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旅行記
           
日本
東北(平成9年9月1日脱稿)

      平成9年8月20日、とうとう59歳になった。定年も1年後に迫ってきた。末っ子である長男も姉妹同様トヨタに内定し、親としての義務は99%完了。

      人生の節目と感じたこの機会に、緑滴る大自然が溢れる我が未踏の地東北へとリフレッシュに出かけた。原生林の美しさを満喫した久方振りの国内小旅行であった
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はじめに

[1]『人生は4コマ漫画』説に痛く共鳴

   私の敬愛する友人の1人がある時『人生は4コマ漫画』だと言ったが、その瞬間『何と素晴らしい譬えであることか!』と感動した記憶が思い出される。古来有名な『起承転結』と言う言葉に人生を投影しても同じ意味だが、この聞き飽きた言葉からは鮮度が消え失せ、私には何の刺激も感じられなくなっていたのだ。

   1コマ目は両親や国家の手厚い庇護の下に、社会へと巣立つ準備をしている時期である。2コマ目は恩返しの期間である。些かなりとも働いて多少でも世の役に立ち、子供達をつつがなく社会へ送り出して初めて、人生での貸し借りも解消したことになる。

   3コマ目こそは誰にも遠慮の要らない人生の黄金期である。自分の好きな事の総てを全う出来れば、これに過ぎる幸せな人生はない。この期間が長ければ長いほど人生は輝く。健康さえ確保出来れば、誰にでも20〜30年はありそうだ。4コマ目は静かに死を迎え入れる終末期であり、願わくは一瞬と言えるほどの時間にまで短縮したい。    

   漫画も人生もその価値は、3コマ目の中身にある。

[2]林住期をしなやかに生きる

   作家の桐島洋子さんが同じような意見を、平成9年8月16日(土)朝日新聞夕刊の広告特集で提案されていた。『50代に入った頃から、私は“林住期”を旗印に掲げています。これは、1年に春夏秋冬があるように人間の一生にも季節があると言う、ヒンドゥー教の考え方なのです』        

   春は勉強にいそしむ学生期(がくしょうき)、夏は仕事や子育てに励む働き盛りの家住期(かじゅうき)、その勤めを終えたら、それまでの収穫を楽しむ実りの秋の林住期(りんじゅうき)。そこで、よく熟れた人生の果実を存分に味わった後は、ゆっくり淡々と枯れ尽くす冬、死の準備の遊行期(ゆぎょうき)へと入って行く。                

   旅と言っても、単なる空間の移動だけではない。たとえば、家住期の人が温泉などでゆっくりするのは、林住期に旅することと同じである。お年寄りが孫たちとキャンプに行って、楽しみながら生活の知恵を授けるのは、遊行期から家住期への出張。林住期の人が学生期に戻って勉強に目覚める、ということもあるに違いない。人生の季節を縦横無尽に旅すればするほど、人生は立体的に豊かになる。

[3]悠々自適の1日体験

   8月20日の誕生日には年休を取って、やがて訪れる悠々自適のシミュレーションを試みた。何しろ長男が中学校へ進学して以来11年半、全ての土日や会社休日はゴルフとテニスに明け暮れていたため、朝からノンビリと過ごした事は1日たりともなかったのだ。雨でテニスが出来ない日には10時になるのを秒読みしながら、松坂屋や豊田そごうに駆けつけて『今は何が流行しているのだろうか?』と、ビール片手に店内を、隅から隅まで歩き回って確認していたのだ。

   当日はいつものように午前4時に起床するや否や空腹にビール。朝のほろ酔い加減ほど快適に感じる時間は少ない。朝日と日経とをじっくり読んだ後に朝食。涼しい内に家庭菜園や鉢植えとプランターの花の手入れ。久しぶりに延べ10坪の、テラスとベランダにこびりついていた土砂を洗い流した。爽快な気分を満喫。

   汗を流すべく近くの『スーパー銭湯、スオミの湯』に出かける。一仕事した後の露天風呂は天国だ。青い空を眺めていたら突如、我が脳裏に閃きが走った。

   今まではさしたる方針を立てることもなく、安いパック旅行を発見したから、出張で立ち寄れたから位の動機で、公私合わせると世界 150都市以上も駆け巡っていた。慣れとは恐ろしい。海外であればどこでも感動していたのは最初の頃だけである。順調に生き続けられれば、少なくとも1年に2回、80歳までにはまだ40回も旅行出来る。惰性で旅行していると、興味が続かず途中で挫折する恐れがある。父は晩年『海外も飽きた。出かけるのが面倒臭くなった』と漏らしていた。

   『そうだ!』と目標が閃いたのだ。会社の机上にも、書斎にも今なお常備している我が愛読書『世界史の研究。吉岡力著』に出てくる順番に、4大文明の発祥の地から文明の流れを追いながら行き先を選ぼう。同時に、世界遺産の登録地も尋ねよう。日本だって同じだ。温泉の有無は瑣末事だ。今日に至るまでの歴史遺産と国立公園を満喫しよう。『我ながら良い思い付きだ』と、満足した1日となった。
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情報未整理のままの東北

