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旅行記
           
諸大陸
地中海・エーゲ海クルーズ(平成23年1月30日脱稿)

   死ぬ前に一度はクルーズを体験したくて、平成14年秋にカリブ海クルーズ(平成15年1月の催行予定)を申し込んだ。好事魔多し。平成14年11月28日に胃がんの宣告を受け、同年12月19日に手術を受けた。無念にもドタキャン。

   爾来、意気消沈していたが、8年後の平成22年夏に再びその気がむくむくと復活。各種コースの面白さを比較。荊妻の提案で『地中海・エーゲ海満喫クルーズ16日間』を選択した。カリブ海諸国は2009年に満喫した中米7ヶ国と類似しており、関心がすっかり消滅していたのだ。

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はじめに

   いつもは海外旅行に出発する前に豊田市中央図書館に出かけ、地球の歩き方などの関連図書を10冊前後も借り出して事前勉強をしていたが、今回は全くしなかった。今回の寄港地近辺の観光地の大部分は既に訪問済みだっただけではなく、3ヶ所の初訪問地(バルセロナ・エクスアンプロバンス・サントリーニ)には然したる関心がなかったからでもある。

   いつもは同行者の挙動観察も楽しみにしていたが、加齢とともに他人への関心が希薄になった。6巡目の寅年を迎えた昨年からは、過去延々と参加し続けていた全部で14会合ある小中高大トヨタ同期の懇親会・同窓会・同期会の全てを欠席。慣例化していた出席者の近況報告に飽きてしまったのも動機の一つだが、本質的には他人の人生への関心が急減したのだ。

   昨年(平成22年)からは仲間を集めて中部地方一帯の温泉一泊旅行を開始した。温泉に泊まって会席料理を食べるのが目的ではなく、気のあった仲間との何の価値も無い、肩の凝らない四方山談義に魅力を感じてきたからだ。これも加齢の影響だろうか?

   今回のクルーズ参加の主目的は、新聞・雑誌・テレビ・ゴルフ・テニス・家庭菜園・デパ地下巡りなどでパターン化している日常生活から脱出し、非日常性溢れる世界と想像していた船旅を楽しみつつ、心身ともにリフレッシュしたかったからである。

   
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クルーズ

クルーズの乗客は大衆だ。

   タイタニック号(46,328トン、乗客定員1,324人、乗組員899人)に象徴される、かつての大型外洋客船は大西洋でのロンドン=ニューヨーク間など欧米間の贅沢な移動手段だった。ところが大型ジェット旅客機が就航し始めると、移動手段としての大型客船は競争力を失い、洋上移動宿泊娯楽船(大型洋上ホテル・ミニラスベガス・ミニ免税店街・ミニテーマパーク・ミニスポーツクラブ・ミニ保養所といいたくなるほどのアイディア満載船)へと転進。

   しかし、外洋クルーズ客は世界の年間海外旅行客10億人の僅か1%、1,000万人に過ぎない。そのためかクルーズとは富裕層(いわば現代の新貴族階級)が楽しむ別世界、敷居が高いと誤解している日本人は今尚多い。

   何人かの友人に同行を誘ったら『タキシードを着て颯爽とワルツを踊り、盛装してディナーに参加するなど、準備するだけでも大変だ』と勘違いして参加をたじろいだ。あろうことか、ある知人は目下そのためにダンスの猛練習中とか。

   世界最大級のクルーズ船運航会社の一つ、米国のロイヤルカリビアン社は、史上最大のオアシス・オブ・ザ・シーズ(22万トン)を始めとする大型客船を21隻も保有。乗客を飽きさせないノウハウの蓄積量では、飛鳥U(50,142トン)を運航している郵船クルーズやにっぽん丸(21,903トン)の商船三井客船よりも一日の長があるはずと勝手に予想した。

   外洋クルーズは、欧州内陸部の河川や運河を航行しながら両岸の景観を楽しむクルーズとは異なり、港から日帰りできる範囲内の観光コース付が主流だ。各社の世界一周コースのカタログを取り寄せたら、私には訪問済みの寄港地が多く魅力激減。今回は寄港地周辺の観光目的は二の次にし、クルーズ船内の娯楽施設などの体験・見学を主眼として参加した。

   外洋クルーズ船の寄港地は私だけではなく、日本人にはなじみの薄い港が多い。読者の便のためにインターネットで公開されているWikipediaなどの記事を、旅行記執筆の手抜きも兼ねて借用した。借用した記事は全て青色文字にした。特に関心があった説明は赤字にした

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ブリリアンス・オブ・ザ・シーズ

@ 仕様

   カリビアン社は2001〜2004年の4年間で、ブリリアンスを皮切りに同型のクルーズ船を毎年1隻ずつ就航させた。同型船を4隻も就航させたのは、客集めに最適な大きさとは何か、試行錯誤の結果辿り着いた結論に思えてならない。船の仕様をサービス係に質問したときに、口頭による回答に加えてFact Sheet とタイトルされた詳細なデータ表を受け取った。我が関心を引いたデータを転載する。

総トン数・・・・90,090トン
  
 総トン数とは船内の総容積から、二重底と上甲板より上の部屋の容積を除いたもの。100立方フィート(1000/353=2.83立方メートル)を1トンとする。

   天井の高さが2.83mのビルに換算すると、延べ床面積9万平米の大型ビルに相当する。日本最大級と自称している松坂屋名古屋店(本館+北館+南館)の合計売り場面積(86,758平米)に匹敵するのだ。

純トン数・・・・53,812トン
   
純トン数とは総トン数から航行に必要な部分の容積を除いたもの。貨物や旅客のためだけに使われる部分の容積⇒ブリリアンスでは総トン数の約60%。意外に少ないことに驚く。

造船所・・・・・Meyer-Werft,Papenburg,Germany

就航・・・・・・2002年7月5日
   就航後僅か8年半なのに海上での風化作用は陸上の比ではないようだ。職人二人が錆びたパイプや壁のペンキ塗りをしていた(担当の職人は年中ペンキ塗り??)。

大きさ・・・・・長さ293.3m、幅32.2m、喫水8.5m、マストの高52.8m。



   催行頻度の高い南北アメリカの両洋で運航するには、パナマ運河を通過できる大きさ(パナマックス)にせざるを得ない。その制限下でも極力使い易くするためか、上層階は外側へウイングを広げ幅40mにまで膨らんでいる。

   パナマックスとはパナマ運河を通過できる最大船舶⇒全長:294.1m、全幅:32.3m、喫水:12m、最大高さ57.91m(南北アメリカ大陸を繋ぐアメリカ橋の制限)。

エンジン・・・GE製ガスタービン25MW(33,520馬力)*2+廃熱活用蒸気タービン7MW(9,300馬力)
   
      運航コストを最小にしたいタンカーのエンジンはディーゼルだが、振動と騒音を嫌うクルーズ船はかつて蒸気タービンを採用していたが、今やジェットエンジンと廃熱蒸気タービンによる複合発電へと進化した。

旋回式電動推進機(アジポッド)・・・直径5m*2基
   電動駆動にした結果、プロペラシャフトは不要になった。しかも、二基のプロペラの向きは360度回転旋回でき、大きな舵も不要。造波抵抗削減効果のある球状船首が水面下に取り付けられており、30%の省エネになっているとか。

フィンスタビライザー
   戦後英国の会社に売却された三菱造船の特許。現在ではコンピュータで制御されている横揺れ防止装置。

巡航速度・・・24ノット⇒24*1,852m=時速44.4Km

船室数・・・1,050室⇒日本の超大型ホテル一棟の標準客室数(1,000室)に匹敵。

最大客数・・・2,500人

乗組員・・・900人・68ヶ国・そのうち日本人はたったの1人

調理・ウェイターなどレストラン部門・・・・359人(全乗組員の40%)

バーなど飲料関連・・・・・・・・・・・・・58人

客室の整備・清掃など・・・・・・・・・・・76人

A トピックス

   シーパスカード・・・パスポートと交換して乗客一人ひとりに配布されるカード。最初の乗船時に写真を撮り、情報はカード内のメモリーに保存。カードの表裏両面には何故か写真は印刷されていない。寄港地での乗下船時には、身分証明書としてその都度カードの読み取り機でチェック。部屋の鍵も兼ねる。船内での支払い時にはクレジットカードとしても使える。ディナーでの食卓番号も明記されている。

   船内英字新聞・・・食事の時間・場所・新聞のテレビ案内面のような一覧表によるショーやパーティーなどの催し物の紹介・夕食のドレスコード(フォーマル、スマートカジュアル、カジュアル)の指定・翌日の催事予定などを満載した書類(A4で6〜12ページ前後)が前日夕方までに配布された。添乗員が主要項目を和訳し翌朝までに配布。

   通貨・・・全てUSドル(現金かTC)。日本円からUSドルへの両替は出来ない。米国以外では意外に使い難かった手持ちのTCは全部船内で現金に換えた。

   アルコール・・・船内への持ち込みは禁止。乗船時に見つかれば下船時まで預かるそうだ。船内の商売を優先したいためか? 

   私は下船の度に何回かに分けてビールを3ダース、ウィスキーを2本鞄に入れて持ち込み、室内の冷蔵庫で冷やした。ゲートの係員は見て見ぬ振りをしていた。日本の観光旅館のアルコール持ち込み禁止と同じようなものだ。規則に従順な客もいるから、このルールも多少は役に立っているようだ。

B 設備

   劇場・・・3階建て915席(うち車椅子用24席)。歌やダンス・コメディショー・手品などを催行。音響効果は抜群。我が偏見による分類では、劇場には古代ギリシアの扇型とローマ帝国の円筒型とがある。欧州の有名オペラ劇場はローマ型、ブリリアンスや日本はギリシア型。

   ある日、劇場の見学会があった。10人くらいの出演者が自己紹介の後、大勢の見学者をミニ・グループに適宜分けて、舞台裏や音響機器と照明装置の操作室に案内した。

   舞台裏には無数の舞台衣装がハンガーに掛けられていた。鬘や演劇で使う小道具も整理整頓。狭い部屋だったがデッドスペースまで有効活用。

   客席後半部には照明や音響機器などの制御機器がさりげなく埋め込まれていた。ジャンボの操縦席のように、各種スイッチ類が数百個もあった。同じ音源を使ってもキー操作で音程をいとも簡単に変更できる装置も付いていた。

   映画館・・・2階建て40席(うち車椅子用2席)。何故か狭い。覗いただけだが、スクリーンは小さく映像の質はハイビジョンテレビ以下。

   カジノ・・・スロットマシン・ブラックジャック・ルーレットテーブル。船内はどこの国にも属していない閉ざされた空間になっているのに、何故か航海中のみ営業。

   レストラン・・・最大のものは吹き抜け二階建て。1,229席。座席はシーパスカードに明示されている指定席。その他の4箇所のレストランは自由席。うち2ヶ所では食事代は無料だが、席料が一人当たり20$(高級)か25$(最高級)請求されるほか、予約も必要な小型。



   ロッククライミング・・・最上階の甲板にある9mの壁。係員が操作している安全ベルトを締めてトライできる。係員より重たい人は挑戦禁止??

   パターゴルフ・・・ボールとパターは無料貸与。人工芝。船は殆ど揺れないが本物の芝生とは感触も異なり直ぐに飽きた。

   ジョギングコース・・・船の縁に沿って一周すると400m?

