本文へジャンプホームページ タイトル
旅行記
           
ヨーロッパ
コーカサス3ヶ国(平成18年12月10日脱稿)

   コーカソイド(白人)発祥の地と称されているコーカサス地方は、44万平方Kmの比較的狭い山岳地帯に10もの小さな国がひしめきあっている。有史以来、当該地は周辺のアッシリア・ギリシア・ペルシア・ローマ・アラブ・モンゴル・トルコ・ロシアなどの列強に度々蹂躙されつつも、しぶとく生き延びてきた。

   コーカサス南部の3ヶ国(アゼルバイジャン・グルジア・アルメニア)はソ連邦の崩壊とともに独立したが、同時に独立したバルト3国や中央アジア5ヶ国とは性格を異にしていた。バルト3国は完全なる欧州、中央アジア5ヶ国は同じく完全なるアジアの国だったが、コーカサス3ヶ国は欧州と中央アジアの両方の性格を引きずっていた。

   コーカサス3ヶ国では首都など大都市の中心部や商店街の雰囲気は欧州に似ているが、農村地帯は中央アジアそのものだ。広大な放牧地帯ではオランダやドイツのように牧草を育てている様子は無く、自然に生えている雑草を羊や牛に勝手に食べさせているだけだ。中国の新疆(東トルキスタン)とは異なり、過放牧を避けているのか沙漠化だけは巧みに回避していた。

   バザールの雰囲気はシルクロードの中核国家群である中央アジアと全く同じだ。大げさに言えば、商品の質こそ異なるものの日本の百貨店・スーパー・専門店・ホームセンター・ドラッグストア・コンビニ・ファーストフードなどを一箇所に集めたのがバザール。これぞ正しく One stop shopping の元祖。此処ほどに賑やかで活気がある場所は他には全く無い。欧州各国の広場にも食料品中心の露天市場はあるが、価格交渉をとことんする習慣に乏しく、静か過ぎて私には物足りなくなってしまった。

   コーカサスの国々は小さいとは雖も多民族・多宗教・多言語がモザイク状に入り組み、相互にいがみ合いながら今日に至っている。各国間の歴史的な複雑さは、日中韓3ヶ国の相克よりも遙かに深刻だ。一見の旅行者としての私には、短期間で全貌を正確に把握することは所詮無理だった。

上に戻る
はじめに

   かつての我が海外旅行先はトヨタ自動車の海外工場がある国と、序に立ち寄ったその周辺の工業国が主だった。しかし、定年退職後、特に4年前の多重がん(胃がんと食道がん)の治療後には徐々に関心が変わってきた。物見遊山主義から、余生を意識しながら来し方行く末の人生を考えるように軸足が動き始めたのだ。とは言え、これも典型的な老化現象の一つに過ぎないが・・・。

   その結果は、海外旅行先の選択にも影響してきた。最初に関心が強まった分野はインド、エジプト、インカ帝国などの過去の壮大な遺産を守りながら生きている人たちとの交流だった。

   その次が欧亜にまたがる旧ソ連邦だった。かつてフルシチョフが国民の生活水準でもアメリカに10年で追いつけると豪語した(鉄鋼と石炭の生産高の比較から、ひょっとしたら有り得るかもしれないとの夢を国民に与えたが、実現性を欠く単なる思い付きの妄想だったと徐々にばれてしまった・・・)国の実体とは何か、との関心は持ち続けていたものの、鉄のカーテンの彼方を覗き見る機会は残念ながら無かった。

   正に『待てば海路の日和あり』を地で行くかのように、旧ソ連邦の崩壊後に誕生した15ヶ国もの国々への海外旅行がいとも簡単に実現したのだ。早速、平成16年にはロシアへ、平成17年にはバルト三国へと出かけた。

   引き続いて平成18年初夏には中央アジア5ヶ国へと旅立ち、とうとう今回はコーカサス3ヶ国を目指した。旧ソ連邦で残る国は、とうとうウクライナ・ベラルーシ・モルドヴアだけになった。

   かつてのローマ帝国や今日の欧州を一つの世界と見なせるならば、旧ソ連邦・アラブ・中国・インドもそれ単独で欧州に優に匹敵するほどの歴史・民族・宗教・言語・文化の多様性が溢れる世界だと実感した。その対極に当たる国の一つが『単一民族国家』との誤認を国民の殆どが信じ込まされている日本か?   

   でも、それらの多様性は諸刃の剣だった。自然界では多様性こそはその交互作用でより望ましい状態へと変化することが多く、雑種は純粋培養種に比べ環境変化への抵抗力が大きいと歴史が証明している。

   しかし、人間の世界では自然界とは異なり多様性を活かすのが難しいようだ。多様性が個々の主義主張の乱立を招き、内部摩擦・抗争が絶えず、プラスの効果を発揮する力に結集されない場合が多い。多民族統治に成功したローマ帝国は多様性を活かせたが、人智が一層蓄積された筈の今日なのに、その人智を活かせる政治が難しいのか、気の毒にもコーカサス諸国も難題を抱え込んでいるままだった。政治の犠牲者、それはいつの世でも国民そのものだった。
上に戻る
トピックス

[1] 出発準備〜帰国

@ 事前勉強

   今回も豊田市図書館に出かけ、蔵書の検索システムを使ってコーカサス関係の本を探した。意外なことにほんの僅かしか蔵書がなかった。希望書を申請すれば購入してくれる制度になってはいるが、面倒なので止めた。まだ日本人でコーカサスに関心のある人が少ないらしい。現地ガイドの話では、日本人観光客は年間1,000人程度とか。

   コーカサスが書名の一部に使われている本はたったの二冊だったが、旧ソ連邦や現ロシア関係の本の中にコーカサスが含まれている場合もあった。旅行中の手持ち資料として購入した最新版の地球の歩き方でも、コーカサスは『ロシア』版に含まれていた。

   地球の歩き方は毎年のように改定版を出すし、最新の資料や写真も豊富なので旅行中の手持ち資料としては重宝している。しかし、対象国に迎合し読者に過大な期待を抱かせがちな執筆態度が強すぎ、紹介物件の魅力を針小棒大に主観的に記述する傾向が見受けられるのが玉に瑕。過大評価を割り引いて読む癖が、とうとう付いてしまった。

A. 万年雪の大コーカサス      1981年?月 1,700円  日本テレビ
B. シルクロード               1984-12-1 3,200円   日本放送出版協会
C. 中央ユーラシアを知る事典    2005-4-11  6,500円  平凡社
D. コーカサスを知るための60章    2006-4-10 2,100円   明石書店
E.. 地球の歩き方 ロシア       2006-6-2 1,880円     ダイヤモンド社

A 西遊旅行

   今回の催行最低人数は10人。催行予定日は沢山あったが応募者が少なく、10/1の出発日に参加希望者を誘導したものの、それでも不足した結果、催行最低人数を8人に変更した。

   西遊旅行の団体旅行に参加したのは初めてだった。直近の売上額・利益・社員数を質問したら公開していないとの理由で回答拒否。信用度も不明だし、催行も未定状態だった。旅行社の計画倒産も有り得ると考えて『申込時の一時金は支払わない。催行決定連絡が来た時に全額を一括して支払う』と担当者に連絡し、了解だけは取り付けていた。

   催行一ヶ月前頃になって9人集まったので催行を決定したとの連絡を受けた。約束通り直ちに全額を送金した。

   数日後に『参加者が6人に減った。採算が合わないので3万円更に支払って下さい。今後も営業努力は続けます。その結果、参加者が7人になったら追加料金は2万円、8人になったら1万円に減額して清算します』との一方的な連絡があった。

『私は契約通りの金額を振り込んだ。参加者が減ったのは私の責任ではない。契約後の条件変更は私には認められないので、契約を解除する。催行日の一ヶ月以内前の参加者からの解約には2割のペナルティが求められるが、今回はその逆だ。私にペナルティを支払って下さい。更に既に購入済みの中部=成田間の航空券の解約手数料も支払って下さい』

『当社の旅行約款を読んでください。そのようなペナルティの支払いは約束されていません』
『その旅行約款こそおかしなものだ。旅行社と参加者とは双方が対等な双務契約下にある。最近話題の保険金不払い問題と似ているね』
『私はこの旅行の取りまとめの責任者です。貴方の提案はお受けできません』
『私がキャンセルしても催行するのですか』
『中止します』

『貴社は、たった3万円の収入減で、もっと大きな損害を受けますね。信用の毀損です。私は貴方と契約したとの認識はしていません。貴社と契約をしたのです。僅か数十人足らずのミニ旅行社の場合、実質的な実権はオーナ社長にあるはず。社長に報告して相談し、明日中に回答されたい』と強硬に主張した。

    翌日『3万円の請求は石松さんに限り求めません。他の参加者には黙秘願います』。『判っているよ。この件は私と貴社との関係であって、他の参加者とは無関係だ』と回答。

   もう旅行は終わったので時効と一方的に判断し、我がホームページの多くの読者の参考にも資すると考え、この旅行記に経緯を載せることにした。

   私は旅行中に添乗員と参加者全員に、我がホームページのアドレスも記載している自己紹介書を旅行中に参考までに手渡している。約5万字程(結果としては、蛇足を載せ過ぎて5万字をやや突破した)になると見積もった今回の旅行記は、来年一月末までに書き上げてホームページに載せると約束した。今回の参加者がこの報告を読んで不満ならば、個別に西遊旅行と交渉すれば済むことだ。

B アエロフロート

   今回の成田=モスクワ間の国際線はロシアのアエロフロートだった。ロシア製のジェット機は性能が悪いのか、資金難で老朽機の更新が出来ないのか、度々墜落事故を起こしているので些か心配だった。しかし、搭乗機はかつての敵国、ボーイング製の新鋭機だったのでほっとした。老朽化の程度を窓の透明度(空中の塵との摩擦で出来る疵の多少)で評価する限り新品同然だった。

   事前に心配したのは、機内持ち込みの鞄に液体の入った瓶を入れることが許可されるか否かの事実確認だった。2種の液体を機内で混ぜて爆弾を作るとの奇想天外な手段(無機化学では初歩的な知識に属するが・・・)を自爆テログループが採用し始めて以来、米国行きの飛行機では荷物検査で化粧瓶やアルコール類が発見されると廃棄させられるとのニュースが流されていた。おかげで各免税店の売り上げは激減。

   旅行社に確認しても運航会社の裁量の範囲だし、規則が刻々と変わるので、当日の見通しは断言できないが、だんだん緩和されてきたとの気休め程度の回答。自己リスクで旅先での寝酒用にいつものように、オールドパーの1リットル瓶を購入。何事も無く機内に持ち込めた。   

   しかし、何たることかと驚かされたのは、機内サービスのアルコール類が旅行社からの情報通り有料だったことだ。通常、品質さえ問わなければ国際線ではどこでもビールやワインは無制限且つ無料。日本発の場合は外国機であっても、日本製のビールも提供する場合すらあるのに。

   缶ビール1個が3ドル(360円)か2ユーロ(300円)だった。周りを見回すと、アルコールを購入する客は大変少ない。僅かこれだけの追加負担でも乗客の態度は激変するのだ。この価格はレストランなどと大差はないから暴利とは思えないが、心理的な抵抗にはなっているようだ。

   私は睡眠薬のつもりで飲みたかった。10ユーロ札で購入したら、ルーブルではなくユーロのコインでちゃんとお釣りもくれた(注。海外では、外貨で支払った時の買い物のお釣りは、原則としてその国の通貨で支払われる。今回に当てはめるとルーブルでお釣りが支払われる)。ビールはロシア製だった。私にはビールの品質評価は出来ないので、何でもよかった。

C 日本語

   今回の添乗員の英語(例えば欧州や中東では基本単語の一つ、割礼=circumcisionも知らなかった。経営学部卒とかでは止むを得ないか・・・)は勿論のこと、日本語の実力不足には驚いた。

   人は誰でも文字を学ぶ以前の幼児期には、耳から入る音声で自然言語である母国語を学んでいる。世界各地の文盲は大人になっても、言語の学び方は今尚幼児期と同じだ。

   義務教育のみならず各種教育が普及した現在、学齢以降の日本人は正しい漢字の読み方を積極的に学ばされている。しかし、特殊な熟語の漢字の読み方は外国語と同じように強い意志を持って、各自が積極的に学ぶ以外の学習法は無い。

   今回の添乗員は漢字の間違った読み方を頻発した。ご飯を食べている時に砂を噛むような不快さに襲われ、時々こっそりと本人に教えていたが、途中で無駄と判り中止した。同じ間違いを繰り返すからだ。尤も、同行者達は言語に関する感受性が低いのか、添乗員と同類レベルなのか気にしないようだ。

   例えば、『重複(ちょうふく)』をじゅうふく、『外相(がいしょう)』をがいそう、『古文書(こもんじょ)』をこぶんしょと読む類だ。これらの読み方は推定で読むのではなく、初めて出会ったときには国語の辞書を引き、正しい読み方を調べて暗記する以外に勉強法はない。あるとき話題に出した荊妻(けいさい)に至っては、添乗員は勿論のこと同行者の誰一人としてその意味すらも知らなかったので、平均的日本人の国語力の現状には今更ながら愕然とした。

   私は漢字に限らず、森羅万象知らないことやあやふやに感じた事項に出会ったときには直ぐに調べられるように、勤務先の机の中と自宅の書斎の本箱にはお気に入りの同じ座右の書を用意していた。

   広辞苑(時々更新した)・三省堂の新明解国語辞典・岩波の国語辞典・角川の国語辞典・国立天文台の理科年表(こちらも時々更新した)・研究社の英和辞典と和英辞典・日本書院の高等地図・旺文社の受験参考書である詳解世界史(世界史の研究の改定版)である。更に、書斎には平凡社の世界大百科事典全26巻も完備していた。

   印刷技術の発明以来、書物は画期的に安くなったので、同じ本を2冊買うことに何らの躊躇もしなかった。各国語辞書や理科年表は英語の辞書よりも、文字通り『韋編(いへん)三たび絶つ』ほどに活用していた。痛んでしまった背表紙をガムテープで補強していた愛用書は定年退職時に全部持ち帰ったが、今でも捨て難いほどの愛着を感じている。

   50年前の受験参考書の中で今尚愛用しているのは『吉岡 力(永眠)著 ⇒ 歴史教育研究所補訂』の旺文社の詳解世界史だけである。平成18年の秋、全国各地の628もの進学校(11/12現在)で必修科目となっている世界史の履修漏れ事件が発覚し、官民挙げての問題となっているが、私には信じ難い事件だ。世界史とは人類の努力の結晶の歴史。この知識抜きには日々の新聞記事すら理解し難い筈だ。受験対策とはいえ、関係者は何と愚かなことをしたのだろうかと、憤慨。

D 総費用

   @ 旅行代金・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・428,000円
   A 空港使用料・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2,040円
   B 燃料特別付加運賃・・・・・・・・・・・・ 12,000円
   C 査証代行手数料・・・・・・・・・・・・・・・ 4,200円
   D 査証代・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 9,000円
   E 豊田=中部国際空港バス代金・・・・・ 3,000円
   F 中部=成田国内線・・・・・・・・・・・・・・ 24,200円

   合計・・・・・・・・・・・・・・・・・・482,440円

   今回の旅行社は海外旅行保険に入らない場合は、申し込みを受け付けないと言ってきた。私は、海外旅行保険は異常に高いので、還暦後は入ったことが無い。JCBのゴールドカードに自動的に付加されている旅行保険(死亡時5,000万円他盛りだくさん)で代用していると伝えたら、約款のコピーを送れと指示してきた。分厚い約款をコピーするのは面倒なので、約款を旅行の申込書と一緒に届けた結果、やっと受け付けてくれたので、保険金は支払わなくて済んだ。

   今回の総旅費は現地での酒代・チップ・お土産代を入れると、50万円を若干超えた。

E 1ドル札の入手方法

   海外旅行で一番重宝しているのは1ドル札。高価なブランド品への関心が、加齢と共に消滅してしまった私にとって、団体旅行で外貨を使う機会は昼・夕食事のお酒代と時々発生するチップの支払いくらいだ。

   今までは豊田市内の銀行で100ドル入りの詰め合わせセットを自動販売機で購入していた。このセットは1,5,10,20ドル紙幣を組み合わせて100ドルに纏めたもので、1ドル札は5枚しか入っていない。1ドル札を必要なだけ購入すると、旅行のたびに未使用の20ドル札が溜まるという欠点があった。

   中部国際空港内を暇つぶしにぶらぶら散歩していたら、中年の銀行員から声を掛けられた。『当行では枚数制限なしに新札でしかも1ドル札だけの“ばら売り”もしています。販売手数料はセット販売の場合と同率です。現在の待ち時間は5分です』と勧誘。1万円札を1ドル札に変換したら財布が分厚くなり、急に金持になったような気分になった。

F 電池

   3年前のエジプト旅行の時からニコンの超小型デジカメを使い始めた。その時、デジカメでは意外に電池の消耗が早いことに気付かされた。200万画素の小さなデジカメなのに平均すれば単三2本で数十枚しか撮影できず、20本も持参すると電池重量が負担にすら感じられてきた。フラッシュを使えばたちまち電池の寿命が来た。カメラメーカの省エネ努力の怠慢に憤慨した。

   今回初めて充電式電池を購入した。パナソニックの充電式ニッケル水素電池の容量は1,650mAh と電池の側面に記載されていたが、使い捨ての東芝製アルカリ乾電池には容量の記載が無かった。早速、販売店の電話を借りて松下電器の担当者に質問した。

   『電池の容量はアルカリ乾電池の方が水素電池よりも少し多いのですが、デジカメの場合は実用上では逆転します。アルカリ乾電池は残存容量に比例して電圧が下がりますが、水素電池は容量残高がなくなる直前に電圧が急落します。デジカメの場合、設定値以下に電圧が下がるとカメラの操作が出来なくなります。つまり懐中電灯のように電池容量の総てを使い切ることは出来ません。そのため実用上は水素電池の方がやや長持ちします』と、意外な回答を得た。

   スペアの2本を含めて4本あれば十分と判断した。今回の使用体験からも、上記の説明は正しいと判った。しかし、毎晩の充電セットの仕事が増えた。充電作業を忘れないために、ホテルの部屋に入ったら何はさて置いても、最初の仕事として取りかかる癖をつけさせられた。

G 荷物

   大型鞄の荷物制限20Kgはいつも気になる数値だ。今回の旅行地は平地から2,500mの高地まで含まれるので防寒具だけではなく、雨具も用意した。若干のお土産を買い込むことを想定して、出発時の荷物は18Kgに制限。鞄は8Kgあるので、正味の荷物は10Kg。

   下着類は洗濯する気も無いので、多少汚れても我慢することにし、靴下は毎日、猿股は隔日、下着(寒がり屋の私は上下とも一度に2枚ずつ交換)は3日ごとの取替えを想定した。靴下以外の下着は主として汗・皮脂などで内側から汚れるが、私は旅行中と雖も朝晩の入浴は欠かさないので、他人に気付かれるような老臭は避けられると予想した。

   カシミヤセータ2枚・スポーツシャツ2枚・ゴルフ用の軽量雨具上下・折り畳み傘・キルギスの民族帽・替えズボン・替えジャケット・皮ジャンパー・厚手のパジャマ上下・下着用ウィンドブレーカ上下・ジャケットの上に着るウィンドブレーカ・化粧品セット・電気かみそり・デジカメ・充電式単三電池4本・充電器・目覚まし時計・各種形状のコンセントの4本セットを梱包したら丁度18Kgになった。

   ガイドブックや旅行用の資料、免税店で買ったウィスキーはサムソナイトのアタッシュケースに入れた。前回までは単三電池を20本持参していたが、充電式に変えたら大変軽くなった。

H 被害

A.第一事件

   旅行社から帰国時の重量制限20Kgの厳守は指示されてはいた。アエロフロートやロシア内の空港も抜き取り被害に要注意とは前々から承知していた。

   最後に泊まったホテルには、海外では珍しくも体重計があった。風呂の体重計で鞄の重量チェックができた。私は22Kgだった。万一空港で超過を指摘されたら手持ち鞄に移す予定だった。空港で仲間に聞くと殆どは2,3Kgの超過以内。20Kg以内の人もいた。団体客は通常、全員の鞄の合計重量で管理されるから、これならば問題は無いだろうと推定し、添乗員に『超過料金を払えと言われたら、声を掛けてくれ。私が代わりに直接交渉するから』と言ってトイレに出かけた。

   トイレから戻ってきたら、同行者が浮かぬ顔。添乗員が『超過料金額の交渉を別室でする。鞄は既に積み込んだ』と言ったそうだ。我が出番も無く、後の祭り。添乗員に後で確認すると『全員重量超過。合計30Kg。300ドルのペナルティ』と宣告されたそうだ。添乗員とアルメニア人ガイドが別室で交渉した結果、『賄賂を渡して100ドルにした。お1人20ドルずつ払って下さい』。余ったお金はガイドへのチップか?