   我が頭の中には東北地方に関する雑多な情報が未整理のまま、確認する機会もなく眠っている。今回の小旅行でその一部ではあっても、光を当てて鮮度を高めたい。

[1]農村

   僅か70年前の昭和2,3年頃までは、悲惨なことに東北の農村には『間引き』の習慣が残っていた。妊娠中の堕胎ではなく、生まれた赤ちゃんを産婆に頼んで、悲しい事に溺死させていたのである。今や日本の穀倉地帯として君臨する、東北の農村の豊かさからはどんな印象を受けるのだろうか?。

   戦前には『佐賀段階』と言う言葉があった。米作反収日本一のタイトルは長らく筑紫平野の中心、佐賀県がキープしていた。全国の農村は筑紫平野の水準に追い付くことを悲願にしていた。筑紫平野を最初に追い越したのは、我が記憶によれば昭和30年代初期の長野県である。山岳地帯で平坦度に恵まれなくとも、農薬の進歩にも支えられ、昼夜の気温差を生かした新品種の誕生があった。名にし負う教育県だ、と一目置かれた画期的な成果だ。 

   その長野県を追い越したのが秋田・山形・宮城の東北3県と新潟県である。江戸時代、最上川下流の庄内平野、山形県酒田市に君臨した『本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に』の、2万町歩(2千町歩説もある)を有した日本一の大地主、本間家の水田は今どうなっているのだろうか?。蛇足だが、私は本間家の末裔が売り出しているゴルフクラブを愛用している。

   2万町歩あれば、現在の日本に必要な米の1%(12万トン)を生産出来るのだ。土地代として収穫の10%を徴収しても現在なら30億円だ。想像を絶する金持ちだ。昔の地代は50%だったので 150億円にもなる。当時の反収は約1石だったと言っても、本間家が20万石の大名並になるのではない。扶養すべき家臣もないので豊かさはその比ではなかったのだ。

   その昔、牛馬と家族が同居し、囲炉裏に自在鉤がぶら下げられている曲屋に、今でも出会えるのだろうか?。

[2]文学

   文人は人間が沢山生まれれば、一定の確率で発生するとは限らないようだ。人間に文学的衝動を起こさせる場も必須のようだ。奥羽あっての松尾芭蕉である。四国を初め、我が故郷の九州も芭蕉には一顧だにされなかった。

   貧しき東北のイメージ抜きには、石川啄木や宮沢賢治の文学は味わえない。バブル時代には生まれようのない文学だ。日本のチベットと呼称された岩手県を貫流する母なる北上川の岸辺を見た時、私にはどんな印象が掠めるのだろうか?。

[3]歴史

   江戸時代以前、米作北限の地である東北に、どうして藤原3代の栄華が成立し得たのか不思議でならない。今回、中尊寺にお参り出来ないのが残念だ。加賀百万石を支えたのは、石川県ではなく、実質は富山県だった。東北の雄、伊達藩は今の宮城県だけだったのだろうか?。上杉藩は鷹山の再興以降、どうなったのだろうか?。

[4]東北ミニ旅行                     

   かつて利用したことのある旅行社から『2泊3日、1人 33,800円、同行者は 41,800円、しかも2人以上のグループ毎に1室』との、クイズの返信葉書付き東北旅行の募集が舞い込んだ。正規航空運賃だけでも1人約4万円だ。遠い北海道と沖縄旅行はかなり安くなったが、近県は何故か高い。こんなに安ければ気楽に応募出来る。妻が8月上旬からギックリ腰で寝込んでしまったが、出発直前に何とか歩けるようになった。

   林住期の入り口に至ったとは言え、59歳になりたての8月21日に2人分の荷物を抱えて、満席の名古屋発便に搭乗。秋田空港・田沢湖・十和田湖樹海ライン・十和田湖・林檎館・十和田湖温泉・奥入瀬渓流・三陸シーサイドライン・宮古の浄土ヶ浜遊覧・北上高地横断・北上川・盛岡の南部鉄器工房・仙台市内・塩釜の笹カマ工場・松島海岸・松島遊覧・仙台空港へと、ゆっくり楽しむ『林住期』とはほど遠い、合計 117名、3台のバスで 800kmも走り抜けた忙しいパック旅行だった。
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秋田県

[1]美しい秋田空港

   乗鞍の真上に来たときパイロットによる観光案内があった。眼下に真っ青な湖を頂いた乗鞍山頂が見えた。遥か昔、子供が小さい頃、乗鞍スカイラインで山頂近くの駐車場まで出かけた事はあったが、山頂までは登れなかった。赤ん坊も一緒では無理だったのだ。こんなに綺麗な湖があったとは夢にも思わなかった。

   秋田空港は林間にあった。周りには人家は1軒も見当たらない。しかし、滑走路が1本とは言え、国際線のジェット機も発着出来る空港である。何時完成したのか?。レンガ張りの小さな空港ビルは新しく、美しく、機能的である。飛行機は空港ビルの搭乗橋に横づけされ、傘も不要。国内線も国際線も同一ビルで手続きを済ませられ、時間に無駄がない。

