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旅行記
           
ヨーロッパ
バルカン六ヶ国(平成19年6月17日脱稿)

   定年退職時(1998年)に計画した海外旅行の目標(訪問国数>年齢)を今回のバルカン6ヶ国旅行で遂に達成した。

   計画時点では75歳の頃に達成できると想定していた。しかし、4年半前(2002年12月)に胃がんと食道がんとが相次いで発見された時に最早余命幾許(いくばく)もないと覚悟し、主治医による寛解のご託宣を機に海外旅行を加速させた。爾来新規訪問国は25ヶ国を数えた。

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はじめに

   がんは寛解から更に前進し、主治医からは完治のご託宣。体重の復帰と連動したかのように体力も回復し、ゴルフの飛距離も仲間が驚くほどに復活。今回、所期の目標を達成したのを機に新たな目標を設定した。未訪問国のうちで私にとって魅力のある国は残り少なくなったので今後は数よりも質、年寿に合わせて白寿を目指すことにした。

   今までは年齢を追っかけながら海外旅行をしてきたが、今後は逆に実年齢が訪問国数を追っかけることになる。仮想の旅行年齢である喜寿(数えで77歳)傘寿(80)米寿(88)卒寿(90)白寿(99)を節目にしながら余生を楽しめれば何よりの幸せ、と思いも新たに再出発。
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トピックス

[1]事前準備

   今回も豊田市中央図書館に出かけて、バルカン諸国に関連する本を借りた。しかし、『地球の歩き方』と『クロアチア』以外の本は観光目的のガイドブックとは趣旨が異なり、バルカンの歴史・政治史・民族史・宗教史に関する著者の私見に力点が置かれ、写真やデータに乏しく斜め読みに終わった。

   68歳ともなると、人名や地名などの固有名詞の記憶力は低下し、文字ばかりの書籍は何度読んでも記憶に残らないだけではない。各著者の主張の妥当性を評価するのも難しく、全読の根気が続かないのだ。それでも多少の役には立った。

A。バルカン          1939-12-22  芦田 均(元総理)  岩波新書
B。バルカン半島と国際関係   1981- 5-20  梅津 和郎 晃洋書房
C。ユーゴ紛争         1993-10-20 千田 善  講談社
D。バルカン(ユーゴ悲劇の深層)1993-11-18        日経新聞社
E。バルカン化する世界     1994- 6- 3 ローラン  日経新聞社
F。ユーゴスラヴィア現代史   1996- 5-20  柴 宜弘  岩波新書
G。戦争と平和の問題を考える  2000- 3-15  新原昭治  新日本出版
H。バルカンを知るための65章  2005- 4-10        明石書店
I。クロアチア         2006- 6- 5 外山・中島 日経BP企画
J。終わらぬ『民族浄化』    2005- 6-22  木村元彦  集英社
K。地球の歩き方、中欧     2006- 8-11        ダイヤモンド社

[2]ユーラシア旅行社

   ユーラシア旅行社はジャスダックに2001年4月に上場した海外専門旅行社。年商87億円(2006/9月期)、連結118名。この数値から、添乗員1人当たりの売り上げは年間1億円くらいと推定。今回の18日間コースでは598,000円*15名+138,000円(1人部屋追加料金)*3名=938.4万円。概算すれば添乗員は毎月一回、今回程度の団体を引率すれば充分か。

   同社に団体旅行を初めて申し込んだのは昨年初夏の中央アジア5ヶ国巡りだった。今回で2回目になる。JTB・近畿日本ツーリスト・阪急交通社などの大手旅行社とは余り競合しない辺境の国々(私の行きたい国が何故か多い)に重点を置いているので、今後も何回か申し込むことになりそうだ。

   大手各社が最近徐々に相部屋希望者の受け入れを何故か拒み始めたが、同社は依然として相部屋OKなのも『細々と生きている年金生活者』には嬉しい営業政策だ。同社の行き届いたサービスには顧客も満足し、リピーターが主力になっているようだ。今回の仲間には20回以上ものリピーターもいた。同社の顧客には旅慣れた資産家が多く『金持ち喧嘩せず』を地で行くかのようで、添乗員も本来の業務に没頭し易いようだ。

   同社の旅費は大手旅行社と比べるとやや高いように一見感じる。しかし、ホテルは訪問地のトップクラスだし、燃油特別付加運賃(今回の場合、22,300円)も空港税(合計16,920円)も取らないし、ゆとりある旅程を組んでいるし、お土産屋に連れ込んでのリベート稼ぎ商法とは決別しているので、実質的には必ずしも割高とは言えず参加者の満足度は高いようだ。

[3]費用

成田発着旅費・・・・・598,000円
国内線・・・・・・・・ 20,000円
アルバニアのビザ・・・ 1,630円(10ユーロ)

合計・・・・・・・・・619,630円

   国内線の中部国際=成田間の運賃は国際線の運航会社との関係か、正規片道運賃の15,000円だったり、無料だったりいろいろだ。今回は1万円だった。

[4]旅程(ホームページからのコピー)

 
訪問都市
時刻
行動予定
食事
1 東京
ティラナ
午前
飛行機
深夜

□成田空港に出発の2時間前に集合。
■午前、空路、ヨーロッパ内都市乗り継ぎ、アルバニアの首都ティラナへ。

ティラナ泊
無機機
2 ティラナ滞在
(クルヤ)


■午前、ティラナ近郊のクルヤへ。15世紀にオスマントルコを撃退したアルバニアの国民的英雄スカンデルベルグゆかりの博物館があるクルヤ城を見学します。また、トルコ時代からつづく、バザールの散策もお楽しみ頂きます。

■その後ティラナに戻り、ティラナ市内観光。パステル色調の街並が印象的なスカンデルベルグ広場にて、スカンデルベルグの騎馬像や外壁の模様が美しいエザム・ベイ・モスクをご覧頂きます。また、国立歴史博物館も見学します。
★夕食は、本格的なイタリアン・レストラン”ピアッツァ”にて。

ティラナ泊
朝昼名
3 ティラナ
デュレス

09:00

バス

14:00

 

■午前、ティラナ近郊でかつての首都デュレスへ。考古学博物館や発掘途中のローマ劇場(遺跡)を訪問します。
□午後、自由時間。

デュレス泊
朝昼夕
4

デュレス
(アポロニア遺跡)
ベラット

09:00

バス


17:00

■朝食後、一路、紀元前6世紀にギリシャ人によって植民がはじまった古代都市遺跡アポロニアへ向かい、着後、神殿跡修道院を見学します。
■その後、「千の窓を持つ町」という呼び名の通り、山の斜面に家々がひしめく印象的な町ベラットへ。城塞都市の散策オヌフリ・イコン博物館をお楽しみ頂きます。

ベラット(または代替都市)泊
朝昼夕
5

ベラット

(エルバッサン)
オフリド

08:00

バス


18:00

■朝食後、かつてのビザンチン文化の中心地、マケドニアのオフリドに向かいます。

■途中、アルバニア第3の都市エルバッサンに立ち寄ります。

オフリド泊
朝昼夕
6 オフリド滞在

■午前、世界遺産として称えられるオフリドの歴史的建造物を巡ります。オフリドのパノラマを一望できるサミュエル要塞聖ソフィア教会、フレスコ画が素晴らしい聖クレメント教会(隣接のイコン博物館)、オフリド湖畔に佇む姿で有名な聖ヨハネ・カネオ教会、白壁の家々が美しい旧市街にご案内します。

★昼食は、オフリド名物のコラン(マスの一種)をお試し頂きます。
□午後、自由時間。

オフリド泊
朝名夕
7

オフリド

(ヘラクレア遺跡)

(ビトーラ)

(ストビ遺跡)

スコピエ

08:30

バス

17:00

■朝食後、マケドニアの首都スコピエへ向かいます。
■途中、かつてローマとテッサロニキを結ぶ幹線上の要であったヘラクレア遺跡ストビ遺跡を見学します。(欄外注)
■また、マケドニア第二の都市で16世紀のモスクが街の中心に聳えるビトーラも訪れます。

★夕食は民族音楽とともにお楽しみ下さい。

スコピエ泊
朝昼夕
8

(パンテレイモン修道院)

スコピエ

サラエボ

午後

飛行機

■朝食後、スコピエならびに郊外の観光にご案内します。
■町を一望する城塞や、木彫りのイコノスタシスが圧巻の聖スパス教会ダウト・パシャ浴場跡、トルコ時代の石橋、大震災時のまま止まった時計が痛々しい旧スコピエ駅、スコピエゆかりのマザーテレサ像、そしてマケドニア各地の多彩な衣装や家屋模型などが集められた民族博物館へご案内します。
■スコピエ郊外の聖パンテレイモン修道院では、ビザンティン絵画の傑作として名高いフレスコ画「ピエタ(聖母の嘆き)」をご覧頂きます。

■午後、ウィーン乗り継ぎ、 ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボへ。

サラエボ泊
朝昼弁
9

サラエボ滞在

■終日、サラエボ市内観光。サラエボ事件の発端の地ラティンスキー橋(旧プリンツィプ橋)トンネル博物館サラエヴォ冬季五輪施設と内戦の犠牲者の墓地、オスマントルコ時代の中近東の雰囲気とオーストリア帝国時代の中世ヨーロッパの街並が共存する旧市街、旧市街にある職人街バシチャルシァにご案内致します。

★昼食はボスニア料理チェバプチチをかつてのキャラバンサライ(隊商宿)を改装したレストランでお召し上がり頂きます。

サラエボ泊
朝名夕
10

サラエボ

モスタル

09:00

バス

16:00

■朝食後、ヘルツェゴビナの中心地モスタルへ。

■到着後、モスタル市内観光。2004年夏に修復されたモスタルのシンボルスタリ・モスト(石橋)、350年前のトルコ時代の家モスクを見学します。

モスタル泊

朝昼夕
11

モスタル

(ドブロブニク)

ブドバ

09:00

バス

17:00

■朝食後、アドリア海の真珠と称されるクロアチアのドブロヴニクへ。

■着後、ドブロヴニク市内観光。時計塔フラニエヴァチュキ会修道院大聖堂旧総督邸を見学します。

■その後、モンテネグロのアドリア海沿いの保養地ブドバへ向かいます。

★ご宿泊は海辺のリゾートホテルです。

ブドバ泊
朝昼夕
12

ブドバ滞在

(コトル)

午前、モンテネグロで最も美しいと言われる、中世の街並が残る港町コトルの観光。時計塔大聖堂セルビア正教会などを見学します。
■その後、コトル湾の景観を楽しむドライブの後、ブドバへ戻ります。
★昼食は、アドリア海のシーフード料理です。
■午後、ブドバ旧市街と近郊のスペティ・ステファン島を散策します。

ブドバ泊
朝名夕
13

ブドバ

ノビ・パサール

08:00

バス

19:00

■朝食後、ノビ・パサールに向かいます。

■途中、モラチャイ修道院を訪れます。

ノビ・パサール(又は代替都市)泊
朝昼夕
14

ノビ・パサール

(オプレナッツ)

ノビ・サド

午前

バス

夕刻

■朝食後、 セルビア第2の町でオーストリア・ハンガリー帝国時代の街並みを残すノビ・サドへ向かいます。

■途中、中世セルビア王国の映画を偲ばせるスタリ・ラス遺跡ソポチャニ修道院を訪れます。

■また、モザイク画が美しいセルビア王国カラジョルジェヴィチ王朝の霊廟が残るオプレナッツの聖ジョルジェ教会にご案内します。

ノビ・サド泊
朝昼夕
15

ノビ・サド

ベオグラード

午前
バス
夕刻

■朝食後、ノビ・サドの観光旧市街 、ドナウ河を見下ろすペトロバラディン要塞にご案内します。

■その後、セルビアの聖地とよばれるフルシュカゴーラへ。スレムスキ・カルロブツィにあるワインセラーと、セルビア正教修道院群の一つクルシェドル修道院へ。

★昼食は、セルビア名物羊の蒸し焼きをお召し上がり頂きます。

その後、セルビアの首都ベオグラードへ。

ベオグラード泊
朝名夕
16 ベオグラード滞在

 

■午前、ベオグラード市内観光カレメグダン公園セルビア正教大聖堂、元ユーゴスラビア大統領チトー氏の墓を訪れます。
午後、コバチッツァ村のナイーブアート美術館へ。

★その後、コバチッツァ村の画家のお宅を訪ねます。

★夕食はドナウ川に浮かぶ水上レストランで魚料理を。

ベオグラード泊
朝昼夕
17 ベオグラード

午前

飛行機

■朝、空路、ヨーロッパ内都市乗り継ぎ、帰国の途へつきます。

機中泊
無無機
18 東京 午後

■午後、成田空港到着。通関後、解散。

機無無

[5]旅程の地図(ホームページからのコピー)



   どうでも良いことだが、上の地図に記載されている移動線には一部の区間に間違いがある。

その1。

   ボスニアのモスタルからクロアチアのドブロヴニク(地図内に記載されている地名ドロヴニクは誤植)へは、ボスニア⇒クロアチア⇒ボスニア(アドリア海に突き出ているボスニアの回廊部)⇒ドブロヴニク(クロアチア本国とはボスニアの回廊により分離されている)へと、一日で3回も国境を越えた。

その2。

   マケドニアのスコピエからボスニアのサラエボには直行便はなく、ウィーン経由だった。時間の浪費が忌々しかった。

[6]話題その1。バルカンとは

@ バルカンとは

   バルカン半島とは言うものの、マレー半島やカムチャツカ半島などと比べると半島の長さと付け根の幅との比(所謂アスペクトレシオの一種)が小さすぎ、図形的には半島らしさに欠けている。そのためか、バルカン諸国の範囲には諸説があり、定説は発見できなかった。

   図形的には黒海北西部のオデッサ(ウクライナ)とアドリア海北部のトリエステ(イタリア)を結んだ線の南部には、旧ユーゴ・アルバニア・ブルガリア・ギリシアの全域及びルーマニアの大部分とハンガリーの一部とが含まれている。

   しかし、バルカン諸国とはオスマン・トルコ帝国の支配地を主に指す一方、ギリシアは南欧に含め、旧ユーゴのスロベニアはハプスブルク帝国の支配地だったとの理由から省くのが多数意見のようだ。結局、バルカン諸国にはアルバニア・ブルガリア・クロアチア・ボスニア・セルビア・マケドニア・モンテネグロ・ルーマニアが含まれることになる。

   一方、バルカン諸国とは黒海に注ぐドナウ川の南部との少数意見の場合は、上記からルーマニアが除外されることになる。

   蛇足だが、EUはハプスブルク帝国の版図に含まれていたスロベニアの加盟申請には同意(2004-5-1)したし、オスマン・トルコに支配されていたブルガリアもブルガリア正教(ギリシア正教の一派)が主であるためか2007元旦に加盟を許可した。

   しかし、オスマン・トルコの支配地だった旧ユーゴの残り5ヶ国とアルバニア(モスレムが7割)の加盟申請には未だに反対している。歴史的な怨念の解消には時間が掛かるようだ。いわんやトルコの加盟申請には瑣末時を大げさに取り上げては反対し続けている。

A 国名の付け方
 
   地中海からバルカンに掛けての国名には『***ア』が何故か多い。今回出かけた『アルバニア・クロアチア・セルビア・ボスニア・マケドニア』だけではない。スロベニア・スロバキア・ルーマニア・ブルガリア・イタリア・イスパニア・リビア・チュニジア・エチオピア・アルメニア・グルジア・・・。

   数ヶ国語をマスターしたという現地人ガイドに質問すると『古代ローマ人には国名の最後に“a”を付ける習慣があった。その名残ですよ』。真偽は不明だが、尤もらしい回答に満足。

B マケドニアの正式国名はマケドニア旧ユーゴスラビア共和国

インターネットから。

   マケドニア(ギリシア語?: Μακεδον?α / マケドニア語: Македони?а)は、東ヨーロッパのバルカン半島中央部にあたる歴史的・地理的な地域。67,000平方kmほどの広さにおよそ465万人が住み、中心的な都市は南東部のテッサロニキ(サロニカ)である。
   
   現在はギリシャ、ブルガリアのそれぞれ一部と、独立国のマケドニア共和国の3つの国の領土に分かたれており、南部を占めるギリシャがおおよそ50%、マケドニアが北西部40%、ブルガリアが北東部10%ほどを占めている。

   古代マケドニア王国の後継者を自認するギリシャは、この国をマケドニアと呼ぶことを嫌い、ヴァルダル、スコピエなどと地名を使って呼んでいる。このため、独立を達成したマケドニア共和国が国際的にマケドニアの国号を称し、古代マケドニア王国の旗である「ヴェルギナの星」を国旗とすることに強く反発した。

   このため、マケドニア共和国は国際社会から承認を受けることが遅れるが、1993年に妥協案として国際社会向けの正式国名をマケドニア旧ユーゴスラビア共和国として国際連合に加盟した。ただし、ギリシャはその後もマケドニアの国号を改めるよう要求している。
   
   マケドニアの地理的な位置はこの数千年程度では変わるはずも無いが、現在のマケドニア人の主力はギリシア人ではなく、スラブ民族だ。それだけにギリシア(ギリシア人)としては、ギリシア人として歴史に輝くアレキサンダー大王出身国であるマケドニアという国名を、勝手に異民族に利用されるのは生理的にも不愉快なのであろう。

B 天候

   バルカンは豊田市よりもやや寒く1ヶ月戻した3月の気温、雨もほどほどに降ると旅行社からの事前連絡や各種情報から覚悟していたが、むしろ2週間くらい先行して5月の連休のように暖かかった。好天が続き、傘も殆ど不要な程度の小雨に合計1,2時間遭遇しただけだった。防寒対策の衣類が全く無駄だったがやむを得ない。

C 建築物の構造

   バルカン諸国のあちこちで建築中の10階建てくらいの建物を見かけた。柱と梁は鉄筋コンクリート。壁には穴を開けた軽量レンガ(四角い蓮根を連想した)が嵌めこまれ、その上からモルタルを塗りペンキで塗装している。

