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旅行記
           
ヨーロッパ
独仏墺・太陽は確かに西から昇った(平成17年2月24日脱稿)

  多重がんの治療後早くも2年が過ぎ、寛解のご託宣を主治医から貰ったとは言え、再発や転移の不安が脳裏から完全に払拭されたわけではない。がんが検査(X線・CT・PET・内視鏡・ルゴール染色法・生検・マーカー値)で見つからなかったことと、がんが完治したこととは別問題だからだ。                                  

    最悪の場合を想定すると、余生は古希までの残す所僅か3年半。この貴重な時間に、やりたいことを厳選し、やれる時にやり尽くしておこうとの意志は日を追ってますます強くなってきた。最早、肉親からだろうが誰からだろうが、節酒などのアドバイスを受け入れる気持ちは完全に消滅。人は人、私は私。我が命は我が宝!                                                          

    体力の続く限りテニス・ゴルフ・家庭菜園・パソコン遊び・国内外旅行に没頭し、死ぬ準備もつつがなく終えれば、最早この世に未練は無い。新しい趣味への挑戦意欲も完全に消滅。                                         

   『死ぬ準備』とは、余生で不要となる身辺の品々の類を思い切って破棄し、老朽化した家に新築並の快適さをリフォームで復活させ、我が仏壇置き場も確保し、長い間お付き合い頂いた友人達の一人ひとりに直接会って、感謝の気持ちを伝えることに尽きる。                                                

    ドイツに駐在している長女夫妻からの呼びかけを受けて独仏墺へ平成161116日〜122日の間、荊妻の介添え役(昨年夏、身体障害者1級に突然転落)も引き受けながら出かけた。最後になるかもしれない欧州旅行だった。太陽が西から昇るのを見て、子供のように感動しただけではない。娘婿の的確な支援で5,000Kmの旅も真底楽しめた。生きていて良かったと実感した。
                                 
    国内外の旅行記を書き始めて12年目、国内旅行3編を加えると今回で丁度30編に達した。正味文字数は940,159となり、源氏物語(一説では877,365文字)も文字数だけだが超えてしまった。人生の貴重な資産(時間)を使って駄文を今までお読みいただいた多くの賢人各位に、心から感謝。    
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はじめに

[1] 長女一家を再訪問

   以前から『クリスマスマルクト(11/25〜12/24までの1ヶ月間、主としてゲルマン各都市の広場で開設される露店市)を見に来ないか』と、ドイツ在住の長女一家に誘われており、平成14年12月に出かける準備をしていた。好事魔多し。同年10月29日の定期検診で胃がんの疑い! その後の細胞検査で11月28日に胃がんとの宣告! 
   
   急遽、同年12月19日に愛知県がんセンターで胃がんの手術。かてて加えて手術前の精密検査で発見された食道がん(2ヶ所、合計10*3cm)の放射線照射治療を、翌年の1〜3月に受ける始末。残念ながらドイツの再訪問だけではなく、近畿日本ツーリストに予約済みだった1月の超大型客船によるカリブ海クルーズも中止の憂き目。
   
   その後、長女一家は5年間の駐在生活を終え、平成17年1月29日に帰国することが決まった。一方、平成16年6月、荊妻は友人との中国旅行中に僅か数秒間だが失神した。帰国後トヨタ記念病院に駆けつけ24時間ホルダー(心電図を24時間連続して記録する装置)を借りてデータを取ったら、最長5.4秒の心臓停止や何回もの200回以上の頻脈が発見され、巨人の長嶋名誉監督と同じ『洞不全症候群』と診断された。
   
   8月19日に名古屋大学付属病院で、急遽ペースメーカの埋め込み手術をしたら、何と身体障害者1級へと転落してしまった。

___________________蛇足_________________
   
   洞不全症候群とは不整脈が悪化し、脈が増えたり(頻脈)減ったり(徐脈)する症状。頻脈や徐脈が発生すると血液の流れが悪くなって血栓が発生しやすく、脳梗塞に至る場合が多い。自動車運転や階段で移動中に心臓が止まって失神すれば(数秒間の心臓停止でも失神の恐れがある!)大事故の可能性も高く、確実な治療法はペースメーカの埋め込み手術しかないそうだ。
   
   がん治療の過程で知った数名の医師や名古屋市立大学医学部教授(鹿児島市鶴丸高校の荊妻の同期生・九大医学部卒)にも相談した結果、名古屋大学付属病院循環器内科室原教授に辿り付いた。インターネットで室原教授の診察日(月曜日だけだった)を確認し、予約もせずに大急ぎで病院へ出かけた。当日、循環器内科受付の看護師に『今日の担当医は5人もいるが、室原教授を指名させて欲しい』と依頼。『今日は予約患者で一杯。来週でよければ診察するが、因田講師でよければ本日診察できる』との教授からの伝言。
   
   『時は金なり』と、因田講師の診察を受けた。トヨタ記念病院の検査資料も見ながら診察と質疑とで1時間くらい掛かった。

『ペースメーカの埋め込み手術は循環器内科でも実施しています。私も手術は何回も引き受けましたが、私よりも経験豊富な心臓外科の吉川先生をお薦めします』
『お願いします』と言ったら、その場で吉川先生と電話で相談された。
『2時間くらいお待ちください。本日の最終患者として診察していただけます』
   
   吉川先生と1時間位、またもや質疑を兼ねて相談した。ペースメーカの埋め込み手術は既に500件を超えたものの、無事故だそうだ。
   
『ペースメーカの手術では、何が難しいのですか?』
『ペースメーカは鎖骨の下に埋め込みます。ペースメーカから出ている2本のリード線の先端は、心臓に突き刺した時に抜けないような形の鏃(やじり)になっています。体内で曲がっている静脈の壁に鏃が触れる時の感触を指先で確認しつつ、方向を変えながら心臓まで到達させる過程で細心の注意を払います。鏃が静脈の壁に突き刺さる恐れがあるからです。又、リード線を心臓に突き刺す場所の選定過程では、電気抵抗も調べながら試行錯誤しますが、その時にも神経を使います』
『手術のプロセスを聞いて安心しました。執刀医として、お引き受けいただけますか?』
『勿論です。但し、来週は学会に出席しますので、お盆明けになりますが・・・』
『勿論待ちます。宜しくお願いします』
『8月16(月)に入院。諸検査で問題がなければ19日に手術』

と即応していただいた。既に2時半を過ぎていた。手術後の経過観察方法や電池の交換手術の内容なども、根掘り葉掘り質問していたら、患者よりも私の方が疲れてしまった。

注。半年前の会話なので、半ボケ老人のぼんくら頭では記憶間違いがあるかもしれない。
   
   ペースメーカとは、洞結節の働きを常時監視し、異常が発生したら、パルス電流を発生させて老朽化した洞結節を支援する装置である。従って電池の消耗度は患者ごとに異なり、通常は5〜10年毎の再手術で電池を交換する。電池の消耗度は体外から非接触で測定できる。しかし、吉川先生の体験では電池交換時点では新型のペースメーカが開発されている場合が多く、電池と一緒に本体も取り替えることも少なくないそうだ。
   
   体外から非接触で、電磁誘導で充電できる蓄電池が何故使用されないのか、私には不思議でならない。日野自動車のハイブリッドトラックでは既に実用化されているのに!
   
   私のがん治療の体験『何としてでも、名医を探す!』が、今回は大変役に立った。それにしても、名古屋大学付属病院でも愛知県がんセンターでも、医師が大変親切になったように感じる。独立法人化が進み、病院の独立採算制が重視されるようになったための意識改革が進んだ結果だろうか? しかし、我が質問に的確に答えられる医師は少ない!
______________________________________
   
   一方、がん治療で一時は気絶するなど極端に衰弱していた我が体力も徐々に回復して来たので、人生最後の機会と覚悟を決め、平成16年末の露店市見物に、荊妻と一緒にいそいそと出かけることを決意。

   今までの海外旅行でクリスマスマルクトには、実は出会ったこともなかった。欧州の冬は日が短く、寒々とした殺風景が連想されるのみで、幾ら旅費が安くなろうとも冬季の旅行は避け続けていたからでもある。

   しかし、現地で見たマルクトの美しさには、日本にいては想像すらも出来ないお伽話の世界の観があり、それ単独を目的にしても優に訪れる価値があった、と遅まきながら納得。今では娘夫妻から声を掛けて貰ったことに感謝している。またしても、井の中の蛙だった、と悟った。

[2]JALファミリーサービス

   今回の航空券は長女がドイツで手配し、国際郵便で送ってきたものである。それには下記のファミリーサービスが無料で付いていた。初体験だったが、大変楽な旅になった。
   
____________JALのホームページからのコピー____________
   
   海外赴任、帰任時、赴任中のご家族を訪問されるご渡航の場合で、JAL/JALウェイズ便ファーストクラス、エグゼクティブクラス、エコノミークラスに普通運賃にてご搭乗の際、エグゼクティブクラスにJALビジネスセイバーにてご搭乗の際、またはJMB特典でファーストクラス、エグゼクティブクラスにご搭乗の下記のお客様にご利用いただけます。

1.奥様おひとり、または16歳未満のお子様連れの場合。
2.12歳以上16歳未満のお子様のみの場合。
3.60歳以上のご家族のみの場合
4.16歳未満のお子様が同伴の保護者の数を上回る場合。

※原則として、日本発着国際線が対象です。
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   名古屋〜成田間のJAL便の切符はエコノミーの筈なのに、往復共ビジネスクラスの座席が指定された。空席があったからだろうか? ビジネスクラスは現役時代の出張では何時も使っていたが、短い区間とは言え個人旅行では初体験だ。何時の間にかビジネスの座席は、ほぼ水平に倒せるように改善されていた。

   リモコンのボタンを押せば、下前方への座席の移動と連動して膝から先の脚部が、前席の椅子の下に自動的に挿入される機構になっていた。前後の座席間隔の拡大は不要となり、貴重な床のスペースの使い方としては大変効率的な発想だ。座席の左右は貝殻形状の仕切り板で覆われ、隣席の人の視線も遮られた。一昔前のファーストクラスの座席と変わらないほどに快適だ。

   旧名古屋空港のセキュリティ・チェック部門には携帯品検査用X線装置が少なく、超大型機への搭乗の場合には30分待ちの行列になることも珍しくはなかった。しかし、ファミリーサービスの担当者に連れられて、長い行列を飛ばして割り込めたので全く待たされなかった。こんなに不公平なことが許されてよいものか、と多少の疑問は感じたが、弱者保護の趣旨からか・・・。海外旅行馴れしていると自負してはいても、とうとう半ボケ老人扱いされているのに気づいて苦笑・・・。
   
   ペースメーカを埋め込んでいる荊妻の場合は、門形をした機械装置(磁気探知?)による金属類の所持品の検査はパスし、人手による検査で代替。付添い人になっている私は搭乗の順番も身障者並の扱いなので最優先。空っぽの機内に手荷物を持って真っ先に乗り込むのは、狭い通路での移動も楽だし、頭上の荷物入れも優先的に使えるため、楽チンだった。

   成田・ロンドン・フランクフルトなどの国際ハブ空港では、空港内を係りの女性(日本語を喋る外国人もいた)が重たい手荷物も持ってくれたし、迷子にもならず最短コースで楽々と通過できた。パックツアーのガイド嬢達よりも的確な案内振りだ。こんなに楽をすると、ボケが一層速まるのではないかと、真面目に心配したほどだ。

[3]太陽は西から、確かに昇った!

   過去何度も成田〜欧州間は往来したが、窓外を眺めるのは離着陸の前後くらいで、後は無料の酒を飲んではひたすら居眠りに専心していた。天気の好い昼間に偶々(たまたま)目覚めれば、時々下界を眺める程度で、太陽の運行への関心は全く無かった。かつては成層圏でのご来光や日没の美しさに見入ったこともあったが、最近はそれらにも飽き、関心を完全に失っていた。

   ところが、平成16年11月1日に『未来予測精度』なるレポートをメール友達に発信したら、高校同期でJALのジャンボの元機長から下記の返信を貰った。
   
   このあとヨーロッパ旅行の予定とのことですが、この季節のヨーロッパ便は成田を午後1時ごろ発つと、途中のシベリア上空で日没となり、ウラル山脈を過ぎると西から日の出となり、到着前に再度日没となります。西行きの場合は誤差が大きく、1分以内の精度では計算できませんが、5分以内ですと、日没・日出・日没を計算できました。

   『ウラル山脈を過ぎると西から日の出となり・・・』との記述を目にした瞬間、咄嗟に連想したのは平清盛の伝説だった。
   
   平清盛は航行の便を図るために音戸の瀬戸(広島県安芸郡音戸町。呉市と倉橋島との間の海峡)の開削を決意したが、完成予定日までに工事が終わらず、日が沈もうとしていた。清盛は扇を広げて太陽を呼び戻し、予定通りに工事を完了させた。清盛の功績を讃えるために、清盛が扇を広げて太陽を持ち上げている清盛塚が1184年に建設された。
   
   しかし、本当は西と東のインプットミスなのではないかと疑い、本人にメールで質問をしたら即座に下記の返信が来た。

   太陽は東から常に昇るとは限りません。高緯度(北緯65゜以上)の冬季は、日没が早いのはご存じだと思いますが、南下するに従って日没時間は遅くなります。
   
   ジェット機の巡航は平均的には480kt(注。時速890Km、ktとはノット) 位で、地球の自転周速は赤道上で 900ktですから、ジェット機の速度の約2倍です。中緯度ではほぼ同じになり、高緯度ではジェット機の方が速くなります。これは緯度線に平行に飛行するという前提ですが、ウラル山脈を越える北緯65゜あたりでは地球の周速は 380kt 位で、ジェット機の方が速いのです。
   
   従って、このあたりで 方位 250゜(注。北の方位が0°、右回りに方位角度を250°取ると、西南西の方角になる)方向に飛べば、一度沈んだ太陽を追っかけることになり、西から太陽が昇るのです。この現象は、ヨーロッパ路線を飛んでいるパイロットならば、一度は経験するはずですが、冬至を挟んだ1ヶ月くらいの期間のみに見られるので、気がつかない人もいるかもしれません。
   
   今回の旅行はどこの航空会社を利用されるのか知りませんが、 JAL, ANA あるいは
北欧の航空会社の便ですと、パイロットも知っていると思うので、スチュワデスを通してパイロットに聞かれてはいかがですか。『太陽が西から昇るって本当か?』とね。
   
   太陽が西から昇ることもあったのだ! 私は物心ついた頃から、太陽は東から昇り、西に沈むと信じ込んでいた。その結果かつての天動説の信者と同じく、我が頭脳は思考停止状態に陥っていた。
   
   北緯N度での地球の周速度は、900*Cos(N°)ノットになる。ジャンボの巡航速度は480〜500ノット前後なので、高緯度地方を西向きに飛ぶ場合には、地球の周速を追い越せるのは理の当然だった。
   
   ウラル山脈が近付くと私はそわそわし始めた。とぼけた振りをしてスチュワデスに『太陽が西から昇るのは、何時ごろでしょうか?』と尋ねると、予期せぬ質問に『????』。そこでおもむろに、太陽が西から昇ることも有り得る、との取って置きの知識を講釈。
   
   『機長に聞いてきます』『太陽は水平線を走るような気がしますが、時間は解りません』との伝言。機長も乗務員も『心そこにあらざれば、見えるものも見えない』の典型例だったのだ!

   日没前後、外はまだ明るいのに客室の遮光板は全部閉じさせられていた。乗客が眠れるようにとの当然すぎるほどの配慮だ。一方、ジャンボの中央部分には軽飲食の無料サービス品が並べてあった。

   そこの窓をそっと開けて、今か今かとショーの開始を待ち構えていた。答えは解り切っているのに、目撃したかったのだ。約30分の間に日没・日の出・日没の総てを体験して、ひと時のショーを密かに楽しんだ。目的意識があると、単なる自然現象に対してすらも単細胞は単純に感動するのだ!

[4]薄暗い日々
   
   予想通りとは言え、ドイツの冬は暗かった。昼間は8:30〜15:30、一日の僅か3割だ。日中と雖も太陽の位置は大変低い。曇りになると真昼でも薄暗く、屋外でデジカメを使っても、自動的にフラッシュが発光する場合が多かった。持参した20本の単3アルカリ電池では369枚しか撮影できなかった。
   
   デジカメはフィルム代も現像代も不要なために安上りだと思っていたが、予期せぬ伏兵(電池代)が現われて苦笑。
   
   ドイツの暖房用燃料はガスだった。16年前(昭和64年〜平成元年。昭和天皇の葬儀はトルコのテレビニュースで見た)の1月に体験したイスタンブールの冬は石炭(しかもトルコ国内産の亜炭)暖房の結果、屋外でも煤煙と硫黄の臭いが充満し、さながら煙突の中に住んでいるように感じたが、ドイツの空気は澄み渡り民度の高さを環境面でも感じた。
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懐かしのケルン都市圏

[1]フレッヘン

   フレッヘンはケルンの中心部から市内電車(郊外部では専用線路を時速80Km前後で走行)で丁度30分の位置にある小さな衛星都市(人口は2〜3万人?)である。住民の殆どは白人。長女夫妻は、日本人が住んでいない場所を意図的に選択。ケルンで働く日本人は何故かデュッセルドルフに集中し、日本人町が発生し、三越までも進出している。

@ 日曜天国

   フレッヘンの中心街の大通りでは、ケルンからの市内電車は時速10Km程度に速度を落としながら通過していく。この通りは車の乗り入れは年中禁止。裏通りに大型の駐車用ビルがある。大通りの両側は長さ500mに亘って商店街が続く。

   商店街にはレストラン・軽衣料品店・肉屋・パン屋・青果店・花屋・ドラッグストア・銀行・郵便局などもあり、日常生活に不便は無い。また日本各地の駅前商店街とは異なりシャッターが下りたままの店も無かった。しかし、フレッヘンには大都市には必ずある大型の広場が無かった。その代わりをなしているのが、大通りの両側にある、美しい並木が植えられた幅の広い歩道だった。シャンゼリゼ通りの小型版だ。

   夏場は歩道にはオープンカフェが続き、一日中老人客で賑わっていた。ところが何としたこと、あれほど賑わっていたオープンカフェが寒さのためか、どこにも見当たらなかった。あの大勢の老人達は、一体全体何処へ消え失せたのだろうか? ハーメルンの笛吹き男に子供たちが一斉に連れ去られた、と言うグリム童話をふと思い出した。外出好きだった老人たちも冬場の寒さには勝てないのか? 早速老人探しを開始した。

A スーパー

   大通りから100m離れた場所にレンガで外装した美しい外観の中型スーパーがある。地階は大型無料駐車場と通い箱(カートン)単位のビール・ワイン・ジュース・飲料水などの売り場兼リサイクル容器の引き取り場。1階は食料品とドラッグ類、2階は衣料品や雑貨売り場。延べ売り場面積は1万平米程度。

   1階の面積の1/3くらいを占める場所に10軒あまりのテナントが入っていた。レストラン・喫茶店・花屋・クリーニング屋など、スーパーとは競合しない店舗だ。

   スーパーの長大なレジ列とテナント群に挟まれた、コンコースのような通路になっている大空間がオープンカフェに変身していた。暖房完備のこの空間こそ、老人達の冬の溜まり場だったのだ!

[2]フレッヘンの隣町

@ レアール(巨大ショッピングセンターの名前)

   フレッヘンの隣町は中型都市(人口は5万程度?)だった。その郊外の田園の真ん中に数千台もの大駐車場(勿論無料)を完備した巨大なショッピングセンターがあった。大型スーパー・大型家電店・大型ホームセンターを核テナントにし、その周辺に200店もの小型テナントがひしめき合っていた。総売り場面積は優に5〜7万平米はありそうだ。内部の幹線通路を一通り巡回するだけでも30分は掛かるほどだった。

   この建物内のあちこちにオープンカフェがあり、ここでも大勢の老人達を発見。冬場日本の老人達はコタツでテレビを見ながら過ごすらしい(最近の調査では65歳以上の健康な老人の5%が、1週間に一度も外出しない引き篭もり症候群とか)が、ドイツの老人には行動力があり外出志向のようだ。でも私には真似が出来ない。一杯のコーヒー、一杯のビールで何時間もお喋りに興じる精神的なゆとりが無く、直ぐに飽きてしまうからだ。

   北国のドイツなのに店頭に溢れる質量共に豊かな農産物には驚くばかり。国産品ばかりではなく、世界中からの輸入品が山積みされている。中でも熱帯の果物の安さに驚く。夏みかんほどの大きさの石榴(ざくろ)がたったの1ユーロ。松坂屋豊田店では500〜700円もしていた。

   日本の方が安い熱帯の果物はバナナだけだった。バナナが安くなるのならば他の果物も安くなって当たり前なのに、何故なのだろうか? ここにも隠された諸規制があるのではないか? オレンジの安さには腹が立つほどだ。しかし、このドイツの低価格でも我が体験によれば、単なる国際水準に過ぎないのだ。

   畜産品も相変わらず安い。肉・ハムなどの加工食品、チーズやバターなどの乳製品も種類が豊富で且つ安い。どっさり買って日本に持ち帰りたかった(欧州からの肉やその加工品は、税関で見つかれば没収される! ここにも国産品保護のための規制がある)が、今回は娘達の荷物運びで鞄は満杯! 

   ビールの安さにも腹が立つ。500ccの瓶ビールが100円以下だ。日本のビールとの価格差は税金の差だけでは説明がつかない。ビールの原料は希少価値品どころか、雑穀の類。麦芽・ホップの他はアルコールの出発原料に過ぎず、等外米・トウモロコシ・トウモロコシの澱粉(コーンスターチと言う)など家畜の飼料並だ。中瓶1本の原材料代は我が推定ではたったの10円くらいなのに。誰が儲けているのだ!
   
A 中世風クリスマスマルクト(ジーグブルク)

   フレッヘンよりやや大きな隣町(ジーグブルク)のクリスマスマルクトは、近隣のボンなどの大都市住民にも人気が高いそうだ。此処では商人は皆中世の民俗衣装を着ている。服・帽子・靴などの総てが舞台衣装並だ。傍らには小さな舞台もあり、昔の芝居を無料で提供。パン屋の窯は石で組み立てられ薪で焼く中世そのものの再現だ。中世の鍛冶屋も復元されているし、大道芸人も中世の技を披露している。



   小学生の遠足か、野外学習か? 子供たちが先生と一緒に見学に来ると、商人たちが俄か教師になって得意げに演技を交えて講釈。関係者は商売をしながらも、中世の商人の役を演じるのが楽しそうだ。驚いたことには、関係者は懐古趣味の老人ではなく、働き盛りの中年男女だった。

   熱燗は日本酒の専売特許ではなかった。赤ぶどう酒の熱燗を売っていた。寒い冬に飲むに相応しい方法だ。瀬戸物製のコップに注ぎ、ワインよりも高価な容器代も一緒に支払い、酒を飲みのみマルクトを一巡。空の容器を返却すれば容器代も戻る、いわゆるデポジット制度だ。ドイツでも柿を売っていた。KAKIだった。

[3]ケルン

  @ 溢れる韓国人

   何時の間にか、ドイツでも若い男子韓国人観光客が増えていた。韓国が豊かになったのだ、と嫌でも実感せざるを得ない。彼らは写真撮り旅行に来ているかのように、ひっきりなしにお互いに写真を撮りまくっていた。少し前の日本人(私もそうだった)にそっくりの行動だ。彼らはデジカメにも慣れている。時々彼らに頼んで写真を撮ってもらったが、カメラの操作説明は不要だった。

   
 
   一方、パック旅行に参加している日本人は、最近は写真を余り撮らなくなっただけではなく、撮影ポイントで全員一緒の記念写真を業者が撮っても、写真を買う人が激減した。私がデジカメで写真を撮る目的は、この旅行記を書くときに参考にするためのメモ代わりに過ぎず、アルバム用の焼付けはしたことがない。最早、未使用のアルバムも持っていないのだ。

   寒いためか、ケルンの大聖堂前の広場には、夏には大勢いた大道芸人も流石に少なく、ちょっと寂しかったが、クリスマスマルクトの準備の真っ最中だった。

  A 整備が進むケルン中央駅前

   ケルン中央駅と大聖堂とは200mくらい離れているが5m位の高低差があり、往来に不便だった。所が今やこの界隈の大改修工事が一斉に始まっていた。何れエスカレータを設置する計画なのだろうか? 駅前広場では軟弱な地面を掘り返して砕石で埋め戻し、表面がつるつるに磨かれた50*50*20cm大の石で覆い始めていた。
   
   この石の運搬方法に特色があった。クレーンの先端から吊るした円盤を石の表面に載せ、真空ポンプで空気を抜き取って石を吸いつけて運んでいた。石の表面を磨いておけば、100Kg以上もある筈の石を何の支障もなく軽々と運ぶことができる。その他にも特殊な建設機械を導入しており、工事の労働生産性の高さが一瞬に理解できた。日本の道路工事は失対事業の性格が強く、労働生産性を上げる意欲に乏しく、税金の無駄使いに思えて腹立たしい。
   
B オープンカフェ

   ケルン中央駅のホームは2階にあり、暖房完備の1階は切符売り場だけではなく、各種商店・お土産屋・レストラン・食料品中心の小型スーパー・銀行・郵便局・宅配便の持ち込み場など、いわば生活インフラの集積地帯になっている。100*200mくらいは優にある広さだ。

   これらはただ単に乗降客だけではなく、一般の市民にも大変便利なため、一日中賑わっている。歩き疲れていたらオープンカフェが目にとまった。カウンターの周りに座の高い椅子が15脚位。椅子に腰掛け、店頭に表示してあった3種類の中で一番高価だった生ビールを500cc注文。退屈しのぎに隣に座っていた30歳台の男に話し掛けた。

『貴方は若いのに昼まっから、こんなところでビールなんか飲んでいるけれども、失業者ですか?』
『違うよ! 北のハンブルクで塗装業を経営している。職人は50人余り。今日は仕事でケルンに来たのさ』
『ドイツの建物がいつも美しいのは、あなた達のお陰とわかった』と言ったら嬉しくなったのか
『ここでそんなビールを飲んじゃいかん』と言って、我が飲みかけのビールを強引に捨て去り、
『これがケルンのビールだ』と言って、別のビールを注文。

   こんなことがきっかけとなって、暫く談笑。お返しにまだ飲んでいなかった第3番目のビールを彼にプレゼント。しかし、胃がん手術後酒にも弱くなり、僅か1,000ccのビールを飲んだだけで、足元がふらつき始めた。   

   この中央駅の構内にも至るところにオープンカフェがあり、いるわ、いるわ、と驚くほど大勢の老人たちが陣取っていた!