   私はこんな空港が大好きだ。歩く距離が短い。荷物が直ぐに受け取れる。まるでローカル線の駅みたいだ。成田空港や東京駅は歩きくたびれてしまう。巨大ホテルも同じ理由から嫌いだ。設備やサービスさえ一流なら、小さいホテルの方が好きだ。

[2]所変われば家屋敷も変わる
        
   秋田空港から田沢湖までは田園地帯や山間地を辿りながらのクネクネ道だった。所々に戦後植えた秋田杉が視界に入る。水田の殆どは耕地整理済みだが、大平野には出会えなかった。

   民家の9割は鉄板葺きで且つ小さい。目測では平均40坪を切りそうだ。重い瓦屋根は殆どない。大部分の家は屋根が2枚だ。複雑な構造の屋根は殆どない。除雪の作業性確保のためだろうとは思ったが、貧弱な外観に見えるのが物悲しい。鉄筋コンクリートの民家も殆どない。軒先から50cm位の位置に高さ20cm位の三角形の突起物が1mくらいのピッチで張り付けてある家が多い。雪止めだ。雪崩のように雪が一度に落下すると、屋根が引きずられるそうだ。

   温暖な地方では何処にでも見掛ける、塀や生垣、日本庭園を殆ど見掛けない。こんな習慣は予想もしなかった。隣家との境界線は余所者には全く分からない。除雪作業の邪魔物になるためだろうか?。理由が分からなかった。土地が安い片田舎でも、一戸当たりの敷地は意外に狭い。車を置く場所を確保出来るのがせいぜいだ。

   軒先は50cm位しかなく大変短い。屋根の上に積もる雪の量を最小にするためだろうか?。軒下には薪がうず高く積み上げられている。囲炉裏の代わりに薪ストーブが暖房に使われているそうだ。北海道と違い大型石油ストーブとか、セントラルヒーティングが普及している様子は伺えない。時たま容量 200リットルの屋外設置型灯油タンクを見掛けるだけだ。

   家を建てる時の向きにも拘らないようだ。10戸余りの集落があっても、どれ1つとして同じ向きに建てられてはいない。地形的な制約が理由とも思えない。整理整頓とは無関係。自由奔放だ。何故なのだろうか?。不思議だ。この特徴は秋田だけではなく、青森、岩手、宮城各県の農村部全てに共通だった。しかし宮城県では時たま、防風林に囲まれた立派な1軒家の農家を見た。

[3]秋田ミニ新幹線

   田沢湖を目指す途中、JR田沢湖線と道路が並行したり交差したりする場所があった。『アッ』と驚いた。レールが2本しかない。秋田ミニ新幹線は、盛岡〜秋田間で在来線に乗り入れているから、当然のこととしてレールが3本あるものと、私は信じ込んでいたのだ。ベトナムの北部ハノイで、中国との相互乗り入れ対策として採用された3本のレールを目撃した記憶が強かったのだ。

   ガイドに質問すると、ゲージの拡幅工事のために在来線は1年間も営業停止。代替バス輸送で凌ぎ、在来線の車両は車輪の間隔を広げて田沢湖線専用に転換した。山形ミニ新幹線も同方式だそうだ。途中、2回新幹線と擦れ違った。国際標準軌道になってはいても、山間部の鉄道はクネクネと曲がっている。在来線当時よりホンの少しスピードが速くなっただけ。                          
   
   鄙びた寒村に最新スタイルの新幹線が音もせず滑るように走るのを見ると、旅情が破壊されてしまう。『こんな所にはSLが相応しい』と思うのは、部外者のわがままとは知りながら。

[4]田沢湖 

   田沢湖は最大深度 423.4mもある日本一深い湖である。水面は海抜 249mなので湖底は海面下になる。理科年表では摩周湖と同じ貧栄養湖。透明度が高く水が澄み切っている。湖畔の一部が観光開発されているだけで、回りには民家がない。山が湖岸まで迫っている。山紫水明を地で行くようだ。

   観光船の船着き場の突端まで出かけた。水は思いのほか暖かい。湖岸には大駐車場を挟んでレストラン付きのお土産屋が向かい合い、競いあっている。しかしバスから降りた観光客の流れに異変が起きた。一方のお土産屋の大看板『秋田フキ無料見学所あり』に引き寄せられたのだ。

   店内を通り抜けた奥に僅か3坪くらいの面積だったが、確かに秋田フキの畑があった。家庭菜園と変わらない規模だが、遠来の客を呼び込むには手頃なアイディアである。秋田フキの茎の長さは1.5m位だった。長さだけならば市販されている一般のフキとさして変わらなかったが、茎の直径が5cmもあり、表皮に沿った筋状の溝も大変深い。                                
   
   さながらギリシア神殿の柱のようだ。それに葉っぱが厚くて大きい。直径が1m弱もあり迫力十分。これを見ただけで立ち寄った価値が十分にあった。忘れることなく記念撮影。堅い茎の砂糖煮は迂闊にも買い忘れた。

