本文へジャンプホームページ タイトル
旅行記
           
アジア
シンガポール(平成8年6月20日脱稿)

   中学校時代からの親友・入氏が勤務先の『永年勤続旅行』で海外旅行に出掛けることになったそうだ。『一緒にシンガポールに出掛けないか』と竹馬会幹事の田氏に誘われ、ノコノコと付いて行くことにした。                   

   この際、永年のご恩返しに多少なりともお役に立ちたいと、密かに自負もしていた『ビデオ撮影の腕』も披露することにした。それにしても今回の旅行が、こんなに楽しかった真因は何だったのだろうか? 
上に戻る
竹馬会を通じての長い付き合い

[1]巣立ち

   昭和37年3月27日に九州大学を無事卒業し、僅かばかりの身の回りの品を纏めて、自宅から2Kmに位置する鹿児島本線遠賀川駅のホームで家族に見送られ、小倉駅で夜行の急行列車に乗ったのは3月29日だった。トヨタ自動車工業への入社日は形式上4月1日だったが、入社式は翌日の月曜日だった。           
  
   初月給( 18,500円)の支給日は5月20日と分かっていたので、父からは当面の生活費&小遣いとして『8万円』を受け取った。これが父の保護者としての最後の支援だった。

   豊田市に転居した当初は、移民として見知らぬ世界に飛び込んで来たような心境だった。お喋りの相手は気の合った同期の友達しかいなかった。何時の間にか日曜日の過ごし方として、本屋での立ち読みが定着していた。    

   就職先が内定していた新三菱重工業(現三菱重工業)からトヨタ自動車工業に変更したのは『自動車産業はいずれ大産業に成長するだろう』との一般的な予想からだけではなかった。当時、郷里を離れて働く新婚サラリーマンの最大の課題は、どの様にして住居を確保するかにあった。 

   トヨタ自動車工業が、当時としては珍しいことに『大卒の独身寮は、家賃は高いもののセントラル・ヒーティング付きの個室、結婚すれば狭いながらも“2DK”のアパートへの入居を保障していた』ことに、大きな魅力を感じたからでもあった。        

   私自身は自動車会社で働いても製品としての自動車は、どこかの会社が事業用に買うものであり、自家用車を持つ時代が私の定年(当時は55歳)までに実現するなどとは夢想だにしていなかった。

   また、持ち家のある生活は『退職金でどこかに、何とかして建てるまではあり得ない』と確信していた。トヨタ自動車工業に就職した動機の半分は『最低限の生活が保障されている』ことに魅力を感じたことから生まれて来たのである。

[2]狂った予想

   未来の予想ほど狂うものは少ない。自動車の免許を昭和42年8月に取得するや否や、翌9月には初代カローラを購入。昭和43年3月21日に結婚。

   2週間もの新婚旅行には思い出の故郷、小中学校の修学旅行以外には出掛けた事もない九州を、車で一周(豊田⇒博多@日田・耶馬渓・別府・大分A城島高原・やまなみハイウエーB阿蘇・高森・天の岩戸・高千穂峡C青島・日南海岸Dえびの高原E霧島・桜島F指宿・池田湖・枕崎・吹上げ浜G湯の児・熊本城・水前寺公園・天草H雲仙I長崎・西海橋・唐津・J博多K遠賀(実家)L広島⇒豊田・累計3,600Km)した。車がこんなに便利だとは、買う前には夢にも思っていなかった。

   昭和43年秋に結婚した4歳年下の弟に、カローラを転売すると共にコロナに買い替えた。昭和45年春に 103坪の土地を購入し、昭和49年12月7日にはセントラル冷暖房完備の鉄筋コンクリート3階建ての自宅も完成。30年間は実現しないと思っていた生活に、僅か10年で到達するとは!。

   しかし、爾来21年経つものの、住宅ローンの返済と子供の教育費に追われて、生活水準が上がったと言う実感は全くない。

[3]帰省

   独身時代、夏冬2回の帰省直前は指折り数えてその日を待つ日々でもあった。超満員の夜行列車は名古屋駅から小倉駅まで15〜17時間も掛った。しかし、立ち詰めでどんなにヘトヘトになっても『懐かしの故郷の空気を満喫し、青春の一時を共有した友人達と再会出来る喜び』を思えば、さしたる苦痛とも感じなかった。

   ほんの最近NHK特集で、旧正月前の中国沿岸部の大都市(北京・上海など)の風物詩として、満員の帰省列車に鈴なりに乗り込んでいる出稼ぎ人達を紹介していたが、あの人達の心境との違いを何ひとつ発見出来なかった!

   古来、数多くの人達が故郷に関しての名言を残した。手元の小辞典にすら溢れるばかりに紹介されている。  

   @頭(こうべ)を挙げて山月を望み、頭を低(た)れて故郷を思う。…李白   
   A胡馬は北風に依り、越鳥は南枝に巣くう。…………文選(中国の詩文集)   
   B人間は生まれ故郷を去ることはできる。しかし無関係になることはできない。安部公房     Cふるさとは遠きにありて思うもの。そして悲しくうたうもの。…室生犀星   
   Dふるさとの山に向かいていうことなし。ふるさとの山はありがたきかな。……石川啄木    E人には、自分の住む土地に根づきたいという気持ちが、無意識のうちに働いているの     ではないだろうか。………………………………………庄野潤三   
   F故郷は忘(ぼう)じ難し。はた、忘ずべからざるもの也。………樋口一葉   
   G故郷は、故郷を離れて生きている人間の背中を、彼自身に見えるようにしてくれる。…     …………………………………………………………中村真一郎   
   H君、故郷より来る。応(まさ)に故郷のことを知るべし。……………王維
   
   奈良時代の文人『阿倍仲麻呂( 698〜770)』は唐に留学。唐からベトナムに派遣され、総督として大活躍。日本への帰国の船は不運にも難破し、唐に戻って生涯を終えた。彼の望郷の歌『天の原 ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも』ほど、人と故郷との切っても切れない関係の深さを表した言葉も少ない。
   
   故郷に深い価値を発見しているのは、中国人や日本人だけではない。東洋人よりも独立心が強いと言われている西洋人も例外ではない。人間の本性なのだ。手元にある小さな『世界名歌集』には、何と多くの歌詞に『故郷』と言う言葉が出ている事か。懐かしい我が家、友達、家族などの言葉が出て来る歌詞まで拾い挙げると切りがないほどだが、本質的には同じ心情のようだ。

   @故郷の人々(はるかなる スワニー河 岸辺に…)……………フォスター   
   A旅愁(ふけゆく秋の夜 旅の空の…………………)…………オードウェー   
   B峠のわが家(……おお ふるさと…………………)………フォークソング   
   C故郷を離るる歌(…さらばふるさと………………)………フォークソング
   
   小倉駅で夜行の急行から各駅停車の電車に乗り換えて、遠賀川駅に至るまでの30分、この時ほど心が浮き立つ瞬間は少ない。電車の窓にしがみついて外を眺めている。やがて遠賀川の鉄橋まで来ると、小学校時代の遠足で何度も登った思い出溢れる『尾倉山』( 210m)がはるか4Kmの彼方から視界にぐんぐんと迫って来る。
 
  私の大好きな愛唱歌、美空ひばりさんの最後の大ヒット曲『川の流れのように』の一節『振り返れば、はるか遠く、故郷が見える』のイメージそのものだ。電車を降りると足は急に軽くなり、タクシー乗り場へと無意識の内に走り出している。

   この遠賀川は知る人ぞ知る1級河川。福岡県の最高峰で日本3霊山の1つ、英彦山(1200m)に源流を持ち、筑豊炭田のど真ん中を貫流し、玄海灘に至る。県下では筑後川に次ぐ大河川。長さ63Km。

   鹿児島本線の旧鉄橋の桁数は8個、筑豊本線は同14個。最大部の川幅は約1Km。中流域の直方市の辺りには川中島もある。下流の芦屋町には河口堰が建設され、北九州市の大水源としても活用されている。小学校の頃、遠足でこの川に架かる国道3号の橋を渡る時には、歩数を数えて川幅を推定するのが私の習慣だった。
                                    
   一刻千金に値する帰省期間はいくら忙しくとも楽しい瞬間だった。約20年間過ごした『1,700uの屋敷内』を隅から隅まで、庭木の1本1本に至るまで、どこか変わった所がないかと、嘗め回すように観察し終えるや否や脱兎のごとく、小・中・高・大時代の親友訪問。
                             
   就職時に餞別をくれた親類への挨拶回り。少年時代に駆け巡った近所の山々や北九州&福岡市の中心街をぶらつき、母校九大に恩師を尋ねた後、キャンパスを歩き回り、工学部本館地下にある学生食堂に立ち寄って『チャンポン』を食べるのが何時の間にか習慣化していた。   

   寸暇を惜しんで走り回っていたが、何てことはない!。結局の所『青春時代を短時間に反芻して過ごした』だけだった。しかし、これだけの課題をつつがなく完了しないと、半年間の心の空白を埋め戻す事もできず、落ち付かなかったのだ。

   そんなある日、“竹馬会”の存在を知った。昭和53年の春だった。

[4]竹馬会

   『竹馬』とは『世説新語』(六朝時代、宋の劉義慶の著。後漢から東晋までの貴族・僧侶・文人らの徳行・言語・文学についての逸話を集めた書物。全3巻。略して世説とも言う)に由来する言葉であることを知っている人は殆どいないが、逆にその意味(幼いころに竹馬に乗って遊んだ仲のよい友人。幼な友達)を知らない人も殆どいない。劉さんは何と立派な、心に染み入る単語を考え出してくれた事か!と感謝。

   数十年前の福岡県遠賀郡遠賀村(面積約23平方km・人口10181人。1949年小5の時、社会科の宿題で役場に聞きに行ったから今でも覚えている!)には浅木小学校と島戸小学校があった。私たち同期の卒業生は村の中心部に開設された遠賀中学校へと、昭和26年(1951)4月に進学した。45年前の事である。同期生は4クラス約 160名であった。  

   噂によれば、浅木小学校出身の高(福岡県に在住)田(東京)田(静岡)矢(福岡)、島戸小学校出身の池(東京)入(福岡)の各氏が竹馬会の名の下に、毎月1,000円の会費を出し、家族ぐるみで親交を深めているとのことだった。

[5]矢野氏の返書

   『私達は入会希望者の資格を審査して、入会させるとか拒否するとかの立場でもなければ、竹馬会にはそのようなことを想定した規則もない。楽しく末永く家族共々お付き合い願えるのであれば、幹事の田中氏にご連絡頂きたい』との心温まるご返事だった。矢野氏は今なお手紙は『巻紙に毛筆』との習慣を堅持されている。ボールペンごときは決して使われない。これは氏の美学の一端だ。     

   早速『入会させて頂きたい』との手紙を全会員に送った。福岡県在住の仲間同士が連絡を取り合い、矢氏から『和紙の巻紙』に流れるような達筆でしたためられた封書が送られて来た。  
                                         
   小学校教諭を辞職し『住職就任披露の儀式だけでも何と1,500万円も掛かった』と言う、さすがは『西光寺』のお坊様である。西光寺の寺格の高さは国税庁も評価しており、宗教活動としての出張(遠方の檀家の法事等)には新幹線のグリーン車の使用も経費として認められているそうだ。檀家からの招待無料ゴルフも年間80回は越えるらしい。

   その式典に出席された今は亡き先代の住職(お父様)の、喜びに満ち溢れた笑顔ほど素晴らしい写真を、私は未だかつて見た事がなかった。『悟りの境地に到達された高僧の表情の真似は、庶民どころか役者ですら、ちょっとやそっとの努力では無理だ』とその瞬間に悟った。              
       
   矢夫人が『この写真、素晴らしいでしょう!』とこっそり見せてくれた時の嬉しそうな表情が実に若々しく美しかった。嫁と舅の問題はこの家では居心地も悪く、とっくの昔に雲散霧消しているようだ。

[6]竹馬会の沿革

   田氏からは『書留』でドサッと、竹馬会創設以来の貴重な資料が送られて来た。その中に、次のような竹馬会発足を提案した手紙(ほぼ原文のまま。読み易くするため『てにをは』を修正。悪しからず)があった。時に、仲間は未だ30〜31歳、若さに満ち溢れていた。竹馬会は若干の助走期間を経た後、8年も前に正式に発足していたのだった。



   拝啓 1970年、明けましておめでとうございます。皆さんそれぞれ、希望に輝く新年を迎えられたことと存じます。   
                     
   中学時代から芽生えた我々一同の友情が、今日もなお親密度を更に深め、定着している事を誰よりも喜んでいます。今後もこの友情が、ほのぼのとした心の灯火として消えることなく、永遠に燃え続けるものと確信しています。

   考えるに、共に慰め力づけ合いながら一見、不思議にさえ思えるほどに人生の幾多の苦境を、うまく乗り越えて来れたのも、各自の個性から生まれた強い仲間意識と努力によって、我々のグループが育って来ていたからだと思います。

   世に人間疎外とか軽薄とか言われる昨今、根底にこうした力強さを持つグループの一員として、幸わせと思わずにはおれません。神・仏が実在するならば素直に感謝したいと思います………。ただ残念なのは男としての仕事の宿命から、各地に仲間が散在した結果、心の通い合いはあるものの、疎遠になり勝ちになって来たことです。

   そこで、各自も家庭を持つ身となったこの機会に、規約を設けて正式に我々の会を発足させ、家族ぐるみで永久に交際願う方向へ持っていき、子供の代までも相互信頼の下に助け助けられるようにしたいと思います。その結果として会が更に発展すれば、何らかの形で社会にも貢献でき、我々の友情も一層意義あるものに育つと確信しています。

   同志一同のより良き意見や追加したい規約があれば、お知恵を拝借願いたいので、よろしくお願いします。                                           敬具