   完成後の建物を見ても壁の内部の構造は分からないが、ユーゴの内戦で破壊された建物を見たら、現在建設中の建物と構造は瓜二つだった。霞ヶ関ビルの竣工以降、日本で主流となっている重量鉄骨作りの高層建築物は全く見かけなかった。

D 車の主力はベンツなどドイツ車

   バルカン諸国は低所得国なのにドイツ車が溢れ、日本車には滅多に出会えなかった。現地人ガイドに『高価なドイツ車がどうしてこんなにも多いの?』と質問。『ドイツへ出稼ぎに出かけた労働者が帰国時にドイツ車を持ち帰るだけではない。欧州の盗難車が入ってくるのですよ。その他、近隣諸国から観光に来ている人の車も多く、それらはナンバーで判ります』

E 汚いトイレ

   旧ソ連圏や社会主義国家のトイレの汚さにはいつも辟易していたが、今回のバルカン諸国も例外ではなかった。

   国内移動中にはガソリンスタンドやレストラン、世界遺産などの観光中には付属のトイレを使うが、いずれも信じがたいほど汚く、耐え難い悪臭が充満している。男子専用の小便器が設置してある場合はややましだが、大小併用便器が殆どだ。その場合の究極の悪臭には日本では出会った体験が無い。

   屋内の清掃が行き届いている教会や修道院でも、別棟のトイレには例外なく悪臭が充満。それだからこそ別棟にしているのだろうか。『頭隠して尻隠さず』の彼らの行動は何に由来するものだろうか? 『実(げ)に、習慣とは恐ろしきものよ』と只、ただ唖然!
F バルカン政治家

   日本にはバルカン諸国のイメージを取り込んだ『バルカン政治家』という言葉がある。バルカン半島には小さな国が多く、その中で国として生き抜くにはかなりな権謀術数が必要との意味だ。

   保身と勢力維持のためには何でもするとの意味からバルカン政治家と呼ばれた政治家の代表例として、三木武夫・竹村正義・加藤紘一・亀井静香氏などがインターネット上で紹介されている。
   
[7]話題その2。ホテル他

@ ホテルの無料インターネット

   私は1,2月にダイワボウ(大和紡績・コード番号3107)を累積325,000株、平均365円で信用売りしていた。出発日(4月10日)の前日にダイワボウは37円も突然暴騰し終値は348円。一気に1202.5万円も含み益が減少し、旅行中の株価推移が些か気になってはいたが、国際電話料金は高いので証券会社の担当営業マンに、電話で株価を確認する気は起きなかった。(注。信用売りの場合は株価が約定価格よりも高くなれば含み損が発生する)

   幸い、バルカン諸国でも今回利用したホテルの内、2ヵ所ではインターネットが使えるパソコンを無料で提供していた。時差が7時間あるので現地の午前8時は日本の午後3時。その日の値動きの確認には最適時刻。

   株価はヤフーで検索できた。バルカンではヤフーは英語版だったが株価は数値とグラフ表示なので何の不便も感じなかった。

   ある大型ホテルでは全客室でインターネットが使えた。客室のテレビをモニターにした専用の小型操作盤が準備されていた。しかし、契約は24時間単位で料金は11ユーロもしたので使わなかった。私は10分で充分なので高すぎると感じたのだ。

   帰国日(4月27日)のダイワボウの終値は312円。減少した含み益のうち1170万円は取り返せたので、事なきを得た。

   『細々と生きている年金生活者』としての我が海外旅行の財源とは、正直に告白すれば、公設賭博市場(東証)での知恵比べで濡れ手に粟の如く獲得した泡銭(不労所得)だったのだ。

A 浴室のタオル掛け

   2年前に出かけたバルト三国の殆どのホテルには小さな梯子のような、金属パイプ製のタオル掛が浴室の壁面に取り付けてあった。パイプは温水で温められていたので、一晩でタオルは完全に乾いた。

   今回のバルカン諸国でも殆どのホテルにはタオル掛があった。しかし、横棒がタオルの枚数よりも遙かに多かった。タオルだけではなく靴下などの洗濯物干しを兼ねていたとやっと気付いた。

   同室者はズボンすらも時々洗われていたが、翌朝には完全に乾いていた。日本各地の観光温泉ホテルもバブル崩壊後、質は一層よくなったが温水を通した物干しには出会ったことがない。超簡単な組み立て式のタオル掛が室内に置いてあるだけで、タオルは生乾きのままだ。バルカン諸国にすらあるのにどうして導入しないのだろうか?

B シャワー他

   宿泊ホテルの部屋は大抵30〜40平米前後はあり広さに不満は無かったが、ドアの蝶番(ちょうつがい)や水道の栓等水周りの機能部品の使い難さ・品質の悪さに驚いただけではない。エアコンの性能、ベッドの寝心地も悪く毛布などの備品の品質もイマイチ。

   中でもシャワーの使い難さには辟易。理想的なシャワーはどんな風に温水が飛び出せばよいのか、器具メーカは少しでも考えたのだろうかと疑問に感じたものもあった。シャワー室のカーテンの取り付け方も悪く、どんなに工夫してもお湯が外へ漏れる場合が多かった。

   あるときは、直径5cmほどのシャワーヘッドの小さな円盤に噴水穴が円形に並んでいた。円の内側には穴は一つも開けられていなかった。水圧をかけたらお湯は円盤に垂直に真っ直ぐ飛び出るだけ。進行方向に向ってラッパ状には広がらなかった。体全体にお湯を掛けるには体を前後左右に何度も移動せざるを得なかった。

   ある場合は、シャワー室の真上に直系30cmもありそうなシャワーヘッドが取り付けられていた。この場合にお湯がどのように広がるのか試したら、バケツをひっくり返したように垂直に滝のように落ちてきた。節水と言う観念は全く無かったが豪快さはあった。

   あるデラックスなホテルの浴室の構造には首を傾げた。ベッドルームと浴槽との間に一畳大の一枚ガラスが浴槽の縁から天井まで嵌めこまれていた。そのガラスを遮蔽する薄いレースのカーテンはベッドルーム側から開閉できる構造だった。入浴者はカーテンの操作が浴室内からはできず、浴室の光はベッドルームに射し込むのだ。

   善意に考えれば、万一浴室内で事故が発生してもベッドルームから同室者が気付く配慮と言うことになるが・・・。

C トイレのビデ

   洋式の一流ホテルには通常、便器のほかに便器とよく似た形のビデが設置されている。たまに宿泊した中級ホテルではバスルームの狭さ対策のためか、便器とビデの一体化が工夫されていた。便器の正面下部に長さ10cm程度の細いパイプが取り付けられ、その一端には開閉用の栓が取り付けられていた。栓を回すとパイプの先端から水が噴出する構造だった。湯水混合栓でなかったのが玉に瑕。

   あるときは、固定パイプの代わりに長いホースが用意されていた。痛風対策として私は朝風呂の後に新聞を読みながら、30分掛けて砂糖抜きの紅茶を2リットル飲む習慣が続いている。紅茶を飲み干した頃には便意を催し、やや軟化した大便を一気に排泄し残便感もなく爽快。

   旅行中は朝風呂のあと500ccのビールを飲むだけなので、水分不足のためか硬い便のままの排泄になり、残便感がある場合にはトイレットペーパでは完全には拭き取れないこともあった。その時にはお風呂に入り直したが、ホースがある場合は思い切って手動で温水洗浄機の動きを真似た。トイレの一角に用意された小さな桶の水と手で、肛門を洗浄するアジア各地のシステム(勇気がなくて未体験)よりは機能的だ。
   
D 誕生日のお祝い

   ある時、同行者二人の誕生日が重なった日に出くわした。夕食時に旅行社からもレストランからもお祝いが出され、私たちもそのお相伴に与った。旅行社は事前にパスポートを点検しているから誕生日に間違いはない。こんなことは珍しいことなのだろうか?

   ある人がある日に誕生日である確率は1/365である。今回の同行者は15人なので、ある特定の日に誕生日の人が1人いる確率は15/365になる。2人目の誕生日と重なる確率は15/365*14/365になる。今回のように18日間に二人の誕生日が重なる確率は18*15/365*14/365=0.03。15名の団体旅行33回に付き一回は発生する確率だ。

   今回の添乗員は、14年間の添乗員体験の中で二人以上の誕生日が重なった体験は10回近くあったそうだ。最大値は本人の誕生日を含めて4人だった。

   三人以上の誕生日が重なる確率は小さいので除外し、平均20人の団体旅行の添乗を年間延べ200日、14年間担当すれば、その間に二人の誕生日が重なる回数は、14*200*20*19/365/365=8となり、添乗員の体験と概ね一致する。
 
   団体旅行中に1人だけが誕生日に遭遇する確率は、過去何回か私も体験した。阪急旅行社のように30名もの団体を募った場合、12日間の標準的な日程でも、30*12/365=0.99となり、毎回誰かが誕生日と遭遇することになる。

   私はバスの中で以上の手順で確率計算を紹介したが、同行者は高校数学の初歩にも拘らず既に忘れてしまったのか、残念ながら理解できなかったようだ。
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同行者の素描

   出張を除く我が海外旅行の殆どは、錫婚旅行であれ銀婚旅行であれ旅行社が募集している団体旅行だった。個人旅行はマイレッジを使った旅行か、ケルンに駐在していた長女一家を訪問(2回だけだが)した序での近隣諸国への旅行だけだ。同じ内容ならば団体旅行は個人旅行のおおむね半額で済む。細々と生きている年金生活者には願ったり叶ったりだ。

   今回の参加者の旅行歴ほど驚いたことは嘗てなかった。私は9年前に『海外訪問国数>年齢』を海外旅行の目標に設定した。今回の旅行でやっとその計画を達成したと思っていたら、同行者は全員、我が目標を達成していたどころか、国連の全加盟国(2006年6月現在192ヶ国)の訪問の達成を直前にしている人すらも多かった。

   ある人は今回の旅行に含まれている一部の国への旅行は3年前から申し込み続けていたが、募集人員に達せずやっと今回実現したと喜んでいた。それだけにユーゴの内戦で一時はユネスコの危機遺産リストにも載せられたが、元の市街に修復・復元され1998年には危機遺産から脱し、今や『アドリア海の真珠』とまで絶賛されているモンテネグロのドブロブニクは私以外の同行者は既に訪問済みだった。

   ある人はトルコ東部の『アララット山』を見たくて3回も出かけた。トルコ側から見ようとしたら雲に隠れていた。アルメニア側から見たときも雲に隠された。やっと3回目の旅で山頂まで眺められたそうだ。昨秋(2006年)、私はたったの一回目で快晴の日にアルメニア側から、雪を頂く荘厳なアララット山を眺められたのは幸運だった。

   一人で参加されていた四人の女性は、世界一の落差(978m)を誇る滝(南米ギアナ高地のエンジェルフォール)は全員訪問済みだった。聞けば聞くほどその怪物ぶりに驚くばかりだった。単なるサラリーマンとは別世界に生きている幸運な人たちだ。土地成金か?

   出発後1週間くらい経ったある日の移動中のバス内で下記の挨拶をした。

   私は今まで何回か海外団体旅行に参加したが、揃いもそろって今回ほど海外旅行歴の豊富な同行者に囲まれたことはなかった。不遜にも感想を要約すれば『疾風に勁草を知る』に尽きます。

   中央アジアの大草原には多種多様な草が生えていますが、草をなぎ倒すような大風が発生した時、丈夫な草は倒れないため見分けがつきます。人は裸で生れ落ち、人生の荒波に揉まれながら生き延びた時、ほんの僅かな人たちが勁草のように大地に聳え立ちます。皆さんのお一人おひとりが私から見れば、仰ぎ見る人生の成功者、勁草です。

との挨拶をしたが、取って置きのせりふと思って引用した『疾風に勁草を知る』を知っている人は一人も残念ながらいなかったようだ。

前列左から、H夫人・E夫人・J夫人・C夫人・C紳士
後列左から、D紳士・I夫人・現地ガイド・G夫人・F紳士と夫人(二人とも座っている)・石松・K紳士・E紳士・B紳士(同室者)・D夫人。添乗員はこの写真を撮影中

A。 添乗員37歳

   米国で2年間仕事をしていた成果なのか、ヒアリング能力は抜群。添乗員歴14年。旅行前の現地の資料収集にも努力。氏ほどの事前準備をする添乗員は少ない。派遣社員を酷使する大手旅行社と正社員中心主義のユーラシア社との違いが極端に現れた。

   あるとき、移動中に大量の蕨(わらび)の群生地を発見。蕨が大好きな私は氏を介して『こちらの人は蕨を食べないのでしょうか?』と質問。現地人ガイドは『パン生地に入れて焼いて食べたりします』と回答。氏が蕨の英単語を知っていたと誤解した私は『凄いね』と激賞したら『手持ちの電子辞書で調べたのですよ』と回答。

   氏は18日間の間、謙虚な姿勢を貫いた。同行者の人品骨柄が暴露されてくる数日後には、横柄な態度を取り始める添乗員が多い。すると私の悪い癖が噴出し、意地悪な質問を連発したりするのだが、氏に対してはそのような心境がとうとう起きなかった。

   皇太子によく似た風貌と20代かと思いたくなるほどの若々しい綺麗な声の持ち主なのに、未だに独身とは驚いた。毎年200〜250日も添乗員として海外へ出かける結果、女性との出会いの機会が乏しいのだろうか。それとも長期間家庭を留守にせざるを得ない職業が女性に嫌われているのだろうか? それとも、最近の晩婚主義の典型例なのだろうか?

   平均的な日本人の国語力の乏しさには最早驚かなくなっている私は、添乗員の漢字の度重なる誤読はいつも聞き流していた。しかし、『鋳造』を『じゅぞう』と間違えているのに気付いたときには、遂にお節介の気持ちを抑えることが出来なかった。大抵の国には歴史博物館があり、そこには古代の鋳造コインが陳列されている例が多い。添乗員にとっては何度も使う術語だ。

   コインの説明の度に『じゅぞう』と発音するので、とうとう同行者に気付かれないように配慮しながら『ちゅうぞう』と説明した。苟(いやしく)も学士院賞(年間9件まで授賞される学者への最高の賞)を授与された『和栗明九大名誉教授』から一年間に亘って『機械工作法』(最近の言葉で言えば生産技術)を学び、トヨタ自動車では生産技術の開発に没頭していた私としては、看過できなかったのだ。

   ユーラシア社の方針として添乗員には毎晩、一日の旅行の要旨をA4一枚に纏めさせていた。そのコピーを翌朝参加者に配布した。疲れてホテルに戻ってからレポートを書くのは大変な負担だろうが、参加者には好評だった。

B紳士。同室者61歳

   氏は海外旅行の達人。百数十ヶ国は出かけたそうだ。本当に行きたい場所に出かける主義とか。南極にも140万円で出かけた。南極を題材に三畳大の絵を20畳のアトリエで描いている途中での旅行だった。今年9月に氏の所属する団体主催の展覧会に出品予定。キャンバス代・絵の具代・額縁代の合計が15万円も掛かるが氏の絵は売れるそうだ。

   氏は縁あって大金持ちのお嬢様と結婚。母堂が永眠されたのを契機に岳父(現在は超元気)の介護に何時でも対応できるようにと、中学の教職(川崎市。当初は国語、その後は美術)を53歳の時に辞し、海外旅行三昧。退職金は60歳で教職を定年退職した千葉県の友人(2,500万円)よりも多かったそうだ。地方公務員の処遇にも格差があるらしい。

   氏によれば相部屋の問題点は『いびき』にあるとか。あるとき、究極の『いびき患者』と出遭い、とうとう旅の終わりに『貴方はご自分のいびきについては分かっているはずだ。相部屋を申し込むべきではない』と怒りを込めて、苦情を言ったそうだ。

   今回の同行者の中には、件の『いびき患者』(国連加盟国全制覇を目標としている会の幹事。全部回ると1億円/人くらい掛かるらしい。同会の達成者は既に二人)を知っている人が他にも二人いたのには驚いた。三人は初対面なのに・・・。

   私は生まれてこの方、いびきについて忘年会などの相部屋で苦情を言われた経験がない。でも、些か心配になって氏に尋ねたが『お酒を飲んだ後はいびきを掻きやすいのですよ。石松さんの場合は眠り始めたときに、軽いいびきを短時間掻かれるだけなので、ご心配には及びません』との答えに一安心。

   旅慣れた人の特徴は荷物の軽さに現れる。氏は毎日のように靴下や下着の洗濯をされた。何とズボンも時には洗濯。私は今回も洗濯は全くしなかった。その代わりに2日に一回取り替えるだけの下着と靴下、ズボンや上着も2,3着用意。衣類の合計は10Kgになった。鞄が8Kgなので、手持ち以外のお土産の許容重量は残り僅か2Kg。

   氏は携帯湯沸し、インスタント味噌汁・日本茶・紅茶・コーヒーなど飲み物や摘み類をたっぷり持参されていた。私は毎朝夕、氏が準備された飲み物を頂いた。お返しになればとウィスキーや現地のスーパーで買ったビールをお勧めしたが、酒を飲むと眠くなるし、頭痛を伴うこともあるとかで、お義理で少し飲まれただけだった。

   連泊の時は枕銭(メイドによる盗難防止も兼ねている)を二人で交互に出しましょうと提案された。私はいつも飲み物を頂いていたので、途中から『枕銭は私に払わせて下さい』と申し出たが、固辞されてしまっただけではなく、ある時にはご家族にどうぞと、現地で買われた銘菓まで頂いた。

   氏の健康管理は散歩。朝・夕に時間さえあればホテル周辺の散歩に出かけられた。氏に誘われて何度か私も散歩した。バスの車窓からとは違って感じることが多く、いつの間にか写真も増えた。ホームページの旅行記一覧表にも載せた、バルカン6ヶ国を象徴すると考えて選んだボスニアの廃墟の写真は、その貴重なお誘いの成果だ。

