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旅行記
           
ヨーロッパ
南・西欧(平成7年6月15日脱稿)

     トルコへ出張した時、ギリシア・イギリス・ポルトガル・フランス・西ドイツ(当時)に幸いにも立ち寄るチャンスに恵まれた。

      一瞬の時間ではあったが、深い感動を楽しむ事が出来た。
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ギリシア

[1]飛行ルート

   第2回目のトルコの現地調査には、旧トヨタ自動車販売に入社されて以来、海外生産事業の体験豊富な故井氏(不幸にして、若くして大腸癌で逝去された)と一緒に出かけた。第1回目の北回り(名古屋・成田・アンカレッジ・ロンドン・イスタンブール)とは異なり、飛行ルートは南回り(名古屋・成田・シンガポール・アテネ・イスタンブール)になった。
                         
   飛行ルートは私が意図的に選択しているのではなく、旅行社が当方の日程に合わせて空席状況を調べ、最適ルートを探してくれた結果として決まってくる。急な出張の場合にはコースや航空会社の選択肢は殆どない。

   南回りの場合、飛行機は太陽を追いかけて西へ西へと飛行するため陽がなかなか暮れない。赤道の真上を飛行する場合では、概算すると時計の進み方が半分になってしまう。

[2]シンガポール

   給油のために立ち寄ったシンガポール空港には正しく真夜中に着いた。日本では既に丑三つ時であるが、出張の刺激で興奮していたのでちっとも眠くはなかった。給油時間を活かして空港の中のショッピング街を散策した。深夜にも拘らず3割くらいの店は開いていた。アジア人は何処でも商売熱心だ。 

   モンスーン地帯の代表的な動物である水牛の、2本でセットになった角飾りを、シンガポールに立ち寄った記念になればと買い求めた。水牛の角は孟宗竹のタケノコに似た形をしていた。

   水平に切断された底面にはチークの分厚い円柱が貼り付けられていて、ズッシリと重い。彩色された角の表面には複雑で華麗な竜の浮き彫りがあった。高価な象牙が買えないクラスには格好の置物である。暫くの間、床の間の飾りとして愛用していた。

[3]アテネの第1歩

   アテネに着いたのは現地時間の朝である。2月なのに日本の4月の暖かさだ。ギリシアは紀元前に西アジアの覇者として君臨していた大帝国アケメネス朝ペルシャを撃破(マラトンの戦い= BC490、サラミスの海戦= BC480)して、地中海の新しい支配者となった、今を時めく西洋文明の紛うことなき発祥の地である。
       
   しかし、アテネの空港に着陸した時、空港設備の余りの貧しさには声も出せないほどの衝撃を受けた。西洋文明の本家が没落しても、さして手を差し延べないヨーロッパ人の冷たさを感じた。それにつけても、キリストを処刑した頑固なユダヤ教徒の国であるイスラエルを支援する欧米人の熱狂振りとは好対照だ。
    
   ヨーロッパからユダヤ人を追い出したいのか?はたまた第2次世界大戦中にユダヤ人を虐殺した加害者としての原罪意識の成せる業か?それともユダヤ人の世界的な政治経済力の現れか?。
                        
   朝からの半日間は、私達にとってはダイヤモンドのように貴重な自由時間だ。早速タクシーを探した。数が少なかったが個人タクシーらしきものを発見。運転手は雲付く大男。モジャモジャの見事な髭を蓄えており『ヘラクレス』を早速連想した。3時間の口約束をして出発。

   アテネに残る王宮の正面玄関前の歩道には衛兵が2人いた。2人は背中をくっつけあって立ち、ロボットの様な歩き方で左右に離れて行く。50m位離れた位置で回れ右をした後、今度は中央部に向かって歩き始める。人数は僅かに2人ではあってもバッキンガム宮殿の衛兵の動作と同じだ。         
          
   職務に忠実にせっかく頑張っているのに見てくれる観光客は殆どいない。この衛兵は若い見栄えのする大男だった。初々しい。街頭で見掛けた並の男より格段に立派な風貌をしている。ギリシアの玄関口の飾りに相応しい。

   バッキンガム宮殿の衛兵と同じように、厳しい肉体上の採用条件があるに違いないと思った。写真を撮らせてくれと頼んで一緒に撮影。その時は歩行を中断してくれた。何故か嬉しそうだった。

[4]パルテノン神殿

   世界一有名な建物はパルテノン神殿ではないか?。アテネに来たからには何はともあれ、この大神殿に馳せ参じてお参りせんものと、パルテノンの丘を目指して直行。車で登れるものとばかり思っていたらがっくり。

   折角探したタクシーだったので手放せず、待たせた。逃げられない様にするために料金は後払いと念押しをした。本当は運転手の方が私達に乗り逃げされるのではないか?と心配していたのかも知れないが。

   大きな岩のかけらがゴロゴロ転がっている荒れ果てた無舗装の山道みたいな坂道を歩く。雨量が少ないのか、山の土が流れ落ちてしまったようには見受けられない。2,000年以上も荒れるがままに放置されていたのだろうか?。

   坂道の周辺には人工的に管理されている雰囲気は全くない。資金不足なのであろうか?。朝早過ぎたのか、世界の名所にしては観光客も疎らなのが不思議だ。丘の狭い頂上には写真では何度も見た事のある、あの大神殿が荘厳さを失う事なく聳え建っていた。
   
   外周の列柱は殆どが残っている。150L× 60W×30Hはありそうな巨大な建物だ。屋根や天井は殆ど残っていない。高い櫓を組んで何かを修復中だった。日本なら必ず掲示してある完成予想図は何処にも見付からない。