C ライン河の吊り橋

   私が今までにイスタンブール市内のボスフォラス海峡や瀬戸内海などで見た大型の吊り橋は、橋脚の上に柱を2本建て、柱の頂上を結ぶ梁の両端からメインロープを2本垂らす構造になっていた。橋そのものは柱に挟まれている。ところがケルン近くのライン河にユニークな吊り橋が架かっていた。柱が3本あったのだ。カタカナのヨの字を左に90度回転させた構造になっていた。梁の両端と真ん中からロープが合計3本垂らされ、3本の柱に挟まれた2ヶ所の空間に片側4車線の橋が架けられていた。



   その結果、中央の柱の幅分が中央分離帯になっていた。両端と中央分離帯に沿って橋を吊るすので、橋の幅方向の材料(梁)にかかる曲げモーメントが半減する。その効果で部材費が削減されるのを目的にしているのだろうか? しかし、見慣れないデザインが原因なのか、私には橋梁美が感じられなかった。

D 魚市場

   ケルンの町外れに、レストランなど業者への販売が主力の魚・肉・野菜の専門店があった。通い箱単位の販売方法だが、金曜日だけは一般の客にも売ってくれる。魚貝類好きの日本人には隠れた人気があるそうだ。

   殻付きの牡蠣やムール貝などを買った。牡蠣も貝も食べるのに手間が掛かるが、時間はたっぷりあったのでノンビリと食べた。新鮮さが宝。美味しくて満足した。大きな牡蠣1個がたったの50円。日本では何故200円もするのか不思議でならない。もっとも、此処はスーパーに比べてもほぼ半値、特別に安かった。

   かつてベルギーのグランパレスで娘婿から、名物だからと勧められるままにムール貝を食べたことがある。一人前は殻付きで1〜1.5Kg。茹でると貝が口を開く結果、洗面器に山盛りほどにも膨張する。今回もムール貝だけで満腹したかった。日本では味わえない贅沢さだ。どぶの臭い消しに使う香草は無料だった。

   カナダ産の大きなオマール海老も売っていた。鮮度を保持するために、一匹ずつ円柱状の薄いポリエチレンの容器に水と一緒に入れた後に冷凍したもの。一匹で満腹だった。同じ輸入品なのに日本よりも3割は安い!

   大きなマグロも買いたかったが、ウィーンとベルリン旅行を控えていたため、食べきれないと判断し、泣く泣く見送り。業者は日本人と見れば刺し身になるマグロも勧めるようだ。大トロか中トロかは買う側が判断させられる。業者にはそんな区別には関心が無いようだった。

[4]リューデスハイム

   娘婿から『何処に行きたいですか?』と聞かれ、
   
   『特に行きたいと思っているところは、今やドイツにはなくなった。強いて言えばリューデスハイムだ。ドイツへ最初に来たのは皇太子の結婚式の日(平成5年6月9日)に出発した欧州8ヶ国訪問の、パック旅行に含まれていたロマンティック街道巡りだった。ライン河下りの出発点となっているリューデスハイムのツグミ横丁を散歩した時、何と美しい街かと感嘆した。
   
   その後、各地のゲルマン諸都市を訪ねた折々に、何処の街も美しいとは感じたが、リューデスハイムで感じたほどの感動は再現しなかった。それは一体何故なのか? ゲルマンの町の美しさは皆同程度なのに、リューデスハイムが初体験だったから特別に感動したのか? それともリューデスハイムの美しさは特別なのか、再確認したい』

________蛇足(リューデスハイムの初印象・旅行記からのコピー)______

   ライン下りの船着き場があるリューデスハイムに着く。川岸に沿ってお土産物屋が続く。両岸はなだらかな斜面を持つ丘になっており、川に直交して坂道がある。歩行者天国のように車の乗り入れは禁止。坂道の両側にもびっしりとお土産物屋が並び、レストランや生演奏のビヤホールがたくさんあり、どこも満員になるほどの賑わいだ。
                                  
   生演奏の音楽はどんなに立派な音響システムのスピーカから流れ出てくる音よりも耳に心地好い響きだ。建物が美しいだけではなく、緑と花に溢れお伽の国のようだ。円高もあってかお土産品も安く感じる。爽やかな初夏の風が頬を撫でる。
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『今日は出勤日なので往きは真理子にケルンまで送らせます。復路はお迎えに行きます』
『その必要はないよ。時間もたっぷりあるし、電車でノンビリ帰るから』

と言って辞退。万一の事態を心配したのか、自宅の電話番号を追記した名刺を渡された。

   ケルン中央駅から急行電車に乗った。ケルンから約250Kmもあるが、5人分の1日券が僅か33ユーロだった。2人が単独でそれぞれの切符を買うより、3人分が無駄になっても5人用の切符の方が安くなると、出札係の女性がアドバイス。
   
   ドイツの駅には改札口がない。満員列車は少なく車内検札で済ませられるようだ。途中のコブレンツ駅では乗り換えの鈍行電車の発車までに30分あった。改札口がないので外へ出るのも簡単。古い駅舎は大改装の真っ盛りだった。1階の天井が剥がされ木の梁が剥き出しだった。大きな断面の梁と梁との間隔は僅か20cmくらい。耐久性がある筈だ。
   
   コブレンツはライン河とモーゼル河の合流点である。合流地点は陸地が角のように河の中に突き出ているため、『ドイツの角』と呼ばれているそうだ。角の最先端にウィルヘルム皇帝の騎馬像があった。
   
   コブレンツのホームの線番には1,2,3,,,9番線のように名付けられた1桁の番線と、101,102,103,,,109番線のように3桁の番線とがあった。ホームに出て事情が解った。ホームの長さが普通のホームの2倍もあった。同じホームなのに駅舎に近い部分は1番線、駅舎から遥か離れた位置が101番線になっていた。
   
   1本のホームに電車を2編成停車させられるが、3桁の番線に発着する電車の乗降客は長い距離を歩かされることになる。駅が両側の市街地に挟まれ、ホームを増設できないための創意工夫だろうか? 他の駅ではこのような配置を見たことはなかった。

   電車ではライン下りとは逆方向、上流に向かった。かつて船旅で眺めた古城群を車窓から眺めた。夏場は3階建ての観光船がライン河に溢れていたが、流石に冬はシーズンオフか? 途中で1隻とすれ違っただけ。上流に向かって左側の斜面は日当たりがよいためかブドウ畑が続く。平地中心のフランスのぶどう園とは異なり、収穫した葡萄の運搬は人力中心。こんな重労働が何時まで続くのだろうか? 場所によっては凍結防止のためか葡萄の木に寒冷紗の覆いが!

   リューデスハイム駅で降りたのは我が夫婦だけ。シーズンオフの最たる雰囲気。ライン河沿いの歩道は露店市の準備でごった返していた。待望のツグミ横丁の道幅は3m足らずの細い坂道。露店市の屋台を設置する場所もないが、その代わりをなすのは道の両側の店舗。大きな樅の木のクリスマスツリーが入り口の前に並び、電球や人形などの飾り付けの真っ最中で、殆どの店は休業状態だった。

   
   道の両側に建つ木組みの木の色と壁の色とのコントラストが鮮やかで美しい。坂道の入り口から全体を眺めると、その美しさの根源に気が付いた。道路幅が狭いために、左右の家並みだけではなく、坂道であるため全部の家並みが同時に我が視界に飛び込んできたのだ。ゲルマン諸都市は都心部でも道幅が広く、右側の家並みを見ていると、左側の家並みは視界から消える。
   
   道幅を狭くした結果、両側の大きなクリスマスツリーに覆われた、美しいトンネルの中を歩いているように感じてくる。冬とは言え真っ赤な花も窓辺に飾られていて緑のツリーとの対照も美しい。彼らは一軒の飾りは横丁全体のため、全体の飾りは一軒のためを連想させるほど、横丁の美しさの演出に努力している。結局、ここは何時きてもドイツ一美しい横丁だったのだ。

   横丁の一角に日本人スタッフが働くワイン販売店があった。10種類くらいの無料試飲を続けたら程よい気分になった。客がいなかったため店員も退屈していたのか、サービス精神に溢れていた。
   
   珍しく開いていた、客もまばらなレストランで昼食。卓上の蝋燭に灯を点してのクリスマスの雰囲気。フルコースの食事は見送り、スープもサラダもパンも取らず、生ビールを500cc飲み、マダガスカルと名付けられた350gのビフテキを食べるのがやっとこ。

   夕方遅くケルンに到着。朝は準備中だった大聖堂前のクリスマスマルクトは既にオープンしていた。立錐の余地もない程の混雑。有料トイレまで行列。迎えに来た娘の車は珍しく大渋滞に出会い、1時間遅れになる始末。

[5]酒食を満喫

  @ ビール

   余命いくばくもないと意識するにつれ、好きな物を食べ好きな物を飲むという欲求は一層押さえがたくなった。ビールの本場に来たからには朝昼晩と欲丸出しで、お茶代わりに飲み続けた。日本と違いビールの種類は数え切れないほどにあり、代表的なビールを飲み比べるだけでも一仕事。

  A ウインナ

   ウインナソーセージのルーツはウィーンだった(フランクフルトソーセージのルーツは勿論フランクフルト。フランクフルトの職人がウィーンで広めたのがウインナソーセージ)と知るや否や、スーパーでウインナを見かけると急に食べたくなり、買い込んだ。ビールの摘みには最適だ。程よい塩加減も食べやすいが、インスタント食品としてそのまま食べられるのが何よりも便利。

B 生ハム

   生ハムもドイツは本場。種類も豊富。程ほどに塩味も利いてビールの摘みには最適。朝食ではお茶の代わりにビール。ビールの摘みに生ハムを食べるだけで満腹。ご飯や味噌汁など不要だ。日本の加工食品会社が安い生ハムを何故大量生産できないのか、不思議でならない。松坂屋豊田店のテナントがスライスした生ハムを量り売りするので、何時も1Kg単位で買う習慣になった。

   塊のままの生ハムもあるが、薄くスライスするのが難しいし面倒なので、予めスライスしてあるものをあれこれ買った。単価が高くても安くてもどれでも美味しかった。生ハムは水分が少ないので、ビール片手に100gも食べると我が小さな胃袋はたちどころに満腹するのが癪の種。

C サラミソーセージ

   サラミソーセージはキプロスの古都サラミス(ペルシア戦役で有名なサラミスの海戦の古戦場とは別の場所らしい)に由来し、筋を取り除いた豚肉に脂肪と牛肉とを混ぜてひき肉にし、腸詰にしたあと冷燻し乾燥させたものだが、その種類の多いことには驚くばかり。生肉に近いものからスルメのように硬いものまで選り取り見取り。

   日本では筋抜きを手抜きするのか、時々筋の断片が混入したサラミソーセージを平然と販売しているが、メーカーの見識を疑う。程よい塩味と豚と牛のいわば複合材料のようになった味覚は酒の摘みとして大好きな食材の一つだ。いわば霜降り牛豚(ぎゅうとん)
だ。いろいろ買いこんではこれも毎日食べ続けた。冷薫前のサラミはマグロの中落ちに似た味がし、ジャムのようにパンにつけて食べたが、これも美味しかった。味覚には人種間に然したる差はなさそうだ。

D スモークサーモン

   欧州はスモークも本場。材料は鮭だけではなく、鰻・鯖を初め材料の種類も豊富。鰻の燻製を買って食べたが、日本での蒲焼に慣らされ過ぎたのか、脂肪が落ちすぎた食味にがっかり。結局は鮭だけに舞い戻った。価格はピンキリだが低価格品でも充分に美味しく、ビールの摘みにと大量に買いこんだ。
   
E 照明用電球

   商店も街灯も民家も蛍光灯嫌いは徹底している。電球の明かりはこの寒々とした北国には温かみが感じられる。蛍光灯嫌いの根源は北の気候にあるのだろうか?

[6]トピックス
 
  @ トラベラーズ・チェック

   欧州人は堅実主義者なのだろうか? 保守主義者なのだろうか? 今回の訪問地独仏墺ではユーロのトラベラーズ・チェックは殆どの商店・レストラン・スーパー・ホテルで使えなかった。使えたのは超一流店か一部のホテルか世界的なチェーン店だけだった。

   やむを得ずトラベラーズ・チェックを銀行や両替屋で現金化した。0.5〜5%くらいの手数料を取られた。今まではUSドルのトラベラーズ・チェックを海外で現金化するとき手数料は取られなかったが、ユーロの信用度はまだ低いのだろうか? 発行元は自社の支店では無料で現金と交換できると主張するものの、肝心の支店が見つからない。

   トラベラーズ・チェックに比べれば、VISAカードを受け入れるところは多少多かった。しかし、JCBカードの受け入れ度は極端に低く、存在感はなきに等しかった。各国へのパック旅行の場合、ガイドが連れ込むお土産屋ではトラベラーズ・チェックや日本各社のカードが大抵使えるが、これらは各旅行社とリベート支払いなどの裏契約をしている(?)特殊な関係にある店だったのだろう、と推定。 

A 1日切符

   ウィーンでもベルリンでも1日乗り放題の切符が役立った。地下鉄・バス・市電・国電の総てに使えた。観光客は多頻度小移動が多いので大変割り得だ。日本政府も観光立国を本気で目指すのなら、検討に値するシステムと確信するのだが・・・。
   
   しかし、このことが裏目に出ることもあった。一日切符を持っていることを告げずに街角で道を聞くと、目的地が市電やバスの1〜2停留所区間の場合は、初乗り料金は高いので歩くことを勧められた。ゲルマン人の堅実さに驚く。
   
B 有名建築の屋上には彫刻群

   欧州各国で理解に苦しむものの一つに、人物や女神などの彫刻を建物の屋根の周辺に埴輪のように並べる習慣がある。観光対象と化している有名建築物、例えば博物館・美術館・宮殿などには数え切れないほどの彫刻が風雨(酸性雨にも)に曝されながら軒の上に並べられている。立派な外観の建物の美観を損なうと私には思えたのだが・・・。
   
   これらの殆どは、私には一流の彫刻美術品とは感じられなかった。鋳型で量産しているのではないかと思えるほどだ。日本各地の道端に飾られている仏像や地蔵の類だろうか? これらによって欧州人は心が癒されるのだろうか? 枯れ木も山の賑わいなのだろか?

C 商品の展示技術

   個人商店の飾り付け技術は日本人よりも際立ってレベルが高い。色彩感覚、立体的な商品の積み上げ方、解りやすさの何れをとっても素晴らしい。果物は絵のように美しく積み上げられている。お土産屋の小物商品の展示は美術館のように綺麗だ。大変な努力をしているためか、客が手で商品に触れるのは極端に嫌う。
   
   水平に商品を飾らず、視線に極力直角に近くなるように商品棚を傾斜させ、モザイク模様のように美しく展示している。この場合、果物などは任意の位置からは商品は選べず、上から順番に取り上げていく。それも客には選ばせないほどに徹底している。
   
   しかし、巨大スーパーの青果物の並べ方は個人商店とは大違いだ。大きな通い箱に入れたまま1mくらいの高さの商品置き台に平積み状態だ。質実剛健・コストダウンの極致のようなものだ。
   
   魚の売り方は日本とは対照的だ。魚は大量の砕氷の中に埋め込むようにして並べられている。魚の置き場と客との間には必ず仕切りがあり、客は商品には接近できない。私は魚名を知らないから、あれこれと指差すだけだ。この衛生観念は肉屋に近い発想だ。大きな魚は希望に応じて切り身にしてくれるが、原則として尾頭付きのまま1匹単位で売っている。3枚に卸すとか、刺し身のように調理して売る習慣はない。

D 欧州での日韓製品

   独仏墺の大型家電店には日韓の電気製品が揃い踏みしている。プラズマや液晶テレビ、冷蔵庫の現物を眺めるとどれが真に一流なのか、区別がつかない。パナソニック・日立・東芝・ソニーなどのブランド名を仮名や漢字の代わりにアルファベットで書かれると高級イメージも消滅し、日本製品も韓国品と同格に私には思えてしまう。

   いわんや欧州人にとっては日韓製品の区別は難しいのではないか。そうなると価格差だけが浮上してくる。電気製品に限らずあらゆる消費財がコモディティ(日用品)化すればするほど、価格競争だけになってくるような気がしてならない。自動車に限らず日本各社はブランド戦略に細心の注意を払わないと、未来は厳しくなるばかりと痛感!

E アジアショップ

   大型ショッピングセンターの一角には『アジアショップ』が散見される。米味噌醤油やインスタントラーメンなど、何処から仕入れたのかアジア独特の商品が溢れている。しかし、どの店の場合でも、物置で商品を販売しているような雰囲気になってしまうのは何故なのか?

   また、商品の陳列に美観が感じられない。包装の袋にはけばけばしい絵や写真が印刷されているが美観を感じない。商品の梱包サイズ・形に統一性が無く、商品を整然と陳列することが出来ない。現地の商店の展示技術に比べれば雲泥の差だ。乞食様御用達の店かと勘違いするほどだ。

F 持家

   ドイツ人にとっての持家とは日本でのような新築を必ずしも意味しない。中古住宅を買って自分好みにリフォームするのが普通だそうだ。木造であれ鉄筋であれ構造体の耐久性能は100年以上と推定! 中古住宅市場が発達した結果、国民全体としての住宅コストも下がる。日本も石油ショック後に建てられた住宅の耐久性は若干だが高くなったので、徐々に中古住宅市場が育ちつつあるが、本格化するのには時間が掛かりそうだ。

   ドイツ人の家は外から眺めると風景としても何故か美しく感じられる。家の周囲に種種雑多な道具や容器類が置いてないことにもその一因があることには直ぐに気がつく。しかし、この美はドイツ人の整理整頓重視の几帳面な性格だけに由来するものではなく、住居部分とは別に倉庫としての地下室があるからと気づいた。

   娘婿の家にも10坪くらいの地下室があった。そこに子供の自転車・バイク・旅行鞄・スポーツ用品・自動車部品・飲料水などが足の踏み場もない程に雑然と置かれていた。来客が絶えないためか、日本人なのに居間や台所だけは地下室とは対照的に、程ほどに片付けられていた。帰国後、私はドイツ人の真似を早速開始。

   我が家の1階のピロティには、未使用状態の3.6*3.6*3.5mの空間があった。ピロティの2面に壁を作り、出入り口には鍵の掛かるドアを付けた。内部には延べ23畳弱分の棚を作った。棚の使い勝手をよくするために奥行きは60と90cm、長さは各3.6m、棚の高さは収納物のサイズを考慮して、30cm*6段,40*4,60*2,80*2の組み合わせにした。最後に24時間稼動の小型換気扇を取り付けた。

   完成後、2日もかけて押入れ・天袋・納戸・ベランダなどに無秩序に収納していた、半ば死蔵品と化していた家財道具を倉庫(いわば大型ゴミ箱)に運び込んだ。室内外が何と快適に、且つは美しくなったことか! 自慢したいほどだ。

   我が書斎の一等地を占拠していた平凡社の世界大百科事典全26巻の内、日本地図と世界地図以外の24巻もゴミ箱へと運び込んだ。パソコン購入後の4年間に一度も使わなかった無用の長物だったのだ。かつては有名だった世界大百科事典と雖も、発刊後40年も経過すると、パソコンによる最新データの情報検索の威力には勝てなかった!

   ガラクタが消え去った12畳の居間の押入れや天袋は撤去し、箪笥も処分し、天井・壁・床を一新し、奥行きの浅い壁面収納庫(W3.6*H2.5*D0.5m)を取り付けると、やっと寛げる場所となる筈。此処に大型薄型テレビと24年前(昭和56年)に50万円くらいで買った(大型スピーカは何故か高かった)ものの、置き場に困っていたステレオ装置とパソコンを移設し、革張りの安楽椅子を買い込めば、自宅での短い余生の暇潰しには最適な空間も完成する。

   家とは家族構成の変化や日常生活の過ごし方の変化に合わせて、常時リフォームし続ける対象だと再認識した。友人達の家に遊びに出かけると、何処も数え切れないほどのお宝(?)に埋没したような、大同小異の生活ばかりが目に付いた。

   大きな家に住んではいても、結局は居間・寝室・食堂の2DKで生活し、他の空き部屋を物置化している老夫婦が何と多いことか! 今回の旅行は、ドイツ人式の暮らし方を再評価する機会となり、3年前から少しずつ始めていたリフォームを加速させ、日本人式生き方と決別する貴重な切っ掛けにもなった。

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孫達と3泊4日の5,000km

   荊妻が今回の旅で最も行きたいと提案した観光スポットは、西フランスのモン・サン・ミッシェルだけだった。フレッヘンからは凡そ1,000Kmもの距離がある! しかし、5歳と3歳の孫の起床時間や体力に合わせながらのノンビリ旅行だったので、半病人の我が夫婦にも手ごろな旅になった。シーズンオフのためか高速道路は渋滞もせず、予想外に楽な旅になった。運転は総て娘婿。
   
[1]モン・サン・ミッシェルへの往路

@ パリ泊(11月18日・金)

   当日、娘婿は出勤日。長女(孫)はケルンの日本語補習校、次女は幼稚園に出かけたため、フレッヘンを出発したのは日もとっぷりと暮れた午後7時半。途中ベルギーを横断し、夜道をぶっ飛ばして11時半に中間点にあるパリのノボホテルに到着。このホテルは子供連れには最適だった。ソファが大人も使える2人用のベッドに変わるため、親子4人が1室に泊まれた。そのため娘一家は、家族旅行では今までもこのホテルチェーンを愛用していたそうだ。
   
   欧州の老舗ホテルは建物には凝っているが、部屋は意外と狭く使い難いのに料金のみは高い。一方、フランス各地を初めとして欧州各地に大駐車場つきで展開しているノボホテルは、ヒルトン並に部屋も広く、内装は質素ではあるが機能的で料金も安い。日本人には不評のビデはなかった。都市ホテルとは異なった実用的なホテルだ。豪華なロビーや高級レストランは無く、朝食は省人化を図ったバイキング方式。しかし、食材の種類は多く、不満はなかった。
   
   今まで利用した世界各国の都市ホテルでは、洗面所・トイレ・浴槽が一ヶ所に納まっていたが、このホテルでは洗面所と浴槽が一緒に、トイレが別室にと分離されていた。しかも、風呂でも床はフローリング張り。夫婦と雖も同室では一方がトイレ、一方が浴槽を同時には使わないが、別室化されると時間効率が高まる利点もある。何よりもフローリングの感触が良かった。

   日本でもこれほどの気配りホテルに泊まった体験がない! お座敷の畳の間に風呂やトイレがある感覚だ。ところが平成17年2月15日の日経朝刊によれば、中部国際空港の旅客ターミナルビル近くに開業した『セントレアホテル』の風呂はユニットバスではなく、ゆったりとした湯船でトイレは別室だという。一度見に行きたくなった。

A モン・サン・ミッシェル

   フランスの北西、ブルターニュ半島の北の付け根に位置し、大西洋に面した周囲約1Kmの島に8〜13世紀に掛けて作られた要塞のような修道院。バベルの塔の絵画を連想させるような、空高く円錐状に積み上げた建物だ。塔の先端は海面から優に100mはありそうだ。世界遺産にも登録され日本女性に何故か大人気。島内のホテルに1泊するパリからのコースは人気絶大とか! 若い日本女性が大きな鞄を嬉しそうに運び込んでいた。

   
   島内の狭い通路の両側にはご多分に漏れず、お土産物屋とレストランがひしめき合っている。現地で買ったガイドブックによれば、干満の差が最大15mにも達するそうだが少し大袈裟だ。理科年表によれば世界一はカナダのファンディ湾の12.5m、日本では住ノ江(佐賀県・有明海)の4.9m。
   
