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旅行記
           
西アフリカ8ヶ国(平成20年4月18日脱稿)

   昨春(平成19年)、南部アフリカ8ヶ国ツアー(9月26日出発)を予約していたが、6月1日のがん検診で5年半ぶりに新発食道がんが3個も発見され、治療に専念するべく無念にもキャンセルした。その内の2個は愛知県がんセンターで内視鏡による剥離手術で除去。残りの大きな1個は兵庫県立粒子線医療センターで陽子線照射治療を受け9月13日に退院。

   爾来、愛知県がんセンターで経過観察を継続。12月10日に主治医から待望久しい寛解のご託宣を聞いた瞬間、胸が高鳴った。『いよいよアフリカへ乗り込める』との積年の夢が遂に叶うからだ! 急遽、西アフリカ8ヶ国(平成20年1月15日~2月1日)へと出かけた。
  
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はじめに

   トヨタ自動車を定年退職した頃『訪問国数>年齢』という海外旅行の単純だが分かりやすい目標を立て、絶対に実現するのだとの決意を込め、退路を断つべく友人知人にも公言し年賀状では進捗状況を報告してきた。我ながら面白い発想だと自画自賛。それまで耳にしたことのない石松式方程式だ。目標が毎年変化するのも面白いと思った。9年経った昨年4月、バルカン半島へ出かけた結果『70ヶ国/68歳=103%』となり目標は早々と達成。
   
   ところが『数の呪縛からの自由こそ、余生の旅には相応しい』と数年前から感じるようになっていた。目標を達成したのを機会に今後は行きたい国を積極的に選び、その国の周辺国へ序に出かけながら国の数を増やすことにした。取り敢えずは世界の半分、きりの良い百ヶ国だ。

   5年前にエジプトへ出かけて以来、人類発祥の地アフリカへの関心が徐々に深まってきた。行きたい国を選んだ後、その国を含みながら序に周辺国へも行けるツアーを探し始めた。昨春はビクトリアの滝とナミビア沙漠見たさに南部アフリカを選んでいたのだ。
   
   実は新目標も考慮しながらの行動は既に開始していた。ムガール帝国の栄華の遺産に輝くサマルカンドを目指して中央アジア5ヶ国、アララット山とカスピ海見たさに南コーカサス3ヶ国、欧州の最貧国アルバニアとクロアチアのドブロヴニク見たさにバルカン6ヶ国にも出かけた。今回の西アフリカでは内陸国マリに泥で築かれた、世界最大のモスクとドゴン族の仮面踊りが見たかったのだ。
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アフリカ

   53ヶ国もあるアフリカは東西南北と中部(色分けされた下記の地図を参照されたい)に分けられている。西アフリカ諸国経済共同体は1975年のラゴス条約に基づき15ヶ国で設立された。その後、2000年12月にモーリタニアが脱退した。今回の訪問国はその過半数の8ヶ国に当たる。

   北アフリカはローマ帝国の遺産も温存されている地中海世界の一部でもある。その上に築かれたアラブ諸国には、黒人国のイメージが強いアフリカらしさは乏しい。一方西アフリカはサハラ沙漠の南、赤道の北に位置するブラックアフリカ。アフリカの面積の2/3は北半球にあるのを忘れている日本人が不思議なほど多い。フランスの旧植民地が多いが、隣接するアラブ各国の影響でイスラーム化されている国も多い。

   今回の旅では西アフリカ南端の国ナイジェリアからベナン⇒トーゴ⇒ガーナ⇒コートジボワールまではバスで西へと移動し、内陸部のブリキナファソ⇒マリを経由してアフリカ大陸の最西端に位置するセネガルへと向った。

アフリカの地域: ██ 北アフリカ ██ 西アフリカ ██ 中部アフリカ ██ 東アフリカ ██ 南部アフリカ

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事前準備

[1]旅行社

   大手旅行社(JTB・近ツー・阪急旅行社等)はその集客能力を生かし、大勢が押しかける欧米や東南アジア各国等へは種々の安価なツアーを提案してはいるが、辺境の地への企画は大変少ない。この業界では大は小を兼ねないようだ。

   兵庫県立粒子線医療センターを退院後、ビクトリアの滝とナミビア沙漠見たさに、秋の企画しか無い『トラベル世界』社の『ビクトリアの滝と南アフリカ5ヶ国縦断、平成20年9月26日出発』を早々と申し込む一方、新年早々に西アフリカへ行ける企画をインターネットで検索した結果『旅のデザインルーム』社のツアーを発見。寛解のご託宣が出る前だったので、営業マンにキャンセルも有り得るとの事情を了解して貰った上で申し込んだ。

   途中で何度か参加者数を電話で確認した。催行最少人数はたったの10人なのになかなか参加者が集まらず、催行中止の不安は続いた。その上に寛解が延びれば旅行に参加できないかもしれないので、申込金の振り込みやビザ取得の準備はしなかった。しかし、旅行社は我が勝手な要望を無条件で受け入れてくれた。

   12月10日に寛解のご託宣を聞くや否や翌11日には旅行社と相談再開。各種申込書の旅行社への到着締切日(12月3日)は既に1週間も過ぎていた。でも魚心あれば水心ありか、花より団子か、快く引き受けてくれた。

   今回の訪問国のビザ取得には後述するように、私にとっては初体験となった前代未聞の条件が幾つも付いており、間に合うか否か些か心配したが走り回って準備した結果、何とかゴールイン。

   トヨタ自動車の本拠地として世界的には東京や大阪に次ぐくらいの知名度が既にある豊田市なのに、成田発着の海外ツアーでは辺境の地。隘路になるのは便数が少ない中部と成田間の国内線。航空券取得の可否で出発間際まで、何時もはらはらさせられるのだ。

   国際線は成田発ミラノ経由のアリタリア航空(イタリア)だった。旅行社に関空発着のアリタリアが使えないかと質問。数日後に『切符を確保しました。旅費は成田発着と同額』との朗報。アリタリアのミラノ到着時刻も帰国時の出発時刻も関空便と成田便との差は共にたったの10分。こんな小回りの利く対応をしてくれるのもミニ旅行社の良さだ。同行者に同社のリピータが多かったのも頷ける。

   最近の傾向として、自宅=空港間の旅行鞄の宅配無料サービスが多くなった。『旅のデザインルーム』社もその一つだ。出発時は宅配便の万一の到着遅れを怖れて、3日前の集荷を頼んだ。帰国時は幾ら遅れても支障が無いので成り行き任せ。

   今回の旅行のように日本の冬に出発すると、暑い現地では着衣の総てを着替えることになり、余分な荷物が増え、荷物が重くなるが宅配便のお陰で楽だ。とは言え無料とは形式的な表現だ。宅配便の費用も当然含まれている筈の旅費の明細が明かされていないだけだ。
   
[2]本

   西アフリカに関する本は意外に少ない。今や最も人気のあるガイドブック『世界の歩き方』シリーズでも西アフリカ編は未だ発刊されていない。旅行社の推定では当該地域への日本人観光客は年間1,000名前後らしい。本が少ないのは当たり前だ。
   