   サウナ・・・・立派な乾式サウナもあった。更衣室にはロッカーも完備。しかし、客は殆どいなかった。

C 無料レストラン

   クルーズ料金には船内にいる限り三食無料だが、大衆向けの料理だ。でも、上陸してバスで観光旅行に出かけるときの、クラブツーリズムが手配している昼食料理よりもレベルは高い。メインダイニングルームの場合は座席が指定されているが、ウィンジャマー・カフェ(バイキング)の場合は自由席。選択は自由。

D 有料レストラン
 
   無料レストランの他に高級なイタリアン・レストラン(席料=予約料+チップ=20$)とステーキ・ハウス(25$)がある。ホテル並みのレストランだったが、共に客は少なかった。席料以上の価値がある高級料理が出されるのに客足が伸びないのは、多くの乗客が大衆である証拠に思えてならない。

   イタリアンレストランでは大型ロブスターなどの海鮮料理。ステーキハウスでは300gのヒレステーキ。共に十分満足した。このレベルの料理が無料レストランで出されれば、大満足するのだが・・・。

E 食材

   航海中の食材の補給頻度は自ずから制限されるために冷蔵・冷凍品も使わざるを得ないが、陸上のレストランに比べれば概ね品質水準は低い。

   マンゴー・パパイヤ・オレンジ・パイナップル・りんご・イチゴ・スイカ・トマトなど果物や果菜の種類は多かった。でも、糖度と柔らかさ優先主義の日本で食べ馴らされている私には、品種改良努力が足りない果物が多く大変不満だった。日本の果物が中国や香港で現地の同種果物価格の数倍でも売れる理由は聞かずとも明白だ。
   
   コーヒーや紅茶は香り不足で敬遠した。美味しくないのだ。がんで胃の2/3を切除している私は、幾ら欲張っても一度に飲食できる量が半減した結果、日頃から食材は量よりも質、厳選主義に徹しているのだ。

F 酒場

   11箇所のバー・クラブ・ラウンジには、各種アルコール(有料)やソフトドリンク(無料)のドリンクコーナーがある。でも、飲んだのは大好きなハイネケンの生ビールだけ。

   コップへのビールの注ぎ方に特色があった。注文するとコップを二個用意。最初のコップには配管中の古くなったビールを注いだあと破棄。二個目のコップに鮮度の高いビールを注ぐ。少し間をおいて泡が沈んだら規定の位置に液面が落ち着くまでビールを追加。

   日本では味わったことのない美味しさだった。一瞬で病みつきになった。日本のゴルフ場では生中(なまちゅう)と称した(実態は小瓶の容量350cc程度)生ビールが600円前後もするが、こちらは500ccで500円程度。実質半額。小売店での缶ビール(1ユーロ前後)の数倍もするが、この注ぎ方こそサービス業の本質と納得しながら満足。
   
G 部屋
 
   客室の船内配置は縦方向に四列。外側の二列は海に面しバルコニー付もある。内側の部屋は窓なしの完全な暗室。でも部屋代は安いし、船内の各種設備はどのランクの部屋の客とも同格で利用できる。海は甲板や彼方此方のラウンジからも眺められるので、私は花より団子を選んだ。一人当たりたったの2万円安くなるだけだが・・・。

   客室面積は、かつて延べ半年宿泊したイスタンブールのヒルトンの標準が40平米あるのに対し15.3平米。僅か9.2畳だ。でも、夫婦二人が2週間宿泊するには十分だった。2台のベッド・机・二人用長椅子・小型冷蔵庫・小型テレビ・電話・クローゼット・箪笥・整理棚・鞄置き場・シャワールーム(浴槽なしが玉に瑕)・トイレ・洗面所・金庫・姿鏡・・・。

   上層階のフロアの長さは舟形の制約もあり短くなる。最長の8階の海側は船首と船尾の角部屋を除いても83室もあった。我が9007号室は船首から4番目だった。何と不便な位置であることか。4階の朝食会場のレストランは船尾にある。往復するだけで500mも歩かされる。船内のどの会場に出かけるときも歩行距離の長さにうんざり。

   船は大きすぎれば、弊害も大きくなると実感。最適サイズは経済性以外の視点からも検討する価値があると痛感。私は巨大すぎる空港(例えば成田)・鉄道駅(東京)・都市ホテル(1,000室クラス)は大嫌いだ。混雑だけではなく、荷物を持っての長距離移動に苦痛を感じるからだ。

H 従業員教育

   68ヶ国から採用した900人のクルー(乗組員)の教育訓練が徹底していたのには、心底驚いた。トップテンはフィリピン180人・インド109人・ニカラグア52人・トルコ43人・ウクライナ42人・インドネシア38人・英国31人・ルーマニア29人・アメリカ26人・セントビンセント及びグレナディーン諸島(カリブ海にある国)22人。1人だけの国が17ヶ国。

   6ヶ月契約、乗客による評価が悪いと給料が10%下げられるとの噂も聞いた。二段ベッドの相部屋。常に清潔な制服を着用。無精ひげは見かけず。髪形は中央にピラミッドのように集める最新の流行型(NHKの若手アナウンサーと類似)。廊下ですれ違うときは必ず挨拶。元気な若者が殆ど。

   仕事の分配には意図的な方針も感じられた。乗客との対面が多い職場には白人若しくは色の白いイケメン中心。厨房とか客室の清掃など裏方には有色人種。自国よりも給料が高いから我慢しているのだろうか?

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費用

基本旅費・・・・・・・・・・・・・318,000円
豊田市=空港(バス代往復)・・・・・・3,400円
国内線(中部=成田往復)・・・・・・・20,000円
空港税・空港使用料(成田)・・・・・・2,040円
空港税・空港使用料(海外)・・・・・・5,000円
燃料チャージ(飛行機)・・・・・・・・26,000円
寄港税(ポートチャージ)・・・・・・・37,000円
船上チップ代(一括前払い)・・・・・・11,000円
旅客保安サービス料・・・・・・・・・・500円
追加清算分(空港税10円・燃料チャージ7,880円)・・・7,890円

合計・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・430,830円

夫婦二人分合計・・・・・・・・・・・・・・・・・・861,660円

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クルーズの評価


@ 食事や設備

   日本人のクルージング客は少数民族だ。大勢の日本人が押し寄せる海外の有名観光地のホテルには、日本料理も少しずつ普及してきた。とは言え、握り寿司・刺身・天ぷら・ご飯・味噌汁程度だが、それだけでも旅のストレスは大いに癒される。

   でも、ブリリアンスでは一口しか食べなかった不味い寿司に出会っただけだ。アジア系の寿司職人が巻き簾に材料を載せ、得意げに力一杯握り締めた。シャリが堅くなり餅のようになった。彼は見よう見真似で腕を磨いたのではないか?

   日本の観光旅館に必須な設備は大浴場だ。しかし、世界中どこの有名ホテルでも大浴場はない。習慣の違いだ。日本の温泉ホテルの客室には浴槽付のユニットバスが導入されているが、私は使ったことがない。日本では長距離カーフェリーにすら設置されている大浴場も、ブリリアンスには当然のことながらなかった。

   これらに我慢できないならば、日本の会社が運行するクルージングに参加せざるを得ない。私には今回の体験クルージングでは事前に分かっていた条件だし、主目的でもないので何とか我慢した。でも、椅子に座って体を洗ったり髭を剃ったりする日本流ほど合理的なシステムは無いと確信しつつも・・・。
   
A 費用

   今回の費用(31.8万円)には11回の船中泊・2回(朝食は2回、夕食は一回)のホテル泊・6回の昼食付日帰り観光・成田発着の国際線・クラブツーリズムの利益込み経費が含まれている。その内訳を我が偏見と独断で推定してみた。

   ホテル代・・・7,500*2=15,000円
   観光代・・・・7,500*6=45,000円
   国際線・・・・・・・・65,000円
   ツーリズムの経費・・・50,000円
   船旅・・・13,000*11=143,000円

   船中娯楽設備&移動費無料付一泊3食がたったの1.3万円。国内の一泊二食の観光旅館と然して変わらないとの結論になる。クルージングとは意外に安いのだ。それだけではない。同じ観光地巡りを飛行機とバスで計画すると、移動時間は長くなり、荷物運びにも疲れるだけではなく、費用も更に高くなると推定している。

   なお、クラブツーリズム主催の日帰り観光への参加は自由。欠席しても当然のことながら返金はされない。また、カリビアン社主催の観光旅行は設定されていない。2,001名が同じ行動をとると乗下船で大混雑するし、40人乗りのバスを使っても50台にもなり、事実上不可能だ。しかし、我が観察によれば、幸いにも乗客の過半数は下船せず船内でのんびりと過ごしていた。

   日本人は明治以来、富国強兵・勤勉貯蓄・質実剛健のスローガンの呪縛の下で、ひたすら働き続けた結果、世界トップクラスの高所得国になった。その反面、人生を楽しむことの価値観が育たず、『生涯現役』が理想であるかのように、古希を超えても尚何かに追い立てられているような勤勉一筋の生き方を選択しているようだ。

B 快適な船の大きさとは

   船を大きくすれば多くの娯楽設備も装備できる。乗客数が増えれば、製造業の量産効果と同じようにサービス業といえども効率化が図れる。でも、大きければ良いというものではないと体験。大きすぎると必然的に乗客への過度な負担が発生するのだ。

   何処かに出かけようと思っても、船尾や船首に近い部屋の乗客は移動歩行距離が長くなる。忘れ物を取りに部屋に帰るだけでも数分も掛かる。類似の体験を大型ショッピングセンターでも痛感するようになった。ショッピングセンターは3階建てクラスの低層建築中心。無料駐車場は広すぎて、うっかりすると駐車場所を忘れかねない。カートがあっても荷物運びも大変だ。

   延べ売り場面積が5万平米を超えると、幾ら店内は自動車も走らない歩行者天国、その上、冷暖房完備と喧伝されても、加齢と共に出かけるのが億劫になった。ふと気がつけば、いつの間にか近所のコンビニに出かける回数が増えていた。

C クラブツーリズム

   久しぶりに大手の旅行社の団体旅行に参加した。過去数年は僻地観光が多く、従業員が100人以下の小規模の旅行社中心だった。大手と中小との対応の違いに驚いた。然したることではないが、中小旅行社の生き残りを賭けた努力に拍手喝采!!

・・・20人余りのグループ全員が集まる機会があっても、同行者の自己紹介の場を設けなかった。
・・・添乗員は毎日の旅日記を書かなかった。旅行記執筆時に役立っていたのだが。
・・・バス乗車後、ミネラルウォータの無料配布がなかった。
・・・バス内でのおやつの無料配布がなかった。
・・・添乗員の観光先に関する事前勉強が足りなかった⇒質問すると出任せ回答。語尾が思います、では知らないといっているのと同じ。夜調べて翌朝回答するとの努力もしない。
・・・今回は募集時に設定したときよりも大幅な円高になったのに、旅費の払い戻しをしなかった。平成5年6月9日、皇太子の結婚式の日に錫婚旅行で欧州8ヶ国にJTBで出発。この時は円高差益と称してJTBからは2万円の返金があった。これが良識というものだ。

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中部国際空港出発(11月10日)

   今回の旅は中部国際(8:05発NH0338)⇒成田(9:10着⇒13:25発LH0715)⇒ミュンヘン(17:35着⇒19:35発LH1816)⇒バルセロナ(21:35着)⇒クルージング&観光⇒バルセロナ(12:10発LH1811)⇒ミュンヘン(14:15着⇒15:35発LH0714)⇒成田(11:20着⇒16:55発NH3203)⇒中部(18:15着)だった。

   いつものことだが国際線のエアラインが出発直前まで決まらず、いらいら。中部⇒成田は便数が少なく早朝の全日空になった。でも、成田での前泊は不要だったので我慢。成田での待ち時間は4時間もあり、中部は今尚ど田舎待遇を強いられている。

   空港ビル内の回転寿司屋(価格は市街地の5割高)で軽食を摂った後は、ゴールドカードのラウンジでビール(中部は生ビールが無制限だが、けちな成田は缶ビール1個)を飲みつつ、日頃は読まない備え付けの週刊誌で暇つぶし。ミュンヘンでの乗り継ぎ待ちは国際線では標準とされている2時間。これこそ真のハブ空港。

バルセロナ

   バルセロナは地中海沿岸に位置する港湾都市。フランスとの国境であるピレネー山脈から160km南に位置する。カタルーニャ州及びバルセロナ県のいずれにおいても、人口の大半を占める
プライメイトシティ(首座都市。周辺から一極集中的に規模で抜きん出た都市)である。

   行政市としては約160万人の人口である。2010年の国連の統計によると、近郊を含む都市圏人口は508万人であり、世界第53位、EUではパリ、ロンドン、マドリードに次ぐ第4位である[1]。

   14世紀に建設された城塞を起源とする旧市街と、1859年の大拡張計画によって建設された碁盤の目のような正方形の街区が並ぶ新市街からなる。都心部では人口が減少し、周辺部や都市圏外に流出しており、ドーナツ化現象に脅かされている。

   1992年にはバルセロナオリンピックの開催地であった。2010年、アメリカの外交専門誌フォーリンポリシーにより、バルセロナは世界第26位のグローバル都市に選ばれている[2]。 また、比較的低廉な賃金水準と地価を背景として外国資本が進出している。 バルセロナには、日産自動車の生産拠点が設けられている。



   深夜、斬新なデザインのホテルに到着。1992年のバルセロナ・オリンピックを契機として市内の再開発は一層進んだ。ピカソやガウディが活躍した芸術の町らしく、奇想天外な形の建物も随所に見かけた。
   
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バルセロナ出航(11月11日)

   ホテルの出発は11:40。それまでは貴重な自由時間。ホテルから僅か500mの場所にある大型スーパーマーケットに出かけた。世界一美味いと評価されているイベリコの生ハム探しが主目的だ。入り口近くでテナントを発見。壁面一杯にスライス前の生ハムが何百本もぶら下げられていた。

   一本6,7Kgの大きさで100ユーロ前後。クルーズ最終日のバルセロナで買う予定だ。1年前にデパ地下巡りをしたとき、JR名古屋高島屋では6,7万円/本だったが、松坂屋名古屋店(本店)や名古屋三越栄店(本店)では売っていなかった。

   国土の広いスペインはフランスに似て農業も盛ん。野菜や果物の価格は概ね日本の半分。パック入りの握り寿司(価格は日本並み)もあった。ビールも半額。輸入品のウイスキーは日本よりも何故か高い。規制緩和の成果で日本では、輸入ウイスキーは空港の免税店だけではなく町の安売り屋でも、海外の空港内の免税店よりも2〜3割は安い。ポンドの対円相場の暴落の影響なのか、私には分からない。

   船着場にはクルーズ客を対象にした常設の免税店街があった。長大なエスカレータで船の入口に到着。我が部屋は9007号室だった。9階の『ゼロゼロセブン・・・有名な映画のタイトル』と覚えた。入室後、免税店にとんぼ返りをしてウイスキー・缶ビール・ミネラルウォータを買い込んだ。



   室内は騒音なし。振動なし。航行時の有無は分からない。文字通り、走る海上ホテル。あるとき海が荒れた。そのとき、全神経を動員したら、ほんの少し微かな揺れを感じた。

   生温いビールを我慢しつつ、前途を祝してささやかな乾杯!

