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旅行記
           
アジア
中国(平成7年4月1日脱稿)

      中国4000年の歴史の成果は、国語・日本史・世界史・書道の授業を通じて青少年時代にたっぷりと学ばされていた。その結果は深く私の人生観にすらも影響を与えていた。急に中国への出張が決まったとき、現地現物で確認できる喜びは隠し切れなかった。

      ところが私の見た現実の中国は余りにも貧しかった。
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近くても遠い国

[1]はじめに

   平成元年の晩秋、急に中国へ行くことになった。それまでの海外体験とは全く異質の世界『共産圏』へと踏み込むことになった。時間不足で中国に関する一般的な勉強は殆ど出来ず、ただ観光案内書を買い込んだだけであった。これらの本は出張中、ホテルで夜と早朝に一所懸命に読んだ。 
              
   大学受験勉強中だった次女の気分転換にでもなればと、愛知県有数の観光名所でもある香嵐渓へ紅葉狩りに出掛けたら、足助三州屋敷では小さな中国祭を幸運にも開催していた。          

   建物の一角では書画を売りながら、中国人がお客さんの似顔絵を有料で素早く描いていた。手数料に相応しい素晴らしい技を見せていた。工業技術のように国家の中の集団が保有する力とは無関係な、個人の実力競争だけの世界では中国人の力は侮りがたいと思った。日本人そっくりの顔をした日本語を喋る中国人との対面は初体験である。

   日本語の分かる若い中国人が『天津うどん』の実演販売をしていた。出張準備中だったためか、中国への親しみを急に感じて熱々のうどんを食べた。中国では安いのだろうが、日本では 500円/杯もした。腰のない柔らかな麺に特色があった。
 
   後での体験だが、アジア各国のうどん類は例外なく何故か腰の弱い麺ばかりであった。麺の素材は麦だけではなく米の場合もある。米麺の場合は半透明になっている。何回か各国で名物の麺類にチャレンジしたが、歯応え不足で物足りなかった。お澄まし風のスープに各種の香草(薬味)が浮かんでいる。どくだみに似た野菜もある。  

   日本のうどんのスープはラーメンの影響か、最近は味噌煮込みを初めこってりとしたタイプが益々増えてきた。とは言うものの、大きい駅のホームでしばしば見掛ける、うどんと蕎麦共用スープのように、ワンランク下と見做されている麺類ではお澄ましタイプが未だに主流ではある。しかしどんなうどんでも香草だけは何故か日本では小さく刻んだ葱1本槍だが、アジア各国では多種多様だ。馴染みのない味や香りには親しみ難かった。     

   そんな体験にも触発されて、今年の正月から自宅で『手作りうどん』に挑戦している。参考書によれば日本人が望む究極のうどんは、アジア各国とは何故か正反対の腰が強い、歯では噛み切りにくい麺らしい。私の好みはしこしことした歯触りを感じる固茹でうどんだったんだと再認識した。

   出張予定地は瀋陽・天津・北京・上海だった。『満州では11月末でも零下10度にもなるぞ!』と中国通に脅かされ極寒対策に戸惑った。ハイテク材料で出来たウインター・スポーツ用の靴の中敷きを薦められて買った。薄くても断熱性が高く、しかも保温力にも優れた機能材料が使われていた。 
                  
   『北京事務所では、ダウンがたっぷりと入れてある防寒コートとブーツは用意するが、ブーツの中敷き用ホッカホカカイロは日本から持参するように』と言われた。ブーツの底は酸素不足になるので酸化反応速度を高めてある種類だそうだ。
                              
   ポケットに入れて試験してみたら火傷し兼ねないほどの高温になった。もともとはスキー客用に売られている特殊なカイロだった。スキーからゴルフとテニスに転向していた20年の間に、ハイテク材料がこんな分野にまでも進出していることを知り『我、老いたり!』と認めざるを得なかった。正しく泥縄並の出張準備であった。帰国時、使い残したカイロは北京事務所にお礼として押し付けて来た。

[2]振幅の大きい中国の評価

   戦後50年の間、中国くらいその評価が大きく揺れてきた国も珍しい。中国政府の自己評価はもちろんのこと、中国通の日本人(学識経験者・マスコミ関係者・旅行業者など)の間でも両極端にまで広がっている。          

   今回の出張者の間でも中国の実力評価には大きな開きがあった。同行した豊田通商の関係者や当社アジア部等の、プロジェクトの積極的な推進派で中国通を自認していた方々には、中国の実力を大変高く評価する傾向があるように私には感じられた。

   35年くらい前の事である。当時の日本のマスコミは中国政府の意向に反する報道をすると、特派員が国外追放されていた。その結果、朝日新聞にお笑い記事が真面目に報道されたのを私は記憶している。
                    
   御用学者の解説や証拠写真を添えながら『中国の先進米作技術では籾が 100俵以上/反も収穫できる。稲刈り直前には稲の上に子供が寝転んでも沈まない!』とまで卑屈にも報道していた。実態は収穫直前の稲の株を掘り取り、相互にくっつけて高密度に植え直して写真撮影したものであった。白髪三千丈の類いに今日でも油断していると騙され兼ねない。頼りになるのは自分の頭から滲み出てくる判断力だけだ。

   出張当時も今もなお私には依然として『中国には4000年の歴史はあっても富や技術の蓄積は殆どなく、見せ掛けだけで実態のない貧しく弱々しい国』との確信に満ちた先入観からは残念ながら抜け出せない。
                  
   当時の所属長だった山氏からは『当社の中国プロジェクトに水をかけた』と苦情を言われたが、関係者からは私の『出張報告書(A3,1枚)やビデオ2巻延べ4時間』への具体的な反論なり、事実誤認の指摘は今に至るまで一度もない。
 
   大連からの引き揚げ者で、中国には特別の思い入れもあった担当役員の大西常務に『私のビデオを御覧になったら、急に中国に行きたくなったでしょう?』と誘い水を掛けたら『松っつぁんのビデオを見て、現地へ出掛ける以上に良く分かったから、もう行く必要はない。今なお、松っつぁんのナレーションが耳にこびりついている』と言われる始末。しかし、程なく奥様と一緒に私費でこっそり中国へ観光旅行に行かれたそうだ。

   英国の『エコノミスト誌(1992-11-28号)』が購買力平価説を突然持ち出して、中国は実質的な経済活動の総量では日米に次ぐ経済大国であると持ち上げた結果、その孫引きが世界中に蔓延した上に歩調も合わせて中国を礼讃しているが、財の質を無視した上でのみ成り立つ購買力平価説だけでは所詮、評価法としての限界と無理を感じる。中国政府自身がエコノミスト誌の影響力の大きさに驚き『中国は今なお貧しい発展途上国に過ぎない』と弁明し始める始末。

   中国の経済水準を高く評価する人達の評価法としての1例を挙げれば『現在の中国の経済レベルは、今の中国のカラーTVの普及率とその普及率が同じだった年の日本の諸水準に等しい』の類いである。カラーTVの代わりに、電話普及率、カロリー取得量/人、繊維消費量/人など似たような指標は溢れるほどにある。 
  
   『その仮説の結論は正しい』との立場から、その時点からの日本の自動車の販売台数の伸び率を中国に適用して、近い将来にはこんなに車は売れると結論付ける予測の類いである。生産技術の進歩により急速に実質原価が下がる新商品を評価関数にすれば、後発国ほど実力が実態以上に高く現れるのは当然である。

   一方登場してから 100年以上もの歴史を持ち、その構成部品や材料が多種多様な自動車のような商品の原価は1国の全産業の実力(労働生産性)に直結する。長い間に改善・改良が十分進んだ商品の原価低減は大変難しい。そこに大きな論理の飛躍・変数のすり替えが横行する余地が生まれる。
             
