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随想
           
進化論(平成14年6月1日脱稿)

   去る平成14年5月8日、ロイヤル・カントリークラブでゴルフ仲間(70歳・経済卒・トヨタOB・私には難しすぎる質問を頻発される方)から、またもや難問を突きつけられました。

『石松さん、進化論を信じますか?』

『環境の変化に対応した結果としての、適者生存と言う意味では信じます。それを進化と言えるか否かは別の問題だと思います』
『1万年前の人類は仲良く暮らしていたと思っている。今日の人類にはエゴイストが増えた。エゴイストが適者生存で増えたのなら、もっとエゴイストが増えそうな1万年後の社会はどうなるのでしょうか?』
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進化論論争

   私は高校では勿論、その後も生物学は勉強していないので、この難問に答える知的蓄積は全くありません。しかし、興味深い設問なので、つらつら愚論を考えてみました。

   当命題の推論結果をメールで質問者である大先輩にお届けしたものの、ご返信がなくて気合い抜け。そこで最初の原稿を再吟味し、微修正を加えて出直しました。賢人各位からのご批判が頂ければ、望外の喜びです。6月末までのご批判をこの原稿の末尾にコピーして、ご返信することにより、議論参加者へのおん礼に変えさせていただきます。(注。参加者数の目標は5%=10人以上。統計学では5%以下の場合は珍しい事象として取り扱う習慣になっています)

   
   私にはダーウィン(1809〜1882)の『種の起源』を、生物学者が『進化論』と解釈したことには本質的な誤りがあったと思えます。『変化論』と評価すべきでした。同時代のメンデル(1822〜1884)が発見した『遺伝の法則』の場合は、不幸にして生存中にはその画期的な業績は学会で認められず、1900年に至ってやっと認知されました。
   
   進化論には『進化の頂点にいるのは人間だ』と言う根本的な傲慢さ・誤解・偏見が感じられます。いわゆる知能のみが評価対象ならば,もちろん人間になりますが、生物としての種の存続能力の進化・強化と言う面に視点を移すと、評価はがらりと変わります。
   
   最も長寿になるように生命が進化したとすれば、その頂点に至ったのは鶴や亀なのでしょうか?。最も強い筋肉が得られるように進化したとすれば、蚤やライオンなのでしょうか?。飛翔力・水泳力・病原体への抵抗能力・粗食に耐える能力等々、個々の能力では、殆どの場合人間よりも優れた動物が溢れています。
   
   ニュージーランドの国鳥『キューイ』は飛べなくなった鳥として有名ですが、進化論の立場では進化というのでしょうか、それとも退化というのでしょうか?。絶滅した生物は進化した結果、絶滅したのならば、何のために進化したのでしょうか。それとも退化したから絶滅したと言うべきなのでしょうか?。私には環境に順応して変化しただけと思えますが。。
   
   進化とは何であるかとの意義を明確にもせずに、それらの動物が人間よりも優れた能力がどんなにあろうとも、知能が人間よりも劣るからとの単純な理由から人間よりも進化が遅れていると結論するのであれば、疑問どころか、無意味な議論だと思います。

   生命の歴史とは、環境の変化(大隕石の衝突・造山活動期・氷河時代等)に対応して、遺伝子が積極的に自己変化して適応したと考えるより、新しい環境にも耐え得る遺伝子を持っていた生物がたまたま生き残り、耐えられなかった生物が滅んだ結果、生き残った生物が相対的に増え、種の交代が起きて今日に至った過程だろうと思います。氷河時代に哺乳類が生き延びたのも、病原菌と抗生物質との鼬ごっこの闘いも、所詮は同じ現象ではないかと思います。

   後天的な努力を幾ら積み重ねても、遺伝子は変わらない(整形美人の天敵は子供とか!)ので、エゴイストになる遺伝子が創生されない限り、エゴイストが増加するとは思えません。また、エゴイストの方が適者生存に適っているから増加したとの判断には、必然性も論理性も感じられません。むしろ、周囲から嫌われる結果、エゴイストにとっては犯罪者同様、結婚難にも遭遇し、生存環境は逆にますます厳しくなるとさえ思えます。
   
