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旅行記
           
諸大陸
豪亜(平成7年5月17日脱稿)

      海外生産の実態とは?、駐在員の苦労とは何か?。

      日本がいかに豊かな国になっていたか!。感動に溢れた異文化との出会いでもあった。
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はじめに

[1]山さんの苦心

   今から8年前(昭和62年)の2月、その年から8年間にわたり所属長であった山さんから『海外生産国向け溶接設備の開発計画立案のための、出張計画書を準備するように。しかし、大西匡取締役(担当役員)の許可が下りている訳ではない』と言われた。海外出張は昭和48年に論文発表でアメリカに行ったのが唯一の体験だった。

   出身部署であった生産技術開発部での実績(海外出張は定年までに、平均すれば何とか1人1回)から類推して、海外出張にもはや2度目はあり得ないと信じていたので半信半疑だったが、努力だけはしてみようと思った。

   山さんの提案で現地企業体の外国人にも関心の高い、当社の誇る先進技術であるFBL(フレキシブル・ボデー・ライン)をこの機会にビデオで紹介することになった。ビデオカメラを操作するのは生まれて初めてだった。ボデーの溶接工程を全く知らなかった私には、FBLとは何かが分からないままだったが、開発担当者に言われるままに工程順に約30分間に渡って撮影した。
           
   ビデオを試写して内容を高橋取締役にチェツクして貰ったら『特徴をよく掴んでいる』と言われほっとした。このビデオは私にとってはナレーションを入れなかった唯一の例である。帰国後山さんにプレゼントしたので、今は手元に無い。

   山さんは出張の課題として『ビデオによる現地工場の各工程の収録』を更に追加された。『現地情報をデータベースとして整備したい』との持論から出された注文でもあった。出張許可を貰うためには無理難題でもチャレンジすることにした。何を撮ったら良いかは、各国の窓口担当者からもヒアリングした。

   山さんは大西取締役に私を紹介すべく、恒例となっている春の海生杯ゴルフコンペでは、同氏と同じ組に入れてくれた。仕事で出会ったことはなかったが、大西取締役は中堅社員特別教育の時(昭和44年)私の組のアドバイザーだったこともあり、18年も経ってはいたが、何故か私をよくご存じであった。『マークをする時にはボールに触れないように』とのご注意を頂いたのを思い出す。

   帰国後、昔の上司である大西利美常務に出張報告に出掛けた折りに分かったことだが、この出張は大西常務が大西取締役を飛び越して山さんに提案されたため、山さんが殊の外苦慮されていたのであった。『大西取締役の許可が降りた』と山さんに報告した時に、ほっとされた様子の『謎』が初めて解けた。ともあれ、この出張は結果的には私にとり公私共々、海外への関心を爆発させた大きな転機ともなった。

[2]出発準備

   出張は4ヶ国・4週間に決まった。『多少なりとも初めての国を理解するためには、最低でも1週間は必要だ』との山さんの持論からでもあった。この機会にサムソナイトの大型旅行鞄と手提げタイプの鞄(アタッシュケース)を買った。アメリカへの出張の時は、たった1回の出張のために鞄を買うのは無駄と考え、現取締役の福間宣雄さんが初出張の際に買ったばかりの鞄を借りた。  
                 
   今回も定年までの最後の出張とは再び思ったが、この年になると必需品を人に借りるのは恥ずかしいのでやむなく購入した。カメラは当時のベストセラー、ミノルタの『α−7000』を買った。キャノンのミノルタへの対抗機種『イオス』が既に発売されてはいたが、エンジニアとしてはAF(自動焦点)カメラの元祖に敬意を表したかったからでもある。

   駐在員への御土産も運ぶために大型旅行鞄は2個(内1個は長女が中学生の時、アメリカへホームスティに出掛けたときに買った物)、フルサイズのVHSカメラやα−7000に手提げ鞄を加えると、1人では一度に運べないほどの荷物になった。

   海外出張はいよいよこれが最後と信じ込んでいたので、背広は新婚旅行の時に松坂屋で新調していた(ミユキ・ハイウール・ファンシーテックス…昭和43年当時、国産では最高級品と言われ 63,000円もした)古着で間に合わせた。英会話の勉強は帰国後不要になる、と思うとアホらしく感じたので全くしなかった。
                  
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緑と羊の国・ニュージーランド

[1]出国

   海外出張の当時の楽しみは、日頃は手が出せない高級酒を思い切り飲むことにあった。『空港の免税店の酒は、相変わらず安いなあ!。』と思いつつ、早速約 100$出してカミュのブックタイプのブランデーを1本買った。当時の国内定価は何と6万円もしていた。

   心細い思いで名古屋空港を出発。成田のラウンジでは只酒とおつまみ類を思い切り楽しみながら、 20.55発のニュージーランド航空を静かに待った。窓の外の景色をぼんやりと眺めつつ『いよいよ海外に行けるんだ』との深い興奮に包まれていた。

   案内された所はジャンボの2階、前から2列目の右窓側の席で且つ隣は空席だった。一説に拠ればこの位置がベストだそうだ。最前列は客室の壁に圧迫感を感じて邪魔なだけではなく足も延ばせないし、後列になればなるほどスチュワーデスの溜まり場からも段々遠くなり、何かとサービスは後回しになるからだ。

   金持ちは左の席も買取り悠然と乗るそうだ。隣が空席なので気疲れすることもなく旅が楽しめた。後で気付いたが、その後の出張でも何度かこの位置の席を旅行社が確保してくれていた。

   当日は若いスチュワードだった。名前をすぐに覚えてくれた。私がきょろきょろしていたので、きっと旅には慣れていないと気付いたのであろうか?。『注文はないか?』など、何かと積極的に声を掛けてくれた。

   後での体験だが乗務員の方からしばしば、御用聞きに来てくれることは殆どない。この時ほどの乗務員のサービスの良さには、その後は残念ながら1度も出会っていない。それだけに印象も鮮烈だ。飛行機に揺られながらの酒は殊の外美味しかった。

[2]フィジー

   永い間メルカトール図法により描かれた横長の地図に親しんでいる間に、各国間の距離に対する感覚が狂っていた。ニュージーランドは日本の真下(真南)にあるし、世界一の太平洋を横断して行くアメリカより、う〜んと近いと言う錯覚である。ところがところが、北島でもオークランドは遠かった。8時間25分後、給油のため南太平洋のフィジーに立ち寄った。飛行機の上から見たフイジーは椰子の木がパラパラと生えた珊瑚礁らしい、のどかな平べったい南海の島に感じた。

   空港には大きな免税店があった。店員の殆どが黒人かインド人風に見えたことに、一寸した驚きを感じた。南太平洋だからポリネシア系か?と何となく予想していたからである。その日、軍部によるクーデターが発生したことを、機内のテレビニュースで知った。                      
        
   しかし免税店の中は、錫婚旅行で出かけた、戒厳令下のフィリピンとは段違いの、のんびりとした雰囲気であった。物の値段は知らないままだったが、フィジーに立ち寄った記念に象牙の首飾りを3本、妻子への御土産にでもなればと思って買った。

[3]オークランド

   フィジーから更に3時間掛かって正午過ぎに、やっとニュージーランドに着いた。人口の少ない国だけあって、空港のビルも小さかった。小さい空港は出入りが楽で便利だ。駐在員の小さんが出迎えてくれた。私は全く知らない人だったが、本人は何故か私を良く知っていた。空港ビルの正面にはスペースにも余裕が見られる一般駐車場があった。                        

   日本では廃棄してしまうレベルの古くて且つ汚い小型車が多い。それでも価格は高いそうだ。自然は豊かでも量産が原価低減に直結する工業製品は高そうだ。大型高層ビルが視界には全くない。駐車場の日除けにユーカリがパラパラと植えてあった。初秋を迎え淡い紅葉が目に眩しい。工場が少ないのか、空気が澄んでいる。