   相部屋では私は『お風呂はお先にどうぞ』と同室者に勧める習慣だ。今回のような経済力に乏しい国の場合は特に、風呂の設備が粗悪な上に栓が無かったり、お湯が出なかったり、いろいろな苦労が伴うのでモルモットになるのが嫌なだけではない。入浴後に浴槽の掃除もしなければならないのも苦痛という、エゴイストとしての発想だ。

   今回も『お先にどうぞ』とお勧めしたが、氏は『私は洗濯もしたいので、後から入りたいのですが』と辞退された。私の入浴はいつもカラスの行水。日頃でも、石鹸を使うのは水土日のゴルフやテニス後のクラブハウスの大浴場が主。いわんや洗い場のない洋式の浴槽では足の裏などを洗うのに難渋するからだ。氏は『もう、風呂を済ませたのですか』と驚かれた。今回の旅行中に石鹸を使ったのはたったの3回だった。

   今回も氏に了解を頂いて氏が眠られている間に、朝風呂に入った。洗面所では髭剃り後に石鹸を拭き取るのが難しく、浴槽内で洗い落とすのが楽だからでもあった。電気かみそりは浴槽のないホテルの場合でのみ使った。

   氏が目覚めないようにと消灯のまま浴室へ移動し静かに給湯しても、建て付けの悪いホテルでは寝室へ音が漏れることが多かった。でも何の苦情も発せられないどころか、電気を点けられても構いませんよ、としばしば言われた氏の心遣いに感謝した。

   以下の同行者は旅行社が用意した名簿順に記載した。
   
C紳士と夫人

   石油資源開発関連の仕事をされていたとかで、スマトラ島の僻地や中国に長期間駐在されていた。日本食の食材は現地でも入手しやすく、困ることは無かったそうだ。駐在員時代に海外への関心が深まったためか、夫妻での海外訪問国数は年齢を超えたらしい。

   寡黙なご主人は一人超然とされながらも、時々ユニークな質問をされていた。世界遺産に登録されている古ぼけた教会では牧師に『教会の主業務は宗教活動ですか、それとも観光業ですか?』

   牧師が意図的にとぼけた回答をしたので、私が視点を変えて『主な収入源は何ですか?』と代理質問。『信者の寄進。教会の畑で取れた野菜・果物・ワイン・蜂蜜などの販売。絵葉書・本・お土産類の販売』。
   
   寄進用のお盆にあるのは小銭ばかり。教会の裏には大農園があった。同行者が、教会の蜂蜜はバザールよりも安いと言いながら買い求めていた。観光業のウェイトが高いのは一目瞭然。結婚を禁じられている修道士が30人もいて、自給自足の日々。
   
   序に『信仰に生きれば、若者でも禁欲が苦にならないのですか?』と質問したかったが、教会内を余りにも真面目に案内してくれたので自重した。
   
D紳士(78歳)と夫人(73歳)

   78歳にもなるご主人はビデオ魔。撮影テープは遂に累積12時間突破。旅の途中で持参のテープを使いきり現地で調達。流石は世界を席巻した日本製品。日本車は殆ど見かけなかったバルカンでも、日本製のビデオ関連製品の普及率は別格。

   氏は移動中のバスの中からでも、トイレ休憩中でも、ありとあらゆる機会を捉えては撮影。『ちょっとでも関心を惹かれたらすぐさま乱撮り。帰国後、音楽や文字、解説を入れて1時間程度に編集すると、ほどよいビデオに仕上がる』とか。セミプロ級だ。

   氏の趣味をサポートすべく、移動中のバス内でも反対側の座席の同行者が『Dさん。こっちに面白いものがありますよ』などと、気が付く度に声を掛けた、

   あるとき、小規模のギリシア式円形劇場を見学。旅の途中で私が『先月、フルハイビジョンの50インチプラズマテレビを買ったが見たい番組が少なく、1,000曲入りのカラオケマイクを買って、肺の活性化をめざし毎日1時間の練習をしている』と自己紹介したのを思い出した同行者からの注文を受けて『仰げば尊し』を朗々と歌った。

   劇場の中心にはそれと判るような石が埋め込まれていた。その場所に立って歌うと音響効果は抜群。どの座席にも響き渡った。氏は『石松さん、ビデオに撮りました。帰国後お届けします』。『それは嬉しいけど恐縮です。忘れると恐縮なのでここで宅配料を払わせて下さい』。『ちゃんと撮れているかどうか心配です。宅配料を事前に受け取ることは出来ません』と固辞された。

   戦時中は上海で優雅な暮らし。タバコもウィスキーなどの酒にも不自由はしなかったとか。しかし、引き揚げ時は1人30Kgまでの重量制限が課され、タバコを主に持ち帰った。このタバコが帰国後の物々交換経済では威力を発揮。

   旧制佐賀高校出身(戦前の九州には旧制高校は第5・第7・福岡・佐賀高校の合計4校しかなかった。日本全体の旧制高校の総定員は旧帝大の定員とほぼ同じだった。選り好みさえしなければ、どこかには入学できたそうだ)。左翼活動に没頭。奥様の話では、その活動が影響して大学卒業後に大手企業への就職も出来ず、コネを頼りに小さな会社に就職するのがやっとだったらしい。

   同夫妻は既に77ヶ国漫遊。同氏は最近のパック旅行では今回同様いつも最高齢者。今回の旅行で終わりにしたいと弱音を漏らされたが、城壁にも軽々と登られる元気さは中年並み。まだ数年間は大丈夫な筈とお見受けした。

E紳士(76歳)と夫人

   同氏は化学系の出身。大阪府立大学に勤めていたが、9,800円の月給に不満を持ち、民間の化学系プラントメーカーに転職。

   海外のプラント建設では長期出張が多く、延20年間は海外(主としてアジア各国)に出かけていたそうだ。同夫妻も海外への関心が日頃から強かったのか、既に75ヶ国漫遊。

   『ご自分が関与された海外プラントが、所期の計画通り順調に稼動・発展しているか、定年を契機にして、見届けに行かれましたか? 私はトヨタ自動車の海外工場の建設ではトルコ・パキスタン・ヴェトナムのたった3ヶ所しか関係していないものの、定年の挨拶を兼ねて出かけたら大歓迎されましたが・・・』

   蛇足。その報告は我がホームページ、旅行記のアジア編{西(トルコ)南(パキスタン)東南アジア(ベトナム)(平成10年6月22日脱稿)懐かしのあの国、この国}に載せた。

   『仕事は全部引き継いだし、先輩面して出かけると後輩が迷惑がるので、出かける気は全く起きませんね』と、若干寂しそうにポツリ。

   『日本には数え切れないほどの化学・石油化学関連会社があるのに、信越化学など特殊分野に特化した会社を除けば、米英独の大手化学会社と覇権争いが出来るほどの会社が現れない真因は何だと思われますか?』

   『特許を抑えられていることと、資本力の不足にある』と言われたが、国際間の覇権競争は産業革命以来、繊維・造船・鉄鋼・自動車・電機などあらゆる産業で起きている現状を振り返ると、敗北主義を是認しているかのような氏の原因分析には不満を感じざるを得なかった。

F紳士と夫人

   F氏は中央大学商学部卒の公認会計士。バブル崩壊後公認会計士としての契約を多くの会社から破棄されたが、景気回復と共に徐々に復活したそうだ。

   同夫妻は教育一家。大阪在住なのに長男が東海中学(愛知県一の中高一貫仏教系男子進学校)に合格するや、長男が名大理学部卒業までの10年間は名古屋市に居住。長男は現在京大大学院修士課程2年生。

   長男は万能細胞(一個の細胞からどの臓器へも成長しうる細胞。この培養に成功すれば臓器移植のための臓器が人工培養可能となり、危険な生体間移植は不要となる)の研究に没頭しているとか。この分野の研究では京大再生医科学研究所が有名。ソウル大学の黄・元教授の論文捏造事件で一躍有名になった話題のテーマだ。

   『この研究に成功すればノーベル賞がもらえますよ』というと『息子はノーベル賞を貰う時にはストックホルムの市庁舎(ノーベル賞の記念晩餐会が行われる場所)まで来てね』と答えたそうだ。

   還暦前後と推定した同氏の、奥様への愛情表現は桁外れ。旅行直前に転んで膝を強打された奥様は、靱帯を損傷し歩行に不自由されていた。エレベータもない低層博物館の階段の昇降には苦労され、時々長椅子で休憩されていたが、その都度氏は見学を中止し、奥様の傍らに座って一緒に休まれていた。

   各地の名所を歩きながら見学する時は、必ず奥様の手を握られて歩行を助けられていた。旅の後半では、自然治癒が進み奥様は元気になられたが、手を握って歩く習慣は続けられていた。夫婦で参加された同行者には全く見られなかった行動には些か驚いた。
      
   あるとき、私はバスでの移動中にカーテンを開けたまま昼寝をしていた。目が覚めたらカーテンが閉まっていた。バスの発進・停止の慣性力でカーテンが移動するとも思えないし疑問に感じたままだった。そんなことが数回あった後に氏が『石松さん、太陽光線を頭に受けて昼寝するのは危険ですよ。私が気付いた都度、カーテンを閉めていました』。氏の気配りに驚くと共に、感謝。

G夫人(H夫人と相部屋)

   G夫人は海外で何年間か仕事をされていたためか、英会話力もあり、添乗員を当てにせず、現地人ガイドに直接質問するほどの国際人。現地人ガイドの近くにいつも身を寄せ、聞いたばかりの解説を持参のノートに素早く書き留める勉強家。何にでも没頭する行動力は60歳代とは思えない若々しさ。

   最近、絵を描くことに熱中しているとかで、スケッチブックを持参し観光途中に何十枚もさらさらとスケッチ。数分で一枚書き上げる早業には些か驚いた。我が同室者が本格的な絵を描かれていることを知り、スケッチブックを見せてはアドバイスを貰っていた。

   毎日のように衣装を取り替えては気分転換。女性用の上着は薄くて軽いので10枚程度持参しても、然したる荷物にはならないようだ。

H夫人(G夫人と相部屋)

   日本人離れした165cmはありそうな長身の美人。中学時代はバレーに没頭。でもあまりにものスパルタ式訓練に音を上げてリタイヤ。新任の体育教師が己の成績を上げたいばっかりに猛訓練に走ったのだとぶつぶつ。

   あるとき、家庭菜園に没頭。手作業で耕していたらとうとう、手の甲にひびが入って整形外科へ。手のひらには大きな肉刺(マメ)が2個出来ていつまでも取れなかった。最近になって、硬い表皮がコロリと剥がれて肉刺が小さくなった。拝見したらそれでも直径10mm位の疣(いぼ)状の肉刺が健在だった。

   同夫人はキャリア・ウーマン。製造業勤務だったそうだ。銀座の事務所でお客様の苦情受付け係。感情的になって電話で怒鳴り込んでくるお客様に如何に納得してもらうかの知恵比べで鍛えられたのか、臨機応変のコミュニケーション能力は抜群。

ある日の会話。

   『私には女性が閉経期を過ぎているか否かわかりません。熟年婦人でも若く見える人は閉経前の方でしょうか?』。直接のご回答はなかったが、
   『女性は閉経期を過ぎると中性化するのですよ』と珍説をご披露された。
      『中性化すると、ヘチマのように伸びきったおっぱいも短くなるのでしょうか。私の友人が、前立腺がんの手術後には睾丸が小さくなると聞いたので、ゴルフ場などの大浴場では恥ずかしくなる、と手術前から心配していましたが・・・』
      『子宮はお産後収縮して元の大きさに戻りますが、乳房は不可逆変化のため初潮期以前の大きさには戻りませんよ!』
   
I夫人(1人部屋)

   実家は新宿の伊勢丹本店(店頭売上額日本一。三越本店の売上額には都内の幾つかの支店の売上額も加算しているので統計上は1位だが実質は2位)に歩いていける距離にある一戸建ち。でも長女一家に豪邸は譲ってご夫妻は豪華マンション暮らし。海外旅行に明け暮れていると、マンションが警備上も安心感があるとは理の当然。

   海外旅行はあと少しで国連加盟国全部を回ることになるそうだ。アフリカの沙漠ではカメラを何台も砂で壊したとか(防水カメラは実用化しているのに、防砂カメラがないのは需要不足か?)、野宿での蚊の襲来対策では困り果てたとか、まるで嘗てのアフリカ探検家リビングストンのような勇ましい体験談。
   
   長女はフェリス女学院大学(日本で最も古い私立女子高等教育機関。明治3年に設立)英文科を首席で卒業し答辞を読んだ。その後他大学の大学院を卒業後、インドの大学院を2箇所5年間で卒業後に結婚。婿は祖父・父・本人揃って慶応卒。大手建設会社勤務。婿は長女(夫人)同伴でカリフォルニア大学大学院に社費で留学。
   
   でも、『天は二物を与えず』との諺は正しいようだ。長女は米国で一回200万円もする人工授精を数回受けてやっと出産。もう1人欲しいと願って慶応大学で治療を受けているものの、未だ朗報は来ないそうだ。慶応は米国よりも治療費は安いが、成功率は低いと酷評。
   
   お母様は50歳代の若さで『脊髄小脳変性症=運動失調を主な症状とする神経疾患の総称。小脳および脳幹から脊髄にかけての神経細胞が破壊、消失していく病気』を発症。
   
   お父様(超お金持ち)は『全財産を使ってでも、完治を目指して治療をする』と宣言。努力の甲斐、若しくは資金力のおかげか、お母様は84歳まで生き延びられた。91歳のお父様は直腸がん・結腸がん・胃がん(4/5切除)の手術をして完治。15年後の今日も尚お元気とは何より。
   
   同夫人の楽しみは、週末に掛かってくる長女からの電話。一家揃っての外食相談。お金を気にせず、行きたいレストランで食べたいものを食べに行くのが何よりとか。支払いは勿論同夫人。大手建設会社勤務とは言え、不妊治療に大金を叩いているサラリーマン一家が毎週末高級レストランで豪遊ができる筈がない。
   
   同夫人の海外旅行での趣味は訪問国の砂収集。小さなガラス瓶に入れて飾るとか。アフリカの沙漠の砂の色は多種多様で美しいそうだ。砂集めの趣味人は意外に多いらしく、私はエジプトやペルー等で添乗員が砂集めの好適地を紹介したのを思い出した。
   
   蛇足。法律上は海外の土や砂を日本に持ち帰ることは植物検疫上禁止されているが、旅行鞄の中に入れて置けば、通常フリーパス。見付かれば没収されて諦め・・・。沖縄返還前に甲子園の砂を持ち帰った沖縄代表校の選手がその砂を没収されたのは記憶に新しい。
   
   同夫人からは、栓のない浴槽対策としての『ペッタンコ』の持参品を見せてもらった。今まで私は何種類かの栓を持参していたが、このペッタンコは柔軟性のある10cm角のシートだが何回も使える逸品だ。早速買い求めることにした。
   
   同夫人からは『クラビット錠』の見本を1錠頂いた。発展途上国で感染症に罹ったとき画期的に効くとかで必携薬だそうだ。今後は私も、毎月一回痛風の薬を貰っている家庭医から旅行前に調達予定。インターネットで検索すると下記の説明が現れた。

【働き】

感染症は、病原微生物が人の体に侵入し悪さをする病気です。腫れや発赤、痛みや発熱などを生じ、人に苦痛をもたらします(実は、このような症状は病原微生物と戦うための体の防衛システムでもあるのです)。

病原微生物には、細菌やウイルス、真菌(カビ)などが含まれます。このお薬が有効なのは おもに“細菌”による感染症です。グラム陽性菌や陰性菌をはじめ、クラミジアという細菌にも有効です。病原菌が死滅すれば、腫れや痛みがとれ、熱のある場合は解熱します。

尿路感染症をはじめ、呼吸器感染症、皮膚感染症、また耳鼻科領域の感染症などに広く用いられています。本来、インフルエンザを含め一般的なウイルス性の“かぜ”には無効なのですが、細菌による二次感染時やその予防のために処方されることがあります。
【薬理】
細菌の遺伝情報物質(DNA)の複製を妨げることで、殺菌的に作用します。

J夫人(1人部屋)

   長身で皮膚が若々しく、笑顔にはえくぼが無数に現れる美人。えくぼは左右対称に現れるものかと思っていたら、夫々位置も数も異なることに気付いた。

   ご主人も長身のためか子供は更に大型化したらしい。日本では高身長の男女の場合、男性と小柄な女性との結婚は意外に多いが、女性と小柄な男性との結婚には若干の壁があるようだ。小柄な男性には大柄な女性との結婚を望む人は多いが、その身長差はイチインチ以内が多い。でも、美人だから何の心配もないらしい。

   ワイナリーなどでの試飲では、いつもご自分のグラスに注がれたものを『石松さん、お飲みになりませんか』と言っては我が空のグラスに親しく注がれた。J夫人とは毎日のようにおしゃべりをしたのに、具体的なことは殆ど思い出せない。我が質問に関してもキーワードとして記憶に残るような回答は巧みに避けられていたためだろうか? 何とも不思議な美人だった。
   
K紳士(1人部屋)

   K氏の釣り歴には驚愕。小学校3年生の時に嵌まり込んで以来60年余。日本各地の渓流釣りは言わずもがな。釣りでの走行距離は数万Km突破。アマゾン川に出かけてピラニアを釣って天麩羅にして食べたそうだ。どんな病原体を持っているか判らないので生食(刺身)は危険らしい。

   渓流釣りに出かけるときは一個1,000円の疑似餌を200種類も持参。愛用の釣り道具は合計100万円。昔の釣竿は重かったので腰のベルトで支えていたが、材料が軽量化された結果、今ではベルトは不要とか。

   魚を釣ったら必ず解剖し食べていた餌を確認。同種の魚でも場所や季節によって餌が変わるので、釣り日誌に天候などの関連情報と一緒に克明に記録。食べている餌が豊富な季節に次回出かけるためだ。

