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旅行記
           
日本

■四国(平成19年2月20日脱稿)

   私にとって地理に関する勉強は中学1年の社会科が最後だった。社会科は教頭の兼任。校務で忙しかったのか授業の半分は休講。宿題ばかりでまともな授業を受けた記憶は無い。

   でも私は旅行が趣味だった父の影響で、人文地理への異常な関心が芽生えていたためか、旺文社の大学受験用参考書『人文地理の研究(上・下)』を古本屋で買い求めて勉強した。中学生用の教科書はデータが少なく内容があまりにも貧弱だったからだ。
   
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はじめに

   学生時代にはお金もなく国内旅行は殆どしなかった。就職後の独身時代には友人に誘われて山登りやスキーに時たま出かけていたが、回数は大変少なかった。今と異なり国内パック旅行の企画もなく、結婚後は安上がりな国民宿舎やトヨタ自動車の直営保養所巡りを妻子と共にしていただけだ。

   40歳代の終わりに希望して海外部門に異動したら海外出張が増え、世界の歴史や地理へのかつての関心が突然復活して海外旅行に目が向き、国内の連泊旅行は中断したのも同然になった。

   福岡県に生まれ育った私には九州と四国の違いには、子供の頃大きな関心をそそられていた。四国の面積(18,297平方Km)は九州(36,726平方Km)の半分もないのに、山も川も四国に軍配が上がるのが何だか悔しかった。
 
   四国の石鎚山(1,982m)や剣山(1,955m)は九重(くじゅう)連山(1,791m)よりも高く、渡川(196Km)や吉野川(194Km)は筑後川(143Km)よりも長いことに気付いたからである。

   年末を迎えても大掃除をする気も起きず暇をもてあまし、何気なく旅行社の資料をめくっていたら、阪急トラピックスの『日本最後の清流・四万十川を訪れる、はじめての四国周遊3日間。二人で5万円』が目に留まった。

   私は未踏県が5ヶ所あることをふと思い出した。四国四県と山形県だ。暇つぶしと未踏県抹消の一石二鳥を目指していそいそと申し込んだ。来春は結婚40周年(ルビー婚式)。山形県は思い出深い人生の節目を過ごすために大事に残しておきたくなった。
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蛇足。

@ データの出典

    ガイドブックには四国最長の川は吉野川と記載されているものもあるが、各河川のデータ(長さは幹川流路延長)は国土交通省河川局平成13年発行の資料を転載している理科年表2002年版に従った。

A 河川名の由来

    渡川(わたりがわ)の正式名称は、平成6年7月25日付けの建設大臣告示により、『四万十川(渡川)』へと変更された。それ以前から使われていた四万十川とは俗称。私には『四万十』の語源は解明できなかったが、水量の多さから『四万斗』を連想している。

   一説にはアイヌ語のシ・マムタ(大変美しい)からきたとも言われるが、四国の方言にアイヌ語由来の言葉が沢山あるのならばいさ知らず、俄かには信じがたく・・・
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12月27日(570Km)

   初日の走行予定距離は何と570Km。殆どが高速道路とは言え、観光時間よりも走行時間の方が長い。年末にはお歳暮の宅配を初め物流量が瞬間的に増えるだけではなく、帰省シーズン到来でもあり渋滞の頻発を予想していたが、あっけないほどに流れは順調だった。
   
   20年以上前までは家族5人だと一番安上がりに付く車で福岡県まで帰省していた(今は2人なので自動車は勿論、新幹線よりも速くて安い飛行機を愛用。名古屋=福岡間は新幹線と飛行機の激戦地帯であるためか、航空券はいつでも大安売りされている)が、当時の京都〜吹田JC〜宝塚(中国道)間は常に大渋滞していた。ところがいつの間にか道路の拡幅だけではなくバイパスも増えた結果、関西圏の高速道路事情は見違えるほどに改善されていた。

@ 明石海峡大橋(兵庫県)

   『吊り橋の支柱間距離1,991mは世界一』とガイドに幾ら強調されても、遥かに小さな金門橋(支柱間距離1,280m、全長2,790m。主塔の高さ230m)に、見た目の迫力や景観美で負けてしまうのは何故なのか。

