本文へジャンプホームページ タイトル
健康
           

■多重がんの闘病記(平成15年8月10日脱稿)


   平成14年11月28日、豊田地域医療センターにて胃がんの宣告を受けた。同年2回目の定期検診の結果とは言え、我が心には青天の霹靂に等しかった。更に12月14日には追い討ちをかけられるかのごとく、2個・合計10cmの食道がんをも発見。我が人生もついにこれまでか、との気絶しかねないほどの精神的な打撃を受けた。                                 

      急遽、愛知県がんセンターにて12月19日に胃の2/3を摘出。引続いて1月14日から3月18日まで食道がんへの放射線外照射を25回・同腔内照射を4回受けた。ルゴール染色法・生検・CT・PET(陽電子放射断層撮影装置)による検査の結果、幸いにも6月30日に主治医から待望久しかった寛解のご託宣。今後は定期的な検診による経過観察を受けることになった。              

      この間、日本を代表するような名医に出会い、多くの看護師や医療技師の献身的なご尽力に接しただけではない。100人を越えるメル友、友人・同室のがん先輩、親戚や家族からの励ましも受けた。この貴重な体験を『自分史のひとこま』として取りまとめ、賢人各位への感謝の気持ちを込めて、ここに謹んで奉告する。 

  
上に戻る
  ■はじめに

[1] 物言わぬがん患者の代弁者として

   この世に生を受けて64年。その間にたとい短い期間ではあっても一所懸命に人生を共有した人達(親戚・学友・勤務先・取引先・友人)の中から、不幸にしてがんに倒れた人を指折り数えたら、あっという間に50人を突破した。しかも、殆どの人は平均寿命に到達せずに旅立たれていた。
   
   多くの場合、風の便りのように『誰それは、がんらしい』との噂が流れ、やがて『亡くなられた』との訃報が追いかけてきた。私は病室にお見舞いに行くことも殆どなく、故人の無念さの心情を直接伺うことも少なく、一部の方の葬式に参加するだけで永久(とわ)の別れになっていた。
   
   10年以上前の私だったら、恐らくは誰とも親しく心を通わすこともなく、がん患者の一人として、かつてのがん先輩と同様に孤独のうちに静かに人生を閉じたに違いない。ところが、ワープロからパソコン時代を幸いにも生き抜いてきた私は、何時の間にか、日常の瑣末事を言葉として書き残すことにも、生き甲斐を見つけていた。その結果、このたびの胃がんと食道がんの治療経緯を、自分史の一つとして書き残すことに、とうとう使命感じみたものを何故か感じ始めていた。
   
   インターネットを検索すれば、無数のがん闘病記に接することが出来る。がん患者、一人ひとりの環境・病状は夫々に異なり、一つとして同じパターンは無かった。みんな渾身の力を込めて、恰も遺言のように書き綴っているのだ。
   
   私も読者がたとい一人とて現われなくとも、日本を代表するような名医に遭遇し、親身になって看病していただいた男女の看護師や関係職員、延べ300件を超えた友人達からのメールに励まされ、生き永らえてきた身を思えば、何らかの形で感謝の気持ちを書き残したく、ここにその顛末記を書き綴るものである。
   
[2] 追憶記の執筆方針

   私は治療期間中、纏まった記録は殆ど残さなかった。ベッドで物を書くのは大変苦痛だった。ベッドやテーブルが物を書くための構造になっていなかっただけではない。気力も失われていた。看護師から支給された体調記録用紙に、体温・体重・尿便回数・便の硬さ・血圧・脈拍・喫食量等を書き込んだだけだ。従って多くの先輩がん患者が書き残したように、日記式の詳細な治療過程を、貧弱極まる記憶力を頼りにしながらここに復元することは、私には不可能である。

   闘病に視点を当てるよりも、がんと今までどのように関わりながら私は生きてきたのか、その結果、がんは我が人生に対しどのような影響を与えてきたのか、などに焦点を当てながら書くことにした。その意味では、『がん闘病記』としてではなく、私にとっては非日常性溢れたがんの世界にたまたま旅行したのだと考え、そこで得られた見聞結果を『がん旅行記』の形式で気楽にまとめることにした。

   統計によれば、日本人の半数は遅かれ早かれ、本人は希望を全くしていないにも拘らず強制的に、がん旅行に出掛けさせられていることになる。しかも、この旅行での事故死率は何と60%にも達する。世界一危険な旅行だ!

   尚、『癌』という字は常用漢字(注、昔は当用漢字といった)表に無いため、内閣告示で定められた『国語表記法』では、ひらがなで書くことになっている。しかし、固有名詞などで漢字が使われているときには、そのままの漢字表記を使った。例えば『愛知県がんセンター』、『日本胃癌学会』のようにである。
                                                                  上に戻る
  ■とうとう、胃がんになった!

[1] がんとの我が出会い小史

@ 母の乳がん(昭和25年・小学校6年生)

   母が乳房に異常を感じ、検診を受けたら即手術との宣告を受けた。医学書によれば『がん』を本人に隠す習慣は日本では戦後に生まれたらしい(真偽は不明)。父は7人兄弟のうち、高1の姉、中2の兄と小6の私を呼び『母ちゃんが乳がんに罹った。死ぬかもしれない』と、寂しげにポツリとうめくように語った。小2以下の4人の弟妹には話しても無駄と考えたのか、知らせなかった。
   
   その2,3年前に、幅50mの川で遮断され殆ど交流が無かった隣の部落(大字)の、料理屋の奥さんがコレラで無くなった。感染して僅か1週間足らずだった。その時にコレラとは感染すれば殆どの場合死んでしまう恐ろしい病気であると、これまた父から教えられた。昭和52年の夏に和歌山の有田でコレラ騒ぎがあった時は、死者が意外に少なかったが、死亡率が低い、いわば『コレラもどき』のようなものがあるのを初めて知った。

   母の乳がんの手術を機に、がんがコレラと並ぶ恐ろしい病気であることが脳裡に焼き付けられ、それ以後、折に触れがんには特別の関心を抱く癖がついた。母の手術では乳房の全摘出法(ハルステッド法という。19世紀末に米国ホプキンス大学教授ハルステッドが考案した手術法。ハルステッドは手術用ゴム手袋の発明者としても有名)が採用された。傷口は胸肉を剥ぎ取られたブロイラーのように肋骨が浮き彫りになるほどだった。しかし、幸い寛解したのでホッとした。
  
   母は冠婚葬祭を初め畏(かしこ)まった場所への外出では、和服で殆ど通した。和服には体の輪郭を顕には浮き彫りにさせない良さがあったからかもしれない。

A 筋肉腫瘍?(昭和54年・愛知県がんセンター)

   昭和54年5月1日(当時のメーデーは、我が勤務先では休日だった)に本間のゴルフセット(パーシモンのウッド+カーボンシャフト。アイアンは未だに愛用中。しかし、サンドウェッジの文字は磨耗して消え去っている)を買った。40歳になった時の健康診断で肺活量が23歳時の5950ccから1000ccも縮退して4950ccになったのを知り、愕然となり、体力づくりは必須と覚悟したからである。

   いずれ周りの年寄り並にゴルフはすることになるのだろうと考え、昭和51年に縁故募集していたロイヤルカントリークラブの会員権(250万円)を全額借金して買ってはいたが、全くプレイする気は起きず、練習はおろかクラブすら持っていなかった。ゴルフに限らず、結婚でも家作りでも何でも、多少とも何がしかの決意が必要な場合には、決断を阻む閾値(いきち)を越えるきっかけが必要のようだ。
   
   爾来、会社帰りに週2回練習場に出掛け、3時間かけて1000〜1200発、へとへとになるまで打ち続けた。『コースへ出るまでには、週2回、延べ3ヶ月間は練習場に行け』との友人達の助言を真に受けていたからである。
   
   ある時、左足の太股(もも)に硬いしこりを発見。もしやがんでは?との疑念が脳裡を走った。がんの解説書を大急ぎで読み漁った。筋肉腫瘍の特徴として『輪郭がはっきりしている。硬い。熱をもたない。徐々に大きくなる』と書かれていた。手遅れになれば、がんでは必ず死ぬとの恐怖に襲われた。
   
   日頃、がん患者と頻繁には接している筈が無いと思えた近くの病院に駆け込むことは意図的に避けて、愛知県がんセンターに直行した。受付で記入させられた書類を見て驚く。何と死体引き取り人の連絡先を記入する欄があったのだ!
   
   太股のしこりの特徴を説明した後、『自己診断として筋肉腫瘍を疑っているのですが』と言いながら医師の診察を受けた。傍らの看護師が『先生この患者さん、もう診断が出来ているみたいですね!』と笑った。若い医師は正直に『私には結論を出す自信が無い。同僚にも診察してもらうから』と言って部屋を出た。
   
   別の若い医師が現われた。『私も分からない。暫くお待ちください』と言って退室。約1時間後に3人の医師が一緒に現われた。『石松さん!症状面から判断すると貴方の診断のように、限りなく筋肉腫瘍に似ています。しかし、一つだけ疑問があります。それはX線写真に影が写っていない点です。私たちの経験では、がんならば必ず影が写ります』
   
   『一つだけ質問があります。日常生活で、最近何か気になるような変わったことはありませんか?』『ゴルフの猛練習を始めました。検診前にそのことを説明すると、先生の正確な診断を惑わす恐れがあるかもしれないと懸念し、伏せていました』『私たちの結論は、何かの事情で腱を傷つけた結果ではないかと言うものです。あと一週間経って、しこりが更に大きくなっていたらご来院下さい。腱の傷ならば、しこりは小さくなります』。我が誤診の第1号だった。
   
B 胃がん?(昭和54年・愛知県がんセンター)

   毎年受けている健康診断(胃のバリウム検査)の結果、昭和54年に至り、初めてアラームが発せられ、胃カメラによる精密検査を受けさせられた。初体験の胃カメラ検診の結果、がんの疑いは晴れたが、経過観察として胃カメラによる毎年の検査を義務付けられた。胃カメラには見落としは無いのだろうか?猛烈な不安に襲われた。

   早速、担当部署に電話し『私はたった一人の医師の判断に自らの運命を委ねたくはない。愛知県がんセンターで再度検査を受けたい。写真などの証拠書類を貸し出して欲しい』と言って相談した。当時はまだセカンド・オピニオンと言う言葉は使われていなかったように思う。

   がんセンターの担当医は多少の責任を感じたのか、定期検診では5分で済まされた胃カメラによる検査を、15分も掛けて念入りに実施。終了後は唾液に淡い血が混じって出てくるほどだった。『がんではありません。慢性胃炎みたいなものです』と言った。我が誤診の第2号だった。それでも、疑問を感じたまま何もしないよりは遥かにまし、無駄骨折りをしたとは全く思わなかった。

   質問魔の私は早速『バリウム検査と胃カメラ検査について、医師はどのように使い分けているのですか?』『バリウム検査は、精度は悪いものの胃全体の状態が分かります。胃カメラは覗いた場所に関しては精度高く調べられますが、死角の場所には見落としが発生します。そのため私たち医師は両者を併用します。バリウム検査で疑問を感じた個所を発見したら、その部分を胃カメラで精密に調べます』

   当時、ウイスキーをストレートで一度に50〜100cc飲む習慣があった。水割りは刺激が弱く物足りなかったからである。気になって文献調査を早速開始。『アルコール度が25%以上になれば脱水症状が現われるから、ウイスキーやブランデーなどの濃アルコール酒を飲む場合は、水割りにするか、酒を飲んだら直ぐに水を飲むべし』との注意事項を発見。このとき以来守り続けている飲酒習慣だ。何かに躓(つまづ)かないと、ちっとも改善されない人生のひとこまの一つだった。

C 母の皮膚がん(昭和60年・九州厚生年金病院)
  
   母の皮膚がんに最初に気付いたのは同居している兄だった。右目の右側、縦長に成長していたがん(2*5cm)だ。兄は異様な色模様に疑問を感じ、診察を仰いだ。

   手術日には病院に家族が集合。私もお見舞いを兼ねて帰省。定年近い主治医が『手術は問題なく終わりました。ご心配は要りません』と言う。私は『本当にがんだったのですか?細胞検査はしたのですか?』『がんとの判断は私の経験からです。細胞検査で皮膚を傷つけると、そこからがん細胞が全身に血管を通じて広がる怖れがあり、却って危険です』

   日頃から気になっていた、徐々に大きくなっていた我がほくろを指差し『私の顔のこの部分は皮膚がんですか?』『がんなんかじゃありません』と即答されたが、半信半疑のままだった。母の入院期間は短かった。その間、父はお見舞いに連日一人で出掛けた。家族は夫婦の絆の強さに驚いた。

   母は幸い今回も寛解した。早期発見の価値を知った。その母も既に91歳。今は特別養護老人ホームで眠ったような状態で生きている。平成3年秋に父が老衰で亡くなって以来(享年88歳)、生き甲斐を失ったのか、徐々にボケが進み、残念ながら今では、いわゆる寝たきり老人になってしまった。

D 皮膚がん?(平成7年・名古屋大学付属病院)

   私は顔面のほくろが、段々気になってきた。皮膚がんではないか、との疑念である。九州厚生年金病院の老医師の判断は正しいのだろうか?思い切って有給休暇を取り名古屋大学医学部付属病院へと出掛けた。サラリーマンに取り、国公立病院の土・日休業は不便この上もない。サービス業ならデパートのように休業日は土・日以外に設定して欲しいと思ったものだ。

   付属病院では研修医らしき若い医師の診察を最初に受けたが、発言は一切しなかった。どうやら、患者への診断結果の発言は禁じられているように感じた。その後で正式な診察が始まった。診察をした老教授は一見するなり言下に『皮膚がんではないよ』と言う。不満な私は『証拠はなんですか?』『見れば分かるのだ。私の経験だよ』『では、これは何ですか?』『老人性イボだ。美顔手術を希望するならば、簡単に出来るよ』と発言。

   不満そうな私の表情を読み取った傍らの若い医師は『先生、写真集をお持ちしましょうか?』と言って、皮膚がんの大きなアルバムを取り出した。キャビネ版サイズの無数のカラー写真を捲(めく)りながら老教授は『これが皮膚がんだ。いかにも嫌な感じの皮膚だと分かるだろ』。なんだか地獄絵図を見るような印象だった。半分納得して退散。

   この日、生涯使えるプラスティック製の診察券を受け取った。料金は診察料込みで200円。余りの安さに驚いた。恥じ掻きながらの我が第3回目の誤診だった。しかし、がんで手遅れになるよりは、遥かにましだったと今回も喜んだ。後日、このほくろの正体を知った。
   
   日経ビジネス(1993年7月26日号、106ページ)の『診察室』に載ったものの要旨を転記した。ファイリング魔の私は、コピーを未だに保存していたのだ。
   
   イボにはウイルス感染によって生じるものと、皮膚の老化が原因となって生じるものとがある。ウイルス性のイボには尋常性疣贅(ゆうぜい)、青年性扁平疣贅などの種類があり、老化によるイボは老人性疣贅と呼ばれる。イボのことを医学的には疣贅と言う。

   老人性疣贅は、50歳を過ぎた男女に見られる、皮膚の老人性変化である。色は褐色、ないし黒色で、小さなものでは米粒大、大きなものでは親指の頭ほどになる疣贅もある。最初のうちは褐色、また黒色のアザ状のものが、次第に隆起してできてくることが多いようだ。治療法としては、液体窒素で患部を凍らせて、イボを取る冷凍凝固法がよく用いられている。

   老人性疣贅の場合は、ウイルス性のように他に感染することはないし、老化することも無い。したがってそのままほうっておいても構わないが、老人性角化腫、基底細胞がん、悪性黒色腫などの皮膚のがんと間違えることもあるので、気を付けた方がいい場合がある。老人性疣贅であれば、表面がざらざらしている。が、中には腫瘍ができたり、分泌物でジュクジュクしてくるものもある。見た目が汚らしいイボなら、すぐにでも検査を受けるべきである。

[2] 平成14年の定期検診(豊田地域医療センター)

@ 人間ドック(2002−2−25)

   平成14年2月、豊田市役所からの人間ドックの臨時募集に応募した。募集定員は少なかったが幸い許可された。今年は通常の健康診断の他に、追加料金での脳ドックも含まれていたから応募した。脳ドックは62歳の時(平成12年)に専門病院(名古屋脳ドック)で自主的に受けたことがあったので、その間の変化を知りたかったのが主たる動機である。
   
   豊田地域医療センターでの検診では、脳も、肺がん・大腸がん・胃がんも何一つ問題の指摘は受けなかった。尿酸値が高いことと、貧血気味であることは何時もの通りに、アラームがついた。内科医の検診を受けた時、手による触診と聴診器による検査があった。僅か30秒足らずで終わった。『異常なし』と言う。この時、余りにも簡単に済まされたので多少の不満を感じ、急に質問をしたくなった。

   『昔から何となく抱いていた疑問です。聴診器では一体何が分かるのですか?ただ音が大きく聞こえるだけではありませんか?』。内科医は聴診器を私に差し出して『音を聞いて見てください』と言った。『鼓動が聞こえるだけですけど』
   
   『その通りです。私は一日に何百人もの人からの正常な鼓動を、耳を凝らして聞いています。その時、ほんの少数の方ですが、大多数の人とは異なる鼓動を発する人に出会います。異常音に気付くために、正常音を聞いているようなものです。定期検診とはスクリーニング作業なのです』と答えた。骨とう品の売買業者は取り扱い物品の真贋を見分けるための能力を高めるために、本物をじっくりと観察することにより鑑識力を磨いている、との話を思い出した。
   
   バリウムを造影剤として飲み、レントゲン写真を無数に撮り、読影医師(技師?)が写真を一所懸命に凝視するのも、スクリーニング作業の一つである。大きながんならば慣れた医者が見落とす筈もないが、小さながんならば疲れも手伝うのか、見落とす確率は決して低くはない。一説によれば30%くらいの見落とし率は十分にあり得るとのことだ。最初から疑問符がついていれば、写真を見る時の気合も異なり、多分、見落とし率はぐっと小さくなると思うが。。。

    A 定期検診(2002−10−29)

   この日こそが我が人生の岐路になるとは、知る由もなかった。この日は毎年一回、豊田市役所健康増進課から通知されて受ける定期検診日だった。何時もの通り最寄の豊田地域医療センターで受診。後日、11月8日付けの手紙が来た。
    
   消化器検査の判定は最悪のG(精密検査を要す)だった。胃部X線の項にコメントが記されていた。『胃体下部小彎 辺縁不整 胃潰瘍疵痕疑い』。更に末尾の総合判定及び指示項目には『コレステロールが高値です。動物性脂肪の摂取を制限して下さい。血液中の尿酸が高めです。アルコール・肉脂肪食を制限して下さい。胃部X線上、異常所見を認めます。精密検査を受けて下さい。健診検査部 医師 水野文雄』。胸騒ぎを抑えることは出来なかったが、集団検診の何時もの習慣、『危うきは検査に回す』式で気楽に書かれているのだろうと、半信半疑だった。
   
    B 内視鏡による精密検査(2002−11−21)

   豊田市地域医療センター消化器外科部長、藤田医師による胃の内視鏡検査を受けた。『胃潰瘍か胃がんか分からない。そこで5ヶ所から細胞を採取した。1週間後にがんか否かが判明する。それまでは、念のために胃潰瘍の薬を飲んでおいてください』と宣告された。不安は一気に本物へと高まった。
   
    C 生検で、がんとの告知!(2002−11−28)

   再び豊田市地域医療センターに藤田医師を尋ねた。開口一番『がんでした!』との宣告。
『医師の診断を疑うつもりはないが、ダブルチェックをしたい。毎日がんと闘っている職人のような愛知県がんセンターの医師の所見も聞きたいから、証拠資料を借り出したい』
『コピーと紹介状を用意するが、別途お金が掛かりますよ』
『問題はありません。命よりは安いでしょう』。660円掛かった。
『所で、胃カメラで撮った写真は真っ赤でしたが、あの色は何ですか。一部の青色は何ですか』
『赤は血の色だ。細胞を採るので出血した。青い色はがんの範囲と凹凸を見やすくするための色素だ』
『手術までの猶予期間はどのくらいですか』
『1ヶ月。早いに越したことはない』

   10時ごろ帰宅。愛知県がんセンターに受付の締切時間を聞くと『11:30です』。『時は金なり。今ならまだ間に合う!』。距離は遠くなるが時間が短縮されると予想して、東名高速道路経由で荊妻と共に車をぶっ飛ばした。このときほどカーナビのあり難さを強く感じたことは無かった。
   
   消化器外科の伊藤医師は資料を見た結果、迷うことなく『がんです!』。もしや誤診だったのでは?との我が微かな期待は無残にも打ち砕かれた。
                                                                  上に戻る
  ■最良の治療法を求めて

[1] 時間と技術、いずれを優先するか?

   11月28日、朝は豊田地域医療センター、昼に愛知県がんセンター、夕方には再び豊田地域医療センターへと走り回った。医師と相談の結果、豊田地域医療センターだと手術日は12月13日、愛知県がんセンターだと1月半ば以降になることが分かった。前者には患者が少なく、後者はその逆だった。
   
   がんに関してじっくりと勉強する心理的な余裕は無かった。後で知ったことだったが、20〜30分毎に病原体が倍増する細菌性の病気と異なり、がんの進行には遥かに時間が掛かり、1,2ヶ月の手術の遅れは誤差の内だったのだ。しかし、当時の我が心境はパニック寸前だった。愛知県がんセンターの伊藤医師は『進行度を表わすステージはTA〜U。専門医にとっては易しい手術だ』と言った。それならば、早く手術が出来る豊田地域医療センターでも大丈夫と判断し、善は急げ、とばかりに翌日の11月29日から手術前の検査を医療センターで開始した。
   
   『好事魔多し』とはこのことか。11月30日は大学卒業40周年記念同期同窓会に出席を予定し、11/30〜12/3まで帰省の予定だった。医師と相談の結果12/5に入院することになった。

[2] 命の恩人(藤堂 和子様)との貴重な出会い

    @ 11月30日

   我が同期生は卒業20周年から10年おきに同窓会を、恩師やお世話になった職員をお招きして福岡市で開いていた。2次会には有志だけ、福岡市に自宅があり中洲に詳しい友人に連れられて、リンドバーグ(飲み屋)に出掛けた。専門が航空工学だったので『翼よ、あれがパリの灯だ』との名台詞(せりふ)を残したパイロット、リンドバーグの名に親近感も抱いていた。

   聞けばママ(藤堂様)は元日本航空のスチュワデス。名前の由来も分かったようなものだ。ここにはパイロットとか航空関係者もよく出入りしているそうだ。私が出掛けたのは今回がたったの3回目である。

『藤堂さん、胃がんに掛かりました』
『がんは最初の手術が勝負よ。どこで手術するの』
『豊田市地域医療センター』
『止めとき。もっと有名な病院があるでしょう!』
『本当は愛知県がんセンターで手術したくて、医療センターの消化器外科部長に紹介状を書いて貰って、がんセンターに11/28に出掛けたけれど、手術は1月中旬以降と言われ、時は金なりと思い、手術日が早くなる医療センターを選んだ』
『私は飲み屋のママを30年間も伊達にしていただけではないのよ。任しといて。がんセンターでもっと早く手術ができるようにするから。自宅の電話番号を教えて』。当日の飲み代は7500円だった。私は飲み屋に出掛ける趣味は無く、今までは人(他社)が払っていたので、料金の相場は分からないままだ。

A 12月4日

   ママから自宅に電話があった。『私の知り合いであった愛知県がんセンターの院長は既に定年退職をされていた。しかし、胃がんの大家である山村部長と懇意にされている、千葉西総合病院の小玉院長とやっと連絡が取れた。FAXで、貴方の連絡先の電話・住所・生年月日を書いて送るように。

   小玉院長はFAXを受け取り次第、山村部長への紹介状を書いてくれる約束になっている。紹介状が届けば、山村さんが来週月曜日(12/9)に診察してくれる』

『診察してくれた後、手術日は早まる見通しですか』
『勿論ですよ』

B 12月5日

   夕方、小玉院長からの紹介状が速達で届いた。封を切ると中から山村部長宛ての紹介状が入っている封書と名刺が出てきた。名刺には滋賀医科大学名誉教授との肩書きも書かれていた。名刺には朱印が押され、メモが記されていた。

   早速、がんセンターに電話した。

『小玉院長から山村先生宛ての紹介状を頂きました。12/9の月曜日に診察していただけるのでしょうか?』
『小玉院長からは、電話で用件は伺っています』
『病院の受付で診察を受けたい医師の指定が出来るのでしょうか?』
『消化器外科の看護師に言って貰えば、そのように取り計らってくれます』。診察日の当日、消化器外科では4人の医師が診察していた。
『有難うございました』。診察中のようだったので、電話は30秒で切らせてもらった。チャンネルは通じていたのだ!そのことさえ確認できれば十分だった。

夜、飲み屋のママにお礼の電話をした。

    C 12月9日

   大病院の待合室は、何処でも二段構えになっている。最初は各診療科のドアの外側にある待合室。やがて数人単位で呼び出され、中待合室に入る。がんセンターは診察室と中待合室とは気密ドアで隔離され、診察室の対話は聞こえない。

   一緒に待っていた胃がん患者が気安く、会話を交わす。『山村先生は大変丁寧です。診察に時間を掛けられるため、待ち時間の予想が出来ません』。私の場合は40分掛かった。こんなに長い診察を受けたのは、生まれて初めてだった。豊田地域医療センターから持ち出した写真を渡したら、一枚一枚丁寧に見られた。そして、写真でも分かる範囲の病状を詳しく説明されたが、上の空で聞いていた。

『小玉院長からの紹介状には年内に手術して欲しいと書いてあります』
『がん化レベルは1〜5の内、どの段階でしょうか?』
『5です』
『転移していますか?』
『写真からは明らかな転移の証拠はありません。しかし、転移がないとは断言できません。小さなものは目では見えないからです』
『がんのステージはTA〜Wのうち、何処まで進んでいますか?』
『断言できません。小さくとも転移が見つかればUです』
『5年後生存率はどのくらいでしょうか?』
『予言できませんが、山勘で言えば90%です。手術後に細胞の検査をします。その結果、転移の状況や生存率についても、もう少し高い精度で推定できます』
『肝臓と脾臓に白い斑点がありますが、あれは何でしょうか。がんではありませんか?』
『カルシュームが沈着したもので、何の心配もありません』
『先生は胃がんの手術は何人くらいされましたか。元エンジニアである私は、外科医は職人と思っています。職人の世界では、製造業に普遍的に診られる学習効果と言われている習熟曲線が存在し、量は質に転化すると確信しているものですから、敢えてお尋ねいたします』
『こちらに来て21年、最近では年間70〜80人、ここ以前の手術も入れると、1000回は超えます』
『私は先生に執刀していただけるのでしょうか?』
『小玉院長のご希望なのでそのつもりです』
『一人で手術をされるのでしょうか?』
『3人です。助手の医者が2人手伝います』。これを聞いてホッとした。相互チェックがないと、ガーゼや鋏を体内に忘れる医療ミスが起こり得るからだ。
『手術の予定日は何時頃でしょうか?』
『そんな約束は私には出来ません。ベッドが空くまでお待ちください。愛知県がんセンターではすべての患者様に公平に対応しています。たとい小玉院長の紹介状であろうとも、恐縮ですが優先されることはありません』
『がんセンターの胃がん手術件数は年間200件と聞いています。毎日ではないわけで、結構空いていると思えるのですが、どうして混んでいるのですか?』
『大腸がんなどを含む消化器外科の手術枠は週に10件です。それでやりくりに苦労しています。原則として受付順です。通常割り込みがあるのは、緊急患者の場合とか、キャンセルが出た場合くらいです』
『検査は今日から始めます。血液検査ではエイズも調べます。エイズの検査費は病院側で負担します。機械の空き具合を聞いてみましょう』その結果を確認後、
『12/16は胃カメラ、12/18はレントゲン』暦を見ながら
『病室は個室を希望しますか?』
『細々と生きている年金生活者です。大部屋で結構です』

   個室料金はA(26500)B(8150)C(5090円)の3段階だった。C室の自己負担金くらいはさして気にはならなかったが、それよりも大部屋でのがん患者の心理や挙動観察、お見舞い客の頻度などへの関心の方が実は強かった。

   特別養護老人ホームに91歳の母を見舞うときは、必ず面会者の受付ノートを眺める癖がついている。誰もお見舞いに来ない人がなんと多いことか!がん患者は家族からも実質的に見放されているのではないかとの、我が推定の検証もしたかった。

   診察後、当日でも出来る様々の検査を楽しく受けた。

   11/28に豊田地域医療センターで消化器外科藤田部長に『がんです。手術までの猶予期間は1ヶ月です』との宣告を受けたが、愛知県では最も経験が蓄積されている愛知県がんセンターでの手術が出来ることになったのは、何はともあれ嬉しかった。豊田地域医療センターの津田医師には鄭重にことの成り行きを報告して、手術の予約をキャンセルしていただいた。

   荊妻は12/7に岳父が救急車で九大病院に運び込まれたので、看病のため帰省中。今までに10回以上も入院しているが、83歳で肺炎とのこと。今度は危ないらしい。已む無く、一人で乾杯のビールをたらふく飲んだ。その後、飲み屋のママにお礼の電話。『良かったね。山村さんが執刀してくれて。早期の患者は若手の練習に普通は回されるらしいですよ!』
   
    D 12月11日

   15:30に突然、愛知県がんセンターからの電話。『明日、9:30〜10:00に入院の手続きをしてください。即入院です』

   予定が早まったのだ。手術日の連絡は無かったが、飲み屋のママの実力に驚くと共に心底感謝。今晩はビールの飲み収め。でも2本で我慢。

E 藤堂和子様の紹介記事(朝日新聞・2003/2/22、夕刊の1面)からの転載


      『中州通信』輝いて200号
         盛り場映し21年、ママ[私のダイヤ]
         編集長の藤堂さん、還暦廃刊?揺れる

   福岡市の歓楽街・中洲から盛り場の話題を提供してきたミニコミ誌[中洲通信]が、2月で創刊200号を迎えた。中洲の移り変わりとともに歩んできた、ポケットサイズの小冊子は発刊から21年余、いまでは東京の書店にも並ぶ[全国誌]になった。ミニコミ誌としては異例のロングランを達成したがその今後の行方は・・・(社会部・佐々木康之)

   編集長の藤堂和子さん(56)は、中洲で47年続くスタンドバー[リンドバーグ]の経営者だ。高校時代、母が立つカウンターの奥で、福岡出身のルポライター、竹中労さん(故人)が原稿を書く姿を見た。藤堂さんも新聞部でペンを握っていた。『店の下で編集者が原稿を待っていた。かっこいいと思った』

   71年、母を継いで3代目ママに。隔月誌[中州通信]を始めたのは、それから10年後だった。店を継いだころ、母が言った。『飲み屋をしていても何も残らんよ。汚れた着物と借金と』

   『母の言葉がちぃっと頭にあってね。10年たって、1千万円たまった。私は指輪も時計も、あまり好きじゃない。それならと思って』。店で客と交わした会話が、編集のヒントになった。辻の占い師や、ゴミを集める業者にインタビューした。中洲交番所長の人となりに迫った。駆け出しの漫画家に、路地裏の料理屋のルポを頼んだ。

   『ぜんぶ中洲。でも書きたいこと、なくなってきた』。89年4月、いったんは休刊を決めた。年を追うごとに、中洲と東京、大阪を隔てる壁は低くなる。藤堂さんの好奇心も中洲からはみ出した。90年5月、月刊誌として再開。その内容は休刊前とは違ったものになった。

   『赤字を出してまで続けるなら、知識を増やした方が得かなって』。対談に熱を入れた。ミステリー作家の夏木静子、女優の樹木希林、漫画家の石ノ森章太郎・・・。街の話題も各地へ広がった。隅田川の鰻、早稲田の商店街、信州の宿、京都・祇園の遊び、新宿ゴールデン街の消息。

   中洲にこだわらない編集方針は、東京や大阪の客も引きつけた。彼らとの会話が[中州通信]の幅をさらに広げ、ついにタウン誌コンクールで入賞するまでになった。『私にとって[中州通信]は、ダイヤモンドをつけるのと同じ。編集長という肩書きが、私のダイヤよ』

   21世紀の中洲。昔ながらのクラブ、スタンドにかわり、時間単位で料金を支払うシステムの店が幅を利かす。従業員の大半は、人材派遣のアルバイト。『東京の歌舞伎町と変わらなくなったね』と、昔を知る客はため息をつく。

   創刊時、客たちは『だいたい3号で終わる』と言った。『あんた、20年続けるけん、待っとかんね』と啖呵を切った。それから21年。藤堂さんはあと3年余で還暦を迎える。『60歳で廃刊にするか』。揺れる心は200号にのぞいた。巻末の連載の題には、[引退]の二文字が選ばれた。元横綱・貴乃花が去った土俵と中洲の街の華やかさを比べながら、いつかやってくる引き際を語っている。

===『中洲通信』をめぐる歴史===

1955年    リンドバーグ開店
1971年12月 リンドバーグの経営を母から引き継ぐ。中洲でビル建設ラッシュ
1975年03月 山陽新幹線、岡山―博多間が開通
1980年01月 『中洲通信』の前身、『LINDBERGH』創刊
1981年05月 『中洲通信』、隔月刊でスタート(B6判、100円、2500部)
1989年04月 休刊
1990年05月 月刊誌として再スタート
1996年04月 キャナルシティ博多が開業
1998年11月 NTTタウン誌大賞で奨励賞を受賞
1999年03月 博多リバレインが開業
2003年02月 200号発行

                                                                  上に戻る
    胃がん手術前

[1] 入院手続き

   入院に先立ち『入院許可書』が発行された。『許可』という言葉の使い方に大変驚いた。患者と病院とは対等の立場にある筈と思っていたからだ。この言葉の中に弱い立場の患者に対する愛知県がんセンターの態度が盛り込まれていると感じ、唖然とした。
   
   愛知県がんセンターは基本理念として『私たちは病む人の立場にたって、最新の研究成果に基づく、最良の心あるがん医療を提供します』。基本方針として『病む人の権利と尊厳を守る医療を実践します』など7項目。患者様の権利として『あなたは十分な説明と助言を受けた後、治療を同意、選択あるいは拒否する権利を持っています』など6項目、を高らかに謳っているが、『百の説法も屁一つ』という諺を思い出す。せめて『入院承諾書』くらいにならないものか。
   
   その日の入院患者約10人は指定時間(9:30〜10:00)に入退院受付室に集合した。患者は、迎えに来た病棟部各階の看護師により、それぞれの病室へと案内された。その後、病棟内の設備の設置場所(洗面所・風呂・電話・ゴミ処理場・面会室など)へ案内され、使用法の注意事項などの説明を受けた。病室に戻った直後に看護婦長の挨拶を受けた。『何でも気楽に、ご遠慮なくご相談ください』。

   病室内では早速、挨拶を兼ねて先輩のがん患者に自己紹介。とうとう監獄に幽閉されたような、落ち着かない心境に追い込まれた。そんなとき、気軽に話し掛けていただいた先輩患者の存在は貴重だった。がんについても、病院内の習慣についても知らないことだらけだったからだ。

[2] 我が主治医の紹介

   消化器外科の胃がんグループのトップで、病棟部長を兼ねる59歳、背中が真っ直ぐな超ベテラン。私は、理屈ぬきに嬉しかった。外科医は体力が無ければ勤まらない。猫背になった医師では心配だ。新患の診察から手術、担当患者の経過観察などで土日も休まずに出勤されていた!