   早速、 100Km強離れた東部のテームズ(ロンドンを貫流するテームズ川と同じスペルである)に向かう。ニュージーランドには英国の地名が多い。人口最大のオークランドの都心を通過する時に見たビルは小さく貧弱だった。柱がか細く豪華さも感じない。ニュージーランドは日本と同じ様に、火山・温泉・地震の多い国なのに、こんなビルで大丈夫なのかなあ〜?、との素朴な疑問を払拭出来なかった。道路も狭いが幸い渋滞はない。

   郊外の道路の交通量は極端に少なく、高速道路でもないのに小林さんは、時速100Km以上を平気で出す。道路は自然の起伏に合わせて作られている。日本のように山腹を削りトンネルを掘る等たっぷり金を掛けて建設した、といった人工的なイメージは受けない。なだらかな地形の恩恵をも感じる。

   道の両側にどこ迄も続く広びろとした牧場の、緑の美しさに見とれる。牧場の境界線として植えてある樹木は高さが揃い紅葉も美しい。
                              
   ふかふかとした牧草の緑に真っ白な羊が映える。無数の羊が牧草を食べている姿を遠くから眺めると、白い蚕がさながら桑の葉に群がっているように感じる。毎分毎分、写真を撮りたくなる衝動に駆られる。気温も快適だ。小川の水が綺麗だ。

   自然のままに発生した堤防のない川が次から次に現れる。自然の川には当然の事ながら天井川もなく、視界を妨害する壁のような人工物もない。心が安らぐ。現地は秋にも拘らず、文部省唱歌『春の小川』をふと連想した。

[4]テームズ

   テームズは人口わずか5,000人の小さな町だった。テームズ工場の従業員数は同町では病院に次いで2番目だそうだ。それにしても工場よりも従業員が多い病院が、こんな小さな町にどうして存在し得るのか不思議だった。町の中央大通りと雖も、アメリカの西部の開拓時代のような雰囲気だ。道幅は片側2車線分はたっぷりとあるのに、センターラインなどの線引きがなされていない。不要なのだ。両側の店などは仮設店舗のような建物だ。せいぜい2階建てだ。

   工場前にあったモーテルに宿泊した。ドイツからの移民が経営者だった。お酒を一緒に飲まないか、といって自宅に招いてくれた。私も買ったばかりのブランデーを持ってお喋りに出掛けた。

   『スーパーで買ったバケツ1杯のキューイ(何と1個が5円!)が堅くて酸っぱい』と言ったら、『リンゴを入れると熟すのが早まる』と教えてくれた。リンゴを急遽買い求め一緒に袋に密封した。しかし残念ながら1週間経っても酸っぱくて堅いままだったので、別れ際に管理人にプレゼントした。

   生まれて初めて体験した 200ボルトの威力に感動した。部屋に備え付けの電気ポットは1分以内に沸騰した。室内から裸のまま行ける隣りの部屋に、10人は入れる大きなサウナと水風呂があった。加熱準備時間は10分も掛からない。同じぐらいの収容力がある名古屋グリーンテニスのサウナは、1時間以上もたっぷりと時間が掛かる。他に客もいなかったので、このサウナは私専用みたいなものだった。

   部屋にはキングサイズのウォーターベットがあった。水枕を大きくしたようなものだ。圧力が背中に均一に作用するのが特色だが、慣れないためかふわふわとして寝心地が悪い。寒いときには温水にするそうだ。水を密封するときに腐敗防止剤を注入するそうだ。

   現地幹部と小さんから近くのレストランへ歓迎の夕食に招かれた。大きな海老と殻付きの蠣を注文。海老は大き過ぎて一匹なのに持て余した。現地の白人から『私の食べ残しを食べても良いか?』と尋ねられたとき、飛び上がらんばかりに驚いた。

   白人というものは日本人から見れば、夢のような生活をエンジョイしている筈だ、との観念が牢乎として頭に染み付いていたからである。海老は現地の人にも高級品だそうだ。蠣の殻は小粒で丸く且つ堅く、日本とは種類が違っていた。余りの美味しさに何度かお替わりをした。

   右ハンドルの国なので翌日の夕方業務用車を借り出し、工場の周辺を約1時間安心してドライブした。海岸沿いには小さな小学校があった。運動場も狭く日本の幼稚園ほどの規模だ。山の斜面にはカラフルで小さな民家が点々と広がる。大きくても延べ40坪か?。敷地は広くても 100坪程度。

   しかし、塀がなく外から丸見えの庭木や草花が美しく管理されている。少女が馬に乗って散歩していた。山の反対側には深い谷があり、ハッとするような美しい初秋の光景だった。

   サマータイムを活かしてのある日の夕方、テームズの工場長と小さんにゴルフに誘われ、日暮れまでにハーフラウンド回った。クラブハウスは受付けと売店を兼ねた20坪足らずの小屋だった。

   しかし小屋の回りは日本で見掛ける並の公園以上の美しさだ。松竹梅を基本にした伝統的な日本の公園に比べると、圧倒的に花が多い。百年後の風景を念頭に置いて庭木が配置されている。20mを越える大木になった植木の樹形も見事だ。紅葉も素晴らしい。ゴルフをするより写真撮影をしたい程だった。                    

   ゴルフ場は遠くから見た時には限り無く美しいと感じたのに、いざプレイを始めたら、芝の悪さには逆に驚愕。西洋芝は雑草に埋もれている。フェアウェーの平坦度も悪く凸凹している。目土不足だ。冬も枯れない西洋芝にはひょっとすると、目土をあまり入れないのかも知れない。牧場のような感触だ。グリーンだけが多少管理されている程度だ。 

   キャディはいないし、小さなカートを各自が人力で引っ張って行く。プレイ料金が安いはずだ。慣れないためか3,4パットが続く。途中で擦れ違ったニュージーランド人にカードを見せたら『パットの数だけを見れば、ジャック・ニコラウスも顔負けの腕だ』とのご託宣。

   スーパーにも出掛けた。どんな商品がどの様にして売られているか、日本との比較を一刻も早くしたかった。戦災にも遭わず温暖な気候に恵まれた上に人口密度も小さく、日本より一足早く先進国入りをした国の、生活の豊かさを消費物資の面から観察したかったからである。1973年に見たアメリカのスーパーとも比較したかった。

   予期に反しアメリカは勿論のこと日本よりも質素だった。日本の田舎の小さな地元スーパーに似ていた。肉類はアメリカ流のブロック売りかと思っていたら、スライスしたものが小さなパック詰めで売られていた。

   生鮮3品(肉・魚・青果)を初め日用雑貨品も機能本位であり、地元の特産物を除けば価格は必ずしも安くない。ワゴンもなく主婦はカゴで最小限の買い物をしている。高嶺の花と予想していた白人の生活面を垣間見て、その意外な質素さを知り、日本の豊さを再評価した。

[5]ビデオ撮影

   工場見学が終わった後、出張の課題に着手すべく、CKDの工程順にビデオ撮りを開始。テームズ工場にはビデオ撮影に慣れた若い教育係りがいたので、カメラは彼が操作し、私は横で適宜ナレーションを喋った。約30分の撮影後再生したら、音声は周囲の雑音に負けて殆ど聞き取れ無い。       
                   
   カメラの内蔵マイクは前を向いており、且つ指向性も高い。急遽テームズの小さな電気屋にマイクを買いに出掛けた。カメラのボデーのコンセントにぴったり合う他銘柄のマイクがあった!。『標準化とは何と素晴らしきものか』と、この時ほど有り難く思ったことはかつてなかった。   

   再生して見たら、ナレーションは我ながら感心するほど良く出来ていることに気付いた。これ程の出来ならば、今後訪問する予定の設備や部品製造会社にまで対象を拡大して、ナレーション付きで録画したビデオテープを持ち帰っても、関係者の役に立つはずだと確信した。隠れていた才能の自己発見の瞬間だった。