   何時ものように豊田市中央図書館に出かけて関連書籍を検索し、その殆どを借りてきた。でも新しい本は少なく、アフリカの人文地理や歴史に関する資料価値の高い本は絶無に近く、旅行好きの主観的な印象記と写真集が主。殆どはぱらぱらと捲っただけだった。普通の日本人よりも一寸だけなのに一足早くアフリカへ旅行した、との優越感がちらほら感じられて、嫌悪感すら感じ読む気も消滅した。
   
   それらの中で、初版が1996年の『アフリカ』(サブタイトル=アフリカ大陸37ヶ国ガイド) 旅行人編集室社発行(2005年に改定版が出たとはいうものの、誤植の訂正程度)は多少気に入ったので、近くの書店に発注して購入。店頭書架には勿論無かった。

脱文明の旅 竹村健一 1964-9-10 中央公論社 290円
アフリカ 日野舜也訳 1985-9-5 朝倉書店 24,000円
アフリカは本当に貧しいのか 1993-9-25 朝日新聞社 1,300円
アフリカを歩く 中俣真知子訳 1996-2-20 パルコ出版 2,400円
アフリカは立ちあがれるか 杉山幸丸 1996-7-26 はる書房 2,200円
バオバブと砂漠 盛弘仁 1998-12-10 明石書店 2,500円
アフリカの地べたから 伊藤伸介 1999-11-15 柘植書房新社 1,800円
アフリカを知る 西川潤 2000-5-10 スリーエーネットワーク 1,500円
タムタム アフリカ 川崎直美 2000-7-10 山と渓谷社 1,600円
アフリカ大地周遊記 宇梶文雄 2002-10-15 文芸社 1,000円 
アフリカ大陸西海岸 桃井和馬 2004-1-20 高文研 1,800円
西アフリカ放浪 福田明男 2005-5-15 文芸社 1,600円
アフリカ 旅行人編集室 2005-8-15 旅行人 1,800円
イヌタビ~inアフリカ 滝野沢優子 2007-9-6 ジュリアン 1,500円

[3]旅費

   旅行社への支払額の合計=837,945円。募集カタログに記載されている旅費は698,000円なので一見安く感じられるが、其の他の費用が意外に高い。私だけは関空発着だったので空港施設使用料は成田発よりも610円高かった。関空の空港施設使用料は日本一高い。原価積み上げ主義に徹する公共料金の高額化は、いつも感じる不満の一つだ。
   
   発展途上国ほど現地の人件費は安いはずだし、ホテルや食事・移動用のバスや道路の品質を初めとした現地で受けるサービスの水準は観光大国に比べれば格段に落ちるのに、旅費は概ね1.5~2倍もする。アフリカの場合(エジプト等の人気コースが集中している北アフリカは除く)、一日当たりの費用は約5万円もする。

旅費=698,000円
渡航手続き代行費=4,200円
査証代=45,840円
査証取得手続き料金=6,825円
空港施設使用料=2,650円
燃料特別付加運賃(8区間分)=39,290円
海外空港税=41,140円

[4]ビザ

   平成時代に入るとビザ不要の国が増えたが、発展途上国へ日本人が出かけるときは旧宗主国とは異なり、ビザ取得が義務付けられている場合が未だ多い。ビザと引き換えに税金のようにお金を取り立てるのが目的だ。
   
   今回の場合、査証代の他に別記するように最終学歴の記載、銀行預金残高証明書、トラベラーズ・チェックの添付まで要求する国があって驚いた。貧乏な日本人が居心地のよい訪問国に不法残留しては迷惑千万(せんばん)と、どの面下げて言いたいのかと怒鳴りつけたくなる。
   
   この世に預金残高証明書なるものが存在するとは、69歳にもなって初めて知った。両親の健在時から遺産相続は放棄すると兄弟姉妹には宣言していたので、預金残高証明書の存在には気付かなかった。日付が必須なので一日の取引が完了している前日の残高証明書が最新の証明書になる。名義人が死亡すると口座を凍結すると共に、相続遺産確定用に残高証明書を発行することは銀行では日常茶飯事だったのだと知った。尚、発行費用は840円だった。
   
   三井住友銀行の我が取引口座は公共料金やクレジットカードの引き落とし専用。カード詐欺などの不測の事態を避けるため必要最小残高に維持している。旅行社の営業マンに恥を掻きたくないため見せ金用として、証券会社に預けていた信用取引用の担保金5,000万円を取り崩して100万円也を急遽振り込んだ。
   
① 査証申請書

   申請書が複数枚必要な国まであって驚いた。

ガーナ=4枚
マリ=3枚
コートジボアール=2枚
其の他の5ヶ国=1枚

② 写真

   写真もカラーで合計16枚。名鉄豊田市駅高架下に設置されていた証明写真の自動撮影機では、白黒とカラーの選択肢が幸いにも有ったので事なきを得た。サイズがいろいろあるのにも困惑。

4.5*3.5cm=9枚
5*4cm=2枚
3*3cm=2枚
4*4cm=3枚

③ 経歴書

   ガーナ=英語4枚、日本語1枚。ガーナではなぜ最終卒業学校名まで書かせるのか不思議だった。

④ 銀行預金残高証明書

   トーゴ=滞在一日に付き$50以上

⑤ 黄熱病予防接種証明書(イエローカード)

   イエローカードの我が最寄りの発行所は名古屋港内の名古屋検疫所。毎週木曜日の午後だけが発行日。直近の木曜日が寛解直後の12月13日だったので時間の無駄も少なくて助かった。事前予約制。事務所で予防注射を受けた後、聞くまでも無い種々の諸注意を、到着順に待たされていた10名くらいのグループ単位で我慢して聞かされた。

⑥ トラベラーズ・チェック

   西アフリカにはトラベラーズ・チェックが使えるような店は殆ど無く、外国人が買いたくなるような特産物も無いナイジェリアが一日に付き$200も要求するとは驚き。たといナイジェリアが原油大国であるとどんなに自慢しても、日本からの旅行者がトラベラーズ・チェックでガソリンを買って輸入する価値などあるはずも無いのに・・・。

   ナイジェリア=滞在一日に付き$200。二日分のトラベラーズチェック$400は日本国内でビザ取得後、書留にてパスポートと一緒に返送されてきた。
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トピックス

[1]自然

① 大型野生動物

   アフリカから連想するのは野生動物天国。しかし、人類が予想外に繁殖しただけではなく欧州人が趣味で動物狩をしまくった結果、今や西アフリカの野生動物は国立公園などの限られた保護区を除けば絶滅したに等しい。

   西アフリカのサバンナ地帯は東アフリカのサバンナ地帯に景色は大変似ているが、今回の車窓からは野生動物を全く見かけなかった。昆虫も少なく、小動物も少ない。その結果、食物連鎖の頂点に立つ猛獣は殆どいないそうだ。大型野生動物の最大の敵は人類、との解説も不要になるのにはがっかり。