   釣りを題材にしたお孫さん教育には感動。渓流で釣った魚を現地で調理。その時お孫さんに『人は誰でも生きていくためには、こうして他の命を頂かざるを得ない。食前に頂きますというのは、命を頂きますという意味だ。感謝の心を忘れてはならない』

   家庭での食前にお孫さん達は心を込めて『頂きます』と唱える習慣が定着したそうだ。文科省の学習指導要領では手の届かない、生きた『食育情操教育』の鑑に思えた。

   氏の愛用のチョッキにはチャックがついたポケットが表裏に無数。外貨の管理や旅の必需小物の整理には最適。ボタン式のポケットは安心できないそうだ。腰周りに取り付けるポシェットはそこに貴重品を入れていると、スリや強盗に教えているようなものなので却って無用心。豊田市にもある専門店『ワークマン』で売っていると聞き、私も早速買い求めることにした。

蛇足 その1。

   旅行中は積極的に多くの方々との雑談を楽しんだ。しかし、夫婦同伴の方々の奥様達との会話は、ご主人の邪魔にならないようにと心がけ必要最小限に留めた。

   単独で参加されていた夫人(G,H,I,J)達とは気楽に話題を交換していたら、予期せぬご配慮を頂いた。

   バルカン諸国のワイン作りにはエジプトやコーカサス各国と並んで、後発のフランス・ドイツなどの西欧諸国よりも遥かに長い歴史がある。それだけに各家庭にも自慢の自家製ワインがあり、あちこちにワイナリーがある。

   ワイナリーを見学すると各種ワインの試飲サービスが定番。日本のデパ地下や酒販店での試飲サービスはほんの数ccだが、こちらではワイングラスに100ccは注いでくれる。4夫人は異口同音に『私はこんなには飲めません。石松さんよろしかったらどうぞ』と言いながら、ご自分の試飲ワインを半分以上も私のグラスに注いでくれた。

   私は遠慮もせずにご好意に甘えていたら、試飲だけで酔っ払ってしまった。

蛇足 その2。

   ある日のホテルで別のグループに参加されていた方と視線が合ったので挨拶を交わした。その数日後にまたもや宿泊ホテルが偶然にも同じだった。出発前にロビーで仲間と雑談中、突然その方から声を掛けられ『私が撮影したばかりの写真です。焼き付けたばかりなのでくっつかないようにと紙を挟みました。旅の記念に良かったらどうぞ』と言われ、キャビネ版に拡大した絵葉書のような見事な写真を2枚頂いた。

   私は恐縮して『帰国後にお礼のメールを発信したいので、アドレスをお伺いできませんか』と申し出たら、『昔、コンピュータ関係の仕事をしていました。その反動で実はインターネットや電子メール嫌いになり、今やプロバイダーとの契約は解除しました』と予期せぬご返事。そこで已む無く住所をお尋ねした。

   帰国後、お礼状に自己紹介書(ホームページ⇒随想⇒同窓会⇒九大教養部クラス会)を同封してお届けしたら、下記の鄭重なるご返信に添えて、『二十世紀雑感』とタイトルされた貴重な旅の記録を頂いた。

   この旅の記録には、旅行記だけではなく二十世紀の物理学の歴史や中東欧の政治・経済・芸術・文化に関する詳細な解説とそれらの事項に関する氏の卓越した所見が書き込まれていた。私は忘れかけていた量子力学の発展史を復習しただけではなく、氏の文理両面にわたる知的造詣の深さに感嘆した。

   同行者だけではなく訪問国の人達との交流や、旅先での知人との突然の遭遇(意外と多いのが不思議だが・・・)とか、氏のような碩学と出会えるのも旅の楽しみの一つである。

   以下に、氏の手紙を書き写した。

前略。

   先日は丁重なお礼の手紙を頂き恐縮している次第です。

   あのような都市で――確かミリャッカ川の流れるSARAJEVOのホテル――石松様のような方とお話する機会に恵まれるとは……。並みの方ではないとの私の細やかな予感は見事的中して、石松様の驚くべき旅の国際派の経歴、名門の誉れを彷彿とさせる生活環境を知る事に。正しく羨望の感慨が残るばかりです。

   私ごとで恐縮ですが、今回の旅(我が方は『プロレタリア階級コース』でしたが)で二つの細やかな思い入れが有りました。川(河)です。あのプリンチプ(石松注。ボスニアのセルビア人過激派。1914年6月28日サラエボでオーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公を暗殺し(サラエボ事件)、第一次世界大戦を招いた)の血を川面に染めたミリャッカの流れは、やがてボスナを経てサヴァに注ぎます。

   そして我が旅の最終地点のベオグラードで、そのサヴァ川がドナウ河と合流する地理的背景。何故かミリャッカに取り憑かれて、ミリャッカに沿ってある種幻想を抱いての散策……フェルジナンドにも、そしてブリンチプにも哀感を感じつつ……。

   いま一つは私の悪癖、現地のワインと珍味の料理を求めての彷徨……。意外にも、調査対象外の安価な絶品マケドニアの赤ワインに出くわす幸運に恵まれる一方、ベオグラードでのRESTAURANT:IMA-DANA(あのスカンダリア通りの有名店)で、注文して果たせなかった幻のスープ(牛の背肉を煮込んで調理する高級品だとか)に後ろ髪を引かれる思い。

   ドブロブニクでも、REATAURANT:PROTOのマダムとの再会を喜んで……先ずは楽しい旅でした。

   私には石松様に誇らかに語る経歴もなければ、東欧圏を除いては全くの非国際人です。

   今より10年程前、20世紀末に生きた証しといっては大げさですが、つまらぬ拙文を記した事を思い出しました。博学多才な石松様には、せいぜい対角線の視点で眼を通される程度の拙文です。これを送らせて頂く事で細やかな返事とさせて下さい。  以上

   早速、電話でお礼を申し上げた。
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アルバニア

[1] 総括

@ 基礎データ(外務省のホームページから)

面積:28,748平方キロメートル(四国の1.5倍)
人口:310万人
首都:ティラナ(約55万人)
言語:アルバニア語
民族:アルバニア人
宗教:イスラム70%、正教20%、ローマカトリック10%
政体:共和制
GDP:約84億ドル(世銀2005年)
一人当りGDP:2,580ドル(世銀2005年)

A 歴史(ウィキペディアから)

   平均的日本人はアルバニアに関する情報に接する機会が乏しい。そこでウィキペディアから同国の歴史の項目をご参考までにコピーした。

   アルバニアは古代の名をイリュリアという。 紀元前1000年頃から、インド・ヨーロッパ語族に属する言語、イリュリア語を話すイリュリア人が住むようになった。イリュリア人は南方の古代ギリシア文化の影響を受け、またいくつかのギリシャ植民地が建設された。3世紀にはローマ帝国の属州となり、東西ローマの分裂においては東ローマ帝国に帰属した。幾つかの国に支配された後、1478年オスマン帝国の支配下に入った。

   第1次バルカン戦争ののち、1912年にオスマン帝国からの独立を宣言する。ドイツ人のヴィルヘルム・ヴィートを国王に迎えアルバニア王国となったものの、第一次世界大戦で国王が国外に逃亡したまま帰国しなかったため、無政府状態に陥った。1920年には国王不在のまま摂政を置く形で政府は再建されたがその後も政情は不安定で、1925年には共和国宣言を行いアフメド・ゾグーが大統領に就任した。その後ゾグーは1928年に王位についてゾグー1世を名乗り、再びアルバニアは王政となった。

   1939年にイタリアに併合され、1940年のイタリアによるギリシャ侵攻においてはケルチュラをはじめとする南部の各地域が激戦地となった。1944年11月29日、ソ連軍による全土解放が行われ、アルバニア共産党を中心とする社会主義臨時政府が設立された。1946年には王政廃止とアルバニア人民共和国設立を宣言、エンヴェル・ホッジャを首班とする共産主義政権が成立した。1948年、アルバニア共産党はアルバニア労働党と改名した。同年、ユーゴスラビアがコミンフォルムを脱退したことにより、ユーゴスラビアと断交する。

   1961年の中ソ対立からソビエト連邦を批判、1968年にワルシャワ条約機構を脱退すると、実質的にソ連を仮想敵国とした極端な軍事政策を取った。国民ほとんどに行き渡る量の銃器を保有する国民皆兵政策は、現在の治安状態に暗い影を落としている。また1976年からは国内全土にコンクリート製のトーチカ(石灰石は国内で自給できる数少ない鉱産資源のひとつである)を大量に建設し、国内の武装体制を強めた。

   ソ連と袂を分かつ一方で中華人民共和国に接近するものの、近隣諸国とは、ほぼ鎖国状態のままであり、経済状況は次第に悪化。また1967年に中国の文化大革命に刺激されて無神国家を宣言、一切の宗教活動を禁止した。1976年に中国で文化大革命が収束し改革開放路線に転換すると、中国を批判した。

   当時の経済状況から決して多くなかった中国の援助も無くなり、1980年代には、欧州一の最貧国とまで揶揄されるに至った。このため、ホッジャの後継指名を受けたラミズ・アリアが1990年から徐々に開放路線に転化を開始した。この間、それまで外交関係がなかった日本との国交を1981年に樹立している。

   1992年の総選挙により、戦後初の非共産政権が誕生、国際社会への復帰を加速させた。しかし、民主化後の1990年代、ネズミ講が流行し、1997年にネズミ講の破綻を契機とする暴動が発生。現在に至るまで尾を引いているといわれている。

[2]4月10日(移動日)

   今回の旅行は接続の便が良く、自宅から数Km離れたトヨタ自動車元町工場前で中部国際空港行きの高速バスに午前5:22乗車。7:50発のANA338で成田へ。集合時間の11:00には余裕充分。ANAは国内線だったが、中部国際空港からミラノ経由アルバニアの首都ティラナ国際空港まで荷物を送ることが出来た。成田では手荷物を持つだけだったので助かった。空港内の銀行でユーロに両替。約163円だった。

   バルカン諸国と日本とを結ぶ直行便がないためか、往復共にミラノ経由のアリタリア航空だった。ミラノの免税店は小さく乗り継ぎの時間つぶしにも困るほどだった。ユーロに対して円安になった影響で免税店内の物価は暴騰したのも同然。1ユーロ200円と思えるほどだった。

   頻発してきたテロへの対策のため旅行者には不便な規制が加わった。成田の免税店で購入したウィスキーは機内に持ち込めるが、ミラノの空港で乗り継いだ時に没収されるのだ。でもミラノの空港の免税店で購入したウィスキーは機内持ち込みが出来るので睡眠薬代わりに1リットル瓶を買った。ポリエチレンの袋はレジにて高周波加熱で封印された。搭乗するまでは開封禁止。

   深夜0:30、ティラナのホテルに到着。日本時間では朝7:30。夜行便では機内で無料のビールを幾ら飲んでも旅の興奮も手伝い睡眠不足。そのためか入浴後にウィスキーをがぶ飲みしたら熟睡できた。西行きの深夜便は今回に限らず時差が直ぐに取れるので楽だ。

[3]4月11日

@ スカンデルベグ広場

   宿泊した首都ティラナの高層ホテル(15階建て位)の正面には大きな広場があった。広場の周辺の道路からは無秩序に車が流れ込む。車線も引かれず信号機もない広場に車列が数列ほど自然発生する一方、歩行者が勝手気ままに横断している。交通警察官が流れをコントロールしているが危険極まりない。

   ホテルの部屋から数分間、人と車の流れをじっくりと観察したが、自然界の蟻の行列ほどの秩序も発見できない。ブラウン運動じみた混乱状況には唖然とした。

   広場の一角には石造りの台の上に、軍馬に跨ったアルバニアの英雄スカンデルベグの銅像が誇らしげに飾られていた。

A スカンデルベグ

   『一寸の虫にも五分の魂』。どんな国にも国民的な英雄がいるようだ。国難に懸命に立ち向かった若き北条時宗をふと連想させられたのが『スカンデルベグ』だった。

インターネットからの引用。

   オスマン帝国に対して反旗を翻した、アルバニアの民族的英雄。彼の父がオスマン帝国に臣従したので、イスラムに改宗させられスルタンに仕えることとなる。オスマン帝国の将軍として功績をあげ、北部アルバニアの、元々父の領土であった地方に封じられる。オスマン朝からはかなり信頼されていたようだが、その信頼は裏切られることとなる。
 
   表向きはオスマン帝国の将軍であったが、アルバニアの統治を始めてすぐの時期から周囲の豪族たちやヴェネツィア・ナポリなどに根回しを行い、蜂起の下準備を始めていた。1443年、スカンデルベグはオスマン軍を離脱、イスラムからキリスト教に再改宗し、オスマン帝国に対し独立を宣言。即座に差し向けられた三万の兵を六千で破る。
   
   その後も連年やってくるオスマン軍をスカンデルベグはゲリラ戦法で撃破し続ける。  しかしアルバニアにとって状況は好転しない。対オスマンの主力であったハンガリーが敗れ、コンスタンティノープルも落城しビザンツ帝国が滅亡する。
   
   スカンデルベグはオスマンに対し攻勢に出ようとしたが、副将や甥の寝返りにより大敗し兵は半減する。大打撃であった。しかしその後もオスマン軍を打ち破り、一時の和平を結ぶことに成功する。オスマン帝国にとっては恐るべき男であったのだ。その後、休戦が終わり幾度か侵入してきたオスマン軍をことごとく撃退するも、戦略的状況は不利になる一方であった。ほぼ孤立無援の状況である。
 
   1466年、ビザンツを滅ぼしたスルタン「征服者」メフメト二世が16万の兵を率いてアルバニアに遠征してくる。ここに至り窮したスカンデルベグは自らローマに渡って援軍を乞うが断られる。絶望したスカンデルベグは「まずローマと戦うべきであった」という言葉を残しアルバニアに戻った。援軍の可能性もなくなったアルバニア軍であったが、五倍のオスマン帝国軍に大勝利を収める。その後夏になって再びメフメト二世がやってくるがそれも凌ぎ切った。
   
   その後体制再編成の会議のためアルバニア諸侯を召集するが、会議が始まる前に病没。訃報を聞いたメフメト二世は狂喜したという。スカンデルベグの死後およそ十年でアルバニアはオスマン帝国の占領下となる。

B クルヤ城

   ティラナの郊外クルヤで、スカンデルベルグが築いた丘の上の要塞を見学。バスの終点から要塞に辿り着くまでの200mくらいの坂道の両側にはお土産物屋(バザール)が軒を連ねていた。絨毯屋では店内で女性が絨毯を織っていた。絨毯織りの道具は中東各地と共通した構造になっていた。ある店でアルバニアの国旗と国名を刺繍した赤い帽子を発見。旅の記念に買い求めた。現地産と思っていたのに、後で中国製と分かり些かがっかり。

   要塞からの眺めは絶景。民家の屋根は明るい茶色なので樹木の緑と調和し見ていて安らぎを感じる。ピクニックに来ていた小学生の一団と出会った。どこの国でも子供の表情は明るい。5月16日(水曜日)に愛知健康の森(10万坪大の大型公園)へテニスに出かけた折、遠足に来ていた小学生に出会った。引率の若い先生は注意事項を延々としゃべっていた。その時、日本の子供に無表情と暗さを感じ、胸が痛んだ。何故なのだろうか?

C クルヤの市内観光

   国立歴史博物館を見学。アルバニアの歴史の勉強にはなったが、小国の博物館が大帝国に比べ貧弱なのはやむをえない。外国人への国威紹介よりも自国民の民族意識高揚のための展示館になっていると解釈。

   アルバニアはモスレムが70%。至る所にモスクが聳えている。靴を脱いでエザム・ベイ・モスクに入る。ここのモスクのデザインはトルコ流のドーム建築。どこの国でも宗教建築はオフィスや民家と比べ格段に立派だ。

   鉄筋コンクリート製のオフィスビルや集合住宅は小さくて、デザインらしき工夫もなく眺める価値も無かったが、一箇所だけ注目に値する建物群があった。イタリアの建築家のデザインに基づく大型中層(7,8階建て)建築群だった。

   壁面に塗られた色は派手な色のパステルカラー。建物自体もデコボコと入り組んだ外形。アルバニア自慢の建物だそうだ。官庁街だそうだが、屋上にはテレビアンテナが林立していたし、私には一部はマンションのように感じられた。

[4]4月12日

@ デュレス

   アドリア海に面したデュレスは人口12万人、アルバニア第2の都市。貿易港として繁栄し紀元前でも人口は6万人。

A ローマ劇場

   2世紀に建設されたローマ劇場は収容人員2万人、バルカン半島では第2の規模。剣闘士の試合も行われていた。発掘中の当劇場で2004年にはミス・ユニバースのコンテストも行われたそうだ。

蛇足。インターネットから。

   2007年の「ミス・ユニバース」を決めるコンテストが5月28日にメキシコ市で行われ、日本代表の森理世さん(20)が優勝した。第56代のミス・ユニバースに輝いた森さんには、前年の優勝者スレイカ・リベラさんから、ダイヤモンドと真珠で飾られた25万ドル(約3,000万円)相当の王冠が贈られた。

   当劇場は4〜5世紀にベルベル人により破壊されたが、その後補修された。基礎部には当初の石積みが残っていたが補修部はレンガだった。化学的に安定しているレンガと雖も石ほどの耐久性はなく、今では廃墟同然。

B 考古学博物館

   古代人が知恵を絞って作った無数の遺品には、歴史の短い日本の博物館は勝てそうにない。日本が勝てるのは『産業博物館』だ。しかし、気の毒にもアルバニアの主力産業は今なお農業だ。
   
C 美しい海岸

   自由行動の時間に同室者と海岸の砂浜を散歩。海岸の大通りと海岸との間にはカラフルな新しいホテルやリゾートマンションが美しく並ぶ。砂浜の幅が広く確保されており、開放感があり心が癒された。さながらプライベート・ビーチだ。

[5]4月13日

@ 公立学校(小中同居)の授業見学

   4年制の小学校と5年制の中学校とが同じ場所に同居していた。児童生徒は28学級、1,000名、先生は40名。8年生の英語の授業を見学。小さな校舎に小さな校庭(日本の同人数校の数分の一)。此処で1,000人が学んでいるとは信じられない規模だった。

   廊下に時間割が貼られていた。一日に10時間くらいあったから、午前と午後に分けた二部制と推定。

   英語の教科書はドリル式。問題が沢山載っていた。生徒のノートを見たら丁寧に答が書いてあった。読解力中心の日本の英語の教科書とは異なり、会話力育成に重点を置いていた。

   『日本はどんな国ですか』
   『工業が発達し、給料も高い国です』

   大抵の生徒に日本についての知識があった。日本の中学2年生に逆の質問をしても、アルバニアについてコメントできるとは思えない。大人ですら殆どの人は何も知らないのではないか。情報とは先進国から発展途上国へと流れるものだと実感。

A アポロニアの遺跡

   デュレス近郊の古代都市アポロニアでは紀元前7世紀にはイタリア人が、紀元前6世紀にはギリシア人の植民が始まり、海運貿易の拠点として繁栄し、貨幣の鋳造もされていた。

   眺望抜群の丘の上に建設された評議会会議場・図書館・音楽堂・泉・領主の邸宅・プロムナード・港への道など、朽ち果ててはいるが石造りの遺跡を見学。遠足なのか小学生の一団とも遭遇。1924年から発掘が続いているが、未だ4%(全域がどれだけか分からないのに、どのようにして発掘率が計算できたのか、私には理解できなかった)しか終わっていないそうだ。

   麓で6世紀に建てられた修道院やその一部を改修して作られた展示館を見学。無数のギリシア彫刻が展示されていたが、どれも頭部が切り取られていた。偶像崇拝を禁止したイスラーム関係者(モスレム)の仕業だろうか?

