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旅行記
           
ヨーロッパ
ムガール帝国(平成12年2月20日脱稿)

     『そこに行けば人生観が変る』とまで言われるインドには、残念ながら公私共に長い間縁がなかった。

      東南アジア各国の鉄筋コンクリート建築物が突然安っぽく感じられるほどに荘厳な、石造巨大建築物に接する一方、生死をさまよっているかのような夥しい数のホームレスや聖牛の群れに出会うと、歴代為政者や宗教家は国民の為に一体何をしてきたのだろうか、と考え込まずにはおれない。        

     『日本人に生まれて良かった、良かった』などと言いながら、呑気に昼間っから酒を飲んでいると罰が当たるのではないか、と考え込ませる迫力が、悠久の大国インドには確かにあった。
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はじめに

   『日本人の誰もが、気軽に海外に出かけられる時代になった』とは言っても、安上がりなパック旅行の募集は、近場の東南アジアや遠隔の欧米と中東諸国に偏り、中間地帯にどっしりと横たわる南アジア方面の企画は何故か少なかった。

   ところがある日、朝日新聞の朝刊で阪急交通社の巨大広告『インド紀行5日間・名古屋空港発着・全日空・相部屋=11万9800円』にふと目が触れた。数年前には業務で『インド・プロジェクト』の一環として、人文地理・歴史・政治経済などに関する分厚い単行本(過去十年以内に発行された本・会社の図書費予算で購入)に20冊以上も目を通していた国である。爾来一度は私費ででも尋ねたい候補国の1つになっていた。

   荊妻は相も変らず月火木金は専門学校と公立学校の講師として出勤中。『旅は道連れ』だけではなく、ホテル代の節約( 2万4000円減)をも兼ねて相棒を探し捲った。『気候が悪い』『風土病が怖い』『不潔』など様々な理由を耳にし、前途多難を感じていたら『救世主』が現れた。

   香港・マカオにも楽しく同行して頂いた『悠々自適』の天彦さんだ。またもや、助けて頂いた!。『罹病が怖い』と、やんごとなき奥様には反対されたそうだ。2人の都合から、旅程は平成11年5月14日〜18日を選んだ。
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インドの特徴

   インドと言う国名を知ってはいてもかつての私同様、普通の日本人はその人文地理や歴史には必ずしも詳しくはない。関心もニーズもないからだ。古代の日本人は『三国一の花嫁』なる言葉に象徴されるように、世界は自国・唐・天竺の3ヶ国からなると認識してはいたが、天竺まで出かけた人は絶無に近かった。

   その結果、インドとは中国の更に西の果てにある、玄奘(三藏法師は俗称)が西遊記の中で憧れ続けた『仏の国・天竺』として単に観念的に認識していただけであった。明治以降の日本人は、イギリスの植民地として搾取され続けた、可愛そうな貧乏国としてのみ捉えていた。そこで我が旅行記の愛読者諸氏の便のため、インドに関する基本情報をまず最初に紹介したい。

[1]人文地理

   『インド世界とは、東はベンガル湾・西はインダス河流域・北はヒマラヤ山麓・南はインド亜大陸南端までの広大な空間を意味するものである』とは、紀元前から先住民には既に認識されていた。今日のインド・バングラデシュ・パキスタン全域・アフガニスタン及びネパールの一部に当たる地域である。

   大局的に見れば、インドシナ半島・ヒマラヤ山脈・砂漠・インド洋に囲まれた、地理的には閉ざされた世界である。しかし、中央アジア・西アジア・東アフリカ、さらにはその外延世界(ローマ帝国等)との交流は、絶えることなく続けられていた。

   周辺国が独立したとは言え、インドの国土面積は 328万平方Km(約1兆坪)もあり、西ヨーロッパ大陸{欧州−(東欧+ロシア)}にほぼ匹敵する広さだ。インド亜大陸と呼ばれる所以だ。広さだけではなく人口も9億人を越える今日のインドに、民族自決を象徴するかのような『1民族1言語1宗教』からなる、シンプルな国家像を求めるのには本質的な無理がある。西欧が1つの世界と言えるのなら、インドもまた、別の世界と考える方が遥かに分かりやすい。           

   しかし、インドよりも遥かに広大な領域からなるアラブ22ヶ国はアラブ民族・アラビア語・イスラーム(イスラームと言う言葉には教の意味が既に含まれているので、イスラーム教とは書かない)、ラテンアメリカはラテン民族・スペイン語(ブラジルのみはポルトガル語)とキリスト教、中国は漢民族・北京語・儒教(儒教には教の字が付いているが、私には宗教とは思えない。弟子達が編纂した論語には孔子の処世観と政治観が記されているに過ぎず、神の観念が全くないからだ)でほぼ統一されたのは何故なのか?。インド(インド人)が抱える深い苦悩の理解には、その特異な歴史への洞察が必須のように思われてならない。

[2]歴史概観

   手元にある歴史書から政治史中心の年表を作成した。

@  〜1500BC……先史時代・石器時代⇒バルチスタンでの農耕
A2300〜1700BC……メソポタミヤ文化⇒インダス都市文化・青銅器文化
     古代文明    モヘンジョ・ダロ、ハラッパ・象形文字・ドラヴィダ人
B2000〜500BC……アーリア人(中央アジアの遊牧民・鉄器文化)パンジャーブ 
   ヴェーダ時代   地方に侵入(1500)インダス文明滅亡・ガンジス川流域に到 
    コーサラ国    達(1000)バラモン優位のカースト制度成立・仏教(ルーツ  
     マガダ国    はウパニシヤッド哲学)とジャイナ教の成立(530)
C530〜326BC…… アケメネス朝ペルシアの侵入(530)
              ギリシアの侵入(アレキサンドロス⇒パンジャブ平定(326)
D321〜185BC…… チャンドラグプタはマケドニア軍を追放・インダス〜ガンジ    
   マウルヤ朝    ス河の全域平定⇒初めての統一国家・アショーカ王(268〜232)
              全盛時代・国家統治に仏教採用・仏典結集・大乗仏教
E185BC〜300AD……遊牧民支配・大月氏国(140BC〜45AD)
   クシャーナ朝   ペルシア系・カニシカ王(130〜170)は仏教保護・結集・ガンダー
              ラ様式
F320AD〜550AD……チャンドラグプタ2世(376〜415)全盛期・マヌ法典   
      グプタ朝   古代インドの民族文化の黄金時代・グプタ様式・アジャンタ石窟・
               ヒンドゥー教(バラモン教からの発展)の成立・浸透
G711〜1193AD…… トルコ系⇒シンドへ侵入⇒イスラム諸王朝・小国分立
   ヴァルダナ朝   ハルシャ・ヴァルダナ(606〜647)インド文化の繁栄再現         H1193〜1526AD……デリー諸王朝(トルコ、アフガン系)           
              奴隷王朝(トルコ人・1206〜1290・最初のイスラーム王朝)
              ティムールの侵攻(1398)
              ヒンドゥー社会へのイスーラムの影響⇒差別批判⇒シク教
              (一神教・16世紀・ナーナク創始)
I1526〜1858AD……アクバル大帝(1556〜1605)ザミンダール(土着領主)が末
   ムガール帝国   端を支配・ウルドゥー語(ヒンディー語にペルシア語を加えた・ア
               ラビア文字)の成立・世界一のダイア(ムガール皇帝⇒イランの
               シャー⇒アフガン王⇒シク王国⇒イギリスの王冠)インド・イスラ
               ムはヒンドゥー教との融和的傾向が強く西&中央アジアのよう
               に異教は消滅せず・カースト制度が発達したインドは西欧的封
               建制や中国的な中央集権制が発達せず・ポルトガル・オラン
               ダ・フランス・イギリスの侵攻・東インド会社(1642マドラス・1698
               カルカッタ)セポイ(インド人傭兵)の反乱(1857)⇒インド民族運
               動の先駆・ムガール帝国滅亡(1858)
J1858〜1947AD……植民地時代
     インド帝国   英産業革命⇒商品市場&原料供給基地⇒伝統的・自給自足農
               村経済の崩壊・東インド会社解散(1858)・ヴィクトリア女王がイ
               ンド皇帝を兼務(1877)
K1947〜現在 ……インド共和国