[5]稲庭うどん

   テレビで生産プロセスを2年くらい前に見た『稲庭うどん』がお土産屋にあった。秋田の一角に伝わる秘伝の『手延べうどん』である。本家である稲庭吉佐衛門家と、明治初期に製法を伝授された佐藤養助家だけが細々と作っていた。技法は『一子相伝、門外不出』とされていた。

   昭和47年、7代目養助氏が製法を公開。出稼ぎの解消、地場産業育成のために決断。今や業者も70軒に達し、秋田県の名産になった。その後立ち寄ったお土産屋の何処でも販売されていた。

   テレビで見た稲庭うどんはうどん粉を捏ねた後、直径5cm位の紐状に整形し、大きな木製の平たい桶にとぐろを巻くように積み上げて寝かせた後、手で細くなるまで引き伸ばして作られていた。全工程には3日も掛かる。『きしめん』に似ているが弾力性に富み、喉越しの滑るような滑らかさにその特色がある。帰宅後、真っ先に試食したが宣伝に間違いはなかった。レストランでは食べる時間もなかったのだ。

[6]十和田湖樹海ライン

   田沢湖から十和田八幡平(はちまんたい)国立公園を縦断して十和田湖に至る、国道 341号線沿いから眺める原生林の樹海は、素晴らしいの一語に尽きる。人工林は殆ど見掛けなかった。密林だ。人が手を加えなければどの様な植物相で安定するのかが、一見しただけで理解出来る。高さの異なる植物が混在している。動物の餌も豊富だ。

   森の植物の王者は直径が優に1mを越える、高さ30m以上もある闊葉樹だ。樹形にどれ1つとして同じ物はない。鬱蒼たる葉は森の気候すら左右する力がありそうだ。斜面には羊歯類も多い。東北が山菜の宝庫と言われる理由も手に取るように分かる。お土産屋には大型のアザミの皮を剥いた茎も、山ウドと並べて売っていた。蓴菜(じゅんさい)やタラの芽もあった。自家用車で来たのならどっさり買い込むところだ。

   私は毎春、ワラビを取りに出かける都度、針葉樹の人工林では山菜の収穫は全く期待出来ないことを思い知らされている。枝打ちもせず植えっ放しの針葉樹林の地面には、腐敗もしない枯れ葉が堆積しているだけだ。 
          
   我が国の山林の60〜70%は『経済林』と称している針葉樹の人工林に変えられてしまったが、誰もが予想だにしなかった超高度経済成長の結果『不経済林』に変わった山々を見るのは悲しい。いわんや所々、原生林を皆伐したまま植林もせずに放置されている山肌を見ると、林野庁に怒鳴り込みたくもなる。

   こんな美しい自然であっても定住するのは不便なようだ。人家は殆ど見掛けない。仕事が確保出来ても、子供の教育や日々の食料の調達には支障がありそうだ。道路端には砂が 500kgは優に入っていそうな、頑丈な構造の箱が置いてある。秋田県の名前入りだ。冬季のスリップ対策だが、生活環境の厳しさが伝わってくる。

   しかし、こんな山奥でも道路は全面舗装されている。私が社会へ出た昭和37年時点では、日本最大の大動脈、東海道の全線舗装すら未完成だったことを思えば、うたた今昔の感に堪えない。
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青森県

[1]十和田湖
       
   地図の上では十和田湖の東は青森県、西は秋田県になっているが、十和田湖の上には県境の線がどの地図にも何故か引かれていない。十和田湖も典型的な貧栄養湖である。水が大変綺麗だ。海抜400m、最深度は326.8mと深く、支笏湖(363m)に次いで3番目である。

   十和田湖から流れ出ている唯一の川、奥入瀬川には途中、落差7mもの滝があり、魚の溯上が出来ず魚は棲んでいなかったそうだ。明治以降、先達(和井内貞行さん)が失敗を重ねた結果、十和田湖と支笏湖とは似ているところが多いと思いつき、支笏湖の『ヒメマス』の放流に成功。今では十和田湖の特産となり、湖岸には孵化・放流所も完備している。

   十和田湖も田沢湖と同じように国立公園として管理されているためか、ホテル街は東南部の一角に固まっていた。建物には高さ制限があるそうだ。 200人は乗れそうな3階建ての遊覧船が10隻も桟橋に停泊していたのは壮観だった。何処か見えない湖岸に造船所があるのだろうか?。ホテル街の一角に秋田と青森の県境になっている小さな橋があった。秋田側は場末で狭い。         

   秋田側に位置する、エレベーターもない2流の『ニュー十和田ホテル』に泊まった。おかずは珍しくも10品だった。私の体験によれば、温泉旅館の夕食は11品が標準だ。みそ汁がないことに気付いた。仲居さんに『みそ汁は後で出るの?』と聞くと『鍋物を出しているので、みそ汁はありません』

   夕食後、迂闊にも女湯に入ってしまった。階段を降りたら、最初に女湯の入り口があった。その次の入り口は当然、男湯の筈だと自動的に解釈したのだ。終始誰も入ってこなかったから出るまで気が付かなかった。男湯の入り口は、更にその奥だと後で知った。その日の宿泊客の男女比を考慮して、真ん中の入り口は女湯にしたり、男湯に変えたりしているのだと推定。小さな家族風呂は別にあった。