   柱は1個の岩から切り出したものとばかり勝手に予想していたら、大根のおでんのような円盤を積み重ねたものだった。写真では見慣れていた、柱に付いている水平な縞はデザイン・ラインではなくて円盤の繋ぎ目だったのだ。
                       
   その瞬間に倒壊後放置されたままの、トルコで見掛けた神殿の廃墟を思い出した。円盤の中央部分には円柱状の突起物が嵌め込まれていた。別の円盤にはそれと嵌合する窪みがあった。柱は円盤を鏡餅のように単に積み上げた物ではなく、横にずれないように組み立てられていたのだ。柱には縦方向に浅い樋状の窪み(デザイン・ライン)が下から上まで位相がずれることなく通っていたので、恐らく円盤の回り止めもある筈だと推定した。

   屋根と梁とで構成される、建物の側面の3角面にはギリシア彫刻があった筈なのに、無残にも剥ぎ取られたままである。大英博物館にそれが誇らしげに展示してあったのを思い出す。人力だけでこれだけの事業を完成させたギリシア人の実力には改めて驚きを禁じ得ない。宗教心の強さなのだろうか?。

   丘の上からはアテネの市街が遥か遠くまで見通せた。アテネは工場が少ない上に空気が澄んでいるのか、燦々と降り注ぐ地中海の陽光の下に白い屋根が輝いていた。アテネの市街の建物は高さが殆ど同じだ。道路はパリの様に放射状に広がっている。

   緑が殆どない。コンクリート・ブロックを敷き詰めたような建物ばかりの殺伐とした町だ。緑溢れるヨーロッパ本流の印象は全く影を潜め、アラブの国々の都市景観に近い。アクロポリスの北の斜面は切り立った断崖絶壁になっており、ここだけは手が届かないのか、木が残っていた。

   観光客の半分は一見したところ日本人で、季節柄、大部分が卒業旅行中の大学生だ。海外旅行にも学生割引があると言う。結構な身分だと思うと多少癪だったので、写真を沢山撮って貰った。下山したら、待ち構えていた運転手は直ぐに私達を発見してくれた。

[5]アクロポリス博物館

   山裾の目立たない位置にアクロポリス博物館があった。ギリシア彫刻の宝庫だ。材料は殆ど大理石のようだ。彫刻の殆どは若い男の全身の裸身像か大政治家の胸像だ。写実主義に徹している。筋肉の1本1本が浮き出ている。全裸で競技していたという古代オリンピックの有名選手をモデルに使ったのであろうか?。家庭の医学書等に描かれている人体の全身解剖図も顔負けの生々しさだ。     
   
   日本人でもボデービルで鍛えた人の体形はギリシア彫刻に大変似ているが、顔・手足の指などの末端部にも溢れている彫刻像の筋肉の逞しさには完敗だ。ボデービルでは鍛えられない部位があるのに気付いてしまった。

   石で出来ている上に彩色されていないためだろうか、裸身ではあってもポルノのイメージは全く受けない。『生殖器』は省略する訳にもいかないと考えたのか、筋骨隆々の好男子なのに気の毒にも、役にも立たないように小さく萎縮した、ここだけは写実観にも乏しい物体が不自然に取り付けてあった。

   古代ギリシャでは割礼の習慣はなかったのか、全て包茎だ。こういう部分のリアリティに満ちた迫力だけはポルノ芸術の独壇場だ。

   ここの彫刻を眺めれば、ルーブル博物館に山のように展示してあるルネッサンス期の彫刻人物像は、ギリシャ彫刻の模倣である事が瞬時に連想される。文芸復興の語源の意味が初めて納得できた。

   この種の芸術は自然科学と違い、後世の作品がより優れていると言う保証がないどころか、オリジナリティに満ちている上に製作時間をタップリと使った分だけ、古いものほど立派であるようにすら感じる。 
          
   もちろん、ルーブルの展示品にも新分野はある。ギリシア彫刻のテーマの1つはギリシア神話であったが、ルネッサンス彫刻のテーマには旧・新約聖書の話題が加わった。

   ミケランジェロの代表作『ダビデ像』(フィレンツェのアカデミア美術館所蔵、青年ダビデの全身裸像)に匹敵する程の立派な彫刻品もあったが、筋肉が強調され過ぎていて『ミロのヴィーナス』のように肉欲を刺激するような人間っぽさに欠けていたのか、人気では負けていた。

[6]その他

   アテネにも石造りの復元された野外円形劇場があったが、トルコのあちこちにある劇場に比べ収容人員では1桁も小さいため見る気も起きず、通りすがりに停車する事もなくチラッと窓から眺めただけであった。

   短時間にアテネの要所を案内してくれた運転手に感謝の気持ちを込めて、昼食を御馳走した。彼が案内してくれたのは魚料理店だった。地中海沿岸の国々の人は魚も好きだと言う。60cm以上もある魚『スズキ?』を厚さ2cmくらいの食塩で包み込んで、オーブンで焼いた料理だった。日本では未体験の調理法だった。英会話力はないも同然だったが、話は結構弾んだ。

   ギリシア語の新聞を見た時、一瞬アッと驚いた。『ΔΣΩΨΘ』の様に数学や物理学の分野で見慣れたギリシア文字で埋め尽くされている。公式集を覗いているような気になってくる。

   アテネの空港の搭乗ゲートが開いた時、ギリシア人が1ヶ所の入り口目指して殺到した。それまでの行列は文字通りアッと言う間に崩れ、扇型に人垣が出来た。未開発国特有の現象だ。ゲルマン民族やロシア人がじっと我慢して行列をキープしているのとは大違いだ。西欧文明の『家元(宗家)』たるプライドは行動面には影も形も留めておらず、驚くと共に寂しさが込上げてきた。