   観光客が殺到するシーズンとは異なり、休業中のレストランも多く、閑散としていた。それでも見晴らしの良い島内のレストランの窓際は先客で埋まり、中ほどの席で我慢。レストランの外観は石造りだったが、梁には20*30cmほどの断面を持つ木材が30cm間隔で使われていた。
   
   外観が石造りに見えても、梁が木材と言う建物は欧州の随所で見かけた。直方体の外観をもつ宮殿なども、外壁は石造だが梁は木が基本。全部が石材なのは、アーチやドームからなる内部空間の大きな、大聖堂などの超大型建築だけだ。
   
[2]パリへの復路

  @ サン・マロ(要塞都市)

   モン・サン・ミッシェルからパリへ向かう途中にサン・マロはあった。大西洋に突き出た小さな半島全体が防壁を兼ねた中層の集合住宅で囲まれ、内部は中世の都市そのものだった。16〜17世紀には国王が何と海賊を公認し、フランスきっての港町として栄え、第二次世界大戦では占拠したドイツ軍に対し米軍が攻撃し町の80%は破壊された。

   しかし、多くの欧州各都市同様、ここも昔の姿に復元された。中心部にはパリにも劣らぬブランド店が軒を連ね、大聖堂・レストラン・ホテルも完備し、今では観光都市として完全に復活している。
   
   海岸線から百メートルの位置には岩だらけの小さな島があり、石造りの道で繋がっていた。此処はモン・サン・ミッシェルと同様に干満の差が大きく、夕方到着した時には島への道は引き潮の海水で洗われていた。



   あれよあれよと言う間に潮が引いたので試しに島へと急いで渡り、直ぐに海岸へ引き返した。海岸で散歩していたお婆さんが説教口調で、フランス語で何やら叫んだ。きっと『危ないですよ。あっという間に満ち潮になって、島から戻れなくなるから』と言ったのでは? 半島に戻ったら、大きな掲示板に、島へ渡る時の干満差から発生する危険についての注意が数ヶ国語で大書してあったが、日本語はまだなかった。

   この要塞都市の入り口近くにある10坪大の超ミニ公園には、色とりどりの菊の花が小山のように立体的に植え付けられていた。花一つひとつは小さいが、無数の花が葉も見えないほど、絨毯のように一面に咲き、ボリューム感で一杯。日本人は大輪の菊が好みのようだが、美の観賞方法としては対照的だ。

   海岸には数え切れないほどのヨットが係留されていた。一人当たりの国民所得では日本並のフランスにこんなに大勢の金持ちがいるとは驚き! 街角で出会う人々の質素な服装からは想像も出来ないが、国内に大きな貧富の差が存在している何よりの証拠に思えてならなかった。

   並の日本人ではまだ、こんなに立派なヨットを個人では持てないし、仮に持っていても悲しいことには、仕事に追われて遊ぶ時間がない。

  A レンヌ(泊)

   土曜日はレンヌのノボホテルに泊まった。一度は見たかった超巨大なショッピングセンターの前にホテルはあった。欧州各国の有名な観光都市は何れも19世紀までに都市建設が完了し、都心に百貨店やブランド店は見かけても、巨大なショッピングセンターは見かけなかった。場所が確保できないから、ショッピングセンターがないのは当たり前すぎることだ。
   
   しかし、統計によれば世界第2位の売上額を誇るスーパーはフランスのカルフール(年商は6兆円強。日本一のイオンの約1.5倍)である。日本では13ヶ所が当面の目標だと公表しつつ、千葉市の幕張など8ヶ所に一気に進出した。
   
   しかし、流石のカルフールも日本人の購買心理は読み切れなかったのか、世界一のスーパーである米国のウォルマート(年商約30兆円。従業員140万人。米国内の小売りシェア5%。西友に出資)と同様、苦戦を強いられ撤退を取りざたされ、とうとう日本法人社長は24都市に47店展開している中国法人社長に転出した(日経朝刊。平成17年2月19日)。しかし、一度は観察したかった。

   ショッピングセンター内の大手のテナントはカルフールだけではなかった。パリの有名な百貨店プランタンやホテル、レストラン、遊技場なども併設され、5,000台程度の駐車場もあった。観光客や金持ちは都心のブランド店に、一般市民は郊外のショッピングセンターに出かけているのだろうか?
   
   私が人目にも分かるほどうきうきとしていたのか、5歳の孫に『オパ(ドイツ語でお爺さんの意)は、何故そんなに嬉しいの?』と質問されてしまった! プランタンはシャッターが下り始めていた。閉店時刻だった。しかし、カルフールは開いていた。ワインなどは手が届かないほどの高さまで積み上げられている。地震が無いから心配なさそうだ。私は皆がホテルに帰った後も一人で残り、1時間も店内をうろうろしていた。
   
   通路が広いひろい! 4mは優にありそうだ。大きなカートも楽々とすれ違える。ドイツ同様、生鮮3品が驚くほど安い。品質さえ無視すれば日本の半値に近い。フランスが農業大国であるためか、安価な国産品との競争を迫られる輸入品も安い。グルメ天国フランスの台所は安泰だ。
   
   カジュアルや下着などの実用衣料品には、バーバリやイヴサンローランなどのブランド品は無視されているのか、何処にも見かけなかった。高価なブランド品を擦り切れるまで着るのではなく、普段着は発展途上国からの輸入品で充分と判断しているかのようだ。

   最近の調査によれば、海外有名ブランドの41%(海外店と日本店の合計)は日本人の購入額だそうだが、日本人の知的レベルの象徴に思えてならない。

   店内には大型レストランもあった。日本のショッピングセンター内の食堂街は、うどん・そば・ラーメン・ハンバーグ・寿司などのファーストフードが主力だが、こちらは日本のデパートのレストラン街みたいな本格派まで勢ぞろい。夕食はここで摂った。ノボホテルにはレストランがないのだ。
 
__________________蛇足__________________
 
   カルフールの直営店や西友を通してのウォルマートの日本での苦戦は、ダイエーの『ハイパーマート』の失敗にそっくりだ。最寄りのハイパーマートは我が家から西10Km地点に『東郷店』、南20Km地点に『岡崎店』があった。共に2,000台の大型駐車場があり、15,000平米はありそうなワンフロアの大型店舗に、カルフールと似たような販売戦略が導入されていたが、ウォルマート(見た事はないが・・・)の模倣だったと推定している。
 
  @ チラシ効果を無視

   ハイパーマートはウォルマートの営業方針『Every Day Low Price』(毎日が安売り)を、そのまま取り入れた。価格の安さは店まで来れば解る筈、との殿様気取りの営業方針の下、新聞へのチラシも殆ど入れなかった。日本の主婦は新聞そのものよりも、チラシの点検の方が毎朝の楽しみになっていることを軽視していた。

   労働者の町である豊田市には朝日の購読者は少ないため、朝日のチラシ枚数は地元の中日新聞の半分以下。読者が少ない日経は専売店が維持できず、中日専売店に配達を依属しているもののチラシ抜きだった。チラシを熟読すれば、世の中の最前線の生々しい情報が無料で手に入ると考えている私は、販売店に怒鳴り込んだ。
   
『何故、チラシを入れないのだ!』
『日経の読者の殆どは一般紙も購読されているため、どなたからもチラシ配布のご希望はありませんが・・・』
『人は人、私は私。朝日のチラシとダブっても構わない』

と言ってチラシを強要した。即座に対応してくれた上に、中日の日曜版も無料で配達してくれるようになった。これこそが本物の商人だ。豊田市ではチラシの厚さで、曜日(土日か平日か)やトヨタ自動車の給料日とボーナスの支給日が解るほどだ。

   実弟が従業員数十人の食品スーパーを経営している。『チラシを入れなければ、途端に客が20%も減少する。チラシをタイミングよく準備するために、高速自動印刷機を買った』と言った。

   ウォルマートの主力客はWASPではなく、今や米国民の過半数を占めるに至った中低所得者層なのに、今尚中産階級意識から抜け出せていない日本人相手に、ハイパーマートの経営陣は『正しいことを実践しているのだから、客は何れ評価してくれる筈』、とウォルマートの一面のみを猿真似した営業方針が墓穴の一因、と私は推定している。

A 食品とその他の商品を一緒のフロアで販売

   私は生鮮3品売り場と衣料雑貨売り場とが仕切りもなく隣接し、カートに食品と衣料を一緒に入れたまま集中レジに行かされるような店には立ち寄る意欲もない。

   生鮮3品売り場はどんなに注意しても汚くなるし、悪臭もするし、清潔感を欠く売り場になりがちだ。従って他の売り場とも隔離し、専用のレジを配置すべきだと考えている。魚を一日中さばいている売り場の横では、宝石・貴金属やファッション品を買う気が起きないし、同じカートに商品を投げ込むと、包装にどんなに注意を払っても、ファッション品が汚れるのではないかと危惧するからである。

   私には、キッチンとトイレが同室にあるような違和感から最後まで抜け出せず、ハイパーマートが物珍しかった頃には出かけたが、その後は足がすっかり遠のいた。

  B 欧米人・中国人と日本人との違い

   欧米人や中国人は『花より団子』主義者だ。その差は肉屋に行けば一目瞭然! 牛・豚・羊の血の付いた枝肉が店頭に宣伝を兼ねてぶら下げてあったり、豚の頭がごろごろと並べてあったりするのは普通の光景だ。単価の安い塊肉の方が、スライス済みの肉よりも人気が出るのは、現実主義者の行動の結果だ。

   一方、美しく綺麗にスライスされた肉のみを、冷蔵庫の窓越しに眺めている日本人には、安い豚の頭を買っても家庭では心理面から調理できないのだ。
  
   実用品と雖も安いだけでは、日本人は簡単には手を出さない。ショッピングは何にも勝るレジャーなのに、必需品を已む無く買いに行かされた家政婦扱いにされている、と感じた主婦が逃げ出したのも、破綻の一因ではないかと思っている。
 
  C ショッピングセンターとハイパーマートの違い

   此処のショッピングセンターはドイツで見た大型ショッピングセンター同様、イオングループのショッピングセンターに大変似ている。内部で複数の同業者が競争関係となって活況を演じているだけではなく、レストラン街、オープンカフェ、ゲームコーナー、シネマコンプレックスなどレジャーセンターも兼ねているため、誰もが買い物だけではなく暇潰しのためにもやってくる場所になっている。

   私が好きなショッピングセンターは、我が家の南20Kmにあるジャスコの岡崎南店だ。巨大な3階建ての建物の両端に西武デパート(此処だけは6階建て。赤字らしいが・・・)とジャスコが対峙し、その間を結ぶ200m位の回廊部分に100店は超えそうなテナント(物販業以外にも色んな業種が入居)がびっしり詰まっていて、一日中賑わっているからだ。その結果、旧中心街である康生町(家康が生まれた場所?)の商店街や松坂屋岡崎店(赤字店で有名)は今や風前の灯火。

   ハイパーマートの中では買い物以外には、ファーストフード店か本屋でしか暇潰しも出来ず、競合テナントのいない各売り場はその商品の独占業者のように振る舞うし、株主優待券の使い方をレジのパートにまともに教えていないためか、その都度店長と交渉せざるを得なかったし、まごまごしている内にダイエーの株価の暴落に遭遇して大損!
   
   
B ロワール地方

   ロワール川は1,020Kmもありフランス最長の川(2位はセーヌ川の780Km)。フランスの中央を東から西へ流れて大西洋に至る。そのロワール川中流域は古城の宝庫。大平原の中の城であるためか、ライン河下りのときに山の斜面に見かける古城群とは対照的に、広い庭園が美しい。

   シャンボール城はベルサイユ宮殿に匹敵する規模。塀の長さは32Km、部屋数440。レオナルド・ダ・ビンチ作とも言われる中央ドーム内の巨大な螺旋階段は、人がすれ違わずに昇降できる二重構造になっていた。上りと下りの階段が重なっているが、どちらとも上りでも、下りにでも勿論自由に使える。

   今に至るまで疑問が解けないのは、欧州の大型の城や宮殿にある何百と言う部屋の用途についてである。王侯一族とその付き人たちの住居としては大き過ぎる。当時、何かの行事で大勢の人が集まった時の、ホテル代わりの宿泊施設だったのだろうか?

   シュノンソー城も広大な敷地の中に建てられている大きな城だった。大抵の城は部屋のコーナーに巨大なストーブがある。焚口は室外にあり、断面が四分円になったストーブの、美しい磁器で覆われた天井まで届く外周は、暗赤外線の放射板になっている。

   ところが、この城には暖炉があった。しかも、本物の薪が燃やされていた。屋外での焚き火の暖かさには、初詣の神社の境内で体験していたが、室内の焚き火は初体験。排煙にも問題は無く、室内に煙が逆流することもない。驚いたのはその暖かさだった。単なる装飾品ではなく、充分に実用に耐えるものだった。隙間だらけの日本家屋で体験した囲炉裏よりも格段に暖かかった。囲炉裏は火鉢に似ていて、室内の空気が温まらないのだ。

   フランスの巨大な教会はパリのノートルダム寺院だけではなかった。この地方にも規模は多少小さいものの、類似の大聖堂が幾つもあった。サンシャイン大聖堂・サンピエール大聖堂・サンカーシャン聖堂・ノートルダム教会など、次から次に見学したので、頭は混乱するばかりだった。

   日本でも東大寺だけが唯一の巨大なお寺ではないのと同じだ。延暦寺・東西本願寺・智恩院などなど巨大な寺院が無数にあるのと、似たようなものか?

[3]パリ
  
  @ 枯葉の洪水

   花の都は何処も落ち葉の洪水だった。既に半分くらい葉が落ちていた。『枯葉』というシャンソンを思い出さずにはいられなかった。毎日ほどの頻度では落ち葉掻きをしていないようだ。鮮度の違う落ち葉が堆積している。パリは公園内の樹木も街路樹も落葉樹が殆ど。落葉樹の方が春夏秋冬、季節を感じられるから好まれるのだろうか?
   
  A マドレーヌ教会

   神殿の王様はギリシアのパルテノンとローマのパンテオンだったのだ。マドレーヌ教会はフランス革命を記念してナポレオンの命令で1842年に完成。パリの建築家もアイディアが尽きたのか、外観はパルテノン、内部の空間はパンテオンそっくりの建築だ。但し、内部のドームは本物のパンテオンほどには大きくないため、3つのドームをLNG(液化天然ガス)船のように縦長に繋いでいる。それでも多くの大聖堂の内部に付き物の列柱が無く、広大な空間が確保されていた。

   
  B コンコルド広場

   ルイ15世の騎馬像を飾るために1755年から20年も掛けて造られた、コンコルド広場(84,000平米)の中央には、1833年にエジプトのルクソールから移設された33mのオベリスクがそそり立つ。オベリスクがエジプトで建設された時には、その頂点の四角錐には金箔が張られていたそうだが、平成15年のエジプト旅行では現存するどのオベリスクにも、金箔は見かけなかった。

   しかし、パリのオベリスクには何と金箔が張られていた! バリには何度も来たのに、このことには気づかなかった。エジプト旅行でオベリスクの金箔装飾説を聞くまで関心がなかったのだ。
   
  C ルイヴィトン本店

   ルイヴィトンの本店は改装中だった。日本だったら足場の周りはシートで無粋に囲うが、建物の側面全体が大型の鞄になるように、鞄生地が拡大印刷されたシートで飾られていた! 巧まざる宣伝と町の美観も考慮した一石二鳥のアイディアには、座布団2枚!

  D 凱旋門

   今回は時間もたっぷりあったので、凱旋門に昇ろうとしたら、進入禁止。軍隊の行事が凱旋門の下で延々と続いているのを、かいま眺めただけで終わった。

  E オルセー美術館

   1900年のバリ万博で作られ、1939年以来使われていなかったオルセー駅を改造して1986年に美術館として開館。どんな方法で名品を掻き集めたのか、開館間も無いのに素晴らしい美術館に成長。
___________________補足_________________

   旅行記を書いたら何時も、博覧強記でその情報量にはとても追いつけない学生時代の友達に、査読を頼んでいます。早速、下記の記事を紹介してくれました。要旨を赤字でコピーしました。

   http://tenplusone.inax.co.jp/hen_muse/text_3.html
   
   周知のように、現在のルーブルは古代オリエントから18世紀のヨーロッパ美術までをそのコレクションの対象としている。19世紀美術のコレクションは1986年に開館したオルセー美術館の対象領域であるし、また20世紀の現代美術に関しては、これまた1977年に開館したポンピドゥー文化センターの守備範囲である。

   近畿日本ツーリストの『パリと近郊の本』の65ページには、オルセー美術館には旧印象派の総ての作品とルーブル美術館の一部の作品が集められた、と解説されていた。
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   それにしても、100年前のフランスの国力は今日の日本の比ではないのに、こんなに立派な駅舎を建てた元気さに驚愕。戦前の国鉄でまともな駅舎は東京・上野・名古屋・大阪駅くらい。更にパリ万博では、高さ世界一を誇ったエッフェル塔まで建設したが、大阪万博も愛知万博も仮設小屋に見世物を並べているだけで、万博後に残るものは更地化された荒地のみ! 何故こんな差が生まれるのか、不思議でならない。

   オルセー美術館はルーブル美術館ほどの歴史も無いのに、芸術音痴の私でもよく知っている画家や彫刻家の作品が多く、本当は1日たっぷり入り浸りになりたかったほどだ。

   ミレー・ルノワール・マネ・モネ・ゴッホ・セザンヌ・ゴーギャン・ロダンなど。作家別に作品が纏められている。どうしても見たかったのはミレーの『晩鐘』だった。自然の恵みに感謝している純朴な農夫夫妻の姿には、家庭菜園を始めて30年の私にも共感するものが体を貫き、涙が自然に溢れてきた。大地を通じて自然の恵みに感謝するだけではなく、我がゲマインシャフト(共同社会)仲間への感謝の念も、同時に誘発されてきたのだ。
   
   晩鐘を美術写真集でかつて見た折にはいい絵だな、と感じた記憶はあるが、それ以上の感動は発生しなかった。これは紛うことなき本物なのだ、と自らに言い聞かせながら眺めていると、本物が放つ魅力が自然に看取されるから不思議だ。

   一方、ゴッホの自画像を見たとき『こんな顔つきになって、死にたくないね』と、口を滑らせたら、長女は『そんなことを今更言っても、もう良く似てきているじゃない!』。睡蓮が大好きだったモネは睡蓮をテーマにした絵をたくさん描いたそうだ。太鼓橋が描かれた一番有名な睡蓮の絵は貸し出し中らしく、別の睡蓮の絵が飾られていたが、全体としての印象は大変良く似ていた。

   ロダンも特別待遇の一人だった。無数の彫刻が展示されていたが、私には駄作にしか思えなかった。円空のような力強い鑿の後は残っているが、ミケランジェロの緻密さ・美しさ・躍動感・感情の表現力など何をとっても、月とスッポンと断定。
   
  F 交通事故

   パリを出発して30分後、真っ暗闇の中で渋滞に追いつく。車を降りて事故現場に出かけた。何と僅か100m先に多重衝突で壊れた車が10台近くもごろごろ。火災が発生したのか消化剤で車は真っ白。1分出発が早かったら・・・。救急車が20台くらい殺到。
   
   片側3車線の内、何とか1車線分の空間を確保して、15分後に車は動き始めた。死者は何人だったのだろうか?
   
  G トヨタのフランス工場

   婿の気配りで途中、工場見物に出かけた。フランス工場とは言っても場所はベルギーの近くだった。高速道路から出て直ぐの大平原(農業地帯)の中に工場はあった。過去15年間、トヨタ自動車が世界各地で建設した工場と瓜二つ。広大で拡張の余地がたっぷりとある敷地、広大な従業員駐車場、真新しい陸屋根型の工場建屋。既に2交替制が導入されているのか、従業員駐車場にも車が一杯。工場は煌煌とした照明の下で稼動中。
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荊妻と5泊6日の2,00km

   欧州の百万都市で我が未訪問地はウィーンとベルリンだけだった。荊妻は既に友人とウィーンに出かけてはいたが、2度でも行きたいというので、一緒に出かけることにした。がん治療後では初めての、2人だけでの海外観光。

   両都市の観光スポット数を考慮し、ウィーンに3泊、ベルリンに2泊の計画。娘婿が格安航空券と交通至便な位置にあるホテルの予約をし、空港からホテルまでの道案内も詳細に文書化してくれたので、何一つ迷うこともなく移動できた。

[1] トピックス

@ 格安航空券

   ドイツの格安航空券は文字通り格安だった。ケルン・ウィーン・ベルリンを結ぶと、一辺が約1,000Kmの三角形になる。Germanwingsのケルン⇒ウィーン便は税込み2人で110.26ユーロ、ベルリン⇒ケルンは105.1ユーロ。Air-Berlinのウィーン⇒ベルリンは168ユーロだった。
   
   当時の1ユーロ138円でも、平均すれば1フライト8,817円/人だ。名古屋〜福岡間はたったの290マイル(467Km)なのに、ANAの正規運賃は21,600円、不定期に実施される安売りの指定日ですらも9,800円(昔は9,300円だったが、原油が暴騰し昨年値上げされた)だ。
   
   国際線なのに格安便なので飲食物は有料。しかし、利用者としては1時間余のフライトにはこれで充分だと満足した。ビールは搭乗前に待合室の売店で買って飲んだ。飛行機の中のビールは売店の3倍もした。誰でも価格には敏感に反応するのか、200座席くらいの中型機がほぼ満席の賑わい! 

A 独墺の平原地帯

   ケルンからウィーンまで、時々下界を眺めた。何時までも続いていた筈の太古の大森林が今や農地に変わり果て、所々に森が残され、森の周辺に民家が密集していた。しかし、一つひとつの森の大きさは数平方Km程度で、且つそれぞれは農地に取り囲まれ、島のように孤立していた。

   動物の食物連鎖を考えると、この大きさの孤立した森では鹿やイノシシ、熊などの大型野生哺乳動物が生き延びるには狭すぎる。欧州は平原であったため耕地化が容易に進んだ。その結果、人間が動物から森を奪ってしまったのだ。日本では山脈や山地を通じて森が繋がっているから野生動物は生き残れた。それでも異常気象が発生すると餌不足となり動物が里へと押し寄せてきている。

   私は欧州人に『動物に森を返せ!』と叫びたかった。

  B ウィーンとベルリンの弱者に優しい地下鉄

   平成17年2月13日、名古屋市営地下鉄の上りエスカレータの降り口付近で乗客13名が将棋倒しとなり軽傷を負った。女高生の鞄の紐がエスカレータに挟まれたからだそうだ。事故に気づいた駅員が非常停止ボタンを押し、事故は収まった。
   
   私はこの事故は氷山の一角だと思う。上りのエスカレータだったのも、幸いした。下りエスカレータを不意に非常停止すれば、乗客には慣性の法則が働いて下方に向かって転落する恐れは、上りよりも遥かに大きくなるからだ。
   
   エスカレータでなくとも日本では、階段での事故死は家庭内だけでも毎年数百人(平成10年。階段死435人。浴槽での溺死を含む家庭内事故死10,675人>自動車事故死)。この数は自動車事故による死者の5%にもなる。我が知人のホームページに階段事故の恐ろしい体験談が報告されていた。

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   朝 家内(注。ご病気だった)が2階から降りようとしたのですが、立てなくなってしまい、私が肩を貸して下へ降りようとしたとき、踊り場で突然私に寄り掛ってきたので、掴まる所も無く二人とも転落しました。家内は意識が無く力が抜けていたのが幸いしたのか軽症でしたが、私は腰を強打して腰椎の圧迫骨折、二人とも救急車で入院。

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   一方、ウィーンとベルリンの地下鉄では乗客の移動手段に格段の努力が払われていた。ホームの随所に膨大な数の無人エレベータが設置されていた。乗客は階段・エスカレータ・エレベータを自由に選択できた。荷物を持っている人、歩行に不自由している身障者や老齢者、車椅子や乳母車の人はエレベータを使えば、地下鉄も安心して利用できる。
   
   エレベータは数が多いため、待ち行列も発生していなかった。まだ健常者の一人と思っている私でも、モスクワの地下鉄のように長大で且つ高速の下りエスカレータに乗る時は、後ろから人が転落してこないかと、一瞬緊張したものだ。エスカレータが故障しなくても、『洞不全症候群』の患者がエスカレータ上で失神して突然倒れたら、と思うとぞっとしてくる。
   
   日本では地下鉄に限らず、鉄道構内での安全に対する投資が不足している、と嘆かずにはおれない。4年前の韓国人留学生の悲劇を思い出した。『韓国の追憶』からコピーした。
 
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   平成13年1月26日、JR山手線の大久保駅で線路に落下した日本人の酔っ払いを助けようとした韓国人留学生と日本人カメラマンとが不幸にも轢死した。私は涙が止まらなかった。いずれは何とか善処するのであろうが、政府は間髪を入れずに哀悼の意を表し、法律が何であれ遺族にはお見舞い金(我が見積もりは5千万円)を即日出すべきだった。領収書も不要な外務省の機密費があるではないか! いわんや安全対策も不十分だったJR東日本に於いておや。

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   ホームでの転落防止対策すら、あの悲劇から4年も経つのに、ほんの僅か前進したに過ぎない。日本ではゲルマン諸国に比べ、設備投資だけで解決する筈の、未着手課題が多すぎると痛感!