   ホテルから湖岸に沿った約1kmの散歩道は素晴らしい公園の中にあった。原生林を巧く生かした幅20〜30mの広場には、高さ30m近い巨木が鬱蒼としている。巨木の周りには直径15cm、地上部の高さ20cm位のコンクリート製円柱が、数珠のようにくっつけられて不定形な輪郭を描くように打ち込まれており、内側には砂を入れて木の根を保護していた。こんなに立派な公園には滅多と出会えない。

   散歩道の終点には高村光太郎さんが、晩年不幸にも、精神異常になった愛妻『智恵子』さんをモデルに制作した『乙女の像』が設置され、観光記念像として大切に維持されていた。台座の上に設置された2人の中年太りの女性像である。
   
   『乙女の像』の名前に惹かれてやってきた観光客を毎度がっかりさせているようだ。公園の中心ではなく、終端に設置した陰謀の結果、公園の散策を巧まずして強制させられている。

[2]林檎館

   東北各地の名物を掻き集めたようなお土産屋である。玄関には観光ホテルの入り口にある景気づけの掲示板のように、本日の観光ツアーご一行様の名前が書いてあった。内陸部の十和田湖畔なのに、活(かつ)ホタテも売っていた。全国発送も引き受けている。

   既に秋の味覚、リンゴも売られていた。山菜の種類も多い。試食品を食べ回
るのに忙しい。気に入った食べ物は3回も試食したが、重いから買うのは止めた。

[3]こけし

   東北地方のみに誕生した世界的にもユニークな人形『こけし』の発想は何に由来したのだろうか?。その事に触れた観光案内書には今に至るまで出会えない。かつて2歳の長女に『こけしと人形の違いは?』と質問したら『こけしには手も足もないが、人形にはある』と即答したのを鮮やかに思い出す。         

   こけしの由来は私には悲しくも残酷な、間引きの風習にあったのではないかと思わずにはおれない。両親が悲しみを癒すために作り始めたのではないかと感じるのである。ロクロで作った回転体に、想い出の顔を可愛らしく描くには女児が最も相応しい。     

   この貴重なこけし文化にも『付加価値主義』を企む商魂が現れてきたようだ。今や軸対称のこけしは大変少ない。胴体に複雑な彫刻を巡らし、頭部もより写実性を増し、帽子のようなおかっぱを被せ、複雑な形の部品を組み立てて完成させた、高価な大型こけしが氾濫している。

   この豪華絢爛たるこけしからは、我が仮説に含まれる東北人の悲しみは何ひとつ伝わってこない。『旅の記念に如何?』と、店員にいくら勧められても買う気がとうとう起きなかった。

[4]奥入瀬渓流

   十和田湖の水は奥入瀬川を通じて太平洋へと流れ下る。流量には年間を通じて大きな変動がないそうだ。水が少ない場合には夜間は止められる。水無川では奥入瀬渓流の価値が吹き飛ぶ。私の目測では流水量は毎秒1トン弱。思いのほか少ない。カルデラ湖である十和田湖への水の供給源は、小川しかないのだろうか?。

   奥入瀬渓流の水は飲めるのではないかと思えるほどに透明である。川の両岸まで原生林が鬱蒼と茂っている。景観も環境もぶち壊しの観がある護岸工事は一切なされていない。落葉喬木と灌木や下草が共生し植物の種類は大変多い。

   観光道路は渓流の景観を堪能出来る位置に作られている。両側の山からは無数の滝が流れ落ちている。無理やり付けられた滝の名前を紹介するのに、現地バスガイドは忙しい。私には名前などどうでも良いのだ。美しさと大自然の静寂を堪能したいのに、ガイドが張り切れば張り切るほど、そのお喋りが邪魔でやりきれない。

   奥入瀬渓流を明治36年全国に紹介した作家、大町桂月は晩年土佐からこちらへ、とうとう移住したそうだ。ホテルにあった奥入瀬渓流のパンフレットはどれを見ても紅葉の写真が主だった。緑一色ですら素晴らしいと感動したので、紅葉の美しさはさぞかしと想像される。もう一度、尋ねずにはおれなくなった。『錦繍の秋』との譬えも大袈裟ではないようだ。
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岩手県

[1]三陸シーサイドライン

   八戸(一戸から九戸まで四戸以外の地名があるそうだが、本当だろうか?)から宮古までは、日本一の長大リアス(riasとは入り江を意味するスペイン語 riaの複数)式海岸が延々と続く山上に開かれた道路で南下した。海岸線には平地が殆ど見られない。海岸線に沿った道ではないので、北海道のような度重なる岩石崩落事故もなく安全だが、肝心の海岸線が眺められる区間は残念ながら大変少ない。

   途中、100mくらいもある深い谷を何度か越えた。今では橋の上を疾走するだけだが、橋なし時代の苦労が偲ばれる。『津波がここまで押し寄せた』との記念碑も見掛けた。谷沿いの危険さがリアルに解る。津波からの逃げ場がないのだ。