[3]インド人のルーツ

   四大文明(現在も発掘中の長江文明を加えて、最近は五大文明とも言われ始めたが…)の一角を占めるインダス文明を花開かせたドラヴィダ人はインド中北部に移動し、先住民を東北部のアッサム地方に追いやった。

   アッサム地方は多数の少数民族が固有の言語を使いながら、今尚生き延びているインド最大の多民族地域である。インドの各州は言語が同じ人々の集まり(言語州制度)なので、アッサム地方には小さな州が沢山できた。まだ増えそうだ。

   その後、中央アジアの遊牧民だった鉄器文明のアーリア人(人種分類上は白人だが、我が網膜に映った皮膚の色は別人種のように浅黒い)が西北部から侵入してドラヴィダ人を征服すると共に、その一部を南部に移動させた。

   その結果生まれたアーリア人・ドラヴィダ人・先住民と言う大きな階層序列は、後に確立されたカースト(ポルトガル語=カスタ・家柄の意)制度ばかりか、南北対立の遠因にもなっている。アーリア人のヒンディ語とドラヴィダ人のドラヴィダ語とは日・英両言語程にも文法が違うそうだ。ドラヴィダ人の悲願はドラヴィスタンとしてのインドからの独立だ。

[4]他民族による支配の連続

   先住民を追い払ったドラヴィダ人が、アーリア人に支配されただけではない。アーリア人もまた年表に記したように、次々と西・中央アジアや西欧からの異民族に征服された。その主なものだけでも、アケメネス朝ペルシア・ギリシア・マウルヤ朝・イラン系クシャーナ朝・グプタ朝・トルコ系ヴァルダナ朝・トルコ系奴隷王朝・トルコ系ムガール帝国(ムガールとはモンゴルの意)・ポルトガル・オランダ・フランス・イギリスの順に支配された。

   1947年に至り国民国家として、やっと独立したのだ。従ってインド人には英国の植民地になる以前から、外国人に対する本能的な警戒心が染み付いている。

   長い歴史の殆どの時代は被征服民族として圧迫されていたが、インド文化のルーツであるインダス文明が『西欧文化のルーツ=ギリシア・ローマ時代』よりも1000年も古いことを、インド人は密かに誇りにしている。インド・ヒンディー語・ヒンドゥー教の語源はいずれもインダス河に由来する。

   長い歴史の中で、人口の大部分を占めるインド人(アーリア人を含む先住民)が自ら政治の実権を掌握できていた時代は、仏教国時代のマウルヤ朝とグプタ朝、及び英国から独立した現代くらいのものである。

   残りの大部分は被抑圧民族として呻吟していたが、その心の救いともなっていたのは、ヒンドゥー教であった。しかし、このヒンドゥー教すらもアーリア人が先住民を支配するために工夫を凝らした宗教だったのだ。

[5]分かり難いインド史

   日本史はインド史に比べて、受験生には大変分かり易い。時代区分は明白、その上国境も変わらず、しかも奈良時代に制定された旧国名(三河・尾張等)とその境界は、千年以上も経った現在に至っても不変だからだ。

   一方、インド世界では常に多数の国々が覇権争いを繰り返し、国境も常時変わっていた。年表に記した時代区分は、その時代の最有力国を我が独断で選択した結果だ。有力国の周辺には多くの独立国が常に並立していた。

   インド史上最大の大帝国となったムガール帝国といえども、インド半島(亜大陸)の南端部までは支配出来なかった。従ってインド史は西欧史全体に匹敵する複雑さがあると言っても過言ではない。

   インド史はまた研究者泣かせでもある。話者人口最大のヒンディ語と言えども流通人口は40%に過ぎず、話者人口百万人以上の言語が今尚33もある。歴史的な文献を比較検証するには多言語に精通せざるを得ず、外国人は勿論のこと、当のインド人研究者に取っても大変な負担だ。インダス文明が残した象形文字は今なお解読されず、モヘンジョ・ダロやハラッパを初め千ヶ所以上もあると言われる遺跡は、今なお調査・発掘・研究途上にある。 
                              
   加えて、インドの歴代支配者は『国家の正史』を殆ど残していない。国家意識がなかったのだろうか?。小国日本にだって『日本書紀』があるのに。また、古代帝国にあり勝ちな巨大な『王墓』や『城郭』が見つからない。強大無比な王権が樹立されなかったのではないか?。インドで本格的な歴史書が国家事業として編纂されたのはムガール帝国以降だ。

   『古事記』やホメロス著「イリアス」と「オデュッセイア」に匹敵する、と高く評価されている国民的2大叙事詩「マハバーラタ」と「ラーマーヤナ」は歴史学者にとって研究の宝庫になってはいるが、史実と虚構の区別は大変難しい。

   ドイツ人シュリーマンが『イリアス』に書かれていたトロヤ戦争の実在を信じて『トロイ遺跡』を発掘したように、両叙事詩の描写を裏付ける、古代の大遺跡を発掘する試みも細々と続けられてはいるが、未だ成果には結び付かないようだ。

[6]2千年間もインド人を支配した、カースト制度

   白人である征服者アーリア人は『皮膚の色=ヴァルナ』の違いにも着目して人種差別を始めた。その結果、彼等自身の宗教『バラモン教』の司祭者階層を最上位に置くアーリア人絶対優位の『宗教的な社会制度=カースト制度』を確立した。

   バラモン(司祭)・クシャトリヤ(王侯・武士)・ヴァイシャ(農牧商)・シュードラ(隷属民・主にドラヴィダ人・人口比率27.5%)・アウトカースト(先住民等・22.5%)の順に序列化した制度による他民族支配のスタートである。皮膚による人種差別の元祖はインドだったのだ。

   インド人の大部分は今なお農村に住んでいる。従って、農村を知らずしてインドの本質的な理解は難しい。典型的な農村では、中心部に上位のカーストが住み、周辺部には上位のカーストへのサービス業務に従事する、下位のカーストが住んでいる。村落全体として、自給自足の安定した社会を形成している。今なお貨幣経済とは無縁な地域も多い。自己の所属するカーストの役割(職業)に徹する限り、最低限の生活は何とか保障されているそうだ。

   このカーストは、2000〜3000にもランク付けされていると言われるジャーティ(職能&内婚集団)に、更に細分化されている。現在でも結婚は同一ジャーティ間が原則。新聞にお見合いのための広告を載せる場合には、所属するジャーティを書く習慣があるほどだ。上位のカーストの男性が下位の女性と結婚する事は容認され始めたものの、その逆は大変難しいらしい。

   1950年のインド憲法で形式的にはシュードラは解放されたが、カースト相互間に現存している歴史的な反目は、インドの政治的統一と真の国民国家建設への今なおアキレス腱のままだ。

[7]宗教界の覇権競争に勝ち残ったヒンドゥー教

   アーリア人の中でも、経済的に台頭して来たクシャトリアやヴァイシャ層が『階級によって解脱に差があるべきではない』と主張し始めた背景の下で、差別を否定する『仏教』と『ジャイナ教』がほぼ同時期に生まれた。しかし『苦行の実践と戒律の厳守』を厳しく求めたジャイナ教は一部の普及に終わった。

   マウルヤ朝のアショーカ王が『カースト制度を否定し、苦行抜きでも解脱出来る』と解く仏教を、国家統治の原理に採用し普及に努めた。クシャーナ朝のカニシカ王も仏教を手厚く保護し、文盲への布教の手段として言葉だけではなく、仏像の概念を導入し、ガンダーラ様式を残した。