   橋の長さ、主塔の高さ、海面からの橋桁の高さ、メインケーブルの曲線の形のバランス、塗装の色が橋の景観に直結しているように、私には思えてならない。特に支柱間距離/主塔(明石=6.67、金門橋=5.57)が見栄えに強く影響するように感じられるのだが、読者はどのように評価されているのだろうか。

      バスは一瞬の間に通り過ぎ、写真も撮れないまま・・・
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蛇足その1。

   吊り橋のメインケーブルの形は力学的には『catenary、カテナリー、懸垂曲線』と呼ばれている。吊り橋やロープウェー、送電線や電車の架線がその典型例である。

   カテナリーの命名者はホイヘンス。ラテン語でチェーンを意味する "catena" に由来する。カテナリーの曲線を表す微分方程式を最初に誘導したのはヨハン・ベルヌーイライプニッツらで、1691年

      人に美しく見える火山や美しく感じる吊り橋に共通する性質は、高さ/幅ではないかと私には思えるが、コストが優先される巨大建築の場合、美観主義のデザインの実現は残念ながら難しいか?


蛇足その2。

インターネットから

   全長3911m、中央支間1991mで世界最長の吊り橋である。明石海峡大橋の主塔の高さは海面上298.3mであり、国内では東京タワー(333.0m)に次ぐ構造物である。1998年(平成10年)4月5日に供用が開始された。建設費は約5000億円。

   建設当初は全長3,910m、中央支間1,990mであったが、1995年1月17日の阪神・淡路大震災で地盤がずれ、1m伸びた。

   明石大橋は明石市の明石川を国道2号が渡る橋として既に存在する。なお明石大橋とは呼ばれるものの、兵庫県明石市とは接していない。

   建設に使われた材料は、アンカレイジや主塔基礎に使われたコンクリートが約142万立方メートル、それらに支えられる主塔、ケーブル、橋桁などの鋼材が約20万トン。
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   鉄筋コンクリートの建物は平均すれば床面積1平米につき鉄筋100Kgと生コン1立方メートルが使用される(昨年来マスコミを賑わしている構造計算書偽造問題で建築基準法に違反していると指摘された建物の場合、鉄筋使用量が平米当り50Kg前後が多い)が、明石海峡大橋の場合は橋桁などには生コンは使わないので、鋼材に対するコンクリートの使用比率は低くなる。

   鋼材使用量から計算すれば200万平方メートルの建物に相当し、ペンタゴン(床面積34万平米)よりも大きく、世界一延べ床面積が広い駅舎である名古屋駅(41.6565万平米)の約5倍、東京駅前に君臨していた我が国初の大型鉄筋コンクリート建築物である旧丸ビル(62,000平米)の約30倍にもなる。

A 鳴門公園(徳島県)

   大鳴門橋と渦潮を眺めるために作られたような小公園だった。公園内のレストランで昼食兼休憩。
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インターネットから

   橋長は1,629m、中央径間は876m、幅は25m、主塔の高さは144.3m。橋は上下2層式となっており、上部は片側2車線の道路、下部は将来的に鉄道四国新幹線)を通すことが出来る構造となっているが、明石海峡大橋が道路単独橋で建設されたので、神戸からの鉄道が大鳴門橋に通じる可能性はなくなってしまった。
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   鳴門海峡の天下に名高い渦潮は発生する時間帯とのタイミングが合わず、小規模のものを眺めただけだった。渦潮見物は観光船に乗り至近距離に近づかないと臨場感に欠けるようだ。

B 金刀比羅宮(香川県)

   私は今回お参りするまで金刀比羅宮(ことひらぐう)を金比羅宮(こんぴらぐう)と勘違いして覚えていた。民謡の歌詞(こんぴら船々 追風に帆かけて シュラシュシュシュ まわれば 四国は 讃州那珂の郡 象頭山)からの連想記憶だったのだ。