[3] 手術前の準備、その1

@ 物々しい諸書類

   手術を受けるには、下記の書類に署名して提出しなければならない。患者にはその内容に関しての妥当性をじっくりと評価し、疑問点がある場合に異論を唱える立場はないも同然だ。署名を拒否すれば手術は受けられないから、形式的な書類に感じられた。面倒なので機械的に署名して提出した。これらの書類は医療訴訟に備えるために病院側に必要なもの、と理解せざるを得なかった。

  A。入院診療計画書
   
   主治医(山村義孝)・主治医以外の担当者名(野中健一研修医)・看護師(中村直子婦長)。病名(胃がん)、診療計画の詳細(治療に必要な全身状態の検査・手術)、検査・治療内容と日程、推定される入院期間(約2週間)。主治医からの手術前説明日(12/14)、等が詳細に書かれた書類を手渡された。

  B。輸血療法に関する説明と同意書
   
   この書類には、輸血に伴う種々の副作用が列記されていた。まるで保険の約款みたいだ。

   輸血をしなかった場合、ショック、出血、心不全など重症・致命的な合併症が起きる可能性があります。輸血が最善の治療手段と判断した場合しか行いません。また、輸血量は必要最低限にとどめます。                         医師 山村義孝 捺印

   上記の説明を受け、輸血療法を行う可能性と副作用について、十分理解いたしました。私は、愛知県がんセンターで治療を受けるに当たり、必要な場合に輸血を受けることに同意します。              患者氏名 石松良彦 捺印

  C。治療・検査同意書

   この度、私(石松良彦)は、主治医(山村義孝)医師から私の疾患(胃がん)について、その病状、治療・検査の内容、その合併症と後遺症、予想される結果、その他の治療法などについて説明を受け、十分に了解しましたので、この治療・検査を受けることに同意します。また、治療・検査により緊急の処置を行う必要が生じた場合、医師が必要と認める処置を行うことについても同意します。

   私は、今回の治療・検査にあたり、以下の項目(全部)についても同意します。
                              患者氏名  石松良彦 捺印

   以上の点につき、ご説明しました。治療・検査などで得られた診療及び個人の情報については、患者さんの秘密が守られます。あなた個人を識別する情報は、報告や発表などに使用されることはありません。          説明日 平成14年12月14日 主治医 山村義孝  

  D。同意書

   このたび、下記(胃がんにおけるPCRを利用した高感度腹腔内洗浄細胞診)の治療等の実施にあたり、その内容について十分な説明を受け、下記『高度先進医療(固型腫瘍のDNA診断)の実施』及び『その費用(35000円)の負担』について納得しましたので、同意します。
本人住所(豊田市宮上町2−28−4)、氏名 石松良彦 捺印

   私は、今回の遺伝子検査(高度先進医療)について上記の項目を説明し、同意が得られたことを認めます。                        担当医師氏名 山村義孝

A がん解説書の濫読

   愛知県がんセンターの1階にはコンビニタイプの売店があり、その一角にはがん関係の書籍もがんセンターらしく各種取り揃えてあった。早速その中から最新の本を選んだ。
   
   『がんの情報、がんの治療』

(別冊NHKきょうの健康・2002/10/20・初版)入院日の僅か1ヶ月半前の発行だ。
   
   国立がんセンター総長垣添忠生氏(天皇陛下の前立腺がん手術の医師団にも参加、ご自身も大腸がんに罹った)の総監修の下、執筆人には有名大学(東大・京大・九大他)やがん専門の大病院(国立がんセンター・愛知県がんセンター他)で活躍している現役人を総動員していた。本書は専門的な医学書ではなく、普通のがん患者が理解しやすいようにとの執筆方針が貫かれており、今までに読んだがん関係の本では、私が最も熟読し且つは愛用している座右の書でもある。
   
   PART1:がんの基礎知識
   PART2:部位別がん最新情報(25種類)
   PART3:最新の検査と治療(7種類)
   PART4:患者さんと家族のために(5テーマ)

   本書で私は愛知県がんセンターには未だに導入されていない『陽子線・重粒子線による治療』とか、がんの検査装置『PET(陽電子放射断層撮影装置)』の存在を初めて知った。

   本書では『代替療法』について、次のような興味深い見解も発表している。


   一般に代替療法といわれるものは、用い方によって二つに分かれる。一つは、標準的な治療法を受けながら、生活の質の向上のため、補完的に加える『補完療法』です。もう一つは、がんを治療するために、標準的な治療に代わって行う『狭義の代替療法』です。

   このうち、補完療法として行う東洋医学や音楽療法、アロマテラピーなどは、本人の苦痛が和らいだり、気分がリラックスするなどのメリットを感じるのなら、医学的には問題ありません。

   むしろ、問題となるのは、標準的な治療法があるのに、医学的に効果が証明されていない民間療法に頼ろうとすることです。現在のところ、いわゆる代替療法には、効果や副作用などについての科学的データや根拠がほとんどなく、厚生労働省の研究班による、代替療法の実態調査が始まったところです。

   ただ、標準的治療では効果が見られず、新しい薬剤などの残された治療法もないと分かった時期に『心の支え』、あるいは『苦しみを和らげる』などの目的で、医師に相談して代替療法を試してみたいということも、むげに否定のできないことでしょう。

   そこで、代替療法の目安として、『内容があまりにも非科学的なもの』『高額なもの』『副作用があるもの』『他の治療法を一切否定するもの』『体力を消耗するもの』などは避けたほうが良いと、静岡県立静岡がんセンターの山口総長はアドバイスしています。


   『胃がん治療ガイドラインの解説』

(一般用2001年12月版)、副題(胃がんの治療を理解しようとするすべての方のために)。日本胃癌学会偏(2001/12/10初版)。

   本書を開いて何よりも驚いたのは、日本胃癌学会の設立は何と1998年と言う遅さである。その胃癌学会の最初の社会貢献は本書の発行にあったと私は思った。その内容は

1. はじめに
2. この一般用ガイドラインの使い方
3. ガイドラインを理解するための基礎知識
4. ガイドラインの解説
5. 資料編:Q&A(質問形式)を中心にして
6. おわりに

   本書を纏めた動機が下記のように書かれていた。


   胃がんは日本では最もありふれた疾患の一つですが、治療方針は施設によりかなりの差のあることが学会のアンケート調査で分かりました。その原因の一つは、標準的な治療と研究的な治療とが、明確に区別されずに行われていることにあります。

   そこで、日本胃癌学会では病気の進み具合に応じて、標準的な治療として日常行われるべきものをガイドラインとして示すことで、この問題を整理することにしました。そして、これを医師ばかりでなく患者さんやその家族の方にも読んでいただいて、胃がんという病気とその治療法についてよく理解していただき、臨床の現場での医師と患者相互の意思疎通がさらに良くなることを願って、この一般用ガイドラインを作成しました。

   このガイドラインの原案は、日本胃癌学会の胃癌治療ガイドライン検討委員会で作られました。作るに当たっては、会員のアンケート調査の結果を参考にするとともに、主に論文発表や学会発表の内容から、科学的な証拠を集め、現時点で最良と考えられる治療法を選択しました。

   この案は、ガイドライン作成委員会とは全く別個に作られた評価委員会でさらに検討された後、日本胃癌学会会員に配布されました。そして、日本胃癌学会総会でガイドライン案に関して討論する場を設け、最終的に理事会の承認を得て一般に公開されました。

   学問の進歩は著しく、胃癌治療も年々進歩していますので、このガイドラインは定期的に見直され、改定されなければなりません。また、作成する委員も一定の任期で交代して、偏った見方にならないようにすべきであると考えています。


   日本の製造業が世界に冠たる地位を築き上げたのは、戦後いち早く米国から品質管理・標準化の諸技術を導入し、現場の隅々に至るまで展開したことにある。その活動を基礎においた上でトヨタ生産方式が熟成された。今や世界中の一流製造業各社ではトヨタ生産方式抜きの現場は語れないほどである。

   それに引き換え、医学界では医療の標準化がやっと取り上げられたことの遅さには驚愕するが、今後胃がん以外のがんだけではなく、医療全般にわたる幅広い分野への、標準化の展開を期待するや切である。まだ他のがんに関する患者向けのガイドラインは、大型書店でも発見することは出来なかった。私に関心のあった食道がんの治療法は今尚群雄割拠の状態にある。
   
   この胃がんのガイドラインの成果は、前述のNHKの本にも早速取り込まれていた。両書中には相互の矛盾が全く無い。本書では『胃がんに有効と称するたくさんの健康食品やワクチンなどの代替療法といわれるものについては、丸山ワクチンを含めて科学的にその効果は立証されていません』と、読者に注意を呼びかけることも、当然のことながら忘れてはいなかった。末尾には、関係者の下記のような謙虚な姿勢も見られ、これまた私の大切な座右の書になっている。
   
   
   がんのオーダーメード治療、つまり患者一人ひとりに最適の治療が求められる時代になりました。ガイドラインを示すことで、胃がんの治療が個々の特徴を無視した画一なものになるのではないかという批判もあります。確かにガイドラインの使い方によっては、画一的な発展性の無い医療が行われる可能性があります。
   
   しかし、いろいろの治療法が開発された今こそ、それぞれの治療をどのような場合に行うのかを示す、適切なガイドラインが必要なことをお分かりいただけたと思います。山に登るルートが一本道であればガイドブックは要りません。登る人に適した様々な道が頂上に繋がるからこそ、より正確なガイドブック(ガイドライン)が必要になるのだと思います。
   
   本書には胃がんの標準治療方法(日常臨床)として、

@ 内視鏡を使った治療
A 手術療法
B 化学療法(薬物療法)
C 放射線療法
D 緩和医療(ケア)
E その他、温熱療法、免疫療法

が紹介されているだけではない。これらとは別に臨床研究についての見解とその具体例も紹介している。

   このガイドラインで日常臨床として示されたとおりに治療しただけでは、胃がんの治療成績が今より格段に上がることはありません。そこで、少しずつ工夫をして今より更に多くの人が胃がんから助けられたり、より安全な方法で治すことが試みられています。これを臨床研究といいます。その新しい工夫や考え方が正しいことが分かった時には、このガイドラインは速やかに書き直されることになるでしょう。
   
   同書には臨床研究の例として13項目紹介されていた。例えば

@ 2cmより大きい粘膜がんを、内視鏡による粘膜切除で治す。
A 腹腔鏡で覗きながら、小さな傷で胃切除術を行う。

   ガイドラインに沿った治療だけではなく、試みるに値する科学的な根拠がある程度あり、しかも、安全性もある程度確保されていると考えられる臨床研究に参加する気持ちを持っていただきたいと思います。と述べている。

   
   標準的な治療法が設定されていない他のがんの場合、患者から見れば、日常臨床に近いのか臨床研究に近いのか、知らされないままの曖昧な治療を受けるのは不幸である。
   
   59歳の我が主治医は胃がんの手術実績が累積1000人を超える超ベテラン。しかし、私の手術ではこのガイドラインに沿った方法を採用された。芸術家は独自性の発揮にこそその存在価値があるが、医療の世界では、何人(なにびと)と雖も多くの人の経験と知恵の結晶であるガイドラインに沿うべきものとの、日本胃癌学会の主張には全幅の賛意を感じるところである。
   
   その他にも10冊くらいがんの本を買って読んだが、特記するほどのものには出会えなかった。著者の個人的見解が濃厚で、客観性に疑問が生まれるものが多かった。医学書の世界は数学や物理学とは次元が異なる、と痛感したのでここで紹介するのは止めた。
   
   蛇足(朝日新聞のインターネットからの転載)
      
   平成15年7月7日に、乳がんの検診や治療をめぐる日本初の包括的なガイドラインを厚生労働省の研究班が纏めた。国内外の研究成果を集大成し、初期段階のがんで小さく切る乳房温存療法については『生存率は乳房全体の切除と同等』と評価した。病院による治療法のばらつきを減らし、患者が最適の医療を選ぶのに役立てる。
   
   乳房温存療法はがんの部分を切り取った後、放射線を当てる方法。がんの大きさが3センチ以下といった条件を満たした場合に実施される。乳房全体を取り除く外科手術と治療成績を比べた結果、ガイドラインでは『生存率に差はない』とした。
   
   温存療法が難しいがんの場合に手術に先立って抗がん剤を使う『術前化学療法』についても検討し、『十分にがんを縮小する効果があり、温存率が上昇する』と認めた。がんを小さく出来れば、温存療法が可能になる。
   
   ガイドラインの内容には予防や検診も含まれ、『過度の飲酒は乳がんにかかる危険性を高める』『40代以上への乳房X線撮影検診は死亡率を減らす』などとしている。
   
   今回のガイドラインをもとに、今後、日本乳癌学会などでさらに検討を深め、学会としての診療ガイドラインづくりを目指す。乳がん以外では、日本胃癌学会が2001年に胃がんのガイドラインを公開している。
   
   私は主だったがんに関して、完璧ではなくとも、夫々の関係学会がガイドラインを早く発表することを望んでやまない。これらのガイドラインは設定当初には色んな問題点があろうとも、刻々改定すればすむことだ。
   
B 胃がんの精密検査

   愛知県がんセンターには他の病院から紹介されてきた患者も少なくない。その場合、患者は通常、前の病院での検査データなども持ち込んでくる。私も豊田地域医療センターで受けた内視鏡検査やCTで撮影した写真も持参した。

   主治医は持ち込んだ資料を信用しないと言う立場ではなく、時間も経っているし、念には念を入れて、手術前の再検査を計画された。『**先生は内視鏡の使い方が上手いんですよ』と、独り言を呟きながら同先生のスケジュールをパソコンで確認しながら、予約された。私は迂闊にも**先生のお名前を聞き落としたままである。

   **先生は胃がんの検査時に、私が予想だにしていなかった食道がんを発見された。小さいのと、その直ぐ近くにその数倍も広がっていた大きい食道がんの合計長は約10cm。幅は円周に沿って3〜4cmもあった。この2つの食道がんは一方からの転移ではなく、独立に発生したがんだそうだ。転移して他臓器に発生したがんは原発がんの性質を温存しているから、胃がんからの転移ではなかったことも分かるそうだ。手書きでスケッチを用意された。私は胃がんの宣告を受けた時とは比較できないほどの衝撃を受けた。
   
   我が表情を読み取られたのか、先生は『この食道がんは初期ですよ!詳しくは主治医の山村先生から聞いてください』。本当はここで即座に質問したかったが、内視鏡検査の直後は声帯にも違和感が発生し、思うように声が出しにくく、先生もご多忙の様子がありありだったので、心ならずも遠慮して引き下がった。

   NHK発行の本に出てくる食道がんの解説では『食道がんは、ごく初期には、ほとんど症状はありません。自覚症状で最初に現われるのは、[のどの違和感]です。例えば、食べ物を飲み込んだ時に、食道の奥にチクチク痛みを感じたり、熱いものを飲んだときに、しみるような感じがします』。勿論、私にはその時まで、違和感を感じたことは一度もなかった。

   また同書の一部に『なお、胃の内視鏡検査の際に、偶然食道がんが発見されることもあります』。また、他の医学書には、内視鏡による胃の検査時には、食道の検査をすることが望ましいと書いているものもあった。今まで10回位は集団検診で胃の内視鏡検査を受けてきたが、食道をチェックしてくれた医師は一人もいなかった。
   
   今にして思えば、愛知県がんセンターにて山村先生に出会えた最大の意義は、結果として無自覚状態だった初期の食道がんを、消化器内科医経由ではあったが発見して貰った事にある。その意味では**先生は私にとり正しく命の恩人である。後日、山村先生にメールで**先生のご尊名をお尋ねしたら『思い出せません。カルテを取り寄せれば分かりますが、私にはとてもそんな時間はありません』とのご返信。その頃、山村先生は殊の他ご多忙になり、とうとう過労で倒れられ、2週間くらい、入院されてしまった。
   
   私はある時、我が胃がんはすっかり寛解したと自己判断し、メールで失礼とは思いながらも、渾身の力を込めて、山村先生におん礼の手紙をお届けした。その翌日、丁重なご返信をいただいた。
   
   
   昨日御丁寧な御挨拶状を頂戴いたしました。ありがとうございました。私自身、先日入院する機会がありまして、家族のあり難さを身に染みて感じました。石松様が今日あるは奥様のおかげですので、これからは奥様孝行に励んでください。
   
   それとともに油断大敵と申します。お身体には呉々もお気をつけくださいますよう、お願いいたします。メールにて失礼いたします。
   

    C 体力検査
   
   手術に耐えられる基礎体力が十分にあるか否かの検査は多面的だ。手術前の1週間は次から次へと、CTを初めとして、心肺機能・肺活量・心電図・血液検査・尿検査・胸腹部X線撮影など、定期検診や人間ドックに比べれば検査項目が遥かに多かった。メモを取らない私は、その全貌はとても覚え切れなかった。
   
   山村先生に『検査結果はどうでした?』。『心配は要りません。心配無用の時はいちいちご説明は致しません。異常時には相談するし、必要ならば追加の検査もします』。

[4] 手術前の準備、その2

@ 求められた体力づくり

   『胃切除術治療計画書』を渡された。これには手術前の、食事・運動・排泄・清潔・処置・点滴・薬・検査について、詳細な説明が記されていた。更に、散歩とトリフロー練習に関しての回数の記録部分もあった。トリフローとは肺機能を増強するために、計器の中に口から空気を吹き込む道具。肺活量を測定する装置を小さくしたようなもの。   

   看護師からは『術前訓練』と書かれた解説図付きの書類を渡された。体力が激減した術後の深呼吸・うがい・痰の出し方にもちゃんとした方法論があるのだ。食事の作法も訓練された。少しずつ口に入れ、30回噛むのが基本。食べ物の代わりにスプーンと水を使って実習させられた。

   検査待ちの時間は空ろな表情でベッドに横たわっている私を見て、主治医は『階段を昇り降りしたり、散歩をして体力づくりをしてください』と指示。一番嫌いな散歩も仕方が無いので実施。がんセンターの敷地の周りには公園もあり、何人かの患者ともすれ違った。

   がんセンターの病棟部分は地下1階、地上9階だった。地下から屋上までの階段数は丁度250段だった。地下の検査&治療用機械室、4階の手術室など天井の高さはまちまちだが、合計すると丁度250段になっていたのは、設計者の密かなる美学か?

   病院の職員や入院患者に階段数を当てるクイズを出したが、日頃そんなことには皆関心が無いのか、誰も知らなかった。私は世の中の森羅万象、何でも数値化したり方程式化する癖がここでもつい、出てしまった。階段を2往復すると全部で1000段。せっせと歩いても15分かかった。12月とは言え、途中でセーターを1枚脱がざるを得ないほどに暑くなった。
    
A 恥毛除去は、今やバリカン時代

   女性看護師が『処置室は込んでいるため、病室で処置します』という。『昔は剃刀を使っていましたが、手術でもないのに出血することもあり、今では電気バリカンを使うようになりました』。電気剃刀は長く伸びた毛は刈りにくいため、バリカンを使うようだ。

   入院して、一週間も経たないのに、何時の間にか羞恥心は消滅。臍のごま取りだけではなく、両足の太股の毛も刈り始めた。『太股に毛があると何か困るの?』『衛生面からではなく、手術で使う電気メスの電極を貼り付けるためです』

[5] 充実した説明会(インフォームド・コンセント)

@ 主治医による患者と家族への説明会
           
   病院内には主治医が患者とその家族に手術の方針を説明するための、専用の小さな会議室があった。この部屋には机と椅子のほか、各種写真を見やすくするスクリーン(シャーカステンと言う)も用意されていた。荊妻、臨床心理士の次女、トヨタ自動車勤務の長男も有給休暇を取って来院した。長女は婿と共にドイツに赴任していたため、呼び戻しはしなかった。
   
   がんとの闘いは患者本人だけではなく、家族の支援も欠かせない。十分な協力を取り付けるためにも家族への詳しい説明会は必須のようだ。主治医からは検査結果を踏まえて、改めて胃がんの患部・大きさが写真を使って説明された。その後、胃は2/3切除することになるとの説明。
   
   既に集中力を失っていた私は、主治医の説明について論点を整理することも無く、ただぼんやりとしながら音声としてのみ聞いていた。得意としていたはずの質問もとんと思いつかない。その時である。日頃は私に質問など殆どしたことも無かった子供達が、この瞬間を待っていたかのように猛然と質問開始。予定の1時間を30分も超過。しかし、白昼夢を見ているような私には、質問のうち記憶に残ったのはたったの2つである。
   
   長男が『胃を2/3切除したら、残った胃の大きさはどのくらいになりますか?』。主治医の回答は思い出せないが、私が理解する答えは次の通りである。『胃の形はバナナのように曲がっている。内側と外側の稜線の実長に沿って上から1/3を結ぶ線を結んで切断。下部は幽門部を含めて切断。二つの断面積は異なるので上部の大きな断面は巾着のように小さく絞り、下部と縫合する。したがって、残った胃の体積は1/3よりも小さくなる』
   
   主治医が『手術後、薬を含んだ洗浄液で患部や腹腔内を洗浄し、吸引除去します(PCRを利用した高感度腹腔内洗浄細胞診のこと)。その後、洗浄液の病理学的検査(生検)をし、がん細胞の有無をチェックします。これには保険が適用されないため、3万5千円かかります』。長男が『患部を洗浄したら、腹腔内にがん細胞をばら撒くような結果になりませんか?』。このときの主治医の回答も全く記憶に無いが、病理学的検査の結果は『がん細胞、存在せず』だった。
   
    A 麻酔医による患者への説明

   午後8時ごろ、麻酔医が病室に疲れた顔で麻酔の説明にきた。周りの患者に迷惑になると思い、面会室に移動。『毎年500人以上、過去19年間で10000人以上に麻酔をかけたが、死亡事故も無ければ、植物人間になった人は一人もいません。ご安心ください』と自己紹介。当院の麻酔医は5人。内女性が3人。手術室が9室もあるのに麻酔医が5人では掛け持ちも必然。過労で麻酔事故が起きるのではないかとの心配をせざるを得ない。

  麻酔説明書

   全身麻酔は初体験なので、緊張して説明を聞く。

   麻酔は全身麻酔(手術の間、意識が無く痛みを感じない状態にします。患者さんにとっては眠っている間に手術が終わるという方法です。全身麻酔の間は、筋肉が動かないように薬を使いますので、のどに管を入れて人工呼吸をします。)と硬膜外麻酔(背骨の間から針を進めて、脊髄神経の近くにある硬膜外腔に局所麻酔薬を投与して痛みを和らげる方法です。手術が終わって全身麻酔が覚めたあとも続行できます。背骨の病気、皮膚の病気、血液の状態など場合によっては施行できないこともあります)を併用します。
   
   手術室では硬膜外カテーテル(手術後も1〜3日使う)と挿管から酸素と一緒に麻酔薬を入れる。覚醒は回復室で行う。覚醒したかどうかは@私の手を握ってくださいA眼を開けてくださいと言いますから、そのようにしてください。

   麻酔の合併症として、唇・歯の損傷、喉の痛み・声のかすれ、喉頭けいれん、喘息発作による低酸素症、悪性高熱症(麻酔中に高熱が出る)薬性アレルギー・ショック、神経損傷・血腫(硬膜外)・おう吐・誤えんによる肺炎がある、との恐ろしい説明。
                                                                  上に戻る
    ■胃がん手術

[1] 手術前夜

    @ 斎戒沐浴

   いよいよ、明日は手術という日、体全体を可能な限り清潔にするべく入浴。病棟は同じ階が東西に分かれ夫々に50ベッドあり、風呂が各1ヶ所あった。西病棟の7階は男女の曜日は異なり、東病棟は毎日入浴できるが時間帯が異なっていた。汗も大してかかないし、手術後の患者の殆どは24時間連続して点滴を受けているため、入浴患者は大変少ない。
    
   先客がいた。三重県出身の胃がん患者。手術時期は1月下旬。現在は検査入院だとのこと。手術は来月でもベッドが空いているときに、繰り上げて出来る検査は先にしてしまう方針のようだ。41歳。スポーツマンを髣髴とさせるような筋肉質の羨ましいような肉体。
    
   『貴方のような男盛りの人にとっては、がんセンターに幽閉されているような状況での禁欲生活は苦痛ではありませんか?』『それが不思議なんですよ。ここにいると全く欲求が発生しません』『本当ですか?』と言いながら、真偽を確認すべく股間を覗き込んだ。正しく本人の言う通りだった。まるで提灯を畳んだかのように萎縮していた。
    
   お返しに彼が我が陰部を覗き込むやいなや『ウワッ、でっかい!』と驚く。生まれてこの方、大きいなどと冷やかされたことは一度も無かったのに、この異変。その瞬間、私は青少年の『短小コンプレックス』の治療法を思いついた。彼は錯覚したのだ。その原因は恥毛刈りにある。
    
   彼の記憶の世界では、恥毛の無い状態は子供の頃である。その時の残像との比較からの直感が第一声である。上記の治療法とは『汝、恥毛を剃れ。然る後、鏡の前に立て!』
   
A 完全なる浣腸
   
   胃がんの手術に先立ち、当然のことながら胃腸内は完全に空にしなければならない。単なる絶食では保証の限りではない。そこで下剤を飲むものの、胃腸内が完全に空になっているかどうか、私には分からない。女性看護師はトイレに行って用を足したら、呼び鈴で看護師を呼ぶようにとの指示。便の色や状況で、分かるのだそうだ。

   便の色から見て未だ不十分とのこと。浣腸をすることになった。初体験だ。誰にも見せたことのない肛門を差し出すのに邪魔となる羞恥心は既に消滅していた。浣腸の即効性には驚愕。

   薬液を注入後、一分足らずで強烈な便意を感じトイレに駆け込む。肛門周辺には毛細血管などが集中しているのか、薬液の浸透速度が即座に感じられた。これだけもの神経が集中している肛門を痔等で手術している人の後遺症が思いやられた。看護師による最後の点検も無事に完了。   

B 睡眠薬使用の是非に迷う

   今晩は眠れるだろうか?『心配ならば、睡眠薬を使う』と、看護師。睡眠薬は生まれてこの方、体験がない。心配性になると切りがないが、定刻までに目が覚めなかったらどうなるのか、万一の副作用も怖い。思い起こすと今まで、世界のどんな所に出掛けても眠れなかったとの体験はない。

   初体験の睡眠薬よりも、過去の自然睡眠の信頼性に賭けることにした。結果としては、何の支障もなく熟睡できた。

[2] いざや行かん、手術室へ!

@ 手術室周辺の異様な雰囲気

   全裸になり手術着を着せられ、手術直前にベッドで注射された(筋肉弛緩剤だったか?薬の中身は忘れた)。足元がふら付くからとの理由で、病室まで持ち込んできた寝台車にベッドから乗り移った。看護師が寝台車を押しながら大型のエレベータへ。やがて手術室前の廊下に到着。手術室は全部で9室。1000ベッドを越える東大病院の手術室が14室だそうだから、ベッド数(500ベッド)に比べ手術室は多い。
   
   ずらっと廊下に午後の部の寝台車が並ぶ。やがて手術室の扉が開く。広々とした部屋、煌々と眩しいほどの照明(丸い枠の中に電球が10個)の真下に進む。扉がガチャンと閉まった。その瞬間、火葬場で焼却炉の扉がガチャンと閉まったような印象が脳裡を走った。最早、元には戻れないのだ!

A 心配だった全身麻酔

   全身麻酔も初体験だった。麻酔の効き方は人様々との説も聞いたことがあり、本当に麻酔が効くのか心配だった。結果は大成功!正に一瞬の間に麻酔は掛かった。多分、麻酔開始から数秒以内で昏睡状態に落ちていた。

    B ビルロート法による手術

   胃の切除手術にはドイツの外科医ビルロートが世界で最初、1881年に成功した。このときの手術方法をビルロートT法といい、残った胃と十二指腸を繋いだ。そして、今日、胃の部分切除というと90%がこの方法である。100年間以上も同じ手法が採用され続けている。

   胃と空腸を繋ぐ方法をビルロートU法と言う。私の場合はビルロートT法が使われた。

[3]手術前後

@ 手術中、家族は臨戦態勢で待機

   手術日にも家族3人が来院。家族控え室で待機。患者は麻酔状態だから、主治医は患者の意思を確認することは出来ない。まさかの場合に、患者の代理人になって医師の問題提起に対応するための来院だ。私の場合には、幸い何事も無く手術は終わった。
   
   しかし、我が同室胃がん患者の場合、このまさかの事態に陥った。開腹直後、他臓器への転移が予想以上に進行していて、主治医は手術での治療は無理と判断し、家族の同意を求め、手術を中止した。主治医の宣告は、半年〜1年の余命。
   
   覚醒後、事情を知った本人の言葉は『仕方がない』だった。お気の毒でかけるべき言葉も思いつかなかった。一週間後、傷心のうちに退院された。

A 主治医による家族への所見説明
   
   手術後、主治医が『リンパ節への転移があった。胃の周りには脂肪が異常に多く、転移しているリンパ節の発見に難渋した』と、家族に語った。リンパ節の取り残しがあるのではないかと、荊妻は心配しているようだった。
   
   切除した胃は直ぐに生検に回すため、次女がカメラに収めて見納め。私は現物を見ることも出来なかった。写真ではサーロインステーキみたいだった。

B 主治医や麻酔医による覚醒した私への説明

   手術後に入る個室に主治医と研修医とが回診に来られた。『手術は無事に完了。リンパ節への転移があった』。その他、説明されたが、うつらうつらとしていた私は、何も覚えていない。

   翌日には麻酔医の回診もあった。『麻酔医の伊藤です』。と律儀に挨拶をされた後、『何か気にかかる事はありませんか?』『全くありません。有難うございました』

C 手術後に見た、哀れな我が姿!

   我が体には幾つかのパイプが取り付けられていた。陰茎の先端から尿管が膀胱まで挿入されていた。尿管からは一日中連続して尿が容器へと流れ込んでいた。左の鼻の穴にも管が差し込まれその先端は胃に達していた。消化液を定期的に吸引していた。

   背中には硬膜外麻酔点滴用の管が差し込まれていた。これは大変有効だった。全身麻酔から覚醒しても、何らの痛みを感じなかったからである。点滴スタンドに吊るされていた点滴液は左手から常時体内に補充されていた。とうとう、満身創痍の本物の重症患者に変わっていた。
                                                                  上に戻る
  ■胃がん手術後

[1] 手術後の標準工程書

   手術日から退院日までの管理項目が表形式で記述されたA3サイズの書類を渡された。横軸には、手術当日(手術前)、手術当日(手術後)、術後1日、術後2日、術後3日、術後4〜6日、術後7〜12日退院と書かれている。

   縦軸には、説明、食事、運動、排泄、清潔、検温、点滴・薬・痛み止め、検査処置の欄があった。両軸で構成されたマトリックス欄には、何をするか、何に注意をするか、などが細かく記されていた。例えば、手術直後、検温は頻回に、その後は1時間ごとに行います。手術日から3日後までの4日間は絶食、但しうがいは出来ます。チェックリストのようなものだ。

[2] 無料の個室生活

@ 退屈な個室

   覚醒室で覚醒し、人工呼吸器を外された(何時外されたかの記憶は全くない)後、まだ無意識状態のまま個室へと移動させられた。私の本当の意識が回復した場所は個室だった。目覚めると傍らに荊妻・次女・長男がいた。愛知県がんセンターでは有料個室とは別に手術後の数日間を過ごすための無料の個室があった。手術直後は看護師が1時間間隔で病室に来て体温・脈泊・血圧などの検査、各種点滴液の流れ具合の確認に来る。4人部屋だと他の患者の安眠妨害になるほどだ。

   本物の夢なのか、白昼夢なのか、意識しているのか、自分でも判然とは区別がつかない状態が続いた。目を瞑(つぶ)っても、開いても、脈絡も無く色んなカラー画像が脳裡を掠めては消えていく。意識朦朧(もうろう)とはこんな状態なのだろうか?

   子供が帰ってしまった後は、只ひたすら天井を向いて寝ているだけ。新聞を読むことも出来ず、テレビをつけてもベッドとの相対的な位置関係が悪く、結局は見なかった。

A 息抜きは訪問患者とのお喋り

   手術前の4人部屋の仲間が、様子見兼暇つぶしに遊びに来た。同じフロアだから点滴スタンドを引きずりながらでも、患者は気軽に移動できる。

   どの患者にも共通していたのは、何でもかんでも己が自(おのがじし)嬉しそうに自らの人生体験を語ってくれたことだ。寝たきり状態の私はまだ喋るのには不自由していたから、ひたすら聞き役に徹していた。誰でも誰かに語り尽くしたい自慢の人生や秘密などが山ほどあるようだ。

   訪問患者に楽しく語ってもらうコツは、相槌の打ち方にあるようだ。ひたすら相手の話題の流れに乗りながら、適宜質問も加えて盛り上がり場に誘導。がんに罹ると、自分の人生も先が見えた、虚勢を張ることにも然したる価値もないと考えるのか、聞いているほうが驚くほど正直になってくる傾向がある。

   職業が違うと、人生のパターンは一変する。ある人は新婚時代から今日までの人生を語った。夫婦で呉服屋を開いていたが、伊勢湾台風(昭和34年)で店は水没。商品は全滅し半狂乱の絶望を味わいながら廃業。その後、自動車学校の運転指導員になり、定年を迎えた。大腸がんを患い人工肛門(ストーマと言う)を付けた。今更ながら厚生年金のあり難さが身にしみる、と語りながらの生き甲斐は、夫婦揃っての国内旅行。

   全部の都道府県は既に回った。今後のテーマは主な島を訪ねることだそうだ。『ストーマを付けたまま、温泉の大浴場に入れるのですか?』『大丈夫です。何ら問題はありません!』。今回の入院の目的は定期的な検診と抗がん剤の点滴。退院の翌日には五島列島へと旅行。

B 工夫不足の専用ベッド(パラマウント社製)

   病院の電動式ベッドは日経新聞によれば、パラマウント社の独占に近いそうだ。愛知県がんセンターもトヨタ記念病院も同じベッドだった。フランスベッドは家庭用ベッドメーカーのようだ。リモコンでの高さ調節、背中と膝の部分の持ち上げとが独立に出来る。食事では、ベッドの上を歩道橋のように『コ』の字型に跨ぎ、ベッドの長手方向に移動可能なテーブルを使った。このテーブルでメモを取ったり、読書もしたが苦痛だった。

   読書時の姿勢は背もたれを起こしてベッドの上に座るか、脚を前に投げ出すかの姿勢を選択できた。しかし、この姿勢を長時間維持することは大変苦痛だった。中学入学以降51年間も、私は正座の世界からは解放されていた。長時間の正座は西洋人同様、私には無理だった。脚を投げ出す姿勢はコタツに入る姿勢と同じだが、この場合、痩せたお尻に体重がかかって痛みが酷く、長続きしなかった。

   ベッドが椅子のように変形できれば、体重が腰部と足の裏に分散されて、長時間の読書にも耐えられるのに、このベッドはそのような構造にはなっていなかった。技術的な難しさは無いのに改善しないのは、文字通り独占の弊害だ!

C 集中力はすっかり喪失

   麻酔からはすっかり目覚めても、長時間の読書とか、何か考えを整理するとか、メモを取るとかに必須の集中力は、すっかりなくなってしまった。

   入院直後、ある患者が一日中何をすることも無く、ぼんやりと過ごしているのを見て、退屈に感じないのだろうかと、不思議に思ったが、無気力状態と退屈状態とは別ものだった。無気力の間、何かをしたいけれど肉体的にそれがやれないと言う意味での退屈さは、感じなかった。退屈さを感じる気力も無かったのだ。

D お見舞い客が殺到

   手術前も手術後にもお見舞い客が殺到した。時にはお互いに面識のないお見舞い客同士が鉢合わせになることもあった。その時には、一緒に病状報告を聞いてもらった。

   お見舞い客には@がんを発見した経緯、A幸運にも愛知県がんセンターに入院できた経緯、B胃がんと食道がんの初歩知識、C最新のがんの検診技術など、にわか勉強の知識を披露した。私には、退屈な日々を吹き飛ばしてくれる貴重なお客さんだったが、お菓子やお茶などの用意が出来ず、心苦しかった。

   退院後、荊妻は直ぐにでも快気祝いをお届けすべきだと強硬に主張したが、普通の病気とがんとは異なるとの認識のもと、断固拒否した。普通の病気や怪我での退院の場合、本質的には治療は完了、後は自宅療養で全快を待つだけなので気楽だが、がんの場合は、経過観察と並行して行われる検査で寛解のご託宣が出ない間は、治療継続中と思ったからだ。快気祝いを発送した直後に死んでしまったのでは、文字通りご笑納されかねない、と。

[3]体力回復を目指して

@ 完全看護態勢と言われても

   愛知県がんセンターの『入院のしおり』では、『付き添いに付いて』と言う項目に次の説明があった。『原則として付き添いは、していただかないことになっていますが、病状やその他の理由によりご家族が付き添いを希望される場合は、看護師にお申し出下さい』

   しかし、これは手術直後の個室から、4人部屋に移動した後に成立する話だ。尤も、4人部屋では狭すぎて付き添いが寝泊りする場所もないが。

   手術直後は胃がんのような簡単な手術であっても、体に種々の管が取り付けられているだけではなく、患者も未だ慣れていないこともあり、総ての管が正常に機能しているか連続的に監視することは難しい。体を動かすと管が捩れたり絡み合ったり、場合によっては外れたりする。非常時には看護師の呼び鈴も用意されているが、患者が操作できなければ役に立たない。

   手術直後といえども、看護師が病室に連続して待機しているわけではない。昼夜を問わず高頻度に病室にきては、体調の確認のための検査(検温・血圧測定など)や管の管理、点滴速度(5秒間に何滴落ちているか)のチェックなどをした。手術後の数日間は病室で連続的に監視できる付き添いがいる方が安心だ。 

   荊妻は岳父や義妹(乳がんで永眠)の入院時に何度か付き添いをしたことがあり、今回2日間傍らで寝泊りしてくれた。少しでも私が不自然な動きをすると、パッと起き上がって確認をしてくれた。付き添い作業には慣れているようだ。

A 徐々に失われていく羞恥心

   何故、病院内で羞恥心が失われていくのか、多少不思議な気もする。羞恥心をなくすのは私だけではなく、患者に共通している感情変化のように見受けられたからだ。羞恥心を失うと言っても、それは医師や看護師に対面した時だけの現象だ。

   ある時、レジデント(研修医)が採血に来た。このレジデントは身長180cmの美男子だ。『酸素量を測るから静脈ではなく、太股の動脈から採る』と言う。『暫く風呂に入っていないから、ちょっと不潔ですが大丈夫ですか?』『消毒するから心配無用です』『あなたほどの立派な持ち物ではないから、笑わないで!』。最初の頃はまだ、軽口が叩けた。

   手術後、何日か経って便意を感じた。まだ、自力ではトイレには行けなかった。手術前に完全に浣腸をし、その後は絶食しているのに、便意は出てくるのだ!大部分は消化液や寿命が来た腸壁の細胞だ。已む無く看護師にオムツをしてもらい、オムツの中に排便。

   こんなことを繰り返しているうちに、何時の間にか羞恥心は雲散霧消。手術後、初めて入浴が許可された。点滴中なので一人では風呂に入れない。看護師に手伝ってもらい、点滴溶液の袋を下着の袖の中を通して外してもらい、再び袋をスタンドに吊るす作業をしてもらった。左手には点滴の針が挿入されたままなので、体の大部分も看護師に洗ってもらった。こういう場合は、他の患者の入浴はストップされたままだ。

   結局、他に選択肢がない場合、羞恥心など出てくる余裕はなくなっているのだった。

B コンピュータ時代の病院食とは

   病院食は総て患者一人一人毎に管理されていた。朝・昼・夕食のいずれでも一人一人、配膳トレーに主食と数点の副食。病人名・病室番号・食事の名称がプリントされた名刺大のカードが添えられていた。

   食事は病気の種類によっても異なる。更に胃がんの場合でも、主食が水だけ、重湯、お混じり、三分粥、五分粥、七部粥、全粥、軟飯、常食(普通食)へと変わっていく。副食は主食が決ればそれに対応して、自動的に決められていた。主食が重湯の時、副食はスープとかジュースのようなものだった。刻々変わる患者毎のメニューは電算機でカードに印刷し、トレーにカードを載せるから間違いなく管理できる。

   地下の厨房(入り口が分からず、覗けなかった)ではカードを見ながら患者毎の配膳をしていた筈と推定。各トレーは西病棟・東病棟の各階ごとに、28人分収納できる運搬装置に積み込まれ、エレベータで運び上げられ、看護補助の女性(パート?)が病室の入り口まで運んできた。元気な患者は自分で受け取りに、動けない患者は看護補助の女性がベッドまで持ってきてくれた。運搬装置は旅客機の機内食運搬用カートを少し大きくしたようなものだった。
   
C ユニークな簡易カロリー計算法
  
   愛知県立看護大学、成人看護学T教室と愛知県がんセンター看護婦長の連名で、自由参加の調査依頼書が渡され、下記の調査目的が示された。
   
   私どもは、胃の手術を受けられた方が、手術後の状態に合わせて食事を召し上がっていただくことによって、順調に術前の栄養状態に戻っていただくことを願っています。そのために、手術後は、1回の食事量を減らして食事回数を6回に増やすことで対応し、退院後は3〜6ヶ月経過した頃から、徐々に3回食に戻していただくことになります。
   
   さて、食事の摂りかたを入院中に皆様に学習していただきますが、食事摂取量については個人差が大きく一律に判断することができません。皆様が、術後の胃の状態における最大量であって不快な症状が出ない量をご判断いただき、食事摂取量を調節できることが必要であると考え、そのための指標がないものかと検討しております。
   
   今回の調査では、食事前後の体重増加量と食事摂取時の上腹部の感覚が食事摂取量を判断するための指標となりうるかを明らかにすることを目的としています。
   
   A。昼食前後に病棟の精密体重計(50g単位)を使用して体重を測定し記入。
   B。昼食直後と昼食1時間後の上腹部の感覚を記入。
   C。昼食に要した時間と食事摂取推定量(主食と副食毎に%での数値で)について記入。
   
   栄養士の立場で一番困るのは、せっかくカロリー計算をして食事を準備しても、患者が食べ残すと摂取カロリーの計算がご破算になることである。AとCとから患者の摂取量を推定しているようだ。
   
   退院時にレポートが届けられた。その最初に書かれていた内容は『石松様の1日の食事摂取量は、手術前を参考にすると1500〜2000gです。3回の食事で1000〜1500g程度(手術前の1日食事摂取量の2/3程度)賄えるようになったら、食事回数を減らしましょう。また、術前の体重を参考にした目標体重は54kgです。一般的に手術後は、傷の回復にエネルギーが使われたり、食事摂取量が減るために体重が減少します。1ヶ月毎の体重の増減も考慮して、食事回数を調整するとよいでしょう』

   調査依頼書を読んだ私は、質問を早速開始した。
   
   『食事の摂取量とカロリーとの相関関係がわかりません。相関係数があるのではありませんか?』『普通の家庭食の場合、平均すればグラム単位であらわした場合の摂取量の数値と、Kカロリー単位の発熱量の数値とは大体同じになります。但し、当然のことながら飲み物は除きます』。何と簡単な近似式ではないか!

D 体重減対策

   胃がんの手術後、見る間に体重が下がっていった。絶食しているから当然のこととは言え、逆算すると毎日500〜1000gもの減少速度だった。食欲不振の中、栄養のバランスよりもカロリーを補給しなくてはと思い、体積が小さくて、食欲が出て、カロリーが多い食品としてチョコレートを選択。病院の売店で板チョコを買っては毎日2〜3枚をバリバリ。

   退院後は荊妻に10時と15時のおやつを用意してもらっていたが段々面倒くさいようすがありあり。そこで方針を変更。一週間に一回、マクドナルドでハンバーガーを15個買ってきては冷凍保存。一個ずつ取り出しては電子レンジで解凍して食べた。ハンバーガーではでんぷんと蛋白質が補充されるので、カステラや菓子パンなどよりも栄養のバランスが取れる。
   
   おまけに使われているひき肉はオーストラリアの草原ビーフ。この牛肉は松阪牛のような霜降りではなく、脂肪はほとんど無いので一層健康的だ。ハンバーガーの中には玉ねぎなどの野菜もはさんであったが、量は僅かなので味付けくらいの意味にしか感じられなかった。流石は世界に冠たる加工食品。重量は1個100gピッタリの重さ。
   
   2ヶ月くらいはハンバーガーで間食を凌いだが、結局長続きはしなかった。致命的な欠点が2つあった。肉の筋抜き(注。肉屋では枝肉から骨を外したり、肉から筋をとったりする作業のことを、骨抜き、筋抜きと言う)をしないまま、ミンチにしているのか、時々肉をかんだ時に、筋を噛む事があり、嫌な食感となった。64歳に至るまで、虫歯1本無いのに、筋を噛むと嫌なのだった。第2の理由は、何故か肉に甘みが感じられないのだ。
   
   私には長い間、豊田そごうの肉の安売り日(毎月9,19,29日は肉の日と称して、定価の2割引だった)に、米沢牛の1枚160gのヒレ肉(成牛1頭のヒレ肉は6〜7kgなので、ヒレステーキはたったの40枚しか採れない!)を20枚(半頭分)買っては冷凍しつつ、少しずつ食べる習慣があった。和牛のヒレ肉と草原ビーフとを比較するのは公平ではないが、美味しくないものは結局願い下げになった。

   試行錯誤した結果、間食の用意は中止し、3度の食事を昔の通りに戻すことに落ち着いた。胃が小さくなっているので、一度に全部を食べることは出来ない。そこで副食は少しずつ残した。2〜3時間経つとお腹が空くので、保存していた残飯を電子レンジで暖めて食べた。その結果、荊妻の負担増加は無くなった。

E 退院後の自宅療養生活

   入院中は一日中浴衣を着て、ベッドで過ごした。自宅では夕方の入浴から、朝の入浴までは浴衣を寝巻きとして着ていたが、昼間は外出も出来るカジュアルウェアで過ごした。カジュアルウェアを着ると、そのまま疲れたからと言って、ベッドに寝ることには強い心理的な抵抗感があった。
   
   その対策として採用したのが、電気炬燵に入り込んで寝る生活だ。この場合は不思議なことに何の抵抗感も無かった。書斎に篭って机に向かうという意欲は殆ど起きなかった。意欲が湧かないだけではなく、椅子に長時間座ると疲れてきた。結局一番楽な過ごし方はコタツ(今年は記録的な冷夏。7/31まで愛用した)で寝ることだった。頭寒足熱となり、びっくりするほどよく眠れた。夜は勿論、昼間の半分も無気力状態のまま寝て過ごした。

F 嗜好異常が発生!