   こんな単純な錯覚に関係者が気付かない筈がない。明白な嘘でない限り自分の都合に合せてデータ操作をするのはサラリーマンの職業病である。リスクを自ら背負っている本物の資本家には、こんな陥穽を本能的に避ける直感力がある。

   国際間の真の実力比較は実質製造原価が長期に渡って改善し難いだけではなく、世界中何処でも普遍的な『Constant Value』を持ち、且つ家計でのウェイトの高い財の価格と所得比を使うべきだと確信している。このためのベストアイテムは『家』である。民家を評価すれば民度は簡単に分かる。私が今日までに訪れた26ヶ国を回想しても例外は思い出せない。
                       
   国際間だけではなく同一国の中でも、家を見れば貧富の評価はいとも簡単!わが国の名目国民所得が為替レートの急変により、ドル換算では断トツの世界一に突然なろうとも、平均的国民の住宅がゴミ箱レベルでは『英国に追い付いた』とすら簡単には言えない。           

[3]遥か彼方にある遠い国                      

   距離の上ではすぐ近くにある国なのに、時間の面では大変不便な国であった。当時は大阪空港からの早朝便に乗るため、心斉橋近くのホテルに泊った。2流ホテルのためか食堂の営業開始時刻は遅くて間に合わず、ロビーで弁当を食べた。名古屋発着便のあり難さを痛感した。新幹線で荷物を運ぶのも大変だ。フルサイズのVHSビデオカメラの重さには辟易した。当初は軽く感じていたバッテリーや充電器も、運んでいるうちにやけに重たく感じて来た。
                                   
   大阪空港は初めてだったが『これが日本第2の大都市圏である関西の中核空港か!』と思うと、目を覆いたくなるほど貧弱に感じる小ささだった。良くもまあ長い間、関西人は我慢して来たものだ。 
                  
   平成7年3/26〜3/29、夫婦で北海道の温泉巡りに出掛けたおりに利用した、新千歳空港は世界に恥じないレベルだったし、帰省時に使う福岡空港はJR博多駅から地下鉄で僅か5分(2駅)の位置にあり、その利便性は日本一!などを思い出すに付け、関西新空港の建設がかくも遅れたのは何故なのか理解できない。

   苦労して大阪まで来ても、人口では中国第4の大都市『瀋陽』行きですら日本からの直行便はなく、北京経由だった。その北京へ行くためにも遥か南の上海の上空まで飛んだ後、北上するルートだった。北朝鮮の上を飛べなかったからである。4時間も掛かった。直線ならたったの2時間の距離である。
          
   北京は既に豊田市の真冬の寒さ。真昼と雖も、暖房がないも同然の空港の待合室は寒かった。見栄えのしないぶくぶくとした質素なジャンパーを着た中国人の長い行列を目にした。『広大な中国では低所得とは無関係に飛行機は必需品なんだろうか?貧乏な中国人に飛行機の運賃が払えるのだろうか?』などと新鮮な驚きを感じた。聞いて見るとビジネス客(もちろん、幹部社員)だった。

   待てど暮らせど瀋陽行きの搭乗案内はない。延着の説明もない。この程度の簡単なお客への情報サービスですらやる気のない国だと聞かされてはいたが、実際に体験すると、寒さは募るし、頭では諦めていても腹が立ち苛々してくる。『日本のすぐ隣なのに全くの見知らぬ別世界がある』との現実を認めざるを得なかった。
       
   日中間には幸いなことに海があり、相互にはお互いの暮らしを直接覗き見ることはできないが、ナイヤガラの滝を挟んで自由な往来が可能なアメリカ合衆国とカナダ(民家が急に小さくなる)、アジアではシンガポールとマレーシア、欧州ではロマンティック街道観光で通り過ぎると、嫌でも出会うドイツとオーストリー、オーストリーとスイスのような地続きの国境では、国力の明らかな差(インフラと民家の質が顕著に変わる)を嫌でも目撃させられた。格差を見せ付けられながら生きている、国境の民の心境は如何ばかりかと胸が痛む。           

   7〜8時間後になってやっと事情が知らされた。北京空港へ来る筈の搭乗予定機が雪のため、直前の空港を離陸出来ないとのこと。『情報提供もサービスの内という観念など、微塵もない国とのお付き合いの難しさ』を計らずも初体験させられた。その日は北京市内の超高級ホテル崑崙に泊まることになった。
         
   崑崙とはチベット高原とタクラマカン砂漠との間にある山脈名で、天山山脈と向き合っている中国人が誇りにしている大山脈である。この夏、天安門事件が発生して観光客が激減しホテルはガラガラ。予約なしでも泊まれて助かった。

   北京空港から北京市内へ向かう道は日本レベルの高速道路ではなかったが、新設道路だった。大平原の中の盛り土道路だ。盛り土は道に沿って川の様な溝を掘ることで確保されていた。国有地だからこんな勝手な造成が出来るのかと驚くものの、工事費の節約の面には合理性が感じられた。お負けに結果的には道路の側溝をも兼ねている。道路の両側には4列くらいの鬱蒼とした並木列があった。ベトナムでも複列の素晴らしい並木を見たが、複列並木の壮観さ・迫力には率直に感動。

   『複列並木の目的は美観か?』と推定していたら違うそうだ。北京空港に降りる要人がこの道を通る時、周辺の農地から銃撃されないための目隠しだそうだ。外国では時々この種の意外な発想に出会って驚く。時々現れる隙間から遠くを見ると、1本も木のない寒々とした大平原が続く。 
               
   オーストラリアのゴルフ場で直径1m・高さ20m以上もある4〜5列のコース・セパレータがあったのを思い出した。球がそれてこのセパレータに飛び込むと、ほぼ 100%木に捕まってラフに落ち、フェアウエーへ出すのに木が再び邪魔になって四苦八苦させられた。
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東北の中心・瀋陽

[1]中国の区画割り

   中国は現在6地域に分けられている。漢民族中心の華北(中心は北京・天津)・華中(上海・武漢)・華南(広州)、遊牧民も多くトルコ語が通じると言うシルクロードの西北(ウルムチ・西安=唐時代の長安)、少数民族の多い西南(成都・重慶)、および旧満州の東北(瀋陽・長春)である。まだこの区画割りには慣れていない日本人が多いどころか『東北=旧満州』と言う関係を知らない人が大部分である。

[2]瀋陽

   1.町の雰囲気

   瀋陽は旧満州国の中核都市『奉天』の改称。しかし人口 400万人と言っても市街地は車で30分以内に横断出来る小さな町であった。中国の町は大都市でも境界がはっきりしている。大昔の城壁都市の伝統に由来するのではなく、交通機関の制約からではないかと思う。公共交通機関が引かれていない場所には人は住めず、職場から自転車で移動できる範囲(15〜20Km)の狭い地域に、住民は結局押し込められる結果になる。

   家族数は屋根から突き出ている煙突の数で分かる。逆算すると人口密度は驚異的だ。3万人/平方kmは軽く越えそうだ。統計データでは居住面積は4.25u/人だそうだが納得出来る数値だ。日本のアパートそっくりの新しい集合住宅もあるが窓1つが1家族だそうだ。1家族に1部屋しかない。が真偽を確認するチャンスはなかった。             

   新中国になって建設した本格的な建物は瀋陽には殆どなく、満州国時代の日本の遺物が現役として使われている。その代表例が旧ヤマトホテルで現在は遼寧賓館と改名されている高級ホテルだ。中国人は韓国人と違い現実的な民族だ。韓国では『日本時代の豪華な建物も植民地時代の象徴だ』と恨んで撤去してしまう。 

   都心では暖房の為の煤煙がひどく、硫黄の匂いも凄い。煙突の中で暮らしているようなものだ。何故こんな地域が戦前の日本に取って魅力があったのか不思議だ。石炭を中心とした地下資源の開発輸入か、それとも内地の人減らしのため、満州の大平原に開拓農民を送り込むのが目的だったのか?
              