   ギリシア人は何故か黒色が大好きだ。皮のジャンバーもウールのコートも色は黒一色。カラフルな衣類を愛用するアメリカ人とは対照的だ。

   観光案内書によれば、ギリシアの毛皮は有名だそうだ。空港ビル内には立派な毛皮屋があった。ギリシアの記念にもと考えて、これぞ毛皮の豪華さの最たる物に感じたブルーフォックスのロングコートを約30万円で買った。帰国後妻が試着した姿を見た次女が『毛皮が歩いているみたいだ』とつい口にした事もあって、『着る機会もない無駄な買い物』と悪評の限り。結局、控え目なコートに改造してほんの時たま着るだけの無用の長物になってしまった。
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イギリス

その1。

[1]ヒュースロー空港

   トルコ・プロジェクトの現地打合わせを、イスタンブールのヒルトンの会議室で実施した時に、横井取締役に『私は Dogusと組む事に反対です。理由はこれこれ』と報告して、井氏と一緒に一足先にロンドン行きの飛行機に乗った。

   当時のトルコ・プロジェクトのパートナであるダグミー氏とホレッシュ氏とが私たちを追いかけて来て、同じ飛行機に乗るや否や傍らにやって来た。隣の人に自分達のファースト・クラスの席を無条件で譲ってしまう気前の良さ。

   『自分達が Dogusをトヨタに紹介したのだが、横井さんの了解の下、 Dogusとは縁を切る事にした。新しいパートナ候補は2週間以内に後日トヨタに紹介するから待って欲しい』などと言い始めるや、3時間に渡って Dogusの悪口や自分達がいかにトヨタにとってベスト・パートナであるかを喋りまくった。そして『今晩遊びに来ないか?』と誘って来た。
                       
   井氏と相談の結果ノコノコと付いて行く事にした。井氏は『外人があれ程、本心を露にする事は珍しい。石松さんは信用されているのですよ!』と言う。私は『自分達も縁を切られるのではないか?』との彼等の危機感を言外に感じ取った。

   ダグミーは本人の言によれば『イランの元大財閥だったが、ホメイニのイラン革命の時ロンドンに逃げ出した。資産を取り返しにイランに行けば監獄に入れられるか、最悪の場合には死刑にすらもされかねない。どっちにしても帰国は出来ない。イランには現物資産が約1,000億円あったが、国外には持ち出せないので没収されたも同然だ』 

   『健康のために衣類は全て天然繊維だけを使用している。ブリーフは勿論、靴下も 100%の絹製品』と言う。『絹の靴下はすぐに穴が空くと思うが、何足くらい持っているのか?』と質問すると、ホレッシュが『リッチマンと言うものは数など気にしない。そんな野暮な質問には答えられないよ!』と言う。    

   預金通帳を見せてくれた訳でもないし、金持ちだとの証拠もないがジャケットは2人ともカシミヤだった。ダグミーは自分のカシミヤは織り方が稠密なので、どんなに手でくしゃくしゃに摘んでも皺にならないと実演して見せた。

   ロンドン空港にはオレンジの自動絞り機があった。オレンジをロボットが1個ずつ掴み、ナイフで2分割し、それぞれを半球状の突起物に押し付けて同時に絞る。ジューサーのように擂り潰さないから繊維も混入せず、苦みも発生せず大変美味しかった。

   『美味しい、美味しい』と言いながら、コップ1杯を一気に飲み干したところ、ユダヤ人であるホレッシュは『1g単位で買えば安いんだ』と言って注文の追加をした。             
                       
   一介のタイピストから自分の才覚で今日の財を成したホレッシュの行動には恥じも外聞もない。通関の時である。ホレッシュから酒を託された。1人1本は無税であると言う。

   ダグミーは両手にどっさりと高級酒(容器は瀬戸物。ガラス瓶入りは買わず)をぶら下げて通関。『ホレッシュとは人生観が違う。私はエリザベス女王から多額納税者として表彰もされた。あんなみっともない振る舞いは出来ない』と仲間の悪口を言いつつ自慢した。

[2]ロールスロイスとダグミー邸

   空港からはダグミーが運転する『ロールスロイス』に乗った。シートベルトを掛けようとしたら『ロールスロイスにはシートベルトは不要』と言う。流石に腐ってもタイ、滑らかな動きだ。

   しかし『音がするのは時計だけ』と言う神話は真っ赤な嘘だ。室内の騒音は我が愛車『ロイヤルサルーン』並みだった。高級品の買い物が出来るオックスフォード通りに近く、観光にも便利なセルフリッジホテルを紹介して送り届けてくれた。

   1時間後、ダグミーが迎えに来てくれた。ハイドパーク近くの大使館街に隣接する閑静な最高級地区にある、緑滴る庭付きのヴィクトリヤ調で3階建ての豪邸に案内した。延べ床面積は 850u、10億円位だそうだ。

   通勤にはベンツを、お客の送迎にはロールスロイスを使うと言う。地下には玉突きのプレイルームの他、20人はこなせる大きなホームバーもあった。超高級酒が何十本も無造作に並べてある。『どれでも好きなものを飲め』と言う。流石に金持ちだ。一角には、多額納税者としてエリザベス女王から表彰されている本人の大きな写真が誇らしげに飾られていた。

   ダグミー夫人にはこの豪邸は不評だった。夫婦2人で住むには大き過ぎる。階段の多い家は使い難い。掃除も大変だそうだ。後日、ダグミーが『ワイフが階段のせいでとうとう腰痛になってしまった。床面積はほぼ同じだが、1軒でワンフロアが使えるマンションに移転した』と残念そうに呟いた。