B トーチカ

ウィキペディアからのコピー

   トーチカは一般的に円形か方形もしくは六角形で、全長が数メートルから十数メートル程度、鉄筋コンクリートの厚い壁で被われている。ただしコンクリートが得にくい場所では木材を利用したり、一般の家屋を改造してトーチカとする事もある。

   トーチカの壁には機関銃や大砲を射撃できるよう小さな銃眼を空けてあり、敵の砲火に対して耐久力を増すため、構造の大部分が地表面より下になっている。地上からの直接の出入り口がなく地下で他のトーチカや後方の基地とつながっているものもある。

    トーチカは銃眼以外にはあまり穴が開いていないため、死角が非常に多い。このため通常は複数のトーチカを並べて、相互にカバーできるよう設置される。
   
   旧ソ連との断交後、ソ連軍の侵攻に備え、アルバニア全土で1964〜1978年に大小70万基ものトーチカが建設された。



   農村地帯には無数のトーチカが放置されていた。大きなものは家畜小屋などに転用されている。どのトーチカにも上部には鉄筋の吊り輪が埋設されていた。工場で大量生産し、重機で運搬し設置したと推定。

C 城塞都市ベラットの遺跡

   古代都市ベラットの丘の上には城壁が三重になった巨大な城塞遺跡があった。城塞内には42ものキリスト教会があったことからもその大きさが類推できる。城塞内には今なお40軒もの民家があったが、自家用車も買えない人は丘への上り下りだけで健康維持に必須な運動量は十分満たされそうだ。遺跡の一つ、オスフリ・イコン博物館を見学。

   城壁からの眺望が素晴らしかった。遠くには雪を冠した山脈、眼下には旧市街(千の窓との異名を持つ家屋群)と新市街が開け、新市街を取り囲むように流れる雄大な川原も美しい。
   
D 千の窓の町マンザレム(世界遺産)

   城塞直下の狭い傾斜地とその対岸の斜面には、石積みの雛壇に焦げ茶色の屋根と白い壁を持つ民家が同じ向きに建てられていた。白い壁には畳を縦にしたような窓が等間隔に取り付けられていた。窓の総数が千との意味から『千の窓』と言われているが、実際の窓数は半分くらいだそうだ。



   夕方、同室者に誘われてホテルから千の窓の町までの大通りを散歩。観光客は少なかったが、地元民が大勢繰り出し賑わっていた。モスレムの町なのか酒屋が少ないが、やっとお目当てのビールを発見して纏め買い。ホテルのミニバーに入れては朝の楽しみに。

   アルバニアがたとい欧州の最貧国と言われようとも、大通りのオープンテラスに設置されたテーブルと椅子に腰掛けて、仲間と軽食や飲み物を摂りながら長時間歓談する習慣は西欧先進国と瓜二つ。車だけが異常に少ないだけだ。時々馬に曳かせた荷馬車が通り過ぎた。

[6]4月14日

   早朝同室者に誘われて昨日の大通りとは川を挟んで反対側にある狭い道に沿って千の窓の町まで散歩。こちらには朝市が続く。

   各種の採りたての農作物だけではなく、家庭菜園用の苗も売っていた。日本と同じようにポットに一本一本植えつけたものだけではなく、苗床から引っこ抜いた苗を束ねただけのものも多かった。

@ エルバッサン

  エルバッサンはアルバニア第3の町。イタリア人が紀元前4世紀ごろに城塞を築き、その後、ビザンチンやオスマン・トルコの支配を経て今日に至った交通の要衝。

   城壁内には目が覚めるように美しい庭園に囲まれたレストランがあった。此処でゆっくりとビールを飲みたかったが時間不足でママならず。ああ、無念。

   市街地内の路地を散策していたら、松毬(まつかさ)を素材にして組み立てられた籠を発見。籠の中に生花を盛り付けての販売。その巧まざる発想に驚きと安らぎを感じた。持ち帰れるものならば即座に買い求めたかったが、残念ながら撮影のみ。

   午後、簡単な手続きでアルバニアを出国しマケドニアに入国。
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マケドニア

[1]総括

@ 基礎データ(外務省のホームページから)

   正式国名 マケドニア旧ユーゴスラビア共和国
   面積 25,713平方Km(九州の約2/3)
      人口 202万人
   首都 スコピエ(約56万人)
   言語 マケドニア語
   宗教 キリスト教(マケドニア正教)7割、イスラム教3割
   一人当たりGDP 2,850ドル(2005年、国家統計局)

A 略史

   6,7世紀頃    スラヴ人が定住
   15世紀以降    オスマン・トルコの支配下に入る
      1918年 セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国建国
      1945年 旧ユーゴ構成共和国の一つとして発足
      1991年 旧ユーゴより独立
      1992年 国連加盟

[2]4月14日

@ オフリド湖

   面積は琵琶湖(670.3平方Km)の約半分(340平方Km)。1/3がアルバニア、2/3がマケドニアに分割されている透明度の高い素晴らしい景観に恵まれたオフリド湖を窓外に眺めながらバスで移動。沿線の何処ででも写真を撮りたくなった。



インターネットから。

   マケドニア南西部のオフリド地域にある歴史的建造物と自然は1979年に世界遺産に登録された自然遺産と文化遺産の複合遺産です(1980年に範囲拡大)。

   世界遺産の対象となっているのはオフリド湖とその周辺約350kuの地域です。このオフリド湖という湖はロシアのバイカル湖、アフリカのタンガニーカ湖とならぶ世界最古の湖といわれており、比較的環境汚染の影響が少なく、希少な先史時代の水棲動物が棲息している湖です。

   湖畔の町にはビザンチン美術によるフレスコ画が多く残る聖堂群があり、湖の景観とあいまって素晴らしい風景を形作っています。
   
   A マケドニア生まれの偉人。
  
   1979年のノーベル平和賞受賞者マザー・テレサはアルバニア系マケドニア人。トルコ人が今なお崇拝するトルコ共和国初代大統領アタチュルク(トルコの父の意。アタ=父、チュルク=トルコ)もマケドニア人だったとは、今回の旅行まで全く知らなかった。
  
インターネットから

その1。 マザー・テレサ

   マザー・テレサことアグネス・ゴンジャ・ボヤジュはオスマン帝国領のコソヴォ、ウシュクブ(現代のマケドニア共和国のスコピエ)でアルバニア人の家庭に生まれた。父は実業家で、彼女は三人の子供たちの末っ子であった。

   両親はマケドニア地方に住むアルバニア人のカトリックであったが、アルバニア人にはイスラム教徒が多く、マケドニア地方にはマケドニア正教徒が多かったことを考えると珍しい家族であった。

その2。 アタチュルク

   ムスタファ・ケマル・アタテュルク(Mustafa Kemal Atat?rk, 1881年3月12日- 1938年11月10日)は、トルコ革命の指導者、トルコ共和国の初代大統領(在任1923年10月29日 - 1938年11月10日)。

   ケマルは、1881年にオスマン帝国マケドニア州の州都テッサロニキ(現ギリシャ領)に、税関官吏を務める父アリ・ルザと母ズベイデの子として生まれた。

   親によって最初につけられたムスリム名は「ムスタファ」であるが、後に、学業が優秀であったことからつけられたあだ名に由来する「ケマル」(「完全な」を意味する)という名を加えて、ムスタファ・ケマルと呼ばれようになる(のちに彼自身によって制定された創姓法が施行されるまでトルコ人に姓はなかった)
   
B 聖ナウム修道院

   バルカン半島にスラブ語を伝えたキリルとメトディウスの弟子ナウムを記念して建てられた教会。これといった特筆すべき教会でもなかったが『聖』が冠せられている。客寄せのためか、孔雀が数羽境内で飼われていた。

   それにしても欧州人は『聖』が好きなようだ。『地球の歩き方』の中欧編の索引を見ると『聖』の字が筆頭に冠せられた大聖堂・教会・修道院だけでも37箇所もあった。セルビア正教大聖堂のように固有名詞の中に聖の字が埋め込まれているものまで数えると、欧州全体でその数は一体何箇所になるのか想像すら出来ない。

C オフリド

   夕方、同室者とオフリド湖の湖畔の町オフリドを散策。弓なりにカーブした湖畔の石畳の散歩道は眼の覚めるような美しさ。散歩道に垂直(T字路)に日曜天国のような大通りがあった。大通りにはテーブルと椅子が溢れ、軽食と飲み物を楽しむ人々でドイツの旧市街も顔負けの超満員。

   大通りの終点近くには大型のバザールがあった。生鮮三品や日用雑貨が山盛り。簡易テントだけの屋根。壁のない吹きさらしの店舗。日本では高山市等の観光地で細々と朝市が開かれているが、こちらは一日中賑わっている本格的な市場。生鮮三品の安さにはいつもの事ながら改めて驚く。

   帰途は同室者とは別行動。住宅街の一角で楽しげにビールを飲んでいる若者を発見。暫しの歓談。彼らの若さと明るさに戸惑いを感じたほどだった。



[3]4月15日

   オフリドでは連泊だった。一日中観光に使えた。オフリドは今回の旅のハイライトの一つだった。
   
@ サミュエル要塞

   旧市街の丘の上に聳えるサミュエル要塞はマケドニアでは最も保存状態が良い要塞だとか。大きすぎて全貌を把握するのに一汗掻いた。散歩が出来る城壁の上からは旧市街・オフリド湖・雪を頂く山々が望め、絶景そのもの。

A 聖ヨハネ・カネヨ教会

   オフリド湖に突き出た岬先端の断崖絶壁の上に築かれた小さな教会。一人ずつしか通れない細い坂道を辿りながら到着。異教徒の私には教会の歴史的意義よりも、そこから眺めた景観の素晴らしさに一層の価値が感じられた。

   この丘の一帯には聖ヨハネ・カネヨ教会を始め聖ソフィア大聖堂・聖パンテレイモン教会・聖ヴラチ教会・聖ディミトリヤ教会・聖クリメント教会・聖ニコラ教会等の『聖***教会』だけではなく、初期キリスト教教会まであり、撮影した写真を今幾ら眺めても、建築構造とか大きさには特別の特徴もないため、私にはどの写真がどの教会なのか識別が出来ないままだ。
   
   古代劇場とかイコン博物館も見学したものの、感動するほどの対象ではなかった。

B オフリド湖のボートツアー

   オフリド湖の湖岸を小さな船に乗って周遊。オフリド湖側から眺めると、聖ヨハネ・カネヨ教会や旧市街だけではなく背景の山々までもが絶景に感じられた。

   湖に少し突き出た半島に故チトー(ユーゴスラビア)終身大統領・現大統領・現首相の別荘が並んでいた。広大な敷地は樹木に覆われ、美観溢れる大型の建物が別荘とは! 別荘の前面は美しい砂浜。 周辺には民家もなく(建てさせなかった?)、さながら租界地。

   国民の目を欺くのはいつの世でも変わらぬ権力者の性(さが)か?

[4]4月16日

@ ヘラクレア遺跡

   紀元前4世紀、古代マケドニア王フィリポス2世により整備され最盛期には人口4万人もの大都市に成長。しかし、518年の大地震で町は崩壊し、近くのヴィトラに移転。

   ローマ式の風呂・裁判所・大小の教会・劇場等の遺跡には何れも屋根がなく、小石やレンガで作られた壁と床が主。現代建築との大きな違いは床にある。現代建築には押しなべて床に装飾を施すと言う観念がない。此処の遺跡の床のモザイク画は今なお美しいが、冬季はモザイクの保護(霜柱による破損防止)のために厚い砂で覆われるそうだ。

   見学時点では観光シーズン到来に備えてその砂の除去作業が始まっていた。モザイクの保護のために、西安の兵馬俑のように何れ屋根で覆い、一年中見学できるようにするらしいが先立つものが・・・。

A ヴィトラ市

   通商交通の要衝に位置し、マケドニア第二の人口18万人を擁する大都市とは言うものの、市街地に豪華な建物は少なく、繁華街も心なしかうら寂しい。

   トルコ風の直径26mのドームを持つイザベックモスクや16mのドームからなるイエジャミモスクが威容を誇り、傍らには29mの時計塔が聳えていた。日本には西欧と異なりヴィトラ程度の時計塔文化すら育たぬままに終わってしまったのは何故なのか不思議だ。

   建物の高さを制限する発想はあちこちの国で聞かされた。ここではバルカン第二(一位はブルガリアのアレクサンドル・ネフスキー寺院?)の大きさの聖ドミトリ教会を1830年に建設する時、イザベックモスクよりも高くは出来ず、地面を掘り下げて実質的に大きな建物にしたのだそうだ。

   日本では皇居前に耐震技術の制約で30mに揃えたスカイラインが形成され、高層ビルの建築計画に対して昭和30年代に美観論争を巻き起こしたのも今は昔となり、超高層時代を迎えた。日本人の有識者と称される人たちの未来に対する壮大な企画力不足にはいつも幻滅。

   蛇足。美観論争を補強すべく、高所から皇居を見下ろすのは不敬との意見まで出ていたが、今ではグーグル・アースを使えば誰でも人工衛星の高さから地球上を見下ろせるようになった。自動車まで視認でき、我が愛しの家庭菜園まで丸見え。

   銀座では今また高さ制限論争が展開されて松坂屋銀座店の再開発計画は潰されたが、保存に値するほどの建物も少ないのに、新しい街づくりを妨害する輩が何処からともなく湧き出てくるのが情けない。都市とは利便性を向上させつつ建築技術の進歩にも合わせて変貌せざるを得ないのに・・・。あろうことか中国に、上海に学べの時代になるとは!!

B ストビ遺跡

   ストビは紀元前3世紀から発展したが518年の大地震で崩壊。遺跡の領域は広く、大小の浴場・宮殿・教会・メインストリート・金持ちの屋敷跡など数え切れない。しかし、石やレンガ造りとは言え、火山灰で保護されていたポンペイとは異なり、屋根もなく風化が進み往年の栄華を連想するには想像力が必須。とは言え、我が日本の同時代の遺跡といえば建物の基礎の穴が主なので、残念ながら一目を置かざるを得ないが・・・。

   ここでもモザイク画の保存状態は良く、カラーストーンを小さく割って磨き、床に絵を描き上げるという労務費を考えない執念には敬服。私には庭の芝生の雑草取りすら馬鹿馬鹿しくて出来ないのに・・・。

[5]4月17日

@ 首都スコピエの散策

   スコピエは度々地震に見舞われている。直近では1963年に大地震が発生しており、中心市街地の再開発に日本の建築家『丹下建三』氏が大活躍されたとは知らなかった。

   市街を眺望できる位置に城塞があった。城塞の整備(清掃・保守)に数十人の市民が朝から作業中だった。作業着や諸道具に統一性がなかったのでボランティア活動だと推定。

   スコピエでもモスクよりも高い教会の建設は禁止されていたため、半地下様式の聖スパス教会が建てられた。この教会の鐘楼は木造の複雑な構造を採用。重量のある鐘を吊るすために巨木を動員した苦心の櫓。筋交いを入れるなど構造力学的には合理性を感じた。

   この教会の祭壇の壁面には聖書に由来する場面が数十枚、緻密な木彫で表現し嵌めこまれていた。西欧の大聖堂ではステンドグラスに同類の話題(逸話・物語・主題・事跡・テーマ・エピソード)が表現されている絵をしばしば見かけるが、木彫りは珍しい。

   巨大な民族博物館ではマケドニア各地の民族衣装(小さな国なのに地方毎に衣装が大きく異なるのが不思議)や生活用品の実物が展示されていた。産業革命以前でも人類は少しずつ生活道具(農機具とか、粉挽き道具とか・・・)を改善してきたのだと追認できた。人類の進歩は中世と雖も必ずしも停滞していたわけではなさそうだ。

   オスマン・トルコ時代の15世紀に建設されたアーチを使った石橋の重量感は圧巻だ。石文化の遺産を見るたびに、鉄筋コンクリートや鉄骨時代の諸建築の耐久性(高々200年か?)が心配になってくる。

   中心街の一角にこの町で生まれた『マザー・テレサ』の、祈りを捧げている立像がひっそりと建っていた。現在の市民には何の関心もなさそうだ。いちいち振り向く人もいない。バルカンには西欧ほど町中に彫刻を飾る習慣は乏しいようだ。偶像崇拝を拒否するイスラームやギリシア正教の影響だろうか?