   私なら揚子江より南にしか魅力を感じない。北は寒いだけではなく雨量も少なく砂漠に近い。とはいえ、郊外に出ると中国を代表するといわれている穀倉地帯が広がる。            
   360度どちらを向いても山が見えない大平原の大きさを、生まれて初めて満喫。地球は丸いと陸上でも気付くことが出来る。自給自足の農家は孤立しても生きて行けるのか、ポツンポツンと小さな家がある。
                 
   材木が取れる程の木は全く生えていないので建築材料は赤レンガ。平屋で屋根の低い10坪足らずの小さな家である。どこの国でも見掛ける典型的なスラム住宅そっくりの雰囲気を感じる。ただし、極寒の地だけあって防寒対策分(厚い壁・頑丈な窓・暖房のための煙突)だけ一見豪邸に見える。 

   瀋陽にはまともなホテルが少なく、豊田通商の事務所があるアパートみたいな朝食付きのホテルに泊まった。朝食は野菜中心の中華料理だった。回転可能な円卓に料理が出されると、通訳の中年女性が雇用主である日本人より先に、必ずサッと箸を出すのが不思議だった。早く食べないと無くなると思っていたのであろうか?しかし、何時も食べ物は余っていたから別の理由があったのだろうか?彼女も『衣食足りて礼節を知る』のだろうか?                   

   ホテルのロビーには天気予報板があった。晴・雨・雪は絵のマークで表現。気温の予想値も出ていた。中国語が分からなくとも心配無用。最低温度は零下10度を更に下回る。最高温度も零下。日本の気象庁流に言えば、真冬日の連続。極寒の地にとうとう来てしまったとの感慨が湧いた。ブーツの底に敷いたカイロが役立つ。
 
  2.満州民族

   擦れ違う人の誰が満州民族なのかは本人に聞いたわけではないが、平均すれば身長が大変高い。若い女性の平均身長は 165cmくらいもある。ラテンやアラブ民族並みだ。戦後日本女性も大きくなったが現在でも 158cmに過ぎない。明らかな格差だ。中国は今なお栄養過多な生活水準には至らないためか、大根足も見当たらずスタイルは大変良い。 
                          
   この事実から日本人のルーツに占める北方系の比重は小さいのではないかと思う。一方、上海やベトナムではハッとするほど日本人によく似た人に、度々出会った。一説に拠れば縄文人は背が高く、弥生人は低いそうだ。とすれば縄文人は北方系か?

   3.北陵

   清の始皇帝ヌルハチ(伝説上の三皇五帝に由来する皇帝という言葉を、最初に使ったのは秦の始皇帝だが、清でも使うらしい。通常は太祖ヌルハチという。なお Chinaの語源は秦に由来するそうだ)の子供、太宗ホンタイジのお墓『北陵』がホテルの近くにあった。駐在員のご迷惑にならないようにと、朝食前に一人で見学に行こうとしたら『迷子になるよ!』と脅かされ、豊田通商の駐在事務所長に連れられて北陵見学に出掛けた。 
                           
   面積は 135万坪。小学生の頃読んだ本に『仁徳天皇陵は世界一大きなお墓』と紹介してあったが、ピラミッドの建築面積と前方後円墳の濠で囲まれた面積を比較しただけの単純で詭弁に近い説明だ。敷地面積では北陵が圧倒的に大きい。中国にはもっと大きな敷地面積のお墓があるそうだ。実質建設費(延べ建設時間)では今なおピラミッドが断トツの世界一か?

   北陵の一部は公園の様に設計されている。大きな池では子供がスケートを楽しんでいた。広場では老人が中国式ストレッチ体操(太極拳)をしていた。年寄り達は若夫婦のために、朝は部屋を空けるのだそうだ。中国の悲しい現実である。お墓が公園を兼ねている国は多い。
                      
   『お墓とは幽霊が出る気味の悪いところである』と子供時代から吹き込み、実質的に立ち入り禁止にしている日本は世界的には例外である。土地は有効利用すべきだ。北陵とホテルを結ぶ大通りの両側に沿って青空市場があった。中国情報として『青空市場は新鮮な生鮮食料品が安価に提供されており、国営商店とは本質的に違う』と喧伝されていたので何としても見たかった。それがまた、何としたことか!
                           
   4.朝市

   商品は種類別(肉・魚・青果・雑貨・日用品)のゾーンに大きく分けられていた。生鮮食料品とはおよそ無縁の品々であった。肉類はこの寒さの中ですら悪臭を放つほどの古さ、大きなブロックに切られたままで売られている。日本のように食べられないところは棄て、料理の目的に合わせて予めスライスして売るなどの習慣は全くない。安い筈だ。                        

   魚は干物と塩物が中心。内陸部の瀋陽に生の魚介類はもちろん無いが、干物にすら不自然な悪臭がする。野菜類はサイズも不揃いで日本では家畜の餌クラスか、緑肥としてトラクターで畑に犂き込むような物。只と言われても私が買いたくなる水準の売り物は1品とて無かった。これもまた中国の悲しい現実である。

   5.故宮

   瀋陽にも故宮があった。ヌルハチが10年かけて造営して完成した宮殿であるが、北京の故宮とは比ぶべくもない。6万uの敷地に70余の建物と言っても、大帝国の宮殿とはとても言えた代物ではない。清も建国当初は貧しかったか?

   6.友宜商店
   
   夕方、友宜商店(国営百貨店)に出掛けた。百貨店とは言っても総売り場面積が1000uもない小さな店である。中国の特産物を中心にしたお土産類や日常雑貨品が照明もやっとの暗い店内で売られていた。観光客向けが中心のようだ。得体の知れない漢方薬や絹製品が多かった。絹の下着類がふんだんにあり、贅沢観を味わうべくブリーフなどを買った。              

   当時の中国では2種類の紙幣が流通していた。外国人が持ち込んだ外貨を現地通貨に交換した時に受け取る『外貨に兌換可能な元』と中国人が使う『兌換できない元』である。交換証明書を持っていれば出国時に外貨に再交換してくれる。中国で唯一よいと思ったのは、外貨の交換レートはホテルでも銀行でも何処でも全く同じだった事だ。国の直轄だから当然の事か?

