にあり金全部をはたいて約30万円のダイヤモンドを買った。当時はアパート暮らしだったので多少の貯金があったのだ。税関で密輸と言われるのを心配し、化粧箱を飛行機のトイレに捨てて来たが勿体ないことをしたと後で後悔。妻にプレゼントしたら『小さな婚約指輪が可愛想そうだ』と一言。
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垣間見たアメリカ

   たった3週間の駆け足旅行で『アメリカとは?』との問いに、自分なりに掴んだ情報で『こうだ』と答える程の確信は持てなかったものの、一部については分かり掛けてきたと思った。初旅のアメリカは見る物・聞く物の全てが新鮮でかつ感動に襲われ、人生の密度・充実感は、現地の1日が日本の1週間もの長さに匹敵するように思えた。

[1]素晴らしいマナー

   ホテル等のエレベータに乗り込むときには必ず“Excuse me ! ”と誰もが言うのに最初は大変驚いた。この言葉からは、日本人が『ちょっと失礼』と言うときの態度より遥かに丁寧な印象を受けた。『御免なさい』と言っている感じだ。何故これ程までに言わねばならないのか?最初は疑問にすら感じたからだ。

   しかし、考えて見ると自分自身の都合だけから、移動しているエレベータを強制的に止めて乗り込むと言うことは、僅かな時間ではあっても他の乗客には迷惑を掛けている事になる。従って加害者に出来る事はお詫びをする事だけだ。

   同じ現象はエレベータを降りる時にも発生する。夜なら“Good night ! ”と表現を変える事もある。以心伝心ではなく、面倒でもちゃんと言葉で挨拶を交わす習慣が定着している。私も言い遅れてはならじと一所懸命に真似をした。

   また、飛行機の狭い通路等でチョットでも人の体に触れると、間髪を容れずに“Excuse me ! ”と言う。慣れてくるに連れて大変よい挨拶と感じるようになった。私も今では海外では無意識のうちにこの言葉が飛び出るようになった。
   
   買い物や空港&ホテルの受け付け等、日常生活では行列になるのが不可避な場合が多い。その時に割り込みをする者がいない。列を守る公徳心は全員に定着している。

   レストランなど大勢の互いに無関係なグループが集まる場所では、他のグループに迷惑を掛けないように、皆が実に小さな声で話している。ついつい大きな声になり勝ちな私には、なかなか真似が出来ない立派さだ。

   これらの素晴らしいマナーがどの様にしてここまで徹底して普及してきたのだろうか?多民族の移民国家の中で極力摩擦を避けようとして考え出した生活の知恵なのだろうか?

[2]よく働くサービス業の労働者
   
サービス産業の労働者は、チップが収入の過半数になっているためか実によく働く。チップをどの程度渡すか、凡そのガイドラインはあるものの、客には『必ず支払わねばならない』との義務はない。この関係は大変大きなプレッシャーになっているように感じた。ここではお客様は真の王様になれるのだ。

   大の大人が、子供のお客様にも大変親切にしている。最初の頃はチップを払うだけ損をしているように感じたが、決してそうではなかった。チップが払われる事を前提にして定価も安く付けてあるのだ。
                   
   日本のホテルなどはサービス料として、自動的に10%加算して請求して来るが、どのサービスと具体的に対応しているのか不明だ。更にそのお金は経営側の収入になるためか、従業員の働きと1:1に対応していない。これではまともなサービスも受けられるはずがない。

   チップの習慣に慣れて来ると、不思議な事にチップへの抵抗感がなくなって来た。価値のある気持ちのよいサービスに出会うと、自然にチップを払いたくなる、若しくは払わずにはおれなくなってくるのだ。

   日米のサービス物価の比較はチップ込みで『その質と価格』を比較してほしいと思ったものだが、いまだにそのような視点からのまともな比較論評に出会ったことがない。

[3]パックス・アメリカーナ

   エジプトを初めとして中東で花開いた巨石文化は、家畜や人間の体力のみで完成したが、それらとは対照的に機械力を駆使して短期間に巨大人工物を完成させたアメリカの実力に嫌という程驚かされた。日本もやっと、大型溶鉱炉・本四連絡橋・青函トンネル・超大型タンカーなどギネスに登録して貰えるような事例も増えては来たが、限られた分野に過ぎない。

   『日光を見ずして、結構と言うなかれ』との言い伝えがあるが、アメリカを見ずして、機械文明を語る事は出来ないとの印象は強まるばかりだ。

   各ホテルには必ず温水プールがあった。季節柄泳いでいる人を3週間もの間、1人も見ていないが、何時でも泳げるように温めてあったのに驚く。経営者のプライドだ。それに引き換え日本では『入浴時間は11時まで』とかの制限をしている温泉旅館に出会う度に、何とも情けなくなる。