   竹馬会の会報[竹馬LOCAL]第1号が発行されたのは、昭和45年3月28日であった。全ては大幹事『田氏』の献身的な努力の賜物である。時には徹夜までされて頑張られたそうである。青焼きのコピーではあっても一枚一枚、色鉛筆で彩色された手作りの作品だった。

   第1号の編集後記には『今月より[竹馬LOCAL]の題で新聞を発行することにした。慣れないので読みにくいとは思うが、よろしく可愛がって下さい。また色んな投稿を待っています』と記されている。

   爾来、毎月末に[竹馬LOCAL]は発行された。第10号は昭和45年12月末ではなく、切り良く昭和46年1月1日の発行になっていた。奥さんを初め、全員から寄稿された話題が満載されていた。                                
   
   第10号の編集後記では『我々の竹馬会も発足以来、1周年を迎えたが、活動その他で満足したものでは決してなかった。しかし全員の協力、特に家族のご支援で一段と盛り上がりを見たのは、今後の竹馬会の発展を支える大きな力の源泉を確認できた、意義深い1年であったと確信しています。今年もよろしくご指導のほどお願い致します』と結ばれていた。

   残念な事に[竹馬LOCAL]の最終版はこの第10号だった。会員からの原稿が集まらなくなってしまったからだそうだ。毎回話題を変えて書き続けるのは誰でも大変だ。その後は、年末の会計報告に添付された、田氏の素晴らしい『時局解説と鋭い批評』だけになってしまったのは寂しい。しかし、非力な私にはその代役はとても無理だ・

[7]竹馬会と共に

   竹馬会に加入した結果、帰省が一層楽しくなった。在郷の会員と連絡を取り合い、一席を共にするのが恒例になった。子供達も一緒に参加するようになった。西光寺に集まる事が多かったが、お盆の住職は忙しい。それでも何とか矢氏は駆け付けてくれた。                                
   お寺が使えない時には『入邸』、時にはチョット遠いが遠賀町に隣接する『水巻町』にある『高邸』に集まる事もあった。帰省者が特別多い時には、玄海灘に面した隣の『芦屋町』にある、生簀料理が自慢の料亭に出掛けて1日中騒いだ事もあった。あるいは男だけでゴルフにも直行した。

   トヨタ自動車の管理職専用の保養所、箱根の東にある強羅温泉の『強羅荘』に1泊し、タクシーで箱根近辺の観光に出掛けた年もあった。

   ある時は、愛知県が県政 100年を記念し、昭和天皇をお迎えしてオープンした、豊田市郊外の美しい公園=愛知緑化センター(夫人達には大変好評だった)を散策後、トヨタ自動車の労働組合の研修所『つどいの丘…観光ホテル顔負けの施設』に1泊。

   夫人達は伊勢神宮に参拝、男はロイヤル・カントリークラブでゴルフを楽しんだ事もあった。キャデイさんに竹馬会の由来を説明したら、『そんなお話は聞いた事もない』と羨ましがられた。

   竹馬会の存在は時を経るに連れて、同期生の殆どに知れ渡り、その交遊は今や羨望の的にされている。人生も残り少なくなるに連れて、竹馬会の存在価値は田氏の思惑通り高まる一方である。同期の『還暦』の行事は『竹馬会が中核となって企画すべきだ』と、今や当然の事のように期待され始めている。

[8]会員の思い出

   私が海外出張や海外旅行の追憶記を書いて、社内外の百人近くの友人達に配っ時、期せずして起きた異口同音の感想は『よくも忘れずに、覚えているねえー!』だった。それなのに、小さな小中学校で人生を共有していたはずの、竹馬会会員に関する思い出は残念ながら殆どない。                   
 
   私は自宅と学校とを往復していただけで、会員だけではなく、同級生と学校以外で一緒に過ごしたことが殆どなかったのだ。当時は強制的な『部活』もなく自由放任状態だったのだ。竹馬会会員とのお付き合いは、私が会員になってからが殆どだが、それ以前の僅かな思い出を乏しい記憶から抜き出すことにした。

   @池 氏

   氏とは中学校から一緒だったが、中学時代の交遊の記憶は全くない。高校1年の秋、校内実力テストがあり、化学の成績優秀者の一覧表が廊下に大きく貼り出された。私が1番だった。

   氏は我が事のように喜んで私を励ましてくれた。高校化学は中学の理科とは一線を画した学問の雰囲気が感じられて、夢中になって勉強していた成果だった。

   尤も2年の時、物理を勉強したら、たちまち力学の面白さに感動し、力学系の専門科目が一番多い『航空工学』へと関心が移ってしまった。化学は暗記項目が多過ぎるのに対し、力学はほんの僅かの原理を理解するだけで済むから楽に思えたのだ。

   しかも、私には大変易しく感じられた力学なのに、何故か難しいと音を上げる人が多いのも愉快だった。将来の専門を決めた動機は、誰に聞いてもこの程度の単純なもののようだ。
   
   A入 氏

   氏とも中学校から一緒だった。残念ながら氏との交遊記憶も全くない。アルファベットの筆記体を美しく書く実力は抜群だった。多くの人が氏に清書を頼んでいた。氏は友人に『否!』とは言わない、心優しい性格の持ち主だった。

   B高 氏

   小学校1年〜6年まで同じクラスだった。秋季大運動会のフィナーレは、大字(おうあざ)対抗、男女別の部伍リレー(豊田市では通学団リレーと呼んでいる。我が長男の場合、同期の男子は他におらず、やむなく毎年選手として駆り出されていたが、余りの遅さに毎回苦情を浴びていた)の決勝戦が恒例になっていた。             
  
   上別府(かみべふ)の1年男子の選手は高氏だったのに、直前になって、氏は『出たくない』と言い出した。係りが安氏(九大農学部在学中に人生観が変わったらしく、卒業後は西南学院大学神学部大学院に進み、現在遠賀郡から分離独立した『中間市』にあるバプテスト教会牧師。子供が5人もいる!。産児制限は宗教上禁止されているのだろうか?)に『出てくれ』と頼んだが『選手ではないから出ない』と理屈を言う。とうとう一番スピードの遅い私が駆り出されてしまった。

   氏の実家には孟宗竹が植えられた広い山があった。毎年春には竹の子を買いに行った。氏が掘ってくれた。小学生でもあの大きな竹の子を、器用に掘り出せたのだ。氏は竹トンボ作りが旨かった。竹トンボが教室の天井にぶっつかる程だった。

   同級生の中に頭は悪いが口の達者な『ガキ大将』、『西氏』がいた。体力はないのに統率力は抜群。過半数の男は彼を中心にして遊んでいた。小5のある時、西氏の余りの横暴さに勇気ある挑戦者が現れた。母子家庭の『白氏』である。

   体力的には互角と思えた2人が、取っ組み合いの喧嘩を始めた。級友は遠巻きにして『成行や如何に』と観察していた。白氏が勝った。その後白氏がいじめられているのを見たことはなかったが、友人関係は消滅した。

   2人目の挑戦者は『嶺氏』(氏も九大農学部へと進学した)。彼も挑戦に勝った。 
                      
   3人目には臆病な私も挑戦した。西氏は意外に思えるほど弱かった。私は体力抜群の高氏に尋ねた。『どうして彼の横暴を許しているのか?。やっつけたらどうだ?』『喧嘩したら簡単に勝つ。しかしその結果、遊んでくれなくなるから、我慢しているのさ』この意外な回答には子供心にも驚いたものだ。私達は3人とも、西氏をやっつけた後の事は、全く考えていなかったのだ! !。

   C田 氏                           

   氏とは小3からの付き合いだ。一緒に遊んだ記憶は全くない。図画が得意だった。時々4コマ漫画を描いていた。線だけではなく、面全体を塗りつぶす丁寧な漫画だった。氏の出身部落(大字)は『老良…おいら』だった。父は『老良出身者は何故か皆んな頭が良い』と言っていた。                  

   老良の同期男子には、2名の田氏・高氏・添氏の4名がいたが皆んな頭が良かった。中でも添氏の国語力は抜群だった。小学校の頃は『白氏』(東大博士課程中退・工博…努力家。高校入学後、急速に実力が伸びた。氏は中学校卒業時点で 160cmもあり、私より10cmも高かった。しかしその後の成長は殆どなく、新婚家庭を尋ねて再会した時、私と同じ162cmだったので些か驚いた)や前述の安&嶺氏よりも、国語のセンスは上だったような気がする。

   多感な文学青年だった添氏が高校卒業直前に人生に絶望したのか、不幸にして自殺してしまった。私は自分自身のことで手一杯で葬儀にも参列していない。ずっと後、バブル前の新築マンション(28坪2千万円…ナント半分は自己資金!)に田氏をお尋ねし、お泊め頂いた時に、氏から親友の死に接して『どうして悲しみを分かち合う相談をしてくれなかったのだ!。悲しみの余り泣き明かした』との血を吐くような深い弔意を聞き、当時何一つ行動を起こさなかった自分を恥じた。

   親しくしていた人の突然の死ほどショックを受ける出来事は少ない。小学生時代からの親友『稲氏』が昨年『癌』で一足先に旅立った。その事を知った時、氏の長男に送った追悼の手紙を第2章に転記した。

   D田 氏

   一度も同じクラスになったこともなく、残念ながら学生時代の交遊記憶はない。竹馬会に参加してからの交遊があるに過ぎない。

   E矢 氏

   矢氏とは小3の時に出会った。しかし、学生時代の交遊の記憶は殆どない。

   小6(5?)の頃、原因は全く思い出せないが、喧嘩になった。一向に決着が付かない。親友の一人『谷氏』は同じ大字『浅木』の矢氏の応援を始めた。その時、私と同じ大字の高氏が『噛み付け!』とアドバイス。私は生まれて初めて人間に噛み付いた。両応援者は共にクラス切ってのスポーツ少年だった。

   しかし、困った事にどの程度の強さで噛み付けば良いのか見当が付かない。そこで少しずつ、少しずつ顎の力を増しながら影響度を確認することにした。早く泣き出してくれないものかと、ひたすらそのサインが現れるのを待ち続けた。我慢出来なくなったのか、とうとう氏が泣き始めたのでホッとした。

   喧嘩には勝ったが後味は悪かった。それに懲りて以来今日まで、手足を使った喧嘩はした事がない。もっぱら『舌戦』1本槍である。負けそうになった相手から『最後には舌癌に掛かるんじゃないか!』と言われたこともある。数年前、竹馬会の懇親会でふとした折に、矢氏がこの時の思い出話を披露した。彼も忘れてはいなかったのだ!。

   小学校の修学旅行中に私は『30円の絵葉書セット』を買った。帰りの汽車の中で矢氏から『売ってくれ』と猛烈に迫られたが、売らなかった。旅行が唯一の趣味だった父の真似をして、旅行先の絵葉書を収集する決心をしていたからだ。氏にもこの記憶が残っているだろうか?。
上に戻る
故郷の追憶
                                               
                                              平成8年1月17日
[1] さようなら。稲 様

                                               
稲鈑金工作所 代表取締役 稲数正勝 様          

                           トヨタ自動車株式会社 海生企画部 石松良彦

   
   迎春の候、貴社益々ご清栄の事とお慶び申し上げます。さて、昨年末に受けとった貴台からの『喪中』の葉書に疑問を感じ、先日お母様に電話で事情をお尋ねして、『学』様のご逝去を知りました。謹んでお父様のご冥福をお祈り申し上げます。 
   
   疑問を感じた理由は、お父様が代表取締役を貴台に譲って『楽隠居』するには若過ぎると直観的に思ったからです。その結果としてどなたが亡くなったのかを直接お尋ねするのには『胸騒ぎ』がして、じっと我慢をしておりましたが、とうとう意を決して電話をさせてもらいました。

   ここにお父様と私が密かに共有していた思い出を、貴台を初めご家族の皆様にご報告させていただくことにより、生前のお付き合いに深く感謝し、お別れの言葉にさせていただきたいと存じます。

   @出合い〜小学校卒業まで

   振り返ってみますと『学』様とのお付き合いは、昭和22年4月(浅木小学校3年)のクラス編成替えの時にまで溯る事が出来ます。クラスで一番大きな頭の持ち主で、算数と算盤が大変得意な方でした。

   知能指数の検査があり、その素晴らしさに級友からは、7つ上がり(早生まれ)なのに一目も二目も置かれる存在でした。
   
   昭和22年度から学校教育は6・3・3制へとご承知のように変わり、国民学校は小学校と改称されました。3年生になって初めて配布された、まともな教科書(1年の時には戦争で国力は地に落ち、教科書は先輩のお下がりを使いました。
   
   2年になって、やっと新聞紙大の紙に小さな活字で印刷された製本前の国語の教科書が配布されました。折り畳むとページが連続するようになっており、図らずも本の印刷と製本方法を知りました)は国語だけでしたが、嬉しくて堪りませんでした。活字にも皆んな飢えていた頃でした。  

   塾も宿題もなく、下校後は遊ぶだけの毎日でしたから、学校の成績には生まれ付きの能力そのものが正直に現われておりました。それだけに学様の抜群の能力が今なお私の脳裏に焼き付いています。

   昭和25年の秋、当時の修学旅行は別府温泉へのたった1泊2日の日程でした。それでも皆んな喜びに欣喜雀躍としておりました。米は持参。8畳に1クラスの男子18人が出席番号順に並んで、部屋の両側面方向に足を、中央部に頭を向けあって雑魚寝。にも拘らず、一人当たりの宿泊料は 550円もしました。しかし夕食には一人ずつ独立したお膳が出され、おかずは5〜6皿もあり、子供でも初めて一人前扱いをされたことに心底満足した記憶が昨日のように思い出されます。

   地獄巡りにも心をときめかせ、ケーブルカーでは楽天地にも登り、生まれて初めて象を見ました。遠賀村ではついぞ見掛けた事もなかった、明るく輝くばかりの夜店の美しさにも目を見張りました。就寝前に担任の先生がお小遣いの使用額を確認した時、僅か10円しか使っていなかった人もいましたが、別に驚きはしませんでした。どの家庭も子供を旅行に参加させるだけでやっとの思いだったからです。
                       
