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随想
           
元旦の由来(平成16年1月16日脱稿)

   水土日(ゴルフかテニスをする日)以外の日々は、自宅でノンビリと暇つぶしの日々。そんながん患者の余生の過ごし方を見透かしたかのように、質問魔のトヨタ後輩(東大法38年卒)から1/14にメールで突然、下記の挑戦状が届けられた。

   この挑戦に受けて立つべく、既に39ページまで書いていた『エジプトの追憶』の執筆を中断して、今回の報告書を急遽作成した。

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はじめに

   正月も半ばとなり、公私に渡り新たな気分で邁進されていることと存じます。そんなところへ些かノーテンキな質問をお許しください。かねてより、下記の疑問をいだいているのですが、お分かりでしたら何卒お教えください。

      1月1日はどのようにして決まったのでしょうか?

   我が国の旧暦を初め、多くの国の新年は春から始まっています。それが自然の感情であるように思うのです。然るに、現在のように、冬の最中にしかも自然の動きからみて、格別何の意味もない日を1月1日にしたのは何故でしょうか。また何時頃、誰が決めたのでしょうか。   
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暦の乱立

    新年の設定法に限らず、人間が智に目覚めると、納得性のある論理を求めて、色んなアイディアを考えるようです。

@ ナイロメーター

   古代のエジプト人にとって死活問題に近い重要な情報は、ナイル川の氾濫時期の予測である。彼らはナイル川沿いの各地にナイロメーターを建設した。ナイロメーターとはナイル川の岸辺の陸地に大きな井戸を彫り、中央部に柱を建て、井戸とナイル川の川底とを横穴を通じて連結したものである。その結果、井戸の水面はナイル川の水面と常に同じになる。
   
   柱に洪水開始時の水面の高さを目印として刻んでおけば、氾濫開始時期を推定することができる。かつては24時間の監視体制が採用された。日本では今日、各地のダムの堰堤や主要河川の橋脚に水面の高さが読み取れる線を書き込んでいるが、目的は同じ。
   
   エジプト人がカイロに作った石造建築物内のナイロメーターの豪華さたるや、今同じ物を作れば10億円は掛かるのではないかと推定。彼らの完璧主義はピラミッドの建設を初め、尋常ではない。今やカイロのナイロメーターは入場料も取る立派な古代遺跡兼公園になり、管理事務所もあり、有料ガイドが手薬煉(てぐすね)引いて観光客を待ち構えている。
   
   応用自然科学たる工学を志した者の端くれとして、私は古代エジプトのこの発案者に敬意を表すべく、スコールの真っ只中にも拘らず、タクシーを片道40分も飛ばして、見学に出掛けた。JTBの観光計画に組み込まれてはいなかったので同行者を誘ったが、見たいと言う人は一人も現われず、がっかり。
   
   古代エジプトの新年はナイル川の洪水開始日であったとも言われている。
   
A 天文学

   天体観測者の立場から考えるならば、夏至・冬至・春分・秋分の、一年にたった4つしか存在しない特異日から選ぶのが極めて自然だ。それらから新年を選んだ暦もあったようだ。
   
B 農業

   農耕民の立場からは、春の種蒔き時期から新年をスタートしたくなる。太陰暦はこれに近い。日本で4月を学校の始まりにしているのも、これに近い。蛇足の蛇足だが、日本では4/1までに6歳になった人が小学校に入学を許可されるので、一番若い小学生は3/31生まれではなく、4/1生まれになる。
   
C 宗教

   各地には宗教上の事件を新年のスタートに設定したものもある。
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暦の統一

   現在でも世界各地には色んな暦があるが、徐々に西暦に統一されてきた。暦でも新年のスタート日でも何でも、ルールさえきちんと決めれば支障はないが、世界中統一しないと不便ではある。今や多勢に無勢。キリスト教社会の暦が世界中を席捲し始めた。

   今回の宿題をテーマにしてインターネットで検索すると、何時ものように玉石混交、真贋取り混ぜて無数の記事が出てきた。それらの中からほんの一部を拾い読みした範囲内で、一番尤もらしく解説されていたのは次の記事である。


