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旅行記
           
日本
沖縄(平成9年3月11日脱稿)

      沖縄に関する記憶は、人生の出発点であった少年期の終着駅に閉じ込められていた。『沖縄の人々の悲劇』を思い出す度に、今なお涙が溢れるのは何故なのか?。            

   しかし、豊田市など物の数ではないほどに、繁栄している那覇市を目の当たりにすると、ホッとすると共に、私の過去を反芻しながら『合掌』する旅にもなった。
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はじめに

[1]飽きてしまった温泉旅行

   数年前から妻の提案に従って毎月1回、平日宿泊料金扱いの日曜日に近隣の温泉地へ出かけていたが、旅館や和風観光ホテルの売り物が日本中どこでも大同小異でしかも、感動を味わえるような斬新なアイディアに出会う喜びも期待薄と分かった結果、ここ1〜2年、旅行頻度も半減していた。

   山の中でも離島でも夕食のメニューは殆ど同じだった。原則として和食で品数はいつも何故か11品であった。オードブル・お刺身・固形燃料を使う個食の鍋物(牛か猪か海鮮もの)焼き魚か煮魚・天ぷら・酢の物・野菜の煮物・サラダかお浸し・茶碗蒸し・みそ汁・季節の果物の組み合わせである。

   中華料理に比べ、日本料理の種類は意外に少ない。しかも旅館ではメニューを選ぶ楽しみも与えられず、お仕着せのあてがい扶持だ。夕食の時間を約束させられても出来立てが食べられるわけでもない。調理場で量産された定食が部屋に持ち込まれるだけだ。                        

   都市ホテルのレストランでは中華でも西洋料理でも1品ずつ、注文を受けてから調理に取り掛かり、我が家ではとても味わえない出来立てを運んでくれる。小さなうどん屋やラーメン屋だけではなく、寿司屋でも最近はやりのファミリーレストランでも、同様のシステムなのに和風旅館のサービスの方法はどこか狂っている。お客様の期待する内容との擦れ違いが感じられる。

   更には、お風呂上がりに部屋でのんびりとビールを飲みながら、久しぶりに愚にも付かない夫婦の会話をボソボソとしゃべるくつろぎの時間帯でも、『御免下さい』と言うや否やこちらの返事を確認すらせずに、仲居さんがちょこちょこと部屋に出入りするので段々うんざりするようになってきた。

   例えば夕食の運び込みに始まる飲み物の注文取り、引き続いて食事途中に天ぷらの『おつゆ』や『みそ汁』のお届けがある。そのくせに、原価の安い『みそ汁』すら『お代わり』は許さない。後片付けが終わってやれやれと思う間もなく布団を敷きに来る。                               

   最初の頃は、さすがは日本旅館だ。きめ細かいサービスだ!と思ったこともあったが、何時の間にか付加価値のない無意味なサービスを押し付けられてお金を支払わされているように思えてきた。『本末が転倒したサービス業の典型ではないのか?』と疑い始めた。

   旅館の朝は早い。『布団の後片付け』と称して仲居さんが部屋に入り、休む間もなく形だけの朝食を運び込む。干物の焼き魚・味付け海苔・生卵・みそ汁・野菜料理・漬物の組み合わせには、牢乎として変わる気配がない。

   トヨタ生産方式のように『お客様が必要な時に、必要なサービスを、必要なだけ受けられる』のではなく『仲居さんに休む暇も与えず、旅館側の労務管理の効率面からのみの立場で、サービス気取りの押し付け作業を強引に進行させているだけである』ことに気付かされた。

   謳い文句の温泉の趣向も大同小異だ。大自然を感じさせるような露天風呂に出会うことも少ない。後始末の清掃作業が楽なように極力箱型構造の風呂に近付けている。天井がないから露天風呂と強弁しているだけだ。敷地が狭い旅館の場合、露天風呂は大抵屋上にある。『天体観測でもせよ!』と言わぬばかり。
            
   深山幽谷を連想させるような奇岩と美しい植え込みの組み合わせの中に、さわやかなせせらぎと滝の音が何処からともなく聞こえて来るような、究極の野天風呂の風情にはとんと出くわさない。部屋にある小さな浴室に至っては大抵ユニットバス形式の密室で窓もなく、入る気もしない。ある旅館では利用者が少ないからと称してお風呂への給湯は止めてあった。部屋代を高くするための見せかけの装置だ。
   
   部屋に準備されているサービス品も貧弱だ。世界中どこでも都市ホテルには分厚いタオルとバスタオルが置いてあるのに、普通の温泉旅館の無料タオルは薄くて小さい。浴衣や丹前は用意しているのだから今時、盗難を恐れているからとも思えない。
   
   お陰で自宅には雑巾にもならない布切れが溜まる一方だ。貧弱窮まるハミガキセットやカミソリに至っては使う気もしない。とうとうタオルと一緒に洗面具も持参する習慣を付けさせられた。大浴場の更衣室にヘヤトニックやポマードなどの男性用化粧品が置いてあるところも殆どない。      

   通常、明るい昼間に使うゴルフ場のお風呂では、循環濾過してお湯の清潔さを維持しているだけではなく、おばさんが巡回しながら使用済みのタオルや櫛を片付け、一番汚れやすい洗面台は取り分け念入りに掃除している。
        
   一方、暗い夜に主として使う旅館の大浴場は汚れに気付かれないための深謀遠慮か、照明も暗い場合が多い。温泉は循環濾過すれば真水に近付くので、清潔度を維持するために本来は常時オーバーフローさせるべきなのだが、湧出量が少ないためか経費節減なのか、たまり湯の儘の場合が多く不潔さこれに過ぎるものはない。それなのに入湯税は有無を言わさず自動的に徴収される。

   私にとって温泉に出かける目的は病気の治療ではなく、非日常性溢れた開放感を味わうためにあった。『観光資源1つない場所であるにも拘らず、ボーリングをして見たら運よく温泉が出た。それを活すべく温泉付き観光ホテルを作って金儲けを始めた』と言うような所には、泊まる気が全くしなくなった。いわんや鉱泉の沸かし湯などに於いておや。そんな所にわざわざ出かけるのは『くたびれ儲け』と感じて来た。                   

   そんな『観光温泉もどき』よりも、自宅の近くに出来たいわゆる『スーパー銭湯』の方が断然快適だ。1回 330円の安さに魅力を感じるだけではない。岩風呂・電気風呂・泡風呂・打たせ湯・露天風呂を初め、大好きな『サウナ』すら2種類もあるからだ。 

   夫婦での旅行の目的も徐々に変わって来た。グルメが目的の時は、特色のあるレストランに出掛けるようになった。旅行地の選定条件からは温泉を外した。未だ行ったことのない景勝地とか歴史的な遺跡で有名な所などに変えてきただけではない。                                  
   
   『来しかた行く末の、短い人生』をじっくりと観照(注。観照と言う言葉の正確な意味を知らない我が読者が多過ぎて困惑。新明解国語辞典では、『一切の感情を殺して冷静に、人生や自然や美などの抽象的な物事について、それはどういうものかと根本的に思索すること』と説明)したくなる切っ掛け(場)を与えてくれそうな場所を探すようになってきた。
                             
   日本人の温泉狂いが滑稽に思え始めた。そんなある時、日本経済新聞の並売店(中日の専売店)が日曜日にだけサービスしてくれている『中日新聞の日曜版』の、派手な全面広告が視野に入った。

春一番! ぽかぽか沖縄3日間

   名古屋から那覇までの国内正規片道航空運賃は 32,250円なのに、1室3人以上ならば1人たったの 33,300円。2人1室でも 37,300円。しかも往復ともJALの定期便だ。オプション扱いの入場料金を全部加えても 39,800円。御土産代込みで夫婦合計約10万円の旅だったが、何と安く感じた事か!。