   仏教は北に向かって大乗(シャカの教説=根本仏教に近い・戒律に拘泥せず)、南に向かって小乗仏教(戒律至上主義)として伝わったが、階級制を否定するためかヒンドゥー教に包摂され、インドでは駆逐された。

   グプタ朝時代にバラモン教が、仏教などの理論やインド古来の民族信仰を組み入れてヒンドゥー教へと発展し、社会の全域に浸透し、現代のインド宗教の主流になった。ヒンドゥー教とはインド特有の信仰と生活倫理の総称である。

   このヒンドゥー教のベースにはカースト制度があるため、周辺国への普及は限られた。ネパールではインド系の人々の間に今尚カースト制度が残り、憲法でもヒンドゥー国家と規定しているが、ブータン・ミャンマー・インドシナ各国(タイ・ベトナム・カンボジア・ラオス)にはカースト制度は取り入れられず、仏教が普及した。スリランカも仏教徒が主流である。

   インドの中世はトルコ系のイスラーム国家に支配されたが、支配階級が異教徒に寛大だった結果、ヒンドゥー教は生き延びた。少数民族側がインドを効率的に支配するために、鉄壁のカースト制度で大衆を支配するヒンドゥー教との対決を賢明にも避けた結果である。

   その結果インドには、西欧や中国のような絶対主義国家は生まれず、全国的に同質な文化(言語・宗教・習慣など)は実現しなかった。中東&中央アジアのイスラーム各国が95%を越えるモスレム率に達しているのとはまさに対照的である。

[8]インドには国語がない

   現在のインド共和国成立までは、有史以来現在のインド領全域を支配した国家はなかった。しかも国境は常時変化した。イギリスの植民地時代にも500を越える藩王国(藩王をマハラージャと言う)が半独立状態で存在していた。

   その結果、国土面積は中国の1/3しかないにも拘らず、未だに国語がない。州単位に公用語が決められているに過ぎない。人口は少ないが面積では『中国+インド』に匹敵するアラブ22ヶ国が、アラビア語で統一されてしまったのとは雲泥の差がある。

   インドの中等義務教育では3言語政策を採用している。自州の公用語がヒンディ語の場合はヒンディ語+隣州の言語+英語、ヒンディ語でない場合は自州の言語+ヒンディ語+英語を学ぶ。その結果、インド人は文盲でも数個の言語を操れるそうだが、ネイティブランゲージが身に付かず、真に操れる言語を失った悲劇も生まれている。

   尤も西ヨーロッパ大陸とほぼ同じ面積を持つ広大なインドだから、西欧と同じように多民族・多言語が並立しても何等の不思議もない。北部のヒンディ語(アーリア系)が南部のドラヴィダ語系を吸収するには、まだ何世紀か掛かりそうだ。
                    
[9]観光資源

   インドにはギリシア・ローマに負けないほどの膨大な観光資源がある。インダス文明に代表される古代遺跡は1000ヶ所もあるそうだ。古代仏教国家時代の仏教遺跡もさる事ながら、イスラーム国家時代に建てられたモスクや城郭遺跡の数も夥しい。建築資材にはレンガや石を、場合によってはアジャンタの石窟寺院のように岩山全体を使っているため、今日に至るまで往年の姿をキープしている。

   それらに比べると、国民的な宗教になっているヒンドゥー教関連の遺跡は何故か少ないらしいが本当だろうか?
   聖なる河ガンジスの中流にあるヒンドゥー教徒の聖地ベナーレスは、沐浴する人々さえも異民族にとっては観光対象である。しかし、『グランド・キャニオン』のように雄大な、自然界の観光資源はどうやら少なそうだ。北部のヒマラヤ山麓へのアクセスはインフラの開発待ちのようだ。

[10]インド人の主張は理解しやすい

   憲法で決められた民族固有の公用言語だけでも15語もあり、紙幣には15言語が印刷されている。インドのような多民族・多言語社会では、自己の見解は『典型的な多民族社会のアメリカ人』と同じように、論理的に明白に述べないと意思の疎通は出来ない。日本人のように『以心伝心』を期待するのは無理らしい。イエス・ノーが明白な自己主張に慣れた国民だから、インド人の主張は日本人にも判りやすい。

[11]意外に広い可耕地

   国土の50%は可耕地である。大国の中では異常に高い水準だ。タール砂漠や一部の山岳地帯以外はどこにでも人が住めそうだ。中国のように人口の圧力を余り意識していないらしい。教育水準の高い階層から子供の数は急減しており、テレビの一層の普及と共に、人口問題の着地点も意外と早めに見えてくるかも知れない。
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デリー到着

[1]空からのデリー

   往復とも全日空機だったが、安価なパック旅行に付き物の欠点はあった。バンコック経由便のため飛行距離が5割増にもなるのだ。しかし、バンコック空港では名古屋からデリー行き直行客の数倍もの客が降り、空席が埋まるほどのインド人が乗り込んだ。

   つまりは彼等のお陰でこの路線が維持されている事実には、感謝もしなければなるまい。久し振りにバンコックの新空港ビルの免税店街を散策していたら、気分転換と軽い運動にもなり、旅の疲れも解消した。

   デリー国際空港への到着予定時刻は17:55。外は幸いにもまだ明るい。乗客の安全点検を終えた客室乗務員が自席へ戻った着陸10分前頃、満席状態のエコノミークラスからガラ空きのビジネスクラスへ、安全ベルトを外して疾走。素知らぬ顔をして窓際に座り、空からのインド観光を満喫。

   地平線の彼方にまで限り無く続く平坦さだ。インド亜大陸と称される所以だ。眼下に見えるデリーの街は、住宅街や街路だけではなく、ビル街も一様な密度の樹木に覆われていた。しかも大きな公園があちこちに点在している。緑化率(我が定義=太陽光線を植物が遮断する面積÷地表面積)は50%を軽く越えている。70%くらいか?。                               
   
   熱帯樹は針葉樹とは異なり枝が前後左右に広がっているため、地面被覆効率が高く街路樹向き。空から見下ろすと邪魔物が視界を遮らず、地上からよりも美しい緑を堪能できた。日本の大都市はデリーに比べれば、緑化されていないも同然だ。ヒート・アイランドと揶揄されても、なるほどと頷ける。

   しかし、この緑滴る町を覆っている空気は同じ乾季なのに、トルコで感動したあの紺碧の空とは対照的にどんよりと霞んでいた。西部のタール砂漠からの砂嵐だ。黄砂の飛来は中国だけの特異現象ではない。インドは西アジア程ではないが降雨量は日本の半分しかない。とはいえ私はスコールに追い回される雨季を避け、灼熱の乾季を選んだ。インドらしさを一層体感できると考えたのだ。

[2]朝の散歩

   宿泊していたコンチネンタル・ホテルの周辺を、天彦さんと地図を片手に散歩した。天彦さんの方向感覚は何故か抜群。方向音痴の私にはガイド付携帯GPSのような有り難さだった。

   大陸性気候の効用か早朝の散歩は快適だ。30度前後に気温が下がる上に湿度は極端に低く、額にも汗が流れない。出発直前に豊田そごうで買ったハイテク下着(純綿。湿気を体表面に移動させやすく、洗濯後の乾燥時間を半減させたスポーツ用衣料品。極細糸を3次元的に織り、隙間率が大きい)の着心地にも大満足。

   簡易舗装されている道路も周辺の土地もカラカラに乾き埃まみれだが、高温多湿な東南アジアに特有な残飯等の饐(す)えた腐敗臭は感じられない。『インド発見の旅』との期待が無意識の中にも、今回は体に潜んでいたのか、散歩中にも拘らず気合いが何処からともなく溢れて来た。