   その時、母子家庭の学様は『自らの意思』で残念にも旅行には欠席されました。『修学旅行には行きたかったけれども、義母には言い出せなかった』と後日、本人から直接聞きました。

   お母様は、学様が子供心にも家計を心配して遠慮された事を、修学旅行が終わった直後に知り『お金の用意はしていたのに、どうして出発日を教えてくれなかったの?』と大変残念がられたとのことでした。ここに学様の『人生に対する姿勢の原点』があったと確信しております。

   浅木小学校の殆どの卒業生は、遠賀村(当時は村でした)の中央部にあった炭坑の跡地に開設された、遠賀中学校へと進学しましたが、学様やほんの数名の人が隣村の中学校へ移りました。その後は、学様とは年賀状だけの付き合いが続きました。学様の家は『虫生津』と言う部落にあり、通学距離は片道4Kmもあったからです。

   何人かは、三角形の2辺のようになって遠回りにはなるものの、『室木線』に4km乗り(古月⇒遠賀川)下車後は2Km(遠賀川駅⇒遠賀中学校)も歩いて通学していました。

   室木線は明治時代に石炭運搬線として開設され、当時は1時間当たり1本の割りで貨客兼用列車が運行されていました。前の方には石炭を満載した貨車が20両くらい、後には時間帯別に1〜4両の客車が連結され、動輪が片側に2個しかない小さなSLに引かれておりました。

   室木線は鹿児島本線の遠賀川駅から宮田町(一時は人口5万人を誇る日本一の町で、市になれる当時の資格3万人を大幅に突破していました。今廃墟の跡にトヨタ自動車九州の工場が建ちました)を結ぶ予定でしたが、全線が開通する前に世界的なエネルギー革命に巻き込まれ、とうとう廃線となりました。

   A青年時代

   昭和4O年頃だったと思います。既にトヨタ自動車工業へと就職していた私宛てに学様から『どんな仕事でも我慢するから、トヨタ自動車工業への就職を紹介してほしい』との趣旨の手紙を受け取りました。エネルギー革命が一段と進み、筑豊炭田では閉山が相次ぎました。トヨタ自動車工業にも炭坑離職者が、臨時工としてドンドン入社して来た頃のことです。

   当社は正社員としての作業員は、高校新卒に限定して細々と採用していました。急増する生産に対応して常時採用していたのは、臨時工と言う立場の人達でした。2年間くらい臨時工として真面目に働くと、成績優秀者には少しずつ本工(こんな言葉があったのです!)への登用受験資格が与えらました。多くの臨時工の方々が未来に絶望して辞めて行きました。

   私は『トヨタの現場の仕事は学様のような頭の良い人には“下等”過ぎて向かない。臨時工は悲惨だ。とてもお勧め出来ない』との返事を心を鬼にして書きました。当時の自動車産業は当社に限らず、欧米との決戦前夜の心境で日夜、苛酷な労働条件下で労使を挙げて懸命に働いていたからです。

   学様からは丁重なお礼の手紙を受け取りました。恐らくその時、学様は自らの力のみを頼りに人生に立ち向かう決意をされ、堺へ出て今日の事業を育てられたのだと確信しております。

   B昭和54年春の再会

   当時たまたま私は新技術の開発で、伊丹にある三菱電機を尋ねる機会が生まれました。関西方面に出張する事は滅多とありませんでした。貴重な機会だったし週末でもあったので、学様にお願いしてお泊め頂くと共に旧交を暖めさせていただきました。学様との再会は、実に小学校の卒業式(昭和26年春)以来28年振りのことでした。

   堺市に建てられた現在のお宅は交通の便も大変よく、学様は『高島屋に歩いて食料品を買いに行ける距離の近さ』に大変満足されていました。毎日の食料品を一流デパートに買いに行くと言うのは、当時も今もこの日本では最高の贅沢に属します。普通の主婦は新聞の『チラシ』に目を血走らせ、目玉商品を買い求めるのが当り前だからです。

   学様から当時は贅沢な『サウナ』に案内された後、貴台と貴台の友人と共に大阪の象徴『通天閣』に一緒に登り、その後その近くのレストランにも連れて行っていただきました。大変庶民的な雰囲気の籠った楽しい場所でした。

   その時、学様が貴台に『お前達もひょっとすると20〜30年後に、お父さん達のように久し振りに会って、昔の思い出話に夢中になっているかも知れないな』と嬉しそうに語られたのをはっきりと覚えています。その時からも既に17年もの歳月が夢のように過ぎ去りました。

   また、私のわがままな希望であった『仁徳天皇陵』の見学にも案内旁々、付き合ってくれました。今に至るまで学様の心くばりへの感謝の念が込み上げて来ます。お別れに当たってはお母様から『子供達にどうぞ』と当時、小学生に圧倒的な人気があった、面白い付録付きの雑誌『子供の科学』も頂きました。聞けばお母様は当時、子供の科学の販売促進の仕事もされていました。

   C平成7年1月20日

   まさに1年前、義兄の葬儀で遠賀町に帰省し、豊田市に帰る1月17日の朝、あの阪神大地震が発生しました。幸い飛行機の切符を予約していたため、自宅へはなんなく帰ることが出来ました。                      

   新聞やテレビを見る度に、被害の大きさが分かるに連れ、学様の安否が気遣われ、とうとう1月20日にFAXにて消息をお尋ねしました。当日も何時ものように夜8時台には寝てしまっておりました。8時半頃、学様からの『被害なし。ご安心を』との電話を妻が受け取りました。私はそれとも知らず、熟睡しておりました。最後の声を聞くこともせず、これ以上の『無常・悲しみ』はありません。

   お母様のお話では、地震の時にはまだご病気の自覚症状はなかったとのことでした。その後に体調に異常を感じられ、薬石効なく僅か『55歳』のまさに働き盛りに、人生の成果を十分にエンジョイされる暇もなく、一足先に旅立たれました。ここに謹んで心からの哀悼の意を申し上げる次第です。

   Dお別れ

   正勝様!。どうか、一刻も早くご結婚され、お孫さんを連れて亡き『学』様の墓前に、幸せのご報告に行かれる日の早い事を希望致します。そして、お父様の起業された『稲鈑金工作所』をますます強化し、残されたお母様・お婆様・ご兄弟の皆様一人ひとりをお守り下さい。

   取り急ぎ、失礼を顧みず学様へのお別れの言葉をお送りさせて頂きました。

   さようなら。稲 様。                                     敬具

[2]故郷『遠賀村』

   @地理

   『遠賀村』は遠賀川によって形成された沖積平野の中心部にあり『遠賀郡』の心臓部に位置している。官営八幡製鉄所の起業(1901)後、徐々に都市化した一部は遠賀郡から『八幡市』『戸畑市』『若松市』として分離独立した。

   この3市は『小倉市』『門司市』と共に昭和38年2月、6大都市に次ぐ7番目の政令指定都市『北九州市』(この地名は『北部九州』=『福岡県+佐賀県+長崎県』と言う意味ではなく、5市合併以前から北九州工業地帯との名称で、現市域を主たる対象にして全国的に使われていた言葉に由来する)として再出発した。       

   近年『遠賀郡』から『中間市』が分離独立した結果、ますます小さな『郡』になり『村』も『町』に変わったが『遠賀町』がこの地域の象徴である事に何の変わりもない。大昔は海岸線が村内にあったらしく、虫生津・島津・鬼津・尾崎などの大字の地名にその片鱗が伺える。貝塚も多い。

   『川筋気質』(短気で喧嘩早い)は遠賀川の船頭の行動から生まれた言葉である。明治時代に筑豊炭田が開発され、石炭は船で遠賀川を下り、運河を経て若松港へと運ばれた。石炭を運び出す場所取り合戦から、歩合給の船頭達が荒々しい言葉と共に、絶えず喧嘩をしていた事に由来すると聞いた。その後、筑豊本線を初め網の目のように鉄道が建設されると共に、船頭稼業も消滅したが、言葉だけは今なお生き残っている。

   この遠賀川は明治以来、2回氾濫した。第2回目は昭和28年6月末のことである。28日は日曜日だった。受験勉強も始まった中3の時、朝から夕立のような雨が降り続いたのを鮮明に記憶している。2階の窓から雨を眺めながら部屋に閉じこもって勉強していた。翌日とうとう遠賀村の中心部から10Kmの上流、直方市の下流『植木』で堤防が決壊した。哀れ!。村内の70%?の家屋が床上浸水の被害に遭った。1昼夜の雨量が600mmを越えた。   

   高台にあった我が家は幸い無事だった。しかし、救援物資は隣組にも殺到した。父は『乾パン』と称した『ビスケット』のような非常食のみをどっさり貰って来た。しばらくの間は、お菓子代わりにパクパクと食べた。美味しかった!。平野部に位置した池・入・田・田・矢家の被害は甚大だったと思う。

   遠賀村の行政連絡は、村(村長)⇒大字(区長)⇒小字(組長・回覧板を回す単位)で実施されていた。各大字には小さいながらも『神社』が最低1つとお寺が大抵1つあった。各神社は『氏神様』の性格と共に有名な神社の系列を意味する名前が付いていた。昭和25年の上別府は『88戸 577人』だった。小さい頃、覚えた数字は何時までも忘れられない。

   私は4歳のとき『米1合は何粒か?』が知りたくて米粒を数えて以来(残念無念。肝心の数を忘れた!)、森羅万象を極力『数値化』するか『方程式化』して記憶する癖が今日まで続いている。今では満天の星のように、頭の中にはいろんな数値が飛び交い、公式集のようにいろんな方程式が消せないまま居座ってしまった。
  
   仕事で海外に行った場合でも、物の本質を数値化して理解しょうとする『三つ児の魂』がヒョッコリ頭をもたげる結果『石松さん! 数値で回答しなければならない質問は止めてくれないか!。難し過ぎる!』と外国人が悲鳴をあげる事がしばしば起きた。苦笑せざるを得ない。

   A神社                               
  
   私の本籍地『上別府』の神社は鳥居に『天満宮』と書いてあったが、菅原道真の天満天神に由来するのだろうか?1万坪近い広大な境内には道真公に由来するのか梅林を初め、30m近い巨大なイチョウの大木(実は業者に売り、神社の予算に組み入れた)、楠の巨木、20mは優に越える松の木(松食虫により、戦後全部枯れた)などが鬱蒼と茂り、鎮守の森としては、遠賀村を代表するような存在だった。
   
   小学生時代の夏休みは、『0』の付く日は出校日、『5』の付く日は神社の清掃日と決まっていた。草を取り落ち葉を掃き清めるのに汗を流させられていた。帰省の折に近況を聞いたら、すぐ近くに住むお年寄りがボランティア活動の一環として、清掃を引き受けられているとかで、何時お参りしても大変綺麗だ。

   参道の一部を整備寄進した『高氏』のお父様『万氏』、私の父『石松久雄』他同期2名の記念碑がひっそりと建てられている。4名は揃って87〜88歳で他界された。日本男子の老衰年齢は80代後半だと知った。

   隣の大字『木守』は『貴船神社』だ。秋祭りは神社の年間行事の一環として催されていた。各神社とも祭りの日は重ならないように設定してあった。その結果10月は毎週のようにあちこちの神社の祭りを楽しむ事が出来た。

   天満宮のお祭りは『天神(てんじん)』と呼び、9月24日の夜、境内には舞台が架けられ、青年団の演劇(時には田舎回りの劇団にお願いしていた)が披露され夜店も賑わった。子供たちは昼間からゴザを敷いて、場所取りをするのが慣例になっていた。                                  
   天神は遠賀村の秋祭りのスタートでもあった。他の神社の祭りは、全て『御九日…おくんち=氏神様を祭る日』と呼ばれていた。どの家庭も秋祭りの夜はご馳走を準備して、お互いに親戚の人を呼ぶのが習慣だった。
 上に戻る
懐かしのシンガポール

[1]欠席者

   竹馬会会員全員が一緒に海外に旅行するのは、今回に限らず難しそうだ。 
 
  @池氏

   酒好きの池氏は10年近く前、通勤途中東京駅の階段で転倒。高血圧から来た脳内出血らしく、危うく一命を落とす所だった。池夫人や田夫人の懸命な看病と警視庁勤務と言う恵まれた職場環境に支えられて現職に復帰。        
   
   民間会社だったら長期の休職後、退職に追い込まれる恐れがあった。奥様は『子供たちが独り立ちするまで何とか首にならないように祈るばかり』との事である。とても海外旅行に耐えられる健康状態にはないらしい。強羅温泉には来てくれたが、持ち前の明るさが消え失せていただけではなく、言葉を発する事すら殆どなかった。それでも酒が止められないらしい。

   A高氏

   高氏は勤務先の社長秘書をしているも同然なので、1週間近くも会社を休む事は不可能らしい。

   B田氏

   田氏は第一証券を退職後離婚。子供は全員奥様が引き取った。その後は竹馬会を退会したも同然。私とは年賀状だけの付き合いになってしまった。人生にはいろんな事件が待ち伏せているのだろうか?。

   C矢氏

   矢氏は何時葬儀が飛び込んで来るか分からないために家が空けられない。住職を継ぐ予定の長男は、浄土宗の総本山『知恩院』に就職して研修中の身。西光寺の檀家数では住職は1人で十分らしい。

   国税庁の査定では、1年間の葬儀回数は檀家数の5%だそうだ。この数字は1家4人、平均寿命80歳に相当している(死亡率=4人÷80歳=0.05人/年)檀家が 240戸あれば毎月1回葬儀があり、それに引き続く各種の法事があるので、この職業もそれなりに忙しそうだ。        
               