   友宜商店の店内にも外貨交換所があり、金網の中に係りの女性がいる。交換後の元をポ〜ンとお客さんに投げて渡すのには、無礼な!を通り越して呆気にとられた。ここで共産主義の究極の欠陥、官僚主義の最たる現実を体験。また商品を買う場合には、会計でお金を支払って領収書を貰い、売り場に戻って商品と交換する手順が強制された。                          

   不正防止のための相互牽制システムとしては合理的でも、客の不便さなど全く眼中にない。駐在員のストレスが偲ばれる。商品価格は兌換元払いだと2割位安かった。もっともこの種の販売システムは共産主義国だけにある制度ではなく、空港の免税店など他の国々でも度々体験した。
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千年の王城・北京

   夕方北京に着いた。同行者の殆どは北京は何回目とかで空港からホテルへ直行しようとしたので、待ったを掛けた。私は『What is Beijing?を知りたい!』と主張。中心街を車で20〜30分位迂回して貰い、北京のイメージの一端を掴んだ。北京のような歴史のある大都市と雖も、観光対象は中心街に点在するだけだそうだ。

[1]北京
 
   1.天安門

   天安門広場に豪華さは感じないが、規模は流石に雄大だ。かつては世界的な大帝国だった中国の貫禄を感じる。わが皇居前広場に比べ遥かに広い。44万uの広場には 100万人が入れるとのデータにも誇張が感じられない。大集会がある場合には広場の周囲の溝の蓋を剥いで臨時のトイレを造営するそうだが、そんな発想も日本人離れしている。                          
        
   天安門は門といっても鳥居のような単なるゲートではなく、東大寺南大門を大きくしたような奥行きも深い巨大な建築物だった。中国の観光資源では大抵のところで課している外国人料金(中国人の2〜数倍。中国人は時には無料)を支払って大広場を見渡せる位置まで登った。雄大な眺めだ。  
           
   直立不動の若いガードマンがいたが、観光客には何の警戒心も示さなかった。意外なおおらかさに驚く。しかし、引率者が心配するので無用な刺激は避けて写真は遠慮した。天安門の中には展示物が何もなく、がっかりした。  
      
   天安門広場前の大通りを埋め尽くすような、通勤ラッシュの自転車の隊列が流れる様は圧巻だ。自転車にはライトが付いていない。剥げ頭も白髪も子供もいない。さながら人間の形をした真っ黒い頭の大蟻が無言で通り過ぎていくようだ。   

   5列以上はある自転車の縦隊での鉄則は『速度一定・追い越しはご法度・急ブレーキも厳禁』のようだ。その結果、まるで液体を連想させる程の自転車の層流が実現する。必要に迫られれば自己主張の強い中国人と雖も、協調性を発揮する好事例なのだろうか?

   2.故宮

   故宮もまた壮大な遺構だ。72万uの長方形の敷地に広がる宮殿はさながら中国人の世界観の展示場だ。門というのは1個あれば十分と思っていたが、ここでは何回も何回も似たような門を潜らないと宮殿まで辿り着けない複雑さだ。おまけに夫々目的の異なる独立の建物が敷地一杯にひしめき合っていて全貌が掴めない。
  
   これに比べればフランスのヴェルサイユ宮殿やトルコのトプカピ宮殿は何とシンプルな構成であることか!故宮の中のめぼしい宝物類は国民政府が台湾に持ち出したので、残っていたのは運び出すのに不便な重量物ばかり。

   3.頤和園(いわえん)

   頤和園は清の西太后が国力を文字通り傾けて建設した、敷地が 290万uもの中国を代表する大公園。人造の湖や山もある。満員電車並みの混雑の中、ほんの一部分だけを回廊式に見物した。                     
      
   その時である。後からハンサムで聡明そうな目をした中学生が日本語で話し掛けてきた。『今ラジオで日本語を独学で勉強しています。会話の相手をさせて頂けませんか?』との希望に応じて、適当に質疑を交わしながら一方通行の見学コースを歩いていた。                           

   その時、当社の北京事務所が雇用している日本語の旨い通訳の中国人が『石松さん。ご注意!日本語で親しげに話し掛けてくるけど、油断させておいて財布を盗む手口が流行っているから』と注意してくれた。同国人より私を守る心遣いに感謝しながらも半信半疑のまま、ポケットの中の財布を手で握り締めて会話は続けた。

   4.北京動物園
                           
   日本語も英語も分からない運転手と一緒に北京動物園に行った。会話は出来なくとも目的がはっきりしているので全く困らない。パンダは2種類いることを知った。日本にもいるジャイアントパンダと、それとは別種の小さいレッサーパンダである。             

   中国のパンダは中国人同様気の毒だ。動物も人間も生活水準は国力の関数だ。おまけに中国人はパンダを日本人ほど珍しい動物には感じないらしい。従って見物人も少なく閑散としていた。外国人には飽きるほど眺められてあり難い。
       
   動物園の近くには日本人村があった。長い塀に囲まれた一角に建ち並ぶミサワホーム製プレハブ住宅群であった。その1つが日本人相手のカラオケのある日本料理屋だった。緊張せずに安心して過ごせた。               

[2]万里の長城

   万里の長城は北京から僅か60Kmの位置にもあり、観光資源として復元整備されていた。長城は全て尾根伝いに建設されておりその周辺にはまともな木は全くない。人も住んではいない。遠くまで荒涼とした山々(灌木か雑草が僅かに生えているか、地肌の見える禿山)が見えるだけだ。
                    
   道中の道端には遊牧民の携帯住宅である白い『パオ』を見掛けたが、これも観光資源だったのだろうか?確認したかったが時間不足で諦めた。万里の長城に登るためのケーブルカーが完成した直後だった。高度差は 100m程度でも時間が節約できてあり難い。     

   長城に関しては大袈裟な伝説が多過ぎる。飛行機の上からも長城は見えると聞いたので、瀋陽への往復時に一所懸命に探したが見付からなかった。これは多分私の視力不足のせいだと思う。しかし『月から見える地球上の唯一の人工物』と喧伝されているのは大変怪しい。物が見えるためには長さだけではなく幅が必要だ。
    
   また『城壁の上は、馬車でどこ迄も移動し攻撃できる』と物の本には書いてあるが、構造上不可能だ。内部に人が登り降りするための階段があるタワーが1Kmピッチにあり、馬車は通り抜けられない。馬車どころか馬も城壁の上には登れない。『築城の目的は定住している農耕民族である漢民族と、国境の観念に乏しい中央アジアの遊牧民族との境界を明白にしたかったからではないか?』と思った。
            
[3]中華料理 

   本場で本格的な中華料理を初めて食べた。『幼少時の食習慣で植え付けられた食べ物のみを美味しく感じる』との説があるが些か怪しいと思う。イカの塩辛や納豆などの特殊な食材のみに当てはまる説ではないか? 
           
   グルタミンソーダは人種に無関係に旨い味と感じるように、大人になって初めて食べたものでも、美味しいものは誰にでも美味しいと感じるのではないか、とこの時思った。中華料理が世界的に普及しているのは中国人の経済的なバイタリティだけが理由ではなく、食べ物としての普遍的な美味しさにあると確信した。

   中華料理には単品の食材のみを使うメニューは少ない。ビフテキ・ローストビーフ・燻製・刺身等と違って、相乗効果を発揮させる食材の組み合わせ技術に特色がある。   
                             
   かの有名な北京ダックとは手巻き寿司のような料理だった。内臓を取ったアヒルの体にオイルを塗り、皮膚が飴色になるまで炭火の赤外線を長時間(2〜3日との説すらある)当てて丸焼きし、香りも高くパリパリとした感触のある状態になったら、薄く肉を付けたまま皮を一口大に削ぎ取って皿に盛り付ける。
       
   各自が手巻き寿司の要領で、生葱などの香辛野菜をダックの皮に包んで食べる。北京ダックとは『北京産の特殊なアヒルの肉を料理したもの』と予想していたので意外だった。調理時間を惜しまない中国人の食への執念には今更ながら驚く。

   熊の手にもありつけた。『熊が蜂蜜を食べる時に使う左手が高級』との伝説もあるが疑わしい。料理が出された時に、左右どちらの手のどの部分とは特定されていなかった。1人前は1本の掌の1/10だそうだ。
             
   12億人の中国人が一生に1回、熊の手のかけらを食べるためには60年間(平均寿命)に3千万頭の熊が必要になる。譬え価格が安くても、中国人全員に1回食べさせるだけでも不可能に近い。1人前1万円だそうだ。当時の中国人の2〜3ヶ月分の収入だ。        