[4]アメリカ人の質問

   訪問先のアメリカ人から『アメリカ(人)の印象は?』との趣旨の質問をあちこちで何度も受けた。外国人にどの様に自国や自国民が評価されているかについての関心が、日本人には特に強いとの説がとかく横行しているが、どこの国民にも程度の差はあっても本質的にはその種の関心はあるようだ。         

   どこの国民でも、密かに自分達が誇りにも思い自慢もしたい事柄について、外国人に褒められるのを待っているかのようだ。最初はその都度考えて答えていたが、何時の間にか答えが次の3点に収束してしまった。

   @アメリカ人は誠実で大変親切だ。

   あるアメリカ人に『典型的なアメリカ人の家を訪問したい』と希望を述べたら『私の家で良かったらどうぞ』と自宅に案内してくれた。バス・トイレ付きの寝室が4つもあった。夫婦の寝室まで案内してくれただけではない。作り付けの洋服箪笥(ワードロープ)まで開けて見せてくれた。中には洋服が数十着もぎっしりと詰まっていた。演技抜きで驚いている私を見て、楽しんでいるようにも思えた。

   彼の自家用車はオープンカーだった。カリフォルニアの快晴の空の下、百マイルものスピードを出してドライブを楽しませてくれた。このくらいのスピードの中で、頭をフロントガラスの上まで持ち上げると、目も開けられないほどの風圧を感じて実に爽快だった。
                          
   私はアメリカ人が“ Sincerity”と言う文字通りの対応をしてくれるのに驚いた。一所懸命に希望が叶うように努力してくれるし、お礼を言えば即座に“You are welcome(どう致しまして)”と明るく応対してくれる時の清々しさに感動を押さえる事が出来なかった。こんな人達と過ごしていると、こちらも真似をしているだけで、知らず知らずの内にマナーが良くなって行くような気がして来た。
 
   Aアメリカ人は大変よく働く。

   チップを貰う人が一所懸命に働くだけではない事にも気が付いた。民間会社には、現場でも事務所でも最小限の人しかいない。ぶらぶらしていたり、だべっているような人を見掛けない。いわゆる『お茶汲み』のような付加価値の乏しい仕事をしている人が見当たらない。天下のアイ・ビー・エムのゼネラル・マネージャーが私のために、自販機からコーヒーをポケットマネーで買って来るのをつい目撃してしまった。

   Bアメリカは美しい。

   『アメリカは自然も都市も田舎も美しい』と繰り返した。日本に行った事があると言う、あるアメリカ人は『まさにあなたのアメリカへの印象と同じ事を、私は日本で感じた』と言って喜んだ。

[5]大野耐一氏(トヨタ生産方式の確立者)のアメリカ人観

   昭和60年頃『ロイヤル・カントリー』で同氏(ロイヤル・カントリー理事長)とゴルフを一緒に楽しんだ時に受けた質問の中に『経済摩擦に関するアメリカの言い分について、どう思うか?』があった。

   『アメリカ人には、事の是非とは無関係だが客観的に明白な証拠のみを使って論点を整理し、自己主張する特徴がある。検事や弁護士の論法に似ており、大変分かりやすい。我田引水の理屈も散見されるが、私はアメリカ人の主張の方に理がある場合が多い、と思います』と答えると、同氏も即座に『わしもそう思う』と相槌を打たれた。
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おわりに

   今でこそ海外旅行は国内旅行よりも安くて手頃になったが、僅か20数年前は人生の一大事だったのだ。『井の中の蛙、大海を知らず』とか『百聞は一見にしかず』などと、海外旅行のチャンスなどあり得なかったにも拘らず、大昔の哲人はよくぞ喝破したものだ。

   昭和48年の暮れ帰省の折りに、独身時代から旅行だけが趣味だった69歳の父に、山のような資料を使って海外の魅力について語った。『人生のラストチャンスです。私は遺産は1銭も要りません。海外旅行は簡単に出来ます』

   翌年、父は母と共にハワイヘ出掛けた。1度出掛けると後は病み付きになった。最低でも年に1度は2人で出掛けるようになった。帰省の折々に父は『カナディアン・ロッキーは素晴らしかった。香港のスラムの住民は可哀そうだった』などと一頃の無口状態から一転、私にもよく喋り掛けるようになった。最後の旅行は79歳の時だった。体力と気力とは連動しているかのようだ。

   80歳代になると『海外も飽きた。国内の温泉の方が気楽でいい』と関心も変わって来た。数年前にその父も87歳で天寿を全うしたが『お金も使わずに済んだ数少ない、私の親孝行だった』と今なお確信している。


蛇足

平成14年1月23日の日経夕刊によれば、世界最初の機内食は1928年ルフトハンザがスチュワーデスとコックを乗せて、開始したとのこと。

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