   これが右肩にカメラを担ぎ、右手ではカメラを手探りで操作しながら、左手にはマイクを握り締めて喋りまくった旅の始まりである。ぶっつけ本番で訪問する会社ごとに現場の工程を生々しく録画した。その後の体験だが海外で、ビデオ撮影の許可を求めたら、どこの会社でも殆ど即座に許可してくれた。ビデオカメラマン・即興シナリオライター・ナレーターの3者同時兼務の仕事が始まった。

[6]オークランド

   オークランドは坂や丘の多い景観に富んだ町である。町全体を見下ろせる丘の上に大きな公園があった。殆どの民家は1戸建である。屋根・壁・庭木の色の組み合わせが美しい。家の敷地や大きさは最近の日本の新興団地と大して変わらない。中心部の1平方Km位のみがビル街になっており、大通りに面したビルの1階には専門店が入っていた。

   オークランドの入江には国際貿易港のような巨大な岸壁も見当たらず、ヨットハーバーになっていた。大小のヨットが 100隻以上も停泊している姿は壮観だ。自家用車は高くともヨットは安いのであろう。ヨットの国際競技で有名な『アメリカズカップ』でニュージーランドが抜群の成績を挙げるのも不思議ではない。

   ニュージーランドの記念になるものをと御土産を探したが、軽工業もあまり発達していないのか、これといった品物がない。仕方がないので、国鳥キューイの羽の色によく似たパウア貝の貝殻を磨いて埋め込んだ、飾り用のお盆、スプーンセットとペン立てを買った。何となく気合い抜けしていた時に視野に入ったのがムートンだった。  
                                
   8匹分の真っ白なムートンを繋ぎ合わせた絨毯である。日本ではこんなに大きくて、ふさふさとした豪華なイメージのムートンは見たことがなかった。旅行鞄には入り切れない大きさだったが、別送品の手続きは簡単だった。今も冬になるとソファに掛けては愛用し続けている記念の品である。

[7]ワイトモ

   オークランドの郊外ワイトモには、土蛍が棲み着いている洞窟があった。夜光虫の一種だった。一大観光地になっている。アメリカからの団体客もいた。洞窟の中は照明も付けず、真っ暗闇にされている。

   船に乗って中央部まで進むと、いたいた!。洞窟の天井ではまるでプラネタリウムのように土蛍が青白く発光している。期せずしてアメリカのお婆さん達が『ファンタスティック!』と小声だったが若々しく叫んだ。

[8]ニュージーランド人

   小さな会社に1週間もいると、国民性の一端も多少は解って来たような気になるから不思議だ。移民達は先住民であるマオリ族の人達とも、実に和やかに交流している。あからさまな人種差別は全く見掛けない。人口密度が小さいから角突き合わせる動機も少ないのであろう。

   性格はアメリカ人よりも日本人に近いようにすら感じる。控え目で押し付けがましい所もないし、自己主張丸出しの口角泡を飛ばすような議論も好まない。
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南の大国・オーストラリア

[1]入国

   行った事のない場所の距離感はまたもや狂っていた。オークランドからメルボルンまでは名古屋〜台北位かと思いきや、何と4時間も掛かった。名古屋〜香港、名古屋〜マニラに匹敵する距離だ。

   オーストラリアの検疫官は土に神経質だった。ゴルフシューズにまで目を光らせている。『土が付いているからダメ!』『これはニュージーランドのゴルフ場の土だ。パスポートを見ろ!』との反論で、どうにか持ち込みに成功。

[2]メルボルン

   1.都心

   メルボルンには未だに市内電車が走っていた。ホテル・トラベロッジ前で乗つた都心部行きの電車の行き先表示板に『City』と記されていたのを見て、最初は違和感を感じた。しかし、日本でも中央線や京浜東北線などの駅で東京駅方面行きの電車に乗ると、都内であるにも拘らず『東京方面』とか『次は東京』と案内するのと同じ事だと考え直した。               

   中心部はニューヨークのような碁盤目状に設計されている。イギリス人は長期都市計画が得意だと感じる。都心には高層ビルも林立し、人口が少ない割りにははるかに立派な町だ。このまま21世紀を迎えても恥ずかしくない町並みだ。しかし建物は実用一点張りで、日本のビルに比べると豪華さに欠ける。国力と地震対策の違いか?

   都心には交通警察官がいた。背が特別に高い白人だ。きっと採用条件の1つに身長があるのだろう。非白人は警察官にはなれないらしい。白豪主義の名残か?。白馬がポコポコと観光馬車を引いていた。5月中旬のメルボルンの夜は意外に寒い。日本の晩秋の気候に似ている。

   2.日本料理店

   ホテルのフロントで日本料理店『大関』の場所を聞き、『City』に出掛けた。ビルの谷間に挟まれた、車も入れない裏通りから入る小さな店だった。こんな所にしか日本料理店はないのか、と思うと惨めで寂しかった。

   しかし、こんな店でも地図にはちゃんと載っている。地図情報の正確さと分りやすさも碁盤目状の都市計画のお蔭だ。念願の生きた大きなロブスターにやっとあり付けた。重さで売ってくれるのも合理的だ。1匹3Kgはありそうなものを8000円で購入。           

   刺身にして貰った。生まれて初めて食べるロブスターの刺身だ。花びら状に加工した半透明なゼラチンのように見える。食べてみると柔らかい。しかし淡白だ。茹でたり焼いたりしたエビのような身の堅さを全く感じない。生卵と茹で卵の白身の関係に似ている。外観の大きさに比べて刺身の量が予想外に少なくてがっくり。

   そこで日本人のコックに『ロブスターの残り物を、茹でて欲しい』と頼んだ。殻の内側に付いていた身の方が多かった。生では身が柔らかい上に殻に張り付いている為か、刺身としてはほんの一部分の肉しか取り出せない事を知った。全部食べたら、それだけで満腹して十分に満足した。キリンビールも高かったが飲めた。

   3.ホテルのレストラン

   海外出張で1人ぽっちになることくらい詰まらないことはない。ホテルのレストランで鹿・兎などを使った珍しい料理をメニューから探し出しては、侘しく夕食を食べていた時のことである。

   突然隣のテーブルの2人連れが、一緒に食べないかと話しかけて来た。『あなたは今までに何と何を食べた』と一部始終を語る。余程異様に感じていたのであろう。『日本にも仕事で行ったことがある。これも美味しい。あれも美味しい』と言ってはオーストラリアの食べ物を紹介してくれた。

   日本流とは違ったメロンの食べ方にも出会った。ブドウくらいの大きさにくり抜いた果肉が出された。フオークを使うと食べやすい。こちらのメロンは形崩れしない程度に果肉が堅いから出来ることだが、きっと身の半分は皮と共に捨てていると思う。土地が広くて食料が安いからできる贅沢だ。この日の砂を噛むような夕食が一気に美味しくなった。

   4.郊外

   もう直ぐ定年という副社長が工場見学の途中、大回りをして郊外を案内してくれた。木曜日にはゴルフ場の入り口まで迂回してくれた。XY座標系の各象限のような場所に4ヶ所のゴルフ場が配置されていた。その内の1ヶ所は木曜日を『レディースデー』にしているとかで女性だけがプレーしていた。4コース共用のクラブハウスが原点の位置にあったが、ここもニュージーランドと同じ様に小さな小屋だった。

   お婆さん達がカートを引きながらのんびりとプレイしていた。瞬間所得では日本はオーストラリアを追い越しているとはいうものの、日本のお婆さんがゲートボールからゴルフに転向し始めるのは、最近増えてきた若い女性ゴルフアーが年を取った頃か?。気が遠くなるほどの未来だ。               

   海岸通りには高級住宅地があったが、副社長の本人でも買えないそうだ。医師や弁護士などが持ち主だそうだ。『**士』が高所得なのはオーストラリアとても同じだ。一般の人が住んでいる家の豪華さは日本と大差がない。土地が広い国なのに敷地も100坪余りしかないのに驚く。