   私はアエロフロートのアルメニア人従業員の仕業だと推定した。アルメニア編で詳説するが、私は集団としてのアルメニア人を信用していないのだ。チェックインカウンターの重量計はディジタル表示されるが、彼らが10%多く数値が現れるように“調整”したと推定した。旅も無事に終わったことだし、疲れてもいたし、そのままにした。本当は我が体重で確認したかったが・・・。

B. 第二事件   

   成田空港で鞄を受け取ったら仲間の殆どが荷物の抜き取りなどの被害を受けていた。アルメニアのエレヴァン空港では2時間以上の時間があったが、モスクワでは着⇒発の時刻表上の時間は1時間25分。搭乗者が移動するだけでぎりぎりの時間しかなかったので、抜き取り事件はエレヴァン空港内のアルメニア人の仕業と私は推定した。

   しかし、同行者の1人と添乗員の鞄は積み替えミスなのか、同時には到着しなかった。団体で同時に荷物を積み込んだので、2個も積み間違えるとは考え難い。モスクワ空港内で抜き取りをしている内に積み遅れたとの推理も成り立つが・・・。
   
   ある人は鍵を壊され、ブランデーを抜き取られた。ある人は鞄の上から掛ける識別用のカラーベルトにも鍵を付けていたが、鍵を二つとも壊され日本円を抜き取られた。自宅へ帰るための電車賃がないとこぼしていた。ある人は、鍵は開けられていたが被害は無かった。
   
   電子ロックの最新型の鞄は私を含め2人だった。その方の場合、鍵は壊されずに開けられていたが、被害は無かった。私だけが唯一被害は全く無かった。
   
   私が最初に買った旅行鞄はサムソナイトだった。大型の割には軽いのが魅力だったが、数年で車輪の取り付け部が壊れた。その後買った鞄も数年で次々に破損した。空港でのチェックを忘れ、自宅で破損を発見した場合は保険請求が出来ず、已む無く自弁で修理したこともあった。これらに懲りて、豊田そごうに出かけ、国産の最高級品は何かと聞いたら『松崎』を薦めた。言われるままに購入して今日に至っている。
   
   さすがの常習窃盗犯も我が鞄の電子ロックを開けられなかったようだ。この鞄は重いのが最大の欠点だが無傷だった。尤も、開けられたところで出てくるのは薄汚れた下着が入っている程度だったが・・・。

I 体重管理

   三年半前の多重がんの治療以降、健康度の指標として体重を選び、朝夕の入浴時には同一条件でいつも体重を確認する習慣が続いている。体重を確認しないと落ち着かないのだ。管理水準は過去30年以上も一定だった54Kg。日本のように体重計が備えられた大浴場のあるホテルは海外では少なく、いつも心理的な不安を抱えたまま。

   海外旅行の醍醐味の一つは、車の運転から開放され、酒を飲んだままバスに乗り込める自由。この歳になると禁酒は禁欲よりも遙かに苦痛だ。昼・夕食時にはいつもビールを飲んだ。コーカサスも欧州各国と同じく瓶ビールは500ccが基本だ。
   
   食前にビールを飲むと炭酸ガスが胃に充満し食が細るのは何度も体験していたが、仲間が痛飲しているのを眺めるだけの人生には耐えられず、一緒に飲んだ。時にはワインにも切り替えたが、イマイチ不満だったので、ビールを優先。

   自宅では食間にビールを飲むことにより、食が細るのを避けていた。旅行中は移動中に立ち寄ったガソリンスタンドなどで冷えたビールを買って、時には車内でも飲んだが、その機会は少なかった。

   アルメニアで3連泊した最後のホテルには、珍しく体重計があった。2週間の旅行で3Kgの体重減。体重を復活させるには気合が必要。旅行記を書き始めた11月8日までに52Kgまでやっと復活。年内に54Kgまで戻すのが当面の目標(蛇足。遂に12月1日までに奪還した)。

   体重が減ったのは食べ物が不味かったからではない。コーカサスは基本的には農業国。山岳地帯とはいえ人口も少なく、北朝鮮のような飢餓とは無縁。羊や牛の放牧も盛んだし、野菜や果物も豊富。各種ヨーグルトや乳製品、ハムなどの加工食品も豊富。不満なのは新鮮な魚が食べられなかったことくらいだ。
   
[2] 人文地理

@ 欧亜の境界

   今も愛用している昭和37年2月8日発行の高等地図(日本書院)では、東経60度近辺のウラル山脈沿いにソ連邦を欧亜に分け、カスピ海と黒海を結ぶ線の北は欧州、南はアジアに区分けしていた。この方法だとコーカサスはアジアになる。

   しかし、我がホームページ(トップページ)で、訪問済み国を赤色で表示するために使った『http://www.world66.com/myworld66/visitedCountries』でも、外務省のホームページでも、コーカサスは欧州に分類されていた。今回出会った訪問国の人々も、コーカサスは欧州に属するとの認識では一致していた。

   日本の地図のいい加減さは、錫婚旅行(昭和52年秋)でフィリピンに出かけた時に、日本に留学した体験もあり、フィリピン大学の教授もしているガイドからも指摘されたことがある。日本で発行されている各種地図に記入されているフィリピンの、英語のスペルは殆どが間違っているとの指摘だった。正しくは Philippines なのに、上記の日本書院の地図でも Philippine と書いてあるのだ。何と情けないことか。
   
   5大陸の境界線をどこに引くかは、世界的には必ずしも決まってはいないようだ。自然条件(ウラル山脈とかボスポラス海峡とか・・・)で決まっているものには異存は無いが、人為的な国境を境界線にすると違和感が出てくる。
   
   アジアとアフリカの境界をスエズ運河、南北アメリカをパナマ運河で分けると、エジプトやパナマは2大陸に属すことになる。現実にもロシアは欧亜2大陸にニューギニア島はアジアとオセアニアに分割されているが・・・。

蛇足。

   トルコは20年も前からEUへの加盟を希望している。トルコの国土面積の97%はアジアに属している。EU諸国、中でもフランスはあれこれと難題を吹っかけてはトルコのEU加盟に反対している。実質的にはアジアに属し且つイスラームの大国でもあるトルコがEUに入るのは、歴史を振り返れば私にも違和感がある。

   東ローマ帝国の栄光の歴史は過去に捨て、かつてのオスマントルコ帝国の範疇だった西アジアから北アフリカに広がるアラブ諸国の中核国家として再出発する道を、トルコが何故選ばないのか不思議でならない。

A コーカサス地方とは

   コーカサス地方とはカスピ海(37.1万平方Km)と黒海(42.3万平方Km)に挟まれた地峡で面積は44万平方Km。ほぼ黒海の面積に等しい。蛇足だが、カスピ海は日本の面積(37.8万平方Km)にほぼ等しい。

   コーカサスは大コーカサス山脈によって南北に分断され、北コーカサスは実質的には今尚ロシアに占領された植民地。南コーカサスの3ヶ国はソ連邦の崩壊と共に幸いにも独立できた。北コーカサスは7つの共和国と2地方から構成されている。ロシアからの独立を目指して今尚流血事件が頻発しているチェチェン共和国は北コーカサスに属している。北コーカサス各国が独立するには未だ時間が掛かりそうだ。

   アゼルバイジャンはアルメニア内に飛び地としてナヒチェヴァン自治共和国を持っているが、本土西部にはアルメニアの統治下にあるナゴルノ・カラバフ自治州とその周辺部がある。従って、アゼルバイジャン(イスラーム)とアルメニア(キリスト教)とは宗教だけではなく、領土争いでも犬猿の仲。

   一方、グルジアには南西部のアジャリア、北西部のアブハジアの2自治共和国と北東部に南オセアチア自治州があるが、アブハジア自治共和国と南オセチア自治州はグルジア政府の統制が全く届かない半独立状態になっている。

B  南コーカサスの国々

   外務省のホームページからデータを以下のように転載した。

       アゼルバイジャン      グルジア       アルメニア

面積     8.66万平方Km      6.97万平方Km     2.98万平方Km
人口          830万人           460万人           321万人
人口密度   96人           66人              108人
宗教     イスラームシーア派    グルジア正教     キリスト教
民族     アゼルバイジャン人90%   グルジア人70%        アルメニア人93%
               ロシア人2.5%                 アルメニア人8.1%        アゼルバイジャン人2.6%
              アルメニア人2%               ロシア人6.3%            ロシア人1.6%

GNI合計       78.23億ドル(2004年)   37.8億ドル(2003年)   29.1億ドル(2003年)
GNI/人     950ドル(2004年)       830ドル(2003年)      950ドル(2003年)
在留邦人    32人(2006年6月)   1人(2004年10月)    1人(2004年10月)

   GNIとは一国における一年間の経済活動規模を貨幣価値で表した指数。国内総生産(GNP)に海外からの純要素所得を加えたもの。コーカサス諸国では海外所得は少ないのでGNPに近い。
   
   コーカサス各国の面積は日本で言えば北海道や九州などの州の大きさ、人口は県レベル。一人当たりの所得は3ヶ国とも大同小異。豊かさはパキスタン並み(GNP/人=847ドル。2005年のパキスタン経済白書)だ。

   各国とも中央アジアに比べるとロシア人は意外に少ない。日本人の在留者は大変少ない。

C コーカソイドの由来

   歴史的には、ドイツのヨハン・フリードリッヒ・ブルーメンバッハによって人種は19世紀になって分類され、その後1950年代から、コーカソイド・モンゴロイド・ネグロイド・オーストラロイドと呼称されるようになった。

   欧州人をコーカソイドと呼称するのは、コーカサス地方のグルジアで白人最古の骨が発見されたからだと、現地ガイドが誇らしく解説した。帰国後、インターネットでその由来を検索したが、そのことに触れている記事はとうとう発見できなかった。

   但し、『コーカサスを知るための60章』には、グルジアのクラ川下流のドマニシで発見された化石は、180万年前のものとされ、ユーラシア最古の原人として知られる、との記載があった。でも人類は、猿人⇒原人⇒旧人⇒新人と進化し、現在の総ての人類はアフリカで15万年前に発生した新人の後裔とされているので、グルジアの化石は新人の祖先ではない。

   考古学は一つの発見から考古学史が書き換えられることも少なくない。いつの日か欧州中央部で更に古い白人の骨が発見されたとしても、コーカソイドと言う呼称が世界的に今日ほど普及すると、名称を変更するのは無理だろうと推定してはいるが・・・。

D 南コーカサスの道路事情

   旧ソ連邦圏の道路事情の悪さは2年前のロシア旅行でのモスクワ郊外で体験していた。50年前の日本のレベルだった。昨年末、ゴルバチョフ元ソ連邦大統領が来日し、人気テレビ番組の『世界一受けたい授業』に出演した折に、『日本の道路の品質は世界一』と持ち上げる発言をしたが大げさとは思わなかった。

   今年5月に中央アジアに出かけた折にも、道路事情の悪さは体験した。旧ソ連邦圏内では日本の高速道路に匹敵する品質の幹線道路は未だになかったのだ。とはいえ中央アジアの幹線道路は人家の少ない平原の中でゆったりとした幅員を持ち、簡易舗装でも乾燥地帯なので路盤の損傷は少なく、その上に通行量も少ないため、おんぼろ車で80〜100Kmのスピードを出しても安全なのは一面羨ましかった。
   
   一方、南コーカサス地方は平らな中央アジアとは対照的に山岳地帯。狭くて曲線の多い道路が殆ど。大型トラックやバスが通行できる道は限られていた。今回は同行者が少なく、移動にはマイクロバスを使ったが、それすらもすれ違い困難な場所もあった。時には更に小さなバスに詰め込まれ、はみ出た大型鞄を中古乗用車のベンツに積んで運んだこともあった。

   ロシアからグルジアへと通じている、軍用道路と呼ばれる幹線道路があった。グルジアで反ソ事変が発生すると、ソ連邦軍の戦車部隊が軍用道路を疾走して鎮圧に向うのが目的かと、その名称から連想していた。

   しかし、この道路でも高々兵士輸送用の小型トラック程度の車しか使えないと判断した。絶壁のような斜面に作られた幅員の狭い所だけではなく、急カーブや未舗装部分が随所にあり、大型車や超重量車両(戦車とか)の通行のネックとなるのは、火を見るよりも明らかだった。

E 自転車や二輪車

   コーカサス各国の所得水準だと、東南アジアの実績から二輪車や自転車が普及していると予想したが、ものの見事に外れてしまった。殆ど見かけなかった。

   坂道が多く自転車には不向きな町が確かに多かった。そのためだろうか、自転車の延長上にある二輪車も殆ど見かけなかった。それとも、冬季、寒すぎるためだろうか。路面凍結が危険なのだろうか。二輪車メーカに魅力の無い市場なのだろうか。旧ソ連邦圏全体にいえる現象にも思えるものの、今尚不思議でならない。

F トイレ事情

   トイレの多さ、美しさ、しかも無料の日本だけは別格。コーカサス各国でも移動中に已む無く青空トイレも体験。レストランなどではトイレは数が少ないだけではなく、狭くて小さい上に汚い。大抵は男女一箇所ずつが基本。そのため、我が密かなる積年のテーマである包茎率や大きさの調査(放尿中は仕事も無いので、暇つぶしを兼ねて両隣を覗き見る習慣)は、残念ながら全く出来なかった。

   温水洗浄トイレには最新鋭のホテルを初め、市中でも一度も出会えなかった。幸い朝目覚めたら直ぐに催したので、その後に続く朝の入浴で代用。私は紙だけでの処理には耐えられないのだ。

[3] 風俗・習慣

@ ゾロアスター教

   ゾロアスター教は世界最古の一神教と言われ、古代ペルシアのザラスシュトラが開祖とされている。ユダヤ教を通じてキリスト教にも影響を与えた。古代ペルシアの民族宗教の教義をザラスシュトラが整理統合したものと考えられている。光の象徴としての純粋な「火」を尊んだため、中国では「拝火教」とも「?教」(けんきょう)とも呼ばれた。

   古代ペルシアでは至る所で天然ガスが噴出し、落雷などで自然に着火し燃え続けていたのではないか。その現象を見た人々は何時までも消えない火に対して特別の神秘性を感じていたが故に、ゾロアスター教が急速に広まったのではないか、と私には思えた。

   ゾロアスター教を国教としていたアケメネス朝ペルシアがその勢力圏をコーカサスまで拡大した時、ペルシア同様、天然ガスがあちこちで燃え続けているのを、日常的に見ていたアゼルバイジャン人への布教は、意外に簡単だったのではないかと思えてならなかった。

A 多民族・多言語・多宗教国民の配偶者選び

   コーカサス地方は小さな国々が密集しているだけではない。今回出かけたコーカサス3ヶ国の夫々でも、多民族・多言語・多宗教の人々がモザイク状に混在していた。夫々の国々で母集団の小さい少数民族に属している若者は配偶者選びには苦労しているようだ。

   属性(民族・言語・宗教)が一致する対象者から優先的に配偶者を選ぶそうだ。主たる理由は生活習慣が異なるからだとか。これらの国々の国民間の融和には時間が掛かりそうだ。この傾向は中央アジア5ヵ国でもほぼ同じだった。

   私の目には各民族間の人相の違いは判らないが、ガイドたちは判別できると自信たっぷりに答えた。欧州人には日本人と韓国人との人相区分は難しいらしいが、日本人には簡単に判るのと同じような理由か?

B 子供の所属民族の決め方

   異なる民族の男女が結婚して生まれた子供の所属民族の決め方は民族によって異なる。ユダヤ人の場合は、父親が黄色人種であれ黒人種であれ、母親がユダヤ人ならば子供はユダヤ人になる。蛇足だがユダヤ人とは民族を表し、人種を表しているわけではないので、ユダヤ人の皮膚の色は千差万別。

   コーカサス地方ではユダヤ人とは反対に、父親の所属民族が子供に引き継がれるそうだ。無人地帯だった日本列島には東西南北から多種多様な人種や民族が流入したはずなのに、所属民族に誇りを持てないのか、民族融和政策の成果か、いつの間にか先祖の属性の記録が失われてしまった。

   とはいえ東北日本人と西南日本人との平均的人相には、平成時代の今ですらも、まだかなりの差が残っているようだ。秋田美人とは言っても、三河美人とか島根美人とか鹿児島美人とは決して言わないようだが、何故なのだろうか。表皮だけに囚われた色白信仰主義の現われなのだろうか。荊妻は鹿児島出身だが・・・。

C 個人住宅の庭

   一戸建ての住宅の場合には、貴重な空き地の利用方法に国ごとの特色が極端に現れるのが興味深かった。日本人の殆どは庭の広さとは無関係に日本庭園を造るようだ。最近は米国式に芝生や英国式に草花を植える人も徐々に増えてはきたが。

   私は先達(せんだつ)から松の管理の苦労話(自分で管理するのは大変。時には脚立から転落して大怪我。自分の給料の高さは棚に上げて、庭師に頼むとびっくりするほどの料金を請求されるとの不満たらたら・・・)を度々聞かされていたので、猫の額ほどの敷地の周囲には目隠目的に雑木を植え、残りには芝を張っただけ。それでも芝内の雑草退治に音を上げた結果、イタリア製(2馬力)の電動芝刈り機を購入して5〜10月、毎週一回芝刈りを繰り返したら、雑草は成長点を切られていつの間にか消滅した。

   日本とは逆にコーカサス地方では、庭園を造るという習慣が殆どないようだ。大部分の人は果物を植えている。柿やりんごも多い。一番多いのは棚作りの葡萄。葡萄棚の下は家族の憩いの場所として、テーブルと椅子が置いてある場合も偶にはあった。庭が広ければ家庭菜園も間々見受けられた。

   日本人のように庭造りに関心を持つ外国人は意外と少ない。イギリス人やイギリス系の国例えばニュージーランドの市民などは、所謂イングリッシュ・ガーデンに凝り、四季折々の花を咲かせて楽しんでいるが世界的には例外に近い。集合住宅の多いドイツ系各国の場合は窓辺に花を咲かせた鉢植えを並べて楽しんでいるが・・・。

   イングリッシュ・ガーデンは『石と松』に凝る日本庭園に比べて安上がりなだけではない。週末の度に体を適度に動かし、精神的な癒し効果もあり健康管理にも役立っている。単位面積当たりの美観維持努力時間は日本庭園よりも格段に多い。

   江戸時代に日本を訪れた多くのヨーロッパ人が田舎の庭園文化を異口同音に絶賛していたが、世界的に見れば珍しい文化だったと、世界64ヶ国を駆け巡った今になって嫌でも納得できた。

D スポーツ選手

   コーカサス地方出身の関取が何故か増えた。黒海はグルジア出身。露鵬・白露山兄弟はロシアの北オセアチア共和国(グルジアの隣国)出身だ。

   2006年に引退した アメリカ生まれの男子プロテニスのアンドレ・アガシはアルメニア系イラン人だ。
 上に戻る
同行者の素描

   同行者は私を含めて僅か6人。こんなに参加者が少ない団体旅行は初めての体験だった。都道府県人口ランキング9位までの内、北海道と兵庫を除く東京・神奈川・大阪・愛知・千葉・福岡(人口順。神奈川県は大阪府の人口を追い越した)から各1名ずつの参加だった。

   日本人に人気のある欧州方面の団体旅行の場合、過去の体験では2/3は女性だったが、今回はたったの1人。男女別参加者数を出発前に聞いただけで、トイレなどの衛生状態・ホテルや食事の水準・ショッピングの楽しさ・治安状況などのチェックポイントは、外務省のホームページや各種ガイドブックを読むまでもなく推定できた。

   尤も、私が単独参加した理由は、荊妻が友人達と計画していたトルコ旅行と日程が重なったからに過ぎない。私は出張で延べ半年以上もトルコに出かけていたので、ガイドも買って出たかったのに・・・。

   これほどまでに人気の無い国への参加者とは予想通り、世界の果てまで旅をし尽くしたような旅慣れた人たちだった。それだけに現役で活躍中の人は1人もいなかった。さりとて不思議なことに超お金持と感じた人も少なかった。

   普通の日本人でも、意志さえあれば世界の果てまで旅行できる時代になっていたのだ。焦土と化した敗戦から60年、バブルが崩壊したとはいえ、日本人も豊になったものだと、今昔の感に堪えない。

   知らない人との相部屋旅行で苦労させられた人も多いらしく、相部屋参加者は私を含めてもたったの二人。相棒のいびきで眠れなかったから相部屋は懲りたとの理由が多かったが、この人たちは夫婦で旅行する時にも、別室で寝るのだろうか。人に言えない真の理由もありそうだ。

   私は自分自身がいびきをかいているのか否か知らないままだが、たとい同室者がいびきをかいても、寝酒を必ず飲むので何事も無く熟睡できるからだけではない。私は相棒が誰であれ気にならないどころか、1人の人生に触れられてまたとない感銘を深く受けられる上に、旅費すら安くなるので願ったり叶ったりの相部屋大歓迎主義。

   あるとき、参加者全員が今回の旅行とか海外旅行へ参加する目的や動機を紹介することになった。私を除く5人の回答は大同小異だった。

   『シルクロードの各国を回りたい。世界遺産・遺跡・自然を見たい』程度に留まった。還暦を過ぎた人たちなのに、同じ質問に対する子供達の回答と然して変わらない内容だ。訪問国の人々との交流に関心を持つと答えた人は1人もいなかった。
   
   私は10年以上も前から海外旅行へのスタンスは未だに変わらないどころか、ますます下記の考えにこだわるようになった。
   
   『人は両親を選べないように祖国も選べない。アメリカに生まれれば、たといボンクラであろうとも、アフリカや南アジアの貧乏国に生まれた天下の秀才よりも、労せずして経済的には恵まれた人生を楽しめる。
   
   私は世界遺産などを眺めるよりも、それぞれの生まれ故郷で一所懸命に人生と闘いながら生きている人たちとの、たとい瞬間的であろうとも、出会いや交流に限りない感動を感じています。海外旅行の醍醐味とは、人生をより深く知ることに繋がり、明日への活力を労せずして獲得できることにあります。
   
   この考えは私のホームページの旅行記編の中の“懐かしのあの国、この国”の最後にも触れています』と話した。
   
   上記の旅行記の最後の部分“おわりに”の全文をご参考までに以下に貼り付けた。
   
__________________________________________________________________

   
   正しく四半世紀前の1973年4月、初めての海外出張としてアメリカへ出かけた。にわか勉強の我が拙い英語がアメリカ人に果たして通じるだろうか?と不安で一杯だったあの頃の日々が鮮明に思い出される。しかし、歳月はいつの間にか私を更に育て、今回のパキスタンではとうとう、居並ぶインテリ管理職を前に、事前の準備もせずに恥じらうこともなく、演説もどきのお説教まで平気でするようになっていたのだ。

   同年秋に突然始まった度重なる石油危機も、世界中が驚くほど巧みに乗り切った日本経済。しかし、その日本経済の中核牽引車として、日本経済以上の大成功を収めたトヨタ自動車に幸運にも在籍していたが故に、私はたまたま同世代の日本人よりも海外に出掛ける機会に恵まれた。さる5月2日に福岡県遠賀中学校同期生(男子67名中、既に11名は死亡)の、引き続く6月6日にも福岡県東筑高校同期生の各還暦お祝い会に参加して、改めて我が幸運を感じた。

   私にとって小中学校時代、最も好きだった学科は地理・歴史だった。数学や理科は就職不安の少ない九大工学部を目指すために、嫌々ながらやむなく勉強したに過ぎなかった。自ら望んで海外生産部門に異動し、長い間忘れていた地理・歴史への関心を再び触発される機会を得た。どこの国に出かける場合でも、事前に最低10冊はその国の地理・歴史の本を熟読し、その国に関する統計データや風俗習慣、歴史的な事件の年号や偉人の業績を整理、受験勉強のように丸暗記するのは楽しかった。

   事業進出の可能性を調査した時、外国人と自動車技術に関しての議論をすることは殆ど無かった。そんな瑣末事は担当者任せで十分だった。私は専ら地理・歴史や政治・経済について語り、質問を繰り返し、対象国を大局的に把握すると同時に、彼等の信頼を得る事に専念した。外国人は我が知識の正確さと領域の広さに驚くだけではなく、親しみを込めて、ある米人は私に『**博士』、しばしば人は『Walking Encyclopedia=歩く百科事典』と渾名しながら、胸襟を開いてくれた。

   短い期間ではあったが公私合せると、30ヶ国、2百都市、2百社、5百人以上との出会いがあった。海外の大自然や壮大な歴史遺産との遭遇では、心時めく感動を抑える事はできなかったが、静かに静かに回顧すると、それぞれの生まれ故郷で、懸命に人生と闘って生きている人々との心の交流の方が一層楽しかった。自然や歴史遺産は2回目の出会いからは感動は薄まる一方なのに、人との再会はその逆だったのだ。今回、10年振りに会った人達との間に交わされた心の交流は、何時までも消え去らぬ、我が人生の貴重な財産だ。                                                                 

   外国を知ることは脚下照顧、日本を知ることに繋がり、外国人を知ることはより深く日本人を知り、自分自身を再認識する事に通じると、繰り返し体験した。

   トヨタ自動車を定年退職する本年(1998年)9月からの、残された我が人生のメイン・テーマも漸くにして定まった。『海外を知り、顧みて真の日本を知る』。今にして思えば、過去十年余の会社生活は、給料を貰いながら結果として、充実した老後への準備をしていたのも同然だったのだ!
__________________________________________________________________

A氏(同室者)

   神奈川県在住のA氏は別府市の出身。若干57歳。氏はご母堂の介護のために依願退職を決意。退職手続きに一ヵ月半掛かってやっと退職したのも束の間、一ヶ月も経たずしてご母堂は永眠。勤務先の企業年金は60歳からの支給とか。でも会社にしがみつくよりもましだとのお考えのようだった。