   15:00から船内のコンファレンスルーム(数十人くらい入れる会議室)で乗船説明会。今回の日本人団体客は全客数2,001名中クラブツーリズムの43人だけ。二組に別れ夫々に添乗員が付いた。添乗員によるこまごまとした注意事項の説明が始まった。事前に配布されていた資料の説明に過ぎず退屈になり、了解を求めた上でさっさと退室。

   法定の避難訓練の合図が鳴った。訓練ではエレベータの使用は禁止。階段を使ってシアターに集合させられた。乗客全員が同時に集まるほどの座席はないので、何回かに分けて実施。長々と30分もの退屈な説明。最後に3人の説明者が舞台中央と左右に分かれ、ライフジャケットの使い方を、飛行機の客室乗務員のように実演して終了。

   一瞬でも早く実物で概要を知りたくて、船内や甲板をぶらぶらと散歩。



   外が明るいうちにと記念撮影。

   18:00にやっと出港。蛍の光のような音楽は無くて失望。夕食も18:00から4Fのメインダイニングで開始。



   レストランの入り口には給仕が勢揃い。体育館のように広い食堂内の指定されたテーブルへと案内された。我がテーブル担当の給仕が全員にメニューを配布。でも、料理の写真は付いていない。前菜・メイン(主菜)・デザート・コーヒーか紅茶などの飲み物を一覧表から選択。アルコール類だけは有料。各種のパンはお盆に載せてテーブルの周囲を一周しながら、乗客に選ばせた。小食の私はいつも摘み食いに終始。

   テーブルの座席数はいろいろ。我がグループは数テーブルに分けられていた。担当の給仕は1人で幾つかのテーブルの掛け持ち。注文は1人ずつメモしながら間違い防止の努力。厨房能力が大きいのか、前菜まで10分前後の待ち時間だった。日本旅館の会席料理とは異なり、食べ終わる頃に次の料理が出されるフランス料理式だった。調理の平準化にも寄与している。

   20:00からシアターでは歌と踊りのショー、コロニークラブでは22:15から有料のビンゴ大会。その他色々な催事。でも、疲れていたし、興味も無かったので自室で睡眠薬代わりにウイスキーの水割りを飲んでさっさと就寝。
   
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南仏・トゥーロン(11月12日)

@ トゥーロン

   トゥーロンは地中海のトゥーロン湾にのぞみ、王政時代よりフランス海軍の基地が置かれた軍港であり、現在フランス第一の軍港および海軍工廠、地中海艦隊の司令部がある。工業・商業・漁業の中心地でもあり、造船・化学・繊維・機械・食品加工・兵器などの産業が発達している。港の東の部分は商港とヨットハーバーとなっており、コルシカ島やサルディーニャ島への連絡船が発着している。

   ヴィクトル・ユーゴー作『レ・ミゼラブル』(黒岩涙香訳『ああ無情』)では、主人公のジャン・バルジャンがトゥーロンの刑務所に入っていたことになっており、ここを出所することから彼の波瀾に満ちた人生の幕が開ける。


   朝食は7時から。バイキング(4F)かアラカルト(11F)を自由に選べる。テーブル選択も自由。バイキングの方が料理の種類が多かった。大好物のスモークサーモンがあるバイキングコースを主として選んだ。



   8:00にトゥーロンに到着。トゥーロンに高層建築はない。欧州の高層ビルはロンドンやパリなど巨大都市には少しずつ建設され始めてはいるが未だ僅かだ。港にはヨットがびっしり。地中海沿岸の各港にはギリシアやトルコなど低所得国でもヨットがひしめき合っていた。所得格差が大きい??



   ブリリアンスの全貌を撮影する機会がやっと訪れた。ベランダのように側面が張り出している位置が11Fのバイキングレストラン。座席位置の好みには人種間の差は無いようだ。いつも窓際の席から埋まる。

   8:45に5階の下船口(港によって階が異なる)近くの船内待合場所に集合。9:00〜16:00までが南仏日帰り観光だ。船内に残留するのも、トゥーロンの町を散策して門限(いつも出航の30分前)の17:30までに帰船するのも自由。

A エクスアン

   エクス=アン=プロヴァンス(エクサンプロヴァンス)(Aix-en-Provence)はブーシュ=デュ=ローヌ県の古都。プロヴァンス伯爵領の首都として古くから繁栄し、現在は学術・芸術都市としてプロヴァンス地方の観光の拠点となっている。

   画家ポール・セザンヌの出身地として日本でも知られ、彼の出生、臨終の家、墓所とアトリエが現存する。




   セザンヌのアトリエがあるエクス・アン・プロバンスまでは2時間85Km。途中、材木としては使えそうもないほど曲がりくねった細い幹ばかりの松の原生林が続いた。日本や黒い森で有名なドイツのような植林の習慣はないようだ。松くい虫による被害が痛々しい。



   掘建て小屋みたいなセザンヌの小さなアトリエに到着。部屋が狭い。一度に入場できる人数を制限しながらの総入れ替え制。長々と30分も待たされた。この程度の見学のために往復4時間とは勿体無い。

   大きな絵は狭い階段を使っての出し入れは不可能。窓からの出し入れに使う梯子が二階の部屋にあった。



   エクスアンには高さを揃えた建物・広い歩道・立派なプラタナスの並木もあるミラボー通りがあった。小さな酒屋に駆け込んで缶ビールを買ったが一個1ユーロ前後。世界中どの国の缶ビールも日本と比べれば半値だ。写真左端、後ろ向きの人物は缶ビールを手にしている石松。



   エクスアンにはラテン語のアクア(水)から転訛したエクスの名が示すとおり、街中の至る所に大小の噴水が湧き出している。

   中でもミラボー大通り(Cours Mirabeau)にあるロトンド大噴水、温泉の湧く苔むした噴水、ルネ王の噴水、マザラン地区にある4頭のイルカの噴水、旧市街の市庁舎の噴水、アルベルタの噴水など一見に値するものが多々ある。


   欧州各国の都市部には心を癒してくれる立派な噴水が随所にあるが、山紫水明が豊富と自慢している我が国には何故か殆ど見かけない。ゴルフ場では間々噴水を見かけるが清掃努力すらも手抜きする結果、藻が茂り汚いだけではなく循環させている水も汚く見苦しいだけのものも多い。いっそのこと無い方がましだと感じる場合すらある。



   都心にはリシュルム広場の常設青果朝市を始めとして、青果、花卉、古本、家具、工芸品、衣類、雑貨、秋季限定でキノコ、野禽(ジビエ)、冬季限定でサントン人形、クリスマスツリー用のモミの木など多彩な市が、ミラボー大通りやセクスティウス通り、市庁舎広場、プレシュール広場、ヴェルダン広場など市内各所で、何らかの市が毎日催されている。

   私は庶民の生活の匂いがうかがえる産直市場観察が大好きなのに、残念ながらその時間はなかった。



   プールとは名ばかり。小さな温水の水溜りに過ぎない。しかし、晴れて暖かい日の昼間はプール周辺に並べられた長椅子に、水着姿で昼寝をしたり本を読んだりしている欧米人で大賑わい。露天風呂風の混浴ジャグジー風呂は人気があるようだ。プールの右手奥の小さな広場では時々生演奏や歌手のライブショーがあり、踊り狂う人も現われる。

   16:30-17:30まで添乗員による船内案内ツアーがあった。昨日の我が散策の復習に過ぎなくてがっかり・・・。

   夜は各種催事。その中に免税店での10$特売会があった。腕時計や各種アクセサリーの販売だ。我が目にはガラクタ市にしか映らなかったが、身動きできないほどの人出に驚く。乗客は各国の大衆に過ぎなかったと再認識。
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イタリア・リボルノ(11月13日)

@ リボルノ

   リヴォルノはイタリア・ルネサンスの間、『理想都市』と定義づけられていた。今日、ヴェネツィアの一地区を誇張したような、運河が交差し、要塞化した市壁に囲まれ、通りが縺(もつ)れる近隣住区の構造を通してその歴史が明らかになっている。

   メディチ家の港は、独特の塔と市中心部へ向かう要塞から見下ろせるのである。建築家ベルナルド・ブオンタレンティによって16世紀終わりに設計されたリヴォルノは、17世紀終わりまで広範囲にわたる都市計画の時代を耐え抜いた。古い要塞の防御材近くに、市壁と可航状態の運河システムがともに建っている。


   リボルノには然したる印象が残っていない。バスの車窓からの観光に過ぎなかった。写真を一枚も撮っていなかった。リボルノからサンジミニアーノまではバスで片道1.5時間。

A ピサ

   ピサの起源は数世紀に亘って不明なままである。市は2つの川、リグリア海で潟地帯を形成するアルノ川とセルキオ川の合流地点にある。ペラスゴイ人、ギリシャ人、エトルリア人、リグーリア人といった多様な民族が市の創立者として名を連ねてきた。紀元前5世紀からの考古学的痕跡は、市が海に面してギリシャ、ガリアと交易を行っていたことを立証している。

   エトルリアのネクロポリスの存在は、1991年のアレーナ・ガリバルディ(プロサッカークラブ、ピサ・カルチョのホームグラウンド・スタジアム)での発掘作業中に発見された。

   ピサの斜塔 (伊語: Torre di Pisa) は、イタリアのピサ市にあるピサ大聖堂の鐘楼であり、世界遺産「ピサのドゥオモ広場」を構成する観光スポットである。

   高さは地上55m、階段は297段あり、重量は14,453t(
どのようにして測定したのか私には疑問のママ)応力は50.7tf/m2と見積もられている。一時、傾斜の増大と倒壊の危惧があったがその後の処置により(後述)、当分問題ないと判断されている。現在の傾斜角は約5.5度で、傾斜の進行は止まっているそうである。

   傾斜の原因は、1990年から改修工事前に行われた地質調査によれば、地盤の土質が極めて不均質であったことにある。南側の土質が相対的に柔らかく年月を経るうちに傾き始め、それにより回転モーメントが増大してますます地盤に対する負担が大きくなり、結果的には塔の南側が大きく沈下するという事態に陥った。

   工期は、第1工期(1173年 〜 1178年)第2工期(1272年 〜 1278年)第3工期(1360年 〜 1372年)で、工期間隔が非常に長い。というのも、1173年8月9日の着工時には鉛直であったが、第1工期後には既に塔が傾き始め、第2工期でややその傾斜を修正しつつ建設が再開されたものの、その傾きは尚も止まらず、第3工期を迎えた。

   傾斜が修正できなかったため、
最上階層のみ鉛直に建てられている。オリジナルの建築計画上では現在あるものよりも遥かに高い鐘楼ができる予定であったという。しかし「ピサの斜塔」として世界で最も有名な不等沈下の事例として、現在もその姿を保つこととなった。

   長らく世界中で最も傾斜している建物と認識されていたが、ギネスブックは15世紀に建造されたドイツ北西部エムデンの付近にある教会の尖塔の方が傾斜していると判定した。2009年のギネスブックからはピサの斜塔に代わって掲載されるとされた。

   2010年6月にはアラブ首長国連邦アブダビにあるキャピタルゲートビル(35階建てビル)が傾斜角約18度であるとしてギネスブック世界記録に認定された。ただし、ピサの斜塔と違いこちらは意図的に傾斜させている[1]。


   ピサ訪問は平成6年、12年に続いて3回目だ。前2回とも工事中だった。斜塔の上層部は傾いた状態で鉛直に建てていた、と今回初めて知った。斜塔であっても90度廻れば鉛直に見えるが、その位置での撮影には人気がない。斜塔のベランダまで登ることも許可されているが、時間がなくて断念。





   帽子のような形の
洗礼堂は、大聖堂の西側に建っている円筒形の建物。直径約35m。着工は、1152年で完成には200年以上を要した。全体は白い大理石で、建物の下側がロマネスク様式で大聖堂と同じような列柱とアーチで装飾されている。しかし上側はゴシック様式を示している尖塔群で装飾された珍しい建物である

   洗礼塔内の音響効果は素晴らしかった。内部の螺旋階段で窓が沢山ある高さ(25m位?)まで登ると、内周を取り巻くベランダがある。窓から外も鳥瞰できる。一階のフロアで牧師達が賛美歌を歌った。音波を吸収する壁面がないためか、拡声器もないのにドーム一杯に声が鳴り響いた。その声の響きを天井近くのベランダで聴いた。

