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旅行記
           
アジア
大シリア(平成17年8月25日脱稿)

      人類1万年の歴史でアラブの地ほど長期に亘って大きな影響力を他地域に与えた国々はない。遠い過去には四大文明の半分、世界最古のエジプトとメソポタミア文明を生み出し、アルファベットとアラビア数字を考案して人類の知識の進歩と蓄積に貢献しただけではなく、ユダヤ教・キリスト教・イスラームを生み、宗教を通じても今尚、人心を捉えて離さない。 

      更には、欧州が暗黒時代と言われていた頃、ギリシア・ローマの文明を引き継いで発展させ、ルネッサンスを育んだのもアラブの功績である。その後の産業革命を経て20世紀以降の石油と天然ガス時代の到来と共に、それら天然資源の最大の供給国としても、またもや人類の未来を左右しかねない程の存在になって歴史に再登場した。

      それにも拘らず今日までを振り返ると、パレスチナを入れれば22ヶ国にも達するアラブ諸国の内、我が訪問国はエジプトだけという少なさだった。その空白を埋めるべく、エジプトとメソポタミアの両文明が激しく交流した大シリアを目指すことにした。

      とは言え、アッシリア帝国の国名にルーツを持つ大シリア(今日のシリア・ヨルダン・レバノン・イスラエル・パレスチナ地域を支配した古代国家)の地域の歴史は日本の数倍にも達し、その間の支配民族・宗教・国家・文字・文明の変遷を極めるには、残り少ない全余生を投入しても時間が足りないほどの複雑さがあるので、勉強をするのはとうとう諦めた。             
 
      『時の流れのように穏やかに、この身を任せて』先達の努力の跡を、あるがまま瞼に焼き付けるだけの旅に終始したが、シリアのパルミラ(世界遺産)やボスラ(世界遺産)、ヨルダンのペトラ(世界遺産)やジェラシュ、レバノンのバールベック(世界遺産)やビブロス(世界遺産)など、古代の人達の壮大な企画力と達成力を目の当たりにすると、彼らの偉大な業績に否応なく喝采を贈る他なす術もなかった!                   
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はじめに

[1] 新日本トラベル

   7月4日と8月1日のがん検診日間の束の間を活かして予てから訪ねたかったシリア・レバノン・ヨルダンに出かける決心をし、荊妻に『一緒に出かけないか?』と誘った。
   
『古代遺産のある国は、昔は先進国だった筈なのに今では何故か殆どが発展途上国。ホテルも食事もイマイチだし、それに何よりも古代遺産見物にはもう飽きた!』
   
と言って、誘いに乗ってくる気配すらもない。荊妻には秘密にしていたが今年は博打(株の信用取引)が少しだけ当り、小遣いにゆとりが出来たので、
   
   『100万円お小遣いをやるから、行かないか』と畳み掛けたものの、
『そんなお金があるのならば、もう直ぐどうせ必要になる筈だから、仏壇でも買っといて!』。我ががん死を既に覚悟している、と言わぬばかりの投げやりな返事。

   仕方がない。最悪の場合は1人での参加を覚悟して『新日本トラベル』に申し込んだ後、過去一緒に海外に出かけたことのあるゴルフ仲間などを含む20人くらいの友人に声を掛けた。『新日本トラベル』は『新日本トラブル』と言われているくらいの会社ですよ、と言う人まで現れ、残念ながら誰からも同意は得られなかった。

   私も5年前にゴルフ仲間3人とイタリア縦断に新日本トラベルのツアーで出かけた折には、散々な目にあったので爾来敬遠していた。同社はリピータが激減したらしく、とうとう倒産。その後、『SNT』と言う会社の傘下に入って再建された曰くつきの旅行社である事は承知していたが、この会社にはJTBなどの大手旅行社とは競合しない珍しい国への観光コースも多く、無視する事はできなかった。

   今回は限られた日程の都合から我が意に反するものの、已む無く『新日本トラベル』を選ばざるを得なかった。
   
   多くの友人達が同じ発言をした。『危険じゃないの?』。しかし、多重がんで2年半も精神的に鍛えられた私は何時の間にか『何時かは死ぬのだ。いちいち危険度なんか気にしてはおれない。行きたい所へ猪突猛進あるのみ』の心境に達していた。

[2] 旅行代金

@ 基本旅行代金・・・・・・・・・・・・・・・268000円
A 1人部屋追加料金・・・・・・・・・・・・・・52000円
B 外国通行税・・・・・・・・・・・・・・・・・・2350円
C ビザ代行料・・・・・・・・・・・・・・・・・14700円
D 関西空港施設料・・・・・・・・・・・・・・・・2650円

E 合計・・・・・・・・・・・・・・・・・・・339700円

   その他に航空燃料費の高騰に伴う臨時徴収費などもあったが、詳細は忘れた。

[3] 関西国際空港

   @ 出発前からトラブルが発生!

   申し込み時点では中部国際空港発着だったのに、出発直前になってトルコ航空の座席が取れなかったとの口実(同社が同業他社との座席獲得競争に何故敗れたのか? との私の質問には回答拒否!)でカタール航空と全日空の共同運航便に変えられ、関西空港発着へと変更された。しかも深夜(23時45分)の出発である。

   この不始末のためか、出発直前とは言え無料でのキャンセルは可能だったが、既に見飽きているイスタンブールからドーハの市内観光に変更されたことに若干の魅力(石油成金国の近況も見たくて)も感じ、不便を承知で出かける決心をした。

   関空への最速ルートは新幹線経由だが、時間はたっぷりあったので、近鉄・南海ルートを初トライ。豊田市から名神&名古屋都市高速経由バスで名鉄バスセンターに到着。隣接した建物の地下に近鉄名古屋駅がありJR名古屋駅よりも近く、移動も楽だった。

   名鉄と異なり国際標準軌(新幹線と同じ)の近鉄大阪―名古屋線(1959年の伊勢湾台風の年に1,067mmの狭軌から1,435mmの広軌に変更された)の特急は揺れも振動も少なく快適だった。地域独占の名鉄に比べ私鉄王国関西で鍛えられている近鉄は車両も新しく、トイレも飛行機並の快適さ。セルフサービスとは言え、使い捨ての不織布製お絞りもあった。

   座席位置の指定方式は独特だった。日本ではJR・航空機・劇場など何処でも座席番号はパラメータを2個使用する方式だ。(1−A)とか、(イ−1)などである。これに慣れると切符を手にした瞬間、大体の場所が推定できる。

   所が近鉄も後で乗った南海も1から順番に大きくなる通し番号だった。このため、進行方向に向かって左右どちらの側なのかすらも即座には解らなかった。何故こんな方式を採用しているのか、その理由はとうとう推定もできなかった。

   終点の『難波』は何と言う大きなターミナル駅か! 新宿駅を連想させるような予期せぬ巨大さだ。天下の大阪と雖も科学技術発信力は東京と比べれば極端に小さく、現役時代に難波までの出張は皆無だった! 難波の賑わいは大阪駅周辺を圧倒しているのに初めて気付く。

   南海電車のターミナル駅まで重たい旅行鞄を、何と15分間も鉄道構内を引きずって移動した。関空行きの『ラピート』も快適な電車だった。車両内への入り口に鞄置き場(新幹線には未だに鞄置き場が用意されていない。海外からの観光客も苦労させられている!)があり利便性が高い。

   南海電車はしゃれたデザインだった。飛行機の機体にそっくりだ。網棚は飛行機のような落下防止用蓋付きの格納装置に変わっていた。座席横のガラス窓には上下に長い楕円形の枠が嵌められていた。長方形のガラス窓と室内側の枠との間に上下に移動する遮光板も取り付けられていた。僅かの追加投資なのに、乗っているときの気分は遥かに良好!

   いよいよ、海外へ出発するのだ、との昂揚感を発生させるようなデザインだ!

A 添乗員が現れない!

   指定された時刻になっても団体受付カウンターに添乗員が現れなかった。空港内の店や楽しみにしていたゴールドカードのラウンジを初め、食堂の殆ども既に閉まっていた。カウンター内にいる旅行社の代理人は『添乗員が来るまで航空券は渡せない』と言う。
   
   『馬鹿なことを言うな。私には何の落ち度もない。チェックインをして鞄を預け身軽になりたいだけではなく、免税店が閉まる前に寝酒も買いたいのだ。添乗員には飛行機の中で会うから何の問題もない筈』と言って、強引に切符を取り上げた!
   
   後で事情が解った。東京出発組の羽田発関空行きの国内線が遅れていたのだ。そんな場合に備えた臨機応変の対応が出来なかっただけだ。マニュアル時代のマニュアル不備には迷惑千万だ!
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トピックス

[1] 事前勉強
   
   何時ものように豊田市中央図書館から本を10冊借りてきた。著者が外国人の場合は全て日本語訳の本。

@ 時の回廊(中東歴史紀行) ハクスリー     平凡社 1992-6-20 4600円
A 来て見てシリア 清水紘子           凱風社 1998-2-13 1900円
B オリエント夢幻紀行           河出書房新社 1999-4-13 1800円
C 中東入門書 ミスター・パートナー出版部    星雲社 1999-12-3 1500円 
D 西アジア(世界の地理)           朝倉書店 2000-1-20 7600円
E イスラエル・中近東 神部隆志編集      JTB 2000-8- 1 1550円
F ドーハの喜劇 またま忠作  コスモヒルズ 2000-9-26 1500円
G イスラムの誘惑 江国香織           新潮社 2001-4-25 1800円
H 回想のオリエント ローゼン      法政大学出版局 2003-2-25 4200円
I イスラーム魅惑の国・ヨルダン 井上夕香  梨の木舎 2003-5-25 1600円

以下は購入書。K〜Oは現地で買った日本語版。写真集だけは現地のアラビア語

J ヨルダンシリアレバノン 地球の歩き方 ダイヤモンド社 2004-6-25 1800円
K バールベック イブラヒーム ムスタファ (解説書)
L ボスラ(写真集)
M パルミラ(写真集)
N ヨルダン(副題は芸術と歴史の国)
O 今日のシリア ジャン・ユロー(解説書)

   中東の勉強には旧約聖書とコラーンの知識は不可欠とは承知しているものの、共に読んだこともなく、折角借り出した書物も生齧りのまま。何時もの事ながら、素人女性の書いた書物には独りよがりが満載され、読み進めるのは直ぐに止めた。
   
   しかし、@は大変面白く読めた。まるで我が旅行記を読んでいるかのような印象を受けた。著者ハクスリー(生物学者)は1946年ユネスコ初代事務局長に選出され1958年にはナイトの爵位も受けた方。著者も私も自然科学の一端を齧った仲間。一流でも三流でも、旅行記を書く時の方針がこんなにも接近するとは、我ながら驚いた。
   
[2] 同行者

   今回の同行者は5夫婦+単独参加男女各2名の14名。少人数だったので大型バスでの移動中は座席にゆとりがあり大変楽だった。中東の紛争地帯まで旅行に来る方々だけあって、代表的な観光地は既に行き尽くした観のある旅慣れた人が多かった。14人の内、還暦前の人は3人(中年夫妻と独身女性)と推定。印象に残った同行者の素顔に触れる。

@ A夫妻(東京)

   ご主人は日立製作所OB。人事関係の仕事をしていて宴会も多かったが、酒が飲めない体質だったお陰で成人病に縁もなく、長生きできそうだと喜ぶ。ゴルフは月2回。テニスを長いことしていたが体に障害が現れ、スカッシュに転向し週1.5回。どこの図書館でも無趣味な暇潰しの老人(男)が溢れている、のだそうだ。
   
   豊田市の中央図書館にガイドブックを借りに出かけた折には何時も老人の大群に出会うので、私は日本では勉強好きな老人がこんなにもいるのかと感嘆していたが、長い間誤解し続けていた現象にやっと気付かされた。
   
『電機大手各社は全国から毎年、数百人から千人に達する大卒を採用し、低賃金でこき使った挙句の果てに、バブル崩壊後はリストラに驀進。リストラは順調に出来たのですか? エジソンが創業した世界一の電機会社GEと比較すれば、日本の電機会社には世界に冠たるほどの技術は一つもなく、韓台中に押し捲られジリ貧の今、従業員は幸せですか?』
   
『私は技術の事は解りません。職場に馴染めず我慢していた人は意外に多く(本人の責任か、私には不明だが・・・)、退職金を増額すると自主退職してくれるので、リストラは順調に出来ました』のだそうだ。私は退職後5年以上経過した人たちの心境(幸福度)も聞きたかったが・・・。
   
   美人の奥様はピアノを趣味とし、真偽は不明だがこの世代では珍しく絶対音感もあるとか(故美空ひばりさんでも絶対音感はなかったので、初見の楽譜はピアノの伴奏がなければ歌えなかった。岳父は九大フィルハーモニーオーケストラのバイオリン奏者。長女だった荊妻に夢を託して特訓。荊妻は福岡教育大学音楽科ピアノコースを卒業したが、絶対音感は身に付かずのまま。我が長女は2歳の時から荊妻の特訓を受け、子供ピアノコンクールでは中日新聞社賞などを貰うに至ったものの、絶対音感が少しある程度)
   
   何処かの英文科卒らしい。裕福なご家庭のご出身か? 毎日せっせとマネキンのように衣替え。祖母に子供の頃から連れて行かれて病み付きになった毎月の歌舞伎見物も趣味とか。伊豆には別荘。サッカーに没頭している31歳の一人娘が未だ独身なのが、夫妻の唯一の悩みらしい。
   
『お嬢さんを結婚させるのは、本人に結婚の意志さえあれば意外に簡単ですよ。お見合いシステムを活用するのです。お見合い市場には異性にモテナイ結婚願望者が山のように犇(ひしめ)いています。餌を与えられていない釣濠の魚と同じで、申込めば直ぐに釣れます。

私は2社の無料お試しコースを発見しそれぞれインターネットで、年齢だけ29歳と偽り青春に立ち返って申込んだら、翌日には両社とも名古屋支社の担当者から希望通りの女性の紹介があり、驚きました! 更に私の性格分析に至っては、本人も驚くほど的確でした』『・・・』
   
   ご主人に『美人と結婚した私の友人が、美人は衣装や化粧品などの日常の維持費が予期せぬほどに掛る、とぼやいていましたが・・・』『・・・』
   
   旅の途中、ホテルの浴槽にしばしば栓がなく、フロントにそのことを伝えるのに、栓の英単語が思い出せず、状況説明を介して交渉していたので、この際にと奥様に訳語をお尋ねした。携帯用の和英辞典をじっくりと調べられての結論は『ストッパーで如何でしょうか?』
   
   不運にもその後この単語を使う機会はなかったが、帰国後手持ちの辞典で調べたら『プラグ』と訳されていた。私には、ストッパーには動きを止めるとのニュアンスが強く感じられ、結果としてはプラグの方がより適切な訳語に思えたが・・・。
   
A B夫妻(宮崎)

   ご主人は脳梗塞で倒れられたが、奥様による発見が早かったため、幸い重大事に至らなかったそうだ。しかし、観光中はいつも無理をされず、奥様との労わりあっての行動には晩年(70歳代後半?)の幸せが滲み出ていた。

   宮崎県人は大いなる田舎の愛知県人同様、ローカル空港の悲哀を味わわされていたが、今回は珍しく往復共に便利な国内線の接続便が取れたと大喜び。宮崎だと前泊・後泊は当たり前だそうだ。

   宮崎の温室マンゴーは松坂屋本店で1個8,400円(内400円は消費税)もしていたと言ったら、マンゴーはネットで吊るして育て、ネットに落ちた完熟品のみを出荷しているからだ、と教えてくれた。来年は試食したくなった。

B C夫妻(三重県)

   ご主人は昭和シェル石油を定年後、現役時代の趣味が実を結んで東京都御徒町で骨董品屋を開業。月に一回くらい帰省する単身赴任。でも、そのお陰で一年に3回は夫婦で海外旅行ができるから、と言って仕事に張り切られていた。最後の訪問地、アンマン郊外にある世界遺産『アムラ城』の紹介展示館近くの露天商から古銭一式を50$で購入したら、アンマン空港内のX線検査で見つかり、不法持ち出しの疑いを掛けられた。
   
   空港の税関職員が専門家に助言を求めたものの鑑定が出来ずに無罪放免された。その間、何と20分以上もの足止め。しかし、本人の鑑定では殆どが偽物の中に本物も数枚混じっているとかで、合計10万円はするといって大喜び。『芸は身を助く』の典型例か?

   奥様は秋田美人。若い頃は9人制のバレーで国体へ。その後、テニスに転向し、インストラクターとして内助の功。お2人には人生に満足りた幸せな雰囲気が漂っていた。

   『日本の女子バレーは何故弱くなったと考えられますか?』
『ハングリー精神がなくなったのも一因ですが、根本的には名監督がいないからです。女子は男子と異なり、監督の影響を特に強く受けます』と、ユニークな監督論を披露された。

C 単独参加のお婆さん(茨城県)

   福岡県田川市の出身。ご主人はカリフォルニア大学に留学。定年後は囲碁暮らし三昧で海外旅行には関心がなく、何時も一人旅をする70歳前後に感じた超モダンお婆さん。液状化現象や免震構造、Y染色体やミトコンドリアなど理系分野の専門用語がポンポンと飛び出す博識には驚く。
   
   長男が共通一次で900点以上も取れたので東大に行かせたかったが、本人は筑波大学を希望しNHKに就職。海外旅行中は遺言状を持ち歩いているそうだ。どの国で死んでもその国の習慣に沿って死体を処理して欲しい、と英語で書いてあるとか。
   
   鳥葬の国なら鳥が食べ易いように死体を切り刻んで鳥葬に。インドならガンジス川の岸辺で死体を焼き、骨と灰をガンジス川に流して欲しいとかの趣旨、だそうだ。

D 単独参加の男性(千葉県)

   奥様は10年前に乳がんで永眠。子供も独立していたので爾来一人暮らしの60歳代半ば。大型貨物の荷役専門の会社に勤め、若い頃カタールのドーハには半年も長期出張していたそうだ。久し振りのカタールを楽しみにされていた。
   
   1基1,000〜1,500トンクラスの荷物の場合、がたがた道でも荷台が常に水平になるように油圧で制御できるキャタピラー付きの台車に、クレーンで船から下ろし、複数台のブルドーザーで目的地まで牽引するそうだ。
   
   氏の体験談には意表を衝かれた。『10日間前後のパック旅行では、外貨は100$あれば十分です! お土産は全く買わないし、昼食と夕食時のお酒が主な支出なので、幾ら酒の高い国でも高々100$ですよ』 
   
   私は今まで理由もなく不安を感じて、外貨はT/Cと合わせて1,000$くらい持ち回り、何時もスリなどに無駄な神経を使っていた。高価なものはカードで買うので手持ち現金は少しでよい筈と頭では考えていても・・・。今回は出国時に買ったオールドパー1リットル瓶の3,600円を除けば、お土産を含めても142$しか使っていなかった。合わせても2万円にも至らないささやかな支出だ。氏の体験談は正しかったのだ!
   