   葬儀1件に付き無税で50万円貰い、年金と一緒に家計費へ、その後50年間も延々と続く各種法事からの収入をお寺の維持費に回せれば、結構気楽な職業に見えて来る。しかも、お説教をする立場の住職は、年を取れば取るほど檀家にはあり難みが増すらしく、引く手あまたになる分だけ、退職した途端に『粗大ゴミ』と蔑称されるサラリーマンよりもましだ。

   D入夫人

   今回の主役は入氏ご夫妻である。是非とも一緒に参加して頂きたい所であるにも拘らず、看護婦をされている奥様は仕事が忙しい。子供がいない身軽な夫婦なので何とか参加出来なかったものかと、大変残念に思う。

   E石松雅子

   非常勤講師(実態はパート)として週3日間だけ勤めていた足助中学校から、今年度のみ同じ町内の萩野小学校に転校。『新任の学校だし赴任した翌月に、遊びのための長期休暇を取るのは止めたい』と言う。2年半後に定年を迎える私は会社を休むのはへっちゃらだ。目的さえあれば何時でも休む癖が付いているのに!。

   以上のような事情から、結局参加者は、田氏ご夫妻と入氏&石松の4名になった。ホテル代を節約するために男2人は相部屋にした。      
    
   1日くらいは、男3人だけの夜の過ごし方について、多少の工夫も凝らしたいと思っている!。

………………………………………………………………………………………………………以上は出発前に書いて参加予定者に配布、以下は帰国後に書いた追憶である……………………………………………………………………………………………………

[2]出国

   東京駅丸の内側南口のタクシー乗り場へ 14.30分に集合することになった。田夫妻がセルシオから降りて待っていた。先に気付いた田氏が帽子を振りながら合図を送ってくれた。が、何としたことだ!。主役の入氏(三晃金属工業・第1部上場・建設業)は来れなくなったと言う。

   昨日、彼が現場監督している工事現場で人身事故が発生した。本人は現場にいなかったので、下請け業者が労働基準局に無断で『事故』を届け出てしまった。『労働基準局に明日出頭するようにと命じられてしまった』と午後9時になって田氏に連絡して来たそうだ。代理人が出頭することは出来ないらしい。結局、田夫妻の結婚30周年記念の海外旅行に私はのこのこと、ビデオカメラマンとして随行する羽目になってしまった。

   近畿日本ツーリストは意外に良心的だ。田氏が午前中に交渉した結果、入氏には旅費を半額返金。相部屋を希望していた私に対しては、同行者の中に相部屋希望者がいなかったので、1人で泊まっても追加料金は不要との条件になったそうだ。

   私は新幹線経由だったので、運搬に不便な海外旅行用大型カバンは使わずに着の身着のまま。下着とシャツだけを詰め込んだ、機内持ち込みが可能な手提げカバンだけの軽装備にした。海外製品に接しても、最近は感動が滅多と湧かず、家族などへの御土産品すら買う気がすっかりなくなっていたのだ。 

   現地では、田氏の勤務先(高田工業所・大阪第2部上場・エンジニアリング会社)の現地法人(シンガポール・タカダ)の社長(佐藤寛嗣氏)にお会いする予定にもなっていたので、失礼のないようにと『背広にネクタイ姿』を選んだ。寒がり屋の私には新幹線や飛行機の中では、カジュアル・ウェアよりも背広の方が快適との判断もあった。

   数年ぶりに再会した田氏を襲っている老いの深さには殊の外驚いた。外観だけからは70歳に手が届くほどの老人のように見える。顔や首筋の皺の深さはただ事ではない。言わず語らずのうちに、原因が分かった来た。5年前に胃癌の手術。幸い早期発見だったので、胃カメラによる局所の削除に留どめたそうだ。胃が残ったまま全治すればそれに越した幸せはない。それでも体重は5Kgも減少したそうだ。
                       
   3年後同じ部位に癌が再発。医師は『手術時の私の判断ミスだった』と詫びたそうだが、今更どうにもならない。2回目の手術では胃の殆どを摘出した。3回の食事と若干の間食を合計すれば、食事の量は昔と変わらないが、消化吸収力が低下したのか、体重は増えないそうだ。身長は私よりも1cm高く、体重は1Kg多い状態なので見掛けのバランスはまさに同じだが、一度伸びた皮膚は、中身が縮んでも干し柿に似て、表面積は変化しないようだ。

   田中氏は事前勉強を十分にされていたらしく、入出国カードの記入や自動販売機による空港税の支払い、現地通貨への両替などにも、初めての海外旅行とは思えないほどの手慣れた様子。私には手伝うほどの仕事がない。時間もたっぷり余ったので、搭乗口前の売店で『楽しい旅の安全』を祈念しながら、生ビールで先ずは乾杯!。

   格安旅行の常、夜行便(シンガポール航空)の『ジャンボ』は満席の賑わいだった。出発直前にやっとフライトが決まった同行ツアー客の座席は、最後部に近い。トイレまでの距離が近いのが魅力だが、機内サービスは一番後回し。『早くビールを持って来い』と怒鳴りたくなった。

   田氏は急に『寒い、寒い!』と連発。毛布を3枚掛けてもまだ寒いと言っている。真夏向けの軽衣装だけが原因ではなく、胃癌の手術の後遺症だそうだ。寒がり屋を日頃自慢していた私も形なしの体だ。基礎体力が徐々に落ちているのが原因でなければ良いがと思う。

[3]到着

   シンガポール空港は入国ゲートの数が多く、満席のジャンボ客もスムーズに流れる。空港ビルを出て直ぐの所に集合場所があった。深夜なのに真昼の熱気がまだ残っているような暑さだ。迎えに来た現地人の通訳が『大型バスはここまでは入れない。駐車場は遠いから、旅行カバンも機内持ち込みの荷物もここに置いて下さい。小型トラックで運び、皆さんがホテルの部屋に到着後10分遅れ以内には届けられます。名札が付いていなくとも、受け取り時に確認していただくから大丈夫です』と言う。

   深夜のホテルで注意事項の連絡や登録手続で、時間を食われるのではないかと危惧していたら、途中のバスの中で全ての雑務を完了してしまった。手慣れたものだと感心。カード形式の部屋の鍵、3日分の朝食のチケット、帰国時の飛行機の切符、旅程計画表、旅の注意書きの書類等が手際良く配布された。封筒に入れた1万円分の現地通貨127S$(1S$=78.74円)も用意していた。両替もワンタッチで完了する手際よさ。成田空港内の銀行よりも約10%は安い。ここまでは完璧の準備だった。

   現地時間の午前2時(日本時間3時=まさに丑三つ時)にやっとホテルに到着。私の部屋は建物のコーナーに位置していた。2側面に窓があり気分がよい。キングサイズベッドが置いてあった。隣の田夫妻の部屋にはツインベッドが置かれ、ほんのチョット面積は広かったが窓は1つだった。

   何時も午後8時台から自然に目が覚めるまでたっぷりと寝ている私には、飛行機の中で数時間寝たとは言うものの眠たい、眠たい!。ああそれなのに(この歌のヒット歌手『美ち奴さん』が、帰国直後に亡くなった)何としたことだ!。待てど暮らせど下着を入れた鞄が来ないので風呂にも入れない。 
                           
   ガイドの口車に乗せられて、手荷物を運んでもらったのが失敗だった。おまけに『大小問わず荷物1ヶに付きチップは1S$渡せ』と言う。カタコトと廊下からやっとそれらしき音が聞こえたので、エチケットも無視してステテコのまま廊下に飛び出した。ワゴンから荷物を見付けて抜き出したが、約束の時間を反古にされて癪だった事もあり、チップは指示値の半額しか渡さなかった。

   シンガポールでは一般商品は何処でも免税で売られているが『国民の健康を心配する』との口実で『酒とタバコ』には重税を課し、それらの価格だけは世界一。部屋に備え付けのミニ・バー(小型冷蔵庫)のビールを飲むのは止めて、出国時に買って来たサントリーのウィスキー『山崎』の水割りをゴクンゴクンと飲んでパタン・キュー。もう現地の午前3時だ。

[4]翌5月24日の早朝    

   旅行社が手配してくれていたモーニング・コールはキャンセルして、1時間早起きした。朝風呂を浴び、ウィスキーを引っ掛け、緑滴る早朝の町を足取りも軽やかに散歩。ホテルの背後には『ここは国有地』との立て札のある、20mは軽く越えそうな巨木が鬱蒼と茂っている、天然林そのもののジャングルがあった。
    
   入り口の一角だけは立ち入り出来るように、芝生が植えてあった。雑草も落ち葉もなく管理が行き届いている。西欧系の観光客が大勢散歩していたが、日本人は全くいない。彼我の旅行に関するゆとりの差が、こんな所にも見え隠れする。ふと傍らを見ると、今まさに掃除を終えた老女がゴミを運んでいるところだった。

   竹林もあった。孟宗竹のような断面が大きな竹ではなく、直径が5cmあるかなしかの細さだ。数十本の竹が直径2m以内の輪の中に密生している。そんな輪が数メートル置きに散らばっている。細い竹の子もあったが、食用にしているようには感じられない。植木の一環か?。

   道路周辺の芝刈りも徹底している。1週間に1度以上は刈っているのではないか?と推定。豊田市よりも芝の成長が速いので、こちらの方が我が家よりも刈り込み回数が断然多そうだ。残念ながら我が庭よりも綺麗だ。

   私は5〜9月には10日に1回、20分間、手押しタイプの芝刈り機を猫の額みたいな庭で転がしているが、汗で全身ビッショリになる。これでも精一杯の手入れの積りだ。それにしても広大な公共部分の芝刈りを何時、誰が実施しているのか目撃出来なかったのが不思議だ。
   
   大通りの並木の樹形管理は、直方体の壁のように剪定しているパリとは対照的だ。自動車交通の邪魔にならない限り、自然のままに伸び伸びと育てている。厳しい罰則まで設けて国民を国家に従わせるべく、完全に管理しないと気が済まない政府の方針とも対照的な姿だ。広葉樹の樹形はアフリカのサバンナの中に転々と生えている木にそっくりだ。

   円錐系のトンガリ帽子を逆さまにしたような姿だ。幹から枝が放射状に斜め上方に向かって広がっている。枝の途中から更に小枝が分かれているが、下の方には葉が殆ど付いていない。枝の一番上にのみ葉は付いている。木の天辺では枝が水平に広がっている。直射日光の全てを吸収し尽くすような配置だ。北緯1度、赤道直下も同然の国のためか、太陽は真上から照り付け、木には南北の樹形の区別が殆どない。雨傘を広げたような軸対象の樹形が自然に完成するようだ。

   朝食はバイキング形式だった。今まで泊まった海外のホテルの朝食は例外なく、全てバイキング方式だ。日本では個人客の場合は旅館を初め観光ホテルでもビジネスホテルでも、伝統的に1人前ずつわざわざ配膳しているのは、無制限には食べさせられなかった貧困時代の化石だろうか?。

   食べたくないものを抱き合わせで食べさせられる一方、原価が低いはずのみそ汁ですら、お代わりも認めない旅館が殆どだ。尤も近頃は日本でも、団体旅行の観光ツアーで大型ホテルに泊まる場合には、やっとバイキング形式が増えて来た。

   さすが多民族観光立国のホテルである。いろんな珍しい料理も朝から出された。昼食とのバランスを考えながら、限りなく少しずつ、限りなく多種類の料理にチャレンジしている内に、迂闊にも満腹してしまった。贅沢を言えば、料理名(または、それを名物にしている国名)や食材名などが書かれた説明書が見当たらなかった点に、物足りなさを感じた。

[5]市内観光

   9ヶ国語(英語・マレー語・タミール語・ヒンディ語・ベンガル語・日本語・北京語・広東語・福建語)も使えると豪語した、現地の中国系女性が引率者だった。たどたどしいながらも、意味の通じる日本語を喋る語学力は大したものだ。

   マーライオン公園に辿り着く間、沿線の案内の傍ら、シンガポールの特色について紹介してくれた。国家が支援している住宅積立て制度も、月収約50万円以上の人は加入出来ないとか、贅沢品視されている自動車は税金が高く日本の3〜4倍もするなどと喋り続ける。逆に、分譲される高層住宅は日本の3割で買えると満足そうに解説。

   道路脇に綺麗な花が咲いていた。田氏が『あれは夾竹桃だ。それにしてもさすがは熱帯のシンガポールだ。伸び伸びと育つのか、葉も花も大きいね。子供の頃、馬が夾竹桃を食べて死んだのを目撃した事がある。人間に比べ格段に本能が発達していると思っていた動物でも、毒を見分けられない場合があるとは、と不思議な気がした』と言う。程なく、また同じ花に出会った。

   ガイドが『あの花は日本語では何と言うのですか?』と聞くので、仕入れたばかりの情報で『夾竹桃です』と知ったか振りを発揮。ガイドは『違います。あの花には毒がないからです』と答えた。さすがに才女だ。なかなかの物知りだ。一方この歳まで私は、自宅に植えた事もありながら、夾竹桃に毒があるとは夢にも思わなかった。

   ガイドはその後も、珍しい植物に出会うと『あの植物は日本語では何というのですか?』と質問したが、誰一人答えられなかった。『日本に自生していない熱帯性の植物の日本名(和名)はある筈がない』との常識が分からぬほどの人とは思えなかったので、質問の意図は日本語の勉強よりも、客とのコミュニケーションをさりげなく深める切っ掛けにしたかったからではないか?と思った。

   マーライオン公園では写真を撮る場所の奪い合いだ。同行の人だけならば遠慮も時には考えたいが、他の旅行社のツアー客も殺到して来るので、お決まりの生存競争に参加したくなるのも、やむを得ないと言うものか!。

   最初に建てられた小さい方のマーライオン像の前面上半身には、口から吐き出す噴水の水垢が薄汚くこびり付いている。クリーン都市を標榜するシンガポールの守護神で、かつ観光目玉対象ナンバーワンとして官民挙げて盛り立てている筈なのに『画竜点睛を欠く』とはこの事か!。