B サンジミニャーノ

   サン・ジミニャーノ(San Gimignano)は人口約7千人のイタリア共和国トスカーナ州の
コムーネの一つである。美しい塔が立ち並んでいることでよく知られている。この町並みが1990年にサン・ジミニャーノ歴史地区としてユネスコの世界遺産に登録された。

   コムーネ(伊: comune)とは、イタリア語で共同体を指す語であり、現代ではイタリアの自治体の最小単位である。また、スイスのイタリア語圏でも基礎自治体をコムーネと呼ぶ。イタリアには日本の市町村のような行政上の区別ははなく、人口100万人を超えるナポリのような都市も、バローロのような1,000人以下の村もコムーネである。

   そのため日本語に訳す場合には、ナポリ市やバローロ村の様に日本の自治体の規模に合わせて翻訳されている。この点はフランスのコミューンと同様である。コムーネの代表(首長)は、シンダコ(sindaco)と呼ばれる。

   数々の塔は都市内での権力争いの名残りであり、最も力と富を持つ者が最も高い塔を建てた。また、中世に自治都市として最も繁栄していた時代には、塔を壊すときには新しい塔を建てなければならないとの法律が整備されていたこともあった。

   最も多いときには72本の塔が建っていたが、多くは取り壊され、現在残っているのは14のみである。また近世〜現在の市街地はこの地区から数km離れたところにあり、塔を建てる習慣は残っていない。



   町の中心部には角柱形の塔が林立。中には階段があるだけだそうだ。
   


   市街地には古い建物が密集し、一階はお土産屋や飲食店。



   市街地は夫々が少し離れている二重の城壁で囲まれていた。城壁間にも市街地があった。観光バスは外側の城壁外にある駐車場までしか近寄れない。



   コロニークラブで一休み。高級な応接セットではなく、実用的な家具だった。

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イタリア・チビタベッキア(11月14日)


@ チビタベッキア

   チヴィタヴェッキア(Civitavecchia)はイタリア、ラツィオ州、ローマ県のコムーネの一つである。ティレニア海に面した港町であり、首都ローマから西北西に約80kmの距離にある。「チヴィタヴェッキア」とは「古代の街」を意味する。

   チヴィタヴェッキア港はトラヤヌス帝により整備され、街もその時代から発展した。インノケンティウス12世時代の1696年に自由港となったが、その後ゴート族やサラセン人に侵され、1849年にフランスにより占領された。その後1870年に解放された。

   現在ではアルジェリア方面など、地中海を行き交うフェリー、更にはローマの外港としてクルーズ客船の一寄港地となっている。


A  ローマ


   ローマには当市に囲まれたローマ教皇の居住するバチカン市国があり、そこは全世界のカトリック教徒にとっての中心地で現在は外国ではあるが、歴史・宗教・文化的にはローマ市地域と密接な関わりがある。

   2007年現在の人口は約270万人で、イタリアで最も人口が多い都市である。かつてのローマ帝国の首都であったため西洋文明圏を代表する都市のひとつであり、カトリック教会の中枢であり、そしてまたその美しさから『永遠の都』と称される。

   ティレニア海にそそぐテヴェレ川河口から25kmほど遡った位置にあるイタリアの首都で、ラツィオ州の州都でありローマ県の県都。伝説によれば、ローマは紀元前753年、テヴェレ川東岸の「ローマの七丘」のひとつ、パラティーノの丘に建設されたという。七丘とは、パラティーノ、アヴェンティーノ、カピトリーノ、クイリナーレ、ヴィミナーレ、エスクイリーノ、チェリオの丘をさしていた。

   しかし考古学的には、紀元前1000年にはすでに人が定住していたことが確認されている。歴史的に由緒のある地区は意外に狭く、そのほとんどがテヴェレ川東岸にある。ローマの過去の栄光をしめす記念建造物の大部分はこの地区にある。



   真実の口(しんじつのくち、伊:Bocca della Verit?(ボッカ・デラ・ベリタ))は、ローマにある石の彫刻である。

   ローマのサンタ・マリア・イン・コスメディン教会(Santa Maria in Cosmedin)の外壁、教会の正面柱廊の奥に飾られている。元々は下水溝のマンホールの蓋であったらしい。海神トリトーネの顔が刻まれている。

   手を口に入れると、偽りの心がある者はその手首を切り落とされる、あるいは手が抜けなくなるという伝説がある。

   映画『ローマの休日』では、グレゴリー・ペック扮するジョー(新聞記者)が真実の口に手を入れてこの伝説を再現してみせた。

   何処にでも転がっているような石の彫刻に過ぎないのに伝説を巧みに作り上げ、世界中から観光客を引き付けさせた努力には拍手喝采!写真を撮るためだけなのに長蛇の列。20分も待たされた。我が観光庁にもこの種の智恵が欲しい。



   トレビの泉の伝説に引き寄せられたのか、こちらにも無数の観光客が殺到。お陰でスリの稼ぎ場としても有名になった。撮影目的の陣取り合戦が凄まじい。投げ込まれたコインの回収と泉の清掃に毎週一回3時間も掛かるとか(テレビで知った)。三回コインを投げ込むと離婚できるとの新伝説も生まれつつあるとか。



   古色蒼然たる凱旋門の存在感は、猿真似して大きくしただけのパリの凱旋門など足元にも及ばない。背後のイタリア傘松の下枝は自然に落下し、上部が傘のようになるのが名前の由来だそうだ(添乗員の解説はいつも半信半疑で聞いている・・・)が、真偽は未調査。



   ローマ帝国時代のローマ人のコストを無視したような雄大な構想力には何度見ても感服。一方、建設したばかりのような建物やインフラも、建築土木業界の献金効果なのか老朽化とか耐震性に欠けるとかの口実の下に、政府から直ぐに取り壊しをさせられる日本人関係者の貧弱な発想力に深く失望。



   サンピエトロ寺院に入るために随分と待たされた。割り込み客が現われ暴力騒ぎが発生し、警官まで駆けつけたそうだ。我が行列にも中国人の団体が割り込みかけた。一計を謀った。

   『何処の都市から来たの?』『上海』『私はトヨタ自動車で働いていた1989年に上海・北京・瀋陽・天津に出かけた。引退後は西安・南京・無錫・蘇州や昆明・石林・桂林・漓江など彼方此方に出かけた。しかし、中国が僅か20年余りで今のように発展するとは夢にも思っていなかった』。彼らの態度が一変した。

   親指を立てて『トヨタ車はナンバーワンだ』などと言いながら、表情も一変。割り込み騒動は一挙に解決し、すっかり大人しくなり、我が行列の背後に移動した。
   
   大聖堂の中で現地人ガイドが貴重な時間を潰してどうでもよいような薀蓄を長々と語った後、ヴァチカンの右奥にエレベータがあると説明。急いで出かけたら長蛇の列。やっと登ったら添乗員からテレホンガイドで『石松さぁーん。何処に行ったの。バスが出ますよ。船に乗り遅れるから急いで!』との怒鳴り声。

   屋根裏のテラスにいたのは僅か一分間。走りに走って集合場所に辿り着いたらバスが見当たらない。『バスの駐車時間が長引くと罰金が課される。バスは近くの道を走行中』とまたもや苦情。エレベータに登る時間がないのなら、最初からその旨告げるべきだ、と屁理屈で反論して一件落着。久しぶりに走ったら汗がどっと噴出してきた。

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終日クルージング(11月15日)



   生ビールを堪能した後、温室のような窓際で昼寝。退屈な一日!



   イタリア半島と船尾から見えるシチリア島との間を航行中。地中海には我が瀬戸内海と比べれば島がないのも同然だ。景色は単調。船内での暇つぶしにも飽きた結果、飲酒後たっぷりと自室で昼寝。



   何時ものことながら海外旅行の参加者は産卵期も過ぎた高齢女性が多い。中央奥は30歳代半ばの唯一の新婚旅行組。

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終日クルージング(11月16日)



   ピンポンで遊んだらしい。



   ジャグジー。露天風呂のようなものだが、水着着用が煩わしい。超巨大なお尻の女性が入ってきた。後ろ向きに倒れないように、前面は巨大な鳩胸になっていた。自然は体形のバランスを取ってくれるようだ。



   私には退屈な一日中のクルージングだが、余暇を楽しみなれている欧米人は自室内には閉じ篭もらないようだ。船内の彼方此方の催事場も混み合っていた。専属カメラマンが撮ったスナップ写真が、広い廊下に持ち込まれた無数の衝立に貼られていた。

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ギリシア・ピレウス(11月17日)


   ピレウス(ギリシャ語:Πειραι??;ラテン文字表記:Piraeus)は古代のポリス時代以来、アテネの外港都市として発展した都市。古代名はペイライエウス (Peiraieus)。

   今日では、ピレウス港から多くの船が出て行くエーゲ海クルーズの拠点である。

   アジアの港湾は今やコンテナ船のハブ港と化しているが、欧州の港は観光船の寄港地。コンテナ船や漁船を殆ど見かけなかった。

アテネ

   アテネ(ギリシャ語:Αθ?να, Athena)は、ギリシャ共和国の首都。古名はアテナイといい、古代ギリシア時代に強力な都市国家として栄えたことで広く知られる。英名Athens。日本語の漢字表記、中国語表記では「雅典」。

   ギリシャの首都であり、同国の政治・経済の中心地である。南ヨーロッパ有数のグローバル都市でもある。また、ギリシャ正教会の首長であるアテネ大主教が座すため、精神的な中心地でもある(ギリシャ正教会は正教会に属し、クレタ島を除くギリシャ一国を管轄する。)。正教会の定めるアテネの守護聖人は、ディオニシオス・オ・アレオパギティス、イェロテオス、フィロセイ。




   チップ込み席料25$のステーキハウスに出かけた。客はまばら。ビールと前菜で胃が膨らみ、メインの300gのヒレステーキを1/3食べたところでギブアップ。ウエイターを呼び『朝食で残りを食べたい。持ち出せるか?』『お安い御用です』といって、ルームサービス用の大きな蓋付き容器に、食べ残していた付け合わせやパンなどと一緒に盛り付けてくれた。未使用のナイフとフォークやナプキンも忘れずに添えてくれた。

   通販で松阪牛のヒレ肉を瀬古食品(http://www.sekofood.co.jp/index.html)から買うときは、いつも厚さ5cmのオーダーカットにしている。焼く前の重さは300g前後になる。厚さが5cmあると私でもステーキが美味しく焼ける。外側がウェルダン、内側がミディアム、中心部がレアになり、どの焼け具合も同時に満喫できる。味付けは肉屋の指示に従い塩と胡椒のみなので簡単だ。他の料理は一切食べないのに満腹状態になるから不思議だ。

   パルテノン神殿(希: Παρθεν?ν, ローマ字: Parthenon)は、古代ギリシア時代にアテナイのアクロポリスの上に建設された、アテナイの守護神であるギリシア神話の女神アテーナーを祀る神殿(en)。紀元前447年に建設が始まり、紀元前438年に完工、装飾等は紀元前431年まで行われた。

   パルテノン神殿はギリシア古代(en)建築を現代に伝える最も重要な、ドーリア式建造物の最高峰とみなされる。装飾彫刻もギリシア美術の傑作である。この神殿は古代ギリシアそして民主政アテナイ(en)の象徴であり、世界的な文化遺産として世界遺産に認定されている。

   1687年9月26日、オスマン帝国によって火薬庫として使われていた神殿はヴェネツィア共和国の攻撃によって爆発炎上し、神殿建築や彫刻などはひどい損傷を受けた。1806年、オスマン帝国の了承を得たエルギン伯(en)は、神殿から焼け残った彫刻類を取り外して持ち去った。これらは1816年にロンドンの大英博物館に売却され、現在でもエルギン・マーブルまたはパルテノン・マーブルの名で展示されている。

   ギリシア政府はこれら彫刻の返却を求めているが、実現には至っていない[1]。ギリシア文化・観光庁(en)は、パルテノン神殿の部分的な破壊の修復や保全など、後世に伝えるための再建計画を実行している。



   パルテノン神殿にお参りしたのは1988年以来の二回目だ。前回は観光客はまばら。丘への参道も未舗装。石がごろごろ散乱して歩き難かった。入場料も取られず管理人もいなかった。お土産屋もなかったが、修復作業は細々と始まっていた。僅か20年余りでアテネに限らず世界中の有名観光地は極端に賑わい始めた。ソ連崩壊後の平和時代を象徴するような果実だ。

   今回は様変わり。参道は綺麗に舗装。観光客が多過ぎて写真も撮り難い。公衆トイレも整備されたが、拝観料もバッチリと取られた。欠けていた柱には同じタイプの大理石を嵌め込む。表面を薄汚れた古い大理石と同じ色に塗装するのは断固拒否。

   時々、他の都市でパルテノンと全く同じ大きさのコピー建築を見かけるが、そんな巨費を投じる建設者の意図が理解できない。私ならば絶対に拒否する人造蛋白質の肉で満足しているような気がして・・・。



   国会議事堂の基礎の壁面には戦没兵士の慰霊碑。古代ギリシアに奴隷はいたものの、世界最初の民主主義国。その象徴でもある議事堂を支えているのが慰霊碑。



   慰霊碑を守る若くて背の高いイケメン。今やロンドンの衛兵同様、観光客集めが隠された目的か?私にはこんな単純な仕事には耐えられないが、人様々・・・。



   港には中型のクルーズ船が勢ぞろい!日本は海岸線も長く、風光明媚な島も多いのに、沿岸部を数日間で周遊するクルーズ観光すら何故か発達しない。松島ですらせいぜい小型船による2時間コース!