@ホームレスの発見

   程なく歩道の一角に、全身が埃と垢で薄汚れ、ぼろ布を纏った人が毛布のような布を被って寝ていた。子供もいる。家族も大人の単身者もいるようだ。壊れかけたテントのような家から出入りする人や、気温が高く凍死の心配もないためか、そのレベルの家(?)すら持っていない人もいる。人生の全てを諦めているのか、無表情・無気力な姿が痛々しい。生存だけが目的の野良犬のような生活だ。

A野良牛の発見

   道端には極限状態にまで痩せた野良牛が寝ていた。骨皮筋衛門の動物版だ。機上からは公園に見えた緑地の大半は、実は荒れ地やごみ捨て場だった。牛は幸い草食動物なので、最低限の餌にはあり付けるようだ。ヒンドゥー教徒にとって牛は聖なる動物。農耕作業からも解放された老牛の持ち主は、処分もままならず生きたまま捨てるらしい。野良牛はいじめられることもなく、悩める人間よりも気ままに老後を生きているようだ。                         

   私にはこの膨大な数の牛の行方(死体)が大変気になった。ガイドは『禿鷹の餌に供す』と言ったが、半信半疑だ。肉はたとい食べずとも皮や骨を工業資源に転用するのは、ヒンドゥー教の戒律に違反するようには思えない。それに、インドは牛骨から作る粗製ゼラチン(カラーフィルムの表面に塗布)の世界的な大産地でもあるからだ。

B冷たい飲料水の発見

   道端に推定容積10〜20リットル位の茶色い素焼きの容器が20個も並べてあった。蓋がしてある。見張りの中年男子が壊れかけた椅子に座っていた。何が入っているのか無性に知りたくなり、無断で蓋を開けた瞬間に納得。水だった。ふと傍らを見ると手押しポンプが取り付けられた井戸もあった。素焼きの表面から蒸発する気化熱で冷水を作り、販売していたのだ。インドならではの職業だ。

Cゴミだらけの公園

   柵で囲まれ、出入り口には頑丈な車止めがある大きな公園(10万坪以上)があった。中には石畳の遊歩道が四通八通。早朝から大勢の老若男女が走り回っていた。散歩や競歩スタイルも多い。知性美を感じさせる哲学者のように深刻な表情をした人も多い。何故か笑っている人は少ない。みんな真剣な顔をしている。不思議だ。健康が心配なのだろうか?

   公園内には大きな樹木が多く、散歩の邪魔になるような大きな下草は生えていない。放し飼いされているのか、豚を発見。人が管理するのではなく、自給自足の動物まかせと感じる。              

   それにしても、何故公園内はごみ捨て場のように汚いのだろうか?。朽ちかけた紙屑、ガラス瓶、包装紙、金属缶などで足の踏み場もない。安全なのは遊歩道の上だけだ。しかし、リサイクルに回せる高級なゴミはいくら探しても発見できなかった。

[3]デリー⇒アグラ

   アグラはムガール帝国最初の首都(1526〜1585)。第3代皇帝アクバルの名前を付けて『アクバラバード』とも言われた。デリーからは 223Km。バスで半日も掛かる距離だ。国産バスは大型トラックの荷台に客室を架装しただけなのか、加振装置で揺すられるような乗り心地だ。市内も郊外も道路は砂利などで簡易舗装されている。

   降雨量も過載可能なトラックも少ないためか道路の傷みは小さく、最高速度60Kmは出せるようだ。しかし、この乗り心地の悪さには我慢一筋、緩和手段は一切ない。ガイドによれば、これでも高速道路と言うんだそうだ。言葉だけで外国を知ろうとすると誤解が生まれる典型例だ。

@自然力を生かした浄化システム

   デリー市内を通り抜ける間、見るものの全てが驚きの連続だった。あちこちの荒れた緑地にはしゃがみこんだ市民がうようよ。用足し中だ。放し飼いのニワトリにそっくりだ。片手に水を入れた小さな容器をぶら下げた人が、快適な場所を求めながら歩いている。

   新鮮な人糞を踏まないように注意しながら、目的地を探すのがコツだそうだ。全ての人は互いに20mは離れている。事後は左手で水洗。高価な紙は使わない。統計によれば、デリーでもトイレのない家が、4割もあるそうだ。     

   『左手が不浄』と見做される習慣の出発点だ。利き手とは無関係に全国民が左手を使用する約束で成り立つ世界だ。灼熱の世界では人糞は極めて短時間で自然に還る。大変合理的な生活の知恵だ。女性にはさすがに恥じらいもあるのか、快晴なのに傘で人目を遮断。

A究極のスラム

   道路側に建設工事中の壁に似た高い塀が、時々現れてきた。バスの高い座席からでも塀が邪魔になり、その内側は覗けない。やがて狭い出入り口が開いている場所がポッカリと現れた。千載一遇のチャンス到来!。その内側を懸命に覗く。

   広大なスラムの世界だ。外国人の目を壁でいくら遮断しても、スラムの住民が道路へ出入りするためには、最低限の隙間は残る。『登呂遺跡』の復元家屋の方が遥かに立派だ。しかも家と家とがここ程にはくっつきあっていない。いわんや世界初の公共下水道もあった『モヘンジョ・ダロ』の都市遺跡とは雲泥の差だ。見てはならない世界をつい見てしまった。

   これもインドの現実かと思うと、いたたまれなくなる。小さな汚らしくて暑苦しい家に幾ら慣れてはいても、朝ともなれば入りたくはないのだろう。大人も子供も座る場所もない通路に出て、所在なげに立ち話をしている。

   寒帯ではあり得ない熱帯特有の世界だ。『インドでは熱波や寒波の襲来で大勢の人が死ぬこともある』との暗い情報に時々接してはいたが、これでは納得せざるを得ない。しかし、アフリカの難民程ではない。少なくとも大人は、何かは着ている。

Bバブルとは無縁の世界

   デリー大都市圏を縦断しても、アジア各国に現れたバブルらしき痕跡は全く発見できなかった。安っぽくて、けばけばしい高層鉄筋コンクリートビルの建設工事現場にも出会えなかったのだ。バブルは日本やアセアン等の東南アジアで発生した経済事件だったのだ。世界(投資家)がインドに関心を向け始めたのは、バブル崩壊後、つい最近の事だ。

C天水農業

   デリーの郊外には大農業地帯が地平線の彼方にまで広がっている。麦刈り後の荒涼とした農地だ。灌漑設備は全くない。雨季がくれば稲を植え、裏作には麦。何千年も進歩しない農業らしい。雨量が少ないせいか排水を兼ねた川を殆ど見掛けない。灌漑するには巨大な溜め池を掘らねばならず、諦めているのだろうか?。旱魃の年は大凶作になるそうだ。

   雨量の少ない讃岐平野には、灌漑用では日本最大の満濃池を初め、1万5千個もの溜め池があるそうだが、旅行中インドでは類似の池は全く発見できなかった。平野部の溜め池は、谷川を堰き止めて造る山間部周辺の堤とは異なり、井戸のように掘り出さねばならず、空前の労力が必要だ。

D集落

   日本では殆ど見掛けない村の形態だ。日本では山際の道路に沿って家が建つ場合が多い。逆に近くに山がない砺波平野(富山県)のような場合には、一軒一軒が離れた散村となるか、大平野に四通八通している道路に沿って家が並ぶ街村が普通だ。その結果、大平野と雖も人家に掛かることなく、広大な空港用地(例えば成田)を確保するのは至難の技だ。

   一方、インドで見た農村の基本パターンは集落だった。1ヶ所に数十〜百戸が同心円状に固まっている。どうやらこれが村の基本単位のようだ。ベトナムやトルコの農村形態にそっくりだ。人家がある所にはマンゴーらしい木も植えてあるが、建築資材にはなりそうにもない。

   殆どの家は屋根も低く半分は木に隠れている。日干しレンガ( adobe=アドービ。蛇足…九大1年の時、原書で出食わした知らなかった英単語の第1号。受験英語ではトンと出会わなかった珍しさから、未だに忘れられない)や土石中心の建材では、2階建ては無理なようだ。