   そもそもエゴイストとは遺伝子の作用で発生したのではなく、人間の思考によって現れた、人間にのみ固有な後天的な行動様式だと考えています。本能から誘起される行動で生き延びている動物の場合、生存競争はしていても、それらの行動はエゴイスト的とは観察されていないからです。

   生物が環境の変化に常に対応して生き延びるための最善策は、遺伝子の種類を限りなく増やすことだと思います。そうすれば環境が変化したときに、今まで役にも立たなかった、いわば隠れていた遺伝子が急に役立つ可能性が残ります。
   
   今日、温暖化の影響が深刻な話題になっていますが、最大の問題は炭酸ガスの増加にはなく、酸素の減少にあると邪推しています。人間の肺機能では空気中の酸素分圧が10%低下すると窒息死(注。成層圏内では高山上でも酸素の割合は変わらない)すると言われています。先進国も後進国も空気を区分所有することはできず、ある時カタストロフィックにばたばたと国民が窒息死しないためには、酸素ボンベを背負うのでしょうか、それとも新遺伝子を合成し、品種改良するのでしょうか、それとも突然変異の発生を神頼みするのでしょうか?。
   
   かつて南太平洋には穀物が少なく、飢餓遺伝子が作り出された結果、その地の人類は少しのカロリーで生き延びてきたと言われています。しかし、今日に至り、飢饉が過ぎ去った結果、飢餓遺伝子の招かざる働きで、小錦のような肥満人がグアムではびっくりするほど大勢闊歩しているのを、かつて目撃しました。

   遺伝子は突然変異でも変化、若しくは増加しますが、突然変異の発生は不連続的かつ偶発的な確率現象であり、頻度に限りがあると思います。しかも、環境が激変すれば適者生存に有益な遺伝子が、突然変異で必ず創生されるとの必然性もありません。
   
   生命の歴史には結局の所、突然変異が間に合わずに絶滅した種も含まれている、と言うのがその推定の根拠です。環境の変化に的確に対応するための種の継続対策としては、あなた任せの突然変異に期待するよりももっと対応力のある手段として、高等生物は動植物共に雌雄を発生させたと、私は考えています。

   人類の場合1000年で30世代と仮定すると、1000年経過すれば2の30乗、約10億人の先祖(注。過去へ遡るほど先祖がダブルから、実数はこれより遙かに小さくなる問題はありますが、議論の本筋には支障がない)からの遺伝子を引き継げます。その意味ではクローン人間を1000年間作り続けた場合、遺伝子の種類は増えるどころか、壊れて数が減り、環境の変化に弱くなり、恐らく種の継続には失敗すると思います。

   近親結婚は劣性遺伝が現れやすいのではなく、遺伝子の種類の増加率が小さいので、クローン人間にやや近くなり、病弱化するのが本質だと思います。絶滅した動物の末期は個体数が100を切った頃から、突然消滅する場合が多いといわれている原因も同じだと思います。

   私はクローン人間を作るのは神の摂理に反するから、倫理的に反対するとの説には説得力を感じません。クローン人間は遺伝子の種類が増えないから、環境の変化には弱く、恐らくは病弱であり、寿命が短い恐れが十分にあり、生まれた本人に気の毒だから、反対するべきだと思っています。

   以上のような我が独断と偏見に基づく推論が正しければ、国際交流が一層進めば進むほど、その子孫の混血は進み、人種の分類も不可能になるほど遺伝子は均質化され、世界中の環境に適応できる程の様々な遺伝子も受け継げる結果、人類は雑草のように逞しくなっていくのではないかと楽観しているのでありますが。。。
   
   私の周りには本人を初め、子弟の国際結婚が激増してきました。我が推論によれば、その方々は未来に現れる理想的な人類の先取りをされていることになり、諸手を挙げてお祝い申し上げます。ハイブリッド人間万歳!未来は正にあなた達の世紀です。これは、おかしな結論でありましょうか!。
   
   賢人各位からのご批判を心待ちにしています。
   
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