   しかし、彼は『田舎に50万uの山林を持っている』と自慢していた。更に『娘が結婚してカナダに住んでいる。今度の夏には2ヶ月間会社を休み、移民後初めて夫婦でイギリスに旅行するのを、楽しみにしている』。羨ましいだろうと言わんばかりに語り掛けた。         
                         
   イギリス人にとって、本国・アメリカ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド間の移動は、日本人が4島間を移動するような感覚らしい。日本人は世界への進出がほんの数百年英国人より遅れたばっかりに、地球上の陣取り合戦の敗者になってしまったのは、返す返すも無念至極だ。

   5.ゴルフ場

   日曜日には駐在員達と一緒にゴルフに出掛けた。メルボルンから1時間足らずで緑豊かな山岳地帯に入る。直径1m以上もあるユーカリの大森林があったが、幹が何故か皆黒焦げだ。オーストラリアは山火事が多いが、ユーカリは火事に遭っても葉が燃えるだけで、木そのものは枯れないそうだ。
                
   ここでもクラブハウスはニュージーランドと同じように、日本のゴルフ場で見掛ける茶店の大きさクラス。必要最小限の機能があるだけであった。駐車場で着替えた。全裸になる訳ではないのに、何となく落ち付かず恥ずかしさが心をよぎる。風呂の脱衣場では裸になっても何とも感じないのに!。駐在員が弁当を持って来てくれた。奥さんの苦労が偲ばれる。

   フェアウェーは平坦で幅もゆったりとしていた。芝の葉っぱの幅が高麗芝の数倍もあり、普通の西洋芝とも違っていた。工場が少ないためか、空気がニュージーランドと同様に大変澄んでいる。
   
   芝の葉っぱの反射光がキラキラと輝くせいか、ボールが大変探し難い。フェアウェーにボールが落ちるのを確認できていたのに、何度かロスト・ボールになった。逆に誰かのロスト・ボールも拾った。ここでもカートは自分で引く。                

   各ホールの間には直径1m以上もあるユーカリの大木が、4〜5列にもわたって植えてあり壮観だ。球が逸れても必ずユーカリの枝に掴まるので、隣接ホールのプレイヤーの安全が確保されている。その代わりフェアウェーに球を出すのは至難の技だ。

   6.ショッピング

   オーストラリアもニュージーランドと同じように、これと言った記念品が見当たらない国である。旧大陸の歴史大国のように伝統を誇る民芸品もないし、軽工業もさして発展していないからだろうか?。カンガルーの1枚皮で造った壁掛けを買った。約1年間は嫌な匂いが部屋に立ち込めていた。妻にダチョウの皮で造ったハンドバッグを買った。長い間愛用していたようだったが、最近は家でも見掛けなくなってしまった。 

   ブラックオパールも何とはなしに買わねばならないような気になって、70万円クラスの物を買ってしまった。ブルー・グリーン・ピンクの色が入り混じっていた。帰国後、ダイア付きの指輪に加工したら30万円更に掛かった。

   妻は気に入ってはいないようだ。バブルで手にしたお金は結局無駄使いで失う典型例だった。帰国後デパートを覗いたが、何故かブラックオパールの品数は少ない。商品はあっても、日本橋の高島屋ですらせいぜい数点だった。高価格は美しさよりも希少価値の反映か?。
   
   7.駐在員宅

   加さんのお宅に招かれて日本食の夕食をご馳走になった。オーストラリアに出張で来た人は全て、1度は自宅へお呼びして日本食を食べて頂いているそうだ。加さんが貫徹された一種の美学だ。  
                  
   奥さんのご負担は大変なものだ。私には心の篭った貴重な手料理よりも、日本食を造るための材料が、どのくらい調達出来るのかにもっと関心があった。何でもあるのに改めて驚いた。寿司種・てんぷら・刺身・米・味噌・醤油にも事欠かない。

[3]トヨタモータ・オーストラリア
                    
   都心近くにあるオーストラリアの古い組立工場を拡張しながら、乗用車を組み立てていた。しかし、工場建屋の配置は複雑で何度も迷子を繰り返した。そんなオンぼろ工場には不釣合な程、来客兼用の管理職食堂は立派だった。

   まるでレストランだ。テーブルクロスが掛けられ、給仕が日替わりメニューを持って御用聞きに来る。スープ・メインディッシュ・デザート・飲み物・果物があった。ファミリーレストランのフルコース並みだ。オーストラリアに未だ残っている階級社会の象徴に感じた。

   白豪主義も徐々に「今は昔」となりつつある。この工場には出身国の数では50以上の従業員が働いているそうだ。アジア人、中でもベトナム人が急増している。アジア人は手先が器用とかで、シール工程などのきめ細かな仕事に付かされていた。人種差別ではなく適材適所だ。      

   メルボルンの郊外に約 100万uの牧場を買い求め、その一角に美しいプレス工場が稼働していた。将来はこちらに集約されるのだな、と直感した。広大な未使用地は税金対策のため、牧場として貸し出されていた。

[4]オーストラリア人

   オーストラリア人にはニュージーランド人と何故あんなに違った印象を受けてしまったのか不思議だ。だれもが苛々しているように感じられた。かつての白豪主義が崩壊し、アジア人が大挙して押し掛けて来た結果、自分達が築いた天国が消えつつあるとの被害者意識に陥っているのか?。

   日本人から使われる身分に転落したのが面白くないのか?。かつての覇者、白人としての余裕ある振舞いは、雲散霧消して跡形もなし、と感じたのは私の誤解か?
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交通渋滞の国・タイランド

[1]メルボルン〜バンコック

   メルンボルンからオーストラリアを縦断してバンコックへと向かう。9時間45分もの長旅だ。またもや2階の2列目の窓際だ。嬉しい!。

   眼下に広がるどこまでも続く赤茶けた不毛の大地。所々に真っ白に干上がった湖の痕跡がある。岩塩だ。国土面積が広いだけでは何の価値もないと痛感した。砂漠の上は雲もなく1万mの高空からも地表面が手に取るように分かる。

[2]バンコック

   1.インペリアル・ホテル

   ホテルの宿泊手続きは立ったまま、カウンターでするものとばかり思っていたら、ボーイから特別室へサッと案内された。テーブルと椅子があり缶ビールを1本、コップにサッと注いで出してくれた。さすがはアジアだ。人的サービスは抜群だ。暑いバンコックでの最初のビールは銘柄を確認する事も忘れて、一気に飲み干した。

   2.ドリアン

   ホテルの裏側に広がるゴミゴミとした商店群(日本の新しい商店街のような店舗建築の統一性は全くない)の中を散策していたら、露天商みたいな果物屋があった。食べたこともない各種の果物を買い込んだ。

   ホテルの部屋には持ち込み禁止と聞いていたドリアンを試食した。何とも言えない臭み・粘り・香りのする果物だった。美味しそうな物を選んでもらって店頭で1個全部食べた。
                   
   帰国後、家族にも食べさせたいと思い、松坂屋で1個1万円のドリアンを買った。2週間後が食べ頃と聞いたが、待っている内に生えて来た黴に気付き、待ち切れずに食べた。現地で食べたものに比べれば、月とスッポン。青い物を輸入して日本で熟させているので、本物を知っている者には騙されたような気がした。

   3.王宮

   バンコックの1等地にある王宮にはエメラルド寺院(ワット・プラケオ)があるが、日本人との国民性の違いが一瞬にして鮮やかに感じ取れる。タイ人と日本人とは同じアジア人であるばかりか仏教徒でもあるから、お寺だって多少は似ているであろうなどと言った憶測を、完璧に吹っ飛ばしてくれる。  
                