   海外体験は十分すぎるほどお有りだった。ある時、室温のままのビールが出された。氏はこんな時には遠慮は無用、と言って即座に『冷たいビールと取り替えろ! さもなければお金は払わない』と大声でウエイターを怒鳴りつけられた。結局、冷たいビールの在庫はなく、一同も氏に同調して支払い拒否で一件落着。私は既に半分飲んだ後だったが、遠慮せずに返品。

[3] 各国国勢比較

        カタール     レバノン      シリア      ヨルダン
        (2003)                (2004)      (2003)
国土面積  11,521Km2    10,000Km2  185,000Km2   89,000Km2
人口      74.3 万人     440        1820       533
GNP     194.6 億$    173(2002)    215        98.9
所得/人   26,190      4,040(2003)   1,160       1,807

   上表は大変ラフなデータである。調査年度もまちまちだが、大体の傾向は一覧できる。レバノン・シリア・ヨルダンは新日本トラベルのパンフレットのデータ、カタールはインターネットの検索からの引用である。

   カタールは秋田県(11,609Km2),レバノンは岐阜県(10,479Km2)、シリアは日本の半分、ヨルダンは北海道(78,509Km2)+青森県(9,613Km2)の大きさに過ぎない。

   同じ中東でも、資源国と無資源国との所得格差は歴然としている。4ヶ国の人口は2,867万人、GNPを単純合計した681億ドルは、トヨタ自動車の売上額1,636億ドル(2004年度)の42%に過ぎない。実は同年度のGNPでトヨタを上回る国は世界には、アメリカ・日本・・・ギリシア・ポルトガルまでの31ヶ国しかない。

   もっともトヨタの売上額には原材料や部品メーカー・エネルギーや物流会社など支払い先会社のトヨタ依存分付加価値の総額も含まれるので、トヨタだけの付加価値額を大幅に上回るのは当然だが、商社を含む全産業での売上額世界第8位のトヨタの大きさを改めて認識するには十分だ。


蛇足(大企業ランキング)

@ ウォルマート       2882億ドル
A BP(英国石油)     2851億ドル
B ロイヤルダッチシェル   2652億ドル
C エクソン         2640億ドル
D GM           1935億ドル
E ダイムラー・クライスラー 1923億ドル
F フォード         1716億ドル
G トヨタ          1636億ドル


   私が昭和37年にトヨタに就職し、新入社員用教育資料でGMの年間売上額が日本の国家予算とほぼ同額と知った時に、GMは文字通り雲上の会社に思え、トヨタがGMにかくも接近するなどとは、当時は夢想だにしていなかった。
   
   しかし、1ドル360円で計算すると、今でもGMの売上は69.66兆円! 日本の今日の国家予算から国債費を差し引くと、両者の違いはないも同然。結局、過去40年強の期間の、日米の実質経済成長に360/110=3倍強の違いがあった(為替レートと実質経済成長率との変化の間には何の関係もないが、日米の場合偶々似た数字になっている!)、と大局的に理解すれば良さそうだ!

[4]外貨
   
   アラブ各国と米国は政治的にはイスラエルを挟んで対立をし続けているが、アラブ国内では自国通貨以上に米ドルが珍重されている。米ドルに比べればユーロも日本円も存在感は無きに等しい。両替屋で高いマージンを取られて現地通貨と交換できるだけだ。面倒でも日本で米ドルを用意し、現地通貨に交換する方が有利だ。
   
   今回、現地通貨の取得はトイレなどのチップ目的分だけだった。米ドルと言ってもお札だけしか流通しないため、1ドル札はチップとしては過大になるからだ。残った現地通貨のコインは別れ際に、バスのドライバーにチップ代わりに渡した。
   
   お土産屋やスーパーでも、ホテルやレストランでの飲み物代金でも、米ドルが通用するので現地通貨は不要。旅行中の買物対象の場合は、何故か米ドルだと1ドル未満の価格表示は無く、お釣りで現地通貨を受け取ることも無かった。

[5] 高速道路
   
   ダマスカス着からアンマン発までの移動は全てバスだった。延べ4,000〜5,000Kmか? 昼間の半分近くはバスの中にいたようなものだ。現地では高速道路と称していたが、全線舗装の単なる無料道路に過ぎなかった。しかし、郊外では交通量が大変少なく、おんぼろバスでも時速100Kmは安心して出していた。

   渋滞もないので、ドライバーの目的地への到着時間の予告は、JR各社の運行のように正確だったのには驚愕。

   沙漠の中の道路で異変を発見。道路両側10m以内の雑草の密度はそれよりも外側に比べると明らかに高い。道路には側溝がなく、路面に降った雨水は両側の空地に流れ出る結果、実質的には平均雨量が局所的に増加したのと同じ効果を発揮していると解釈。

[6] 沙漠の緑地化

   沙漠の発生理由には長期的な気象の変化と、雑草の根まで食べ尽くす羊や山羊の放牧過多や、人為的な木の皆伐に起因すると一般的には言われている。中東の荒涼とした沙漠を眺めると、人間が犯した愚かな歴史の歯車を逆転させる方法はないものかと考えざるを得ない。

   アスワン・ハイダムが完成した後、周辺の雨量が増加するほどの顕著な気象の変化が現れたそうだが、周辺のサハラ沙漠の雑草による緑化までには全く至っていなかった。

   シリア・レバノン・ヨルダンでは一木一草も見かけないサハラほどの沙漠は意外と少なく、農地化こそされてはいかなったが、何がしかの雑草を点々と見かける場所は多かった。

   私は世の植物学者・農学者・生命科学者達は全力を挙げて沙漠に育つ植物をこそ遺伝子工学の粋を集めて、人類1万年の計(人類の本格的な歴史は高々1万年なので、今から1万年掛ければ十分可能と思えた・・・)の元に開発してもらいたいと切に思った。クローン人間など人騒がせだけが目的に感じられる研究よりも遥かに建設的だ。

   空気中には大量の水蒸気が含まれており、その水分だけで育つ植物も地球上には存在している。海水の中で大きく育つ海藻も既に存在している。極微量の地下水で育つサボテンもある。その他有益な植物の既存の遺伝子を組み合わせて、塩害(地下水が蒸発した後の塩分が障害となって不毛の地になっている沙漠も多い)にも乾燥にも強い新植物を開発し、世界中の沙漠を緑化し、年間せめて500mmの雨量を確保できるまでの気象変化をもたらして欲しい、と願わずにはおれなかった。

   今だって水さえ確保すれば、太陽が燦燦と照りつける沙漠地帯では大豊作が保証されている。カタールからシリアへの飛行機の窓からは、サウジアラビアの穀倉地帯が眼下に広がっているのが確認できた。サウジでは灌漑用水をふんだんに使って、半径400mもありそうなスプリンクラー付き散水管を、車輪で支えながら回転させて灌漑する円形の小麦農場を無数に開発し、今では小麦の純輸出国にすら躍り出ている。

   しかし、この農法は邪道だ。全人類にとっても貴重な石油や天然ガスを、自国の資源だからとの理由で勝手に浪費し、海水を蒸発させて得た高価な蒸留水を使用しているからだ。
   
[7]結婚式
   
   7月は結婚式シーズンだったのか、今回泊まったホテルの内3ヶ所で、4組の結婚式に出会った。アラブでも日本でも女性の一生で、女性が一番美しく輝いているように見えるのは、例外なく結婚式のようだ。
   
@  シリア

   ホテルのホールの入り口には日本での葬儀のように大きな無数の花輪が壁面を塞いでいた。赤・ピンク・黄色など明るい花が多かった。ホールの中には円卓が並び、出席者は男性のみ。150人は優に出席。普段の背広姿だった。未だ料理は準備中、花嫁・花婿の来場は1時間後なのに、来賓が延々と挨拶をしていた。

   受付には黒い背広の制服を着た青年が数名立ったまま、来場者を待っていた。そこで早速質問開始。

   『中に入って写真を撮ってもよいですか?』
   『どうぞ。ご自由です』
   『結婚式にはこんなに大勢の人が集まるのですか?』
   『両家が金持ちだからですよ』
   『お客さんは新郎新婦にはどのくらいの御祝い金をプレゼントするのですか?』
   『御祝い金は合計すると1,500$くらいです。日本ではどのくらいですか?』
   『出席者は80〜100人くらいが多く、招かれた客は食事代も入れて、男性の場合は1人300$(3万円)、女性は200$くらいの御祝い金を出すのが庶民の相場です』
   『日本は、リッチですね!!』

   夜10時過ぎに楽器の大音響で目が覚めてしまった。これはチャンスとばかり服を着て、ロビーへ駆けつけた。花嫁と花婿がエレベータに乗る直前だった。彼らは自室へと向かう所だ。花嫁は嬉しそうな表情をしていたが、花婿は何故か目の焦点が定まらず、何となく浮かぬ顔をしていた。
   
   アラブの伝統では2人が婚前にホテルに泊まる事は社会的に禁止されている。婚前に宿泊したことが花嫁の実家に気付かれた場合、花嫁の父親や兄弟が花婿を鉄砲で撃ち殺すことも許されているとか。若い男女の場合にはホテルに宿泊する時には結婚証明書の提示が求められることもあるそうだ。
   
   この習慣はアラブだけではなく、パキスタンでも未だに残っている伝統だと、パキスタン人から聞いたこともある。それだけ処女の価値が高く評価されており、結納金にまで影響するらしい。花婿の頭の中はやっと社会から許される初夜への期待で一杯だったのだろうか?

A レバノン

   こちらも結婚式と披露宴は夜だった。大型のベンツのバックミラーに白い花輪を取り付けて新郎新婦が到着。ホテルのロビーにはプロの楽団が十数人お互いに向き合って並び、民族衣装に身を固め、威勢良く演奏。その間をゆっくりと新郎新婦が歩いてホテル裏にある披露宴の屋外会場へと移動した。こちらの参加者には女性も大勢含まれていた。

   このときの女性も微笑んで幸せそうだったが、男性は堅苦しい習慣に拘束され、どのように振舞えば格好がつくのかを、手探りしているかのような不安げな表情を隠せなかった。何を考えていたのだろうか?

   披露宴の会場にはプールを挟んで舞台もあった。沙漠の国なので雨の心配も無く、夜間の屋外は凌ぎやすい。

   その日は2階の部屋だった。式場から賑やかな音楽が聞こえてきた。廊下へ出て非常階段を降り始めたら、外の会場へ出る1階の通路で、お色直しのために着替えている最中だった。こちらにもお色直しの習慣があったのだ! と言っても、着替えるのは女性だけ。彼が女性と腕を組み、会場へ向かう後姿を階段の踊り場からフラッシュを焚いてパチリ! 後は何食わぬ顔で自室へと退散。

[8]中東料理
   
   豚肉抜きのハム類は残念ながら舌に馴染めなかった。チーズやオリーブオイルをふんだんに使ったご馳走にも馴染めず、我が適応力の無さに苦しむ。

   生ハム・スモークサーモン・刺し身・甲殻類など我が好物には土地柄から当然のことながら出会えず、変な味の国産ビールと果物中心だったため、体力の基本は体重にありと考えていたのに、とうとう帰国時には2Kgも痩せていた。

[9]こけし

   『こけし』は日本特有の人形かと思っていたら、アンマンのホテルのお土産物屋で類似品を発見。断面は全て円。上下方向に直径を変えたものに、顔や手足や民族衣装を描いた人形が棚一面に並べてあった。

   日本のこけしは少女中心で5頭身くらいだが、アンマンのこけしは老若男女総てあり、10頭身くらいの違いはあったが・・・。

[10]ホテルの洗面所
   
   室内の設備は何れも立派だった。しかし、ごわごわとした感触の堅いタオルが殆ど。おまけに石鹸の品質が悪い上に硬水なので泡立ちが悪く、体を洗うには大変不便だった。日本で普及している垢すりタオルは必携品だ。

   歯ブラシや安全剃刀の用意が全くないだけではなかった。風呂の栓がない場合が多かった。出国前に添乗員からの電話でゴルフボールが使えると聞いていたが、使えた風呂は一ヶ所もなかった。風呂の栓がない場合はフロントからその都度取り寄せた。シャワー族が世界的には多いそうだが、私は湯船にどっぷりと浸からないと入浴の気分が出ない。

   今後の対策として、私も風呂の栓2種類をホテルから勝手に借り出した。全ホテルが一斉に同時に風呂の栓対策を始めないと、不安になった客がその都度、私のように栓を借り出すのは自明だ。そのためのイタチゴッコは永久に止まらない。

[11]トイレ事情

   今回の訪問国は何れも乾燥地帯。水は貴重品であるためか、トイレの水圧も落としてあり、原則として使用後のトイレットペーパーは傍らのゴミ箱に捨てるようになっているが、密室内なのでルールを守っている人がどの位いるのか見当も付かない。

   お土産物屋や一般のレストランでのトイレには、シャワーの付いたホースが用意されている。シャワー先を肛門に当て、蛇口を開けば水が出るようになっている。バケツに水を汲んで左手で直接洗うよりは進歩しているが、どちらの方式も私は未体験のままである。でもこれによってトイレットペーパーの使用量が削減されるのは明らかだ。

   一流ホテルの場合は一回分ずつの使用済みペーパーを入れる小さなゴミ袋が多数用意されていて、使用後にゴミ袋をゴミ箱へ捨てるようになっていた。清潔感では一歩前進だ。でも私には馴染めなかった。結局、ペーパーは便器内に捨てて流し、改めて風呂に入った。シャワートイレ生活にすっかり馴染んでいたため、ペーパーだけでの後始末では嫌悪感が残るのだ。

   『郷に入れば郷に従え』とは言うものの、いざ実行の段になると、如何に精神的な抵抗が大きくなることか!

[12]下着の破棄

   生活水準の変更は上にも下にも、私には心理的な抵抗が発生して大変難しい。度重なる石油ショックで電気代も灯油代も暴騰したが、一度快適さを味わったセントラル冷暖房は終に止められなかった。大袈裟に言えば麻薬効果に近い。三つ子の魂ではなくて、我が心は慣性の法則に支配され過ぎていたのだ。
   
   過去長い間、下着を破棄するきっかけはゴムが緩くなった時だけだった。しかし、最近は洗濯機の性能が向上したのか、ゴムの質が向上したのか理由は解らないが、何故かゴムの寿命は延びる一方だ。
   
   今回の旅行では毎日下着一揃い(下着上下+トランクス+靴下)を捨てる決心をして出発。これぞ正しく初体験だ。ゴルフ1〜2回分程度の更新費用なのに、遥かに大きな贅沢さを味わえるのが不思議でならない。ゴルフ代は健康維持を目的とした人生の経費と考えているため、コスト意識が働かないためか?
   
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カタール

   カタール空港には予定よりも1時間以上も早く到着。真夏だったので偏西風が飛行コースよりも北へ押し上げられていたためだろうか?
   
   カタールの首都ドーハの市内観光用バスと現地人ガイドは朝6時到着の契約だった。已む無く、ぐったりとしたまま何もない空港内で暇潰し。洗面所でノンビリと髭剃り。

[1] 市内観光・・その1
   
   石油資源に恵まれたカタールは成金王国。ドーハ市内は建築ブーム。素晴らしい且同じデザインの一戸建ちの高級分譲住宅が建ち並ぶ町並みは目の醒めるような美しさ。梁と柱は鉄筋コンクリート、壁はコンクリートブロック。仕上げはペンキ。ガイドによればかつてのスラムは一掃されたそうだ。

   車線幅も広くゆったりとした片側2車線の道路の中央分離帯は広く、緑深い芝生に覆われていた。しかし、何処にもスプリンクラーなどの散水設備がない。やがて工事中の分離帯に出会った。床暖房と同じように高密度に散水管が張り巡らされていた。その上に砂と土を被せ、芝生を植える。設備投資代は嵩むものの、スプリンクラーなどからの葉面撒布に比べれば散水量は半減か?

   道路の両側にはナツメヤシの雄大な並木が続く。ナツメヤシは管理が楽だ。温帯各国で並木に良く使われている落葉樹のように枝が横に張ることもなく、葉を付け根から切り落とすだけで済むし、実も収穫しながら100年もの寿命がある。その上、ココナッツ椰子のように自然落下する大きな実に直撃される恐れも無い。

[2] 市場

   石油危機以降に大発展したカタールには、古代遺跡に恵まれた多くのアラブ諸国のような観光資源らしきものはない。その代替が市場見物だった。 

@ 駱駝市

   冷房の効いたバスから降りた途端、同行者が一斉に驚きの声を発した。眼鏡が瞬時に曇ったのだ。カメラのレンズも曇り写真が撮れない。外は快晴なのに、ペルシア湾内で海面から蒸発した水蒸気混じりの空気が吹き寄せるためか、湿度は100%に近い。今回と全く同じ現象には、アラビア海に面したパキスタンの商都カラーチでも体験した。
   
   郊外の巨大な駱駝市場に出かけた。面積は10万平米以上? 1,000平米位の面積に柵で区切られている。駱駝は1,000頭以上? 平坦な場所なので全体像が掴めない。早朝だったので商談は未だ始まっていなかったが、既に商人は大勢集まっていた。
   
   駱駝はトラックに積まれて市場に到着し、クレーンで下ろされる。駱駝は正座が出来る動物だ。正座をさせて各足を1本ずつロープで縛り歩けない状態にした後、胴体の前後の位置(前足の後と後足の前)にリング状に幅広のロープを掛ける。その2本のロープにクレーンからのロープを掛けて、トラックの荷台から引揚げていた。駱駝は大変おとなしく、何の抵抗もしない。

   

   駱駝1頭の価格は2〜3,000$もするそうだ。意外に高いと感じた。市場の周りには餌となる直方体に固めた牧草が、山のように積んであった。
   
A 青果市場
   
   郊外の平屋建て5,000平米ほどの青果卸兼小売市場に出かけた。駐車場に並んでいるトラックの殆どは日本車だ。小売りもするとはいうものの、わざわざ此処まで買いに来るのはレストランなどの大口の業者であって一般市民ではない。

   沙漠の国カタールの青果は全部輸入品だそうだ。日本でも見慣れた野菜も多いが、ピーマン・茄子・トマトなどどれも一個一個が大きくて驚くほど安い。大型のトマトは日本の小玉スイカほどもある。10Kgは優にありそうなスイカがたったの1$。機内食が余り喉を通らず、空腹対策に大きな完熟バナナ7本を1$で買った。食べ切れなかったのでバスの運転手に、チップ代わりにプレゼント。

   同じ輸入青果が日本では如何に高いか、換言すれば関税を含む流通コストが如何に高いか、この市場でたった1時間市場調査をすれば、立派な報告書が私には直ぐにでも書ける!

B ホームセンター

   こちらも大駐車場つきの平屋建て、青果市場と同規模の売り場だった。商品としての鉢植えや壺類の形や色は勿論、模様にも国民の好みが現れるようだ。日本の類似商品に比べ明るい色相が多い。何故か壺の首がキリンのように長い。沙漠のお国柄か、屋内に緑を求めての壺や鉢植えの需要は大きいようだ。

   此処ではナツメヤシの苗を大量に売っていた。苗とは言え優に高さが5〜6mはあり、既に実も付いていた。ナツメヤシの根は浅いのか、コモで巻かれた姿は蕪みたいだ。市場内にはナツメヤシの実も、収穫直後の物から乾燥した物まで各種販売されていた。

   『一粒だけでよいから、試食させて欲しい』と頼んだら、嬉しそうにあれこれ選んでくれた。ナツメヤシは糖度の大変高い果物だった。大きさは巨峰ほど。1本の木から最盛期には1年に250Kgは実の収穫があり、土地生産性が大変高い果物だ。

   別の店では大きな黄色い瓜を食べさせてくれた。シルクロードの瓜に似て、これも糖度が大変高く美味しかった。日本の温室マスクメロンはほのかな香りと液体のように柔らかい軽い糖度の果肉に特徴があるが、こちらの瓜は甘さ第一主義のようだ。渇いた喉にはスポーツドリンクの代わりにもなりそうだ。

[3] 競馬の調教場
   
   広大な調教場を見学した。運動場の周囲は馬小屋で取り囲まれていた。馬は贅沢にも全て個室。床には鉋屑に似た木屑が分厚く敷かれていたが、馬糞を殆ど発見できなかった。毎日木屑を取り替えているのだろうか?
   