   大抵の中華料理は大変美味しかったが、熊の手を私は美味しいとは感じなかった。味の薄い柔らかな脂身と感じただけだ。キャビア・トリュフ・松茸・数の子の類いで、信者には何としても食べたい珍味ではあっても、冷静に評価すると馬鹿馬鹿しくなる。珍味扱いされ始めた夫々の理由がある筈だ。子沢山を願った『数の子』が少産主義時代になっても歴史の慣性からか、今なお日本では珍味扱いをされているように。   
                           
   ヘビ・犬・サソリ等に代表される『げてもの類』も私には趣味が合わなかった。1回だけの体験として付き合った。中華料理は原則として加熱処理されているだけでなく、ファーストフード並みに出来立ての熱つ熱つ状態で食膳に出すから、食中毒の心配も不要、安心して食べることができるのは魅力的だ。

   好奇心の固まりと見做されていた私は、げてものを紹介してくれた中国人の好意に感謝して、この貴重な食体験の度に『美味しい、美味しい!』と大袈裟に喜びを演技した。通常食べる前に食材名は教えてくれない。食後、感想を述べると、やおら教えてくれる。その時に日本人は驚かなければならないらしい。   
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北のゲート・天津

[1] 中国式道路工事 
                          
   北京の東、車で4時間も掛かった天津に着くまでの間、アジア大会に備えるべく一斉に取り掛かっていた道路工事を観察し続けた。何としたことだ!機械力は殆ど使っていない。スコップ・つるはし・もっこ位の道具しかない。1uに付き1人はいるほどの人海戦術。この公共事業の雇用力の大きさには想像を絶した。

   この姿を見れば中国では、ロボット等のハイテク設備を導入し、必要最小限の人だけを雇用するような工場建設計画が、いかに政府には魅力がないか聞かなくとも自明だ。万里の長城もこんな調子で作ったのだろう。

   沿線には自転車で移動中、車に撥ねられた男性がいた。出血は発見できなかったがピクリとも動かない。周囲では沢山の人がのんびりと道路工事をしていたが、被害者を救済しようともしない。人が溢れている中国では、死んでしまった人には関心がないのか?
                             
   交通事故死した犬猫に対する日本での取扱いに近い。僅か3週間の出張中に車に撥ねられたまま放置されている人を3人も見た。中にはまだ生きている人もいた。全国では交通事故による死者は一体何人に達するのだろうか?

[2]絨毯工場

   1万uはありそうな平屋の工場で何百人もの女性が緞通を織っていた。緞通を織る装置は門型の道具に過ぎない。日本の農村で昔見掛けた筵織りのための道具と原理は同じだ。緞通は30cmの長さに付き90本の縦糸があるものが標準だ。この場合に90段と呼んでいる。3.3mmピッチに縦糸が予め張られ、傍らには図案とそれに合わせた染色済みの毛糸の束があり、織り姫が1本1本縦糸に毛糸を結んだ後、片刃のナイフを使い、毛足を2〜3cmほど残して切り取っている。
               
   ある程度仕事が進むと丈夫な櫛を縦糸の中に通して強く織り固めた後、ラシャ鋏で毛足の長さを揃える。全体が織り上がると作業台に緞通を広げ、円弧状に曲がったハサミで糸を選り分けながら図案に沿ってカービングを入れると完成する。

   結び目1個に付き10秒掛かるとすると、6畳分を織るのに何と2430時間も掛かる。織り姫が一所懸命に働いて1年掛かる事になる。10畳以上もある大きな緞通の場合には、1台の織機に2〜3人の織り姫が張り付いて仕事をしている。

   中国を訪問した記念に6畳サイズを1枚買った。重さが47Kgもあった。コンテナを使って輸入したが総費用は27万円掛かった。品違いを避けるために買った絨毯の裏にマジックで大きくサインさせられた。
                 
   外国人にも安心して絨毯を買わせる手順が標準化されていたので『この中国で!』との驚きを感じた。当時、松坂屋価格の20〜30%だったので愉快だったが、価格破壊が進んだ今、安売り屋で10万円位になっているのを見ては、織り姫の気の毒な額の給料に思いを馳せている。

[3]町の雰囲気
       
   天津は中国の北の玄関口で且つ中国第3の大都市。しかも政令指定都市。都心には広い道路があった。その両側に7〜8階建の集合住宅が集中して建設されている所があった。外壁は白く屋根は明るいオレンジ色だった。日本の公団住宅によく似ていた。ところが窓の形は南側も北側も同じだった。          

   中国人に聞くと建物の中央には廊下があり、南北とも外から見える窓1つが1家族分の住居だそうだ。気温は豊田とあまり違わず、暖房用の煙突が見付からなかった。そのため外観からは中国の貧しさにうっかりすると気付かないことになる。しかし、この家ですら入居できるのは特別のコネを持つ人達だけだそうだ。

   天津は流石に海岸都市。日本食のレストランでは刺身や寿司が出た。日本のビールも飲めた。ホッと一息付けた。
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国際都市・上海

[1]上海

   1.超過密都市

   上海の新旧のアンバランスには驚愕以上のものがあった。この中国最大の都市の幹線道路で片側2車線の道は総延長が僅かに1〜2Kmしかないとかで、大型バスやトロリーバスの運転手は運行に大変苦労しているようだ。住宅街の狭い路地をマイクロバスで擦り抜けるためにも熟練したテクニックは必須だ。駐在員に車を運転させられる状況には全く無い。

   1人当たりの床面積は 2.7uとかの超過密都市。家の狭さを補うべく1階の玄関先の道路に炊事場が張り出してきている。そこで調理中のものは幾ら安全な中華料理だと強調されても、喉を通りそうにもない。ホテルのレストランの中華料理とは全く別種のものに感じる。

   2.戦前の租界

   揚子江の支流、黄浦江が大きく蛇行しながら上海の南部を取り巻いている。その一角に昔の租界地があった。鉄筋コンクリートと石とを使い、欧州風のデザインにも凝った重厚感に満ちた窓の小さいビルが立ち並んでいる。支流と言っても黄浦江は『江』に相応しい大河であり、川幅一杯に水がとうとうと流れている。
   
   この一角に立つと、ここがあのごみごみとした上海の一部だろうかと奇妙に思うほどに、伸び伸びとした心境になる。しかもアジア特有の腐敗直前の食べ物のような、すえた匂いは少ない。おまけにオフィス街であるためか、一般の中国人が暇潰しに集まる場所でもないらしく、一層中国離れした雰囲気だ。

   3.都心の雑踏

   庶民が殺到する都心の商店街の賑わいを道路の人口密度で評価すると、日本の歩行者天国などは物の数ではない。花火大会や盆踊り大会がある時の豊田市駅前通りに近い。まともには歩けないほどの賑わいだ。所得の低い中国と雖も、行き交う人は清潔でカラフルなファッションに身を包んでいる。女性も化粧している。国民服時代は既に過去のものだ。

   4.都心の再開発

   中心街の高層ホテルの窓から見える範囲でも建設中の高層ビルが20本以上あった。町の半分しか覗けないので実際の数はその2倍にもなる。20階建て以上のビルも数十本はあった。高層ビルの数だけならすぐにも東京に追い着きそうだ。但し、高層ビルは鉄筋コンクリート造りが多く、日本のような重量鉄骨造りらしきビルは皆無に近い。                         
      
   一方戦前からの朽ち掛けたレンガ造りの民家が密集している場所や、それを正に撤去中の廃墟も視野に入って来る。高層ビルは新宿副都心のように集中して建てているのではなく、ランダムに建てている。再開発計画が纏まった街区単位に着工しているのだろう。

   5.上海蟹

   どうやらどこの国にも、その国の人が熱愛する食べ物があるような気がして来た。上海蟹は淡水湖に棲む甲羅長10cm位の泥蟹だ。何となく不潔感がする。手足は細くて食べる所がない。甲羅を開けて食べて見たが特別に美味しいとも思えなかった。ひょっとすると上海近辺の海では蟹が取れないのだろうか?   
        