   サバンナ地帯では放牧されている羊・ヤギ・牛類を時たま見かけたが、乾期では餌不足なのか気の毒なほど痩せている。欧州での放牧のように牧草を育てる努力は皆無。

② サハラ・サヘラ・サバンナ

   サハラは沙漠の意。サバンナは潅木と草原が広がる半乾燥地帯。東アフリカのキリマンジャロの麓がその典型。サヘラは沙漠とサバンナの中間地帯。

   この三つの単語に共通しているのは『サ』で始まるところ。現地人ガイドに『サ』にはどんな意味があるのかと質問。サハラとサヘラはアラブ語、サバンナはアフリカ人の言葉なので三語に共通する意味は無いとの回答だったが、私には『乾燥』などの意味が含まれているのではないか、との疑問は残されたままだ。

③ ナイジェリア・アルジェリア

   ナイジェリアとアルジェリアの国名には共に『ジェリア』が付いている。現地人ガイドにその意味を尋ねたが分からないと言う。何か由来があるのではないか、と私には思えてならない。

④ バオバブ

   バオバブはイソギンチャクを大きくしたような奇怪な外観を持つ巨木。幹は直径2~3メートル、高さも20mは優にあり、その頂部に小さな小枝が伸びている落葉樹。マダガスカル(いつかは出かけたい未訪問国の一つ)にはその群生林がある。

   幹の中にはサボテンのように水分を蓄えており、乾燥には強いそうだ。この巨木の樹皮を剥がして繊維を取りロープ等を作るそうだ。しかし、見かけによらずこの幹からは建築資材としての柱や板は残念ながら採れない。枯れるとばらばらになった繊維の単なる束になので、植物学者によっては木ではなく、草に近いと言うそうだ。

   マダガスカルのバオバブはその不思議な樹形から特に有名だが、西アフリカの各地の森の中でもまばらではあったが自生していた。マダガスカルの成木よりも幹が華奢で小枝が多く、そのユニークな樹形の特色が薄らいでいた。セネガルの世界遺産ゴレ島には片側にバオバブが並ぶ豪快な並木道があった。

   果実はキューイフルーツを大型のマンゴーくらいに大きくした形(細長い回転楕円体)をしており、全面に鼠色の短い産毛が生えている。果実に砂糖・ミルク・水を入れて撹拌したものを、レストランではトロピカルドリンクとして200ccくらいをビール(小瓶)並みの価格$3で販売。馬乳酒に似た酸っぱい奇妙な味わい。

    ゴレ島の丘の上のバオバブの木に実がなっていた。頑張れば取れそうだ。傍らに青年が二人いた。『あの実を取ってくれ。一個でよいから』。『下の方の実は未熟。上の方が食べごろだ』と言って、鉄筋コンクリート用の直径9mmの丸棒の先端を釣り針のよう曲げた道具を手に、するすると木登り。一個取ってくれた。
 
    お礼に1ドルのチップを差し出したら不満らしく返された。でも一日一ドルの生活をしている人が多いのだから僅か一分間の労働の対価としては十分と判断して、青年のポケットに強引に押し込んでそのまま別れてレストランへ。仲間にバオバブの実を見せたら、実を翳(かざ)して写真を撮る人が続出。



⑤ 農作物

   3,030万平方Kmもある巨大なアフリカ大陸は、不毛且つ広大なサハラ沙漠があるとは言え可住地も可耕地も大変広い。しかし、西アフリカ各地では欧米や日本のように主食を大量に栽培している場所は少なく、大平原に自生している『ミレット(小麦のように小さな実をつけるトウモロコシの一種)』を刈り取った荒地と、デルタ地帯で一部の直播き水田を見かけた程度だ。国民の大部分が自給自足の農業従事者だし、人口密度が低いからだろうか?

   都市近郊では野菜畑をしばしば見かけた。日光には恵まれているので水さえ確保できれば一年中換金野菜の栽培が出来る。川や溜池が無いところでは深井戸から灌水していた。

   アフリカの土地は有機質の分解が早いのか、赤茶けた無機質の土地が殆ど。黒土とは無縁。おまけに苦土石灰(くどせっかい)や化成肥料を購入する資金も無く、堆肥等の供給も少ないためか土地が痩せており、野菜の出来が悪い。

   ホテルで食べる野菜も何故か美味しくない。トマトなどの果菜だけではなくバナナ等の果物類も糖度が低い。糖度第一主義の日本の果菜や果物とは比較するのも憚られるほどの食味、極言すれば野生の原種に近い。

   日本が輸入している熱帯果実(トロピカルフルーツ)は完熟前に収穫するため現地で食べる物より美味しくない、との俗説があるが私には疑問だ。日本の業者は世界一の品質を選んで輸入している。西アフリカで熱帯果実を食べてがっかりした。外観が似ているだけ。色鮮やかなスイカを食べてもキュウリの味に近い。
  
⑥ たまねぎ

   時々、たまねぎ料理を食べた。味も食感も日本のたまねぎと同じだった。たまねぎは代表的な換金作物。バスで移動中に少し離れた場所にたまねぎ畑を発見。

   『たまねぎが密植されすぎていませんか? 苗でしょうか?』
   『苗ではありません』

   あるとき、道に面したたまねぎ畑を発見。添乗員が私の疑問に答えるべく臨時にバスを停めてくれた。たまねぎは一本の苗から分蘖(ぶんけつ)し、一株から数個の球根が生まれ、夫々から葉が伸びていた。ラッキョウ・ニラ・ニンニクの成長過程と同じだ。一個一個の球根は大きくてもチューリップくらい。大変小さい。その代わり葉も小葱のように細く、食べられるのだそうだ。

   それらのたまねぎ畑を遠くから眺めると、葉が密集して育っていたので、苗床と勘違いしつつも、全部の畑が苗床であるはずもないので真相を確認したかった。添乗員の機転に感謝。

⑦ ヘチマ(糸瓜)

   大きさも形もさまざまなヘチマが意外な用途に使われていた。直系30~40cmの球形のヘチマを二つに切断。中身を取り出した殻は大変硬くて軽い。先進国ではプラスティックス製容器が幅を利かせているが、ヘチマ製容器の方が軽くて使い易く、廃棄処理にも困らない。

   細長いものは縦に切断し、しゃもじ代わり。其の他、家庭用品への応用は数え切れないほどの種類があった。つるつるとした皮の表面は光沢もあり、汚れにくく美しい。

   日本では『糸瓜の皮とも思わない』とは、他の野菜と違い皮が役に立たない所から、何の価値も無いという意味で使われているが、自らの発想力の貧しさを白状しているようなものだ。

⑧ 地震

   アフリカ大陸は6億年から30億年前の非常に古い先カンブリア時代の岩類を基盤とする盾状と卓状地から構成され、全体としては地殻が安定している。その結果、地震が少ないそうだ。

   日本では恐ろしくて住めないような泥造りの家や巨大モスクが倒壊しないのは幸運の極み。

⑨ 地下資源

   レアメタルなどの希少資源が含まれる鉱床が育つには何億年単位の時間が掛かる。従ってレアメタルは古い地層のある場所に偏在することになる。

   アフリカには古い地層が多く、鉱床の探査が進めば今後も有力な鉱床が発見される余地は大きいが故に資源争奪戦が絶えない。これらの地下資源がアフリカ人のために活用されることを願わずにはいられない。