   地震で破壊された旧スコピエ駅の両端の大時計は地震の発生時刻を表したまま保存されている。何かの事件を記憶するために発生時刻を凍結したままの時計を残す習慣は、人類に共通する発想に思える。トルコのドルマバフチェ宮殿内の全ての時計はアタチュルクの死亡時刻を表示し、私も参画したトヨタ自動車のトルコプロジェクトの関係者全員(約10名)がその時刻を暗記していたのには驚いた。

A 聖パンテレモン修道院

   スコピエ郊外のヴォドノ山麓に建つ1164年に創建された小さな修道院。12世紀や16世紀に描かれたフレスコ画が残っていた。

   私はあちこちでフレスコ画を見たが、画法の性格上一日で描き挙げざるを得ないためか、何処となく重厚感が不足し、今回に限らず強い感動をおぼえることは少なかった。

蛇足。インターネットから。

   フレスコ(fresco)は、西洋の壁画などに使われる絵画技法。または、その技法で描かれた壁画。語源は「新鮮な。石松注。フレッシュと同じ語源?」を意味するイタリア語である。下地に漆喰を塗り、乾く前にその上から水溶性顔料で描く。やり直しが困難なので(失敗した場合は漆喰をかき落とし、やり直すほかはない)、高度な計画と技術力を必要とする。

   古くはラスコーの壁画などもこのフレスコ画の一種である。古代ギリシア、古代ローマでもフレスコ画が描かれ、ポンペイの遺跡には当時のフレスコ画が遺されている。フレスコ画はルネサンス期にも盛んに描かれた。ラファエロの『アテナイの学堂』やミケランジェロの『最後の審判』などがよく知られている。

   漆喰が乾くと顔料の表面が炭酸カルシウムの皮膜で覆われるため、すべての層の漆喰は一日で描けるだけのものを準備し、素早く描かなければならないため相当の技術と経験が必要となる。

   炭酸カルシウムは水に溶け難いため、フレスコ画は保存性に大変優れている。

B スコピエ(マケドニア)⇒ウィーン⇒サラエボ(ボスニア)

   元を辿れば旧ユーゴ国内なのにマケドニアからボスニアへの直行便がなかった。已む無くウィーン経由で半日を失う結果となるだけではなく、旅費の総額に含まれていたとは言え、空港税をマケドニアでは2,680円。オーストリアでは7,050円も払わされて忌々しい。しかし、上空からのオーストリアの農村地帯の眺めは素晴らしかった。

   日本も戦後の膨大な農業予算で全国の圃場整備がほぼ終わったが、水田の性格上傾斜地の多い日本では大きな水田は作り難い。畑作中心のオーストリアの圃場は大型農機具が使いやすい細長い長方形(一枚10ヘクタール程度か?)に区切られていた。

   その一枚一枚の畑の農作物が異なるため緑・黄色・茶色が縞目状に美しく眼下に映える。黄色は菜の花のようだ。広大な畑作地帯には風力発電機が縦横に少し歪んだ碁盤目状に配置され、長閑(のどか)に回転しているのが21世紀の新風物詩のようだ。日本では平坦な水田地帯は山岳地帯よりも風が安定しているのに、風力発電機を何故設置しないのか不思議だ。

   ウィーンは流石に先進国。免税店の商品は折からの円安ユーロ高で高価ではあったが、本物のチョコレートをお土産用に購入。バルカン諸国のチョコレートは安かったが、余りにも安すぎたので偽物(ココアバターの代わりに植物油を使用)と断定して買う気が起きなかった。
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ボスニア

[1]総括

@ 基礎データ(外務省のホームページから)

   面積:5.1万平方Km
      人口:438万人(1991年調査。国外に多くの難民がおり、国内の人口はこれよりもかなり                        少ない)
   首都:サラエボ
   言語:ボスニア語・セルビア語・クロアチア語
   宗教:イスラム教・セルビア正教・カトリック
   GDP:70億ドル(2004年)
   一人当たりGDP:1,732ドル(2004年)

A 略史
      6世紀  スラブ人定住開始
     14世紀  ハンガリーに抵抗しつつボスニア王国を確立
          1463年  オスマン・トルコによるボスニア征服
          1878年   オーストリア・ハンガリー帝国支配下の一州となる
          1918年   セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国
          1945年   ユーゴ構成共和国の一つとして発足
          1992年3月 独立を問う住民投票の実施
          1992年4月 本格的紛争に突入
          1995年11月 デイトン和平合意成立
  
[2]4月18日

@ 冬季五輪会場(1984年2月のオリンピック)

   五輪スタジアムは内戦で破壊されたが1999年3月に復旧。今ではサッカーやコンサート会場としても使われている。収容人員5万人。緑の芝生が眩しく管理状態は予期せぬほどに良好。

   傍らの五輪博物館ではスキー板とストックの進歩を一覧できる見本も展示されていた。大昔の道具の無骨さには驚く。

   五輪スタジアムの直ぐ近くに作られていた五輪の補助グラウンドが、悲しいことに内戦の犠牲者の広大な墓地と化していた。



A トンネル博物館

   内戦時にサラエボのボスニア人の支配地はセルビア人(旧ユーゴスラヴィア連邦軍)支配地に取り囲まれて孤立していた。ボスニア人の支配地は瓢箪のように中央部が細い回廊となり、その上には空港が横断していた。

   ボスニア人は何と、空港の真下に炭鉱の坑道のような長さ700mの秘密のトンネルを掘削し、落盤防止には大量の木材を使い両支配地間の物資の輸送に使った。

   トンネルは内戦終結後に埋め戻された(滑走路の安全確保のためか?)が、25mほどが潜り抜け体験コースとして記念に残された。トンネルの入り口を隠していた建物はトンネル博物館として整備され、30分くらいの内戦記録のビデオを視聴。良くぞ、トンネルの秘密を守り通せたものよと感嘆! ベトナム戦争でホーチミン(旧サイゴン)の郊外70Kmのクチで、蟻の巣の様に張り巡らされた延長250Kmの地下トンネルを連想。同行者は暫し無言・・・。

B 旧市街

   オスマン・トルコ時代に作られた職人街バシチャルシアはさながらトルコの雰囲気。売っているお土産から食べ物屋までトルコ各地のバザールを連想させる。

   旧市街のあちこちには大型モスク・ユダヤ教の礼拝所(シナゴーグ)・正教教会やカトリックの大聖堂が点在している。大通りでは町を二分するかのような、オーストリア時代に改築された建物群と、オスマン・トルコ時代のままの建物群とが対照的に見られ、建築様式の明白な違いが期せずして理解できた。

   自由行動の時間に迷路のように入り組んだバザールをキョロキョロと散歩していたら、民族衣装で着飾った焼肉屋の客引きのハンガリー人に捕まった。聞けば、日本にもいたことがあると言う親日家。私を即座に日本人と認識したそうだ。中韓人と誤認されずに済んで良かった、よかった。

   テレビの人気番組『世界一受けたい授業』に度々出てくるハンガリー人の『ピーター・フランクル』さん(国際数学オリンピック金メダリストで、大道芸人としても人気を博す数学者。世界80ヶ国以上を訪れ、12ヶ国語を巧みに操るという驚異の語学力を持つ。「人間の財産は頭と心」という信念の下で過ごしてきた半生を振り返り、人生を楽しくするコツを知ってほしいと、日本全国を駆け回っている方)を連想させた人懐っこい顔の持ち主だった。
   
   ハンガリー人(マジャール人とも言う)は俗にアジア系といわれているが、隣のアジア人と写真で同時に見比べると同人種とは言い難いが、欧州や中東のゲルマン・スラブ・ラテン・アラブ人とは人相が明らかに異なるようには感じる。



C サラエボ事件現場

   中心街の一角には1914年6月28日にボスニアを統治していたオーストリア=ハンガリー帝国のフェルディナント皇太子夫妻が、セルビア人ブリンツィプに狙撃された場所があった。
   
   この事件が引き金となり第一次世界大戦が勃発した。現場の建物の壁面には当時の経緯が記された銘板が嵌めこまれ、今や観光資源と化していた。
      
[3]4月19日

@ サラエボ⇒モスタル(140Km)

   移動途中の渓谷沿いの景観美は抜群。写真撮影のために時々停車。渓流美・山岳美・ダム湖美・新緑美が重なり旅の疲れを吹き飛ばしてくれた。道中の店で買ったビールが一層美味しく感じられた。

   鉄道の整備が不十分なためか、貨物列車の運行速度は目測では時速たったの30Km。産業の大動脈になるのはいつの日のことやら!

A モスタル(橋の守人の意)

   モスタルの象徴はオスマン・トルコ時代の1566年にネレトヴァ川に架けられた橋脚のないアーチ構造の石橋スタリモスト(古い橋の意、橋の長さは高々20m)。川を挟んで東側にモスレムが西側にはクロアチア人が400年間住み分けながら共存していた。

   この橋は川原から見上げても美しい絵となるデザインだ。夏には勇気ある若者が橋の上から川に飛び込む(落差は15m程度?)コンテストがあり怪我人も絶えないとか。この太鼓橋は錦帯橋と同じく人道橋。車は通れない。

   橋の両端には24時間勤務の兵士や税関の建物ばかりか、兵士のためのモスクまであった。



   残念なことにこの石橋は内戦時の1993年11月9日にクロアチア人により爆破されたが、ユネスコや世銀の支援で2004年7月23日に再建完了。2005年には橋と共にモスタルの旧市街は世界遺産に登録された。

   世界遺産とは古い状態が維持されているものだけではなく、不幸にして戦争等で破壊されたものでも昔の通りに復元されたものは、その熱意も買っているのかモスタルに限らず欧州各国に五万とある。

   アフガニスタンのバーミャンの巨大な仏像はタリバンによって主に顔面が爆破されたが、後日復元されれば世界遺産に登録されるのだろうか? 私は海外旅行では今回の同行者達にほんの僅か出遅れたばっかりに、この仏像の拝顔も叶わず誠に残念・無念。

   モスタルは狭い地域だったが、石橋を中心に押し合いへし合いするほど訪れる観光客相手のお土産物屋・レストランが賑わっていた。一角にはオスマン・トルコ時代の豪邸が温存され公開されていた。電気製品や車はなくとも広々とした屋敷に無数の大きな部屋があって初めて豪邸と呼ばれる資格があるようだ。

B 悲惨なモスタル中心部

   美しく復興したモスタルの世界遺産とは対照的に、モスタルの中心部には内戦で破壊されたままの建物が数え切れないほど残っていた。

   建物には窓はなく、外壁には蜂の巣のような銃弾痕があり、2000年前のローマ帝国の朽ち果てたレンガ造りの遺跡(大浴場等)よりもその破損度は酷い。修復不可能なほど破壊された建物を撤去する費用すらもないのか放置されたままだ。

   原爆ドーム(チェコの建築家ヤン・レツルが設計した旧広島県産業奨励館)よりも大破しており、室内には雑木が生い茂るに任せたままの建物も多かった。

   大通りの両側に聳え立つ廃墟と化した建物群の傍らに、新築の建物が忽然と現れると一層心が痛む。私は第二次世界大戦で破壊された大都市の建物は写真や記録映画では見たが、目撃したのは原爆ドームと戦災の象徴として残されていたベルリンのカイザーウィルヘルム教会だけだ。モスタルで視野全体に広がった廃墟を眺めると、戦死者の墓地と共に戦争(内戦)の愚かしさに、改めて心が痛む。合掌・・・。



[4] 4月20日

@ ボスニア⇒クロアチア⇒ボスニア⇒クロアチア(モンテネグロ)まで250Km

   陸路で3回も国境を越えたが、我が団体は日本人で且つ観光客であるためからか、形式的な手続きだけで難なく通過。途中クロアチアに挟まれたボスニアで唯一の海岸線22Kmには人工的な護岸も見かけず、モスタルの悲劇は一晩で忘れ果てて山陰の海岸を連想させた素晴らしい景色を満喫。
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クロアチア

[1]総括

@ 基礎データ(外務省のホームページから)

   面積:56,542平方Km(九州の約1.5倍)
   人口:444万人(2001年国勢調査)
   首都:ザグレブ(人口78万人、2001年国勢調査)
   言語:公用語はクロアチア語
   宗教:カトリック、セルビア正教等
   民族:クロアチア人(89.6%)、セルビア人(4.5%)等
   国際日(建国記念日):6月25日
   GDP:385億ドル(2005年)
   一人当たりGDP 8,671ドル(2005年)

A 略史
   7世紀頃  スラブ人が定住
   10世紀前半 トミスラブ公がクロアチア王国建国
      1527年 ハプスブルク家の支配下に入る
      1918年 セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後、ユーゴスラビア王国 と改称)                建国に参加
      1941年 第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの傀儡国{クロアチア独立国}樹立宣言
      1945年 社会主義ユーゴスラビア連邦の構成共和国の一つとして発足
      1991年 ユーゴスラビアより独立宣言
      1992年 国連加盟

[2]4月20日

@ ドブロヴニク

   海運に恵まれたドブロヴニクは中世までは通商で都市国家として栄えた。今や『アドリア海の真珠』との異名を与えられた観光クロアチアの象徴。そのためか私以外の同行者は全員、過去に訪問済みだったのにも驚く。

   ドブロヴニクは周囲1,940mの城壁で完全に取り囲まれた要塞都市。城壁内部は立錐の余地もないほどに大聖堂・宮殿・修道院・教会・集合住宅・店舗が立ち並び観光客が溢れていた。

   独・仏等の内陸部にもドブロヴニクと同じように周囲を城壁で完全に囲まれた都市があり、城壁の外に田園美が展開しているがこちらでは広大な海が広がり、景観美の性格は全くの異質である。

   ドブロヴニクの城壁は単調な形の『万里の長城』とは異なり、高さも幅もまちまち。半島の海岸線に沿って建設されているため、輪郭も直線や大小の曲率のカーブからなり凸凹している。

   要塞内の大通りを仲間と一緒に観光しながら縦断した後の自由時間の45分間は、周長を未確認のまま城壁の上を歩いて一周することにした。30分程度で回れると安易に予想したのだ。城壁の上から眺めた入り組んだ海や城壁内部の建物の屋根も美しく、写真を撮りながら歩いている内に時間が足りないことにふと気付いた。

   城壁の高さはまちまちなので、その都度階段を登ったり降りたり、最高地点の海抜25mまで登ると汗が吹き出てきた。途中から走り出したが、結局集合場所には10分遅れ。城壁には昇降口が3箇所あり、1/3を回った仲間はC氏たった一人。他の仲間は既に城壁巡りは体験済みだったので、私が遅刻することは予想済みだったようだ。遅刻を非難する方も現れず、ほっとした。

   城壁歩きの入場料金7ユーロに最初は高いと思ったが、結果的には充分満足した。ドブロヴニクのハイライトだったのだ。



A クロアチア⇒モンテネグロ  

   トラブルもなく難なく国境を通過した。移動してきた道路とホテルとの間には細長い入り江(フィヨルド)があり、迂回せずにカーフェリーに乗船し10分で到着。フェリーの時刻表は有って無きが如し。満船にならないと出航しないらしく、仲間と共にぶつぶつ・・・。

   ブドバでは海に面した素晴らしい大型のリゾートホテルに宿泊。但し建設中だった。完成した一部の部屋から営業開始。海に面した大きな庭にはナツメヤシの巨木が移植され、大型のプールも建設中。亜熱帯の雰囲気だ。
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モンテネグロ

[1] 総括

@ 基礎データ(外務省のホームページから)

   面積:13,812平方Km(福島県とほぼ同じ)
   人口:62万人(2003年調査)
   首都:ポドゴリツァ(人口15万人)(旧名:チトーグラード)
   民族:モンテネグロ人(40%)、セルビア人(30%)、ボスニア系イスラム教徒(9%)、アルバニ       ア人(7%)等(2003年調査)
      言語:セルビア語(モンテネグロ語とも称される)
   宗教:キリスト教(正教)、イスラム教等
   国際日(建国記念日):7月13日(1878年にモンテネグロの独立が国際的に承認された日)
   GDP:16億ユーロ(2005年)
   一人当たりGDP 2,638ユーロ(2005年)

A 略史
   6〜7世紀 モンテネグロ人等スラブ系民族がバルカン半島に定住
   11世紀  セルビア王国の一部となる
      1389年    コソボの戦いでオスマン・トルコに敗退後、モンテネグロ地域の住民は実質的                    に独立状態を維持
      1878年 ベルリン条約によりモンテネグロ公国の独立承認
      1910年 公国から王国となる(1916年に王政廃止)
      1918年 第一次世界大戦後、セルビアに編入され、ユーゴスラビア王国の一部となる。     1941年 第二次世界大戦中、イタリアに占領される
      1944年  チトーを首班とする社会主義ユーゴスラビア連邦共和国(6共和国で構成)の                    1共和国となる
      1992年  民族紛争とユーゴ解体の中で、セルビア共和国とともにユーゴスラビア連邦共                   和国を樹立
      2003年 セルビア・モンテネグロに国名変更
      2006年 5月21日の住民投票を経て、6月3日独立を宣言

[2]4月21日

@ コトル

   ホテルからアドリア海に垂直に食い込んだフィヨルド沿いに、その奥地にあるコトルへと向う道中も別荘村のような美しさが続き、度々の写真ストップ。

   コトルはモンテネグロを代表する観光都市。背後に山を控え海に突き出た扇状地のような半島。三角形の二辺に城塞(他の一辺は山なので城塞は不要)を築いて繁栄した港湾都市。

   城塞内はドブロヴニクと同様に立錐の余地もないほど建物が込み合っているが、欧州各地の都市同様に狭いながらも広場が確保されていたのが何だか微笑ましかった。日本の小さな建売住宅でさえ床の間を確保しているのと、合い通じるものを感じたからだ。

   正門から入るとお決まりの大聖堂・正教会・時計塔などがひしめき合い、通路が入り組んでいた。形だけ残ったような古びた建物の内部を見学しても、どこかで見たような気がするだけで感動は得られなかった。

   自由時間になり、見通しが悪い上に狭い路地を一人でふらふらとさ迷っているうちに、たちまち迷子になってしまった。集合場所の時計塔が建物に隠れて分からなくなり、地元民に道を何度も聞きながらやっとのことで脱出。
   
   城塞内の一般の建物の一階はお土産物屋かレストランが主。売っているものも何処にでもありそうなものばかりで買う意欲は起きず、早々と海岸へ脱出し海辺のレストランでビールを購入して一服。
   
   世界遺産とは言え、建物は何処となく黒ずんで陰気臭く、閉塞感を感じるだけでがっかり。嘗ての港湾都市としての繁栄は夢と去り、観光客相手に細々と生き延びている観光都市に将来性があるのだろうか?
   