   かつて神奈川県内の研究所に勤務していた頃、会社の方針で各地に分散していた研究所を栃木県の新設研究所に集結することになり転勤の憂き目。ワンルームマンションを借りて単身赴任し週末の帰宅。時には水曜日に帰宅し、翌日は5時起床。6時に家を出て途中5都県(神奈川⇒東京⇒千葉⇒埼玉⇒栃木)を3時間掛けて通り抜け9時に会社着。信じ難いほどの通勤地獄に耐えられたようだ。

   氏は若いころバイクで日本中を駆け巡ったそうだ。1980年代からは海外旅行に目を向け、先進国は勿論アフリカなどの発展途上国にも出かけ尽くしているらしい。

   鶴見が丘高校⇒京都大学農学部農芸化学科の出身。鶴見が丘高校から京都大学へ合格したのは同期では一人だけだったとか。奥様や子供については何一つ紹介されず、勤務先名も開示されなかったが、氏の言動から私は栗田工業だと推定した。

   氏は携帯用の湯沸しでインスタント食品を素早く調理。旅行用の珍味を初め、私は時々ご馳走になった。私は朝風呂の後、ウィスキーを飲んでいたので、氏にも薦めたが『朝飲むと、体調が悪くなる』とかで辞退された。アルコールにはあまり強くはなさそうだった。

   氏は携帯用の目覚ましをいつもセットされていた。私も目覚ましを持参していたが、氏の目覚ましを当てにして、結局使わなかった。しかし、旅行中は就寝中も緊張しているのか、いつも予定時刻よりも早く自然に目覚めた。

   氏は就寝前には必ず詳細なメモを書かれていた。海外出張であれ、個人旅行であれメモなど取ったこともない私は不思議に思って質問した。

『何のために書いているのですか?』
『同じところを再訪問することも多く、その時に役立つのです』

   氏は各種形状のコンセントを持参。私も4点セットを持参していたが、断面が丸のコンセント(CEEタイプ)のサイズが合わないときがあった。同じ丸でも2種類あったのだ。氏からサイズの異なるコンセントをお借りして電池の充電もつつがなく完了。

   あるとき、風呂に栓が無かった。このとき、持参していた我が栓が初めて役に立った。フロの栓のサイズは意外と少ないようだ。ぴったりと嵌まった。

B氏(71歳)

   60歳の頃、奥様が永眠され再婚もされず悠々自適。建設会社に勤務していた頃の情報を活かし、断熱性能の優れたツーバイフォー(2*4)で自宅を建てたそうだ。

   氏が建築関係者と判ったので話の種にと『文化勲章を貰った丹下健三氏と高卒ながら独学で勉強し東大特別栄誉教授になられた安藤忠雄氏の実績をどのように評価されていますか? 私は雨漏りが多いといわれる丹下さんの設計よりも、打ち放しコンクリートを巧みに使いこなしながら独創的な業績を上げられている安藤さんに軍配を挙げたいのですが』。

_________________________________________________________________________  

蛇足。
   
   特別栄誉教授とは、東京大学において世界的に著しい功績を挙げた教授その他として勤務した者に対して授与される終身称号である。東京大学より称号の授与とともに栄誉手当が支給される。2004年4月1日に「東京大学特別栄誉教授規程」を制定し、2005年1月1日付けで初めて4人の東京大学元教授に東京大学特別栄誉教授の終身称号を授与した。
______________________________________________________________________

   氏は何一つ意見を述べなかった。しかし、D氏が代わりに『丹下さんの設計した東京都庁は雨漏りで有名です。雨漏り対策が難しく立て替えなければとも言われているくらいですよ。東京都民は被害者です』と予期せぬ発言。

   私は『代々木のオリンピック施設でも雨漏りやひび割れは有名だったし、都庁など大きいだけでデザインはパリのノートルダム寺院の猿真似。私は世間で言うほど丹下さんを評価する気は起きませんね』

   その後も、旅は道連れと思い、氏がしゃべりやすいと予想した話題を質問形式で提供したがレスポンスが無いので、氏との付き合いを続ける気持が消滅した。

   氏はキリスト教の誕生のころの伝説や宗教関連の話題に異常な関心を示し、ガイドにくっついてあれこれと質問していたが、満足できるような収穫があったのか疑問のままだ。宗教の勉強を根本的にしたいのなら、宗教には素人同然の若いガイドなどを当てにしたところで、まともな勉強ができるはずが無いと思ったが・・・。

C氏(70歳)
   
   80Kgを優に超えそうな巨漢。50歳代になって180Kgもある大型二輪車で全国を駆け巡ったら何と35,000Kmにも達したそうだ。

『後5,000Km走れば、地球一周の距離に切りよく到達するのに、どうして止められたのですか?』
『オートバイの寿命が来たのです。二輪車のエンジンは高速回転させるので、意外と消耗が早いのですよ』

   カメラが趣味とかで大きなフイルムカメラとデジタルカメラを首から重そうにぶら下げ、リュックには交換レンズなど付属品を詰め込み持ちまわられていた。気に入った写真はなかなか撮れないといいながらも、満足できる作品が自宅には2万枚もあるそうだ。

   海抜2,000mに位置したリゾート・ホテルに泊まった時、日の出を撮るためだけでフィルムを2本も使ったそうだ。時々写したばかりの写真をカメラのディスプレイを使って見せてもらった。写真撮影の趣味がない私の目からでも、構図や倍率、撮影条件の設定など、さすがに凄いなと思った。セミプロ級の腕だった。

   私がデジカメを持参したのは、旅行記を書くときに、行程の順序が記録されているのが便利だからだ。フィルムカメラを使った場合、焼き付けた写真の順番がいつの間にか狂い、元の順番に戻すのが大変だったので、途中からカメラなしの旅行に切り替えていた。写真やメモが無くても、真に印象深かった景色や出来事は充分に記憶されるからだ。

   今回の撮影旅行での総枚数は約2,000枚とか。私は充電式電池を買ったので、電池切れを心配することなく、せっせと撮りまくったつもりだったが、帰国後にカウンターを覗いたらたったの768枚だった。

   氏はいつもニコニコしながらも、仲間との無駄話は避け、ひたすら撮影に全力集中。添乗員やガイドの解説は、馬の耳に念仏の類。

   私は肥満型の人は消化器系の性能が優れ、且つ頑健な人との偏見を持っていたが、何とただ1人氏のみが旅の後半になって軽い下痢に襲われた。撮影に全神経を配られていたので、旅の疲れと相俟っての神経性下痢かと勝手に思っていたが、程なく全快された。

D氏(67歳)

   前立腺がんの手術を受けたにもかかわらず、朝立ちが絶えない(真実か虚勢かは不明だが・・・)とかのお元気さには取り敢えず拍手喝采!! 尿の出も青年期のような噴射型に回復したとか。とすれば、加齢と共に低下するオルガスムの強度も青春並みか? 尿線分裂症とも無縁だそうだ。

   氏は現代版『藁(わら)しべ長者』(この日本昔話はご存じなかった!)。借地での掘っ立て小屋暮らしから人生をスタート。住んでいた場所が次々と都市計画路線に引っかかり、そのたびに移転太りを繰り返して資産が膨脹。今では大家にもなり、家賃で海外漫遊。

   日本は実質的には土地本位制。バブル崩壊・人口減・少子化時代の到来と雖も、各地の拠点都市では今尚人口が増加中。いわんや都内の氏の土地の値上がり益は・・・。

   そんな棚ボタ長者にも悩みがあるらしい。我が質問に対し『ひい爺さんになるのは絶望的。35歳にもなる一人息子は北海道で遊び半分の気楽な稼業。結婚は何時のことやら』だそうだ。

   旅慣れた氏のアイディアは抜群。100円ショップで買ったチャック付の透明な小さな袋を国別コイン入れに転用。今回のように3ヶ国も回ると、見慣れないコインが混じりあって困惑するが、一気に解決。

   私は日本を離れると日本のコインはゴミ袋に入れて大型鞄に隔離。国境まで送ってきたドライバーには、使い残したコインをチップ代わりに渡して、その都度財布を空にしていた。来春はバルカン半島5ヶ国巡りを予定しているので、早速氏のアイディアを借用予定。

   氏は大型鞄の外側に長さ50cmものガムテープを数本貼り付けられていた。

『ガムテープは鞄の傷の上に貼られているのですか』
『主たる用途は鞄の識別ベルトの弛み防止です。ガムテープを短く切ってベルトの上から貼り付けます。また、万一鞄に割れ目などが発生したときの応急処理にも使います』

   銀行に出かけたときのことである。窓口の女性は私達が到着する前に手がけていた内部の仕事を終えるまで、両替作業を開始しなかった。数百枚の札束を機械で数え、麻紐で縦横に数回クロスさせて梱包し、札束の抜き取り防止のためか紐を金属片で封印する作業をのんびりと続けた。
   
   氏は銀行での両替作業の効率化対策を、氏の直前に並んでいた私に提案された。両替作業ではパスポートのチェックだけでも一仕事。
   
『石松さん。1人ずつ両替を申し込むから時間が掛かるのですよ。私の分も一緒にお願いします』

   氏のアイディアは海外旅行の創意工夫大会があれば入賞間違いなしだ! 氏とは何故か馬が合い(深層心理で氏を無意識下に尊敬していたからかもしれない)、以後両替はいつも同額を纏めて一緒に実施。
  
   氏の楽しみは帰国後に親しい仲間を集めて開く恒例の報告会。お酒や料理は座元の氏が準備。氏のお付き合い仲間にはお金持が多いらしい。夫婦で海外旅行へ行く時には、ファーストクラスを常に使う方もいるとか。東京には私レベルの元サラリーマンには信じられないような金持もいるようだ。

   これほどの金持なのに、モスクワ空港での軽飲食価格の高さに対する不満を、何度もぶつぶつ。隠されていた三つ子の魂も、無意識下にひょっこり顕在化する傾向があるようだ。

E寡婦(60歳代?)

   ご主人はがんで永眠。娘夫妻が同居しているものの、海外旅行の場合でも行き先も告げずに、『ちょっと出かけてくる』との一言で済ませるそうだ。
   
   この種の話を、最近しばしば聞くようになった。去る10月中旬、コーカサスからの我が帰国を待ちかねたようにトヨタ後輩が我が家に駆け込んできた。『トヨタ記念病院でがん化レベル5、胃は全摘との宣告を受けた。一方、氏の帰宅を待ち構えていた奥様は、氏に病状を聞くどころか、ちょっと駅まで送ってと指示。テニス仲間とペルーに行っていたとは後で知った』そうだ。
__________________________________________________________________________________
   
蛇足。

   氏は、急遽メールで下記のように私が治療を依頼した、我が胃がんの主治医(平成19年度の日本胃癌学会会長)の指示で、愛知県がんセンターにてあれこれと検査を受け、11/14に入院。ステージは、TA、TB、U、VA(五年生存率50%)、VB(30%)、Wの6段階のうちのVAだとの手術前の診断。11/21に手術。
   
   11/24にお見舞いに出かけた。手術は5時間掛かった。がんは既に胃壁を突き抜けていた。開腹手術時の目視では他臓器への転移は認められなかったそうだが、私には限りなくVBに近いステージと思えた。
   
   胃は不幸にして腹腔内の上部にあり、胃壁を突き抜けたがん組織からはがん細胞が胞子のように下部の臓器へ播種される可能性が高い。また内蔵は腹腔内で体積最小になるように常時位置が移動する結果、がん組織が周辺の臓器にこすり付けられる。特に腹膜とは常に接触しているため、私はがん性腹膜炎の発症を心配しているが・・・。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
主治医 山村先生。

友人(名大大学院修了・トヨタ定年退職)が定期健診後の生検で胃がんと診断され、レベル5、全摘手術、と医師に宣告されました。

本日(10/18)、本人が拙宅に相談に来ました。私は愛知県がんセンターで念には念を入れて再検査をし、愛知県で胃がんでは最も優れた治療実績を挙げられているばかりか、平成19年度の日本胃癌学界会長に就任予定の山村先生の手術を受けるように、強く薦めました。

本人は10/23(第4月曜日)に全資料を持参して愛知県がんセンターに出かけ、受付で看護師に山村先生の診察を受けられるようにとの希望を申し出ます。

私は、がんは最初の手術が勝負。全摘の場合は他臓器への転移の有無を目視で直接確認するためにも、王監督のような内視鏡手術はリスクが大きすぎるから、患者の負担は重くなるが名医を信じて開腹手術を選択するようにと、これもまた強く勧めました。

よろしくお願い申し上げます。

石松様

承知いたしました。
ご紹介いただきまして、ありがとうございます。

                      山村義孝

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   友人は12/3に早くも退院。愛知県がんセンターは赤字対策として患者の入院期間を大幅に短縮し始めたようだ。氏は12/5に来宅し、経緯を報告してくれた。手術などの治療には大変満足しているようだった。顔の色艶もよく、食欲も旺盛。

   がん性腹膜炎が発生することを想定し、今後の半年〜一年が余生と想定し、人生の枝葉末節を捨て本当にやりたいことに集中したい。仮に生き延びられれば、それは付録。覚悟も爽やかに語った。氏の寛解を祈念するや大。

________________________________________________________________________________________________________

   E寡婦は家庭菜園にも関心があり、娘婿が耕し、ご本人が種まきや購入苗を移植して育て、娘が収穫する分業体制。家屋敷は本人の名義なので、娘夫婦も遠慮はするだろうし、実の親娘でもあるためか所謂嫁姑問題も多少は起きにくそうだ。
   
   女性用の注文服の仕立て販売で生計を維持。輸入品の生地を京都や東京で仕入れ、固定客となっているお得意さんが主な注文主。でも、今春廃業。今回の旅行中にはご自分で仕立てた服を毎日のように取り替えていた。お気に入りのカシミヤのセーターは10万円近い価格だったとか。女性はいくつになっても、身を飾るのにはお金を惜しまないようだ。
   
   でも、半接客業のような仕事をしていたにもかかわらず、水商売の女性とは身だしなみへの注意点が異なるようだ。水商売でも一流の女性は毎日美容院で髪をセットし、時間をかけてお化粧をしている。皇太子妃雅子様のオランダ静養の場合は、専属の美容師も同行していた。
   
   しかし、彼女は髪の手入れやお化粧には関心が薄そうだ。幾ら高価な衣装に身を包んでも、お里が知れるような可笑しなアンバランスを感じた。無精ひげを平気で生やしたまま人前に現れる老人と同じように『人としての品格』を維持する意欲はとっくの昔に喪失しているようだ。
   
   長いことお針子の仕事をしていたためだろうか、緑内障を患い7ヶ月間に9回も手術。痛い手術だったそうだが、視力は回復せず実質的には片目。でも、気味の悪い印象を与える義眼を使わずに済んで良かった、よかったとの感想。入院治療中に筋力など体力が落ちていたことを忘れ、ハイヒールを履き、走って転倒し膝を強打。水平歩行でも大変苦労していた。
   
   階段の上り下りではカニの横歩き。一歩一歩注意しながらゆっくりと移動。遺跡巡りで急峻な坂がある場合には、気の毒にも下で待機。添乗員や同行者が時々手荷物運びを手伝ったり、手を引いたりの支援を繰り返した。旅慣れている還暦過ぎの同行者達は、我が予想以上に親切だった。
   
   不思議だったのは半月間もの間、一度も心底嬉しそうな笑顔を見せなかったことだ。いつも能面のような喜怒哀楽のない無表情な顔。何かを楽しく話題にするような態度も絶無。真の理由は隠したままだ。それでも類は友を呼ぶのか、男やもめの爺さんとは多少は馬が合っていたようだ。
   
F氏(39歳)添乗員

   男性添乗員付きの旅は初体験だった。今までの大手旅行社主催の海外旅行では、独身女性の派遣社員ばかりだった。一家の中核者となる男性が日給1万円の派遣社員だと、家族を養うのは大変だろうなと疑問に感じて質問したら、西遊旅行の正社員だった。

   若いころの3年間は肉屋勤め。その後、通訳関係のアルバイトをしながら英会話を独学。旅行各社の派遣社員として働いた後、西遊旅行の社員として採用された。添乗員業務がやりたかったのだそうだ。この機会に、前々から疑問に思っていたことを聞いてみた。

『羊頭狗肉商売をしていたそごう出入りの大阪の肉屋が、国産牛と偽って輸入肉を売っていたのがばれてつぶれました。3年間も肉屋で働いていたのなら、肉屋の店頭に並べてあるスライスされた牛肉を見て、ヒレ・サーロイン・肩・腰・カルビなどと、牛のどの部位の肉か特定できますか』
『分かりません。肉屋の商売ほど裏のある世界はありません。牛肉の味の決め手は部位よりも調理法にあります』と答えた。かつて豊田そごうで米沢牛のヒレ肉を一度に150g* 20枚買ったら、店員が『この肉を焼くときには、塩と胡椒以外は使わないでください』と調理法のアドバイスをしたのを思い出す。

   本職がこれでは、庶民が輸入肉と国産牛を見た目だけで区別できるはずが無い。全国には生産高の10倍もの松阪牛や鹿児島産の黒豚が売られているそうだが、充分あり得ることだ。

   男性添乗員ならば女性添乗員よりも少しはましかと期待していたが、がっかりした。基本的な知識が不足しているために、現地ガイドの出鱈目な説明を訂正できずにそのまま翻訳するだけに終始。

   例えばコーカサス山脈は数千年前に出来た(単独の火山ならばいさ知らず、長大な大山脈がたったの数千年の地殻運動(プレートの移動)で形成されるはずが無い。少なくとも数十万年は経っているはず)とか、白人の最古の骨が160万年前(人類は猿人⇒原人⇒旧人⇒新人と進化してきたので、最古の白人と雖も高々数万年前)に発見されたとか。いちいち数え切れないほどだった。

   彼の国際的な情報蓄積量(私の目からは単なる常識程度でも)は無きも同然との判断を最後に下したのは、グルジア人のガイドに『大学教育に使う教科書は何語で書かれていますか』と質問した時だった。そんな質問は失礼だと言わぬばかりに声を荒げて『石松さん、聞くまでも無いではありませんか。この国の言語ですよ』と権威ぶっての傲慢な発言。

   『大学に行って確認したことがあるのですか』と聞きたかったが、馬鹿馬鹿しくなって止めた。私には不愉快さが先立つため、馬鹿との知的な交流は物心付いたころから出来なかったのだ。
   
   後日アルメニア人のガイド(在日歴1年=愛知万博支援職員として半年+日本語学校での勉強が半年)に聞くと『残念ながら教科書は、独立後の今でも殆どロシア語です。しかし、大学生はロシア語がほぼ理解できるから問題はありません。コーカサスの平均的な知識人は自国語やロシア語のほかに英語などの外国語も1,2ヶ国語は理解できます』

   発展途上国での大学教育での最大の課題は、自国語で書かれた教科書が準備できていないことにある。英国の旧植民地の殆どでは未だに英語の教科書が使われている。トルコのような歴史大国でも工科系の最難関大学であるイスタンブール工科大学では英語の教科書を使い、英語で授業をしている。日本でも日本語の大学生用の教科書が普及したのは比較的新しく昭和以降のことだ。ルネッサンス以前、欧州人はイスラーム諸国で作られたアラビア語の本で自然科学を勉強した。

   私の複素関数論の教授はご自分で黒板に書かれたドイツ語を日本語で説明し、応用物理学・航空機材料・航空機構造力学の各教授はご自分が英語で書かれた教材を使って日本語で講義され、英語の教授の1人は英語の授業を英語のみで講義された。各教授たちは、教え子が外国語で書かれた論文を将来読まざるを得なくなる事態を想定して、敢えて外国語を重視して講義された。
   
   東大工学部のどの学科だったか忘れたが、全専門科目を最近になって英語での授業に変更したそうだ。尤も、このような授業が成り立つのは、学生に英語力があるからだ。就職後、私が読んだ英語の論文や書籍は厚さで計ると1m(約一万ページ)位に達するが、私が書いた英語の論文は累計してもたったの百ページだった。
   
   学術用語を総て今までに無かった自国語に翻訳するには大変な努力が必要なのだ。例えば『経済』は英語のエコノミーの訳語として「経国済民」「経世済民」から作られたが、本来の意味は『政治』に近い。最近、日本ではカタカナ書きの外来語が氾濫しているが、怠慢な学者達の手抜き現象だ。貴重な表意文字がありながら情けない。中国には漢字しかないから、情報輸入国の中国人は悪戦苦闘している。でも彼らの発想は面白い。電脳とか・・・。

   旧ソ連邦圏ではロシア語で教科書は作られていた。コーカサス3ヶ国が独立して間もない現在、どこまで教科書の整備が進んだかで独立の進捗度の一面が分かる。我が質問の意図さえ掴めない輩との会話には疲れてしまった。教科書の自国語化を進めずして、大学教育の大衆化は有り得ない。
           上に戻る
アゼルバイジャン

   アゼルバイジャンの首都バクーの地には石油や天然ガスが古来より自噴していた。13世紀のマルコポーロは『バクー周辺には石油が湧く泉がある。食料にはならないが、燃やすのには良い。駱駝の皮膚病にはよく効く』と書き残しているそうだ。

   20世紀初頭、バクーはロシアの石油生産の半分を占めるほどで、世界最大の油田地帯だったが、テキサス油田の発見、戦後のアラブ諸国の大増産により影が薄くなった。既に陸地の資源は枯渇し始めたが、ソ連邦の崩壊後にカスピ海の海底油田の開発が石油メジャーの進出で大規模に進められている。神からの贈り物、この貴重な地下資源がアゼルバイジャン人の幸せに結びつくことを祈念しつつ、無数の櫓が林立して薄汚れてしまった海面(湖面)を暫し眺めた。

   かつてカスピ海の石油は木の樽に詰めて鉄道で欧州に輸出されていたが、ダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベルの弟ルドヴィッヒ・ノーベルがタンカーを発明。1878年にカスピ海に就航したゾロアスター号がその第一号だそうだ。

   ルドヴィッヒは石油専門の地質担当者を雇い、油井を発見するとアルフレッドが発明したダイナマイトで地層に穴を開けた。その後パイプライン・製油所・タンカー・小型輸送船・石油貯蔵タンク・専用鉄道・卸売り組織などの技術革新・経営革新を進め、ノーベル兄弟の石油会社は大発展を遂げたそうだが、1888年ルドヴィッヒは心臓麻痺で永眠。この会社がその後どうなったのか、残念ながら手元の本には記載されていない。

[1] 10月1日

@ 中部国際空港

   成田空港にミニ滑走路が出来て滑走距離の短い近距離線が増便された結果、中部=成田間の航空券も買い易くなった。今回は幸いにして往復共に老人割引切符もパソコンで買えた。片道15,000円⇒12,100円への割引だ。

   中部国際空港の窓口で切符を受け取ろうとしたら、受付の女性が年齢を証明する公的書類を見せろと言う。証拠が無ければ、老人割引のキャンセル料と正規料金との差額約5,000円(正確な数値は忘れた)が加算されると補足。
   
『パスポートは成田で合流する旅行社の添乗員から受け取る約束。このANAのマイレッジカードで年齢は分かるはずだ』
『ANAカードは年齢を偽証しても発行されるから証拠には使えません』。と言い張って、自社カードすら信用しようとしない。『カードの取得時に、何のために生年月日を書かせたのだ』と怒鳴りたかった。
『では、このJCBのゴールドカードで問い合わせてくれ。生年月日が分かるはずだ』
『カード類は公的資料ではありません』とまたもや拒否。

『それでは、豊田市役所の市民課に気が済むまで問い合わせなさい。市民の生死を受け付けるため、一年中且つ四六時中係員が待機しているから』。理屈負けしたと思ったのか、係りの女性は何処かへと相談に出かけた。

   当然のことながら、やっと我が主張を受け入れた。私は世界中どこに行ってもいつの間にか、とことん自己主張する癖が染み付いている。屁理屈合戦には負ける気がしなくなっているのだ。

A モスクワ国際空港

   モスクワ着17:25⇒22:55発では何と5時間半もの待ち時間。空港内の簡易食堂にて皆で軽食を摂りながら、相互に簡単な自己紹介をした。

   相変わらず狭くて、薄暗くて、待合室の椅子も不足している空港での待ち時間は苦痛そのもの。待合室には中国人の若者男女の団体観光客がいた。英語を話せる男性が1人いた。彼を介して暇つぶしに暫しの歓談。彼らの服装は今やユニクロ時代の日本人並。人相も何故か日本人によく似ている。我が半月間の旅程表と訪問先の地名が記載されている地図を見せたら、羨ましがっていた。

   モスクワ空港では数年の間に免税店が少し増えたが、欧州からのブランド品や酒・香水の類が殆どなので、当然のことながら欧州の空港よりも高く、全く魅力が無かった。誰が買うのだろうか?