   こんな集落が1〜2Km間隔で前後左右に限り無く広がり、どこに村の行政中心があるのか見当も付かない。学校・寺院・役所らしき建物も殆ど見掛けない。イスラーム世界なら集落の中心にはモスクとミナレット(尖塔)が必ずあるが、こちらにはヒンドゥー教の寺院らしき建物も見掛けない。

   『インドには可耕地が50%以上もある』との統計データは直ちに納得できた。眼前に広がる農村の姿(人口密度は数百人と推定)が百万平方Kmに渡って存在するならば、それだけで数億人が生きている計算になる。ふと、各集落が1個の銀河に感じられた。独立した銀河の集積が宇宙であるような、大インドを夢想した。
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アグラ

[1]タージ・マハール(世界遺産)

   インド観光のハイライトはタージ・マハールの拝観だ。パルテノン神殿程の荘厳さは感じられないが、ヨーロッパに溢れる有名教会の彫刻過多美とは対照的な、これほどまでにシンプルな均整美を体感したのは初体験である。

   ムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハンが愛妻ムスターズの死を悼み、22年間(1630〜52)も掛けて完成した白大理石の霊廟(霊廟と墓の違いは何なのか、私には未だに判らないが、ピラミッドを霊廟とは言わないようだ)だが、外観はモスクにそっくりだ。4本のミナレットもある。違っているのは、内部に石棺が安置されている点だけだ。

   ピラミットほどではないが、2万人が働き続けた結晶だ。日本人標準労働者の賃金で換算すると、人件費(2万人×22年×7百万円)だけでも3兆円に達する。日本の建築コストは概ね人件費の2倍だから、総建築費は何と6兆円!。トヨタ自動車の自己資本金額約5兆円(平成11年3月31日現在の決算報告書)をも上回るほどだ。

   これに匹敵する現代のプロジェクトはマンハッタン計画やアポロ計画くらいのものだ。時代を経るに連れトップの権限は、今や剥ぎ取られる一方だ。日本の首相にはどれだけの実質的な権限が残されているのだろうか?。納税させられたインド人民の呻き声が聞こえてくるような気がしてきた。

   インド人は哲学には強くても工学には弱そうだ。インド人自身が設計施工した世界的な建築実績は意外に乏しい。タージ・マハールの設計はペルシア人だ。ムガール帝国の宮廷用語がペルシア語だっただけではない。ムガール帝国が最終的に完成させたインド・イスラム文化は、ペルシア人の知的貢献抜きには考えられない。
 
   西アジア特有の文化はメソポタミア文明を引き継いだ歴代ペルシア帝国(イスラーム以前は紀元前のアケメネス朝ペルシア・紀元後のササン朝ペルシア・イスラーム以後はサラセン帝国)抜きには語れない。

   バグダッドに栄えたサラセン帝国(イスラーム帝国の別称。ペルシア系アッバース朝時代に版図は最大)が集大成したイスラーム文化は、後のセルジュークトルコ帝国、ティムール帝国、オスマントルコ帝国、ムガール帝国に大きな影響を与えたからである。サラセンの語源はペルシアの村名に由来と何かの本で読んだ記憶がある。

   オスマントルコ時代の巨大モスクの装飾は建物の内部(内壁・柱・天井・床)中心であるが、タージ・マハールは内外共に美しく飾られている。外観をより美しく見せるためなのか、正面にはペルシア式庭園(人口池と噴水+樹木+花壇が左右対称の幾何学的な直線図形で構成されている。近世ヨーロッパの宮廷の庭園はその真似ではないか?)が広がっている。トルコのモスクや西欧の教会には不思議な事に緑地はあっても、まともな庭園が何故かない。

   タージ・マハールにも、ムガール様式の建物に特有な装飾品(キューポラ)が使われていた。キューポラとは、小形の半球ドームに6〜12本の柱(足)を付けて屋根のあちこちに載せる飾りだ。クラゲか想像上の火星人か鼎か逆さにした釜に似た外観をしており、頂上にはパゴダの飾りに似た棒状の飾り物が差し込んである。

   建築主シャー・ジャハン皇帝はタージ・マハールと同じ形をした、黒大理石の自分用の霊廟をタージ・マハールに向き合う位置に建設すべく計画したが、国家資金の枯渇を恐れた息子に捕らえられ、近くにあるアグラ城の一角に幽閉されてしまった。しかし、その石棺はタージ・マハールの中央に、愛妻の石棺と仲良く並べて安置してあった。男尊女卑の世界を象徴するが如く、居候の皇帝の石棺の方が一段と大きかった。

   紺碧の空を背景にして白亜に輝く大理石は、今なお建築当時の美しさを維持しているが、遠からずこのインドにも酸性雨が押し寄せてくるのではないかと心配である。透明な樹脂性塗料を吹き付けるなど景観保持に、一層工夫して欲しいと密かに願った。

[2]アグラ城(世界遺産)

   ムガール帝国の歴代皇帝は赤色の砂岩がよほど気に入っていたのか、それとも建築資材としての加工性に着眼したのか、アグラ各地の建物だけではなく、後のムガール帝国の首都ラホール(パキスタン北部)でも同材料の巨大建築物を見たことがある。

   日本語のガイドブックでは城(castle)として紹介しているが、威風堂々としたアグラ城の前に立つと、城塞か城砦(fortress)の方が心にぴったりと迫る。欧州各地の城も日本の城も私には、アグラ城を前にすると城主の宮殿(住居)か役所にしか感じられないのだ。

   アクバル皇帝が8年間(1565〜1573)も掛けて築城、その後の第4〜6代皇帝も改修と増築を重ねた。城壁の高さは21m、しかも2重。その間は深い堀になっている。赤砂岩は耐久性に余程優れているのか、乾燥気味の気候のお陰か、城壁は完成直後と感じられるほどに美しい。

   城内には宮殿・モスク・ハーレム等、一連の美しい壮大な建物群が何時でも使えそうな状態で保存されている。アクバル大帝(ムガール帝国最大の功績者なので、称号も皇帝から大帝に昇格)も息子もヒンドゥー藩主の王女と結婚し、ヒンドゥーとの融和を計っただけではない。ヒンドゥー様式の建物も建てた。何しろ、ムガール帝国は僅か1万人で、この大インドを支配したのだそうだ。(注。英国は更に少なく、たったの千人で支配した)

   城の一角からは河を挟んでタージ・マハールが眺望できる。河の水面までは優に30mはありそうな断崖絶壁だ。その最も素晴らしい位置にシャー・ジャハン皇帝が幽閉されていた建物があった。幽閉と言う言葉からは窓もないような密室を連想するが、これ以上に素晴らしい別荘は考えられないほどの美しさだ。

   川面からの微風を浴び、お酒を飲みながらタージ・マハールを眺めれば、天国もかくやと思われる。国家の存続に軸足を移しながら、父親の幽閉に踏み切らざるを得なかった息子の、せめてもの『親孝行』の悲痛な気持ちが無言の内に伝わってくる。

[3]ファテーブル・スィクリ(世界遺産)

   伝説なのか史実なのか確認すべくもないが、『スィクリに住む予言者の祝福により、世継ぎに恵まれた』際の感謝の気持ちから、アクバル大帝は城塞都市としてファテーブル・スイクリを5年間で建設し遷都した。アグラから数十Kmの位置だ。城内には、白大理石でつくられた予言者の霊廟もある。

   城塞都市の3要素は城壁・宮殿・モスクだ。こちらもまたアグラ城に劣らない壮大な建築物だ。周辺にある現代の建物群とは質量共に雲泥の差だ。不幸にして水不足に襲われ、僅か10年余でアクバル大帝はラホールへと遷都した。