[3]イラン料理とホレッシュ邸

   夕食はホレッシュの家で用意しているそうだ。トルコを経つ時に電話で指示をしていたに違いない。家はすぐ近くにあった。こちらもダグミーの家に瓜二つだった。1億円、2年掛りの内装工事をしたそうだ。

   60年前の家が新品同様になっていた。『セントラルヒーティングの燃料は公害の少ないガスを選んだ』と強調。ひと冬のガス代は50万円。意外に安い。温水のパネルヒータ形式だった。音がしないから静かだが大変寒い。室温は20度もない。ガス代が安い筈だ。

   ホレッシュの奥さんはテレビ局の元アナウンサーとかで絶世の美人だった。日本の骨董品(書画・彫刻・酒のラベルなど)を初め、財テクを兼ねた自慢のコレクションが邸内の倉庫の棚に無造作に積んであった。30畳はありそうな夫婦寝室にはポツンとキングサイズのベッドが1台置いてあっただけ。     

   小学生の子供がこれまた20畳はありそうな大きな部屋で、絵を描いていたが、道具を持て余しているみたいだった。あまりの金持ち振りに感心していたら、ダグミーが『ホレッシュの家の庭は数軒での共有、私の庭は全部自分の物』と小声で言う。

   ホレッシュの家では本格的なイラン料理を御馳走になった。奥さんとお手伝いさんとで用意したものだそうだ。ホレッシュ夫妻・ダグミー・私達2人だけしかいないのに、10種類以上、30人分はありそうな料理を用意していた。ビュッフェ形式で食べた。

   食事中は子供達も追い出し、お手伝いにも顔を出させない。調理場を覗いたらファミリーレストランの調理場ほどの広さに、最新式のしかも大型の調理器具や食器などの台所用品が溢れていた。日本のシステムキッチンなどは玩具みたいな物だ。金持ちとはこんな物かと驚愕。

   日本の株式投資もしていると言うホレッシュに『日本には性格の違う3つの金持ち会社がある。株の含み資産額では日本生命、土地の含み資産額では三菱地所、利益額ではトヨタ自動車が夫々日本一だ。どの会社が実質上の日本一と思うか?』即座に『トヨタ』と答えた。

   日生の株の含み資産は全部を現金化することは出来ない。株を売り始めると、まだ売っていない株まで下がり含み資産が目減りする。三菱の場合は貸ビルからの収益しかない。土地の含み益からは実質的には収益が出ていない。

   トヨタの利益は含みではないので換金操作は不要。つまり最終的に現金化出来ない株の含みには資産価値はない。現金収益がない土地の含みにも価値はないとの判断だった。バブル経済崩壊後の今、ホレッシュの読みの深さに改めて驚く。
                                     
[4]インド料理

   お喋りにも一段落したら今度は『有名なインド料理店へ案内したい』と言う。既に満腹だったがインド料理見たさに又もや付いて行った。インドはイギリスの最大の元植民地だけあって、インド人が本場のインド料理店をロンドンでは既に2,000店以上も開いているそうだ。

   カレーライスだけでも10種類は越える。初めての者にはどれを選んだら良いのかも分からず、薦められた物を食べるしかない。日本とは異質のスパイス溢れる黒っぽいカレーだったが、見た目ほどには辛くもなかった。

[5]ショッピング

   ホテルに隣接した、売り場面積(10万u)では欧州最大のデパート『セルフリッジ』に出掛ける。紳士洋品売り場を目指した。カシミヤのジャケット(既製服)はあったが無地だし、お負けにサイズも合わない。生地は置いていない。

   デパートにはカシミヤに限らず注文服用の生地もないようだ。店員に聞くと『本当の高級品は専門店にある』と言って地図を描いてくれた。道路の反対側、まさに目と鼻の先だ。

   カシミヤの素晴らしい専門店だ。無造作に生地がうず高く積み上げられている。タータンチェックの生地(スキャバルの空色系とイタリー製の茶系)を買った。ついでに視野に入ったスーツ用の生地にも目が触れ、紺系の冬服地および紺と茶系の合服地の計3着を買った。

   これはいいなと思った物は、何故か皆 350ポンド(85000円)だった。服地も5着ともなればずっしりとした重さに感じる。当時、日本のデパートでは生地だけで1着30万円位していた。

   帰国後『豊田そごう』に持ち込んだら『仕立てだけの物件は引き受けない』と言う。さりとて豊田市の個人テーラーに、彼等が扱ったこともないような超高級品を持ち込むのは心配なので、やむなく名古屋にまで出かけた。

   『松坂屋』はこの生地に相応しい『D級』の料金なら受け付けると言う。ランクの差を聞くと『30年以上の経験年数の職人の場合がD級だ』そうだ。ジャケットは 65000円、スーツは115000円で、仮縫いを夫々3回もさせられながら仕立てた。満足して今なお着用しているが、バブルの名残だ。

その2。

[1]フランクフルト・シェラトンでの困惑

   専務だった大西利美さんのトルコへの初出張の案内で、バーミンガムに立ち寄る機会を得た。大西さんが英国の工場の鍬入れ式に参加されるため、バーミンガムまで同行することになったのである。途中フランクフルト空港に隣接したシェラトンに泊まった。このシェラトンは最近の大型ホテルとしては珍しい10階建て位の低層だったため、部屋まで 300mも歩かされた。三井物産の専務と合流。

   黒人のポータに1$のチップを渡したら『1Kmも歩いた。貴方は私のマスターだ。これでは少ない』と追加のチップを請求されてしまった。チップの追加請求は初めての体験である。翌朝、ロビーまでの荷物運びはポータには頼まず、自分で運んだ。                   
             