[2]ウィーン

   1276〜1918年までの642年間、ハプスブルク家の居城だったウィーンは、外国からの収奪品が多いロンドンやパリに比べれば、自らが造り上げた遺産は格段に多そうだ。都市国家を除けば、国民一人当たりの外国人観光客数は世界一だそうだが、さもありなんと納得できる。
   
   一族がこんなに長く君臨し続けた大帝国は世界史上、他に例がない。ハプスブルク家は欧州ではダントツのお家柄。英国王室と雖もこの蓄積を目の当たりにすると、色あせて感じられる。

   3連泊したロイヤルホテルはウィーンの中心部に聳え立つ『シュテファン大聖堂』から僅か50mの位置。小さいが格式のあるホテルだ。リフォーム工事の真っ最中だった。『私達は、たとい建物は古くても、内部は常に最新の状態にあるように維持し続けます』との掲示を大書。直ぐ横はウィーンの銀座、グラーベン通り。市内観光には最適の場所だった。

@ リング

   1858年に旧市街の城壁を撤去し5Kmの環状道路を建設。その上を30分で一周できる市電が走っている。通称リングだ。市電で一周したら、有名な観光スポットが一覧できた。一つひとつが重厚な石造りの建物だ。現在の小国オーストリアからは連想できないハプスブルク大帝国の国力をまざまざと見せ付けられた。

A 何でも観光対象化

   街全体が文化遺産と思えるほどのウィーンなのに、故事来歴が当事者には余ほど貴重に思えるのか、市民挙げての観光立国なのか、首を傾げたくなるようなものまで、恭(うやうや)しく保存されている。その結果、ガイドのいない個人旅行では小さな物件の場合、地図を頼りに探し当てるだけでも一仕事。

   『釘の株』と称された、釘の穴で恰も彫刻のようになった古くて小さな板切れが、古い建物の角柱に取り付けられたガラスの箱の中に収められ展示してあった。その昔、錠前工が一人前になるに当たって、悪魔に魂を売らないようにと釘を打ち込んだ板だそうだ。地図と睨めっこしながらやっと見つけたものの、現物を見て些かがっかり。

   モーツアルトがオペラ『フィガロの結婚』を作曲した時に住んでいた家を『フィガロ・ハウス』と名付け、保存公開していた。残念ながら我が訪問時は修理工事の真っ最中で入れなかった。
   
   『ドイツ騎士団の家』を探すのにもあちこちと迷い、通りがかりの市民(知らない人も多かった)に何度も聞き、やっと見つけたものの、単なる古家に過ぎず、こちらにもがっかり。ガイドブックでは、一般的にさも貴重品であるかのように誇張して書かれすぎる傾向がある。

   グラーベン通りの中央には、1676年にレオポルド1世がペストの流行が終わることを願って建てた、心の篭った壮麗な三位一体の柱『ペスト記念柱』がある。最初は木製だったが1682〜1693年に大理石の荘厳な記念碑として建て替えられた。

B 中央墓地

   ウィーンの街外れに何と2平方Kmもの広大な中央墓地がある。私はこんなに広い墓地をかつて見たことが無かった。名古屋市では戦後、東部の平和公園内に大型の墓地が開発され、戦災で焼けた市内各地の寺院の墓石が移設されたが、規模では桁違い。

   正面玄関から程近い一角は世界的に有名な音楽関係者の墓の集積地だった。例えば ベートーベン、モーツアルト、シューベルト、ブラームス、ヨハンシュトラウス親子、グルック、シェーンブルク・・・。立派な墓石に名前が彫られているからそれぞれの墓石とは解るが、墓石の下に遺体が埋葬されているのか、いないのか、私には解らなかった。



   荊妻が墓石探しに追われていたら、通りがかりの中年男性が案内役を買ってくれた。
余りにも音楽家の墓に詳しかったので『音楽関係者ですか?』と聞くと『建築関係の設計屋だ』との返事。一市民が何の関係もない外国人にこんなに親切にしてくれるとは、更には専門外の音楽家にこんなに詳しいとは!

   驚いたことには、この中央墓地すらも観光資源として活用されている。墓地を取り巻く塀も門も、墓地内の道や芝生の管理も行き届いている。私も、ピアニストの端くれである荊妻に引き連れられて遥遥(はるばる)尋ねて来た一人だ。名古屋市の墓地に欧州人が観光に来たとの事例は、未だかつて聞いたこともない。

C 国会議事堂
   
   1873年から10年かけてデンマーク人ハンセンにより作られた石造建築物。民主主義のシンボルとして、正面はギリシアのパルテノン神殿そっくりに作られている。円柱の数も8本で全く同じ数だが、全体としては少し小ぶりだ。

D 市庁舎

   市庁舎前の広大な広場はクリスマスマルクトの露店群で埋まり、見物客で満員の盛況。同じ広場の露店の店舗は皆同じデザインだが、広場ごとにデザインも外壁の色も異なっている。市庁舎内のホールでは作業台を並べ、小学生の親子が職人の指導下でクリスマスに向けた装飾品やお菓子作りの真っ最中だった。

E シュテファン大聖堂

   シュテファン大聖堂は、ミラノの大聖堂(H108.5*W148*D91m)、ケルンの大聖堂(H157*W144*D86m)に次ぐ欧州第3位(H137m)の規模を誇る大聖堂である。ミラノの大聖堂は塔の高さこそ低いが、建築面積(投影面積)はケルンの大聖堂を上回る。
   
   しかし、何冊かのガイドブックにもシュテファン大聖堂の縦横の長さが何故か記載されていない。インターネットでも調べたが解らなかった。孫引きだらけだからか?
   
   この3つの大聖堂では、豪華な美しさでは大理石を大量に使ったミラノ、デザインが複雑で建設推定工数の多さではケルンに軍配。シュテファンはケルンの小型版に思えるが、一般にはどう評価されているのだろうか?
   
   これらの大聖堂は有史以来の建築物では、高さでクフ王のピラミッドに匹敵若しくは凌駕するものとして4000年後にやっと登場した。実体に乏しい尖塔を建てて高さを稼いではいるが・・・。
   
   ウィーンではシュテファン大聖堂よりも高い建物は許可されなかった。エレベータで60mの高さまで上れる北塔の展望台からは、ウィーンの街が一望できた。
   
   当寺院の地下には広大なカタコンペがあった。大聖堂には無料で入れるのにカタコンペは有料だった。地下へ伸びる階段の入り口前で待つ。見学者が程ほどの人数になると、ガイドが何処からともなく出現。地下のあちこちの部屋には一般市民の骨が薪の様に、無造作に堆(うずたか)く積み上げられていたが、一人一人の名前は解らず、永久保管されているだけの物質扱いだ。
   
   しかし、ハプスブルク家だけは別格。エジプトの国王はミイラに加工される時、心臓は壺で保管されていた。その真似なのか、内蔵が入れてあるという壺が保管されていた。その中身は確認できなかったが、今では干物になっているのだろうか? それとも腐敗分解され、空になっているのだろうか?
   
   一方、ハプスブルク家の棺桶はカプチーナ教会の広大な地下室(こちらも拝観は有料)に安置されていた。埃が殆ど積もっていない! 一人ずつの棺桶なので140個もある。しかし、マリア・テレジアと夫のフランツ1世だけは例外。

   
   何と2人がダブルサイズの絢爛豪華な、しかも二人が向き合った彫像が乗せられた棺桶に治まっていた。愛の強さの象徴とか・・・。どの棺桶の材料も石か真鍮などの金属に思えたが薄暗くて確認できなかった。本当は何なのだろうか? 今でも有名な皇帝の棺桶への献花が絶えない。

F ペーター教会

   ウィーン最古の教会はルプレヒト教会。ペーター教会は792年にカール大帝により建てられ、1702年に再建。ウィーンで2番目に古い教会といわれても、現物は18世紀の再建なので有り難味も薄れ、しかも余りにも小さな教会なので、欧州に目白押しの大聖堂を見慣れた目には、物足りない。

G オペラ座

   1869年に落成したオペラ座は世界に冠たる3大劇場のひとつ。ミラノのスカラ座、パリのオペラ座に何の遜色も感じさせない。イギリスの『ロイヤル・オペラ・ハウス』は世界的には格下扱いだ。私はダフ屋に取り囲まれたがオペラそのものには関心が無くて無視したものの、建物としての石造りの大劇場は見たかった。入場券を買わずともロビーまでは自由に出入りできた。

   客室は6階まであり、収容人員は2,200人。本舞台と奥舞台とを合わせた奥行きは客席よりも深く50mもある。舞台の面積は1,700平米。我が国の小学校の標準的な体育館の床面積よりも広い。オペラ座では年に一度、1階の座席を外して大舞踏会(オーパンバル)が開かれるそうだ。
   
   明治2年当時の日本から見れば、気も遠くなるような壮大な建物だ。しかし、世界に冠たる経済大国になった筈の現在の日本にすら、これほど豪華絢爛極まる大劇場は存在しない。世界各国が日本に対し経済大国とは揶揄しても、文化大国とは間違っても呼ばない理由を解らせるには充分過ぎる証拠物件だ。

   夜は零度を下回るほどの気温なのに、大通りは市民や観光客で押すな押すなの賑わい。楽器を集団で演奏する芸術家や大声で歌う声楽科の卵たち。音楽の都の名に恥じない。聴衆も気持ち良くチップを弾んでいる様子を目撃すると、彼我(ひがと読む。何故か、かがと誤読する人が多い)の文化力の差を、嫌でも認めさせられた。

   我が豊田市でも名鉄豊田市駅から松坂屋豊田店にかけての通り道には、最近はこの種の芸人の若い卵たちが出没するようになったが、ただ喚きたてるだけで、聴く気も誘発されず、立ち止まったこともない。チップを払う人も殆ど見かけない。しかし、日本でも東京など大都市では少しはレベルが高いのだろうか?

H 美術史美術館

   1872〜1881年に建てられた宮殿のように壮大な美術館。ハプスブルク家の実力を見せ付けられるほどの名品には驚くばかり。一説によれば、ルーブル、プラド(スペイン)と並ぶ欧州3大美術館の1つ。ロシア(サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館はルーブルに匹敵する)は欧州に含まれていないようだ。
   
   此処の絶品のひとつにブリューゲルの『バベルの塔』がある。僅か半畳強ほどの大きさ(114*155cm)だったが、その精緻で複雑、しかも壊れかけている巨大な高層建築の立体感溢れる描写力に、建築デザイナーとは別世界に生きていた画家が爆発させる想像力の逞しさを発見!

I 自然史博物館

   オーストリアは芸術の国との先入観を吹き飛ばしたのが、自然史博物館だ。マリア・テレジアの夫、フランツ一世は鉱石収集マニア。鉱物だけではなく、恐竜の大型化石を初め膨大な種類の化石にも驚く。現代の大型動物の剥製も迫力充分。荊妻との待ち合わせ時間を気にしながら、1時間があっという間に過ぎた膨大さだ。

   小学生が先生と一緒に見学に来ていたが、こんなに立派な博物館で実物教育が受けられる子供達は幸せだ。

J 壮大な新旧の王宮

   歴代ハプスブルク王室の宮殿として、16〜18世紀に造営された旧王宮と20世紀に完成した新王宮がある。旧王宮には膨大な銀食器の展示室があったが、毎日こんな食器を使って食事をしていたら、私なら食器の取り扱いだけで疲れてしまうが、皇帝一族には、庶民が瀬戸物製の食器に感じる程度の感覚だったのだろうか?
   
   子供の頃『乞食王子』という本を読んだ。肉体的外観では乞食と王子を区別できなくとも、乞食が王子の真似をすると、心理面から破綻する筈との想定の元に書いた着想の奇抜さに、ヒットした理由があったのではないかと改めて感じる。

   旧王宮の中庭には小さなブルク礼拝堂(王室礼拝堂)があり、日曜日には『ウィーン少年合唱団』が聖歌を歌うそうだ。

   王宮内の庭園にはモーツアルトの彫像が据え付けられ、緑の芝生の中に線の幅が40cm、長さ(高さ)10m位のト音記号(楽譜の左端に付ける$に良く似た記号)を赤い花を植え付けることにより花文字として観賞できるのだが、残念ながら冬なので枯れ果てていた。

K シェーンブルン宮殿

   ハプスブルク家の夏の離宮として建設されたオーストリア最大の宮殿。部屋数1,441
からもその壮大さが解る。『会議は踊る』の台詞を残したウィーン会議(フランス革命とナポレオン戦争後の欧州の秩序をはかった1814〜1815年の国際会議。メッテルニヒが主導)の大広間など、見学対象は無数。

   此処で『イヤホーンガイド』を初体験した。携帯電話のような装置が無料で貸し出された。言語別(日本語もあった!)に予め録音されている説明が、スイッチを押すたびにコース順にイヤホーンで聞けるようになっている。一人ひとりマイペースで聴くことが出来る。各部屋のドアの上には番号が記され、次は何番の部屋へとの案内も音声で出てくるし、もう一度説明を聞きたければ、部屋番号を入力するだけ。
   
   パック旅行者で込み合う観光名所では、ガイドの説明も騒音に遮られて聞き漏らすことも多いが、イヤホーンガイドだと音も漏れず、対象物を目で追いながら静かに見学できるだけではなく、迷子にもならず大変便利だった。

 宮殿の南にある広大な庭には美しいネプチューンの噴水があるが冬なので停止。庭の南にはなだらかな丘があり20分も掛けて登ると、『グロリエッテ』という巨大な門のような建物に辿り付く。そこから北を見れば美しい宮殿の全貌が見られる。

L ベルベデーレ宮殿

   オスマントルコ軍を撃退した英雄オイゲン公の夏の離宮。オイゲン公の死後はハプスブルク家の所有となったが、現在は美術館。上宮と下宮との間には幾何学模様の広大な庭園があり、ムンクやモネを初めとした多くの絵が飾られていた。
   
   此処の広場にも巨大なクリスマスマルクトが賑わっていた。
   
M ハイリゲンシュタット
 
   ウィーンの郊外のハイリゲシュタットは山・丘・小川などに恵まれ、行政上は村なのに、閑静な高級住宅地だった。大きな家が建ち並ぶが、戸外には人が殆ど出ていない。

   ベートーベンが『田園交響曲』の構想を暖め、作曲に至ったとの謂れのある小川沿いの道(ベートーベンガング)も、ハイデルベルクの哲学の道と競い合うかのように史跡として整備され、小川のせせらぎも聞ける格好の散歩道だった。途中、日本から見学に来たとの一人旅の中年女性に出会う。音楽関係者には聖地のひとつらしい。

   ベートーベンは35年の間に80回以上も転居したそうだが、遺書を書いた家も遺跡として保存されていた。邸内には『遺書』、愛用の古びたグランドピアノや作曲資料、デスマスクなどの他に、白髪交じりの一束の頭髪が貴重品のように展示されていた。産毛のように細くなった我が頭髪では、鬘(かつら)の材料にもならず何の価値もないが、ベートーベンともなれば仏舎利のような破格の待遇。



   別の場所では、ベートーベンが『第九交響曲』を作曲した『ベートーベンハウス』が、史跡として整備されていた。その近くにはベートーベンが1817年に住んでいたというだけの理由で綺麗に維持されている建物すらあった。
   
   近くのカーレンベルクにある標高484mの丘にバスで登った。丘の上からはウィーンの街、ドナウ川、その周りの田園地帯が霧の中に遠望できた。晴れた日には遠くチェコやスロバキアまで視界が開けるそうだが・・・。
   
   ハイリゲンシュタットの中心部には、マルクスが建てたという『カールマルクスホーフ』という、超巨大な労働者の家、7階建ての集合住宅があった。平面図ではコの字を2個繋いだ形をしていたが、優に数百戸はありそうだ。現在でも使われている立派な建物だ。こんな立派な家に住めるならば、誰もがマルクスのファンになりそうだ。



N ドナウ川

   ハイリゲンシュタットはドナウ川に面した街だ。物流の大動脈となっているドナウ川には膨大な数の貨物船が行き交う。ケルンで見かけるライン河の貨物船群団といい勝負だ。
   
   ふと、むらむらとおしっこをしてみたくなった。川岸に下りて気持ち良く放尿。ブラウン運動で拡散されたオシッコの一部は、何時の日にかは我が故郷、日本まで到着する筈だ。野生動物は縄張り宣言をするためにオシッコを掛けるそうだが、私の場合は此処に確かに来た、との記憶を鮮明にするための行動を起こしたかった。

   此処には『ヌスドルフの水門』があった。ドナウ川からウィーンの旧市街へ向かう運河の入り口の水門だ。石造りの水門の上に恰も守護神のように立つ、咆哮している豪快な2頭のライオンの彫像が飾られていた。2004年12月8日の日経夕刊、『欧州に生きる産業遺産』シリーズの第4回目に『ウィーンを守る水門』として紹介されていた。今回の旅行で現物を見ていなかったら、見落としていた新聞記事だった。
   
O 中国人レストランでお寿司

   偶々、和食店を見つけた。握り寿司を食べたが、米が不味くてがっかり。しかも、寿司飯なのにご飯の炊き方になっていた。単なるウーロン茶もビール並の価格。内陸部で海鮮料理の延長にあるお寿司を、日本人の職人ではなく、形だけ真似る程度の中国人の店で食べたのが、そもそもの失敗の元!

[3]ベルリン

@ ティアガルテン

   ベルリンの中央にあるティアガルテンは東西3.5Km、南北1Kmもある超大型の公園である。大都市の真ん中にこんな大きな緑地帯が確保されている贅沢さに驚く。
   
   その中心部に、天使の像が乗せられている塔があった。1864年の対デンマーク戦争、1866年の対オーストリア戦争、1870〜1871年の対フランス戦争の勝利を記念して、 1865〜1873年に建てられた戦勝記念塔だ。デリーにある外壁の彫刻美が素晴らしい世界遺産『クトゥブ・ミナール』に形は良く似ているが、豪華さや美観でこちらはイマイチ。
   
   1階にある数ヶ所の展示室で情報を仕入れた後、エレベータも無い螺旋階段を285段、根気良く67mの展望台まで登った。身障者1級の荊妻も無事に登れたのでほっとした。雨は降らずとも運悪く靄(もや)が深く、塔を起点に放射状に伸びる5本の幹線道路は見えたものの、市街の眺望は楽しめなかった。東南アジアの新興都市とは異なり、ベルリンには100m以上の超高層ビルは殆ど無かった。
   
   A 旧ナショナルギャラリー

   モネ・ゴッホ・ルノワール・セザンヌなど、有名画家の作品が目白押し。展示されている絵が多すぎ、一枚ずつ観賞する時間が無くて残念。
   
   それぞれの美術品に関する一般的な見所や観賞方法をイヤホーンガイドで解説してくれれば、私レベルの者には大変ありがたいのに・・・。此処の建物も何故かアテネのパルテノンにそっくりの外観。フランス人やゲルマン人はギリシア文明を特別に尊敬しているのか、パルテノンのデザインが好きなのか、私には見当も付かないが・・・。
   
   B ペルガモン博物館

   ベルリンで一番行きたかった所はペルガモン博物館だった。トルコ西部のベルガマはかつてのペルガモン王国の中心部。此処にあった大神殿は大英博物館の正面を飾る建物として移築され、多くの発掘物はベルリンへと運ばれた。私がベルガマでかつて見た遺跡は、山の斜面に円弧状の階段式客席を70段近くも取り付けた半円形の、収容人員5万人もの壮大な大劇場だった。しかし、貪欲な英独も劇場までは移築できなかった。



   当博物館の外観もアテネのパルテノン神殿にそっくり。現在のパルテノン神殿に壁はないがこの博物館の場合、外周を飾る列柱の内側は勿論壁で覆われていた。ペルガモンで発掘されたゼウス神殿の浮き彫りが建物の内壁に沿って、コの字型に総延長120mもの長さに渡って取り付けられ、正面には祭壇が復元されていた。
   
   この博物館の別棟にはペルシアや小アジア(アナトリアの別称。現在のトルコ)の膨大な発掘物も展示されていた。ベルリン空襲の時には貴重な展示物は砂などで埋めて保管し、被害は殆ど及ばなかったそうだ。
   
   日本語のイヤホーンガイドが大変役立った。30分で主要な所を見て回る早回りコースも設定されていた。展示物につけられた3桁の番号をインプットすれば、個別にその説明を聴くこともできた。何百と言う展示物の説明を全部聴くには1日でも足りなさそうだ。中東関係の展示物の総数は大英博物館を上回るような気がした。
   
   声も出ないほどに驚いたのはアッシリアでの出土品、大型の一対の神獣像(浮き彫り彫刻)を見たときだ。大英博物館ではロゼッタ・ストーンと並んで至宝扱いされているが、もう一対あったのかとの驚きだった。
   
   疑問に感じて説明を読んだら何と複製と解りがっかり。カイロの考古学博物館でロゼッタ・ストーンの複製を見たときのがっかり度と同じだ。本物を彫った彫刻家の腕の冴えは、ミケランジェロに匹敵すると私には思えてならない。

   メソポタミアのイシュタール門の巨大な装飾壁は、神殿の浮き彫りと並ぶ当博物館が誇る2大至宝だ。

  C 東ベルリン

   東ベルリンは旧ベルリンの中枢部だった。ドイツ帝国の威厳を感じさせる巨大で且つ重厚観の溢れる建造物が多いが、ベルリンの壁の崩壊後15年も経つのに、修復は完了せず、くすんで寂れているのが悲しい。銃痕が無数に残されたままの建物もあった。
   
   日本は敗戦後、短期間に安普請で復興したが、彼らは時間と費用が掛かっても、こつこつと修復している。東京都心の貸しビルはバブルの崩壊後、何処の国にも引けを取らないほど豪華な大型建物へとやっと建て替えられ始めたが、彼我の方針差は際立っている。
   
   私には、今尚官民共々『安物買いの銭失い』の行動に走っているように感じられてならない。その結果、主要な先進国に比べて建設土木関係投資額の対GNP比率は今尚2倍にも達しているのに、何時まで経っても国土からゲルマン諸国のような美観や国富を感じ取れないのが虚しい。

   『赤の市庁舎』は1869年に建造され、東西の統一前は東ベルリン市庁舎として、現在は東地区の役所として使われている。赤の市庁舎との通称は共産党には由来せず、マルクト・ブランデンブルク地方の赤い石材を外壁に使ったからだ。それにしても欧州の市庁舎のデザインは何処もよく似ているのに驚く。この市庁舎の中央部にも、大きな時計塔がそそり立っていた。明治時代に建てられた大学本部の建物に付き物の時計台は、欧州の猿真似だったのか、と思えてならない。

   市庁舎の前には巨大な広場があり、中央には停止中のネプチューンの噴水(同名の噴水は欧州各地にある)があったが、その中央にある立派な大型彫刻群はそれだけでも見る価値があった。

   直ぐ横には、森鴎外の『舞姫』に登場する主人公とヒロインが初めて出合う場所として設定された、赤い屋根の小さな『マリエン教会』がある。13世紀に建てられたベルリン最古の教会だった。この教会にも時計塔が付随している。その昔、庶民には腕時計が高価だった名残だろうか?

   広大なアレキサンダー広場には、365mもの高さを誇る鉄筋コンクリート製のテレビ塔がある。エッフェル塔などの鉄塔とは形が大いに異なり、葱坊主のような展望台と回転レストランが細長い円錐で串刺しにされたような形をしている。アスパラガスとの異名もあるが、給水塔を連想させるだけで、無粋さこれ以上のものはない。上海のテレビ塔はこの大型版に過ぎない。
   
  D ベルリンの壁

   20世紀の大愚行の象徴。ベルリンの壁は電車の1駅間ほどの長さに亘って、記念碑として保存されていた。壁に沿って西側に位置する道を歩きながら壁の落書きを読むことも出来る。所々壁に隙間があり反対側の様子を覗くことも出来るが、壁から数十メートルの間は荒地のままだ。東側からの脱出者の発見に便利な空間だったのだろうか?
   