   船内中央部には10階分くらいの高さの吹き抜け空間(ホール)があり、周りには外が覗ける6台のエレベータ(別の場所にも3台のエレベータ)がある。100坪足らずだがホールの周囲にはドリンクコーナーや安楽椅子も配置されている。生演奏に合わせてダンスを楽しむ人が引きも切らない。

   ダンスが上手い男性は蟷螂(かまきり)のように背筋を弓なりに反らし、頭も後ろに突き出している。しかし、大部分の人はせむし男のように背中を曲げ、視線を下向きにして女性の脚を踏まないような健気(けなげ)な努力をしている。

   蟷螂タイプの老人に『奥様の足を踏みつける心配はないの?』と質問。『女性の股間に足を踏み入れれば、足を踏む恐れはなく、簡単ですよ!』なのだそうだ。



   ルーム係の遊び心から出たサービス。バスタオルで白鳥・ウサギ・象などを巧みに造形。白鳥前に置かれている紙は翌日の予定が書かれている船内新聞。スタンドの下には寝酒用のウイスキーとミネラルウォータ及び用心のために持参した目覚まし。

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トルコ・クシャダス(11月18日)

@ クシャダス

   クシャダス(トルコ語:Ku?adas?)はトルコ共和国の西部、アイドゥン県にある都市。かつて高度な文明を築いた古代都市エフェソスの港として繁栄した小アジア最大の貿易港。今ではエーゲ海に隣接するリゾート地。坂と海の多い景観が美しいとされ、トルコ人にもその他外国人にも観光地として名高い。

   1086年より、テュルク人の支配下となり、このエーゲ海の港がオリエントに向かうキャラバンの最終目的地となった。しかし十字軍によって破壊され、街は再び1280年までビザンチンによって支配された。その後ベイリクのメンテシェ侯国とアイドゥン侯国の支配を受けた。1413年にメフメト1世率いるオスマン帝国の支配下となる。オスマンは市壁やキャラバンサライを造った。

A エフェソス

   エフェソスの最初の住民はギリシア人ではなく、リュディア人(
世界で最初に鋳造貨幣を発明したとされている)だったと考えられている。ヒッタイト人(世界で最初に鉄を精錬したとされている)の文献に登場するアルザワ王国都市アパサがエフェソスと同一の都市であると多くの者が考えている。発掘からはミュケナイ文化に属する陶器が見つかっている。

   古典期のエフェソスはアルテミス崇拝で著名であった。エフェソスでは比較的遅くまで王政が敷かれた。哲学者ヘラクレイトスはこの町の出身である。

   紀元前356年、エフェソスのアルテミス神殿に放火すれば後世に名が残ると考えて実行した者がおり、このとき神殿は完全に焼尽した。エフェソスの市民は記録にこの男の名を留めまいとして、あらゆる公的記録からその名を削ったが、この試みは失敗し、ヘロスタトスという名が伝わっている。アルテミス神殿は再建され、世界の七不思議の一つに数えられた。

   現在残るアルテミス神殿の遺構はローマ時代に建てられたもので、巨大な図書館と劇場を備えていた。劇場は当時最大のもので、5万人が収容された。エフェソスの繁栄は港湾によるところが大きかったが、土砂の沈降により2世紀頃から港湾の規模は縮小されていった。これは、エフェソスの側にある2つの山から流れ込む土砂の堆積によるものであった。

   現在のエフェソスは、トルコの小村アヤソルクの一部である。世界最大級の大規模な古代都市遺跡の他に、アルテミス神殿の遺跡、イエスの母マリアが晩年を過ごしたといわれる地に建てられた礼拝堂『聖母マリアの家』、聖ヨハネ教会、考古学博物館などがあり、トルコの重要な観光地の1つになっている。

   『聖母マリアの家』には、バチカンからの代表者が毎年参拝するほか、歴代のローマ教皇も訪問している(1967年パウロ6世、1979年ヨハネ・パウロ2世、2006年ベネディクト16世)


   エフェソスには仕事仲間の案内を兼ねて何度も来た。20年前には観光客は殆どいなかったが、ここもアテネなど各地の観光地同様、今では押すな押すなの大盛況。



   収容能力5万人の大劇場。



   アレキサンドリアの図書館、ベルガモの図書館と並ぶかつての世界三大図書館の一つ、エフェソスのセルシウス図書館。



   残念ながら到着時には、観光客向けのショーが終わっていた。



   我がブリリアンスは偶々クイーンエリザベス(92,000トン、右側)と隣り合わせに係留された。クイーンエリザベスの三代目だ。こちらもパナマックスを満たす船。ブリリアントとほぼ同じ大きさだ。



   バスから撮影したクイーンエリザベスの全貌。スタイルはスマートな初代に比べ、豪華客船としての内部の利用価値を外観よりも優先したのか、ずんぐりむっくりの箱型。



   中央の女性の言葉使いが大変印象に残った。『私って****と言われていた人なのよ』。****には色んな言葉が入れられる。例えば『小野小町』。『天下の才媛』。その瞬間、8年前に福岡市中洲の飲み屋リンドバーグのママ『藤堂和子』さんの言葉使いを思い出した。
   
   昭和47年(卒業20周年)、57年に続き、平成14年11月30日に大学卒業40周年記念の同期懇親会の二次会でリンドバーグに立ち寄り『11月28日に胃がんが発見されました。今日は死ぬ前の挨拶に来ました』と言ったら『私は伊達に30年間、飲み屋のママをしていたわけではないのよ。まかしとき』。会って僅か3週間後の12月19日に紹介してもらった、愛知県を代表するスーパードクター『山村義孝』医師による胃がんの手術を受けた。
   
   藤堂和子ママは私の命の恩人だ。今や合計従業員100名を超える博多一の飲み屋『リンドバーグ』と高級クラブ『ロイヤルボックス』の経営者。平成22年10月5日には帝国ホテルで出版記念会。私も招待されたが挨拶する時間もない筈と思って辞退。次回の帰省時に伊勢名物『赤福』を持参してお祝いを述べに立ち寄る予定。

注。下記の報告者はどなたかは不明。

      博多の中洲で40年、クラブやバーを経営するかたわら、雑誌「中洲通信」を30年間にわたって発行してきた藤堂和子さん(64)の業績をたたえる「中洲通信30周年記念 藤堂和子氏『親子三代ママ稼業』出版祝賀会」が5日、東京・日比谷の帝国ホテルで行われた。博多の文化発展に貢献した個人や団体を表彰する「博多町人文化勲章をもらって頂く会」から「博多町人文化勲章」を受けた藤堂さんへの表彰式も同時に行われた。

     祝賀会の発起人はアサヒビールの荻田伍会長をはじめ、福岡ソフトバンクホークスの王貞治会長、歌舞伎俳優の尾上菊五郎、元NHKの手嶋龍一氏、作家の渡辺淳一氏ら各界から78人。会場には和子ママを慕う著名人や全国の美人ママさんら1,450人が集まった。

     藤堂さんは中洲で航空スタンドバー「リンドバーグ」などを経営。その一方で1980年からカルチャー誌「中洲通信」を発行。ローカル誌ながら多くの文筆家や写真家、ルポライターを輩出してきた。「大変なこともありましたが、30年は続けようと思った」と意志を貫き、今年2月号で一時休刊した。

     この業績に加え、初エッセー集『中洲通信 親子三代ママ稼業』(河出書房新社)も出版。祖母のマツさん、母のアヤさんと3代にわたって歩んできた“ママ稼業”をつづったもので、会場は二重、三重のお祝いの声に包まれた。

     乾杯の音頭を取った作曲家の小林亜星氏はこう語った。

     「僕は藤堂さんに惚れちゃったんだね。変な意味じゃないですよ。藤堂さんには“気”があるんですよ。空手の気合みたいなね。皆さんも分かると思うけど、藤堂さんとは何度じゃんけんしても勝てない。気力、胆力、知力が本当にすごい人なんです。その“気”をますます強くして、暗い世の中を明るくしてほしいですね」

     タレントのコロッケは会場の人波を見て「芸能人でもこんなに集められない」と感嘆。横綱白鵬や女優の菊川怜、山本陽子らが続々と登壇し、宴席ではめったに歌わないという小椋桂も「シクラメンのかほり」など4曲を披露。北海道から駆けつけた松山千春も藤堂さんのリクエストに応え、「恋」などを熱唱した。

     藤堂さんは「こんなにたくさんの方にお集まりいただき、四十数年、中洲で頑張ってきた甲斐がありました」と感慨深い様子だった。

 
     藤堂さんが毎月発行されていた『中州通信』には、ご自身が執筆されている2ページに亘る『藤堂和子のジャンケンポン』という読みきりの随想欄があった。5年前、その随想欄に何としたこと、私との出会いが『感謝』とのタイトルで書かれていた。たったの数回しかお会いしていないのに、何故か印象に残ったらしい・・・。

      
 ホームページ⇒健康⇒がんの治療体験の講演⇒読後感からのコピーを転載した。

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    私の命の恩人、福岡市中洲の飲み屋『リンドバーグ』のママ藤堂和子様は月刊『中州通信』を発行され、一冊500円で全国の有名書店にて販売もされている。

    発行累積No.261号、2008年4月号が3月7日に拙宅へ郵送されてきた。(私には何故か初対面の26年前から無料で贈られている)。いつも真っ先に読むのは『藤堂和子のジャンケンポン』。見開きの2ページにわたり、時流にあったキーワードをタイトルにして、藤堂様の日常体験を題材にしたコラムになっている。

    4月号を読んで驚いた。私との出会いに関する話題が取り上げられていたからだ。そこで本人の了解を頂くこともせず、此処に全文を転載させていただいた。飲み屋のカウンターでの短い立ち話だったし、メモを取られていたわけでも無いのにその記憶力の凄さに驚いた。この号のテーマは『感謝』だった。

    ほんの僅かのご記憶間違いがあるものの、修正するほどの問題では無いので、仮名遣い・句読点を含めて原文のママで転載することにした。


                     感謝

   この仕事をして来たおかげで、いろいろな職業の方達とお知り合いになることが出来ました。その結びつきがいかに、かけがえのないものか、健康がどれだけ大切かということも含めて、改めて実感し、深く感謝------。そんな出来事がありました。

   5年半ほど前、九州大学工学部卒業のある方が、久しぶりにお見えになった時のこと------。そのごあいさつが『私、ガンを宣告されまして、お別れにきました』というものでした。そして『どういうことなのですか』と聞くと『いや実は来月、今住んでいる家の近くの病院で手術をすることになりました。それで、もしものことがあったらいけないので・・・・』と、とても不安そうな表情です。

   私もびっくりして『ちょっと待ってください。あなたの手術が成功するように、私の方で先生をさがしてみますから-----』といって、いろいろと友人に聞いたところ、やっと一人の先生に行き当たりました。さらに、その先生をよく知っている人に電話し、事情を話すと気持ちよく引き受けてくださって、直接先生に頼んで無事にご承諾をいただくことが出来たので、早速その方に電話し、『吉報です』とお知らせすることが出来ました。

   あとは先生の持つ力と、彼の回復力を信じるのみ。そんなことがあって手術が終わり、その方から電話やお手紙などで経過報告をいただくようになりました。その『だんだんと体調が良くなって来ました』という、うれしいニュースに私もやっとひと安心・・・、頼んだかいがありました。

   そして、5年以上ぐらい経った最近のこと、私がお店のカウンターの奥にいると『藤堂和子さんはいらっしゃいますか』という元気な声が聞こえたので、ふり向くとそこに5年前よりも元気になられたその方が、キョロキョロとあたりを見回していました。私はすぐにわかったので、うれしくなって『いらっしゃいませ』と声をかけると、『今日はお客としてではなく、お許しと、お知らせがあって参りました。実はこのたび、福島県の郡山にある私立病院の主催で、私が講演をすることになりました。どうやってガンを克服したかというテーマで・・・・』と。

   その話を聞いて、どうして私に許しを・・・・とたずねると、その講演の中で私の名前を使わせてほしいとのこと。『もし、この方の助言と協力がなかったとしたら、今の自分はなかったかもしれない』という話をしたいとのことでした。『それは、別にかまいません』と答えたけれど、そんな話よりも元気になられたので、紹介していただいた先生にも鼻が高いのが何よりもうれしく、『いつまでも、元気でいてくださいね』といったのですが、彼がいうにはまた2ヶ所にガンが再発したとのことでした。