⑩ 青空

   海岸沿いの各国の空はアンデス山脈やエーゲ海周辺に負けないほどの澄み切った黒いほどの青さだった。サハラ沙漠からの黄砂のような砂塵を含んだハムシーンに襲来されるのではないかと推定していたが、全く出遭わずマスクも不要。成層圏を飛ぶジェット旅客機の窓から見る空に近かったのは意外だった。

[2]国

① 多民族

   書物やガイドによれば西アフリカ各国には数十もの民族が共存しているそうだ。かつて定年前の10年間、海外業務部署で働いていた頃(1987~1998年)、インドネシア・中国・ベトナムなどに出かけた折、駐在員から夫々数十もの少数民族がいると聞き驚いたことがあるが、今では驚かなくなった。

   日本は『単一民族国』との神話が戦後になって流布し、私はその説には利害関係も無く疑問を持つこともなく過ごしていたが、世界各国へ度々出張した結果、だんだんとこの神話に疑問を感じるようになった。

   今や私は日本だって他国に劣らず数十どころか、数え切れないほどの民族にルーツを持つ混生民族国と判断している。無人の日本列島で日本人が発生したはずは無く、東西南北から押し寄せてきた難民の吹き溜まりに過ぎない、と判断するほうが合理的と気づいたからだ。たまたま遠隔地の欧州やアフリカからの白人や黒人の来島者が少なかったに過ぎない。

   日本は発展途上国といわれている国々よりも一瞬早く国土が統一され、国内での移住が容易になり、言語の統一・教育の普及・マスコミの影響の結果として国民の価値観が類似化しているに過ぎない。大量生産されている工業製品に比べれば、日本人の人相・骨格・体型・皮膚の色などあらゆる要素が大きくばらついているのは、大浴場で一瞥すれば遺伝子解析を待つまでも無く自明。

   幸いどのようにDNAがばらついていても、男女の生殖器は何故か伸縮性に富んでおり、幾何学的な形状差が極端に大きくない限り結婚には何の支障も無いとか(私は経験不足。伝聞に過ぎないが・・・)。その結果、民族間の混血は極端に進み『現在は単一民族』と極論しても然したる支障がなくなったに過ぎない。

   しかし、バブル崩壊後の20年間に大激変が発生。今や日本では急速に国際結婚が進み、我が友人知人の子女にも数え切れないほど発生。何故か理由も無く悩んでいる両親には『自動車も今やハイブリッド時代。貴方の孫はハイブリッド&バイリンガル人間。時代の寵児になるよ』との励ましの言葉を掛けるのが常となった。一見磐石に感じられていた単一民族説が崩れるのも意外に早いと予想している。

   西アフリカでも中央アジアでも現地人のガイドは同胞の顔を見れば民族が特定できると豪語するが、私には大変疑わしく思えてならない。この10年の間に日中台韓では服装・化粧が類似化した結果、私にはこの4国間の所属国名判定は急速に難しくなった。いわんや温泉等の大浴場で、体表面積の大部分を占める首から下だけをどんなに詳細に観察しても、その人の所属する国名は特定できそうにも無い。
   
   同じ黄色人種でも日本人とインドネシア人は今でもほぼ区別できるが、現地駐在員と現地人の区別は難しくなった。単一民族国家等といって、国として自慢するほどの価値は最初から無かったのだ。外国人が全く関心を示さなかったのも道理。

② 国境

   一説によればアフリカ大陸内部の国境線の44%は緯度か子午線に平行・30%は直線か弓形・26%が川などの自然の境界。欧州列強の国際会議での分割案に従って地図の上に定規を当てて引かれたそうだ。先住民の土地の所有権を一切無視し、勝手放題に土地を奪い取った欧州各国の原罪の償いは今尚終わってはいない。

   同じことは南北アメリカでもオーストラリアでも欧米人は勝手放題に先住民から土地を取り上げた。アメリカやオーストラリアの州境の大部分が直線で引かれていることに彼らの原罪が象徴されている。

   欧米列強は武力でアフリカ人を拘束し南北アメリカ大陸へ奴隷として送り込んだ。その後、奴隷制度は間違いだったと口先だけで謝り反省しているように振舞ってはいるが、アフリカ人の受けた損害の弁償は殆どしていない。

   彼らが真に反省しているのならば、かつてアフリカ人の意志を無視して移住させた行動の対極として、アフリカ人が希望すればその総ての人達を欧米列強の旧宗主国への移住を無条件で認めるべきだ。ところが現実には、入国したアフリカ人を、勝手に作った法律を元に不法移民と断定して拘束するばかりか、本国へも送還している。

   それどころか、信教の自由を認めていると口先では言いながら、モスレムの習慣を非難し、フランスではモスレムの生活習慣にまで政府が干渉している。人類の歴史とはいつの世でも『勝てば官軍』の世界、弱肉強食が今尚続いているのが不愉快でならない。

③ 民族紛争

   アフリカの国境が地図の上で幾何学的に欧州列強によって勝手に決められた結果、それ以前の同一民族があちこちで分断される悲劇が発生。このこともアフリカで民族紛争が絶えない原因の一つだ。

   東西ドイツ・南北朝鮮・南北ベトナムでも明白なように、戦勝国によって分断された民族が夫々一つの国に再構成されると、昨日の味方は今日の敵とならざるを得ず、民族の悲劇が始まる。南北朝鮮同様、アフリカ各地の民族の悲劇は数え切れない。

④ 国境通過
   
   空港での入国手続きはどの国でも20年前に比べれば大変効率的になってはきたが、陸路での国境の通過(入出国手続き)ではバスを乗り換えたり、運転手やガイドが交替したり、荷物を運んだり今尚大変厄介だ。

   西アフリカ各国に限らず陸路の場合は空港とは異なりゲートは一つ。添乗員とガイドが殆どの手続きをしてくれたものの、一人ひとりパスポートの写真と見比べたり、抜き取りで鞄を開けられたり・・・。私もゴミが詰まっているような鞄を開けられ、バスの中の仲間には丸見え。些か恥ずかしかった。でも、今回のようにたった13名の場合、所要時間は意外に短かった。

⑤ 国旗

   西アフリカ各国の国旗には共通するものが多い。三色旗の色だ。典型的な意味としては、赤は独立・解放戦士の血の色、黄は鉱物資源の富の色、緑は森林の色を表すのだそうだが、国によっては多少異なる。
   
   今回の訪問国のタイトルの後に国旗を載せた。その後に国ごとの色の意味を書いた。今回訪問した8ヶ国の内ナイジェリアとコートジボワール以外の国は全てその国旗に『赤黄緑』を使っている。

[3]歴史

① 世界遺産

   ピラミッドやタージマハール等は世界遺産に登録されても何処からも異論が出ない。しかし、西アフリカ各地でこれは世界遺産です、と紹介されてもそのもの自体が発する物理的な外観から感じられる華麗さや壮大さが無く、がっかりの連続。