   現在世界中で標準的に使われている暦のルーツは、古代メソポタミアと言われている。古代バビロニア王国の暦では、1年の始まりは春分の日(3月21日頃)近くの新月の日だった。後のローマ帝国の暦でもやはり年初は春分近くの新月の日だったが、紀元前46年、カエサル(シーザー)によるユリウス暦が制定された。この時に1月が1年の始まりであると決められたが、新年は1月21日前後であったらしい。

   では、どのようにして新年が1月1日にずれこんだのだろうか。それにはさらに500年ほどの年月を必要とする。

   古代ローマでは、太陽の高度が最も低くなる冬至に盛大な祭りを行っていた。さらに、ユリウス暦(蛇足。Julyはユリウスに由来)制定の頃、ミトラ教が最大派閥だった。ミトラ教では、主神の太陽神ミトラが冬至に死んで、その3日後に復活するとされ、そのミトラ復活の日である12月25日は、冬至祭と重なり、ローマあげての祭となっていた。
   
   その後、紀元1〜4世紀の間にキリスト教がミトラ教にとってかわるが、ミトラ教の祭日である12月25日がキリスト教の祭日(キリスト生誕の日)として受け継がれたのだった(325年に正式に採用された)。これがクリスマスの起源といわれている。

   ここでキリスト登場。キリストは生誕から8日目にユダヤ教の割礼を受けている。つまり、12月25日の8日後である。12月25日の8日後は1月1日である。

「キリスト割礼の日を1月1日とする」
   
   東ローマ帝国の修道院長デュオニシオスの著書(525年)にこの決め方が初めて登場する。この時に西暦が採用されて現在に至るわけである。
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目押し(インターネットから)

 お正月の始まり(なぜ1月1日に1年が始まるのか)

@ ヨーロッパの新年の始まり

   ヨーロッパの暦は古代ローマ帝国の暦が元になっている。その古代ローマ暦はメソポタミア暦の影響を受けていると考えられる。というわけで『 ヨーロッパの暦の起源は古代メソポタミアである』と言われることが多い。

   しかし調べてみると、ギリシャ暦は夏至から始まり、メソポタミア諸国伝統の 春分年初をとっていない。ローマの暦は春分年初なのだが、メソポタミアものが ギリシャをとびこしローマに直接伝わるとは考えにくいような気もする。しかし一週間が7日という特殊な節はメソポタミア産であり、早期にヨーロッパに伝わっていた ので、やはり暦もメソポタミア起源なのかもしれない。

   惑星の名前や角度が1周360度など、皆メソポタミアから伝わったものというのは有名な話だ。

   紀元前18世紀ごろの古代バビロニア王国では、1年は春分の日(3/21頃) 近くの新月の日で始まった。春分の日はおひつじ座のある星が太陽と同時にのぼるのを観測して調べたとされる。

   月は陰暦、1年はだいたい太陽暦の太陰太陽暦なので、うるう月をときどき 入れて1年が12ヶ月だったり13ヶ月だったりする。

   紀元前7世紀頃のカルデア(新バビロニア)王国では、天文学がさかんで 19年7閏法という太陰太陽暦が使われた。19年間に7個のうるう月を入れると、うまく月の満ち欠けと年始が19年ごとにほぼぴたりと合う。 新年はおなじく春分の日近くの新月の日である。

   古代ローマでは紀元前8世紀ごろ、ロムルス暦が使われ始めたと言われる。 月の満ち欠けを基準とした太陰暦で1年が約304日、冬の間2ヶ月は日付がないへんな暦であった。新年は春の適当な新月の日となっているアバウトな暦であった。

   冬の2ヶ月もヤヌアリウス、フェブラリウスとして暦の最後にいれたユマ歴が紀元前710年にできた。ただし月の満ち欠け12回で1年としたので1年=355日だった。ユマ歴でも年初は春分の日近くの新月の日だった。

   しかし、1年355日では実際の1年とずれるので、しばらくしてうるう月が ときどき入れられるようになった。 ローマでは年末(フェブラリウスの月)の23日に1年のしめくくりの祭り「テルミナリア」を行う。閏月は2月23日の直後に1ヶ月入れられた。  このとき1年の始めがローマ政府により1月 (ヤヌアリウスの月)に変更された。ヤヌアリウムスの月の神ヤヌスはえらいので、ヤヌアリウスの始まりを1年とする、としたらしい。

   紀元前46年、有名なシーザーによるユリウス歴が制定された。4年に1日うるう日をいれることにより1年は365.25日となり、年初は1月と改めて指定された(このころもまだ、 古い習慣で3月も正月のように祝っていた)。これはもう月の満ち欠けに関係なく、1年を12ヶ月と定めていた。

   さて、この時点では、旧新年の始まりは春分の日=今の3月21日頃であった。 ユリウス暦の新年はその2ヶ月前=今の1月21日前後になりそうである。

   これがいかにして今の1月1日までずれこんだのか?