   ロシア産の商品はウオッカか民芸品(入れ子式のマトリョーシカ。アイディアの元祖は我が祖国箱根の民芸品)くらい。ロシア産の消費財が世界に進出するのは何時の日になることやら。気の毒でならない。

[2] 10月2日(バクー)

@ 燃え続ける天然ガス

   午前3時に首都バクーの空港に到着。中途半端な時間だ。ホテルへ直行する途中、ほんのちょっと寄り道をして、天然ガスが燃え続けているマンマンディに到着。溶岩のように焼け爛れた岩の隙間から噴出してくる天然ガスが自然発火して燃え続けている。漆黒の闇にオレンジ色の炎が揺れる。たった数平方メートルの面積から燃え上がる、ちょろちょろとした1m足らずの火炎なので資源の浪費とまでは言えない。

   傍らには廃墟になったゾロアスター教の小さな寺院があった。ゾロアスター教の本尊は『炎』なのだが、寺院の中には炎も飾りも何も無かった。

   燃え続ける炎の前に、簡単なテーブルがあり、数名のグループがハイキングのように飲食を楽しんでいた。夜間であればこそ漆黒の背景に炎は一層輝き、神秘性が増すようだ。夏にはバーベキューにも使っているとか。

A 墓地

   バクー市内やカスピ海を見下ろせる丘に登った。『殉教者の小道』と称される道の両側にはモスレムの広大な墓地があった。ソ連邦末期の騒乱やアルメニアとの抗争の犠牲者を弔っていた。

   殆どの墓石には身分証明書を拡大したような実物大の上半身像が描かれた石版が取り付けられていた。鏡面に磨いた石版の表面に疵をつけると地肌が別の色に感じられる現象を利用して、写真を焼き付けたかのような単色の浅い浮き彫り(レリーフ)に加工したものである。

   墓石には名前と生年・没年が刻まれていた。戒名如きは勿論無い。未婚の男子(童貞との意味ではない)の場合には墓石に赤い平たい帯が斜めにタスキ掛けされていた。戦争に駆り出された若者の戦死者が何と多いことかと、胸が痛んだ。

   眼下にはカスピ海(当然のことながら対岸が見えない大きさなので、海を見ているのと何ら変わらない)が広がっていたが、曇りのためか視界が悪く、鉛色の海面が見えただけで些か失望。

   誰かが『海とは、そこから外へ水が流れ出ない水溜り』と、解説した。面白い定義とは思ったが、勿論間違っている。この定義だと水面の海抜がマイナスの水溜りは、その大小を問わず総て海になるからだ。

   新明解国語辞典によれば、海とは『地球の表面の、広く一面に水を湛えた部分。昔は淡水の湖も含めたが、今は塩水に限る』そうだ。   

B ゾロアスター教の神殿アテシュギャーフ

   18世紀に築かれたゾロアスター教の小さな神殿の中では、本尊の炎が燃え続けていた。しかし、周辺には天然ガスや石油の採掘やぐらが林立し、自噴ガスが最早なくなったのか、神殿の床下には丸見えのガス管があり、その先端から小さな炎が燃え上がっていただけなので、これにも些かがっかり。





   神殿の中は火炎以外には壁画も彫刻も全く無い単なる空間に過ぎなかった。神殿を取り巻くように礼拝用の広場があり、広場を取り囲んで石造の僧房があった。廃墟となった僧房内には生活用具や人形などで往時の生活状況が復元されていた。

C ゴブスタン (バクーの南西60Km) の岩絵

   古い岩絵(Rock Carving)が世界的に何故か脚光を浴び始めた。ペルーでも中央アジアでも岩絵見物に連れて行かれた。建物を中心とした遺跡類よりも岩絵には古いものが多く、戦争による破壊対象にもなり難かったためか、程ほどに残されている。

   風化した岩絵は判じ物のように分かり難くなっているものが多い。掘り込まれた線に白い顔料を塗り鮮明にした状態で写真に取り、傍らの博物館に表示してあるものもあった。しかし、現物の岩絵に塗料は残っていなかったから、写真撮影後に洗い落としたのだろうか。

   岩絵のテーマは世界各国とも、似たり寄ったりである。狩猟・当時の動物・儀式や踊る人などの生活習慣の描写が主。此処には6,000個もの岩絵があるそうだ。風景画や植物・花・建物など文化的なイメージを感じさせる絵は何故か見当たらない。
   
   博物館内の壁には岩絵が発見された場所を表す世界地図が掛けられていた。ユーラシア・アフリカ・南北アメリカ・オーストラリアなど全大陸に亘り、数十箇所もの地名が記入されていた。でも、残念ながら日本の地名は無かった。岩絵描写は記録を残したいとの、古代人の普遍的な行動に思えてならない。

D カスピ海クルーズ

   夕方、カスピ海クルーズに出かけた。ツアーの募集案内ではクルーズと大げさに書かれていたが30分程度の湾内遊覧に近く、羊頭狗肉の類。話題づくりの一環か。でも、遊び場の少ないバクー市民には憩いの場のようだ。

   船着場には太公望がいた。鰯大の魚が無数に泳いでいたが、石油に汚染され臭くて食べられないとか。海岸から1Km程離れた沖からバクー市を眺めると、海岸線に沿って立錐の余地も無いくらいに建物が密集している。しかし、殆どは鉄筋コンクリート・10階建て前後の建物ばかりで実用一点張り。香港やシンガポールで見かける高層建築の輝きは全く無い。

   カスピ海の水は気温に比べ10度は低そうだ。沖に出ると急に寒くなった。真冬にはカスピ海の北部は凍結するそうだ。11月以降に出発するツアーにはカスピ海クルーズが省かれている理由が分かった。港には電光掲示板が取り付けられたタワーがあり、気温・水温・風速が表示されていたが、視力不足で数値は読めなかった。   

   さすがは世界一の大きさの湖だ。そこに流れ込むボルガ河は全長3,688Km。我が信濃川367Kmの10倍。流域面積は138万平方Km。信濃川の11,900平方Kmの何と100倍以上(川の支流の広がりが相似形ならば、流域面積は長さの二乗に比例する。両河川を比較すると信濃川の流域はボルガ河に比べて細長いと判る)もある。ああ、見たかった。

E ショーを見ながらの夕食

   中庭で大道芸人風の中年男が奇術を始めた。口からガソリンを吹き出して火をつけた。テレビでは見たことがあるが実物では初めて。危険性は感じられないが、幾ら注意はしていてもガソリンを少しは飲み込むはずだ。消化器官には無害なのだろうか?

   良く切れることを実演で示した刀を10本近く、刃面を上にして台に固定し、上半身裸体のままその上に横たわり、腹部に板を載せ、その板の上に大の男が二人(合計180Kg?)そろり、そろりと乗った。勿論事故は発生しなかった。

   男が立ち上がった頃、私はつかつかと立ち寄り、刃面の鋭利さを確認した。刃の先端だけが鋭利で、体を乗せる場所は鈍(なま)っているのではないかとの確認をしたかった。しかし、全体が鋭利だった。毎月一回、定期的に我が家の包丁を研いでいる私には、その鋭利さは直ぐに分かった。刀の刃の表面積は合計すれば広くなり。刃を滑らせないようにしながら静かに体を乗せれば、かなりの重量まで耐えられることに今更ながら驚嘆した。

   傍らには数百本もの鋭利な釘が打ち込まれた剣山があった。奇術師は私に『ノープロブレム = No problem、ノープロブレム』と小声で何度か囁き、強引にも剣山の上に座らせてしまった。安全だと頭では理解していたが、恐る恐る座った。それを見ていた観衆はやんやの喝采! 奇術師の技より、我がヘッピリ腰の方が演技力は上だったのだ。

   やがて、ベリーダンスのようなショーが始まった。私はこんな時には積極的に参加し、人生のひと時を印象深く過ごすことにしている。踊り方にルールなどあるはずが無い。手足をばたばた動かしただけだが、これまたやんやの喝采! 観光客は黙々と食事をしているだけなので、会場の主役は私だった。


   
[3] 10月3日

@ 国立絨毯博物館

   6,000枚もの絨毯を収蔵している国立絨毯博物館を訪問。展示されている絨毯は民族の誇りだろうとは推定するものの、糸が太いため絵柄に繊細さが欠けていた。ドンゴロス(インド産の粗い麻布や、それで作った麻袋。語源はdungaree“ダンガリー”)のイメージに近かった。トルコやペルシアの細い糸を使って織った、織物のような薄くて絵のように美しい壁掛け絨毯と比べれば、遙かに見劣りした。

A 市内観光

   旧市街(世界遺産)にはシルヴァン・シャフ・ハーン宮殿とか、乙女の望楼とか、遺跡が散在していたが、かつての世界大帝国の同種遺跡に比べ質素で小さく、印象に残るほどの物件は無かった。

B 半岩窟寺院(バクーから400Km)

   シェキの郊外にある山の絶壁に彫られた小さな半岩窟寺院を訪問。常駐の中年男が管理人。拝観料の徴収と寺院の清掃管理が仕事のようだ。寺院の半分は絶壁を刳り貫いた空間。残りは下から石を組み上げた高さ20mくらいの櫓のような基礎の上に建てられていた。

   B氏は英語の掲示(英語力は全く無いのかもしれない)を無視して泥靴のまま寺院に入った。D氏が3回も靴を脱げと大声で注意を促したが無視。管理人は渋い顔。B氏の傍若無人ぶりに驚く。本人は後でD氏には何食わぬ顔で『靴のまま入れると思った』と弁解したが白々しくも情けなかった。人からの注意の声が聞こえたなら、その瞬間にその理由を考えるのがものの順序と言うものだ。これ以降もこの男の言動には不快さを抑えきれなかった。

   ある食事時、B氏は私に『帽子を取れ。日本人として恥ずかしい』と言った。
『帽子を被るか被らないかは個人の自由。貴方に指図されるいわれはない。余計なお節介だ。私は置忘れを防止(この掛詞にも気付いていない)しているのだ』。五つ星の高級レストランや荘厳な教会ならばいさ知らず、観光客相手の大衆レストランで何様のつもりで場違いな指図をするのか、と不愉快千万に感じた。

   ある食事時、私はみんなの前でB氏に向って『初対面の時は貴方に知性を感じ、楽しい旅行が出来ると楽しみにしていましたが、言動のレベルの低さには失望しました』と発言。

   当然の結果として彼は私を毛嫌いし始めたが、私は野良犬が吼えている程度に感じただけで、我が旅には何の障害にもならなかった。私は物心付いたころから、得るものが全く無い馬鹿との付き合いは、人が何と批判しようが徹底して避けているのだ。この歳になって、疲れるだけの八方美人になる気はさらさら無い。

C 女性ガイド

   ガイド歴20年はありそうな超国粋主義者の女傑。口を開けばアルメニアの悪口に終始。アルメニアがアゼルバイジャンの一部を占領しているから憎たらしいのだそうだ。歴史的に見れば、表面積が一定である地球上での陣取り合戦とは弱肉強食の闘い。勝てば官軍。滅ぼされて歴史から消えた国や民族は数え切れない。それを良いとか、悪いとか言ってみても何の役にも立たない。その結果としての今日を、口先だけで変えられるはずも無い。

   面積でも人口でもアゼルバイジャンの1/3しかない小国アルメニアへの、反撃すらも出来ないアゼルバイジャン側の解決策とは、国力を強化するのが王道。アルメニアの悪口を関係者外の外国人に向って幾ら喚(わめ)いても無駄と言ってやりたかったが・・・。

   自分の娘がアルメニア人と結婚すると言ったら、娘を殺してやると息巻く。これほどの国粋主義者のガイドは珍しい。『相手が異教徒の日本人だったら、どのように判断するのか?』と聞くと『日本はアゼルバイジャンを占領していない。何の問題もありません!』と調子を合わせた。

   アゼルバイジャンの素晴らしさを、ガイドが吹聴すればするほど割り引いて聞かざるを得ない。コーカサスで最も魅力的な国はアゼルバイジャンなのに、半月もの旅程内でたった2日間の観光とはバランスを欠く、と旅行社にまでいちゃもんをつける女傑。
   
   夕食時に、闇市から60ドルで仕入れてきたと称する『キャビア』を女傑が披露。4オンス入りのキャビアの瓶詰めと同じ大きさ、チョウザメを表す青色のラベルも貼られていた。しかし、重量など詳細な表示は無かった。2年前にモスクワで買った約100ドルのものと一見して同じだった。1人10ドル払って食べたが、限りなく本物に近かった。旅の想い出の一つだ。

[4] 10月4日

@ バザール

   市場に出かけた。与えられた30分が瞬く間に過ぎだ。コーカサスの世界遺産は小粒なものが多く、私には市場の方が遙かに面白い。そこには人生と闘っている人々の現場があるからだ。

   コーカサス地方は時折雨も降るので、テント内での営業。背も高く、髭を生やした若者の商人が多い。新鮮な野菜や果物の種類も豊富。日本と異なり形や色には統一性が無いが、世界的にはこちらが標準だ。運搬時の木箱やダンボールに入れたままの販売だ。日本の売り方よりも効率的だ。

   日本では国産の乾燥果物は干し柿などほんの僅かだが、こちらでは乾燥果物の種類が多い。見ればそれと直ぐに判る蒲萄やイチジクだけではなく、日本では見たこともない木の実や果物も多く、お土産の選択に困るほどだ。

   枝肉を売り場に吊るしたまま売る習慣は中央アジアと同じだ。薄くスライスしたものを一枚ずつラップで包装して売る日本の百貨店のような販売方法は、此処は勿論海外では見たことが無い。

   数Kgはありそうな大きな魚も見かけたが、尾頭付きの販売だ。一家族ではもてあますような大きさだ。でも、さすがに内陸部のためか、種類も量も少ない。

   パンの売り方にも特徴があった。ペルーでも見たが座布団のような大きさだ。一枚買えば、我が家なら一週間掛けても食べ尽くせない。水分が少ないパンには保存性があるから冷蔵庫が無くても問題はなさそうだ。

   バザールは、ホームセンターと衣料品スーパーをも兼ねていた。トルコ系と中国系の商品が溢れている。先進国の商品は価格競争力が無いのか、殆ど見かけなかった。
                                                                上に戻る
グルジア

   Georgiaは日本ではグルジアと呼ばれているが、現地ではジョージアと称している。このジョージアとの読み方は米国のジョージア州とは何の関係もない。

   グルジアだけでもコーカサスのように複雑だ。ロシアの支援の下に国内にアブハジア自治共和国とアジャリア自治共和国がある。共にグルジア政府の統治が及ばない地域だが、国際的には承認されていない国だ。国の中に国があるという政治形態は私には想像できない世界だ。

   グルジア出身のシェワルナゼはゴルバチョフに抜擢されてソ連邦のグロムイコ外相の後任の外相に就任。その後1995〜2003年にはグルジアの大統領も歴任した。

   国内の治安が如何に悪かろうとも、グルジアには何にも代えがたいほどの魅力溢れる大自然がある。マルコポーロが首都のトビリシを『絵に描いたたように美しい』と絶賛したそうだ。

[1] 10月4日
   
@ 富豪の家で昼食

   グルジアに無事入国。大きな農家を尋ね、食べごろの葡萄(袋掛けの習慣はない)が鈴なりの葡萄棚の下で昼食。食べきれないほどの各種の民族料理の他、自家製の果物類を初めワインや蜂蜜も無制限に出された。商売とはいえ蜂蜜の高価格に驚きつつも、誰も買わなかった。

   大きな家の壁面には蔦のように絡み合って育ったかぼちゃやヘチマの実がぶら下がり、倉庫には乾燥したとうもろこし(取り扱いの便なのか、芯に実が付いたままの状態)、庭には切り揃えられた薪も山積み。自給自足の豊かさを知る。とはいえ、道路沿線から垣間見た一般農家とは屋敷の広さや家屋の大きさから推定する限り、地域を代表するような富豪にも感じた。

A 国営のワイン工場

   巨木がうっそうと茂る広大な元貴族の屋敷の中に、国営のワイナリーがあった。広大な建物をワインの熟成倉庫に転用し、床には無数の大きな樽が横たわり、棚には埃と黴に覆われた瓶詰めのワインがびっしり。

   食堂を連想させる大きな部屋でワインを3種類も試飲。小瓶一本(180cc)くらいも飲んだためか、試飲だけでほろ酔い加減になった。飲み比べたワインの味の差こそは判るが、私には品質価値の上下は未だに分からない。希望者には試飲したワイン等の販売もしていた。旅行の初めにワインを買うと荷物が重くなるだけではなく、意外に価格が高く、気の毒にも買う人は現れなかった。

[2] 10月5日

@ バザール

   生鮮三品以外に生活用品を売っている店があった。吊るして計るタイプのバネ秤の種類の多さに驚く。日本では秤を使う機会は少ないが、こちらでは生鮮三品は重量あたりの価格で売るのが基本。それだけにニーズが高いのだろうか。E寡婦がバネ秤を買った。老いても今尚女性だった。男性とは興味の対象が異なるようだ。

   長さ1m近い大きな魚を切り身にして売っていた。固い背骨の切り方は豪快だ。最初に魚の半身の肉部に包丁で切れ目を入れた。次に切れ目にマサカリの刃を挿入した。最後に木槌を刃の反対側に力いっぱい打ち降ろした。

A ワイナリー

   2,3百年の歴史を誇る個人経営のワイナリーを訪問。崩れかかったような旧い建物が醸造所だった。土間に大きな壷が埋め込まれていた。発酵中のワインもあった。水が沸騰しているかのように泡が浮上しては弾けていた。ワインの発酵とはこれほどまでに凄まじくダイナミックなものとは夢にも予想していなかった。

   発酵しているものや発酵の勢いが衰えたものなど、発酵段階の異なるワインを試飲。醸造アルコールや酸化防止剤を混ぜたワインの味との差は我が舌では区別できなかったが、ボージョレヌーボーよりも鮮度の高いワインを今正に飲んだのだ、との満足感だけはたっぷりと味わえた。

   でも、私にはこの醸造法の不潔さ・不衛生さには些か驚いた。『土壷(屎尿を発酵させて腐らせ肥料にするための、土中に埋められた甕)』を連想したのだ。こんな伝統だけを誇るようなワイン作りでは、足で葡萄を踏み潰して果汁化し、発酵させてワインを作る大昔からの醸造法と同じように、品質管理が的確に出来るはずが無い。

   高級レストランでワインを注文した時に、儀式のようにワインを試飲する習慣が今尚続いているが、昔は醸造過程の品質管理が不十分だったために、試飲が不可避だったのだろうと推定した。

   一説に依ればアメリカ人は、ポルトガル産のポートワインは不潔な作り方をしていると非難し、半導体工場のような清潔感溢れる醸造所で作られるカリフォルニアワインを礼賛するそうだが、あり得る話だ。私もカリフォルニアワインの愛飲者だがその理由は全く異なる。

   3リットル入りの袋を段ボールの容器から取り出し、説明書通り段ボールの箱に穴を開けて水道の栓のような注ぎ口を取り付けると、コップに注ぎ易いからだ。コルク栓を使った瓶詰めワインは、コルクを破壊せずに開けるだけでも一苦労させられるので、最近は全く買わなくなった。

   ワインの搾りかすは廃棄されるものと推定していたが、ウオッカに変身していたとは! これぞ正しく生活の知恵。我が机上の推論からは辿り着けないアイディアだった。

   この家で干し葡萄の作り方も発見。長さ1mくらいの簾のように、紐に葡萄の房を括り付け、軒先に吊るしていたのだ。煮干を作るように葡萄を平面に並べて乾燥させているものと、今までは推定していた。百聞は一見にしかずとは、正しくこのこと!

B 各種宗教遺産

   グルジア正教最古のスヴェティツホヴェリ修道院や5世紀に創建されたジュワリ教会などを見学した。歴史的な価値があると幾ら説明されても、小さくて質素な建物を見ただけではキリスト教徒でもない私には、残念ながら何の感動も得られなかった。

   見晴らしの良い丘の上に建つ教会へ至る参道の店で、いかにも暖かそうな民族帽子を発見。被り心地を確認していたら、我がドライバーが事の序に毛皮のコートも着せてしまった。重かったが暖かかった。同室者が『宇宙人が現れた!』、と一言。



C 軍用道路

   ロシアが作ったと称する軍用道路を走る。この道路の一部は悪路、一部は素晴らしい品質になっていたりする理由がさっぱり分からない。道の周囲は岐阜県や長野県を貫く国道沿線の風景に大変似ていた。

   急峻な谷川を臨む山の斜面を切り開いた難工事を思わせる場所もあったが、トンネルは殆ど無かった。総延長は長くなろうとも、地形に沿って無理をせずコストが安くなるルートを探したように思える。山々では紅葉が始まったばかり。沿線には民家も無く、従って店も無く、日本よりも美しい自然が残されていた。
   
   美しいジンヴァリ貯水湖は周囲が樹木に覆われた山に囲まれているためか、水が綺麗だった。ダム湖に沈む予定だった17世紀に建てられたみすぼらしいアナヌリ教会は、我が目には無価値に思えたが地元民には宝。住民の反対運動に抗しきれず、ダムは設計変更された。
   
   教会の入り口で、グルジア人のグループから日本語で突然挨拶された。彼らは岐阜県で働いている労働者。グルジアに一時的に帰国していたのだ。日本からはモスクワ経由よりもイスタンブール経由のトルコ航空の方が安いと言う。私はアナヌリ教会の見学は放棄して、彼らとの出会いの一瞬を楽しんだ。

『此処の景色は、岐阜県や長野県に似ているが、こちらの方が山は高く、山脈は長く、渓谷は深く、風景美は遙かに勝る』と激賞しながら感想を述べた。彼らは私を引き止めていることを気にしてか

『皆さんと一緒にガイドの説明を聴くのを邪魔しているのではありませんか』
『そんなご心配は全く必要ありません。私はガイドの説明を聞くよりも、あなた達と話す方が遙かに楽しいのです』

と言って、記念撮影。



   この日は海抜2,003m、見晴らし抜群の場所にオーストリア資本が建てた綺麗なスキー客相手のリゾートホテルに宿泊。シーズン入り前なのでのんびりしていた。

[3] 10月6日

@ 軍用道路

   グルジアの大自然をドライブで楽しむ今回の旅のハイライトの一つ。軍用道路建設に駆り出されたドイツ人捕虜の墓があちこち。峠には2,395mとの標識付の十字架があった。風化でヒビが入ったコンクリート製の、墓石のような形をした高さ2m程度の柱に、錆び果てた鉄パイプを十字に交差させ、針金で結び付けただけの粗末な十字架には驚く。こんなものでも形が十字架ならば、地元民にはありがたくも貴重な存在なのだろうか?