   しかし、殆ど使われることもなく放棄されたためか、保存状態は建設直後のように素晴らしい。日本の民家は1年も使わずに放置すると、改修不可能なほどに老朽化すると言われるが、何と言うこの格差!。石文化の凄さに、またもや驚愕。

   ここでの見学時間は何故か少なく、同行者の殆どは既にバスに戻っていた。しかし、集合時間まではまだ5分ある。城内の一番奥まった場所にあって、素晴らしいと評判のモスクを見に天彦さんと出かけた。南北 143m東西 168mもの城壁状の壁に囲まれた境内には、磨かれた平らな石が一面に敷き詰められていた。

   入り口に聳える門の中で靴を脱がされた。靴を揃える時間も惜しみながら飛び出す。敷石は靴下を介しても熱い。天彦さんは『もう、いいや』と引き返された。
     
   その時である。境内のお土産物売り(商品は手持ちの分だけ。観光客にまとわり付きながら売り付ける商売)の青年が『あちらにある建物が素晴らしいのだ』と教えてくれた。しかし、『もう時間がない。集合場所のバス停は遠い』と言うと『大丈夫。案内するから』。

   百メートルを疾走した。突き当たりの壁の中央に巨大なドームからなる門があった。門の中央に立つとモスクの内部のように感じた。天井の装飾も一際美しい。門はメッカの方角、詰まり西向きだ。門の出口に立つと、そこは数十mもの絶壁の上だった。素晴らしい眺めだ。遥か彼方の水平線にまで大平原が広がる。

   どこかで見たことのある光景だ。そうだ!。西安の西の城壁から遥かにシルクロードを眺めた景色にそっくりだったのだ。汗が吹き出すが、通り過ぎる風が心地好い。僅か30秒で引き返す。走る、走る。靴守りが靴を揃えて待ち伏せていた。パッとチップを渡す。天彦さんの姿を見失った。しまった!。道が分からない。何時の間にか、天彦さんを当てに行動していたのだ。

   我が狼狽振りは直ちに目の前の青年に伝わった。バスの駐車場は1ヶ所しかなく、彼等には自明の場所だ。不断は誰も通らない城外の細い近道を走り始めた。疲れた青年は途中で出会った別の青年に我が誘導を委託。助かった!。何と天彦さんよりも先に集合場所に着いてしまった。
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ジャイプール

   ジャイプールはアグラの西 230Kmにある。詰まり、デリー・アグラ・ジャイプールの3都市の配置は、北のデリーを頂点にした正三角形。それらを右回りに一周していたのだ。午前中は移動だけで潰れた。道の両側に広がる大平原を眺めても、乾季の農閑期は情けないほど美観に乏しい。荒れ果てた荒野に近い。
                            
   ここの道路は中国と似た作り方だ。国有地ではなくとも土地は安く、しかも山や川などの自然の障害物は少なく、工場や市街地のような買収対象も殆どない。平原に直線を引けば道路計画は完成。盛り土を掘り取った跡なのか、道路に沿って幅数メートル深さ1〜2mの干からびた溝と、法面(のりめん)に植えた並木が続く。土砂の運搬距離は最短。安上がりな工法だ。人工の溝は雨季には排水路としても使え一石二鳥。

   やがて人里離れた場所で、道路際から数十メートルも離れた位置に、筵で覆った2〜3坪大の堀っ建て小屋群(数十戸)が現れた。小屋群の境界には適当に木が植えてあり緑陰を提供。玄関は道路に面し、筵状のカーテンは開けてあり、道行く車に手を振る女性達がいた。屋内には壊れかけた簡素なベッドが1つ。

   人類最古と言われている職業に専念している婦人達の牙城だったのだ!。周りには民家も殆どないので『お客様は何処から来るの?』とガイドに質問。『トラック等のドライバーですよ』。このインドにも徐々に自動車時代が始まり、逞しき職業婦人達は需要のある場所へと移動してきたのだ。

   ものの本によれば、相場は日本の1%。さもありなん。鶏姦(読者よ!。漢字から連想される意味と、真の意味とは全く異なる。国語辞典を参照されたい)の方が病気の心配も少ないのでは、とさえ思えた程の不潔さだ。

   ジャイプールは低い山脈に囲まれた盆地にある。降雨量が少ないのか、樹木は燃料として皆伐したのか、岩石剥き出しの埃っぽい街だ。中心部に辿り着くまでの道の両側には、卑しくも人間の住居と認めるには余りにも心痛む小さな家が並ぶ。
   
   いわゆるスラムとは異なり平均的且つ恒久的な市民の家だ。デリーやアグラで見掛けた民家よりも一段と格落ち。自給自足状態の農村の家はここに比べれば豪邸だ。一方、外国人相手のホテルは、建物だけではあるが国際級だ。『天国と地獄が同居している』と言っても過言ではない。

   当日の宿泊場所は赤褐色レンガ張りの低層大型ホテルで、インド建築学会賞も取ったシェラトンだった。庭園も美しい。ここだけは緑も花も深い別世界だ。しかし、部屋の冷蔵庫には5百ccの飲み水1本。しかも、詰め替え容器入りだった。『用心するに越したことはない』と判断し、一切飲まなかった。バスタオルは再生繊維ではないか?と疑える程のゴワゴワ。             

   インドの高級綿は海島綿・エジプト綿・モロッコ綿と並び称される長繊維で、日本の百貨店では別格扱い。安い人件費を活かして手摘み収穫するため、品質も均一。 150〜180番手の極細糸で織ったオーダーシャツは絹のような光沢があり、1着2万円はするのに、本場で出会った綿品質の何と言う落差。
                               
   年寄りが貧乏臭い格好をするのは惨めなので、外出用にと今春なけなしの退職金をはたき、豊田そごうで春物ジャケット(絹100%)を誂えた序でに、エジプト綿のスポーツシャツ(既製品)とインド綿及びモロッコ綿のオーダーシャツを各1枚買ったばかり。しなやかな肌触りの記憶もまだ新しい。

   ホテル内のバーで、やっと一息。ビールには落花生などの簡単なお摘みが付くものの、大瓶1本 700cc(ビールの容量は国によって多少異なる。日本は 633cc)が7百円。味にも不満だが贅沢は言えない。持参の『山崎』は既に殆ど飲み尽くしていた。朝酒用にと、部屋へ持ち込むビールも買う。付録の摘みもくれた。

   ヒンドゥー教徒は酒を余り飲まないのか、それとも買えないためか、とうとう街では酒屋を発見できなかった。ガラス瓶の肉厚も色も不揃いなため、表面に映る見慣れた顔も歪んで不気味。小さな栓抜きを借りた。

[1]シティ・パレス

   市中心部面積の1/7をも占める大宮殿だが、タージ・マハールを見た印象が強過ぎ、こちらは残念ながら貧弱に感じた。何処から何処までがパレスの敷地なのか、判然とはしない。見所は建物よりも貴賓謁見の間に鎮座している、ギネスにも登録されている(我が蔵書1989年版で確認済み)世界最大の銀の壺だ。

   マハラジャ(藩王)サワイ・マドー・シング2世が1902年に、エドワード7世の戴冠式で渡英の際、容量9000g重量 345Kgの壺2個にガンジス河の水を入れて運んだそうだ。ヒンドゥー教徒にとりガンジスの水は命。遠洋航海中にも聖水は腐敗しなかったそうだが、銀イオンには銅のような雑菌の増殖抑制もしくは殺菌作用があるのだろうか?。無理やり暗記させられていた無機化学の知識は、我が頭からすっかり消滅していた。

   この町の異名はローズ・ピンク・シティだ。都心の建物はどれも明るいバラ色に塗られている。1886年に英国皇太子が来訪した時に、マハラジャ(ラム・シング2世)が赤砂岩の色に統一したかったのか、全ての建物の壁面の色をピンク一色に塗り替えさせたのだ。