[2]浄土ヶ浜

   宮古の海岸は松島に負けないほどの景勝地だ。遊覧船からの断崖絶壁の眺めは太平洋の荒波の威力を彷彿とさせるのに十分だ。小さな無人島もあり、公害も少ないのか、樹木が青々と茂っている。

   海水が綺麗だ。海水が澱むような入り江がないだけではなく、何よりも汚染の主犯となる人家が少ない。地名は 400年ほど前、宮古山常安寺の霊鏡和尚が『さながら極楽浄土のようだ』と絶賛したことに由来するそうだ。

   遊覧船の周りにはウミネコの大群が飛び交う。観光客がパンをちぎって投げると、海面に落下する前に嘴で捕らえる。素早い行動だ。連日の訓練の賜物だ。

[3]北上高地の横断

   宮古の真西に位置する盛岡へは北上高地を横断する山岳道路だ。すぐ南には早池峰国定公園もある。面積日本一の岩手県が都府県の中では人口密度が最小であることを実感。行けども行けども山間地に人家がない。

   観光案内の対象もないためかガイドは『皆様、今朝は午前7時にホテルを出発したからお疲れでしょう。ゆっくりお休み下さい』と言う始末。北上高地には落葉樹の原生林を何故か見掛けなかった。痩せた針葉樹や灌木が多い。時々、酸性雨の影響か緑色の葉が1割くらい細々と付いた、枯れかかった針葉樹の群落が視界に現れ寂しい。こんな山林では、林業で生計を立てるのは無理と言うものだ。

[4]盛岡

   盛岡に近付いたとき北上川を横断した。その瞬間、我が愛唱歌『北上夜曲』と共に、44年前(中3)に学んだ石川啄木の『柔らかに柳青める北上の、岸辺目に見ゆ泣けとごとくに』が何処からともなく頭の中に浮かんだ。観光客への心遣いとして、柳の木でも植えてあるか、と探したが見つからず残念。           

   その代わりに 185kmと言う文字が読めた。きっと河口までの距離を表しているのだろうと推定。堤防間の川幅は100mくらいあっただろうか?。水面の幅は半分くらい、水が綺麗だった。この上流部分の過疎化振り、若しくは未開発振りが偲ばれる。

   北上川下流の洪水時の瞬間最大流量は毎秒1万トン(幅 1000m×深さ 10m×毎秒1m)に達するとの新聞記事を思い出すが、渇水期で且つこんな上流では豊田市内の矢作川並、多くても20トンと推定。

   『岩鋳鉄器館』に立ち寄る。入り口で、啄木の歌が鋳込こまれた直径15cm位の円盤を客寄せに無料配布していた。栓抜き・鍋敷き・文鎮・室内飾りの何にでも使えるそうだ。結婚祝いに貰ったハト時計の錘に転用したら、ハトが生き返った。

   この大きな建物の一角には鋳鉄製急須の実演作業コーナーがあった。大仏の頭のように、無数のイボ状の突起模様に覆われた急須である。今では異国情緒豊かな装飾品として欧米にも輸出されているそうだ。

   兜・茶釜・鉄扇・鍋敷・茶こぼし・すき焼き鍋・ステーキ皿・朱肉入れ(誰かに貰った。今も愛用している)・風鈴・南部馬の置物・花瓶などなど1,800種類もの製品があるそうだ。併設されている食品売り場で『小岩井農場』の牛乳を見つけた。200cc入りが百円。                     
          
   さすがに本物は高いが美味しいと感心。念のためにと説明文を読んだら、賞味期限は半年先のロングライフ牛乳であったことが分かりがっくり。同行の老人パワーの購買力は凄まじい。重たい鉄器を両手にぶら下げている。妻は小さな風鈴を買った。我が家のテラスで澄んだ心地好い音色を四六時中鳴らしている。

[5]東北自動車道  

   盛岡からは東北自動車道で仙台へと2時間で南下。両側には5〜10反位の大きさに耕地整理された素晴らしい水田が続く。畦道の幅は1mもありそうだ。こんなに幅の広い畦道は見たことがなかった。既に出穂は完了。ガイドは『水田美は今が最高です。暫くするとあちこち倒伏することもあり、汚らしくなります』と解説したが、私は別の事を考えていた。

   稲の出来具合が異常だ。穂先が短い。冷害の影響ではないか?。水稲の収量は成長期の累積日射量に比例する。炭酸同化作用が累積日射量に比例するから当然だ。エルニーニョの影響が出なければ良いがと心配したのだ。多少は倒伏するくらいの重い穂がある場合が収量最大になる。最新の稲刈り機は倒伏していても、稲を起こして刈るから障害にはならない。その後、幸いにも晴天が続いたから、かなり挽回出来たのではないかと推定している。

   残念ながら、中尊寺にお参りする時間もなく、一路南下。車が少なく運転はし易いようだ。途中一瞬だったが雨が降った。移動中なので実害はなかった。心配していた台風は大陸に向かい、幸運だった。