   途中、トルコのパムッカレの超小型版のように石灰岩が沈殿して出来た斜面に到着。道路建設時に地下水脈を切ったためか湧き水が常時流れ、短期間に形成されたものではないかと推定。周囲の地形と異質すぎる景観だった。

   そこの湧き水を飲めるようにと整備された取水口があった。炭酸カルシュームと鉄分が含まれる水だそうだが、一口口に含んでその余りの不味さに吐き出した。地元民には胃腸に良いとの信仰があるとか。誰でも健康に良いと言われると信者に早変わりするようだ。

A 聖ダビデ教会

   カズベキ村の広場からの高さが約500mある見晴らしの良い場所に建つ聖ダビデ教会を目指す。名前は由緒ありげだが、どこにでもありそうな小さな教会だ。同行の3人は一人10ドル払って小型の四輪駆動車で登山。残りは登山道をマイペースで登った。麓から教会は見える位置にあったので道に迷う心配は全く無い。

   私はがん治療後の体力の衰えを感じた。仲間の速度に追いつけず、一人遅れて登った。かつて30代の頃、友人達と北アルプスに何度か登った時や平成11年(61歳)夏に富士山に登った時は、友人達の速度に合わせると汗が引っ込み寒くなるので、1人だけ先を急いだのが夢のようだ。今尚4,900ccの肺活量を誇っても、筋力の衰えはカバーできないと知った。

   荷物の軽減のため添乗員に雨具とビールとを預けた。山道の曲がり角では時々添乗員が私の到着を待っていた。私が追いつくや否や歩き出すので、私は休む時間が無く却って疲れる。『必ず辿り着けるから先に登っていて欲しい』と何度か言ったが心配しているらしい。登山道からは万年雪が光るカズベキ山(5043m)がいつも見えた。落葉樹は紅葉の真っ盛り。美しい景色を眺めつつ登っていたら、10名ほどのユダヤ人の中年男女が追いついてきた。

   『ユダヤ人は頭がよいことで、世界的に有名だ。ノーベル賞受賞者も多い。アラブのモスレムなどに負けるな!』と心にも無いお世辞を言った瞬間、全員から先を争うような握手攻めに出会った。

   米英の後ろ盾のおかげで辛うじてイスラエルが建国・維持されてはいるものの、アラブ諸国を初めとして世界各国を敵に回しての四面楚歌状態。いつも不安を抱え込みつつ生き延びている彼らの深層心理に触れてしまったのだろうか。

   途中でオランダ人が追いついてきた。彼にカズベキ山を背景に写真を撮ってもらった。その時である。話をしていたら怪訝な顔をした。無理も無い。私は『Holland=オーランド』と彼が言った国名を『Poland=ポーランド』と聞き間違えていたのだ。彼が『グルジア大統領の奥さんはオランダ人だ。先ほど一行が車で登った』という。

   添乗員が撮影した写真をメールで送ってもらった。中央にいる180cm近い女性が大統領夫人。オランダ人はノルウェー人と並ぶ高身長国民。右端は現地の女性ガイド。私は心にも無く『貴女は何と美しいお方か!』とお世辞を言って握手をした途端、彼女の掌(てのひら)の硬さに驚いた。人間でも動物でも躯体が大きくなると頑丈な皮膚が必要になり皮が厚くて硬くなるのだろうか。



   この写真の中で心底幸せな人生を送っている人は誰だろうか?

   快晴だったが2,000mを超える山の一角だ。寒さ対策にペルーで買ったアルパカのセーターの上から牛皮のジャンパーを着用。程よい寒さ対策になった。山の気候は急変すると脅かされていたが、幸い好天に恵まれた。

   1時間半もの登山で腹も減り、雄大な景色を楽しみながらの弁当は美味しかった。添乗員が日本から持参したアルファ米で作ったお握りも格別。最近の添乗員は運び屋も兼業。日本から珍味など旅先では貴重品に激変する食料まで運び込んでいるから、体力も必須のようだ。



   帰途、グルジアとロシアの国境まで出かけた。両国は今夏のちょっとした事件の後、国交は断絶。軍用道路は国境でロシアに閉鎖され、貿易もストップ。内陸国のグルジアはこの種の経済制裁には弱い国だと嫌でも判る。

   ホテルまでの岐路の道端に、ロシアとグルジアの友好200年記念として作られた、荒れ果てた大きなモニュメントが無残にも放置されたまま聳えていた。

[4] 10月7日

@ スターリン博物館

   ゴリの町で生まれたスターリンは郷里では今尚英雄だ。町の中心部にある公園の中に大きなスターリン博物館があった。屋外には特別車両が一両展示されていた。車両内には調理室・食堂・寝室(スターリン専用)の他に軍事作戦用会議室もあった。木製の会議用机やクッションも無い木製椅子6脚とスターリン専用のクッション付の大型椅子があった。この車内会議室で独ソ戦の終決決定会議が行われたらしい。

   車両内の設備や家具はいずれも驚くほど質素なものだった。ガイドと同行の仲間が会議室から出たとき、一人残ってスターリンの椅子に無断でこっそり座って見た。その座り心地の悪さに驚いた。日本では今、薄型テレビやホームシアター視聴用の総革張り・足載せ台付の安楽椅子(私ですら物色中)が20万円前後(欧州からの輸入品だと倍額、中国製だと1/4)で売られ始めたが、その座り心地とは月とスッポン。

   スターリン博物館は巨大な建物だった。その内部にスターリンの華やかな一生を記録した写真とその説明書が壁一面に掲示されていた。愛用していたらしいミンクのロング・コートも飾られていたが、ミンクらしい艶が無かった。

   毛皮の本場なのに、どうしてこの程度のコートなのだろうかと、つい口を滑らせたら誰かが『ミンクは50年も経つと艶が消えるのですよ』としたり顔に出任せを言ったが、私にはその真偽は判らないまま。私が17年前に中国にて1万円で買い、冬場のゴルフではいつも愛用しているミンクの帽子の輝きには全く変化が無いからである。

   独ソ戦に従軍したスターリンの長男がドイツ軍の捕虜となった。ドイツ側からスターリンに、長男とドイツ兵士の捕虜との交換が提案された。スターリンは『長男はソ連邦軍の一兵士に過ぎない。私の息子だとの理由のみで、長男を特別扱いにすることは出来ない』と言って拒否。結局、長男は戦死。スターリンが死ぬまで大国の独裁者になり得た厳しさ(我が家康だって、長男を謀反の疑いで自害させたのだ!)の一面を初めて知った。

___________________________________________________________________

蛇足(インターネットからの引用)

   二俣城といえば、家康の長男・徳川信康が若くして父に切腹させられた悲劇の地としても知られる。天正7年(1579年)7月、家康の同盟者・織田信長に家康の正妻・築山殿と長男・信康が武田方に内通したとの報がもたらされた。この信憑性は非常に薄いものであったが、信長は家康にこの二人を処断するよう求めた。

   家康は悩んだ末まず築山殿を殺害、さらに9月15日かねてから二俣城に幽閉させていた信康を切腹させた。このとき服部半蔵が介錯を務めたが、涙のあまり刀が振り下ろせなかったとの話が残る。

   信康は時に享年21。信康の遺体は二俣城から峰続きにある小松原長安院に葬られた。翌年には家康によって同院に廟と位牌堂が建立され、その後家康が詣でた際に寺に清涼な滝があるのを見て寺の名を清瀧寺と改めさせた。この寺・信康の墓ともに現存す_____________________________________________________________________________________

   博物館内にはソ連邦の支配下にあった東欧各国や中国からの、スターリンへの贈り物が展示されていた。戦勝国とはいえ貧乏国ばかりだ。絵画や壁掛け、装飾用の陶磁器など、私すら捨てたくなるような質素さには驚いた。

   公園の一角にスターリンの生家が展示されていた。本物は解体されて今は存在しないそうだが、当時の記録を元に復元された。大きな立派な建物の中に、みすぼらしい実物大の生家が貴重品のように収められていた。覆堂(おおいどう)で保護されている金色堂とは内外の建物の豪華さが対照的に逆転していた。

   スターリンは靴屋の息子だ。高々15坪クラスの平屋に過ぎない生家の中には、当時のベッドなどの家財道具もあった。帝政ロシア時代の一般庶民が如何に貧しかったか、手に取るように判った。

A 岩窟都市(ウプリスツィ)

   トルコのカッパドキアに比べれば規模は遙かに小さいが、岩山を刳り貫いて作られた住居跡や、私には添え物にしか感じられないお決まりの教会もあった。岩窟内を豪華に見せるためか、恰も石造の住居であるかのように、天井は石材で張られているかの如く凹凸状に、梁や柱は厚さの半分を浮き彫りして梁や柱らしく見えるように加工されていた。

   一部の岩窟では崩壊防止のために、コンクリートの柱を付け加えて天井を支えていた。眼下には大河の雄大な流れもあり、ここも景色は抜群。

   世界各地には規模に大小はあっても、この種の岩窟都市は意外に多い。イタリア南部のマテラでも見たことがある。東トルキスタン(中国の新彊)にもあるが、こちらは未訪問・・・。

B ホテルの牧羊犬

   この日は3階建て、エレベータも無い建築中の小さなホテルに泊まった。一階の部屋は内装工事中だった。部分開業をしていたのだ。3階の部屋に温水暖房用放熱機器はあったが、暖房は配管のバルブを開いても入らなかった。しかしボイラーは稼動していたし、お風呂ではお湯も出た。

   翌朝、2階の部屋は暖房が入っていたと知り、別の場所の配管のバルブが閉めてあったのではないかと苦情提出。二日目には暖房が入った。

   このホテルにいた大きな番犬には、何と耳たぶも尻尾も無かった。珍しい種類の犬かと思ったら、狼対策だそうだ。狼は耳たぶや尻尾に噛み付き、犬が怯(ひる)んだ隙に首筋に噛み付いて止めを刺すのだそうだ。突起物は付け根から哀れにも切り取られたのだ。

[5] 10月7日

@ 岩窟都市(ヴァルジア)

   トルコとの国境近くの町までの長距離日帰り旅行だった。目的地のヴァルジアはグルジア最大の岩窟都市だそうだ。

   途中、エッフェルが設計したと言われる鉄橋を見た。私にとってはエッフェルが関係したといわれる鉄鋼建築物の4ヶ所目である。エッフェル塔のほかにはポルトガルの古都ポルトの橋、ベトナムの首都ハノイを流れる紅河に架かるロンビエン橋である。

   自由の女神を内側から支えているテレビ塔のような鉄骨構造もエッフェルの設計だが、私は船から外観を見ただけなので数からは除外。どれにも細い無数の鉄材を組み合わせて応力が極力均一になるようにした軽量化設計に特徴があった。

   この原稿を書く機会にエッフェルの業績をインターネットで検索したら、意外な事実を知った。エッフェル塔の設計者はステファン・ソーヴェストルとモーリス・ケクランであり、エッフェルは建設を請け負ったエッフェル社の代表者に過ぎなかった。

   岩窟都市(ヴァルジア)は前日の岩窟都市(ウプリスツィ)よりも規模が格段に大きかった。断崖絶壁の中腹に位置し、上下左右に亘り、無数の岩窟住居・教会・ワイン貯蔵庫・郵便局の仕分け箱を連想させる構造の薬局(小さな棚に薬草などを整理保管)などがあった。
   
   ここでも眼下を流れる河が美しかった。工場が無ければ、自然のままに流れる河は汚染もされずどこでも美しいのだ。
   
   ここの岩窟群の入り口までは無舗装の山岳道路を、多少の危険を覚悟しながらマイクロバスで登った。岩窟群を繋いでいる歩道は狭かったり急峻な階段があったりの難所だったので、E寡婦は気の毒にも見学を諦めた。

A B氏主催のミニ懇親会

   B氏はいつも旅の途中で、同行者に声を掛け、希望者を集めて自室で飲み会を開いているのだそうだ。良い提案とは思ったが、唯我独尊の仕切り屋になりたがる性格には辟易。本人の意に沿わない話題を出す人は部屋から追い出すという。
   
   今回は少人数だったこともあり、添乗員・現地ガイド・ドライバーを含む全員が集まった。B氏は買ったばかりのワインを提供。参加者には摘みを持参するようにと要請。私は手持ちの品が無く、手ぶらで参加。四方山話に花を咲かせていたら、ドライバーが突然質問をした。
   
   『グルジアには天国にいる死者の冥福を祈るための単語があります。Megobroba と言います。日本語ではどのような言葉が対応するでしょうか?』
   
   『南無阿弥陀仏』とは、阿弥陀仏に帰依する気持ちを表して唱える言葉だから、意味が異なるし、私は勿論同席の誰もが答えられなかった。日本人には死者が天国にいるとの具体的な発想が無いため、死者に語りかける言葉も生まれなかったのではないか、と私には思えるが・・・。

   現地ガイドに聞くと英語の『friendship』に一番近い言葉だそうだ。形式上はとも角、実質的には世界的には珍しい無信心者集団に近い日本の特異性に嫌でも気付かされた。
 
『あちこちの教会では、神に祈りを捧げている敬虔な信者に出会い、墓地では素晴らしい祈りの習慣があると聞くと、宗教にも若干の存在価値を感じますね。日本では、親殺しや子供殺し事件が毎週のように発生していますが、グルジアでも起きているのでしょうか』
『聞いたことがありません』とガイド。
『一週間に一回ではなく、一ヶ月に一回くらいですよ』、と同行者達が反論。

   事実(NHKのニュースで集計結果が報道されたこともある)も把握せず、我が説明を想像だけで反射的に否定するだけの輩達との付き合いには、些か疲れてきた。

[6] 10月9日

@ 昼食

   グルジア第二の都市クタイシに向った。途中沿線のお土産屋などで休憩しつつ、壁が簾で出来ている風通しの良い個室での昼食。仲間との雑談にも飽きて、私だけ隣室で騒いでいたグルジア人の飲み会に闖入。

   彼らは珍客を大歓迎し、夫々が葡萄酒を私に薦めた。飲みきれなくなった私は胃がんの手術跡を見せながら、

   『胃の2/3を切ったので酒は少ししか飲めなくなった』と言って辞退したら、若者達が次々に『俺にも手術跡がある』と言って、腹や手足の手術跡の披露合戦に変わった。盲腸らしき傷痕やかなり大きな開腹手術痕など、半分以上もの若者に手術歴があった。電気メスを使った我が傷痕はケロイド状になり蚯蚓(みみず)腫れのままだが、彼らの傷痕は平坦な白い線になっていた。昔ながらの金属メスを使った手術なのだろうか。
   
   そろそろお開きにしようと思ったら、突然我が帽子を取り上げての引止め作戦に転向。已む無くお付き合いを再開。程なく、添乗員とガイドが迎えに来た。ガイドが掛け合って、我が宝物(ブエノスアイレスで8年前に27ドルで買った牛皮製帽子)をやっとこ取り返せた。

    

A ゲラティ修道院(世界遺産)

   1089年に16歳で王位に着いたダヴィド5世は1130年にクタイシの北東12kmの見晴らしの良い丘の上でゲラティ修道院の献堂式を挙げた。

   内部の装飾はほどほどに温存されていたが、西欧(独仏伊墺など)の豪華な大聖堂に比肩すべくも無く、みすぼらしさは隠せない。   

B バグラティ大聖堂(世界遺産)

   クタイシの丘の上に建つグルジア最大のバグラティ大聖堂は、11世紀の初めにグルジアの初代国王バクトラ3世(在位975-1014)によって建てられた。名前は国王名に由来する。1691年にオスマントルコ帝国に破壊され、屋根も天井も無い廃墟と化していた。

   殆ど外壁のみになった大聖堂は1950年代から細々と修復工事が始まったが、ほんの一部が復元されたに過ぎず、廃墟に変わりは無い。10人あまりの作業員が建物中央部で発掘作業をしていたが、周辺に建設機械や足場もなく、完全な復元工事は資金不足から中断しているのも同然に感じた。

   途中でバザールにも立ち寄った。珍しい果物など安くて豊富。豊田市でも道路沿いに個々の農家の小さな食料品売り場が散在しているが、プレハブ建築程度で少し大型化した共同直売所で生鮮三品を販売すれば集客力もつき、デパ地下の半値でも採算が取れると思うのに・・・。

C 大きな民家に宿泊

   延べ百坪以上はありそうな総二階建ての民家に泊まった。2階を客間に改装した一種の民宿。ベランダも広く、その上にテーブルを出して、眼前に広がる大コーカサス山脈を見ながらの夕食では、28坪のベランダがある我が家でも実現不可能な豪快な気分を味わえた。自家製のワインはコーカサスではお茶代わり。ウオッカも出された。

   ベランダの両端にある別棟には、洗面所付きバスタブ無しの温水シャワーとトイレが各二室(合計4室)あった。しかし、シャワーを使うには部屋から外へ出る配置になっていたため面倒に感じ、今回の旅行では唯一、体を全く洗わなかった夜だった。

   我が相部屋は、20坪はありそうな居間兼書斎だった。家主が勉強家なのか書棚には立派な装丁の本がびっしり。飾り棚には一家のお宝や銘酒の陳列。大型洋服ダンスを開けると立派な洋服がどっさり。テーブルの上にはお客さん向けのサイン帳とアルバム。私も負けじと一筆。

   庭には柿・りんご・洋梨他の果物。いろいろ勝手に採って食べていたら、お婆さんが既に用意していた果物を持ってきた。ベランダには完熟状態の葡萄が鈴なり。私は満腹するまでこれも採って食べた。

   大コーカサス山脈からの日の出には神々しさを感じた。仲間は写真撮影に夢中。出発時にはお婆さん差し入れの果物も頂いた。お客さんがリピータになるはずは無いが、敵は本能寺。旅行社への暗黙の宣伝だ。一家挙げての生活を賭けての歓待に感謝。

[7] 10月10日

@ トビリシ

   グルジアの首都トビリシを目指し青空トイレ休憩もしながらの長距離移動。ソ連邦崩壊後、旧ソ連邦圏への販路を失って廃墟となった工場が時々沿線に現れた。

   道路の両側には無数のゴミが散乱。アラブ諸国と何ら変わらない汚さ。コーカソイドの発祥の地との誇りは何処に行ったのか。ガイドに『掃除をするのは誰?』と聞くと、『行政機関ですが予算不足です。でも本当はゴミを捨てる人が悪い。その根源は教育にある』と、ちゃんと理解はしている。

   グルジア人とは教会内では敬虔な祈りを捧げるふりをし、人目に付かないところでは別人のように変身する輩(『小人閑居して不善をなす』の真意は自慰らしいので、意味は少し異なるが・・・)なのだろうか? それともゴミ捨て魔は宗教心の無い別人なのだろうか。周囲の暗黙の監視を気にしつつも、孤独な状態で貧困と闘いながら生きながらえると、人間とはこれほどまでもエゴイストになれるのだろうか?『衣食足りて礼節を知る』とは永遠の真理なのだろうか。

   午後は国立博物館や旧市街に集中しているユダヤ人街・メテヒ教会(シナゴーグ)・古代ローマ式浴場(ハマム)・シオニ教会を見学したが、都市計画らしきものも感じられず、迷子になりそうな迷路に囲まれた狭い斜面に無秩序に建てられた小さな建物群は全体としての美観にも欠け、写真を撮る気も起きず、然したる印象は残らなかった。
上に戻る
アルメニア

   3000年の歴史を有するアルメニアの古代は『大アルメニア』と称して現在のアルメニアとは区別している。当時のアルメニアの版図は現在の10倍もあり、トルコの東部を含むアルメニア高原の大部分を占めていたそうだ。

   アルメニアでは303年(301年説もある)にアルサケス朝のティリダテス3世がキリスト教に改宗し、世界で最初にキリスト教を国教とした。キリスト教国の元祖だ。それ故かキリスト教各国の応援団が付いているようだ。

   アルメニアはコーカサスのイスラエルと言われ、周辺国との軋轢が絶えない。然したる資源も無いアルメニア人は商人として活躍したのが嫌われるようになったらしい。アルメニア人にはビジネスで成功した者が多く、直近ではロッキード事件で有名になったコーチャンがいる。

   第一次大戦中の1915年、オスマントルコは領内のアルメニア人がロシアと内通していると判断し、強制移住と虐殺をした。虐殺人数をアルメニア側は80〜150万人、トルコ側は30〜50万人と主張しているそうだが、南京虐殺と同様、この種の人数を被害者側が大げさに言うのは世の常。
   
   このときに大勢のアルメニア人がロシア・アメリカ・フランスなどへ移住した。今日、欧米各国がイスラエルを擁護しイスラーム諸国を攻撃するのと同じように、アルメニアを異常なほどに応援し始めた。これこそが勝てば官軍、人類の歴史だ。

   アゼルバイジャン内でアルメニア人がナゴルノ・カラバフ共和国を樹立・独立を宣言(国際的には認知されていない)出来たのは、ロシアの支援だった。ロシアには150万人ものアルメニア人がいるそうだ。

   アメリカには80万人のアルメニア系住民がおり、アメリカ議会ではユダヤ人に次いでアルメニア・ロビーの影響が強い。アメリカ議会は1992年にアルメニアがアゼルバイジャン領の約20%を不法に占領しているにも拘わらず『アゼルバイジャンがアルメニアに経済制裁をしているとの理由で、人道援助を除く一切の政府レベルの援助を禁じる法律』を可決した。これなど文字通り本末転倒そのものだ。
   
   フランスには40万人のアルメニア人がいるそうだ。平成18年10月12日にはフランス下院が『アルメニア人の民族虐殺を否定した者には1年以内の禁固刑と4万5千ユーロ以下の罰金、またはそのいずれかを課す法案』を可決した。
   
   それならばアルジェリアやベトナムでのフランス軍の虐殺行為を下院はどのように評価しているのか、と聞きたくなる法案だ。

   私は集団としてのアルメニア人が、上記の理由などからどうしても好きにはなれない。しかし、今回の旅ではアルメニア人ガイドの女性が、たどたどしくはあっても一所懸命に日本語をしゃべり、ガイドとして健気に努力していたので、答え難いであろう質問はとうとう我慢して取りやめた。彼女の勝ち!