A コトル湾のボートツアー

   風光明媚なコトル湾内の小さな人工島に上陸し、小さな教会と博物館を見学。往復での船から見た景色を眺めていると心が癒された。この人工島の直ぐ近くに天然の島があり、船との相対的な位置関係が変わるたびに島の景観が変わるのも楽しんだ。

B ブドバ旧市街

   此処にも城壁に囲まれた(閉ざされたような)旧市街があり、お決まりの広場・教会・お土産物屋などが密集していたが、今回の旅も終わりに近づき、疲れもたまり行動力はがた落ち。こんなものを見せられても詰まらないとの思いが強まるだけだった。

   ディズニーランドのようにとまでは求めないが、観光都市を自認し観光で生きると覚悟しているのならば、古さだけを前面に押し出すのではなく、古くても新しいと感じさせるように、窓枠・外壁・屋根だけではなく入り口の扉等も常に美しく維持する努力が求められる。独仏の観光都市の努力度と比較すれば、何もしていないのも同然と思えてならない。
   
C ステファン島

   ブドバ近くの海岸から200mの位置に直径200mくらいのステファン島(岩山)があった。ステファン島へ渡るための道は完備。道の南側は海水浴場にも使える砂浜。

   ステファン島はさながら要塞島。島の外周の建物の海側の壁は城壁を兼ねた構造になっているため、住民の島への出入り口は陸と繋がった道路だけ。この島全体をリゾート開発会社が買い取り、建物の外観を変えないとの条件下で目下ホテルへ改造中だった。島内の見学ができるかも知れないと予想し、入り口まで出かけたが頑丈な門扉は施錠されていた。

   門前には水が出放しになっている水道の蛇口があった。この小さな島には家が建て込み、水源があるとは思えず、一方陸からも水道用の配管が敷設してあるようにも感じられず。山からの伏流水が海底を伝わり、天然のサイフォンのようになって島内での湧き水になっていたのだろうか?



   この辺りは余程暖かい気候なのか、人数は少なかったが既に海水浴客が泳いでいた。島に至る道路わきの砂浜に体重150Kgは優に超えそうなお婆さんが、俯(うつむ)きになって水着姿で寝そべっていた。

   日頃そんな巨体の裸の女性を目にしたことのない我が仲間のバス内の会話は『トドの様だった』に始まる脅威の巨体目撃談義。男には太りすぎた女性には本能的なほど幻滅する傾向があるのだと確信した。お尻が大きいほどもてるといわれるホッテントットの女性だったとしても『過ぎたるは尚及ばざるが如し』とばかりに、男性から敬遠されるのではないかと思えてならなかった。

[3]4月22日

@ モンテネグロの縦断

   コトルからモンテネグロを縦断して目的地セルビアのノビ・パサール(バザールの誤植ではなくパサール。都市名)へと向う。バルカンは大局的には石灰岩の山。石灰岩が侵食されて出来た深い谷の青く透き通った渓流が美しい。何処に分水嶺があったのか気付かないうちに、道路に沿った流れの方向が逆転していた。

   流れが逆転する現象は長野県にもある。国道19号線で木曽川に沿って木曽福島から松本へ向うと、いつの間にか木曽川から信濃川の支流である犀川に変わってしまう。ここには分水嶺らしき鳥居峠があるが、最初の頃はそれとは気付かなかった。

   山の中腹で小さなモラチャイ修道院を見学。世俗を離れた僻地で20〜30名の修道士が自給自足をしながら信仰の世界に生きているのだそうだ。日本の仏教界では本心から信仰に帰依している宗教関係者はほぼ絶滅し、如何にして葬儀等で収益を上げるかに智恵を絞り、戒名代まで遺族から取り立てる輩ばかりと確信している私には、彼我の格差に愕然。

A モンテネグロ⇒セルビア

   モンテネグロがセルビアから独立した結果、国境が出来た。不便さこの上ないが、国境の通過はこれまで同様、形式的な手続きだけ
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セルビア

[1] 総括

@ 基礎データ(外務省のホームページから)

   面積:88,361平方Km(北海道とほぼ同じ)
   人口:750万人(2002年調査、コソボを除く)
   首都:ベオグラード(人口160万人)
   民族:セルビア人(83%)、ハンガリー人(4%)等(2002年調査)
   言語:セルビア語(公用語)、ハンガリー語等
   宗教:セルビア正教(セルビア人)、カトリック(ハンガリー人)等
   国際日(建国記念日):2月15日
   GDP:262億ドル(2005年、世銀統計)
   一人当たりGDP 3,493ドル(2005年、推定値)

A 略史
   
   6〜7世紀  セルビア人等スラブ系民族がバルカン半島に定住
   11世紀   セルビア王国建国、14世紀のドゥシャン王の時代に大いに栄える
   1389 年   コソボの戦いでオスマン・トルコに敗退し、以後約500年間トルコの支配下
   1878年   ベルリン条約によりセルビア王国の独立承認
      1914年  オーストリア皇太子暗殺事件をきっかけにオーストリアがセルビアに
            宣戦布告し、第一次世界大戦勃発
      1918年 オーストリアが瓦解し、セルビアが中心となって{セルビア人・クロアチ
ア人・ス ロベニア人王国}(後、ユーゴスラビア王国)建国
      1941年 第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによる侵略
      1944年 チトーを首班とする社会主義ユーゴスラビア連邦共和国(6共和国で構成)の1共和国となる
      1992年 民族紛争とユーゴ解体の中で、モンテネグロ共和国とともにユーゴスラビア連邦共和国を樹立
   1999年 コソボ紛争でNATO軍による空爆を受ける。コソボが国連統治下になる
      2003年 セルビア・モンテネグロに国名変更
      2006年 モンテネグロの独立により、セルビアがセルビア・モンテネグロの継承国となる

蛇足。

   セルビアの紙幣には誇らしげにセルビア人ニコラ・テスラの定理が方程式のまま印刷されていた。嘗てエジソンは直流発電機を発明し電気文明の先頭を切っていたが、テスラが交流発電機を発明し、変圧も容易な交流発電機が一気に主役の場に躍り出た。

   ニコラ・テスラは学生時代の実験で直流発電機のブラシと整流子から強烈なアークが出ているのを目撃した。これがブラシや整流子のない発電機を開発したいと思うきっかけとなった。悲願であったブラシや整流子の無い機器の開発には多相発電機が必要だったが、当時は直流電力が主流でありエジソンも交流には関心を示さなかった。エジソンがその生涯で犯した最大の判断ミスだった。

[2] 4月23日

@ スタリ・ラス遺跡とソポチャニ修道院(世界遺産)

   スタリ・ラスは12世紀にセルビアが統一された後、セルビア王国の首都となったが今は完全なる廃墟と化していた。単に小石を低い塀のように並べて境界とした住居跡を眺めながら、数千年前の遺跡ならばいさ知らず、たった1000年前のこんな廃墟が近くのちっぽけなソポチャニ修道院と一緒に何故世界遺産に登録されたのか、不思議でならなかった。

   世界遺産はたとい登録後であろうとも妥当性がないと判断される場合には、第三者により登録の取り消し請求が出来る制度が必須だ、と思わずにはおれなかった。

   一方、島根県の『石見の銀山』の世界遺産への登録が今年は見送られたが、東アジアでの国際通貨への地金を供給したこの銀山が嘗て果たした役割は画期的だったのに、関係者の提案書作りの拙劣さか、捕鯨禁止やイスラエルの支援にも結束する欧米諸国の傲慢さの表れか、不愉快極まる一例だ。

A 聖ジョルジェ教会

   1910年に丘の上に建てられた中規模のロシア正教風の教会。新しいためか、内部のモザイクの宗教画は色鮮やか。トイレは教会本体から100mも離れた場所の掘っ立て小屋にあったが、相も変らぬ汚さに辟易。

   またしても『聖』の字入りの教会かと、いささかうんざり。『聖』の字を名前に冠せられる条件とは何か、分かりやすく公開しろと注文を付けたくなった。少なくとも来訪者用のトイレが清潔であることは必須条件にして欲しい。お賽銭を上げる気もしなくなるのだ。

   蛇足。『聖』の字入りの教会名には聖人に列せられた人の名前が多いが、地名を使ったケルンの大聖堂等例外も多い。

B セルビアの縦断

   首都ベオグラードを通り抜けてノビ・サドへと向う。バルカンでは珍しい立派な高速道路があり久しぶりに快適なバスの旅となった。ベオグラードは痩せても枯れても流石は旧ユーゴの首都。都市の格式は準西欧クラス。換言すれば旧ユーゴ連邦内の地域格差が如何に大きかったか、一目瞭然。内乱の一因になったのではないかとの邪推を抑えることは出来なかった。

   満々と水を湛え、滔滔(とうとう)と流れるドナウ河が美しいだけではない。石灰岩の痩せ地の山肌に潅木が僅かに茂るバルカン半島でありながら、ドナウ川の周辺は鬱蒼とした森が続く美しい大平原だった。その延長にある田園もバルカンの穀倉地帯の名に恥じない美しさも兼ね備えた豊穣の地だった。

[3] 4月24日

@ ノビ・サド

   ノビ・サドは人口30万人、セルビア第二の都市。国立劇場・カトリックの大聖堂・セルビア正教会・火の見櫓としても使われた鐘楼など道路から眺めた後、自由行動。

   いつものように大好きなバザールへ出かけ、ワンカップ分ずつ密封された蜂蜜を発見。販売中の全商品(といっても僅か数十個だが)を買い取ったら、商人は大喜びでおまけの品をくれた。

   集合場所への帰途で見たものは、今なお活躍しているNATOの駐留軍。カメラを向けたら大声で文句を言ってきたが、分からぬ振りをして無断でパチリ。



A ペトロパラディン要塞

   18世紀にオーストリアによって建設された欧州第二の規模といわれる要塞。眼下にドナウ河の雄大な流れとノビ・サドの町並みが展開し、公園のような存在に変わっていた。

   ここの象徴は風変わりな大きな時計塔。長針が時間を、単身が分を表していた。ドナウ河の漁師や船頭たちが時刻を視認しやすいように、長短針の意味(役割)を取り換えたのだそうだ。彼らにとって必要な時刻は大雑把な時刻程度だったとすれば、時刻を長針で表現するほうが理に適っている。

B セルビアの聖地フルシュカゴーラ

   19世紀には1,000ヘクタールのブドウ畑と350箇所のワイナリーを有したというジバノヴィッチ家のワイナリーを訪問。中庭でパンに蜂蜜を塗りながら摘みとし、チーズも頂きながら5種のワインを試飲。単独参加の女性群からご本人用に注がれた試飲用のワインを『石松さん、どうぞ』といわれるままになみなみと頂いていたら、すっかり酔っ払ってしまった。

   同家の博物館には獲得したワイン関連の無数の表彰状が飾られていただけではなく、養蜂技術の進歩改善に関する表彰状も無数。養蜂道具の進歩の変遷が分かる実物展示もあった。

   輝かしい実績を残した同家もユーゴの社会主義化と共に資産は没収され、今では気の毒にも100ヘクタールの葡萄畑と3つのワインセラーに縮小の憂き目。それでも、綺麗な英語を使いながら案内をしてくれた30歳代の当主の容姿には、何処となく貴族の気品が溢れており流石と思った。

   近くの巨大なクルシェドル修道院やゲオルグテク修道院を見学したが、同工異曲に飽きてしまった。しかし、境内の庭園で豪華に咲いているボタンの花を見て驚いた。花びらがバラよりも格段に多く、薄いピンクに気品を感じた。バルカンでは花を植えるという習慣に乏しいと思っていたが、此処で我が誤解を修正。

C ベオグラードのインターコンチネンタルホテル

   最後のホテルは参加者の印象をよくするためか、各旅行社とも豪華ホテルを手配する傾向がある。インターコンチネンタルは連泊だった。

   初日の夜はイスラエル建国記念日を祝うための祝賀会が予定されていた。バスは玄関から100mも離れた位置までしか進入できず、荷物を運びながらぶつぶつ。

   出入口やロビーを初めあちこちには、やーさんのような鋭い目つきをした警備員が数十人も配置され物々しい。大男達が邪魔臭くて腹立たしくなり、そのうちの一人を捕まえて、首からぶら下げている写真付きの身分証明書をじろりと見上げながら『貴方は何しているのか?』と詰問。『警備です』と真面目に答えた。どんな対応を取るか試したかったのだ。

   別の警備員に隣の大型ショッピングセンターへの近道を聞くと、英語(外国語)で道を教えるのは面倒くさいのか『分かりません。受付で聞いて下さい』。彼らは沈黙を極力守り、持ち場から離れようとはしなかった。平時にはホテルとショッピングセンターとは2階の空中廊下を通じて往来できたのに、当日は安全確保のために閉鎖されていた。

[4]4月25日

@ ベオグラード市内

   旧ソ連だけではなく社会主義国家の建物に共通する印象は巨大で威圧的な鉄筋コンクリート造り。その典型例はスターリン建築と呼ばれるずんぐりむっくりのモスクワ大学本館。

   ベオグラードはモスクワほどではないがそれでも巨大なだけで美観を欠く建築物が中心部には多く、圧迫感もあり鬱陶しく感じた。日本の重量鉄骨作りでガラス張りの高層建築を見慣れた影響か、ベオグラードの都心の暗い雰囲気にはとうとう馴染めなかった。

   1999年のNATOの空爆で破壊されたままの防衛省など4箇所の官庁ビルもそのままに放置され痛々しい。GPSを使ったピンポイント攻撃の精度の高さに驚く。

   サヴァ川とドナウ川の合流地点を見下ろす丘の上にある広大なカレメクダン公園に出かけた。大きな樹木も溢れる公園から大河を眺めると、ベオグラードの都心で受けた暗い気持も吹き飛んだ。

   インフレ時代に発行された巨額な5兆(5,000,000,000,000)旧ディナール紙幣は今や使用済みの切手同様、公園内の行商が記念品として売っていた。同行者は数の単位に無関心なのか、巨大数字を読むための四桁刻みの単位を少ししかご存じなかったのが不思議でならない。関心を示された女性に口頭で説明したら、せっせとメモされたのには二度びっくり。

   日本では江戸時代に発刊された数学書『塵劫記』(吉田光由著)に記された下記の単位が今なお使われている。私は50年以上も前の中学時代に暗記していたので、今でもすらすらと口をついて出てくるのだが・・・。万以上の単位が17個あるので、1無量大数=10**68。

   一、十、百、千、万、億、兆、京(けい)垓(がい) 柿(し) 穰(じょう) 溝(こう) 澗(かん) 正(せい) 載(さい) 極(きょく) 恒河沙(ごうがしゃ) 阿僧祇(あそうぎ) 那由他(なゆた) 不可思議(ふかしぎ) 無量大数(むりょうたいすう)

   ベオグラードにも城塞があった。紀元前4世紀から作られた城塞の色からベオグラード(白い街の意)と名づけられたとか。城塞に付き物の今や無用の長物と化している堀がテニスコートやバスケットコートだけではなく、軍事博物館の戦車や大砲等の展示場としても転用されていた。

A チトーの墓

   多民族・多言語・多宗教国家としてのユーゴスラビアが国家として維持できたのは、チトーの功績であった。しかし、彼の死後僅か3ヶ月で国家は分裂した。アレキサンダー大王の死の後も大帝国は分裂したが・・・。でも、国民はチトーには一目を置いているのか、大きな公園の中に彼の墓や記念館、各国からの贈り物を展示する博物館もあった。

   博物館の中に日本からの贈り物と称して振袖風の和服が飾られていたが、丹前か寝巻か振袖か分からないような着物だった。まともな日本人ならこんな可笑しな着物を献上するはずがない。現地の人が図鑑等を参考にして何とか作り上げたものと推定せざるを得なかった。

   公園内には等身大と称する銅像が飾られていたが、兵馬俑同様少し大きめに作ったのではないかと・・・。



B コバチッツァ村
  
   ベオグラードから50Kmの位置のコバチッツア村の画家のお宅を訪問。童話の世界のような絵を描く仲間の作品の展示即売会場には、今なお現役で絵を描き続けている70歳代のお婆さんが店番。
   
   こんなところまで遥遥来るくらいならば、ベオグラードで自由行動した方がましだったが後の祭り。

C 水上レストラン

   ドナウ川に浮かぶ船上レストランかと期待していたが、岸から専用の橋を渡って辿り着く川底に固定された船形のレストランだった。窓辺には別の団体、わが仲間は見晴らしの悪い中央部。夜の景色を楽しむこともママならず・・・。

[5]4月26日

@ 帰国

   午前4時にホテルを出発。6:10にベオグラード空港を出発してミラノ空港に到着したのは午前7時55分。出発は午後3:15分だったので、ミラノの世界に冠たるアーケード街に出かける希望者を誘ったが、賛同者は全く現れず、さりとて一人で出かけるのも退屈なので断念。
   