   植物園にも出掛けた。日本にある温室形式の熱帯植物園のように、ところ狭しと植え込まれた珍しい植物の展示場ではなく、池や築山もある100fを越える素晴らしい公園として設計されていた。公称4,000とも6,000種とも言われるほどの植物が巧みに配置されている。日本では兼六公園を庭園とは言っても植物園とは言わないが、こちらは一石二鳥のアイディアだ。

   『シンガポールが好きになって、何度も来る日本人がいます。次回観光に来られた時に、もしもガイドが植物園の植物の名前は全部知っていると言ったら、その人は100%の嘘つきです。そんな人なら、冷房完備の研究所で高給を貰いながら、顕微鏡を覗き込んでいます』等と実際にはいないかもしれない同僚の悪口を言う。

   他民族よりも中国系の影響が強い国であるにも拘らず公園のデザインには、枯れ山水を基調とする中国大陸の名園の印象は全くない。むしろハイド・パーク等のイギリスの公園を連想させる。植物園と標榜しているためか、石灯ろう等の人工的な装飾物は全く見掛けない。各種の草花を植えて彩り鮮やかな構成にするのは設立目的ではないらしく、緑滴る樹木が中心だ。

   生まれて初めて見た珍しい植物も多かった。竹のように細くて長い幹の表皮が紅色になった椰子の並木、ザボン大で鈴の形をした堅くて食べられない実をたわわにぶら下げた大木もあった。一角には『国花』にされている珍しい蘭があった。 

   この蘭は百合のような茎と葉があり高さは2m位、支柱付きだった。品種改良され商品化された華やかな蘭とはひと味違う、野生の蘭に似た素朴さがあった。この国に敬意を表すべく、蘭畑を背景に全員一緒に記念撮影をさせられた。

   小学生がハイキングなのか、遠足なのか大勢来ていた。制服を着ている。アジアではどこでも制服制度が採用されているようだ。

   バス道路を介して植物園とは反対側にある森の中には数軒の豪邸があった。住宅地としての地価が一番高い所だそうだ。植物園を借景にしたような素晴らしい屋敷だ。各屋敷の境界を示す塀がないのも伸び伸びとして気分がよい。延べ床面積が150坪はありそうな家とプールがセットになっている。

   どんな人が住んでいるのだろうか?。ガイドは『とても、とても金持ち』とおかしな日本語で富豪振りを紹介する。家屋その物には豪華さはさして感じなかったが、環境は抜群だ。

   昼食は今はやりの『点心』、中華料理の簡易版だ。定員制の円卓を適宜囲んだ。同サイズのテーブルだったが、表示されている定員数はテーブル毎に異なっていた。大皿に料理が盛られて運ばれて来るが、春巻きのように数えられる料理の個数は定員数と一致している。フカヒレスープのようなものは給仕が目の前で、全員均等になるように注ぎ分けてくれる。オプションのビールはさすがに高かった。小瓶相当が7S$。高いことで有名な日本のゴルフ場よりも更に高い。

   シンガポールの最高地点マウント・フェーバー(115m)へと、一方通行の登山道をバスはクネクネと曲がりながら辿り着いた。都心の高層ビル街、国際コンテナの取扱個数(貿易量とは直結しない。船から船へと積み替えるコンテナが多い)では世界第2位(1位は香港)を誇る港、眼下にはセントサ島、遠くにはインドネシアのバタム島やマラッカ海峡まで見えるが、やや霞んでいたのが玉に瑕。 
  
   一昔前まではこの山が最高の見晴台だったにしても、今では300m近い高層ビルの展望台の方が価値が高いのではないかと思う。前回の出張時に体験した、高層ビル44階(トヨタ自動車の子会社が入居中)のフロアからの雄大な眺めを思い出すにつけても。

[6]ショッピング

   お決まりの買い物コースへと案内された。ロレックスの大きな時計屋が入っている店内には高級ブランド品や鰐革製品が溢れていた。日本人でごった返している。バブルの絶頂期に比べてもロレックスだけは値上がりしているが(今の日本並)クロコダイルなどの革製品は大幅に値下がりしていた。かつての半額だ。一角の壁面には長さ1.5m位、色違いのクロコダイルの一枚皮が見本として数枚ぶら下げてあった。迫力十分だ。

   とすると、アジアでの価格も日本人の購買力次第か?。欧州もののブランド衣料は日本と大差がない。何としたことだ!。トルコやペルシャ絨毯までが、9年前のイスタンブール価格と比べても半額だ。値段が下がったのは中国の緞通だけではなかったのだ。

   大きな宝石屋にも連れ込まれた。ミニ工場付きだった。ガラス窓を介して職人が10人位、無心に働いている。見学通路と反対側の壁面には床から天井まで鏡が嵌め込まれていた。工場は一見広く感じたが実際には狭かったのだ。観光客には工場と直結しているのならきっと安い(店舗内の膨大な量の商品の大部分は、別ルートからの仕入れ品である事は言わずもがな)だろうとの印象を与えられるし、職人は観客に常時監視されているので、作業をサボることも出来ず一石二鳥のアイディアだ。

   バスの中ではガイドが『強制商売ではありませんが』と、またもや変な日本語を使いながら、同行した写真屋が持ち込んだ、キャビネ判のスナップ写真や参加者全員が写った記念写真の販売を始めた。また観光記念になるからと、キーホルダーや使用済みの切手セットも『こちらの品の販売収入は運転手のお小遣いになるんです』と言いながら熱弁を奮う。
                      
   最後に今春開店したばかりと言うシンガポール最大の免税店(世界的なチェーンで有名なDFS=Duty Free Shopper’s)に案内された。免税店とは言っても、シンガポール全体が原則免税の国なので、明らかに安い品物は酒とタバコだけ。高層ビルの1〜3階を占める美しい店だ。長大エスカレータで3階に直行し、店内を巡回しながら下へ降りて来る店内構造になっていた。ここで解散。 
       
   この店からは30分置きに、有名ホテル行きのルート別無料バスが出ていると言って、申込みの手続き書類を貰った。無料バスの集合時刻、16:25分になっても田夫妻が現れない!。昼間だし、安全な国だし、15年前団体旅行に父と出掛けた母がサンフランシスコで迷子になった時にも、難なく自力解決したそうだったから、安心して一人で出発。

   行き先は同国最大の繁華街オーチャード通りのマンダリンホテルだと偽って、対面している高島屋ショッピングセンター前で途中下車。早速食料品売り場へと直行して価格比較。概して日本よりも2割は高い。日本からの輸入食品は4〜5割も高い。日本人駐在員家庭の悲鳴が聞こえそうだ。考えるまでもなくシンガポールの食料品は、殆どが輸入品だから当たり前の事だ。                         
   
   食堂街にはウナギの蒲焼や焼き鳥を初めお寿司など日本食も多い。1個ずつラップ包装された握りずしのバイキング売り場もあった。これだけは値段も日本と良く似ていた。50セントと1S$の2種類だ。良く見ると米はジャポニカだ。  
   
   明日のゴルフへはホテルを7時に出発予定。7時オープンのホテルの食堂は間に合わないので、朝食用にとあれこれ1種類ずつ選んでは折り箱に詰め込んだ。1S$の寿司には赤いマークが張り付けてあった。支払いの計算も簡単だ。現地の人がバイキング寿司をドンドン買っている。寿司文化はこの国にも、完全に定着しているようだ。

   ここのショッピング・センターのテナントに漢方薬の大型専門店があった。雑草・雑木とどこが違うのか分からないような物など、珍しさに小躍りしながら眺めていたら、オーナーのお爺さんが流暢な日本語で語り掛けて来た。私はこのチャンスとばかりに『どの様な特徴から私が日本人であると分ったのですか?。韓国人や中国系の人とどこが違うのですか?』と質問した。

   『何となく頭に閃くのだ。韓国人なら百発百中の自信がある。今までも95%の確率で日本人は特定出来た。しかし根拠を言葉で説明する事は出来ない』と言う。民族判定がまだ電算化出来ていないのは、民族差を厳密には言葉で論理的に説明出来ないからである、と知ってはいたが、この爺さんなら少しは納得性のある説明をしてくれそうな予感がしたから、性懲りもなくまたもや愚問を発してしまった。しかし、やっぱり無理だったか、と渋々諦めた。

[7]トライショー(輪タク)

   大通りで流しのタクシーを掴まえようとしたが、一向に見つからない。少し離れた所から大声で何ごとか叫ぶ者がいる。輪タクのドライバーだ!。『ここからアポロホテルまでいくらだ?』『チープ、チープ。安い、安い』と言うだけで、一向に数値を言わない。それでもしっこく確認すると『5S$』と片手を挙げて答えた。言い値で乗るのは癪だったので『3S$でどうだ』と提案したら交渉成立。

   ここの輪タクは自転車の横にサイドカーを固定した人力車であり、前部に客席を固定するベトナムのシクロとは形式が異なっている。左右非対称なのでハンドルが取られ易く運転し難いのではないかと思う。屋根もない輪タクに乗り、そよ風を頬に受けながら、バスから眺めた時とはまた違った印象を楽しんだ。

   この街には意外と坂が多い。マレー系のモスレムと称した屈強の中年男でも、坂道ではサドルから尻を持ち上げ、汗ビッショリになりながら、荒い息遣いで頑張ってくれる。峠を越えるとぐったりとなりながら、坂道を下って行く。傍らを自動車が追い越しても気にもならない。いい気分だ。

   アポロホテル前を通り過ぎるので『ここだ』と言ったが無視されて、100mも過ぎた人通りの少ない森の前で止まった。約束の3S$を渡そうとすると相手は血相を変えた。『300S$だ』と言う。こんな雲助ごときにたかられては割りが合わないので、今度はこちらが相手を無視してさっさとホテルヘ戻った。相手はブツブツ文句を言いながら、輪タクを道端に乗り捨てたまま、追いかけて来た。ホテルの入り口にたむろしているマレー系のポーターに何やら訴えている。

   ポーターが機転を聞かせて中国系の支配人を呼んで来た。支配人に経緯を説明して、ポーターとの交渉を頼んだ。ロビーの一角には、上座には椅子が1つ、下座には2つ置かれた応接セットがあった。私は上座にドッカリと社長のように踏ん反り返って座り、二人には立たせたまま、目の前で話し合いをさせた。

   程なく、支配人が『ドライバーは、私は英語は話せない。アポロホテルは近いと言っただけだ』と言っていると、英語で説明した。引き続いて『私の提案だが、高島屋からここまではタクシーでも5S$の距離だ。シンガポール政府はこの伝統的な交通手段を保護している。あなたも分かったと思うが、大変な重労働なのだから10S$出してくれないか?』

   英語が話せないなどとはとんでもない嘘っぱちだ!。20分間に亘って、子供が何人いるか?。手に付けているロレックスは本物か?。宗教はモスレムか?。とかお喋りをしたばっかりだ。でも睡眠不足で疲れていたし、再交渉するのは面倒臭かった。また3S$は値切り過ぎだったかも知れない、タクシーが掴まらなかった時に向こうから、声を掛けてくれた事には感謝しなければならない事だし、輪タクでの市内見物もそれはそれで面白かったし、とも思い、即妥協した。          
 
   なまじ言い値の5S$を値切ったばっかりに、料金が逆の2倍になってしまったが大騒ぎするほどの事でもない。ヨッコラショッと、おもむろに椅子から立ち上がり、支配人経由で10S$を渡した。揉め事が再発しないようにとの確認を込めて、握手のために手を差し向けると、にこやかな顔で我が手を握った。常習犯ではなかったのか?とも思う。初めての海外旅行に来た日本人客がいい鴨にされていなければ良いがと苦笑。

[8]ディナーショー

   約束の時間に佐藤ご夫妻がホテルまで迎えに来られた。『屋外の海鮮レストランに行く予定ですから、ネクタイを外されませんか?』とのご挨拶に感謝して、古びた持参のゴルフウェアに着替えた。運転手付きの豪華なベンツだ。シンガポールでは3,000万円もするらしい。庶民の家なら2〜3軒は買える値段だ。     
   
   尤も、佐藤夫妻の社宅の家賃は月50万円では利かないらしい。家の値段は家賃の100倍が国際相場だから、定めし億ションにお住まいか?。ある時、通りすがりに、50mくらい離れた道から『あのビルに住んでいるんですよ』と紹介された。断面の形が複雑に凸凹した20階建て位の洒落たマンションだ。ワンフロアに何と2軒しかないと言う豪華さだ。

   海が見える所にレストランはあった。中央部には舞台があり、多民族国家らしく、各民族の舞踏が披露された。インドの舞踏は殊の外興味深かった。目・眉・顔の筋肉・手の指等動かせるものは何でも、多関節ロボットのように器用に複雑に動かす。これに比べれば日舞は能面のように単調な表情と、動きのない形式美に特化しており、予備知識抜きには観賞が難しいような気がする。レントゲン写真のように骨の動きだけが見えるとしたら、両者の違いはもっと顕在化しそうだ。

   大きな『活海老=かつえび』(日本では最近この分野の用語がほぼ定まった。生きているものは『活=かつ』、死んではいるが冷凍ではないものは『生=なま』と呼んで区別している)がどっさり入った容器の上から、給仕がアルコール度の高いお酒を振り掛けた。海老が容器の中で踊っているが、酔って楽しんでいるのか、アルコールの脱水作用で苦しんでいるのか、見極めるべくじっと観察したけれど結局は分からなかった。

   大きなピッチャーで運ばれてくる、生ビールも値段を考えることもなく、遠慮するのも忘れて気分良くゴクンゴクンと飲み続けた。この年になっても心の若さを、今なおキープされている田夫人は『月が美しい』とかロマンティックな話題を提供される。いつも屁理屈だけが脳裏をかすめる癖が染み付いている私は『煙突産業が少ないし、島だから空気がきれいなのは当然の事だ』などの考えが無意識の内に脳裏をかすめるので、話を引き継ごうにも言葉に窮してしまう。