[1] 10月11日

   グルジアからアルメニアへの入国手続きを添乗員がしている間の1時間、直ぐ横の居酒屋で過ごした。

   仲間との四方山話にも飽きた私は、居酒屋内にいた若者のグループのところへ1人で出かけ、いつものように気楽に話しかけた。日本人が珍しいのか、直ぐに打ち解けて乾杯! 同行の仲間に撮ってもらった記念写真に現れている若者達の輝くばかりの目に、改めて驚く。




@ アフパト修道院(世界遺産)

   9世紀に建てられ、2度の修復と増設工事で拡張された。当時のアルメニアは東ローマ帝国とイスラーム帝国(一昔前まではサラセン帝国と言われていたが、その後欧州の歴史学者がサラセンは間違いだったと気付きイスラームに改称した)のアッバース朝に分割支配されていた小領主の集合体だった。北部の支配者ブラガトゥニ家が建設。個々の領主の財力が乏しいためか、歴史はあっても小さな建物だった。

   アルメニアの宗教建築はドームの内部に4本の柱を建て、12個のアーチで9個の天井を支えることに特徴があり、この4,9,12には特別の意味があるのだとか。

   かつては500人もの修道士がいたものの、今では単なる歴史遺産と化し、観光資源になっているだけ。石造建築の耐久性には一目置くものの、窓が小さくて陰気臭く、壁が汚れたままに放置されているのを見ると、気が滅入ってくる。床掃除だけではなく、時には壁を磨く努力もしてくれないものかと思わずにはおれない。

A 昼食

   レストランでは演奏家二人による生演奏を聴いた。アルメニアは元ソ連邦圏なのでロシア民謡は得意なのではないかと予想し、彼らに幾つかのロシア民謡の歌い出しを口ずさんで聞かせ、その曲を弾いてもらおうと努力したが、知っている様子は無かった。



   そこで意を決し、彼らの横で我が愛唱歌『ともしび』を独唱。音程も狂った我が『ともしび』を、狂った音程に和音も付けて再演してくれた。彼らの耳のよさには驚愕。絶対音感のなせる業なのだろうか。我が人生では初体験だったが、感激のあまりチップも弾んだ。

B サナヒン修道院(世界遺産)

   山の上に建てられた古い石造修道院だったが、みすぼらしくて印象に残らなかった。
欧州には此処に限らず、宗教関係の小粒な世界遺産(関係者には貴重な遺産なのだろうが・・・)が多く、うんざりしてくる。

   そこに辿り着くまでの悪路の両側には急な山の斜面が広がり、小さな民家が密集していた。自動車時代とは無縁な生活だ。周辺には目ぼしい農地も放牧地も乏しいのに、生活の基盤(職業)は何なのか、皆目見当も付かなかった。ガイドは農業と答えたが・・・。

C パンク

   移動中にパンクが発生。日本では道路整備が進んだ結果、私は過去20年以上もパンクの体験が無い。しかし、コーカサス地方では何時パンクしても不思議ではない。今や日本ではどんな田舎に行っても発見できない悪路だらけだ。

   ドライバーが1人で悪戦苦闘していたら、通りがかりの車のドライバーが手伝ってくれた。原始共同社会(ゲマインシャフト)の助け合い精神が未だに生きているのか、この親切さには驚いた。添乗員がチップを渡すかと予想したのに・・・。

   日本人は見ず知らずの人とは関わり合いになるのを極力避けるようになってきたから、私はまさかの事故に備えて日本自動車連盟(JAF)に加入している。バッテリ上がりとか、ガス欠とかの瑣末事対策が主目的だが・・・。

   短い旅行中にも拘わらず、大型バスのタイヤ(5万円もするとか)を取り替えている場面を目撃したし、今夏の中央アジアでも乗っていたバスが故障したが、旧ソ連邦圏では車のパンクや故障などは日常茶飯事のようだ。

D デリジャン・トンネル

   海抜と長さが共に2,000mと称したデリジャン・トンネルの両側の景色の違いには『トンネルを抜けたら雪国だった』との書き出しで有名な川端康成の『雪国』(小説嫌いの私は読んだことも無いが・・・)を思い出した。

   トンネルに入るまでの道の両側の山々は紅葉の真っ盛りだったが、トンネルを抜けたら雑草が生えているだけの山に激変したからだ。山の両側では気候帯が完全に変わっていた。

   これと全く同じ現象に、トルコの東北部にある黒海に面したトラブゾンの背後に聳える山でも出会った。黒海からの湿潤な大気は高山に出会って雨を降らせ、乾燥した大気が山を越える結果、鬱蒼たる森から岩山へと、トンネルの両側で植生が劇的に変化していたのだ。

E セバン湖

   海抜約2,000m、1,360平方Kmでコーカサス地方最大のセバン湖は琵琶湖(670平方Km)の丁度二倍の大きさだが、格段に美しい湖だった。周囲は紅葉の山々に囲まれ、湖岸には別荘やリゾートホテルが立ち並ぶものの、日本のような派手なネオンや広告も無く、透き通るような水をひっそりと湛えている。生活排水や農業用水で富栄養化し、プランクトンの宝庫になって薄汚れてしまった琵琶湖(最近は少し改善されたらしい・・・)とは比肩すべくも無い。

   この湖に突き出た半島に小高い山があり、その頂上にお決まりの修道院があった。   コーカサス地方の宗教建築は、どれも中心部は断面が円または多角形の筒形、その上に円錐または角錐の屋根を載せた外観に特徴がある。とんがり帽子の建築版だ。  

   今は単なる観光資源になっている物件が多いが、どこの国でも教会や修道院が、生活に不便ではあっても山頂など見晴らしの良い一等地とか、庶民が立ち寄り難い絶壁に建てられているのが不思議だ。

   俗界と物理的に隔離された僻地ではなく、俗界なればこそ嫌でも遭遇しがちな異性への誘惑を、積極的に絶ちながら修行に励むのが本筋と私には思えてならない。現実から逃避したかのように感じられる仙人暮らしもどきよりも、煩悩を超越(我慢?)しながら生きておればこそ、修道士たちは信者から遙かに大きな尊敬も受ける筈と私には思えるからだ。

   湖面を見下ろせるレストランのテラスで、ガイドが差し入れたアルメニア製のチョコレートを賞味。植物性油脂を使った偽物のチョコレートとは即座に判ったが、空腹にはそれなりに美味しかった。
_______________________________________________________________________

蛇足

   ヨーロッパにおいては、2000年3月、EU議会でチョコレート基準の最終決定が下され、その結果、カカオバター以外の植物性油脂の含有量が全重量の5%未満なら「チョコレート」と分類される(ただし使用可能な植物性油脂は、イルーピ、ヤシ油、サラ、シアバター、コクム、マンゴーの6種類のみ)ことになった。
   
   フランスは当初これに猛反発し、その白熱する議論は「チョコレート戦争」と呼ばれた。EUの決定を受けて、フランスはこれを国内法に取り入れたが、チョコレート製造販売者、およびチョコレートを愛する国民は今なお、「純粋なチョコレート」と「混ぜ物をしたチョコレート」がまったく同等に表示されることに反発している。
   
   フランス以外もベルギー、オランダ、スペイン、イタリア、ドイツ、ルクセンブルク、ギリシャなども同様のスタンスで、フランスとベルギーは「正統派チョコレート」のロゴを正式に認可し、表示している。
   
   本物のチョコレート(代表格はベルギーのGODIVA=ゴディヴァ)は日本の夏場では室内でも融けるから取り扱い難く、私には融点の高い偽物のチョコレートで充分だ。ガイドが翌日、チョコレートの製造販売元へ案内したのでお土産に4箱買った。チョコの本物と偽物の区別を知らない人も多いので、いつもこの種の偽物チョコを海外土産として重宝している。
____________________________________________________________________________________

[2] 10月12日

@ 博物館

   人口が少ないアルメニアなのに、イスラエルに似て著名人が多い。テニスの世界一にもなったアメリカ生まれのアンドレ・アガシ(男性)もアルメニア系イラン人だ。旧ソ連邦はスターリンに限らず、実質的には植民地だった各共和国の一流の人材を登用していた。支配下の人民を平等に取り扱った場合もあった点ではかつてのローマ帝国に似ている。ソ連邦の故ミコヤン元外相もアルメニア人だ。

   しかし、ダントツに有名なアルメニア人はミグ戦闘機の設計者だった『ミコヤン』である。博物館の庭には誇らしげにミグ戦闘機が飾られていた。

   ミグ25戦闘機は1964年に初飛行した時速3,000Km(マッハ2.83)も出せる画期的なターボラムジェット機であった。丁度30年前の1976年に亡命を意図してベレンコ中尉が函館空港に強行着陸した。

   日米挙げての調査の結果、ミグ25戦闘機は最新の技術よりも信頼性を重視した設計だったと発表されたのも記憶に新しい。制御装置だってICではなく真空管を使っていた。初飛行から40年経った今でも戦闘機の高速化には足踏み状態が続いているが、エンジンの推力不足ではなく、機体用の耐熱材料の開発待ちらしい。

A 歴史博物館

   アルメニアの首都エレヴァンを見下ろす丘の上に歴史博物館が建てられていた。歴史博物館はそれ自体が巨大なモニュメントを兼ね、屋上には剣を持って闘う女性兵士の巨大な像が載せられていた。

   この丘は子供のための遊具なども備えた児童公園になっている。子供時代から平和の大切さを受け止めさせようとの意図も兼ねているとかで、その発想には一目置いた。

B アルメニア聖教の総本山(エチミアジン大聖堂・世界遺産)

   名前だけは大聖堂と大げさだがどこにでもありそうな教会だった。この日は快晴。結婚式を教会内で挙行中だった。新郎新婦に夫々の友人が恰も日本の仲人のように付き添い、4人横一列になって牧師からの祝福を受けていた。

   日本では本物の神社や教会内での挙式は少なく、大抵は結婚式場内に併設されている偽物の神棚や祭壇の前での挙式に変わっているが、海外では偽物会場での挙式には出会ったことがない。ここにも日本人の宗教とは無関係な形式主義がひょっこり顔を覗かせている。おまけに日本人の結婚式場に見ず知らずの一見の外国人観光客が闖入しようものなら、大騒ぎになることは必定。

   挙式後一族郎党が庭に出て記念写真を取り始めた。いつもの事ながら私はつかつかと歩み寄り、一緒に記念撮影。どこの国でも女性は、幸せそうな表情の表現は得意だが本心なのだろうか・・・。


  
[3] 10月13日

@ アララット山

   アルメニア観光の超目玉はアララット山だ。かつてはアルメニア領土内にあったが、今はトルコ領内にある。

   アララット山は旧約聖書の創世記に『ノアの方舟が漂着した』と書かれている伝説で有名だが、大平原の中に屹立し、万年雪を戴いて輝く荘厳な威容を見れば、たといユダヤ教徒やキリスト教徒でなくても、誰でもが『聖なる山』との深い感銘を受けたとしても不思議ではない。

   今回の事前勉強の前までは、アララット山が二つ存在していたとは全く知らなかった。大アララット山(5,123m。高さには諸説あるので理科年表・平成14年版から引用)と隣接している小アララット山(3,925m)である。共に活火山だ。小アララット山と雖も我が富士山(3,776m)よりも高く、大アララット山が如何に大きいかは、小アララット山を富士山に置き換えて同時に眺められるが故に嫌でも認めざるを得ない。

   アルメニア人のアララット山への思い入れは狂気じみているほどだ。アルメニアの国章の中にも描き込まれている。まるで今尚自国の山と見なしているかのようだ。日本には富士製鉄・富士銀行・富士通・富士重工業・富士フィルム・武富士など、富士山にあやかった会社名が氾濫していたが、アルメニアでも同じ現象が発生していた。アララットというブランデーすらあった。



________________________________________________________________________________

蛇足その1。火山とは。(インターネットから)

   僅か数十年前までは『現在活動している火山を活火山、活動の記録はあるが現在は活動していない火山を休火山、活動を止めてしまった火山を死火山』と分類していた。例えば阿蘇山や桜島のように常に噴気活動がある山を活火山、噴火記録はあるが現在は活動していない富士山などは休火山、噴火記録は無いが構成している岩石などが火山に由来する火山を死火山と称していた。

   しかし、火山の寿命は100万年。一方、人類が記録を残し始めた歴史はたったの1万年。しかも噴火や噴気活動の間隔は火山によってまちまちであることなどから、活火山と休火山を僅か直近の1万年の活動だけで分類することは無意味と考えられるようになり、気象庁は昭和40年代から噴火記録のある火山や活発な噴気活動がある火山をすべて活火山と呼ぶようになり、休火山という概念は取り消された。アララット山も富士山も木曾の御嶽山も堂々たる活火山に分類された。

蛇足その2。ノアの方舟。(インターネットから)

   旧約聖書創世記に出てくる伝説。神によってアダムとイブから人間が創られ、人々が地上で生活するようになったのですが、神の意に反し人々の間に次第に悪が増大し、悪が氾濫するようになりました。神は地上に人を創ったことを深く後悔し、洪水を起こし悪い人々をこの地上から消し去ろうと決心しました。

   しかし、そんな世の中に、ノアと呼ばれる善人がいることを知り、ノアに大洪水が来るので身を守るようにと告げるのです。 従順なノアは神の預言を信じ、大きな方舟を作ります。そして妻と3人の息子夫婦の合計8人といろいろな動物達や食糧を方舟に乗せ、安全を確保します。

   大洪水は40日間続きました。雨は降り続き、山々をも越えるほどの洪水となり、全てが失われてしまいました。しかし方舟に乗っていたノアとその家族、そして動物達だけは皆助かったのです。方舟は5ヶ月間、水の上を漂いました。

   そしてようやくトルコ東部にあるアララット山(トルコ語名 Agri Dagi アゥル ダゥ)に到着しました。そこで約7ヶ月間、水がおさまるまで待ち、ようやく方舟に乗っていた人々や動物達は外に出ることができたのです。そして助かったことを神に感謝し、いけにえを捧げ祈りつづけました。また、舟に残ったわずかな材料で一品作り祝いの宴を開きました。そのときの一品がアシュレと呼ばれるデザートです。神はそれを見て虹の贈り物をしたと言われています。

   ノアの方舟が到着したとして知られるアララット山はトルコ東部に位置し、ヨーロッパで最も高い(注。トルコはアジアに属しているので、この記事の内容は誤り)標高5,166mです。休火山(注。活火山の誤り。この記事を書いた人は戦前派?)で最後の噴火は1840年6月2日でした。上部3分の1が常に雪に覆われており、頂上付近は氷の状態です。 昔からアララット山にノアの方舟の存在が信じられていました。あのマルコポーロもそのことについて言及していたといいます。

      そして近年になりいろいろな発見がされ、紀元前3000〜4000年前の糸杉でできた巨大構造物が発見され、聖書に描写される方舟と非常に似ているとして調査が開始されています。近い将来、発表される結果に期待をしたいと思います。
_________________________________________________________________

A ホルヴィラップ修道院

   アララット山が真正面に見える丘の上にホルヴィラップ修道院があった。直径1m強の円筒状をした深さ10mの穴の底に牢獄があった。垂直に立てられた梯子で降りて牢獄を見学。真っ暗闇の中での獄中生活に13年間も耐えたと言われる聖グレゴリウスの根性に一目。大小便の排出は牢獄の監視人の仕事だったろうが、ご苦労なことだ。
   
   観光客相手に伝書鳩を使った珍しい商売があった。2ドル払うと伝書鳩を放つことが出来るそうだ。伝書鳩は空中を舞った後、舞い戻ってくるので何回でも商売道具として使える。アララット山に向って平和の象徴のような鳩を飛ばすのは一服の清涼剤になるようだ。私は無料で鳩と彼らの写真を撮った。

   ホルヴィラップ修道院のアララット山側は絶壁になっていた。私はアララット山を目だけで鑑賞するのには物足りなさを感じ、岩の陰に隠れてアララット山に向い悠然と放尿し、我が愛しの伴侶にもアララット山を拝観させた。
   
   ホルヴィラップ修道院の直ぐ近くには広大な墓地が広がっていた。しかもその一つ一つが大きくて豪華。最大のものは優に庶民の家ほどもあった。アララット山が見えることに最大の価値がありそうだ。

B 古文書博物館(マテナダラン)

   アルメニアの古文書(こもんじょ)や写本など14,000点も保管しているという。聖書に由来する物語も多いとか。グーテンベルク以前の本とは総て手書き。色彩鮮やかな挿絵などはそれ自体が絵画のような芸術作品に感じる。

   昔の紙は羊皮紙が主かと思ったら牛皮紙もあった。牛の皮といっても大変薄く加工されていた。数百ページにもなる大型の本(20インチのテレビ画面大)一冊分の牛皮紙を作るには数十頭もの子牛が必要とか。それゆえに製本も表紙の装丁も一つひとつに豪華さが溢れていた。立派な本の原価は今日の価格では超高級車並と推定した。

   私にとっては本の中身よりも、材料や手書きの複雑さ、装丁の豪華さなどに関心を引かれた。当時の本は一般国民の手に届くはずは無く、勉強の環境は限られ、知識人(単なる物知りに過ぎないが・・・)とはほんの一部の人に限られていた背景が、いながらにして理解できる。

   パピルス・羊皮紙・牛皮紙の生産コストを推定するにつけ、中国人が発明したと称される紙の効用価値が如何に高いか、現物を通じて再認識せざるを得なかった。
   
C ブランデー工場

   首都エレヴァンの都心の丘の上に外観が博物館のように壮麗なレンガ造りの工場があった。工場見学というからには製造工程も見られるかと思ったら、ブランデーの熟成倉庫だった。

   10立方メートルは入りそうな大きな樽やドラム缶サイズの標準型の樽まで寝かせてある状態は壮観だ。木製の樽からは水分・アルコール・香り成分が徐々に滲み出し(1年に体積の数パーセントとか。蒸発分は定期的に補填)、倉庫全体にブランデーの香りが溢れていた。

   旧ソ連邦圏の各共和国大統領などを初め超有名人が来訪の折に樽買いをしたのか、訪問日や名前などを記入した樽が参観コースに誇らしげに飾られていた。熟成後に本人に送り届けるサービス付のようだ。1樽から250本は採れるから、100万円程度か?

   会議室では摘みを摂りながら、数種類のブランデーを試飲した。無料かと思っていたらちゃんと9ドルの入場料(西遊旅行のサービスとか)を取られていた。玄関口には直営の売店もあり、熟成年数をラベルに☆の数で表しており、判りやすかった。記念に一本購入。

   私には、ブランデー・ワイン・ウィスキーなどの欧州の酒類に対して共通する疑問を捨てきれない。熟成期間信仰主義だ。熟成中に起きている現象は容器材料としての木の成分の単なる浸透に過ぎない。アルコール化に役立った酵母は加熱されて死滅しているはずだからだ。もしも酵母が生きているならば、長期間に亘って鮮度を保てるはずが無い。いわんや瓶詰めされたボトルの、瓶詰め後の熟成価値などあるはずがないと思うのだが・・・。

   この点ではアララット社の担当者は理解していた。瓶詰めされた後のブランデーは変化しないから、幾ら長期間保管しても三ツ星は何時までも三ツ星と断言した。

   元エンジニアだった体験からは、醸造技術者はアルコールを短期間で熟成できる技術を何故開発しないのか、不思議でならない。バイオテクノロジーの単なる応用問題に思えて仕方が無いのだが・・・。

   熟成ワインと称して高値を付けて売る一方、鮮度が生命であるかのごとき宣伝をしながらボージョレ・ヌーヴォーをこれまた高値で売りつける商法には辟易。『矛盾』という言葉の由来を思い出さざるを得ない。有難がってそれらに飛びつく輩も情けない。
________________________________________________________________________________

蛇足。矛盾の由来。

『韓非子』の一篇「難」に基づく故事成語。

「どんな盾も突き抜く矛」と「どんな矛も防ぐ盾」を売っていた楚の男が、客に「その矛でその盾を突いたらどうなる」と問われ答えられなかったという話から。もし矛が盾をつき通すならば、「どんな矛も防ぐ盾」は誤り。もしつき通せなければ「どんな盾も突きとおす矛」は誤り。よってどちらを仮定してもおかしな事になってしまい、男の嘘が発覚した。

孔子批判

「矛盾」は、韓非が『韓非子』のなかで儒家(孔子と孟子がその代表、ここでは孔子)批判のためのたとえ話の中で、「矛盾」という言葉を使ったもの。儒家は伝説の時代の聖王の「堯」と「舜」の政治を最高で理想だとした。

しかし、韓非は、「堯」が最高であるならば、それを受け継いだ(禅譲=優れた人物に王の位を譲ること)「舜」は「堯」よりも優れていると言えない。また、「舜」が最高であるならば、舜の前に政治を行った「堯」が最高であるとは言えない。

したがって、両方の者が同じく最高の人物で、理想的な政治を行ったというのは話が合わず、あり得ないという意味を込めて批判的に”矛盾”のたとえ話をした。いわば、この話には、韓非が儒家(徳治主義)の思想を批判し、自説の法家(法治主義)の思想の正当性を主張しようという意図があった
_______________________________________________________________________________

D ガルニ神殿

   17世紀の地震で壊滅した後1976年に再建された。アテネのパルテノン神殿を猿真似したようなミニチュア版。でも、24本の柱に囲まれた内側には、壁も屋根もあり、それらが殆どなくなっている元祖パルテノンの荘厳さを連想させる価値はあった。

   近くには紀元前3世紀のローマ式浴場跡がガラス張りの小屋の中で保存されていたが、本場の浴場に比べ余りにも小さく貧弱だったので些かがっかり。

E ゲガルド修道院(世界遺産)

   この修道院は岩山を刳り貫いて造られたそうだ。今まであちこちで岩山を刳り貫いて作られた宗教建築や彫刻を見たが、その作り方は判らなかった。近代建築が総て下から上へと建てられているのを見慣れていたためか、何となく下から上へと彫り進んだと想像していた。

   ガイドの説明を聞いて納得した。井戸を掘るように上から下へと彫り進めたのだ。これだと人の出入りと岩くずの排出用以外には、作業用の足場が要らない。どんなに大きくても作業が楽と初めて納得した。アフガニスタンのバーミャンの巨大な仏像(アルカイダによって爆破された)も上から下へと彫り進められたと推定。

F レストラン

   最後の夕食はディナーショーだった。私は思い出のひと時を楽団の一員と心底楽しく過ごせた。



[4] 10月14日

   エレヴァン最終日のこの日は16:05発まで、観光予定は無く自由行動。特に行きたいところも無く、同行者と一緒に青空マーケットへ出かけて時間つぶし。

@ 青空マーケット

   絨毯・食料品・日用品・絵画・お土産用民芸品・古本・中古カメラ・チップを当てにした演奏家などに混じって、中古の自動車部品や薄汚れた各種工具が売られていた。こんな部品でも買い手があるのだろうかと思えるようなものもあったが、自国に自動車産業が無いためか。


   
   各種製造業が未発達な国では、幾らお金があっても保守サービスの完備している日本並みの快適な生活をすることが如何に大変か、気の毒に思えて、思えて・・・。
   
   1972年1月24日にグアム島のジャングルで横井庄一氏が発見された。その時の所持品を見たアメリカ兵はその価値を評価できず『何のために持っているのか』と言ったそうだ。日本人にとってはゴミと見なされた廃棄物が世界に輸出されている現実を悲しむべきなのだろうか?
上に戻る
おわりに


[1] 荘厳美溢れる大自然

   観光地としてのコーカサスの魅力は大自然にこそあった。自然とは無関係に人為的に決まっただけの各国の国土面積の大小と、そこに展開される景観の大小関係との間には何の関係もない。コーカサスの大自然とはユーラシア大陸の雄大さそのものだった、のは当然のことだ。海に浮かんでいるかのような小さな島々で構成された日本では、決して望めないド迫力だ。

   本場のアルプスを上回る、5,000m級の連山からなる大コーカサス山脈の峰々は万年雪に覆われ、太陽光線を反射して眩しく輝く。さえぎるものの無いなだらかな高原地帯や平野部(実体は盆地)では羊や牛の放牧地がどこまでも広がり、のんびりと時が流れる。秒単位で作業が管理されている自動車の組み立てラインの喧騒とは別世界だ。

   羊の飼育コストは羊飼いの安い人件費程度なので、親羊一頭の価格はたったの5〜6,000円。松阪牛のヒレ肉100gの価格(松坂屋百貨店名古屋本店では6,000円)だ。アルゼンチンでは成牛一頭が300ドル(1,100ヘクタールの所有地に900頭もの牛を放牧している、と豪語したゴルフ仲間から平成18年11月26日に聞いて驚いた!)だそうだが、コーカサスもその程度だろうか(価格を聞き忘れたのが残念)?