   馬の手入れが行き届いている。体に汚れは発見できず、栗色の毛の艶も素晴らしい。白馬もいたが、価格は栗毛馬よりも高いそうだ。希少価値か?
   
[4] 市内観光・・その2

@ 高層ビル

   バスで市内の中心部や海岸通りを車窓見学。あちこちに20〜30階建ての高層ビルが建ち並ぶだけではなく、続々と建設中だ。鉄が高価なのか鉄筋コンクリート造りが殆どだ。日本では三井不動産の霞ヶ関ビルの建設以来大流行している、重量鉄骨作りの高層ビルは発見できなかった。

A カルフール

   フランスの巨大スーパー、カルフールの大型店があった。イスラーム国に敬意を表しているのか、豚及びその加工品は一切売られていなかった。殆どの商品が輸入品の筈なのに、何もかもが日本に比べて格段に安い。石油天国のため、聞くまでもなく関税はゼロに近いと推定。1.5リットルの水3本を僅か1$で購入。
   
   鮮魚売り場も独仏と同じ形式だった。砕いた氷を斜面に分厚く敷き、その上に尾頭付きの魚を並べていた。日本では氷の上に魚を並べる習慣に乏しいが、魚食国の代表と自負している割には売り場での魚の鮮度管理意識は乏しい。
   
B サッカー場

   大きな且つ大胆なデザインのサッカー場があった。鉄道がないためか、超大型の駐車場が併設されていた。
   
C 海岸

   海岸で一休み。晴れているのに海面に発生する水蒸気のためか、近くなのに対岸の高層ビルは薄ぼんやりとしか見えない。
   
   海水の透明度は大変高い。沙漠地帯のため有機物が流れ込まず、栄養不足なのか海藻も少なく潮の香りがしない。波止場には観光船や漁船が停泊していた。ここでも、バスから降りた途端、カメラが瞬時に曇り使えない。試に何枚か写真を撮ったら入力光線が不足しているのか、真昼なのにフラッシュが発生した。画像は真っ暗で何も映っていなかった。
   
   かつてペルシア湾は天然真珠の大産地だった。それを記念したのか、噴水の水盤の中で高さ7〜8mのアコヤ貝が口を開け、大きな真珠1個が収まった状態のモニュメントが鎮座していた。
   
   12時45分発、ダマスカス行きの飛行機に乗った時、機内は急に霧で覆われてしまった。一瞬、すわ機体異常かとの不安感が脳裏を走った。ドーハの高い湿度の空気が満たされた機内に、エアコンからの冷気が流れ込んだ途端、水蒸気が霧に変化したのだ。スチュアードに聞くと、毎度のことだそうだ。
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シリア

   シリアと言う国名はインターネットで検索できる百科事典『ウィキペディア』によれば、アッシリア帝国に由来する。アッシリアの語尾から転用したのだ。

   このことを歴史学者と称するシリア人ガイドに確認すると、『シリアは昔からシリアと言われていた』と言うだけで、こちらの質問の意図すら理解できない様子。ガイドの肩書きは立派だが、頭の中味は所詮この程度!

   古代のシリアと国名は同じでも今日のシリアとは大きく異なるので、両者を区別するために古代のシリアは大シリアと呼ばれている。大シリアの国土は概ね今日のシリア・ヨルダン・レバノン・イスラエル・パレスチナ地域に相当する。

[1] ダマスカス(世界遺産)
   
   ダマスカスで泊まったホテル所有のゴルフ場が、道路を介してホテルの真正面にあった。緑の芝生の維持費を考えると、なんと言う無駄か! いや贅沢と言うべきか! プレイヤーが1組、カートに乗って移動していた。
   
@ カシオン山

   ダマスカスを眼下に見下ろせるカシオン山にバスで登った。聖書によればこの世で最初に殺人事件(アダムとイブの長男カインが弟アベルを殺した事件だそうだ)が発生した場所だそうだが、聖書に無縁な私には、そんな伝説を聞いても何の感慨も湧かない。私には緑も乏しい荒れ果てた単なる岩山にしか見えないからだ。
   
   ダマスカスは沙漠の中の盆地。街全体が車の排出ガスに覆われている。かつてのロス・アンジェルスそっくりの公害だ。街中には緑は殆どなく、低層の民家がびっしりと建て込んでいる。
   
   山上は夕涼み客で賑わうとかで、あちこちに小規模のレストランがあった。しかし、道中の山腹にはありとあらゆる種類のゴミが投げ捨てられ、インド並の汚さに辟易。国民性が現れている! 町並みの美しさと知性や所得との間には無視できない相関関係があると、嫌でも認めざるを得ない。
   
A 国立博物館

   小さな建物だったが、庭園には古代の石造発掘物が無造作に庭石のように飾られていた。乾燥に強いユーカリの巨木が日陰を作っていた。

   館内にはシリア全土からの発掘品が飾られていたが、ウガリット(BC2000年頃の古代文化)の世界最古といわれるアルファベットの原形が彫られた粘土板が宝らしい。

B ウマイヤ・モスク

   3世紀の頃、ローマ人が380*300mの境内の中に神殿を作り、後に洗礼者ヨハネの聖堂に変わり、705年から10年の歳月と1,000人の石工を動員して、ウマイヤ朝のカリフによりモスクに改造された。715年に完成した世界最古のモスクだ。天井の梁には材木が使われているので柱間距離が大きく取られており開放的だ。
   
   大勢の人が暑さを避けてモスクに集まり、昼寝をしていた。ルール上はモスク内での昼寝は禁止されているそうだが黙認状態。モスク内部にはヨハネの首が納められているという美しい石棺が、厳重且荘厳な飾りのついたドーム屋根付きの部屋に収まっていた。

   

   仏教界では釈迦の骨が仏舎利と称されて、あちこちの寺院に収められている(日本では名古屋市の日泰寺のみにある)が、『ヨハネの首』と言う言葉から連想するのは、死体をバラバラに切断して形見分けをしたのだろうか? と言う薄気味悪さだけ。

   このモスクに入る女性は貸しガウンを着せられた。靴も脱がされた。キリスト教のヨハネはイスラームでは預言者ヤヒアと呼ばれて崇敬されているそうだが、史実に無知な私には全くの別世界である。
   
C スーク(市場・バザール)

   私にとってダマスカスで一番楽しかったのはスークの見物だった。一直線に600m、幅10m位の大通りがあり、両側には同じ形式の2階建ての建物が整然と並び、円弧の天井がアーケードのように張られ、観光客で満員電車の中のように賑わっていた。

   衣類・絨毯・金属製品・アイスクリーム屋などが犇く。大通りでは燭台のような飾りのついた甕を背負って果物ジュースを売り歩く若者、荷物運びの台車を押しながら客を探す少年ポータなども珍しく、ハワイで買ったアロハシャツを着ていた私は目立つのか、キョロキョロしていると、ひっきりなしに客引きから声を掛けられた。

   モスレムの女性は喪服のような黒いガウンで身を隠しているが、その下に着る衣類は逆にカラフルだそうだ。スークの衣類屋の煌(きら)びやかさに、日頃は押し殺されているかのような女性の本能があられもなく暴露されている。

[2] マアルーラ村
   
   シリアにはアラブ各国と異なり、キリスト教徒が珍しくも13%もいる。ダマスカスから半日かけて往復したマアルーラ村には、荒れ果てた岩山の谷間にひっそりとキリスト教徒が住んでいる。
   
@ 聖キルギス教会

   町の端っこにある丘の上に建つ小さな教会はギリシア正教だそうだ。私には何故こんな辺鄙な所に鎮座する教会まで観光に連れてこられたのか、皆目見当がつかない。

   帰路の道路脇の山腹に数個の洞穴があった。一万年前には先住民が住んでいたそうだ。そんな穴をバスの窓から見ても何の感動もなかった。『歴史的にはどれほど有名な住居跡であろうとも、グアムの横井庄一さんの竪穴式住居であろうとも、私は住みたくはありませんね』と添乗員に一言感想を述べた。

[3] アレッポ(世界遺産)

@ 考古学博物館

   どの博物館でも展示品は似たり寄ったり。古代の石器・壺・武器を初め幾ら歴史的な価値があろうとも、余りにも展示品が多すぎて頭が混乱するだけで覚え切れない。

   でも、ここの博物館の正面玄関を飾るBC9世紀の石造彫刻は異色だった。3対のライオンの背中に3人の僧侶の立像が乗っかっているのだ。高さは2体(ライオン+立像)を合わせて7〜8m。馬に跨る彫刻は多いものの、ライオンの背中にサーカスのように立つ姿は初めて見た。



A 城塞

   旧市街の中央部の丘に壮大なアレッポ城が築かれた。最初の城はBC10世紀の頃ヒッタイト人によって築かれた。その後、歴代王朝によって増改築された。幅30m、深さ20m、総延長2.5Kmの濠に囲まれた巨大な石造城塞だ。かつては水で満たされていた筈の濠も今では、一滴の水もない。
   
   壮大な城門を潜ると、内部は迷路のように入り組み、武器庫・大モスク・小モスク・兵士の宿舎など、いわば小さな町ほどの規模だ。城の頂上からの眺めは素晴らしく、アレッポの町並みを睥睨している城主になったような気分になれる。

B キャラバンサライ(カーン・アル・ワジール)

   城塞とスークに挟まれた一角にキャラバンサライ(隊商宿)があった。その中でも一番有名なのがカーン・アル・ワジールだ。堂々たる門構えを通り抜けると大きな広場があり、広場を取り囲む四辺(70*70m位?)には3階建ての石造りの豪華な建物が残されていた。16世紀頃の欧州と中東との交易の繁栄振りが偲ばれる。

   広場は交易場所として使われる一方、四辺の建物は隊商の宿泊場所、つまりホテルだった。100室は優に越えそうな大きさだ。今は一般住宅に転用されている。しかし、一階には今でも商店(お土産屋)が入っていた。

C スーク

   アレッポのスークの総延長は6Kmもあり中東一とか。メインの通りから左右に伸びる通路は毛細血管のように張り巡らされている。添乗員が指示した買物時間は30分。迷子になる恐れから、脇道には入らなかった。メインの通路でも幅は5m足らずの狭さ。両側には小さな店舗が犇き、通路を覆う天井も低く、買い物客でごった返している。日本各地の駅前にある『**銀座』の閑散とした雰囲気とは雲泥の差だ。
   
   でも、イスタンブールのグランドバザールとは対照的だ。商品の品質も店舗の豪華さも、銀座(イスタンブール)とアメ横(アレッポ)ほどの落差が感じられた。

   ありとあらゆる商品が売られていた。衣料・アクセサリー・絨毯・生鮮食品・特産品・・・。概ね同種の商品毎に店が集められているので価格も比較しやすく、客には便利だ。此処でも中東各地の市場同様、定価という観念はなく、市場経済に完全に支配されている駆け引き中心の対面販売だ。
   
   アレッポの特産品として日本でも今や有名になっている石鹸を発見。オリーブオイルと月桂樹の実から取れるローレル・オイルを原料とする、3,000年の歴史があるシャンプー兼洗顔石鹸だそうだ。既に現地ガイドの車内販売で250g/個*1ドル/個*10個、購入済みだったが何処まで安く買えるか挑戦してみた。125g/個*8個入りだった。
   
『幾らかね?』
『8個入りだから8ドル』
『高い! 3ドルだ』
『5ドルにする』と即応。
『高い! 私のラースト・プライスは3ドル。5ドルならば買わない』と言って店を出た。すると店員が追いかけてきた。
『仕入れ値は3ドルです』と出任せを言いながらも、どことなく寂しげな表情。
『解った。それでは私も貴方も1ドルの損になるが、4ドルでどうだ』
『OK』

   中東ではいつも最終的な落とし所を考えながら、一瞬の駆け引きを楽しむことにしている。結局の所はガイドから買った価格と、重量当りに換算すれば同じだった。
   
   自宅に毎月のように送られてくるロイヤル・ステージ社の通販カタログではA4で1ページを使って宣伝していた。200g/個が1,050円だった。

D ベドウィン・ディナー

   ホテル近くにあるベドウィンのテント張り住宅を模して作られたレストランへ出かけた。入り口では中年男子で構成された7〜8名の楽団員(レストランの従業員)が民族楽器を打ち鳴らして我が一行を歓迎。他には客はいなかった。貸し切り状態だ。テントには50人位が入れる。壁際に長椅子、床には絨毯。椅子の前には低いテーブル。テーブルを介して椅子と反対側の人は絨毯に座るようになっていた。

   長いテントの一角には調理場があり、バイキング料理が既に用意されていた。食事中は楽団員が楽器を弾きながら、歌も歌った。西洋音楽とも東洋の音楽とも異なる独特の旋律の中東音楽を聞きながら、旅愁を満喫。

   やがて踊りが始まった。仲間の半分は踊りに加わった。盆踊りのように輪になって踊った。私も誘われたがリズム感がないので辞退して、皆の踊りを見ながら楽しんだ。同行者の何人かはスークで買ったアラブの衣装を着て楽しんでいるようだった。旅のハイライトの一つだった。

[4] ハマ

@ 大水車

   此処の水車の歴史はビザンチン時代(東ローマ帝国)にまで遡るそうだが、ハマのオロンテス川に沿って12基の灌漑用の水車が観光用に今でも回っている。最大の水車は直径が何と20mもある。小型の観覧車ほどの大きさだ。

   水車に隣接してローマの水道橋と同じ形式のアーチで支えられた2階建てのレンガ造りの配水橋が残されている。水車の下端は川の流れの中に埋没している。水流により水車は回転し、水車の外周に取り付けられている数十個の小さなバケツに入った水は配水橋に注がれる。揚程は15mを優に超えそうだ。



   木製の水車は常に更新され、現在の直径20mの水車は1977年に作り替えられた。日本では福岡県朝倉郡の3連水車が有名だが、直径は4.76m,4.30m,3.98mと遥かに小さい。
   
[5] パルミラ(世界遺産)
   
   BC2000年ごろからエジプトや地中海諸国とメソポタミアやインドなどとを結ぶ交易都市としてオアシスに栄えたパルミラは、かの有名なイタリアのポンペイなど足元にも及ばない感のある威容に満ちた、シリアを代表する石造都市遺跡だ。
   
   ポンペイの遺跡には一般住宅が多数温存されていることに最大の特色があるだけで、公共設備部門は小規模だ。一方バルミラはその逆で、壮大な神殿や列柱通りのスケールに往時の繁栄振りを余す所なく今日にまで伝えている!

   
   最盛期にはローマ帝国とも友好関係にあったが、クレオパトラをも上回ると言われた絶世の美女ゼノビアが実権を握り、ローマ帝国からの独立を目指したものの、最終的にはAD272年にローマに滅ぼされた。
   
   パルミラの遺跡は余りにも広大なので、全体像を地上ではカメラに収められない。一番解りやすいのは航空写真だ。結局記念に写真集を買った。
   
@ ベール神殿
  
   ベールとはバビロニア語、ギリシアのゼウスやローマのジュピターと同じ『主人』の意だそうだ。神域は東西210m、南北205mもの壮大な壁で囲まれている。神殿の建て方はエジプトのカルナック神殿にそっくり。大きな直方体の石を積み上げて作られている。エジプトの技術が投入されているのは一見して解る。

   石材の再使用もされていた。円柱を大根のおでんのように輪切りにし、横倒しにして作った壁もあった。

A エラベルの墓
   
   遺跡の一部には塔の形をした10基余りの墳墓があった。ほぼ完全な姿で残っているのがAD103年にエラベルが建てた4階建て、高さは15m位ありそうな巨大なタワーだ。内部に階段があり、屋上からの眺めも抜群。
   
   建物内部には浴槽ほどもある石棺を収納する棚があり、約300個の収容力がある。当時の有力者は列柱を寄進したり、死後の世界の安寧を祈念しては、こんなに立派な墓を用意していたとは、ご苦労なことだ! この墓からは漢代の中国の絹織物も発見され、当時の東西貿易の証拠品としてダマスカスの国立博物館に展示されているそうだ。

B 3人兄弟の墓

   墓は地上に建てるものとは限らなかった。『3人兄弟の墓』と称されている墓はエジプトの王家の谷を連想させるような地下への坂道を下った突き当たりにあった。平面図では凸型をした3部屋からなり、夫々の部屋の棚に石棺が収納されていた。

   地下のためか、壁画も然して退色することなく、残されていた。

C 列柱道路

   パルミラを最も有名にしているのは私には列柱通りの壮大さに思える。トルコのエフェソスにもかつては列柱通りがあったそうだが、現在は何も残っていない。1Kmを超える通りの片側には未だ半分以上の列柱が残っている。

   柱の中ほどには柱を寄進した商人や有力者の彫像を載せる、主のいない棚が残っていた。前方公円墳のような形をした分厚い石板の、柱と同じ直径の円の部分を円柱の中に挟み込んで固定し、柱から飛び出している長方形の部分が彫像を載せる棚として使われていた。



   列柱の一角にはエジプトのアスワンから輸入した赤御影石の素晴らしい柱が立っていた。赤御影石には風化も殆ど見られない。日本の墓石は数百年もすると墓標も読めなくなるが、高湿度のためなのか? 石が風化しやすいのだろうか?

[6] クラック・デ・シュバリエ

@ 十字軍の城塞

   十字軍が1150年から100年かけて丘の上に建設した超豪華な石造りの大型の城だ。濠に囲まれ、内部には食糧貯蔵庫を初め3,000人とも言われた兵士の篭城対策にも一見抜かりが無いように見えた。馬が城内に入れるように階段の傾斜も緩く造られていた。
   
   アレッポで見たアレッポ城に大変良く似た構造だったが、更に堅固に造られた感があった。城の名前は『クラック・デ・シュバリエ』

   城内には幹部の作戦会議室、礼拝堂とモスク、兵器庫、馬小屋なども完備し、城への入り口は1ヶ所。入り口からの攻撃阻止の工夫も様々。天井から沸騰しているオリーブ油を敵兵にぶっ掛ける穴も用意されていた。現地ガイドがこの城が如何に難攻不落になっているかを余りにも強調するので、一言発言。
   
『私ならば、この城はいとも簡単に落城させられますね。入り口が一ヶ所と言うのは大変便利。3,000人の兵士は袋の中の鼠も同然。城を包囲して食糧封鎖をすれば、降伏するのは時間の問題です』
   『実は、その通りになりました。たったの1ヶ月で落城しました』

A ホモスのホテルでの珍事

   欧州のホテルには添乗員などのためのシングル部屋も多いが、今回の旅行でのホテルは何れもシングルの部屋はなかった。たまたまホモスのホテルは満室になっていたのか、単独参加の4名のうち3人(男性2人と女性1人)は一室に割り当てられた。
   
   それが、何とプレジデンシャル・スイート(大統領級の来客に備えた特別宿泊室の意味か?)だった!
   