   国王の宮殿、歴史的な宗教遺産など言葉による権威付けの補足があってもイマイチ・・・。しかし、ジェンネの泥で作られた世界一巨大なモスクには期待通り満足した。

② 海岸

   西アフリカ各地には不幸な歴史を象徴するような名前を付けられた海岸がある。夫々の海岸から輸出された特産物(人間も貿易物資!)に由来しているのは、詮索するまでも無く明白。

象牙海岸・・・コートジボアールの海岸
黄金海岸・・・ガーナ周辺の海岸
奴隷海岸・・・トーゴ・ベナン・ナイジェリアの海岸
穀物海岸・・・シェラレオネ(今回は未訪問国)の海岸
胡椒海岸・・・西アフリカ周辺の海岸

③ 奴隷

   奴隷の価格はセリで決まったとはいうものの、購入者が考える価格決定の原理とは、バブル崩壊後の不動産取引で急に脚光を浴び始めた『収益還元法』だったそうだ。

   奴隷を生涯にわたって働かせて得る収入と奴隷の維持費(衣食住等)や奴隷船内での死亡率を考慮すれば、生産財としての奴隷の価値が推定できる。健康で強健な若者が高く売れるのは理の当然だ。一説によれば、年間収益の数倍が奴隷の価格だったらしい。

[4]人

① 黒人

   私は黒人とは灼熱の気候の下で汗腺が異常に発達し、流れ出た汗で体臭が強くならざるを得ない人種だと長い間誤解していた。西アフリカ各国の首都の中心街は何れも中国やインドの大都市のように人々が密集していた。ぶつからずに擦れ違うのも困難なほどなのに、体臭を全く感じなかった。私の嗅覚が老化していたからではない。同行者にも確認したが、誰もが体臭を感じないという。

   みんな清潔なのだ。着衣に汚れもなく、破れている服も見かけない。首都での黒人の生活水準は我が予想を超えて向上していた。新品ならいさ知らず、古着を日本からアフリカ人へ寄贈するのは失礼千万と思えてならない。

② 女性

   道路を闊歩している女性の姿勢の良さには驚愕。日本では腰の曲がったお婆さんが戦後の農村部ですらも激減したとは言え、猫背気味の日本人女性は逆立ちしても西アフリカの女性には敵わない。美しい姿勢で颯爽と歩く姿は、そのまま正しい歩き方教室の教科書に載せたくなる。

   美しい姿勢は子供の時から頭上に荷物を載せて運ぶ習慣に起因するのではないかと思う。その習慣から、荷物を運ばない時でも自然に美しい姿勢が維持されている、と推定せざるを得なかった。

   姿勢が美しいだけではない。肥満体は少なく、バランスの取れた体型も美しい。目鼻立ちもきりりと引き締まり、虫歯の無い白い歯並びのアーチも美しく、文盲を全く感じさせない知的な印象を与える顔立ちが何とも清清しい。

   食物の軟化が進み、顎が小さくなった日本人の歯並びの悪さは見るたびに気持ちが悪くなる。長女の報告では、今年予定している孫の歯並び矯正に一人当たり35万円も掛かるとか。60歳代のゴルフ仲間は歯の治療に250万円、別の知人は何と750万円。一本50万円もするそうだ。共に現在インプラントの治療中だが、その間のゴルフは厳禁とか。虫歯も無く歯が一本も抜けていない私には想像し難い別世界だ。

   日本人女性は高価な化粧品とブランド品で身を飾っているだけ。中身だけで勝負すると勝ち目は全く無い。西アフリカの女性美は、寝巻きを着ていてもモナリザが美しく感じるのと同じ原理だ。

③ 子供

   西アフリカと日本の子供の行動や雰囲気には大きな違いがある。前者の目と表情は生き生きと輝き明るい。子供らしさの発露は生活水準とは全く関係が無いようだ。後者は対照的にまるで戦争捕虜か奴隷のように無表情だ。

   我が家の周りの集団登下校している小学生は、ひたすら無言で修行僧のように俯つむき加減に歩いている。笑いが無い。その原因の殆どは、子供の天性を無視して管理下に置き『ああしろ、こうしろ』との指示を乱発している周りの大人にある。子育てが完了している私でも、この現実に直面すると胸がきりきりと痛む。

   親殺し子殺しセクハラを初め、偽物作りの横行などに象徴される未熟な日本人の言動が、子供達の素直な心を傷つけているように思えてならない。現在の不景気が回復するだけでは解決しそうもない本質的な国民的課題だ。
   
④ 乞食

   ロシアや東欧、西アジアや南アジアなど生活水準の低い国々の大都市には乞食が溢れている。しかし、西アフリカでは乞食を殆ど見かけなかった。国民の過半数が一日一ドル以下の生活をしているというのに!

   貧富の格差が拡大していない国では乞食業を開業しても、同朋の中には救済者が存在しないためだろうか? 私には納得出来る理由を思いつけなかった。

⑤ 出臍文化

   各地の博物館で先住民の大いなる遺産『男女の全裸彫刻』を見学。驚いたことに大きな出臍が目立つ。陰茎の見間違いではない。大きな乳房で女性と判定できる彫刻にも大きな出臍があったからだ。

   現地人ガイドに『先住民には出臍を重んじる習慣・文化があったのか?』と質問したが真相は知らないという。『出臍は多いのか』と質問したが分からないという。ある漁村で、上半身裸で働いていた男児に出臍を発見したのが唯一の目撃体験。

   ある同行者が物知り顔で『出臍はお産のときの臍の緒の切断位置を間違えると出来るのですよ』と教えてくれたが、私は半信半疑のママ帰国。産婦人科医である長男の嫁に質問すると『臍の緒の切断位置と出臍は無関係。人体側に残っている臍の緒は出産後、お腹の付け根から自然に取れます。出臍はヘルニアの一種です』。かぼちゃをヘタ付きで収穫しても、時間が経つとヘタが自然に付け根から取れるようなものだ。

   ひらめき豊かな先駆者がお腹の彫刻をするときに、起伏の乏しい丸いお腹を写実的に彫るだけではアクセント不足と思い、体の中心に鎮座する臍を象徴的に大きく彫り出した結果、多くの人達の共感を誘発し、後続の彫刻家が真似し始めたのでは無いかと推定した。   

[5]インフラ

① 移動手段

   今回の旅行中、遠距離は飛行機。それ以外は総てバス。快適な移動には程遠い道路とバス。国家の総合力(国力)が端的に現れる。日本と異なり西アフリカには山も川も少ない。従って橋は少なくトンネルは殆ど無い。人口密度も低いので幹線道路の建設は容易なはずだが先立つものが・・・。

   それでも大都市周辺の幹線道路はその品質はとも角として舗装されていた。無人地帯では直線未舗装道路中心。土埃をいちいち気にしてはおれない。加えてバスの品質の悪さは想像を絶する。椅子の座り心地が悪い。エアコンの性能が悪い・・・。