   でも、『今度、手術を受けます。大丈夫なので心配しないでください』と、これは5年前に見えた時の声のトーンとはまったく違って、とても元気なようです。そこでくわしく事情を聞くと、2月24日の日曜日に郡山の病院の主催による講演会があり、九大の卒業生3人(そのうち2人は医師)で話をするとのこと。そこに招かれて医者は医者としての話、私の友人は患者としての立場から話すのだということが、やっとわかりました。その日、私は金沢にいるので聞きにいけないのが残念だったけれど・・・・。

   私達の仕事柄、全国の先生達がよくいらっしゃるので、心強く思っています。いろいろなお客様からも、『こういう病気で困っているのだけれど、今は地元にいるわけではないので、どこの病院に行けばいいのか教えてほしい』など、ご相談を受けることがよくあります。

   そんな時、私もすぐにはわからないので、いろいろな友人を頼りに調べてもらったり、また厚かましく、何か目先の問題であってもよく相談に乗ってもらっています。

   近頃は、そうした周りの友人までが病気になったので、すぐに『どなたか、こういう人をご存知ないでしょうか』と------。また、私自身のせっかちな性格なので人の迷惑も考えず、何とか力になろうと考えると、たとえ一度しか会っていない方でも、お願いするようなことも続けています。

   とはいっても、他人のことは頼みやすいのですが、なかなか自分や身内のこととなると、後回しになってしまうのが不思議なものです。何か困ったことが起き、時間が経ってようやく頼んだ時などは、『なぜもっと早く言わないのですか』と叱られることも時々あります。

   『真の友達は不幸に出会った時に初めてわかる』と、イソップの『寓話』では述べています。逆境に陥った時に頼られ、また信じて頼れる存在を持つことがどれだけ貴重か、改めて知ることが出来ました。

   そして、この仕事をして来たおかげで、いろいろな職業の方達とお知り合いになることが出来て本当に幸せだと、このお付き合いを大切にしなければと心から思います。

   今回、5年半前の方に治療を受けてお目にかかり、今の明るさを見ると、お元気になって良かった、いいことが出来て良かったという思いでいっぱいです。

   今日まで築き上げてきた、そしてこれからも続いていく人の結び付きに、もう一度感謝を・・・・。

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我が出身校の後輩(経・元銀行員)が、上記で紹介した命の恩人藤堂和子様の『自分史』を購読し、読後感を送ってくれました。その保存も兼ねて以下に転載しました。 

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先日の藤堂和子著「親子ママ三代ママ稼業」を拝読しました。小生の読後感報告します。なお、貴先輩の命の恩人の本著書を是非各位にご紹介いただければ、という思いを強くしました。

親子三代ママ稼業(藤堂和子著)読後感

小生は貴先輩からクラブのママが命の恩人という経緯を最初お聞きしました折は、「そういうことかと・・・・」クラブのママにもそういう人もおられるかと・・・・・・。あまり気に留めておりませんでした。

しかし、このたびクラブのママ(藤堂和子様)出版記念会の記事が貴先輩の「地中海・エーゲ海クルーズ紀行記」に記載されており、書店で探しましたが見当たらず、アマゾンに発注しました。

中州に凄いママがいる。中州通信??しかしその方が藤堂和子様かと、今回はじめて知りました。九州福岡県人としては恥ずかしいという気持ちと、小生はもう福岡を離れて半世紀が過ぎて仕方がないか・・・・。

まず伯父(祖母の長男・母の兄?)様の名前が、小生の実父の名前と同じであること。二子山部屋(故大関貴ノ花)の福岡後援会会長を引き受けられた。小生は先代若の花の大ファン。

忠夫おじ様はママの弟様(叔父)ですか?兄上様でしたら記述は伯父様ですが・・。

(1) 祖母の三男三女のうち次男のみ名前の記載がないのは何故か?
(2) 祖母の教え「見えんところば、キレイに掃除しとかなイケンバイ。・・・・・・」
(3) 母とはライバル。母とは反面教師としてみてきたかもしれません。
母はお酒を飲む。たばこを吸う。彼氏を家に連れてきて祖母に紹介する。などなど。和子ママは、お酒を飲まない。たばこを吸わない。彼氏を家に連れてきたりしない。

小生は親父・小生・長男は銀行員(親子三代)で親父(中学卒)は、小生が日銀マンを望んでいたようですが、就職には一切口を出さず小生も長男には一切口を出さずでしたが、本人希望で三代同じ業種となりました。藤堂ママの三代記と共通点を多々感じました。

(4) 昭和39年スチュワーデスの最終面接を断った??(おじ様の縁故入社がNO??)
記述では「・・・空の女給だからなあ」ということでしが・・本音は負けず嫌いの上記?
(5) 最初の縁談Mさんの姉のお言葉「・・・・水商売やめてもらわな、あかんわ」は、小生 が同じ立場でもそのように申し上げたと思います。また離婚の理由ではご主人様の気持 の方が理解できるように感じました。

(6) 割烹「百鬼園」のオープン8年間で80百万の赤字に納得。閉店する勇気・決断は立派。
(7) 兄上の「ロイヤルボックス」の引き継ぎ立て直しホステス28名・男性スタッフ11名は当初現状体制のままで・・・・毎月8〜9百万円の赤字

その大改造奮闘記
@スタッフを2〜3年かけて入れ替え・・ホステスのスカウト(外国人含む)
A全国的に有名なクラブのマネージャーによる教育・講習
B本格的改装・・・・トイレ・ミエ・ミラー・絨毯・照明
Cホステスの衣装の色の規制

D借入金 2億+5億 金利12%→(5年後)7%→(5年後)3%
*7年後から借金の元金が減少してきた。(何年後に借入金は完済??)
上記5項目のママの経営学に脱帽です。(ここが一番感銘しました)

(8) 零戦の里帰りに奔走
名古屋空港の航空宇宙館に展示されていた零戦とママとの接点にびっくり。

追伸

(1)小学校恩師(84歳)の同窓会(現在も継続中)を開催した。3回目は福岡で開催し、はじめて参加したY女性がママ稼業を箱崎でやっていました。2次会で解散予定でしたがそのY女性はどうしても先生を含めて自分の店に案内すると言って譲りません。先生は小倉ですし10:00過ぎているし先生を返す了解を取り、小生含め野郎どもでそのお店で飲みあかしたことを思い出しました。

その夜どのようになったかいまでも記憶がないのですが、その2年後に彼女が亡くなったのです。その死因がなにだったかその店を尋ねましたが不明でした。

(2)小生が幼少のころ実父(支店長)が原鶴温泉の小野屋で会食があると必ず深夜となり、女将さんに車で自宅まで送っていただき、実母が必ず出迎えて女将さんへ平身低頭していたことを覚えています。正月2日は実父が部下の皆さんをお呼びすることが習慣でした。従って小生の子供のころの正月は、お酒の徳利を2階までの運び屋でした。一方ではお年玉とお土産を十分期待していたように思います。

その折部下の方から「深夜の実父の迎えの母の対応に感心(女将も含めて)している」旨の話を聞いたことが蘇りました。

実父は酒が飲めればなにもいらないというほど「酒」(日本酒)が好きで、酒がはいると饒舌で最後は帰る時間は全くわからない。帰る時間は他人任せでした。いまの時代では即刻支店長更迭でしょうが、検査部長まで勤めたのですから尊敬することの方が多いのです。

小学校高学年から中学校までは夜遅くなると、おきまりの時間に親戚から電話あり、「お父さんがおみえです」母「すぐいきます。いつもいつも申しわけありません」そして母と迎えに行きました。

父は必ず「まだ早い。何故きたのか?折角気持よく飲んでいるのに・・・」小生「お父さん帰るんだよ。こちらは明日朝早いお仕事がある。・・・・最後は足と手を母と引っ張って座敷から玄関まで、そして中学生になるとおんぶして自宅に連れて帰りました。その親父がどんなに遅くとも朝は定期出勤していたのはその当時でも感心していました。

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Subject: Re: 藤堂和子著「親子ママ三代ママ稼業」を拝読しました。

私は読んでいませんが、詳しいレポートを拝受し感謝。

藤堂和子様の奮戦人生が浮かび上がりました。リンドバーグはJALのスチュワーデスを短期間していたことに由来と誰かがいっていましたが、そうではなかったことも分かりました。

藤堂様には1人息子がいて、外車の販売店を経営。韓国にも進出。このことには触れていないのが不思議です。確か資本金は1億円。藤堂様が応援していると思っていましたが・・・。

ご子息の件ですが結婚は25歳。ご長男が新婚3年目に難産で誕生・結婚生活7年間・別居生活4年間。35歳で離婚の記述のみあります。恐らくお子様はご子息おひとりだと推測されますが、その他の記述は一切ありません。

小生も少し気になりましたがあえて遠慮されて記載を省略されてのかと解釈しています。

読後感の追加記述

「祖母のマツ様のアメリカ奮闘記は運命的な事象もありますが、あのエネルギーは時代背景も考慮すると特筆すべきことだと思いました。藤堂様も記述されていますが「祖母が和子ママの師で、母はライバル」の表現はよく理解出来ます。

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ギリシア・サントリーニ島(11月19日)

   サントリーニ島(ギリシャ語:Σαντορ?νη、ラテン文字表記:Santorini)はエーゲ海に浮かぶギリシャの島。ミコノス島と並んで、人気のある観光地。島の中心はフィラ(Φηρ?、Fira)の町で、崖を降りるとフェリーが留まる港がある。キクラデス諸島に属する。サントリーニ島は大小5つほどの島々の総称で、一般には最も大きいティーラ島(ギリシャ語:Θ?ρα)をさす。

   主な町はフィラのほか、フィロステファニ(Firostefani)、イメロビグリ(Imerovigli) 北部のイア(Ο?α、Oia)などがあり、特にイアから見る夕日は人気がある。フィラからイアへは、バスが運行されており、沿道の断崖には伝統的な洞窟型ホテルが多く存在する。

 
  白壁の家々が断崖にびっしりと連なる街の景色のなか、ギリシャ正教会の聖堂のドーム型の屋根の青色が映える様子は素晴らしい。 その景色の美しさからか日本のCMにもよく登場している。[1]



   ティーラ島の港には大型客船は接岸できない。港からテンダーボートが送迎している。ブリリアンスの出入り口は海面近くだ。この日も上陸した人はアジア人中心で僅かな人数だった。

   テンダーボートとは、陸地から船へ、あるいは船同士の間で人員や物資を輸送して船の活動を支援するためのボートである。交通船、足船、連絡船などと呼ばれることもある。テンダーボート自体にさらに支援する小型の船が付属していることがあり、ディンギーなどと呼ばれる。



   シンガポール人が参加していた。前列左右のどちらか忘れた。『マーライオンの活用法を提案したい。口から吐き出す水の代わりに生ビールにしたら。有料でよいのだ。趣向が変わると、観光客がもっと集まるのでは?』。意表を突かれたのか『・・・・』。



   サントリーニ島は観光とぶどう酒作りの島だそうだが、ぶどうの栽培に使える面積は大変狭い。でも、山頂から眺めると家が無数にある。収入が十分あるのだろうかと心配になった。



   遠くからだと山頂に雪が積もっているように感じるが、密集している家屋の屋根も壁も白で統一されている。住民の生活が掛かっている観光への意気込みと努力が偲ばれる。



   町の中心部には観光客が殺到し、狭い生活通路が一方通行にされているところもある。すれ違えないのだ。住民は屋外を常に清掃するだけでなく、外壁部の塗装も完璧(本当は当て字になる完壁と書きたいところ・・・)だ。


   
   港から山頂まではバスで登り、下りはケーブルカーだった。両者を繋ぐ道路の両側にはお土産屋やレストランが密集。観光客で道は埋め尽くされるほどの賑わいには驚く。

   
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終日クルージング(11月20日)



   白いドレスの女性と一緒に颯爽と踊る組は我がグループの夫妻。何と優雅なことか!