   寺院の建物のデザインが変わっているのは当然としても、建物の屋根瓦などがペンキでけばけばしく塗りたくられて、黄金色に輝く姿にはアッと驚いた。法隆寺や延暦寺の黴が生えたような薄暗い灰色のイメージからは全く予想できない対照的な世界だ。ぎらぎらと輝く熱帯の太陽に負けまいとしている姿なのか?。仏像もまた建物と競うかのように金箔で覆われている。共通点は線香の匂いだけ。

   4.暁の寺(ワット・アルン)
                    
   バンコックの郊外、トンブリにある古い寺院であるワット・アルンは同じタイであっても、ワット・プラオケとは全く違うデザインの建物である。回転放物面体がそそり立つ高いタワーのようだ。先端が細くなっているので実態以上に高く感じる。

   階段を途中まで登って下を見ると、目が眩むような高さに感じる。建築材料の石は古く苔むし鼠色に変色し歴史を感じさせる。今は観光資源としては活用しても、宗教活動には使っていないように思えた。境内は雑草に覆われ『兵どもが夢の跡』なる俳句を連想せずにはおれなかった。
                    
   5.ローズ・ガーデン

   会社名は忘れたがビデオの撮影許可を求めたら、社長は渋々認めながらも『私が許可したところだけにして欲しい』と注文を付けた。撮影する折りのナレーションでは。実態以上のお世辞気味に褒めることにした。

   1分も経たないうちに社長の態度が180度も変わってしまった。日本語が分かるらしい。『あれを撮れ、これを撮れ』と自ら先導してくれた。工場見学後、今度は『ローズ・ガーデンで昼食後、民族舞踏のショウの見物はどうか』と提案してくれた。 
                 
   ローズ・ガーデンの美しい食堂の横には水を満々と湛えたチャオ・プラヤ川の支流があった。流れは1m/秒と速い。好意は受けながらも、早朝からゲリの連続に見舞われた体調のもとで、水草が浮いて流れる川面を見ていたら、目が回り始めて食欲が急落。結局スープだけを飲むのが精一杯。
              
   豪華なエビ料理は諦めて、傍らのバラ園で休憩しながら仲間が戻るのを待った。折角のショーも諦めてホテルで休息した。工場で貰った薬は大変良く効いた。多分抗生物質だったか?。日本製のゲリ止めより良く効くとの評判だ。この時以来、海外での飲食に対する警戒心はぐっと高まったが、それでも出張5回につき1回は軽いゲリに襲われた。

   6.灼熱の国

   名古屋は日本一暑い都市との『郷土自慢』は何度も聞かされていたが、バンコックの暑さに比べれば物の数ではない。日本では梅雨明けの7月下旬から8月上旬が最も暑いが、バンコックでは3〜5月だそうだ。

   聞いた直後の一瞬は日本と同じ北半球なのにどうして?と不思議な気もしたが、すぐに納得した。夏至の日には太陽は台湾の中心を横切る北回帰線上まで北上するから、バンコックの真上に太陽が来るのは春である。

   真昼には40度にもなる。しかも何故か風が吹かない。工場の中には随所にミネラルウオータの冷水機がある。ミネラルウオータは20g入り位のガラス容器に入れられ、冷水機の上に逆様に置かれており、残量がいつも確認できる。水を飲むと直ぐに汗になるので飲む量を抑制した。水分は食事の折々にビールで補給することにした。

   日本の夏は真昼の直射日光がいくら暑くとも木陰は涼しく、早朝は殊の外凌ぎやすい。しかしバンコックは朝ですら暑い。昼は木陰も暑い。つまり気温が高いのだ。タイトヨタの溶接ジグ工場は、天井と柱だけがあって壁がなかった。吹き曝しだ。台風も来ないし横なぐりの雨が吹き込んで濡れる心配もない、とのことで快適な環境だ。

   7.ゴルフ

   駐在員が休日にゴルフに誘ってくれた。ゴルフコースのある国では、駐在員は何度も出掛けて本人が見飽きている場所の観光案内よりも、出張者に対して『ゴルフはどうですか?』と提案する傾向があるようだ。

   海外でのゴルフのプレイ代は日本よりも格段に安いから来客にも喜ばれるし、駐在員にとっても楽しく暇潰しができる。そのために貸しクラブが用意してあるのは有り難い。私もそれぞれの国で1度はプレイしたかったから渡りに船だ。

   バンコックの中心から国際空港へ向かう途中にゴルフ場があった。日本と違い若い女性のキャディが、各プレイヤーに1人ずつ付いた。日本のキャディは同じ女性でも、子育ての終わった年増だ。しかもプレイヤー4人にキャディは1人だ。初めて味わう贅沢の筈なのに、キャディの身長が日本の中学生よりも小さく感じ、何となく心が痛む。   
                                
   ここは大平原に作られたコースだったので、日本に多い山岳コースと比べれば立体的な変化や遠近感豊かな景観には乏しい。多少でも面白くするためか、わざとらしい人工の池が多い。池の中の島がグリーンになっているホールもあった。グリーンへ辿り着くための橋もあった。

   芝生は常夏のバンコックならさぞかし高密度に生えているだろうと期待していたが、がっかりした。日本でも見掛けないほどの隙間だらけの芝生だ。地面が葉の間からたっぷりと見える。暑すぎてかえって育ちが悪いそうだが本当だろうか?土は赤土で痩せており、目土を入れているようにも見受けられず、管理に金を掛けていないのが真相ではないかと邪推した。プレイ代が安くともそれなりの品質に感じられてくる。1回体験すれば十分だ。

   天気は良かった。喉が乾いたのでビールを買った。冷蔵庫が普及していないのか室温ビールだ。コップの中に氷がいれてある。観光案内書には、氷は不衛生な水道水から作られているから危ない、溶け残った氷は食べるなと書かれてあったのを思い出した。

   しかし、この注意書きはどこか変だ。外殻は安全だが中心部は危ない特殊な氷でなければ成り立たない話だ。観光案内書を鵜呑みにするのも癪だ。工場で作られた氷なら安全な筈だと勝手に解釈して、氷が溶けて良く冷えたビールを飲んだ。幸、何事も起きなかった。

   3人で情報交換のおしゃべりにも夢中になってプレイしていたら、隣のコースで反対方向にプレイしていた白人が突然声を掛けてきた。『自分はたった1人でプレイしているので面白くない。仲間に入れてくれないか』とのことだった。『どうぞどうぞ』と2つ返事。外人でもやっぱり1人でのゴルフは面白くないのかと同情した。

   この外人は10年来、欧米とアジアを結んだ小さな貿易商社を経営しているとかで各都市の状況に詳しかった。バンコックの夜の生活には満足している様子だったが、車の渋滞には辟易しているらしく『世界一悪い』とぶつくさ。

   見知らぬ日本人に声を掛けたからには、腕には自信があるのかと予期していたら、ナント私よりも下手くそ。『半年振りにゴルフをしたんだ』と弁解。結局金は持っていても仲間がいないと、人生は楽しめない典型例と解釈。

   8.御土産

   タイにはジム・トンプソンが開発したという有名なタイシルクの直営販売店がある。駐車場付きの洒落た店だった。この店内だけは日本の専門店クラスの美しい雰囲気だ。買い物客は日本人か欧米人が中心で結構賑わっていた。タイシルクは一説に拠ると木綿のように腰があり、ネクタイには最適だそうだ。デザインも垢抜けしている。

   ジム・トンプソンはジャングルで行方不明になっているままとのことなので、誰か優秀な人が後を継いでいるのであろう。記念にあれこれ気にいったものを気分良くパッパッと買い求めた。

   ホテルにある売店でもタペストリー・テーブルクロス・木工製品等、工数が掛かっていると感じられたものを御土産に買った。毎日少しずつ買っていたので、買うときには余り気にしていなかったが、最後に荷物を整理したらどうしても鞄に入り切らない。とうとう3個目の鞄を現地で買う羽目になってしまった。