   シンガポールの守護神『マーライオン』に因んだのか、獅子舞が客席の周りに愛嬌を振り撒きながら、チップを集めにやって来た。ここの獅子舞は猛獣のライオンを連想させるリアリティからはほど遠く、カラフルなマンガっぽいデザインだ。私も出遅れてなるものかと、財布の中の現地通貨を探していたら、佐藤さんが『もう渡したから結構ですよ』と言われた。じっと回りを観察していたら、円卓1席に付き代表者1人がチップを渡せば済むようだった。              
  
   2時間くらいの語らいの中で、佐藤夫妻とは大昔からお付き合いをしていたような気になってしまった。佐藤さんは長崎市出島のご出身。福岡市の西南学院大学経済学部卒。西南の関係者は私の親戚にも大勢いて一層親しみが沸く。弟はまさに佐藤さんと同期・同学部。卒業生は300人もいたためかご存じではなかった。 

   義弟も義妹も西南出身。義妹の娘は西南から中央大学法学部に編入学した。甥の一人も西南に在学中。福岡県に置ける西南の立場は愛知県に置ける南山大学にそっくりだ。キリスト教系の私立大学で、文系志願者は九大との併願が多い。私の親戚には自分の子供と甥姪合わせて係累が28人(2.8人/家族)いるが、高校生以下に今なお15人もおり、西南一派はまだまだ増えそうだ。           

   幼稚園の先生をされていた長崎市出身の奥様とはお見合い結婚。お見合いはたったの2人目で完了。フィリピンのアキノ前大統領にそっくりの美人だ。頬との境界を示す輪郭線がクッキリとした、若々しく盛り上がっている唇、綺麗な歯並びを初め、髪形から眼鏡のデザインまでそっくりだ。本人も『そっくりさん』を自認されていた。

   佐藤さんは結婚後もずっと北九州市の本社勤め。今や忘れ掛けていた郷里の地名やトピックスが、何時の間にか共通の話題として自然に登場してくる。ある時突然海外勤務を命ぜられ、既に当地で5年目。日本に残った長男は理工系学部に在学中。大学院進学希望。シンガポールに進出した幕張高校に在学中の長女も理系への進学を希望しているそうだ。文系だった父親の下での反動だろうか?。

   佐藤さんは赴任中に、私費で帰国したことはたった1回だそうだ。親友の子弟の結婚式への出席が目的だった。それを聞いた瞬間、酔いが一気に覚めるほどに驚愕した。何と言う素晴らしい友人関係である事かと!。

   私の周りの駐在員からそんな体験話を聞いたこともなかった。私自身に至っては国内なのに、西南出身の弟の結婚式ですら、妻が出産間際だったりして欠席した。義弟や義妹の結婚式は総て欠席。相次いで生まれて来た子供の世話で身動きが取れずに妻だけが出席した。

   そんな事を思い出しながら『私費でしかも海外から駆け付けられるとは、素晴らしい友人関係ですね。それに引き換え、私なんか親戚の結婚式ですら、都合が付かない場合は、悪びれる事も忘れてしゃーしゃーと欠席していました』と話した。                                
   
   その時、田氏から『あなたの考えや行動と違っているからと言って、とやかく口を挟む問題ではない』と咎められてしまった。氏には私の発言が『佐藤氏への批判』に聞こえたようだった。酒も入った席で誤解が生まれないように、真意を的確に表現するのは、気心の知れた間柄とは言っても、意外に厄介だ。

   佐藤さんは、決算報告の重大任務で帰国された忙しい一瞬を活用して、本年4月20日に鳴り物入りでオープンした『キャナルシティ博多』にも既に行かれていた。大型ホテル2軒、13スクリーンもある日本最大の複合型映画館、劇団四季の常設ミュージカル劇場、ダイエーのメガバンドール、セガのテーマパーク他、200近いテナントのうち外資が3割もひしめく新観光地だ。        

   東京のディズニーランドの2倍、長崎のオランダ村の10倍も客が来るそうだ。投資額800億円、延べ床面積は約7万坪=丸ビルの3倍半もの巨大さ。私も早く見に行きたいのに、外地の佐藤さんに先を越されてしまった。  

   躍進する福岡市に関する話題が続く。今秋には岩田屋新館がオープン。博多大丸の大増築、福岡三越や川端百貨店の開業も近い。結局、現岩田屋を含めると、いずれも売り場面積4万平方メートル級の巨艦店が500m圏内に5店もひしめく激戦地になりそうだ。かつて華々しく天神に開業した福岡ダイエー(一時はダイエー全店中、売上げトップをキープ)は場末に転落して衰退気味などなど。

   満点の星の下で、涼しくなった海からのそよ風を浴びながら、珍しくかつ新鮮な料理を腹一杯食べながら、楽しい一時を過ごした。珍しい香辛料はその都度、質問を重ねながら使い方を学んだ。

[9]カラオケ

   2次会として、田氏と共に佐藤さん行き付けのカラオケに案内された。何時ものことながら駐在員の歌の旨さには驚く。しかし、佐藤さんよりも更に旨い田氏には驚愕。私は15年前くらいから、カセットを買って来ては車の中で聞き続け、運転中は窓を閉め切って大声で練習しているが一向に上達しない。歌い始めるとメロディが耳に入らなくなるのである。

   2曲くらい歌った頃、とうとう睡魔に耐え切れなくなった。妻に何と苦情を言われようと午後8時台には寝てしまう私は、昨夜来の睡眠不足もたたって、意識朦朧として来た。お誘い頂いているのに、こちらからお開きを申し出るのは些か恥ずかしかったが、我が儘を許していただいてホテルへ直行。田氏からは翌日『もっと歌いたかった』との苦情を受ける羽目になった。

[10]初ゴルフ

   早朝、空港に隣接した位置にある素晴らしいゴルフ場(Tanah Merah カントリー・クラブ)に案内していただいた。『シンガポール・タカダ』の営業部長と一緒だった。ゴルフズボンは田氏から借りた。田氏は毎日着替えられるだけの替えズボンを持参されていたので助かった。田夫人は佐藤夫人の案内でショッピング旁々観光に出掛けられた。

   佐藤さんが『今日はカートはあるが、キャディはいない。ここのカートは2人乗りですが、汗ビッショリになりますよ。シャツも買いましょう。日本のMサイズは、こちらではSサイズに相当します』。クラブ名の刺繍マークが入った上品なタオル(12S$もした!)と手袋もついでに買ってくれた。 
                      
   サイズがぴったり合った新品同様の貸靴もあった。ゴルフクラブとしてはこれまた新品同様の『リンクスのセット』を佐藤さんに借りた。脱水防止のためのミネラルウォーターも1人に付き1本用意。カート置き場横に『Light Saody』との掲示が出ていたが、意味が全く掴めない。通りすがりのキャディ(全員男)に質問すると『砂が入っている』との説明。Sandy!だったのだ。誤植とは連想外だった。早速、新品のシャツに着替えてスタートホールで記念撮影。

   去る6月15日は梅雨の中休みで大変暑かった。早速、佐藤さんに買ってもらった『ゴルフウェア』を着てプレイした。仲間が『柄が珍しいね。日本では売っていないような気がするけど、どこで手に入れたの?』と質問。しばし、シンガポールでの大名旅行の紹介に忙しかった。

   ここのゴルフ場の会員権の相場は約3,500万円、シンガポールで最も高いそうだ。私の会員権の平均値(ロイヤル=1,000万円・加茂=700万円)の4倍以上もするとは!。狭い島国にも拘らず、伸び伸びとゆとりもあるホールが36もあり、池が20個近くもある。
                              
   面積では日本の1/600の小国でありながら、18ホール換算でゴルフ場は25個もあるらしい。日本は約2,000ヶ所だが、18ホール換算では2,500個位と推定すると、密度はこちらが数倍だ。人口は1/40なので人口比では日本の約半分と言ったところか。とすると、シンガポール人に取ってはゴルフはまだ贅沢なスポーツには違いない。

   海外では7ヶ国目のゴルフ体験だった。未だ好奇心の残っている私にはプレーよりも、このゴルフ場を評価するのに忙しかった。シンガポールでは、隣国のマレーシアから不足分を買っている水は貴重品だ。多くの池は障害物や景観美としての存在だけではなく、芝生の散水用としての目的もありそうだ。
      
   散水栓に繋いだホースを作業員が引っ張り回すような原始的な方法は姿を消していた。ゾーン毎に管理されている散水栓を一斉に開いている。固定点からの水がスプリンクラーのように乱舞する。

   さながら、消防の出初め式のように豪快な散水だ。全ての芝生に水を到達させるため、散水栓の密度が圧倒的に多い。かつ同時に10個以上の栓を開けるためには、大出力のポンプがあるはずだが、地下に埋設してあるのか視野にはそれらしき収納小屋も見つからない。

   散水栓には直径15cmくらいの金属製の蓋があった。グリーンから200m以内の総ての蓋には、残りの距離をメートル単位(日本はヤード表示)で表している大きな数字が彫り込まれていた。私にとっては初めての体験だった。なかなか親切な心くばりだ。

   もちろん両サイドにも100mと150mの距離表示の小さな木が植えてあった。グリーンの旗は大体の位置(手前・中央・奥)を区別するために青・白・赤と色分けしてあった。竿に巻く鉢巻きの高さで距離を示す日本の習慣よりも、視力の衰えた私には分かり易い。

   何にも増して、ふかふかで且つ綺麗な芝生には満足。視界を塞ぐ山やプレイに邪魔な谷もない代わりに、なだらかなうねり(アンジュレーション)が工夫され単調さが避けられている。スコールが強襲しても砂が流れてしまうほどの斜面ではない。その結果、隅から隅まで芝生がむらもなく高密度にビロードのように生え揃っている。視野全体に渡って緑溢れる景観は素晴らしいの一言に尽きる。

   芝生の下の土は柔らかく、贅沢感を味わいながら歩いた。カートに乗るのが勿体ないくらいだ。しかしカートはプレイには大変合理的だ。打点位置から目標地点が見えない時には、一度様子を見に出掛けてから元へ戻るまでの時間も確保出来る。カートなしで歩くだけの場合には運動にはなるが、その都度ホールを確認するのは面倒臭いので結局、山勘でプレーするのが落ちだ。

   ゴルファーのマナーも意外に立派だ。日本ほど大衆化していないためだろうか?。芝生の根元が柔らかくダフっても何の抵抗も感じることなく、草履のような芝生が取れるが、芝を戻し移植鏝で砂を入れる作業は几帳面に誰れもが実施していた。芝生の回復力が強いのか、その種の後遺症としてのアバタも大変少ない。

   雑草が生えていない。あちこちでマレー系の壮年男子が芝刈りをしていた。人種間で職業が違うようだ。マレー系に底辺と思える職業が多いのは、ひょっとするとマレーシアやインドネシアからの出稼ぎ労働者かも知れない。日本のゴルフ場のように、年寄りの男女や中年のおばさん達が失対事業のようにのんびりと働く風景とは大違いだ。

   このコースは植物園のようにも、公園のようにも感じられる。10数年前に18ホールだけオープンした時には、最初から大きな木を移植したそうだ。今では20mにも達する巨木も少なくない。同じ種類の木はなるべく纏まった群になるように植えてある。同じホールでも木の種類が多いので、歩くに連れて景観も変化し飽きが来ない。

   花が咲いている木は何故か少ない。あるホールで、珍しい花が咲いている木があったので近付いて確認していたら、佐藤さんが『あれは花の咲く蔦が大木に巻き付いているんですよ』と教えてくれた。果物の木もなかった。熟して落ちた実の後始末が大変だからだそうだ。

   例外として黄色い大きな実がなる椰子の並木があった。何と言っても熱帯の象徴でもある椰子がないと寂しいからだろうか?。『椰子の実は突然落ちるので、危なくないか?』と聞くと、『キャディが飲み水替わりに、時々取っているから大丈夫』だそうだ。

   バンカーの砂の質は抜群だった。真っ白なサラサラとした小粒の砂が深々と入れてあった。私の行きつけのゴルフ場では、斜面の目土が雨の都度バンカーに流れ込む結果、砂が直ぐに堅くなり、有効深さは精々数cmだ。

   ここのコースはショート、ミドル、ロングともアウト、イン共に各3ホールずつの配置だった。この配分には初めて出会った。国際的にはそれぞれが2,5,2ホールになるように配分されているコースが標準だが、同じ数にする方が難易度が平均化される分だけ、ゲームとしてはフェアな気がして来た。しかもホールインワンの確率は5割増しになる。帰国後、物知りゴルファーに聞いたら、ホールの配分にルールはないそうだ。             
                 
   佐藤さんの話ではこの春、ここのコースでヨーロッパ選手権のスタートを切ったそうだ。オーストラリア勢が多かったとか。試合の見学が出来るのは会員の家族か、会員が同伴して来た人だけに限定されていたそうだ。佐藤さんは見たくもなかったけれども、取引先の人が希望されたのでやむなく見に来た。そんなこんなで実質、日本人駐在員の例に漏れず佐藤さんは土日も働き詰めらしい。

   待つこと久しい待望の茶店に到着。吹き抜けのテラスで一服。トイレが綺麗だった。何故か日本のゴルフ場では、茶店では簡易トイレに近い設備が主流だ。ここはクラブハウスと同レベル。テーブルの上に仲間の誰かが忘れていた帽子を、茶店のおばさんが走りながら届けてくれた。

   ある時、キャディ風の男が池で拾ったと思えるボールを売り込みに来た。1袋50S$で佐藤さんが買われた。50個は入っていたようだ。大変綺麗な球だ。こんなに池が多いコースでは、この程度のロストボールで丁度良い。