   私にはタラバガニ・マツバガニ・毛ガニの方が食べやすくてしかも美味しいと思う。しかし海鮮食材が溢れる香港でも、中国人は上海蟹には夢中になるそうだから不思議だ。上野のアメ横で上海蟹を見付けた香港人が『香港よりうんと安い』と言って、嬉しそうに買い込んでいたのを思い出す。

[2]崇明島

   揚子江の河口近くには中国で3番目に大きな島がある。中国人が3番目に大きいと言うので『第1と第2の島は何だ?』と質問すると『台湾と海南島』と答えた。大陸の中国人には台湾は中国の島だという観念が染み付いている事に図らずも気付いた。あれだけの大国でありながら中国には何故か島が少ない。
      
   黒龍江の中の川中島(珍宝島=ダマンスキー島)をやっとの思いで、ロシアから中国は最近取り返したが、何番目に大きい島なのだろうか?
           
   上海から土埃だらけの道を通って揚子江の川岸にある宝山市に向かう。宝山は海に面しているのではなく、河口からは数十Kmも上流だ。岸辺に立つと約20Kmの彼方に崇明島があるはずなのに全く見えない。デルタにできた、最高地は僅か海抜4mの平らで山もない川中島なので見えないのも当然だ。
                
   揚子江の水が余りにも土で濁っているので『これは黄河じゃないか!』と言うと『黄河の水は揚子江の6倍(注。1996-6-18朝日新聞の夕刊によれば正解は何と60倍だった!1Kg中の土砂含有量は37Kgで世界一。海水中に溶解している無機塩類の割合に近い)も土を含んでいる』と通訳は真面目に答えた。港とは名ばかりの船着き場で崇明島行きのフェリーに乗る。

   フェリーからは宝山製鉄所と、隣接して建設されている火力発電所が見えた。こんな遠浅でしかも年々土が運ばれ沈殿していく川岸に、製鉄所を作った中国人の気が知れない。臨海製鉄所なのに臨海の長所は全く活かせない。しかも日本の真似をして大型溶鉱炉を採用した結果、超高圧でも潰れないコークスを作るために、中国では採れない強粘結炭をオーストラリアから輸入する始末。 
                  
   大型の石炭専用運搬船から小型船に、沖合で石炭を積み替えねばならないという能率の悪さは未来永劫に続く。海を埋め立てて製鉄所用地を作らなくても、川岸に広がる荒れ地が転用できることに魅力を感じていたのだろうか?

   上流に向かって揚子江を斜めに横切りながら、1時間40分も掛かって崇明島の小さな港に着いた。島は輪中のように高さ数mの堤防で囲まれていた。大洪水でも海岸に近いので水位は中国大陸の内部ほどには変動しないのだろう。
     
   島の面積は約 800平方Km。人口は80万人。島の中は隅々まで農地として使われているだけではなく、人口の多い都市すらもある。平らな島なので川が発生しない。その代わりに島の中には運河が四通八通している。運河の水位は揚子江の水位と同じなので水が流れず、やや不潔だ。

   訪問した部品会社で『どうしてこんな孤島みたいな所に工場を作ったんだ?物流がネックにならないか?』と聞くと『大抵の問題は島の中で解決する。製品は小さな部品なので心配無用』と答えた。上海向けの野菜の大産地なのか立派な民家も多く、この島は豊かなようだ。3階建ての個人鉄筋住宅も見掛けた。
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溜息が出る工場

1.溢れる企業内失業者 
                      
   中国の製造業の大会社は、ある意味ではそれ自体が1つの都市だ。従業員の子弟用の学校、病院、日用品などの雑貨、食料の販売などまでカバーしている。工場の一角には白菜が山と積んであった。従業員に漬物用として現物支給するそうだ。工場によっては暖房用の石炭も現物支給するそうだ。

   従業員の生活保証は企業の責任らしく、余剰人員がいるからと言っても首にすることは出来ないらしい。工場の現場で働いている人は一見して3割程度。7割の人には仕事が全くない。働いている人でもその働き方は中国式だ。日本式にコマ鼠のようになって働くと体力不足で倒れるのではないかと思う。もともと仕事も不足しているので、一所懸命に働くニーズもない。

   仕事のない人が工場内の会議室に集まって雑談していた。ビデオに撮ろうとして会議室に入り、撮影準備をしていたら、1人残らずあっという間に部屋から飛び出して行った。彼等にとっても仕事がないのは苦痛らしい。
         
   外国人に仕事をサボっていると思われたくなかったのか?それとも後で何に使われるか予想も付かないビデオに撮られる事に将来の危険を感じとったのか?可哀相な事をしたと私が反省すべきなのか?

2.工場内の典型的な風景

   中国は今なおノルマ社会に完全に汚染されている状況が、工場に入った瞬間に分かった。作業員の1人ひとりには1日分の特定の仕事が与えられている。自分の仕事さえ終えれば工程の前後の事情には全く無頓着。もともと少ない仕事を割り当てられているので作業は早めに完了する。その結果どんな現象が起きるか?後工程には中間製品が山と積まれている!                   

   切り粉などの清掃人は仕事の効率を考えるのか、切り粉が山のように溜まるまで仕事には一切取り掛からない。その結果、工場内はあらゆるゴミの山で溢れる。物流の担当者もバッチ・システムで働くから、工場内は原材料や中間製品の山で溢れてしまう。トヨタ生産方式がいかに優れているかを認識できる生きた反面教材だ。
                                       
3.サンタナ工場

   VWは既に閉鎖していたアメリカの工場からエンジン部品の加工工作機械を移設して使っていた。中国人にとっては減価償却済みの中古機械も資産に見えるらしい。VWに取って本来ならまるまる廃却損になるはずだった設備を、体よく中国に売り付ける事が出来た。案内してくれた英語が分かる中国人の社長は『価格/性能から考えれば損な取り引きではない』と答えた。
                 
   社長が工場を案内していた時に、居眠りをしていた従業員を見付けた。彼は傍らのナットを掴むや否や頭目掛けて投げ付けた。まるで野良犬扱いだ。仕事をサボって居眠りをしていたのではない。仕事がなかったのに!

   VWは中国の工場の実態を考慮して、発注先の部品会社にVWの専用ラインを作らせた。生産量が少ないといっても他社部品との混流ラインを拒否したのは天晴な決断である。部品工場でもVWの専用ラインは、工程管理状態が一見して分かるほどに整備されていた。

4.アッと驚く工場のトイレ 

   工場敷地内での移動中に、別棟のトイレを発見したので立ち寄った。同行の人達は事情を既に知っていたので見には来なかった。私は本から情報を得ていただけだったので現物確認にいそいそと出かけた。             

   さすがに男女は別々だったが大の方にはやっぱり扉がなかった。長さ1mの溝が1m置きに10本くらいあって、数人の男が用足し中だった。皆外側を向いて楽しげに隣同士お喋りをしていた。鶏が並んでいる様に感じた。姿勢は和式トイレを使う場合の日本人と同じだ。

   仮性包茎が半分以上だ。3割といわれる日本人よりは比率が高い。人種はやっぱり違うのか?それとも住宅事情のせいで使用回数が少ない結果なのか?ビデオカメラ付きの外国人が来た事に気付い時、恥ずかしげな困惑の表情が一瞬だったが走った。汚物を掴んで投げ付けられるのでは?との予感がしたので数秒で退散した。寒さで小さく萎縮した部分に弱々しい印象を受けた。 
                                                    