   9.トイレ

   工場のトイレには驚いた。初めて出会った異文化のトイレである。側面がなく、平ぺったく、中央に丸い穴の開いた長方形の磁器製便器(40×70cm)が狭い部屋の真ん中に固定されている。便器を跨いで座り込む時に使うレンガ大の足置き場が左右に配置されている。

   床は水でびっしょりと濡れている。右前には円筒状(直径25cm高さ20cm)の水桶に半分位水が入っていた。手に水を付けて肛門を洗浄するのではないかと、推定したものの実行できなかった。紙を持参していたのでほっとした。

   10.屋台

   タイ人は朝から晩まで屋台を活用している。田舎でも台所がない家も多いらしい。早朝から屋台が活躍している。工場の出入り口はさながら屋台村だ。作業員が熱つ熱つのうどん風の料理を食べていた。

   あれだけで重労働に耐えられるのかと心配せざるを得ない。タイ人は日本人よりやや小柄な上に、太った人が男女とも極めて少ない。

[3]アユタヤ

   バンコック郊外の大平原を車で移動すると、狭い谷間でも米を栽培している日本が異常に思えてくる。日本では条件に恵まれた水田(全耕地の半分位か?)のみに集約すべきだと確信した。

   バンコックから88Km離れた片田舎に山田長政の墓がひっそりと荒れ果てたまま放置されていた。訪問する前に勝手に想像していた豪華な墓のイメージはあっさりと吹き飛んだ。                        
   墓の前では子供達20〜30人が日本人を待ち構えていた。大声で『千え〜ん、百え〜ん、十え〜ん!』と叫ぶ。私たち以外の訪問者はいない。2〜3人だったら、旅の思い出にもなると考えて『お布施』の積もりで、なにがしかのお小遣いを渡そうと思ったが、全員に渡すほどの小銭の用意もしていなかったので、結局1人すら渡さずのままになった。
                               
   アユタヤに行く途中には、観光資源として開発中の『フルーツパーク』があった。タイで取れるあらゆる種類の果樹を植える計画のようだ。バナナや椰子の木は民家にも植えてあり見飽きていたが、木に実っている状態で熱帯の果物を見る機会は大変少い。残念なことにまだ苗木ばかりだった。

[4]チェンマイ

   1.市内

   2度目のタイ出張(平成3年)の折、週末を生かしてチェンマイを訪ねた。飛行機の切符は国際線と一緒に日本で買えば、バンコックで買うよりも安いとのことだったので出発前に買った。内外価格差が大きい典型例の航空券にも珍しい例外があった。  
                              
   空港までのホテルからの送迎を現地の人に頼むのは憚られたので、万一の場合の連絡先としての行動計画を伝えただけだった。しかし、駐在員が配慮してくれたのか、ちゃんとタイトヨタの運転手がホテルに迎えに来てくれただけではなく、翌日は日曜日にもかかわらず、空港まで出迎えていてくれてあり難かった。
    
   チェンマイの空港で観光タクシーを申し込んだ。5,000円/日くらいだ。料金を吹っ掛けられている恐れもあるので、帰国後に使う予定もなかったにも拘らず、正式の領収書を発行させた。

   タイ北部の山裾に位置するチェンマイは、気候温暖な上に風光明媚な人口が15万もあるタイ第2の地方都市である。大抵の発展途上国では首都のみが巨大都市になり、2番目の都市と雖も人口は極端に少なくなる。
   
   幹線道路に沿って20ヶ所近くも、直営工場付きの御土産専門店が続々と開業していた。日傘・宝石・皮製品などなど。刑務所でも受刑者に技術指導をしながら宝石を加工していた。研磨角度を精度良く出すために工夫を凝らしたジグも豊富だ。国際的な観光都市だけあって、200室もある立派な新しいホテルも数軒あり、豊田市のホテルなどと規模を比較するのも馬鹿馬鹿しい程だ。

   市内には古い寺院も多い。古い寺院はエメラルド寺院のようなけばけばしさもなく、日本人には殊の外親しみ易い。殆どの歯が抜け落ちた年老いた僧侶がタイ語で話し掛けてきた。アトムという言葉が聞き取れた。『日本は原子爆弾を落とされて、大変だったろう』ときっと言っているのではないかと感じた。

   2.ディナー・ショー

   町の外れには観光案内書にも紹介されている『カントク・ディナー・ショウー』の会場があった。夜はホテルまでの送迎サービス付きだ。観光タクシーの運転手が『切符が売り切れる恐れがあるから事前に買った方がよい。1,500バーツ(7,500円)だ』と言う。

   ちょっと高いような気もしたが、外国人相手のショウだし、珍しい名物料理も出るのだろうし、大金をはたいてここまで来たのだから、と思ってそのままドライバーに支払った。『明日も観光に出かけたいから、ホテルに迎えに来てくれ』と言って別れた。

   体育館のような建物の中でタイの田舎料理を食べながら、山岳民族の舞踊を見物した。もち米を固めに蒸した御飯や数種類のおかずが竹の籠に盛られて出された。手掴みで食べる習慣だ。お替わりも自由だったが、アルコール類は別料金だった。付近の農婦を中心にした人達が、民族衣装を着て集団で踊る。皆裸足である。
   
   見物人は筵の上に座っている。アジアの片田舎の貧しさが伝わってくる。およそ2時間のショウが終わった時、いくら有名なショーと言っても、低賃金のタイにしては料金に多少の疑問を感じた。念の為にもとキップ売り場で料金を確認したら何と『 500バーツ!』だった。 

   3.山岳民族

   翌朝ドライバーはノコノコとホテルに迎えに来た。『タクシー料金は夕方空港に着いた時に支払う』と言って再契約した。もし迎えに来なければ、空港の観光タクシー会社で1,000バーツは取り返す積もりではあったが、こちらには1,500バーツ支払ったと言う証拠がない。最善の方法は本人を吊るし挙げることだ。
       
   しかし、相手の英語力たるや文章ではなく単語を散発的に発するだけだ。出発するや否や車の中で『1,000バーツ』と大声で一喝。『案ずるよりは産むが易し』とはこの事か。全てを察したらしく素直に返金した。驚いた事には悪びれる様子もない。ダメ元の常習犯だったのであろう。

   山岳民族の集落地への出発地となっている駐車場に到着。乗用車は危険だから乗り入れ禁止と言う。仕方がないので出迎えの時刻を約束して別れた。ここまでの料金は勿論支払わない。

   20人乗りくらいの山岳走行用のトラックみたいな車に乗って再出発。相乗り客がいないので10人分払った。一寸高いなとは思ったがやむを得ない。高床式の小さな家が山の傾斜地に立っている。山岳民族の集落よりも御土産屋の家の方が多い。日本ではとっくの昔に姿を消している『肉桂の木の皮』を記念に買った。                             

   直ぐ近くには象のショーの会場があった。象が大きな材木を運ぶ労働の再現だ。鼻とキバと前足を使う。傍らの谷川では象使いが象の体を一所懸命に洗っていた。

   象にも乗ってみた。地上4mの背中から眺める世界は雰囲気が全く異なり、なんだか偉くなったような気がしてきたのは不思議だ。とすると背の高い人間は同じ様に感じているのだろうか? 
                          