   1月14日から放射線照射による食道がん治療が始まった。最初の頃は全く副作用は感じなかった。ところが日が経つに連れて、徐々に嗜好異常が発生した。平成8年5月の連休に体験した味覚異常(味蕾に異常が発生し、食べ物の味覚が感じられなくなる症状)とは全く異なった現象だった。

   好物だった味噌汁を飲もうとすると吐き気がした。ご飯も美味しくない。好物だった筈の刺身は見ただけで吐き気がした。妊婦の一部が体験すると言われる『悪阻=つわり』とその現象は似ているが、嘔吐感を感じる食べ物の種類は違うようだ。体重を復活させるためには何としても、何かを食べなければならない。しかし、食べられるものが激減したのだ!

   試行錯誤を始めた。色んなタイプのお茶漬けを買ってきた。標準的な量では効き目が乏しかったが、使用量を2倍にしたら何とかご飯を流し込むことが出来た。昔からの好物だった、シジミ・アサリ・ハマグリなどの貝類を入れた味噌汁ならば、喉を通せた。食欲不振に陥りがちだった夏場でも麺類は好物だったのに、喉を通らない。

   あれこれ試みているうちに、握りずしは食べられることに気付いた。しかし、握りずしを毎日自宅で用意するのは、2人家族では食材が偏ってしまって無理。スーパーに出掛けては二日分を調達。冷蔵庫でご飯が多少干からびてしまうくらいは我慢のうち。奇妙な初体験だったが、放射線照射治療の完了と共に、徐々に嗜好異常は解消した。

G とうとう万有引力までも変化した!?
   
   寝たり起きたりの生活を続けていたら、何時の間にか全身の筋力が落ちてしまった。体重の減少に伴う筋肉量の減少だけが原因ではないようだ。体重は2割も下がっていないのに、筋力は半減したのではないかと自覚させられ始めた。入浴時、お湯を入れた洗面器を片手では持ち上げられず、両手を使った。水を入れたバケツを持ち上げると、重量が普段の倍になったかのようだ。
   
   何かを持ち上げようとすると、総ての物質の重量が倍増したのではないとか感じられた。筋力が落ちていないのならば、万有引力の強さが突然2倍になったと解釈する以外には説明がつかなかった。体力が底なしに落ちていくのではないかとの、不安を払拭するのは難しかった。

[4] 腸閉塞の発症!(Appendix参照)

@ トヨタ記念病院へ緊急入院

  1月6日に主治医から『退院療養計画書』を貰った。待望久しかった退院日は1月8日だった。退院後の治療計画としては『放射線治療科へ転科』と書かれていた。実際の放射線通院治療は暦の上での翌週初日1月14日(月曜日の13日は祭日だった)から連日始まった。

   退院後の療養上の留意点として主治医からはA4で1枚の注意書き、愛知県立看護大学からは、A4で3枚の詳細な食事指導書を渡された。これらの注意書きを厳守していれば、恐らくは腸閉塞の発症は無かったと今にして思えば推定しているが、当時はやっと監獄から解放されたとの嬉しさが先立った。

  退院後のご注意(山村義孝)

   退院おめでとうございます。今は『退院は嬉しいけれども、病院を離れるのは少し心配だ』という複雑なお気持ちでおられることと存じます。そこで、退院後の生活でご注意いただく点をまとめてみましたので、参考にしてください。

1.日常生活全般について
   規則正しい生活をしましょう。起床、食事、就寝の時間を守りましょう。お仕事をお持ちの方は、出来るだけ早く仕事に復帰された方が、この『生活のリズム』をつかみやすいと思います。散歩など軽い運動を毎日行いましょう。退院して1ヶ月もすればゴルフの練習など軽い運動を始められても結構です。

2.食事について

   1日3回の食事をとり、その中間に『おやつ』を食べてください。当分の間は1回の食事量を入院中の量よりふやさないようにしてください。急いで食べたり、量を多く食べ過ぎると、食事がつかえたり下痢になりやすいので注意しましょう。

   何でも食べていただいて結構ですが、最初のうちは海藻類やキノコ類など消化がよくない物は、あらかじめ包丁などで細かく刻んだほうが無難です。アルコールは暫く止めましょう(料理に使われるのは構いません)。また、サイダーやコーラなどの泡が出るものも最初のうちは避けたほうが無難です。カルシウムや鉄分が不足がちになりますので、牛乳やレバーを出来るだけ摂るようにしてください。

   何か不明なことがありましたら、がんセンター(052−762−6111)に電話して、山村を呼び出してください。

  食事指導(看護大学)

1. 食品の選び方
   高タンパク・高エネルギーの食品を選ぶ。
   鉄・カルシウム・ビタミンDを多く含む食品を選ぶ。
   嗜好品に注意する。アルコールは胃の粘膜にダメージを与えます。
   補助食品で調整する。
   繊維質の多い食品は調理方法を工夫する。

2. 食事方法の原則
   1回の食事量。石松様の場合、現在350gです。
   食事回数。3回の食事で1500g程度賄えるようになったら回数が減らせます。
   
3. エネルギー(栄養)が多く取れるように
   エネルギーを効率よく摂るために、朝食・昼食・夕食はおかずを中心に食べる。

   こんなにも至れりつくせりの注意書きを受け取りながら、退院の嬉しさで読みもしなかった。体調も回復したことだしと自己判断をして、気ままに過ごしていたら、徐々に体調が悪化。1/10には食欲が急減し、1/11の夕方から嘔吐が頻発。とうとう動けなくなり、21:00に救急車を呼び、荊妻と共にトヨタ記念病院に到着。
   
A 愛知県がんセンターへの転院
   
   痛みで一晩中眠れず、翌朝転院を提案。当直の若い内科医はしぶしぶ承知し、愛知県がんセンター当ての書類を作成した。幸い長男の独身寮は病院の隣だった。歩く気力も無く、車椅子に乗って玄関へ。朝9:00に長男の車に荊妻と共に乗り込み、自宅に立ち寄って身の回りの品を詰め込み、愛知県がんセンターに直行。日曜日であったにも拘わらず、主治医と助手の研修医は駆けつけてくれた。

B 腸閉塞の原因は?

   主治医は、一通りの再検査結果とトヨタ記念病院から受け継いだ諸資料を点検した結果、原因は分からないが、軽い膵炎及び腸閉塞と診断。副院長(専門は大腸がん)は、腸閉塞は手術後、どんなに注意していても発症する時は発症するが、手術の必要性はまずないと診断。同室者(胃がんが再発)の3人のうち2人も、大腸がんの手術退院後、1週間以内に腸閉塞を患い、退院直後が一番危ないと言っていた。

   退院後に散歩を心がけ、腹腔内で大腸をぶらぶらと揺することにより腸の癒着を避けるべきだった。散歩嫌いの私は注意事項を守らなかったのだ。更に加えて、調子に乗って食べ過ぎてしまった。これも原因の一つだったと、臍(ほぞ)を噛んだ。
 
   インターネットで出てきた腸閉塞の説明を参考までにコピーした。


腸閉塞

   一般的には腸捻転とか言われているものです。原因はホントに沢山あります。全部同じ病気にされてしまうことが多いので、ここでちょっと分類してみましょう。
手術を受けたことがある人

   虫垂炎、胃の手術、胆石の手術、大腸の手術などなどおなかを切る手術の場合、術後の癒着による腸閉塞が起こることがあります。癒着?何それ?とよく聞かれます。イメージ的には業者との癒着など悪いイメージでしかとらえられていません。が、これがなければあなたのキズは治らないのです。

   切り傷で縫われた経験のある人ならわかると思いますが、術後1週間目に糸を抜きます。糸を抜いてもキズは開きません。服であれば糸を抜いたりすれば服がバラバラになります。なぜ人体ではバラバラにならないのでしょうか。生体では(死体では無論これは起こりません。)体に傷が付くとそこを修復しようと、まず血液が固まり、そこに肉を盛らせる細胞が集まり増殖してキズをふさぎます。

   これは意識していなくても自然に体が行います。(まあ印象として元気の良い人、意欲的な人ほど傷の治りは早いようです。医学的な根拠はありません。)ところが都合のいい部分だけにこの「治る」という現象が起きるわけではありません。手術では臓器を手で触りますが、さわられた臓器にとっては微細な傷がついてしまうのです。

腸閉塞の原因
 
   では手術を受けるとみんな一様に腸閉塞になるかというと、一生何も起こらない人もいますし、何回も腸閉塞をおこす人もあります。癒着の起こる程度というのが、元の手術の病気や、個人個人の体質によって違いがあります。例えば腹膜炎状態で手術を受けた人はそうでない人に比べ癒着は広くおきます。癒着しやすい体質というのは悪いように見えますが、裏返すと治ろうとする能力が高いとも言えます。外科の雑誌にこういうテーマで論文が載るのはほとんど見たことはなく、どの程度の癒着がおきるかという事を予測するのは全く研究されていません。(たぶん研究は無理です。)

   また癒着していれば毎日腸閉塞をおこしても不思議はないと思われるでしょうが、実際たまたまおきているという感じです。引き金になるのは、炭酸の入った飲み物を飲み過ぎたときとか、暴飲暴食をしたときとか言われていますが、いずれも具体的にどれくらいということは示せません。また私個人の感触としては、天気の悪いとき(低気圧が近づいたとき)発症することが多いように思いますが、根拠はありません。

    一旦このような腸管が詰まった状態になりますと、その部分が腫れてますますものが通りにくくなるという悪循環になります。また盲腸の手術を30年前にやったと言う人でも、この腸閉塞をおこすことがあります。また、最近取り上げられているカメラによる手術でも、小さいながら開腹をしていますので癒着が起きます。腸閉塞をおこさないと言う保証はありません。

腸閉塞の対策

   症状としては嘔吐、お腹が張ってくる、ガスが出なくなると言ったところです。このような症状が立て続けにおきてきます。個人で出来ることは、それ以上は食べずに、手術をしてもらった病院または最寄りの全身麻酔の手術が出来るある程度の規模を持つ病院で受診して下さい。それ以上食べたり飲んだりすればますます腸閉塞が悪化します。私はこのような症状でみえた患者さんは、入院にします。なぜなら、飲まず食わずの状態では、点滴がなければ命に関わる状態になるからです。

   点滴というのは一般的に「ちょっと調子が悪かったから点滴してもらって調子が良くなった。」程度の認識しかされていないと思います。でも現代の点滴はここから1日に必要な栄養や水分やビタミンを全て入れることが可能で、全く飲まず食わずでも、何年でも生活が出来ます。

   こうして腸を休めているだけでも結構治っていきます。ダメなときは次の段階としてイレウスチューブというチューブを鼻か口から入れ、これを小腸の中までレントゲンを見ながら誘導するという治療を行います。このチューブを通して小腸の中にたまった腸液や食物を吸引すると、詰まっていた小腸の腫れが取れ、腸閉塞が治ります。大概は1週間以内に治りますが、治らないときは状況に応じて手術になります。

   かつては私も喜んで腸閉塞の手術をしていたのですが、この手術により先ほども説明したとおりまた癒着が起き、ますます複雑な状態となることがあり、下手をすると、多数回の手術によりコテコテに癒着し、傷の下に腸管が団子状になってくっついて、もう開腹も出来ない(無理に開腹すると多数の腸管を切ってしまい収拾がつかない)状態に陥ります。

   この状態に陥らせないためになるべく手術は避けたいので、私は場合によっては2週間位吸引を続けることもあります。(他の外科医に話すと「長すぎる、もっと早く手術しろ」と言われてしまいますが。)

腸閉塞の一般的手術

   通常は癒着をはずすことにより、腸閉塞は解除されます。
   

[5]主治医への書類による質問と回答

   正月前後の一時帰宅中に我が胃がんに関する質問書を作り、正月開けお暇な折にご回答いただきたいと言って主治医に手渡した。主治医は退院直前に丁寧に回答してくれた。その主な質疑は下記の通りである。

(1)胃がんのステージはどのレベルだったでしょうか?
   T2(胃の外側表面にがんが出ていない。主に胃の筋層まで)+N1(胃に接したリンパ節に転移がある)なので、ステージUです。
(2)手術の種類は?
   ビルロート法Tです。
(3)リンパ節は何処まで切除しましたか?
   N2(胃を養う血管に沿ったリンパ節)まで。
(4) 手術中の酸素吸入方法は?
   口から給気管を気管入り口まで挿入し、その中にチューブを入れ、チューブを経由して酸素を吸入させた。
(5) 胃を縫った糸の材質は?
   多糖類の一種でできた吸収糸と、生涯胃の中に残る金属。
(6) 残胃と十二指腸を繋ぐ時の残胃の断面積はどのくらい?
   十二指腸の断面積に合わせて縮小する。
(7) 胃がん再発の治癒率が低いのは何故か?
   再発で見つかるがんは全体の一部であることが多いのと、有効な抗がん剤がないため。
(8) 分化型(がん細胞の形や並び方が胃や腸の名残を残したがん)か、未分化型(がん細胞の形や並び方に胃や腸の名残の少ないがん)か?
    分化型でした。
(9) 手術後に声が出にくくなった理由は?
    給気管を挿入した際に声帯を傷めたから。
(10)食道がんのステージは、0、T、U、V、Wのいずれか?
    ルゴール染色法で撮った写真から推定すると、恐らく0ステージです。
(11)食道がんの種類は、扁平上皮がんか、腺がんか?
    扁平上皮がんです。
                                                                  上に戻る
    ■食道がんの発見

[1] 神は我に味方したか?
    
    @ 内科医の機転

   胃がんの主治医が手術前の内視鏡による精密検査のために、日頃から信頼している内科医を指名された。検査の結果、内科医は『食道がんが見つかりました。詳しくは山村先生からお聞きください』。予想だにもしていなかった食道がんを発見してくれたことへの、おん礼を口にする精神的な余裕は無かった。ひょっとすると、これが致命傷になるのではないかとの恐怖感が背筋を通り抜けた。食道がんに罹った知人を思い出せず、知らないがんへの恐怖心に襲われたのだ。

A 医学書の指摘事項

   手元の医学書には、胃の内視鏡検査を受けるときには、序に食道がんの有無もチェックすることが望ましいと書かれていた。今までにも胃の内視鏡検査は10回位受けたのに、食道がんのチェックをしてくれた医師はいなかった。あと少しのサービス精神が欠落しているのか、我が仕事にあらず、と決め込んでいるのか、勤務医特有のサラリーマン根性丸出しの仕事振りなのか?

[2] インターネットによる情報収集
 
    @ 溢れ出てくる情報

   正月には一時帰宅をしていた。早速インターネットで食道がんに関する情報を検索した。読みきれないほどの情報が出てきた。有名病院、有名大学付属病院のホームページにはそれぞれの治療方針が紹介されていた。
   
   幾ら熟読しても、異なった治療方法の優劣を判断することはできなかった。治療実績の数値データが少なすぎるのだ。インターネットで検索するとタイトルのリストが出てくるが、その順番はどのようなルールで決められているのか不明のままだ。最初に出てくるのは検索された件数が一番多いものなのだろうか?已む無く最初から順番に数十件をやみくもに濫読した。その結果、食道がんの知識が体系的ではないが、漠然と蓄積されてきた。

A 食道がんとは

   食道壁はその中心側から、粘膜上皮層・粘膜固有層・粘膜筋板・粘膜下層・固有筋層・外膜と6層もの材料から構成されている一種の複合材料である。そのどの部分までが、がんに侵されているか、リンパ節や他臓器への転移があるか否かで、5つのステージ(0、T、U、V、W)に別けられている。また、がんの発生部位により、頸部食道がん・胸部食道がん・腹部食道がんに分類されている。

B がんの横綱は、膵臓がんと食道がんだった!

   私が理解した食道がんの情報は次の通りだ。無数のがんのうち、手術の難しさと生存率の低さでランク付けすると、膵臓がんと食道がんとは、東西の横綱だった!手術の難易度は所要時間に現われると推定した。共に10時間以上掛かるらしい。あな、恐ろしや!

[3] 友人の奥様、食道がんで急逝(2003年2月19日)

   同期入社者間の連絡網から、同期入社の奥様が食道がんで本年2月亡くなられたとの訃報が飛び込んできた。一瞬身震いを感じた。自らが食道がんにかかってさえいなければ、恐らくは感じられなかった筈の戦慄である。何度か一緒にゴルフを楽しんだこともある友人(ご主人に当たる)から、我がお悔やみへの返信メールで詳細な経緯を知り、その進行速度に驚愕した。
   
   平成14年6月、人間ドックで『食道がん』らしきものを発見。
   平成14年6月17日、トヨタ記念病院の精密検査で『食道がん』との告知。
      平成14年8月2日 名大病院第二外科 秋山先生による手術。その際に転移も判明。
   平成14年10月22日に無事退院。
   平成15年2月14日に名大病院に再入院。
   平成15年2月19日永眠。合掌。

   異変に気付いてから永眠されるまでの経過時間は、上に記すごとく何とたったの8ヶ月である。私は今日(平成15年7月17日)現在、12月14日の発見からちょうど7ヶ月経過した。今、生きていることは幸運なのだ、と思わずにはおれない。
   
  『手術数で分かる、いい病院全国ランキング』週刊朝日臨時増刊(2003/3/10発行)によれば、中部地方では『食道がんのトップは名大病院の年間45例。2位は愛知県がんセンターの35例』。奥様の執刀医第二外科助教授秋山清次先生も実名入りで紹介されていた。
   
   考えられうる最高の治療を受けたにも拘らず、友人の奥様は永眠された。インターネットの記事には、無自覚症状のときに定期検診で見つかった食道がんでも、転移が既に起きている場合の治癒率の低さに触れたものがあった。食道がんは積極的に定期検診を受けない限り、早期発見は難しい。いわんや、自覚症状が現われてからの5年生存率は絶望的に低い。
  
                                                                  上に戻る
    ■食道がんの放射線照射治療

[1]主治医の紹介

   胃がんの主治医が指名してくれた食道がんの主治医は、放射線治療部長不破信和先生だった。先生は第一線の医師としてだけではなく、新しいがん治療法の研究者としても有名だった。

      朝日新聞の地元版(平成15年2月12日)では、先生の直近の研究成果が下記のように大きく報道された。地元の中日新聞(平成15年2月28日)ではチーム5人の写真と解説図付きで、もっと詳細に報道されていた。


   愛知県がんセンター(名古屋市)の放射線治療部(不破信和部長)が進行した舌がんに、動脈から抗がん剤を直接注入する治療法(動注)で、手術に迫る治療実績をあげ注目を集めている。治療に使う器具と技術の開発、放射線治療や全身の化学療法との組み合わせなどによる成果だ。舌がんの手術をすると、その後、会話や食事に不自由する場合が多い。動注療法で舌を温存できるのも大きなメリットだ。

   動注は、患部に直接抗がん剤を集中的に送り込むため、静脈から全身に抗がん剤を入れる場合より、高い効果が期待できる。特に舌がんでは、舌動脈に抗がん剤を入れるとほとんどが舌に流れるため、10年ほど前から研究が進んできた。

   米国などでは従来、大腿部の動脈からカテーテルを入れる方法がとられてきたが、血管内にできた血栓が脳に入り込み、脳梗塞を引き起こす危険性があった。

   不破部長らのグループは、耳の前のこめかみ付近の動脈から舌動脈に直接カテーテルを入れた。血栓が生じても脳を通らないため、脳障害は起きない。難点は、舌動脈への分かれ目でカテーテルを鋭角に曲げなければならず、器具を扱い難い点だったが、挿入方法や新たなカテーテルの開発などでほぼ解消。この治療を受けた舌がんの患者の3年生存率は60%で、手術成績にほぼ匹敵するという。

   最近では、舌の内部にどの程度、抗がん剤が流れ込んだかを磁気共鳴断層撮影装置(MRI)で確認する方法も取り入れ、治療の精度はさらに高まった。不破部長は『治療の選択肢が増える。今後は普及に努めたい』という。


   加藤副院長に、この治療方法の評価を尋ねると『一歩前進しました。しかし、どのがんの治療法についても言えることですが、どの治療方法も患者間に個人差が出るのですよ。それが悩みです』

[2] 食道がんの治療法

   代表的な治療方法は、切除手術・放射線照射・抗がん剤投与の3種類と、放射線照射+抗がん剤投与などのような組み合わせ療法である。また、手術方法も放射線照射法も一種類ではない。一方、公表されているデータで比較すると、病院によって各治療法による5年生存率にかなりの差があるため、医療技術水準の違いか、患者のステージ・年齢・体力の違いなのか判然とはしない。おまけに、食道がんに関しての『標準治療法』は胃がんとは異なり、我が国では設定されていないので、治療方法の選択には患者としても頭を痛める。
   
    @ がん部の機械的な切除。

   がんのステージが0期で大きさが2cm以下であれば内視鏡による切除。それ以外は食道を切断した後、引き伸ばした胃と繋ぐか、小腸を切り取って、切り取った食道の部位に置き換えて前後を繋ぐかの大手術となる。私の場合は初期であっても面積が広く、内視鏡による切除は不可能だった。手術となれば大手術になるのは不可避だ。

    A 放射線照射

   国立がんセンター東病院は、体外から放射線を照射する方法と抗がん剤の投与の組み合わせ手法。京都大学付属病院では、体外照射と腔内照射の組み合わせだった。共に切除手術に匹敵する成果をあげたと称しているが、これらの治療法は歴史が浅く、長期的な実績はまだ不明である。例えば、食道に放射線を照射すると心臓や肺にも当たるため、これらに障害が出たり、10〜20年後に、別の部位にがんが発生する可能性を否定する事はできない。

    B 抗がん剤投与

   他臓器への転移があり、手術も出来ない場合に抗がん剤のみの投与治療がされる事があるが、抗がん剤は@、Aと併用される場合が多い。

[3] 治療計画(詳しくはAppendix参照)

    @ 治療準備

   食道に内視鏡を挿入し、発生しているがんの上限と下限に金属片をホッチキスのような道具で取り付けた。1ヶ月もすればこの金属片は自然に剥がれ落ちて排泄されるそうだ。X線による透視モニターを見ながら、金属片の位置を確認してその真上に当たる腹部にサインペンで印を付けた。
   
   リニアックと言うX線照射装置から照射されるX線を正しく患部に照射するために、X線の代わりに可視光線を使い、腹部に書き込まれたマークに向けて照射して位置決めをした。治療時には可視光線の代わりにX線を照射することになる。
   
   X線が不要な部分に照射されないために食道の形と同じ開口部も用意された。幅の狭い短冊形の無数の金属板を向き合わせ、それぞれの金属板をスライドすれば食道の形をした開口部が出来上がる。マジックで書かれた腹部のマークは連日の治療時に再使用するため、入浴時に洗い落とさないように、との注意を受けた。
   
   入浴時に幾ら注意していても、下着との接触摩擦でマークは下着に少しずつ付着し、徐々に消えていくため、必要に応じてマークの上からマジックで書き足された。機械操作の技師は『下着はどうしても汚れます。新品の下着である必要はありません。誰の目にも触れませんから遠慮は不要です』との気配り。

A 体外照射を25回
   
   リニアックでの照射時間は1回につき1分足らず。月〜金の毎日実施した。愛知県がんセンターのリニアックは設備が古くなったためか、毎週一回くらいの頻度で故障した。待っている間に復帰する場合が殆どだったが、『今日は無理』といわれて、通院が無駄になったこともあった。

   一度に照射する放射線量は2グレイ。機械故障が頻発するので、時には過大な照射がなされるのではないかとの心配をした。グレイとはAERA(2002/12/16号)の27ページにテキサス大学の学者の話として『1グレイは胸部レントゲン撮影の3万倍の照射量に等しい』と出ているが、やや過大な見積もりだ。或いは胸部X線撮影条件の日米差かも知れない。
   
   日本での胸部集団X線撮影の照射量は0.05ミリグレイなので、1グレイは2万回分に当たる。日本の自然放射能は年間平均0.99ミリグレイ(愛知県は1.09ミリグレイ)なので、毎日2000年分の自然放射能を照射されたことになる。
   
B 中間点検

   治療の効果を確認するために、20回照射した頃、内視鏡によるルゴール染色法と生検を実施したら、がん細胞が発見されてがっくり。

C 腔内照射計画は3回を途中で4回に変更

   腔内照射とは食道内に柔軟性の高いチューブを挿入し、その中に放射性物質であるイリジウムを挿入して、食道の内側から患部に直接照射する方法である。一回につき3グレイの照射だが、直近からの照射であるため、体外照射に換算すれば5グレイに相当すると主治医は言う。中間点検の結果からか、当初計画の3回から4回に変更された。

   結局、体外放射に換算すると70グレイ、胸部X線に換算すると140万回分、自然放射能に換算すると7万年分を浴びたことになる。今回の治療で放射線の被爆許容限界値に達しているため、食道がんが再発した場合には、放射線照射治療は最早使えない。今後、万一再発した場合の治療法に関する選択肢は狭まったのだ!

[4]恐れていた副作用の発生

    @ またもや嘔吐で緊急入院

   がんの諸治療では種々の副作用が発生するが、私の場合に肉体的に最も苦しかった副作用は嘔吐であった。一旦嘔吐が始まると半日は続いた。その間、飲食も出来ず、吐くものは唾液と消化液だけ。2/6,8,9と続けて半日以上の嘔吐が続き、疲労困憊し、脱水症状を恐れ、ついに緊急入院をした。

   腔内照射も苦しい治療だった。その4回目の最終日も嘔吐で苦しんだが、このときが最後の苦しみだった。

A 荊妻に引き連れられての強制散歩

   3月下旬、何時ものような無気力状態のまま、電気コタツに入って昼寝をしていたら、心配の余り我慢が出来なくなった荊妻に引っ張り出されての強制散歩。少しは体を動かさないと、いよいよ衰弱死するかもしれないとの恐怖感に襲われたようだ。
                                                                  上に戻る
    遂に出た、寛解のご託宣

[1] 寛解とは?

   朝日新聞のホームページで使える『大辞林』によれば『寛解』とは、『病気の症状が軽減またはほぼ消失し、臨床的にコントロールされた状態。治癒とは異なる。白血病・バセドー病・精神分裂病などの病気のときに用いる』と説明している。我が座右の古い広辞苑(昭和30年5月25日、第一版第一刷発行)にはまだ寛解という言葉は登録されていなかったから、最近になってがん関係者に広まった言葉だと推定している。

   がんの治療後、各種検査の結果としてがん細胞が発見されなくなった場合に、『寛解』という言葉を最近使う様になったようだ。がんの本でも最近出版されているものでは使われ始めた。がんの場合、他の病気の場合に使われる『治癒とか完治』という言葉よりも、寛解の方が実態を正しく表現しているから使われ始めたのだろうと思う。

   何故ならば、がんが完全に治っていることを検査・確認する方法が無いからである。最新鋭の検査機器でも5mm以上のがんの塊(1億個のがん細胞、重さでは0.1g)がないと、がんを発見できない。同じことは、一度もがんにかかった事がない人に、現在もがんに罹ってはいないと検診で保障することは出来ない。検出不可能な小さながんが体内で成長しつつあるかも知れないからである。

   細胞検査をしてがん細胞が発見できなかったといっても、それは細胞を採取した場所にはがん細胞が存在しなかったと確認したに過ぎず、それ以外の場所にもがん細胞が存在しないということを確認したことにはならない。従って寛解といわれても、心底喜ぶことは許されないが、それでもワンステップの前進であることに間違いはない。安心は出来ないので、その後の経過観察は必須となる。

[2] 心身の回復には順序があった

   計画されていた放射線照射治療が、3月18日に完了した。その日を起点に放射線治療の副作用も徐々に収まり、食欲なども徐々に復活してきたが、回復には順序があった。
   
    @ 体重

   体重が最初に回復した。朝と夜の2回風呂に入る度に体重を計った。それも入浴前と入浴後である。夜は体全体を洗うが、朝は洗顔と髭剃りだけ。平均すると入浴中に夜は600g、朝は400gも汗が出て体重が減る。そこで体重は朝食前でしかも入浴後の最小体重で管理することにした。

   手術前の体重は54kg、治療中の最低体重は46kgになったが、治療完了後2ヶ月で元の体重に戻った。3度の食事量も術前に戻った。しかし、昼食と夕食は一度には全部を食べられない場合もあり、その時は食べ残した食事(残飯)を2〜3時間後に食べ尽くした。5回食のために5月末まではそのための間食を用意したが、以後は止めた。残飯を食べるだけで十分と気付いたからである。       

A 体力

   体重が戻っても体力は自動的には回復しなかった。使っていない筋力はどんどん落ちていくようだ。4月中旬、夏野菜を植えるために、荒れ果てていた庭先の一角、僅か20坪の家庭菜園の整備をした。例年と同じ作業順序だった。しかし、一日中続けて働く体力は無かった。数日間掛けてゆっくりと作業を進めた。草取り後、完熟牛糞堆肥・苦土石灰・化成肥料を一回一回土の上にばら撒き、備中で土と撹拌する作業を3回。その後、畝を作った。

   暫くは体中が痛く、中でも右手の手首が痛くなった。テニスのプレイ時にラケットに球が当たると手首に極端な痛みが走った。耐久力もなくなっていた。このとき、痛風の鎮痛剤を試しに飲んだら2ヶ日間で痛みが半減した。鎮痛剤は痛風専用ではなかったのだ。

   5月中旬小学校の同期同窓会で帰省したが、腕力不足で手荷物を何時もの半分にした。お土産は運べなかった。体力が術前に戻ったと実感できたのは治療完了後3ヶ月経ったころである。4月から戦線復帰したテニスとゴルフ(合計して月に8〜10回)によって徐々に体力は回復した。

B 生きる意欲

   一番厄介な問題は生きる意欲をどのようにして復活させるかにあった。何かをどうしても遣り遂げたい、などといった大げさなものではなく、日常の瑣末事への関心をもっと復活させたいのに、何故かそのために必須の衝動が溢れてこない。

   以前ほど新聞とか雑誌を読む意欲は無くなった。時々は図書館に出掛けて、20種類くらいの一般的な雑誌を濫読して時の話題を拾っていたのに、出掛ける気も無くなった。各学会などが発行している学会誌や論文集、日刊工業新聞社や日本経済新聞社の科学技術雑誌を読んで先端技術を学び続けるという意欲も消えた。いわんや直ぐに忘れられていくようなベストセラーや大衆を対象とした週刊誌を読むなどは人生の浪費に思え、馬鹿らしくて、馬鹿らしくて。

   以前は、芝生の中に生えたオオバコ(原爆投下後、広島の爆心地で最初に復活した植物として有名)などの雑草の根は一本一本、マイナスドライバーを使って掘り取っていたのに、今ではこれも馬鹿馬鹿しくなって全くする気がしなくなった。日常生活の質が徐々に低下していくのを食い止められなかった。床屋に行く回数すら減ってきた。他人に嫌悪感を与えないようにとの身だしなみへの関心も急低下。結局は生きる意欲の低下があちこちに露呈し始めたのだろうか?   

[3] 今までに受けたがんの検査法

@ ルゴール染色法(5/16)

   我が食道がんが発見されたときにも、放射線照射治療前の精密検査でも、治療中の経過観察でも、治療後の最終確認検査(5/16)でも、採用された検査法である。

   正常な食道粘膜には多量のグリコーゲンが含まれている。このグリコーゲンがヨードによって褐色を呈する反応を利用した検査法。がんをはじめとする異常な食道粘膜は褐色に染まらないことから、通常の観察では確認しにくい平坦な早期食道癌の診断にも役立つ。
  
   ヨードを含むルゴール染色液を内視鏡の先端から食道の内壁に吹き付けると、直ぐに染色反応が現われるので、待ち時間は殆ど感じられない。その場で結果がわかる。最終確認検査では『目視する限り、がん細胞は見られない』と、内科医は説明した。ヨードは大変臭いが、がんの検査の前では気にもならなかった。
  
   とはいうものの、この検査法は食道の表面にがん細胞があるかどうかの確認に過ぎないので、6層からなる食道壁内部の検査にはなっていないと思う。従ってこの検査だけでは安心できない。

A 生検結果(5/23)

   内科医は5/16に、食道内で一番疑わしいと思った場所から、内視鏡を使って細胞を採取して、病理学的検査(生検)に回した。愛知県がんセンターにはそのための専門部署があり、結果が一週間後に出される。フォルマリンで試料を固めるのに時間が掛かるらしい。液体窒素などで急速冷凍して試料をスライスし、顕微鏡で観察する方法は精度が落ちるが、手術中に即座に確認したい場合に、やむを得ず採用されている。

   5/23に主治医から『がん細胞は見つからなかった』との報告を受けた。しかし、これはいわばがん細胞の抜き取り検査をしたに過ぎない。調べていない場所の安全性は不明である。従ってこの検査だけでも未だ安心はできない。

B PET(名古屋共立病院・6/18)

   インターネットからPETの説明を取り出した。


   がんの診断には、X線CT、MRI、超音波、内視鏡など様々な方法が用いられています。しかしそれらはみな、身体の各部位ごとに診ていくのが一般的です。例えば、肺と胃とを同時に診ることはありません。同じX線で撮影する場合でも、肺と胃では方法が異なるからです。

   もし全身を一度に診断できれば、身体の負担も少なく、診断に要する時間も短くて済むでしょう。実はそれを実現する方法として、PET(ポジトロン・エミッション・トモグラフィー=陽電子放射断層撮影装置)に注目が集まっています。
   

   PETの原理は簡単だ。悪性度が高く、進行スピードの速いがんほど、ブドウ糖の消費が多い。そこでマイクロサイクロトロンにより、放射線同位元素とブドウ糖を結合させた放射線医薬品を注射して1時間待つ。がん細胞のところに放射線医薬品が集まった頃、そこから発せられるガンマー線をCTと同じように撮影することにより、全身のがんが一網打尽に検出できる。

   但し、この医薬品の排泄速度は速く、腎臓と膀胱にも移動するため、ここにがんがあるかのごとく写る。また、脳細胞もブドウ糖を多量に消費するので、がん細胞と同じ反応を起こす。これら3ヶ所については個別の方法でがんの有無を検査しなければならない。

   上記の欠点はあるものの、現在までに実用化されている最強のがん検出機器はPETである。しかしワンセット10数億円もするらしく、日本では研究用を含めて未だ数十ヶ所の病院にしか導入されていない。残念ながら愛知県がんセンターにも未だ導入されていない。しかし、幸いなことに3年前、東海地区で最初にPETを導入した民間病院、名古屋共立病院と愛知県がんセンターは提携していたので、主治医の書いた紹介状を持参して6/18に、PETによる検診を受けた。
   
   今回の検査では、@食道と胃にがん細胞が残っていないかAリンパ節や他の臓器への転移はないかB独立して発生している新規のがんが存在していないかどうかを調べるのが目的だった。幸い何処にもがんは発見されなかった。とは言え、PETでも大きさが5mm未満のがんは発見できない。それ故、これだけでは未だ必ずしも安心はできない。
   
   しかし、仮に小さながんが存在していた場合でも、大抵のがんは通常1年以内に治療不可能なほどに大きく成長することは少ないので、毎年定期的にPETによる検診を受ければ、何時かは成長したがんを発見できる。

C CT(6/19)

   念には念を入れるべく、CTによる食道の検査を受けた。ルゴール染色法が表面の検査になるのに対し、CTは肉厚方向の検査になる。

[4] 今後の経過観察と治療方針(6/30)

   6月30日に主治医から『PETでもCTでも異常は発見されなかった』との報告を受けて、ホッと一息。とは言え、どの検査装置もがん存在の完全否定は出来ない。小さながんの成長を初期段階で発見するために、今後は数ヶ月置きに内視鏡を使ったルゴール染色法での食道がんの検査、1年に1回のPETによる全身検査を続けることになった。
                                                                  上に戻る
    ■各種がん解説書への不満

[1] 統計データ処理への疑問

    @ 5年生存率

   がんの解説書に必ず出てくるデータに、5年生存率というものがある。各がんのステージごとに治療開始時点からの経過年数に応じた生存者率を表にしたりグラフ化したものが多い。5年間生きていれば、寛解と見なす習慣から5年後の生存率が一番重要視されているようだ。私の胃がん(胃の中央部にがんが発生し、ステージUに至っていた)と同じ条件の場合、『胃がん治療のガイドラインの解説』に紹介されたデータによれば、1991年度に初発胃がんを切除した200例の平均値は72.7%である。

   この数値は、我が期待値に比べて大変低い。全国の病院毎の平均値は、全平均値の上下に恐らくは±20%くらいの幅でばらついているのではないかと推定している。死亡率から見れば、5倍の開き(10〜50%)だ。我が主治医の直近の実績値は90%以上ではないかと思っている。

   この種の統計データには、その本質的な性格として平均値とばらつきが必ず存在している筈だ。それなのにどの医学書にも、生存率のばらつきに関する情報が極めて少ない。生産工程が厳密に管理されている筈の工業製品にすら、残念ながらばらつきの発生は不可避である。いわんやがんの治療のように、患者間・病院間・主治医間に普遍的に存在している無数のばらつきの集大成になる筈の、5年生存率の公表値が平均値だけ、と言うのは些か奇妙な習慣だ。恐らくその背後には、そのばらつきを隠さざるを得ない病院側の事情が厳然として存在している筈と推定せざるを得ない。

   患者にとって最も欲しい情報は、病院ごとの過去の実績データである。望ましくは医師ごとの実績データである。インターネットで検索すると、医療技術に自信のある一流病院は自己データを開示し始めた。これらのデータを見るとどのがんの場合でも、一流病院間でも如何に大きな実力差があるのかが、一目瞭然としてくる。それ故に患者側の最強自衛手段は、治療実績データすら開示出来ないような泡沫病院での治療は、断乎として避けることに尽きる。

   国際市場で熾烈(しれつ)な競争を強(し)いられている自動車業界の場合、車の性能や信頼性に関する詳細なデータを各社とも開示し、お客様が購入候補の車について、とことん納得されるまでの比較が出来るようにとの便宜を図っている。医療機関がサービス業の本道をわきまえ、ここまで正直に、誠実に対応する時代の到来を望むや切なるものがある!
    
A 発がん率

   多くの先達の努力で発がん物質の発見とその発がん率への影響度は数え切れないほど解明された。卑近な例をあげると、タバコを毎日何本吸い続ければ、何年後には肺がんになる確率は幾らといったものである。
   
   しかし、この逆の場合の研究データは殆ど無い。例えば、緑黄色野菜を食べよといった、定性的なアドバイスはあるものの、何をどれだけ毎日食べ続ければ、胃がんになる確率がどれだけ下がるのか、との実験データは発表されていない。これではアドバイスを受け入れたくなる動機が不足する。何故、この種の発がん確率を下げる効果のある食材とその食べ方を発見するための、定量的な実験データが発表されないのか、不思議でならない。

[2] 一般的な解説書

@ 論理矛盾?