[2]団体旅行も悪くはない

   国内の家族旅行で団体旅行に参加したのは、2年前(平成7年3月)の『北海道名湯スペシャル4日間の旅』だけだった。車の運転から解放されて気楽に酒が飲めるだけではない。

   観光地ではガイドも付くし、大規模な団体を受け入れる事ができる大型観光ホテルの朝食には、ヴァイキング(蛇足:ヴァイキングとは帝国ホテルが北欧のスモーガスボード=立食、を真似て名付けた和製英語。英語ではビュッフェ)が概ね導入されていて好きな料理が選べるし、昼夕食はその地の名物料理が定番となっている上に、パック料金は驚くほどに安い!。大抵正規の航空運賃程度で2〜3泊も出来る。

   妻も『夫婦での温泉旅行には飽きた』と言ってはいたが、予てより『沖縄には行きたい』と漏らしていた。これ幸いにと申し込んだ。昭和19年生れの妻にとっての沖縄は、単なる観光地の1つとして選んでいたに過ぎないが、私にとっては幼少年時代だった戦中戦後の重い追憶抜きに考える事は不可能だった。

   この機会に昨年秋復刊されたばかりの岩波新書『沖縄』(初版は1963-1-25)を読んだ。沖縄駐留のアメリカ兵の不祥事が原因となって、今や普天間飛行場の移転問題を初め日米間の積年の問題が噴出して来た事情もあり、出版界は空前の沖縄ブームだ。

   本書を読むまでは、沖縄に関する私の無知偏見は日本人全体に普遍的に見られる誤解だったと知り、密かに恥じた。旅行そのものも有意義だったが、岩波新書との出会いを通じて沖縄の歴史を学んだだけではなく、戦中戦後の我が人生を振り返る絶好の機会にもなった。

[3]沖縄への誤解

   私の誤解は『沖縄人は、日本民族なのか?』『島津藩に支配される以前に使われていた琉球語は、日本語なのか?』との疑問を今日まで持ち続けていた点に尽きる。疑問の背後には日本民族と日本語の形成に関する積年の思い込みがあった。          
   
   日本民族は、            
   
@ 北・西(朝鮮半島経由)南西(揚子江から雲南までの中国やベトナム方面)及び南から、各地の民族が島伝いにこの4島に到着し、数千年以上に亘る混血の結果、今日の姿に形成されたと一般的に考えられている。
A 『言語を特徴付ける語順を中核とする文法は、個々の単語に比べて長期的な安定度が大変高い』と言う一般則。   
B 『日本語は朝鮮語と共にアルタイ語系に属し、シナ・チベット語系とは異なる』との学説から、日本列島では朝鮮半島伝いに移住した中央アジア系が主流となり、北方系や南方系の民族は母国語の文法も失い、一部の単語のみを日本語の中に残して今日に至った。

と、考えていた。 

   つまり南の沖縄人は、北上する過程で定住した南方系や南西系の諸民族の後裔であり、言語もそれぞれの民族の母語が変化した状態でかつては使われていたのではあるまいか?との独断を出発点にして、4島で融合誕生した日本民族が逆に南北に膨脹した結果、琉球人とは北のアイヌ民族と同様、土地を奪われ更には言語まで喪失させられた、異民族の後裔ではあるまいか?との疑問を持ち続けていた点にあった。

   同書によれば、琉球人は紛れもなく日本民族であり、琉球語は日本語の1方言に過ぎない。尤も一般に言語は1,000年の間に3割の単語が入れ替わるそうだ。一方、日本本土と琉球の日本語はほぼ1,000年間も半ば独立して使われていたため、結局5割( 0.7×0.7)もの単語が変わり、発音も変化したため、初対面同士の意思の疎通が困難になってはいた。

   私を初め多くの日本人の誤解は、沖縄が数百年間に渡り『琉球王国』として独立していた頃、明に朝貢しかつ中国文化の影響を深く受けた建築物・風俗習慣があった等との諸々の解説書から生まれてきたらしい。

   街頭で沖縄人を見掛けた瞬間、私には日本民族であることが分った。『近隣のタイ・台湾・ベトナム・上海の人々と日本人とは、人相が似てはいるが毛深さの点では明らかに差がある』と過去の出張や旅行を通じて既に気付いていたからだ。東南アジア人には体毛が殆どない。
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少年期

[1]戦中時代

   私の人生の記憶は昭和16年(満3歳)にまで溯る。がそれはたまたまシロ蟻が繁殖した結果、倉を移築すると言う記憶しやすい事件があったからに過ぎない。4歳からの記憶は溢れるほどにある。昭和18年の初夏、いつも一緒に遊んでいた2歳下の弟が、ビワの種を喉に詰まらせて窒息死した。父は記念写真を撮っていなかったことを大変後悔し、その後は時々写真屋を家に呼んだ。

   遊び相手を失った私は居間に寝転び、両親が結婚記念に買った柱時計の文字盤を1日中眺めていた。何時の間にか時計の読み方を理解し、数の観念が育ち、母に教わって掛け算の九九を暗唱し、3〜4桁の暗算をこなしていた。この時計こそは私の唯一の家庭教師であった!。

   平成3年の秋、父の葬儀で帰省した折り、いつもの位置にある筈の時計がない!。あちこち探した結果、物置に捨ててあるのを発見。『時計をなぜ捨てた?。家宝みたいな物なのに!』と兄を詰問。『ゼンマイが切れた。要るなら後日、宅配便で送る』との即答。兄弟姉妹の誰もが『あの時計は私が父の形見として、持っているのが最も相応しい』と思っていたのだ。

   トヨタ生協の時計屋に修理を依頼。『ゼンマイは切れていないが、バネと振り子の調節に2ヶ月は掛かる。動かしながら精度を確認するためだ』との回答。兄の勘違いだったのだ。僅か6,000円の修理代で宝が蘇った。

   この時計は1週間巻きだが、1週間に1回ゼンマイを巻くと±5分の誤差が生じた。毎日少しずつ巻けば±30秒を維持できることが判明。以後、私は毎朝ゼンマイを巻き、過去を思い出しながら、7時の時報に合わせている。
   
   昭和19年(5〜6歳)になると、警戒警報(空襲があるかも知れないとの予告)や空襲警報のサイレンが度々鳴るようになった。我が郷里、福岡県遠賀郡遠賀村(現遠賀町)に当時、幼稚園はなかった。隣組には同級生の子供もおらず、相変わらず1人で遊ぶ日々であった。
   
   東の方角3里の彼方に旧八幡市の最高峰、皿倉山(海抜 622m)があり、その真北の低地と埋め立て地に旧日本製鐵の八幡製鐵所を中核とした北九州工業地帯の工場群があった。

   皿倉山の頂上に据え付けられた高射砲から,花火のように撃ち上げられる弾丸は白く光った弾道を描くが、高度1万メートルと称された4発の重爆撃機B−29にまでは辿り着けない。数少ない迎撃の戦闘機が飛び上がるが、数機の敵機に取り囲まれ多勢に無勢、直ぐに黒煙を棚引かせて墜落されるか、上から打ち落とされる姿を何度も目撃した。

   昭和19年の秋、母と自宅から2Km離れた遠賀川駅に向かっていたら、自転車に乗った母の知り合いの安藤さん(八幡製鐵勤務)とばったり出会った。母は『どちらへ?』と語り掛けた。『疎開先を探しに』『うちへいらっしゃいよ』との会話で即決。『父に相談しなくとも大丈夫なのかなあ?』と不思議に思ったが、我が家には増築したものの、当時は未使用状態だった延べ15坪くらいの2階建てがあったのだ。