   指定された番号の部屋が見つからず、フロントからスタッフを呼ぶと、持参した鍵で廊下の突き当たりのドアを開けた。すると居間とツインの普通の部屋と更なる次の間へのドアがあった。
   
   次の間へのドアをあけると、食堂とバー及び普通サイズのツインの部屋、更なる次の部屋へのドアが現れた。私の部屋は最後の奥まった部屋だった。何と大きな部屋であることか!
   
   シングルベッドを3個くっつけたような超大型ベッド、大型の洋服ダンスが3棹、大きな机、応接セット、冷蔵庫、あちこちの間接照明装置も凝ったデザインのもの、大型テレビなどなど調度品も2ランク上。
   
   洗面所の広さも普通の部屋の2〜3倍。豪華さも2ランク上。バスローブも1着用意されていた。何度か泊まったイスタンブールで最も有名なヒルトンの、普通のスイートルームよりも1ランク上だった。添乗員が『止むを得ずこうなりました。他の方には秘密にして置いて!』『それは無理ですよ。直ぐにばれますよ』
   
   夕食の折に、我が部屋を口頭で紹介した。誰かが『見せていただけますか?』と聞くので『それでは皆さん、お部屋見学会を開きます』と言って食後、我が部屋にお集まりいただいた。皆が出した結論は『最初の2部屋はお付きの人の部屋』だった。
   
   翌朝、同行者から質問の集中砲火を浴びた。
   
   『殿、ごゆっくりお休み遊ばされましたか?』
   『殿下、お目覚めは如何であらせられましたか?』
   
   万葉集を引用して、『あしびきの山鳥の尾のしだリ尾の、長々し夜を1人かも寝む』と感想を述べた。『乞食王子の寓意も体験しました。乞食には、贅沢三昧の王子の真似はストレスばっかり掛って、心安らかには眠れませんね』と蛇足。
   
   この日以降、私への同行者からの呼びかけ語は何と『殿下!』 この部屋割りは偶然だったのか、添乗員の意図が含まれていたのか、未だに見当も付かない。
   
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レバノン

[1] 車窓からの風景

   陸路シリアから出国。ほんの少し移動した位置でレバノンに入国。添乗員がパスポートを取りまとめて事務所に出かけて手続きを一括処理した後、バス内でパスポートを各人に返却。その直ぐ後にレバノンの職員がバスの中に乗り込んできて、パスポートの写真と本人の顔を見比べて簡単に完了。その後の各国間の出入国手続きも全部同じ方法だった。
   
   国境の町トリポリの海岸には難民住宅が無数に現れた。小さな日干しレンガ造り、ブロック造り、テントだけの家など様々。写真に撮る度に心がキリキリと痛む。
   
   途中トイレ休憩を兼ねてお菓子屋兼レストランに立ち寄る。重量当たりの価格が同じ多種類のお菓子があった。全ての種類のお菓子を2個ずつ買った。レストランのテーブルの上には茶色の素焼きの壺が置いてあった。水入れだった。素焼きの表面からの蒸発熱で冷却しているのだろうか?
   
   ひたすらバスは山登り。目指すのはレバノン杉が残っている谷間だ。
   
[2] レバノン杉(世界遺産)
   
   世界遺産に指定されているレバノン杉の群生地は海抜2,000mの山間にあった。樹齢1,200〜2,000年だそうだ。レバノン杉とはマツ科ヒマラヤスギ属に属する針葉樹。名前はスギでも松の仲間だ。幹の鱗、針状の葉、大きな松かさからも松そのものであることには疑問の余地はない。
   
   レバノン杉はかつてレバノンの山全体に広がっていたが、現存するのは1,200本とか。直径300m位の谷間に残っているだけだ。そこは高さ1m位の石積みの塀で囲まれて立ち入り禁止にされているが、たった一度の山火事で全滅するのではないかと心配だった。世界遺産に指定されていない場所にもほんの僅かな群生地があるとか。谷の向こう側には3,000m級の岩だらけの山脈が聳え、僅かな残雪が白く光っていた。
   
   レバノン杉はクフ王のピラミッドの横から発掘された太陽の船の建造や、ペルセポリスに建てられたアケメネス朝ペルシアの宮殿の梁材として使われたことでも有名で、巨木になるし、耐久性にも優れている。現実のレバノン杉は大きな幹に長い枝が真横に伸び、樹形は正三角形の回転体に近い。日本の杉やヒノキのような高密度栽培は難しそうだ。
   
   レバノン杉の世界一の木は高さ36m、幹の周囲25mだそうだが、お土産物屋の横にも巨木が枝を広げていた。伐採禁止の今でも何所から材料を集めてくるのか、屋久杉で作る民芸品や飾り物と良く似たお土産物が山のように売られていた。

   

   レバノン杉の小さな苗も1本3$で売られていたし、松かさも商品の仲間入りをしていた。レバノン杉は少しずつ山に植樹しているそうだが、土が流れ去った禿げ山に活着させるのは簡単ではなさそうだ。
   
   レバノン杉あってのレバノン。国旗にもレバノン杉が描き込まれている。レバノン杉の未来は屋久杉よりも厳しそうだ。私は正面にレバノン杉、ひさし部にはレバノンの地図、側面には国名が英語で印刷されている帽子を記念に買った。テニスやゴルフのときに愛用している。
   
   ビブロスへ向かう途中、見晴らし抜群の場所で写真休憩。そこには野生の黄色いサクランボの木があった。黄色いサクランボとは未熟のサクランボかと思っていたら本物があった。葡萄の房のように実が鈴なり。その実の甘いこと、甘いこと。こんなに甘い果物は食べたことがなかった。2m近い長身のガイドが高枝から採ったサクランボを皆に配った。
   
[3] ビブロス(世界遺産)

   ビブロスは世界で最も長い間、人類が継続して住み続けた町だそうだが、本当か嘘か私には解らない。大抵の古代都市は何時の間にか打ち捨てられ、廃墟と化しているのは事実だが・・・。
   
   ビブロスのギリシア名はパピルス。パピルスに由来するバイブル(聖書)の語源も更に元を辿ればビブロスに由来するというのも住民の誇りだそうだ。
   
   世界遺産に登録されているビブロスの遺跡には復元された戦士の城などもあるが、新石器時代に建てられた住居、BC18世紀の神殿、その後のローマ劇場などは朽ち果てて見る影もない。円柱を分厚く切断し横向きにして壁面材料にも使っていたが、途中まで切れ目を入れたまま放置されたままの円柱もあった。海岸沿いにあるため、眺めだけは良かったので救われた。
   
   門前町のミニ・スークには魚やクモその他の化石を売る店があった。小さな物から長さ1m位のものまで何百個と揃えていた。1億年前のものだそうだがビブロスで採れたものではないのに、どうしてここで売られているのか解らなかった。偽物かと疑いたくなるほど立派な化石だった。
   
[4] ベイルート

@ 海岸通り

   かつては中東のパリと呼称されていたそうだが、パリとは似ても似つかぬ町並みにがっかり。建物は鉄筋コンクリートとブロック造りが殆どで石造りの古色蒼然としたパリとは異なるし、建物の高さもまちまちで稜線美もない。
   
   内戦の跡は、蜂の巣状の穴だらけになったままの建物の壁面に痛々しく残っている。廃墟のままの建物、壁面の弾痕跡のみを補修した建物、未補修のまま使い続けている建物の他、新しい建物も入り混じって、統一感は全くない。
   
   海岸通を散策するのも旅程の一つ。それらの旅程を勝手に削除する事は添乗員(殆どは派遣社員)には許されていない。誰かがアンケートを通じて旅程との相違を報告すれば、次回からは旅行社からのお呼びがなくなることを恐れているのだ。同行者はこんな美観一つない海岸を散歩するのは疲れるだけだとぶつぶつ。街路樹の育ちも悪くリオのような美しい海岸線もないのだ。
   
   途中、岩場での釣り人を発見。小さな魚が少しだけ取れていた。どうやらカタールにしろベイルートにしろ、沙漠の国の海岸には魚資源は少なそうだ。

A 鳩の岩

   海岸通りの目の前、僅か数十メートル離れた海中に高さ数十メートの岩が2個聳え立っている。断面は数十メートル角くらいのものと、その半分くらいの対になっていて、周辺は断崖絶壁。勇気自慢の男は上からダイビングするとか。

   この岩がベイルートの唯一の景勝か? 此処には鳩が棲んでいるから『鳩の岩』と称されているが、鳩は一羽も発見できなかった。夕日だけではなく朝日を浴びた鳩の岩も美しく、内戦で荒れたベイルートの平和の象徴に思えた。

B 旧市街

   ベイルートはフェニックス(不死鳥)にも由来すると言われるフェニキア人が活躍した町。旧市街の一角にローマ時代のサウナ風呂の遺跡があり、廃墟のため床下の構造が一目瞭然。床下の基礎の上に50cmくらいの間隔に高さ1mくらいの石柱がマトリックス状に立てられ、その上に床(床は既に撤去されていたが・・・)が張られていたのだ。床下の側壁には蒸気を送り込む窓が等間隔に開けられていた。ローマ人の堅実極まりない仕事振りが偲ばれる。

   
   夜暇潰しに1人で散歩に出た。大型の食品スーパーに立ち寄る。日本からの輸入品、蒲鉾から作る偽物の蟹足も貴重品として売られていた。寝酒のつまみがないかと、生ハムを探したが見つからず。スモークサーモンは発見したがスライスされていなかったので買うのは諦めた。生鮮食料品の質も品揃えも日本と然して変わらなかった。
   
   中心街の広場に到着。オープンカフェは満席の賑わい。しかし、お酒はなく、水だけを飲んでいる人も多い。帰り道、迷子になってしまった。暗がりに数名の若者が夕涼みを兼ねて談笑していたので、ホテルの名前を言って道を聞いたら、ホテルまでは後200mの距離。夜間では通りを2つ間違えると景色は一変して解らなくなる。彼らは暇だったのか親切にもホテルの玄関先まで案内してくれた。
   
   ホテルの玄関からロビーへと走りこんだので、目ざとく見つけた受付の男性が
   
   『何か、彼らとトラブルでも?』と聞くので
   『いや、道に迷ったので道を聞いたら、序に此処まで送ってくれたのですよ!』

C 前首相の慰霊行事
   
   我が一向は早朝、旧市街を散策した後迎えのバスを待った。その場所の隣が前首相の慰霊行事の会場だった。

   既にリタイアしていたレバノンのハリーリ前首相が2005年2月に暗殺された。犯人は未だに不明だ。会場には大きなテントが幾つも張られ、慰霊行事の準備中だった。
   
   会場の正面には前首相の大きなカラー写真が何枚も飾られ、その周囲には大量の花が溢れていた。傍らには大きなコラーンが広げられ、大きな電光掲示板には『157』と表示されていた。暗殺後の経過日数を表していた。
   
   暇だったので前首相の写真に向かいご冥福を祈った。イスラームの慰霊の方法は知らなかったので、日本の葬儀の習慣に従った。しかし、行為の意図は通じたようだ。会場の関係者達から鄭重なるおん礼の言葉を頂いた。
   
[5] バールベック(世界遺産)

   バールベックはレバノン最大の古代遺跡。シリアのパルミラ、ヨルダンのペトラに何ら遜色がない。バールベックとはフェニキアの豊饒の神バールに由来する。

@ ジュピター神殿

   ジュピター神殿はローマ帝国内では最も大きな神殿だったが、残念ながら今では正面の高さ20mの柱6本とその上に横たわる梁のみである。

   柱の基礎は残っており、おおよその規模は推定できる。神殿は長方形をなし106*69m、面積7314平方メートルもの巨大さだ。内部の柱を除いて、短辺には10本、長辺には19本の柱があった。柱の合計は10*2+19*2−4=54本になる。ギリシアのパルテノン神殿の柱は8*2+17*2−4=46本となりジュピター神殿よりも少なく、少し小ぶりである。

   こんな巨大な柱は地震で倒壊したとしても周辺に残っている筈なのに、残骸すらなかったのは後の権力者が別の建物の建築資材として持ち去ったのは明らかだ。ローマのコロセウムすら石材を持ち去られて無残な姿になっているが、中東各地では建築資材の横取りは日常茶飯事のようだ。

A バッカス神殿

   ジュピター神殿よりも少し小さいがパルテノン神殿よりも全貌が良く残っている。こちらの大きさは69*36m。柱数は8*2+15*2−4=42本。柱の間隔が狭いので息苦しさを覚える。



B 巨石

   此処にはその他、ビーナス神殿(86*54m)など色んな建物が残っていたが、何よりも驚いたのは10*4*3mの巨大な石のブロックが9個も、今は無くなっている神殿の土台に使われていたのを目撃した時である。これほどの大きさのブロックは未だかつて見たことがなかった。
   
   添乗員が此処では2,000トンの石のブロックもあると予告。バスが石の横で止まるや否や私は飛び降りて、歩幅で石の大きさを測定し、バスに戻ると添乗員に
   
『あの石は凡そ4*4*20m=320立方メートル。最大限に見積もっても1,000トン。
 2,000トン説は明らかに間違っています』と言ったら、手持ちの資料を見せて
『私の資料には2,000トンと書いてあります』と反論。
『そこに何と書いてあろうが、間違っています。皆さん、添乗員の説明は何処の観光地でもこんなものです。私は何時も話半分にしか聞いていません!』

   我が座席に戻り買ったばかりの、バールベックの日本語版の解説書をパラパラと捲ると詳しく紹介されていた。『大きさは21.36*4.6*4.33m、重量は約1,000トン』。我が推定は正しかったのだ。
   
   再び、添乗員に我が資料を見せたら、添乗員は傍らの現地人ガイドに確認。彼は『1,200トンと聞いている』と答えた。已む無く添乗員は『先ほど、あの石は2,000トンあるとご説明しましたが、間違っていました。訂正します』とマイクを使って詫びた。添乗員を少し、いじめた事になるのだろうか?
   
   アスワンで見た切り掛けのオベリスクは41.75*4*4m、1,152トンと推定されている。しかし、こちらは形も未完成のままだが、上記のブロックは完成品として既に石切り場から少し移動させたまま放置されており、地中にほんの僅かだが埋まっていた。
   
   この巨石の運搬方法にはいろいろな推定が報告されている。砂袋を並べて道路を平坦にし、その上に木を並べ、コロと動滑車を使って大勢で引っ張ったとか・・・。
   
   今日人類は巨大な建物、船、機械などを作っているが、その構成要素の最小単体部品の重量で1,000トンを超えるものはなさそうな気がする。超大型発電機のシャフト、原子炉の格納容器、超大型ディーゼルエンジンのシリンダーブロック、超大型船のスクリューなどどれも軽そうだ。手元のギィネス ブック(1989年版)を捲ってみたが、そのような重量物の登録はなかった。

C レバノン ワイナリー(洞窟)

   延べ2Kmもある洞窟を使ってワインを熟成していたワイナリーを訪問。洞窟内にはワインの樽が2段に積まれていた。しかし、市販品のボリュームゾーンは洞窟では作っていないそうだ。

   此処では美人の宣伝レディが名物ワインの特徴を説明しては試飲させてくれた。私のテーブルにいた同行のインテリお婆さんは飲まなかったので代わりに私が飲んだ。糖度の高い葡萄を使っているのか、ブドウ栽培の北限に近いドイツワインに比べ美味しく感じた。20分近くの間、飲み続けたので、試飲だけで2合近く飲み気分良く酔っ払った。

   そのまま帰るのは申し訳ないと思い、1本10$前後の赤白各1本買った。同行者のうち此処でワインを買ったのは他には、『今更結婚を考えるのも面倒くさい』と言っていた単独参加の独身女性が1人。彼女はハーフサイズを2本買っただけだった。仲間が何故ワインを買わなかったのか、見当も付かない。
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シリア

[1] ボスラ(世界遺産)

   再びシリアに戻り、ダマスカス近郊の町、ボスラに到着。此処の古代遺産も圧巻だった。
   
@ ローマ劇場

   半円形のローマ劇場はほぼ全容が残されていた。各地のローマ劇場では客席は残っていても舞台はなくなっているものが多いが、此処では3階建ての舞台も残っていた。現在でも時々、記念行事として使用されているそうだ。

   現地ガイドが音響効果のよさは客席の構造にあると言う。ギリシアでもローマでも野外劇場の椅子は原則として石で出来た階段。腰を下ろす座の下には空間がない。一方当劇場の椅子は座の下に空間が確保されている。舞台からの音声が椅子の座の下から反転して劇場の空間に木霊するような設計になっているのだそうだ。


   
   しかし、私はこの椅子の構造は音響効果よりも座り心地の改善により大きな価値があると思えた。今日、あちこちで使われている椅子の座の下には空間があり、膝から下の足をぶらぶらと前後に動かすことも、後ろに曲げてリラックスした姿勢を取ることもできるからだ。階段形式の場合、椅子の背もたれに腰が触れるように座ると、膝から下の足の置き場に不自由し、大変座り心地が悪い。
   
   ギリシアでもローマでも劇場の椅子の階差は、椅子の座の高さと同じなので、大変大きい。一つ前の客の頭部が視線を遮る恐れは全くない。一方今日の建物内に収容されている劇場は、オペラハウスであれ、映画館であれ、斜面の椅子の階差は小さく、前の席の見物客が邪魔になる場合が何と多いことか!

A 城塞

   城塞もまた圧巻だ。今回、あちこちで似たような豪華な城塞を見学したが、何れでも同じ疑問を感じた。当時の闘いの主戦場は何所だったのだろうか? と言う疑問だ。
   
   城塞内で戦うには、馬で引く戦車が活躍する場所もなく、兵士が走り回る場所もない。主戦闘は城外で行い、城塞は守る側の単なる駐屯地だったのではないかと思えてならない。少なくとも攻撃側には城はないから、城塞内で闘うのは不利になるが、城を包囲し、食糧封鎖などの持久戦に持ち込めば、断然有利になる。城内の兵士は座して餓死を待つよりは城外に出て闘う気になる筈だと思えるからだ。
   
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ヨルダン

   ヨルダンは小さな国なのに、ペトラとジェラシュの2大遺跡に加え、世界で最も海抜が低い死海を初め、観光資源には大変恵まれている。
   
[1] ジェラシュ

@ 列柱通り

   パルミラほどの長さは無かったが、ここにも800mの幹線道路の両側には500本もの列柱が残されていた。ここの最大の見所は通りに敷き詰められた長方形の石(30*50cm?)の向きにあった。並の設計者ならば石の長辺が道路の進行方向に向かって垂直になるように並べる。ポンペイの遺跡内の道路もそのように石は敷かれていた。
   
   しかし、此処の石は斜めに敷かれていた。ガイドによれば、馬車の車輪が石と石との隙間に落ち込まないための工夫だそうだ。事実、石を斜めに切り裂くような轍が残されていた。道路の端に位置する石は角が切り落とされて台形になっていた。目的のためには労力を惜しまない工事手法には感嘆する。

A フォーラム

   列柱通りの始まりには大きな楕円形(80*90m)の広場(フォーラム)があった。フォーラムを囲むように列柱が並んでいた。この柱の配列は正にバチカンの広場にそっくり。バチカンの場合は楕円が円に単純化されているだけだ。世の中では独創的と思ったものにも、意外や意外、この種の元祖にひょっこり出会うことがある。
   
B ローマ劇場

   此処には劇場が2ヶ所もあり、区別するために小さな方を北劇場、大きな方を南劇場と呼んでいた。南劇場は舞台も含めて全体がほぼ完全に残されていた。良く見ると、此処の椅子も座の下に空洞があった。これも音響効果狙いか?