   先進国でわざわざ品質の悪いバスを作るはずは無いので、エンジン付き車台を輸入し、ボデーや椅子等は現地生産したものを架装していると推定。同行者が少なく座席が込まないのがせめてもの救いか。そんな中でも西アフリカ人の生活の知恵を発見。

   窓ガラスの上部に高さ10cm・横幅は窓ガラスと同じ開閉式の窓が追加されていた。出発時に上部の窓を開いて走行すると、車内に無数にいた蚊がベンチュリー効果(動圧+静圧=一定というベルヌーイの定理の応用)で窓から吸いだされるのだ。蚊の排出が数分間で終わると徐(おもむろ)に閉鎖。
   
   今回の旅の時間の概算2/3は移動、残りが観光と食事時間に消えた。バスからの窓外の観察努力こそ旅の収穫量を左右する。都市内の雰囲気だけではなく、都市間にある農村・田園・プランテーション・先住民の泥で作られた小さな家屋(蟻塚の人間版)・原生林・サバンナ・・・。睡魔と闘いながら必死で凝視。

② 通勤鉄道

   各国の首都と雖も通勤用の鉄道が無い(ひょっとすると何処かに地下鉄等がほんの少しあるのかもしれないが・・・)。その結果、車の渋滞は慢性的。日本でこそやや早かったとはいえ、東アジアの大都市でも地下鉄が導入され始めたのはつい最近のこと。

   これらの国の渋滞に出くわすと鉄道網の真価に嫌でも気づく。日本では採算性が優先されて新線建設にはお金はあるのに躊躇しているが、西アフリカではお金が無いため建設が進まない。何と気の毒なことか・・・。

③ ホテル

   ホテルに泊まれば一国の生活水準や価値観も推定できるようになった。植民地時代には旧宗主国の関係者がそれなりのホテルを建設。部屋も広いし天井も高い。

   独立後旧宗主国の欧州人は帰国したのか、観光客以外は殆ど見かけず。ホテルの経営者は現地人になったのだろうか?

   室内の建て付けが悪く、蝶番は壊れかけ、水道の栓も使いにくく、トイレは汚く、たまにある浴槽(大抵はシャワーだけ)は疵(きず)だらけで汚く、水は濁り、お湯の出は悪いどころか冷水がちょろちょろだったり・・・。これでも従業員の自宅よりは格段に高品質なので保守管理をしようとの意志は発生しないようだ。

   ベッドに毛布は無く、薄い布が被せてあるだけ。冷房の温度管理も出来ず寒すぎることも多い。風邪を引く恐れを感じ、外出着のままベッドに潜り込んだ。野宿と同じだ。

   温水トイレの類は当然無く、ブラウン管テレビは小さく映りは悪く、音質も最悪。絨毯やカーテンの品質等評価する気も起きず、洋服ダンスの建て付け品質と来たら・・・。
とは言え、これらは事前に添乗員から説明を受けていたためか、不思議と怒りは発生しなかった。

④ 溢れるゴミ

   残念ながら西アフリカ諸国もインドやアラブ諸国に負けないほど、国中にゴミが撒き散らされている。公的な清掃が追いつかない。いたちごっこだ。でも、道に面した商店のオーナーは店の前だけは熱心に清掃をしているから、公共教育の問題でもある。

   公共の場を綺麗に維持するという観念が国民に育たない限り残念ながら国土は綺麗にならない。シンガポール政府がガーデンシティを目指して美しい国づくりを始め、周辺各国に環境美化運動が広まったが、西アフリカ諸国が追いつくのはいつの日だろうか?

   ソウルも北京もオリンピックを口実にしながら美化運動を進めたが、アフリカもオリンピック待ちなのだろうか? 気が遠くなるような話だ。

⑤ 井戸

   西アフリカの井戸の素晴らしさには一目。

   因みに我が生家は高台にあったため、近所の家庭の井戸(深さ5m程度が多く手押しポンプが使えた)よりも多少深く、小学生の頃、錘としての石を結びつけた縄を井戸に投げ込んで測定した記憶では8mくらいあった。

   当時は上水道も無く(数年前にやっと公共下水道が開通した)、どの家庭にも自家用の井戸があった。この深さだと手押しタイプの真空ポンプは使い難く(原理的には1気圧の水頭10mが上限。実用上の限界は6m程度か・・・)、井戸の上に屋根があり、梁に滑車を吊るし、釣瓶(つるべ)で水を汲んだ。五右衛門風呂には40杯も汲んだ。

   この井戸は地面から高さ1mまでと地下1mまでは石で囲まれていたが、地下1mから底までの壁面は土のママだった。数年に一度は井戸水を半日掛けて全部汲み出し、滑車に籠を取り付け、籠の中に未だ小学生だった兄が入り、父が兄を井戸の底まで下ろし、底に溜まっている汚泥をバケツに入れさせては地上へ取り出す『井戸さらえ』をしていた。

   半乾燥地帯の西アフリカの地下水位は大変低い。20mから数十メートルもの地底だった。直径2mくらいの大きな井戸が掘られていた。壁面の崩落を防ぐため地底まで石組みだった。貧困家庭が専用の井戸を持つことは無理。総て地域の共同所有。地下水位が深く地中での浄化は十分。井戸水は大変綺麗だった。それでも、試飲する勇気は出なかった。

   川や溜池の無い畑の灌漑用井戸も家庭用の飲料水用の井戸と同じように立派だった。灌漑用水は水中ポンプでふんだんに汲み上げていたが、地下水が何れ枯渇するのではないかと心配せざるを得なかった。但し、灌漑用井戸は資金面の制約からか大変少ない。

⑥ 衛生状態

   衛生状態の総合的な評価は同行者の体調で労せずとも判る。今回の同行者は添乗員を入れると13名。自己申告での集計だが下痢をしたのは添乗員を含めて12名。殆どが旅の達人なのにどうしてなのか?

   自宅近くの70歳代の内科医(定年退職後毎月、痛風の薬を処方して貰っており、私に取っては家庭医のような存在)に相談したら、下痢止めの抗生剤『セフゾン』と腹痛用の『ブスコパン』を勧められて持参した。

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セフゾンとは・・・インターネットから

   感染症は、病原微生物が人の体に侵入し悪さをする病気です。腫れや発赤、痛みや発熱などを生じ、人に苦痛をもたらします(実は、このような症状は病原微生物と戦うための体の防衛システムでもあるのです)。

   病原微生物には、細菌やウイルス、真菌(カビ)などが含まれますが、このお薬が有効なのは“細菌”による感染症です。グラム陽性菌をはじめ、グラム陰性菌の多くに有効です。病原菌が死滅すれば、腫れや痛みがとれ、熱のある場合は解熱します。

   いろいろな細菌に有効なので、呼吸器や耳鼻科領域を中心に各科で広く使われています。のどの痛みや発熱をともなう“かぜ”にも処方されます。本来、インフルエンザを含め一般的なウイルス性の“かぜ”には無効なのですが、細菌による二次感染時やその予防のために用いることがあります。