   大西さんはポータに頼んだばっかりにロビーで荷物を1時間近く待たされてしまった。受付けに何度か請求したが『もうすぐだ』と言うばかり。部屋まで確認に出掛けたら、荷物は既に持ち出されていた。

   ポータの人数が朝のラッシュ時には不足していたのだ。こんなホテルは懲り懲りだ。これ以後私は、大型ホテルの場合で出発時間が決まっている朝は、自分で荷物を運ぶ方針に切り換えた。

[2]ロンドン空港での失策

   ロンドン空港でとんだヘマ(チョンボ)をやらかしてしまった。バーミンガム行きへの乗換え口を探しながら3人で歩き続けた。ヒュースロー空港は増築に増築を重ねた結果内部構造が大変複雑だ。標識を見ながら歩いているうちに入国してしまった。

   ロンドン空港で入国しても支障はないはずだと確信していたこともあった。旅慣れた同行の2人も全く疑問に思わなかったそうだ。大西さんからは『まっつぁんが自信たっぷりに歩いていたから付いて来たんだ』と言われる始末。

   国内線のチェックイン窓口に来たら『鞄はどうしたんですか?』との質問。『鞄は空港内で積み替えてくれるはずだから、受け取ってはいない』と主張。『貴方達の乗って来た飛行機から、バーミング行の飛行機への鞄の自動積み替えは、もともと計画されてはいない』           

   『貴方達のフライトスケジュールではロンドンで入国し、国内線に乗り換えるようになっている。従って、荷物は通関しなければならないのだ。荷物は国際線の出口に出されているはずだ』と説明する。

   咄嗟に事情が分かった。道を間違えていたのではなかった。切符をチェックしていなかっただけのことだった。3人もいるとお互いに同行の仲間を当てにして、面倒臭いことをチェックする回路が止まってしまう例だ。
                                  
   機内持込みの手荷物も多かった私が、手持ちキャリアへの荷造りを通路でしていたら、見兼ねた大西さんが『こういう事はまっつぁんよりは得意だ』と言って手際よくゴムヒモを掛けてくれたりしている内に、私の主たる役割『鞄持ち』の事など忘れていたも同然になっていた。万事休す!。
                           
   私は意を決して交渉のために立ち上がった。『ここまで数百mは歩いた。途中貴方も知っているように、通路には別れ道が沢山あった。こんな複雑な空港では元の位置まで迷わずに初めての者には帰れやしない。
   
   それどころか元に戻ることを予定して歩いてはいなかったので道は全く覚えていない。そちらでここまで荷物を運んでくれ。時間はたっぷりあるじゃないか』と押し問答を開始。

   荷物の特色を説明した。係員が連絡を取り合った結果、所在を確認できた。職員は『念の為、間違いがないかどうかを確認した上で通関せよ』と言う。『我々は既に入国してしまった。荷物を受取りに行けないじゃないか。無理な要求だ。バッグの鍵を預けるから通関して来てくれ。貴重品も怪しげなものも入ってはいないから問題はない』

   本質的な非は勿論こちら側にあるのだが、何とか解決策を探さねばならない。押し問答しているうちに、抜け道を提案してくれた。空港内の職員用の通用門まで車で連れて行ってくれた。キープされていた荷物の横には空港の職員が待機してくれていた。通関も省略して車に積み込み、国内線のチェックイン・カウンターまで運んでもらって1件落着。『イギリス人は融通を利かせる事の出来る大人だ』と感心。

[3]バーミンガム

   大西さんが英国工場の鍬入れ式に出掛けている半日間が、私にとって貴重な自由時間として残った。早速タクシーを捜す。ここでも3時間当たり 15,000円で合意。バーミンガムは産業革命発祥の地であり、英国第2の人口を誇る大都会の筈である。

   『行き先は一任するから、名所旧跡を案内してほしい』と注文したら、何と驚いたことには『バーミンガムには見る価値があるものはない』と言う。仕方がない。『見る価値がない町だと言う事を確認したいから、都心へ飛ばしてくれ』と念押しした。

   英国ではバーミンガム周辺を『ブラック・カントリー』と自嘲気味に呼んでいる。鉄と石炭の町の象徴を彷彿と感じさせる名前だ。なるほど何も観光資源のない街だ。都心には綺麗な建物が1つもない。戦後の復興期の川崎市や八幡市並の汚さだ。 200万人の大都市の貫禄は全くない。

   しかし、それでも都心では再開発事業が進んでいた。商店街も日本の田舎の駅前通り並。小さな店がひっそりと並んでいただけである。大都市にしては信号機が異常に少ない。インフラも貧しい。

[4]麦畑 

   『バーミンガムには観光資源がないことは解った。郊外をドライブしてくれ。田園風景を見たい』と提案。英国の麦畑の美しさに感動。なだらかな曲面から構成される3〜5町歩の畑は小さな灌木で境界が仕切られている。

   過去20年の間に麦の多収穫技術が進み、統計では10トン/fも採れる事は知っていたが、穂が出たばかりの麦の出来栄えに驚くと共に統計の正しさも確認した。日本での麦の反収は米の半分が常識だったが、英国の麦は日本の米の2倍も採れる。

   英国では道路の舗装率は 100%とどの統計データも語っているので、私は舗装している道を道路と定義しているのじゃないかと邪推していた。が田園地帯の農道までちゃんと舗装されていた。

   幅は軽四輪が擦れ違える位しかないが、日本より舗装が徹底していると認めざるを得ない。英国は人が都市に集中した結果、田舎の人口密度が格段に下がり、しかも耕地の大型化が進んだ結果、郊外の道路密度を下げる事ができ道路投資も節約できて効率的だ。