C アルテミス神殿

   規模こそは小さかったが、石造りの立派なアルテミス神殿が丘の最上部に聳えていた。ここでは神殿の前には円弧を描くように2重の列柱が並んでいたが、今では列柱は一重分だけが残り、後は台座のみ。列柱を2重の円弧配列にし、大型化すればサンピエトロ広場と同じだ。

   アルテミスとはジェラシュの守護神だそうだ。

D 巨大な柱が揺れていた!

   丘の上に円柱を数個積み重ねた柱が聳えていた。柱の台座と円柱外周との間に奥行き数cmの楔状の隙間があった。ガイドがその隙間にスプーンの柄を差し込んだ。風が吹くと柱が揺れ隙間が僅かではあるが開いたり閉じたりするのと連動して、スプーンの先が上下に拡大されて揺れ始めた! 指を隙間に突っ込むと柱が揺れているのが明らかに感知された。
   
   ガイドの説によれば一体となっている円柱よりも、数個の円柱を積み重ねたタイプの円柱の方が地震では倒れ難かったと言う。固有振動数が変わったためか?
   
   この日の現地人ガイドは大変物知りだったので質問開始。
   
『アラブの女性は黒いドレスで体を覆っているが、赤白黄色など色は無数にある中で、どんな理由から黒を選んだのですか?』
『それは伝統だからです』。これでは答えになっていないから
『伝統が生まれる出発点で何故、黒色を選んだのかと質問しているのですが・・・』
『私は知りません。民俗学者に聞いたら分かるかも・・・』

との経緯で、結局我が疑問は解けなかった。

[2] ペトラ(世界遺産)
   
@ 乗馬

   バス停から1Kmくらいは馬に乗って出かけた。往復の乗馬代金は3$の契約で旅費の中に既に含まれていたので、添乗員が全員に3$を返金した。歩くのも勿論自由である。往復共に歩けば3$の支出は不要となる。添乗員が、代金は帰路の乗馬を終えてから支払うようにと念押し。先に支払うと帰路又請求される恐れがあるそうだ。我が一向は全員馬に乗ったが、西洋人は歩く人が多かった。彼らの慎ましさ、逞しさ、質素な生き方は度々目撃した。
   
   馬は首から数字の入った登録証書をぶら下げていた。勝手に馬を持ち込んで商売を開始するのを阻止するシステムのようだ。往復共に同じ馬に乗ることになっている。乗馬の際に番号が書かれた紙を渡された。馬に乗る場合も降りる時も高さ1m位のプラットフォームを使うため、体力は不要だった。

   ペトラの入り口に到着し馬から下りた時、20歳代に見えた若者は心配そうに『私は10番です』と言って鑑札を見せた。『知っているよ』と言って、私も10番の紙を見せて安心させた。
   
   帰路、皆が馬乗り場前の茶店に集まった時、現地人ガイドは馬引きが到着するたびに番号を読み上げて仲間に知らせた。私はひょっとすると既に我が馬引きがきているのではないか、と予想して馬乗り場へ出かけた。いた、いた! 
   
   レバノンで記念に買った赤い帽子を見つけた馬引きの表情がパッと明るくなり、声を掛けることも無く、彼は自分の馬の位置に一目散に走って行って馬を連れてきた。彼にとって一番心配だったのは客に逃げられて、運賃を貰い損ねることだったのかも知れない。帰途、嬉しそうに私にカメラを渡すようにと催促し、乗馬姿を写してくれた。



A シーク(岩の狭い割れ目の意)

   ペトラの入り口から1.5Kmは高さ60〜100m、幅数メートルのくねくねと曲がった岩の割れ目のような道を歩く。この道はムーサ川の元川底だとかで、今でも突然の豪雨で観光客が溺死することがあるそうだ。道に迫る断崖には窪み状の棚が彫られ、その棚には水道用の素焼きの土管が設置されていたそうだ。

   断崖絶壁の岩の色は明るい茶色を呈し、地層のような美しい縞目が見られる。時々何かを祭ったような彫刻がある。上部からは光が差し込み、自然の景観としても一見に値する。
   
B エル・ハズネ(宝物殿の意)

   細い道の終点に辿り付いた時、急に視界が開けた。大劇場の幕が左右にパッと開かれたような突然の変化だ。正面に巨大な2階建ての神殿のような壮麗な建物が出現! 断崖の垂直面が平らに削られ、その内側の岩を刳り貫いて作られた高さ43m、幅30m、奥行き15m以上もの規模を持つ霊廟だった。

   この建物の中には宝物が隠されているとの言い伝えがあり、エル・ハズネと呼ばれていた。

   アスワンのアブシンベル大神殿を小さくしたような岩窟の一種だった。岩の色が鮮やかなので霊廟とのイメージは湧かなかったが、地下室から石棺が発見されて霊廟と認識された。岩窟のためか風化は少なく、彫刻などの保存状態は2,000年も経過しているとは信じがたいほど。

   民族衣装で正装した中年男と一緒に記念撮影。モデル料金は不要だったが、チップを渡すべきだったか?



C 王家の墓

   エル・ハズネを過ぎると周辺を岩山に取り囲まれた小さな盆地が開ける。山の絶壁には無数の大きな穴が穿たれていた。王家の墓だ。中には20*20*20mくらいの巨大な空間もあった。ここの岩は何れも錦絵のような美しさだ。地層の形といい、色の美しさといい、自然の巧みさに感嘆する。墓の主人も天国と感じているのでは?

D ローマ劇場

   各地で無数のローマ劇場を見たが、ここのローマ劇場は別格だ。

   33段の階段、5,000人の収容力を誇るこの半円形劇場は、何と全ては一体となって繋がっている岩から削り出して作られたものだった! 最上段の背後は垂直に削られた高さ10mを超える屏風のような壁面として残されていた。私は当時の人たちの想像を絶する根気・根性に驚嘆するばかり。
   
E 税制

   こんな立派な遺跡を何故残し得たのか? ガイドの説では、当時のペトラの税制は所得が低いほど税率が高く、低所得者は過酷な税金から逃れるために必死になって働いたのだそうだ。面白いアイディアとは思ったが、真偽は不明。
   
   途中、生まれて初めて胡椒の木を見た。高さ5mくらいの木だった。葉は楠の葉のように小さかった。幹の色から成木と判断。びっしりと実がなっていた。この木から胡椒の実を収穫する能率的な方法があるのだろうか? 結局、コーヒーやオリーブのように人手で採るのだろうか?

F 駆け引き

   バス停近くのお土産屋でペトラの文字と、沙漠を背景に2本のナツメヤシ、1頭には人が乗った2頭の駱駝が刺繍されたTシャツを発見。気に入ったので20歳代に感じた店員と交渉開始。
   
『幾らかね?』
『15$』
『高い! 5$だ』
『10$にする』 開きが大きいので、作戦変更。

『アラブの女性は黒い服を着ているが、アラブの男声は黒いトランクスを穿いている(口からの出任せだったのに・・・)と聞いたことがある。貴方はどんな色のトランクスを穿いているのか、ちょっと見せて欲しい』と言ったら、背中を店の入り口に向けて、ジーパンの前部を少し下ろした。何と真っ黒なトランクスだった。これには我ながら驚いた。
『オヤッ。太いね。でも長さが解らないな!』と褒めながら更なる注文を追加したら、とうとうその気になって、トランクスも下げた。20cmは優に超える。日本人では見たこともない大きさだ。急いでカメラを用意したら、恥ずかしかったのか、急に隠してしまった。デジカメの欠点を体験。即応性に欠ける!

『所で、あれの相場は幾らかね?』
『女? 男? 女なら100$』
『男の場合はお尻なの?』
『いや、口だ。女なら夜、店を閉めた後に車で案内するよ。ホテルは何所? 男なら俺だけど、幾ら払う?』
『10$だ。でも、もうバスの集合時間だ。ちょっと聞いただけだ。マイ フレンド、私のラースト・プライスに1ドルのチップをプラスして、6$ならどうだ』
『OK』と言う事で商談は円満に成立。          

   15$から60%値引かせるのに10分掛った。本当は3$くらいのシャツと思ったが、大きくて丁寧な本物の刺繍が気に入ったので買いたかった。その後、愛知県がんセンターや図書館に行くような外出時とか、テニスでも愛用している。
   
[3] ワディ・ラム

   ワディ・ラムは一見するとペトラの景色に似ているが、ペトラは人間の努力によって、ワディ・ラムは自然により長時間かけて造り出された景観である。ワディとは谷、ラムとは小さな盆地のようなワディを見下ろす1,754mの山の名前。

@ アラビアのロレンスゆかりの地

   第一次世界大戦中にベドウィンを統率して、オスマントルコ軍と闘ったイギリス人将校ロレンスが指令キャンプを張っていた場所には、『ロレンスの泉』が今尚コンコンと湧き出ていた。その近くの岩には原始遊牧民の素朴な岩壁画や、その後に書かれた古い文字が残されていた。
   
   ここでは『アラビアのロレンス』の映画も撮影された。今までに大きな砂丘のあるサハラ沙漠や、砂丘も出来ない土漠を見たが、此処のようにさらさらとした砂が溢れる沙漠の周りに、奇妙且つ荒々しい形の岩山が外輪山のように取り囲んでいる景色を見るのは初めてだ。
   
   こののどかな地球上では余りにも特異な景色であるためか、人々は想像力を膨らませて『月の谷』と呼んでいるそうだ。

A 4WD車での沙漠ドライブ

   沙漠に沈む夕日を見るために、3台の4WDの荷台に分乗して沙漠へと進入。出来るだけ前車の轍の上を走っていたが、ある時コースから少し外れたなと思ったら、たちまちタイヤが砂にめり込んで進めなくなった。ドライバーはそろりそろりとバックし、コースへと戻った。沙漠の中のドライブでは砂の厚さが解らない危険性があるようだ。
   
   やがて外輪山のような東側の山の麓に到着。日没の瞬間を見に来たのに僅か数分の延着で、太陽は西側の山に既に沈んでいた。しかし、山の輪郭が太陽の拡散光の中で皆既日食の太陽のように真っ黒にくっきりと浮かび上がり、幻想的なイメージは十分に楽しめた。しばらくの間、山々の色が徐々に変化するに連れて、沙漠の色も刻々と変わっていく光のショーを楽しんだ。

[4] マダバ

   マダバはアンマンの南30Kmの小さな町だが、『聖ジョージ教会』の存在が町を有名にしている。
   
   この小さな教会の床に200万個以上もの天然石の小片で、AD560年に作られたパレスチナの鮮明な地図が、モザイク画(5*25m)として残されているからだ。ナイル川や死海、エルサレムも描かれている。イスラエルは当然のことながら存在していない。
   
[5] ネボ山
   
   マダバの西10Kmにある見晴らしの良い山がネボ山だ。モーゼ終焉の地との伝説が残されている。此処からは死海やイスラエルが見えるとのことだったが、訪れた日は霞みが掛ったようにどんよりとして、確認できなかった。

   今年永眠されたローマ法王(ヨハネ・バウロ2世)が訪ねられた年月日が彫りこまれた石碑が建っていた。
   
   山頂にはフランシスコ修道会の教会が建てられており、その床面には中東やアフリカの動物と、人相と正装から各人種も解る鮮やかなモザイク画が残っていた。モザイクは天然のカラーストーンを使っているため保存性が良く、当時のアフリカと中東との交流の深さを知るには十分な証拠品だ。
   
[6] 死海

@ 死海あれこれ

   死海の面積は920平方Km。日本の都市面積14位の豊田市(918.47平方Km)とほぼ同じだ。死海は海、豊田市の殆どは山との違いはあるが・・・。湖としての大きさは小さいのに海と言うのは、海のように塩が含まれているからだろうか?

   死海は海抜マイナス396m。鉱山を除けば地球上で一番低い場所だ。塩分の濃度は27%。あちこちに塩分が析出している。理科年表によれば塩化ナトリウムの溶解度は40度で26.65%、60度で27.05%。死海の塩分の含有量は既に臨界点に到達している。

   死海が海面下にあることに人類が気付いたのは比較的新しい。古典熱力学が完成し、温度の概念が確立し、正確な温度計が発明された後、1837年に英国人のムーンとビーブの2人が水の沸騰温度から海面下500mと推定して、死海が海面下にあると気付いたのが最初だそうだ。

   死海の蒸発量は流入するヨルダン川の水量よりも多く、今日では毎年80cm水位が低下しているらしく、虎の子の観光資源を守るべく、紅海に繋がるアカバ湾から海水を引き、水力発電も兼ねる計画もあるとか。

   現地人ガイドがこのまま放置すればやがて死海は消滅すると言ったが、勘違いも甚だしい。水が少なくなると死海の表面積は徐々に小さくなるから、面積に正比例する蒸発量も減少する。ヨルダン川からの流入水量が変わらなければ、何時かは流入量が蒸発量に追いつき、以後は一定の水位が保たれるからだ。

   また、紅海から海水を導入すれば死海の塩分濃度が薄くなる、と心配する人までもいた。海外旅行三昧をするなど相対的には恵まれたレベルにある一部の同行者の知的水準が、この程度なのかと些かがっかりした。

   何故ならば、死海の水面を一定にするために海水を導入して、水位を一定に維持した場合、死海の総塩分は導入した海水に含まれていた塩分の量だけ増えることになる。しかし、既に飽和溶解度に達しているので増加した塩分はどこかに析出するだけで、死海の塩分濃度が変化しないのは自明だからだ。

A 浮遊体験

   海岸に面したホテルのプライベート・ビーチがそのメイン会場だ。シャワールームで着替えた荷物は海岸が見えるテラスのテーブル下に置き、添乗員が監視してくれた。尤も一般客はいないので盗難の心配は殆どない。海岸まで50m位の距離があり、2ヶ所にプールもあった。

   死海は海面下に位置するため、海抜ゼロメートル地帯の空気が396m分だけ断熱圧縮され、3度近くも気温が上昇し40度を超える灼熱状態だった。うっかりサンダルを忘れていたため、足の裏が熱くて、熱くて・・・。

   プールに足を入れたり、途中の道に置いてあった砂落としの盥(たらい)の水で足の裏を冷やしながら、走りに走って海岸へ辿り着いた。静かに海に入り、仰向けに浮かんで見た。簡単だ。頭・両手・両足を空中に突き出しても余裕十分に浮いていた。



   しかし、死海に関する旅の注意書きを忘れ、朝風呂に入った折にうっかりして髭を剃っていた。その剃り後がひりひりしてきた。更に肛門の周辺もひりひりと沁みる。肛門は排便と放屁以外の用途には使っていないし、痔もなく無傷の筈なのに沁みたのは、肛門周辺の皮膚が粘膜に近いからなのだろうか?

   海水に10分以上も浸かると、漬物のように脱水作用が進むそうだ。浮くことを体験したので、証拠写真を撮るべくカメラを取りに、再び熱い砂場の上を走りながら引き返した。幸いにも、同行者の宮崎のお爺さんが海岸で見物されていたので、撮影をお願いできた。

   死海の中には海藻も無く、魚類も発見できず、底には粘土状の物質が堆積しているだけだった。快晴だったので海面は限りなく、青かった。死海では泳ぐ人は見かけなかった。水が目に入ると痛いのだ。誰もが短時間の浮遊体験で満足しているようだ。

   プールに入って塩分を落とした。隣のプールには螺旋式の長い滑り台があり上から水が流されていた。その滑り台で滑ったら、自らは姿勢を制御できず、単なる無機物のように流れ落ちてドボーン!

   帰途、死海の有効成分を使ったと称する各種化粧品や加工品の売店に立ち寄ったが、この種の商品の薬効は全く信じていなかったので一切買わず、風呂専用の食塩を一袋買っただけ。
   
B 海抜ゼロメートル標識

   帰途、海抜ゼロメートルと書かれた大袈裟な標識が目に入った。日本の最北端とか、ユーラシア大陸の西端(ポルトガルのロカ岬)とか、アフリカの南端(喜望峰の東南東150Km
に位置するアガラス岬)とか、洋の東西を問わず人類にはこの種の『特異点』に拘る癖があるようだ。

[7] アンマン

   今日のアンマンはローマ時代には『フィラデルフィア』と呼ばれていた。米国東部ニューヨークの南に同名の都市があるが、こちらはギリシア語の『兄弟愛』に由来する。
   
@ 国立考古学博物館

   小さな博物館だが、ヨルダン各地の発掘物が展示されている。

   人の形をしている物としては、人類が初めて造ったとされている素朴な人形が超目玉展示物。アンマン郊外で36体発掘され、世界各地の博物館でも分散して展示されているそうだ。

   その他、死海写本、治療後の穴が開いている頭蓋骨もあった。頭部の外科手術はインカ帝国以外でも、行われていたのだ。



A アムラ城(世界遺産)

   沙漠の中の小さな城。宴会などに使われたホールの天井には裸婦の入浴姿や歴代の統治者が描かれている。
   
   浴室やサウナもあり、サウナのドームには北半球の天体や星座が描かれている。深さ25mの井戸から家畜の力を利用して水を汲み上げるシステムも復元されていた。
  
   内部は暗くて解り難いので、300m位離れた場所に展示館があり、その壁面にアラム城内の写真とその解説ポスターが展示されていた。


蛇足。

   私には何故この程度のさして特徴もない古城が、世界遺産に登録されているのか疑問に思えた。これに比べれば『仁徳天皇稜』は人類にとって遥かに価値のある遺産に思える。
  
   一説によれば前方後円墳の元祖は韓国だそうだが、それを発展させたのは韓国からの帰化人を含む日本人であることには何の疑いの余地もない。その形式の墓としては仁徳天皇稜が世界最大である。80余基もあるピラミッドの歴史で言えば、クフ王のピラミッドに当たるからだ。
  
   仁徳天皇稜は発掘しなくとも、近くに博物館を建て、仁徳天皇稜の歴史的な意義を理解させ、来日観光客に濠の周囲から遠望させるだけでも、大きな価値があると思えてならない。
  
  
B アインガザル遺跡

   人類最古の作品という人形が出土した遺跡。1万平米くらいの面積が金網で囲まれ保護されているが、荒地のまま放置されていた。発掘した数メートル角、深さ2m位の穴が数個、隣接して存在していただけ。まだ未発掘の面積の方が広いので、全体を何故発掘調査しないのか、不思議。

C ローマ劇場

   繁華街の中にある6,000〜8,000人の収容能力がある、岩山の斜面に作られた劇場。ヨルダン国内では最大のローマ劇場。舞台も残っていた。観覧席の下には、共に小さな民族博物館と伝統衣装博物館とがあった。

 劇場前には短いが列柱通りも残されていた。都心の割には静かだった。

D 城塞

   アンマンの町を見下ろすアル・カラの丘の上に聳える廃墟。かつての壮麗さは何所へやら・・・。夏草や皇帝どもの夢の跡?
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おわりに

[1] 旅する度に揺れる軸足
   
   去る者は日々に疎しなのか、何時の間にか何処にいても、地球の中心は自分がいる場所であるように感じるようになってしまった。その上、万有引力の法則で問題を解いているかのように、距離の二乗に反比例して遠方の地への関心は激減してきた。
   