5.工場の経理内容 

   訪問したどの工場でも、売上金額や給料(平均値でも、本人の分でも何でも)は教えてくれたが、貸借対照表を見せてくれたところは1つもない。借金や売掛金が幾らあるのか、実際に儲かっているのか、税金を幾ら払っているのかさっぱり掴めない。彼等は企業秘密にしたいのではなく、資料が整備されていないので質問に答えられないのではないか、と推定した。
                       
   何とか原材料を調達し、製品を売り、給料を払うだけのどんぶり勘定のようだ。『何が問題か?』と質問すると、殆どが『資金調達が難しい』と答えた。国営企業はどれもこれも自転車操業のように思えた。   
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中国あれこれ

   1.1人っ子政策

   今回訪問した大都市では1人っ子政策は、市民に十分浸透しているように感じられた。繁華街でも郊外でも小学生以下の子供の姿を滅多に見掛けない。産児制限を宗教として反対するイスラムを国教にしている国々の場合、町でも村でも子供が屋内外に溢れているが、中国では子供は探さないと見付からないほどだ。
      
   訪問したある工場では、工場の壁に全員の名前・結婚の有無・子供の有無と人数・避妊方法が書き込まれた一覧表があった。子供が1人でもおれば具体的な避妊方法を届けさせる程の徹底振りだ。

   家中心(男尊女卑)の意識が未だ根強い中国では、一説に拠れば20%も男児が多いらしいが、不思議なことに子供の数や男女比の統計データを見たことがない。政府は影響の大きさを恐れているのだろうか?それとも子供が適齢期を迎えたときになって女性の価値が急上昇し、男尊女卑が自己矛盾を起こす結果、意識の近代化が一気に進むのを密かに政府は待っているのだろうか? 

   2.公園(庭園)
 
   日本庭園のルーツは中国にあるので構造が大変似ているのは当たり前であるが、似ていない部分もある。人造湖・築山・植木・太鼓橋・川・回廊・滝など似ている部分の方がもちろん多い。しかし、中国でのみ見掛けるものが少なくとも1つある。
                                     
   軽石のように無数の不定形な穴が虫食いのように明き、全体の形も不定形で、灰色気味で苔も生えていない大小の岩を数mの高さに積んだ、荒涼と感じる岩山である。岩の隙間に育ちの悪い草木がほんの一寸植えてある。大抵の場合、人造の池の正面か池の中に島のように配置されている。しかも公園の特等席に配置されている。                  
                 
   骸骨が積み上げられているようで気味が悪い。枯れ山水から受ける心の安らぎを、私には全く汲み取れない。中国人には、荒涼とした北西部の大地と南西部の山水画の風景の象徴としての、美の極致に感じるのだろうか?山紫水明の国土に住んでいた昔の日本人は、いくら中国文化に心酔していても『あれだけはノーサンキュー』と拒絶反応を起こしたのだろうか?
 
   3.寺院建築
                            
   寺院の外観も日本とはかなり異なる。古い建物は建築材料に石を使ったためか、屋根の庇が短いし日本の建物と比べると曲線美に欠ける。この伝統からか、鉄筋コンクリート時代になった今では好きな形に自由に出来るのに、外観は石造時代と同じだ。しかもカラフルな色のペンキを柱や壁に塗るため、法隆寺や延暦寺とは印象が全く異なる。宮大工の視点から寺院建築を評価すると、優美さ・精密さなどでは格段の差がある。 
                          
   4.当社(外資)への期待   
                   
   訪問した会社の殆どの経営者から同じ趣旨の発言を聞いた。『トヨタ自動車と当社とで合作会社を作りたい』。合作会社とは外資との共同出資で作る会社のことだが『外国側が資金を、中国側は土地を出資するだけ』と言うのが本質的な特徴である。その本心を極端に表現すれば『工場建設と原材料の購入には外国側の振り込み資金を使い、工場操業後は技術支援の負担も外資に求め、製品の買取りすらも外資に期待』していることにある。  
                              
   彼等の論理によれば『技術指導をちゃんとしてくれれば、中日間の人件費格差分だけ製品原価が下がるから、日本へ低価格で輸出でき、外資にもその分利益が出る。品質が悪い場合は日本側の技術指導に原因がある筈だから、中国側の問題ではない』と言う。ああ、何と自分勝手な要求か!
                    
   5.食糧問題など

   日本では識者と称する人が食糧問題に関して、目に余る愚論を繰り返しマスコミに発表している。『中国の生活水準が上がれば、それに連れて肉食の比重が増し、家畜の飼料は広大な中国といえども国内では不足し、世界の食糧市場は逼迫する。国内の食糧自給率が低い日本には食糧危機が訪れる』の類いである。

   日本が食糧調達戦で中国に負ける事はあり得ない。売り手の最大の関心事は相手の支払い能力にある。古来食糧不足で餓死したのは貧乏人である。平成5年の米不作の時にもその経験則は実証された。世界中から来た米の売り込み合戦に、日本が翻弄されたのも記憶に新しい。

   同じ趣旨の問題は工業原材料の調達分野にもある。あの石油危機に際しても日本は何1つ困らなかった。日本が買えないほどの価格にはどんな材料も高騰する筈がない。買い手がいなくなるからである。中国がどんなに頑張っても、自らの購買力以上の生活水準に到達する事はできない。

   6.円高は日中いずれに有利か?

   平成7年4月4日、とうとう1$が85円台に突入した。日本人の一人としてこんなに嬉しい事はない。世界中の機関投資家が日本人の労働の対価を自らリスクを負いながら、こんなに高く買ってくれたからだ。その結果、世界の物資を益々安く日本は調達できるようになる。中国の軽工業品も益々安くなり、どんどん輸入が膨らむ。つまり円高は相互に有益だ。

   日本の空洞化を心配する人がいるが、アホらしくてまともに話を聞く気がしない。空洞化が進むと言う事は国内産の商品が、輸入品に比べ消費者に魅力がなかったからに過ぎない。かかる効率の悪い産業を養うのはもう懲り懲りだ。古来自国通貨が下落して栄えた国はない。

   ビール・ガソリン・食肉・衣料品・電気製品・電話料金・金利などどんどん安くなって来た。最後の砦は電力(注。平成9年3月17日。本年に至り政府は重い腰をやっと上げて、向こう数年以内に電力の価格を世界価格に近付けるべく、取り敢えず電力会社に2割下げさせる方針を固めた)であるが、今世紀中には独占の弊害も消え始めると確信している。その時(2001年元旦)には1$が72円、ドルは戦後のスタート、1$が 360円だった時代の1/5になっていると確信している。円高万歳!!
                               上に戻る
中国の今後は?