   今年の年賀状は今回の旅行前に書いて投函したので、金比羅宮と間違えて書いてしまった。何事も現地現物で確認とは、トヨタ自動車に勤務中に身に付けた仕事の進め方の根幹だったのに・・・

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インターネットから

   金刀比羅宮の由緒については二つの説がある。一つは、大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、中世以降、本地垂迹説により仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現と称したとするものである。

   もう一つは、もともと象頭山にあった松尾寺に金毘羅が守護神として祀られており、これが金毘羅大権現になったとする。いずれにせよ神仏習合の寺社であった。海の守り神とされるのは、古代には象頭山の麓まで入江が入り込んでいたことに関係があるとされる。

   明治元年(1868年)の神仏分離令で、金刀比羅宮と改称し、祭神の名を大物主神と定める。また、祭られていた宥盛は厳魂彦命と名を変え、明治38年(1905年)には現在の奥社へと遷座される。

   古くから信仰を集め、こんぴら講に代表される金毘羅信仰を後世に伝えるため、昭和44年(1969年)8月5日、宗教法人金刀比羅本教の設立認可を受け、金刀比羅本教の総本宮となった。
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   金刀比羅宮一帯は狭い路地が入り組み一方通行が多く、大型バスがお土産屋の駐車場に辿り着くのにも一苦労。

   ボランティアで金刀比羅宮を案内しているという高齢のガイド(時間が無いので途中で買い物はするなと牽制。彼は駐車場を無料提供しているお土産屋の宣伝役も兼ねていた)に連れられて、お土産屋がびっしりと続く参道を歩く。やがて山腹に張り付いたようなくねくねと曲がった階段を登った。

   奥社(厳魂{いずたま}神社)は階段を1,368段登ったところにあるそうだが、今回のツアーは685段の位置にある本宮(桧皮葺の大社関棟造りで、大物主神と崇徳天皇を祭る)までだった。



   金毘羅大権現が海の守り神とされているためか、傍らの展示館には色んな奉納物が飾られていた。一際大きなものとして、堀江謙一氏がビールの空き缶で作ったヨットがあった。私より19日だけ若い同年齢の彼の努力と勇気に敬服!

   本宮の敷地の一角には国歌『君が代』の謂れとされた『さざれ石』が立派な立て札と一緒に飾られていたが本物なのだろうか?
 
   欧州各地には今や廃墟同然の建物を修復して世界遺産に登録している場合も多いが、世界に冠たる日本の木造建築美(世界には古くて美しい木造建築物は意外と少ない)を今に伝える各地の由緒ある神社仏閣城郭をどんどん世界遺産に登録して欲しいものだと痛感。日本政府は伊勢神宮や出雲大社の世界遺産への登録を何故申請しないのだろうか?

   此処からの眺望は素晴らしく、讃岐平野のあちこちにピラミッドのように孤立した円錐状の山々が眺められた。 でも、火山でもないのに(注。日本には144もの火山があるが、四国には温泉はあるのに何故か火山がない!)どうしてこんな独立した沢山の山ができたのか不思議でならなかった。

C 高知市内(高知県)

   我が国のまともな都市とはかつて路面電車が導入されていた町だけだとの偏見を持っている私には、今尚路面電車が運行されている高知市(土佐24万石の城下町なのに高知市と名乗り、西に土佐市が存在する奇妙さには驚く)にはそれなりの風格を感じてしまう。日没後の到着だったが、路面電車通りの両側に延々と建ち並んだ照明も美しい建物群の蓄積量は戦後派の豊田市など今尚足元にも及ばない。

   ペギー葉山さんのミリオン・セラー曲『南国土佐を後にして』で一躍有名になった『はりまや橋』は今や観光高知の新名所。しかし、暗闇の中の橋を車窓から一瞬眺めただけだが、排水溝みたいな狭い川に架けられた小さな太鼓橋に過ぎず、我が日本の橋梁の歴史に特筆されるような建築技術上の価値は何ら連想できなかった。