   初めてのコースを右往左往しながらも、乗用カートの機動性に助けられてほぼ4時間でプレイ完了。タップリと滴るほどの汗を流した。佐藤さんは、かって知ったる様子でクラブを積んだまま、カートを指定の場所に返却。キャディが荷物の点検整理を開始。ふと見ていたら、未開封のミネラルウオーターを拾いあげた。ゴミ箱に捨てるのかと行方を追っていたら、貰い得とばかりに持って行ってしまった。             

   シャワーを目指してハウスへ駆け込む。ロッカールーム入り口で真っ白なバスタオルを受け取る。更衣室での先客のしぐさをしばし観察。全ては物真似から出発。ここで裸になり、腰巻きのようにバスタオルを巻き付けてシャワールームへ入るシステムと了解。

   1.5×1.5mくらいのユッタリとしたスペースのあるシャワールームだ。頭の真ん中に水平に取り付けられたパイプがあり、そこから下向きにシャワーが取り付けられていた。蛇口を捻ると、まるでスプリンクラーのような勢いで温水が吹き出して来た。これもまた初めての体験だ。何と気分が良い事か!。
            
   今まで体験したシャワーはホテルでもどこでも、お湯が斜め前から吹き出すタイプなので、背中を洗う場合は体を回転させるか、シャワーを外して手に持ち変えて体を洗わざるを得ず、手は1本しか使えない。何時の間にかシャワーとはそんな物だと思い込んでいた。結局、世間に普及しているタイプはお湯の節約が目的だったのだろうか?。

   冷房の利いた更衣室で着替えながらも、目だけはさりげなく、しかし抜かりなく、キョロキョロと辺りを見回した。いろんな民族、人種の人が服を着替えている。ブリーフ族は少ない。日本でも若者に流行し始めた花柄模様の猿股が多い。黒人は当然の事ながら猿股の内側も黒い。
                                   
   90Kgはありそうな、筋肉質で体躯隆々の惚れ惚れするような体型のインド人が着替え始めた。彼は半包茎だった。ヒンドゥー教徒のインド人には、ユダヤ教徒やモスレムのような『割礼=Circumcision』の習慣はないのだろうか?。場所柄、質問するのを割愛したのが悔やまれる。

   レストラン顔負けの素晴らしいハウス内の食堂に集合。佐藤夫人や田夫人ともここで合流した。それぞれの午前中の体験談を肴にしながら、しかも空きっ腹にビールと来れば、天国もかくやと思っても過言ではない。

   若さを謳歌しているようなインド系に感じた男の給仕が来たので『あなたはインド人ですか?』と質問。『シンガポール人です』。中国系の人は自己紹介の時に向こうから進んで自分のルーツに触れる場合が多い。

   マレー系は質問すれば正直に素直に返事する。一例に過ぎないが、ひょっとするとインド系には、インド人と言われるのを嫌がる理由があるのだろうか?。それとも『インディアンですか?』と言う表現だと『アメリカの土人ですか?』と聞いたことになったのだろうか?。

[11]市内観光とショッピング

   佐藤夫人の案内で中国寺院に出掛けた。寺では靴も帽子も脱いだ。奥まった所に大きな仏像が鎮座している。東南アジアの仏像は、何故か赤ん坊のようにツルツルの皮膚に仕上げられている。顔も童顔で威厳がない。私には、立派な仏像とは『人里離れた深山で禁欲を守りながら、教義の蘊奥を極め、全身は皺に覆われた上に、ミイラのように痩せこけた低血圧の老僧を連想させるような彫刻』との思い込みが強いため、その反対の極にあるような仏像は拝み難い。

   傍らにはおみくじの自動販売機があった。ルーレットのような回転盤付きだ。おみくじの世界であり難みを付加するためには、どうしても人の意思を遮断する確率要素の導入は不可避だ。宗教の世界にも人手不足は容赦なく押し寄せているようだ。

   アラブ人街にも出掛けた。イスラム圏で見慣れた丸いドームのモスクだ。外から見た印象よりも内部は遥かに広々としていた。皆んな清潔好きだ。ここでも靴を脱がされる。モスクの前では行商が店開きしていた。こういう庶民的な雰囲気に出合うと、高層ビルに代表されるシンガポールの玄関口で感じる『よそ行きの顔』から受ける緊張が取れて、里帰りしたようなホッとした心境になってくる。

   インド人街にも出掛けた。その間、田夫妻達はアラブ人街でのんびり過ごされた。軒並み100%インド人の店だ。原色で派手な無地の生地を売っている店が多い。まだインドには行った事がないので、この際『リトル・インディア』の雰囲気を味わうべく店の中まで立ち寄る。
                      
   インド人は男まで額の真ん中にマークを書き込んでいた。赤と黒があったのでその意味を聞くと『赤は既婚、黒は独身』だそうだ。インド人の眼光には思いの他の鋭さを感じた。黒い睫や窪んだ位置にある真っ白な白目と、薄黒い顔の色から受ける強いコントラストが原因なのだろうか?。

   最後に、昨日も行ったDFSに出掛けた。DFSの会員になられている佐藤さんの紹介者には『酒とタバコ』以外は自動的に10%引きの恩典があるそうだ。最初は何にも買う積もりはなかったのに、何時の間にか買い慣れていたベルギーのゴディヴァのチョコレート7箱、他銘柄のチョコレート4箱、フランスのフォーションの紅茶6缶、ゴルフ・ウェアを2着、当地の記念にと惰性で買ってしまった。お礼にゴディヴァを奥さんに1箱、無理やり受け取ってもらった。

[12]ナイトサファリ

   パック旅行料金に含まれていた夕食付きのナイトサファリに出掛けた。サファリ形式の放し飼い動物園は、日本でもあちこちで開業しているが今まで出掛けたことはなかった。意外に高い入場料に腹立たしさを感じていただけではない。動物そのものは各地(小倉・名古屋・上野・北京)の動物園で飽きるほどに見ていたし、幸い子供に催促されなかった上に、興味も湧かなかったからでもある。           

   加えて小さい頃から完璧主義をモットーに生きて来た私には、檻はなくとも餌が保障されているような場所では、自然と同じ動物の生態が観察出来る筈がないと確信していた。いつの日にかキリマンジャロが聳えるケニアの大草原で、本物の逞しい野生の猛獣と出会う楽しみに、そっと残して置きたい夢でもあった。

   夕食はアジア各国の代表的な民族料理のバイキングだった。200人は軽く入れそうな大きなレストランだったが、雰囲気は会社の食堂みたいだった。長いテーブルを挟んで、椅子がズラッと対面して並べてあった。各旅行社のツアー客がそれぞれの予約席に追い立てられて行く。

   中央部には20種類位の料理、数種類のトロピカルフルーツにコーヒー等の飲み物があった。一度に数十人単位の団体が入場し、ガイドによる連絡事項の説明が終わるや否や、料理置き場に殺到して来る。観光客には一方通行の行列を守る意思がない。右回りと左回りの列が衝突する上に、割り込み(本人は自分の食べたい料理だけ取っているのだからと、割り込みの認識を持っていないだけ一層始末に負えない)が後を絶たない。アジア人が中心だが品位のなさには目を覆いたくなる。

   この時、食事内容よりも赤道直下の国らしい珍しい体験をした。日没後、瞬く間に夕闇が迫った。この国では日没時の太陽の軌跡は水平線に対し文字通り垂直だ。日没後も白夜のように一向に暗くならない北欧の場合とは対照的だ。料理を取りに席を立った時には明るかったが、全ての料理をひとかけらずつ集め終わって着席するまでの短い時間だったのに、外は既に真っ暗になっていた。

   3両連結の電気バス(合計100人乗りくらい)乗り場前では、ウネウネと張り巡らされたロープの隙間に、大勢の観光客が2列になって並んでいる。こりゃ大変だ!と当初は思ったが、5分間隔位でバスが到着したので3回目には乗れた。40分コースだ。

   カタログによれば動物は100種類以上、数千頭はいるらしい。暗闇の中へと静かに出発。要所毎に掲示板があり、英語による簡単な説明がスピーカから流れて来る。ライオンや虎などの猛獣、象やサイなどの大型動物だけでなく、珍しい動物もいるにはいた。
                             
   それらが@ヒマラヤ丘陵Aネパールの谷Bインド亜大陸Cアフリカ赤道付近Dインドネシア&ヒマラヤ地域Eアジア河川地域F南米草原地帯Gビルマ丘陵、の各原生地ごとに配置されていた。各地域の植物相もなるべくその地域を象徴するように工夫されていた。

   しかし、猛獣は満腹して地面に寝そべっているだけであり、しかも観光客慣れしている。いくら暗闇の中の淡い照明の下で密林のスリルを復元しょうと演出しても、猛獣が闇の中で咆哮するような緊迫感が伝わって来ない。しかも目玉となる動物の固体数は少なく、鹿だけが何故か無闇と多くがっかりした。予想通りと言うべきか。                                 

   電気バス以外にもここのサファリには、コースが一部に限定されてはいたが、歩行者用ルートも併設されていた。こちらの方が臨場感が多少ともより大きかったのではないかと思った。バスが時々突然ガタガタと揺れる。路面が凸凹に加工してあった。眠気覚ましなのか?。恐怖感をあおるためなのか?。中途半端で目的が分からなかった。

   帰途の出発直前、佐藤さんにホテルへの到着予定時刻を連絡した。ジャスト・イン・タイムでのお迎えがある約束だ。シンガポールの公衆電話は10セント硬貨しか使えず、両替にひた走る。しかし自動車の渋滞が殆どないので予定は立て易い。

[13]最後の夜

   田夫人をホテルに送り届けた後、佐藤さん行き付けのカラオケバーへと先を急ぐ。日本人の溜まり場だった。入り口近くのホールの壁面一杯に小さな貸しロッカーみたいな棚があり、会社や個人のボトルがどっさりキープされていた。一流会社の名簿みたいだ。残念ながら『TMSS=トヨタモーター・マネジメント・サービス・シンガポール』の名前はなかった。河岸が違うらしい。

   客は少なかった。たかだか数グループだった。昨夜は熟睡していたので、今日は眠くない。3人交互に歌う中に、時々他グループの順番が入り込む程度だった。ここのカラオケの曲目の多さには驚いた。年寄り向きだ。

   日本のカラオケでは今まで出会ったこともない、大好きな『アニー・ローリー』もあった。その他、愛唱歌と称して『埴生の宿』『荒城の月』『浜千鳥』などまであった。これならば私も困らない。                    

   カラオケで旨く歌うなどの目標をとっくの昔に捨ててしまった私は、歌詞に合わせてなるべく感情を込め、しかも大声で歌うことにしている。酒が深まると高い声が出せなくなるが、酔いも手伝い、歌っている途中でも突然ストーンと1オクターブも下げて歌ったりもした。

   しびれを切らされた佐藤さんから『そろそろお開きにしませんか?』との催促まで受けてしまったが、最後の夜の気分は満開状態だった。もう午前1時が近づいていた。

[14]2回目のゴルフ
                           
   朝までたっぷりと眠り、帰り支度も済ませ、田夫妻の部屋へと向かい、旅行の感想などを聞く。初めての海外旅行には殊の外、満足されていたようだ。

   佐藤さんは午前中所用があるとかで、今日のゴルフは午後のスタートだ。若い駐在員の岡さんと一緒だった。昨日と同じゴルフクラブだったが、最初にオープンした18ホールの方だった。こちらの方が一層素晴らしい。昼食をここで食べる事になり、両婦人も一緒だった。クラブハウスはアメリカの大金持ちの別荘のように美しく、その上ハウスのベランダからのコースの眺めも素晴らしい。皆で交互に写真を撮り捲った。

   今日はキャディが2人付く代わりに、カートには乗れない。ここのキャディは中年男子、しかもシングル級だそうだ。私と佐藤さんに付いたキャディはハンディキャップ9だった。グリーンの読みが鋭い。毎週2回、キャディだけが半日プレイ出来る日があり、腕を磨きながらコースの整備もするそうだ。

   芝生をチョットでもダフると、キャディは間髪を入れず砂を入れてくれる。グリーンでは直ぐにマークしてボールを拭いてくれるが、時々ボールを返す時に人の球と間違える。『球に瑕』とはこの事か!。

   ここのコースには珍しい松があった。松の葉の一本一本が、春先に伸びて来る日本の松の新芽のような形をしていた。直径1cm弱、長さ10cm位の茎に約5mmの針状の葉が毛虫のように生えている。その一つ一つが松の葉なのだ。従って大変重厚感がある。『あれは松なんですよ』とまたもや私の不審な行動に気付いた佐藤さんが教えてくれた。

   高さ5m位の成長盛りの椰子の並木があった。どの椰子にも中央部に長さ2〜3m、直径5cm位の若い葉が真っ直ぐ空に向かって伸びている。良く見ると柄が巻いているだけで葉が伸びていない。いろいろな形の葉を探していたら、成長のプロセスが分かって来た。                        

   柄の先端の方から櫛の歯のような葉が横に伸びて来る。下の方まで葉が出そろうとやっと大きな椰子の葉1枚が完成する。一般の広葉樹のように無数とも言える程の葉がある木と違い、枚数が少ないだけ、一枚一枚の葉を大切に育てているような気がする。まるで哺乳類が子供を育てているかのように。
              
   クラブハウスから一番離れた位置の、金網に囲まれた一角には苗木や養生中の鉢植え群があった。クラブハウスや茶店を初め、ゴルフ場のあちこちで使う緑化植物を育てたり、樹勢の衰えた鉢植えの木をリフレッシュしている所だった。日本なら植木屋に発注する仕事を、場内外注している様子だ。これだと物流も簡単で合理的だ。

   こんなに素晴らしいコースだったが、空港に隣接しているため2〜3分置きに数百メートルの上空を大型旅客機が飛び交うのが、唯一の欠点か?。汗だくになったので、佐藤さんの提案に従ってシャワーを先に浴び、気分を一新した後に飲んだ生ビールの味は、ゴルフの醍醐味そのものだった。