   仙台の郊外に近付くと大団地が現れてきた。思いのほか家が小さい。豊田市の五ヶ丘、福岡市や広島市の新興大団地に比べると多少見劣りするだけではない。団地内に庭木が少ない。東北の太平洋側は降雪量も少なく、豪雪対策は不要と思っていたが私の誤解だろうか?
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宮城県

[1]仙台

   仙台の中心から車で20分くらいの郊外、泉区の丘の上に聳える新築の『ニューワールドホテル』に泊まった。 200室位のこじんまりとした豪華ホテルだ。室内の資料によれば、部屋代は 18,000円+税サービス料。部屋の広さや調度品の質もヒルトンに劣らない。    
                        
   ホテルに隣接してゴルフ場もあった。隣には高さ100mの巨大な真っ白い観音像が建立されていて、何処からでもそれと判る。ホテルの真正面には真新しいジャスコがあった。早速ビールなど飲み物とツマミ類を買い込む。8階から眺めた仙台の夜景が美しい。打ち上げ花火のサービスがあった。

   23日早朝、塩釜へ出る途中、青葉城のお濠り代わりに使われていた広瀬川を渡り、仙台市内を縦断した。4列の並木からなる欅通りには、市民が自慢するだけの素晴らしさがある。道路全体が枝葉で覆い尽くされている。中央2列の内側は散歩道になっている。ここは道路と言うよりも公園だ。これだけの街路樹のある道ならば、今までに見たイスタンブール・南京・ハノイの大通りにも劣らない迫力だ。ロンドンやパリでも意外に見掛けない景色だ。惜しむらくは道が短か過ぎる。

   東北一の中核都市と雖も、都心の景観は福岡市と比べれば格段に見劣りする。県庁と2,3のビル以外には大型豪華ビルが視界に入らない。小さな古びたビルがひしめきあっているだけだ。しかし都市計画が優れていたのか、都心部の道路は日本にしては珍しく格子状に整備されている。ビルと言い道路と言い、品質水準は札幌に何処か似ている。

[2]塩釜

   明治8年、塩釜港で『ヒラメ』の大漁があった。その活用方法としてカマボコの生産が始まったそうだ。今やヒラメは高級魚に昇格し、カマボコの原料には一切れたりとも使われてはいない。代替原料であった筈のスケトウダラが今や主原料だ。塩釜は『笹カマ』の大産地だ。
                       
   港の一角にあるカマボコ工場へと案内された。入り口では2連になった笹カマを試食用に渡された。工場ではおばさん達が忙しげに立ち働いていた。観光地ではこのような工場付き売店が、世界的にも流行り始めたようだ。チェンマイでも工場に併設された売店(民芸品や宝石など)を20ヶ所くらい見たことがある。知多半島にも、かっぱえびせんの工場などいくつかあった。

   商品のほんの一部分しか隣接工場で作られていないのは見え見えなのに、何となく全商品に新鮮さを感じる。売店には知恵の限りを尽くした観のある、いろんなタイプのカマボコ製品が溢れていた。ここでも同行者は大量のお土産を買っている。

   カマボコの元祖を自認するなら、高くても我慢するから、ヒラメ 100%のカマボコも作って欲しい。私は今回も、添乗員全員が同じ袋を手にして、バスに戻ったのを決して見落とさなかった。

[3]松島海岸

   僅か1時間の自由時間を生かし、松島の海岸から長さ252mの有料橋( 150円)を渡って、6ヘクタールある福浦島に出かけた。島の中には散歩道がる。 150円を惜しむわけではないと思うが、島ではほんの数人の観光客に出会っただけだ。静寂の中、セミ時雨が耳に心地好い。昔は女人禁制の下、僧侶の修行場だったそうだ。
   
   この大量のセミは陸から飛んできたとは思えない。岩だらけの小さな島であっても、セミの幼虫が生きられるだけの、海水が浸透していない地中がどこかにあるのだろうが、野生の逞しさに神秘性すら感じる。

   桟橋近くの短い無料橋で小さな島に渡ると、松に囲まれた『五大堂』と称する『夢殿』に似たデザインのお寺があった。タイ・ベトナム・中国では枚挙に暇なしだが、日本では池とか、海に囲まれた場所にお寺が立てられている場面は少ない。異国情緒をふと感じる。

   程近い所に伊達家の菩提寺『瑞巌寺』があった。時間不足のため杉木立ちが鬱蒼と茂った参道を往復しただけで終った。残念。

[4]松島遊覧

   3階建ての美しい貸し切り遊覧船に乗り、松島から塩釜に向かう。2,3階へは夫々 800円、1,400円の特別料金を追加しなければならない。我が団体 117人からは希望者は遂に1人も現れなかった。なまじ特別料金を稼ごうとしたばっかりに、市場経済の反撃を食らっているようだ。

   松島湾の水は生活排水に汚染されているのか、汚い、汚い。これでは『日本三景』の名を返上して欲しい。恥だ。早く沿岸の下水道を整備し、芭蕉が見た昔の美しさを復活して欲しい。ここでもウンカのような数のウミネコが遊覧船の周りを飛び回っている。『海が汚れるから、餌を与えるな』と観光業者にお願いされるのがうら悲しい。本末顛倒だ。