   父は6人兄弟の末っ子(5男)だったが旧制東筑中学(現東筑高校。私の母校でもある)を卒業した頃『肋膜炎』を患い、進学を諦め農業を継いだ。同期生で農業は1人だったそうだ。東筑中学は福岡県立中学の第1号だった。その時に既に開校していた福岡市の修猷館は元黒田藩の藩校である。同窓会名簿によれば、大正12年の第22回生は 138名。旧制大学へ6割、旧制専門学校へ4割が進学していた。
  
   健康を回復して結婚したのは30歳。当時の習慣よりは4〜5年遅かった。祖母は日本鉱業の佐賀関精練所長をしていた次男が建ててくれた豪邸に長兄一家と共に引っ越した。敷地1500坪、家はお寺のように大きく、今なお遠賀町最大のお屋敷の一つだ。
                                     
   次男(叔父)は石松家では秀才の誉れ高く、旧制熊本高等工業高校を受験したら面接で『貴方は当校に来るべき人ではない。蔵前の東京高等工業(東京工大の前身)に行きなさい』と言われ、推薦扱いになった。当時の関係者の度量が忍ばれる。とは言うものの、妻の祖父(母方)も蔵前に推薦入学したそうだから、当時では珍しくもなさそうだ。しかし、人生を順調に歩んだのも束の間、若干52歳の時心臓病で亡くなった。

   父は農閑期の冬場3ヶ月間は、専用の馬車(牛に引かせても馬車と言った)に籾擦り機と5馬力のディーゼル発動機を積んで、村内の契約農家を回っていた。1日に約 100俵擦り、手間賃は1俵に尽き1升位だった。契約農家は父の名刺を添付して米を供出していた。籾擦り機はまだ一般農家には普及していなかったのだ。
  
   所有地は水田 2.7町・畑 1.5反・山林 1.2町・屋敷 1.7反だったが、昭和20年以外の年には住込みのお手伝いさんが2人いた。昭和5〜35年までを平均すれば、同期のサラリーマン以上の生活が出来たそうだ。戦争は当時のサラリーマンに致命的な打撃を与えた。後年、福岡県立遠賀高校が移転した時に山林5反が買収され、両親の世界漫遊旅行の原資となった。

   昭和19年、40歳になった父は独力で我が家の北側に隣接する山の側面に防空壕を掘り始めた。明治5年に曾祖父が建てた藁葺き(茅が採れないので代わりに裸麦の藁を使用した。腐りやすいので5年置きくらいに葺き替えた。雨が降っても音がせず断熱性能にも優れ冬でも結構暖かい。住み心地の良さは抜群だったが、昭和42年にとうとう改築した)の我が家に、焼夷弾が落ちれば一瞬にして燃え上がるのは火を見るよりも明らかだった。                      
  
   私の姉兄に2人の弟を含め7人もの大家族(戦後更に弟妹が生まれた)とお手伝いさんの命を守る(火災による焼死回避)ために父は必死だったのだ。隣の瓦葺きの家に住む父の兄(4男)が見るに見兼ねて手伝いに来た。      

   夜、警戒警報が鳴ると大急ぎで電球の傘に黒い円筒状の覆いを掛け、光が戸外に漏れないようにした。電灯の直下、直径2m位の範囲にのみ光が当たった。空襲警報が鳴る度に何度か防空壕に避難した。照明はカンテラ(灯油を使った照明具)だった。幸い我が村への空襲は一度もなかった。

   遠賀村には続々と疎開者が移住してきた。姉と兄は疎開生がクラスに編入される度に『誰某が上がって来た』と言う。疎開生を一目下に見なしたような話し方だ。昭和20年3月、入学予定者が保護者と共に学校へ集まり、簡単な試験を受けた。私は名前すら書けなかったが、百までは悠々と数えられた。その日の帰り道、手足の痛みに気付いた。筋炎の発症だ。爾来全治するまで約70日間寝込んだ。

   入学式当日はもちろん歩けなかった。しかし、何としても行きたかった。回復後学校に出かけた時、疎開生と間違えられるのを避けたかったのだ。母におんぶしてもらって学校へ行った。疎開生ではないとの証拠作りが私なりの密かな目的だった。筋炎が直り始めた頃、赤ん坊のように歩行練習をした。

   5月の中旬から通学を始めた。竹籠製のランドセルだったが嬉しかった。校庭には日本帝国陸軍の駐屯部隊による塹壕が掘り巡らされた。運動場としての機能は全面停止状態だった。1学期の学芸会が開かれた。『兵隊さん』も招待された。一種の慰問行事でもあった。私は『お馬の親子』に出演した。         
   
   何としたことだ!。同じ劇を2回繰り返させられた。事情が分かったのは、トヨタ自動車へ就職後、帰省の折に担任だった『梶栗先生』を嫁ぎ先に訪ねた時だ。先生にとっても在職中の最高の思い出らしかった。感激の余り、ホームシックに掛かって涙を流した『兵隊さん達』からのアンコールに応えたのだった。学校行事としては前代未聞の出来事だった。それ以来、学芸会では何時も主役をさせられるようになった。

   田植えの季節になった。田植えは例年、福岡県南部の筑後地方から出稼ぎに来る人達に頼む習慣だった。しかし、この年は誰も来なかった。万事窮す!。両親、国民学校1,3,5年生の私兄姉の3人、安藤さんの母と義妹の7人で1週間掛けて田植えを済ませた。私も蓑を着て雨の中で働いた。安藤さんの奥さんが子守と家事を受け持った。爾来私は就職するまで農繁期には農業を手伝った。

   最も過酷な農作業は水車による揚水だった。踏み台に足を乗せ、体重を生かして水車を回転させ続ける作業である。小学生の頃は体重不足を補うため、踏み台が垂直の位置に来た時に足を掛けた。間に合わない場合には川に転げ落ちた。1日中、山登りをしているのと同じだ。

   2番目に体力を要したのは『田の草押し』と称する『回転式土起こし装置』を炎天下に押す作業だった。大人にとっても重労働だった。後年、トヨタ自動車の入社式前日の身体検査で肺活量を生まれて初めて計った時に、5850ccと知って驚いたが、子供の頃の重筋作業の成果ではないかと直感した。

   敗戦直前の初夏の頃、41歳の父にもとうとう『赤紙』が来た。41歳以上は兵役免除と聞いていたがルールが変わったらしい。隣の芦屋町に飛行場(現在は自衛隊が使っている。トラ・トラ・トラと言う日米合作映画のロケにも使われた)が建設され、その拡張工事に駆り出された。出兵ではなく一安心。母と慰問に出かけた。父は10日位で帰宅した。

   広島に原爆が落とされた時、父は子供たちに『爆心地から3里までは死ぬらしい。八幡に落とされると、遠賀村も危ない』と語った。我が家の西 300mにある山まで途中に遮るものは全くない。

[2]終戦

   玉音放送があることは事前に連絡された。一家揃って雑音混じりのラジオを囲んで聞き入った。意味は汲み取れなかったが、戦争に負けた事は分かった。夏休みはたった10日間しかなかった。当時の我が家の電気器具は、部屋ごとに1つずつの電灯・ラジオ1台・アイロン1個だけだった。今のベトナム以下だ。しかし、ラジオすらない家もあった。

[3]戦後

   新聞は2ページしかない朝刊だけだった。姉が家庭科で使う型紙用に新聞を貼り合わせて大きくしていた。『昔の新聞は2枚半、10ページもあった』との父の説明が信じられなかった。父は新聞がまだ読めない子供たちに時折、特別なニュースが出ると解説した。   