ブスコパンとは・・・インターネットから

   副交感神経を抑制して,消化管など内臓の筋肉(平滑筋)のけいれんを抑制する作用があります。したがって,胃・十二指腸潰瘍,胆のう・胆管炎,胆石・尿路結石などや,食道,腸,膀胱などの臓器に起こっているけいれん性の痛み(さし込み)をやわらげたり,消化管の働きを調節します。子宮のけいれんを抑える作用もありますので,月経困難症などにも用いられます。
   
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   海外旅行で最も注意を払っているのは下痢対策だ。ペットボトル入りの水しか飲まない。皮をむいて食べる果物(バナナとかオレンジ)以外の果物は食べない。野菜サラダは食べない。得体の知れない料理は加熱処理されているもの以外は食べない、といった程度だが・・・。たったこれだけの実行に過ぎないが、定年後の海外旅行で下痢をしたことはこれまでに一度も無かった。

   乾期の西アフリカは湿度が極端に低く、日中でも汗が流れることも無く大変快適だった。毎日取り替える予定の下着も3日間連続して使用し、洗濯も18日間一切しなかった。

   69歳のがん患者とはいえ前半は未だ体力もあったためか下痢もなし。ところが後半に至って軽い下痢が発生。疲れと共に体力が落ちたのだろうか? 早速旅の達人達からご持参の薬を勧められ飲んだら一日で回復。札幌在住の男性は小さなハンドバック一杯、種々の薬を持参されていた。

   その数日後に又もや軽い下痢。今度は我が持参の薬を飲んだら二日で快癒。これらから下痢の原因は細菌性と推定。何処から忍び込むのか未だに分からない。泥水でも平気で飲んでいる野生動物の逞しさには驚愕、というよりも畏敬の念すら湧く。

⑦ 蚊

   今回の旅行で二番目に注意したのは蚊による黄熱病やマラリアの感染。旅行中長袖・長ズボンで我慢したが幸い湿度が極めて低く、下着に汗が流れるような不快感もなく、大事に至らなかった。就寝中は必ず蚊取り線香を使った。

   旅の達人である同室者には大変お世話になった。私が入浴中に同室者は蚊取り線香に点火。私も蚊取り線香を1箱用意していたが殆ど使わないまま。蚊が多いと判断した時は二箇所に蚊取り線香を配置。幸い蚊に刺された記憶は無い。

[6]其の他

① 貨幣経済

   内陸部の自給自足の世界にも貨幣経済が徐々に浸透。食料の一部だって市場で調達せざるを得ないし、今やどんな僻地に住んでいても工業製品の調達には貨幣が必須。

   現金収入を得るための手っ取り早い手段は観光客への果物や民芸品の販売。老いも若きも、大人も子供も雲霞(うんか)のように押し寄せてくる。何かを買ってあげたいとは思うものの、見栄えもせず美味しくもないと分かっている果物は食べたくないし、民芸品を衝動買いしても帰国した頃には興味をなくし、何故買ったのだろうかと思うのが落ち。

   シルクロード一帯(中央アジア・西アジア・アラブ諸国)には数千年の交易史に鍛えられた魅力ある品々があり、バザールでの買い物も楽しいが、西アフリカには我が琴線に触れるものが少ない。

   やっと探し出したのはマリの円錐状の民族帽子。$40の言い値を$11に値切って購入。拙宅まで被って帰国。税関員が物珍しそうに『何処で買ったのですか?』。ジェンネのモスクを背景に帽子を被って記念撮影。ゴルフ帽として早速愛用しながら仲間に見せびらかしている。

② 網ベスト

   パスポートや現金などの貴重品入れとして、世界的に大流行していたウェストポーチを10年間くらい使っていたが、腹部が膨らんで不恰好なだけではなく、此処に貴重品を入れていると教えているような気がして、使うのが躊躇(ため)らわれるようになった。

   一方、海外旅行で出会った旅の達人(総て男性)の過半数が、ファスナー付のポケットが10個以上も内外に付いているベストを着用していることに気付いた。ポケットの数が増えれば備品の整理整頓には大変楽。番地指定で物を収納すると探し物の手間も省ける。

   全国チェーンの『ワークマン』に売っていると聞き早速出かけたら、冬用のベストしか在庫が無かった。西アフリカへ行くのだから夏用を探してと強く要望。翌日、メーカーに売れ残りの夏用の製品があったとの連絡が来た。早速購入。網で出来ているため、風通しも抜群。夏の旅行には最早や手放せなくなった。ウェストポーチよ、さらばだ。

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同行者
   
   今回の同行者は参加者12名と添乗員、内女性はたったの二人。同行者の平均訪問国数は100ヶ国以上。今回で78ヶ国になる私レベルは初心者同然。日本人が余り出かけない国にも来るような参加者には共通の話題があった。訪問国数自慢合戦だ。国の数をひたすら増やすのが目標の人を『カントリーハンター』と言うそうだ。

   カントリーハンターの亜流には米国の全州巡り、中国の全省巡りがある。しかし、米国や中国に駐在していながら、全州・全省巡りを完了した人に出会ったことは無い。駐在員の旅行は出張者の案内が主。本人にその気が無ければ地の利に恵まれているだけでは全州・全省巡りは実現しないようだ。

   この小さな日本でも全都道府県巡り(私は未完。“五月雨を集めて早し最上川”や“閑かさや岩に染み入る蝉の声”の立石寺があるというのに、山形県が残っている)、百名山登山、百寺巡礼、四国八十八ヶ所巡礼など類似のテーマが数え切れないほどあるのは、人間には偏差値に限らず数に拘る習癖が本質的にあるからなのだろうか。

   印象に残った旅の達人達の一部を紹介。

① 同室者

   氏は私より僅か百日先輩。56歳の時に52歳の奥様に不幸にして先立たれ、今ではシングルのゴルフも止めて海外旅行が趣味。現役時代(バブルの頃)の年間交際費が1,200万円だったと聞いてビックリ。金沢に栄転した時にはボトルをキープしていた出入りの飲み屋が60軒。トヨタ自動車での現役時代には接待されることはあっても、接待する側の部署にいなかった私には文字通り別世界の住人。

   お嬢さんが食品会社勤務の東大卒と結婚したときには、結婚式の費用に600万円出したとか。親としての義務は教育までと主張し、花嫁道具は勿論のこと結婚式には一銭も出さなかった我が夫婦とは月とスッポン。

   今は未婚のお嬢さんと二人住まい。生活のリズムや食習慣も異なるので自宅では自炊。72歳になったら既に購入済の老人ホームに移住予定。3人の子供達には1人5,000万円ずつ遺産贈与の密かなる親心溢れる計画。私も罪滅ぼしを兼ねて何とか真似したい。ご本人の余生は年金と持ち家の売却資金で十分とのご判断。

② 添乗員

   34歳の好漢。我が末子の長男より1歳年上に過ぎないので、我が子供みたい。明治大学を卒業後自己資金で米国に短期留学し、米国でも働きながら英会話の猛勉強。その成果なのか、聞き取り能力は抜群。観光地の情報収集努力には拍手。書物から関連部分をコピーし、今回の旅程に沿って編集した手持ちの分厚いファイルの充実振りは私が出会った各旅行社の添乗員の中ではピカイチ。