   駐車場ではタクシーが約束通り解りやすい場所で待ってくれていた。『昨夜の事を空港で報告する事は止める』と約束して、チェンマイでの観光を再開した。大変親切になっただけではない。『昼御飯を一緒に食べよう』と誘ったが固辞されてしまった。

[5]タイ人

   タイ人は誇り高き民族である。アジアでは曲がりなりにも独立を維持して来た数少ない国である。しかもここ10年目覚ましい経済発展を遂げつつある。20年前日本の経済進出が目立ち過ぎた頃『欧米人の支配ならばともかく、同じアジア人である日本人の風下に立つ屈辱には堪え難い』と感じたのか、日本企業の焼討ちが頻発した。

   しかし今では、日本にはやっぱり敵わないと悟ったのか、表面的な攻撃行動は発生しなくなったが、心理的には内向している節が感じられる。わずかな出会いの体験だが、約束の時間に遅れても平然としていたり(渋滞のせいにしたり)必ずしも好感は持てなかった。
   
   しかしその都度、怒気を込めて指摘すると次回からはすぐに改めたので、上に立つ日本人に問題があるのかも知れない。私はタイ人は日本人よりはインド人に近いと思って、自分の意思を明白に遠慮せずに伝えることに徹したら、却って人間関係が良くなった。
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敬虔なモスレムの国・インドネシア

   インドネシアの入国は大変厄介だ。荷物検査が厳しい。『ビデオカメラは出国時まで空港で一時保管扱いされる可能性があるだけではなく、撮影済みのビデオフィルムは没収される恐れさえある』と、元駐在員の中さんから日本出発の直前に聞かされていた。

   その対策としてタイを出国するときに、日本へ出張予定だったタイトヨタのタイ人に、それまでに撮影した3ヶ国分のフィルムはハンドキャリーとして運よく託せた。帰国すると先に届いていて、我が机の上に置いてあった。

   大型旅行鞄2個・中型1個・中型鞄並のVHSカメラケース・小型鞄並のカメラケースとアタッシュケースを空港の手押し車に載せると、山盛りになるだけではなく、よろよろとしてしまった。

   荷物検査の所へやっと到着すると、係官2人が『一寸こっちへ』と言って別室へと案内しようとした。渋滞を避けるために荷物検査を別室で入念にするのかと思い、ワゴンの向きを変えて後に続こうとしたら『荷物はその儘でよい』と言う。   
   
   まさか肉体的危害までは受けることはあるまいと思っては見たものの、胸の高鳴りは押さえ難かった。大勢の人がいる場所だから、荷物を抜き取られる事もあるまいとは思いつつも、素直に付いていくことにしくはなしと判断した。
   
   6畳位の窓のない部屋に案内するや否や、『チップ、賄賂』と日本語でしかも小声で呼び掛けて掌を上にして差し出した。荷物が多いから金持ちと見做したのか『予期した通り、やっぱり!』と思った。     

   『How much?』と聞くともじもじとするだけで答えない。そのうちにやっと『2人だから、2,000円』と言う。日本円は持っていないと言って財布を見せた。こんな事もあろうかと予期してトラベラーズチェックや残金は背広の内ポケットに隠し、お釣で貰っていたシンガポールドルの小銭と、ポータなどへのチップ用の米ドルの小銭のみを財布に入れていた。仕方がないやと諦めて10S$をサッと渡した。
 
   彼等はいったんはシンガポール$を受け取ったが米$を財布の底に見付けると、当時のレートはほぼ1$=2S$だったので、米5$と交換してくれと希望した。この時初めて米ドルの信頼の厚さを知った。

   その後(平成6年の秋)ベトナムのハノイで空港税を支払った時、窓口の女性が自分の財布からHK$を取り出し、『貴方は香港経由だから、HK$が役に立つ筈だ。これを米$に変えて欲しい』と話し掛けてきた時、アジアでは未だ米ドルこそが、国際通貨である事をまたもや思い知らされた。

   米$に交換した瞬間、『このまま引き下がるのは、我が面子に関わる』との気持ちがむらむらと出てきた。5$の損得の問題ではない。『領収書を書け!』と請求した。『正式な用紙がないので書けない』と言う。『どんな紙でもよい。金額と貴方のサインがあれば良い。5$は差し上げる。帰国後、領収書があれば私は会社へ5$の請求ができるから、私の個人的な損害はなくなる』と説明した。
    
   彼等は一瞬困惑した表情を見せた後、諦めたのかお金を返した。領収書を空港の責任者に見せられて、首になるとでも思ったのであろうか?。それとも私の顔に鬼気迫る物を感じ取ったのであろうか?。

   税関に戻ると、荷物検査もなくフリーパスだった。恐らく仲間がチップを受け取った筈だと推定しての見逃しだと思った。外では迎えの人達が心配そうに私を待ってくれていた。窓ガラス越しに『私が連行された』のが見えたそうだ。

[2]寮

   旅費節減にも協力すべく、インドネシアでは『メス』と呼ばれている単身赴任者用兼出張者用の寮に泊まった。大邸宅を改装し、2階にはバストイレ付きの部屋が多数あり、1階には食堂や居間があった。庭も広く大木の緑が溢れていた。都心にありながら、高級住宅街は流石に静かで、庭木のお陰か意外に涼しい。   
 
   日本食の朝食も出た。夕食は予約制だった。珍しく日本料理だ。東京への出張者用寮である御茶ノ水寮の食事内容によく似ていた。洗濯物を朝出すと夕方には部屋に届けられていた。しかも下着にすらアイロンが掛けてあった。ホテルよりも気楽で便利だ。しかも都心に近い閑静な1等地である。

[3]赤道直下の大国

   長い間親しんでいたメルカトール図法による錯覚を又もや体験させられた。赤道直下の大国インドネシアの広がりを地図で示された時、私は改めてこの国の大きさに驚いた。インドネシア全土の島の分布面積はアラスカを除くアメリカ合衆国にほぼ等しかった。しかもジャワ島が南半球にあることなど夢にも思っていなかった。                                

   小中学校時代には地理が大好きだった。小5の時には地球儀を作った。中学校の時には旺文社の大学受験参考書『人文地理の研究、上・下』も買い求めて熟読し、高校生用の地理学辞典を『ア〜ン』まで読み通して以来、統計データにも些か強いと自負していたのに!。

   朗々と且つ延々と響くコーランをうたうお祈りの声に、ここがイスラム圏では人口最大の国であることを思い出した。お祈りのメロディは異国情緒たっぷりに聞こえる。西洋音楽や日本の流行歌とは異質だ。それに一息が長い。肺活量の大きい人だけがうたっているとも思えないので、発声法に何か違いがあるのだと思う。

[4]ジャカルタ

   人口密度は日本以上という島国インドネシアのジャワで、しかも数百万人がぎっしりと詰め込まれたジャカルタという先入観が大き過ぎた。2〜3日経つと今度はジャカルタはアジア大陸の大平原にある大都市のように思えてきた。ジャカルタ近辺は大きな山も大河川も見掛けず、なだらかな平ぺったいゆとりのある場所だ。

   都心から30分も車に乗ればのどかな田園地帯が広がっていた。日本や北ベトナムのように隅から隅まで農地に活用されている程ではない。あちこちに雑草が生えているだけの未開拓地が視野に入って来る。ジャワはイギリスと同じように可耕地・可住地が多そうだ。

   ジャカルタの中心部には大国の首都に相応しい広い道路とムルデカ広場があった。高さ 137mの独立記念塔に登ると眼下には、はるか彼方まで平べったい市街が広がる。直下の大通りは数えてみたら片側10車線もあった。

   名古屋市の 100m道路は幅は広いが、中央部が緑地帯を兼ねた公園になっているため実質的には狭い道だ。一方こちらには中央に緑地帯がなかった。しかし10車線もある部分は1,000m足らず、その先は半分になっていた。道路の両側には20階建て以上の高層ビルが 200m置きくらいに建っている。全部で20本は越える。

   高層ビルはこの大通りの両側にしかないため、ジャカルタのことをワン・ストリート・シティとオーストラリア人が名付けたそうだ。しかしこの大通りを車で通るときには大型ビルの谷間にいるみたいに感じ、国際都市ジャカルタの面目躍如の迫力が伝わる。ビルとビルとの隙間からはその奥が覗けないようにベニア板で目隠しがしてあるのが寂しい。独立記念塔からはその内部に点在する、隠したはずのスラム街が丸見えだ。

   独立記念塔のある広場の地下は博物館になっていた。ジオラマでインドネシアの歴史が展示してあった。そのスタートにはピテカントロプス・エレクトス(直立猿人)の数点の頭蓋骨があった。フラッシュを焚く撮影は禁止されていた。そのため最初は本物かと思ったがよくよく見ると、イミテーションのような気がしてきた。真偽は確認していないが光沢があり過ぎる点に疑問を感じた。