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イタリア・ナポリ(11月21日)

  ナポリ市(伊: Comune di Napoli、ナポリ語:Napule)は、イタリア南部・カンパニア州の州都で、ナポリ県の県庁所在地である。世界三大夜景の街として有名。ナポリ語が話されていて、ナポリ語での名称はナプレ(Napule)となる。英語名はNaples(ネイプルズ)。

   「ナポリを見てから死ね」(日本のことわざでいうところの「日光を見ずに“結構”と言うなかれ」)と言われるほど風光明媚な土地としても知られる(但し、現在では「ナポリがゴミ処理問題で死なないうちに見ておけ」という皮肉の意も含まれる)。ナポリ市の人口は約100万で、ナポリ都市圏の人口は約300万だが、古くから過密が社会問題になっている。

   ナポリの町は家庭ごみの焼却設備建設計画が住民の反対で頓挫中。町の彼方此方は家庭用のゴミ袋の巨大な山。

   イタリア以外の外国人が想像する輝く太陽と温暖な気候、陽気な人々というイタリアのイメージは、この都市が元になっている。その一方で、今日でも
カモッラによる影響が強い都市としても有名である。

   カモッラ(Camorra)とは、イタリアのカンパニア州、特にナポリを拠点とする都市型の暴力・犯罪組織を指す。広義ではイタリア・マフィアに含まれ、シチリアのコーサ・ノストラに相当する。現在では約130団体(約6,300人)が所属すると言われる。

   当初の予定はナポリから200人乗り位の高速船で50分のカプリ島に着いたら、小さなボートに乗り換えて青の洞窟に潜り込む予定だった。港に着いたら先着順で既に何隻かの高速船は出発していた。

   ところが、数日前からアフリカ(サハラ砂漠)からの季節風ハムシーンが強くなり、青の洞窟観光は中止されていた。この日も風が強く暫く待ったが結局、出航は中止との決定。出航済みの船もUターン。急遽、カプリ島の代わりにナポリとポンペイ観光に変更された。天気予報では雨も降るかもしれないとの報道。ゴルフ用の合羽を着用していた。

   私は過去に観光済みだったので中止されても支障はなかったが、参加者の殆どは初めてだったとかで気の毒だった。

   

   ナポリの丘の上までバスで登り、ベスビオス火山を眺める位置で写真撮影。



   バスから一瞬だがナポリの中心街のガレリア(アーケードのある商店街)を撮影できた。ミラノの世界一との評判の高いガレリアの小型ナポリ版だ。



   ポンペイは3回目だ。来るたびに観光客が増えている。観光コースは毎回少しずつ変わっていた。でも、目玉となる場所は同じだ。混み合うところは待ち時間も長い。金持ちの豪邸のフレスコ画が然して褪色していないのが不思議。

   平成22年12月には発掘後急速に風化した建物が崩壊したとのニュースが飛び込んだ。この人類の貴重な遺産をどのようにして保存すればよいのか、研究不足のようだ。



   火山灰の下から発掘されたとはいうものの、柱の上部がなくなっている理由が分からない。他の用途に持ち出されたのだろうか?



   鉛のパイプの水道管による鉛中毒患者がいたことは死者の遺骨分析で判明しているとか。真鍮による水飲み口が発掘後に取り付けられていた。




  考古学者のユニークな発想で人体が復元された。火山灰で生き埋めにされた人体は腐敗し空洞が誕生。空洞の中には人骨が閉じ込められた。石膏を空洞に流し込んだ結果、人体が復元された。ガス中毒による断末魔の苦しみが痛々しい。

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終日クルージング(11月22日)



   スポーツクラブでの体力づくりに参加する女性は多い。



   暇つぶしにのんびりとしたお茶の時間。



   最終日に調理場を見学した。床・天井・壁・厨房セットの全てはピカピカに磨かれたステンレス。食器類の自動洗浄機もあり、整理整頓も徹底していた。



   パン焼き工程。ここも整理整頓は完璧。



   調理人の殆どは有色人種。ひたすら黙々と真面目に働いていた。



   最終日は給仕が階段に集まり、感謝を込めて別れの歌を合唱した。

   夕方6:00から下船説明会。2,001名を混乱なくどのように下船させるのかに関心があった。これぞ正しく経験の蓄積。
   
   全体をグループ分けし、下船開始時刻表を作成。更にグループごとに大型鞄に取り付ける幅広の色別されたテープを支給。テープには大きな番号も印字されていた。鞄の集配と仕分けとは乗組員総出の作業だそうだ。
   
   港にある大型建物の中は空港の荷物受け取り用のターンテーブルと同じ設備が数箇所稼動していた。船からはターンテーブルごとに仕分けされた鞄が、蟻の行列のように一列になってコンベヤで運ばれてきた。ジャンボが数機同時に到着したような数量だが、時刻表に従って吐き出されてきたので、計画通りの時刻に鞄を受け取ることが出来た。
   
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スペイン・バルセロナ入港(11月23日)

   最終日の11月23日早朝6:00にバルセロナ港に到着。この日は一日中自由時間だ。クラブツーリズム主催のバルセロナ市内観光と昼食付のオプショナル観光料金は13,000円だった。過去の体験からこの種の任意参加の料金は何故か高い。

   同行の仲間を二人誘ってタクシーで、同じコース(ガゥディの作品巡り)を廻った。費用は半額で済んだ。

@ ガウディ

   アントニ・ガウディ(1852年 〜 1926年)は古今東西の折衷様式を唱えたモデルニスモの代表的建築家として知られる。アントニ・ガウディは26歳の時、パリの博覧会に出品したのをきっかけに大富豪、エウゼビ・グエイ(スペイン語読みはエウゼビ・グエル)と出会う。

   これが元で世界遺産の題名の一部となったグエル公園(パルケ・グエル)、グエル邸(パラシオ・グエル)の設計・建築を依頼されこれらを建設した。この後、ガウディはバルセロナ中の富豪から設計の依頼が来るようになった。これらの一部も世界遺産に登録されている。



A サグラダ・ファミリア

   サグラダ・ファミリアは聖家族贖罪教会(カタルーニャ語:Temple Expiatori de la Sagrada Fam?lia)という正式名称を持つバルセロナにあるカトリックのバシリカである。日本語では聖家族教会と呼ばれることも多い。カタロニア・モダニズムの最も良く知られた作品例であり、バルセロナ市のシンボルであり、カタロニアの建築家アントニ・ガウディの未完作品であり、拡張市街地域に建てられている。

   パシリカ・・・カトリック教会では伝統的に、ローマ教皇の発行する公式文書(教皇小書簡、小勅書などと呼ばれる)によって種々の特権を付与された教会堂をバシリカと呼称している。

   これらの特権は具体的には「一般の教会堂より上位の教会堂として扱われる権利」「オンブレリーノ[4]を備える権利」「ティンタナバラム[5]を備える権利」「聖務日課において聖堂参事会員が大カッパ(cappa magna)[6]を着用する権利」の四つである。


   綿密に構成された象徴詩的なシンボロジーと共に、パラボリックな(放物線状の)構造のアーチや、鐘楼に据えられた自然主義と抽象主義の混在する彫刻などで、大胆な建築様式を誇っている。

   2004年の統計によれば、サクラダ・ファミリアはアルハンブラ宮殿やマドリッドのプラド美術館を抜いてスペインで最も観光客を集めたモニュメントとなり[1] 、2008年には270万人を集めた[2]. 生前のガウディが実現出来たのは地下聖堂と生誕のファサード
(建物の正面。face)などであるが、これらは2005年にユネスコの世界文化遺産に指定された。

   贖罪教会なので、作業の財政は喜捨に頼っている。そのために、別々の箇所を同時に建設することは出来なかったのだが、1990年代以降は訪問者の流れと作品の世評の高まりが財政状況を好転させた。


   サグラダ・ファミリアは拝観前まではコンクリート建築と誤解していた。写真ではコンクリートに見えたが、石造りだった。未完成なのに欧州の多くの有名な大聖堂とは違った、そのユニークな外観に観光客の吸引力があるのか、押すな押すなの賑わい。しかも、何が理由なのか、世界遺産に登録済みだ。

   超有名なためか、既に入場料を取り始めている、片隅には有料エレベータまである。内部はお化け屋敷を連想させるような構造体が剥き出しのママ。何の美観も感じない。



   予期していなかった(知らなかった)のは広大な地下室だった。既に小さな教会が稼働中だっただけではない。圧巻は博物館だ。ガウディは電算機時代になって急に発展した有限要素法などの計算構造力学が知られていない時代に、合理的な構造設計を自然界に求めた。そのときに樹木などの構造を真似た縮小モデルを自作し、検討を深めた。それらを含め、彼が試作した無数の模型が展示されていた。

B グエル公園



   ガウディはその奇妙な発想に基づいて設計した建物を中心としたグエル公園を創り出した。こちらも今や人気沸騰。観光客相手のお土産屋や飲食店まで園内に開業して、大賑わい。彼は恰も失業救済事業を開始したかのようだ。



   グエル公園の片隅には巨大な熱帯樹の並木道を連想させるような半トンネル形式の散歩道もあった。極力、人工物を感じさせない造形だ。散歩道の柱は枯れてもいない椰子の幹を石などで補強しているのだそうだ。



C カサミラ

   外観に曲線を活かした集合住宅があり、最上階は入場料を取り一般に公開されていた。住宅としての家賃収入よりも格段に収益性がありそうだ。内部の部屋の形も直方体とは対照的な曲面体。長い間住むには不便ではないかと思ったが、当初の不人気は何処へやら、ガウディブームに乗せられた人々には大人気らしい。



   建物中央の吹き抜け空間を見下ろすベランダの柵は幅広の昆布を巻き付けたような形をしている。鉄板を加工して作られていた。

D ピカソ
   
   パブロ・ピカソ(Pablo Picasso(フルネームについては後述)1881年10月25日 - 1973年4月8日)はスペインのマラガに生まれ、フランスで制作活動をした画家、素描家、彫刻家。ジョルジュ・ブラックとともに、キュビスムを創始した。 

   生涯におよそ13,500点の油絵と素描、100,000点の版画、34,000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な美術家であると『ギネスブック』に記されている[1]。

   アフリカ彫刻の時代(1907年〜1908年)⇒アフリカ彫刻の影響を強く受けた絵を描いた。この時期にキュビスムの端緒となる『アビニヨンの娘たち』(または『アビニヨンの女たち』)が生まれた。



   ピカソ美術館は目立たない路地に建っていた。ここに辿り着くまで多くのスペイン人に道を聞いた。スペインにはスリも多く旅行者は十分な注意が必要、との情報は昔から日本では氾濫している。

   でも、今回出会ったスペイン人は誰もが大変親切だった。『案ずるよりは産むが易し』の典型例だ。

   ピカソはレオナルド・ダヴィンチとは異なり、多作・濫作家だ。ありとあらゆるスケッチなども集めて展示されており、全部見るのは気が遠くなりそうだ。ピカソの名において、駄作(我が判定)すらいつの間にか貴重品に昇格している。

   かつて西アフリカを旅したとき、先住民の絵画や彫刻にピカソ的な発想の作品と無数に出会った。そのときにピカソの絵画の出発点はアフリカの模倣だったと推定した。

E イベリコの生ハム

   「イベリコ」とはスペイン語で、「イベリア半島の」という意味で、豚のイベリア種の生ハムのことである。単独で用いられる場合は例外なくスペイン産で、
牛肉のような濃い赤色と肌理(きめ)細かな脂肪(サシ)に特徴がある。

   以前はスペインでの豚コレラ流行の影響から日本への輸入が禁止されていたが
2004年より輸入解禁となっている。



   ピカソ美術館を訪ねる途中、大きいが汚い昔流の屋根付き市場があったので飛び込んだ。イベリコ生ハムの店を発見。この日までに調査した3箇所の店では此処が一番安かった。同じ品物でも綺麗な店ほど高価なのは世の常。迷わず直ちに購入。店主の爺さんは大喜びで握手を求めた上で、チョコレートをくれた。

   帰国まで私が入手していた情報(欧州産の肉類やその加工品は日本への持ち込みは禁止)が間違っていたとは知らなかった。添乗員も同行者も誰もが輸入禁止と信じ込んでいた。バルセロナ空港からホテルまでの往復を案内してくれたベテラン日本人男性ガイド(スペイン在住歴10年以上)も最新の情報は知らなかった。

   成田の税関を通過するために、警察犬に察知されないようにとバルセロナのホテルのバスタオルを無断で借りて、生ハムを買い物袋に入れたまま、何重にも包んで鞄に入れた。没収されたら諦める覚悟だった。帰国後インターネットで調べたら、イベリコの生ハムの旅行者による持ち込みは既に解禁されていたとは! 



   帰国後、疲れも取れた12月3日、一部をスライスした。インターネットの記事の通り、牛肉のような赤い色が現われ本物と確認できてひと安心。

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スペイン・バルセロナ発(11月24日)



   バルセロナからミュンヘンへの移動中に見た雪で輝くアルプス。ヒマラヤや天山山脈とかアンデスとは比べるべくも無いが、飛行機から見下ろすアルプスは意外に広い。谷間には民家も散見されたが、生活空間としては大変不便でも、住めば都なのだろうか?
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中部国際空港着(11月25日)

   往路は中部国際で大型鞄は預けられた。受け取りはバルセロナだった。でも、帰路はバルセロナで預けた荷物は成田で受け取らされた。入国が成田だからだそうだ。成田では荷物検査もなく、イベリコ生ハムは無事持ち込めてほっとしたが、既に持ち込み禁止令は解除されていたと後で知り、無性に腹立たしかった。

   中部国際から豊田市行きの高速バスへは待ち時間もなくジャストインタイム。豊田ICでも客待ちタクシーに飛び乗れて、恙(つつが)なく帰宅。目出度し、目出度し!!