   自然科学と社会科学との本質的な違いは、前者の理論は再現性があるか否かで検証できるが、後者は客観的な実験が出来ないか、やりにくいことにあると言われている。医学は自然科学の範疇に属すると思っていたが、今までに読んだがん関係の書物では、社会科学に近いのではないかと思えるほど、理論の裏付け証拠が少なかった。単なる著者の考えた仮説に過ぎないのではないか、との疑問を感じるものも多かった。

   例えば、どのがんの解説書にも出てくる話題が『がん年齢(40歳代?)になれば誰でも、毎日数百から数万個のがんの芽(初期の異常細胞)が発生している。しかし、幸いにも免疫系の働きや細胞の自己防衛機能などが働いて、本格的ながんにならずに自然に消滅している』のように紹介されている。

   一方、同じ本に次の解説も出てくる。人体はおよそ60兆個の細胞から構成されている。体重を60Kg、比重を1と仮定すれば、細胞1億個は0.1グラムになる。これは一辺が4.6ミリの立方体と同じ大きさだ。現在の最新のがん細胞検出装置でも、5ミリ以上の大きさのがんでなければ、発見できないと書かれている。

   一体、どんな方法で、生きている人間の体に、毎日発生しているがんの芽を見つけ、数えたのか、疑問でならない。各著者は何処かの論文の孫引きで書いているだけだから、発生するがんの芽の数も、数百、数千、数万と適当な数を引用している。がんの芽がなければがんにかかることはないとの仮説には納得できるが、毎日の発生個数についての記述は出鱈目としか、私には考えられない。がんの本の説明にはこの種のいい加減さが随所に出てくるのに、改めて驚く。

A ステージ(病期)設定数値の混乱

   がんが何処まで進んでいるかを表わす言葉にステージ(病期)という概念がある。胃がんの場合には(TA、TB、U、VA、VB、W)で表わされている。ところが食道がんや大腸がんの場合は(0、T、U、V、W)である。肝臓がんでは(T、U、V、WA、WB)である。肺がんでは(T、U、Va、Vb、W)。

   これらからわかることは、各がんごとに勝手にステージを仕分けしていることである。何故食道がんや大腸がんでは早期がんに、Tでは無くて0にしたのか、記号(サフィックス)もA,Bであったり、a,bであったり、恣意的である。患者からすれば、各がんの病期の設定基準を整理し、同じ数値ならば同じ程度の危険性があるように表示してくれないものかと、思わずにはおれない。
   
   世界各国には暦にしろ、度量衡にしろ、様々な流儀が存在していた。西暦・太陽暦・太陰暦・イスラム暦・ロシア暦・台湾暦などなど。度量衡にしても、尺貫法・ヤードポンド法・メートル法などなど。これらもやっと世界共通のものに整理され始めた。通貨の単位だってEUでは一気にユーロに統一された。それらに比べれば歴史の浅いがんのステージを統一することくらい、簡単なことに思えてならないのだが。

B 標準治療法の設定遅れ

   病期の設定の乱れと同じ種類の問題に思えるのは、各がんに関する標準治療法の制定の遅れにも感じる。現在までに設定されているのは胃がんだけ。乳がんは制定途上だ。

   日本に近代医学が導入されて既に百年以上が経過し、医学博士の第1号が帝王切開に成功した医師に与えられて(何かで読んだ記憶だが、真偽は不明)以来、医学博士号も何十万人かに授与されているが、米国に比べて、標準化の遅れを何と評価すべきか。お山の大将の乱立下で、困惑しているのは、か弱き患者だけではあるまい。
    
    C 抗がん剤の効用説明の曖昧さ

   がんの本を読むと、抗がん剤が本当に効くがんは極めて少ないらしい。NHKの本では『胃がんの場合は、化学療法(抗がん剤投与の意)だけでがんを完全に消失させるのは難しく、標準的な治療法としては確立していない』と断言している。

   一方、同書には2002年7月現在の政府により承認されている抗がん剤87種類のリストが添付され、胃がんにも適応するものとして24種類も列記されている。また、10種類以上ものがんに適応できると称した、万能のような抗がん剤も紹介されている。韓非子に記録された武器商人の商法に由来して生まれた言葉、『矛盾』を思い出さざるを得ない。
   
   抗がん剤の認可条件はがんが寛解しなくとも、がんの成長が一時的に止まったとか、ちょっと小さくなったとか、僅かの利点が検証されれば、副作用との利害を考慮して、認可されるらしい。何時までも『抗がん薬』に昇格できない理由があるようだ。私は、結局のところ、抗がん剤は一切使わなかった。

D 退院後の指針不足

   がんに罹らないための総論は巷に溢れているが、がん患者は一向に減らないので、これらの総論の有効性にも疑問が湧く。一方、がん患者は現実にがんにかかったのだから、医者には何故罹ったのか、その患者の生活習慣を確認して、総論よりももっと的確なピンポイントとなる対策が立てられる筈と思ったが、そのような個別指導はなされていない。個別の原因分析も出来なくて、何が総論か!
   
   NHKの本では胃がん患者の治療後の生活指針は、食事は1日分を5〜6回に分け、少しずつゆっくり食べよ、というのと、定期検査を受けよ、というだけだった。これでは再発防止対策にはなりえない。食道がんでは、酒とタバコを止め、定期検診を受けよ、とあるだけ。
   
   退院後、患者にとっての最大の関心事は再発防止対策にあるのに、然したる指針が無いのは、結局どうすればよいのか分からない、と白状しているようなものだ。

E がん細胞の寿命は?

   どの医学書にも、がんは最初の1個から細胞分裂を繰り返して大きくなると記述されている。がん細胞は同じ時間間隔で分裂しその都度、数が2倍になる。30回分裂すれば、2**30=10億個になる。この説明には大変な疑問が起きる。がんの塊が出来た場合、中心部も外周部も同じ速度で増殖するのであろうか?細胞分裂に必要な栄養素はどのがん細胞にも均等に供給されるのであろうか?徐々に効率が落ちて、分裂速度が低下するのではないかとの疑問に応えている医学書は発見できなかった。

   最初のがん細胞が分裂して2個になったとき、どちらが親で、どちらが子なのか?どちらも同じ能力を持っているのならば、何回分裂しても若さは失われず、生き続けるのであろうか?普通の細胞よりも活性度が一桁高いと言われているがん細胞の分裂が半年に一回では遅すぎると思わざるを得ない。むしろどんどん分裂し、どんどん新陳代謝を繰り返しているのではないかと思えるのだが。

   一方、大人一人には約60兆個の細胞があるが、これらの細胞は毎日2%(1兆個)は新陳代謝で入れ代わっているといわれている。これが正しければ全身の細胞は2ヶ月以内に1回更新されていることになる。皮膚の古い細胞は垢となって廃棄されるが、廃棄される細胞は皮膚だけではない。脳細胞と神経細胞を除いて、内臓も骨も血液も常に更新されている。すなわち、正常な細胞は分裂して増加した数と同じ数の細胞が死滅している。体重の増減と細胞数の増減に直接的な関係はない。体重の増加は脂肪・水分の増加や細胞の大型化らしい。

   結局、がん細胞の方が普通の細胞よりも分裂速度が速いのか遅いのか、新陳代謝があるのかないのか、どの医学書にも記述がないのは不思議でならない!

[3] 幼稚極まれる我田引水書

    @ 患者よ、がんと闘うな(近藤 誠著)

   この本は多くのメル友から『一度、参考までに読んで見たら』との推薦を受けて買ったものである。初版は1996年3月。著者は1948年生まれ。慶応大学医学部放射線科講師。著書は15冊以上。似たようなタイトルの本で、日本のがん関係者(学会・学者・名医)に対して孤軍奮闘しながら理論闘争(?)を挑んでいるのは、がん患者のためだそうだ。

   著者は自らをコペルニクスやガリレオになぞらえて、既存の学説に反旗を翻しているとの高邁な志しを述べているが、その説明の中にすら著者のずさんさが暴露されている。『今では地動説の正しさは疑いないものとされています。しかし、地動説を知らない子供は、太陽が地球の周りを回っている様に見えることが、地球が太陽の周りを回っていることの証拠の1つになるとは思いつきもしないでしょう』と書いているが、正しくは地球が自転していることの証拠と書くべきだった。氏の論理構成力は拙く、我田引水の余り矛盾に溢れ、単なる筆のすべりとは言いがたいものがある。そのいくつかの事例を紹介する。

   氏は『がんには2種類ある。1つは本物のがん、他はがんもどきである。本物のがんならば発生して直ぐの時点で既に他臓器への転移を起こしている。原発がんが検診で運良く発見されても、その時点では転移がんは未だ小さいために、検診では発見できないだけだ。一方、がんもどきとは転移が起こらないがんである。このことに世界で最初に気付いたのは私だ』と主張する。

   氏の主張は続く。本物のがんとがんもどきとの違いは遺伝子レベルなので、顕微鏡では区別することができない。しかし、転移したか否かで区別できる。がんの成長速度は原発がんも転移がんも同じである。手術で原発がんを切除しても、本物のがんの場合は数年以内に転移がんが必ず発見される。通常、がんの成長には20年もかかる。このことから逆算すると、転移は、原発がんの手術時期よりも十数年前に起きていた筈と推定せざるを得ない。その転移開始時点では、原発がんはどんな鋭敏ながん検出器でも発見できない大きさだ。早期検診でがんが見つかっても、その時には既に転移しており手遅れになっているのだ。

   氏は『そもそも転移は物理的化学的作用の結果生じますから、転移時期の分布は正規曲線になるのが自然なのです』と主張するが、何故正規曲線になるのか、証拠を示しての説明にはなっていない。正規曲線というならせめてピークの時期くらいは明示してもらいたいものだ。

   自然界には色んな現象があり、それぞれに特有の発生確率分布曲線が知られている。その代表的なものには、正規分布・二項分布・ポアッソン分布・χ2分布・t分布・F分布がある。氏が知っていたのは高校数学で習った正規分布だけだったのではないか?氏の仮説が正しいのならば確率分布曲線は左右対称形ではなく、転移発生初期にピーク値が現われるポアッソン分布の方が遥かに妥当なのだが『正規曲線になるのが自然なのです』と自信なげに書いているところから憶測すると、恐らく氏には応用推計学に関する基礎知識が絶無だったのではないか?

   本物の原発がんが早期検診で、運良く発見されて切除できても、その時点では発見できなかった転移がんが、その後大きくなった時点で発見され、再手術で除去しているが、殆どの患者は結局死んでいる。つまり、本物のがんの場合は、早期検診は無意味、手術も無意味、所詮は死ぬからである。早期と言う言葉に惑わされてはならない。

   一方、がんもどきは早期検診で発見されても、転移しないがんだから手術をする必要はない。早期治療で寛解したと関係者が称しているがんは、がんもどきだったのだから、つらい切除手術などは元々不要だったのだ。それゆえ、がんの早期検診も早期治療も共に無意味だ、と言うのが氏の主張の要旨である。

   本当に氏の主張は正しいのだろうか?私から見れば、氏の主張には裏付けとなる物証が全く示されていない。単なる仮説、若しくは単なる氏の独りよがりな思い込み、にしか思えない。特に疑問なのは、がんの成長速度が一定と言う仮定にある。

   一方、がん発生の最新論では、がん関連の遺伝子が『イニシエーター』という有害物質で傷つけられて『がんの芽=初期の奇形細胞』が出来、その後数十種類以上のがん関連の遺伝子が、長い間に次々と突然変異を起こして『本物のがん細胞』が発生すると考えられている。

   つまり、正常な細胞が何段階かの突然変異を経て本物のがん細胞に変質するまでの所要時間は長く、本物になってからの成長速度はかなり速いのではないか、と私には思えるのだ。我ががん発生論に関する理解が正しければ、転移は本物になった以降のがん細胞なので、転移先での成長速度は速く、2,3年で発見される大きさになり、最新の医学界の認識とは矛盾しない。

   別のところでは『子宮頸がんについて考えてみると、ゼロ期では定義上も理論上も、リンパ節に転移はありません(注。この説明だと、子宮頸がんはがんもどきともいえる)』と断言したかと思うと、あるところでは『がんは早期発見可能な大きさを越えた後、初めて転移するのではない、という命題は、がんの本質からも裏付けられます』と再び自説を主張(注。ゼロ期の子宮頸がんにも、既に転移が起きている筈との主張になる)。

   氏はある時には、がんには色んな種類があるといい、別のところではがんの性質は皆同じと矛盾したことを言っている。例えば、抗がん剤に意味があるかどうかの観点から、がんを4つのグループに分けているかと思うと、別のところでは、『どんな臓器に発生したがんも、2分裂を繰り返して増大し、転移があって再発もする、という性質を持ちます。(注。この説明だと、がんもどきは存在しないことになる!)それらの性質は、臓器が変わっても異なりませんから、肺や乳房や大腸で無効だった検診は、他の臓器でも無効と考えるのが、むしろ素直ではないでしょうか』と自信喪失を思わせる屁っ放り腰の主張。
   
   余命についても、矛盾したことを言っている。『余命半年保険と言うものがあります。余命半年と医師に診断されると、本人が生前に支払いを受けられる生命保険で、本人がお金を使えるから合理的であるとして、加入する人が多いと聞きます。しかし、同じ進行度の患者でも死ぬまでの期間はバラバラなのですから、どんなに熟練した医師でも余命をきちんと当てられません』。

      一方、別のところでは、『がんの進行は規則的ですから、経験豊富な専門家が最低2ヶ月は持つと予測した場合、その予測が外れる事はまずありません』と主張している。

   なお、丸山ワクチンについての氏の見解には全く異論がない。『丸山ワクチンは、体の調子が良くなることで有名ですが、それを開発した丸山氏は受診した患者に、それまで受けていた治療をきっぱりやめるよう指導していたと言います。患者の多くは、副作用の強い抗がん剤を続けていた筈ですから、調子がよくなって長生きしたのは、抗がん剤を止めた効果ではないでしょうか。どうも丸山ワクチン神話の底には、大いなる錯覚があるようです』。つまり、丸山ワクチンは何の役にも立っていないと言っているのだ。

   本書を通読すると、抗がん剤に関する見解や放射線治療に関しての氏の主張には、何らの異論をも感じなかった。しかし、がんもどきの存在を仮定し、早期発見・早期治療の価値を全面的に否定している氏の主張は、私には何らの説得力をも持たなかった。更には、がんもがんもどきも治療する価値は無いと主張しながら、自身の専門とする放射線治療の価値を吹聴しているのには、馬鹿も休み休みに言えと、怒鳴りつけたくなる!

A 水溶性メシマコブで末期ガン早期消滅!!(佐野鎌太郎監修)

   同室の胃がん患者から上記の本をプレゼントされた。本人、奥様、長男がお互いに独立に本屋で発見して買ったため、一家に3冊も貯まった。『石松さん、ご興味があればどうぞ。もしもお読みになったら、感想を聞かせて』。藁をも掴む心境に至っているがん患者の弱みに付けこんで、どんな風に宣伝をしているのかに興味が湧き、早速暇つぶしを兼ねて読んだ。
   
   メシマコブに関する実験としては1968年、国立がんセンター(化学療法部)と東大薬学部による共同研究の成果が唯一紹介されていた。がん細胞を移植したマウスの皮下にメシマコブの抽出エキスを注射で投与したら、腫瘍阻止率が96.7%だった、という古い研究成果だ。それが本当に優れたものならば、学会では色んな追試実験が通常重ねられるが、今に至るまで何1つ発表されていない。なのに、鬼の首でも取ったかのごとく、この数値が表紙に大書されている。
   
   本文中には62人の体験談が実名入りで紹介されている。不思議なことに総ての体験談は、がんが完治した、縮小した等の成功事例ばかりだ。患者は通常のがん治療を受けながら、メシマコブを併用した場合でも、治癒効果はメシマコブにあったとの判定を勝手に下している。総ての患者は水も飲むだろうし、ご飯も食べているはずだ。本書の論法を使えば、水を飲んだらがんが治った、ご飯を食べたらがんが治った、と言えることになる。
   
   何よりも奇怪なのは、メシマコブを利用した人で、治療効果が無かった人の紹介記事がないことである。統計ではがん患者の60%が結局は死亡している現在、メシマコブを愛用している人で、死亡した人がいないはずがない!
   
   本書の最後には『がんは本来、免疫力が低下した時に現われるものです。がんの発生や再発を防ぐためにも、水溶性メシマコブはなるべく長期間に亘って飲み続けたほうがいいと思われます。飲用期間は長ければそれだけ免疫の力もアップすると考えてください』。売上増のみに関心のある書き方だ。『考えてください』とは、何と言う傲慢さだ!こんな本が大手を振って販売されているところに、日本人の知的貧しさが現われている。

[4] 公平さを欠く代替療法(民間療法)批判
    
    @ 治療効果の証拠がないとの主張のみ

   がん関係の学会の主流となっている学者や医師が関係している本では、代替療法に関しての評価は総じて冷たい。その根拠としているのは、科学的方法(実験計画法?)に基づいた研究データが無いからというものだ。つまり、その方法が明らかにがん治療に効果があったとの証拠がないといっている。その論法では『がん治療には効果が無かったとの証拠はない』と言うのと同じではないか。結局、有害であると言い切る自信はなく、屁っ放り腰の批判に過ぎないことになる。

   一方、彼らが主流となって推進している各種治療方法に関して、どれだけ有効性が確認されているのか、必ずしも十分な証拠が揃えられているわけではない。その結果、既に述べているように、各がんに関する標準治療方法すら、纏めることが出来ない。

   患者の立場から評価すると、残念ながらがんについては、まだよく分かってはいない、との事実を知らされているだけだ。  
    
A もずくを毎日食べながら

   地球上での最初の生命は海で発生したとの仮説を信じる限り、人体に必要なミネラル類が海水に多いのは当然と思える。生理食塩水・点滴液・スポーツドリンクが総て血液の成分に近づけているのも、同じ理由だ。その海水中で育つ海藻の成分は、海水から塩分を除去したものに大変似ており、人体に必須のミネラルが豊富ということになる。
   
   毎日食べても飽きず、食材の用意が簡単なものとして、もずくを我が健康食品に選んだ。昆布・若芽・ひじきは連日食べると飽きてくるから削除。メシマコブやアガリクスよりも遥かに安価なのも、細々と生きている年金生活者には魅力的だ。
   
   メシマコブを推奨する上記の本の論法を使えば、もずくを食べれば免疫力が強まり、抗がん能力の強化にも繋がる事になるはずだが、それほど信じるには至らない。しかし、元々好きな食べ物だったし、インターネットで調べたら沖縄県の漁業組合が、塩もずくを18Kg、2500円で販売していたから、買ってみたまで。
                                                                  上に戻る
    病院内での見聞録

[1] 非日常世界の典型となる入院生活

    @ 外部情報は新聞とテレビのみ

   入院してみると、病院と比較して如何に一般社会に情報が溢れていたかに改めて気付く。定年退職しても現役時代との情報落差は、今まで余り感じなかった。ゴルフやテニスを通じての付き合いが昔通りに続いていたからだけではなかった。本屋にもデパートにも、図書館にも行けた。家族との会話もあった。

   病院内の売店は9時に開店。新聞が買えるのはそれからだ。毎朝4時に新聞が来る生活とは5時間も違うだけではない。目覚めれば配達済みの新聞が読める生活と、5時間も待たされ続けるのとには心理的には大差を感じ、大変いらだつ。貸しテレビは全ベッドについてはいるが、イヤホーンで聞くシステムだ。しかも、消灯後は使用禁止。イヤホーンなので音声は漏れないが、患者間を仕切っているカーテンにブラウン管の光が反射してチカチカするので、安眠妨害となりお互いに迷惑なのだ。

   過去30年間、早寝早起きの習慣に生きていた私は、見たい番組(最近の例だと、NHKの人間講座・民放の世界遺産)は録画して翌朝見ていたが、病院の貸しテレビには残念ながらビデオがついていなかった。結局、ニュースを我慢しながら時々見るだけ。徐々に世の中の変化から遠ざかり始めた。

A 病室間移動は簡単に出来る

   病室内の設備は標準化されていた。ベッド、個人ロッカー、物入れや金庫付きのテレビ台とテレビ。このテレビ台にはキャスター(車輪)がついていた。病室を移動する時にはテレビを載せたままテレビ台をころころと押していき、新しい部屋のテレビと台を元の部屋に戻せば病室の移動作業は完了。物入れには最低限の日用品を入れており、それを全部出し入れするのは面倒だが、転がして移動できるのは大変作業性がよい。

B よく喋るがん仲間

   がん仲間は何故か殆どの人がよく喋った。中には喋り始めたら止まらないほどの人もいた。同室者はそんな雑音には、お互い様との認識が強く、クレームをつけなかった。お見舞い客も来ないし、がん死への不安を忘れるためにも、喋り続けているのだろうか?

C 点滴しながらの入浴は大変!

   手術後、点滴を24時間続けていたら、段々と体全体から点滴液の匂いが発散されてきた。汗を通じて匂いが出てくるようだ。下着にも同じ匂いがする。病院内には温水洗浄タイプのトイレもあったので、下着が糞尿臭くなったわけではない。でも、薬漬けにされているように感じ始め、段々と耐えがたくなり、看護師に入浴を相談した。予期に反し『点滴を外さずに入浴は出来ますよ』と、いとも簡単に即答。
   
   点滴患者の入浴は予約制。入浴は1人ずつ。看護師に手伝ってもらっての、実際の入浴は一苦労だった。ステンレスの浴槽には転倒防止の取っ手があっちにもこっちにも。洗い場から浴槽に入るための階段状のステップをそろりそろり。入浴後に下着を着るのも一仕事。同室者が殆ど入浴しなかった理由が納得できた。看護師に感謝しながらも、こうして手伝ってもらって入浴したのは、結局たったの2回だけだった。

D 賢人各位からの励ましのメールに感謝!

   入院中も退院後も私にとり一番嬉しかった事は、賢人各位からの励ましのメールが殺到したことだった。日頃殆ど交流もなくなっていた方からも、繰り返しメールをいただいた。これらのメールこそは、私にとり、どんなによく効くといわれる抗がん剤よりも、高い価値があるように感じた。Appendixには、そのときに私から発信したメールを発信順に纏めた。

[2]医学トピックス

@ 電気メス

   手術前、体調確認のための定期巡回に来た男性看護師に『電気メスの原理』を質問した。男性看護師は女性看護師よりも医学的な知識が豊富かと期待したが当て外れだった。『分かりませんが、分厚いマニュアルは持っています』『ちょっと貸してくれませんか?』直ぐに持ってきた。電気メスとは俗称で厚生労働省への認可申請書には『電気手術器』と書くのだそうだ。
   
   電気メスとは高電圧・高周波をハンドピースの針先から生体の切り裂く部位にアーク電流として流し、皮下で肉体を抵抗として発熱させる結果、瞬時に細胞内の水分を蒸発、爆発させて生体を切断する道具である。針先は生体との癒着を避けるために非接触状態で動かす。電流は電気メスの先端から体内を流れ太股の電極から回収されるが、電流密度が高いのはメスの先端の近くだけである。
   
   電気メスは波形を変えることによって2つの機能が使い分けられている。切開作用と凝固作用である。連続波で切開作用を、連続波を間歇的に発生させると凝固作用として使える。熱切断だから細菌による汚染の危険性もない。
   
   高電圧・低周波では人は感電死するが、高電圧・高周波では何の心配もない(電流が心臓から離れた体表面を流れるためなのだろうか?)。電気メスの長所の1つは止血作用にある。私の場合、まさかの事故のために輸血は用意してあったが、出血量は僅か300ccに終わり、輸血も不要だった。残念ながら電気メスの現物は見ていない。

A 人工呼吸器

   全身麻酔の最大の問題はそのままでは呼吸が止まることにある。麻酔がかかった直後、道具を使って外部から気管が見えるところまで口を大きくこじ開けて、人工呼吸器を取り付ける。麻酔がかかっている時は、覚醒時の5割増まで口を開けることが出来るそうだ。

   人工呼吸器を取り付ける時、機械的な外力により口をこじ開けるため、作業ミスで間々口内出血が起きたり、歯を折ったりするそうだ。人工呼吸器は麻酔から覚醒していることを確認後、外される。これも残念ながら現物を見ないままだ。

B 血中溶解酸素量が不足すると?

   手術前も手術後も連日、何回も血中溶解酸素量を看護師が測った。採血して測ることもあったが、通常は代用特性を使った測定法だ。手の指先の爪を洗濯バサミのようなもので挟み、透過光の色でヘモグロビンの量を間接的に推定する携帯式測定器だった。何時も98〜100%などの数値が表示された。問題なし!

   主治医に『血中溶解酸素量が不足すると、何が起きるのですか?』『縫合部の癒着が遅れます。胃を縫合するのは布を縫うのとは本質的に異なります。布の場合は抜糸すると、ばらばらになります。体の場合は切り口から糸状の蛋白質が伸びて絡まりあい、癒着します。この蛋白質の成長には酸素が欠かせません。酸素不足の場合、何時までも抜糸が出来ません』

C 警戒していた輸血事故

   今や我が国では残念ながら安全な血液の確保は大変難しいようだ。今上天皇が前立腺がんの手術をされた時には、自己血液を2回合計600cc採血されて、出血に備えられていた。宮内庁と雖も安全な血液を確保するのが難しかったかのだろうか?尤も無菌の清浄な血液と雖も、異物反応などの予期せぬ事故の可能性を考えると、自己血液に優る血液がある筈もないが。

   私の血液が原因となって、主治医などに思いがけない事故が発生する可能性を阻止するためか、エイズ検査も受けた。これは私の希望ではないので、受益者負担の原則に従うのか、費用は病院の負担だった。エイズの検出検査には合格。身に覚えがないから、当たり前だ!!

D 屁の意外な効用

   屁と言う単語には気品を尊ぶ日本語の中では、気の毒にも良い立場を与えられてはいない。曰く、『屁の河童』『屁ほどの役にも立たない』『屁っ放り腰』『言い出しっ屁』『透かしっ屁』。など、など。

   しかし、胃がんの手術に限らず、消化器外科手術では『屁』の重要さは横綱級だ。人間の体は口から肛門までは、大局的に見れば一本のバイプラインになっている。このパイプラインが何処かで詰まれば、一大事。屁の主原料は口から入った空気。屁が出ると言うことは、パイプラインが全線に亘って正常に機能していることの何よりの生きた証拠だ。

   屁と言う発音だけでは明確に発声することも聞くこともやや難しいためか、病院内関係者は『ガス』と呼ぶ習慣のようだ。胃がん手術の成功の号砲は『ガスの噴出』だった。看護師に『ガスは未だですか』と何度も質問された。

E 腸閉塞は何故起きる?

   消化器外科の先輩がん患者の過半数は腸閉塞の体験者だった。消化器外科部長の加藤副院長に『腸閉塞は何故こんなに多いのですか?患者はどんな注意を払えばよいのですか?』と尋ねると『どんなに注意をしていても、なる時はなるのですよ。しかし、腸閉塞に罹っても大して心配はありません』と、気楽な回答。

   我が主治医に聞くと『手術時にどんなに注意していても、腸に何らかの形で手が触れます。その時ミクロに見れば腸は傷つけられています。傷がつくとそこから蛋白質の繊維が発生し、腸があちこちにくっ付いて腸閉塞が発生しやすくなります。手術後に極力散歩をすれば、腸が腹腔内でぶらぶら揺すられて、くっ付き難くなります』。散歩嫌いの私は、点滴スタンドを転がしながらの散歩も殆どしていなかった。

   腸閉塞の起こりやすさと、縫合後の胃の回復力とは共に蛋白質の繊維の発生に由来している。原理的には同じ現象なので、正に痛し痒しだ。散水用の長いビニールホースはちょっとした原因で絡まったり、水が出にくくなることがあるが、腸閉塞と同じ現象のように思えた。

   胃がん治療のガイドラインで、手術後の後遺症として代表的なものが6症例ほど紹介されているが、その筆頭に書かれていたのは腸閉塞だった。『腸閉塞とは腸の流れが閉ざされて、便やガスが出なくなってしまうことを言います。手術した後殆どすべての場合、お腹の中で腸があちこちにくっ付き(癒着と言います)ます。

   その結果、腸がカーブしたり、狭くなってしまうことがあります。そこに食べ物が詰まると、便もガスも出なくなります。また、時には腸がねじれて、腸内の流れが閉ざされてしまうこともあります。多くの場合には、絶食していると自然に治るのですが、云々』。このことを知っていたら、せっせと散歩したのに!後の祭りとは、このことだった。

F 縫合に使う糸の色は?

   ある時、研修医が抜糸をした。腹部に貼り付けられていたテープを剥がすと縫合部が現われた。縫合線に直角に12ヶ所縫われていた。糸の色を見て驚いた。『絹糸なら純白かと思っていたのに、どうして真っ黒なのですか?』『縫う時に、糸と肉体とが見分けやすいのです。白だと血で赤く染まって見難くなります』。成る程、と納得。

   胃の縫合に使う糸も黒色だそうだ。『胃の縫合に使う糸は抜糸しませんね。何を使っていますか』。自信なげに『蛋白質だったか、でんぷんだったかの糸です』『腹部の縫合にもその糸を使えば抜糸も要らないのに、何故使わないの?』『絹糸だと縫合ラインが綺麗に仕上がります』。この説明は本当だろうか?

G 食道に目印として取り付けた金属

   食道の放射線治療の準備として、がんの上下端にホッチキスでX線に写る金属を取り付けられた。男子看護師に『金属の名前は?』と質問すると『知りません』。傍らの女子看護師が『チタンと聞いたことがあります』。主治医に聞くと『ステンレスだったかな?』。皆の関心のなさに唖然!メーカー任せのようだ。

[3] 入院患者

@ 太った患者は少ないどころか!

   がん患者は殆ど例外なく痩せている。太っている人は殆ど見かけない。ある太った胃がん患者は手術前に強制的に痩せさせられた。主治医に質問すると『肥っている人の場合、腹部の脂肪層が厚すぎて、手術がやり難いのです』。15kg位体重を下げさせられた、元肥満気味の患者もいた。

   手術をすると毎日0.5〜1kgの割合で見る見る体重が下がっていく。体調が回復しても術前の10%減が普通だ。私は54−46−54kgと変化したが、体重が元々少なかったからと思う。不幸にして治療方法がもうないと宣告された患者の場合の多くは、人間はこんなにも痩せられるのだろうかと、目を合わせるのもつらいほど痩せていた。ある胃がん先輩は何と『生きているミイラみたいだ』と形容した。 

A 合掌したくなった芸者首(げいしゃくび)患者

   芸者首とは注文紳士服の職人仲間で使われている業界用語だ。上着の襟回りの仕上がりが悪いと、首と襟との間に隙間が出来て、あたかも芸者が和服の襟を外側にそらして着ているのに似ていることから使われ始めた。

   健常時には首周りもぴったりと馴染んでいた上着も、がん患者のように痩せてしまうと、あたかも芸者首のように、首周りに大きな隙間が出来てくる。がん患者で治療中に新しい背広を仕立てる人はいないようだ。ある患者が治療方法は最早ありませんと宣告された。背広で正装し、出会った方々に最後の挨拶をしながら退院された。その後ろ姿は正しく芸者首だった。思わず合掌したくなった。

B お見舞い客の多寡

   同室者へのお見舞いには入院直後に家族や親族の方が来られていたが、再訪問されるのは家族に限られていた。職場や友人は予想通り、殆どの方の場合、姿を見せなかった。再発患者の場合、皆事情が分かっているのか訪問客は奥様だけの場合が多かった。

   がん病院にお見舞いに行くということには、如何に心理的な抵抗が強いかの生きた証拠だ。私には毎日のようにお見舞い客が来られたので、4人部屋の場合はなるべく面会室に移動した。同室者の寂しそうな姿をお見舞い客の目から離したかった。元気そうに振舞うのにも、神経を使った。

[4] 同室者との励ましあい

    @ 愛知県がんセンターの患者受け入れ方針

   当がんセンターは患者の治療を目的としているため、治療方法の無くなった末期がん患者は原則として、退院させているようだ。500床あるが、緊急患者の受け入れも出来るようにするため、10%くらいは常時空けてあるように感じた。平均入院期間を1ヶ月とすれば、年間ざっと5000人が入院することになる。

   がん患者の死亡率は全国平均では50〜60%もあるので、年間の死者が2000〜3000人いても決して不思議ではないが、看護師に聞くと病院内での死者は100人前後らしい。つまりは、殆どの患者は別の所で死んでいることになる。それでも500床ある同規模のトヨタ記念病院の2倍だ。

A 主治医には何故か従順な患者達

   多くの患者は主治医に不思議なくらい全幅の信頼を置いているようだ。がんについて勉強すれば、治療効果が上がるという論理も無いためか、積極的に勉強する気も起きないらしい。『つん読』のための本すら買う気も起きないらしく、読んでいるのは決って週刊現代や週刊ポストなどの大衆週刊誌。

B がん友関係の自然な発生

   4人部屋では患者の入れ代わりが頻繁だ。手術直後は一人部屋に移り、その後はその時点でベッドが空いている別の4人部屋へ移動するからでもある。新患者が同室の患者に自己紹介をすると、先輩患者(僅か数日の先輩ではあるが)も返礼として自己紹介をする。職業も出身地も家族構成もまちまちで、因数分解しても『がん』を除くと共通因子は殆ど見つからない。そのためもあってか、がんをキーワードとしての会話が展開される。

   患者の約半分はがんの宣告を受けたのは初めて。あらゆることに不安があり、先輩入院患者に質問を投げかけながら、気持ちを落ち着かせていく。このことは連日のように繰り返されているため、先輩患者も知っていることは何でも話し始める。その結果、直ぐに同じ釜の飯を食べて過ごした友人のような関係が、自然に生まれるようだ。

   患者の年齢は55〜75歳に集中していた。若い患者の場合、当然のことながら子供達が社会人として独立していない場合が多い。彼らの場合、自分自身のことよりも子供の将来を心配している。吉田松陰の辞世の歌『親思う心に勝る親心、今日の訪れ何と聞くらむ』は永遠の真理だ。年寄りには孫が多い。多くの人は孫の写真を飾っている。奥様の写真は飾りたくないようだ。

[4] 同室がん患者との一期一会

@ A氏、胃がん1

   A氏は赤い増血剤を点滴で注入されていた。胃の内部からの出血でヘモグロビンが健常者の60%しかない。80%以上ないと手術は出来ないそうだ。『点滴でヘモグロビンが増えた頃には、胃がんも大きくなって手遅れになりませんか?』と主治医に質問。『1ヶ月は待てる。それでも駄目ならば輸血をする。ヘモグロビンが不足すると酸素が不足し、縫合部の癒着が困難になるからだ』

   A氏(69歳前後)は1ヶ月近く増血剤の点滴を続け、ヘモグロビンの量も目標に到達。しかし、手術日が決った直後に大出血。結局、輸血に頼った手術になった。これで無事に乗り切れたかと思っていたら、胃の縫合部分の癒着が順調には進まず、消化液が腹部に漏れ始めた。已む無く腹部に穴を開けバイプを挿入して吸引処理。入院期間が多少延びたが無事に退院された。A氏から受信したメールによれば、体重も術前に戻り、国内旅行も再開されている。

    A B氏、胃がん2

   B氏(55歳)は名古屋市錦通り(東京新宿の歌舞伎町みたいなところらしい)の雑居ビルで、居酒屋を夫婦で開業。会席料理の鉄人でテレビにも出たことがある。スポーツマンでゴルフのハンディキャップは何と1。ボーリングは全国2位にもなったことがある。食材と日本酒は全国からその地の特産品を宅配で取り寄せるため、地元の市場からは一般品を買うだけ。

   双子の息子は東京で板前の修業中。長女は名古屋市内の一流女子大4年生。ご本人は料理が上手いだけではなかった。社会のもろもろの話題を簡潔に面白く語る特殊能力と、同室患者のつじつまの合わないような話からでも、的確にその本旨を聴き取る才能には、私が驚愕してしまったほどだ。多くの人はB氏と話をしていると何故か幸せを感じるらしく、お得意さんの予約を消化するだけで手一杯。

   『お客さんは、私の料理と私との会話を楽しむために来られるのだから、弟子は取らないし、息子達にも店の手伝いは決してさせないとの方針だ。実の息子でも私の代わりは勤まらない』と断言。世の中にこんなに話し上手、聞き上手な人がいるとは信じられないほどだった。B氏は『石松さん、私が退院したら食材と道具持参でお邪魔しますよ』と楽しげに約束された。

   B氏が体調に異変を感じたのは15kgも体重が減少した結果である。店を閉め、雑居ビルの賃貸契約を解除し、什器他商売道具は貸し倉庫に預け、愛知県がんセンターに入院された。検査の結果、胃は全部摘出、あと周辺の臓器を若干切除すれば十分との診断が下りた。

   ところが、開腹した結果、予想以上に進行していたがんと判明。主治医は家族を呼び、『患者さんの肉体的な負担・打撃の大きい手術をしても助かる見込みはありません。腹を閉じ、延命治療をされることをお勧めします。余命は6〜12ヶ月です』と宣告。奥様の同意を得て、手術は中止となった。

   私はB氏の主治医に『余命はどのようにして推定するのですか?』と質問。『色んな文献、過去の体験などを勘案して推定します』と一応もっともらしい理由を説明したが、自信はなさそうだった。私は山勘に過ぎないと思った。

   覚醒後、経緯を知ったB氏は『仕方がない』と万感を込めて寂しそうに一言。退院までの1週間は奥様とお嬢さんが毎日来られた。私には慰める言葉も思いつかなかった。自営業の方は仕事を優先される余り、定期検診を受けない人が多く、気付いた時には手遅れになっていた人が他にもいた。B氏の場合、営業日が病院と同じ月〜金だったのも災いした。気の毒でならない。

B C氏、食道がん

   C氏(69歳)の食道がんではリンパ節への転移も発見された。C氏は60歳の定年後、数回もの大手術を体験し、腹が据わったいわゆる豪傑だった。外科手術と放射線治療を比較され、外科手術がより信頼性が高いと判断された。この10年、放射線治療も成果を上げてはいるが、歴史も浅く、生存率に関するデータが少ないことを懸念された。

   氏は更に『人生、男は70歳、女は75歳まで元気であれば満足』との信念で生きてこられたためか、大手術への恐怖感も無いようだった。氏の手術は11時間。患者だけではなく、外科医にも体力は必須。食道を切除するだけではなく、声帯も切り取られた。術後は集中治療室に入られ、家族以外は面会謝絶。ピーク時には14本の各種管を体に取り付けられた。

   C氏はその後、術後の無料個室に移動されたが、ある時館内緊急放送が流れた。『家族の方、至急病室へお戻りください』。奥様は院内の売店に行かれていた。巡回の看護師が食道と胃との縫合線が外れかかっていたのを発見。急遽集中治療室へ。危機一髪だった。氏はその後も何度か個室と集中治療室を行ったり来たり。しかし、最後は順調に回復されて退院された。

   氏を私は何度か見舞った。その時の会話は総て筆談だった。声帯を削除しても『食道発声法』で3ヶ月間訓練すれば、発声能力は回復するから心配はされていなかった。C氏の苦闘に比べれば私の食道がん治療の苦しみなど、比較にもならない。奥様の話だと流石の豪傑も一時は落ち込み、死も覚悟されていたらしい。
   
    C D氏(62歳)、大腸がん(遺伝性非ポリポーシス大腸がん)

   D氏は名古屋市の高級住宅地に住む、両親の遺産を相続した超お金持ち。改築前の生家には3ヶ所もお風呂があった。パソコンのモニターは80万円もした50インチのプラズマテレビ。車はベンツ。

   日本の不況は『世界的に見れば一般大衆すらもお金持ちになり、買いたい物がもうないからだ』との俗説が唱えられて久しいが、大嘘だ。皆が買っている物は、やっとこ買えた安物ばかり。本当は高級品を買いたいのに、老後が心配なので買うに買えないのだ。腕時計を見よ。背広を見よ。靴を見よ。家を見よ。スーパーのレジでカートの中身を覗いて見よ。何の解説も要らない。そこには日本の本質的な貧困が溢れている。

   D氏は大学卒業時に、最も自由時間が多い就職先を選んだ。それは工業高校だった。夏休みなどの長期休暇はあるし、残業もないし、受験指導も不要だし、教えるための新たな勉強も不要だし。。。
 
   D氏の目的はこうして手にした自由時間をフルに使って世界を旅することにあった。今までに両極以外、行きたい所には全部出掛けた。高校の理科(物理と化学)の先生(お見舞いに来られてお会いしたが、絶世の美女)と結婚し、一人息子にも恵まれた。息子はハーバード大学を卒業し、シアトルにて弁護士を開業。

   天下の幸せを抱えきれないほど手にした筈のD氏にも、一つだけアキレス腱があった。神のさり気ない気配りだろうか。D氏のお父様、本人、一人息子のいずれもが遺伝性の大腸がん患者。息子は気の毒にも28歳で発症。本人は過去20年間、数年おきに手術。大腸の切り代はあと30cm。本人は何時も残りの人生を指折り数えているそうだが、大腸を全部取れば、もうがんに罹る恐れがなくなるから、私には一安心のようにも思えるのだが。

   D氏の解説によれば、大腸がんの発生に遺伝の影響を強く受ける病には、大腸に100個以上ポリープが出来る、家族性大腸ポリポーシスと、大腸にポリープがない、もしくは少数しか出来ないけれども遺伝の影響を受ける、遺伝性非ポリポーシス大腸がん(D氏の場合)の2種類があるそうだ。

   D氏は愛知県がんセンターに何度も入院されていたので、院内事情に詳しいだけではなく、がんそのものにも大変詳しかった。羅針盤も無く大海原に漂っていたような私には、誰よりも頼りがいのあった、がんの先達(せんだつ)だった。

D E氏、膵臓がん1

   E氏(55歳)は一日中窓際のベッドに腰掛け、外の景色を眺められていた。同室者とは一切お付き合いをされなかった。同室者に『どうして話し掛けないのですか?』と聞くと『声を掛け難いのですよ。手術は無理、あと3ヶ月の余命と宣告され、すっかり落ち込まれています』との返事。
   
   ある時、E氏はベッドの上でパジャマを脱ぎ、背広に着替えられた。文字通りの骨皮筋衛門だった。勤務先が近くにあるとかで、挨拶に時々出掛けられるそうだ。28歳の独身の一人息子が時々お見舞いにきていたが、小さな声で一言二言喋るだけで長い沈黙が続いた。毎日来られる奥様も傍らに只座っておられるだけ。
   
   本人がいなかったときに奥様に質問した。『ご主人はどんなことを話されているのですか?』『まだ一人立ちしていない息子のことが、気になって気になって。不憫で不憫で』。延命治療方針が定まったのか、やがて退院されたとはいえ、死ぬにも死に切れない心境を察すると。。。。

E F氏、膵臓がん2

   F氏(70歳くらい)は近所の病院で手術不可能の膵臓がん、余命3ヶ月との宣告を受けた。愛知県がんセンターには延命治療法の選定のために入院された。入院に先立ち、遺言状の準備・葬儀に使う写真の選定・終末医療を引受けるホスピスとの契約・金融資産リストの作成を済ませたそうだ。

   延命治療法としては、抗がん剤と鎮痛剤の選定が主なものだった。共に人によって良く効くものと効きにくいものとがあるそうだ。数日間隔で薬を変えて確認されていた。最初に出会ったとき、痩せてはおられたが、腹部にも痛みはないとかで、余命の宣告に疑問を感じるほどお元気だった。死はとっくの昔に覚悟されていたので、落ち込んだご様子も無く、同室者との最後の会話も楽しげだった。並の神経では真似ができない悟りの境地に達しているように感じた。

   しかし、運命は過酷だった。やがて、腹部が痛いと言われ始めた。がんは確実に牙を剥き始めていた。延命治療法も固まり、程なく退院された。

F 再発入院患者の運命は?