                                          平成5年2月18日
             
以下の記述は2年前のものである。読み直しても未だ私の考えは些かも変化しない。中国は今後も躍進するとの予測が溢れているが、石松には疑問もある。

[1] 農業問題

   農業人口比率は75%(12億人*0.75=9億人)もある。農地面積が9000万Haと仮定すると、1反/人=5反/家族となる。文字通りの5反百姓(水飲み百姓)である。最高の収益があがる米で計算しても家族所得は僅かである。2毛作等の工夫・家畜の飼育・果樹・野菜等があったとしても、下記の概算が上限と思う。米価に国際価格を使うといかに収入が少ないことか!
                                                     
   10俵/反*5反*5千円/俵*70%(収益率)=17.5万円
   17.5万円/125円/5人=280$/人
   
   農業所得を上げるには、米価を上げるか農業人口を減少させるかしかない。米価を支えるための他産業の所得には日本と違い余力が乏しい。また農業人口を労働力として他産業が吸収するだけの力にも乏しい。実質農業所得を5倍にするためには純農業人口を約2億人にすれば良いが、実現の可能性は絶望的なほどに小さい。
   
   1人っ子政策は農村でこそ一層重要であるにも拘らず、逆に甘く運用されている。農村が経済的に離陸するには、余剰労働力を吸収できる郷鎭企業の爆発的な成長が不可避とは言うものの、そろそろ輸出市場も飽和し始めた。輸入大国アメリカといえども無限大の市場を持つブラックホールではない。
          
   英国は農村の囲い込み政策で、農業人口を一気に減らし、都市部へ追い出して解決したが、産業革命を世界に先駆けて成功させた幸運に恵まれていたからに過ぎない。余剰労働力を輸出産業で吸収できただけではなく、植民地と新大陸及びオーストラリア・ニュージーランドに国民を送り込めたし、もともとの母国の人口も現在の中国に比べれば圧倒的に少なかった。  
                              
   日本ですら現在やっと農業問題を解決出来る見通しが立ち始めたばかりだ。日本は明治以来、次3男が都市へ少しずつ移動し、女性も女工や結婚で徐々に農村を離れ、次には長男の兼業化による3ちゃん化、最後に長男の結婚難による都市への脱出が始まって来た。その結果やっと農地の下落が始まった。       

   米の自由化が始まればこの流れは一気に加速されると思う。その時に初めて真に農業をやりたい人が大規模にやれる条件が整ってくる。50代以上の未だ現役の農業従事者がリタイヤーし、農協を始め農業関連産業のスリム化が完成するには、後1世代30年も必要だ。並行して林業・漁業問題も同時解決に向かって収束する。

   人口過大な中国の立場は日本よりも格段に厳しい。どんなに低賃金を活用して工業製品の価格競争力を高めても、日本並みの輸出比率を確保することは難しい。先進国が全部空洞化でもしない限りそれだけの市場がない。
             
   結局は国内で生産と消費のバランスを取らざるを得なくなる。この人達にも非農業部門と同じ生活水準を保証する場合には、好むと好まざるとに拘らず、非農業部門の付加価値増加分の実に75%を農業部門に移転させなければならない。
              
   中国は非農業部門の活力をキープするために、農業部門からの人の流出を禁止している。しかし両者の格差が大きくなればなるほど、こんな政策は長続きしないと予想している。    
                        
   国内移動が自由化されると『都市の人口は一気に激増し、スラムの大発生とインフラ不足により大都市の混乱は想像を絶する水準に達する』と予想されるので政府としても、どの様にして徐々に都市を農村に解放して行くかが最大の課題になる。(注。平成7年の現在では多少移動を緩和している。しかし、都市での居住権を取得するためには、市に農村出身者は一時金を支払わねばならない)

[2] インフラの壁 

   道路・高速道路・港湾・鉄道・地下鉄・高速鉄道・電話・空港・上下水道・電力・エネルギー関連設備は現在フル稼働状態にある。これらには過去の遺産が多い。今までは稼働率を上げることによっても隘路を解決して来たが、今後は新規投資がフルに負担となるばかりではなく、寿命が尽きた設備の更新負担も増えてくる。
         
   しかも中国の世界に占める比重が高まると、今までは黙認されていた公害垂れ流しも許されなくなり、資金負担は急増する。しかしこの種の非生産分野には外資導入の対象にはなりにくい。外資は製造業・商業とサービス業に偏りがちだ。
 
   原材料・エネルギー物資は運賃負担力が小さいため、広い国土内の陸上輸送コストの国民的負担は想像を絶する。太平洋上を大型船で運ぶよりも輸送原単位は格段に高くなる。理想は地域ごとに資源がバランスするくらいになれば良いが、資源開発費の不足や資源の偏在の壁も大きい。

[3]国営企業の効率化                          

   都市部での最大の課題は累積赤字額もはっきりしない国営企業の効率化にある。現在も企業内失業者は50〜70%はいると推定している。この余剰労働力問題は農村における余剰労働力問題と似ている。生活が掛かっているため首には出来ない。共産主義の根幹に関わる問題(共産主義下では失業者が出ないと主張して、人民に夢を持たせた)だからだ。
                          
   結局、製造業には市場で競争するしか解決策はなく、この過大な人件費の負担は赤字を通じて国が結局補填することになる。労働者の定年待ち、事業の拡大による失業者の吸収までにはかなりの時間が掛かる。
                 
[4] 住宅投資の負担

   中国の住宅床面積は4〜5u/人に過ぎずかつ極めて劣悪である。全国がスラムといっも過言ではない。遅かれ早かれ全部建て替えざるを得ない。いずれ農業部門からの流入者の追加分の住宅も必要となる。1人当たり僅か十万円としても、全国では1兆$の資金が必要になる。

   中国が今後とも成長するためには、政治体制の如何にかかわらず、上記の課題は自己解決を迫られる問題である。外資の導入で解決しょうとすれば中南米の借金地獄の比ではないし、中南米に懲りた銀行には今度は貸す気もない。自己資金を投入せざるを得ず、遠からず高度成長にブレーキが掛からざるを得ない。 
                                           
[5] 成長の壁

   現在の成長を下支えしている外資の流入がストップする条件は何か?輸出市場の壁、原材料資源の調達力の壁、1人っ子政策の弊害の顕在化による非効率化の壁。 
                                     
   順調に伸びるのは今後十年。今の経済規模の2倍くらいまでか?それでも実質GNPは2千$/人となり、PPP(Parity Purchase Power=実質購買力)の規模では米国に匹敵する。 
                        
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おわりに(平成7年4月1日追記)  

   中国の4000年の歴史の成果とは一体何だったのだろうか?中近東にて花開いた人類最初の文明をシルクロードを介して輸入して黄河文明を育み、インドからは壮大な仏教を取り入れて中国独自の儒教にまで昇華し、それを国民の人生観にまで浸透させて政治支配を容易にし、アジアの中核となった大帝国を造り上げた所までは大成功だった。 
                            
   しかも幸いなことに、穀物の土地生産力に優れた米作技術を完成させ、人口の大爆発までも手に入れた。これまでの人類の歴史では、人口数こそが国力だった。古くは中国に侵入したモンゴル、近くは欧州の列強や日本も、最終的には漢民族の人口の圧力の前に撃退された。この大成功こそが中国の本質的な弱点を誘発しようとは、何と言う歴史の大きな皮肉だろうか?

   この大成功が『中国は世界の中心』との中華思想を育み、世界の進歩を謙虚に学ぶ古代に見られた態度を残念にも雲散霧消させてしまった。しかし幸いにも人類は、有史以来初めて本格的な情報化時代を迎えた。テレビを通じて世界の実像を知り始めた中国国民もやっと目覚め始めた。いま生きている人が全部死んでしまった100年後には、やっと中国国民も念願の真の幸福を手にできるのではないか?!

平成9年2月6日追記

   2,3年前から中国ブームが復活。当社も中国プロジェクトに本気で取り組み始めた。トヨタ自動車の正社員(つまり、待遇は日本人と同じ)として日本語に堪能な満州(瀋陽)出身の中国人も採用した。同じフロアに勤務しているその中国人に、この旅行記を読んで貰い、誤解の有無のチェックをお願いした。

   『残念ながら、間違いはありません。私の生まれ故郷『瀋陽』に関する記述の正確さにも驚きました。しかも私が空気のように意識すらしていなかった分野まで指摘され、祖国の現状を再認識しました』とのお世辞まで聞かされた。


平成18年4月20日追記

中国が昨今のように大変身し大発展を遂げるとは、たった10年前ですら夢想だにしていなかった!
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