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おわりに

 興味津々期待も抱きつつ参加したクルーズだったが、たった一回の参加で飽きてしまった。

@ 三つ子の魂の呪縛

   物心付いた幼児の頃から、日向ぼっこをしながらのんびり過ごすという習慣はなかった。いつも何かをしていた。社会人になると土日が余暇時間。でも、一日中家で過ごすことすら何故か大変苦痛だった。独身時代は天気がよければデパート・スーパー・図書館・本屋などへ直行。結婚後はテニス・ゴルフ・家庭菜園・子育てなどの暇つぶしに明け暮れていた。

   クルーズ船の中にはカリビアン社の積年のノウハウを結集したかのような、時間消費型の娯楽設備が整ってはいた。でも、大型船といえどもスペースには制約がある。もっと大掛かりな本格的な娯楽設備が日本でもあちこちにあるにもかかわらず、日頃から出かけたことは殆どなかった。

   例えば、定年退職後の12年間、映画館にも劇場にも一度も行ったことはなかった。作り話を言葉巧みに幾ら熱心に演じられても、馬鹿馬鹿しくて関心が湧かなかったからだ。荘厳な大自然とは遊離している、ディズニーランドを始めとしたテーマパークのごときは、子供だましの見世物小屋を連想させるだけ。さりとて考え込ませるような人生の深い喜怒哀楽も感じ取れないと独断し、生まれてこのかた日本では出かけたことがなかった。

   結局、クルーズ船内の遊戯設備は見学しただけだ。例外は露天風呂もどきのジャグジーとパターゴルフ(でも、直ぐに飽きた)だけ。三つ子の魂の呪縛の強さを再認識した。

A 欧米人と日本人との違い

   欧州人、中でもフランス人は1ヶ月の長期連続休暇を活用。地中海方面へ移動してバカンスを楽しむ、との羨ましげな報道が巷(ちまた)には溢れている。でも今回、彼らの行動をつぶさに観察したら、日本人との船内の過ごし方には大差があることに改めて気付かされた。

   プール周辺の長椅子、彼方此方のラウンジの安楽椅子で、彼らは読書や昼寝三昧。寄港地で下船して何処かへ観光に出かけるなどの積極性は意外に乏しい。彼らはお金を使わずに過ごせる余暇の満喫に没頭。フランス人(他の欧州人も類似)と日本人との余暇の過ごし方のこれほどまでの違い(時間消費か、お金消費か)は、何に由来するのであろうか?

   彼らには『心頭を滅却すれば、騒音もまた癒しの音』に聞こえるのかもしれないが、私にはざわざわとした人ごみの中で椅子に座って、海面をのんびりとひねもす眺めることには耐えられなかった。生ビールを飲み尽くすまでの短時間を、ぼんやりと過ごすのが精一杯だった。終日クルーズの4日間は結局のところ、生ビールを堪能後は部屋に戻っての昼寝に明け暮れた。

   我がテニス仲間の男寡(トヨタ後輩・工・三人兄弟全てが東大というかつての秀才)は昨年11回もの海外旅行。そのうち4回はクルーズ。『船内で何をしていたの?』『カラオケとトランプ』だそうだ。何かに一人でも没頭できる趣味人の典型だが、日本人としては天然記念物的な例外だ。

   私は1人でぼんやりと過ごせる趣味の一つを昨年4月にやっと開始。自宅での露天風呂三昧(http://www.hm3.aitai.ne.jp/~isimatu/roten.html)だ。静寂の中での無念無想。これぞ長い間捜し求めていた、私にとっての極楽浄土の世界。しかし、船内のジャグジーでは水着にも拘束されて鬱陶しく、周辺の騒々しさにも我慢できなかった。

   欧米人と日本人の時間とお金の使い方が、正しいとか間違っているとかの評価の対象にならないのは明白。これを文化の差だというのは簡単だが、その発生理由には根深い歴史があるように思えてならない。

B 我が推定

   あるとき香港のおばあさんの仲間とレストランで同席した。『香港の高層マンション街で早朝、小さな公園内での場所取り競争を目撃して驚愕。見晴らしの良いマンションで朝はゆっくりと飲茶(やむちゃ)でも楽しみながら、テレビや新聞を満喫すれば良いのに!』

   『庶民の家の広さは平均700平方フィート(19坪)です。窓は小さく部屋は狭くて息苦しいのですよ。おまけに下層階ときたら昼尚暗く電灯暮らしですよ』

   都市化が日本よりも一足早く実現した欧州の庶民は100年も前の古い集合住宅が終の住処。一戸あたりの面積は意外に狭く天井も低く、大げさに言えば石牢(アフリカ各地の港に世界遺産として今尚残る、売約済みの奴隷の出航までの強制収容所)に幽閉されているのも同然だ。訪問時に最も驚くのは壁が多く窓が小さく、家財道具が少ない点にあった。

   中でも個人の土地所有が禁止されているパリでは皆マンション暮らし。核家族化が日本よりも一世代早かったパリの老人達は、家賃の安いマンションの最上階(屋根裏部屋)に移住。21世紀初頭の酷暑の折、エアコンなしの屋根裏で1万人近い老人が脱水症状などで哀れにも死んだ、との悲しいニュースを思い出す。彼らには時間はあるのにエアコンを買うお金もなく、避暑を兼ねての長期旅行も出来なかったのだ。

   生まれながらにして資産(金融資産+固定資産)を引き継いだ、僅かな富裕層以外の庶民は、両親から独立した時点では学歴以外の資産は無一文。彼らの暮らしの慎ましさは、我が想像以上だ。働き盛りの彼らの土日は狭い家から脱出し、都心の広場や大通りの歩道に張り出しているオープンカフェに出かけるのがベストウェイ。年金暮らしの老人達は連日、砂埃をものともせずに一杯のソフトドリンクを2時間も掛けて飲みながら、仲間との世間話に打ち興じるのが安上がりなストレス解消法のようだ。

   現役世代の彼等は1ヶ月もの夏季連続休暇には、遠くのコンドミニアムに出かけて安上がりな自炊生活。日頃のストレスの洗濯に出かけていたのだ。その延長にクルーズもある。窓際の長椅子に寝そべって日がな一日読書に耽(ふけ)るのは至福のひと時なのだ。

   私は松坂屋豊田店では入手し難い食材はインターネットで探し求めた。例えば北海道釧路の蟹屋(http://www.kanahashi.co.jp/)からは5Kgの活タラバガニ、鳥取県境港の魚屋(http://store.shopping.yahoo.co.jp/ask-sanin/iseebi.html#)からは5Kgの天然鯛、長崎県壱岐の魚屋(http://www.ryoushijima.com/fs/ryoushi/c/buri-hatsuuri)からは6Kgの寒鰤、三重県松阪の牧場(http://www.sekofood.co.jp/)からは厚さを5cmと指定してカットさせた松阪牛のヒレ肉を時たま買うのが楽しみの余生。
   
   細々と生きている私レベルの年金生活者でも一点豪華主義に徹すれば、人生がもっと楽しくなる、と我がトヨタ同期のメール仲間(一年で依願退職・東大・工&経)に上記アドレスを添えて購入を薦めたら、あろうことか下記の返信に見舞われた。
   
   鮭と鯵の干物を最近買った。庶民から昇格するのも大変だ。固有周波数がある。角栄も目刺しが好物だった。
   
   三つ子の魂の呪縛とは古典力学の基本原理の一つ、ニュートンの『慣性の法則』そのもののようだ。庶民が『売り家と唐様で書く三代目』まで昇格するのには100年近くは掛かるらしい。

   
読後感

貴先輩にお会いいただいた唯一の人「上野允久君の急逝」は無念の一言です。

貴先輩には昨年9月8日に初めて「講話」(
注。名古屋東名ライオンズクラブでのがんの体験講演)を聞かせていただき、多くの教訓を学びました。その折、尾張屋の会長ご夫妻・社長にお会いし下記のように話したことを思い出しました。

「石松様との経緯・どこらからあのエネルギーがあるのかわからない博識・異色な大先輩です。一応海外旅行は区切りをつけられたとのことですので小生の願いは地中海・エーゲ海クルーズご夫妻の計画を実現されることを祈っています」

その間石松様から体調不良の情報をいただきました時はショック(やはりだめかなー・・・)でしたが、その壁も乗り越えられ今回はいままで拝読しました旅行記と異なりご夫妻がご堪能いただいた写真を拝見するだけで十分でした。石松ご夫妻へ万歳・万歳・こころから拍手です。

(1)石松ご夫妻の堪能されている写真
  @ローマの「真実の口」にお二人の手が・・
  Aトルコのエフェソス・・・収容能力5万人の大劇場
  Bステーキハウスでのお二人の夕食「食べ残しは朝食で」
  Cギリシャ・サントリーニ島の山頂でのご夫妻の笑顔
  Dイタリア・ナポリの丘
  Eひまつぶしにのんびりとしたお茶の時間(船中)

小生は上記で十分満足ですが、貴先輩のためあえて印象に残りました事柄は下記です。

(2)中国人の割り込み気配を制した石松流言動
  石松様「こころでまいったか」という貴先輩の姿が浮かびました。
(3)ローマ・真実の口・トレビアの泉での治安の悪い記述について
  小生が20年余り前にローマで下記の忘れられない事件に会いました。
  @ローマのホテルのエレベーターの中で同僚がケチャップ(当時日本では全くなかった時代)をかけられあやうく盗難にあう寸前(前日ガイドから注意され小生同僚と3人組の間にはいり、なんとかきりぬけられた)
  Aトレビアの泉で赤ん坊を背負った母親が我々の同僚バッグを盗みそこなった子供(息子)を叱っている姿(ガイドからの説明)
   警官が近くにいたにもかかわらず見て見ぬふり(小生当時唖然としたが・・・)
(4)藤堂和子ママの出版記念会の記事について
  石松先輩の命の恩人との由、従来からたびたびお聞きしていましたので「アマゾン」に発注しました。
 
あらためて奥様との地中海・エーゲ海クルーズの実現おめでとうございます。ますますのご健勝をお祈りします。

@ 大学後輩・経・銀行OB

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     平成14年に計画した地中海クルーズを、諦めずに8年後の平成22年に遂に敢行したというのは凄いですね。石松さんは体調がすぐれないと嘆いておられますが、こういう旅行の件を知ると体調はバッチリとしか思えませんけど。ホームページに乗っているお写真を拝見しても、まるっきり病人には見えません。

     ところで、私は地中海クルーズをするかどうかわかりません。いまだに海外旅行をする暇ができたら、すぐにアメリカに行こうと思ってしまう私ですので。アメリカに飽きるときがくるかどうかわかりませんが、そういうときがきたら地中海クルーズもするかもしれません。


A 女性宇宙飛行士向井様のご主人・慶応大学病院のスーパー病理医・准教授・お会いした事もない偉人

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昔、クルージングは何百万円もして金持ちしか行けない旅行でした。

20年ほど前、トヨタ労組がワンナイトクルージングを企画した。一晩ぐらいなら手が届くと参加した。家内と二人で14万円。船は飛鳥。名古屋港で午後3時ごろ乗船、翌朝 神戸港着。

ウエルカムなんとかがあって、ディナー、いろんなイベントが続き、すぐに寝る時刻。夜食もあったかな?寝る時間が惜しくて耐えに耐えた。話のタネにと参加したが実のある思い出は無い。

石松さんの2週間余りのクルージングは本当のクルージング。デッキの長椅子に仰向けになって、ぼんやりと海を眺めたり読書をするのが「クルージング通」の過ごしか方かな?退屈を感じなきゃ値打ちが無いかもしれない。

貧乏性の私には出来そうもありません。

B トヨタ先輩・工・ゴルフ&テニス仲間・多芸多能多趣味・囲碁の実力は日本でも有数

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ローマのサンピエトロ寺院に入る行列に、中国人の団体が割り込みかけたのを、石松さんが阻止した勇気ある言動は立派だと思いました。
 
一昨年、ヘルシンキの世界マスターズ陸上の時、バルト海のクルージングでエストニアの観光地の男性用トイレに入ろうとした時、既に中国人の女性の団体が2〜3人並んでいたので、私は皮肉にも「ニューハーフですか?」と言ってやろうかと思ったのですが、勇気が無くて言い出せませんでした。女性のトイレには大勢並んでいたので、止むを得ないかなと思ったからです。
 
若いときに日本代表で海外遠征出来なかった選手が、永年の願望を満たすために、リタイヤしてからの世界マスターズ大会のような海外遠征は、オリンピックと異なり全て自費参加ですので、ついでに堂々と観光旅行することにしています。

C トヨタ後輩・超有名なスポーツマン

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8年ぶりで16日間の夢が達成できよかったですね。豪華な食事、いろいろな企画、行く先々の特別ツアー、究極の豪華旅行で、私も囲碁三昧の船旅を狙っています。

D トヨタ先輩・経・テニス仲間・囲碁の大家・バードウォッチングでは東奔西走

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クルーズは昔から庶民の娯楽。海運・港湾関係者の間では常識。上流社会が芋を洗うような船内生活をするはずはない。船室を区分しても完全には分離できない。

住宅環境劣悪は日本の専売特許ではない。欧州の家も庶民は日本以上に狭い。

E トヨタ同期・工&経・一年後に依願退職・奥様は北京美人

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