   数年前から壁に新しい壁画が描かれ始めた。ドイツ国民の悲劇が伝わってくる。壁の両側の復興振りに東西ドイツの経済力の格差が端的に散見される。東側の建物は歴史的な重要物件を除けば、撤去の真っ最中だ。

   
  E ベルリンの点描

   石造りの壮大な国立図書館の壁面には蔦がびっしりと絡まり、歴史の重みを感じさせる。我が家の壁にも蔦を這わせたいが、日本では薮蚊の巣になりそうなので諦めている。

   ベルリンにもオペラ座があったが、簡素で且つ小さな建物だったのでがっかり。
   
   戦争犠牲者の慰霊所『ノイエヴァツ』の中央には『死せる息子を抱く母』の彫刻が安置され、日本では1万円もしそうな大きな生花が幾つも並べられていた。今尚毎日のように献花が続いている様子は花の鮮度からも推定される。この彫刻は、サンピエトロ寺院にあるミケランジェロの『嘆きのビエタ』にそっくりだ。

   アインシュタインやグリム兄弟も学んだというフンボルト大学の中庭では、大型の古本市を開いていた。大勢の学生が通り過ぎていくだけで、古本を手に吟味する者は殆ど見かけない。物資不足の非常時ならばいさ知らず、骨董価値のない単なる参考書では売れなくなっているようだ。

   18世紀に建てられた聖ヘドヴィッヒ聖堂はローマのパンテオンそっくりの形をした建物。但し直径は半分くらい。本物は天井に直径9mの穴が開けられていて雨も降り込む設計だが、こちらの天井は金属の格子で支えられた透明板(ガラス?)で覆われていた。

   ドイツ聖堂とフランス聖堂(修復中だった)に挟まれたジャングルメ広場のクリスマスマルクトは超有名らしい。円錐状の白いテントで覆われた屋根で統一された店舗も美しい。しかし、何と露店街全体が塀で囲まれ、入るだけでも有料だった。
   
   デパートでも超一流ブランド店でも世界中何処でも買い物客の入店は無料なのに、テーマパーク気取りが連想されて些か不愉快。まだ開場まで20分もあり、寒風の中で待つのも馬鹿らしく感じて通り過ぎた。
   
   ブランデンブルク門は東西の境界線から50m東側に位置していた。第二次大戦で破壊されたが1958年に再建され、東西の統一後改めて修復された。この門の前には広大な広場があり、ここもクリスマスマルクトで賑わっていた。

   
   日本の神社には簡素な鳥居、寺院には少しマシな門(例えば東大寺の南大門)があるが、都市には欧州や中東各地にある壮大な門、例えば凱旋門がないのは何故か? それとは逆に、欧州や中東の平均的な民家には門らしい構造物を見かけないが、日本では大抵の家に門がある。私は車の出入りの邪魔にすらなるので、門は設置しないまま。
   
   ベルリンの中心地、ポツダム広場には超近代的なデザインの中高層建築が少しずつ建ち始めた。その一角にソニーは東ドイツの崩壊後、いち早く巨大なソニーセンターを建設。しかし、ベルリンの復興は遅々として進まず、周辺に少しばかり新しい建物が出来たものの、街全体としてはまだ閑散としている。ベルリンの復興にも貢献したいとのソニーの意気込みは多としても、これでは宣伝効果も小さく、失敗のそしりを免れそうにもない。
   
   広島の原爆ドームを連想するような、カイザーウィルヘルム教会(ドイツを統一したウィルヘルム一世を記念して建てられた教会)が戦災の象徴として残されていた。ぼろぼろに破壊された一部を残し、建物を復元し博物館のように公開していた。
   
   F カー・デー・ヴェー

   先進国では百貨店が衰退しつつある中で、異色の存在と感じたのは、1907年に創業したカー・デー・ヴェー(KDW)だった。長女夫妻が欧州一面白いデパートだと紹介しただけの事はあった。100*100m位、地下無し6階建ての壮大な建物だ。規模は日本の大型デパート並だ。外観は日本橋の三越本店に酷似。6階まで設置された複々線のエスカレータが2ヶ所。その他の場所にも単線のエスカレータやエレベータも配置されていた。

   日本でもJR名古屋高島屋には複々線のエスカレータがあるが、1ヶ所に過ぎずしかも2階まで。横浜そごうには複複々線(上下各3列)があるが、1ヶ所でしかも途中階まで(開店直後、売り場面積は日本一の大きさとのニュースに引き釣られて見物に出かけた!)。エスカレータは来客には待たずに乗れる便利さがあるが、広大なスペースを犠牲にせざるを得ないためか、普通は必要最小限だ。

   特に興味深かったのは家庭用品売り場と最上階の食料品売り場だった。台所用品の種類の多さ、同一種類でも取り扱い銘柄の多さには驚愕するほどだ。コーヒーメーカは本場であるためか、大から小、高級品から普及品まで無数に近い陳列。

   スイスの会社が約50年前から売り出しているフードプロセッサの一種、スティックタイプのバーミックスは余ほど人気があるのか、類似品の多さ、類似品の格安さにもびっくり。バーミックスは娘達に結婚のお祝いとして豊田そごうで買ったが、やっと日本でも類似品が出回り始めた。私はバーミックスで自家用の味噌作りを数年間続けたが、飽きてしまって、今や無用の長物。

   日本に家庭用の餅つき機があるように、欧州にもその食習慣に合わせた様々な調理器や小道具がある。鍋・包丁・魔法瓶・トースター・電子レンジなどなど、一つひとつその特徴なども確認したかったが、時間がなくて無念。

   取り分け面白かったのは食料品売り場だった。日本ではデパ地下として今や人気絶頂だが、生鮮3品や中食(なかしょくと読む。調理済みの持ち帰り惣菜)と各地の銘菓中心で商品の種類は意外に少ない。カー・デー・ヴェーは世界の一流食料品を、驚くほど多種類集めている。ドイツ人がこれほどまでにグルメ志向民族とは予想もしていなかった。

   何処の国だったか忘れたが、駐在員からバナナの木(バナナは草だが、バナナの草と書くと違和感があるので木と書いた)の中心部にある成長点(若芽)は食用になると聞いた事があった。しかし、何処を探しても売っている店を発見できなかった。ところが、何とカーヴェーデーでは売っていたのだ! 筍のような形をしていた。店員に調理法を聞くと、周辺の硬い葉は取り除いて中心部の柔らかい葉をココナッツミルクと一緒に煮て食べるのだと言う。

   隣の缶詰売り場でココナッツミルクを買い、帰宅後食べてみた。筍の柔らかい葉の部分と同じ感触がした。さくさくとした食感を楽しむ食材のようだ。それ自体には特別の味は無くて、些かがっかり。

   此処の売り場面積の3割は食堂街を兼ねていた。多くのテナントは店頭で売っている食材を使った簡易レストランを併設していた。肉屋にはステーキ屋、酒屋には立ち飲みスタンド(福岡県では角打ちと言う)、魚屋には寿司屋、牡蠣屋にはオイスターバー・・・。

   見つけたばかりのオイスターバーのスタンドに着席。『ドイツ産にするか? フランス産にするか?』との質問。『此処はドイツだ。ドイツ産が食べたい!』。6個で一皿の所を7個にしてくれた。牡蠣の殻を開ける道具は支点が作業台に固定されており、50cmもの長さがあった。その先端は牡蠣の殻に食い込みやすい形になっていた。いとも簡単に殻剥きができる。

   豊田や名古屋市内の各ホテルの立食パーティでは、殻付き牡蠣の場合は何れもトマトケチャップを掛けていたが、こちらはレモンだけ。客が余りにも多く10分以上も待たされた。付け合せのパンは無料。ここでも地ビールをごくごくごっくん。
   
   あちこちの飲食店は何処も大賑わい。夏には広場に出かけていたと思われる老人達が一斉に大移動してきたかのようだ。
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おわりに

[1]クリスマスマルクト
   
   欧州の北国の冬は憂鬱極まりない。日中でもほの暗く、湿度も高く、気温は低く、青空に恵まれた紺碧のエーゲ海地方とは対照的だ。クリスマスマルクトはこの憂鬱さを吹き飛ばすために考え出されたゲルマン民族の生活の智恵ではないのか? 欧州の同じキリスト教国でも太陽を燦燦と浴びられる地中海に面した各国では、ゲルマン諸国のような華やかで美しいクリスマスマルクトを見かけないからだ。
   
   日本でも各地の夏や秋祭り、初詣などには一斉に露店市が立つが、その期間は長くとも高々数日間だ。そのため店舗も組み立て式のバラックかテント小屋の域を出ない。みすぼらしさは発展途上国の市場並だ。

   一方、クリスマスマルクトの期間は何と1ヶ月。大聖堂や市庁舎前等の各地の広場はクリスマスマルクトに解放され、照明が不夜城のように輝く。店舗のデザインは広場ごとに統一され、組み立て式とは言え、長年に亘って使える頑丈な木製。閉店時に締める扉には頑丈な錠前。何処のクリスマスマルクトも、日本では各デパートの人気催事の定番になっている地方物産展よりも、商品の種類が多く興味が尽きない。   

   マルクトの主役は子供ではなく大人。防寒具で完全武装した来客は、ノンビリと気長に飲み且つ食べ、お土産を買いながら仲間と談笑し、人生の一こまを楽しんでいる。暗ければ暗いほど照明が美しく感じられて来る。観光客としての私はゲルマン人の真似をして人生の一瞬を楽しむよりも、彼等の挙動や楽しみ方の観察に明け暮れて忙しかった。

   しかし、最後まで解けない疑問が1つ残った。露店商達は個人商店主のように思えた。一軒の店には2〜3人も働いている。個人商店ならばマルクトの期間中、自分の店は閉めたままなのだろうか?

[2]ああ、引越し荷物が重かった!

   娘一家の場合、丸5年間もドイツで暮らし子供も増えると、気がついたときには膨大な家財を買い込んでいたようだ。物置として使える地下室が仇(あだ)となったのか? 婿の勤務先であるトヨタ自動車が運賃を支払うとは言うものの、許容されたコンテナ容積は小さすぎた。ドイツで買った家具や厨房セットなど大きなサイズのものは現地で破棄。
   
   その他いろいろと処分した後に残った荷物でも、珍味中心の食料や銘菓など船便に適さないものは、結局人力で運ぶことになる。おかげで私は荷物運搬係に転落。帰国日を1週間遅らせた荊妻も、旧名古屋空港でJALのファミリーサービスの女性に、豊田市行きの空港バスまで一部は運んでもらったものの、荷物の運搬でへとへと。

   平成17年1月29日に本人達は280kgの手荷物と共に元気に帰国。幼い孫達2人もビジネスクラスなので、これが無料手荷物の上限(携帯荷物の重さに関するルールは、多少の超過は通常許容される)か? 当日は親戚から軽トラックを借りてきた婿の父と一緒に、名古屋空港まで荷物の引き取り応援に駆けつけた。
   
[3]観光立国は何時の日に離陸?
   
   広義の意味では今や観光産業は雇用力では農業に次ぐ大産業に成長した。一説によれば、世界では取扱高4兆ドル、関係者は2億5千万人にも達するそうだ。航空輸送を初めとした運輸業、旅館・ホテル等の宿泊業、レストランなどの外食産業、お土産類の製造とその販売業、博物館・美術館・劇場・寺院・モスク・教会・テーマパーク等の関係者までも含めれば、その裾野は広く雇用人口は増える一方だ。

   製造業は人類の生活を豊かにしてきたとはいえ、古くは繊維産業、新しくは自動車やハイテク産業も、その製品が普及するに連れて需要が飽和する、という宿命から逃れることはできない。
   
   観光産業にも飽和現象はあるがその天井は限りなく高く、しかも所得の上昇と共に天井もどんどんと高くなる。旅は人が生まれながらにして持つ好奇心や本能を刺激しながら、人を更に成長させるだけではなく、ストレスを解消させた上に無上の喜びをも与えてくれるからだ!

   米国に次ぐ世界第2位の輸出大国でありながらドイツは今、観光産業の育成に驀進中だ。都市を初めとした国土全体の美化や交通インフラの整備に努力し、歴史遺産はどんなにささやかなものであろうとも、観光資源として大事に大事にしながら美しく維持。隣接するオーストリアではベートーベンの髪の毛までも、貴重な観光資源として活用。

   観光開発が国土の隅々に至るまで行き届けば、ひとり観光に来た外国人に対してだけではなく、同国人の子供にも大人にも住みたくなる素晴らしい国になる。同国人にすら嫌われ始め、世界遺産登録への候補としても拒否された観光資源、例えば登って初めて見せ付けられるゴミだらけの富士山は、外国人にどんな印象を与えていたのだろうか?

   (ご参考。http://www.geocities.jp/mt_with_dog2003/fujisan.htm)

   真の観光開発とは、ハードの開発を事業の中核にせざるを得ない関係業者への、丸投げで済む世界ではなさそうだ。リフォームされた民家が連なる美しい町並み、花々が咲き乱れる手入れの行き届いた民家の庭、有名寺院の庭園にも負けないような美しい公園、安全で利用しやすい交通システムなどの実現に向けた官民上げての不断の努力こそ、世界遺産のお墨付きを貰うことに汲々とするよりも、もっと強く求められるべき課題だ。
   
   それらハードの整備に加えて、外国人観光客を心からもてなせるホスピタリティと日本文化の発信力いわゆるソフト力を、国民の一人ひとりが名実共に身に付けたときに、『日本まで大金を叩いて遥遥やって来たが、心底から満足した』と、外国人も高く評価するような観光大国になれる、と確信している。
   
   外国人に真に魅力ある観光大国に生まれ変わることと、嫌でもそこで生きていかなければならない自国民にも魅力ある国に改造することとは、結局は同じことだ。翻って我が祖国の、有名観光地のハードの整備状況やその接点に位置する国民のソフト力のみに限定しても、今回駆け足で訪ね歩いた独仏墺に比べて、気が遠くなるほどの課題が脳裏に渦巻き、愕然としてきた。

   今をときめく我が国の自動車産業にも、何れ衰退期が来る筈と覚悟せざるをえないが、その時点までには、少子化が進んで来たとは言え1億人を超える日本の屋台骨を支えるに足る、次なる大産業としての観光産業が、立派に育つことを祈念しながら、拙い筆を措く。
                               上に戻る
読後感

その1。

   欧州旅行記これからゆっくり読ませていただきます。
   気力を一層充実され厄病神を追い払ってください。

その2。

ご家族と冬の独仏墺の旅を存分に愉しまれた様子が覗え、機会があれば私もクリスマスマルクトの時期に、是非行きたいとの思いに駆られてしまいました。実は昨年末、旅を趣味にしている知人からクリスマスマルクト市場の、暖かな白熱灯の賑わいを見せる出店の写真がメールで届きました。その写真には満面に笑みをたたえる人々で混雑している様子が写し出されていましたが、実際にその場に居合わすとその美しさに思わず感嘆の声を挙げてしまうことでしょう。

今回の紀行文では都市のあり方について考えさせられることが多々ありました。小生も欧州を訪れるたびに、彼我の都市景観の格差があまりにも大きく情けない思いに陥ります。わが国の都市部では経済優先の無粋な建築物の代表格、スーパーや家電量販店で溢れ、無秩序に拡大された住宅地は美しさの欠片(かけら)もありません。

わが町(下関市)も最近、駅前はけばけばしいネオン照明の大型パチンコ店や、外見だけヨーロッパの教会を模したと思われる張りぼての安っぽい結婚式場などに席巻され、他の都市と何ら変わらない醜い玄関口に変貌しつつあります。

本来わが国では、農耕民族に相応しい自然と共生を図りながら家並みや景観が大切にされてきたはずですが、戦後日本は大量消費こそ経済発展の源泉であると盲信し、国土と民心を荒廃させてしまったのではないでしょうか。すでに若者には「勿体無い」は死語と化しつつあるようです。

物を大切にする心を呼び戻すには身の回りから始めるのが最も効果的です。貴兄もご指摘のように家族構成や生活様式の変化に合わせて住宅をリフォームすることが定着すれば、住居に対する愛着も醸成され歴史を重ねる個性溢れる町作りが可能となるでしょう。嘗てテレビで英国の田舎の民家では窓枠や梁が歪んだままの状態で、手を入れながら大切に維持し、その古さを誇りとしている風土が残っていると紹介されていました。

これらのことは基礎構造の長期耐久性が確保されていることがその前提となりますが、すでに安藤忠雄らは100年住宅を提唱しています。耐用年数10年20年の安普請では、魅力ある町作りはできないのですから。

   @ 教養部級友・工


   いつもメールを頂き有難うございます。他の方のようにすぐに読後感なり、レスポンスしなければと思いつつも、頂く資料の長さについつい横に置いている間に、タイミングを失しております。深くお詫びいたします。
   
   前回のメールで「加茂病院のX線検査で肺がんの疑いが出た」というお便りを頂いたまま、音沙汰がなかったものですから、大丈夫かなと気にしていました。まだ検査中にしろ、海外旅行へ行かれるほどの元気ということに安心しました。旅行を楽しんできてください。

   春は今しばらく、というところですから、くれぐれもお大事に。
   
   A トヨタ後輩・工


その1。

   研究費決算、成績報告、来年度講義シラバス(注。シラバスとは教育計画書。32年前に長女が入園した時、既に私立幼稚園でも教諭はシラバスを作らされていた。私の子供時代には全く見かけなかった)など終えて、午後から石松博士(賢人各位へのお願い。勘違いなさらないで。博士とはからかいです!)欧州旅行記を一気に通読。
   
   博覧強記に現場現物主義で非常に充実していますが、闘病記ほどではないが例によって疲れる。情報量が多いのでしょう。地図が添付されていると助かる。ケルン周辺など。
   
   感想文は週末精読してから。私と仲の悪い学長・副学長との交渉は明日に延期。今夜は院生の卒業コンパ。
   
その2。

読後感(第一部、24ページまで)

   気力・体力が衰えて自然に消滅して行くのが天寿でしょう。老人は一般に活動意欲も衰えます。しかしがんはやはり天寿ではないです。元気な人を狙います。あなたの活動意欲には敬服します。まだ老人ではないです。

   クリスマスマルクトなる行事は知りませんでした。そういえばウィーンの目抜き通り(ケルントナー通り)でも、その時期に露店が出ていたような記憶がありますが、覗いたことも無かったし、そういう行事だとは知らなかった。体調も悪くまた精神的ゆとりも無かった。
   
   平成14年12月にはドイツ旅行は中止して九州だけ行ったのでしたね。リンドバークに寄って。女性の失神とは快感の表現と思っていたが、本当の失神とは大変。
   
   『がん旅行記』からのコピーです。
   
1/14から月〜金まで連日、食道がんのための放射線治療を受け続けていたところ、嘔吐感・食欲不振・疲れなどの副作用が徐々に強まり、とうとう

2/6,15:00〜24:00
2/8, 6:00〜24:00
2/9,18:00〜 6:00(2/10)

にかけて、連続して嘔吐。嘔吐は20〜30分間隔で発生し、吐くものは消化液と唾液だけになりました。食事も水分補給も出来ず、胸と腹が痛み、息を吸っても吐いても苦しくなり、その間は一睡も出来ない状態が続きました。その結果、毎日1kgの体重減少が続きました。

2/10、朝6時に急に嘔吐が止まったので、入浴。洗い場から湯船に戻ろうとしたその瞬間、脳貧血が起きたのか失神。両眼を結ぶ線の顔面を鋳物ホーローの浴槽の縁に強打。鼻の上部とその真上の額下部から出血。その後頭頸部をお湯の中に突っ込みました。

異常音を聞きつけた荊妻が駆けつけ、背部から抱き上げた瞬間に覚醒。起き上がって周辺を見回すと、あちこちに血が飛び散っていました。鏡を見ると強打部からは血がダラダラ。

これは危ないと直感し、愛知県がんセンターに緊急入院の手配をし、出発間際に、メールで賢人各位に入院との連絡を発信しました。それは、刻々と入るかもしれないメールへの返信が当分出来なくなるとの予告を意味するものでした。しかし、現在の18グループ約250名への発信は、最初の数グループまでで終わりました。力尽きたのでした。

荊妻の運転でがんセンターに着き、車から降りて歩こうとしたら、膝がふらふらとして立てず、暫く座り込み、やっとの思いで歩き始め、受付に到着。荷物は一つも運べず、体力の下限値を実感しました。
   
   鶴丸高校卒とは才女、福岡出身ではなかったのですか?
   
   旧姓は中馬(鹿児島には多いらしい)。鹿児島市出身。故岳父が鹿児島大学から九大に新設された講座の責任者に転任した時、本人も鹿児島大学教育学部音楽科から福岡教育大学音楽科へと転校した。荊妻とは、故岳父の友人で航空工学の恩師(鹿児島市出身。旧制第7高等学校校長の息子。勲二等)の紹介でお見合い。

   医師が親切になるのはいい事。国際的に医師とタクシー運転手は日本が特別に態度悪い。1989年当時名古屋大学病院第一内科の林講師は特別に態度悪かった。私が「代謝障害ではないか」といったら、ふざけるなと私を怒鳴りつけた。
   
   中国の病院に行けば代謝障害であることは簡単に診断が付く。病院に行かなくても、上海の「足つぼマッサージ全国チェーン」でも診断が付く。医者の態度がよくなっても、日本の医学水準があがったわけではない。今でも私の病気は日本の大学病院では診断できない。

   ドイツのクリスマスの、お伽の世界には感心。戦争の物的被害はドイツの方が日本より大きかったが、人心の荒廃は日本の方が上なのかもしれない。過労死、いじめ、違法ビジネスなど。

   JALのファミリーサービスは経験なし。クリスタルカード(優遇カードの一番下)を持っているので優先搭乗はさせてもらっている。成田の入国審査では今回初めて、老人ということで優先レーンに。ビジネスクラスの貝殻は昨年ニューヨーク往復で体験。

   シベリア上空は何度も通過した。高緯度では地球の自転よりもジェット機の方が速いことは前から知っていたが、日の出には関心なかった。日本→欧州路線は大圏コースなのでかなり高緯度地方を通る。

   現地の地図を添付してもらいたい。知らない地名が出てくる旅行記は、読んでいてストレス。フレッヘンはケルン西南西10キロのフレヘンのことらしい。隣の中型都市は見付けられず。ジーグブルグも見付けられず(マイクロソフトのエンカルタ地図)。

   肉ハムチーズバターは本当に外国は安い。こういう安い農産物を何十年も締め出しているのは大きな損失。日本のハムはまずい。薄くて何枚も重ねないと食べた気がしない。ビールの高価格は一つには従量制の酒税の伝統だが、それで説明が付かない部分は、大企業独占の日本のビール事情にある。財務省が保護してきた。ビール各社には天下り官僚が入っている。

   日本の道路工事の、生産性の低さには同感。公共事業費のGDP比率は高いが、インフラ整備はそんなに進んではいない。ラインの橋は図示するか写真を添付してほしい。説明がよく分からない。

   牡蠣の内外価格差はよく判らない? 1個200円の牡蠣は食べたこと無い。もっと安い剥き身の牡蠣を食べている。ベルギーのムール貝は2〜3回体験。懐かしい。

   リューデスハイムも地図で発見できず。大学の研究室にはドイツ製のドイツ道路地図があるので後日調べる。松坂屋で生ハム1キロはいくらになりますか?
   
   私が日頃量り売りで買っている生ハムは1Kgが3000円前後。このテナントは生ハムの両端部分の形状が揃わない部分を値下げして販売。形が揃った部分はパックに入れて正規の高い価格で販売。

   最近はユーロの価値が高いが流通貨幣としてはドルの方が上。2002年にモルドバでもユーロの両替手数料はドルの4倍。1994年当時欧州中小国の通貨は国外で両替可能であったが手数料は非常に高かった。

   アジアショップの美観の無さは米国でも、パナマでも同様。韓国人か中国人が経営しているが彼らの民族性? 平凡社百科は最新版のDVDで購入されることをお勧め。小学館百科の方がさらに充実。

   ノボホテルグループのホテルチェーンには上下各種あるらしい。私はパリで下の方に泊まったので環境が悪く、ホテル近くの地下鉄で暴力スリに遭った。桑原、桑原。

   (23ページ)モンサンミッシェルとサンマロの位置関係は逆。サンマロが最西。モンサンミシェルには行ったことが無いが今回エンカルタの3Dパノラマ写真で勉強。1970年にブルターニュ半島先端のブレスト軍港で大西洋岸の潮汐差を体験。昨年パナマで港湾技術者に潮汐差の発生理由を聞いたが良く判らなかった。ヨットの維持費が日本は特別高い?