   『闇米は一切買わずに、配給米だけを食べていた裁判官(判事だったかも?)が餓死した』『17歳の娘を殺して食べていた継母が逮捕された』。極東裁判の頃、独房に明かりが点った写真が新聞に出た時『電灯が点いている間は絞首刑はまだだ』『テレビが出来た。安ければ、画面は葉書大でもいいんだがな〜』など。
                             
   昭和21年度までは戦前の国定教科書を使った。教科書の問題箇所には全て一斉に墨を塗らされた。その上『アメリカ兵に見つからないように穴を掘って埋めよ』との指示。私は裏山に登り、穴を掘り本を袋に入れて埋めた。数日後、そんな事までしている人はいないと知り、本は掘り返した。 
               
   物不足は深刻だった。父はどこからか、40枚で1冊5円のノートを 100冊も買って来た。国語も算数も横に罫線が引かれたこのノートを使い続けた。靴はなかった。下駄は自家製だった。蛇の目の傘の骨に障子紙を張り、柿の渋みたいなものを塗って再生した。自給自足の毎日だった。

   夏は裸足で通学した。学校には『足洗い場』と称する5メートル角、深さ20cm位のコンクリート製の平たい水溜まりがあった。その中を歩いて通過すると自動的に足が洗われる設備だ。5,6年生が毎日交替で砂を掻き出し、水を入れ替えていた。                                  

   芦屋の飛行場はアメリカ軍に接収され、鹿児島本線遠賀川駅から芦屋まで単線の鉄道が引かれた。駅は終着駅『芦屋』のみだ。小さな遠賀川駅は増築されて米兵専用の出入り口も付き、上下各2本の急行が止まるようにもなった。旅客列車中央部の1車両は米兵専用となった。文字通りのアパルトヘイトだ!。芦屋線も今は廃止され、遠賀川駅は快速すらも通過する昔に戻り、駅前の旅館群も消滅した。

   大字『遠賀川』には『オンリー』と蔑称された女性の下宿が増えた。米兵の現地日本人妻用だ。当時米兵の月給は8〜10万円、オンリーの手当ては2万円と聞いた。部屋代は女性持ちだ。厚化粧の上、スカーフをヒラヒラさせながら逞しく恥じらいもなく生きていた。『あいの子』が生まれたとの噂も聞いた。
       
   昭和23年、国鉄の大人の初乗り運賃は10円、かき氷は5円、金時は10円だった。人件費がコストの大部分を占める物価は現在の20分の1以下だった。中核男子労働者の月給は1万円もしなかった。当時の米兵の高給には目も眩むほどの驚きだった。ベトナムや中国で出会った人達が抱く日本人への苛立ちの強さはこれ以上なのではあるまいか?。何しろ顔付きが似過ぎている。日本人と言うだけで無能でも贅沢ができる!。

   昭和23年の秋から給食が始った。どんぶり一杯の脱脂粉乳の還元牛乳と豚汁とが交互に支給された。潔癖主義の私の担任は、4時間目が終わると全員を教室の外に追い出し、給食係と一緒に全員の机の上に配膳し終わった後、静かに教室に戻らせた。                               
   
   あるクラスではどんぶりを手にした児童を一列に並ばせ、バケツから先生が1人分ずつ汲み出していたが、見ていてその不潔感に耐えられなかった。1食分が5円だった。専任の女性1人と交替で手伝う母親が給食の準備をした。専任の女性の給料として、 600人の児童が1人当たり月に5円を負担した。

   昭和24年頃、遠賀郡の16小学校と6中学校を対象にした教育映画の巡回が始まった。進駐軍が支給した教育宣伝映画らしかった。映写技師が16ミリ映写機とフィルム(ニュース・短編の資料性がある記録物・長編劇映画)を自転車に積んで各学校を巡回していた。                           

   わが小学校には講堂も体育館もなかった。連続する20坪の教室3つの間仕切りを取り除くと60坪の空間が生まれ、 600人が同時に入れる構造になっていた。入学式や卒業式、学芸会など全校生徒が集まる室内行事は、全てこの臨時講堂で実施された。映画の日、児童は1人1枚毛布を交替で家から持ち寄り窓に掛けて臨時暗室とした。それでも映画の日はワクワクとして待ち焦がれた。

   昭和25年春、39歳の母が乳癌と判明。父は子供たち全員を集めて『助からないかも知れない』と事情を説明した。祖父(母の父)が大腸癌の手術後直ぐに死んだと聞いていたので『癌に掛かれば大抵は死ぬ』との予備知識はあった。発見が早かったので幸い助かった。その後、母は74歳の時に皮膚癌に掛かったがこの時も発見が早く、手術後86歳の今日に至るも幸い健在。   
            
   父の影響もあってか私は癌の疑いを感じたら、即座に愛知県がんセンターや名古屋大学医学部付属病院に駆け付け、『先生!。癌の場合には必ず告知して下さい。残された時間は人生の整理に使いたいからです』と、真っ先に言うのが習慣になっている。尤も現在までの所、全て私の誤診だった。
                      
[4]戦争物の乱読

   父の娯楽は読書だけだった。タバコは吸わず酒は飲めなかった。独身時代は旅行が趣味で、ダンボール箱1杯もの絵葉書がたまっていたが、結婚後は中断していた。太平洋戦争の米軍従軍記者が書いた本の翻訳物を次々に買ってきた。大抵は戦場の島の名前が書名だった。サイパン・アナタハン・マリアナなどいろいろな本があった。どの本も白黒写真が豊富だった。見るも無残な日本兵の変わり果てた姿が溢れていた。

   中には日本人が書いたものもあった。『君らこそ日本を』と言う本があった。哲学者フィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』と題して、ドイツ国民を鼓舞した講演を真似て書いたものだと、後日気が付いた。『ひめゆりの塔』や安田徳太郎の『生きている日本史』など小学校高学年から中学生の頃にむさぼり読んだ。

   これらの読書を通じて、私は自分の苦労など物の数ではないことを知った。幸い我が家は戦災にも遭わず戦死者も出なかった。親戚や近所の戦争帰還兵は申し合わせたかのように戦地のことは話さなかった。それだけに一層戦記物を貪り読んだ。その中で一番印象に残ったのが『ひめゆりの塔』だった。戦争は古来、男の戦いとばかり思っていたのに、か弱き女学生までが動員されていたからだ。

   東京大空襲を初めとした各地の大都市の空襲は悲惨ではあったが、市民が第一線で敵と戦ってはいない。広島と長崎の原爆に至っては抵抗すらできずのままだ。海外での戦闘は兵士が主だ。沖縄だけが負け戦を承知の上で、幼き青少年まで動員して戦わされた。彼等には自分の人生の進路を選択する自由も与えられず、生き残るだろう同じ民族の人々の幸せを願う心を支えに、戦場に追い立てられた。

   『沖縄人は日本人ではない』との誤解の下に、沖縄県民は気軽に駆り出されたのではあるまいか、との疑問は未だに解けない。米英仏が本国外で核爆発実験を繰り返したのも、電力会社が原発立地を都心にしないのも、本心は同じではないかと思えば思うほど、戦場に散った沖縄の人々の霊前にぬかづかざるを得ない心境に至る。

   40年前に受験勉強で読んだ『方丈記』の一節に、人が飢饉で死ぬ順序が書いてあったのを思い出す。『愛し合う2人の場合、相手をより深く愛する側が先に死ぬ。親子の場合には親が先に死ぬ』と『鴨長明』は観察結果をクールに書いた。タイタニック号が処女航海で氷山に衝突して沈没する直前、独身者は船に残った。子供のいる人に『私が死んでも困る人はいない。あなたは救命ボートに移り、子供のために生き延びよ』

   『今日、平和ぼけした毎日に明け暮れできるのは、見知らぬ他人のためにすら、勇気を出して死んで行った人々のお陰だ』との思いが深まれば深まるほど、日本人として一度は沖縄へ慰霊の旅に出かけなければならない、と密かに思い続けていた。