[5]教会

   郊外の教会にも出掛けた。敷地は10町歩はありそうだ。入り口の柵が閉じられていたが、隙間から勝手に入り込んだ。30m以上はありそうな大木が鬱蒼と周囲を覆っていた。木に囲まれた庭には真っ青な芝生が茂っている。人影はなかった。贅沢な空間だ。

  小さなレンガ造りの教会にも出会った。誰もいなかったが内部を覗き込んだ。ステンドグラスから漏れる光に荘厳さを感じる。ステンドグラスは外から見ただけでは何の美しさも感じないが、太陽光線を通すと全く別物に変身する。

[6]城跡

   ローマ時代の城郭遺跡もあった。深い水のない濠に囲まれた大きな城だ。内部の見学は時間が足りずに省略。英国では最も古い城だとバーミンガム生れのドライバーは言う。彼の英語は訛りが強くて聞き取りにくい。

   博物館になっている中世の大きな城があった。城内には美術・骨董品・どっしりとした家具もあり、大変見栄えがいい。地域の中年婦人が観光客の案内をしている。城内の庭園の庭木が美しかっだけではない。

   広い芝生の管理が立派だ。芝は対角線に必ず直交するように且つ幅一定に刈られている。2回同時に刈っているのだ。籠を編んだような市松模様が美しい。日本のゴルフ場の芝は縦方向に1回刈るだけなので刈り跡に発生する模様の美しさがない。

[7]シェークスピア劇場

   大きな池や公園のある一角にシェークスピア劇場があった。公園にはシェークスピアの新しい銅像が建っていた。ずんぐりむっくりの小さな見栄えのしない体型だ。近くに観光客を乗せた長さ20mくらいの船が通る運河があった。

   水位調節の閘門(こうもん)に船が入ると、若い船頭が降りてきて手動で堰の扉を開け、水を導入して船を持ち上げる一連の作業をしている。15分で通過する。案外簡単な作業だ。日本では引退気味の年寄りの仕事と思える分野で、若い男が働いている。余程の就職難だろうか?。

   シェークスピア劇場は2,000人は入れそうな大きさだ。これも時間不足で中には入らないまま。池の周囲には大きな柳の木が茂り白鳥がのんびりと泳いでいる。美しい緑の木々・花・池・運河・白鳥・芝生・ゆったりとした空間。残念ながら日本にはない景色だ。

[8]シェークスピアの生家

   シェークスピアの家は茅葺きの大きな木造2階建て。20年に1度屋根は葺き替えると言う。分厚い屋根の曲面が美しい。庭では草花を植え変えていた。周囲は鬱蒼とした緑の木々に取り囲まれ、絵のように美しい。建物の強度部材は木工機械がなかった頃の物であるため、曲がりくねった柱や梁が使われていた。日本の昔の家にそっくりだ。                             

  当時の家財道具が使われていた状態で陳列されていた。台所は記念品や書籍・絵葉書などの売店になっていたが、外部からは見えないようにされており、気配りが偲ばれた。ここでも中年婦人が活躍していた。
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ポルトガル

   平成元年1月トルコへの長期出張(3ヶ月)の行き掛けに、わずか5日間だけだったがポルトガルに立ち寄った。昔の首都ポルトにある自動車の組み立て工場と部品会社等を見学すると共に、休日には周辺を観光した。ロンドンからポルトまでの飛行時にイベリア半島を縦断したが、眼下に広がる光景は欧州本土に比べ緑が圧倒的に少なく、荒涼とした荒れ地に感じた。

   山々には材木として使えそうな木もなさそうだ。かつてイベリア半島がアラブ(サラセン帝国)に支配されていた頃、レンガの生産のために木を切った後、植林をしないままだったのだろうか?。山の表土が流れてしまった今となっては、緑の復活を諦めているのであろうか?。

[1] ポルト

   ポルトガルの古都ポルトの中心街は、ヨーロッパでよく見掛ける都市構造にそっくりだ。片側2車線幅の道路の両側には石造りで窓の小さい6〜8階建のビルがくっつくように立ち並ぶ。ホテルに改装されたビルもある。センターラインの幅は広くゆとりがあったが、全長は 500mほどの長さしかなかった。小さな都心である。フランス人が都市計画を立てたホー・チー・ミン市の中心にも何となく似ていた。          

   個々のビルは延べ床面積が殆ど1万u以下とさして大きくもないが、1階には小さな商店が大抵テナントとして入っている。本屋が少ない。百貨店のように建物全体が商業目的のビルは見掛けなかった。市民の購買力の低さか?。大航海時代の繁栄の蓄積は何処へ行ってしまったのか、何処にもそれらしき物は見付からなかった。町全体に貧しさが改めて感じられるのみ。          
                 
   ポルトガルにはアラブの影響が色濃く残っている。ポルトガル人の人相がアラブ人に似ているだけではなく、大抵の男はムスタシュ(口髭)を蓄えている。多少小柄だ。肥満タイプが少ない。アラブが支配していた頃の遺跡が随所にある。飛行機から眺めた通り、山にはまともな木が生えていなかった。荒涼たる禿山に点在する朽ち果てた遺跡は見ていて寂しい。   
                    
   ポルトの町には貫流する河が作用してできた深さ50mくらいのV字谷がある。水面に近い位置に古い橋は掛けられている。従って谷を横断するには下ったり登ったりのひと仕事。そこで新しく橋の上に橋が掛けられた。今では下の橋の近くは寂れ果て、貧民窟の印象がする。                            

   大西洋岸は風が強く予想外に寒かった。大西洋の水温が低いそうだ。もっと南にある首都リスボンの月平均気温の年変化は10.8〜22.5度であり、冬は暖かく夏は涼しい。住み慣れれば快適ではないかと思う。冬暖かいためか植物相には亜熱帯を感じる。植物の成育可能な北限は冬の温度に支配されているように思える。ユーカリの大木の森に出会った。                                             