   地球の自転と月の公転により、個々の地点に及ばされる万有引力が変動するにつれて海水が移動する結果、海岸の海水面が上下して潮汐が発生すると、どの本でも解説していますが、私は納得していません。これらの理論は、地球は引力では全く変形しない剛体で、海水だけが移動するとの前提で組み立てられています。

   月と太陽とが太平洋の真上に同時に位置した時、真ん中の海水が持ち上げられるためには大量の海水が短時間に移動する必要がありますが、そのような流れは観測されていません。また、海水が海岸に押し寄せてくるから満潮になるというのであれば、リアス式海岸など入り江になっている場所のように、津波の被害の大きな所ほど潮汐差が大きくなる筈なのに、それらと大潮汐差発生地点とは一致していません。

   私は、地球は剛体どころか大局的に見れば、ぶよぶよの物質を地殻などが覆っているだけの変形しやすい柔らかな天体と考えています。それ故に潮汐は、地球が太陽や月の引力により変形し、伸び縮みする結果、海水の大移動なしに発生していると考えています。

   海面の高さは一定を保ったまま、満潮は3天体の位置関係で引力が減少して地面が沈下したときに、引潮は地面が盛り上がったときに発生していると推定しています。但し、地球の変形や海水の局所的な移動にはタイムラグが発生するため、引力の最大最小時刻よりも干満最大時刻は遅れる。

   世界の限られた場所での大潮汐の発生は、その地点と地球の中心とを結ぶ線上の物質が他の地域よりも、引力で伸び縮みする割合が高いからだと推定しています。私の身長だって毎日、月と太陽との引力によって伸び縮みしていますが、計測できないだけです。

   GPSがもっと高精度になり、半径方向の地球の伸び縮みがリアルタイムに10cm以内の誤差で計測できるようになれば、我が仮説の検証も簡単に出来ると思っています。その時には賢人各位から『理学博士』呼ばわりをされて、からかわれても妥当かと・・・。

   賢人各位のご意見をお伺いいたしたく・・・。

その3。

感想(第二部、フランスまで)

   スーパーにおけるチラシの意義についてはまったく知らなかった。新聞には膨大なチラシが入っているが、これは必要性や効果があって存続しているのであろう。ここ数年は新聞を取っていないのでチラシとも無縁の生活。車を持たないので郊外型大型店舗については無知。主婦にとっては買い物がレジャーとすれば、そういう対応は必要でしょう。カルフール苦戦の理由についても不詳。中国では日本のコンビニが目立った。

   豊田市では中日新聞、青森では東奥日報、金沢では北国新聞が地元民にとってはMUST。全国紙なる概念は転勤族だけのもの。

   以前松坂屋豊田店がまだそごうといった頃、豊田市初の百貨店はそごう側の予想以上の苦戦。特に食料品売り場はデパートレベルの生鮮食品について、トヨタ生協やスーパーレベルの商品との差を評価してもらえないとそごう幹部はいっていた。生ハム1キロをデパートで買うお客様は松坂屋の特別優良顧客でしょう。

   日経、朝日は売れず、そごうも苦戦した豊田市から経団連会長が出るとはこれ如何に。何もなければいいというものでもないはず。全国紙も読まず、デパートを利用しない地域・住民が全部成功する訳ではないし、まして国際的企業になる訳でもない。

   三菱重工長崎、日立製作所日立工場など、今は共に不振であるが、昔は地方にあることがプラスだといわれていたこともあった。日立工場などは若い技術者は工場の近所に住んで、土日も出勤実験でいわば大学生活の延長のようなところもあったようだ。東京銀座の日産事務所などは、銀座の一等地が逆にマイナスに作用したようだ。

   貴台だって実習生の頃、作業実習用として無償支給された無粋な安全靴を誇らしげに履いて、千葉県茂原市の実家まで電車を乗り継ぎながら嬉しそうに帰っていましたね。当時のトヨタの従業員は会社から支給された作業服のような制服を着て、豊田市内を闊歩していましたね。

   ロワール地方については、駿河銀行のオーナーが同地の紀行記を書いた本を1965年に読んだ。しかし未だ行く機会は無い。一度はいってみたい。シャンポール城はエンカルタにパノラマ3Dが載っている。今回初めて見た。ロワール地方の地図も添付してもらいたい。

   パリには何回か行った(20回?)が訪問場所はあまり増えない。ポンピドーセンターも未訪問。エッフェル塔や各種建造物はすばらしい。しかし公衆電話や自動販売機は良く壊れている。ロダンとミケランジェロの違いも私には識別できず、あなたの鑑別力に敬服。トヨタのフランス工場についても地図で位置を示してほしい。

その4。

読後感(第三部、最終回)

   欧州の格安航空券については無知。1996年にベルリン→ウィーン往復を東京で購入しようとしたら8万円だったので断念したことがある。その後欧州でも規制緩和が進展したとすれば結構なことである。

   たしかに平野の多い欧州では森は減ってしまった。ポーランド以東にはまだ残っている。ウィーンの地下鉄は最高。パリやロンドンの地下鉄よりも清潔。安全への投資格差は人間尊重の格差。

   シュテファン寺院の近くに住んでいた(2年半滞在)ので、シュテファン広場のドムカフェではよく本を読んだりしていた。しかし塔にも地下室にも行かなかった。ロイヤルホテルについては、はっきり記憶に無い。

   オペラに関心が無いとは残念。次回はぜひ見るべき。私もウィーンに行かなければ、演歌と軍歌で終わったかもしれないが、ウィーンで有名オペラを各種見て勉強になった。三大オペラ劇場というが、一番劇場が市民に溶け込んでいるのはウィーン。名士の会話は前夜のオペラの話題から始まるとか。年間公演日数も抜群。建物もさることながら、劇団や楽団の維持費が莫大。政府が相当補助。日本ではハコモノを作っても劇団の人件費は出ない。

   日本のオペラ振興は結局ゼネコン救済策。過日東京大学を訪問したら、ビルの乱立にびっくり。道路では土地の買収が進まないので、土地買収の必要が無い国立大学敷地での公共事業を増加した結果だそう。これでは建物建設→教育振興にはならない。ゼネコン残って文化なし。以前、笹川財団の幹部がオーストリア大統領へのパイプを探したら、音楽家群にぶつかる。日本ならさしずめ経団連幹部やかつての堤義明氏(最近のマスコミ報道によれば品性の無い人ですね)などでしょう。

   自然史博物館のコレクションはすごかった。蝶が記憶に残っている。ドナウの水門の話は知らなかった。ドナウ川が東に進み黒海に流れていることがウィーンの文化を特徴付けた。ウィーンでの和食は高級、低価格店共にいくつかあった。中国人レストランは特別不運。

   ベルリンは1970年に初めて訪問。ハンブルグから飛行機でテンペルホフ空港に着く。昔のベルリン空輸のルート。西側観光バスで東ベルリンに入る。有名だった検問所C(ポイントチャリー)で東側運転手に交代。東側は死んだような町だった。東側ホテルで入手した国際線フライト時刻表で便数の少ないのに驚いた。東欧衛星国を結ぶフライトが若干あるだけ。今でも同様。要するに人の移動なし。

   2度目のベルリンは1996年。これは通過だけ。ハノーバー近くの大学に行くのに成田からフランクフルト行きの飛行機は満員。東ベルリン行きのアエロフロートだけがあったので、東ベルリンの空港に到着。地下鉄で動物園駅に移動。そこから鉄道でハノーバーへ。東ベルリンは淋しい町だった。たぶん今でもそうでしょう。ペルガモン博物館にもいつかは行ってみたい。

   100年前ベルリンは欧州一の都会だった。ちょうど鉄道建設期だったのでベルリンから放射状に鉄道が発達した。しかしそれは昔の話。東独はだめだが私は西独も信じない。特にイラク問題でドイツ嫌いになった。
   
   氏は国連職員時代に開発部長としてイラクに滞在。湾岸戦争の時には学識経験者としてテレビにも出演した。それだけにイラクへの思い入れが深いと推定。ドイツが今回のイラク戦争で、最後になって米国側についたのが、ドイツへの不信感を増幅させた?
   
   バーミックスとは何の話か想像も付かない。調べていると読後感が遅れるので後回し。
   
   
   バーミックスのホームページのアドレスをコピーしました。
   
   http://www.cherryterrace.co.jp/bamix_top.html
   
   
臨時寄稿です
旅行記とはこんな風に書くものだとの模範例です!



平成17年3月30日

中欧旅行記
西ヶ谷 邦正

   JCBゴールドカードが中欧4カ国(チェコ、スロバキア、ハンガリー、オーストリア)8日間コースを15万円均一で会員対象に昨年秋から募集した。食事、添乗員付きでは安いし、ホテルも悪くないし、欧州に1度しか行っていない家内(英仏のみ)にはいいコースと思って夫婦で参加することにした。
   
   ところが、私が参加できる2〜3月の私の予定が流動的で、中々申し込まないうちに15万円コースは満員となり、結局3月12日発の17.5万円の追加コースに参加することになった。
   
   私にとってはチェコだけが未訪問地。ウィーンの国連の日本人同僚がプラハに観光に行ってよかったといっていたが、スロバキアには1度、ハンガリーには2度行ったことがあり、両国にはお金を出して行く程の魅力は感じない。ウィーンだけは2年半過ごした土地の10年ぶりの再訪で楽しみだった。

3月12日(土曜)

   朝成田空港に集合。このコースは人気があって参加者38人(男性8人、女性30人)。定年後の夫婦5組、家族連れ、母娘(娘はハイミス)2組、ミセス仲間、残りはハイミス(初老を含む)集団。添乗員も40代後半(?)の女性(多分独身、小学校教諭タイプ)。

   飛行機は懐かしいオーストリア航空(OS)。当時はウィーンまではモスクワ経由で週3便。現在は成田からノンストップ週5便、関空から週6便で計11便とは増えたものだ。もっとも当時オーストリア航空はウィーン・成田が往復14万円しており、通常はロンドン乗換えの英国航空10-11万円を利用していた(時間は余計かかるが)。英国航空もロンドン・成田間は14万円だった。
   
   ロンドン・ウィーン間が追加になった分だけ安くなった。市場原理ではそういう運賃設定になるが、日本のJR方式だと原価主義で、距離が長くなると高くなる。機内サービスはOK。食事もエコノミーとしては過去最高。

   大圏コースでシベリア上空を飛び、ウィーン空港着。シベリア上空で何時も感じることだが画面に出る飛行地図で前半の進み具合が遅い。飛行地図は等距離図法ではないし、成田とウィーンの緯度の差が原因か?
   
   ウィーン空港の懐かしい遠距離用のAターミナルに到着。少し建物が古くなった。初めてウィーンに着任したときはブラチスラバ方向から進入したが、今回は真北方向から進入。今は通常はここでEUへの入国手続きで、あとは国内線扱いだが、入国手続きはなし。
   
   定員72人の小型機でプラハへ。地上を飛行機から見るとほとんどが耕地。森が少ない。石松氏の動物に森を返せに同感。プラハで入国手続き。そのままホテルへ20時ごろ着。日本では深夜なのでそのまま就寝。元気な人たちは早くも夜間行動。

3月13日(日曜)

   バスで市内観光。午前中はプラハ城址、坂を下り有名なカレル橋を渡って旧市街の天文時計を見学。午後は自由行動、生憎雨になり傘無く、傘は売っていたが眠いので都心のホテルのレストランで休養。ガラス細工の店を2軒見る。ユダヤ人街とか、博物館とかは割愛。夜は集団でバッドワイザー発祥の地とかいうビヤホール。
   
   旧共産圏の中ではチェコはトップというものの、すっかり西欧よりは遅れてしまっている。ドイツの隣国とは信じられない。三十年戦争がチェコと関係あるとは知らず。帰国してから勉強。フスがチェコ人とも知らず。

3月14日(月曜)

   プラハ中央駅から始発の特急ブタペスト行きに乗る。一等車の6人個室。定年夫婦と相部屋で実員4人。平野、次いで丘陵地帯、山岳地を走る。途中の主要都会はブルノのみ。EU内ではあるが国境ではパスポートコントロールあり。4時間でブラチスラバ着。
   
   スロバキアは93年1月に独立。チェコスロバキアのうち後進地域だけが時の勢いで分離したので当時は自立が危ぶまれた。94年にウィーンから鉄道で行った。60キロの距離で、1日3往復。本来ならば郊外の距離だが、冷戦で東西にすっかり切り離されていた。
   
   其の時はブラチスラバ中央駅の通路が小便臭いので参った。駅のトイレはあるが、住民はそこまで歩く気力なし。治安は悪く、盗難は多く、街は非常に荒廃していた。外人が安心して泊まれるホテルは1つだけ。
   
   11年ぶりに同市を再訪すると街がきれいになっているのでびっくり。人々も意欲的になっていた。やはり首都となったことは大きい。最近ブッシュとプーチンも来たらしい。ドナウ川にも新しい橋が架かっていた。地方まで良くなったかどうかは判らないが、前よりはましだろうと思った。昼食のチキン料理は結局旅行中最高。

   午後はバスでブタペストへ移動。ハンガリー国境も日本人観光客はフリーパス。ブタペストへの高速道路は10年前よりも非常に良くなっていた。しかしハンガリーは4年前の再訪で印象が悪かったところ。
   
   今回は更に印象悪し。観光客からボロウとする態度が露骨。日本人旅行者専用レストランでは紅茶の温度が水なみ。ティーバッグから色が出ない。名物グラーシュも変な味。ホテルも旅行中最悪。ホテルには湯沸しもコーヒーパックもなし。それでも朝食でハムソーセージはたっぷり食べられた。ジュース用のコップの小ささには閉口。日本のぐい飲みよりやや大きい程度。

3月15日(火曜)

   午前中の市内観光は手抜き。漁夫の砦のみ、王宮は省略。温泉入浴で時間をつぶし、土産物屋へ。中華料理とはいえない昼食終了で解散。漁夫の砦のそばのヒルトンはなつかしい。4年前、モルドバから飛行機に乗ってお寿司・刺身を食べに来たところ。

   午後自由行動。有名なくさり橋を渡って王宮行きケーブルカー乗り場に行ったが、2人分料金往復2200フリント(約1000円)の現地通貨がなく、近くには両替所もないので断念。残念がる家内を王宮は見る程のものではない、ウィーンの王宮の方がはるかに上と説得。結局くさり橋を徒歩で往復。

   次いで地下鉄で英雄広場へ。独立記念日で共産党的集会。広場前の美術館見学。私は館内喫茶店で待機。足がむくんで歩けない。繁華街に戻る。祭日でほとんどの商店は休み。喫茶店で夕食まで時間をつぶす。

   夕食は都心の団体観光客に特化したレストラン。日本人グループ3組。楽隊が激しく客席をめぐる。逃げられないと思った私は5ドルを用意。楽隊が私のそばに来たときに、直ちに袖の下スタイルで目立たない様に渡した(チップは目立たないように渡すのがエチケット。見せびらかして渡すのは田舎者)。
   
   まず男性客のところに来る。ところが私の隣の定年さんは硬貨(50円相当?)、その次の婦人(ご主人は50歳+でリストラされてから横浜国立大学金属工学博士課程で生き生き勉強中。夫人だけ女友達と参加)は数分音楽を耳元でガンガンやられて渋々5ユーロ。
   
   とにかく出すまで動かぬという楽隊。8人テーブルの残りのハイミス女性たちは、ついに最後までうつむいてだんまりを決め込む。盛り上がらない。楽隊はあきらめて別のテーブルに行った。

   チップは薬と同じ。必要なときに、必要な分量となる(分量も立場により変る)。楽隊はチップで食べているのだから、タクシーの料金に上積みのチップとは性質が違う。酒の入っている席であるし5ドルは必要と判断。しかし団体旅行であるから、それ以上に出す必要もなし。団長でもないし。またチップは自分に付ける値段でもある。
   
   部長のチップと係長のチップは格差があって当然。しかしチップだけ格上げする訳にもいかない。係長が部長級以上にチップを弾むのも、職場での劣等感の裏返し。トヨタ社員のチップは中小企業社員よりはずっと上。

   けちな上司との同行時は難しい。バンコクのナイトクラブで上司以上にチップを弾んで嫌われた。ホステスの態度が露骨に変わる。私にサービスする。過日もホテル→空港(荷物多数)で運転手に団長が現地コイン1枚(35円相当?)。私が1ドル手にしていたら引っ込めさせられた。人格、人徳が出るなと思った。

3月16日(水曜)

   午前中は高速道路をバスで移動。94年当時はオーストリア国境の検問所通過に6時間かかった。バルカン半島からの車を厳しく取り締まっていた。今は日本人観光客はフリーパス。検問所の渋滞もなかった。道路は良くなった。本格的な高速道路になっている。前回は、国境→ウィーンの60キロの道路が特に悪かった。オーストリアにとっては不要の道路であったが、今はかなり整備された。

   お昼にウィーン着。昼食はシュニッツェル。午後はシェーンブルン宮殿、ついで王宮。王宮ではエリザベート博物館が完成していた。彼女が地元では評判が悪かった問題女性だったとは始めて知る。そのあとバスでリンクを走り美術館、博物館、国会議事堂、市役所、ウィーン大学などを車窓から見る。
   
   土産物屋のワルツ。有名なスワロフスキーがオーストリア産とは初めて知った。スラブ系の名称からしてポーランドかチェコと思っていた。ホテルはウィーンヒルトン、今回の旅行中最高。

   夜は単独行動。ホテルから歩いてクーアサロンに行き、正式ディナー次いでヨハンシュトラウス音楽会、帰途昔居たアパートを外から見る。中国旅行以来、だまし、だまし動かしていたインターネットダイヤルソフト(IPASS)が遂にダウン、以後成田着まで2日半インターネット交信不能となる。中国で直した積りが直っていなかった。観光旅行なので予備パソコンは持参せず。

3月17日(木曜)

   夕方まで自由行動。午前中まず郊外の国連へ。建物を外から見る。周辺の高層ビル群に驚く。都心に戻りシュテファン寺院、寺院前のなつかしいドムカフェは良く判らなかった。次いでボルツァイレ通りを歩いてもう一度昔のアパートへ。昼食はアパート近くの韓国料理店へ。店名は変っていたが店の構えは同じ。以前800円程度だったユッケジャンが2000円、日本人はユーロ高の被害者。
   
   シュテファンに向けて歩くと石松氏宿泊のロイヤルホテルがあった。以前私の友人夫妻も宿泊。アウガルテン陶器店、スワロフスキー、別の陶器店、旧伊勢丹跡のJALの土産物屋に寄って、最後にザッハーホテルでトルテを食べる。日本人観光客が行列。

   夜は国立オペラ座、ピーターグライムという聞いたことのない英国製番組、左翼的内容で詰まらなかった。9ユーロの天井桟敷では三分の一しか見えなかった。それよりも高所恐怖症に悩まされた。2人だけ旅行社手数料込みで8000円出して昔は3000円(今の定価は不詳)だった席にUPGRADE、その他は皆9ユーロの席。夕食の魚料理は良かった。

3月18日(金曜)

   最終日。ホテル出発は1030.家内の希望で高級ホテルを回る。インペリアル、グランドホテル(昔の全日空ホテル)に入る。ブリストルは高級ホテルとは知らずに割愛。着任当時2ヶ月滞在したカプリコーンホテル。最後にヒルトンホテル内の商店街、良く航空券を買った旅行社はそのままあった。ミッテ駅構内のスーパーにも寄る。

   空港では時間がたっぷりあったので、昔良く利用したダイナースのラウンジで過ごす。帰途のオーストリア航空の機内サービスも良く、翌朝成田空港着。

   ウィーンでは建築工事をあちこちでやっていた。まるでオリンピック前の北京のようだ。昔は眠ったような町だった。やはりEU加入、通貨統合の影響は大きいと思った。2002年にまだモルドバではユーロは認知されておらず、ユーロは両替手数料もドルの4倍で、ドルの天下であったがすっかり変った。
   
   これからは国家も、個人も外貨準備にユーロも入れる必要がある。私はかねてヨーロッパ経済を信用していなかったが、小国もまとまればパワーになった。日本人としては日本円の対ユーロの弱さに泣くとは心外だったが、今回の旅行では通貨ユーロの再認識が大きな収穫だった。

   15年前の愛知の大学での欧州修学旅行では父兄負担60万円+であったが、近畿ツーリストは、ホテルの食事はヨーロッパスタイル(パンと紅茶のみ)、ハム1枚、ソーセージ1本も追加料金。通貨両替も近畿がやりたがった。土産物屋では買い終わるまで時間を超過してもバスを動かさなかったり。
   
   すぐそばのグッチの本店を遠いところにある、といって無名品を高く買わせようとしたり。60万円+も取ったのに更に中味のないオプショナルツアー付。帰国後同僚に話したら、学園理事長(オーナー)が相当リベートを取っているからかも知れないといった(近畿も被害者?)。それに比べれば今回の阪急さんの旅行は最高。少なくとも朝食はたっぷり肉製品を食べられた。

   考えてみると私にとって添乗員付きの旅行体験は、その近畿と今回の阪急さんとの2回のみ。添乗員付きは本当に楽で、また費用も量産体制で安く、日程もびっしりで能率的であった。
   
   シベリア上空だけで何十回と飛んだし、仕事ではいくら世界を回っても、ビジネスクラスに乗っても、観光旅行を楽しむのとは異質だな、とつくづく感じた。またウィーン市内を2日弱だが仕事を考えないで歩き回ったのも初めて。スワロフスキーがケルントナー通りにあるのも知らなかった。2年半住んでも仕事、ストレス、健康問題等でウィーン生活を楽しむまで行かなかった。
以上

   B トヨタ同期。工&経。私大教授


石松さんの30篇目というドイツ紀行文「太陽は西から、確かに昇った!」をメール受信し、毎度のことながら事前準備から現地で体験し感動した事柄とその事由など、克明にかつ理路整然と執筆されていることにただただ驚くばかりです。

石松さんの自称“細々と生きている年金生活者”という表現が気力・体力・経済力の、どの点をとっても“全くの嘘っぱち”であることを自ら証明されているように感じます。現状はがんの再発が懸念され2度の検査結果で判然とせず、更に精密な検査を受ける予定という中で、その結果の如何に関わらず4月に南米への旅行を決行する、という意思表示は到底私などの真似できることでありません。

さて、今回の紀行文は51ページに及び、パソコン画面で読むことが大変ということで、プリントアウトすることにしました。ここで私こそ正真正銘の“細々と生きている年金生活者”であることから、前後左右の余白を10mmまで縮め、1ページあたり行数と1行あたりの文字数を最大限にアップして30ページに納め、さらに両面印刷にして用紙を15枚にまで減らしたりしました。

ところが、最近急激に進行している白内障の目では文面を読み続けることが苦痛で10分と持ちません。石松さんは「2時間あれば読める筈」と推定されていますが、細切れでいつになったら読み尽くせるか、そしてそんな読み方で的確なコメントなどできるとは考えられませんので、取り敢えずは3月末までに読後感を寄せる対象者からは、脱落させていただきます。

そういう異端者が言うべきことではありませんが、ひとつ希望を申しますと、369枚も撮られたというデジカメ写真をメインにして、その補足説明程度の文書を書き添えるというスタイルで提示していただけると、私のような視力障害者に近い者には助かります。写真は圧縮の方法しだいでかなり軽くできますし、文章の中に直接つけないで、インターネット上に保存した写真にリンクを貼って示すという手段もあります。

もう一つの方法としては石松さんのホームページを作って、その中に紀行文を載せ、メールでは更新した旨の案内だけ出していただくというやりかたもあります。ひまわりネットワークでは10MBのホームページ枠を提供していますので、100枚程度のかなり見栄えの
よい写真が載せられます。無料で100MB(月250円程度出せば300MBまでOK)というk-serverというサーバーも利用できます。

   ちょっと反則技ですが、他の人が出しているHPの写真のプロパティからその写真のURLをコピーして文中に貼り付けるという方法もあります。写真を見たい人だけがそのURLをクリックすればよいのです。クリスマスマルクト関係の写真をいくつか拾ってみました。

http://uuhome.de/jshh/klasse/ksj0304/klasse2/weihnachtmarkt/dsc00063..jpg
http://take6.web.infoseek.co.jp/bn789/imbn2002/122002/images/be/lg.jpg
http://uuhome.de/jshh/klasse/ksj0304/klasse2/weihnachtmarkt/dsc00058..jpg
?
   余談ですが、昨日TVで日進市のいろんな店を紹介していた中に、ドイツハムのアルザスというのが出てきました。この店主はドイツで修行した方で、今では東京などの有名店を経営している、という人を育てたという実績の持ち主です。「私自身は有名になっていませんが……」と謙遜しておられました。

   〒470-0135 愛知県日進市岩崎台4丁目408番地 TEL&FAX:0561-72-8615 
   
   20種類のハムを自家製で販売しています。秘訣はドイツ製の刃物の刃先を毎日研いで切れ味を保つことだそうです。切れない刃でミンチを作ると発熱して肉質を阻害するということでした。
   
   石松さんがドイツで味わったハムに匹敵する味を再現しているかどうか、機会があったら確かめてみてください。

   C トヨタ先輩・工・パソコン活用技術はプロ級


   石松さんと昨年お会いし、がんが完全寛解したとお話された時は、心よりお祝い申し上げました。なのに、今回のメールでなお病気の事が書かれ、何故だと思いました。いま時間を大切にされる気持ちが、手に取るように感じます。自分で心残りの無いように、時間を大事にして下さい。

   私の母は89歳になり少し足が弱く、歩くのにシニヤカーを使いますが、普通の暮らしをしています。昨年までは、骨粗鬆症・心臓肥大・気管支喘息・ボケも少し出るようになりました。

   昨年の7月に、風邪を患い床に伏せました。看護にお粥や、簡単な食事を造りました。総入れ歯で噛むこともままならないし、栄養面でも不足がちだと感じ、私が食べているサプリメントを与える事にしました。暫くすると(3、4日)、もう直ったと言いながら、起きて参りました。
   
   それからは、呼吸時に笛を吹いているような、ヒューヒューという音も感じられなくなりました。それ以来医者の薬も飲まず、病気らしきものも致していません。

   私も、以前から色々な健康障害がありましたが、全て改善出来ました。先日も、長嶋茂雄さんと同じ日に脳梗塞を患った方が、今では自動車を運転出来るまで快復されたと聞きました。

   又、乳がんと診断された方が腫瘍を摘出したら、腫瘍が分裂しない安定型で、以後がんの兆候も無く過ごされて居ました。

   此の製品はアメリカで作られ世界59カ国で承認されている物です。この会社の者が説明するには、人間は全ての栄養素をバランス良く吸収する事により、全ての臓器が働き治癒力が増大し、色々な障害を改善する事が出来るのだそうです。

   お話しすれば切りがありませんが、私はこの素晴らしい製品を一生涯愛用するつもりです。もしかしたら、お役に立つかと思い下手な案内をさせていただきました。

   石松様のご健康とご多幸をお祈りします。
   
   私は2年前から健康食品として意識的に毎日もずくを食べています。海水・血液・海藻・点滴液・スポーツドリンクの含有成分に共通しているものはミネラルです。生命が海で誕生した名残と思っています。昆布や若芽を毎日食べると飽きがきますが、もずくの三杯酢は不思議と食べ続けられます。
   