   どこで地震や津波が発生しようが、テロが起きようが、それが遠方ならば我関せず! それだけではない。我が故郷の九州ですらも、今や最果ての地に思えてきた。いわんやアラブなど宇宙の彼方、どうなろうと我が知ったことではない、とすら日頃は考え勝ちだった。
   
   しかし、僅か2週間足らずの旅であっても大シリアの地にひとたび立てば、地球の中心はこのアラブ! 一方、日本は世界地図の右端から太平洋に今にも落っこちそうな超僻地に思えた。
   
   旅行中の7月23日に発生した震度5強の東京の地震も、7月21日に発表された中国の元の切り上げもホテルの衛星テレビで知ったが、地の果ての事件にしか思えず何の関心も湧かなかった。一方、直ぐ近くのシナイ半島(エジプト)南部のリゾート地で、7月23日に発生した爆発事件で80人以上もの死者が出たとの報道に接すると、アラブ人になったような心境になり、犠牲者のご冥福を切に祈った。
   
   旅の価値とは、固定観念に取り付かれた自らの軸足を強制的に移動させ、その移動地点で自らの軸足を立て直し、世の中の森羅万象をその地での新鮮な視点から、冷静に見直せる場が得られることにあるように思えてならない。
   
   『何かに迷いが生じたら、なるべく遠くの僻地に移動したい。そしてその場所でゆっくりと問題を考えることにしたい』と旅を重ねるに連れ、一層強く思うようになった。
   
[2] ローマ帝国の再評価

   『ローマは一日にして成らず』との台詞は耳に胼(たこ)が出来るほど聞かされていたが、何を大袈裟な! との反撥にも似た我が感情は長い間打ち消せなかった。ローマ市内の遺跡を見ても、コロセウム・パンテオン・水道橋には一目置いたが、その他の遺跡の類は世界各地に同等の物が見受けられたので、ローマを特別視するほどの心境には至らなかった。
   
   しかし今回、大シリアを素通りしただけなのにローマ帝国が疑いもなく、国民の幸福を願った当時最強の国家だった、と理屈抜きに自然に理解できた。ローマ帝国が、支配下にある地方拠点都市がいずれの地点にあろうとも、壮大なる都市計画のもとに数百年の使用に耐える劇場・神殿・道路・市場・水道などの国家事業を完遂していたのは疑う余地もない事実だったのだ、と膨大な遺跡を目撃すると嫌でも認めざるを得なかった。
   
   翻って我が祖国日本は、敗戦後近代土木建築技術を総動員し60年間も掛けて国土の再開発をした筈なのに、各地のインフラは勿論のこと都心の建築物に至るまで老朽化、老朽化との声が凄まじく、またもや作り直しの日々。このイタチゴッコの無駄は何時まで続くのだろうか? ローマ帝国に学ぶべきテーマは今尚山ほどある、と思わずにはおれなかった。
   
[3] 古代の国民総生産

   大シリア各地のオアシス都市はメソポタミア以東とローマ帝国など地中海諸国との交易で莫大な富を築いたとの説明は、どの歴史書にもガイドブックにも書かれているが、このような定性的な手抜き解説には何時もうんざりしていた。『莫大な』ではどの程度か全く解らないからである。

   ヨルダンの現地物知りガイドがペトラの繁栄の一端を定量的に説明した。当時のキャラバン隊の駱駝は500〜1,000頭。1頭の駱駝の運搬積載量は150Kg。胡椒などの商品の価格は1Kg当り150$。ペトラは隊商の安全を保障する代わりに商品価格の10%を取得。

   これが正しいならば、商品価格は総額12.5〜25億円になる。しかし、キャラバンが通過する頻度が解らない。仮に月に1隊とすれば、ペトラの年収は15〜30億円になる。一見尤もらしい説明に感じるが、500〜1,000頭もの駱駝が同時に休める場所があるのだろうか? これだけもの膨大な商品を買い取れるのは誰なのか? 疑問は果てしなく生まれる。
   
   私には、労働生産性から評価するとローマ帝国と現在の日本との間には格段の格差が存在しているにも拘らず、ローマ帝国には今尚価値の高い膨大な遺産が、日本にはガラクタ同然の残骸しか蓄積できないのは何故なのか、解けない謎だ。
   
   今日、国民総生産は
   
@ 民間最終消費支出
A 民間住宅投資
B 民間企業設備投資
C 政府最終消費支出
D 公的資本形成
E 財貨・サービスの輸出入

に分解して計算されている。ローマ帝国の国民総生産を計算し、今日の日本と比較した時に、何処に無駄があるのか、何処が大幅に異なるのか経済学者に提示してもらいたいが、未だかつてこの種のレポートを目にしたことはない。

   ローマ人だって衣食住は必要だったし、懸命に働いただろうし、大劇場や大浴場などを初めとして人生を大いに楽しんだに違いないのに、国家的にどのように資源配分をすれば、あれだけの公的資本形成が出来たのか、知りたくて仕方がない。
   
   しかし、名前だけは立派な国内各経済研究所が国民経済モデルを開発し、大型電算機を駆使して巨大な連立方程式を解き、毎年年頭に経済成長率の予想値を発表しているが、まともに当たった試はない。この程度の研究機関にローマ帝国の国民経済モデルの開発を期待するのは、最初から無理と言うもの。
   
   この我が切実な希望をまともに解いてくれる経済学者はいそうにもないが、万一現れれば、即座に経済学博士号どころか、経済学のノーベル賞を与えたいのだが、無いものねだりの一つだろうか・・・。
   
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読後感


   『大シリアの追憶』楽しく拝見しました。どうやら、私が二回の旅行で回った以上の遺跡を一回で効率よく巡られたようです。さすがに、事前調査を含め良く調査された上でベストの「大シリア・ツアー」を選ばれたものだと脱帽しました。

   私は、欧州の人々と仕事や研究開発で交流する間に、彼らのアイデンティティが「自分達はギリシャ・ローマ文明を引き継ぐ”文明人”であり、キリスト教徒である」としているところにあると思い知らされました。帝国の辺境であったヨークやケルンのローマ遺跡に接し、フォロ・ロマーノに立って「無理もないか...」と思ったのでした。

   退職後に環地中海を巡らせて貰ったのは、それを確認してみたいとの思いでもありました。スペインではセコビアのローマ大水道橋の造りに驚嘆しましたが、アラブ人の遺したメスキータやアランブラ宮殿で目が覚めました。ギリシャ・ローマ文明を引き継ぎ、ルネッサンス後の西欧に受け渡したのは紛れもなくアラブ人であったのです。加えて、紀元前後にすら遊牧アラブ人が通商の要地にペトラ、パルミラのローマ風のオアシス都市を築いていたのを”大シリア”を巡って教えられました。

   考えてみれば、セム・ハム語族であるバビロニア人・アッシリア人・アラム人・フェニキア人・ヘブライ人・アラブ人とエジプト人があってのギリシャ・ローマ文明であったのです。西欧人の信奉する一神教も、そのルーツは全てアジアに属するセム・ハム語族の人々にあります。ギリシャ人はエジプト王国と小アジアのトロイに影響を受け、フェニキア人と競う植民活動の中で発展し、数学者から哲学者までを産む余裕が出来たのでしょう。
   
   ローマ共和国とフェニキアの金貨を比べると、その質の違いにとてもローマがカルタゴに勝ったとは信じられません。カルタゴがハンニバルだけなのに、ローマがスキピオ、グラックス兄弟からカエサルに代表される希有の政治家(軍人)を輩出できた風土の違いであったのでしょう。
   
   カエサルの意図した政体と国境線を後継のアウグストスが忠実に守り、国境防衛の軍隊が辺境にまで街道を巡らし、ポンペイ程度の街にまで上下水道から浴場、劇場、フォーラムや神殿の公共施設を整備したことを具体的に見てきました。その異民族統治手法がパックス・ロマーナを実現したのでしたが、大航海時代以降の西欧ゲルマン人がアメリカ大陸、アジアやアラブで行った蛮行はとてもローマ帝国に学んだとは言えません。

   アラビア人を中心としたイスラムが環地中海の殆どを占めたとき、西欧の主になっていたゲルマン人達は地中海に木切れ一つを浮かべることが出来なくなり、通商の道を閉ざされて農業に精を出すより他はなくなって”中世の暗黒”時代に入ってしまいました。

   考えてみれば、明治以降どころか日本人は未だにアラブを知らず、西アジアを飛び越えて西欧と交わり競う事ばかり考えてきました。これは、西欧の産業革命以降の繁栄にのみ目を奪われた実に近視眼的な振る舞いで、現地から聞こえる「一度もアラブの地を侵さず、西欧と張り合う同じアジアの文明国日本」のラブコールに耳を傾け、かの地の安定と発展に手を貸すべきだと思ったことです。

(蛇足)

その1.

   米国の「フィラデルフィア」がアンマンの古代名からとったのだと想像したのですが、ギリシャ語の「兄弟愛」だったのですネ。入植者の有力者にギリシャ人がいたのでしょうか?

その2.

   現地で、ナツメヤシは「砂漠のバイアグラ」と呼ばれていると聞き、後始末に窮すると思って試食は止めたのでした。石松様はダイジョウブでしたか? 20cmを見せられて意気消沈したのでもないでしょうが。

その3. 

   郵政民営化に留まらず、税金で運営される”公”を”民”に移したり、縮小することに異論はありません。政府が保守だろうが革新に変わろうが、それに忠実に仕える官僚の仕事に何の興味も湧きません。世界の歴史で、血税を弄ぶこの層が腐敗から無縁であった例はないように思います。

   官僚を手足のように使い、権力で”帝国”を経営する時代は過ぎました。民主国家において、官僚は限りなくゼロに近づけるのが良いと思います。但し、失業者を国中に溢れさせるのは社会を最も乱れさせる原因ですから、一度に縮小することには反対です。

   縮小には、公務員の給与を毎年5〜10%程度減額していけば良いと思います。有能な人材は自然に民間に移っていくでしょう。マニュアルの整備された公務員の仕事は、有能で創造的な人間が行うべきことではないでしょう。
   
   ”公”に留めるべきは、社会の機会平等と安定の維持に”教育”、”治安”と”福祉”の関係だけで良いとさえ考えます。今日も、一回で3.4億円を使うという自衛隊の公開実弾演習が報じられていますが、そんな金と労力は道路公団の代わり、ローマ帝国に倣い後世のために道路建設や山林の下草刈りに使って貰いたいものです。

@ トヨタ先輩・工・何時も素晴らしい読後感を頂けるのに未だお会いしたこともない方


   行ったことがない国々なので、興味深く読まさせていただきました。ベドウィン族については、大分前(オイルショック前)ですが、中日新聞の記者2人が写真と文で、中日紙に連載していたことがあり思い出しました。歴史の勉強をしていませんので、特別のコメントは出来ません。
   
   ホームページの検討をされているご様子ですが、過去の旅行記等目次をつけて、ホームページに公開されておれば、見たい人が見たい時にアクセスすればよいので、双方に便利かと思っておりました。また、写真や動画があるのと、ないのでは、TVとラジオの違いがありましょう。
   
   更に、公開により、未知の人達のアクセスにより、多様な意見や見方もでて来ましょう。貴殿の自分史として友人・知人に留めるか、旅行記として広く情報発信するのか、読み手の評価として何を求めるか、貴殿が決めることでしょうが、先ずはご健康と充実したシニアライフを祈念します。有難うございました。

A 元ゴルフ仲間・経


   「大シリアの追憶」楽しく読ませていただきました。石松様の洞察力の鋭さには脱帽。一箇所の部分を除いては。“絶対音感”の部分です。

   私は子供の頃からピアノ、お琴(こちらは母の趣味で)と習っておりましたが、絶対音感がございませんので努力でそれをカバー。ですので、絶対音感があるなどとは決して申してはいないと存じます。一応訂正させて頂きます。

   私もアルバム整理が終わり、友人達に楽しんで見て貰っております。毎度の事ながら旅行から戻って初めて、行った国々の勉強。(アルバムにコメントをつけるのに必要な為)
石松様のご説明を読み納得する部分が多々あり事前勉強、事後レポートと本当によくなさいます。

   我家は10月からのスペインでのロング・スティの準備をそろそろ始めております。PISOもほとんど決まり不動産会社に送金を済ませました。3ヶ月とはいえ、預金残高証明書(英文)、戸籍謄本(スペイン語)が必要で結構煩わしい雑務が多いものです。

   石松様の次回の旅はどちらですか?

   9月下旬、友人とバルト三国&フィンランドに出かけます。
   
B 今回の同行者仲間・趣味も豊かな才媛・ご主人はスペイン語にも堪能とか


   ページ数が多く、少なからぬ忍耐に耐えました。しかし、読むより書く方が数十倍の努力を要することから、改めて貴殿に敬意を表します。石松さんの旅行記を読む楽しみの一つは、寄せ集めのグループ旅行で如何に楽しまれたかです。
   
   どんな仲間か、学歴・職歴・性格・人生観が手に取るように判る。これらを踏まえているからこそ、実のある会話に盛り上がるのでしょう。人の過去を訊くには遠慮もあるし、勇気も要る。貴殿の場合は、尋問ではなく自然にしゃべらせているようだ。

   シリアの「ホモスのホテルの珍事」の件、プレジデンシャルスイートルームに泊めてもらったとのこと。添乗員が意識的に石松さんに割り振ったに決まっている。一番口うるさい人に文句を言われないように配慮するのが鉄則だから。
   
   私にも似た経験がある。スイスのツェルマットのホテルに泊まった折、マッターホルンが望める室に割り振られたが、添乗員から口止めされた。翌朝、世話好きのおばさんがどんな室に泊まったか聞いて周り、白状せざるを得なかった。添乗員は吊るし上げられ、気まずい空気になった。
   
   貴殿は、自ら公表し、室の見学会に皆さんを招待し、多分、二次会は盛り上がったでしょう。添乗員はホッとし、1,000トンの岩の件で辱められた事も消え失せ、石松ファンになったことでしょう。

   皆さんに何もかもしゃべらせるコツが判った。

C トヨタ先輩・工・ゴルフ&テニス仲間


   ”大シリアの追憶”拝受いたしました。ありがとうございます。毎回、旅行記を拝受しながら読後感も返信できず申し訳ございませんが、石松様の世界を駆け巡るエネルギーと卓越した見識の高さにいつもながら感服させられつつ、心の中で大きな拍手を送っております。

   先週、知人で仕事の先輩が72歳で他界し、その葬儀で甲府市まで山内氏(ドライバーでは300ヤードも飛ばすウルトラ・スポーツマン)と連れ立って参列してきました。石松様の話題になり、気候の良い10月ころにでも”石松様とゴルフでも兼ねながらお会いしたいね”ということになり山内、田中両氏が計画してくれることになっていますので、その節にはぜひお願いいたします。私も今から楽しみにしております。

   丸山は私も売りっぱなしで放置してあります。5月高値の信用期日が明けるまで売り禁の解除は解けないのではないでしょうか? 郵政法案をめぐっての政局混迷で株価は下げと予想していましたが、私の思惑とは反対に日経平均は堅調そのもの。
   
   私は丸山製作所を3/31に750円*5000株、4/4に723円*5000株、4/18に886円*5000株、信用取引で売ったまま放置しているものの、9/30に最初の売り株は期日を迎えるため、バルト三国他へ出かける前に買い戻し清算の予定。売り禁状態なので繋ぎが出来なくて残念です。でも概算300万円は儲かっていますから、仕手株博打による不労所得とはこんなものだろうと、小満足はしています・・・。

   売りでは読みラン、日本コンクリート、古川電工、西友、等々。デイトレの繰り返し。買いでは最近紀州製紙を350円から回転を繰り返しながら買いあがっています。天井を確認するまでデイトレで買いあがり、ドテンのタイミングを狙っています。現在デイトレは松井証券で実施していますが、手数料の安さに大満足しています。
   
   私は丸山以外にも紀州製紙・沖電線・東電通・東日カーライフ・ノザワを信用売りしていますが、東電通以外は9/20現在総て売り禁止状態。信用取引の売り禁止発令が最近は早めに出される傾向があり、仕手株博打の面白さが減り、うんざりしています。
   
   バルト三国からの帰国後にでもお会いできる機会をいただけましたら光栄です。お会いできる日を楽しみにしております。

D インターネットで知り合った会社社長・工・株式投資&投機の大家・ゴルフ仲間


   「大シリアの追憶記」拝読しました。中東のような観光という点で意欲の湧かない所(何故? 食わず嫌い?)に行かれ、何時ものように膨大な事前調査をされたのを見て、貴兄の古代文明に対する旺盛な探究心に感心しています。そして調査した内容を記憶し、見聞した事項に盛り込んで旅行記に纏められ、我が凡人には真似の出来ないことで、これにも感心しています。

   何時ものことですが、同行者等の方の観察は生きた迫力があり面白く読ませていただきました。近い将来には写真も加わるとのこと、世界遺産記述も更に実感を持って拝読出来るようになると期待しています。

E トヨタ先輩・工・ゴルフ仲間・年間ゴルフ目標回数>年齢・9/19のロイヤルカントリーでの開場記念杯では70歳と言うのに2アンダーでとうとう優勝!

   
   大シリア紀行のメールを頂き有り難うございました。メールを頂き1週間以上も過ぎましたが、石松さんの大報告はじっくり時間をかけて読まなければならなかったのです。
   
   今回行かれたヨルダン、レバノン、シリアなどの国は外務省から海外危険情報が出ている国々であり、如何に世界遺産があろうとも行くことがためらわれるもので、よくも行かれたなあ、と感心する次第です。
   
   正直、私はこれらの国に対し殆ど知識が無く、治安の面でパレスチナ過激派、シーア派、スンニ派の武装組織、過激派という言葉が頭をよぎり世界遺産を知りませんでした。
知っているのは死海程度で、大変勉強にはなりましたが行つてみたいと思わなかったです。

   今開かれている愛地球博で中東の国々でパビリオンを構えているのはイラン、カタール、サウジアラビア、イエメンぐらいですか。そのなかでもカタールとサウジアラビアは金持ちの国らしくパンフレットが立派で、さらにカタールはピンバツチまで配布しています。この地の中部電力がカタールからLNGを輸入している関係かもしりません。
   
   どうせ何時かは死ぬのですから、何処で死のうが同じと考えています。海外で死ねばJCBのゴールドカードから保険金が5000万円出るため、死体の運搬費などは全く心配していません。観光地は何処でもほぼ安全です。死ぬ準備の一つとして年内には居間の一角にミニ仏間を作るべくリフォーム7社に合い見積もり中。
   
   5月と9月に万博に行きました。革新的な新技術の展示もなく貧弱なテーマパークと観光物産展化した万博には失望! ヨルダン館では死海から運んだと言う海水を小さなプールに入れ、有料で浮遊体験が出来るようになっています。また、砂の芸術の実演コーナーもありました。透明なガラス瓶にカラーの砂を詰め、外から見ると風景画になっているものです。手先の器用さに感嘆しました! 完成すると栓をして砂が動かないようになっていました。私は現地で4瓶お土産に買いました。
   
F トヨタ&大学後輩・経

 
   石松さんと遺跡との対話、石松さんと市民との対話、石松さんとツアー仲間との対話、石松さんのトラブル対応術等々 楽しく読ませてもらいました。
 
   また、いつもの通り 石松さんの博識ぶりに感心しながら読み終えた次第です。ツアーガイドにとって、石松さんとの対話は大変勉強になり、更に精進しようとの気持ちを起こさせるものか、はたまた、プレッシャーが大き過ぎて別のグループに入りたいと思うものかと、今夏の暑さで一層鈍くなった頭で愚にもつかぬ事を考えております。

   石松さんご紹介のインターネットアドレスで、誰のものか知りませんが当該地域の写真を楽しみました。石松さんオリジナルの写真を、是非見たいものです。
 
   更なるご活躍を祈念申し上げます。

G トヨタ同期・工・元トヨタ役員


その1。

   忙しくはないのですが、旅行記やっと読み終えました。いつもながら綿密な事前勉強と物事をとらえる確かな視点に感心。アラブ文明は、スペインで少し垣間見ただけですが、キリスト教文明とは全く違う魅力がありますね。
   
   アラブ諸国の対米嫌悪感を、地元で相当感じましたか? 我々は英米フィルターにかかった情報だけしか接していないのでは? と危惧しています。
   
   GNP論議を始めておられますが、近代経済学の国民所得概念では時代を越えた長期の比較はできないでしょう。何故比較が出来ないのですか?
   