   沖合数百メートルの彼方に自動車専用大型運搬船が坐礁したままで放置されていた。製品を盗まれないようにと海岸には24時間態勢で頑張る、保険会社の見張り小屋があった。海岸線に沿って難破船は数十Kmも流されて来たそうだ。

   当社は保険を掛けていたので幸いにも実損はなかった。海岸には避暑地風の建物もあったが、どことなくみすぼらしかった。レストランでは豪華な食事はできなかった。でも椰子並木の海岸公園は綺麗だった。  

   ポルトガルからはアフリカが流石に近い。新婚旅行にはジブラルタル海峡を渡れば、すぐそこにあるモロッコ等北アフリカの人気が高いそうだ。カエターノ社の営業マンが新婚旅行中だった。
                         
   ポルトガル人は地中海沿岸の人と同じように魚を食べる。大きな尾頭付きの『すずき』を厚さ1cmくらいの食塩で包み込んで焼いた料理にありついた。塩はかちんかちんに固まっていたが、魚自体は程よい塩加減であった。塩でくるまれているためか焦げ目は付かず、水分は吸い取られて身が引締まる。調理法としては合理的である。この調理法にはギリシアでも出会った。

[2]ポートワイン

   ポルト市は海岸で且つ丘陵地帯にある。川があるのに平野はない。川の上流部の両岸に続く丘はブドウの絶好の産地。川から発生する水蒸気がブドウの栽培に役立つらしい。ライン河の両岸に広がる丘陵地帯と似ている。

   市の中心部の谷底風の川の両岸には多数のワイナリーがあった。持主はイギリス人が多いそうだ。何処の国に行っても、イギリス人の足跡に出くわすような気がする。

   ここは世界的に有名なポートワインの産地でもある。見学者にはいろんなワインを無料で幾らでも試飲させてくれる。暖地のブドウは糖度が高くなるらしく、砂糖を入れたかのように甘い。無料じゃ恐縮だからと、結局何本か気に入った物を買う結果とはなる。              

   その昔、サントリーが香料入り砂糖アルコール水を『赤玉ポートワイン』と称して販売していた。ポルトのワイン業者が抗議しょうと思ったが、だんだんと馬鹿らしくなって結局は止めたそうだ。日本でも何時の間にかこの偽物ワインは姿を消した。ここのワインは樫樽のままイギリスヘ輸出し、イギリスでは空樽にウイスキーを詰めて寝かせるそうだ。       

   ワイナリーから見上げる位置にエッフェルさんが設計した道路用の鉄橋があった。ホー・チー・ミン市にもエッフェルさんが設計した鉄橋があるが、鋼材の使い方が大変似ている。細い部材を大量に使う設計法である。          
   
   当時は有限要素法も電子計算機もなく、橋の設計のための構造計算を厳密に出来るはずもなかったが、力学者としての彼の勘の素晴らしさが、構造力学を学んだ者にはパッと伝わって来る。
   
   部材を細くするほど原理的には応力が均一化されるため、橋の総重量は軽くなる。メインテナンスのためのペンキ塗りが大変だが曲線を使った美観が素晴らしい。 
                            
[3]カエターノ社
                                    
   ポルトガルのCKD工場であるカエターノ社のバスの組み立てラインを見たが、生産技術水準はアジアの工場以下だった。狭い。汚い。管理状態にない。どうしょうもないと思った。すぐ近くにハンドレイアップのFRP工場があった。レベルはカエターノ社以下。労働環境は気の毒に過ぎる。これでもヨーロッパなのかと驚く。『ピレネー山脈から先は、ヨーロッパにあらず』との言葉に真実味を感じる。                  
   
   カエターノ社では塗装設備の据付工事をしていた。スペインの会社だった。ポルトガルとスペインは隣り合わせ。大国スペインの影響を強く感じる。ポルトガル語とスペイン語とには共通点が多く、現地人はお互いに会話が通じるそうだ。どっちかが方言みたいなものか?。                
[4]矢崎電線

   矢崎のワイヤーハーネス工場は素晴らしかった。矢崎の工場は世界中どこでも素晴らしい。徹底した標準化に驚く。25年前に見学した日本の矢崎の工場にそっくりだ。流石に世界企業である。

   未婚の女性が2,000人も並んで作業している様は壮観だ。白人と言っても金髪は零。赤毛の長い髪をリボンで結んでいるだけ。日本人のようにパーマなどにお金を使っている節はない。質素である。
             
   工場内の情報機密管理も徹底している。注文主毎、車種毎にラインは独立だ。1ラインに必要な設備投資が微々たるものだからできる事でもあるが、責任者(それも大抵は女性)も注文主毎に別れている。私には機密保持を理由に、トヨタ向けのラインだけしか案内してくれない。尤も生産技術は共通なので、私には他社用のラインを見る価値もないが。

   矢崎は工場を2倍に拡張するとの事。鼻息が荒い。国内市場が小さなポルトガルにあるのは、人件費の安さを活かした輸出専門工場だからだ。      

[5]コインブラ

   ポルトの郊外にある古くからの都市コインブラには、境内に長い階段のある、山の斜面に建てられた風変わりな教会があった。階段に平行してケーブルカーがあった。動力源は水である。頂上にあるダムから引かれている水を、車掌が床下のタンクに入れると車両は下へと下がり始める。下に着くと今度は水を捨てる。2台の車両が登ったり降りたりする。                  