   再発がん患者は予想通りみじめだ。大手術か、手術不可能なほどの転移が発見される場合が多く、絶望的だ。一晩中一睡も出来ず、痛い痛いと叫び続けた患者もいた。人間は本当に痛いとき、『イタイ!』と、条件反射のように思わず叫ぶようだ。

   ある方は49歳の時に胃がんの手術、その後2回目の転移で71歳の今春、再入院された。子供と孫が20人くらい一緒にお見舞いに来た。帰る時は1家族ずつ時間をずらした。一度に引き上げると、おじいさんが寂しさに耐え切れないだろうとの配慮だった。最後に奥さんが残られたので、『ご容態は?』と尋ねると、『主人は胃がんの手術の後も、一所懸命に頑張って子供を育てました。家族みんなが感謝しているんです。でも、今回は諦めました』と言って、そっと涙を流された。

   お爺さんは、すっかりやせ細っていた。食欲が全くなくなったらしく、食事を出されても殆ど食べなかった。奥様は『お爺さん、個室へ移りませんか。部屋代は子供達が出すといっています。心配しないで』と声を掛けられたが『ここで十分だ』との返事。やがて、看護師詰め所に一番近い部屋へ移動された。気が付いた時には名札がなくなっていた。永眠されたのか、退院されたのか、看護師に質問したら『プライバシーです。お答えできません!』

[5] 我が偏見に基づく医師観の総括

    @ 医師の実力とは?

   日本では医師免許を貰ったら、一人前の医師として一般社会では受け入れられているが、可笑しな習慣だ。一般社会に照らして考えると、理工学部を出て10年でやっと下積みを終えていわゆる係長クラス、大学では助教授。15年経ってやっと一人立ち。会社では課長クラス。大学では早い人で教授。国立研究所では主任研究官。現場の技能員の世界ではそれぞれ、班長、組長として昇格していく。その分野のベテランが組長だ。その間、いわゆる実力はどんどん上昇していく。医師の世界も同じ筈だと確信している。

   外科医の世界では経験こそが実力向上の最強手段。職人と同じだ。この道10年以上、望ましくは15年以上のベテランでなければ大事な手術の場合は、私ならば断固として拒否する。今上天皇の前立腺がんの医師団の平均年齢を見れば分かること。下手な外科医ほど手術に要する時間はかかり、入院期間は伸び、おまけに治療費まで増加する。まさしく、踏まれたり、蹴られたりだ。

   開業医は卒業後、勉強しているのだろうかと、疑問に思う事がある。学会に行ったという話は滅多と聞かない。簡単な病気なら開業医で我慢するが、重大な病気なら一流の大病院に直行し、且つ診察医師は今回の体験から今後は指名することにした。事前にインターネットで専門医を確認し、専門医の担当診察日に出掛ければ済むことだ。

A 治療名医と研究名医(学者)は別もの

   世界的な医学業績を上げた学者が、普通の病気の治療に関しても優れた医師であるとは限らないのは当然だ。どんな分野でも熟練工の役割がある。世界的に有名な建築設計者であっても、法隆寺の昭和の大修理や興福寺金堂の復興で大業績を残された、故西岡常一さんのような宮大工の代わりは出来るはずがない。

   大学病院の使命は医師の養成と医療技術の研究・開発にある。従来の治療法では解決策がない難病の治療方法に挑戦する事は、治療を目的としている一般の病院では取り上げ難い。既に治療方法が確定している病気の場合には、繰り返し治療に当たっている一般病院の専門医師の実力は、たまにしか治療に関係していない大学病院の教授よりも上と考えるのが自然だ。

   この関係は、他の分野でも同じだ。新技術を研究し学会で論文をどんどん発表している大学者に、既存の技術体系を分かりやすく学生に講義する能力があるかどうかとは無関係であるのと同じ関係だ。学者としての能力よりも、教育では語り部としての能力が重要な役割を持つからだ。

   従って私は、簡単な病気は近くの町医者に出掛けて薬を貰うだけ。自己診断に迷う病気は大学病院で病名を教えてもらった後、治療は専門病院に委ね、専門病院では診断も出来ないような難病の場合には已む無く、一流大学の付属病院に出かけることにした。

B 偏微分的思考には失望

   多くの自然現象は多くの因子に影響されている。自然現象と多数の因子との関係を表わした方程式の微分法に、全微分法と偏微分法とがある。人生で直面する森羅万象にどう対応するかを熟慮する時には、それに影響する主だった要因がどのように作用するかを考えざるを得ない。それが全微分的アプローチだ。たった一つの特定要因にのみ注目するのが偏微分的アプローチだ。
   
   例えば高熱が出た場合に、医者はあらゆる要因に頭を使うべきだ。サウナに入ったからなのか、熱射病に罹ったのか、肺炎に罹ったのか、単なる風邪なのか、黙って座っても、無数にある原因の中から、ピタッと解を発見できるのが名医だ。
   
   胃がんの健診で食道がんを見落とすような内科医は偏微分的アプローチの典型例だ。この種の専門馬鹿は掃いて捨てるほどいる。かつて、破産直前に至っていたトヨタ自動車工業の社長をさせられた故石田退三氏は『自分の城は自分で守れ!』と社員に檄を飛ばされた。専門馬鹿医に取り囲まれた日本人は『自分の命は自分で守る』以外に救われない!とは誠に残念なことだ。
   
[7] 研修医対象のセミナーに闖入

   食道がんの主治医から放射線機器の説明をするから、良かったらセミナーに参加しませんか、と誘われてのこのこと出掛けた。このセミナーは1年に1回、研修医に最新の医療技術を勉強させるために開かれている。研修医の任期は2年なので、2回で全部のがん技術についての説明が終わる。研修医は日頃は特定の分野のみの研修をしているため、視野を拡大させるため、各科の部長が講師になっていた。別刷りも学会並に充実し、説明にはスライドを使った密度の高いセミナーだった。

   私は一番前の席に陣取り、講演の都度質問をした。質問をするのは学生時代からの趣味に近い習慣だった。研修医は殆ど質問をしなかった。質問の半分は私がしたようなものだ。

   疫学データの紹介があったので『最近は臓器移植も盛んになりました。人間の手は顕微鏡で見れば穴だらけと思います。がんの手術時に患者のがん細胞が外科医の体内に入り込み、がんが移ることはありませんか。もし移るのであれば、がんの外科医の平均寿命は短くなると思いますが、そんなデータはありませんか?』

   『現在のところ、がんは原則として殆ど移らないといわれています。がんの外科医だけの平均寿命のデータは発表されたことがありません。データがあったら私も見たいです。外科医の寿命で一番短いといわれているのは、実は心臓外科医です。ストレスが原因と言われていますが、その筋では有名な事実です』

   『5年生存率のデータをよく見かけますが、死んだ人の中には自殺者や交通事故死者などが含まれていませんか?』『死んだ人の死因を調査するのは大変なのです。それに比べれば生存者のカウントは簡単です。そのために死亡率では無くて、生存率で統計データは整理されています。またがんの死亡率を重視すると、病院によっては見かけの成績を上げるために、がんで死んでも他の病気で死んだというような作為が入る余地があり、生存率で統一しています』

   『5年生存率のグラフには治療をスタートした時の平均年齢が書かれていません。せめて30〜50,50〜70,70歳以上などと別けると、若い人は進行が早いから直ぐ死ぬとか、もっと事実がわかる様なグラフになりませんか。それに80歳以上のがん患者だと、がん以外の病気による死亡率も高いから、がんそのものの生存率はグラフよりももつと高くなるように思われますが』『ご指摘の通りです』。分かっていても改善されないのは、細分すればするほど該当データが少なくなり、解析しにくくなるからではないかと、邪推した。

[8] 愛知県知事宛て、新鋭設備購入要望書の提出

   愛知県がんセンターには実用化されている最新のがん関係の医療機器は総て導入されているかと思っていたら、そうではなかった。放射線治療部長の不破先生としては、粒子線治療器は何としても導入したい装置だった。

   今までも何度も予算申請をしているものの、未だに許可が下りないまま。声を大にするために、患者さんからの生の声も届けてくれたら、導入が少しは早まるのではとの期待を込められて私も頼まれたので、別紙のような要望書を愛知県庁の知事公室にメールで発信したが、なしのつぶて。再度返事を催促したが、これにもなしのつぶて。

   国立がんセンター東病院では、当装置を導入し治療を開始している。しかし、まだ保険は使えず、患者1人当たり一律288.3万円を徴収しているそうだ。当装置は患部にピンポイントで照射できるため、副作用も少ない。私も使えるものならば使いたかった。治療費は1年長生きできれば、年金で払えるからだ。

   粒子線治療器どころか、それに比べれば1/5の価格に過ぎないPETすらも、当がんセンターには導入されていない。これでは『センター』などと付けられた立派な名前が泣くというものだ。


平成15年1月26日
愛知県県知事神田様
(ご参考)愛知県がんセンター放射線治療部長不破信和様
治療中の食道がん末期患者 石松良彦

      粒子線治療器導入検討のお願い

[1] 本メールの発信目的

  愛知県がんセンターにて、放射線治療部部長不破信和主治医の診断により、ライナック(リニアックとも言う)を使って、長さ10cmに達している胸部食道がんの放射線治療を受けている末期患者ですが、当センターの設備では放射線の制御性が悪く、十分なる治療を受けることは出来ません。

  愛知県がんセンターはひとり愛知県民のためだけではなく、東海3県下の中核がんセンターとして、がん患者にとり最後の砦として貢献していることは、遍く知れ渡り、且つは多くの患者からも信頼されていることはご承知の通りです。

  しかし、放射線治療機器の導入整備状況に関しては、東海地方の拠点がんセンターとしては、残念ながら日本の他の中核がんセンターに比べ、新鋭設備の導入が一歩遅れています。そのために、多くの患者があたら人生を無念にも閉じる悲運に遭遇しています。

  本お願いは、その間の簡単な事情をご報告させていただき、早急なる設備導入のご検討をお願いするものです。尚どの部署宛てに発信するのが妥当なのか、県庁内の業務分担が私にはわからないため、総務部知事公室宛てに発信しましたが、受信者に置かれては、真の担当部局へ転送いただければ、望外の喜びです。

[2] 新旧設備の違い

  食道がんは体の中心部にあるため、放射線は体の正面からと背面からの両方向から、毎日照射を受けます。私の場合は、週日(月〜金)のみ連続、合計25回受けた後、放射線の線源をイリジウムに代え、食道内から3回受ける予定です。

  ライナックは放射線の強度が体の皮膚面に於いて最強、体の内部に浸透するに連れて直線的に減衰し、肝心の食道に到達する放射線エネルギーは小量になります。この制御特性から、人体が受容できる許容累積放射線被爆量は食道以外の部分で決るため、効率的な治療は出来ません。

  それに反し、粒子線治療器は皮膚から食道に至る部分での放射線強度は大変弱く、食道に到達したときに強度が最大になるように制御できます。その結果、許容累積放射線被爆量の大部分は対象となる食道がんの治療に使えます。

  本装置にがん研究者やがん専門医が多大な期待を持っていることは、去る1月24日のNHK金曜フォーラム(テーマは肺がん)でも大きく報道されました。
  
  愛知県がんセンターとしても、本器に注目し、設備導入の予算申請をし続けてはいるものの、折からの税収不足による緊縮予算からか、未だに導入許可が下りてはいません。明日をも知れぬ治療中の患者のささやかな最後のお願いですが、『将来の末期患者は、本器で必ず救われるはずだ』との期待を込めて、日々少しずつ衰弱していく最後の体力に鞭打って、本メールは書きました。
 
[3] 既に導入済みの病院名

@ 国立がんセンター東病院   A 筑波大学医学部付属病院
B 放医研(放射線医学総合研究所)C 静岡県がんセンター
D 兵庫県立粒子線センター

  日本一の工業出荷額を背景にして、税収にもゆとりがある筈の当県よりも、東海大地震の発生不安の大きな静岡県や、関西淡路大地震で壊滅的な打撃を受けた兵庫県が、新鋭設備の導入で何故先行しているのか、私にはわかりません。行政が県民の命を、本気でどれだけ大切に考えているかの証でしょうか?

[4] ご参考

  設備価格は愛知県がんセンターの不破部長から入手した情報では

  @現行設備=3億円  A新設備=80億円

  医療機器の価格も普及段階に入れば、家電製品同様、急激に下がります。80億円は過去の価格です。私の現役時代の体験では、交渉次第では世の相対取引で決る価格は大抵、公称価格はあってなきが如きものでした。

[5] おわりに

  不肖私は、日本人のために、勤務先のために、家族のために、自らの人生のために、数十年間働き続け、定年退職前の10年間は文字通り、南極以外の全大陸を駆け巡ること数百都市、海外生産の拠点作りに微力ながら奔走してきました。

  その結果手にしたものといえば、無念にも昨年12月19に愛知県がんセンターにて受けた胃がんの摘出手術に加えて、1月14日から始まった食道がんの放射線治療でした。

  愛知県がんセンターは天下の公器です。ますますの充実強化をお願い申し上げます。最後に自己紹介として年賀状を添付しました。入院中だったため今年の年賀状はありません。


   早速、主治医の不破先生から下記のようなお礼のメールをいただいた。
  
   前略、ご免下さい。知事への陳情書、拝見致しました。極めて説得力のある内容であり、感服致しました。訂正すべき点としましては石松様の食道癌は末期がんではないこと、また現在の愛知県がんセンターの放射線治療施設(治療方法)は多くの施設より、優れております。でも陳情する手紙であることを考慮すれば、取るに足らないことかもしれません。

   きっと石松様の手紙は今後の愛知県がんセンターの方向性に大いに関係するものと確信致します。有難うございました。

   嘘も方便とばかりに、初期がんとは知りながら、末期がん患者として発信したのでありました。

[9]炭素線がん治療装置

   粒子線治療器には2種類あった。陽子線治療器と重粒子線治療器である。陽子線は、水素原子から電子を切り離して原子核だけを加速したものである。一方、重粒子線は、炭素イオンそのものを加速した『炭素イオン線』である。後者は前者に比べ、格段に大掛かりな装置である。建設費の総額は日経と読売では何故か大きく異なっている。

    @ 日経新聞からの転記(平成15年7月)。

   愛知県がんセンターに『陽子治療器』がまだ未導入と言うのに、既にもっと優れた『炭素線がん治療器』が実用化され始めた。日本とドイツにしかない炭素線がん治療装置が注目される。

   がん治療に使われる放射線としてはX線がよく知られるが、がん細胞以外の正常細胞まで傷つける。その欠点克服のために最初に登場したのが陽子線である。陽子線は、体内に入ってがん細胞に到達する間の破壊力は小さく、がん細胞に届いた時点で破壊力がピークに達する。それでもがん細胞周辺に若干の影響を与えると言う欠点があった。炭素線は、陽子線の長所を強化し短所を解決した。

   放射線医学総合研究所が世界に先駆けて炭素線がん治療の臨床試験を開始したのは1994年。その後現在までに1500例以上の臨床試験を積み重ね、その有効性と課題が明らかになった。

   炭素線は陽子線より治療可能ながんの範囲が広いが、総てのがんを治せるわけではない。がん細胞を除去すると穴が開く胃や食道には使えないし、がんの再発は防止できない。しかし、従来の外科的摘出手術と異なり肺がんや肝臓がんの治療を無痛、日帰りでできるという特色は患者にとって画期的である。

   同研究所にある装置は多目的実験装置のため、130*60mと巨大だ。炭素線に特化した装置にすれば、約1/2に縮小できると同時に陽子線治療にも使える。炭素線がん治療センターの建設費は約150億円(炭素線装置に80〜100億円、建物40億円、がん検査装置など20億円)と大きいが、2号機以降については設計費用節約などで引き下げ可能である。

   炭素線がん治療センターの最大の課題は、採算ラインである年間800人以上の患者確保である。炭素線がん治療費用の320万円(陽子線がん治療費用は288.3万円)は、自由診療として全額患者負担となる。

   患者の負担軽減策として、生命保険会社が既契約者に追加保険料なしで生前給付を提供することが考えられる。仮に炭素線がん治療が普及して1社当たり千人の生前給付が発生しても32億円に過ぎない。宣伝効果を考えれば、十分に採算が取れるだろう。

    A 読売新聞のホームページ(2003/1/7)

    重粒子線 がんだけを強力照射

   5年前、静岡県の主婦Aさん(80)は、頸椎(けいつい)に出来たがんの骨肉腫(しゅ)が見つかった。病巣は7センチと大きい。手術は難しく、抗がん剤治療も期待できない。病巣の近くには中枢神経の集まる脊髄(せきずい)があり、それを傷つける恐れのある通常の放射線治療も危険だ。Aさんは地元病院から千葉市の放射線医学総合研究所を紹介され、重粒子線照射を受けたところ、がんは完全に消えた。

病巣で力最大に

   手術による切除、抗がん剤の投与と並んで、がん治療3本柱の一角を担う放射線照射。がんに放射線があたると、細胞分裂ができなくなり、がんが死んでいくのが治療のメカニズムだ。 放射線は正常細胞にも悪影響を与える。このため、病巣だけに、しかも強力な放射線を照射したい。

      これを実現したのが、放射線の一種の重粒子線(炭素イオン線)治療だ。特徴は2つある。

〈1〉通常の放射線治療に使われるエックス線、ガンマ線に比べて粒子が大きく、がん細胞への殺傷力が強い。いわば、拳銃を使って敵を攻撃していた従来の放射線の代わりに、爆弾を使うようなものだ。
〈2〉弱い力で体内に入り、正常細胞への影響を抑えながら、病巣に達したところで力が最大になるように調節できる。また、病巣でピタリと攻撃をやめて、その先にある正常細胞への影響を抑えることもできる。神経や消化管などが隣接していても影響は少ない。民家に囲まれた敵の基地を、一般人への被害を最小限に抑えながら、限定的に攻撃するようなものだ。

   粒子が大きい重粒子線は、照射時に十分に加速しなければ、体内の病巣を的確にとらえられない。このため、直径約40メートルものドーナツ状の加速器で、3段ロケットのように加速し、光速の8割近い超スピードに上げる。

広大な放射施設

   放射施設は、奥行き120メートルという大型のもの。文部科学省が統括し、加速器だけで総工費325億円をかけた。世界に炭素イオン線施設は、このほか兵庫県新宮町の兵庫県立粒子線医療センター(現在、治療は行っていない)とドイツの2か所しかない。

   「がんの種類によっては手術による切除にまったく劣らない」と同研究所重粒子医科学センター病院長の辻井博彦さんは断言する。

難治がんに効果大

   Aさんのように骨や筋肉など、治療の難しいがんにも効果が高い。担当医の鎌田正さんは「脊髄に隣接した骨肉腫が手術なしで治った例は恐らく世界で初めて」と言う。同研究所では臨床試験の扱いになるので、患者の経済的な自己負担はない。ただし治療が受けられる患者には〈1〉ほかに治療法がない〈2〉がんが転移していない〈3〉がんの種類ごとに同研究所が定めた臨床試験の基準を満たしている〈4〉主治医の紹介――などの条件がある。(染谷 一)
                                                                  上に戻る
    ■人生観へのがんの影響

[1] ゴルフ仲間が、かつて語ったがん死願望

   僅か1年後に、我が身にがんの宣告が下るなどとは夢にも予期せず、旅先で先輩から気楽な気持ちで拝聴した『がん死願望』を、驚きの余り友人に下記のようなメールに纏めて送信していた。今回の思いがけない入院時にがん死願望説をまざまざと思い出し、神から与えられた貴重な機会とばかりに張り切って、同室のがん患者からがん死願望説に関するご意見を集めた。
   

平成13年12月12日
ああ、驚いた
   
   去る12月3&4日に、ゴルフ仲間の年寄り(間島様・松下様・天野様)と近畿日本ツーリストのパックツアーで、熊野古道に出掛け、ホテル浦島で夜の12時までお喋りを楽しんでいた時の話題です。間島様と松下様が全く同じことを言われました。

『もしも、病気で死ぬことになる場合、選べるならばがん』驚いた私が
『どうしてですか』
『突然死は本人にとっても、遺族にとっても、心の準備が出来ていないから、ショックが余りにも大きいが、がんの場合は死ぬまでに時間が掛かるからだ』
『痛いそうですが』
『今はモルヒネを使うなどして、痛みからは解放されている。心配ない』
『では、避けたい病気等は?』
『寝たきり。その次はボケ。寝たきりは本人も家族も大変。ボケは本人は兎も角も、家族は大変』

   お2人は、くしくも70歳。人間は古希ともなれば、死に方も考えるようになるのでしょうか?私も、もうすぐというのに、日頃考えたこともない世界でした。


@ 我が視野に現われたがん患者の意見の総括

   がん死願望説とは、人生での闘いに大成功し、子供達は自慢したくなるほど立派な社会人として巣立ち、本人は人生でやりたいことは総てつつがなく完了した方には誠に相応しく、当人の人生への讃歌そのものである。しかし、このように恵まれた幸せを、『がん死願望説』に託して語れる日本人は一体、何人いるのだろうか?

   大抵のがん患者の場合、がんの宣告は交通事故のように突然訪れている。定期検診で『がんかもしれない、がんかもしれない、と何年も続いた優柔不断な判定の後に、やっとがんになれた』ような人は絶無に近い。多くの人はがんに伴う種々の自覚症状を契機として、がんが突然発見されているからである。

   疫学(統計データ)上では、がんは高齢者に多いとは言うものの、その発病は人生の大願成就の日にまで必ずしも待ってはくれない。過半数は働き盛りや引退直後の50〜60歳代に発病している。この方々はがんであれ、死因は何であれ、まだ死ぬに死ねない立場にある人が大部分である。

   多くの日本人にとっては、その人生の幸せをゆっくりと反芻し、治療中に痛みや苦痛を味わうことも無く、家族に看取られながら、幸せ一杯な心境の中で人生の幕を静かに下ろすなど、夢のまた夢である。
   
   がん死願望者には、がん治療に関する若干の誤解もあるようだ。モルヒネは大変よく効く鎮痛薬ではあるが、20%のがんには効果がない。更に、副作用としてほぼ100%の人に便秘が、20%に眠気、30%に吐き気が現われる。
   
   がんの宣告を受け、手術をし、体力が尽きて死に至るまでのプロセスの中で、患者が闘うのは痛みだけではない。抗がん剤の副作用、食欲不振、死への恐怖、不眠、家族の苦悩、その他、その他、無数のその他。
   
   交通事故などの突然死は、残された家族にとってのショックは大変大きいとは言うものの一過性のものである。寧ろ、がんのように半殺し状態のような闘病生活を長期間伴うものの方がつらく、いっそ治らないものなら、さっさと殺してくれ!と叫びたくなる。

   静かに死を迎えるなどは並の人には出来ない芸当。がんの怖さ・苦しみを体験していない人の理想論ではないか!との説が多かった。

A 天寿がん

   癌研究所所長の北川知行氏は『さしたる苦痛もなしに、あたかも天寿を全うしたように人を死に導く超高齢者のがん』を天寿がんと呼ぶことを提唱されている。(前述のNHKの本)

   同氏によれば、超高齢者のがんのなかには自覚症状がなく、ご本人も病気と気がつかぬまま亡くなっていくケースもある。また、たといがんと判明しても、さほどの苦しみも伴わずに、自然死に導かれる場合もある。このような場合は、そのがんを素直に受け入れ、攻撃的な治療や無意味な延命治療を行わないほうが良いのではないか、と考えたそうだ。

   老化には個人差があるものの、超高齢者とは男性で85歳、女性で90歳以上の人達とされている。本年84歳の岳父は昨年がんを宣告された。本人は義母との相談の結果、外科手術は見送り、自宅で延命治療を受けながら生きている。体力も衰えたこの年になって外科手術をして仮に生き延びられても僅かの歳月との判断だった。看病に出掛けた荊妻の報告では、さして苦しむこともなく、悠悠自適の日々。これぞ正しく天寿がん!

   私も何時の日にかがんが再発した時にそれが天寿がんならば、がん死願望説にもろ手を挙げて賛成したい!

[2] 死ぬ準備

   死が直ぐそこまで襲い掛かっていたなどとは夢想だにせずに、気楽に恩師の『死ぬ準備』の話を聞き、下記のようなメールを仲間に発信していた。
   
   
   平成13年5月31日

死ぬ準備

   姪の結婚式に参列のため帰省した(平成14年5月1〜7日)折りに、福岡市に住んでいる友人達と3人で10年ぶりに恩師(私に友人の娘と見合いさせ、仲人も引き受けて頂いた大先生。勲二等)ご夫妻をお尋ねし、叙勲のお祝いを述べた後、3時間もお喋りした折りの話題です。

『先生、最近は何をされていますか?』
『一度に歩ける距離が200〜300mになったので、 死ぬ準備をしている』
『えっ!どんな準備ですか?』
『死んだときに必要になる連絡先だよ。序でに、年賀状の整理も始めた。今年までは年賀状は500枚出していたけれど、来年からは印刷した年賀状しかくれない人には欠礼することにした』と、言われながらも『値上がりする前に、先月パソコンを買った』。大きな書斎にはパソコンが3台も並び、口とは裏腹にお元気だったので、一安心。

   この話を小中高時代の同期生で元小学校教諭、現在は住職をしている友人に話したら、彼は200戸の檀家の皆さんに、いつも3つの準備を薦めているそうだ。

@死亡連絡先リストの作成
 本人の交友関係には遺族すら知らない人もおり、特に突然死の場合には困るから。

A葬式用の写真の準備
 住職としては、祭壇に飾られたピンぼけ写真を見るのは、悲しくなる。カメラが普及した結果、写真スタジオで記念写真を撮る人が少なく、アルバムから選んだ写真を拡大しただけのものが多く寂しい。日頃から葬式用に自分が一番気に入った写真を用意しておき、5年も過ぎたら長生きできたことに感謝して、実年齢に近い新しい写真と取り替えておいて欲しい。

B資産リストの作成
固定資産は遺族も知っているけれども、金融資産や保険関係は意外と盲点になっていて、遺族が困る。

   この話を68歳になるゴルフ仲間の一人に紹介したら『92歳になる老人病院の院長が、死に顔づくりのお勧めをテレビで話したのを、見たことがある。“最後のお別れの時に、参列者がほっとするような良い顔で大往生するためには、嘘でも良いから日頃から笑顔づくりに励んで下さい”』

   懇意にしている豊田市の老住職の述懐を思い出した。『長いこと葬式に狩り出されたが、この仏様の一生は幸せだったんだな、と感動するような良い顔には殆ど出会えなかった。大抵の人は日頃の顔つきが死に顔になるみたいですよ。世の中への恨みが骨髄にまで達していると言わぬばかりの!』
   
   ここまでの話を68歳になる別のゴルフ仲間に紹介したら『結婚している子供が2人いるけれども、私は遺産の全てはワイフに残す計画。その後の処理はワイフに一任。石松さんのご意見は?』
   
   『諸手を挙げて賛成しますね。私も全く同意見です。4年前、長男がトヨタに就職したとき、自宅から7km離れた独身寮に追い出しました。親子同居など考えただけでも煩わしいし、死が近づいても面倒を見て貰う気は全くないから。下宿していた学生時代から起算すれば既に10年も別居。実質的には、赤の他人も同然ですよ』

   私には死ぬ準備ができていないことに気付いたものの、まだその準備をする気は全く起きない。とは言え、入り口には少し近づいた。末っ子が社会人になった瞬間(平成10年4月1日)、掛け捨て生命保険は中止し、掛け捨ての火災保険と自動車保険のみにした。

   海外旅行保険は高いので一切入らず、夫婦とも葬式代はゴールドカードに自動的に添付されている5000万円の死亡保険のみが頼り。年1万円の会費は名古屋空港のラウンジの生ビール飲み放題で、少しだけ回収。最近利用した福岡・成田・札幌空港のラウンジはけちになり、アルコールは最初の一本のみが無料。がっかり。

   海外訪問国数が年齢を超えたら死ぬ準備を開始しようと決心。今年4/15〜27にポーランド・チェコ・スロヴァキア・ハンガリーに行ったとは言え、まだ45ケ国。なかなか歳に追いつかない!歳が、追いかけた虹のようにどんどん逃げていく!

   賢人各位、『死ぬ準備』は、万全でしょうか?


@ 死ぬ準備、その1

   平成14年11月21日、豊田地域医療センターの消化器外科部長から、内視鏡による検査の結果として『胃がんの疑いがある』と宣告された時、いよいよくるものが来たとの、戦慄が全身を駆け抜けた。その時に猛然と湧き起こった不安心理を打ち消すために取り組んだ行動は『死ぬ準備』だった。

   子供3人が夫々結婚したり就職したりして平成10年4月1日からは夫婦2人暮しになった。その時、子供部屋の1つは正に『ゴミ屋敷』そのもののように、不用品の倉庫と化していた。私は就職以来退職するまで、幸か不幸か転勤が無かった。独身寮、家族アパート、持ち家へと一直線に移動しただけだった。

   その結果、不用品を捨てる動機が不足し、一家の思い出の品々がうず高く蓄積されてしまった。子供達の学生時代の夜具を初め、学習道具、使っていない電気器具、古着などなど。1週間がかりで荊妻と共に一点一点、要・不要を相談しながら分別をした。

   自分の持ち物は簡単に処分できた。正装する機会が殆どなくなった背広の場合、冬・合い・夏の各1着を残した。オーバー、レインコート、替え上着などもどんどん処分。クリーニング屋で綺麗に折りたたまれている袋入りのカッターシャツ約40枚は使う都度、1枚ずつ捨てることにしたものの、ネクタイと共に使う機会が殆どない!福岡までの帰省でも、スポーツシャツで十分だからだ。

   90%の物品は廃棄と決心。焼却用ゴミ袋は大変破れやすい。重量物は少ししか入れられない。我が隣組のゴミ集積場は大変狭い。一度に全部を出すと傍迷惑になるので、数回のゴミ出し日に別けて出荷。

   粗大ゴミの廃棄処分は数年前から有料になった。自分でゴミ捨て場に持ち込めば多少安くなるが、乗用車には本箱などの大型家具は積み込めない。窮すれば通ずとはこのことか!というような幸運が舞い込んだ。半年前に自宅のリフォームを発注した業者が直ぐ近くの家庭からリフォームを受注。工事中の業者に頼んで、小型トラック1台分にもなった粗大ゴミ一式を無料で運んでもらった。やれやれ。
   
   今や、8畳大の洋間が棚ぼた式に増えたようなものだ。荊妻のパソコンルーム兼ベッド付きの快適な個室に変わった。
    
A 死ぬ準備、その2

   本年6月に入り体調は完全に回復したが、6/18のPET、6/19のCTによる検診は未だだった。食道がんの内視鏡によるルゴール染色法による検査と、同時に採取した生検でがん細胞は検出されなかったとは言え、不安心理は残ったままだった。ゴルフやテニス友達が手術前以上に元気になっていると幾ら励ましてくれても、深層心理までは晴れなかった。

   この時、心の不安を打ち消すべく取り組んだのがミニ書斎の整理だった。我が書斎には、壁2面延べ幅4.5m(2.5間)、床から天井までの高さ2.4m、9段、奥行き31cmの作り付けの本棚があった。奥行きが深いので文庫本などは奥と手前の2重に並べていた。本やファイリング資料の延べ厚さは約50mあった。毎年1mずつ増えていたのだ。

   書斎の整理は思い切り一筋。中身を読まないことに徹した。小説類はどんなに面白かったものでも2度とは読まないので全品、自動車技術などの専門書も今更勉強するニーズも無いので全品、勤務先が管理職に配布していたA4サイズの特製ビジネスダイアリーは企業秘密も多少は残っているので全品焼却ゴミ、捨てても捨てても貯まってしまう専門雑誌も全品廃棄候補。
   
   廃棄物の延べ厚さは25mにも達した。我が豊田市には数箇所リサイクルセンターがあり、書籍・新聞・チラシ・ダンボール・ペットボトルなどを無料で引き取ってくれる場所がある。厚さ25mの物品は小さなプログレでは座席を使っても一度には積み込めなかった。数日掛けて整理した書斎は、これがかつてと同じ書斎かと見間違うほど、小奇麗になった。

   今後は1年に一度、その時までに残っている在庫の半減を目標にしながら処分する計画だ。書斎の整理は来し方の人生の整理そのものだった。それ故なのか精神的には大変疲れた。未整理の大物はアルバム類だ。我が死後、遺族が処分に困る代表的な遺物だ。これらは一枚一枚思い出を確認しながら時間を掛けて廃棄したい。

   平凡社の世界大百科事典(第1巻の配本は1964年7月20日)は索引と地図2巻を含めて全26巻、厚さは5cm*26=130cmもある。長い間、座右の書として愛用してきたが、内容が徐々に陳腐化してきただけではない。2年前に購入したパソコンによる資料検索能力には逆立ちしても太刀打ちできない。

   この半年、最大の課題だったがんに関してすら一度も紐解いてはいない。今や無用の長物と化したのは明らかなのに、当時のボーナス1回分にも相当したかと思うと、気楽には処分できないままだ。数年先までの据え置きか?最後まで捨て切れなかった書斎の遺物は、我が棺桶に投げ込んでもらう予定だ。

[3] 快気祝いに感謝しつつ

@ 福岡県遠賀中学校同期生(2003/5/14)

   我が出身中学と小学校とは、在郷の仲間が幹事を引き受け、数年前から隔年で交互に同期同窓会を開催している。元気な恩師も楽しみにされている。中学校の校区には2つの小学校があり、集まる仲間の顔ぶれの半分は異なる。昨年11月30日は第3回目の同窓会だった。この日は運悪く、大学卒業40周年記念同窓会と重なり、欠席せざるを得なかった。大学の同窓会は10年に1回の頻度だったので優先したからだ。

   本年5月13日に小学校の第3回同期同窓会が開かれた。健康も回復し大喜びで馳せ参じた。その時の参加者が、中学校の同窓会で私と会えなかったことを、友人達が残念がっていたと語った。しかし、私が元気であることを知った友人達が急遽、隣の小学校出身の友人達とも連絡を取り合い、快気祝いを開いてくれた。

   我が仲間は子供時代から延々と細く長く交際が続いている竹馬の友だ。1年に1回くらい仲間の自宅に集まり、簡単な仕出し料理を取り寄せ、安いお酒を飲み飲み延々と愚にも付かぬお喋りに打ち興じるだけだ。派手に豪華な会食を共にしないのが長続きしてきた理由でもある。

   この時点では未だ寛解のご託宣は降りてはいなかったので、『まだ快気祝いには早い』と言ったが、『快気祝いの前祝だ』と言って我がことのように喜んでくれた。現役時代は関東で働き、定年後帰郷した友人も駆けつけてくれた。『友、遠方より来る。また楽しからずや』との漢文を反芻しながら、友情に心底感謝!!

A 遠賀中学校関東地区同期懇親会(2003/7/24)

   今年の梅雨明けは遅く、前日(7/23)は豪雨の中でのゴルフだったが、幸い当日は曇り。傘を持たずに東京まで日帰りできて、幸運だった。

   隔年に開催されている関東地区の中学同窓会に毎回参加し始めて今回が4回目である。今までに銀座のレストラン、大丸東京店内にもある『椿山荘』の個室、草津温泉への1泊旅行に続いて今回の『椿山荘』である。仲間が東京都・千葉県・神奈川県・茨城県に分散しているため、交通至便な大丸東京店に集まった。今回は『懇親会兼私の寛解祝い』だった。

   女子5名、男子4名が集まった。関東に来た動機は、女子は配偶者の、男子は本人の就職先が関東にあったがためである。欠席者は3名。いつもの事ながら全員の都合がつく日は存在しないらしい。

   我が闘病の経緯をメール(Appendix 参照)で読んでいたある仲間は、私が元気な姿で東京まで来るとは予想もしていなかったと言う。弟が52歳の若さで膵臓がんに倒れた友人はがんにも詳しく『多分、生還は無理だろう』と推測したそうだ。一方、本人が10年位前に胃がんの手術をし、その後も元気な友人は『安心しなさいよ』と言う。原体験の差の違いだろうか?

   この懇親会からは1万円ものお見舞金をいただいていたので鄭重におん礼を申し上げた後、今回のがんの発見から寛解までの経緯を報告した。仲間はがんの早期発見手段であるPETに大きな関心を示した。殆どの仲間はがん保険に入っていた。

   私は『がん保険に入っても、がんに罹る確率を下げる事はできない。治療費の自己負担は3割なので大きな額ではない。おまけに高額医療費の還付制度もある。保険料はがんの検診に使い、早期発見早期治療に徹する方がよいと思う。また、がんの有無を写真で判定する現在の技術に完璧性を期すことは難しい。幸いがんの成長は緩慢なので、年に2回位検診を受ければ、見落とし率をかなり下げることが出来る』と主張したが、賛同者は何故か少なかった。

   栄養士の資格をとり都立の大病院に勤め、嘱託として今も勤務している女性は、がん患者の術後管理にも詳しかった。出された会席料理を私が全部食べ尽くしたのを見て驚いた。今回の出席者は、初対面での私の血色、その後の食欲を見て、口々に我が事のように寛解を祝福してくれた。

   蛇足。久しぶりの東京だった。お登りさんらしく改築された丸ビルに立ち寄った。東京駅から眺めた丸ビルは、墓石か位牌に何故か似ているように感じた。がんに罹って以来、何でも死と結びつけて連想する習慣が強くなったせいかも知れない。
   
   マスコミによれば丸ビルは東京の新観光名所。ビル内のテナント(商店とレストラン)の売り上げ額の予想は年間300億円。中堅デパート並と報道されているが、大いなる疑問を感じた。ビル内は回遊性が悪く、アリの巣みたいに一軒一軒がドアに囲まれた部屋に入っているし、行き止まりになっている場合が多く、次の店に行くには引き返さざるを得ず、迷路に感じイライラの連続だった。週日の午前(11:00〜12:30)だったためか、客はまばら。移り気な客は、六本木ヒルズなどへ既に引っ越しているのだろうか?
   
   オフィス部分に入居している会社名を見て、驚いた。日本を代表するような有名大会社は殆どなく、聞いたこともない無数の新興会社が殆どだ。有名会社は自社ビル時代になったのだろうか?それとも品川などの家賃の安い新オフィスビルに移転したのだろうか?

   ふと、東京駅のドームを見上げて、これまた驚いた。ローマにある世界最大の石造ドーム建築であるパンテオンと全く同じデザインだったのだ!外観がアムステルダムの中央駅にそっくりであるのは、人口に膾炙(かいしゃ)しているが、ドームの内側がパンテオンにそっくりと気付いたのは、何と遅かったことか!

B ゴルフ仲間(2003/5/1&8/1)との温泉旅行

   十数年前から気心のあったゴルフ友達と年に2〜3回、居酒屋とか、レストランの個室に集まっては、お喋りを楽しんでいた。爾来若干の仲間の出入りはあったものの、私を含めた6人(昭和32年トヨタ自動車入社2名、37年入社=同期3人、38年入社1名。全員年金生活者)である。最初の頃は17:00〜22:00の時間帯だったが、数年前からは温泉での宿泊に変えた。ゆっくり出来るからであった。

   私が入院した2002/12/12はその仲間の忘年会の予定であった。私は5人で忘年会を予定通り開くようにと希望を伝えたが、仲間はそんな気持ちにはなれないといって残念ながら中止し、私の寛解祝いから再スタートすると、幹事からの連絡があった。

   2003/5/1に豊田市から20Km強の笹戸温泉の『とうふや』に集まり、忘年会のやり直し兼寛解祝いを実施した。まだ私の体調は完全ではなく、やや疲れ気味だった。私の宿泊料金は、私の希望を無視して仲間が支払った。

   本当の意味での寛解祝いは8/1〜2に実施してくれた。8/1は笹戸カントリーでのゴルフ。ゴルフ終了後そのまま笹戸温泉の『とうふや』へ直行。到着時刻は13:30だったが15:00のチェックインを繰り上げて部屋へ通してくれた。

   私は今回の話題として『多重がん、寛解までの追憶』を、推敲不十分のまま7/30現在の原稿150ページをメールで送った。仲間は大急ぎで読んでくれた。当日の夜は、がんに関しての勉強会みたいなものだった。体調もすっかり回復。昔の70%くらいも酒が飲めるようになっていて、我ながら驚くと共に嬉しかった。

C 親戚一同との温泉旅行や昼食会

   まだ寛解には至っていなかったが、その先取りとして長女の婿のご両親から、ホテル豊田キャッスルに荊妻と共に招かれた。私の最初の入院日(2002/12/12)には荊妻は岳父の看病のため九大病院にいたため、ご両親に病院まで送り届けてもらった。入院中はもちろん、退院後もたびたび自宅までお見舞いにきていただいていた。恐縮の限りである。
   
   レストランで食事をご馳走になりながら、その後の病状の変化と今後の検診や治療方針を報告した。
   
   次女夫妻と婿の両親からも寛解のお祝いを兼ねて、長野県にある刈谷市の保養所に5/3〜5日、連泊で招かれた。1泊だと私が疲れるであろうとの配慮もしてくれた。5年前に出来たこの保養所は敷地も広大で、設備は民間の観光ホテルを上回る贅沢さだった。山の斜面を活かして建設されており、エッフェル塔と同じ斜行エレベータからの眺めは雄大だった。
   
   5/3は幸運にもオープン記念5年祭だった。地元の楽団付き合唱団が1時間、玄関ホールで得意の喉を披露。夕食には握りずしが宿泊者全員に一人前、無料でサービスされたが、まだ食欲不振が続いていたため、食べ残してしまった。夜食に持ち出したかったが、食中毒防止のために禁止!
   