D 皿鉢(さわち)料理

   高知での宿の夕食は皿鉢料理の部屋食だった。皿鉢料理は初体験だった。大皿に食材の総てが豪華に盛り合わされて出された。

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インターネットから

料理としての起源

   農耕儀礼として行われていた五穀豊穣の祈願祭や収穫を感謝する収穫祭には、神前に様々な食材が供えられた。神事の後それら供えられていた食材をおろし、御厨(みくりや)などで神饌として調進した。

   できあがった料理は神に供えられるだけでなく、神事に参加した者も共に分かち合って食べた。この神と人が共食する酒宴を直会(なおらい)と言い、神と人が共に嘗め合う神事の一つであり、重要な儀式とされていた。こういった伝統を受け継ぐ料理は、明治の中頃まで鉢盛り料理や盛り鉢料理とも言われ、日本全国に残っていた。

皿鉢(サワチ)の由来

   皿鉢は「サワチ」以外にも、サハチ、サアチ、サラチ、サーチとも言われている。現代の皿鉢の源流である器は室町時代から作られていた。当時の器は比較的深みのある高坏で、浅鉢・深鉢・大皿・大鉢など器に合った名称で呼ばれていた。

   それらの器が皿鉢と総称され始めたのは江戸時代だと考えられている。土佐藩(現在の高知県)の禁令などに「砂鉢」や「皿鉢」と記されており、その他「佐波知」や「沙鉢」と当て字された記録もある。

皿鉢料理の基本

   高知では刺身を生(なま)と言い、生(なま)を盛った皿鉢と「組み物」の皿鉢、さらに「すし」の皿鉢を加えた三枚が皿鉢料理の一応の基本とされている。宴席が祝宴の場合にはこれに「鯛の活け作り」などが加わる。

   また季節の皿鉢として、鰹のたたきの皿鉢、鰤のぬたの皿鉢、夏場であれば「そうめん」の皿鉢などが加わる事もある。その上に「組み物」の皿鉢が二枚三枚と加わる事もあれば、少人数の宴席の場合は生(なま)を盛った皿鉢と、「組み物」の皿鉢に「すし」を盛り込んだ二枚で供される事もあり、人数に合わせて臨機応変に供されている。
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12月28日(350Km)

[1]桂浜(高知県)

   高知市の真南、中心街から程近い所に景勝地『桂浜』がある。太平洋に面し、岩・松・木・砂浜がバランスよく並び、心が癒される。でも、白砂でなかったのが玉に瑕。



   付近一帯は『桂浜公園』として整備され、桂浜を見下ろす丘の上には太平洋のかなたの国を睨みつけているかのような坂本竜馬の和服姿の銅像の顕彰碑があった。しかし、近くのお土産屋で売っていた写真とは大違いの、余りにもの美男子に仕立て上げられており、些か苦笑。



   尤も、明治維新前後に撮影された写真に映る日本人の人相には、最近の日本人と比較すると押しなべて美男美女が少ないと感じるのは何故なのか、私にはイマイチその理由がわからない。

[2]四万十川(高知県)
  
   四万十川は永い間マスコミを初め観光業者や国民から、その正式名称『渡川(わたりがわ)』を無視され続け、正式名称を知っている人も少なかった。正式名称よりも俗称の方が有名になったためか、政府は已む無く平成6年7月25日付けの建設大臣の告示で括弧つきではあるが、『四万十川(渡川)』を正式名称として遂に承認した。

  

@ 最大流量

   この川には大いなる特徴がある。国土交通省河川局指定の観測地点での平均最大流量日本一は四万十川(毎秒9,286立方m)。2位は木曽川(8,571立方m)、3位はこれまた四国の吉野川(7,396立方m)なのは一見不思議。

   観測地点から上流の四万十川の流域面積は石狩川の1/7(=1,808/12,697平方Km)しかなく、年間平均流量が四万十川(毎秒251立方m)の2倍を超える石狩川(561立方m)や信濃川(527立方m)に年平均最大流量で勝るのは、台風が四国山地の南面に集中豪雨をもたらす影響だけではなく、山高きが故に降雨が海へと短時間に流れ下るからだろう、と私は推定している。
   