   駐在員が多忙な時はカエターノ社の営業マンがあちこちを案内してくれた。応対が日本人そっくりだったのには驚く。大変親切であるが押し付けがましさもなく、自己主張も遠慮勝ちだ。

   一説に拠るとポルトガル人と日本人の性格は似ているらしい。近くの公園に出掛けたら結婚式を教会で済ませた男女がいた。花婿は白いドレスを着た花嫁の写真を取りまくっていた。            
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フランス

   トルコからの帰り道、パリで1泊するチャンスに恵まれた。その数日前に不覚にも下痢に襲われた。原因に思い当たる節もないので、3ヶ月に及ぶトルコ出張の疲れか?。外国の医師に掛るのにはどことなく面倒だったので、そのままにしていたらちっとも治らない。もうすぐ帰国だからと我慢することにしていた。       
   
   空港で3時間のパリ観光を 15,000円でどうかとタクシーと交渉。先進国はどこでも1時間当たり5,000円でタクシーには乗れる。すんなり引き受けた。若いアルジェリア人だったが片言ながら英語を喋る。フランクフルトのドライバーよりも気が楽だ。愛嬌も良い。

   パリには高架の自動車専用環状都市高速がある。直径が10Km位だ。この内側がパリの主要部分だ。パリは予想外に狭い。随分と人口密度が高いような気がした。先ずはこの環状線を一周した。高架からパリの町の特色が把握できる。山手線で東京見物をするようなものだ。旧市街の著名な建物は中心部に固まっている。
                             
   時間に制約があったので車からは降りることもなく、東西南北を走り回った。ある時、ドライバーは『ここが高級住宅街』と言う。窓が大変小さな古臭いビル街だった。パリ中心部には庭付きの1戸建てを全く見掛けない。

   土地は公有でビルの殆どは 100年以上も経っている。従って高級住宅と言っても交通至便な一角の、家賃の高い家を意味するだけで、ビルの外観からは豪華さも感じないし、1戸の広さも分からない。

   自動車時代以前に出来た町なので、大通り以外の道幅はどれも大変狭い。駐車場も少ないためか、渋滞するほどの数の車が走っていない。その代わりでもあるまいが地下鉄の駅が 500mピッチにあり、歩行者には東京より便利だ。

   セーヌ川の河原に自由の女神の錆び付いた高さ5m程の像が建っていた。ニューヨークの女神と向かい合っているそうだ。ニューヨークの女神はこれを引き伸ばしただけなのでスタイルは同じだ。その近くにホテル・ニッコーがあった。1,000室近い高層ビルだ。

   この近辺は再開発地域なのか30階建て前後の凝ったデザインの高層ビルが10本強あったが、新宿のビルに比べ体積は夫々半分以下の小振りな物ばかりだ。木に巣箱を掛けたような前衛気取りの集合住宅もあった。こことは反対側の遠くに新凱旋門を中心にした再開発街が見えた。

   ホテルの部屋は高層階の角部屋。2面に窓がありパリの夜景が美しい。部屋の中にも階段があり、2階もあったが使用禁止になっていた。この部屋はどうやら特別室だ。腹痛が酷く、折角のフランス料理を食べる元気もなく、夜の町にも出ず、牛乳を飲んで寝てしまった。残念無念!。

   ドゴール空港のエスカレータには階段状の段差がない。大型の旅行鞄2個やあれこれの荷物を持つ身には大変便利だった。
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ドイツ

   トルコヘの出張コースが、ある時たまたまフランクフルト経由になった。この時は1人だった。早速数時間を活かすべく町へ飛び出ることにした。フランクフルト空港は西ドイツの玄関口。大変広く鉄道も乗り入れている。地下道には行き先別に違った色のガイドラインが何本も引かれていて親切だ。ドイツ人らしい几帳面さだ。

   地下にある鉄道駅を目指してガイドラインに沿って歩いていた積もりだったが、どこで分岐を間違えたのか、タクシー乗り場に出てしまった。元に戻るにはたっぷりと 500mはある。面倒なので運賃は高いがタクシーに乗ることにした。

   『 15,000円で3時間のフランクフルトの観光案内をしてくれないか』と行列の先頭の運転手に持ち掛けた。『これは観光タクシーではない』と断られた。ドイツ人は融通が利かないと直感した。が懲りずに次々と声を掛けたら引き受けてくれる者が現れた。どこにも例外はいるものだ。

   ドイツ人と雖もタクシーの運転手クラスになると英語力が極端に落ちる。一方、当方のドイツ語の会話力は限りなくゼロに近い。タクシー乗り場の乗客整理係に用件を伝えてもらった。『空港へ戻る時間は厳守。行き先はお任せ』と言った。目的は十分に伝わった。早速アウトバーンを疾走してフランクフルトの都心に到着。
  
   ぐるぐると周遊してもらったが、ロンドン・パリと違って古色蒼然とした、これと言うほどの建物がない。第2次世界大戦で破壊し尽くされたのだろうか?。どうやらフランクフルトは観光都市ではなさそうだ。都心には1本だけ50階建てクラスの超高層ビルがあった。単なる直方体の実用一点張りの建物にすぎない。

   ゲーテの生家を尋ねた。5階建ての大きな家だ。木造だった。生前の書斎・寝室・居間など家財道具を含めて極力復元してあった。木造であったためか、階段・天井・梁・床などは驚くほど日本の家に似ていた。流石にゲーテ家は金持ちだった。
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おわりに

   飛行機の乗り継ぎのような一瞬の時間でも、工夫次第では結構活用出来るものだ。しかし、何度も立ち寄った香港空港だけは外へ出る機会が今に至るまでなかった。余りにも便利にダイヤが出来ているせいだ。

   いつの日にか、香港見物に空港から脱出したいと思っている。
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