[5]映画『ひめゆりの塔』

   中学2年、昭和27年だったと思う。『ひめゆりの塔』が上映された。遠賀村には映画館はなく、最寄りの映画館は旧八幡市にしかなかった。無性に見たかった。映画館で見た初めての映画だった。事前に何度も読んだ『ひめゆりの塔』のシナリオとは若干違ってはいたが『戦争の凄惨さ』を知るには十分過ぎる出来だった。主演女優は『香川京子』さんだったような気がする。

   この映画を見たのを最後に私の戦記物への読書欲は急激に落ちた。映画から受けた印象が強過ぎた面もあるが、受験勉強が始まり自由時間がなくなって来たせいでもある。結局、私の戦中・戦後の人生は『ひめゆりの塔』の映画と共に閉じてしまったのであった。

[6]日本への復帰

   昭和47年に沖縄の復帰が実現した。佐藤首相が『沖縄の復帰なくして、日本の戦後は終わらない』と、記者会見で涙ながらに語った時、心底共感した事を鮮明に思い出す。
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日本の中の外国!?

[1]人文地理

   名古屋空港から那覇までは往路2時間30分、復路1時間55分。南北だけではなく、東西の移動距離も長く実質40分の時差があり、偏西風の影響は往復で35分もある。名古屋空港出発国内便では北海道の女満別を越える最遠地にあり、上海とほぼ同じ距離になる。

   2月20日(木)の名古屋空港はまだ冬だったが、沖縄の気温は10度も高く、既に初夏そのもの、眩しいほどの明るさだ。その瞬間、その対極『異国の丘』の一節『…淡い雪空、陽が薄い…』に思いを馳せた。最後のシベリア抑留兵が祖国の地を踏んだ季節はいつだったのだろうか?。天気にも恵まれ、飛行機から見下ろした海は紺碧だった。太陽光線の入射角度も影響しているように思えた。巨大な煙突も見えず、空気の透明度は日本離れしている。

   枯れた草や芝生を見掛けない。島中が濃緑に覆われている。台湾やベトナムの植物相と同じ亜熱帯の景観だ。ブーゲンビリアやランなどが屋外に咲き乱れている。ベトナムのハイフォンで見掛けた、羊歯に良く似た葉が茂った火炎樹の新緑が輝くほどに美しかった。満開の花が視野に入ると外国に来たようにすら感じる。

   沖縄にはまだ税制の恩典があるようだ。レギューラーガソリンは本土の半額に近い1g55円。市内には免税店が溢れている。日本国内なのに空港で免税品が買える。久しぶりに1,900円のシーバスリーガルを3本買った。

[2]海行かば 
  
   ガイドの説明では沖縄戦で最も愛唱されたのは『君が代』ではなく『海行かば』だったそうだ。『海行かば』には切々たる兵士の心情が溢れている。

   『海行かば』は万葉集第18巻、大伴家持の長歌中の句『海行かば水漬く屍、山行かば草むす屍。大君の辺にこそ死なめ顧みはせじ』に由来する歌と知る人は、私の世代では意外に少ない。元海軍儀式歌。明治13年、宮内省伶人東儀季芳作曲。

   近代以前の戦争は兵士間の戦いであり、一般市民は戦争とは無縁だった。民族国家が成立する以前は、どこの国でも同民族の中で戦争をしていた。万葉集の時代の兵士は大和朝廷が支配する辺境まで出兵していたが、その時の防人の心境も近代戦の兵士の心境も驚くほどに似ている。誰のための戦いかが形式的に違うだけだ。

   大和時代は天皇、戦国時代は藩主、明治以降は天皇。しかし本当の理由は家族や日本民族のためと思っていたのではないか?。死の危険性が高ければ高いほど、自らの死を納得させるための理由が要る。

   戦場に散って行った沖縄の人々は『戦後まで生き残るだろう同胞が、幸せになることを信じて戦いに行くんだ』と思う以外に、自らの運命を受け止める事はできなかったと思う。彼等には日本人としての自覚が百%ありながら、本土の日本人が『沖縄人は外国人だから、全滅しても悲しむほどの事ではない』などと思っていたとしたら、何たる悲劇!。

[3]マーケット    

   那覇市内には大型の公設市場があった。1階が食料品売り場、2階は食堂街。『1人3種類までの食材は、2階のレストランのどの店でも 500円で調理します』との張り紙を目にした。

   私は 600gの生きている伊勢海老と 500gのシャコ貝を買い、お刺身とみそ汁にしてもらい2人で食べた。初めて食べたシャコ貝の味はサザエにそっくりだった。コリコリとした快適な歯触りを楽しんだ。会計の時に調理代として1000円を請求された。最初は騙された気がした。                         
   
   しかし、よくよく日本語を吟味すると『1人が同一食材を大量に買って調理を依頼し、大勢のグループが別けて食べて 500円を支払う』方が不自然。食器なども人数に比例して使用するのだから、食べる人1人につき 500円の調理代と理解すべきだったのだ!。

   ここの雰囲気は台湾やベトナムの公設市場にそっくりだ。取扱商品の種類や販売法も大変似ている。肉売り場の商品は大きな固まり肉か部品単位だ。豚の頭、足、耳などが積み上げられているのは壮観だ。日本の肉屋とは全く異なる売り方だ。

   しかし、大きな固まり肉がゴロゴロしていても屠殺場の凄惨さは感じられない。血抜き済みの商品だからだろうか?。アジア各国との違いは冷蔵庫が完備している点と、各種の肉の燻製品が豊富な点だ。霜降りの和牛は沖縄では人気がないのか、見掛けなかった。

    500〜1,000gもある大きな活伊勢海老やタイで見掛けた2Kgもある青虫のような海老も売っていた。色や形は違っても重量当たりの価格は同じだった。本土と違い、魚介類は全て重量を計って売るシステムだ。この習慣もアジアと同じだ。
   
   野菜や果物売り場もアジアのマーケットに瓜2つだ。本土では見た事もない濃緑色の野菜が多い。ニラのように葉の幅が狭い野菜が多い。キャベツのような結球野菜は少ない。ニガ瓜のような沖縄特産の野菜も豊富だ。お刺身になる食用サボテンも売っていた。

[4]観光開発

   私は世界の観光旅行地を3種類に大別している。@珍しい動植物やグランドキャニオンのような大自然の産物。Aピラミッドやモナリザに代表される人間の努力の結晶。B世界的なブランド品や珍しい料理に出会える、今まさに活動している現場だ。

   戦争で破壊されてしまった小さな沖縄に、観光に値するような場所が、戦争に因む所以外にあるのだろうか?と疑問に思っていた。所が世界的な規模ではなくとも、私にも満足できる場所があちこちにあったのだ!。

   @に属するものとしては、玉泉洞、珊瑚礁、太平洋に浸食された絶壁の上の万座毛。Aでは再建されたものとはいえ、首里城公園、琉球村。Bでは那覇市全体が既に観光対象だった。それらの1つ1つが、観光客を満足させるべく、美しく管理提供されていたのだ。
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沖縄おちこち

   到着初日の午後は南部、翌日は中北部中心だった。正味1日半だったが沖縄の観光人気ポイントの殆どを網羅していた。それだけに1ヶ所当たりの時間は短く、走り回るほどの慌ただしさだったが、料金も安い事だし、苦情をいうほどの事情では全くなかった。

[1]ひめゆりの塔

   沖縄本島の南端近く、不運にも洞窟で散った乙女達(県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部出身者からなる従軍看護婦)の遺骨を祀った慰霊塔が、今や沖縄観光の目玉として終日賑わっている。今回の観光ポイントでは3ヶ所で団体記念撮影をしたが、その1つがここ『ひめゆりの塔』前であり、他は天然の景勝地『万座毛』と首里城公園入り口にある『守礼の門』前であつた。
          