   古代のローマでは、太陽の高度が最も低くなる冬至を太陽の復活として 冬至祭を行い、盛大に祝っていた。農耕民族の祭りといえる。

   さらに、ユリウス暦制定のころ、ローマではミトラ教が最大派閥で あった。ミトラ教では、主神の太陽の神ミトラが冬至に死んで、 その3日後に復活(3日後ではなく冬至の当日に復活するという文献もある)することになっていた。 そのミトラ復活の日12月25日は、冬至祭と重なり、 ローマあげての祭りであった。  

   その後起源1〜4世紀の間にキリスト教がミトラ教にとってかわるが、そのときミトラ教の祭日12/25も、キリスト教の祭日=キリスト生誕の日 として受け継がれた。正式には325年のニケア公会議で12/25が クリスマスと採用された。実際のキリスト生誕の日がよくわからないせいも あった。これがクリスマスの起源である。

   キリストは生誕(12/25)から8日目にユダヤ教の割礼を受ける。西暦(AD)では、この キリスト割礼の日を1月1日に採用したのである。

   この1月1日の決め方は、東ローマ帝国の修道院長デュオニシオスの525年の著書に、初めて登場する。デュオニシオスは数学と天文学に詳しく、東ローマ帝国ではそのような彼の提案する暦(=西暦)を採用することにしたようだ。

   このおふれが出たとき(西暦532年か?)以来、ヨーロッパの公式暦は1月1日から始まるのである。この現在の 年初を「割礼年初」という。

   ただし、この割礼年初(今の1月1日)がヨーロッパ全土に広まるには数世紀を要したとされている。どうやら10世紀ごろにやっとヨーロッパの 年初は統一されたらしい。
 
   じゃそれまではどうなっていたかというと、ローマ紀元とよばれる ディオクレティアヌス紀元や、キリスト受難の年から数えた紀元、また 年初も春分年初だったり、色々な西暦が使用されていたのだ。ちなみに、ディオクレティアヌス年248年=西暦532年である。


A 中国の新年の始まり

   では中国では1年の始まりはどうだったのであろう。

   夏王朝(存在自体が怪しい)では立春頃が正月、いん(商)王朝では 冬至を含む月の翌月が年初で、周では冬至のある月が年初であったとする 伝説がある。

   周以降、古代〜前漢の時代まで冬至(12/22頃)のある月が正月であった。 やはり農耕民族なので、冬至は太陽が復活する大事な日なのだ。

   暦は太陰太陽暦で、うるう月を入れて太陽暦と月の満ち欠けをあわせていた。 紀元前5世紀頃には19年7閏法が確立された。

   時がすぎて後漢の時代、24節気の立春(2/4ごろ)の月が正月となった。冬至や春分、夏至、立冬など の太陽の星座上の位置から定められる日を24節気というが、その中の1つ 太陽の黄経が315度になる日が立春である。24節気は、月の満ち欠けには何ら関係しない、正確に季節をあらわす指標として前漢の頃に中国で作られた。

   どうやら気温が最も低くなる立春頃こそ、太陽の復活と考えたらしい。

   西暦1世紀、1年=265.25日とする太陰太陽暦の四分暦が採用 された。あくまで太陰太陽暦で、月は月の満ち欠けどおりに入れたので 1年が12ヶ月と13ヶ月の年があった。

   後漢からはじまった立春正月と太陰太陽暦は、以降20世紀まで 中国の各王朝で受け継がれた。

   ただ中国は、王様=暦をつくる人、といったしきたりがあり、王様が代わるたびに暦が新しくなった。中国では元旦に日食があるかないかなどの天文現象が 政治に大きな影響を与えていたので、それがうまく予報できるよう、何度も微修正が行われたのであろう。しかし数年ごとの改暦は民衆には不評で あったようで、元の時代にようやく新王による改暦はやめになった。


B 日本の新年の始まり

   いよいよ、日本の新年はなぜ1月1日なのだろうか?