   昼間は保養所の管理人とドライバーがマイクロバスで近くの山へとワラビ取りに案内してくれた。4月からゴルフやテニスに復帰していたとは言うものの、体調は完全ではなく、一緒にきていた孫の相手は疲れるので手抜きをし、半日は部屋で寝ていた。

[4] 残された課題

@ 心の玉手箱が、予期せぬことに開いてしまった

   半年近く死と向き合って生きていたら、何時の間にか60歳代から80歳代の心境へと一気に心が飛んでしまった。玉手箱を開けた浦島太郎は心身共に瞬時に老化したが、私の場合、見かけの肉体は60歳代のまま、心だけが老化してしまった。

   帰省の折には何時も叔父や叔母を尋ねて挨拶回りをしていたが、80歳代に共通の話題があることに気付いた。

(1) やりたい事はほぼ済ませた
(2) 子供達は独立したし、思い残すことは何もない
(3) 何時死が訪れようとも、さして怖くもないし、悔いもない。

これぞ正しく老境の特色だ。

   がんが発見されて以来、死を覚悟しながら生きざるを得なくなったためか、徐々に余生への希望を失い、まだやりたいことが沢山残っていた筈なのに、そんな事はどうでもよいやとの諦めが背中を押し、80歳代の心境にジャンプしてしまった。

   しかし、途中の人生が抜けているために、同じ80歳代の心境であっても中身の裏付けが乏しくむなしい。ここは、断乎として人生を巻き戻し、玉手箱の蓋を元通りにがっちりと締め、心を体に合わせて若返らせなければならないと思うや切である。

    A がん患者のインポに回復策はあるか?

   日本のがん関係の解説書にはがん患者のインポ対策には何故か殆ど触れていない。がん患者には若い人も少なくないのに。抗がん剤の副作用の一つに性欲減退があるのに、その事に関する説明は殆どなされていない。がん治療に拘わる関係者には、患者は命さえ助かればそれで十分ではないか、贅沢な要求だ、と言わぬばかりの傲慢さがありそうだ。

   愛知県がんセンターの1階の片隅に付き添い専用の家族室(和室)が3室用意されていた。内側から鍵がかかるようになっていた。家族室前の廊下を挟んでシャワールームが4部屋あった。いずれも使う時(9:00〜17:00)は看護師に届けるようにとの注意書きが張られていた。この部屋が使われている様子は無かった。がん患者は手術前の検査入院期間が1週間はある。最後のひと時に使うために設置したのではないかとは思ったが。

   がん患者は、治療に伴う肉体的な副作用だけではなく、精神的にも強い打撃を受け、性的関心は薄らいでいるのか、4人部屋に閉じ込められても余り苦痛に感じているようには思えなかった。しかし、本心からの行動だったのだろうか?

   我が個人的な体験によれば、件(くだん)の回数はがん発見以前と比べ8ヶ月経過時点で半減している。男子の老化速度に特異点は存在しないと考えられているから、今回の急減はがんの影響と解釈せざるを得ない。しかし、欲求があるのに勃起しないのとは異なり、心理的な不満は起きないからバイアグラを買う気にもならない。とは言うものの、老境入りを自覚させられるとは寂しいものだ!

   前立腺がんを告知されている64歳のある友人は、手術は断乎拒否し放射線照射治療を受け続けている。前立腺肥大症で排尿が出来なくなり激痛に耐えながら、病院に駆け込んだ61歳のゴルフ友達の場合、『再発防止策として、前立腺を切除したら?がんの心配もなくなるし』と提案したら『石松さんよりも若いのだし、まだ、やりたいのですよ!』との回答。口にはあからさまに出さなくとも、深層心理には、共通するものがあるようだ。
 
   がん治療について、米国立がん研究所がインターネットで公開している世界最大のデータベース「キャンサー・インフォメーション(CI)」の日本語訳が完成し、2003/2/3日からインターネット(http://www.ccijapan.com/index.cgi)で公開された。翻訳陣は26名。愛知県がんセンターの関係者が6人もいた。私が度々質問をしていた加藤知行副院長もその一人だ。
   
   このデータベースは全米での最新の研究成果をまとめたもので、医師向けの情報提供だけでなく、患者が治療を理解、選択する手助けとしても活用できる。151種類のがんについて、進行度に応じて治療方法を列記し、治療成績や、生存率などのデータを示している。詳しい内容の医師向けを先行して公開し、今夏までに簡略化した患者向けが補充される予定だ。
 
   米国国立がんセンターの日本語訳から『性欲および生殖の問題』を拾い出し、その要旨のうち、主として女性を対象としている部分は削除して、残りの一部を以下に転記した。日本の関係者に比べれば、アメリカ人は遥かにこの問題に真面目に取り組んでいるようだ。
 
癌患者における性機能障害の有病率とそのタイプ
 
   性欲とは、身体的、心理学的、対人関係上および行動的側面をもつ複雑で多面的な現象である。『正常な』性機能は個人個人で大きく異なることを認識するのは重要である。つまり、性欲とは、性別、年齢、個人的な性的嗜好および宗教的ならびに文化的価値観など、種々の因子を踏まえたそれぞれの状況のなかで、各患者とそのパートナーによって変化する。

   多くの癌および癌治療において、性機能障害を併発することが多い。様々な視点から、種々の癌治療後に認められる性機能障害の発症率は、治療後の患者の40〜100%であると推計されている。乳癌の既往歴がある女性の50%は、長期にわたって性機能障害を経験しており、婦人科系癌の既往症がある場合も、同程度である。前立腺癌の男性患者における主要な性機能障害は、勃起不全(性交に十分な勃起が得られない状態)である。

   勃起不全の有病率には、差が認められる。一般に、その試験が患者の自己報告を用いたものであれば、勃起不全の発症率は高くなり、根治的前立腺摘除術後の60〜90%、遠隔放射法による治療後には67〜85%である。ホジキンリンパ腫および精巣癌の既往歴がある患者では、その25%に長期にわたる性的問題が残る、性欲と癌に関する記述を要約しているいくつかの論文では、性機能に直接影響を及ぼすものは癌の部位であることを特に強調している。
 
   各人の性的反応は多くの方法で変化させることができ、その性機能障害の原因は、しばしば生理学的および心理学的なものである。男性でも女性でも癌患者の性的問題として最もよくみられるものは、性的行動への欲求喪失および、男性では勃起不全(勃起およびその維持が困難であるという症状)、女性では性交時の疼痛(性交に伴う疼痛)である。男性では、射精喪失(射精の欠如)、逆行性射精(射精された精液が膀胱へ逆流すること)、オルガスムの達成不能がおこることがある。
 
   癌治療によるほかの多くの身体的副作用とは異なり、無病生存が得られても、治療後1〜2年以内に性的問題が解消されることはまずない。むしろ、そのまま解消されずきわめて重篤になることがある。性的問題が、各生存者の健康関連QOL(生活の質)に及ぼす影響は未だ不明であるが、こうした問題は、患者の多くにとって煩わしく、癌治療後正常な生活に復帰するのを妨げることは明らかである。
 
   前立腺癌の治療後に勃起不全を来たした男性48例(登録者130例)を対象とした質研究では、性関係の質、女性との日常の相互関係、性的幻想および男性らしさの自覚などの面で、QOLに影響があった。
 
   根治的前立腺摘除術と厳重な経過観察を比較した大規模無作為化試験では、手術群では80%が勃起不全を体験したのに対し、経過観察群で体験したのは45%であった。QOLおよび生存率を可能な限り高めるためには、評価、専門医の受診、治療および経過観察が重要である。

癌患者の性的問題に対する治療

   我々は、癌患者が経験する性的問題の発生頻度とそのタイプについて、明確な認識を有するが、癌患者の性機能障害のための治療プログラムは、ほとんど作成されておらず、試みられてもいない。特に、癌が治癒した患者を対象とする費用効果の高い戦略を用いる効果的なプログラムで、医学的手技と心理学的手技とを包括したものが必要とされている。質の高い治療プログラムが開発されても、アメリカのメンタルヘルスの医療は保険適用とされることが少なく、そのうえ性的問題の治療は保険適用外とされれば、依然として問題は残ることになる。

   患者の多くが、治療後最初の性交渉に恐怖感または不安感を抱き、性欲を回避するという行動パターンを取り始めることが多い。患者が、複雑な心境をパートナーに伝えることに懸念を抱いている場合、こうしたことから性的関係および性的接触全般の拒否へ至ることになる。パートナーも、親密になることへのプレッシャーを読み取られている、または肉体関係をそれ以上に表現すれば、何らかの身体的不快感をもたらしてしまうのではないかというとまどいを覚えることによって、性的関係の全面的拒否につながる可能性がある。

   医療提供者は、患者とその関わりがある者に対して、性交が困難であるか不可能であっても、性的生活は終わったわけではないことを説明し、安心感を与える必要がある。こうしたカップルは、手、口、舌および唇を用いて愛情および親密さを表現し、快感および満足感を与えたり受け取ったりすることができる。医療提供者は、本人らが性的行動をとるための精神的な準備が整うまで、別の方法(抱擁、キス、性器以外への接触)で愛情を表現するよう奨める必要がある。また、正直な感情、関心および性的嗜好を伝え合うよう励ます必要がある。

   男性が挿入に十分な勃起を得られない場合および/または性交によって女性が疼痛を来す場合は、お互いオルガスムを得て性的親密さを表現するために、何らかの代わりの方法を模索するとよい。「Sensate Focus」とは、主に官能的なマッサージによって性交を行わず快感を得る方法であり、これによってカップルは、性交前に伴うプレッシャーおよび不安を取り払い、身体的に接近し親密になるための性的表現法を体験することができる。

   「Sensate Focus」のしくみと基本原則により、不安を乗り越え(自意識および自己評価)、快感をもたらす接触という体験に没頭することができる。また、こうした行為は、潜在的な問題があったり、感情的に繊細であったりする体の部位についてコミュニケーションをとる手助けとなる。医療提供者は、カップルが性的技術の改良に対して、どの程度積極的であるか検討する必要がある。

   多くの患者が、パートナーと再び性的関係を築くことおよびその場合の自分自身の性的反応が確実ではないことに関して不安を抱いているため、自己刺激の利点を検討するとよい。パートナーの快感、反応、関心および/または恐怖感を窺うことによって不安が増すことが多いが、自己刺激には、こうした不安のプレッシャーを感じることなく、患者が自分自身の性的反応および性的興奮によって快適になることができるという利点がある。

   多くの患者にとっては、自己刺激のための自慰行為または自己快感を認知し具体化する(cognitive-reframing)と、こうした行動を性的なリハビリテーションの一環として捉えることができる。しかし患者によっては、こうした行動が、文化的および宗教的理由のため、頑強なタブーであることがある。

   医療提供者は、性的刺激の反応性の変化を克服するため、実践的な提案を提示することによって、カップルの知識を高めることができる。カップルは、性的興奮を十分に得られるよう、十分前戯を行い性的な表現のために長時間を費やす必要がある。なかには、性的表現には早朝が最も落ち着く時間であると感じるカップルもある。性的快感を促す条件を検討する必要があり、緊張緩和、夢想、空想、深呼吸のほか、パートナーとのよい経験を思い起こすことなどが考えられる。

   勃起に関する諸問題は、癌治療後受診する男性に最も多い性機能障害である。勃起不全を来す多くの男性は、口ないし手を用いる刺激によってオルガスムを得ることができ、その多くのパートナーは、性交を行わない刺激によって満足感およびオルガスムを得ている。性交渉に対する欲求があれば、その原因および機能障害の程度によって、勃起不全のための治療選択肢がいくつかある。わずかではあるが、勃起に関する症状を解消しても受診する男性もいる。

   勃起障害の経口治療薬、シルデナフィル(Viagra)の開発によって、勃起に関する症状のために治療施設を訪れる男性が増大するものと思われる。シルデナフィルの有効性について公表されたものはないが、きわめて軽度の勃起不全患者には良好な作用があるとされる。この薬剤の単独投与では、十分な勃起を得ることができない男性は多い。限局性前立腺癌の治療に密封小線源治療法を実施した試験では、シルデナフィルによって患者の62%が改善したとの報告がある。アンドロゲンによる治療を受けていない患者は、奏効率が有意に良好であった。

   これと同じく、前立腺癌に密封小線源治療を実施した後、性交不能になった男性の85から88%は、シルデナフィル服用が奏効し、勃起機能が改善された。シルデナフィルの投与により、直腸手術のために副交感神経が部分的に遮断された患者の勃起不全もまた改善した。勃起不全の治療として、これほど多くの患者が利用しているものはこれ以外にはない。陰茎内注入法、真空装置の使用ないし尿道内投薬などの種々の療法は、中途脱落率がきわめて高く、2種類の治療方法を試みないで、長期にわたって満足感を得られたと感じているのは、勃起不全のため受診する患者のわずか約1/3である。

   勃起補助具挿入法の方が、長期の満足感が得られ、低侵襲性かつ永続的な治療であるにもかかわらず、この治療手技を選択する男性は、特に癌の集中治療を受けた患者では、きわめて少ない。また、パートナーである女性には、男性患者に治療を受けるよう奨めたり、それを維持するよう奨めたりする役割があることは、未だ十分に理解されていない。勃起機能に障害を来している場合、初期には勃起ないし性交を得なくても、性的快感および満足感を得られることに焦点をあてて、カウンセリングを実施する必要がある。

   術後に勃起不全を来した男性は、術後2年半までは神経再生の可能性があるため、機能が改善する見込みがある。医療提供者は患者に対して、勃起機能を回復させる医学的介入法として、有効性が確認された方法は未だないことも、説明する必要がある。勃起不全の現在の管理方法に関するいくつかの総説がある。また、多くの研究者が、性的欲求の抑制をはじめとする男性の様々な性機能障害の管理に関して、詳細な考察を提供している。

   男性でも女性でも、継続的かつ複合的な性的問題は、癌治療後の性交渉に対する欲求の喪失である。前立腺癌の既往歴がなく血清テストステロン値が低値を示す男性には、注入またはパッチによるテストテロン補充療法が、正常な性機能を回復するのに有効であることが多い。もっとも、ホルモン値低下が正常の範囲の男性には、テストテロン補充療法の効果は低いとされる。

   性欲喪失は多因子性であるため、通常、心理学的評価ならびに治療を加味した治療方法が選択される。経験を積んでいるメンタルヘルスの専門家であれば、性欲喪失の因子として気分障害を来していないことを確認し、人間関係の変化、身体的幸福感の喪失、性的自己概念の変化および身体像の負のイメージなど、諸因子の相互関係を検討する。薬剤処方、薬物依存またはホルモン異常の影響が認められ、その変化に焦点があてられる。残念ながら、正常なホルモン環境下では、性的欲求を回復する有効な催淫薬はない。

   一般に、癌発生後の性機能障害に用いられる治療方法は、多岐にわたる。多くの症状の場合、自助方式による行動変化のための情報および提案を提供すれば、十分である。知識は、本、パンフレット、CD-ROM、ビデオないしオンラインインターネットを通して得ることができる。

   さらに複雑かつ重篤な問題を抱える男女いずれの患者にも、専門的な治療が有効であると考えられる。患者群ごとに最も有効性の高い治療方法を検討するため、さらに詳細な調査を進める必要がある。性的カウンセリングは、個人、カップルまたはグループで実施される。こうした種々の形式での有効性は、癌患者を対象としては未だ比較検討されていない。短時間のカウンセリングが、勃起不全または性交疼痛症の克服などの医学的治療に影響を与えるか否かは、未だ明らかではない
                                                                  上に戻る
    蛇足

[1] がん医学の小史

@ がんの語源

   がん(CANCER)は紀元前5世紀の古代ギリシアの時代に生まれたとされている。『ヒポクラテス全集』に[ある婦人の胸にカルチノーマが出来、乳首から血液様の液体が出た。ある時は大きく、ある時は小さくなった。化膿はしなかったが、次第に硬くなった]

   ヒポクラテスがカルチノーマと表現したのは、病変部分がギリシア語のカルキノス(カニ)に似ていたから。婦人の乳房の一部が、まるでカニの甲羅のようにゴツゴツと腫れ上がり、その周辺に広がる血管がカニの脚のように見えたから。これを英語でCANCERというようになった。

   癌という文字は、中国の南宗時代(12世紀)の医書に登場する。明時代(17世紀)の医書『合類医学入門』に[潰れて深く陥り、岩となるごときを癌という。癌の多くは乳脇に生ずる]とある。
 
A 発ガン現象は知られていた
   
   コールタールが発がんのきっかけになるのでは、という疑いは、18世紀にイギリスで発表されていた。当時、ロンドンの煙突掃除を職業とする人たちに、陰嚢(いんのう)付近にがんが多発していたからだ。しかし、各国の研究者が様々な動物実験を行ったが発がんには至らなかった。
   
B 世界最初、全身麻酔で乳がんの手術(1804年・華岡青洲)

   乳がん患者に全身麻酔をかけ、世界で初めて手術を行ったのは、紀州の外科医・華岡青洲。青洲は京都でオランダ医学を学び、医業の傍ら各種の草木を使った麻酔薬を考案し、犬を使った実験を繰り返した。

   苦節20年。終にチョウセンアサガオを主成分にトリカブト、センキュウ、トウキを調合した麻酔薬『通仙散(つうせんさん)』を完成。この麻酔薬の人体実験に進んで協力したのが、妻・加恵と母・於継(おつぎ)の2人。加恵は副作用のためか、両眼の視力を喪失。

   青洲が初めて実際の患者に通仙散を用いて手術したのは、200年前(1804年)のことだ。大和(奈良県)から来た高齢の女性に全身麻酔を施して、乳がんの摘出手術をした。そのとき青洲は『この手術は、これまで誰もやっていないし、私にとっても初めての大手術です。万一のことがあるかもしれない。云々』『先生の手にかかって命を落とすことがあっても、悔やみません。どうぞ思い切って手術してください』と言ったとか。

   医学史では天然痘の予防接種法を開発したイギリスのジェンナーの業績が大げさに吹聴されているが、下記に示すごとくその経緯は華岡青洲とは正しく、天地の差があると言っても過言ではない。


   一度ある病気にかかると、2度目にその病原菌が体内に侵入しても、その病気にはならないという体の機能を「免疫(めんえき)」といいます。イギリスの医師ジェンナーが「人工免疫」の実験をしたのが1796年5月14日のこと。当時「天然痘」と呼ばれる病気が、人々を恐怖と不安に陥れていました。天然痘は感染力が強く、死亡率が高い病気だったのです。
   
   ジェンナーはこの天然痘予防のために、人間の天然痘に似ている牛の病気「牛痘」にかかった牛の「うみ」を人間に移植すれば、天然痘の菌に感染しても免疫で発病しないのでは、と考えていました ところがジェンナーは、その実験を自分の体でする根性がなかったために、縁もゆかりもない他人の8歳になる男の子を実験台にしたのです。
   
   まず、男の子の腕に、牛痘に感染した牛の「うみ」を注入しました。当然、周りからは猛烈な抗議の声が挙がっていたことは書くまでもありません。非難の嵐が吹き荒れる中、さらに1ヶ月後、実験の結果を調べるために、この男の子に天然痘の病原菌(これを「種痘」という)を植え付けました。しかし、男の子は病原菌を注入したにも関わらず、感染力が強い天然痘にかからなかったのです。つまり、人工的に免疫を作ることが実証されました。
   
   ジェンナーが発見した「人工免疫」は、今、予防接種という形で、私たちの身近になりました。そして実験に使われた天然痘は地球から絶滅したと言われています。


C 世界最初、ウサギの耳に人工がんを発症(1915年・山極勝三郎東大教授)

   1915(大正4年)東大医学部教授の山極勝三郎と大学院生の市川厚一は世界初の発がん実験に成功した。ウサギの耳にコールタールを塗っては翌日拭き取り、また次の日同じ場所にコールタールを塗っては翌日拭き取る作業を繰り返した。その結果660日間で101匹のウサギのうち31匹に癌が発症した。海外での反響は大きく、実験成功の2年後にはロックフェラー研究所から野口英世も駆けつけた。

   この業績はノーベル賞選考委員会の目にもとまり、医学賞の受賞候補2点に残った。その時のライバルはデンマーク、コペンハーゲン大学教授のフィビゲルだった。

   彼はねずみの結核を研究している途中、ある3匹のねずみの胃の一部分に同じようながんを見つけた。顕微鏡でがん組織の中に寄生虫を発見した。その感染経路を調べた結果、寄生虫の中間宿主はゴキブリで、その筋肉の中に幼虫が潜み、それを食べたねずみの胃壁の中で成虫まで発育。
   
   そのとき、寄生虫の出す何らかの物質ががん化作用を持つと推論し、1913年ドイツのがん専門誌に堂々と80ページに及ぶ大論文として発表した。受賞委員会は、ある委員の『東洋人にはまだノーベル賞は早い』との主張に同意し、世界で初めて人工がんに成功したとの理由で、フィビゲルは1926年にノーベル医学生理学賞を受賞した。
   
   ところが後年、数々の物言いがついた。アメリカのブルロックとローデンバークは、ねずみには単なる機械的刺激でも胃がんが発生しうると発表し、イギリスのパッシーはビタミンA欠乏食を食わせただけでねずみの肺にがんを起こすという重大証言を行い、フィビゲルの論文は否定された。日本人としては何とも無念な結末である。

   数年前にノーベル賞選考委員会の関係者が日本を訪れた。我が記憶では『来日の目的は日本政府に山極博士の件を詫びるため』と報道された。しかし、これはカモフラージュだったと今では推定している。当時彼らは島津製作所に田中耕一氏を訪ね、彼の業績を精査して帰国した。

   昨年、田中氏のノーベル化学賞受賞理由について選考委員会は『最初に門を開けた人にこそ、ノーベル賞は与えられる』と力説した。当時ドイツ人たちの功績が高いとの下馬評もあったが、選考委員会は田中氏に軍配を上げた。私は田中氏のノーベル賞の背後には、選考委員会の山極博士へのお詫びも込められていたと推定している。

D 世界最初、動物の体内に人工がんを発症(吉田富三長崎医科大学教授)

   東京・駿河台にあった佐々木研究所で吉田富三は1929年、ラット(シロネズミ)の体内に『肝臓がん』を作ることに成功した。動物の体内に人工的にがんを作ったのは世界で初めてだった。

   長崎医科大学教授になった吉田は『吉田肉腫』を作った。吉田肉腫は、別のラットの腹腔に移植して維持される。同一の研究材料を容易に繰り返し入手できることで、吉田肉腫はがんの実験研究に欠くことのできない存在だった。特にがんの化学療法の研究には大いに役立った。

   E 発がん物質の発見努力は、絶えまなく続いているが。。

   山極博士の人工がん発生実験の成功以来、今日に至るまで延々と、世界中で発がん物質の発見努力は続けられている。その結果、どんな物質でも同じものを食べ続けたり、それに接触し続ければがんが出来るかと、錯覚しかねないほどの膨大な成果が発表されている。この努力が続けられれば続けられるほど、食べられる物も利用可能な物質も減ってくるようだ。

   発がん物質を発見する努力は、役に立っているのだろうか?がん患者の発生率が減らないという事実からは、役に立っているようには思えないのだが。才能の乏しい学者が論文を書くために、発がん物質の発見努力をしているように思えてならない。長期間の単調な実験さえ我慢すれば、論文の種になる確率は大変高いテーマになりうるからだ。

   東北大学の西澤潤一元学長はこんな努力を『銅鉄主義』と称して、蔑視していた。銅での論文が完成すると、鉄ではどうかと手がける亜流の努力を揶揄されたのだ。

   しかし、石垣が大小さまざまの大きさの石で成り立っているように、がん対策の研究も三流の学者には三流の貢献方法があるのかもしれないと、最近は思うようになった。三流に一流を期待するのが間違っているのだと。

F がんが何故出来るかの解明は未だに不十分

   結局のところ、どういう条件下ではがんが発生する場合がある、ということまでは解明されたが、何故がんが発生したのかの原理までは解明されていない。様々なもっともらしい仮説が提案されているだけだ。同じ条件下でも、ある人は発がんし、ある人は何時までもがんに罹らないという個人差を的確に説明できる理論が発見されていない。

   私が、何故胃がんに罹ったのか、何故食道がんに罹ったのか、結局はその原因を憶測する事はできても、断定は出来ない。それ故に、再発防止策も立たない。せいぜい、飲酒を控えろというのが、関の山のようだ。
   
[2] がん医療機器への日本人の貢献例

@ 二重造影法
   
   コップ1杯のバリウムと小量の発泡剤を飲んで、様々な角度からX線写真を撮る『二重造影法』は、日本で開発され、世界的に普及した。

   二重といわれる意味は、X線を透過する造影剤と、透過しない造影剤を同時に使って観察するからである。バリウムだけを胃に充満させると、全体が黒く写るだけである。ところが小量のバリウムに空気を加えると、バリウムは薄い膜となって胃壁にへばりつき、濃淡の細かな映像となって写しだされる。このときの空気はX線を透過する造影剤になっている。このために発泡性の錠剤が開発された。

A 内視鏡の改良

   内視鏡の原型にはギリシア・ローマ時代の『スペクラ』と呼ばれる筒状の膣鏡や肛門鏡がある。今日の内視鏡の元祖は1949年、オリンパス工業と東大病院が共同開発したガストロカメラ(胃カメラ)である。柔軟な導入管の先端にフラッシュ付き小型カメラが取り付けられた。しかし、リアルタイムに見ることは出来なかった。

   1960年代に町田製作所などが光ファイバーを用いたファイバスコープを完成。現在では電子内視鏡時代になった。CCD(超小型固体撮像素子)を先端につけ、テレビモニターで医療チーム全員が同時に見ることが出来るようになった。

[3] 厚生労働省の新医療政策の影響(週刊朝日の臨時増刊号から)

@ 手術数によって病院の診療報酬に格差設定(2002−4月より)

   2002年の診療報酬改定で厚生労働省は『全国一律』だった医療の値段にメスを入れた。疾病別に手術数の基準を定めて、『基準に達した医療機関は診療報酬を満額認めるが、達しなかった医療機関は3割減算』。これは、『病院によって医療の質は違う』と国が認めたことになる。

   厚生労働省の言い分は『病院は全国一律ではない。高度で専門的な手術を、どの病院でも同じように出来るわけはない。心臓手術では、症例数が多い医療機関の治療成績がいいという相関関係も出ている。それならば、特殊な手術や難度の高い手術は、経験が豊富な病院に集中した方がよい』

   医療界から多かった批判の一つは、例えば『肺がん手術は年間50例以上(2002年は暫定処置で30例以上)』などという基準の手術数に根拠がない、と言うものだった。これは医学会が『代替医療には効果があると言う根拠がない』という、何時もの主張と同じだ。彼らには根拠がないとの主張の根拠をこそ明示して、自分達の主張が正しいと言って欲しいものだ。

   症例数が多い病院でも、どの医者も技術が高いとは限らない。腕の立つ外科医を探すため、外科医をシビアに見つめている内科医の一人は『胃や大腸、胆石などは症例数も多いし、一般的に40歳を過ぎた外科医であれば、手術の技術はある。重要なのは患者への説明能力と、感染症など合併症に対する術後管理でしょう。つまり内科的要素が重要』。我が胃がんの主治医は術後管理に取り分け熱心だったし、質問には何時も私が納得するまで丁寧に答えられた。

   神奈川県立がんセンターの消化器外科部長は『日本食道疾患研究会が、食道がんの手術後30日以内に死亡した症例を分析したら、症例数が多い病院ほど死亡率が低かった。症例数が多いと、経験によって治療法の選択肢が広がることにもなる』

   更に『食道がんならば最低、ひと月に1回は手術をしていないと安心できない。食道の手術では胃がん手術の技術も必要だし、首の手術にも精通していないといけない。麻酔も複雑だし、看護師にもかなりの経験が必要とされる』という。

   国立がんセンター中央病院の副院長は『肺がん手術は施設で年間100例以上、出来れば年間200例は欲しい。週に1,2例の病院と週4,5例のところと、どちらに安心感があるかと言えば、言わずもがなでしょう。外科医の技術だけではなく、病院のチームとしても、ノウハウが蓄積されるから』。我がゴルフ友達は肺がんの手術を、近くの病院(症例数は基準値以下だった)で受けた。僅か2週間後に肺炎で永眠(享年59歳)。外科医に切り殺されたようなものだ。

   多くの有名病院や名医は今回の政府の方針に賛成している。当たり前のことだ。年間医療費が31兆円強(2001年度)にも達した日本では、新しい制度の下、病院間の生存競争が進めば、医療費の増加も押さえられ、国民全体にとっても望ましいことである。

A 日本医療機能評価機構による病院の評価(1997年度より)

   旧厚生省や日本医師会などによって1995年に『日本医療機能評価機構』が財団法人として設立された。病院が尊大の代名詞だったのはもはや昔の話。生き残るために、自らの弱点を指摘してもらおうと、日本医療機能評価機構への評価申し込みが殺到しているそうだ。

   審査を始めた1997年度は年間100件台だったが、2001年度は476件へと急増。2002年10月中旬までに全国の9266病院のうち1426病院が審査の申し込みを済ませた。厚生労働省から日本医療機能評価機構の認定を受ければ、診療報酬面で優遇が受けられると言う通達が出た結果だ。

   病院の評価は『診療の質の評価』『患者の満足と安心』など7項目。各項目は更に中、小項目に分かれ、79〜202個ある中項目について1〜5の評点がつけられる。全項目が3以上なら日本医療機能評価機構から5年間有効な認定証が発行される。いわば『医療版ムーディーズ』のスタートだ。

   日本医療機能評価機構は患者や市民向けの情報提供サービスとして、平成15年10月下旬には全国の700〜800の病院について、1病院あたり4〜6ページずつ、診療の質を確保する体制が整備されているかなどの評点をまとめた出版物を発売する。

   また、平成16年3月を目処に患者向けに治療法をネットで公開する。当初はぜんそくや糖尿病など4疾患で始め、順次拡充する。平易な表現で標準的な治療法を解説するほか、基礎的な医学知識も掲載するそうだ。
   
   米国からは名医紹介企業『ベストドクターズ』が2002年6月日本に進出。ハーバード大学の医師らに日本の名医70人を選び出してもらい、後は『名医に名医を選んでもらう』という手順で日本の名医1400人をリストアップしたそうだ。当面は生命保険会社などへの紹介だが、2003年以降、患者個人への紹介も始めると言う。

   AERAの2002/11/4号には

病院の理念・基本方針が確立している
患者の権利を尊重する方針が徹底している
診療の責任体制が明確になっている
医師の教育・研修体制が充実している
臨床検査の体制が整備されている
リハビリテーション部門が適切に運営されている
感染防止策が適切に取られている
看護ケアの提供にあたって患者や家族が尊重されている
患者または家族に、診療について説明を行い、同意を得ている
患者のプライバシーに配慮している
食事の快適性に配慮している
外来待ち時間に配慮している
院内の清潔管理が適切に行われている
禁煙・分煙の配慮がなされている
患者の医療事故防止への対応が適切に行われている

の視点から、既に認定結果が公表されている389病院のうちから選んだ『認定病院ベスト100』が掲載されている。残念ながら、愛知県がんセンターはここには漏れていた。更にAERAの2002/12/16号には、更に追加分として、368病院が掲載された。

   今後、年を追うごとに評価項目を吟味・取捨選択していけば、患者にとって役立つリストへと育つ筈と推定している。

   日本の病院間の実力差が如何に大きいかを示すデータを、毎日新聞の記事から以下にコピーした。がんの中では最も標準化が進んでいる胃がんの場合でも、格差は信じがたいほどに大きい。


2000年8月6日
特報・胃がん手術:

全国18施設 生存率に最大33ポイント差 

   がんセンターや大学病院など全国の代表的な胃がん治療施設の間で、同じ進み具合の胃がんで手術を受けた患者の5年生存率が、最高8割弱から最低5割弱まで大きく異なっていることが5日分かった。日本胃癌(がん)学会の席上で施設別の成績を明示した表が配られていた。専門家は、患者の年齢差などに加え、医療技術の差が成績格差を生んだとみている。
   
   格差の存在は医師の間では公然の秘密だったが、命にかかわる情報なのに患者には知らされず、実名による比較データが出るのはこれが初めて。格差がはっきりしたことで胃がんに限らず各医療分野で、治療実績の公開を求める声が高まりそうだ。
   
   胃癌学会は、胃がんの治療経験や学会発表が多い病院として、全国のがんセンターや大学病院など18施設を選定。1985年1月から94年12月までに胃がんの開腹手術を受けた患者について、手術後30日以内の死亡率(術死率)や、がんの進行度別の手術後の5年生存率などをアンケートし、昨年まとめた。日本の胃がん治療の達成水準を明らかにし、標準的な治療の指針作りの参考にするのが目的だった。
   
   4段階ある胃がんの深達度(がんが胃の内壁にどれだけ食い込んでいるかを示す尺度)のうち最も早期から2番目の「T2」の5年生存率は、最高の新潟県立がんセンターの78・9%から、最低の鹿児島大第1外科の46・4%まで約33ポイントの差が開いた。3番目の「T3」でも最高42・3%、最低17・0%で25ポイントの差があった。
   
   鹿児島大は「地方の病院の特徴で、がん以外の病気を合併した患者や高齢患者が多い」と成績が悪い理由を説明する。また「T2」の生存率が59%と低目になった京都府立医大消化器外科は「現在の消化器外科は昔の第1外科と第2外科を再編した組織で、学会に出たのは第1外科の成績。同じ病院、同じT2でも、第2外科では72%の生存率だった」と話す。
   
   術死率は最高の大阪医大で2・9%、最低は国立がんセンター中央病院の0・4%だった。大阪医大は「調査対象期間の術死率は高かったが、78年から99年のトータルだと0・6%」と説明。やはり高い方だった鳥取大は「地方では、進行して手術が難しいがんでも、医師や患者・家族が手術を望む傾向があり、術死率を高める一因になっている」と話す。
   
   成績に格差が生じた原因として専門医は、がんの進行程度が同じでも、施設ごとにがんの性質や患者の年齢などが違うことに加え、手術の腕や手術法、抗がん剤の使い方など施設側の問題点を指摘している。
   
   心臓手術の成績をインターネットで公開している、筑波メディカル医療センターの福田幾夫・心臓血管外科部長の話。同じ手術をしても、病院ごとに治療成績は違う。結果の公開は、患者が病院を選ぶのに必要だと考えている。生存率などは誤差を含むので扱いは難しい面があるが、治療成績をきちんと公開しないと医療は進歩しないと思う。 【高木 昭午】
   
   ◆胃がん手術の施設別成績(日本胃癌学会調べ)◆
               手術   5年生存率

                             総数    T1   T2   T3  T4
癌研究会付属病院消化器外科  2597 93.9 71.8 33.6  9.7
国立がんセンター中央病院   2578 91.2 75.8 34.9 11.0
東京女子医大消化器病センター 2379 94.8 72.6 36.4 10.3
新潟県立がんセンター     2343 91.3 78.9 42.3 15.8
愛知県がんセンター      1970 93.2 64.5 28.9 13.5
東京都立駒込病院       1763 91.8 68.1 26.1  9.6
神奈川県立がんセンター    1509 92.2 70.4 32.2  8.6
大阪府立成人病センター    1478 91.6 73.9 35.4 15.8
日本大第3外科        1344 92.7 72.2 39.6 11.3
京都府立医大消化器外科    1280 94.5 59.3 22.8  6.6
大阪医大一般消化器外科    1256 89.9 72.8 33.7 15.9
慶応大外科          1211 89.2 61.1 23.8 22.0
国立病院四国がんセンター   1207 89.7 76.9 47.2 14.3
東京医科歯科大第1外科     886 88.3 70.2 33.1  8.9
鳥取大第1外科         790 89.1 75.4 32.0 15.2
金沢大がん研究所腫瘍外科    711 97.0 55.0 17.0  0.0
金沢大第2外科         691 88.0 50.0 21.0  4.0
鹿児島大第1外科        378 84.6 46.4 18.1 25.7

※手術総数は件数、5年生存率は%。T1〜T4は胃がんが食い込んだ深さを表し、T1が最も浅く、T4は胃壁を貫通している。

解説

   全国を代表する大病院の間でさえ、胃がんの治療成績に大差があることが分かった。今後、胃がんの標準的な治療法を確立(注。今では既述したように胃がんの標準治療法は設定されている)し、各施設の成績を向上させるためにも、より多くの医療施設の治療成績の公開が求められる。

   「病院によって手術の仕方など治療法が違う。成績に差があるとの声は昔からあった」と東京都の大学病院の消化器外科医は話す。「常に同じ熟練医チームが手術する病院と、若手の教育などのためさまざまな医師が手術する病院で差が出る」との指摘も複数の専門医から出ている。同程度の手術でも、手術中の出血量が多いほど、がん再発率が高いとのデータもあるという。

   だが、格差に触れないのが医師間の暗黙の協定だった。今回の日本胃癌(がん)学会の調査も、学会会場では施設の実名入りの表を配ったが、英文の学会誌には匿名で掲載した。

   各施設の治療成績が公開されず、医師も困っている。「手術など専門治療が必要ながん患者を、どの病院に紹介すればよいか分からない」。離島で働く内科医はこう嘆いた。

   今回の調査結果について「病院間の実力の公平な比較になっていない」と新聞での実名掲載に反対した専門医もいた。がんの進行程度が同じでも患者の年齢や基礎体力、他の合併症の有無、がんの悪性度などで治療の難しさは異なるというのがその理由だ。

   だが、18施設のうち13施設は各施設の実名掲載を了承し「厳密ではないが病院選びの目安にはなる」「患者には知る権利がある」などのコメントを寄せた。

   今回の調査対象は全国の主要施設ばかりだ。一般の病院も含めると、成績の差はもっと拡大するだろう。

   国内では、進行した卵巣がんの4年生存率が主要病院間で52〜5%の大差があるという調査結果が1993年に発表されたことがあるが、施設名は匿名だった。「食道やすい臓のがん、心臓病の手術なら、手術で死亡する率は医師により数割から数%まで違う。患者は執刀医に実績を聞くべきだ」と指摘する外科医もいる。

   米ニューヨーク州は89年から、州内の病院の心臓バイパス手術について、重症度を加味した「調整死亡率」を施設別に公開し、その後、州全体の手術成績が向上するなどの成果を上げている。日本でもこうした制度を作り、各病院が実績を公開する時期が来たといえる。 【高木 昭午】
   

B 着々と進む病院の合理化

   来るべき病院間の大競争時代の先取りなのか、愛知県がんセンターでも、着々と合理化は進んでいた。ここでは約800人が働いているそうだ。医師だけでも正規職員が約70人、研修医と非常勤の医師が約各30人。合計すれば130人もいる。
   
   受付や会計などの医療事務は総て派遣社員が担当。県の職員であれば官僚的な仕事振りになるところが、派遣社員になった結果、格段にサービスが向上した。トヨタ自動車の保険組合では、直営保養所の従業員を保険組合の職員から、派遣社員に切り替えた途端、同一利用料金で格段にサービスが向上したのと全く同じ現象だ。
   
   病室などの清掃はパートのおばさんだった。私の無料個室(手術日の12/19から退院日の1/8まで使用。通常は手術後数日で4人部屋に移動させられるが、たまたま個室が空いていたため退院日まで残留させてくれた)に出入りしていたのは日本人と再婚したフィリピン人だった。彼女の掃除方法はフィリピン流。四角いコーナーを丸く掃く。そのために、私が英語で厳しく苦情を言うことになる。
   
   患者が退院すると、次の新患のためにベッドのシーツや枕カバーを取り替えていた人は白い服を着ていたので、看護師かと思ったが、『看護補助』と言う職業だそうだ。彼女達は食事の配達、後片付けなどの病院内の雑務をこなしていたが、正規の職員とは思えない。地下の厨房で働いている人も、駐車場の年老いた管理人もきっとパートだと推定した。つまり、人件費の切り下げとサービスの向上は同時に進行していた。
   
   ベッドには小さなゴミ箱が吊り下げられていた。新聞紙で折られたぴったりサイズの袋をそのゴミ箱に入れるようになっていた。ゴミ袋は各患者がゴミ集積コーナーに適宜持っていけば済む。看護補助者が古新聞紙で作った折りたたみ式の袋が、ゴミ集積コーナーの棚に積み重ねてあり、自由に持ち出して使えるようになっていた。
   
   患者の予約管理、来院管理、医師のスケジュール管理、治療費の計算、駐車場のスペースと料金精算などには電算機がフルに活用されていた。診察券を機械に挿入すると受付は完了し、カルテが診察室へと、構内の無人配達コンベアで配送されていた。

[4] 珍事、痛風の再発

   平成元年に痛風を患って以来、痛風対策として砂糖抜きの薄い紅茶を、毎朝1時間もかけて鍋に1杯(3リットル)も新聞を読みながら飲んでいた。尿酸を小便と共に排出するためである。その間、尿酸排出剤を服用していたが、徐々に薬を減らし、最近は殆ど飲んでいなかった。過去数回、軽い痛風発作が起きたが痛みも弱く日常生活には何の支障もなかった。

   昨年夏に自宅をリフォームした折、都市ガスは契約解除し200ボルトの電磁誘導調理器に変えた。その時アルミの鍋は已む無く廃棄し、2リットルの鉄製湯沸しに変えて以来、紅茶の量を2リットルに減らしたが、痛風の再発は無く、何の心配もしてなかった。

   胃がんの手術後、環境は一変。水分の摂取量が激減した。胃が小さくなっただけではなく、当初は食事摂取もほんの少しずつである。水分や栄養分の不足分は点滴で補っていた。それでも、入院以来完全に断酒していたから、痛風は再発しないだろうと予想していた。しかし、勝手な思惑は完全に外れた。痛風の再発である。トイレに行くだけでも四苦八苦。
   
   主治医に『ここにはがん患者しかいないから、痛風の薬はないかと思いますが、鎮痛剤はあるのではないでしょうか?QOL(生活の質)を上げたいのですよ』『この薬は胃を特に荒らします。必要最小限に留めてください』とのご説明つきで薬を貰った。たったの3回、3錠で治った。がんの消炎剤は痛風にも良く効いたのだった。
                                                                  上に戻る
    おわりに

[1] がん対策
    @ ごもっともだが、無理難題ながんの予防生活
    
   米国がん研究財団と世界がん研究基金により1997年10月、国際がん予防15ヶ条が下記のように発表された。

(1) 食事。主に植物性の食物を選ぶ。
(2) 体重維持。BMI(Kg単位の体重/m単位の身長/m単位の身長)を18.5〜25に維持し、成人になって5Kg以上体重を増やさない。(私のBMIは20.8)
(3) 運動の維持。1日1時間の活発な歩行と週最低1時間の激しい運動。
(4) 野菜・果物。豊富な種類の野菜・果物を1日400〜800グラム食べる。
(5) 他の植物性食品。豊富な種類の穀物・豆類・根菜類を1日600〜800グラム摂取。
(6) アルコール飲料。男性が1日2杯以下、女性が1杯以下(1杯はビール250cc、ワイン100cc、ウイスキーなどは25cc相当)
(7) 肉(牛・豚・羊)。1日80グラム以下。魚肉・鶏肉の方がいい。
(8) 全脂肪。動物性脂肪食品の摂取をひかえ、植物性脂肪を適度に摂取。
(9) 食塩。1日6グラム以下。調味料にはハーブやスパイスを使う。
(10) 貯蔵。カビ毒汚染の可能性のある長期貯蔵の食品は食べない。
(11) 保存。腐敗しやすい食品は冷蔵保存する。
(12) 添加物・残留物。適切な規制下では問題ない。
(13) 料理。焦げた食品は食べない。
(14) 栄養補助食品。勧告の他項目に従えば摂取不用。
(15) タバコ。吸わない。

   一方、国立がんセンターが上記の真似をしたのか、大同小異に過ぎない『がん予防12ヶ条』を下記のように発表した。
   
(1) 彩り豊な食卓にして、バランスの取れた栄養を取る。
(2) ワンパターンではありませんか?毎日、変化のある食生活を。
(3) おいしい物も適量に。食べ過ぎを避け、脂肪は控えめに。
(4) 健康的に楽しみましょう。お酒はほどほどに。
(5) 特に、新しく吸いはじめない。タバコは吸わないように。
(6) 緑黄色野菜をたっぷり。食べ物から適量のビタミンと繊維質のものを多く取る。
(7) 胃や食道をいたわって塩辛いものは少なめに、あまり熱いものはさましてから。
(8) 突然変異を起こします。焦げた部分は避ける。
(9) 食べる前にチェックして。カビの生えたものに注意。
(10) 太陽はいたずら者です。日光に当たり過ぎない。
(11) いい汗、流しましょう。適度にスポーツをする。
(12) 気分も爽やか。体を清潔に。

   どれも立派なご託宣である。旧約聖書には2000年以上もの歴史に耐えた下記のような『十戒』が記されているが、全部を守れた人は、人類史上恐らく一人もいないと私は推定している。人間の本能から溢れ出てくる衝動の一部(2,7,8,9,10等)を否定しているからだ。

   肝心かなめのキリスト教徒はキリストの像を拝んでいる。ユダヤ教徒はエルサレムの嘆きの壁(単なる岩に過ぎない!)に頭を垂れている。普通人が守れもしないような、十戒の猿真似を連想させるだけのがん予防のアドバイスなどに、どれほどの意味があるのだろうか?