   百年以上も前にたまたま選んだ色に過ぎないのに、今に至るまで都心部の全ての建物に塗り続けている根気には驚く。今や市民の自主的な協力も得て、観光のセールス・ポイントにもなっている。『継続は力なり』を痛感。

[2]風の宮殿

   道路に面して、巨大なクジャクが羽を広げたような宮殿が聳え建っている。この建材も赤砂岩だ。5階建て、優に20mは越えそうな高さだ。窓は約百個。一つ一つの窓が半円筒状に道側にせり出して、小さなテラスを形成。一見すると装飾過多なホテルの外壁のようだが、全ての窓には網のように小さな無数の穴が開けてあり、風通しは抜群。しかも、建物は衝立と見間違える程に薄い。奥行きは僅かに数メートルだ。風が吹けば倒れるのでは?と心配したくなる程だ。

   盆地の街の真夏は、暑いインドでも格別の暑さらしい。究極の夏向き住宅だ。俗世界から遮断された宮殿内の女性達は、このテラスからスクリーン越しに庶民の雑踏をひねもす眺めたらしい。今や『風の宮殿』とも言われ、市内で最も有名な建物に昇格している。

[3]アンベール城

   市街地を見下ろす丘の上には巨大なアンベール城が聳えている。城というよりも難攻不落に見える要塞と言う言葉が相応しい。城は全周を高さ20〜30mの分厚い垂直の城壁でガードされている。万里の長城で取り囲まれているかのようだ。

   城の麓から城内までの約1Kmを観光名物『象のタクシー』に乗って登城。象の背中に取り付けられた籠の中に4名乗り、象使いは首に乗せた鞍に跨がる。象の体にはペンキで絵が描かれているが、汗腺は大丈夫なのだろうか?。それとも、象には犬と同じく汗腺がないのだろうか?。全身に墨を塗って仮装行列に参加した青年が、発汗できずに倒れた、との数十年前の珍事件をふと思い出したのだ。

   象使いはL字型をした大きな釘抜き状の頑丈な鉄の棒を持っている。やや丸められている先端を象の体に打ち下ろしているが、出血するほどには至らない。皮は厚そうだが、随分と手荒い。象は干からびた砂糖黍を時折あてがわれているだけだが、従順だ。

   石畳の坂道をノッシ、ノッシと、まちまちの速さで大儀そうに城まで登る。前の象を追い越したり、追い抜かれたりの成り行き任せ。道中、無数のカメラマンが写真を捕り捲る。某かのお金を落とすのは観光客の義務と覚悟はしつつも、無理やり何枚もの要らない写真を買わされるのかと思うと、気が自然に滅入ってくる。

[4]珍事に遭遇

   観光地間の移動時間は長いので、トイレ休憩と称して観光土産店へ2時間置き位に立ち寄った。今やこの種の大型駐車場付き御土産屋の存在は世界的な現象だ。このインドにすら立派な店があった。どこも例外なく外国人向け価格だ。

   民芸品等の御土産品を買う気は全く無かったのだが、何を売っているのかへの関心は、老いたりとは言えまだ衰えない。インドにはおおらかなポルノ彫刻で有名な寺院があり、その写真集が売られていた。パラパラとめくっていたら30歳位の浅黒い肌のアーリア系に感じた店員が『こちらへ、どうぞ』と目配せ。

   建物の奥まった一角は民族衣装売り場だった。浴衣のように長いドレスが車輪の付いたハンガー掛にびっしりと吊り下げられている。観光客も店員もいなかった。彼はハンガー掛を手慣れた様子で適当に動かしながら、視界を遮るカーテンのように配置換えした。

   突然、自分のズボンを下ろし、唇に指を当て、勃起した陰径を見せた。長さは日本人の5割増。20〜23cmと目測。直径もやや太い。ヒンドゥー教徒には割礼の習慣がないのか、亀頭の形は日本人と同じ。直線上に伸びているのではなく、上向きに弓なりになっている。弧の深さは1cmもあり、異様に曲がっている。インド人としては生活水準が高いのか、恥垢の類いは一切なく極めて清潔。

   根元の方は顔と同じ色だが、先端に近付くに連れて浅黒さは薄くなり、ほんのりと赤みがかってくる。亀頭には染みの類いが何処にも無く、しかも若いためか皺一つ無く、艶やかな光沢に輝く。これだけの観察に1秒は不要。

   その時である。彼はす〜と私に近付き、手品師のように素早く我がズボンを下ろしてしまった。数日来の禁欲も手伝ったのか、我が貧弱な『リンガ』も意に反し、大きさを競い始めたのだ。彼は右手で我がリンガを軽く握り締め、軸方向に摺動開始。

   同時に左手の指を我が肛門に当て、活約筋の皺に逆らって前後に滑らせ始めた。排便後に紙を使わず、肛門を水で洗う習慣のインド人には、他人の肛門に手で触れることには違和感がないらしい。

   自分で活約筋の皺を擦っても何にも感じないのに、他人に触られると得も言えぬ快感が脊髄を通して脳味噌にまで走る。脇の下や足の裏を自分で触れても何ともないのに、他人に触られるとくすぐったくなる現象と感覚は別種だが、その関係は似ている。

   そのまま、身を為すにまかせていたら、失態を起こし兼ねない。オルガスムス直前に手を払いのけたら、彼はしゃがみ込んで口を使おうとした。たといどんなに清潔そうに見えても病気の有無までは分からない。驚いて身を引き、急いで皆のいる売り場へ、何食わぬ顔をして舞い戻った。この間、僅かに3〜4分。
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デリー

[1]クトゥブ・ミナール(世界遺産)

   1192年にクトゥブッディーン・アイバクがデリー最後のヒンドゥー王を打ち破った勝利を記念して建て始め、1368年に完成した。インドに限らず石文化の中東や欧州には何百年も掛けて完成した建造物は数え切れないほどあるが、我が日本にはこれに類するほどの長期に渡る国家的な大事業は何一つない。
                     
   古くは奈良・京都の大寺院、新しくは日光の東照宮の建設期間は1桁ないしは2桁も短い。国民性とか建築資材の違いなどでは説明し切れない、根本理由があるのでは?と思うが、今日に至るまで納得できた見解には、何故か出会えない。

   世界各国には戦勝記念物が至るところにあるが、元冦の役や日清・日露戦争は勿論、戦国時代を初め戦争の勝利碑は、日本では何処にも残っていない。何故なのだろうか?。

   このミナールは石造りの塔としてはインドでは最も高く、72.5m。基部の直径は 14.32m、頂部でも2.75mもある。この塔の胴体は沖縄の特産物、苦瓜(にがうり)にソックリだ。縦に深い溝が彫られており、隣接する溝と溝との間にある外側に凸の半円形状の表面は、イスラーム式幾何学模様の彫刻で飾られている。詰まり、その断面形状は歯車に似ている。

   コーラン(本当の発音はコラーン。発音しにくい言葉は、イスラームがイスラム、カラーチがカラチ、ロレックスがローレックスと言うように、勝手に変えてしまう傾向が日本人にはある)のアラビア文字も彫り込まれている。途中に4段のテラスがあり、下から見上げるテラスの下面も彫刻で満艦飾だ。

   クトゥブ・ミナールの北には、未完の『アラーイの塔』があった。アラーウッディーン・ハルジ(在位1296〜1316)がクトゥブ・ミナールの2倍の高さの塔を計画したが、ハルジの死によって、24.5mの高さで挫折。巨大な蟻塚のような姿だった。

   クトゥブ・ミナールのすぐ横には、パイプ状のアイアン・ピラーが建っている。4世紀の遺構だそうだ。高さは 7.2m。この鉄の塔の錆は進行が止まっている。アルミニュームがアルマイトになると錆が進行し難くなるが、この鉄はどんな酸化状態になっているのだろうか?。