   日本の項目は実はあっという間に終わってしまう。

   今は西暦が採用されて ヨーロッパの新年が使われている。昔はというと、初めて暦が 作られたのが推古天皇の604年、百済を通じて伝わった中国の元嘉暦が採用されたのが始まり。それ以降江戸時代まで、中国の暦を だいたいそのまま使っていたので、中国と同じ太陰太陽暦で立春年初なのである。

   つまり日本ではずうっと、 立春を含む月、あるいは立春の近くの新月の日が年初だったのである。

◆日本で使われていた暦

・弥生時代〜604年以前--不明だが、日本書紀の記録が歴史的事実になって くる5世降は元嘉暦と考えられる。日本書紀の暦日も元嘉暦で計算したと 考えるとよく事実とあう。
・604〜679年--元嘉暦
・679頃〜763年--儀鳳暦
・764〜862年--大汀暦
・862〜1684年--宣明暦
・1685〜1842年--貞享暦
・1843〜1867年--天保暦
・1872年〜グレゴリオ暦
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一日の始点(インターネットから)

   1日の始まりはいつであろうか。これには3つの考え方がある。

   一つ目は、現在の時刻制度を尊重するという立場からのもので、午前0時を過ぎた時である。現代に生きる我々は午前0時に一日が始まると考えている。江戸時代にはこれを天の昼夜と呼んでいた。

   2つ目は夜明けである。朝の目覚めをもって一日の始まりを実感として受け止めているのである。昔の人にとっては昼と夜は別のものであった。日の出より始まり日没に終わる昼間を人の一日と考えた。一方、日没から日の出にいたる夜間は神の一日と考えるものである。神社の祭礼は夕方から宵宮として始まり夜間に儀式を終える。

   翌日の夜明けと共に人の一日が始まると、人の神をあがめる行事が繰り広げられるのはそのためであるという説である。したがって、また夜が来ると人の神への崇拝行動は終わり、神を天に送り返す行動が行われて祭りが終わるのである。江戸時代にはこれを人の昼夜と呼んでいた。

   明治にいたるまではこの様に昼を人の一日と考えていたので、昼の長さが季節とともに変動する不定時法が使われていた。一日の始点を夜明けと考えることは自然な感覚であるともいえる。

   3つ目は日没である。その根拠となるものにアシタ、ユウベという言葉がある。現在はアシタといえば明日であり翌日を意味する。しかし、もともとは朝を意味していた。また、ユウベも現在は昨夜のことを意味しているが、もともとは夜を意味していた。

   したがって、アシタとユウベというのは一日の朝と夜を意味した言葉であった。つまり、ユウベからアシタが一日のサイクルであると考えられるのである。このような日の区分は平安時代の物語などに多く見られる。そこでは、今夜と書いてコヨイと読み、明けた朝になってから前夜を指していっているのである。

   この様に、一日の始まりには3つの考え方があるのである。そして、3つ目の日没が一日の始まりであるとすると大晦日の夜から一年が始まることになる。もともと正月は年中行事の中でも最大の祭りであった。それだけにその準備は重要であったが、準備は日没までに全て終え、祭りそのものは大晦日の夜から元旦の朝にかけて行われた。

   大晦日の夜に家族が一同に会して寝ずに過ごすことが多い。これは祭りの重要な要素である「おこもり」の影響であると考えられる。また、大晦日の夜の食膳を新年最初の食事とし、「お節料理」はもともと大晦日の夜の食膳である。したがって、古くは大晦日の夜こそ一年の始まりであり年神祭の重要な時であったのである。

   日本では標準時の午前0時に同時に一日が始まる。しかし、地方時では南鳥島と北方領土に続いて根室市から一日が始まる。日の出では南鳥島や父島などに続いて銚子市から一日が始まる。日没では南鳥島と北方領土に続いて根室市からはじまるとなるのである。
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年初の雑学(インターネットから)