D ゴルフ友達。建設業・浄水業・健康食品販売業など色んな事業に成功されている方・お屋敷は何と600坪。


   50ページ以上にのぼるドイツ、フランス、オーストリアの旅行記、有り難うございました。興味深く読まさせていただきました。
   
   私は、ドイツはロマンチィツク街道とベルリンの壁崩壊直後にベルリン、ポツダム、ドレスデン、フランスはパリのみ、オーストリアはウイーンのみ10数年前に行きました。記憶も薄れてきてますが、シエンブルーン宮殿に関しては多少の記憶をたどることができました。が、石松さんの知識の広さとその深さ、更に探求心と洞察力の深さにびっくりしています。
   
   街の様子や物価のレベルも手に取るようにわかりました。クリスマス前の寒くて薄暗い時の過ごし方も良くわかりました。有り難うございました。
   
   肺の検診の結果が良く、4月のペルー旅行が最後の旅行にならないよう、祈念いたします。
   
   E トヨタ・大学後輩・経


   いつも力作のメールをいただきながら返事を出さないで申し訳ないと思っています。
石松さんのがんとの戦いについて、私は何と申し上げたらよいか分かりません。お見舞いの言葉が見つかりません。

   しかし着々と整理をして居られるようすを伺って、石松さんらしいと敬服しています。まずは3月1日のPETで結果が出ることを祈っています。
   
   F トヨタ先輩・工


   欧州旅行記を拝読。理想の海外旅行は、現地在住の親しい人に、観光客で俗化され過ぎていない地方を案内してもらうことだと感じていますが、まさに理想的な旅行をされご同慶の至りです。

   ケルンのオープンカフェで隣席の現地人との出会いはさぞ楽しかったでしょうね。私も40年程前、西独に出張した折、ミュンヘン近郊のビヤホールで、現地駐在の親しい商社マンとジョッキを傾けていたら赤ら顔のおじさんから話しかけられた。
   
   「君達はヤパーナかい?」
   「そうだ」

   店内には楽団が演奏する軍艦マーチのような勇ましい音楽が流れていた。何故か戦争の話になった。当時、西独にはイタリー人の出稼ぎ労働者が多く、連日のように犯罪を起こし鼻つまみ者になっていた。第二次世界大戦で日独伊連盟側が負けたのは劣等性のイタリーを入れたからだとビールの勢いで話が進展した。

   「今度やる時はイタリーを入れず我々だけ(独日連合)でやろうぜ!」

と意気投合して握手した。肩を組みながら飲んだビールは格別だった。旅の思い出は忘れない。

   ベルリンの壁をご覧になったとのこと。ベルリンの壁が崩壊した時、撤去されたものと思っていました。おっしゃるとおり「20世紀の愚行の象徴」として保存されていて安堵しました。
   
   実は、ベルリンの壁崩壊(1989-11-10)の2週間前に、ある調査団の一員として東ベルリンを訪問、ブランデンブルグ門の周辺で落書き一つ無いきれいな「ベルリンの壁」を見物しました。バスガイド嬢はフンボルト大学日本語学科卒のインテリで日本語がぺらぺら。当時の東独の状況を「仕事は確保され、家賃や生活必需品は安くてありがたいが、言論や旅行の自由が無いので悲しい」と小声で話してくれた。
   
   2日後、ドリスデン経由で西独へ移動する折、国境の検問所の手前で彼女は下車し
た。西独への逃亡防止の為バスガイドも越境は許されないとのこと。運転手は良いのか?と訊くと、「お爺さんは大丈夫!(逃亡を企てないとの意)」とウインクしてくれた。

   ベルリンで、今度は西側からベルリンの壁を見た。まるで壁画を見るようにびっしりと落書きがしてある。「自由はここまで!」「どんな壁もいつかは崩壊する!」と核心を突くのもあったと聴いた。
   
   片や白壁、片や壁画はまさに「統制」と「自由」の隔壁を実感した。帰国後まもなく、この壁に若者がよじ登りハンマーを振り上げている映像がテレビに映された。映画か?と信じられなかった。

   G トヨタ先輩・ゴルフ&テニス仲間・工


   労作拝読しました。いつもながらの貴殿の几帳面な記述に感嘆しています。

   今回の訪問地は小生もいくつか見聞しており、懐かしく思い出しましたが、貴殿の食通振りにも驚かされました。
   
   ヨーロッパではスペインとドイツの食事がウマイと思っていますが、ドイツでの「多種類のビール、生ハム、ウインナ、サラミソーセージ」などの記述を読んで嬉しくなりました。「異国の地で、旨いものを食べて飲んで」、これは至福の一時ですね。

   又、何度もお二人で出かけてください。   

H トヨタ同期・経


   ヨーロッパ旅行記、楽しく読ませていただきました。

   ご夫婦とも大病を抱えながらも、旅行を強行される執念に感服しました。また、新たに肺がんの疑いが出てきた由。何とお慰めして良いか言葉を知りません。杞憂であることを祈るばかりです。

   さて読後感ですが、大変詳しく且つ臨場感に溢れる文章に、つい自分がそこに居るような気にさせられました。また事前調査、記憶力もさる事ながら、これだけの立派な文章を短時間によくも書けるものだなと感心します。

   小生も貴殿とほぼ同じシーズン、つまり1997年11月20日頃から2週間ほど夫婦でヨーロッパ旅行をしました。その時ケルンやパリ等も観光したので貴殿の旅行記を読んで、自分の体験と重ね合わせてウンそうだったナと、当時の記憶が鮮明に蘇りました。

   パリは25年振りに行きましたが、昔に比べるとどの建物もえらく薄汚くよごれたなと感じました。小生の目の錯覚か、比較するデータが無いので真偽の程は解りません。オルセー美術館にも行きました。仰る通りパリ万博の為にあんなに立派な駅舎やエッフェル搭等を造ったとは全く驚きです。大阪万博や今度の愛・地球博でも大したものは後に残りませんから。

   旅行記を読んでいると、やたらに食べたり飲んだりの情景がありますが、いささか投げ遣りになってはいませんか? 余命幾ばくも無いと勝手に決め付けなくとも、何時死ぬかはその時まで誰も解りません。本当ならもっと長生きできる筈の命を、わざわざ自分で縮めているのかも知れません。矢張り腹八分、も少し欲しいな、と云う所で止めるのがベストです。

   アドバイスにやや困惑。胃がんの手術で胃は2/3切除しました。その結果、飲食は幾ら望んでも腹六分目が上限です。飲食の順序も逆になりました。食後、1〜2時間経ってからレギュラーサイズの缶ビールを1缶だけ飲んでいます。食前に大瓶を飲む回数は激減しました。飲めば2時間経たないと食事が摂れません。

   従って通常の飲酒は炭酸ガスの出ない、ウィスキー・日本酒・ワインに変更しました。それも上限はアルコール量換算で日本酒1合です。酒量が減ると私の場合、どんどんアルコールに弱くなりました。発がん前に比べ、酒代はとうとう半減しました。

   胃がんの手術後に8Kg減だった体重も、必死で食べ続けて元に戻したものの、昨年末以来がんの転移が疑われ、精神的に落ち込んで食が進まず2Kgの体重減が発生。体重は体力の基本指標と考えている私は1月半ばから、一日完全4食主義に転向し、やっと2Kgを奪還し、ホッとしています。

   胃がんの解説書にはどれも、手術後半年から1年もすれば体も慣れて、3食に戻れると書いてありますが、今では疑問に思っています。小さくなった胃が大きくなるような実感はありません。

   ドイツのスーパーには大瓶サイズのビールは通常売っていません。日本の小瓶か中瓶相当が基本です。飲み屋の生ビールは200ccが基本。これには驚きました。1リットルのジョッキでがぶ飲みする映像をテレビ等で見かけますが、あれはミュンヘンのビヤホールなど特殊な場所です。普通の店にはあんな大きなジョッキすらありません。

   今回の旅の間は、ビールと摘み、後は果物で終日過ごしていました。しかし、こんな飲食生活は旅の間だけの特殊事情でした。

   3月初めには検査がある由。どうかご無事でありますよう、元気にペルーに行かれて、また楽しい旅行記をお待ちしています。

   有難う御座いました。

   I トヨタ&大学先輩・工


   いつもお世話になり有難う御座います。貴殿の言われる様に、2Hで読むべくプリントアウトしました。

   昨日、スイスのツェルマットスキー(2日はアルプス越えてイタリアで滑りました)
から帰ったところで、時差ぼけが抜けきらないところですが、明日からの仕事と3月2件の発表会(能や謡などの古典芸能を30年以上も楽しんでいる方)の準備で早く頭を切り替えねばとあせっているところです。標高3100mからのマッターホルンをバックに撮った写真を添付しました。(アルプス越えは3800mでした)

   読後感が出来あがりましたら送信します。

   I トヨタ先輩・工・ゴルフ仲間

   
   今日は、ご無沙汰しています。会社名は今変わってしまいましたが、昔トヨタ住宅におりました加藤哲也です。

   大作いまやっと読み終えました。何しろ独り者(姑さんの看病に全力投球されていたら、突然のクモ膜下出血。奥様のご冥福をお祈りいたします)、掃除洗濯料理など家事をすべてやらねばならず、時間がまとまってとれない。その間にトヨタラクビー応援に3回もバスで出かけたりして。

   娘さんの駐在地をベースに、欧州の旅を楽しんで来られよかったですね。最高の旅ですね、パッケージ旅行では絶対味わえない旅ですね。小生もパッケージ旅行は大嫌いで個人旅行ばかりです。

   貴殿の大作ほんとうによく書けています。書き出しのタイトルの『太陽は西から、確かに昇った』。小生も初めて知りました。これから大いに使わしてもらいます。

   貴殿が流通というか小売業界に関心を持っておられるとは驚きました。経緯を聞きたいものです。小生は市場というかマーケットは好きでどこにいっても覗いてみますが、スーパーマーケットとか、ましてやデパートやブランド店などは覗いたことは日本を含めてありません。

   大作は家族との関係もよく書けていて、石松家が彷彿されます。前にも言ったかもしれないが、ほんとうによい子供さん孫さんたちを持たれ、羨ましい限りです。

   小生のある友人が教えてくれた『人生は生まれる前に還る旅、味わい尽くして恐れずに行く』を信条にして、女房のくれた自由に感謝しながら、国内外の旅行を中心に楽しんでいます。幸い今のところ、一人旅できる体力は持っているつもりです。

   会社辞めてからは、健康診断は一切受けていません。お医者さんで、注射針で血をとられるのも怖いので。

   ともあれ、貴殿にもいつかお迎えが来るでしょうが、それまで大いに人生楽しんでください。そしてもう一つ二つ大作をものにしてください。

K トヨタ先輩・工


   昨日、石松さんの欧州旅行記をプリントしてようやく読み終えました。そのボリュームにまたも圧倒されましたが、今回はなんとなく気楽に読まさせて頂いたような気がし
ます。後日改めて感想等をメールさせていただきます。

L トヨタ後輩・工・ゴルフ仲間


   毎度の如く帰省中でしたが、親父の七回忌法要(2月27日)を機にバトンタッチ、今回は少し短期で帰豊田しました。法要にはお袋(92歳)の弟達(85歳と80歳位)と妹(75歳位)が夫婦で集まってくれましたが、皆さん元気溌剌で、まだまだ誰にもお迎え等、当分は来そうにありません。

   彼等は6人姉弟妹でしたが、お袋の姉と直ぐ下の弟は30歳過ぎで亡くなり、残った4人はその分長生きできそうです。石松さんも本当は古稀まで−−−−は冗談でしょうが、90歳まではみんな大丈夫です。
  
   帰省中高校同窓会で集まりましたが、両親の最高齢は95歳。子供の我々はより長生き出来る筈だから95歳になるまでは、今後も毎年数回この集まりを続けよう、になりました。

   年齢数だけの国めぐりは達成できましたか?? 我々海生の事務系先輩であるYKさんは昨年末で100ケ国訪問達成だそうですが、まだまだ毎週筋力アップトレーニングのジム通いで、記録更新を目指されています。

   こういう雄大な旅行記は私など井の中の蛙には読むのが大変。高校時代の世界史等で、幽かに記憶が残る地名や人名が次々に出てきますが、遠い縁の無い世界のようです。でも初め何のことかと思った「太陽が西から−−−」は納得です。又100gの生ハムでお茶代わりにビールを飲んだり、おつまみにスモークサーモンを買い込んだりと、旅の楽しさが伝わってきました。

   「晩鐘」のところで、若い頃友人達と名古屋まで「種撒く人」を見に出かけたのを思い出しました。

   自分は悠々と言えばかっこいいですが、毎日無為に過ごしているなと感じます。NHKの朝のテレビ「わかば」で南田洋子おばあさんが「人生、いきちょるだけで丸儲け」と繰り返しますが、自分に合わせて随分と納得させられています。

   折角だから世界旅行に縁遠い代わりに「愛知万博」で世界を見聞しようと思っています。間違って4100円の前売り券を3枚買ってしまいましたが、これは65歳未満の友人に3700円で売って、「シニア通し券」に買い換えるつもりです。遠出することなく世界の国々に接せられるこのチャンスを思い切り利用します。

M トヨタ後輩・工・ゴルフ仲間


   「太陽は西から、確かに昇った!」を拝読しました。

   いつもの事ながら、旺盛な好奇心と鋭い観察眼で訪れた土地の風土と文化を的確に把握される様に感嘆しています。それに、理論的な裏付けで納得するにとどまらず、”太陽が西から昇る様”をしっかりと確認して来られるに至っては、脱帽するの他はありません。
   
   アンカレッジ経由の北極回りで欧州に行っていた時期、浅い眠りに窓のスライドを少しばかり上げてみると、何時も氷原は沈まぬ太陽に白く輝いているのでした。冬の季節にあのコースを飛べば、世にも不思議な体験を出来たのかも知れないと思ったことです。

   私にとって冬の欧州は、フランスでパリとノルマンディー地方に一週間程滞在した経験があるだけです。機械の有償保守サービス依頼が入り、緊急とのことで派遣できるメンバーの都合がつかずに自ら出向いたのでした。

   それまでにデユッセルドルフ駐在の知人にライン北の冬が厳しいことは聞いていましたし、暮れの押し迫った時期にトリノへ派遣した部下達からは「出来たら、次は他の人に...」と申告されていました。ですから、不急の出張は春から夏に出かけるように組み、「クリスマス・イルミネーションで飾られたシャンゼリゼ通りは素晴らしかった」と同僚に聞かされても耳を貸さなかったのでした。
   
   あの時の出張では、朝食を終えてホテルを出るときは勿論、定時に仕事を終えて無窓工場から退出するときも外は真っ暗でした。公園の中にあるような工場で、昼食時にレストラン顔負けの、独立した建屋だった工場食堂に回るときだけ太陽を拝めたのでした。
   
   帰国を急ぎ、シャルルドゴール空港に直行の慌ただしさで、クリスマスの電飾に浮き上がる凱旋門も見られず終いとなり、今回の紀行文を拝見して、冬の欧州を楽しむ機会を逸したのが残念に思われます。

   シュノンソー城の暖炉には今でも薪がくべられ、それで十分に暖かいとは冬に行ってこそ理解できる貴重な体験ですね。ロワール川沿いの古城巡りは妻の希望で、TGVで降りたトウール駅前の観光案内所で申し込んで、国際色豊かな面々とマイクロバスで巡りました。
   
   クロアチアからの中年夫妻、スペインからの若いお嬢さん二人連れとアフリカ系アメリカ人の男子学生が一緒でしたが、川沿いの伸びやかな風景の中に瀟洒な城と城下街が中世のままに残っている雰囲気にひたった一日でした。
   
   庭園内を歩くときには夏の強い日差しに帽子が欠かせず、それでも城の中に入れば汗が引いて心地よく、欧州の城とは夏過ごし易い造りになっているものだと感じ入ったものでした。立派な暖炉には気がついても、それで冬の屋内の暖房が万全なのだとは思われなかったことです。

   ドイツは、ハンブルグからシュトゥットガルト間の主要な街は巡ったのですが、旧東ドイツには未だに足を踏み入れていません。ご紹介のベルリン博物館島にあるベルガモン博物館他の美術館等とエジプト博物館は是非とも行ってみたいと思っている所で、日本語のオーデイオガイドも備えてあるとのことで参考になりました。

   今年から地区のボランテイア活動の一環を持たされ、少々自由時間に余裕に無くなったばかりか、先日は健康セミナーで受診した心電図で”二段脈”を宣告される始末です。「チャンスに後髪は無い」とは良く言ったモノで、それを肝に銘じながら、いよいよ少なくなりそうな機会を捕らえて見聞に努めたいと思っています。石松ご夫妻のお元気さに負けないように...。

N トヨタ先輩・工・自称『細々と年金で遊んでいる』方・まだお会いしたこともない方


   欧州旅行記ありがとうございました。

   各地の様子をその歴史を含めて詳しく記述され、大変楽しく拝見させていただきました。随所での石松さんの切れ味のよいご批評・ご意見も大変面白くまた参考になりました。次回のペルー世界遺産紀行も非常に楽しみにしております。

   末筆ながら、ご健勝を心から祈念します。

O トヨタ同期・工


   検査の結果が「問題なし」と確認されたとのこと、先ずもって、おめでとうございます。読後感が遅れて申し訳ありません。

   今回、読ませて頂き、ヨーロッパのクリスマス・マルクトなるもののことについてお蔭様で初めて勉強出来ました。

   北欧ではキリスト教に関係の無い夏至の祭りがあると聞いておりますが、その対極の冬至にもお祭りがあるのでしょうか。

   何の根拠もありませんが、そんなものがあって、それがクリスマスに時期的に近くキリスト教が入った後で一緒になってクリスマス・マルクトへと発展したなんてことはないのでしょうか。

   通常の季節の広場での市については、出張の折、ボン(当時は西独の首都でした)の街の中心部の広場で、近在の農家が店を開いている朝市風のマーケット(マルクト?)を見たことがあります。(クリスマス・マルクトの規模はその何倍も大きいのでしょうが)

   フレッヘンのように小さな町でも、横道の大通りで金曜日には生鮮3品を主にした市場が開設されています。大型トラックが並び、荷台がそのままで店になる構造になっていました。オランダから海産物を売りに来る商人もいました。

   欧州各国の大都市の場合にはあちこちの広場に、生鮮3品を主とした常設の市場があります。しかし、クリスマスマルクトでは原材料としての生鮮3品は殆ど見かけません。食品はその場で食べられる屋台が主でした。

   今回の検査で問題ないことが判明し、まだまだ石松さんの海外旅行が年齢を超えるまでシツコク続けられることとなる訳で、大いに安心し且つ期待しております。

   尤も、石松さんの旅行先で意地悪な質問で悩まされるであろうガイド諸氏・諸嬢の難儀が今後も続くことには、深甚なるご同情を惜しまないことも付け加えておきましょう。

P 大学同期・工・いつも旅行記の査読をお願いしている方


   マニラから帰り、確定申告も終えて落ち着いたので「太陽は西から、確かに昇った!」を拝読し、3/1の検査結果をお聞きして読後感をメールしようとしていた所に、このメールをいただきました。
   
   万が一とは思っていましたが疑いも晴れ、今は清清しいお気持ちと察します。そしてこの顛末記は我々にも関心があり読み応えがありました。将来自分にも参考になると思い印刷保存する次第です。
   
   旅行記については2/24日のメール、旅行記の前文には貴兄の迫力を感じました。石松さんならではの、生き抜く信念の強さが伺えます。旅行記全般については、何時ものことながら石松さんの微に入り細にいる観察と考察に感心します。
   
   しかし恥ずかしいですが、小生欧州は殆ど知らなくウィーンの記事等も「そうですか」にとどまり感想を述べることが出来なく申し訳ありません。
   
   最後の観光立国の重要性については同感で、その方策はいろいろあるでしょう。日本人の海外旅行も多く(旅行記での韓国人の増加についてはマニラリゾートでも体験しましたが)、それだけ自国を振り返ることも多い訳ですが、御指摘のような遅れを取り戻すには更に大勢の日本人の意識を変える必要があり、学校教育から取り入れて行く必要があるのではと思っています。

Q トヨタ先輩・工・ゴルフ仲間


   「太陽が西から昇る」、相変わらずの細やかな観察に感服するとともに、同じ地方を
初めて訪問する方々にはよいガイドになると思います。

以下若干の各論コメントを:

   最悪の場合を想定すると、余生は古希までの残す所僅か3年半。この貴重な時間に、やりたいことを厳選し、やれる時にやり尽くしておこうとの意志は日を追ってますます強くなってきた。最早、肉親からだろうが誰からだろうが、節酒などのアドバイスを受け入れる気持ちは完全に消滅。人は人、私は私。我が命は我が宝!

   限られた時間でやりたいことをやる!! 全く同感。

   この季節のヨーロッパ便は成田を午後1時ごろ発つと、途中のシベリア上空で日没となり、ウラル山脈を過ぎると西から日の出となり、到着前に再度日没となります。西行きの場合は誤差が大きく、1分以内の精度では計算できませんが、5分以内ですと、日没・日出・日没を計算できました。

   完全な日没・日の出・日没ではなかったが、これに近い体験をしました。もう40年近く前の社用での初めてのドイツ行きで、シベリア上空あたりで「日没になるのだな〜と外を眺めていると、没しきらないうちにまた日が上がり始めて、なんで夜が明けるのと思ったら、またもや沈んで不思議な感覚に陥りました。

   私と石松さんの違いは、私にはこのなぜを徹底的に追及しようという学究的態度がないことでしょうか。

   畜産品も相変わらず安い。肉・ハムなどの加工食品、チーズやバターなどの乳製品も種類が豊富で且つ安い。どっさり買って日本に持ち帰りたかった(欧州からの肉やその加工品は、税関で見つかれば没収される! ここにも国産品保護のための規制がある)が、今回は娘達の荷物運びで鞄は満杯!

   これには異論あり。国産品保護は私の経験では米(こめ)。かつては一粒も持ち帰れなかったが今は個人用なら何キロかは持ち帰れるが。畜産品などの規制はBSE問題以前から各国にあり、病原菌の媒体になりえるからだろうと思います。
   
   私は各国とも基幹産業である農業の保護を真の目的に、しかし、建前としては病原菌の侵入を防ぐといっているケースが殆どではないかと邪推しています。
   
   この規制は、豪州やオーストラリアではもっと徹底していて、カップ麺でも乾燥肉が入っているからダメ。ひどかったのはニュージーランド航空の機内食で配られたチーズを酒のツマミにと軽い気持ちでニュージーランドへ持ち込んだら、いくら説明してもダメなものはダメだと捨てさせられました。
   
18年前の体験を旅行記からコピーしました。

   オーストラリアの検疫官は土に神経質だった。ゴルフシューズにまで目を光らせている。『土が付いているからダメ!』『これはニュージーランドのゴルフ場の土だ。パスポートを見ろ!』との反論で、どうにか持ち込みに成功。


   ビールの安さにも腹が立つ。500ccの瓶ビールが100円以下だ。日本のビールとの価格差は税金の差だけでは説明がつかない。ビールの原料は希少価値品どころか、雑穀の類。麦芽・ホップの他はアルコールの出発原料に過ぎず、等外米・トウモロコシ・トウモロコシの澱粉(コーンスターチと言う)など家畜の飼料並だ。中瓶1本の原材料代は我が推定ではたったの10円くらいなのに。誰が儲けているのだ!

   これは全く同感! ロシアですら500CCが約100円。この逆がまたスゴイ。タイのシンハーなるビールが現地で100円強、これが日本に来ると350円。こうなると単なる日本国の酒税の問題だけではない。

   日本は敗戦後、短期間に安普請で復興したが、彼らは時間と費用が掛かっても、こつこつと修復している。東京都心の貸しビルはバブルの崩壊後、何処の国にも引けを取らないほど豪華な大型建物へとやっと建て替えられ始めたが、彼我の方針差は際立っている。

   かつて江戸の町は、きちんと区割りされ、道路は隅々まで掃き清められ、路地路地には植木鉢が季節ごとの花を咲かせ世界でも有数のきれいな整備された大都会だったそうだ。これが、戦後なんの基本的な都市景観グランドデザインも無いまま、雑然と統一も無い醜い都会にしてしまった。丹下健三作の東京都庁など、醜悪以外のなにものでもない。そう、彼我の方針の差というより、我の方針のなさの悲しい結果だと思います。

   観光開発が国土の隅々に至るまで行き届けば、ひとり観光に来た外国人に対してだけではなく、同国人の子供にも大人にも住みたくなる素晴らしい国になる。同国人にすら嫌われ始め、世界遺産登録への候補としても拒否された観光資源、例えば登って初めて見せ付けられるゴミだらけの富士山は、外国人にどんな印象を与えていたのだろうか?