   余談ですが、経済学は何のための学問か、学問の要件を満たしているのか? と経済を専攻していてずっと疑問でした。強いて学問体系があるとすれば、経済史、経済学史だけではないでしょうか?
   
   特に近代経済学は現実の社会政策科学と割り切って考えないと期待はずれになるかも。絶対値よりも推移や変化値を重視する比較的短期の政策でしょうが、それさえも人間の行動を読むことは不得手のようで、よくはずれるのはご承知のとおり。平和賞もそう思いますが、ノーベル賞の対象にはなじまないかもしれません。
   
   昔は、経済予測は天気予報と共に当たらないことで有名でしたが、最近の天気予報はよく当たるようになってそうも言えなくなったようです。予測をすることが影響を与える経済と、そうではない天気の違いは決定的な差として残るでしょう。読後感になりませんが悪しからず。

   貴重な読後感を拝受。ありがとうございました。賢人各位も我が駄作に飽きてきたのか、読後感をなかなか書いてくれません。それだけに一層嬉しくなりました。

@ 観光客として接する限り、政治の話は出てこないため、対米嫌悪感の有無はわかりません。彼らには日銭を如何に稼ぐかに関心があるだけでした。

A 経済学の理論は自然科学の理論(例えば万有引力の法則)のような普遍性は元々ありませんね。でも、古代のGNPの構成はどうなっていたのか、第二次産業が巨大化した今日とどのように違うか、知りたいのですが・・・。経済史を読んでも定性的な説明ばかりで、定量的な説明がなく、風が吹けば桶屋が儲かる式の議論が多く、妥当性の評価も曖昧で不満ですが・・・。

B 元々平和賞も経済学賞もノーベル賞の初期にはなかったもの。普遍的な原理を示す方程式とか発見とかには無縁の世界かと思います。

その2。

   賢明で知的好奇心の旺盛な貴兄に対して筆がすべり過ぎてしまいました。よくご存知の上で質問を受けてしまいました。小生の理解は下記のとおり。
   
   生産性を確実に表すのは物的な生産性でしょうが品目別になって総計ができない、マルクスはそれを労働時間に求める労働価値説を採用。「市場価格評価の国民所得はその社会の最終生産物の流れを貨幣価値であらわしたものの合計」と定義(サムエルソン「経済学」より)
   
   ここからその時代時代の市場の特徴や市場がカバーしている割合(ロシア経済では4割がアンダーグランド、裏経済といわれ、日本でもヤクザ支配の領域は統計には現われない?)によって、数値の前提自体が違ってくる。
   
   さらに年々の物価指数によって「デフレート」して比較することになるが、あまりその期間が長いと重要性に応じたウエイト(バスケットの中身)付けの信頼性に問題。
   
   これらの特徴から国民所得統計は、近年の失業、インフレ、経済成長というような大問題と取組むためには不可欠ですが、時代を越えた比較や市場機能の大幅に異なる国際比較などにはあまり適切な指標ではないのではないか、というのが小生の見解です。
   
   数値自体よりもその推移や変化の方向・量に意味が大きい(積分よりも微分になじむ?概念ではないか)と思います。以上、小生の不勉強を恥じながら「釈迦に説法」でした。 

   貴重なご返信を賜り、ありがとうございました。

   天文学者は宇宙に浮遊するゴミのカケラからでも宇宙創造の謎解きに挑戦しています。考古学者は一片の土器、一片の石器からでも当時の社会生活を推定しています。考古経済学が何故生まれないのか、不満です。

   総ての資料さえあれば私だってGNPの計算は出来ます。しかし、今日に於いてすら地下経済を初め把握できない分野は山とあり、関係者はGNPを無理矢理推計したものの、計算間違いがあったと懺悔したり、過年度に遡って訂正したり・・・。

   ローマ時代の経済活動を僅かな証拠(これらすらも天文学者や考古学者が入手する証拠よりも質量共に遥かに膨大!)を元に、マルクスやケインズだけではなく、20世紀の代表的な経済学者で、私が最も尊敬しているシュンペーターすらも気付かなかった、一を知って十を推定する新手段・新概念をこそ提案して、もっとリアルに定量的にぼんくら庶民を代表していると自己評価している私でも、なるほどと解るように解明してくれてこそ、一流の経済学者といえるし、文句なくノーベル賞に値する功績だと思っているのですが・・・。
   
   換言すれば現在のGNPの集計手段とは異なる、未だ誰もが気付いていない新概念を提案し、それを用いて人類1万年の経済活動を統一的・連続的に理解できるようにしたならば、ノーベル経済学賞に値する筈と思っています。
   
H トヨタ同期・京大経・元テニス仲間・四国88ヶ所1,440Kmを白装束&徒歩で結願(けちがんと読む)達成


   いつもながらの旅行記、拝読致しました。膨大な量の事前勉強に基づくエピーログ、同行者の人間模様、旅行業者や出国までのエピソードを交えた導入部は、貴兄の紀行文のスタイルにすっかり定着しましたね。

   ところで歴史に学ぶことの大切さを今回も具体的に示され、大変感銘を受けました。  50ケ国近い国々を精力的に見聞し、そこから見えてくる普遍的な価値を文明論として展開しているので、なるほどと首肯できるのです。

    ”ぶれる軸足”の事例としてローマ帝国を再評価しておられますが、矢張りこれまでの知見があってこその見方であり「ローマは一日にして成らず」を実感できたのは大きな収穫であったと思います。 
   
   先日のNHKでもローマ帝国は福祉国家であり、それゆえに人民の支持を得て長期にわたる繁栄をみた、と解説されていたのを思い出しました。果たして日本には国家100年の計を語り、日本文化の再構築に取組んで行くような時代は来るのでしょうか。
  
   1882年に着工し、100数十年を経た今なお建設が進められているサグラダ・ファミリア聖堂と、日本の都市に乱立する軽薄な高層ビル群を見比べ、彼我の価値観の格差に諦観さえ覚えます。

I 大学教養部・級友・工


   大変遅れて申し訳ないのですが、がんの全快誠に嬉しく思っています。さすが石松君の明晰な頭脳と的確なる判断力によって、むずかしい食道がんを乗り切ったことは、今後の人に希望を与える出来事に違いないことです。 
   
   さて、大シリアへの旅を無事終えられ、いつもの優れた観察力によって我々に貴重なる情報をもたらしていることに感謝しています。
   
   その中で、日本を飛び出して異国で思索することは常識観念を取り去って、世界の中での自分を見つめなおす機会を与えられることに共感しました。

   今後ともいつまでも健康で、石松レポートを送り出すことに期待しています。
  
J  中学同期・工


  
   いつもながら貴兄の旅行記は内容が多く、一気に読めないので日を置いて何度かに分けて読んでいますが、最後のところを読み終わる頃は最初の方に何が書いてあったか忘れてしまい、つい読後感を書くのが億劫になり今まで何度もエスケープしてきましたが。貴兄の一言『寂しいです』で重い腰を上げることにしました。

   読後感を送るようにと、とうとう請求しました。

   とは言え、もとより自分自身今回のテーマであるシリアをはじめとする中東地域には全く疎いため、記述されている多くの事柄が自分にとってものめずらしく、参考になりましたが、それに対する感想なり私見を述べるのは極めて困難なのですが、以下は中東の知識の不要なところに限定して、的外れかもしれませんが、記述されている数箇所について感想を述べさせていただきます。

   地域独占の名鉄に比べ私鉄王国関西で鍛えられている近鉄は車両も新しく、トイレも飛行機並の快適さ。セルフサービスとは言え、使い捨ての不織布製お絞りもあった。

   このくだりは全く同感です。やはり競争の原理が必要ですかね。

   『馬鹿なことを言うな。私には何の落ち度もない。チェックインをして鞄を預け身軽になりたいだけではなく、免税店が閉まる前に寝酒も買いたいのだ。添乗員には飛行機の中で会うから何の問題もない筈』と言って、強引に切符を取り上げた!

   正しいと思ったことは臆せず主張する。見習いたいものです。後で相手のサービスの悪さを愚痴るのは愚かなことです。

   私は世の植物学者・農学者・生命科学者達は全力を挙げて沙漠に育つ植物をこそ遺伝子工学の粋を集めて、人類1万年の計(人類の本格的な歴史は高々1万年なので、今から1万年掛ければ十分可能と思えた・・・)の元に開発してもらいたいと切に思った。

   これまた貴兄の独創的発想で、面白いと思いました。ただ、1万年かけるなら、海水の真水化等による砂漠の灌漑もリーズナブルなコストで出来そうなものかと思います。勿論両者はイコールでは無いので、それぞれが有効と思いますが。

   しかし、僅か2週間足らずの旅であっても大シリアの地にひとたび立てば、地球の中心はこのアラブ! 一方、日本は世界地図の右端から太平洋に今にも落っこちそうな超僻地に思えた。・・・・・・7月23日に発生した爆発事件で80人以上もの死者が出たとの報道に接すると、アラブ人になったような心境になり、犠牲者のご冥福を切に祈った。

   これこそ旅行の達人にして言い得る至言と思いました。座って本を読んだりテレビを見てもこの心境にはならないのでしょう。だから旅行は価値があるのですね。

   ローマ帝国の国民総生産を計算し、今日の日本と比較した時に、何処に無駄があるのか、何処が大幅に異なるのか経済学者に提示してもらいたいが、未だかつてこの種のレポートを目にしたことはない。

   ローマ帝国のインフラは末代まで残り使用される、西洋ではこの伝統がある程度継承されていますが、日本は全く異なり、インフラと雖も使い捨て(みたい)で、蓄積がきかない。という理解でよいのでしょうか。 

   確かにヨーロッパでは何百年も前の町並みがそのまま残っているところが多と聞きましたが、日本とは大違いですね。鉄筋コンクリートでも(うろ覚えですが)耐用年数は80年と聞きましたが、山陽新幹線のトンネルは海砂を使ったため、30年くらいで剥がれ落ちてきていると以前ニュースで見たことがあります。旧丸ビルは何年で建て替えたのでしょう。耐用年数100年というのは確かに珍しいのでしょうね。

@ 旧丸ビルは1923年に竣工し1997年に解体されたので、寿命は日本男子の平均寿命よりも短い僅か74年だった。耐震強度に疑問がもたれての改築と報道されたが、それは建築史の記念碑としての保存運動を潰すための、表向きの理由に過ぎないのではないかと邪推している。

東京駅前の超一等地で容積率も緩和され、改築すれば延べ床面積が2万坪から4.5万坪に拡大できるだけではなく、IT時代のオフィスビルとして使い易くすれば家賃も引き上げられ格段に収益性が高まるとの、企業論理が主因と思っている。

A エジプト・ギリシア・ローマ時代は気硬性セメントが使われた。2000年間もドームの直径で世界一だったローマのパンテオンの天井にも気硬性セメントは使われているが、未だにびくともしない強度がある。

B 1756年に英国のジョン・スミートンが水硬性セメントを発明し、1867年に仏人のモニエが金網で補強する鉄筋コンクリートを提案した当初には半永久的な寿命があると思われていたが、その後間違いだったと解った。建物周囲から炭酸ガスが侵入し、アルカリ反応が起き強度が劣化し、クラックが入り終には鉄筋が錆びて寿命を迎えるからだ。
   
C その後、生コンを上部に圧送できるポンプ車が発明され建設効率を上げた。しかし、日本では生コンの取引は容量単位だった理由に加えて、業者はポンプ内の生コンの流れをよくするため必要以上に水を追加する傾向があり、所謂『シャブコン』がまかり通り、コンクリートの強度低下も招いている。

   何故気硬性セメントが使われなくなったのか、私には分からないままだ。材料調達難よりもセメント工場の生産性、建築現場の作業性に難点があったのではないかと推定するだけだ。
   
   川砂を使い人海戦術で生コンを手込めしていた旧丸ビル時代の鉄筋コンクリートが最強で、川砂が枯渇し山砂どころか海砂まで使うようになった現在、耐久性は落ちる一方である。欧州のように外壁にレンガやタイルを貼り炭酸ガスの侵入を阻止すれば寿命は2倍に延びるとは言われている。ひところ流行したコンクリート打ち放しは最悪の選択である。
   
   我が家を1974年に現場打ち鉄筋コンクリートで建てた時、炭酸ガスの進入を阻止するため外周の壁面は総て防水モルタルを塗った後、防水リシンを吹き付けた。3年前のリフォームでセントラル冷房装置を撤去し、エアコンを取り付けたとき各部屋の壁面に直径10cmの穴を開けた。そのときに、東西南北の各壁面から取り出された直径10cm長さ12cmの円筒状のコンクリートを金鎚で叩いたが、劣化は一切認められなかった。
   
   しかし、世間での鉄筋コンクリートの劣化ニュースがしばしば報じられてきたので念には念を入れるべく30年経過した昨年、外壁も屋根も総て防水樹脂で二重に覆った。少なくとも我が永眠時までは寿命が延びることを期待して・・・。

   日本の場合はたしかに無駄が多いように思えますが、しいて言えばゼネコンや鉄鋼などの関連業界には都合がよさそうですね。

K トヨタ後輩・工・素晴らしい読後感を時々書いてくれる方


その1。
大シリア旅行記読後感(第一部)

   古代にはアジア、シリア、リビアは並立する地名だった。アジアとは元来、今の小アジア辺りを指した。それが地理上の知識の拡大に伴って東へと範囲が次第に拡大して行き、今は極東までアジアに入っている。だから、アジアにはいろいろな地域が入っている。最初から現在のアジア全体を指すために使われた地名ではない。
   
   一方、シリア(石松氏のいう大シリア)とリビア(古代にはアフリカを指した。今の地中海岸のアフリカ)は古代の当該地域のごく一部を占める独立国の名称となっている。実勢範囲よりも広い地名を使いたがるのは「南日本新聞」(鹿児島県のローカル紙)や「東日本銀行」(茨城県?)と同じことであろう。アジアとは本来「女の子の名前」であって、バグダッドではアジアという名前の女子職員がいた。シリア、リビアも女の子の名前であったかどうかは失念。

   私が中東に興味を持ったのは、最初は1973年の第一次石油ショックであった。職場(防衛庁)でも早速中東問題研究会が開かれ、中東問題の専門家の話などを何回か聞いた。その後米国に留学して、大勢の中東特にイランからの留学生に出会った。「おしゃべり好きで、怠け者」というのが当時の印象であった。
   
   しかし、サウジの学生に聞かせて貰った中東の音楽は魅力的であった。いつか中東に行ってみたいと思った。彼女の父親はサウジの豪商であったが、娘の教育のために戒律のうるさいサウジを避けて、ベイルートに転居したそうである。

   その後、85年から86年まで1年4ヶ月バグダッドで働いた(国連職員)。2年契約ではあったが出発が3ヶ月遅れ、また最後の半年は体力を消耗し、一時帰国したまま現地には戻らなかった。米国留学5年半で貯金は使い果たしたので、1ヶ月毎に100万円貯金ができるという契約は魅力的であった。仕事は都市計画チームのコンピュータ班長であった。2年後には豊田市に新設の大学(豊田学泉大学)に就任が決まっていた。

   当時のバグダッドはイライラ戦争の最中で、またフセインの圧政下で大変なところであった。前年の84年にはバンコクにいたが、バグダッドの前任者から、バンコクと正反対の土地といわれた。行ってみてその通りであった。
   
   しかし当時はまだ日本のゼネコンも相当数駐在しており、日本人小学校もあった。その後はどんどん大変になって地獄になったようである。一時帰国のまま退職したので、現地通貨(当時は1万円相当)を今でも持っているが、現在は何万分の一にも下落して紙くずである。

   赴任時はイラク航空使用でないと入国ビザを発給しない。ボーイング747の最後部までがビジネス料金。冷えていないビールをスチュワーデスが投げてよこす、というサービス最低。日本のゼネコンでは「奴隷船」と呼んでいた。一時帰国時にクウェートから乗ったJALビジネス席とは天地雲泥(JALバグダッド支店では現地通貨(公定レートで実勢の数分の一)で発券だからお気の毒)。

   バグダッド以外には、近郊のバビロン、カルバラ、ファルージャなどに行った。水がたっぷり流れているユーフラテス河が印象的であった。また正月休みに北部のモスル(近くにアッシリア帝国のニネベの遺跡)に行った。途中チクリートあたりで横道に入って古代都市の遺跡も見たが名称は失念。何しろ観光目的の入国は認めていない国であるから、まったく整備されていない遺跡であった。

   それから20年経ったが、ブッシュ大統領のイラク攻撃とイラク民主化は全面支持。大量破壊兵器などイラクにはそもそも作れるはずがないが、そんなことはどうでもいい。テロの目を徹底的につぶす必要がある。日本の国連外交はドイツと組むなど最低。

   私が知る中東は、このイラクと帰国時に経由したクウェートだけ。クウェートの豊かな消費生活にはびっくりしたが、石油に浮かぶ楼閣都市という感じ。

   石松氏は結婚式に2回ぶつかったそうであるが、私は結婚式に1回、葬式に1回参加した。葬式はイラク政府の幹部の父親が亡くなったとき。普段は異教徒は入れない有名なモスクに入ったが、中は迷路のようで案内にしたがって一方通行、控え室でのお茶の提供なども全部男性担当、出口まで女性に出会わずに終了。
   
   一方結婚披露宴では招待客の女性は黒ベールをとって、ドレスは金糸、銀糸をふんだんに使ったネグリジェのような薄着。食事の後は夜更けまでダンス大会。両者の相違点は、葬式は不特定多数(特に名士の葬儀には)が参加できる。結婚披露宴は招待者限りというクローズドな会合。

   ともかく私にとっても強烈な印象の中東であったし、その後20年の体調不良(←ホルモン変調)もイラク勤務に起因しているので、私にとっては「コストの高い」貯金となったが、お金を払ってまでもう一度行くところとは思えない。
   
   イラクは石油が出るまでは中東では農業国(古代以来、灌漑技術には伝統あり)であり、また田舎者(中東での正面は地中海に面したベイルートやカイロ)とされていたが、また素朴な民族性でもあった。

   昔大文明があっても、今のアラブ人とは無関係であったし、もう一度大文明が起きるわけでも無い。義経でも有名な奥州平泉文化も有名ではあるが、もう一度平泉文化が起きるわけではない。平泉文化は確率的には8000年に一度とかであと7000年は待つ必要がある。
   
   石油が出ることと、世界に迷惑をかけるテロをつぶせばあとは放置するしかない。何しろ、摂氏50度を越す土漠は日本人の行くところではない。いくら石油が出ても、所詮「あぶく銭」はなかなか身に付かない。

   5ページ。石松氏のような資産家(細々と生きている年金生活者へのとんでもない誤解!!)が図書館利用とは情けない。せいぜい一旅行で数万円だから蔵書とされては如何。アマゾンジャパンでは無料配達、労力不要。ハクスリーは平凡社の世界大百科事典にも出ている。一流の学者。石松氏は彼と波長が合うとは流石。

   6ページ。石松氏も旅慣れた14人の仲間入り。多分海外旅行業界では一流の常連客かもしれない。私は市立図書館などどこにあるのかも知らない。老人の溜まり場とも知らなかった。日立は中途退職者が多いでしょう。工学的社会システム観の権化だから、楽しい職場ではないでしょう。
   
   7ページ、結婚サービス業者の「色による性格判断」は私の場合も良く当りびっくりした経験あり。
   
   9ページ、パック旅行と雖もどんな事故にぶつかるか分からず、最低1000ドルは現金を持参すべき。ビールの歴史は数千年。電気冷蔵庫の歴史は数十年。電気冷蔵庫普及の歴史は更に短い。常温のビールに怒鳴りだすとは教養のない野蛮人。
   
   ホテル内のレストランに食事を予約し、スーパーの数倍もするビール代金を支払うお客様に対し、大昔と同じ常温ビールを提供するのは詐欺行為同然! ビール代金には快適な環境と適温に冷やして提供するコストが含まれているからだ。掛かる行為は一切認めないのが一流の教養人。勇気なき野蛮人は悪徳業者の鴨にされて泣き寝入りをし、後でぶつぶつ不満を言うのが落ち!
   