   近くには大型観光バスが数十台は駐車できる大駐車場も整備され、門前市も大規模化している。『ひめゆりの塔』前の献花の量に驚き、入り口近くにある献花専門の花屋に舞い戻り、1束 200円の花を抱いて記念写真に収まった。花を買っていたのは同行者の中で私1人だった。記念写真を撮る場所は何処も大混雑している。観光客はトコロテン式に追い立てられて行く。

   記念碑の奥の方に1989年、平和祈念資料館(入場料 300円)が併設された。中庭には美しく花が一面に密植され、雑草もなく行き届いた管理に心が洗われた。資料館の中には当時の遺品や写真も多かったが、残念ながら説明書を読む時間がなかった。資料館内の一角には人工の洞穴を築いて復元した実物大の野戦病院があり、運よく生き残られた数名の方々が交替で、当時の凄惨な状況を説明されていた。

   『負傷兵が運び込まれても麻酔薬もなく、皆で体を押さえ付けて手足を切るような手術をせざるを得なかった。化膿した傷口に繁殖したウジが夜間、肉をバリバリ食い千切る音が聞こえ、泣いているゆとりはなかった』などとの、鬼気迫る解説には今更ながら呆然となり、溢れ出る涙を押さえながら直立不動のまま聞き入った。

[2]摩文仁(まぶに)の丘

   本島最南部にある沖縄戦終焉の地。この丘一帯は国定公園に指定され、32.1fが平和祈念公園として美しく維持されている。平和祈念堂・平和の鐘・平和祈念資料館があるほか、各県別に地区割りされ、それぞれの都道府県に因む木々や花に囲まれた一角には、判明した全戦没者の名前が彫り込まれた慰霊碑が立ち並んでいる。合計では約20万人に達するそうだ。

   愛知県は海岸を望む絶壁の上に割り当てられており、見晴らしに恵まれている。福岡県の慰霊碑では『石松**』氏の名前を1人見付けた。

[3]健児の塔

   『摩文仁の丘』の先端にある『健児の塔』は天空高く聳えていた。沖縄師範学校の職員と生徒の慰霊碑である。大きな洞穴で起居し、崖下の湧き水を汲みに行くのも命懸けだった。

   ここからは前方に高さ30m位の絶壁が見える。戦争末期、婦女子が集団投身自殺をしたそうだ。痛ましい。

[4]玉泉洞&王国村

   昭和40年代に発見され、観光資源として開発された目も覚めるほどに素晴らしい景観の鍾乳洞である。全長5kmの内 890mを散策出来る。天井からぶら下がっている2万本もの鍾乳石は壮観だ。大根が干してあるように見えたり、山芋がぶら下がっているように感じたりもする。地面には石筍も鬱蒼と生えている。

   山口県にある秋芳洞は洞窟内の空間体積では玉泉洞の10倍もありそうだが、鍾乳石も石筍も大部分が切り取られ、観光土産として販売されてしまった結果、洞窟内では自然の驚異に対する畏敬の念も、何の感動も得られなくなってしまった。昭和24年(小学4年終了)の春休みに、父に連れられて姉兄と一緒に行った時にはたっぷりとそれぞれがあったのに、誰がこんな愚かな事をしてしまったのか?。

   玉泉洞では太陽光線が出入り口以外からは入らないのに、10種類以上の魚なども生息しており、洞内の見学コースに沿って、その原寸大のカラー写真と共に説明文が掲示してあった。洞内には湧き水がせせらぎとなって流れていたが、透明度抜群で餌らしき生き物は見つからなかったのに、泳いでいる魚は多数見掛けた。観光資源化するために何処かで、こっそり餌を与えているのではないかとの疑問を感じた。

   観光客のための通路の管理は十分に行き届き、一方通行を工夫し洞内の魅力を見落とすことなく見学出来るように配慮されていた。最終地点には長大エスカレーターがあり、外へ出るのも楽だ。同じ道を引き返す場合に比べて親切なだけではない。

   洞窟外へ出ると、入り口までの地上の帰り道の周辺には別種の観光資源が用意されていた。亜熱帯特有の植物園や果樹園、琉球王国時代の村落の復元家屋、時間不足で見学出来なかったがハブとマングースの有料決闘ショー(別の場所で見た)御土産物屋など盛り沢山だった。

[5]万座毛(まんざもう)

   今日は強行軍だ。8時に出発。幹線道路を北上した。鉄道がない沖縄の渋滞は恒常的らしい。東側には米軍基地がゆったりと広がり、西側にはギッシリと詰まった日本側の市街や民家が続く。

   沖縄の水不足の象徴か?。各民家の屋上には2〜3dは入りそうな円筒状のステンレス製水槽が設置されている。平均気温の高い沖縄で水槽内の水質管理は大丈夫なのだろうか?。台湾でも戸別に水槽があったが、別の理由があるのだろうか?。

   マンションは本土の大都市ほどには見掛けない。豊田市レベルだ。郊外には1戸建ちの鉄筋コンクリート製白亜の豪邸が続く。台風対策もあって戦後の建築形式は一変した。

   かつて新聞で『沖縄では海砂を使うため築後10年も経たずして、鉄筋コンクリートはボロボロになっている』との報告を読んだが、そんな建物は全く見掛けなかった。何のためにあんなでたらめ報告がなされたのだろうか?。

   統計上の県民所得(1996年)は日本最下位であるが、民家を見る限りそのようには感じられない。50〜60坪クラスの豪邸が続くのは壮観だ。2階の屋上には屋根と柱だけがある吹き抜けのベランダを付けた家が多い。その上更に後日の増築を想定して、屋上には高さ50cmくらい柱が飛び出している。この飛び出た部分のコンクリートを割って除去し鉄筋を繋げば増築は簡単だ。

   道路から観察する限り沖縄の農業は衰退気味だ。荒れ地が目に付く。大きな茅が茂っている。砂糖黍と区別が付かないほどだ。ガイドの説明では穂が垂れているのが茅、真っ直ぐなのが砂糖黍。砂糖黍の出来も今一に感じる。野菜畑も果樹園も視野にはあまり現れない。

   2時間弱で目的地に着いた。本島中部西海岸の突端に高さ数十メートルもの絶壁があり、その傍らには緑に包まれたテーブル状の広場があった。万座毛は18世紀前半にここを訪れた琉球国王『尚敬』が『満人を座するに足る』と言ったのに由来するとか。風が強いためか巨木は見当たらない。奇妙な珍しい形の葉や花の木が自生していた。『毛』の語源は忘れた。接尾語だったか?。

   好天に恵まれ思わず『絶景かな!』と独り言。海底の状況に応じて色が異なる海面が広がる。珊瑚礁の有無、水深の程度、岩石の種類に応じて黒いほどの紺碧から明るいブルーまで輪郭も鮮やかに境界が分かる。遠くには巨大な全日空ホテルが聳え建っている。どの部屋からも海が見える設計。日本人観光グループを当てにした大部屋型式の日本間もあるそうだ。

[6]琉球村

   沖縄戦で消滅した戦前までの典型的な琉球家屋を復元して琉球村と称し、生活の一部も実演している。琉球の格式ある民家の場合、建物の玄関の真ん前に高さ2m長さ5m位の石を重ねた衝立がある。高速道路にあるトイレ入り口の衝立みたいだ。窓を開け放して生活しているための目隠しと、台風の風避けを兼ねた一石二鳥の実用品だ。                 
              