   船頭によれば四万十川の洪水時の水位は予期せぬほどに高いそうだ。その痕跡は両岸の竹薮や樹木の色の変化で確認できた。洪水対策として欄干のない沈下橋(増水時には水面下になるの意)があちこちに架けられている。流木などによる橋の流失が阻止される生活の知恵の結晶だ。
   
   この沈下橋は2003年9月27日現在、四万十川には59橋もあるそうだ。インターネットにはそれらの一覧写真が紹介されていた。
   
A 川の生成過程

   四万十川には堤防が無い。その点では欧州の大河川に似ている。川下りを楽しんだ河口から30Km地点前後では川の両側にあるのは山の斜面。山が恰も堤防の代わりのようだ。この辺りでは流れは大変緩やかなため、水が上下どちらに向って流れているかも漣(さざなみ)を見ただけでは判別できなかった。   

   四万十川の流れを見ると、川がどのように生成されたかが理解できる。
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インターネットから

   1696年、ベルヌーイが次のような問題を提起した。「質点がある点 A からスタートして滑らかな斜面を転がり落ちるとき、最短時間で別の点 B まで辿り着くには斜面をどのような形にしたら良いだろうか」というものである。
   
   この問題は「最速降下線問題」と呼ばれている。ニュートンがこの問題を受け取った日に、仕事帰りで疲れていたにも拘わらず、一夜にして解いてしまったという伝説がある。
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   『複素関数論』の私の恩師は微分方程式を解き明かしながら、この問題の解が『サイクロイド曲線』になることを証明し、『日本の神社や屋根のカーブはサイクロイドに近い。屋根に落ちた雨水が最短時間で軒先まで流れ落ちる形だと、屋根の寿命が最長になる』と解説された。
   
   神社仏閣の屋根の形がサイクロイドに近いか否かの真偽は不明だが、学生に印象深く教える特技の持ち主だった。48年経った今でも私が鮮明に記憶しているのがその何よりの証拠だ。

   底が平坦な断面が一定の樋の中央に小さな円筒を垂直に埋め込み、極めて緩やかな斜面を付けて水を上流から静かに流しても、円筒の後には必ず渦が発生することをカルマンが発見した(渦の発生理由の粘性流体力学上の説明は割愛)。

   いわんや、山の斜面に集まった水が谷川を流れ下ると必ず渦が発生し蛇行を始める。蛇行が始まると水流が衝突する側の側面の土砂はますます抉(えぐり)り取られていく。側面に衝突した水流は反転して反対側の側面に衝突し、そちらでも土砂を抉り取ることになる。

   衝突している側の対岸の水流はゆっくりと流れるために土砂が堆積し、川原が形成されていく。

   四万十川を屋形船で移動すると、以上の現象の結果として形成され蛇行した川の中に、深淵と川原がペアとなった状況を確認できた。乾期になると船頭は常に深淵伝いに船を移動させ、浅瀬に座礁するのを避けるのが腕の見せ所のようだった。

   四万十川の川下り(弁当つきで3,000円)は屋形船の中で弁当を食べながら楽しんだが、船中にはアルコールの自動販売機が無く(停船中にも電源を働かせるのは非効率なためか?)些か物足りなかった。

B 清流の真偽

   船頭は『四万十川は世に喧伝されているほどの清流ではない。雨季になれば濁流が流れるだけだ』と強調して我が期待に冷や水。でも流域は工場も見かけない究極の過疎地帯。工業排水も生活排水も無きに等しく、自然のままの水だった。

   川面にはゴミも洗濯排水特有の泡も下水垂れ流しの異臭もなく、きらきらと漣が輝き、私には清流に感じられた。清流とは水道水のような透明な水の流れだと連想する方がおかしい。飲んでも人体に害がないなら清流と私は定義したかった。

[3]宇和島真珠会館(愛媛県)

   旅程表には宇和島真珠会館に立ち寄ると書かれていた。名前が立派なので三重県鳥羽市の『ミキモト真珠島』のような博物館を兼ねた真珠に関する展示や販売を兼ねた大型観光施設を連想していたのでがっかりした。