   11ページ。チップは自分に付ける値段でもあるから石松「殿下」の場合、1ドル札でOK。コインに細分する必要なし。砂漠の緑化は大賛成だが、北緯20度―30度の高圧気候帯(高圧気候帯と言う概念は知らなかった。下記蛇足参照)の場合降水量は増やせないでしょう。あまり自然をいじれば地球全体が狂いかねない。円形の灌漑はあちこちで見るが、通常は地下水利用。


蛇足。インターネットから

   亜熱帯高圧帯(あねったいこうあつたい)とは、緯度20〜30°付近の地域に形成され、年間を通じて存在する高気圧。亜熱帯高気圧とも。日本の夏の気候に大きく影響する北太平洋高気圧もそのひとつである。亜熱帯高圧帯は、赤道上で生じた上昇気流により大気上層に昇った空気が下降気流となって形成される(ハドレー循環)。下降気流は高温で乾燥するため、亜熱帯高圧帯のもとには砂漠が形成される。季節とともに太陽の照らす地域が移動すると亜熱帯高圧帯も南北に移動し、これによって夏にのみ亜熱帯高圧帯にかかる地域は地中海性気候となる。逆に冬にのみ亜熱帯高圧帯にかかる地域は、雨季と乾季がはっきりしたサバナ気候やステップ気候となる。

   この説明だけでは沙漠の発生理由としては不十分だ。地球の歴史の尺度で言えば僅か一万年前には樹木が鬱蒼と繁っていた場所で沙漠が拡大しているからだ。地球上の陸地の総てが緑化されたと仮定した時、どのような気象になるかのシミュレーション結果をこそ気象学者は発表し、緑化運動を勇気付け励まして欲しいものだ。


   15ページ。砂漠の中東は本当に食材に乏しい。中華食材の輸入禁止で、地元食材だけで作ったバグダッドの中華料理には閉口。ただしチグリス川の川魚(鯉?)は超美味だった。中東のトイレにも閉口。バグダッドの官庁建築でもトイレと給湯所が共用。トイレで湯飲み茶碗を洗っていた。
   
   17ページ。カタールには行ったことないが、クウェートのように豊かで物資も豊富なのでしょう。なつめ椰子はイラクでも懐かしい光景。石油のない頃は中東ではご馳走だった。日本の野菜価格は異常。60年間保護され過ぎた日本の農家はもはや自走能力なし。

   21ページ以降は次回。なにしろ、地図なし、行程表なしで、知らない地名が頻発してどこを歩いているのかも良く分からない。

その2。
シリア旅行記読後感(第二部)

   21ページ。カタールで午前中半日観光をして午後ダマスカスに移動したようだ。ウマイヤ朝など数十年忘れていた。私にとって高校世界史の勉強量は相当なものであった。西洋史は一番好きだったので大学教養科目でも西洋史をとった。理科生対象の西洋史はボリュームが少なくてがっかり。
   
   そもそも理科に入学したのだから、数学、物理学を本格的にやるべきだったのに、西洋史に一番興味があったというのでは、頭の切り替えが遅れていた。60歳を過ぎて、毎日コンテナ船を見て港湾開発の仕事に従事していると、造船技術者(氏は船舶工学を専攻していた)になっても良かったかなとも思う。

   アラブとキリスト教の世界は一見水と油のほうであるが、実際ははそうではない。そもそもイスラム教は真空の中から生まれたものではない。ユダヤ教やキリスト教が充満している地に生まれたものであるから、両宗教の文化、伝統を引きずっている。だからエルサレムは三宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の聖地となっている。
   
   ユダヤ教の改革がキリスト教、キリスト教の改革がイスラームと私は理解していますが、キリスト教徒だけが美味しそうに豚肉とその加工食品(ハムやソーセージの類)を食べているのが不思議。キリスト教徒には宗教界にはあるまじきご都合主義、よく言えばフレキシビリティがあるように思えてならない。
   
   エルサレムに近いシリアやヨルダンにキリスト教の聖地があるのは当然であるし、キリスト教徒も中東各地に相当数残存している。中東では田舎に属するバグダッドで、私の出席した結婚式もキリスト教式であった。多分ギリシャ正教だったのであろう。

   23ページ。マアルーラ村は百科事典には載っていなかったが、インターネットで検索するといろいろ出てきた。アラブに残るキリスト教の部落らしい。アレッポはシリア第二の都会でラタキアを外港とする交通上の要地。
   
   キャラバンサライは、バグダッドでも見たが、アーチで支えられた天井の高い大きな建物。バグダッドではたしかナイトクラブになっていた。ロイヤルステージ社は初めて聞くリッチ対象の通販社。「細々と」と同社はイメージがつながらない。

   26ページ。水車のあるオロンテス川は、全長500キロのシリア西部では最大河川。パルミラは、インターネットで紹介されている旅行写真でみるとさすが壮観。先に書いた「金を払ってまで行く程のところではない」は撤回。
   
   しかし毎日時間と仕事と健康問題に追われている身にとっては遠い、遠い世界。世界中の名所を一通り見て、なお体力と予算があれば見に行くのもいいでしょう。しかし写真で見るのと、現地で気温、不衛生、治安問題の中で見に行くのは大変。欲張らずに程ほどで死ぬのも一案。美女ゼノビアは初耳。

   28ページ。十字軍の要塞。石松式攻略法は兵糧攻め。食料を1年分保管すれば?野菜不足?

   29ページ。プレジデンシャル・スィートはウィーンヒルトンで一度体験。更に専用エレベーターや随員の部屋が隣にあった(共に使用停止中)。石松氏は添乗員に気に入られたのではないですか?

   31ページ。ビブロスは初耳。キリスト教、アラブ、あるいはローマ帝国よりももっと古いフェニキア以来の古代都市。バールベクも初耳。オロンテス川に沿っているらしい。1,000トンでも2,000トンでも重量物はすごい。船舶工学科では50%の誤差よりも桁違いに注意せよと教わった。1ドル=16,000ドンのベトナムでは桁数を良く間違う。今夜の中秋の名月の夕食は夫婦で50万ドン。


   私にも似た体験がある。平成10年にトルコへ出張した時の旅行記からコピーした。

    今なお止まらないインフレ
  
   11年前には1米ドル 600トルコリラだったのが、今や何と25万トルコリラに暴落。年率73%のインフレが続いた事になる。しかし、国民の生活には何の支障も現れていないように感じる。日本円が1米ドル 146円(H10年6月15日現在)に暴落しただけで、世紀末の地獄でも到来するかのごとく茫然自失状態にある日本人をどの様に評価してくれるのか、聞いて見たくもなるほどだ。

   トルコに限らず多くの発展途上国では、自国通貨と同時に米ドルも流通している。価格は米ドルで決め、日々変わる米ドルとの交換率で自国通貨に換算して取引しているだけだ。米ドルが暴落しない限り影響を受けないシステムが国民生活の隅々に至るまで浸透している。

   トルコ人には慣れた計算でも、私には困惑の限りだった。7〜8桁が含まれる大きな数の加減算を、トルコ人並の速度では、どんなに頑張っても英語で回答できなかった。日本語では十進法の数値を4桁(万・億・兆〜無量大数)の位取りと4桁(一・十・百・千)の組み合わせで読むが、英語は3桁(千・百万・10億〜)の位取りと3桁(一・十・百)の組み合わせで読む。巨大数字の暗算ミスを防ぐため、日本語で計算し、結果を英語で読み直していたのだ。

   トルコリラのお札には大きな数値がそのまま印刷してあり、ゼロの数をその都度数えないと、金額を間違える。トルコ人はお札に印刷されている写真の色で区別しているから瞬間的に反応する。新札の場合、下3桁のゼロ3個は小さく印刷して分りやすくしたものもあるが、大抵の場合は旧札と混合して流通しているので、面倒臭い。

   ある時、トプカプ宮殿周辺を走る、以前はなかった低床式路面電車に乗るための切符を買った。切符を受け取って立ち去ろうとしたら『ストップ!』と売り場のお爺さんが叫ぶ。お金が足りなかったのかな?と思いつつ戻ると『お釣だ』と言う。私は新札を使ったため、3個の小さなゼロを見落とし、何と千倍もの支払いをしていたのだ。

   これに懲りて結局、私が最後に採用した方法は、財布を開けて見せ『必要なだけ抜き取れ』と言う手段だった。


その3。
シリア旅行記読後感(第三部)


   36ページ。再びシリアに入国。そもそもどう移動しているのかが旅行者本人は判っているのだが地図も日程表も無く、分かりにくい。新日本トラベルのHPから日程表を印刷してやっと分かるようになった。
   
   移動順序を文章で書いても読者には重要な情報とは思えない。訪問地の価値は訪問順序に影響されないからである。何れスキャナーを購入し、今後の追憶記には地図を挿入する予定。
   
   シリアは今回の三国の中では一番面積は大きい。といっても大部分は砂漠であるから、有効面積は僅かであろう。ボスラは有名な観光地のようだが百科事典には載っていない。しかしヤフーで検索すると旅行写真などがいろいろ出てきた。
   
   城塞の建設目的は良く分からないが篭城戦も考慮したはずである。なお駐屯地とはキャンプの日本語訳で移動を前提。移動しない場合はベース(基地)という(米軍の場合)。

   次はヨルダン。石油の出ない小国であるが、中東政治では重要な国。昔バグダッドにいたとき、万一バグダッド脱出の際は、空港閉鎖を予想して、四輪駆動車でアンマンへ逃げることになっており、水やガソリンを用意していた。しかしそういう事態には至らなかった。

   私はファルージャまでしか行ったことはないが、バグダッドからルトバをへてアンマンまで有名な街道が通じている。現在、日本政府のイラク復興援助調査員も大抵はアンマンに駐在して、その先は地元コンサルタントを使って調査しているようである。
   
   当時日本からの船便物資は、ペルシャ湾のバスラ港がイランに封鎖されていたので、紅海のアカバ港経由で半年掛かっていた。カップヌードルなどは変質していた。そういう訳でヨルダンはイラクにとって、政治的にも、経済的にも重要な国であった。

  港がバスラからアカバに変更になったから半年も掛かるというのは理解できない。他の理由があったのでは?

   ついでに書くと、船便は半年であったが、航空便も大変であった。印刷用紙なども日本から空輸していたが、週一回の成田―バグダッド便では、成田で搭載したという連絡があっても、空港に取りに行くと着いていないことがよくあった。日本食品が到着することもあり、飛行機が着く土曜日は楽しみだった。
   
   成田で積んだといっても、要するに空港職員に渡しただけであって、航空機への搭載を確認した訳ではない。途中、当該イラク航空機はバンコク、ボンベイを経由するが、途中寄航地で兵器を貨物として搭載するために成田では満載しないで離陸するという説や、イランの戦闘機を避けてアラビア半島を迂回するので、貨物を満載しないで飛んでいるとかいろいろな説があった。
   
   たとえ到着しても、パソコンやタイプライター複写機(=文書製造能力があるもの)は通関が大変。紅白歌合戦のテープは没収(外国文化を嫌う)。なおこのとんでもない国のイラクであったが車は圧倒的にトヨタ車であって、他社は食い込めていなかった。

   ジュラシュもやはり百科事典にもエンカルタ地図にも掲載されていない。アラブ女性の黒の意味は良く分からないが、およそファッションとは反対のコンセプトであろう。黒にもしゃれた黒もあるが、そういう黒ではない。要するに化粧の禁止である。その代わり、黒の内側は派手、派手である。結納金が高いので、略奪結婚が多くその防止策でもある。

   41ページ。ペトラは有名。百科事典にも載っている。その税制についてよく知らないが、低所得者を甘やかさない税制には大賛成。本来税金額は平等であるべき。残業をすれば累進で課税するなどはとんでもない話。世間並みの税金を払ったあとの、特に残業収入は免税にすべき。8時間の労働収入に課税すればよい。
   
   そもそも基礎控除などという考え方はおかしい。一定額の税金をまず払ったあとで、残りの所得で生活すべきである。個人の生活よりも税金優先の考え方が必要である。選挙権などは、その基礎税金を払った者に与えるべきで、他人の払う税金に全面的に依存して生きて行く者に与えるべきではない。消費税を20%(12年前のオーストリア)までは早く引き上げ、直間比率を是正すべきである。

   胡椒の木は見たことは無いが、バグダッドでおいしかったものは、胡椒だった。中東の気候に合っているのだろう。アラビアのロレンスは1966年に見たが4時間(?)の大作だった。当時はストリーがぴんと来なかった。マダバ、ネボ山もぴんと来ない。熱帯のベトナムから寒い日本に帰り風邪を引いたので、モーゼを百科事典で調べる気力もなし。死海の話も遠い世界。

   46ページ。アンマンは標高800メートル(?)。通常の都市は河川沿いにあるが、アンマンは高台のようである。ヨルダン川周辺の低地から水をくみ上げる工事の援助プロジェクトが計画されていたが、実現したかどうかは不詳。前述のヨルダンの政治的重要性のために、日本の援助もヨルダンには相当注入されている。

   47ページ。世界遺産も今や800+。日本の世界遺産も12−13? 仁徳天皇陵は世界遺産に該当するであろう。白神山地や屋久島は価値あるか?

   49ページ。軸足を移す件には同感。ただし私個人は50代までに軸足を移しすぎたので、60代は財産形成に専念。同期生よりは30年遅れの人生を送っている。

   ローマ帝国。大シリアがローマ帝国に支配されていたのは今までぴんと来なかった。フェニキアのことだけ記憶していた。そういえば、キリストを殺したのもローマ帝国の役人だった。クレオパトラもローマ帝国に敗れた。
   
   そのローマ帝国であるが、土木工事がすごい。日本の土木工事は耐久性がない。これは戦後文化の問題であろう。社会思想の問題である。社会福祉思想や計画経済では「世界遺産」を残すどころか食い潰しである。ローマ帝国の強大な軍事力とペトラ方式の逓減税率が、富を後世に残したのであろう。それにわずか60年でなく、もっと長期の蓄積である。

   50ページ。古代総生産。キャラバン500-1000頭は大げさであろう。それ程の餌をかき集めるのは大変である。1970年に海上自衛隊の遠洋航海で世界一周したときに、2隻700人の艦隊であったが、アフリカの寄港地(ダカール、モンバサなど)では、野菜を調達できなかった(700人×次の寄港地まで一週間分)。結局缶詰給食になった。ラクダも相当食べるであろう。第一そんなに大量に輸送したら商品価格も暴落して貴重品でなくなる。土木工事の経済計算は簡単にできるだろうが、誰も興味が無いだけであろう。
以上
   
L トヨタ同期・東大工・トヨタ退社後東大経・豊田学泉大学教授・東京工科大学教授・青森大学教授を歴任後金沢経済大学教授・奥様永眠後に日本語ぺらぺらの北京美人と再婚


   お礼が大変遅くなりましたが大シリア旅行記を拝読させていただき、有難う御座いました。石松さんの旅行記はいつも膨大な内容ですので、とても一気にパソコン上で読破の自信ありませんので今回もまずプリントアウト(51頁)し、じっくり楽しまさせていただきました。

   さて、私も旅行を計画する時は図書館から数冊のその関係の本を借りますが、石松さんの場合は冊数が多いですね。いつもそうですか、感心しました。
   
   私は著者の国籍や専門性の種類を増やします。訪問国・欧米・日本、学者・歴史家・観光業者・駐在体験者など。著者の視点の違いが分かるように分散すると最低でも10冊くらいになります。

   今回訪問された中東の国々ですが、宗教や民族の対立から戦火の絶えることのない地域の一つで、アフリカから発生した人類の祖先がこれらの地域を通って未知の世界に広がった極めて古い国々ですが、私も歴史については興味を持っている一人ですが、私にとってニュースソースに乏しく、さらに、国境もやや入り組んでおりあまりよく分らない国々でした。
   
   しかしお蔭さまで少しは理解できるようになりました。まず、シリアの名前がアッシリア帝国からとは初めて知りました。そしてまた中東は一部のオアシスを除き、砂漠、土漠、岩漠が大分と思っていましたが2000mの山間には世界遺産のレバノン杉もあったのですね。
   
   又、旧約聖書の遺跡が大分と思っていましたが、ローマ時代の遺跡も多いですね。アフリカ北部、イベリア半島、そして英国にはそれらの遺跡はテレビ等でよく紹介されていますが・・・。
   
   カタールの海岸では眼鏡やカメラが曇るのですね。

   ところで石松さんの旺盛な好奇心に感心させられるのは大抵、市場を探索されていることですね。その国の品物や物価等を効率的に知るのには市場が最適でしょうね。
   
   私の場合は遺跡は当然ですが、同時に車窓からの町並みや農村風景がいつまでも記憶に残っています。中東のパリ、ベイルートはまだ昔のようなよき時代には戻っていないのですね。
   
   ヨルダンの死海では良い体験をされましたね。髭剃りあとと肛門の廻りがヒリヒリするのですね。一度私も体験したいです。

   間もなくバルト3国等に出発するのですね。身体には気を付けて旅を楽しんで下さい。
   
M トヨタ後輩・工・ゴルフ仲間
   

寒い日が続いております。

   早速ですが、先頃は大作「大シリアの追憶」をご送信頂きありがとうございました。リアル感溢れるご記述で、随所で現地にいるような気分になり楽しく拝見させて頂きました。
   
   また同時に、大シリアについては、特定の地名は連日新聞紙上を賑わせている割に知らない町や遺跡が多いことをあらためて思い知りました。歴史的なこともしかりです。以上、大変楽しく刺激をいただきありがとうございました。
   
   返信が遅くなり申し訳ありませんでした。よいお年を!

N トヨタ同期・工学博士
   
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