   門柱の頂点には一対の獅子の焼き物が魔除けとして飾られ、屋根の真ん中辺りにも獅子が1頭鎮座している。本土とは全く異なる風俗だ。訪れたことのある中国やアジアのどの国でも見掛けなかった。琉球王国特有の伝統だろうか?。

   砂糖黍絞りの動力源は水牛だ。円周上を水牛が女性に追い立てられながらのんびりと歩いて絞り機のアームを動かし、別の女性が砂糖黍を1本ずつローラーに差し込み、もう1人が後片付けをしている。3人掛かりの出演だ。ここの水牛には羊ほどではないが、豊かな体毛があった。ベトナムで見た水牛には毛が殆ど生えていなかった。水牛にも種類がいろいろあるようだ。    

   別棟の小屋では、絞りだした砂糖液を薪炊きの釜で多段階に渡って煮詰め、黒砂糖になるまでの工程を実演していた。観光作業なのでコストは無視している。カメラの無料被写体に過ぎない。

   焼き物工場では10mもありそうな『登り窯』を使っていた。厚肉に特色のある焼き物類の販売店も兼ねていた。ガラス工芸品も特産物らしい。ガラス工房もあった。カラーが多彩だ。中年の男が民族服を着て蛇皮の三味線を演奏しながら、民謡を寂しげに無表情で歌っていたのが気になった。人間自身が観光資源化しているのは、動物園の珍獣を眺めているようで落ち着かない。

   一角にはハブとマングースの決闘ショーのある小屋があった。すり鉢状の観客席には一度に 300人も入れそうだ。ガラス製の容器中央部にはガラス板が嵌め込まれ、その両側の部屋にハブとマングースが1匹ずつ入れてあった。

   ショーに先立つ前口上が延々と続く。場内で販売している生薬の類いの宣伝も続く。その間、係が棒でハブをつつき怒りを誘う。茶色のマングースは尻尾を含めないで体長20cm位。小形のイタチみたいだ。落ち着きのない二十日ネズミのように、狭いガラス箱の中を走り回っている。

   滑車の一方に吊されていた間仕切りのガラス板が引き上げられた。一瞬の間にマングースがハブの頭に噛み付く。さすがに天敵は強い。前口上で時間を稼がないと『ショーの体裁』も整わない。

[7]珊瑚礁    

   長さ10m位、屋根とエンジン付きのボートに 900円払って乗る。30人は乗れそうだ。繰り抜いた船底に細長い直方体の蓋のない箱が嵌め込まれ、底にはガラスが張ってある。箱の底から海底が覗ける。船縁には固定式の長椅子がある。椅子の下に救命具があるとの張り紙があったので覗き込んだが、見付からなかった。ガラスが岩に当たって割れても箱状の側壁があるため船は沈没を免れる構造になっていた。

   海岸から 100mも離れない内に珊瑚が現れた。野菜畑を真上から眺めているような景色だ。ウニも点在する。数百m沖合に出ると海底一面に隙間なく珊瑚が茂っている。テーブル珊瑚は平ぺったい形をしている大きなキノコのようだ。幾重にも立体的に重なっている。珊瑚は動物なので重なりあっていくら日陰になった場所でも、生きるに支障はないようだ。全部褐色だ。赤い珊瑚は 200〜300mの深さに生息。土産物は塗装した珊瑚だそうだ。

   枯れ木のような形をした枝珊瑚もあった。珊瑚が大量に育つ海底深度は限られているようだ。海水は予期せぬほどに透明で、20m位の海底も極めて鮮明に見通せる。かつて摩周湖の透明度は世界一(今はバイカル湖らしい)で有名だったが、海は海岸近くでもこんなに透明ならば、太平洋の真ん中の透明度は湖とは比較にならないほどではないか?。                       

   カラフルな熱帯魚の大群が泳いでいるが魚体は小さい。船の壁には20種類くらいの魚の写真が張ってあるが、泳いでいる魚と見比べ短い時間で種を特定するのは難しい。小さな鬼ヒトデも散見された。

   朝日新聞で『沖縄の珊瑚は観光開発に伴って流失して滞積した土砂と、鬼ヒトデの異常繁殖により全滅に近い』との報道をしばしば見掛けたが、これまた大違いであった。マスコミの報道姿勢は常に人目を意識し、針小棒大で大袈裟だ。日本人の知的レベルの低さの象徴か?。
                       
   マッカーサーに『日本人の精神年齢は12歳だ!』と冷笑されても反論するのは今尚困難だ。珊瑚の生態を見たのは初めてだったがいずれの日にか、世界一の群生地と言われているオーストラリアのグレートバリアリーフを訪ねたい、と思わずにはおれないほどの感動だ。

[8]琉球ガラスの郷

   ガラス工房もあちこちにあったが、観光コースに組み込まれているだけあって、見せ場に工夫がしてあった。男女2人がショー形式で複雑な花瓶を5分位掛けて作り上げた。男性が作業の担当、女性はその途中で必要となる素材を少しずつ窯から取り出しては手渡す。第3の女性がマイクで作業を説明する。        
  
   工房の壁1つ隣は大きな販売店だ。どこから仕入れて来るのか、実用品から装飾品まであって壮観だ。一角では銘菓などガラス工芸品以外の製品も売っていた。珍しく時間が余ったので吹き曝しのショー会場に戻ったら、人目に付かない屋外で、先ほどの3人が肩を寄せあって、カップラーメンをすすっていた。

[9]パイン園

   パイン園とは名ばかりの巨大レストランだった。パインは片隅に20〜30坪ばかりの畑に植えてあるだけだった。パインは植物体の中央部が成長して果実となるので1本から1個収穫した後はひっこ抜き、また苗を植えるものとばかり思っていたら、数年間は連続して収穫出来るそうだ。脇目が育つのだろうか?。

   シーズンには客が毎日2,000人も来るそうだ。当日は約1,000人だった。入り口の壁には当日の予約団体、数十組分の進行管理表が貼ってあった。旅行社・人数・添乗員の人数・メニュー・到着予定時刻・担当者など簡潔な内容だ。観光旅行社に取ってこの種のレストランは必需品だ。食事の待ち時間が不要で客にとってもあり難い。

   団体客に重点志向した北海道の巨大レストランの舞台裏をテレビで見た事があるが、まさにその沖縄版である。番号が書かれた立て札が各団体ごとのテーブルの端に立ててあり、場所も探し易い。当日の昼食は牛肉をメインにしたバーベキューだった。

   客が揃うと一斉に火を点け、飲み物の注文を取りに来る段取りになっていた。隣のグループとはメニューが違う。食堂出口には巨大なお土産屋が客を待ち構えていたが、どこの店も商品は同じような構成だ。ビールを飲み、試食品を食べるだけで満腹気味だ。

   何処の観光ポイントでも駐車場には大きな御土産屋が併設されていた。バスへの集合時間までに残された数分間が書き入れ時のようだ。クオーツ時計が普及した結果、仲間は1分とは遅れずにバスへと戻る。

   商品を覗き込んでいる内に沖縄の特産物に関する現物情報が頭に入った。銘菓の代表は『ちんすこう』だ。豚脂、小麦粉、砂糖を主原料とするお菓子だ。ガラス製品、焼物の花瓶や食器もあったが輸出競争力は感じられない。

   何処の御土産屋でも地酒『泡盛』を売っていた。蒸留酒(焼酎)の一種でアルコール度は何種類にも多段階に分かれている。粟か砂糖黍が原料かと思っていたら、米と黒麺菌と水だけで作るそうだ。3年以上のものを『古酒』と称し10年ものもある。瓶の形も様々だが容量は 700cc前後のようだ。 
           
   勧められるのを幸いとあれこれ選んでは試飲していたら、ビールと違い酔いが一気に襲ってきた。3年ものと10年ものとの味の差を区別出来なかった。ウイスキーに慣らされた舌には美酒とは思えず、結局買わなかった。