   各種真珠も売ってはいたがどこにでもありそうな単なるお土産屋だった。真珠の品質評価は私には全く出来ないし、二人の娘達も長男の嫁も宝飾品を身に付ける趣味が何故か全く無いため、お土産として買う気も起きず、各種の試食品を食べまくり、四万十川の川海苔製品を買っただけ。でも、川海苔と海海苔の味覚差を識別することは出来なかった。

[4]道後温泉(愛媛県)

   日没後だったが待望の道後温泉に到着。宿泊したホテルの直ぐ横に、1894年(明治27年)に建てられ夏目漱石も愛用した木造三階建ての『道後温泉本館』(重要文化財に指定されている)が今尚健在だった。


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インターネットから

   道後温泉(どうごおんせん)は愛媛県松山市(旧国伊予国)に湧出する温泉である。日本三古湯の一(愛媛県道後温泉・兵庫県有馬温泉・和歌山県白浜温泉)といわれる。

   その存在は古代から知られる。古名を「にきたつ」(煮える湯の津の意)といい、万葉集巻一に見える。なおかつてはこの周辺が温泉郡(湯郡)と呼ばれていたが、これはこの温泉にちなむ地名である。伊予国(いよのくに)という名前も湯国(ゆのくに)が転じたものという説がある。夏目漱石の小説『坊っちゃん』(1905年)にも描かれ、愛媛県の代表的な観光地となっている。

蛇足。

   万葉集巻一の額田王の歌『塾田津に船乗りせむと月待てば、潮もかないぬ今は漕ぎ出でな』の塾田津(にぎたず)とは道後温泉を意味している。
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   道後温泉本館の400円の入浴券が旅行社から無料で配られたので体験入浴した。今流行のスーパー銭湯の元祖みたいな風呂だった。男女別々。男性用のみ更衣室は一つなのに大きな浴場が二つあったが、内部の構造は瓜二つだった。

   浴槽は花崗岩製。全国的に有名な温泉なのに泉質には些か不満だった。硫黄などの温泉臭が乏しく、ぬるぬる感も少なく真水のように感じられたからだ。道後温泉全体としてはホテルが建ちすぎ、泉量がきっと不足しているのではないかと推定。

   2,3階は有料の休憩室だったが客は少なかった。3階の一角には夏目漱石が愛用した小さな和室があり、無料で公開されていた。更衣室で1人の欧米系の中年男に出合った。陰茎がやや細長いだけで亀頭が小さすぎる上に括(くび)れも浅く、おまけに陰毛も薄くて逞しさも見栄えも気の毒なほどに不足していた。

   当本館が建てられて112年経っているにも拘らず、老朽化を感じさせない構造には驚く。木造建築でも耐久性のある建物は法隆寺に限らず、作る気さえあれば可能だという歴史的な証拠品だ。

   道後温泉本館はホテルなどが立ち並んだビルの谷間に今尚現役状態で保存されているが、道後温泉の象徴という意味からだけではなく、世界に冠たる温泉文化日本の象徴としても、いつまでも建て替えずに残して欲しいと願いつつ・・・
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12月29日(550Km)

@ 大山祗(おおやまづみ)神社(愛媛県)

   天照大神の兄神である『大山積大神』を祀っている神社。全国にある10,326社の大山祗神社の総本社だそうだが、私は大山積大神を全く知らなかった。

   海の神、武人の神として信仰され、歴代の朝廷や武将が参拝。戦勝のお礼にと奉納された武具・甲冑は数万点。全国の武具・甲冑の国宝や重要文化財の約8割がここの宝物館に収蔵されているというのに、見学予定が組まれて無く腹立たしかった。

   境内にある根回り20m、高さ15.6mの楠の古木は樹齢2,600年と称しているが、『記紀』に記述された神話を信じれば大山積大神は2600年前の人物。その時植えられた木だから樹齢2600年と言うのがその根拠? 『紀元は2600年』との歌の一節を連想しただけ。樹齢の計測根拠も明示せずに自慢されても空々しく感じただけだった。

  