   山高ければ谷深し。雨量は500〜1,000mm前後と少ないものの、山裾には美しい原生林も広がり、湧き水は豊か。谷底を流れる清流の水面がきらきらと輝く。紅葉の季節を正に迎えていた原生林はパノラマのように広がって美しく、小さなデジカメ写真では想像すらできない雄大さだ。アラブ各国の荒涼とした岩山とは対照的な別世界だ。

   しかし、自然が美しいだけでは、霞だけで生きられる仙人ならいさ知らず、うつせみの国民には、先進各国民が享受している豊かな人生とは全く無縁だ。旧ソ連邦経済圏での相互依存社会から裸のまま飛び出した各国にあるのは数千年の歴史の誇りだけ。国際競争力のある製造業も乏しく、農業だけの中世に舞い戻ったような、予想すらしなかった試練が待ち受けていた。

   幸いにも折からのエネルギー資源の暴騰で、黒海周辺の石油や天然ガスが棚ボタ景気をもたらし始めたが、いつまで役立つのだろうか? 掘っ立て小屋に住みながらも飲食に不自由の無い暮らしさえ満たされれば、信仰心の厚い当地の人々は幸せな人生だったと感じながら生きていけるのだろうか?

[2] がっかりした世界遺産
   
   世界で最初にキリスト教を国教にしたアルメニアに代表されるように、宗教関連の遺産が多く、幾つかの教会と修道院や旧市街などが世界遺産に登録されている。しかし、建設時の国力不足からか夫々の規模が余りにも小さく、幾ら歴史的な意義を強調されても私には魅力がイマイチ感じられなかった。

   これらは宗教関係者や現地の人々にとっては貴重な遺産ではあっても、部外者にはありふれた単なる廃墟に過ぎず、世界遺産に登録する意義に疑問を感じるだけだ。世界遺産の登録基準にキリスト教関係者のお手盛り主義が感じられて不快でならない。

   私にはエジプトのカルナック大神殿やピラミッド、ローマのパンテオン、ミラノの大聖堂、ペルーのマチュピチュ、インドのタージマハール、我が法隆寺などを世界遺産に登録するのには何の異存も無いが、コーカサス各国の世界遺産だけではなく、最近の新規登録世界遺産の貧弱さにはがっかりし続けている。何とかして観光資源に育てたい、との関係者の思惑が余りにも強く感じられ過ぎて・・・。

[3] 心に焼きついたコーカサスの仲間達

   今回の同行者達の過半数とは何故か波長が合わなかった。原因の大半が私にあるとは承知しているものの20人以上もの団体だと、何人かとは波長が合うのだが、たったの6人だと波長の合う人に出会える確率が低くなるのはやむをえない。その反動でもないが、今回ほど多くの外国人との交流を楽しめた旅は無かった。

   本文で紹介しただけでも、モスクワ空港での中国人達、ディナーショーでの大道芸人、岐阜県で働いているグルジア人達、山登りで出会ったユダヤ人達・オランダ人・グルジア大統領夫人、昼食時に隣の個室で出会い手術痕を見せあった仲間達、国境の居酒屋で出会った仲間達、レストランで出会った音楽家達、宇宙人の恰好をさせてくれたドライバー、結婚式の花嫁と花婿、最終日のレストランで一緒に踊ってくれた人達、あちこちのバザールで出会った商人達・・・。

   キルギスのカルパック帽子やアルゼンチンのカーボーイハットが役立っただけではない。日本人が珍しかっただけでもない。拙い英語力の効果とも思えない。本当の原因は私が彼らとの一瞬の出会いを心底楽しみたいと思って積極的に行動した態度に、彼らも共感しながら心を切り開いてくれたのだと思っている。

   これこそが私の海外旅行の楽しみ方のひとつなのだ。

[4] 歴史認識

   日中韓間で何か問題が起きるたびに、中韓は当面の問題とは全く無関係な歴史認識問題を持ち出しては日本に譲歩を迫る。同様の歴史認識問題はイスラエルとアラブ間、パキスタンとインド間などあちこちで発生している。アルメニアとトルコ間もその例外ではない。

   人類が誕生して以来、面積が一定の地球上での陣取り合戦は今日に至るまで続いている。現在の国境(国境が未確定なところは今尚あちこちにある)はその結果として決まったものだ。陣取り合戦の正義とは、今尚『勝てば官軍』だ。新大陸の発見時代は先住民がいたにも拘わらず、欧州人が発見したものは欧州人のものという、勝手放題を通した。

   欧州人によるアフリカやアジア他の植民地獲得競争の論理もまた勝手放題だ。アメリカのベトナム介入、イラク攻撃も同類だ。

   歴史問題を持ち出す側の論理は、直近の事件を取り上げて被害国が加害国を非難するのが常だが、歴史を遡ればその逆の現象・事象も発生している。中韓は太平洋戦争で日本を非難するが、元寇の役には触れようともしない。歴史問題は歴史のどの時点で評価するかでどのようにでも結論は変化する性格がある。つまり、正解はないのだ。

   観光地で現地ガイドが歴史問題に関する一方的な説明をして、観光客に同意を強要してくる態度にはいつも辟易する。同じことは同行者の中にも場所をもわきまえずに、歴史問題に関する聞きかじりに過ぎない情報を、質問もしていないのにさかしらぶって振りかざす輩がいつも出てくるが、これにも辟易する。

   歴史問題の調査ではなく、観光に来ている私には大変迷惑なのだ。その問題を持ち出したいのならば、その話題にふさわしい場所に出かけて議論されたいというのが我が主張だ。
   
[5] 蛇足

@ 白内障

   帰国後の10/30に左眼(今までは視力0.7の右眼だけで生きていた)の白内障の手術をした。その経緯は我がホームページの『健康』の項目の『白内障の手術』に載せた。

   視力検査は体調や検査表の照度などでも変化するので0.2〜0.3は誤差の内と思ってはいるが、視力検査が不可能な状態から何と1.0まで回復した。解像力が向上しただけではなく、光の透過量が増加した結果、いつも霧・煤煙・排気ガスが充満していると誤解していた日本の空は大変綺麗だったのだと感動した。壊れかけたテレビを新品に更新したかのように視界が変わった。

   ゴルフでは芝芽が読めるようになり、パッティングの成績もたちまち向上。テニスの腕も仲間が驚くほどに復活。人生が薔薇色に変わったといっても大げさではない。

   こんなに効果があると知っていたらもっと早く手術をするのだったが、後の祭りとはこのこと。去年のアンデス山脈、今年の天山山脈や大コーカサス山脈をこの目で見なかったのが無念。

   でも、生きていさえすればトランスヒマラヤ山脈(エベレスト8848mやマナスル8163m)、カラコルム山脈(K2=8611m)、キリマンジャロ(5895m)、オーロラ(アラスカかノルウェー)を見に行けるのだから、と我が身を励ましている。特に、暗い夜空に輝く淡いオーロラこそは白内障のままでは感動は激減するのではないかと予想しているからだ。

A 平成19年に満願成就か?

   一昔前に海外旅行の目標計画を立てた。『訪問国数>年齢』だった。平成18年末では 64/68=94% に達した。4年前に胃がんと食道がんを治療したときには、目標の達成は最早無理と諦めかけていたが、幸いにも多重がんは寛解⇒完全寛解⇒完治に至り、とうとう目標達成は指呼の間に迫った。

   平成19年にはバルカン半島5ヶ国巡りに出かける予定だが、催行中止の場合はアフリカか中南米に出かけるつもりだ。

   賢人各位、一緒に出かけませんか?

上に戻る
読後感

コーカサス旅行記を何日かに分けて拝読。

前のところは忘れがちになりましたが、一番印象に残ったのは写真に写る現地人の表情です。お義理の記念写真にはない眼の輝きがありました。十年の知己のような心の会話があったからでしょう。

見ず知らずの現地人の中に突入して行く石松さんには最早驚きませんが、違和感無く受け入れてくれるコーカサス人の度量は国民性でしょうか?日本だったら危険外人として弾き出されるか無視されるでしょうね。日本への外国からの観光客が増えないのは高物価のせいだけではないかもしれません。

昨年の暮れに、甥の結婚式で大阪へ行ってきました。ついでに何十年ぶりかで大阪城を見物しました。ウイークデーでもあって、外人観光客(中国人、韓国人など)がほとんどでした。写真入のガイドの身分証明書を首にかけた老人が説明していました。訊くと無報酬のボランティアでした。

日本も良い方向に向かっていますが、所詮押しかけの交流で、石松さんみたいに手術の痕の見せ合いとか、帽子を取り上げて引き止めるのとは意思疎通の密度が違いますね。ともあれ、石松さんの海外旅行の第一目的がかなえられて何よりでした。

グループ旅行の一部の同行者と馬が合わなかった点はお互いに不幸でしたね。居場所が無くなるほど叩きのめされた相手は身から出た錆といえばそれまでですが、相手も旅の良い思い出を残したいと望んでいるので若干の配慮をしてあげては?と感じました。しかし、迎合するほどの配慮は石松さんの良さを半減するのでほどほどでよいのですが。

独ソ戦でドイツ軍の捕虜になったスターリンの長男に対して、ドイツ兵士捕虜との交換が提案された折、スターリンは長男を特別扱いできぬと拒否したとのこと。徳川家康も長男信康を謀反の疑いで自害させたとのこと。歴史に名を残すリーダーは私欲に惑わされずしっかりした理念を持っていますね。

石原都知事は私の好きな政治家の一人です。四男の処遇で非難を浴びているが、「李下に冠を正さず」を忘れないで貰いたい。

石松さんは旅行記を書きながら所々でインターネット検索で事実の確認や知識の補充をされているが、大変ありがたい。労せずして勉強になりました。有難うございました。

@ トヨタ先輩・工・ゴルフとテニス仲間

_________________________________

      旅行記拝見しました。

     “懸命に人生と闘って生きている人々との心の交流”を満喫された様子が今回の旅行記には余すところなく語られ、写真からもその雰囲気が伝わってきました。

     日本を知ることは世界を知ることであるはずなのに、日本史、世界史が選択科目となり、疎んじられているわが国の教育現場の荒廃に改めて憤りさえ感じます。特に近・現代史については授業時間の不足により殆んど触れられていないのが現状のようです。 英語の早期教育より、語るべき内容を身につけるのが先ではないでしょうか。

A  教養部級友・工

________________________________________________________


旅行記「コーカサス」を拝見しました。

トルコより東で、イランに接しているコーカサス南部の国(アゼルバイジャン・グルジア・アルメニア)が欧州に属するとは知りませんでした。確かに、この3ヶ国はドーハ・アジア大会には参加していませんね。それに、地図を見ただけではそこが“荘厳美溢れる大自然”の地であるとは想像もつきません。

あまり馴染みのない国々だけに、聞き慣れない旅行社の扱いである上に同行者もそれぞれユニークな人々が揃ったようで・・・・。しかし、旅行前に石松さんが旅行社と交わした折衝内容を知ったら、「負けました」と兜を脱いだ事でしょう。

古代ペルシャ領当時のゾロアスター教の痕跡も残っているようですが、各々が小さな国でありながら多民族・多宗教・多言語のままでいがみ合っているとは大変だろうと思います。イスラムとキリスト教の違いがあるとは言え、同じコーカソイドなら古来からの由緒ある地名アルメニアとして、一つの国にどうしてならなかったのかも島国育ちには分かり難いところです。

アゼルバイジャン人の超国粋主義女性ガイドが「自分の娘がアルメニア人と結婚すると言ったら、娘を殺してやる」と息巻く程の憎み様は、日韓以上の近隣憎悪と想像しました。イスラエル建国で“祖国”にユダヤ人が移住するまで、中国の古都開府では回族の集落の中にシナゴーグがあり、イスラム教徒とユダヤ人とが親しく暮らしていたそうですが・・・・。

彼等が、大国の狭間で余りにも厳しい歴史の洗礼を受けてきた人々だからでしょうか。「江戸の敵を長崎で...」でもないでしょうが、豊かで紛争とは無縁であった島国からの観光客からはシッカリと秤に細工をし、預かるスーツケースは全て重量超過扱いにしてペナルティ料金を課して賄賂を巻き上げる。ロックしてあろうが鞄中のめぼしい品物は見逃さずに抜き獲ってしまうとは・・・・。見事に徹底したものです。それにしても、欧米を含め「汝盗むなかれ」の一神教教徒の国々ほど油断がならないのはどうしたことでしょうね。  

私には、荒涼たる中東砂漠の地が生み出したユダヤ教に発するキリスト教とイスラムがどうして“荘厳美溢れる大自然”の地や“緑滴る東南アジア”にまで広がったのか未だに理解できません。多分、ローマ帝国のコンスタンチヌス大帝が「大国を統治するに良いツール」と思い至ったことに端を発しているとは想像しているのですが・・・・。

各国のトイレ事情が悪く、爽快な青空の下やアララット山に向かっての放尿は結構でしたが“積年のテーマである包茎率や大きさの調査”が進まなかったとは誠に残念です。

アララット山を真正面に見すえるホルヴィラップ修道院では観光客相手に2ドルで伝書鳩を放させる商売をしているそうですが、修道僧達(石松注。伝書鳩での商売をしているのは修道僧達ではなく、境内に勝手に入り込んでいるアルメニアの青年達です)もなかなか隅に置けないことです。ノアの箱舟から鳩を放ち、陸地が近いことを知ったとの旧約聖書の故事に因んだものでしょうが、縁起物を売りつけて税金無しの丸儲けをする我が社寺に負けていません。

今回も、モスクワ空港待合室では中国人と歓談し、奇術師に促されて剣山の上に座り、ベリーダンスを共に興じ、グルジア人の飲み会に闖入し、山登りでは出会ったユダヤ人達・オランダ人に世辞を言い、グルジア大統領夫人には心にも無く『貴女は何と美しいお方か!』と言って固い掌と握手をし、葡萄酒の無理強いをする若者達と手術痕を見せ合い、結婚式の花嫁・花婿と記念写真をとり・・・・。宮沢賢治が海外旅行をしたら(?)斯くやと思われる“人類愛”に満ちた模範的な国際交流振りでしたね。

思うに、石松さんの日本人離れをした国際性は天性のものに加え、ご両親から幼児期に温かく養育されたものだと想像します。多分、『親殺しや子供殺し事件などは聞いたことがありません』と言う現在のグルジア人達もそうであろうと思います。日本で報じられる“親殺しや子供殺し”、“同級生殺し”や“いじめられて自殺する”等の事件は、どうやら幼児期までの育てられ方で“心の傷”を負ったことによると見られています。

夏目漱石、太宰治や三島由紀夫は散々な幼児期を送ったと言われます。彼等天才は、その“心の傷”をバネに文学の分野で大きな足跡を残しましたが、「母親に愛されなかった」との満たされぬ心のままに“幸せ”とは縁遠い人生であったようです。

豊かになった日本では、嬰児の時代からベビー・ベッドに独り寝をさせ、母親は「子育てで外に稼ぎや遊びに出られなくなった」ことを嘆きながら、哺乳瓶を含ませる欧米流の育児法が主流になりました。乳幼児は、敏感に自分が愛する母親の足手まといになっていることを察知し、それが“心の傷”になって健全で天真爛漫な精神の発達を妨げてしまうようです。教育基本法改正などは問題外で、常に睦まじい両親によって「しろがねも黄金も玉も...」と育まれない限り、今後の日本に“輝く目”をした石松さんの後継者は出てこないことでしょう。

B トヨタ先輩・工・自称『慎ましく遊んでいる年金生活者』

_________________________________________________________________

旅行記、楽しく読ませていただきました。

石松さんがこれ程海外を旅され訪れて各国の文化や人々と交流されているとはまったく知りませんでした。それは現地の方々とのふれあいの写真で感じ取ることが出来ます。現地の資料や風俗も細かく記されていて勉強になりました。又、文章の折々にトヨタに入社されてからの歴史や友人知人同僚の方々との話も出てきて興味深かったです。

私も色々と旅してみたい所、見て見たい所があり、テレビでTBS系の世界遺産という番組やNHK特集等をよくみます。しかし、石松さんの様に計画性と目標がある方と違い、そういうものが無い私は今迄石松さんも旅された中国(上海・無錫・蘇州・兵馬俑・桂林の川下り・万里の長城等)・台湾・香港・シンガポールしか旅したことが無いのです。

私は自分の目で生で見たい物、行きたい所がいくつかあります。例えばインカ帝国(マチュピチュ・ナスカの地上絵)・エジプトのピラミッド等(石松さんはご覧になられたみたいですが)。他にポタラ宮殿・オーロラ・喜望峰・ナイアガラの滝・バチカン宮殿等などです。

ただこれらは思っているだけで、別に計画も行動も起してはいません。これでは多分ほとんど行く事も無く、夢で終わってしまうでしょう。私も石松さんのように目標を決めて(国/年齢の様に)行動を起してみようと思いました。

又、旅の中身もただ行って見てではなく、訪問国の人々や文化との交流を積極的に持てる様な旅行を、と思いました。

C 恐縮ですがどうしても思い出せない方(私もボケが始まったと、残念ながら認めざるを得ません)

________________________________________________________

ようやく「コーカサス3ヶ国の旅行記」を拝読しました。

何時ものことながら事前勉強され、それを現地の報告と一緒に紹介していただいて感心しております。しかし、自分のような凡人が旅行記として印象に残り、面白いと思ったのは、

催行契約トラブルで約款をも不当としてしまう貴兄の論理と度胸、日本人の国語力減に対する感想(これは初記述では?)重量計まで疑う貴兄の眼力、鞄からの抜き取りがあるも貴兄だけ被害無しとは相手の眼力の凄さ、中部国際空港で年齢証明の為のやりとりの天晴れさ、刀の刃に乗る奇術で自ら確かめる姿勢(実はこの奇術は自分が子供の時街頭演芸で見て吃驚し、今でも記憶にあり感慨深いです)、同行者との衝突エピソード等でしたが、

やはり圧巻は現地の方々との交流とその写真でした。

大変満足されて良い旅であったことをお喜び申し上げると共に、旅行記の配信にお礼申し上げます。

D トヨタ先輩・工・ゴルフ仲間・金融資産が百万ドルを悠々突破した株式長者
___________________________________________________________

全く興味の対象外だった国々への旅行記を読む機会を与えて下さり有難く思います。

貴殿の交渉時の押しの強さは相変わらずで、仰る通り世界中何処へ行っても負けないでしょう。全く感服です。

海外旅行の目的は現地の人々との交流だとは、我々には遠く及ばない旅行の達人の言葉ですね。そうしてこそ、その地の本当の姿を見ることが出来るのでしょうね。物見遊山の海外旅行では人生に大してプラスにはならないでしょうが、貴殿の様な考え方ならばそれこそ世界中の人々から貴重な物を学ぶことができますね。これは誰にでも出来る事ではないでしょう。能力の問題です。羨ましい限りです。

同行者のB氏は貴殿に恥をかかされた様ですが、これは自業自得でしょうか?本人の不勉強や能力不足は否めませんが、それを貴殿から非難される謂れは無いと思いますよ。B氏は折角コーカサスの見物を楽しもうと思っていたでしょうに、可哀想に不慮の災難です。貴殿の方こそ唯我独尊で傍迷惑な同行者ですよ。

最初の品定めで察知した知的レベルに合わせた対応を心掛けて、お互いが楽しくハッピーな旅行をしてはどうですか。 波長が合わない奴は切捨てるのではなく、自分の波長の幅を広げれば済むことで折角の同行者、一期一会の縁を大切にみんなで旅行を楽しむための努力が必要ではありませんか。

チョッと偉そうな説教をしましたがご容赦あれ。

旅行記は へー!の連続で知らないことばかりでした。スターリンが息子の命を見捨てたと云う話も大いに へー!ですが、息子の命だから見捨てたのであってスターリンは徳川家康と比肩できる程の人物かな? 自分の命だったら命乞いをしたのではなかろうか? などと思いました。

珍しい貴重な旅行記を読ませていただいて感謝しています。読後感、ご期待に添えない内容ですが悪しからず。

E トヨタ&大学先輩・工
________________________________________________________

謹賀新年

新年早々の立派なメール年賀状有難うございました。すっかり健康体を取り戻され、新年を迎えられましたことまことにおめでとうございます。

さて、昨年の貴兄の「コーカサスの追憶」への感想文を遅ればせながら作成しましたので、ここに送らせて戴きます。(注:メールをお送りします日は新年ですが、下記文章は年末大晦日の夜書きました)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「コーカサス」という地方があるということはときどき何らかの機会に聞き知ってはおりましたが、正直に申しますとどこに位置するのか正確には知らなかった次第です。今回貴兄の膨大な著作を読むに当たって、地図を見てみまして、「黒海」と「カスピ海」に挟まれ、南はトルコとイランに、北はロシアに接していることを知りました。

私など貴兄の本紀行記中の文章を借りれば「得るものが無い馬鹿とは付き合えない」と言下に退けられそうです。

こうした貴兄に取りましては極当たり前のことなのに、そんなことさえ知らなくても、一般の人は何とか日常生活を過ごして行けるのですが、このようなことは果たして大きな問題ではないのか、知識の有り無しは人の価値に大いに関係することなのか、一度は考えなければならない問題なのかも知れません。

それはともかくとして、私は自分が知らないことがまだまだ余りに多いことを(勿論常にそう思っているのではありますが更に一段と)気付かせて戴きましたことに、まずは感謝申し上げます。そうした浅学非才な私が恐れ多くも貴兄の感想を書くということに、気後れしつつも書かせて戴きます。

紀行記の内容は知らないことが多く、正直なところ読ませて戴くだけで大変良い地理や歴史の勉強となりました。その内容に入る前に今までの多くの「○○の追憶」を通じての感想を述べさせて頂きますと、

@ 旅行の後帰国して、ときを置かずして良くこれだけ膨大な文章を書けるものと、本当に驚嘆します。文章を書くことが幾ら好きであったとしても、これだけのページ数を書き上げることは並大抵のことではないと思います。それも年を追うごとに量が増えてゆくことに驚きを抱かざるを得ません。

A これだけの分量を時系列で記述しておられますが、旅行中にメモを取らないとのことですので、その記憶力は桁外れと思います。どういう頭脳構造になっているのか信じられない気持ちです。特に土地の名前や、建物の名前は何度聞いても覚えられないような特殊な外国語ですから、たとえ事前に幾ら本で知識を蓄えて行ったとしても、現地に行って名前を結びつけるのはとてもではない難しいことではないかと私には思えます。(弁解。旅行社から貰った旅程表から書き移したのを、即座に見破られてしまった!)