   複雑な形をした緑石の彫刻品が安く売られていたので、疑問を感じて製法を質問。石を粉にして樹脂と混ぜた後、成型して出来上がりだそうだ。形が揃った製品が安く出来る筈だ。

[10]国営沖縄記念公園

   20年前の沖縄海洋博の跡地が記念公園になっている。海岸線に沿って2Km以上もありそうな弓なりの細長い敷地だ。園内で1回百円の巡回バスが運行されている程の広さだ。リフレッシュ工事や増設工事が多く、あちこちで回遊道路が突然進入禁止になったりしていて、時間を気にしている身には何とも苛立たしい。

   僅か1時間の自由行動ではほんの一部を覗くだけだ。海中には沖縄博のシンボルだった海底油田採掘装置(リグ)のように巨大な『テクノポリス』がひっそりと残されている。公園内に移植された木々は既に一抱えもある巨木に育ち、園内は至る所が花で埋められている。花を短期間で取り替えるためか花壇に移植するのではなく、苗を育てたポットのまま芝生の上に並べていた場所もあった。

   海沿いの散歩道を歩いた時には、初夏の陽射しを浴びて一汗かく程だった。一角には入場料 660円の巨大な熱帯ドリームセンターがあり、2,000株のランと2,000株の巨木が生い茂る温室が10棟以上もあった。満開の大きなランの鉢が巨大な温室の壁面一杯に何段にも飾られていたのは壮観だった。デパートの花屋を百倍にも大きくした感じだ。

   あちこちで見た民家を復元した琉球村が、ここにもゆったりとした敷地一杯に整備維持されていた。民家の中では民芸品などの御土産を作りながら即売もしている。琉球式米倉は高床式の茅葺きだった。

[11]首里城公園

   首里城公園の中には戦災で消滅した首里城の復元物があり、沖縄観光の目玉としての集客力では、他の観光ポイントを圧する貫禄だ。門前には巨大なバスセンターが建設され、地下1〜2階は大型観光バスを50台以上も軽く収容できる。

   『守礼の門』は4本の柱の上に2段からなる瓦葺きの屋根が乗っかっている奥行きのない中国形式の門だ。日本の鳥居は屋根もなくデザイン的には単純だが、中国形式の門は屋根の形を工夫し豪華絢爛だ。その上、大きさも手頃でカメラに程よく収まり記念写真向きだ。

   門前は団体客の記念撮影の待ち行列でごった返している。民族衣装を着た女性と一緒に写真を撮ると当然モデル料を請求される。お土産物屋がモデルを雇用して只で写させればもっと賑わうのにと、商魂の使い方に意見をしたくなった。

   入場料 640円の首里城正殿の形は東大寺金堂(大仏殿)に似ていた。中国系の建物よりも日本的なイメージが強いが沖縄特有の飾りも散見された。正面には一対の『立ち上がった龍』が門柱のように据え付けられている。

   鬼瓦の代わりは龍頭だ。建物内部も復元され、琉球の民族服を着た男性もいた。沖縄の人は概ね髭が濃い。色も若干黒い。東南アジア人は一般に髭が薄いので明らかに異なる人種だとの印象を受ける。

[12]那覇市の繁栄

   沖縄は群島とはいっても全部合わせた面積は大阪・香川・東京・神奈川よりも広く2388平方Km、福岡県(4911平方Km)の半分もある。人口は1995年の国勢調査で 127万人。全国の1%を占め、鳥取・島根・高知・福井・徳島・山梨・佐賀・香川・和歌山・富山・宮崎・石川・秋田・大分・山形よりも多く、福岡市に近い。
 
   昭和21年1月15日の調査では女/男(21〜45歳合計)の比率が約 2.5にも達する程のアンバランスだったが、その後1995年の国勢調査では 1.038になり、全国比 1.039よりもむしろ男子人口が多い位に回復した。

   那覇市30万人の繁栄振りは人口33万人の豊田市など物の数ではない。第2次産業都市の繁栄は、残念ながら観光都市にはとても敵わない                          

   しかも、1980〜1985年間の人口増加率は 6.6%で、千葉・埼玉・奈良・神奈川・滋賀に次ぎ第6位となり、全国( 3.4%)の約2倍にも達していたのに、1990〜1995年間の人口増加率は一転してマイナス 4.2%となり、2位島根県のマイナス 1.2%の3倍半に達したのは何が起きたのだろうか?。何処へと移住したのだろうか?。

   那覇市の中心街の幹線は正式には『国際大通り』だが、鉄道のない沖縄では道路の渋滞が慢性化し、名前から『大』を削除し、通称が『国際通り』になったそうだ。この通りには『沖縄三越』と『沖縄山形屋』(山形屋は鹿児島市の地域一番店)の百貨店もある。

   通りには御土産専門店だけではなく、地域の人々に密着した食料品店、飲食店、酒屋なども夜遅くまで賑わっている。散歩している観光客の多さには驚くばかりだ。

   大通りに直交して1000mを越えるアーケード街もある。那覇の繁栄が基地に落ちるお金だけではなく、沖縄の大人口と観光客で支えられている事情は、火を見るよりも明らかである。愛知県でこんなに賑わっているのは名古屋市の地下街だけだ。
   
   日本民族のために『生贄』になったに等しい沖縄がこんなに繁栄しているのを目の当たりにして、ホッとするものを感じた。幸いにして生き残る事が出来た日本人は、戦場に消えた人々の慰霊の旅に沖縄を訪れるだけではなく、大金を消費する事も『供養』に繋がるのではないかと思わずにはおれなかった。
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おわりに
 
   沖縄では九州大学航空工学科時代の級友が働いていた。日本航空に就職しその後『沖縄エアポートサービス』に転籍した松村和幸氏である。氏と最後に会ったのは5年前、卒業30周年記念の同窓会を博多で開いた時である。氏はその半年後、奥さんに先立たれた。久しぶりに再会出来るのを楽しみにしていたが、突然インフルエンザで39度を越える高熱に襲われて動けないとかで、お会い出来なかった。

   沖縄に関する沸き上がるほどの疑問を解消し、我が身にいずれ訪れるかもしれない老後の孤独の解消法についてもお尋ねしたかったが、残念なことに果たせなかった。電話でほんの僅かな消息を伺っただけだ。

   今は水彩画を楽しみ個展も開かれるほどの腕前とか。大学時代に婚約されていただけあって子供達も既に社会人となり、氏はゴルフを楽しむだけではなく、この3月14日からは1週間もカナダへスキーに出かけるそうだ。

   何か切っ掛けがないと人生をじっくりと回顧したり、旧交を暖めたりする事は面倒だ。何か事をなそうとすると、閾値を越えるだけの決意(エネルギー)が要るからだ。今回の沖縄小旅行も計画的なものではなかったが、旅費の安さが閾値を乗り越えさせてくれた上に季節にも恵まれた結果、それなりに満足出来た。

   本日(3月11日)新聞屋の折り込みちらし広告で、下呂温泉の大型観光ホテル『アルメリア』の新機軸が紹介されていた。夕食には『中華・イタリア・フランス・ブラジル・日本料理』取り混ぜてのヴァイキング方式を採用。過去 400日間で10万人が利用したそうだ。希望者には部屋食も用意されている。数年前にアルメリアに出かけたが、その時は部屋食方式だった。            

   10日前、今回の追憶執筆に着手した際、温泉旅館への不満を真っ先に書き始めたが、この新機軸の広告を見て、不満を持っていたのは私だけではなかった事を知る。自宅からも近いし、再度アルメリアに出かけたいと思う。我が旅は何時もこのように行き当たりばったりなのだ!。
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