   錆の進行が同じように止まっている古い鉄パイプの塔をイスタンブールでも見たが、正しく同じ色、同じ輝きだった。硬質の鉄錆が内部を保護しているように感じた。

[2]インド門

   ニューデリーの中心に聳える高さ42mの戦勝記念碑(1931年建立)である。第一次世界大戦(1914〜1918)に出兵させられ、ヨーロッパ・東アフリカ・中東などで戦死した9万人以上の兵士の名前が刻まれている。

   パリの凱旋門(50m)よりもやや低いが、形が似ているだけではなく、この門を中心にして幹線道路が放射状に延びている都市計画も瓜二つだ。イギリスからの独立を悲願に、英国に協力させられたインド人の悲しみが伝わってくる。

   ボンベイにも有名なインド門がある。英国国王ジョージ5世のインド訪問を記念して1911年に建てられた。英国から見れば、インド征服の象徴であり、インドへの上陸時に潜る凱旋門でもある。従ってその建立場所は、1911年まで首都だったベンガル湾側のカルカッタではなく、英国を向いたアラビア海側のボンベイになったのだろう。

[3]ジャンタル・マンタル天文台

   ムハマッド・シャー皇帝の命令で1710年に造られた天文台。星座の観測装置など、石の造型組み合わせとその影を利用し、レンズを使わずに天体観測できるようにしたユニークな大型設備が並ぶ。

   北回帰線の南にある日時計は、その北にある日時計とに大きな構造上の違いがあることに、今まで全く気付いていなかった。太陽が南から照らすとは限らないからだ。時計の目盛り盤はタワーの表裏に必要だ。ここの日時計は高さが5mくらいあり、目盛りは何と12秒単位、並の機械式時計よりも高精度だ。

[4]ニュー・デリー

   何処までがデリーで何処からがニュー・デリーか、境界は判らなかったが、同じ国とは思えないほどの違いがあった。デリーはインドの混沌そのものを今に伝える無計画な雑踏都市。一方、ニュー・デリーは整然として且つ雄大、まるでワシントンのような計画都市。こんな立派な都市はアジアやヨーロッパでは見たことがない。

   幅員の広い何処までも続く直線道路。その道路を挟むように作られた広大な公園緑地。これに比べれば、パリやロンドンは狭っ苦しくて窒息しそうな感じだ。官庁街の巨大な建物もワシントンのようにゆったりと配置されている。大国の風格が自然に滲み出てくる。北京の天安門広場も雄大だが、建物が込み合い過ぎて息苦しい。

   インド史を専攻したと自己紹介したガイドに『インドにとって、イギリスは悪魔のような存在だったか?』と聞くと、『ムガール帝国はインドを支配しただけ、イギリスはいい事をした』と意外な返事。アーリア系ヒンドゥー教徒のガイドにはイスラームへの憎しみの前には、英国による苛斂誅求も消し飛ぶのだろうか?。

   とはいえ、英国が残した『英語』と、絶対的な権力がなければ完成しなかったであろうニュー・デリー等の『都市遺産』には、観光資源としてのみ役立っているイスラーム諸国家が残した『城郭とモスク』とは違った意味の光彩がある。

[5]各州物産店

   観光客向けなのか、インドには各州の高品質な物産を集めた定価販売店がある。一般のインド人が買い物に出かける商店街の品物は、バスの窓からも判るくらいの購買力に見合った品質の商品だ。この物産店は日本で言えばスーパー・ブランド店みたいな感じだ。

   インド観光の記念になる品物はないかとキョロキョロ。アジア各国同様ここにも宝石が溢れていたが、宝石の鑑識眼は全くないので関心が湧かない。部屋ごとに商品構成が異なっていた。一番奥の部屋に石の加工品が並んでいた。そこにはインドの象徴、象の彫り物もあった。

   大理石の固まりから象が彫り出されていた。象の体の中に小さな象が彫られ、その象の体の中に第3の象が彫られている。外側の象2頭の体表面には彫刻刀を差し込むために無数の穴が開いている。最外側の象を囲むようにその左右にはそれぞれ3頭の子象が彫られている。結局大小9頭の象からなる一体構造の置物だ。彫刻師の血の滲むような努力の結晶だ。加工には1ヶ月もかかるそうだ。
              
   インドで特産物を買う最大の意義は、インド人の労働力に対応した外貨を落とす事にある。それが判っていながら、『定価販売と言ってはいるが、値切るのはお客様の自由だ』とガイドから聞いた途端、 180$を 120$にまで、とうとう値切ってしまった。

   この年に至っても尚残念ながら、『寄付・喜捨』の精神は身に付いてはいないのだ…。この120$を、大理石・彫刻師・流通経費・税金に分けると、彫刻師の手取りは一体幾らになるのだろうか?。
   
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おわりに

[1] インド(人)になお、いろいろ学びたい
                
   日本人が中国経由でインドから学んだものは仏教だけではない。多くの日本人に親しまれている七福神(毘沙門天・弁財天・大黒天など)の天はヒンドゥー教の神々を意味している。一つ目小僧などのお化けや日本五大昔話(桃太郎・花咲か爺・舌切り雀・かちかち山・猿蟹合戦)の中の『桃太郎』、ゼロの概念・五十音・歯磨の習慣・ヨーガなど、インド人の発想に起源を持つ話題は枚挙に暇がない程だ。

   1949年9月に上野動物園に贈られた象が、生き伸びるだけの生活に追われていた敗戦後の子供達(正しく私の世代)をどんなに喜ばせたことか!。極東裁判ではインドのパーセル判事が、日本無罪論の論陣を張ったのもまだ記憶に新しい。

   しかし私は、日本人(私も)がインド人から学び取るべき最大の徳目は『国際人として一目置かれるように振る舞える態度と能力』ではないかと、一瞬に過ぎない旅にも拘わらず、今回痛切に感じた。『人の話の真意を感情的にならずに静かに聞き取る態度と、自己の見解を謙虚に述べる能力』は大したものだ。

   彼等は有史以来、周辺の大国と民族の存続を賭けて闘った歴史の中から、『どこの国に於いても通用する普遍的な価値観(国際性)』を身に付けたのではないか?。

   『自分達の価値観こそが世界標準だ』とがなりたてながら、各国にそれを押しつけたがる欧米人、『人の話を聞きもせずに尊大な態度で、勝手な自己主張ばかりを、壊れたレコードのように繰り返す』中国人、『インドには人間の顔をした動物が住んでいる』と、自己の愚かさには気付きもせずに、平気で喋る自称インド通とは、正(まさ)しく対照的だ。

   ガウタマ・シッダールタ(釈迦)もマハトマ・ガンジーもマザー・テレサも、インドの歴史と風土が正しく育てた偉人だと思わずにはおれない。

[2]もう一度、インドを旅したい

   今回のインド旅行では、外国人向けの美しい世界遺産を垣間見ただけに終わった。インド人の7割以上もが住んでいる農村に入り込む機会もなく、国民の半分を占めるシュードラやアウトカーストが住んでいる地域には、一歩も足を踏み入れていない。

   また、デリーのバザールにも出かけてはいない。一般のインド人が買う商品とはどんなものなのかも詳しくは判らずのまま。インド人が出入りするレストランにも入らず、巨大なスラムにも出かけてはいない。

   『インド最大の都市カルカッタ(1200万人)に行かずして、インドが抱える諸問題は判らない』とも言われているが、そこにも勿論出かけてはいない。仏教やヒンドゥーの遺跡も、聖なるガンジス河に面したヒンドゥーの聖地ベナーレスも、西海岸のボンベイやポルトガルの植民地だったゴアも、ドラヴィダ人が住む東海岸の中核都市マドラスもまだだ。

   この巨大で複雑なインドを知るには激安短期観光パック旅行だけでは無理だ。多少の出費は覚悟の上で訪問地を慎重に選び、観光タクシーを雇って自由に駆け巡る旅を何時の日にか計画したい。今回は単なるインド入門旅行に過ぎなかったのだ。
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