B 以前より読む度に感じることですが、文章が簡潔で切れ味が良いことに感心しております。ひとつひとつの出来事を一刀両断で瞬時に判断を下し、また世界各地の地理歴史と比較して論じられるので、読み易く後味がさっぱりしているだけではなく奥行きがあります。日本人にありがちのどちら付かずの意見を述べるのではなく、所謂石松流の切れ味で快刀乱麻の如く切ってゆくことに快感さえ覚えてしまい、いつの間にか貴兄の世界に引き込まれてしまうのです。

C また、いつも感心しておりますのは、博学の分野が本当に幅広いことです。地理、歴史、国語、科学技術、経済、政治、土地土地の特産物や商品、植物、衣服、食事、酒、等々知らないものがないのではないかと思うような、まさに歩く百科辞典と言っても良いのではないでしょうか。これだけの知識は一朝一夜で得られるものではないでしょう。

学生時代や会社生活の中で、普通の人とは異なる努力をされてこられたのか、あるいは天才的な記憶力がお有りかと思わざるを得ません。なにかに書いてありましたが、貴兄は夜大変早く床に就かれるとのことでしたので、きっとテレビなどは見ておられないのでしょう。それにも拘わらず世事にも大変詳しくていらっしゃるのですから、全く不思議です。

D やはり、いつも感心しておりますのは、これだけの膨大な文章を書かれておりながら、誤字脱字の類がないことです。私は特許関係の仕事をしておりますが、日本の特許庁から公開されている公開公報には必ずと言ってよいほど誤字脱字があります。登録されている特許でさえ明細書を読むと誤字脱字を発見できます。

特に最近は弁理士がパソコンで記載しますので、変換ミスが見受けられます。また、一般の書籍でも校正をするものの、初版の場合大抵幾つかの誤字があります。そうしたプロとして収入を得ている人の文章に誤字脱字があるのに、貴兄の文章がほぼ完璧であることは驚異的なことと存じます。国語、漢字のレベルでは専門家以上である貴兄にしても、これは驚くべきことと存じます。

E 各旅行の度に貴兄が嘆かわしく思っておられることは、プロとして収入を得てやっているからには当然有しているべき知識を「ガイド」が有していないどころか、時々誤った説明をしたりすることでしょう。確かに厳しく言えばその通りでしょうが、貴兄ほどの博学な人は通常の世界ではいないでしょうから、我々クラスの凡人相手であれば、それで通るのが世間なのではないでしょうか。ですから、失礼ながら言わせて戴くなら、貴兄はCで書いたようにあらゆる分野に暁通しておられますが、たった一つだけ不得意な分野がお有りだということなのではないでしょうか。

それは、殆ど(3シグマ以内)の人は貴兄(6シグマを超える)ほど頭脳明晰ではない、貴兄ほど博学ではないという事実、そしてそういう連中が世論をつくり、世の中を動かしていっていて、その人たちは別になんの不都合も感じていないということについての認識において不得意ということではないでしょうか。

F 更に私がいつも感心感嘆しておりますのは、土地の人たちとの交流に何の抵抗感なく直ぐに参加して行く開放的な人柄です。踊りをしているとその輪に入って行かれます。結婚式を挙げている場に遭遇すると、パッとその列に入って行き写真を一緒に撮ったりされておられます。歌が上手く歌えるか踊りが上手くできるかできないかとかに躊躇することなく、飛び込んでゆく姿に現地の人も喝采を持って迎えてくれるという経験を何度もしておられることに本当に感心しております。さて、前置きはこのくらいにして、「コーカサスの追憶」について述べさせて戴きます。

@ 同行の人たちの旅行鞄が鍵を開けられたり、到着しなかったりの被害を受ける中、貴兄の電子ロック付きの鞄は全く被害も遅れもなかったということで、流石に用心も良いし、敵も手ごわい相手は避けているのかも知れません。

私も以前出張でニューヨークのケネディ空港から搭乗する際、テロの影響で随分厳重にチェックがあり、出張先に準備して行ったお土産の包みを全て破られてしまった経験や、ブラッセル空港に鞄が着かず、翌日の会議をどうして対応すべきか分からなくなり、酷い思いをした経験などありますので、同行の人たちの気持ちが理解できます。

A アゼルバイジャンのバクーの記述にて、アルフレッド・ノーベルの弟ルドヴィッヒ・ノーベルがタンカーを発明したとありました。私は全くこのことを知りませんでしたので、少しばかり驚きました。学生時代だったかにダイナマイトを発明したノーベルの伝記を読んだのですが、弟さんは一緒に実験をしていてダイナマイトの爆発事故により亡くなったと記憶しておりました。もしかしたらタンカーを発明したのはお兄さんではないのでしょうか。

B グルジアで教会へ行かれたときに、岐阜県へ働きにきている労働者に会ったことが記述されておりました。確かにコーカサス地方からの力士が最近いることは知ってはおりますものの、労働者ということになると、イランやパキスタンなどの外国人労働者は東京ではそこここに居るようですが、コーカサス地方から我が日本へ働きにきている人がいることは知りませんでした。

世界が狭くなっていることを貴兄の紀行記から再認識させられました。グルジア出身のスターリンが、故郷の人が日本に働きに行っているということを聞いたら、どのように思うでしょうか。

今少し日本のポツダム宣言受諾が遅かったら、北海道から東北くらいは我が国(ソ連邦)の領土に入れることができたはずだ、従って日本に働きに行くのではなく統治者としてグルジア出身者を行かせて上げられたのにというのでしょうか。(注:1945年8月8日ソ連日本に宣戦;8月10日ポツダム宣言受諾;8月15日終戦;9月2日降伏文書調印;8月8日〜9月2日までスターリンは満州、樺太、北方4島侵略取り放題)

C 熟成ワインと称して古きを尊び高値で販売する一方で、ボージョレ・ヌーヴォーをこれまた高値で販売するのは「矛盾」ではないかとの指摘は流石に鋭い指摘と思いました。私など酒類を殆ど飲まないで今まで過ごしてきております関係からか、余りこの矛盾を矛盾とも気づかずに来ました。

特許の世界では「禁反言」と言われまして、一度こうだという理屈を言った以上は、矛盾することをいうのは許されないのですが、酒造の世界では許されるのでしょう。

D 今回のコーカサス3ケ国の訪問により、悲願の目標である『訪問国数>年齢』が今年末で94%の達成率になり、来年にはとうとう目標が達成できそうなところまでこられたとのことで、本当に素晴らしいことと存じます。

ますますお元気で達成され、更には百数十%にまで行かれますことをお祈り致しております。もう数分で除夜の鐘が鳴ります。石松博士に於かれましては来年も益々良い年となりますようお祈り申し上げます。

F トヨタ後輩・東大工・奥様は絶世の美人との噂・昨年夏初めてお会いした方

_________________________________________


新年おめでとうございます。今年もゴルフや旅行記案内等、宜しくお願いします。

今日、コーカサス旅行記を一気に拝読させていただきました。やや疲れましたがお陰まさで貴重な知識等を沢山得ることができ、大変有難うございました。もっと早く拝読すべきでしたが、年末の雑事に追われて遅れてしまいました。

さて、私にはコーカサスと聞き真っ先に思い浮かべるのがコサックの人々で、昔は優れた馬術で大草原を疾走し、ロシアのシベリア遠征にも先導した人々で彼らの国々はウクライナ、南ロシアそしてカザフスタンの一部と思っていました。

(石松注。コサックのことを書くのを忘れていました。コサックとはコーカサス地方の農民兵です。彼らの体格の素晴らしさは腹が立つほど。こんな貧乏国なのにどうして誰もが素晴らしい体躯を維持できるのかと不思議でした。日本人など吹けば飛ぶような存在・・・。)

しかし、実際は、石油の利権で欧米とロシアが火花を散らしている、民族や宗教が入り組んだあのアルメニアやアゼルバイジャンそしてグルジアの国々であると私にとって初めての認識でした。これらの国々では歴史上常にロシアからの独立に苦しんだようで、数年前もロシアとの軍事衝突で話題になりましたが、そのような環境下で何故、スターリンや最近ではシェワルナゼ元外相のようなクレムリンで活躍する指導者が輩出するのか疑問でしたが、この旅行記を読んでなんとなく理解できたような気がします。

3ヶ国の中では、特に世界で活躍するアルメニア人の国情に興味を持ちました。又、ノアの箱舟のアララット山の遠景は素晴しいですね。しかし、今回の旅行記の圧巻は石松さんの積極的な現地の人々との交流編ですね。胸襟を開いて直ぐに溶け込む行動には感心しました。

今年はかつて世界の火薬庫といわれたバルカン諸国を予定されているそうですね。旅行記を楽しみに待っております。Have your nice trip !

G トヨタ後輩・工・ゴルフ仲間
____________________________________________________

遅くなりましたが−−−、
     新年 明けましておめでとうございます。
     本年もよろしくお願いいたします。

さて、コーカサス 3カ国の旅行記を楽しく拝読いたしました。

石松さんが現地の皆さんと積極的に交流される様子が文章だけでなく、写真からもうかがわれ、いろいろな角度から旅を堪能されておられると、感心いたしました。

その上、名前からも関心がそちらに向かうものか『石と松』の日本庭園を引き合いに出して、各国の「個人の庭園」にまで考察が及んでいる事に敬服いたしました。

しかしながら、所々で話題が脇道にそれる事があり、それが旅行記に巾と奥行きを与えているようにも、また、興をそいでいるようにも感じ、少し気にかかりました。

ますますお元気でご活躍されるよう祈念しております。

H トヨタ同期・工・いつも読後感をいただける方
___________________________________________________________
      
1.石松さんは、旅行先の国・民族・歴史・人物伝・生い立ち・建物・逸話等々あらゆる資料を調べ、事前に準備されて多くの知識と共に現地に行かれるので、何も勉強していかない人や普通の知識の人に比べて、新しい発見・驚き・感動、そして失望もそれぞれ人一倍大きいものがあるのですね。その結果として人が見過ごしてしまうものも、見逃されないのですね。

そういったものが客観的で的確に表現されて、そして調べた事実に基づき自分なりの解釈を加えている点に感心致しました。

現地の人との出会いで、写真での石松さんの明るい表情、石松さんの無邪気な純粋な一面を見させてもらい、楽しくなりました。

旅行記以外の『健康や随筆』でも、このような石松さんならでの人柄がはひしひしと感じられます。

2.石松さんは人を打ちのめしてしまうほどの物事への追求、現地の調査、そこの人の知らない所までの情報を勉強しているので、実は知らず知らずに相手を傷つけていることがありますね。旅行記の中で、一部の仲間と馬が合わないことも書いてありましたね。色々な人と付き合っていく、仕事をしていくには、鈍感を装うことも上手くいく秘訣でしょうか。

3.年齢の数だけ海外に行くという事自体、まず普通人では考えのつかない所。若い頃に相当行っていないと行けませんね。年を取れば病気もするし気力も衰える。行くのが億劫、怖くなるものです。石松さんは昔とちっとも変わりませんね。まして奥様と一緒に行けるなんてほんの僅かの恵まれた人達だけですよ。

I トヨタ後輩・工・ゴルフ仲間・海外駐在は8年に及ぶ海外通・帰国引退後初めて読後感をいただけた人・闘病中
___________________________________

     今日はパソコン・デエイです。朝からパソコンに向かっています。このホテルは24時間繋いでいて57RD(=2000円)です。ちなみに宿代は135RD(5000円弱)なのでインターネットがいかに高いかお分かりと思います。もっともこのホテルはトヨタ特別料金なのでかなり割安にしてくれています。

     貴殿のホームページを開き、コーカサス3ヶ国旅行記を4時間もかけて読みました。すごいボリュームに驚きました。しかし今回は最初(赤字)と最後(青字)にサマリー的な文章がついていて貴殿の言いたい事がまとめられており良かった。

     『はじめに』にあるように、貴殿の旅の趣向も最初の頃の会社出張のついでの旅から、いろいろな文化・文明を見てみよう、しかもシルク・ロードに端を発して旧ソ連邦に集中されて旅をされております。日本人があまり行かないところでもあり、もう一つの目的である訪問国数を増やすことにもなりよい地域を選んでおられます。(小生の知人でやはりトヨタOBで100ヶ国訪問に挑戦している人がいます)

     貴殿は旅の前の準備段階でいろいろと楽しまれる特技をもっておられます。毎回旅行社とのカケヒキ(見方によっては苛め)を楽しまれているのもその一つです。その内に旅行社間で『石松良彦』の名は彼らのブラック・リストに登録されてツアー旅行には行けなくなるかも知れませんよ。

     ガイド・添乗員泣かせも貴殿の特技? 貴殿を満足させるほど知識があり、機転の利くようなガイド・添乗員はおりません。そんなに勉強するような人はそんな仕事をしていません。小生が今まで一番すばらしいと思ったガイドはアウシュビッツ収容所の日本人公式ガイドの入谷さんです。地球の歩き方に載っていて日本で予約していきました。

      ガイドをギャフンとさせるのが快感で、それでツアー旅行に行くのだと言われるのなら話は別ですが、そろそろ古希の年、相手を見てものを言いましょう。

 以下気づくままに、

     受験時代のあの頃の旺文社の参考書、吉岡力著『世界史の研究』は小生も世話になりました。いい参考書でした。今でもそれを見ておられるとの事いいですね。この著者は我々トヨタ35年同期の吉岡さん(最後の仕事はダイハツの専務)のご尊父であることは入社後にしりました。

     海外旅行障害保険は小生も貴殿同様加入せずに海外に出かけています。旅行社の口銭稼ぎで高いばかりです。トヨタ・ゴールデン・キュウビック・カードで十分です。このカードがもう一ついいのはセントレアで出発前にラウンジが使えることです。

     老臭とはどんな臭いですか、人に寄るでしょうがいつ頃から出てくるものですか。貴殿のように朝晩風呂に入る人はいいでしょうが、小生のようにシャワーだけの者はもう臭っているかも知れませんね。年よりは皮膚の脂がおちるとよくないので、あまり洗わないほうがいいとも聞きましたが・・・・・

     韓国人や中国人と日本人との見分け区別、小生は最近は全然できません。20年くらい昔なら区別はついたように思いますが。ここマレーシアやシンガポールではきっと貴殿でも難しいと思います。一度一緒にこの辺りを旅して『当てっこ』競争でもしてみますか。

     旅に出ると2〜3キロ体重が減るとのこと。貴殿は胃の手術で沢山食べられないので、減るのかも知れないですね。小生は逆に旅に出ると体重が増えて困ってます。もっとも小生の旅の大きな目的はその地でうまい物とうまいアルコールを飲むことですので。

     毎回、同行者の素描というか同行者ウオッチングを楽しく読ませてもらっていますが、今回は6人では近すぎて接触時間が長すぎて、波長が最後まで合わずで大変のようでしたね。特にBさんとは口もきかなくなって、さぞ相手も面白くない旅をやられたことでしょう。『旅の恥はかきすて』でお互いに我を出すので難しいのでしょう。一方『旅の道連れ』ですっかり意気投合する場合もあり、団体ツアー旅行は面白いところがあるのでしょう。

     貴殿は体調もすっかり戻られたことだし、小生のように『ひとり旅』をやられたどうですか。みな自分の責任で行動するので誰にも文句は言えない。

     アルメニア人に対して少々偏見をもっておられるように感じました。小生もギリシャに駐在していた時、キプロスの代理店はアルメニア人がやってました。ビジネスでは厳しいようでしたが、なかなかいい人だったように記憶してます。
 
      どの国の人も個人としてはそれほど差はないが、これがマスになり国になると印象が違ってくるものです。欧米人のアルメニア人贔屓は同じキリスト教ということでしょう。ルーブル美術館には『アルメニア人の大虐殺』という大絵画がありますが(ドロクロア作と記憶しているが)、これなどはきっとプロパガンタとして大いに使われたのでしょう。

     同行者と波長が合わなくて、お陰で現地人との交流がよく出来たと言われています。確かにお互いに遠くより眺めあっているより、貴殿の如く現地人の輪の中に飛び込んでいくのは好ましい事です。

      しかし長年海外で仕事をし生活をしてきた者にとって、旅の途中しかも言葉も互いに不自由で短時間の中で現地交流が出来たと言われると、ちょっと待ってくださいと言いたくなります。それは旅のFunではあるが真の現地交流とは違うように思います。この辺りのことはお互いに会って話をしながらでないと誤解を招くので今日のところはこのくらいにします。

     途中の『蛇足』の解説はいいですね。『休題閑話』というやつですね。もう一つのお願いは地図を入れてもらいたい。この辺りの地理は馴染みが少なく、しかも最近変化が激しいところです。もっともインターネットで地図を見ればいいではないですか、といわれればそれまでですが・・・・・・・

     それにしても貴殿の毎回の旅の後の旅行記を書かれるエネルギーはすさまじいものです。感服そのものです。小生も海外を含めてかなり旅をしますが、自分のための備忘録程度のメモを取るだけです。もっとも能力も根気もありません。しかし元気なうちはもっともっと旅を楽しもうと思ってます。

     これで貴殿からの宿題は終わりにさせてください。

J トヨタ(旧トヨタ自動車販売)先輩・工・中東やアフリカ駐在歴が長く訪問国はアフリカ中心に80ヶ国突破・昨年初めてお会いした方・気の毒にも男寡・介護つき老人ホームを購入済み
_________________________________________________

   コーカサス3ヶ国旅行記拝読させていただきました。

   私も業務や個人的な旅行で海外には数多く行っておりますが、最近では写真すら撮ることも無く(過去には行った先々で写真はよく撮りましたが整理はあまりしておりません)、訪問した国の数も直ぐには答えられないのが現状であります。25ヶ国までは思い出しましたが年齢の半分以下です。

   反面、石松さんの旅行記を拝読させていただき、いかに有意義に価値のある旅行をされているか感銘させられました。同じお金と時間を費やして折角旅をするのであるから、歴史的背景や名物などの事前の情報収集をして各地を訪問すれば、また違った角度から物事が見えたり、その土地の人々と分かち合えたりすることが多くなるのだと言うことを納得いたしました。今後は少しでも石松さんを見習いたいものと反省させられました。

   さて、コーカサス地方という言葉はよく耳にしておりましたが、ロシアの南と中央アジアの近くに位置する国々ぐらいの知識しかありませんでした。3ヶ国のうちでアルメニアはよく耳にした名前でした。なぜならばアルゼンチンに在住していたときに度々ゴルフをプレイしたカントリークラブの隣にアルメニア人で組織されているカントリークラブがあったからです。

   そのときは何故アルメニア人が集まるカントリークラブがアルゼンチンにあるのだろうと単純に思いました。石松さんの旅行記を見てキリスト教徒であるアルメニア人が同じキリスト教徒が多く住むアルゼンチンに移り住んできたのだ、となんとなく理解できるような気が致しました。

   グルジアのワイナリーで干し葡萄の作り方を実際に見られ、これまで推定していた作り方とは違うことに気づかされ「百聞は一見にしかず」とは正しくこのこと!とかかれておりましたが、仕事だけでなく何事も現地現物で理解し判断することが如何に大切であるか、ということもこの旅行記から学ばせていただいた気が致します。

   もう20年以上前になりますが、ベネズエラの首都カラカスから400km離れたクマナという海辺の市に工場を建てるプロジェクトがありました。その当時は日本人などほとんど訪れたことが無い地域でしたので、我々を見たアイスクリーム屋のおじさんが、我々に近づいてきて、「どこから来たのだ?」と尋ねたので「日本だ!」と答えたら、「日本は中国のどこに位置するのだ?」と聞かれ唖然とし、さらに「どこの会社だ?」と尋ねられて「TOYOTAだ!」と答えると「TOYOTAはアメリカの会社だろう!」と言われ、このおじさん我々をからかっているのかと勘違いしました。

   帰国後「どこに行って来たか?」と聞かれ、「ベネズエラ」と答えると、「あの細長い国か!」とチリと間違える人、ペルーと間違える人などがたくさん居りました。また実際に行ってみて南アメリカに位置するベネズエラが赤道より北に位置して北半球にあるのだと気づかされ、人間と言う動物はいかに自分本位で物事を見ているのだと言うことに気付かされ、現地現物の大切さを考えさせられたことを思い出しました。

   また、私がアルゼンチンに駐在していたときに訪問頂いた折、首都ブエノスアイレスで買われた帽子をこの旅行でも持参され8年間も愛用してくれていることを知り、またまた感激いたしました。たしか、アルゼンチンを訪問された時はリヒテンシュタインで購入された赤いチロリアンハットを愛用されていたと記憶しておりますが?

   [おわりに]のまとめのところで、「心に焼きついたコーカサスの仲間ができ、この旅行で多くの外国人との交流を楽しむことができたのは、日本人が珍しかっただけでもない、英語力の効果とも思えない。本当の原因は私が、旅先でであった人々との出会いを大切にし、一瞬の出会いを心底楽しみたいと思って積極的に行動した態度に彼らも共感しながら心を開いてくれたのだと思っている。これこそが私の海外旅行の楽しみ方のひとつなのだ」と言う表現がありましたが、正に私の30年近い海外経験から学んだことの大きなものの一つにこの事と共通するものがあります。

   それは、誠意と真心は個人、個人で度合いの違いはありますが、全世界で必ず通用する数少ないものの一つであるということです。

   1978年にオーストラリアのエンジン工場建設で海外での仕事を初めて経験し、それ以降ペルー、ベネズエラ、ブラジル、台湾、アルゼンチンなど数多くの国の工場建設や工場運営に携わり、数多くの外国人のワーカー、技術者と知り合い仕事を一緒にしてきました。そして業務を離れたところでも数多くのその国々の人たちとの出会いがありました。

   業務での成果はもちろん、その国々での生活、経験、数多くの友達、知人を得ることができたこと、これらのどれをとっても私としては満足のいくものでありました。もちろん苦労も数多くありましたし、家族にも支えられましたが、このような結果を得ることができた大きな要因の一つが、その国で、その国の人たちと、良い仕事をしたいと思い、出会った人たちを大切に思い、真面目に、積極的に行動し、自らの心を開き、本当の付き合い(時には家族ぐるみで)をした結果、相手も受け入れてくれ、共感し対応してくれた結果であると確信しております。

   最後に、私も石松さんと同じことに最近気づかされました。それは機内サービスでエコノミークラスではビール、ワインなどのアルコール類はすべて有料であることです。最近業務出張でアメリカエアーラインのエコノミークラスを利用することが多いのですが、アルコール類は5ドル払わないと所望することができません。

   従い小生も最近は寝酒に5〜10ドルを払っておりますので、ロシアのアエロフロート社だけではありませんことお分かりいただけると思います。ともあれ、新入社員でもビジネスを利用することができたトヨタ時代には理解、経験できなかったことかもしれません?

   石松様の益々のご健勝を心よりお祈りし、私の読後感とさせていただきます。
                                  
J トヨタ後輩・工・ゴルフ仲間・海外駐在歴が永い国際人・転籍先の海外業務で活躍中

=============================================================

石松様、はじめまして。

実は、貴兄のサイトの「コーカサス3ケ国旅行記」を興味深く拝読させて頂きました。

小生、半田(愛知県半田市)に住む貴兄とほぼ同年代の年金生活者の身で、経済的に余裕は有りませんが、海外旅行は身体が続く限り、細々ながら続けていきたいと願っております。

貴兄の癌を克服しながらの海外の旅には勇気付けられます。今後とも身体を労わりつつ楽しい海外旅行をされることをお祈りします。

尚、宜しければ当サイトにリンクを貼らせて頂きたく宜しくお願いします。

                chasuke
               mebaru@24.am
      http://homepage2.nifty.com/chasukekun/

K 平成20年9月17日に上記のメールを突然拝受した見知らぬ方・素晴らしいホームページを公開されている方・我ががんへの励ましを賜り心から感謝

___________________________________________
上に戻る