   医学関係者の真の使命は、本能の指図に翻弄されながら好きなように生きている『か弱き庶民のがんを的確に発見し、寛解できる治療法』を開発することにこそある。お説教など、老婆心ほどの価値もない!

十戒(The commandments)

(1) なんじ、我のほか何者をも神とするなかれ。
(2) なんじ、おのれのために、上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの形に似せて偶像を作り、これにひれ伏し仕(つか)うるなかれ。
(3) なんじの神・主の名を、みだりに言うなかれ。
(4) なんじ、安息日を聖として忘るなかれ。
(5) なんじ、父と母とを敬え。
(6) なんじ、殺すなかれ。
(7) なんじ、姦淫するなかれ。
(8) なんじ、盗むなかれ。
(9) なんじ、隣人について偽りの証しを立つるなかれ。
(10)なんじ、隣人の家を欲することなかれ。

A がん対策は火事に同じ。早期発見、早期治療に勝るもの無し

   昨年来、4ヶ月あまりに亘ってがんの治療を受けると共に、僅かではあったが日頃殆ど縁のなかったがんに関する情報にも接した。しかし、どうしたらがんに罹らないのか、運悪くがんに罹った場合に的確な治療法はあるのか、寛解後どのような注意を払って生きていけばよいのか、に関して信じるに値するソリューションには、残念ながら殆ど出会えなかった。

   その結果得た我が唯一の結論は『がん対策は火事対策と同じ。早期発見、早期治療。しかも、治療では油断することなく、徹底的に』に落ち着いた。今後は食道がんに関しては、主治医の指示の下に、四半期ごとの検診。がん一般に関しては1年に1回のPETによる検診。その結果、治療可能な早期がんが見つかれば幸運。運悪くがんに倒れたら、諦めが肝心、と思うようになった。

[2] 神からの貴重な贈り物、余生をどう生きるか

   がんの告知を受けた直後は、周章狼狽し『我が人生も、最早これまで!』と半ば諦めかけていたが、幸い四恩(仏教用語。天地・国王・父母・衆生)に助けられ、今日まで生かされてきたことを、心底から感謝しながら、余生(我が見積もりは10年)を一日一日、大切に送りたいと思っている。

   今更、新しいことに挑戦しても挫折するのが落ち。今までの人生で楽しかったことだけを厳選して、命ある限り心穏やかに過ごしたい。2年前に華南に旅した時、書の大家(何とか大学学長)から一幅の掛け軸をいただいた。それには下記の言葉が書かれていた。

 
      心静而長

   今この書は、私の心の中に大きく飾られている。

   過去に掲げた当面の目標は当分の間、変更する気にはなれない。暫く中断していた国内外旅行も早速復活すべく、8/27〜30には福岡・大分・熊本・宮崎・長崎へのパック旅行、9/10〜13には還暦行事以来5年ぶりの高校同期懇親会兼ゴルフ大会のために帰省、10/2〜11/1は一時帰国する長女一家との交流、11月は父の13回忌で帰省、12/5〜12/14には『シリア・ヨルダン・レバノン』へのパック旅行。光陰矢の如しを実感。ゴルフとテニスは週2〜3回。7月はゴルフ4回、テニス6回だったが、8月は各6回を予定。一緒に楽しくプレイしてくれる仲間には心から感謝。

   過去29年間、庭先の20坪を耕し続けた家庭菜園も継続。減農薬(無農薬は不可能と知る)、完熟牛糞堆肥(2年に1回、小型ダンプ1台分4立方メートルを牧場から調達)中心の栽培技術は、既に本も書けるほどの腕前だ!栽培条件が我が管理下にある野菜を中心に食べれば、恐らくはがん対策にも繋がる筈と一石二鳥も密かに期待しながら。

   それ以外の人生は、おまけのおまけ。賢人各位とのメールによる元気な交友を楽しみにしつつ、拙い『がん旅行記』の筆を擱く。
   
                                                                  上に戻る
    ■Appendix(発信したメール)

平成14年11月22日


胃がんの疑い
私は胃壁の細胞検査中です。

去る2/25の人間ドックでは異常なしでしたが、10/29の定期検診(バリウム)で異常との診断。昨日(11/21)胃カメラ検診で異常を再確認。5ヶ所から細胞を採取。11/28に結果の説明がある予定です。

医師から胃壁のカラー写真を見せられました。直径3cm位、輪郭が明瞭な盛り上がり状態に驚愕。胃潰瘍か胃がんか判定できないとの説明でした。取りあえず、朝晩胃潰瘍の薬を飲まされてはいます。

胃がんは放置すれば確実に死にますから、胃がんと分かれば即、手術を選びます。まだ自覚症状はありませんでしたから、私の自己判断の生存率は60%。手術となれば、それ以降今まで同様のゴルフの予約連絡はいたし兼ねますので、ご了承いただきたく、取り急ぎご報告させていただきます。

今までの皆様との楽しかったゴルフ生活に心から感謝申し上げます。詳しくは事情判明次第、再度ご報告申し上げます。

追記(11/25)。
胃カメラに繋がる光ファイバーの断面サイズは20年前とさして変わらなかったが、検診作業では下記の改善がなされていた。

胃の痙攣を避ける為に、上腕部に筋肉注射をした。胃内部には洗浄液を注入し、洗浄後に吸引除去した。胃壁を鮮明に観察するために気体(空気?)を注入し、胃を膨らませた。ゲップを我慢させられたが、時々ゲップが出た。その都度、気体を再注入した。患部観察の便宜のためか、赤い溶液を撒布したような気がした(未確認)。写真が真っ赤に近い色彩に写っていたからである。

胃がんをキーワードにしてインターネットで情報検索をしたら、無数の記事(約25100件)が出てきた。代表的な大型癌病院の手術実績データ(病院間の差は小さかった)を見ると、無自覚状態のときに、検診で発見された場合の5年後生存率は90%、異常を感じた後、検査で癌と判定された場合は60%。

胃がんの初期には自覚症状は殆ど現われないが、胃潰瘍は痛いなどの異常を感じ易いそうだ。私は無自覚症状なので、胃がんの可能性の方が胃潰瘍よりも高そうだ。しかし、疑問点が無いわけではない。どんな癌でも病巣の初期の成長は緩慢なのが普通なのに、僅か半年余りの短期間で患部が急成長したのは何故か?人間ドックでの医師の見落としか?

今年の7月に水回りのリフォームをしたときに、風呂に追い炊き機能を初めて付けて以来(今まではセントラルヒーティングの給湯機能を使っていたので、追い炊きはしなかった)、朝・昼・晩の各食前に入浴して汗を故意にかいては、空腹にビールを楽しんだ。荊妻の観察によれば『水代わりにビールを飲んでいる!』。そのためなのか、10月下旬に痛風が13年ぶりに再発。爾来飲酒量を半減。痛風の痛みが完全に取れるまでには約1ケ月も掛かった。

低濃度アルコール飲料の典型であるビールで胃潰瘍になるとは思いがたいので、やっぱり胃がんなのだろうか?

昭和49年に我が家を新築したとき、住宅ローンの保証人になっていただいた元所属長が、本年9月22日に胃がんで永眠された。享年77歳。奥様の話だと、自覚症状を感じて初めて癌と分かり、手術はしたものの、僅か1年で旅立たれた。合掌。

追記(11/27)
明日、胃がんと診断されれば、念のために愛知県がんセンターで再検査し、同じく胃がんと判定されれば手術。どんな癌でも手術後の半年は意外に元気になれる。人生に残された貴重な時間だ。

この間に最後の海外旅行、エジプト・マチュピチュ(インカ帝国の遺跡)・サマルカンド(ティムール帝国の遺跡)・ペルセポリス(アケメネス朝ペルシャの遺跡)を駆け巡って、人生を静かに閉じたい。

賢人各位、大変お世話になりました。さようなら。


平成14年11月28日

予想通り胃がんでした

[1]豊田地域医療センター(俗称:救急医療センター)11/28日、午前

外科部長の所見。細胞のガン化度合いを1〜5で表わすと、1は良性腫瘍、3は灰色、5は完全なる癌、4は限りなく癌に近い。貴方の場合は4である。薬剤では治らない。治療は胃の半分摘出。過去の実績から心配することは殆どない。

『医師の診断を疑うつもりはないが、ダブルチェックをしたい。毎日癌と戦っている職人のような愛知県がんセンターの医師の所見も聞きたいから、証拠資料を借り出したい』
『コピーと紹介状を用意するが、別途お金が掛かりますよ』
『問題ありません。命よりは安いでしょう』。660円掛かった。
『所で、胃カメラで撮った写真は真っ赤でしたが、あの色は何ですか。一部の青色は何ですか』
『赤は血の色だ。細胞を採るので出血した。青い色は癌の範囲と凹凸を見やすくするための色素だ』
『手術までの猶予期間はどのくらいですか』
『1ケ月。早いにこしたことはない』

[2]愛知県がんセンター。11/28、午後。荊妻と共に。

紹介状があったので、一工程短縮できた。通常の初日は消化器内科での診察。その後、消化器外科に回されるが、今回は外科で初診。本日の最後の患者だったので根堀葉掘り。

外科医の所見。前述の医師の判断を私が報告したら、『私も同じ判断』と、医師は答えた。

『インターネットでは愛知県がんセンターの胃がん手術は年に200件だそうだが、貴方の手術数は』統計学の元祖ガウスが提案した大数の法則(統計データで意味のある結論を出すには最低50のデータがいる)の信者なので、手術実施数を心配した。
『こちらに来て約100、それ以前に40くらい。ここには担当医が3人います』
『癌としての進行度は』
『1A,1B,2,3A,3B,4で表わすが、貴方は1〜2だ。必ずしも早期癌とは言い切れない。しかし、この進行レベルでは県下の何処の病院で手術されても、心配はありません』
『ここだと、何時手術が出来るか』
『来年1月半ば以降。いつも混んでいます』
『予約します。しかし、患者としては早期に手術を受けたいので、豊田地域医療センターとトヨタ記念病院の混み具合もチェックし、場合によっては、ここの予約はキャンセルしたいが可能か。それでも手術前に出来ることはしておきたいが』
『キャンセルはいつでも出来ます。12/5,14:00にご来院ください。詳しい検査と打ち合わせもします』
『どんな検査か』
『手術に耐える体力がどの程度あるかの総合検査と癌の範囲を見極める検査が中心』
『23年前のカルテには何と書いてあるか』
『胃全体の収縮。癌ではない』
『胃はどのくらい切り取るか』
『2/3くらい。全摘までは必要ないと思うが、半分では足りないと思う』

[3]医療センター。11/28、夕方

医療センターへ駆け込み、手術時期の相談をした。外科部長は外出していたので、代わりに若い外科医が応対した。

『こちらでなら、何時手術出きますか』
『12/13』
『手術前の検査は何時から出来ますか』
『12/2にCT』
『実は11/30〜12/3は大学卒業40周年と中学校の同窓会のために帰省する予定。キャンセルは出来るが、その次にCTが出来る日は』
『12/5』
『三日遅れても誤差の内。12/5にCTをお願いします。愛知県がんセンターの予約はキャンセルします』
『外科部長には私から報告します。明日手術までの詳細日程計画を外科部長と打ち合わせましょう』
『手術の概要は』
『全身麻酔。3〜4時間掛かります。私は胃の2/3〜3/4の切除が必要と思います。入院期間は2〜3週間。正月には多分帰宅できると思います。』
『手術前までビールは飲めますか。手術後ゴルフやテニスなどの運動や海外旅行は出来ますか』
『ビールは飲めます。退院後は直ぐにでも運動も旅行も出来ます。但し、入院中に基礎体力が落ちますから、ゴルフの飛距離は落ちます』


平成14年12月11日

手術に突進!
[1] 11/29

豊田地域医療センターでの手術前の検査が始まった。

@ 血
耳たぶに針を刺して出血させ、ストップウォッチを使い止血までの時間を測定した。60秒掛かった。5分以内ならばOK。
A 採血3本、17cc。
 溶解酸素量も測るそうだ。
B 肺機能検査
肺活量を久しぶりに測った。過去23歳(5950cc)40歳(4950cc)50歳(5450cc)64歳(5020cc)40歳の時、肺活量の減少を知り、スポーツに没頭したら500cc復活したものの、とうとう元の木阿弥になっていたと分かりがっかり。
C 心電図
D X線・前・後・横・上
E 身長・体重
F 血圧

医師との打ち合わせ

今日の診察医は豊田地域医療センターでは3人目の津田外科長だった。
『他病院での手術を望むならば紹介状を書くが』
『昨日、藤田外科部長の紹介で愛知県がんセンターに出掛けた。手術は順番待ちで1月中旬以降と言われたので、善は急げと思いお断りした。こちらで手術を受けます』
『最新の手術法として、お腹に穴をあけて遠隔操作をする方法もあるが、希望しますか。当病院では出来ませんが』
『米粒大ならば、胃カメラで摘み取るなどの手術も含めて、新しい手術方法にも関心はありますが、3cmだと、転移の可能性もありますし、状況判断が的確に出来る開腹手術を希望します』
『執刀医は藤田部長ですか』
『私には発言権がありません。藤田さんが決められます』
『病室は個室を希望しますか』
『大部屋で結構です』
『手術に立ち会ってくれる病理医は』
『当病院にはいませんが、事前検査で必要と分かれば、呼び寄せます』
  『12/2にCT検査をします』
『実は11/30〜12/3まで大学と中学校の同窓会に出席するため福岡へ帰りたいのですが』
『では、次に機械が空いている12/5にします。多分、同日入院になります。手術は12/13をとりあえず予約しておきます』

[2] 11/30

九大航空工学科の卒業40周年記念同窓会に出席した。20周年から10年おきに開いていた。その日の朝、出席を楽しみにされていた恩師の一人が肺炎で急逝された。翌日、皆でお通夜に出席した。

11/30の夜、10年ぶりに福岡市の繁華街、中州の飲み屋『リンドバーグ』に10年ぶりに友達と出掛けた。元日航のスチュワーデス(藤堂さん)がママをしている店で、私が出掛けたのは今回が3回目である。

『藤堂さん、胃がんに掛かりました』
『癌は最初の手術が勝負よ。どこで手術するの』
『豊田地域医療センター』
『止めとき。もっと有名な病院があるでしょう!』
『本当は愛知県がんセンターで手術したくて、医療センターの消化器外科部長に紹介状を書いて貰い、がんセンターに11/28に出掛けたけど、手術は1月中旬以降と言われ、時は金なりと思い、手術日が早くなる地域医療センターを選んだ』
『私は伊達に30年も飲み屋のママをしていただけではないのよ。任しといて。がんセンターでもっと早く手術ができるようにするから。自宅の電話番号を教えて』当日の飲み代は7500円だった。私は飲み屋に出掛ける趣味は無く、今までは人(他社)が払っていたので、料金の相場がわからないままだ。

[3] 12/4
ママから自宅に電話があった。

『私の知り合いであった愛知県がんセンターの院長は既に定年退職をされていた。しかし、胃がんの大家である山村部長と懇意にされている千葉西総合病院の小玉院長とやっと連絡が取れた。FAXで貴方の連絡先の電話・住所・生年月日を書いて送るように。小玉院長はFAXを受け取り次第、山村部長への紹介状を書いてくれる約束になっている。紹介状が届けば、山村さんが来週月曜日(12/9)に診察してくれる』

『診察してくれた後、手術日は早まる見通しですか』
『勿論ですよ』

早速、下記のFAXを送信した。


平成14年12月4日

千葉西総合病院 院長小玉様
石松良彦
愛知県がんセンター山村部長へのご紹介のお願い

[1] 自己紹介

患者名。石松良彦
    九州大学航空工学科卒。トヨタ自動車定年退職
住所。 471−0038 豊田市宮上町2−28−4
生年月日。昭和13年8月20日
電話&FAX。0565−31−5862

[2] 経緯

 2/25.バリウム検査で異常なし
10/29.バリウム検査
11/13.異常ありとの通知あり
11/21.胃カメラ検査で異常再確認(豊田地域医療センター藤田外科部長)
11/28.生検結果。手術必要との結論(藤田部長)
11/28.愛知県がんセンター伊藤医師の診察を受けた。手術の順番は1月中旬以降  11/28.地域医療センター四方医師。12/13手術日予約
11/29.地域医療センターで検査開始。
11/29.伊藤医師に地域医療センターで手術を受けると連絡
11/30〜12/3.大学と中学校の同窓会に出席のため帰省
12/5. CT検査の予定

[3] 私の希望

年内に愛知県がんセンターで手術が受けられれば、病院を替わりたい。豊田地域医療センターには病理医がいないから心配。一流病院で手遅れになるより、『時は金なり』で、地域医療センターを選びましたが、ベストは一流で早く。。。

[4] 小玉院長の紹介者

福岡市在住の『藤堂和子』様。小玉院長からの紹介状を貰えば、がんセンターの山村部長が来週月曜日に、私を診察していただけるとの電話を12/4に拝受。


FAX送信後2時間して電話をかけたら、秘書らしき女性が出た。

『FAXは受信しています。小玉先生は直ぐに紹介状を書いてくれます。速達で出します。明日には届きます』

早速、飲み屋のママにお礼の電話をした。『石松さん。私は山村さんとは面識がありませんが、この世界は狭く、人で繋がっているんですよ。安心をし!』

千葉西総合病院の小玉院長にお礼の電話を掛けたが、誰も出なかった。大病院(インターネットで検索したら、408ベッドあり、小玉院長の顔写真入の経営方針が書かれていた)の院長といえども、一介の医師としての診察業務で忙しいようだ。

でもまだ、半信半疑だったので地域医療センターの検診は約束通り受けることにした。

[3]12/5、午前

@CT

12/4、21:00からは飲食はストップ。バリウム検査の場合と同じ制限だった。医療センターでCT撮影前に造影剤を飲んだ。ガスクロマトグラフィの透明な溶液を350ccくらい飲んだ。胃から腸への流れ方を調べるそうだ。

並行して、右手(設備の構造上、右手にしか注射できない)の静脈にヨードの溶液を注射した。点滴は時間が掛かるが、注射の場合は短時間で終わった。溶液が体内に入ると、温水が血管を通じて流れ込むような暖かさを感じた。実際の溶液は室温なので、暖かく感じたのは、伝熱作用とは別の感覚を伴う現象のようだ。体内を流れる点滴液の移動速度は大変速い。数秒間で全身に行き渡るのが知覚された。血液の流れは速いのだ。

肛門とか、大腿部などを流れるとき、体を内側から温めている感触が伝わってくる。肛門周辺に流れているときは何とも言えない快感が現われた。入浴での加熱は体の全表面からなされるが、今回の場合は血管からの線状加熱になっていることが体感された。その場合でも、血液の移動に伴い、加熱中心線が移動していった。

CTの撮影は、ヨードを注射する前と、注射後の2回にわたって実施。定期検診で何時も受ける胸部レントゲン撮影と撮影条件が異なった。『息を吸って。そのまま吐き出して、止めて』との指示。その後に30秒間くらい、呼吸を止めて撮影した。

A医師のCTへの所見

『他臓器への転移は認められません。リンパ球への転移もありません』
『どれがリンパ球ですか』
『正常なリンパ球は写真には写りません。転移すれば場所が特定できます』
『肝臓と脾臓に見られる白い斑点は石灰質だと思います』
『癌ではありませんか』
『腫れがありませんから、癌ではありません』
『肝硬変ではありませんか』
『違います。肝臓に異常はありません』
『この白い斑点はしばしば見られるものですか』
『多くはありません。正確には今日の午後、この写真を専門家(読影・どくえいと言う)が点検することになっています』

B津田医師との相談
『実は私は、これこれの事情で愛知県がんセンターの山村部長の診察を12/9に受ける予定です。年内に手術が出来るのであれば、がんセンターに転院します。そうでなければ、こちらでの手術を選びます。問題はありませんか』
『病院の選択権は患者にあり、全く問題はありません。そのことも考慮して今後の計画を決めましょう。12/13の手術予定日を12/16に変更し、入院日を12/11にしたいと思います。12/9のがんセンターでの相談結果は、電話連絡で十分です』
『今後の検査では何が残っていますか』
『主なものは終わっています。残りは入院後で十分です』
『今日のCT写真のコピーを作ってもらって、がんセンターに持参したいのですが』
『一枚500円、全部で6000円掛かりますから、貸し出しましょう。土曜日に受け取りにご来院ください』
『所で、山村部長はご存知ですか』
『大変有名な方です。しかし、あちらは私をご存知になっている筈はありませんが』

[5] 12/5、夕方

小玉院長からの紹介状が速達で届いた。封を切ると中から山村部長宛ての紹介状が入っている封書と名刺が出てきた。名刺には滋賀医科大学名誉教授との肩書きも書かれていた。名刺には朱印が押され、メモが記されていた。

早速、がんセンターに電話した。

『小玉院長から山村先生宛ての紹介状を頂きました。12/9の月曜日に診察していただけるのでしょうか』
『小玉院長からは、電話で用件は伺っています』
『病院の受付で診察を受けたい医師の指定が出来るのでしょうか』
『消化器外科の看護師に言って貰えば、そのように取り計らってくれます』当日、消化器外科では4人の医師が診察していた。
『有難うございました』診察中のようだったので、電話は30秒で切らせてもらった。チャンネルは通じていたのだ!そのことさえ確認できれば十分だった。

夜、飲み屋のママさんにお礼の電話をした。

[5]12/9

   大病院の待合室は、何処でも二段構えになっている。最初は各診療科のドアの外側にある待合室。やがて数人単位で呼び出され、中待合室に入る。がんセンターは診察室と中待合室とは気密ドアで隔離され、診察室の対話は聞こえない。

   一緒に待っていた胃がん患者が気安く、会話を交わす。『山村先生は大変丁寧です。診察に時間を掛けられるため、待ち時間の予想が出来ません』。私の場合は40分掛かった。こんなに長い診察を受けたのは、生まれて初めてだった。豊田地域医療センターから持ち出した写真を渡したら、一枚一枚丁寧に見られた。そして、写真でも分かる範囲の病状を詳しく説明されたが、上の空で聞いていた。

『小玉院長からの紹介状には年内に手術して欲しいと書いてあります』
『がん化レベルは1〜5の内、どの段階でしょうか?』
『5です』
『転移していますか?』
『写真からは明らかな転移の証拠はありません。しかし、転移がないとは断言できません。小さなものは目では見えないからです』
『がんのステージはTA〜Wのうち、何処まで進んでいますか?』
『断言できません。小さくとも転移が見つかればUです』
『5年後生存率はどのくらいでしょうか?』
『予言できませんが、山勘で言えば90%です。手術後に細胞の検査をします。その結果、転移の状況や生存率についても、もう少し高い精度で推定できます』
『肝臓と脾臓に白い斑点がありますが、あれは何でしょうか。がんではありませんか?』
『カルシュームが沈着したもので、何の心配もありません』
『先生は胃がんの手術は何人くらいされましたか。元エンジニアである私は、外科医は職人と思っています。職人の世界では、製造業に普遍的に診られる学習効果と言われている習熟曲線が存在し、量は質に転化すると確信しているものですから、敢えてお尋ねいたします』
『こちらに来て21年、最近では年間70〜80人、ここ以前の手術も入れると、1000回は超えます』
『私は先生に執刀していただけるのでしょうか?』
『小玉院長のご希望なのでそのつもりです』
『一人で手術をされるのでしょうか?』
『3人です。助手の医者が2人手伝います』。これを聞いてホッとした。相互チェックがないと、ガーゼや鋏を体内に忘れる医療ミスが起こり得るからだ。
『手術の予定日は何時頃でしょうか?』
『そんな約束は私には出来ません。ベッドが空くまでお待ちください。愛知県がんセンターではすべての患者様に公平に対応しています。たとい小玉院長の紹介状であろうとも、恐縮ですが優先されることはありません』
『がんセンターの胃がん手術件数は年間200件と聞いています。毎日ではないわけで、結構空いていると思えるのですが、どうして混んでいるのですか?』
『大腸がんなどを含む消化器外科の手術枠は週に10件です。それでやりくりに苦労しています。原則として受付順です。通常割り込みがあるのは、緊急患者の場合とか、キャンセルが出た場合くらいです』
『検査は今日から始めます。血液検査ではエイズも調べます。エイズの検査費は病院側で負担します。機械の空き具合を聞いてみましょう』その結果を確認後、
『12/16は胃カメラ、12/18はレントゲン』暦を見ながら
『病室は個室を希望しますか?』
『細々と生きている年金生活者です。大部屋で結構です』

   個室料金はA(26500)B(8150)C(5090円)の3段階だった。C室の自己負担金くらいはさして気にはならなかったが、それよりも大部屋でのがん患者の心理や挙動観察、お見舞い客の頻度などへの関心の方が実は強かった。

   特別養護老人ホームに91歳の母を見舞うときは、必ず面会者の受付ノートを眺める癖がついている。誰もお見舞いに来ない人がなんと多いことか!がん患者は家族からも実質的に見放されているのではないかとの、我が推定の検証もしたかった。

   診察後、当日でも出来る様々の検査を楽しく受けた。

   11/28に豊田地域医療センターで消化器外科藤田部長に『がんです。手術までの猶予期間は1ヶ月です』との宣告を受けたが、愛知県では最も経験が蓄積されている愛知県がんセンターでの手術が出来ることになったのは、何はともあれ嬉しかった。豊田地域医療センターの津田医師には鄭重にことの成り行きを報告して、手術の予約をキャンセルしていただいた。

   荊妻は12/7に岳父が救急車で九大病院に運び込まれたので、看病のため帰省中。今までに10回以上も入院しているが、83歳で肺炎とのこと。今度は危ないらしい。已む無く、一人で乾杯のビールをたらふく飲んだ。その後、飲み屋のママにお礼の電話。『良かったね。山村さんが執刀してくれて。早期の患者は若手の練習に普通は回されるらしいですよ!』
   
12/15までは一休み。ノンビリ過ごすにしくはなしと、ここまでの経過報告を書いた。

[6] 12/11

15:30に突然、がんセンターから電話。『明日9:30〜10:00に入院の手続きをしてください。即入院です』

予定が早まったのだ。手術日の連絡は無かったが、恐らく1週間は早まりそうだ。飲み屋のママの実力に驚くと共に心底感謝。今晩はビールの飲み収め。でも2本で我慢。


平成14年12月31日

食道がんを発見!

入院中には手術前も手術後も多数の方々から、心温まる励ましのお見舞いを賜り誠に有難うございました。10年振りにお会いした方、手術前後に2回ものお見舞いに来られた数名の方々、交通不便な(バス網を熟知しないと、公共交通機関では来れない)場所にも拘らず、タクシーで駆けつけてくれた方々も多く、感謝の言葉も思いつきません。

12/12に入院。14日に胃がんの精密検査をしたら、隣接して2個、合計長さ10cmもの胸部食道がんを発見。自覚症状は無いものの、がっくり!胃がんからの転移ではなく独立に発生していた癌だった。

主治医の判断で最初に胃がんの手術、体力の回復を待って食道がんの治療に着手することになった。

19日に胃がんの手術。外泊許可が降り、本日(31)一時帰宅。1/5に帰院。1/6から食道がんの詳細な検査開始予定。

食道がんは胃がんと異なり、外科 手術の患者負担は重いが、放射線化学療法(胃がんの治療には効き目が乏しい)も外科手術と同じくらいの治癒率があるとかで、治療期間は長く掛かるものの魅力的なのでこちらを選択する予定。上手くいかなければ外科手術。

5年生存率は胃がんで90%、食道がんで80%。合計すれば72%。我が人生もどうやら残り少なくなりましたが、生きている限り希望を持ち、世界を駆け巡りたいと思っています。

年賀状は葉書を買い置きしているだけで準備が間に合いません。後日、元気になりましたら、謹賀新年を謹賀新春に変更して発信させていただきます。

入院中にお届けいただいている膨大な数の励ましのメールは、感謝しながら今晩以降、じっくりかみ締めながら拝読させていただきます。


平成15年1月5日

その後拝受した励ましのメール

1/5日夕方からの再入院を前にして、昨年12月12日の入院以降に賢人各位から頂いていた励ましのメールを勝手にコピーし、到着順に並べました。年末の外泊許可までに頂いていたメールには個別のご返信が心ならずも出来ず、失礼を致しました。

一昨年の3月1日にインターネットが使えるようになって以来、初めてメールを頂いた方すら、今回のメールには含まれています。私は今まで年賀状や同窓会の名簿などで知った方々のメールアドレスは、勝手に私のアドレス帳に登録し、一方的に折々の話題に関するメールを16グループ200人余に発信していました。

その結果、テーマにもよりますが、5〜15%の方々からは様々なご返信を頂き、メールを介したお付き合いが始まりました。ほんの若干名(数名)の方々からは、回線スピードが遅いからなどの理由で、アドレスの削除の申し出を頂きました。

過去の実績では約半数の方々からは返信もなく、きっと私が発信したメールをお読みになることも無く、はた迷惑なと感じられながら削除されていたものと推定していましたが、今回その推定が間違っていたことに気付きました。

多くの方々は、我が拙いメールをお読みになっていたのでした。その習慣があったからこそ、今回の入院にもお気付きになり、多くの励ましのお言葉を頂いたのだと理解できました。年初に当たり賢人各位に重ねておん礼を申し上げると共に、本年最初の挑戦ともなる『食道がんとの闘い』に、全力を尽くす覚悟でございます。心かからの励ましのメール、誠に有難うございました。

賢人各位を初め、ご家族の皆様のご多幸を心から祈念申し上げます。


平成15年1月5日

胃がん治療の中間報告

明けましておめでとうございます。

本日、再入院し明日からは食道がんの診察・検査・治療が始まります。通院可能か否かは、食道がんの主治医の判断待ちです。通院可能ならば胃がん手術での退院は1/8です。入院期間中はパソコンも使えず、新聞とイヤホーンによるテレビだけの退屈な日々です。

胃がんの手術では、平均10%の体重減があるそうですが、私は胃を含めて、僅か2kg減に収まりました。小さくなった胃には一度に大量の食事は出来ず、羊のように一日中少しずつおやつを食べても、カロリー不足は明白でした。

その対策として、売店で板チョコ(70gで389Kカロリー)を買い、毎日2〜3枚食べました。小体積・高カロリー食品は便利な存在でした。

本日、賢人各位からの励ましのメールを改めて全部拝読しました。量は質に変わるとの言葉がありますが、読み終わったときに、家中に響く大歓声の励ましに出会った感じが勃発しました。

勇気百倍、完治するものと確信しています。暖かくなったら、ゴルフ・テニス・海外旅行へと、飛び出していけると信じながら。。。

賢人各位及びご家族の皆様のご多幸を祈念しつつ。。。。


平成15年1月23日

油断、腸閉塞で緊急入院

1/8に退院してひと安心し、1/9には自宅までお見舞いにきてくれたゴルフ仲間達と旧交を暖めたり、年賀状・新聞雑誌・郵便物などの整理をしていたら、原因不明のまま、徐々に体調が悪化。1/10 には食欲が急減し、1/11夕方から嘔吐が頻発。とうとう動けなくなり、21:00救急車を呼んだ。

近くの加茂病院は満員で受け入れを拒否。豊田地域医療センターは救急隊員が拒否。愛知県がんセンターは遠すぎるので、取りあえず受け入れOKの、トヨタ記念病院に荊妻と一緒に到着。

心臓外科医はニトロを舌下に噴射したりした後、心臓や循環系の病気ではないと結論。内科医はレントゲン撮影、CT撮影、鼻管の胃への挿入、鎮痛剤の注射、水分補給を兼ねた点滴を処置。

一向に痛みは減ら無いまま、時間だけが過ぎた。内科医は、胃の縫合部分が腫れているかもしれないとか、腹膜炎かもしれないとか、腸の動きが弱いとか、腸閉塞かもしれないとか、思いつく病名を並べるだけで、診断に迷った挙句、二日間絶食して様子を見ましょう、腸閉塞ならば手術が必要になるでしょう、と気楽な発言。

痛みで一晩眠れず、翌朝転院を提案。内科医はしぶしぶ承知し、愛知県がんセンター宛ての書類を作成した。幸い長男の独身寮は病院の隣だった。朝9:00に長男の車に荊妻と共に乗り込み、自宅へ立ち寄り、入院に必要な身の回り品を詰め込み、愛知県がんセンターへ直行。

日曜日であったにも拘らず主治医(山村先生)と助手の外科医(研修医)が駆けつけてくれた。主治医は、一通りの再検査結果とトヨタ記念病院から受け継いだ諸資料を点検した後、原因は分からないが軽い膵炎及び腸閉塞と診断。

加藤副院長(専門は大腸癌 )は、腸閉塞は手術後、どんなに注意していても発症するときは発症するが、手術の必要性はまずないと診断。胃がん手術前に知り合った同病室者3人のうちの2人 も、大腸がんの手術退院後、一週間以内に腸閉塞を患い、退院直後が一番危ないと言っていた。絶食、膵炎の治療薬の点滴、鎮痛剤の点滴、水分補給の点滴などを続けた結果、一日で痛みは急減。

爾来徐々に食事を再開し、体力も回復したので、やっと1/18に退院。その間、1/14より連日食道がんの放射線照射治療を継続。一日に浴びる放射線の量は、定期検診で受ける胸部レントゲン撮影の6万倍(2グレイ)。約8週間で終わる予定。社会復帰は早くても4月1日。今日までの治療費は約40万円。

私は1/8の退院時に主治医と看護師から何度も『早食いと食べすぎは厳禁。体重の減少は気にするな』との注意を受けていたにも拘らず、もう元気になったのだからと、注意事項を守らなかったのが真因ではないかと、臍(ほぞ)をかんでいる。

追伸

昨日(1/20)から食道がんの治療のために通院しています。放射線の照射時間は1分ですが、往復を含む総所要時間は100倍以上の3時間も掛かります。副作用は未だ出ていませんが、2 週間経つと人によっては色んな症状が現われるとか。じっと我慢の日々です。


平成15年1月23日

通院による放射線治療

1/20から片道22kmの通院を始めました。トヨタに就職して職場は何度か変わったものの、最長通勤距離は7km。今回はその3倍。定年退職後4年余が過ぎて体もなまった今、しかも闘病中の身の私には名古屋市内の渋滞と、豊田市民(合流点では交互に進入する等)に比べての運転マナーの悪さには些かうんざりしています。しかし、がんセンターの有料駐車場(当日治療費を支払った者は無料)は回転が速く、何時も何処かに駐車スペースが見つかり、この点ではホッとしています。

元々今回発見された食道がんには自覚症状も無かったため、放射線治療で快方に向かっているのか、否かも知覚できず、励みがありません。既に8回の照射を受けてはいますが、幸い副作用もまだ現われてはいません。

今回の放射線治療では累積被爆放射線量の上限まで受ける予定です。放射線治療部長は開口一番『貴方はラッキーでした。胃がんの精密検査で初期の食道がんが見つかったのですから』と言ったので『完治しますか』と聞くと『癌の治療に完治率100%という世界はありません。私の経験では80%です』と答えました。

昨年11/28に胃がんの告知を受けて以来、私の生き甲斐であったゴルフ・テニス・国内外旅行は総て中断しました。12/12の温泉でのゴルフ仲間との忘年会、近畿日本ツーリストに予約済みだった8万トンの豪華客船による『カリブ海クルーズ1/22〜28』、ドイツにいる長女が手配した『欧州旅行(独・仏・オーストリー・モナコ)2/10〜3/10』も儚い夢に終わりました。

今では社会との接点は病院の関係者だけ、と言う閉ざされた世界の住人になり、息が詰まりそうです。そんなときに第二の生き甲斐に浮上してきたのが、賢人各位とのメール交換でした。入院中は印刷したメールを持参し、繰り返し読みながら自らを鼓舞致しました。文字通り『家書、万金に値する』と体験しました。

1/5に再入院して以来、多くの方々から拝受したメールへの遅まきながらの返信も本日でつつがなく完了しました。その間に返信忘れがあれば、謹んでお詫びいたします。

賢人各位への感謝の気持ちから、1/5以降に頂いたメールを何時ものように到着順にコピーして添付させて頂きました。尚、メールの書式は千差万別なので、読みやすくするために統一し、気が付いた範囲内での誤字脱字変換ミス等は、恐縮ですが勝手に修正させていただきました。

メールを最初から最後まで改めて読み返すと、そこには二つとして同じものはありませんでした。賢人各位の今までの人生体験をベースとして、愛に満ちた言葉が溢れ出ています。私はこんなにも多くの方々から励まされているのだと気が付くと、心底からの感謝の気持ちが改めて滲み出てきました。

多くのご返信、誠に有難うございました。


平成15年2月27日

ああ、助けられた!