A 昼食

   待望の『讃岐うどん』は食べ放題(1,000円。幕の内弁当の付録がうどんだったとは、バス内での注文時には気付かなかった)だった。讃岐うどんの発祥地は香川県なのに、今や四国中のうどん屋やお土産屋にまで進出。

   胃がんの手術後はうどん一杯食べるのがやっとの私は、食べ放題コースの代わりに一杯だけの注文コースに変えた。本場だけあってしこしこ感は充分にあったが胃がん患者には向かない食べ物だ。充分に噛み砕くのに時間が掛かりすぎる。私には軟らかいソウメンや名古屋名物のきしめんの方が向いていた。

B しまなみ海道(愛媛県⇒広島県)

   しまなみ海道(西瀬戸自動車道、総事業費7,464億円)とは8つの島(そのうちの2島は大変小さいのでガイドブックの地図では見落としかねない)伝いに建設された10本の橋からなる59.4Kmもの道路である。全線が開通したのは僅か半年前の2006年4月29日だった。

   三連吊り橋である『来島(くるしま)海峡大橋』は1本と数えるのだと思っていたら3本の橋だった。『伯方(はかた)大島大橋』も2本と数えるのだそうだ。

   斜張橋・吊り橋・アーチ橋・上(車道)下(歩道)2段の橋など、橋梁技術の現物展示場みたいなものだが、全線開通後だったので昔の人たちの生活の苦労を偲ぶ時間も無くあっという間に通過してしまった。

   今治=尾道間はサイクリングも出来るように工夫されていた。しまなみ海道を堪能するには車ではなく徒歩か自転車こそがベスト。景観美に溢れる場所を選んで、せめて1時間程度の歩行区間を計画して欲しかった。
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おわりに

[1]旅の総括

   日本(377,835平方Km)の僅か5%弱、岩手県(15,278平方Km)よりちょっと(20%弱)しか大きくない小さな四国への初旅。しかもほんの数ヶ所の観光スポットを垣間(かきま)見たに過ぎないが、祈りに溢れる別の日本に出かけた感があった。

@ 巡礼者への気配り

   バスは幹線道路をひた走った。時折巡礼者を見かけた。巡礼者は小学生の遠足のような縦列団体ではなく、一人ずつが多かった。その時の発見である!

   幹線道路には巡礼者の安全確保のため全線に亘り、頑丈なガードレールで歩道は保護されていた。歩道の安全確保を四国ほど完璧に実現している都道府県には、私は今日まで残念ながら出会っていない。 
 
   四国には巡礼者をもてなす『お接待』の習慣が連綿と続いているそうだ。さすがは弘法大師の生誕地。私は日本全土で信仰心は消滅したと早合点していた。四国とは生きた化石のような敬虔な方々が溢れている別世界だったのだ。

   昨今、お接待の習慣に悪乗りした『偽巡礼者』が無銭旅行を企む事件が頻発している、との報道に接するたびに『この罰当たりめが!』と叫びたくなった。

A 墓地の管理

   高知県の海岸に沿って移動中にふと気がついた。南面傾斜で日当たりもよく、太平洋を眺められる絶好の場所に大規模な墓地が次々に現れた。

   墓地に雑草が生えていないだけではなかった。殆どの墓にお花が飾られていたのだ。生花か造花かはバスからでは識別できなかった。日本ではお盆やお彼岸には墓参りをする人は今尚多いが、年末でも四国のように墓を清掃し、美しく維持している墓地に出会ったことはない。

   ここにも、弘法大師のお膝元の人たちの素晴らしい生き方の片鱗が伺えた。

[2]今後の計画

   帰宅後、泥縄式に豊田市中央図書館からガイドブックを5冊借りて目を通したら、数え切れないほどの観光スポットが紹介されていた。限られた日数のパックツアーには組み込まれなくても、私にとっては何としてでも出かけたい数ヶ所が残されていた。海外旅行に飽きたころ、のんびりとドライブしながら回りたいと思っている候補地がまた増えた。