   同行者にとっては、ミラノごときはとっくの昔に卒業し見飽きていたのだ。已む無く高い生ビールを何度も飲みながら同行者と雑談しつつ空虚な暇つぶし。
   
   成田国際空港にはつつがなく翌日4月27日午前8:55分に到着。でも中部国際空港行きは成田発15:55分発。田舎の不便さを我慢しながらゴールドカードのラウンジでぼんやりと暇つぶし。海外旅行で一番嫌な時間だ。
   
   中部国際空港に無事に予定通り到着したものの、初体験の珍事に遭遇。豊田市行きの高速バスの乗車定員と床下の旅行鞄の収納容量とにアンバランスが発生した。乗客の荷物が多過ぎた。先着順に荷物が積み込めた人(私も)までが乗車し、空席を残したままバスは発車せざるを得なかった。
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おわりに

   今回のバルカン旅行で海外旅行の積年の目標『訪問国数>年齢』も遂に達成した、との満足感も手伝い、のんびりと旅の記憶(私はいつものことながらメモなし旅行)を呼び戻しながら、ゴルフやテニスとか、国内のミニ旅行の合間に旅行記(固有名詞は旅行社から提供された日程表等から写したが、資料に内在しているかも知れない誤植の有無は面倒なので確認せず)を、ビールを飲みのみだらだらと書いていたら、一身上の事態が急変。
   
   去る5月11日に第7回目のPET/CTを受けた時にはがんは発見されなかったのに、6月1日に受けた内視鏡による食道と胃の検査の結果、食道上部に新発がんらしき物が数箇所発見され、4箇所から細胞を採取。病理検査の結果、本物のがんであると6月11日に主治医から告知された。
   
   已む無く同日(6月11日)午後、催行決定済みだった9月26日出発のアフリカ南部8ヶ国・20日間(998,000円)のパック旅行を急遽取り消し、陽子線治療の勉強や入院治療準備に取り掛かった。詳しくは同日中に大急ぎで書いたレポートをご参照下さい。
   
   ホームページ、健康編、『がん、その2回目の挑戦』
   
   本旅行記は7月末までに完成させる予定だったが、未完に終わるのを避けるべく遺言のつもりで、入院前の完成を目指して後半は脱兎の如く書き上げた。賢人各位のお目汚しには耐えられない雑文になったと恐縮しています。
   
[1]不幸な歴史

@ 不断に続いた争奪戦

   バルカン半島の西側で第二次大戦後に誕生した旧ユーゴスラビア(南スラブの意)連邦は数字の語呂合わせのように、以下に列記したように
7つの国境・6つの共和国・5つの民族・4つの言語・3つの宗教・2つの文字・1つの国家と形容されたほどの複雑な歴史を背負った国家であった。
   
7つの国境。イタリア・オーストリア・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・ギリシア・アルバニア。
   
   6つの共和国。スロベニア・クロアチア・セルビア・ボスニア・マケドニア・モンテネグロ。   
5つの民族。スロベニア人・クロアチア人・セルビア人・マケドニア人・モンテネグロ人。
   
   4つの言語。スロベニア語・セルビア語・クロアチア語・マケドニア語。
   
   3つの宗教。カトリック・東方正教・イスラーム。
   
   2つの文字。ラテン文字・キリル文字。
   
   古代には東西ローマ帝国の境界、中世では東方正教文化圏と西方カトリック文化圏との接点、近世ではハプスブルク帝国とオスマン・トルコ帝国との激突の場となりイスラム文化も流入。
   
   しかしその長い歴史の間でも、バルカンの人たちは各民族の持つアイデンティティを相互に認め合い、多少の小競り合いはあったとしても、歴史書によれば原則として共存していたそうだ。
   
   とは言え各共和国間の経済格差は徐々に拡大し、直近の一人当たりのGDPでは、最も豊かなスロベニア(17,100ドル、2004年)と最貧国のボスニア(1,732ドル、2004年)との格差は実に10倍にも達している。
   
   その結果(残念ながら、内乱勃発時の上記格差は不明)なのか、権力や経済基盤を保持しようとする愚かなバルカン政治家達が、民族や宗教の違いを際立たせ、国民を煽りたて遂には内乱まで誘発してしまったと推定。内乱は一揆のように底辺の大衆からではなく、愚かな政治家が保身のために上から起こした、と私には思えてならない。その被害者はいつの世でも国民大衆だ。
   
   ある現地人ガイドに誰かが『旧ユーゴがどうなれば良いと思いますか?』と質問した時、『旧ユーゴの各共和国がEUに全部加盟できれば、国境争いもなくなり、昔のような平和が復活するのではないかと思うし、そうなることを心底願っています』と答えた言葉が胸に突き刺さって未だに忘れられない。バス内では拍手が一斉に起きたほどだ。
   
A 要塞文化

   この山紫水明の地に最も相応しくない物、それは要塞やトーチカだ。有史以来、バルカンでは隣接する大帝国の脅威に備えたのか、無数の要塞が築かれ残された。彼らが生き残りをかけて作り上げた巨大な要塞を見る度に胸が痛んだ。

   日本人が近代以前に国を挙げて要塞を築いたのは、元寇の役で博多湾に築いた小規模な防塁など僅かだ。日本が国際的に見れば、歴史的に如何に平和に恵まれていたか、改めて感嘆! 

B 貧しくとも人生を享受

   統計データでは収入が少ないはずなのに、行く先々でそのようには見受けられなかったのは一体何故だろうか。製造業が未発達なために高価な電気製品や自動車が買えないだけで、人生に必須な土地・住宅・食料に不自由しているわけではないようだ。

   我が知る限り平均的日本人が持つ友人数は減少の一方だ。その証拠は仕事上での見せかけの付き合いが消滅した定年退職後の過ごし方に象徴的に現れて来る。ブランド品で身を飾っても交友の輪が小さく、犬を連れての散歩に出かけるか、自宅で蟄居同然の孤独を楽しむだけのようだ。

   一方、現役の日本人は生活に追われ家族の団欒も消滅し始めたのか、親殺し・子殺し・子供の自殺・保険金目当ての殺人事件(直近では日本の殺人事件の4割は何と家族を含む親戚間で発生しているそうだ!)のニュースは増える一方だ。

   私は西欧に限らずバルカンでも、都心の広場や大通りのオープンテラスでテーブルを囲み、友人達と僅か一杯のドリンクで、老若男女が長時間談笑している姿を見るたびに羨ましくて仕方が無かった。
      
[2]かけがえの無い自然美

@ 石灰岩が山岳美のルーツ

   バルカン半島の殆どは石灰岩で出来ているそうだ。石灰岩は雨水で侵食されやすく山々には深い谷が出来、鍾乳洞から流れ出たような清水が流れている。山肌の土は流されあちこちに岩が露出しているものの、中東各地の禿山とは異なり露出率は50%以下。残りの山肌には潅木が主とは言え稀には大木も茂り、緑に覆われて美しい。

   しかし、山の中腹や都心の丘等の見晴らしの良い場所には、教会・修道院・城塞がそこに設置されるのが当然であるかのように我が物顔にそそり立っている。環境の良いところは権力者や有力者が真っ先に乗っ取るのだろうか? 些か不愉快だった。

A 美しい集落

   一軒一軒の外観を見ると特別美しいとは思えないのに、集落全体としてみると日本(一軒一軒は国際的に比べても美しくなってきた)とは逆転して美しく感じるのは何故だろうか? 彼らの家は形(デザイン)だけではなく屋根(オレンジ)や壁(白)の色も同じにしていることに嫌でも気付く。この統一された家並みが美しさの主原因に思えてならない。

   山には大木が少なくても民家がある緩い傾斜地には鬱蒼たる樹木も多く、屋敷内にすらも樹木が多い。遠くから眺めると緑の中に白い壁やオレンジ色の屋根が鮮やかに映えて美しく、羨ましくて仕方が無い。

   日本の各都市部から緑が消えて久しく、コンクリート沙漠とかヒート・アイランド等といって自嘲しているが、ヤル気さえあれば解決できるのに・・・。誰もが余生の不安に取り憑かれたかのように短期志向に追い立てられ、児孫に美田(美観)を残すための国家千年の計の礎となる環境投資に、何故愚かにも無関心になってしまったのだろうか。

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読後感

旅行記拝読しました。予期せぬ病が発覚したにも拘わらず書き上げられた事に先ず敬意を感じています。

何時もの旅行記の中で自分が興味を持っているのは「話題」とか「同行者の素描」で今回も感心すること多々ありました。

トヨタは世界一になりつつありますが、豊田に住んでいる自分及び同僚は井の中の蛙(そう言っては失礼?)ではと思っていましたが、今回の旅行記でその想いを更に強くしました。

これに打ち勝つには貴兄のように勉強し見聞を広めなければならないし、その努力をする人のみが得られるのだと思いました。

貴兄は何時までも都会人に負けないで居て欲しく、その記事を発信していただけるのを楽しみにしています。

@ トヨタ先輩・工・ゴルフ仲間

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   貴兄のバルカン六ヶ国の旅行記(55ページ)を『カラーコピー』で、日頃コスト意識を指導してきた新社長に気兼ねしながらアウトプットしました。(55ページ*50円/ページ=2,750円の事務費用は、約60万円の旅費を支払った貴兄のお裾分け代としては安いものだと自分に言い聞かせながら)

   貴兄の写っている8枚のスナップ写真をじっくりと見ながら、とても『がん治療前』の緊急事態にいる(注。旅行中は知らぬが仏でした)という様子はみじんも感じられず、トヨタ新入社員時代から元気の良い鋭い質問を飛ばして先輩達を困らせていた、何とも言えない悪戯っぽい容姿そのままです。

   『疾風に勁草を知る』が出てきて、豊田英二氏の新年挨拶の風景が思い出され懐かしくなりました。一生忘れない良い格言を教えて頂いたものですね。

   世界史の舞台で見聞を広めている貴兄よりまだ上の人達がいることを知り、世間の広さを感じさせられました。人種・宗教・地理が絡んだ歴史の中に生きている人々が置かれた環境の違いを理解せずして、国際平和を論ずること等無意味である、という実感を益々強く感じさせられました。

   つい最近まで民族紛争に巻き込まれていた国々を、観光旅行できることも不思議に感じました。外貨獲得策の餌食になっているようなことは無いでしょうね。尤も餌を撒いているのは貴兄の方だから、これは当たりませんね。

   とも角もつくづく感じたのは、人の旅行記では臭いや暑さ・寒さ・爽快感など肌で感じる部分がどうしても薄くなってしまいます。縁のある貴兄の旅行記だからこそ、大分共有できる部分があることを確認しながら、楽しませていただきました。

   欲を言えば写真をもっと沢山入れていただくとありがたいと思いました。先ずはお礼まで。  

   注。私のプロバイダー(トヨタ自動車の関連ケーブルテレビ会社)が無料で提供するホームページの上限は10MB。私は特に頼んで20MBまで無料扱いにしていただきました。それ以上はお金を出しても増やしてくれません。現在までに15MB使いました。5MBは今後の旅行記のために残したく、818枚の写真の中から厳選しました。

   100MBまで無料でホームページを載せられる会社もありますが、それらには広告が満載されるため、私は利用する気が起きません。余りにも品位を欠くからです。でもメモリは今後も更に安くなりますから、後2,3年もすれば私のプロバイダーの無料枠も追加されると推定しています。

A トヨタ同期・工・平成19年6月に社長を退任した方

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   “二回目の挑戦”を目前にして良くぞ55ページにも及ぶ旅行記を書き上げられたものだと、ただただ貴兄の強靭な精神力に敬服するばかりです。

   今回は、旅程、地図、写真が豊富に取り入れられ、あたかも己がバルカン諸国を一巡りしたかのような気持ちになり楽しく拝読させていただきました。

   ところで石松さんが一目置くような添乗員に恵まれたとのこと、良かったですね。ツアーといえども学芸員レベルの案内人がたとえ費用がかさもうとも理想ですが、現実は過酷な労働条件に耐えながらの添乗員ですので、期待する方が無理というものでしょう。
 
   また「二十世紀雑感」の知的で魅力溢れる紳士にも巡りあい、誠に実りある旅で、さぞ至福の18日間であったろうと羨望の念を禁じ得ません。

   街や村の景観は貴兄もご指摘のように家並みの統一にあると思います。西欧諸国を訪ねいつも感嘆するのは、周りの緑に溶け込んだ赤茶色の屋根屋根が絶妙な調和を醸し出していることです。

   日本では景観を誇れる残された僅かばかりの街も年々その姿を消し、どこも宅地造成後は大小さまざまな住宅が無秩序に立ち並び、なぜか屋根の色はくすんだグレー系が多い。これでは益々ジリ貧です。世の建築家には日本の住宅の未来に向けたビジョンを描いて欲しい。

   PS;最後の「不幸な歴史」にある6つの共和国にモンテネグロが抜けていませんか。(ご指摘の通りでした。迂闊でした。感謝)

B 大学同期・工

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バルカン六カ国旅行記を拝見して

   バルカン諸国の国名に関し、「古代ローマ人には国名の最後に“a”をつける習慣があった」とは知りませんでした。“ローマ”はともかく、カエサルが平定した“ガリア”も彼らの命名であったのかと...。

   アルバニアでは公立学校の授業参観までされたようで、そこでは大抵の生徒が日本について知識を持っていたとは驚きです。ドイツ人の工作機械デーラ課長から「大学を卒業するまで日本のことは何も知らなかった」と言われた時にはショックを受けましたが、我々がアルバニアについて学校では何も学ばなかったのと同じで、自分達よりも遅れていると思っている国のことは知ろうとしないもののようです。

   モスタルの中心部には内戦で破壊されたままの建物が多く残っていたそうですが、レバノンのベイルートを訪れた時のことを思い出します。今また、レバノンは大変なことになっているようですが、欧州の火薬庫と言われて久しいバルカン半島や中東に住まう人々の悲劇を思わざるをえません。

   ベオグラードにもNATO空爆で破壊された官庁ビルが残っていたそうですが、権力者や政治家とは保身や個人的な名誉のために内乱や戦争を引き起こすもので、その都度犠牲になるのは庶民です。

   ダイナマイトや航空機を発明した技術者の流れを汲む者の一人として願わくは、巡航ミサイルやピンポイント爆弾の精度をさらに高め、内乱や戦争を始めるときは互いに相手の大統領や首相の官邸と私邸にのみ照準を定め、ボタンを押しあうようにしてもらいましょう。次の照準は開戦に同意した国会議事堂程度にしてもらい、間違っても庶民の生活している大都市への無差別爆撃は犯罪行為として糾弾されるべきと思います。

   それにしても、今回のバルカン六カ国訪問では、同行者の全員がご自身の年齢以上の国を訪問されていたとは!!。しかし、大金持ちの家に生まれたり、玉の輿や逆玉の輿等の幸運に恵まれてきた方々が多いようで、これまでに“疾風”に相当する艱難(かんなん)に遭われてバルカンの地に立たれたのではなさそうですね。

   多重癌を克服する艱難を経てのちも断固としてご自身の目標に挑戦を続け、今回首尾良くそれを達成された石松さんのみが「疾風に勁草を知る」に値した御仁なのではないでしょうか。とはいえ、「信じ難いほど汚く、耐え難い悪臭が充満している」と云わしめる国々では、じっくりと包茎率の観察もできずにトイレを退出したようで、訪問国での探索テーマの一つを遂行できずに無念さが残ったのではないかと拝察しました。

   また、図らずもご自身が株長者であるとの“真の姿”を告白され、「細々と生きている年金生活者」とは世をしのぶ仮の姿であり、今回のツアーが私共のような年金生活者では参加できないレベルのものであることを教えてくれたのでした。旅行記を拝読し、十分にバルカン諸国を旅した積もりにならせていただきまました。

   新たな目標を設定されたようですから、今回の食道癌も完治されてアフリカ南部への旅に出発される日の近からんことをお祈りします。

C トヨタ先輩・工・1年で転職された方


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石松さんは6/20?から食道ガン手術の為入院され、7/4?に退院されると伺っておりましたが、手術は如何だったでしょうか。全快を祈念するばかりです。

さて、バルカン旅行記の拝読の感想が大変遅くなって申し訳ありませんでした。毎回感心するのですが、今回もこのような長文の旅行記を纏めあげられたご努力には改めて敬服いたします。

私も会社を辞めたらできれば訪問してみたい国々のグループのひとつにバルカン半島の諸国があります。バルカン半島と言えば中高生時代の歴史の教科書に“世界の火薬庫”と表現されていたことを思い浮かべます。

第一次世界大戦の発端となったサライエボとはどんなところだろう?。たった一発の拳銃の玉がナゼ大戦の引き金になったのだろう?と今でも色々思いめぐらせております。ドイツ・ゲルマン民族とロシア・スラブ民族の勢力がせめぎ合う国々であるとは理解していましたが・・・。

このようなトーキーの時代のバルカン半島の一世紀前の認識から、凄惨な現代のジュノサイトが行われた10数年前の内戦の状況がテレビを通じて茶の間に飛び込んできたのは大変衝撃でした。

この旅行記にあるオスマントルコ時代に築かれた美しいスタリモスト橋もその時に知りました。
その内戦中、橋を挟んでイスラム教徒とクロアチア人のセルビア正教徒?が銃火を交える中、イスラム教徒の乙女が橋の向こうのキリスト教徒の恋人に会うため走って渡っていきましたが悲運にも敵の狙撃に倒れたテレビの画面は今も鮮明に記憶に残っています。

チトー時代は、色々な民族・宗教・言葉・国境が入り乱れてはいますがみんな仲良く暮らしていたとのこと、この旅行記にも述べられているように、それが政治や宗教の狭い民族主義的な指導者達の扇動に煽られてジュノザイトまで行われ、お互いに憎しみ棲み分けざるをえなくなったとの当時の住民の悲痛な叫びが今も耳に残っております。

食道ガンの手術が全快し、次のアフリカ旅行記が執筆されんことを切望します。

D トヨタ後輩・工・ゴルフ仲間・世界史の知識は抜群


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