   外国の世界遺産を見るたびに、反射的に思い浮かべるのは富士山のこと。多分日本人の心象風景に占める富士山の割合は非常に大きいと思う。なんでも世界遺産に登録すりゃよいというものではないが、小泉首相が観光日本のポスターに出るくらいなら、何故「日本の象徴、富士山を世界遺産にして観光立国を図ろう」くらいの官民挙げての策を作るリーダーシップを発揮しないのか、不思議です。

   それらハードの整備に加えて、外国人観光客を心からもてなせるホスピタリティと日本文化の発信力いわゆるソフト力を、国民の一人ひとりが名実共に身に付けたときに、『日本まで大金を叩いて遥遥やって来たが、心底から満足した』と、外国人も高く評価するような観光大国になれる、と確信している。

   外国人に真に魅力ある観光大国に生まれ変わることと、嫌でもそこで生きていかなければならない自国民にも魅力ある国に改造することとは、結局は同じことだ。翻って我が祖国の、有名観光地のハードの整備状況やその接点に位置する国民のソフト力のみに限定しても、今回駆け足で訪ね歩いた独仏墺に比べて、気が遠くなるほどの課題が脳裏に渦巻き、愕然としてきた。

   非常に強く同感です! しかし、翻って己に何が出来るのか! 忸怩たるものも同時に感じます。

以下辛口コメントです:

   彼我(ひがと読む。何故か、かがと誤読する人が多い)の文化力の差を、嫌でも認めさせられた。
   
   これらの文からは「お前さん方は読めないだろうから教えてやるが・・・」という読者(みな貴兄の友人知人だと思いますが)を見下した傲慢な物言いを感じます。
   
   つまらぬ誤解です。私は日頃の体験談を紹介したに過ぎません。それに対する貴台のコメントは、貴台の劣等感(?)から発せられる単なる妄想に思えてなりません。
   
   私のメール受信者は旧帝大・旧三商大・東工大・早慶卒、元か現大学教授、10名を軽く越える工学博士、元か現一流会社役員(トヨタ自動車の副社長とか関連企業の社長とか・・・)が過半数です。
   
   そのような方々に蟷螂(とうろう)の斧を振り回した所で、天に唾するようなものです。私はパソコンによる現代の井戸端談義を楽しみつつ、時には知恵比べ(昨年のテーマは特許・台風・未来予測・津波など)を交えて論戦に持ち込むのを、生き甲斐のひとつにしているだけです。
   
   とは言え、読後感には書いた人の薀蓄ある人生の端々が、その紙背に後光のように無意識下に現れます。それ故にこそ私は読後感の拝読を楽しみにもしています。しかし、貴台がいみじくもご指摘されるような受け取り方をされる方が絶無とは断言できませんが、私の意図では毛頭ありません。
   
   私は52年前(昭和28年・中学3年生)の高校受験期に、熟語の読み方と筆順(成・飛・必・などの筆順は、勉強しなければ解る筈がありません!)を勉強した以後は、漢字や仮名遣いの勉強は全くしていません。そのために常時恥を掻いています。
   
   旅行記の査読をお願いした友人に間違いを指摘されたり、日本機械学会の査読委員の学者から、我が論文中で使った単語としての『エンジン』を、機械学会の用語集に登録されている『機関』に書き換えろと指示されて驚愕したり、ワープロの仮名漢字変換で気がついたり、などの行き当たりばったりの学習です。しかし、死ぬ準備に追われている今となっては、今更新しいことを勉強する意欲もありません。
   
   思い出すと、順風満帆(じゅんぷうまんぱんをじゅんぷうまんぽと誤読)磐石(ばんじゃくをばんせきと誤読)先達(せんだつをせんだちと誤読)御用達(ごようたしをごようたつと誤読)嘗て(かつてをかってと誤読)テニスでのカウントのdeuce(デュースをジュースと誤発音)、など数え切れません。

   とは言え、中東や中南米の観光資料を紐解くと、殆どの著者がadobe(日干し煉瓦、アドウビ)を『アドベ』とローマ字読みで書いているのを読むと苦笑させられます。

   彼らは、新単語に出会ったときに、直ちに辞書で発音を確認する基本操作を手抜きした何よりの証拠を残して、生き恥を掻いています(気も付いていないのでしょうが!)。私にとってのadobeとは、大学入学後、最初に出会った未知なる単語だったので、思い出深く記憶に残っています。
   

   生鮮3品や中食(なかしょくと読む。調理済みの持ち帰り惣菜)と各地の銘菓中心で商品の種類は意外に少ない。

   また、「中食」は辞書でも: ちゅうしょく 【中食】

   外食に対し、惣菜(そうざい)・弁当などを買って帰り、家でする食事。また、その食品。なかしょく。三省堂提供「大辞林 第二版」よりとあります。

   言葉は生物と同じように、新しく生まれ、使われ、忘れ去られていきます。かつては1000年間に単語の3割が入れかわるといわれていましたが、情報化時代の今日ではその盛衰速度は加速されています。広辞苑の改定版が出るたびに登録語彙の入れ替えが話題になるほどです。

   従って、大辞林といえども、単なる参考情報に過ぎない一面があります。むしろ最新語に関しては、国語辞典は解釈が遅れ気味になっています。国語辞典の編集者は国語学を専攻し、古文・古典・古語には強いが、最新の業界用語・専門用語に疎いのは当たり前。年老いた碩学にそれ以上のことを期待するのは、最初から無理と思っています。毎年改定版が出版される『現代用語の基礎知識』などが売れるのも当然です。

   外食・中食・内食は典型的な業界用語です。外食は戦後生まれた言葉、中食はバブル崩壊後に生まれ、昼食との同音意義を避けるために『なかしょく』と読まれるようになりました。

   外食と中食が言葉として一人立ちした後、それらとの対比の上で家庭での食事を内食(うちしょく)と呼称するようになりました。内食を『ないしょく』と読むと内職と同音異義語になるため、『ないしょく』とは読まないようです。経済規模は内食が内職よりも断然大きいため、内職が死語になれば、内食を『ないしょく』と読むようになるかも知れません。

   しかし私は、NHKがアナウンサーに農作物を『のうさくぶつ』と発音させるのには抵抗を感じています。作物を『さくぶつ』とは読まないのに、農を付けたら何故『さくぶつ』に変わるのか理解できないからです。従って私は『のうさくもつ』と死ぬまで発音し続けます。

   ともあれ、おかげさまでいろいろなことを教えていただきました。何かの機会でこれらの地を訪問する際にまた読み返します。どうも、ありがとう。

R 大学級友・工・食道がんの先輩・内容豊富なホームページを立ち上げている方

 
   さて、石松さんの今回の旅行記についての感想ですが、何と言っても最初に思う事は、貴兄の並外れた好奇心とヴァイタリティです。『太陽が西から昇る』のを検証するくだりなど、病後だとか体力が回復していないとか、よくも仰るとしか言い様が有りません。
 
   次に、その土地で生活している人々の、中でも老人の皆さんの生活ぶりを伝えようとの思いを強く感じました。
 
   最後に、貴兄のがんに関する記述から判断するに、酒の飲み過ぎはがん発生の危険性を増すと理解しております。各人にとって、どれ位が適量か不明なのが厄介ですが、お互い酒の飲み過ぎには気をつけたいものです。
   
S トヨタ同期・工・元トヨタ役員


その1.
   
   昨年晩秋より、いろいろの事情がありまして、殆どメールを見たり書き込んだりできない状況にありましたので、貴兄からのメールも見ておりませんでした。先ほど貴兄からの今回のメール(読後感執筆の真打に、読後感を賜りたいとお願いした)を発見し読みまして、初めて貴兄が最近どこかへ行かれ、従来通りの精力的で且つ示唆に富んだ旅行記を完成されたのであろうことを知りました。

   慌てて、そのメールを見付けましたところ、ありましたので、早速にプリントアウトさせて戴きました。これから読ませて戴きますので、皆さん方が既に読後感をご送付済みであろうと思われます中、これからのスタートで、多分貴兄のお手元に届くのは今月末くらいになろうかと思いますが、お許し下さい。

   なお、真打などとは余りにオコガマシイと存じております。何しろ会社を退職する数年前より海外出張はなくなり、尚且つ退職後は海外どころか、国内の旅行すら一切行けない状況にあり、社会的な見聞もなくなり、世間を見る目も狭くなり知識も乏しくなるばかりですので、人様に読んで戴けるような読後感はとても書けないと思っております。
   
   しかしながら、こうした私に対しましても、貴兄のような方からご要望を戴くだけでも有り難いことですので、できる限りの努力させて戴きます。

   なお、転移のご心配が杞憂であったとの喜ばしいお話、お慶び申し上げます。貴兄ほどの深い知識、見識、行動力、決断力等々、我々凡人の域をはるかに越える素晴らしい人材はそうそう居られるものではありませんので、是非御身体を大切にして戴きたく存じます。
   
   今後とも貴兄から末永くいろいろのご教授を賜りたいものと願っておりますことをお伝えさせて戴きます。
 
その2.

   貴兄の前回の「ロシアの追憶」に引き続く、今回のドイツ・フランス・オーストリア紀行に基づく力作「太陽は西から、確かに昇った!」を読ませて戴きました。

   まずもって感銘を受けますのは、何と申しましても、ご夫妻が共に大きな手術を受けられながら、気分を滅入らすことなく、あくまでも前向きに活動的に目標を持って前進し続けようとされる類い希な精神力です。恐らく健康に恵まれた同年代の夫妻であっても、もうそのような活力や生きる意欲を減退させている例は枚挙にいとま無しと思います。
   
   どこからそうした強い意欲や生命力が生じるのか、愚人の私が想像しますに、この世に現存する世界各国の政治・経済・文化・風物・歴史・芸術等々あらゆることを肌で直接ご自身が把握し、或る悟りといいますか結論を導きたい、という心の底から沸き上がる超人的な情熱なのではないでしょうか。

   以前天才ゲーテの「イタリア紀行」を読んだことを思い出します。ヨーロッパ文明の起源とも言えるギリシャ文明・ローマ文明発祥の地の一つであり、そしてアルプスの南の太陽に恵まれたイタリアへの憧れが募る訳でしょうが、究極のところは、人間とは何か、文明とは何かを探求しようとする情熱と思いますが、これがあのような長期間のイタリア旅行を馬と徒歩で敢行しないではいられなかったと想像するのですが、あのゲーテにも匹敵する貴兄の情熱が、病後にも拘わらず、健康体の若者以上の精力的なスケジュールで、欧州各地を飛び歩かせるのではなかろうかと、思わざるを得ません。本当に頭が下がる思いが致します。

   また、貴兄の旅行記が膨大な量に達し、既に源氏物語の文字数を上回ったとのお話、驚きです。素晴らしいことと存じます。しかし、更に次々と続編を物されますよう願っております。
   
   いつかは源氏物語を読んでみたいとの思いはあるものの、余りの長編に手が出ずにいる私ではありますが、貴兄の著作はほぼ全て読ませて戴いてきておりまして、その興味深さに長編であることの苦痛も感ぜず、最新作まで読んで来たことからすると、もしかしたら、私でも源氏物語(現代訳)を読み通すことができるかも知れない、との希望を抱かせてくれる吉報でもありました。

   いつもの例に従いまして、貴兄の旅行記に沿って感想を箇条書きにて書かせて戴きます。

@ まず、奥様が昨年8月にペースメーカの埋め込み手術をされ、身体障害者1級になられたとのこと、いろいろ苦労されておられることお察し申し上げます。しかるに手術後3ヶ月しか経過していない中での欧州旅行に出発されるという、お二人のファイトに感銘を受けました。

やはり、長年同じ屋根の下で暮らしていると良い面で刺激しあって、精神面でも互いに強くなって行かれるものなのかと感心致しました。話は逸れますが、トヨタで同じ職場に在籍した仲であります友人K氏のことを思い出しました。

そのK氏は1987年11月に脳出血で倒れ、手術を受けられ失語症と右側麻痺になられました。その後回復され職場に復帰されたのですが、1991年12月に2度目の脳出血を起こしました。しかし、大変なご努力のリハビリで乗り越えて、今ではパソコンでその闘病記を完成させるまでになっておられます。

2003年11月、実に最初に倒れられてから16年後のことですが、「二度の脳出血を越えて」というハードカバーの立派な本を「暮らしの手帖社」から出版されました。
このK氏ご夫妻のことですが、立派だと思いますのは、その後毎年海外旅行に行っておられることです。

旦那さんを車椅子に乗せて奥様が実に明るく振る舞い、北欧や米国やその他の国々へ行かれていることで、私など随分前のこと、会社の命令で海外出張を命ぜられたときでさえ、半分面倒と思いつつしか行っていない身には信じられないくらいの、前向きな精神力のご夫妻共々に、いつも感心している次第です。

A 「太陽が西から昇る」ことを知りましたのは、まさに貴兄からのメールからでした。元は貴兄の友人であられるJALのジャンボジェット機の機長さんからの情報とお聞きしておりますが、それまで、全くそうした情報を耳にすることがありませんでしたので、感心することしきりでした。今回の旅行で遂に体験されたとのことですが、そうしたことを知るや否や、寸刻を置かずに体験しようとされる実行力に感服する次第です。

B ドイツのケルンやボンの近辺へは出張で何度か行ったことがありますので、やや懐かしく読ませて戴きました。読み進んで、「ジーグブルグ」という町の名前にぶつかりました。以前聞いた名前のように記憶します。確か、その町にある会社を訪問したことが有ったように思います。

貴兄のような明晰な頭脳と異なり、どんどん忘れてしまいますので、どんな町であったか、はっきり思い出せないのですが、郊外の森の中の田舎風のレストランへ連れて行ってもらって、庭のテーブルを囲んで食事をしたように朧気に思い出します。

C ケルンに韓国人が溢れていることが記載されておりました。さもありなんと思います。先日テレビでピアニストが話しておりましたが、まさに西欧の神髄のようなクラシック音楽の演奏家(ピアノやバイオリン等)についてですが、最近はどこのコンクールでも韓国人や中国人が優勝することが多くなってきているとのことです。

それは努力に見合う効果を勘案したとき、それだけの努力を幼児より継続するのは割に合わない、と考える欧州人が多くなって来たからだ、とそのピアニストは話しておりました。そんなことから東南アジア人に叶わなくなってきているとのことでした。どこまで本当か、やや誇張があるかも知れない話ですが、頷ける面もある話だと思った次第です。

D ケルン中央駅の構内のオープンカフェに老人が大勢陣取っていることを記述されておられますが、なるほどと頷けます。欧州の晩秋から春に掛けては、やはり寒いので野外では無理となるものの、多くの人との交流を求めて老人がたむろする場所として、あの広い駅構内は格好の場所と言えるのでしょう。

一方日本ではどうなのでしょうか。最近東京でも夏場はオープンカフェと言えるようなところが増えていると聞いておりますが、流石に冬では無理でしょう。では駅はどうかというと、狭くてしかもあれだけの雑踏の中では、流石に暇を持て余すお年寄りでも行く気分にはなれないでしょう。

もっとも最近は定年後元気でしょうがないという人も多いので、こうした人は私の観察(想像)では、セミプロ級の腕前と信じてカメラ片手に観光地を夫婦連れで動き回っているのではないでしょうか。季節ごとの香嵐渓(愛知県有数の紅葉の名所。本年4月1日から豊田市になった)は殆ど定年後のカップルでいっぱいとも聞きます。

E 相変わらず、貴兄の鋭い観察眼は冴えていて、欧州人の生活における「地下室」の役割を洞察し、翻って我が国の生活スタイルにまで考察を及ぼし、また個人商店の飾り付けの妙を我が国のそれと比較し、またドイツ人の住まいの整理整頓の徹底ぶりへの観察など、なるほどと思われます。

以前読んだ本に書いてあったのですが、なるほどドイツの主婦は今の日本の主婦に比べると、雲泥の差があるほど良く家事をするそうですが、近所に日本人の駐在者が住んで、例えば洗濯物を道路から見えるように干したり、庭が整理されていなかったりすると、「外から洗濯物が見えるのは公共の美を損ねるので止めよ」とか、「ちゃんと美的に庭を整理せよ」とか、大変うるさく干渉してきて住みづらいとのことでした。

スイスも日本人が想像しているような平和な美しい国ではなく、住んでみると大変なところ、とのことも読んだことがあります。

オーストリアも美しいハプスブルグ家の香りの残る、そして音楽の都ウィーンなどという表の顔だけではない、そこに住んだら日本人には耐えられない厳しさについて延々と書き綴った、駐在者の本も読んだことがあります。この辺りは観光で短期間ホテルに泊まった旅行者には分からないことなのでしょうか。

私の感じでは、そうした環境下でも堂々と彼らと渡り合い、是は是とし非は非として、自ら信じたことを堂々と主張できるタイプの人間と、真っ向から渡り合えず、彼らに対し拒否反応を示してしまうタイプの人間といるように思います。多分貴兄は前者と信じます。

私は恐らく後者で、すごすごと日本に舞い戻ってしまうタイプではないかと思います。一概に旅行者と長期の駐在者との見方の違いとは言えない、その人間の性格に関わるものかも知れません。

F スーパーや百貨店に於ける記述についてはいつもながら感心のみです。私などは毎日近くのスーパーへ通い、少しでも安い食料品をと閉店間際に買いに行く努力をするくらいで、貴兄のような海外のスーパーや百貨店との売り場面積や価格やエスカレータの複線などの比較など全く頭にありませんので、どこのスーパーがどんな様子だったかさえ記憶にないくらいで、いつも貴兄の熱心さあらゆる面への博学さに感心しております。貴兄が「横浜そごう」へ開店直後見物に行かれたとの話を知り、その行動力と熱心さにただ感心するばかりでした。

G 貴兄の行かれた今回の3ヶ国の、各地の多くは私は行ったことがありませんので、いろいろ経験をまじえたことが書けないのですが、ただ一つ貴兄が経験し損なったということを見付けましたので、書かせて戴きますと、パリの凱旋門です。

ここの屋上へ昇る経験をしたことです。凱旋門を中心にして放射状の12本の道路が写った写真が良く雑誌に掲載されておりますが、屋上からの眺めは思ったより高くてなかなか良いものだったと記憶します。そういえば、貴兄も見られたことと存じますが、オルセー美術館からのサクレクール寺院の眺めも良かったという記憶があります。
   
   未だ、いろいろ書くことがありそうですが、今回も今月末が期限とのお話なのに、今月最後の日曜日の夜書き始めまして、本日はこの辺までしか書けないものですから、ここでキーを置かせて戴くことにします。膨大な量の紀行記を記述された貴兄のご努力に充分応えられませんこと、申し訳なく存じます。

21.トヨタ後輩・工・我が駄文に輝きを何時も与えてくれる読後感執筆の真打・でもまだお会いしたこともない方。


   毎年新年には石松さんらしい特色あるすばらしい年賀状を、頂戴しておりますのでお忘れでないとは思いますが、私は、今から数十年前トヨタ車体から出向して、光沢さん(トヨタ同期・仕事仲間)、妻藤さん(元部下)、長坂(元部下)さんなどと一緒に研究に参加させて頂き、大変お世話になっておりました。

   貴台のことは、いくらぼんくらボケ老人の私でも忘れられるはずがありません。貴台のお父様は医師。貴台はトヨタ車体に技術系として最初に入社した旧帝大卒と自負していましたね。当時私はトヨタ自動車のCAD/CAMの長期計画に対してどのように取り組むかの大問題と格闘していました。
   
   その頃、東大機械工学科の渡辺茂教授の発想に基づいて、粘土で作られた自動車モデルの曲面の三次元計測データから曲面を創生し、プレス型をNCで切削するための大型応用プログラムを富士通信機製造(現在の富士通)の英才野沢さん(後のファナックの社長、東大卒)と小宮さん(東工大卒)が一年掛けて開発し、稲葉清右衛門さん(後のファナックの創業社長)が当社に売り込みに来ました。

   私はその評価のための計算処理を貴台に頼みました。その結果を詳細に検討した結果、私は残念ながら実用性はないと判断しました。その後、穂坂衛東大教授(元日本情報処理学会会長、CAD/CAMで日本学士院賞受賞、後にトヨタ自動車の技術顧問)の提案された方式を採用し、上司のご尽力の下、トヨタ自動車の関係者と豊田中央研究所・関東自動車・トヨタ車体・アイシン精機・豊田自動織機から派遣された俊英と共に、Toyota integrated Numerical Control Approach、略してTiNCA(ティンカ)と、不肖私が名づけた超大型システムの開発に没頭しました。

   本システム開発のために考え出された種々の新理論を技術論文にまとめ、昭和48年4月ニューヨークで開かれた学会で発表しました。そのときが私の海外初体験になりました。時に、私は若干35歳でした。このとき穂坂先生から『これは書き直せば、優に博士論文になる。私のところに出しませんか?』と勧められたが、多くの仲間の智恵の結晶だったので、『一将功なって、万骨枯る』を避けるべく辞退させていただきました。
   
   トヨタ・インカとインカ帝国とは何の関係もありませんが、我が青春の記憶の中では『インカ』という響きがいつも木霊しています。そのインカに引かれて、4/7〜16には、荊妻と共にインカ帝国へ旅立ちます。

   その折に石松さんは丁度結婚(昭和43年3月に結婚)され、新婚旅行から帰られた直後位に、本社近くの社宅にお邪魔した記憶がありますが、そのときに奥様にもお会いしているのではと思います。その後石松さんには、どこかの工場見学会でお会いした記憶がありますが、奥様にはお会いしたことがないと思います。当時のことを今大変懐かしく思い出しております。

   石松さんばかりでなく奥様も病魔の災難に遭遇されておられるとのこと、心よりお見舞い申し上げます。

   私には良くわかりませんが、がんセンターで完全寛解のご託宣があったにも関らず、再度癌が見つかったなどというのは、そもそも癌が不治の病だというのも含めて、現在の医学界のレベルを信じて良いものなんでしょうか。

   どうか奥様共々病魔を一掃され、残された後少なくとも100歳までの30年は、生き生き溌剌と元気で過ごされんことをお祈りいたします。

   さて今回は、51ページにも亘る長文の欧州3カ国旅行記をお送り頂き、いつもながらの石松さんの執念には唯驚嘆するのみ。今までのお送り頂いた旅行記は、印刷して名古屋への名鉄の中でゆっくりと楽しませて頂いておりましたが、今回は初めて、CRT画面上で読ませて頂きました。おっしゃるとおり時間的には、短時間で読むことが出来ましたが、返事を差し上げるまでには、このように1ヶ月を要してしまいました。

読後感:

   海外への旅行の機会が余りない私にとっては、石松さんの旅行記は、もし今後機会があれば大変に参考になるだろうと思って読んでおります。それは、多分その訪問地での随想録に現れている現在の日本に対する警鐘に、大いに賛同するところがあるからではないでしょうか。

   その内の一つ。先日のTVでの一こま。欧米では、若い時代に大いに働き優雅な老後を満喫するのが一般的。しかし、それから漏れた人生の失敗者は、生きる為に老後も働かざるを得ない。要するに老後働いているのは、人生の失敗者であるようなのです。

   今回の欧州旅行記の端端に日本との対比に於いて文化の違いに言及されていますが、その違いの源は、上記のゆとりある人生観にあるのではないでしょうか。

   企業に尽くすだけ尽くし、退職後数年で廃人となり死を迎えた有名企業の役員の方の話などを耳にすると、わびしい気持ちを抑え切れません。かくいう私も何となく将来の不安の為に、未だバスと電車と地下鉄を乗り継いでウイークデイは毎日名古屋に通勤しているわけですが。

   安焼酎での酔いが覚めてきたのか、少し愚痴めいて来ました。3月末までに返事を頂きたいとのご要望に、何とか間に合わせようと此処まで頑張ってみました。しかし、もっと長い長文でも、又、更なる感想文の要求にもへこたれないようにしますので、まだまだどしどしお送り下さって結構です。

(やはり未だ少し酔ってるかもしれません)

   最後に。米国の巨大企業GMは、自動車部門は赤字で、ファイナンス部門で利益を確保しているようです。トヨタは、自動車部門では遂に世界一のようですが、10年遅れて米国を追従してきた日本の将来は、英国、米国を見るにつけ、必然的に変わらざるを得ないのでしょう。但し、トヨタが衰退するのでなく、華麗にもの作り企業から変身することになるのでしょうが。

22.昔一緒に仕事をした社外の方・工・時々メールを頂けるのが楽しみ。


   「太陽は西から、確かに昇った!」を、やっと一通り読み終えました。大変興味深く読ませてもらいました。いつもながら、貴兄のバイタリティに感心させてもらうとともに驚いています。膨大なレポート、しかも示唆に富んだ内容で、今後の自分の生き方の示唆になることもあり、旅行の参考にもなり有難いです。
   
   冬至を挟んだ一ヶ月くらいの期間のみに見られるというのが、まだ良く理解できていませんが、初めて知りました。勉強になります。

   夏至に近付くにつれて日没時間は遅くなる。その季節の欧州路線では、夕方になると太陽は地平線に近付くものの、航空機の速度が地球の周速を超えると、地平線下に没する前に昇り始め、やがて又沈み始めるものの、地平線下に沈む前に欧州に到着してしまう。その結果、西の地平線の下から太陽が顔を出して昇り始める状況には至らない。

   従って、この世紀のショーが観察できる期間は、日没が早まる冬至前後の僅か1ヶ月に限られる!

   ともあれ、肺への転移も心配なくなり本当に良かったですね。益々のご活躍を祈ります。 感謝!!。

23.トヨタ同期・ゴルフ仲間・工


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