立春も過ぎた頃、体調も回復したので気合を入れて年賀状を書き上げ、本年拝受した年賀状の発信者全員に返信しました。住所録を注意深く更新したつもりでしたが、一名だけ宛先不明で舞い戻りました。ここ数年、住所変更ラッシュが続いています。

このメールを送付した多くの方々には本物の年賀状とダブって恐縮ですが、本年の年賀状を含む過去の年賀状を添付致しました。

がんその後

[1]体調悪化

1/14から月〜金まで連日、食道がんのための放射線治療を受け続けていたところ、嘔吐感・食欲不振・疲れなどの副作用が徐々に強まり、とうとう

2/6,15:00〜24:00
2/8,6:00〜24:00
2/9,18:00〜2/10,6:00

にかけて、連続して嘔吐。嘔吐は20〜30分間隔で発生し、吐くものは消化液と唾液だけになりました。食事も水分補給も出来ず、胸と腹が痛み、息を吸っても吐いても苦しくなり、その間は一睡も出来ない状態が続きました。その結果、毎日1kgの体重減少が続きました。

2/10、朝6時に急に嘔吐が止まったので、入浴。洗い場から湯船に戻ろうとしたその瞬間、脳貧血が起きたのか失神。両眼を結ぶ線の顔面を鋳物ホーローの浴槽の縁に強打。鼻の上部とその真上の額下部から出血。その後頭頸部をお湯の中に突っ込みました。

異常音を聞きつけた荊妻が駆けつけ、背部から抱き上げた瞬間に覚醒。起き上がって周辺を見回すと、あちこちに血が飛び散っていました。鏡を見ると強打部からは血がダラダラ。

これは危ないと直感し、愛知県がんセンターに緊急入院の手配をし、出発間際に、メールで賢人各位に入院との連絡を発信しました。それは、刻々と入るかもしれないメールへの返信が当分出来なくなるとの予告を意味するものでした。しかし、現在の18グループ約250名への発信は、最初の数グループまでで終わりました。力尽きたのでした。

荊妻の運転でがんセンターに着き、車から降りて歩こうとしたら、膝がふらふらとして立てず、暫く座り込み、やっとの思いで歩き始め、受付に到着。荷物は一つも運べず、体力の下限値を実感しました。

[2]体力回復

病室に到着するや否や点滴を開始。ブドウ糖を含む普通の点滴薬と並行して嘔吐止めの点滴、痛み止めの点滴も実施。X線撮影と聴診器による診断の結果、腸閉塞ではないが、腸の動きが悪いと判断され、腸の動きを良くする飲み薬を毎食後服用することになりました。

しかし、2/11,14:30〜2/12,2:00にかけて、嘔吐と胸・腹痛が再発。痛み止めの点滴薬二種類を試したが効果なく、生まれて初めての座薬も効果なく、ただひたすら、嘔吐が収まるのを待ちました。このときが最悪の状態でしたが、病院内だったので安心していました。

口からは何にも入らなくとも、点滴では自動的に栄養分と水分が補給できることは、大変役に立ち、脱水症状直前の状態から徐々に回復。ホッとひと安心しました。

医師の解説では、放射線だけでは副作用はこんなに酷くはならないが、胃がんの手術後、消化器系が十分には回復していないことによる基礎体力の低下が主因と考えられる、とのことでした。

[3]放射線治療の中間点検

2/14、治療開始から1ケ月経過日に内視鏡で食道を30分にわたり検査。今回は内視鏡操作の医師に加えて、食道がんの主治医(放射線治療部長)も立ち会って検査。ルゴール染色法(癌細胞を見つけ易い)も、勿論使いました。

医師2人の結論は『目視の範囲内では、癌は消滅している。確認のために生検(細胞検査)をしましょう。結果が2/21に出るので、2/24の月曜日に今後の治療方針を相談しましょう。それまではこれまでの計画通り、放射線治療を継続しましょう』

水分補給が続いた結果、体重も2kg回復し、嘔吐感もなくなったので主治医と相談の結果、本日2/19退院。明日、25回目の放射線治療を受けた後は2/24までは治療は中断。

荊妻からのメールに驚いた福岡県在住の兄と弟が、2/17に様子見に駆けつけてくれたものの、すっかり良くなっていたので拍子抜け。数日間泊まって行くようにと提案したものの、2/18には帰ってしまった。大変役立っていた点滴も、2/18の午前中で停止。奴隷解放の気分を満喫。

私の癌に対する解釈は火事に似ていると言うものです。早期発見・早期治療は初期消火が重要と似ているだけではありません。完全に消化しないと火事が復活するように、癌も最後の詰めを完璧にしなければ、再発するという性質が似ていると言う点にもあります。

今は只ホッと、ひと安心しています。賢人各位から受信している膨大な数のメールへの返信は、週末にかけて個々にご返信させていただきます。以上、近況報告まで。

賢人各位からの、度重なる励ましのメール、謹んでおん礼申し上げます。


平成15年2月27日

腔内放射線治療

その後も賢人各位からの励ましやら、お祝いのメールを多数賜り、それらを読むたびに元気が出てきて、自然治癒力が増してきたように感じています。有難うございました。

蛇足ですが、癌の治療では完治と言う言葉の代わりに『寛解』を使っています。最新の医療技術でも、がん細胞が1億個(0.1グラム)以上集まらないと、検出出来ず、一見完治しているようであっても、小さな転移は発見できないから、寛解を使っていると解釈しています。賢人各位へのおん礼を兼ねて、以下に現状をご報告させていただき、お送り頂いた メールを何時ものように編集し添付致しました。有難うございました。

1/14より食道がんの治療開始。2/14に中間検査。2人の医師は内視鏡を見ながら『目視では癌は消滅しているが、一部に癌か放射線による炎症か不明な部分があるから生検で調べましょう』と言った。

指定日の2/24に主治医を尋ねると『がん細胞が見つかりました。今後は当初からの予定通り、腔内からピンポイントでイリジウムを照射しましょう。一週間おきに合計4回です』

我が主治医は2月中旬には舌癌への動注法(直ぐ近くの動脈に抗がん剤を注入するための特殊用具を開発 し、後遺症が残る癌部切除に匹敵する成果をあげた)を発表し、朝日・中日など主力紙の中部版に大きく報道された実力者だ。安心して治療法はお任せしている。

2/26,14:30〜16:10の間、2人の医師、2人の技師、2人の看護師が連携しながら付き切りで操作。医師は通常、午前中は患者の診察をしているため、この機械を使うのは午後。

腔内照射とは柔らかくて透明なチュウブを食道内に挿入し、固定し、チュウブの内部に線源を挿入し、5mm刻みで線源を移動させながら照射する方法である。合計の放射線量は3グレイ。今までの体外からの放射線は一回に付き2グレイだったので線量は5割増だが、癌部に直接照射するので効果は高いと期待している。主治医によれば、体外からの照射に換算すると5グレイに匹敵するそうだ。

透明なチュウブは三重構造になっていて、最外側には蒸留水を、中間層にはX線用の造影剤を、中心部には放射線の線源が挿入される。チュウブを食道に挿入しやすくするために予め蒸留水と造影剤は半分くらい入れてあった。私の癌部は全長10cmくらいだが、チュウブの長さは20cmくらいあった。患者ごとに専用チュウブを用意し治療が終われば廃棄される。

このチュウブを内視鏡と同じ要領で食道に挿入し、蒸留水と造影剤を注射器を使って補充し、チュウブをぴったりと食道に内接させた。その後、予め内視鏡で癌部の上下端にホッチキスで止めてあった金属片を目印に、X線で透視し、モニターを見ながらチュウブの位置決めをして固定した。

位置決めが完了したら、挿入したチュウブに口元の位置をマークした。2回目からの位置決めに便なためである。チュウブを挿入すると、嘔吐したくとも出口が無いし、唾液を飲み込もうとしても飲み込めず、反射運動としてのしゃくりが出ても何も出てこない状態になった。痛くはないが言語では表現困難な不快感・苦しみが発生。呼吸もやや困難になるために、鼻の穴の位置に酸素供給用のチュウブを2本固定した。口に近い部分の食道内に溜まった唾液は看護師が時々吸引して除去。

チュウブが固定されたら、X線撮影して現像し、挿入位置の最終確認をした。その後、照射条件を決めるためなのか、今から計算をすると称して30分も待たされた。途中で計算をやり直したとのこと。主治医にどんな計算なのか質問したが、『知りません』。中身を知らずにマニュアルどおりに計算されるだけでは不安だ。

結局、準備に1時間15分もかかり、その間、ひたすらじっと苦痛に耐え続けた。照射時間は1箇所10秒弱、40箇所の合計でも10分弱。やっと放免された時にはふらふら。用心のために今回は帰路、荊妻が運転。

食道が多少は傷つけられているのか違和感も強いので、夕食はおかゆ中心の離乳食レベルをほんの少し。主治医の指示に従い、水分を大量に摂取。副作用は一日経った今、特に自覚するほどのものは発生していない。順調に治療が進めば3/18が最終日になるのだが。。。

去る2/19、トヨタ同期の仲間の奥様が食道がんで亡くなられた。昨年6月に定期検診で食道がんが発見され、8月に名古屋大学付属病院で手術されたがその後、約半年でなくなられた。ご冥福をお祈りします。食道がんの寛解は難しそうだ。


平成15年3月20日

放射線治療は終了、しかし。。

去る3/18(火)で、予定していた放射線治療は終了しました。体外からの放射は25回、腔内放射は当初の3回計画が変更されて4回になりました。去る2/14の中間検査でがん細胞が発見されたので、1回追加されたのではと推定。

最終回はがん細胞が発見された原発部位に限定して集中照射をしました。照射密度が数倍に上昇したためか、副作用が発生。治療完了後30分経過したころから嘔吐を開始。

病院からの帰路、路肩に停車し嘔吐を3回、帰宅後も嘔吐は合計12時間続きました。食欲も消えうせ2日間は絶食。脱水防止のためスポーツドリンクで水分は補給。今朝、体調はやっと何時ものレベルに回復。

3/18までで放射線の被曝許容限界値に達しているため、寛解していなくとも、放射線治療の追加はありません。残された治療法は、抗がん剤の点滴。それでも駄目ならば手術です。

食道がんは大手術になります。同室者で69歳の患者は手術を選択。同氏は定年後他の病気で6回も大手術を受け、70歳まで元気なら人生は満足と達観していました。11時間の手術に耐えたものの、術後は集中治療室と個室とを行ったり来たり。最悪事には体に点滴他のチュウブが14本。でも3/18には大部屋に移動(本人はいなくて会えなかった )していたから、快癒に向かっているのだと推定。

治療効果の判定は直ぐには出来ず、4週間待ちです。食道内部に発生している炎症が治癒するのを待ち、4/17に内視鏡で観察後、何時ものように生検。最終判断は4/25になります。

インターネットを覗くと、食道がんの放射線治療法には大別して二通りありました。国立がんセンターの方法は、体外照射と抗がん剤の併用。京都大学の放射線治療グループは、体外照射と腔内照射、つまり今回の私の受けた治療法と同じ。どちらかといえば前者は末期がん、後者は初期癌で成果をあげています。

私は主治医に抗がん剤の併用の是非を質問したら、初期癌だし副作用も考慮すると、当面抗がん剤の投与は止めましょうとの判断でした。

当面はノンビリ自宅で静養し、来月からは少しずつスポーツを再開しようと思っています。テニスは半分の3セット、ゴルフはハーフラウンドを当面の目標にしながら。兎に角、何か前向きの目標を設定し、無理せず、少しずつ行動を開始したいと思っています。


平成15年4月18日

最終治療後の経過観察

[1] 4/17(木)の検診

   4/17の検診内容については、私は全く誤解していた。3/18の放射線の最終治療が終わった時に主治医が『次回の検診は4/17にします。放射線治療により食道内には軽い炎症が発生しています。その炎症が自然治癒するまで待たないと、炎症なのか癌なのか判別がつかないからです。そのためには1ヶ月必要です』と言った。

   当日の治療で私はふらふらになった上に、アプリケータ(放射線の線源を挿入するために、食道内に嵌め込むチューブ)で声帯も擦れて声も出なくなり、確認の質問も出来ない状態だった。医師は何時も次回の検診についてしか説明しなかった。刻々事情が変わることもあり、長期治療・経過観察計画を提示することには元々無理な面があるからだ。

   情報不足は想像で補っていた。炎症が治まった後、寛解しているか否かの判断は内視鏡で観察後、細胞を採取し生検に回すものと思い込んでしまったのだ。

   4/17には主治医による問診、食道の周辺のリンパ節への転移の有無を調べるための触診、今後の経過観察計画の提案があった。リンパ節への転移は触診では見つからなかった。

   賢人各位に朗報を報告できるのではないかと、密かに期待していたのに、それも出来ずがっかり。

[2] 3/18(放射線最終治療日)〜4/16
   
   胃がんの疑いが持たれて以来、何か変化があるたびにメール発信をしていたものの、最終治療で受けた肉体的なダメージは過去最大に達し、経過を報告する気力も失われていました。また何人かの賢人からは、『膨大なメールを編集して報告したり、個々のメールに律儀に返事を書くほどのことはないよ、暫くはゆっくり休養したら』との助言も得ていました。
   
   ところが自宅でノンビリ静養していたら、一部のメール仲間から『病状報告が来なくなったけれど、悪化したのではないか』との問い合わせが頻々。以下に社会復帰を目指しての、その後の経緯を纏めて報告します。
   
@ 3/18〜3/25
   腔内放射治療は肉体への打撃が大きくなるため、一週間に一回の頻度に設定されていた。治療直後には歩くのもやっとと言うほどに疲れるので、毎回帰路は荊妻が運転した。しかし、最終回は所用で荊妻は不在。主治医が『奥さんは、今日はどうされたの?』『疲れが取れるまで病院内の休憩所で休んでから帰ります。車の運転は大丈夫ですよ』

   看護師は『治療終了後は治療室前の順番待ちのイスで、最低15分間は休憩するように』と指示。その後、かって知ったる病棟内の談話室に何とか移動。歩くのすら大変だった。応接セットの長椅子を並べてベッドにして寝そべった。途中、嘔吐感に襲われたので洗面所に出掛けて嘔吐。舞い戻ってはまた椅子に寝た。夕刻だったので談話室には幸い患者も見舞い客もいなかった。

   1時間経過後、小康状態になったので帰宅を決意。運転中に突然嘔吐に襲われると危険なので、後続車の警笛は無視して超低速運転、かつ膝の上にはバスタオル。嘔吐といっても胃は空っぽなので消化液が少し出るだけ。車内を汚すほどの量は無い。

   片側1車線の狭い道での運転には細心の注意を払った。人や自転車も多く、事故が起きやすいからだ。時々発生する嘔吐感はぐっと堪(こら)えた。7Km地点に来た時、大きな公園の駐車場に退避。車から降りた途端、安心感からか大きく嘔吐。ここの駐車場で30分休憩。

   やがて豊田・名古屋間の153号線のバイパスに出た。この道は片側2車線に加えて路肩も広い。万一の場合には路肩に駐車しても追突される心配は無い。嘔吐感が発生した時は大交差点まで我慢した。1分間の赤信号での停車中に車外で嘔吐する時間も確保できた。帰宅した途端、又もや嘔吐。しかし、事故を起こさずに帰れたことを喜んだ。

   この日は12時間嘔吐が続いた。これが最後の連続嘔吐だった。2日間は絶食した。脱水防止のためにスポーツドリンクをがぶ飲みした。何時の間にか、嘔吐対策にも習熟していた。この日から1週間は副作用のためか、疲労困憊、食欲不振は続いた。特に嗜好の変化には驚いた。かつて納豆とイカの塩から以外は何でも美味しく食べられたのに、大抵の料理は匂いを嗅ぐだけで嘔吐感が出るほどだった。

   刺身は見た途端に捨てたくなるのに、握りずしは不思議と食べられた。牛乳は飲めなくなった。ご飯はお茶漬けにしてやっと少し食べた。シジミかアサリを入れると味噌汁は飲めた。ラーメン・うどん・そばは、どれも喉を通らない。辛子明太子と一緒ならば、ご飯も少し食べられた。白身の煮魚も無理なく食べられた。妊婦のつわりとは中身は違うものの、食べられるものが少なくなると、心身共に落込んできた。

   主治医にメール(今までに放射線治療部長の主治医には17回メールで質問していた。全問、即日回答があった)で質問した。『術後の嘔吐や食欲不振は放射線治療の副作用ですか?』『放射線治療の副作用はそれほど強くはありません。あっても徐々に軽くなります。最大の原因はアブリケータを挿入したことにより発生した異物感です』

   アプリケータを抜き去っても、食道内にまだ存在しているような感覚は確かに強く残っていた。一種の残留応力みたいに感じられた。その時感じた異物を反射的に吐き出そうとして、嘔吐感が発生するとの説明には納得性があった。足を切断した人が、無いはずの指が痒いとか、痛いとかいうのと似た錯覚現象なのだろうか?
  
   ともあれ、この1週間は正に無気力状態で、ぼんやりと時の流れに身を任せた。新聞・雑誌・書物を読みたいとの関心も消滅していた。テレビもニュースを少し見るだけだった。4ヶ月間手入れをしていなかった家庭菜園は原野に戻り、庭の芝生も草だらけ。しかし、手入れをする意欲は全く湧かなかった。最悪の1週間だった。しかし、翌週からは徐々に体調が回復すると共に食欲も戻り始め、ホッとした。

A 3/30。長女の婿の日本出張歓迎会

   トヨタ自動車は昨年からF1に参戦。F1用の自動車を開発すべくケルンに設立された会社に出向している長女の婿が出張で帰国。こういう場合には私費で一緒に帰国していた長女と孫達は、療養中の私の疲労を心配して残留。次女一家と長男を呼び寄せて、ささやかな歓迎会を実施。

   北海道から5Kg、最大級の活タラバガニを航空便で取り寄せ刺身で初めて食べた。蟹の刺身は伊勢海老の刺身にそっくりの味がした。我が食欲も戻っていたのだ。久しぶりにビールを飲んだ。
   
   そのときである。僅かコップ2杯でダウン。4ヶ月間の連続禁酒の結果、独身時代の酒の弱さに回帰していた。結婚後、冷蔵庫がある生活を始めて以来、毎日ビールを飲んでいたら、見かけ上ビールに強くなり、何時の間にか大瓶2本でも物足りなくなっていた。

  手元の『別冊NHKきょうの健康 がんの情報、がんの治療』平成14年10月20日初版発行の、食道がん(国立がんセンター東病院消化器内科医長大津敦医師執筆)の解説の中にあるコラムで次の記事を発見。

****************************************

酒に弱い人は食道がんのリスクが高い?

   アルコールは、体に入ると『アセトアルデヒド』という、発がん性のある物質に分解されます。アセトアルデヒドは更に、『アセトアルデヒド脱水酵素』により分解されて無害になります。この酵素の活性度は、遺伝子によって異なります。

   酒に強い人は活性度が高く、アセトアルデヒドはスムースに分解されます。活性度が非常に低い人は、もともと飲めないタイプです。中間の人は、酒に弱いのですが、飲もうと思えば飲めると言うタイプです。

   この中間のタイプの人が、毎日酒を飲んでいると、アセトアルデヒドが体内に滞留しやすく、食道がんのリスクが高くなることが分かっています。飲酒は控えめにした方が良いでしょう。

****************************************

   B 4/1。トヨタへの大学後輩新入社員への歓迎会

   同窓会幹事からOBとしての出欠を問い合わせてきた。我が病状を案じてくれていた同窓生からは、直接会って状況を確認したいから出席するようにと催促されていた。幹事へは体調が良ければ出席と返信。3/30の体調から大丈夫だと判断し、出席と直前に回答。立食パーティだから、出席者の10%くらいの増減は誤差の内だが、メールは便利。直ちに確認の返信が戻った。

   この日、4ヶ月振りに正装すべくカッターシャツを着た。今は無き『豊田そごう』にオーダーメードしたまま、着る機会が無かった1万円のシャツだ。ネクタイを締めた瞬間、首が細くなっているのに気付いた。直径が何と『2ミリメートル』も小さくなっていたのだ。痩せる時は、首まで痩せるのだ。

   当日は34名(内女性総合職が6名)の新人が全員出席した。昨年比1名増である。途中無理矢理挨拶をさせられた。『昨年12月以来、胃がんと食道がんの治療中です。皆さんにお別れの挨拶にきました。来年もまたお会いできれば、これ以上の歓びはありません。』その後、何人もの後輩から『実は、父が、母が癌で亡くなりました』と声を掛けられたので『皆さんのご両親の命も頂けるべく、闘病に頑張ります。来年もまたお会いしましょう』

   約2時間、体が持つか大変心配した。1.5時間経過時点で視界の色彩が変わった。何となく薄いオレンジ色のカーテンが掛かったようだった。心配になり、壁面に用意してあった椅子で休憩。その間、ビールをコップに二杯、サーモンの燻製一皿、握りずし一皿、蕎麦小椀に一杯。食欲は半分だった。でも、何とか倒れずにすんだ。

   帰宅直後の入浴時に奇妙な体験をした。首・肩・腕が大変硬く重く感じられた。首の場合は頭の重量が2倍になったかのように感じた。理由は全く分からない。長期間、寝たり起きたりの静養生活をした結果、鉛直(上下)方向の血行不良を起こした結果なのだろうか?翌朝も何となく肩が凝ったように感じたが、自然に消滅した。   

C 4/6。ゴルフ

   体が何処まで回復しているか、使ってみなければ分からない。ある友人は『頭で認識する問題だ』と喝破したが、認識方法があるのか無いのか、私には皆目分からない。

   スタート前、ロイヤルカントリーのキャディマスター(取締役現場責任者)に『一応ハーフラウンドを目標にしていますが、途中でダウンしたら車で迎えにきてください』『過去にも頼まれたことがあります。予兆があるそうです。無理をせずに、早めにご連絡ください。最後まで頑張られた人がいて、大変困ったこともあります』

   ワンホール終わった。目標の1/9までやれたと喜んだ。3ホール終わった時には後2/3だ、とまた喜んだ。9ホール終わった時に、これならば後半も出来る、と確信した。ワンラウンド終えたとき、向こう脛に若干の痛みを感じたが、他に何も異常は感じなかった。ドライバーの飛距離が落ちるかと心配したが、以前と大して変わらなかったし、ライバルにも半分は勝てた。スコアは二の次だったが、まあまあの出来と自画自賛。

   4/11にもゴルフをしたが、もう何の支障も感じなかった。着実に体力は回復していたのだ。

D 4/12。テニス

   テニスはゴルフよりも運動密度が高い。4/2,5と予定していたテニスは雨で中止。4/12の予報は曇りまたは小雨。仲間5人と小雨の中で決行。4人がプレー中に残りの一人がプレーの隙を狙っては水掻き。

   私にとって、テニスに耐えられるか否かが最大関心事だった。真冬と違い多少ぬれても風邪の心配は無い。目標は何時もの半分の3セットだった。しかし、何の支障も感じることなくプレーできた。残念なことに4セット完了時点で、本降りになったのでプレーを諦めた。

   テニスクラブのサウナも関門だった。脱水症の後、全身こむら返りを起こして救急車を呼んだことも何度かあるからだ。しかし、今回はプレー中に汗を流すほどの暑さも無く、無事にサウナも通過。我が社会復帰試験は全部合格。万歳!

   明日(4/19)のテニスは久しぶりに好天。今から楽しみだ。

[3] 当面の経過観察予定

@ 内視鏡検査(5/16)

   主治医は
   
『一ヵ月後に内視鏡検査をしましょう。前回と同じ消化器内科医の澤木さんに頼みましょう』
   『生検はありませんか?』
『必要と判断された時には、生検をします。前回の2/14は癌は殆ど消えていたが、一部に癌か炎症か区別がつかないところがあったため、生検をしました』

   澤木医師の勤務予定表を見ながら5/16,9:30〜10:00の予約をパソコンに入力。その後11:00に私の検診予定をご自分の予定表に入力。時間差があるのは、その間に内視鏡の写真を現像するためである。

A CT検査(6/19)

   『造影剤と組み合わせたCT検査をしましょう。』と言って、6/19,14:00を予約した。

  BPET

『夏になったらPETで検査をしましょう。』
『所で、放射線治療の効果は、先生が最初に想定されていた通りでしょうか?』
『その通りです』
『次回の検査まで、自宅では何をすればよいのでしょうか』
『何もありません。人生をエンジョイしていて下さい』

   帰宅後、インターネットでPETについて検索したら、13200件もの記事が出てきた。その代表的なホームページのアドレスを下記に添付した。
http://www.atom.meti.go.jp/medis/02/02_1.html

   PETは1994年から日本でも使用開始。全国ではまだ数十箇所の医療機関にしか導入されていない。一部の癌の発見には難しい点もあるが、転移も含めて全身の癌が一度に発見できる能力は画期的である。更に、死滅した癌の残骸とまだ残っている病巣を区別できるため、治療効果の判定にも有効。
   
   早速、夕方主治医にメールで、PETの検査をなるべく早く実施して欲しいと頼んだら、即日『次回、来院の折に予約します』との回答が来た。
   
[4] 自己管理
   
   我が大学の級友が食道がんに罹った後の貴重な体験情報をメールで提供してくれた。氏は手術後、プロポリスを服用し、毎日もずくを食べているそうである。
   
@ プロポリス

   インターネットでプロポリス・アガリクス・メシマコブの情報を集めた。プロポリスには2000年もの歴史があり、西洋でも人気がある。ドイツやロシアでは医薬品扱いだ。次女が5年前に新婚旅行のお土産にオーストラリアから買ってきていたのを取り出して、飲み始めた。薬効を期待するよりも、気休め優先だ。
   
   アガリクスとメシマコブは、これを服用したがん患者は皆完治していると宣伝している。こんなばかげたことはあり得ないので、無視した。飲んでも死んだ人が無数にいるはずなのに、そのことに一切触れない宣伝方法に幼児性以上の愚かさを感じるのだ。
   
A もずく

   もずくは昆布・若芽・ひじきと並ぶ良く知られた海藻である。海藻・血液・点滴・スポーツドリンクのミネラル成分は大変似ている。生命が海から発生したとの説を信じる限り、それらが似ているのは極自然である。人体が必要としているミネラルを継続的に摂取するために、私も健康食品としてもずくを食べることにした。
   
   インターネットから得た、もずくに関する宣伝文句を以下にコピーした。

****************************************

   美容と健康はきっても切れない間柄。特に女性にはとってもやさしい効果があります。
   
   野菜や果物は見た目にも美しく、食べて甘いので人気がありますが、もずくは美容と健康をつくる最優秀選手と言っても過言ではありません。もずくには、フコイダンという多糖類の仲間がはいっています。フコイダンは食物繊維の性質を持っていて、腸のお掃除をし、腸の中にいる善玉菌をパワーアップさせてくれます。
   
   人間の体の内部はアルカリ性、外側の肌の部分は弱酸性であるのが正常な状態。 それは酸の刺激によって空気中の病原菌から身を守っている為です。病原菌が、口から体内へ侵入し、 食道→胃→腸というふうに、最終的には腸に停滞。この時、腸は酸で外敵の病原菌などに対抗するのです。つまり、腸の中も肌と同じ酸性というわけです。食生活や生活習慣・ストレスが本来酸性であるべき腸を、アルカリ性に変えてしまい、病原菌が増加。このことが原因となり様々な病気へと発展してしまいます。
   
   もずくの効能
   
@ ガン細胞に攻撃し、ガン細胞をやっつける。
A 胃潰瘍の原因であるピロリ菌から胃を守り、胃潰瘍を予防し、また、胃潰瘍になった胃を治すのを助ける役割もあります。特に、お酒の飲み過ぎによる急性胃潰瘍などの治癒促進に効果があると言われています。
   B O−157の予防に効果的。
   Cどろどろ血を改善し、動脈硬化の予防になる。
   D善玉コレステロールを増やし、悪玉コレステロールを減らしてくれる。
   E活性酸素による体のさび化(老化)を防いでくれる。
   Fアレルギーなどの症状を緩和してくれる。
   
   健康な体づくりのために毎日食べたい、海藻&酢のもの
   
    海藻の主成分は,糖質,タンパク質,ミネラルなど。現代人に不足がちなカルシウムも含まれています。食物繊維も多く,これはコレステロールを低下させる働きや、食塩を排泄する作用もあり,最近では子供にも見られるようになった、生活習慣病の予防にも効果がるといわれています。
   
   元気な骨を作る「もずく」のカルシウム
   
   海藻にいちばん多く含まれている「活性アミノ酸カルシウム」は、体内で大変よく吸収されるカルシウムです。また、骨からカルシウムが溶け出すのを抑制し、新しい骨の形成を助け、ホルモンの分泌をよくする働きもあるといわれています。
   
   血液をサラサラにして、腫瘍を予防する「もずく」
   
   もずくに含まれるアルギン酸やフコイダンなどの多糖類には、血液をサラサラにし、胃潰瘍や腫瘍を予防する作用があるのです。肉などの酸性の食品を多用する現代の食生活。もずくなどの海藻や野菜をたっぷり摂って、バランスのよい食事に心がけたいものです。
   
   「もずく」にO−157に対する抗菌作用
   
   もずくにはO-157に対する抗菌性があるといわれています。
   
   浜 買
   ↓
   一次加工(塩もずく1斗缶)
   ↓
   二次加工(洗いもずく・自社加工場にて)
   ↓
   販 売
   
****************************************
   
   もずくはのりと同じように人工栽培されている。大産地は沖縄。そこで塩蔵もずくを現地の漁業組合から一斗缶(18Kg)で直接買った。冷蔵庫で半年、冷凍庫で一年持つそうだ。毎日100グラムずつ食べると半年分だが、序に荊妻も食べ始めたので3ヶ月後に再発注の予定。
   
[5]蛇足
   
@ がんの告知

   ここ十年の間に医者が癌を患者に告知するか、否かの問題への対応が激変した。現在では、患者に癌は100%近く告知されている。愛知県がんセンターで出会った患者で自分の病名を知らなかった人は一人もいなかった。何時この変化が起きたのだろうか?20年前の本では、癌関係の医師へのアンケートでは『患者に告知しない』が圧倒的に多かった。

   A癌の治療方法
   
   私の手元には、現在、10年前、20年前、30年前の癌に関する本が何時の間にか蓄積されていた。各本に書いてある治療方法は殆ど同じだ。癌部の切除・放射線照射・抗がん剤の投与である。この間に得られた医学の進歩は治療方法の改革にまでは達していないようだ。その結果、癌の進行度を同じにした場合の5年後生存率の改善は無いも同然だ。
   
B 癌の早期発見

   現在、特殊な例外を除けば、がん細胞が最低1億個(0.1g)集まっていないと、検査機器で癌を検出することは出来ない。従って、ガン年齢に達している健康な人に対し『貴方はがんに罹ってはいません』と断言できる検査法は存在しない。

   同じ理由から、一見癌が治っているように見えても『貴方の体にはがん細胞は現在ありません』と断言することも出来ない。

   しかし、ここ20年の間に癌の先進検査機器は画期的に普及してきた。CT・MRI・PET・超音波などなど。その結果、早期ガン患者が続々と発見され、早期治療が投入された結果、平均値としては癌の5年後生存率は改善されている。

   今やわが国では、最終的には50%の人が癌にかかり、その内の60%が癌で死んでいる。癌の死亡率は依然として高いのである。癌の集団検診での初期がんの見逃し率は30〜40%と言われているので、見逃し率を10%以下にするためには、どうしても年に二回は健康診断を受けざるを得ない。私は昨年二回目の健康診断で胃がんを発見されたが、既にステージ(1A,1B,2,3A,3B,4)は2まで進行していた。

   C 闘病記

   我が癌の闘病記を書くべく、3月下旬に13章140節からなる目次を完成していたが、今再点検すると、当時と心境が大幅に変わってしまって、書きたい対象が一変した。副作用で苦闘していた時には、癌の治療方法に強い関心があったからだ。

   今日現在、体力は手術前と殆ど変わらず、体重も54−46−52Kgと回復し、スポーツも昔通りに出来るようになってしまうと、闘病記を書くときの軸足も変わってしまった。

   過去、延べ27編の国内外旅行記を約3000枚(400字換算)書いてきたが、今や愛知県がんセンターへ旅行に行ったような心境になってしまったのだ。いずれ寛解したら書こうと計画していたが、何時になったら寛解に至るか分からないので、ここらで執筆を開始する予定だ。完成はノンビリ書いて夏。

   題して『多重癌、寛解までの追憶』

   D 快気祝い

   交通不便な癌センターまで、或いは拙宅へ、或いは現金書留で数十人の方々からお見舞いを拝受しながら、まだ快気祝いを発送していません。私は密かに『寛解祝い』と言う言葉を使いたくて、その日をひたすら待っていました。しかし、前述の事情で何時になるやら当てになりませんので、来月、落ち着いたら発送させていただきます。

   今月下旬には荊妻は岳父の看病(暫く私の世話が優先されていた)、5/3〜5は次女夫妻による招待温泉旅行(寛解祝いを兼ねるはずだった。疲れを考慮しての連泊)5/12〜15は帰省し、福岡県浅木小学校の同期同窓会に出席予定ですので、快気祝いは遅れ序にそのまた先になります。松坂屋豊田店に荊妻と共に出掛け、万人に人気のある食料品を探します。


平成15年5月23日

遂に出た!寛解のご託宣

本日(5/23)、食道がんが消滅していたことを主治医から知らされました。

去る5/16に消化器内科の医長による内視鏡検査を受けました。ヨード液を食道壁に吹きつけてがん細胞の有無を色素変化で調べるルゴール染色法でした。正常な細胞はグリコーゲンが多く茶褐色に変色しますが、がん細胞はグリコーゲンが少なく、白く残る反応を利用したものです。

医長は『目視する限りがんは見当たらないが、一ヶ所小さな膨らみがあるため、念のために細胞を採取し、生検に回しましょう』と言いました。本日、その結果が出ました。

主治医の放射線治療部長は『がん細胞は見つからなかった。膨らみは炎症が残っていたのだと思います。PETは受けますか?』『勿論受けます。PETはフル・スクリーニングできますから。それと以前予約済みのCTも勿論受けます』『では、名古屋共立病院宛てのPETの紹介状を書きます。紹介状があれば保険が利きます。今後の経過観察として、毎年一回PETによる検査をすることにしましょう』

過去半年間、治療による肉体的な苦痛とは別に、精神的にも憂鬱な日日を過ごしていましたが、賢人各位からの、何と延べ数百通にも達する励ましのメールに支えられて、何とか耐え忍んでくることが出来ました。厚くおん礼申し上げます。

さらには、福岡市中洲の飲み屋『リンドバーグ』のママ『藤堂和子』様のお力添えの賜物があったことにも、改めて深く感謝申し上げます。

去る11/30に九大航空工学科卒業40周年記念同期同窓会に出席後の二次会にリンドバーグへ10年ぶり(実は合計たったの3回目)に出掛けました。過去10年にわたり藤堂様からミニコミ月刊誌500円の『中州通信』を無料でご送付頂いていたおん礼の挨拶も兼ねていました。

蛇足ながら、今年2月、中州通信の200号が発刊された時、地元の朝日・毎日・西日本新聞各紙に大きくお祝いの記事が出ました。今では東京でも紀伊国屋他大型書店で販売されるほどに有名になりました。

『藤堂さん。中州通信有難うございました。実は私は一昨日、胃がんの宣告を受けました。死ぬ前の挨拶にもと思って、お別れに来ました』『何を言っているの!がんは一発勝負よ。ヤブ医者に切り殺されても文句は言えんのよ。石松っちゃん、私はこう見えても、30年間飲み屋のママを伊達にやっていただけではないのよ。任しといて』

藤堂様のお力添えで、千葉西総合病院長からのご紹介状を頂き、愛知県がんセンターの胃がんの名医にも出会えました。更には名医ご指名の内科医からは、胃がん手術前の確認検査で予想だにしていなかった食道がんをも発見していただき、マスコミにもしばしば登場している著名な放射線治療部長の綿密な治療計画の元、2ヶ月にも及ぶ放射線治療の結果、遂に食道がんも寛解したのでありました。

以上、取り急ぎ賢人各位に、おん礼かたがたご報告申し上げます。

これでやっと『多重がん、寛解までの追憶』執筆のスタンスが固まりました。いずれ、各位へのおん礼を兼ねてお届けさせて頂きます。

平成15年5月29日

おん礼

このたびは、5/23に発信致しました『遂に出た!寛解のご託宣 』に対し、多くの方々からお祝いのメールを賜り誠に有難うございました。賢人各位から頂いたご教示を厳守しながら、思いがけず手にしたこの貴重な命を、大切に労(いた)わりながら、来し方の日々を過ごしたいと思います。

今回の闘病生活では、長い間すっかり忘れていた『三つ子の魂』が蘇りました。手元にある昭和20年度の福岡県浅木国民学校初等科第一学年の『通告表』の学年末概評蘭で、故梶栗サツキ先生から次の言葉を賜っていました。

『学習ニ熱意アリ。全科共努力ヲナス。失敗シテモ成功セズニハオカヌトイウ気力アリ』。生き延びられるか、死んでしまうのかの瀬戸際に立たされ、 時間の壁と闘いながらも、多くの方々から貴重なお力添えを賜り、最終的には最良の治療に辿り付けた一因に、三つ子の魂の存在をふと感じ取りました。

しかし、半年間の間に何としたことでしょうか!玉手箱を何時の間にか誰かに開けられてしまい、気が付いた時には80歳代の心境に一気にジャンプしていました。『国内外旅行も、ゴルフも、テニスも人並みに十分楽しんだ。3人の子供も社会人になって自立し、親としての責任も完了した。運が悪かったとさえ思えば、何時死んだところで、我が人生に然したる悔いは無い!』

心の世界にも物理現象と同じ様に『慣性の法則』が厳然と作用していました。寛解のご託宣を聞いてホッとはしたものの、急には昔の心境に戻れず、徐々に玉手箱の蓋をもう一度閉じたいと思っています。

本日までに頂いたお祝いのメールを到着順に整理し、添付させて頂きおん礼に変えさせていただきました。

賢人各位、今後ともよろしくお願い申し上げます。

                              平成15年6月30日
ああ、良かった。PETにも合格

食道がんの経過観察として、6/18に名古屋共立病院にてPET、6/19に愛知県がんセンターでCTによる検査を受診。本日(6/30)主治医から結果の説明を受けました。

夫々の検査結果について、読影医師からの報告書を見せてもらいました。『異常なし』でした。緊張が全身からどっと抜け落ちました。

PETの検診には時間が掛かりました。放射性同位元素をサイクロトロンでブドウ糖に結合させた薬品を3cc静脈注射し、全身にまわるまでの1時間は安静にして待機。その後でCTに良く似た機械のベッドに寝て、全身を計測。更に食道と胃に重点をおいて再計測。計測に合計65分間。費用は26130円。

今回のPETの目的は

@胃がんと食道がんは消滅しているか?
A胃がんと食道がんからリンパ節や他臓器に転移しているものはないか?
B胃がんと食道がん以外に、独立に発生している他のがんはないか?

を確認することにありました。

PETで発見できるがんは大きさが5mm以上のものからであるため、異常無しと雖も、更に小さながんの存在までは否定できません。そこで当分の間は、経過観察として、数ヶ月に一回、内視鏡による検査(次回は8/28)と一年に一回のPETを組み合わせてチェックすることになりました。

万一、食道がんが再発しても、恐らく超早期(大きさでは2cm以下 )に発見できるため、今後は内視鏡による切除で十分対応できると信じています。なお、放射線治療は既に被曝許容限界値に達しているため、使えません。

過去7ヶ月に亘り、憂鬱な日日を過ごしていました。やっと解放されとは言え完全解放ではないため、不発弾を抱え込んでいるような不安は残っています。しかし、心配しても意味はありません。日常生活に万全の注意を払いながら、一日、一日を大切に送りたいと思います。

賢人各位、長い間の励ましの数々、誠に有難うございました。

明日から気合を入れて『多重がん、寛解までの追憶』を書き始めます。インターネットに溢れている闘病記は苦痛と闘った日記式が殆どですが、私はそんな深刻なものは書きません。非日常性を求めて海外旅行をしたのと同じように、がん旅行をしたと考え、海外旅行記と同じ形式でがん旅行記を書き上げます。

完成目標はお盆。多少長くなります(10万字?)が、お読みいただければ望外の喜びです。
                                                                  上に戻る