   春夏秋冬という季節の循環は1太陽年で完了する。しかし、1太陽年の始まりである年初をどこにおいても自由である。

   古代ローマでは、現在の3月が年初の月であった。そして、閏日は年末に置いた。2月に閏日を置くのはその名残である。3月が年初であった名残は第7の月を意味するセプテンバーが9月であり、第8の月を意味するオクトーバーが10月であることからもわかる。

   ヨーロッパ各国間でも17世紀頃までは年初の月日が違っていた。例えば、イタリアでは18世紀までベネチアは3月1日、ピサは3月25日、フィレンツェは3月26日が年初であった。イギリスでは、12月25日(クリスマス年初)を採用していたが、14世紀に3月25日(受胎告知年初)に変更され、1752年にグレゴリオ暦(太陽暦の新暦、日本の西暦)を受け入れた法令が発布されたとき、現在の1月1日にしている。

   中国で発達し日本で受容した太陰太陽暦は、農耕用であったので二十四節気の立春を年初と考えていた。

   そして、現在の日本では1月1日から始まり12月31日に終わる一年を暦年と唱えている。したがって、私たちは年初は1月1日であると考えているが、会計年度や学校などは4月1日に始まる。ちなみに、アメリカでは7月1日に始まる。

   このように、年初は本来どこにおいてもよい。グレゴレオ歴が1月1日においているだけである。そして、このグレゴリオ暦はもちろん日本で西暦と呼ばれている暦である。

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おわりに

   ピラミッドの建設指揮者はピラミッドの向きをどの方角にするか苦慮したに違いない。当時の技術では東西南の方向を正確に決定するのは無理だったと思う。方向ではっきりと指定できるのは北極星の方向、つまり北。北さえ決まれば、東西南は自動的に決定できる。
   
   度量衡の単位も乱立していたが、メートル法がやっと主流になった。時間の単位は1967年10月にセシウム133の放射周波数から決めると決定された(詳細は略)。物理量の裏付けを持たないお金の単位は何時までもふらふら。未だに名案がない。金本位制を採用しようとしても、経済活動の規模に比べて金が少なすぎる(世界中には、たったの10万トンしかない。時価総額145兆円)。
   
   物理学や工学の世界では単位をどのように決めるかは重要な案件である。過去40年間に単位の国際標準が随分と改定された。単位の名称には先人に敬意を表するために多くの人名も採用されている。ボルト・ニュートン・パスカル・ワット・グレイ・シーベルト・ジーメンスなど色いろあるが、理科年表でチェックする限り日本人に由来する名称は発見できなかった。
   
   今や日本発の世界的な単位は真珠の取引に使う『匁』くらいだろうか?この単位の永続性も保障の限りではない。最大の貢献者は御木本幸吉である事だけは明らか。
   
   江戸時代の日本では夜明けから日没までを昼と定義し、それを6分割した。従って一刻(いっとき、と読む)の長さは毎日変わるし、昼夜でも異なる。そのために複雑な時計が考案され、大名しか買えないとの揶揄を込めて、大名時計と称した。大名時計の複雑さの前では、からくり人形なども形無しの体。
   
   時差の管理は大変なので、未だに中国やロシアは全国統一時間だ。管理能力が不十分だと鉄道や航空機の運行で衝突事故が多発しかねない。両国では正午前後に南中するとは限らない。でも、これも単なる馴れの世界。中国人に聞くと16:00が真昼であっても何ら困らないそうだ。
   
   婚姻届日をどの日に設定するかについても色んな考えがあるようだ。私は結婚式の日を選んだが、今年6/20に外科医と結婚式を挙げる愚息の場合は、届日は何と本年1/15である。昨年11/24に永眠した婚約者の父親のご冥福を祈るべく、その誕生日を選んだそうだ。
   
   社宅は嫌とかで今から新居を探すのだそうだ。豊田市の婚姻届書を見たら、記入上の注意欄には、結婚式を挙げる日、または同居を始める日のうちの早い日を婚姻届日として勧めているにも拘わらず・・・
   
   世の中には統一して欲しいものもあるが、統一して欲しくないものもある。後者の最たるものは言語だ。言語の中にはその民族や国家の貴重な文化遺産が埋設されているからである。

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