[5]タマム・ミニ

   ジャワ島は古くから人が住んでいた割りには遺跡が少ない。中部に仏教遺跡ボロブドールがあるくらいだ。残念ながらジャカルタにはこれといった観光資源がない。

   その代わり、都心から僅か20Kmの場所に『タマム・ミニ』という公園があった。インドネシア各地の特色ある建築物がフルサイズで20戸くらい復元してあった。屋根の形や使用材料が地域によって大幅に異なるだけでなく屋敷内の植物も異なっていた。
                                    
   また別の場所にはインドネシア全土の1/100,000くらいの地図があった。海は巨大な池で表現しカリマンタン等を相似形の島で表現していた。そのほか博物館などの大型の建物も幾つかあったが見学する時間がなく諦めた。

[6]ショッピング

   ジャカルタでのショッピングには、幸いなことに現地会社の日本女性が手伝ってくれた。この女性は埼玉大学卒、日本への留学生であったインドネシア人と結婚して移住したのだそうだ。

   40代のグラマーな美人である。夫は銀行員だそうだ。当時の留学生は出身国ではスーパーエリート。いくらインドネシアが発展途上国であっても並の日本人と結婚するよりは、薔薇色の人生が送れる筈だと思っていたらしい。

   ところがその後の日本経済は、彼女の予想を裏切るかのように大発展してしまった。彼女の夢の一部は萎んだものの、日本語の通訳だけではなくキャリアウーマンとして、現地会社(モビリンド)の管理職になって活躍していた。しかし彼女の言によれば『思いも寄らぬ苦労の日々が続いた』とかで過去についても、現状についても多くを語ることは避けようとしていた。

   彼女は当然のことながら日本人に人気のある店や特産物と価格には詳しい。薦められるままに『バティック』のテーブルクロスや大型ハンカチサイズの美しい染め布も大量に買った。この時、布といえどもズシリとした重みを感じた。イスラムの国だけあって、模様は中近東の製品と同じような幾何学パターンだった。綿糸は太くて度重なる洗濯にも耐え、色落ちもせず今も妻が愛用している。

   インドネシアでも他のアジア各国と同じように、木彫りの装飾品作りが盛んである。イスラムの教義の1つ『偶像禁止』はモスクの中とは違って、美術工芸品の世界には及ばないのか、ヒンズー教を連想させる人物像や仏像も多い。作った人の努力が肉薄してくるようなものを選んでは買った。今も記念の品として自宅で飾っている。

[7]ゴルフ

   ジャカルタでも休日にはゴルフに誘われた。都心にあるゴルフ場だった。日本でいえば皇居のど真ん中といった場所である。クラブハウスに到着したらキャディが車をワッと取り囲んだ。プレイヤーがキャディを指名できるそうだ。そんなことを言われてもキャディとして誰が適任かなど分かる筈もないので成り行き任せにしていたら、クラブの方で適当に割り当ててくれた。

   インドネシアではキャディは何と全員男だった。聞くところに寄ればシングル級の腕前の人も多いとか。私に付いたのは28歳の美男子だった。妻が2人いるそうだ。『毎晩交互に夫々の家を尋ねるんだ』と嬉しそうに語った。

   敷地面積は50万uくらいで標準の半分だったが、周囲には高層ビルが聳え奇妙な贅沢観を味わった。敷地内を縦断する公道があったため、イン・アウトはその下に掘られたトンネルで繋がっていた。敷地の制約からホールによってはウッドが禁止されていたり、危険防止のためにネットが張られていた。

   さすがに都心のクラブだけあって、クラブハウスにはシャワーの設備があった。日本人が大勢来るところでは、徐々にハウスはデラックス化しているとかで、今や風呂がある所もあるそうだ。チップを渡さないままシャワーを浴び、30分後にハウスから出てきたら、キャディが客を見逃してなるものかと待ち伏せしていた。

[8]軍人

   物流設備を調査すべく港へ出かけた。ビデオカメラの覗き窓に写る白黒の画像はピンぼけでしかも小さい。大勢の港湾関係者が物珍しげにゾロゾロ付いてくる。いろいろ撮していたら突然、背後から軍人に歯がいじめにされてしまった。

   何時の間にか気が付かないうちに岸壁の倉庫の積もりが『艦船』を撮っていたのである。即座に『申し訳ない。フイルムを巻き戻すから、チェックをして欲しい。画像の削除方法を説明するから、問題箇所を消して欲しい』と頼んだ。

   軍人は面倒臭いと思ったのか『かまわん!』と一言。日本人より遥かに臨機応変な面があって助かった。それとも即座に詫びたのが効いたのか?。それとも外国人だったためか?。それとも成り行きや如何と凝視していた同国人の視線を感じて見逃してくれたのだろうか?。

   見物人も含めて全員に集まってもらって、ビデオで記念撮影させてもらったら、それぞれ嬉しそうな表情をしてくれたので、実の所ほっとした。

[9]インドネシア人

   生まれて初めて出会ったインドネシア人は、中国・韓国・日本人とは明らかに違いが認められる人種だった。タイ人とも違う。皮膚の色がやや黒い。平均身長は日本人よりも数cm小さな印象を受ける。中近東の人達のように男は髭を生やしている。髪は縮れてはいない。典型的なマレー系の人種のように思えた。

   文字はアルファベットを一部改造して使っている。発音記号と思って読めば通じるそうだ。日本人に取っては大変助かる。しかも知識人は英語も得意で標記どうりに発音するから、私にはオーストラリア人の英語よりも格段に聞き取りやすい。
   
   国民の大部分が敬虔なモスレムであるためか、仕事で出会う人は勿論の事、町で出会うどの人も大変穏やかである。香港や台湾で見掛ける中国系の『鶏のように騒がしい人種』とは大変対照的であり、宗教は違っても私には心が休まる人達であった。きっと犯罪も少ないのではないかと思った。

[10]出国
     
   4週間の出張も瞬く間に過ぎ去り、少しずつ買い求めた筈のお土産品もいざ荷造りしてみたら、鞄に入りきれない程になっていた。詰め合わせに工夫また工夫。やっと準備完了。空港で計ったら総重量は何と90kgもあった。ビジネスクラスの重量制限を60Kgもオーバーしていた。

   当たり前のことながら『超過料金を払え』と言う。『現金は使ってしまったから持っていない。今まで罰金など払ったことはない!』と我ながら段々と交渉に慣れてきた事を感じる。押し問答していたら、サッと傍らから空港の職員服を着た人が助太刀に現れた。

   『まかせな』と言う。結局、最小単位らしい『5Kg』の超過に収まった。やれやれと思っていたら、『チップ』と言う。仲間はグルだと直感したが、旅も無事に終わった事だし、彼の労に感謝して、別の所に隠していた財布からおもむろに『10$』を取り出して渡したら、満足そうに受け取ってくれた。
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おわりに

   大西利美さんと山さんの配慮の下に思いも掛けず、4週間もの海外出張をさせて貰い、欧米の本国とは異質の白人2ヶ国と、日本とは異質の東南アジアの代表的な宗教国を訪問する機会を得た。

   日本にいただけでは予想できない人口過疎な先進国の課題、一方人口の溢れる不運な貧しいアジアの国々の現実に接し、改めて日本の総合的な豊かさを再認識した。そして、やっと世界に対する日本の課題とは?トヨタの課題とは?を考える余裕も出て来た。出発前には予想だにしていなかった心境の変化、若しくは広義の教育効果を感じた。

   さらに持ち帰ったビデオに対しては、思いも掛けず社内外の関係者から『感動した』との率直なお褒めの言葉をいただき、その後の新しい仕事にチャレンジさせて頂く切っ掛けにもなったように思う。今回の出張の便宜を図って下さった両氏に感謝する所以である。
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