@ 自然

   日本の三大暴れ川(坂東太郎・筑紫次郎・四国三郎)の一つ吉野川。日本では最も細長い半島と言われる佐田岬半島の佐田岬や足摺岬に室戸岬。ギネスに1996年登録された世界一狭い(9.93m)小豆島の土淵(どふち)海峡。関が原と並ぶ天下分け目の古戦場である高松の屋島。
   
   私は自然界の特異点(数学や物理の術語。例えば微分不可能な点)が大好きだが、山登りは体力減退と共に諦めてしまった。西日本の最高峰である石鎚山は我が観光候補からは遂に脱落。
   
A 人工物 

   701〜704に建設され、821年に空海(丁度100年後の921年に醍醐天皇から弘法大師の諡号
{しごう}が贈られた)も築池別当として派遣されて補修事業を指揮し、その後も延々と補修維持されてきた日本最大の溜池と言われている満濃池(貯水容量1,540万立方メートル)。1962年に完成した豊田市の羽布ダム(三河湖、1,936万立方メートル)より少し小さいだけだ。 

   吉野川の上流には、佐久間ダム(3.27億立方メートル)に匹敵する、西日本最大の貯水容量(日本では7位)を誇り、渇水期にはマスコミを賑わす早明浦ダム(3.16億立方メートル、高知県)がある。
   
   日本の三名園(偕楽園・後楽園・兼六園)よりも立派そうな、江戸時代初期に100年以上もかけて作られた高松の栗林公園。特別名勝に指定されている庭園の中では日本最大の75ヘクタールもあるそうだ。

   横浜在住のトヨタ同期の元テニス仲間が引退の折、白装束に身を固め発願(ほつがん)〜結願(けちがん)までの巡礼の旅を3回に分けて敢行したが、それほどの気力も体力もない私は何処か一ヶ所のお寺の拝観だけで満足するのだが・・・。

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読後感

10数年前に四国へ行ったことがあります。当時の旅行記を書くとしたら 「瀬戸内海を船で渡った。のんびり出来ました。金乃比羅宮の石段はしんどかった。讃岐うどんはうまかった。以上」

石松さんの旅行記を拝読していろいろなことを教わりました。私の故郷 富山県東砺波郡城端町(昨年、近隣町村と合併して南礪市に改名)は子供の頃は豪雪地帯でした。冬季、襖や障子が重くなると屋根に積もった雪を下ろしました。大人の背丈ほども積もり、家中総出で2日もかかります。

大きな建物はどうしているかな?と城端善徳寺(小さい町には不釣合いなほど大きい寺)へ見に行ったところ、屋根に雪はまったく無い。ある程度積もると屋根の頂部から始動し雪崩のように斜面を滑り落ちる。加速度がつき軒先より遠くへ投げ出される。(参観者の出入口は冬季だけ逆V字型の囲いでトンネルが造られている)自動雪下ろしのためにこのようなカーブにしてあるのかと思っていた。ベルヌーイが提起した「サイクロイド曲線」と聞いて納得。

子供の頃はプールなんて無い。海も遠い。近くの川で泳いだ。蛇行した10M幅ほどの川。夏季は水量が少なく川幅の半分ほどは浅瀬が中州のように露出。私は当時泳げないので、背の立たないところは避けていたが、なだらかな浅瀬の反対側特に岸沿いが深いことを経験的に知っていた。四万十川の屋形船の船頭と同じ体験をしていたかとほくそ笑みました。

岩手県の面積ほどの小さな四国に、5,000億円もする「本州四国連絡橋」を3ルートも架けたとは!日本はなんという国だろうか?

関西国際空港の真横に神戸空港を造り、今又 中部国際空港の近くに静岡空港を計画している。新幹線の京都駅の東20Km余りの所(草津?)に新駅を造る案に反対した知事が当選したが、総論賛成・各論反対の国民性からするとどうなることやら?

妻作の「四万十川のちぎり絵」を添付します。現地へ行ったことはありませんが、本の絵を見て作成したものです。読後感が遅くなりましたのでお詫びの印にお届けします。

@ トヨタ先輩・ゴルフ&テニス仲間・囲碁の実力トヨタ自動車1・永遠の勉強家
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