[15]最後の晩餐

   シンガポールの銀座=オーチャード・ロードを挟んで高島屋ショッピング・センターと向き合っている、パラゴン・ショッピング・センターに出掛けた。テナントとして『そごう』も入っていた。そこの Fook Yuen Seafood Restaurant(馥苑海鮮酒家)の個室で特別豪華な中華料理をご馳走になった。

   まだ高校生の佐藤さんのお嬢さんもご一緒だった。北京ダックを初めアワビ入りフカヒレスープなどの高級メニューが8品も出た。その日注文したメニューを手書きしたリストを記念に貰った。北京ダックの正式名称は『北京片皮鴨』である。料理名は殆ど『材料名+料理法』の組み合わせからなり、漢字をじっと眺めていると食べた料理が思い出せて面白い。

   佐藤夫人は昨日までの写真一式を既に現像されていた。私はその中から1枚を選び出し『田さんは早生まれで私よりも若い筈なのに、10歳も年寄りに見える』などと、またもや性懲りもなく愚かな事を口走ってしまった。『自分に有利な事を拾い挙げて話題にするとは!』と田氏のお説教。癌手術後の氏の不安に対する思いやりを、すっかり忘れていたことを恥じた。

   佐藤さんは毎週のゴルフのせいか、北京ダックのように日焼けしている上にツヤツヤとした精悍な顔をされている。一方、お嬢さんは同じ人種とは思えないほどに色が白い。年中陽射しの強いこの国でも日に焼け難い人もいるようだ。四方山話に花が咲く。

[16]ハプニング

   深夜、飛行機が今や離陸と言う間際になって『機体に異常が発見されました。待合室にお戻り下さい』との機内放送。その途端、ドッと、疲れを感じた。しかし、同時にシンガポール航空の素晴らしい対応に感心した。

   移動途中、係員が乗客全員に『善後処置に関するメーセージが記された詫び状』を配布した。特に成田からの国内線への乗換え客への連絡は乗客の不安を取り去るに十分だった。待合室の一角では、急遽職員総出でサンドウィッチを作り始めていた。希望者にはジュースと共に、個数を制限することもなく無料で配っている。

   私は満腹状態だったので、遠くから行列を観察するだけだったが、行列の長さに驚く。こんなに沢山の人が機内食を当てにして、空腹を我慢していたのだろうか?。それとも只ならば、並ばにゃ損と思っていたのだろうか?。椅子にぐったりとなって座っている客のところまで、職員が余ったジュースを運んで来た。私も1杯頂いた。

   やがて、代わりの飛行機の出発準備が出来た。座席配置が全く同じジャンボだった。切符に書き込まれた座席番号を替える必要がない。合理的だ。2時間遅れだったがやっと離陸。

           上に戻る
おわりに

[1]家族的な高田工業所

   田氏によれば、佐藤さんとは今日に至るまで個人的なお付き合いはなかったそうだ。いわんや私とは初めての出会いだった。にも拘らず家族を挙げて、今回のような言語に尽くせぬ程の歓待・歓迎を何故して頂けたのか、私には想像が出来なかった。折に触れて田氏にもお尋ねした。

   一昔前、佐藤さんが新規プロジェクトを担当された時、コンピュータを使った『人相見をする機械』を開発された。国内でのお披露目を晴海の見本市会場でする事になり、振動による故障を懸念して、トラックの代わりに北九州市から東京まで船で運んだ。     
                         
   たまたま、田氏は東京支社で『玉掛けとクレーン操作』の只一人の資格保有者だった。船からの荷役や会場での据付作業にこの資格が役立った。そんな事情から佐藤さんは今なお、田氏に『借り』を感じておられたのではないか?と言うのが氏の推定だった。

   この機械は幸い世の注目を浴びて今でも売られているそうだ。私は情報処理学会を初め、関連学会の話題については過去30年間も継続して関心を持ち、興味を引かれた論文は読んでいたが、どうした訳か私の情報検索網からこのユニークな装置は漏れていた。

   歴史的にはこの種の『画像処理技術』には大勢の人が挑戦してきた。その成果の一つである文字の読取技術は、郵便番号の自動読取装置に実用化された。三菱電機の果菜(キュウリ・茄子等)の大中小や曲り度合いの自動仕分け機械とか、鮮魚の自動分類機(サバとアジの仕分けとか)などは大変有名だ。個人の識別が出来る指紋や網膜紋の読取認識装置もほぼ完成しているらしい。警察での犯人捜査だけではなく、本人を確認しなければならない分野への応用は無限に広がりそうだ。

   画像技術では、読み取ったデータ群から特徴線を抽出して、対象が何であるかを選び出す推論の手続きに特色がある。類似の世界には、手相を読み取って占いをする装置もある。しかしこの種の機械には、尤もらしい豊富な余談付きの、伝統を誇る町の手相見程の面白みがないため、装置の人気は今一つのようだ。この種の『手相見』や『人相見』の世界は形式的な厳密性よりも、回答の面白さに開発者のアイディアが競われている。

   自動的な人相書き装置には、強力なライバルもいる。マンガ家だ。新聞などの紙面を飾る『似顔絵』はほんの僅かの特徴線で、写真以上に本物らしく描き上げられている。本質的な特徴を掴み取るマンガ家の超能力の前には、最先端の情報処理技術など未だ赤ん坊のような存在だ。それだけに、佐藤さんの機械は、前述した漢方薬売り場のお爺さんにも真似の出来ない、素晴らしい『ノウハウ』が入っているのではないかと推定。

   しかし私には、佐藤さんのご厚意は別の所、高田工業所の『情けは人のためならず』を地で行くような、家族的な社風から生まれて来たのではないか?と思えた。会長をされているオーナーの高田さんは田氏に『60歳の定年になっても、働きたいなら、元気な内は何時までいてもいいぞ!』と言われたそうだ。癌の再発不安に日々襲われている田氏にとって、これに勝る思いやりの言葉はない。
                          
   戦後の日本を牽引して来たと自慢している『重厚長大』大手各社の、従業員に対する冷たい対応とは大違いだ。私の学友を九大・航空工学科・37年卒に限定すると、最初に就職した会社に今なお残っている者は、平成8年1月1日以降は、私ただ一人になってしまった。夫々は転職(私大教授・医師・自営業)出向・転籍・退職・永久入院・死亡のいずれかに分類される。

   今回の旅行では若干だが8ミリビデオの撮影もした。何時ものように、そのときひらめいた印象を左手に持ったマイクを使って同時録音した。成田空港で撮り始めた時の嬉しそうな田夫人の笑顔が忘れられない。テープは別れ際にお世話になった田氏ご夫妻にプレゼントした。

   帰省の折には何時も竹馬会の仲間が集まる。幸い郷里の近くに佐藤さんのお住まいがあるのでご一家をお招きして、田氏ご夫妻と共にビデオも一緒に見ながら、氏のご厚意には何としてもお応えしたい。

[2]シンガポールの再評価

   5年前に、業務で3週間4ヶ国を駆け巡った折に立ち寄ったシンガポールは、僅か1泊2日の旅に過ぎなかった。単に表面を撫でて『人も環境も管理された、アジア各国とは一味違った一見美しい国』との印象を受け留めただけに過ぎなかった。
 
   今回初めてじっくりと『シンガポールとはどんな国か?』と考えながら過ごせた。マンネリの日々にドップリと漬って錆び付いていた頭も、久しぶりに新しい刺激を浴びてリフレッシュ出来た。
 
   意外に寡黙な佐藤さんだったが、要所要所では私の疑問には的確なご説明を頂き、この国を一層深く知ることが出来た。併せて竹馬の友、田氏とは久しぶりに長々と時間を共有し、この国についても夫々の印象を語り合う事も出来た。
   
   東京駅で田夫妻と分かれて、久しぶりに日本橋界隈を散歩した。所が見慣れていた筈のビル街に、いつもとは違った強烈な印象を受けた。道路の両側に隙間なく続くビルからは耐え難い圧迫感・閉塞感を受けた。これに似た印象としては台湾の各大都市、パリでも大通り以外では感じていた。この時には、無意識のうちに鮮明に蘇っていたシンガポールの摩天楼の残像と、比べていたのだろうか?。

   シンガポールの摩天楼にはニューヨークと異なり、ビルとビルとの間にたっぷりとした隙間がある。街角のどの位置にいても、ビルの隙間から遥か遠くが透けて見える開放感がある。その隙間には伸び伸びとした緑の大木がある。深呼吸が味わえる。坂が多いのも景観に変化を与えてくれる。東京と同時に比べれば比べるほど、この都市計画の素晴らしさに驚く。

   しかし帰国後、多少の時が経った今では『シンガポールとは近代的な大病院のような国』と考えるようになって来た。環境全体がクリーン・ルームのように管理されている。乞食がいない。街角にホーム・レスがいない。身体障害者はどこかに隔離されているのか、奇妙な事に全く見掛けなかった!。息苦しい!。
              
   どこか物足りない!。過ぎたるはなお及ばざるがごとしか?!。汗臭くとも雑草のように逞しく生きている筈の、普通の人間の苦しみが伝わって来ない。衛生的だが、香りも味も乏しい水耕栽培の野菜のようだ。私には『活気溢れる埃だらけのベトナム』や『数千年の歴史を背景に、過去10年で物価は百倍にもなったインフレなど、どこ吹く風とばかりに悠然と生きているトルコ』の町や田舎に、シンガポールでは得られない『安らぎ』を感じるのだ。

   シンガポールは1965年、マレーシア連邦から独立して以来30年、リー・クァンユー(李光耀)上級相(職位は首相の上、国家元首や大統領に類似)のリーダーシップの下、この国は驚異的な経済成長を遂げた。たとい政府の強権管理下にあっても、成長の成果を日々皮膚で感じ取れた頃の国民は差引、政府の施策には満足もし、協力もして来たのではないか?。

   しかし、過去10年間、シンガポールドルは日本円に歩調を合わせて対ドル相場を切り上げて来た。その結果、日本同様ドルベース換算の名目経済成長は驚異的だ。だが、無資源国シンガポールは日本以上に、あらゆる物資を輸入しなければならない。中国大陸と緊密度を増し始めたライバルの香港に比べれば『砂上の楼閣の弱さ』は誰にも否定出来ない。
 
   最近、リーさんは喧嘩別れした筈の『資源大国マレーシア』に秋波を送り始めたが、過去の歴史を無視した身勝手さが見え隠れする。歴史的には、1948年にマラヤ連邦が発足。1957年にマラヤ連邦が英国から独立。1963年マラヤ連邦にシンガポールが加盟してマレーシア連邦が成立したが、1965年にシンガポールが連邦を離脱して今日に至っている。

   マレーシアはその名が全てを物語るように、マレー人が最大構成人種の国で、しかもイスラムを国教とする国。にも拘らず経済の実権を異教徒の中国系に支配されていた不満から、マレー人優遇の国策を打ち出し、中国系が最大構成人種のシンガポールと意見が衝突。僅か2年で連邦は崩壊した。

   マレーシアのマハティール首相は『シンガポール何するものぞ』との心意気で、かの有名な『ルック・イースト政策』をスローガンに掲げ、クワラルンプールを緑溢れる美しい都市に育て、外資を導入して第2次産業を発展させ、成功のシンボルとして世界一の高層ビルを建設中の身である。
                      
   リーさんは過去の経緯を知りながら、今なお『マレーシアがマレー人優遇策を廃止するならば、シンガポールはマレーシアに復帰しても良い』などと一方的に不遜極まりのない発言をしているが、資源狙いの本音を見透かされて、マレーシアからは完全に無視されている。

   マレー系の先住民が住んでいた国に、移民として流れ込んだ中国系の人達は『皆さんのお国にお世話になっている』との謙虚さを名実共に行動で示さない限り、両者が簡単に和解出来るとは思えない。

   シンガポールの物価は驚くほど高くなっている。『いつかは自家用車も持ちたい』との一般国民の夢はますます遠ざかるばかりだ。繁華街で擦れ違った一見美しいファションに身を包んでいる『シンガポーリアン』の表情が、オーストラリア人のように険しく感じられた。外国人である私にすら、不親切な国民が増えた。国民の政府に対する、口外出来ない暗黙の不満が表情に現れているようだ。

   『リーさん』は、たとい『建国の父』とシンガポーリアンに崇められても決して過言ではない程の、不世出の大政治家だ。『シンガポールの繁栄は我がリーダーシップの賜物だ』との確信が氏にあったとしても何ら不思議ではない。

   しかしその結果、徐々に芽生えつつある国民の氏への不満は耳に入らなくなったどころか、あろうことか最近は、外国であるミャンマーのスー・チンさんへの批判(ミャンマーの現状レベルでは、過去のシンガポールに於ける私のやり方こそが、学ばれ選択されるべき最も正しい政策である!)すら口走り、お説教を垂れるようにもなった。

   ことここに至ると、今ではシンガポーリアンに取っても国益を損なう『老害』の方が大きくなったのではないか?。あと少しこの国が豊かになり、近隣各国だけではなく、遠く欧米にも普通の国民が出掛ける時代が来れば『この国は、チョットおかしい!』と、誰もが考え始めるのではないか?と思う。

   来る21世紀には政府の強権発動と一体となった指示からではなく、新しい指導者の新しい政治理念の下、国民の自由な発想に出発点を置いたもっと素晴らしい国作りが始まると思う。否それどころか、シンガポーリアンのためにも『そのような転機が一刻も早く訪れるはずだ!』と願わずにはおれない。 
                    
   佐藤さんとは僅か3日間の出合いに過ぎなかったが、何時の間にか私に取ってシンガポールは、我が『予言の検証』のためにも近い将来、もう一度は訪問したい程の思い出が深く刻み込まれた国になってしまった。
                               上に戻る