   松島の美しさは、土も殆どない岩山にしがみついているかのような、栄養失調下にある松に感じた。盆栽のようだ。透けて見える海の反射も美しい。ビッシリ松が繁茂していると風情がない。中国の山水画に出てくる松はどれもこれも、栄養失調状態だ。

   所々に木が全く生えていない小さな島がある。自然のままに放置するのではなく、岩の上を耕し土を入れ松を植えて欲しいものだ。島の面積がどこまで小さくなれば木が育たなくなるのか、の実験場の観が漂うようでは情けない。自然のままが最上とは限らない。

   酸性雨のためか、塩害なのか、保水力不足なのか、塩釜の巨大火力発電所の排出ガスの影響か、はたまた松喰い虫にやられたのか、所々に枯れた松が放置されていて、景観をぶち壊している。松島のお陰で生きているのならば、どうして松島の美化維持に努力しないのだろうか?。それとも政府の仕事と考えているのだろうか?。

   それにしても、何故松ばっかり生えているのだろうか?。東北の自然林は落葉樹の方が針葉樹よりも優勢なのに。塩害に最強なのは松なのだろうか?。それとも松以外の樹木は伐採したのだろうか?。

   ここ松島には知る人ぞ知る珍しい産業が、平成9年8月31日の朝日新聞日曜版に紹介されていた。白菜の採種島だ。白菜はアブラナ科の他品種と簡単に交雑する。従って1つの島全体が1種類の白菜の採種場だ。種苗業者と農家との契約栽培だ。家庭菜園を初めて20年以上も経つが、白菜の種がこんな所で採られていたとは夢にも思わなかった。こんな島が松島湾にはいくつかあるそうだ。

[5]仙台空港

   塩釜から海岸に近い道路を通って約1時間で仙台空港に到着。仙台の中心からは30分で着けそうだ。空港ビルは本年7月から開業。大胆なデザインを採用した吹き抜けのある3階建てだ。長方形で全体が見渡せて分りやすい。店舗も綺麗だ。この位の大きさが大好きだ。

   全日空は搭乗手続きを改善していた。パック旅行の団体は飛行機の後部に固まっていた。飛行機の前半分に乗る人を先に搭乗させた。その後で残りを乗せた。その結果、飛行機内の狭い通路の混雑が半減した。それならいっその事、一番奥の客から番号順に乗せれば完璧だと思うのだが…。

……………日本航空の級友から、平成9年9月3日にコメントを戴いた……………

   ご提案の後ろから乗せる方法は、以下の理由で採用されないと思います。 

   他社(全日空?)ではジャンボ機の尾部に乗客が集中して、『機首浮き』の珍事が発生したことがある。ジャンボ貨物機では、貨物の積卸し時に布製ベルトで前脚部を地面の金具と繋ぎ、機首浮き防止を図ったことがある。旧ソ連製旅客機には引込式 Tail Stand(尻餅防止の棒)を備えたものもある。
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おわりに

[1]東北系先住日本人の東北語

   何処かで何時かは、本物の東北語が聞けるものと楽しみにしていたが、観光客と接する人達の東北語は、今や完璧な共通語に変わっていた。三河系先住豊田市民の日本語よりも遥かに格調の高い言語だ。ガイドによれば、テレビ効果だそうだ。幼少時に耳から大量に入る日本語の音源はテレビ。高校生くらいになって初めて、郷里の言葉にも愛着を抱くようになり、東北語を第2日本語として学ぶのだそうだ。
   
   30年前、島根県の『一畑薬師』近くで、たまたま出会ったお年寄りに道を聞いた。相手は私の日本語を正確に理解したが、私は相手の日本語が殆ど聞き取れなかった。東北訛に似た聞き慣れない発音は日本語と雖も、英語以上に難しかった。

   今回、ニューワールドホテルで朝食中、同行していた中年のバスのドライバー3人が、隣のテーブルでスケジュールをお互いに確認していた。初めて聞く待望の正調東北語だ。しかし、アジア系外国人の会話のように、中身が分らなかった。同じドライバーが私の質問には、共通語で器用に回答してくれたのが不思議だった。

[2]未だに、陸奥(みちのく=道の奥)は未知の国

   今回の小旅行では東北の一端に触れただけだ。この年になると大都市よりも大自然に格段の魅力を感じるようになる。大都市の盛り場は短期間に建設出来るが、壮大な大自然の構築には気も遠くなるほどの時間がかかる。それゆえにこそ私にはより魅力があるのだ。                           

   次回は錦繍の東北をゆっくりと味わいたい。その次には、世界一の釣り橋を渡り、私にとっては日本最後の秘境になる、清流で有名な『渡川』(平成8年建設省は、通称だった四万十川を正式名称とするようにとの住民の要求を認めて、改名した)と『満濃池』を見に四国に出かける積りだ。四国には、まだその他に我が魂を揺さぶるような観光対象があるのだろうか?。私にとり、四国は未だ未知溢れるままの世界だ。

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