   今回の同行者とは殆どが親子ほどもある年齢差。ともすれば横柄な言動に走りがちな高齢者たちを、巧みに取りまとめる能力も洗練の極み。観光案内時には何時も穏やかにゆっくりと丁寧に説明する態度には一目置いた。ガイドという専門職が好きでなければ勤まらない。私には我儘で傍若無人三昧の旅行者相手のガイド業は、たとい高給であろうとも一日とても耐えられそうもない仕事だ。

   今回の旅程にはインフラ不良や国境通過の時間も考慮したのか、比較的ゆとりが確保されていた。その結果、夕方とか早朝に1~2時間の自由時間が発生することもあった。そんな折には氏はすかさず『ホテルの周辺をご案内しながら散歩します。希望者はどうぞ』と提案してくれた。

   いつも半分くらいの人が参加した。ガイドとしては契約外のいわばサービス残業だったが、上司が見ていない場所での氏の勤務態度に、勤勉だったかつての日本人の原型を発見して、嬉しかった。

③ 元国家公務員ご夫妻

   唯一の夫婦での参加者。ご主人は70歳代半ば。奇数月は海外旅行、偶数月は国内旅行。日本では大変経済的に恵まれた夫婦と推定。

   50歳代で国家公務員を勇退させられ関連団体を渡り歩き70歳まで働いた。通勤にはお迎えの車が来たこともあったそうだ。所謂キャリアのようだ。自家用車は買わず今でも自転車族。東京ではますます車が売れなくなるのも当然だ。

④ 日大名誉教授

   東大建築科昭和29年卒。新制大学の一期生。博士課程に進み学位(工学博士)取得後日大講師を皮切りに70歳まで勤務。氏の門下生で学位が取れた人は約30人もいるとか。旧帝大の工学部教授の場合高々15名くらいが多いそうだが、学生の質まで考慮すると30人とは異例。学会賞も幾つか獲得。

   渋谷駅の東急コンプレックスのマスタープランの取りまとめもした。ミサワホームの創業者、元社長の三沢千代治氏(日大卒)とも親交があるそうだ。我が三沢氏への評価にも同意。

   氏はアフリカ固有の建物には職業柄か殊の外関心が強いらしく、網膜にじっくりと印象付けるよりも、あちこち駆け巡って写真の乱撮りに専念。見学中の歩行数は抜群。

   青春の定義に関するサミュエルム・ウルマンの詩が、既に若さを失った世界中の年寄りには『そうだ、そうだ』と共感を呼ぶそうだが、私は氏の行動力を見て『青春とは暦の上の年齢や精神的な若さではなく、肉体的な行動力が溢れる期間』と定義したくなった。

蛇足(インターネットから)

   青春とは人生のある期間ではなく心の持ち方をいう。バラの面差し、紅の唇、しなやかな手足ではなくたくましい意志、ゆたかな想像力、もえる情熱をさす。青春とは人生の深い泉の清新さをいう。

   青春とは臆病さを退ける勇気・易きに付く気持ちを振り捨てる冒険心を意味する。ときには、20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる。歳月は皮膚に皴を増すが、熱情を失えば心は萎(しぼ)む。苦悩・恐怖・失望により気力は地に這い、精神は芥(あくた)になる。

   60歳であろうと16歳であろうと人の胸には驚異に惹かれる心、幼な児のような未知への探求心、人生への興味の歓喜がある。君にも我にも見えざる駅逓が心にある。人から神から、美・希望・よろこび・勇気・力の霊感を受ける限り君は若い。

   霊感が絶え、精神が皮肉の雪に覆われ悲嘆の氷に閉ざされるとき、20歳だろうと人は老いる。頭を高く上げ希望の波を捕らえる限り80歳であろうと人は青春の中にいる。

⑤ 札幌のお土産屋氏

   学生時代のアルバイト先が小売。そのときに小売の魅力に取り憑かれて開業。今やJR名古屋駅周辺と酷似の現象に沸く、大丸が進出したJR札幌駅ビルにも、テナントとして進出。そのほか小樽など数箇所。主力商品はお土産品と国内外の銘酒。

   全国各地から売れ筋のお土産品の発掘に力を入れるものの、店頭への顔出しは奥様から厳禁されているとか。『貴方は営業には向かない。お客様が恐怖感を感じて逃げてしまう』。さもありなん。髪型・風貌がユニーク過ぎて、最初の頃は同行者に強面、つまり誰も話しかけなかった。

   新取引先との業務が安定する都度、従業員に日常業務は全権一任。店長への指示はたったの一言。『店が赤字になったら、いつでも潰す』。リストラ回避のため、みんな一所懸命に働くそうだ。一石二鳥そのもの。本人には自由時間が転がり込み、店は繁栄。

   一人娘は北大に進み、商売を引き継ぐ意志も無いので、程ほどの頃を見計らって何時でも廃業できる準備もしながら、海外旅行三昧。奥様とは毎晩のように国際電話。日本の最新ニュースの伝達(発表)係(大阪府の知事に若い弁護士が当選したとか、初場所では白鵬が優勝したとか)を自認。

   驚いたことに氏は弁当箱一杯くらいの各種薬剤を持参されていた。僻地旅行を重ねる度に薬の種類が増えたようだ。私が軽い下痢を発症した時、早速お世話になった。駆け出しの医者顔負けの軍医並の実力者だ。

   氏は商売柄酒の知識も豊富だったし、酒豪でもあった。私は同室者と飲むべく空港でオールドパーの一㍑瓶を購入していたが、意外なことに今回の同室者はお酒に弱いらしい。現役時代の膨大な交際費でご本人が飲んだ総酒量は微々たるもの。氏は時々我が部屋に立ち寄られ、酒を飲み飲み三人での話も弾んだ。『人は見かけによらない!』と言う典型例だった。   

⑥ 那覇の回転寿司屋氏

   回転寿司屋9軒。他に居酒屋も何軒か。氏の発想も面白かった。『料理長や寿司職人が店を持ち第一線で働いていたら、店の数は増やせない。私は寿司ネタの仕入れや調理は一切しない。回転寿司の店長はベテランの職人上がり。仕入れを含む全業務を全権委託。自分は経理情報を把握しながらの経営管理に徹し、赤字になったら潰すと言っているだけ。資金力さえあれば、店の数は増やせる』

   沖縄では海外旅行を氏よりも頻繁に楽しんでいる人はいない、と断言。弁護士や医者等金持ちはいるが、所詮は属人性の資格業務。本人が働かざるを得ず、海外旅行の時間がないのだ。さもありなん。

⑦ 韓国人

   日本発の海外旅行に闖入していた外国人に出会ったのは初体験。韓国からも申し込めるとは私は考えたこともなかった。氏は今回で日本発の海外旅行は6回目。韓国が豊かになったとはいえ、僻地への団体旅行は韓国では少ないそうだ。

   氏は片言の日本語が使える結果、旅行での不便さはほぼ無さそうだった。同行者も氏が何となく困っているらしいと気がつくと、率先して翻訳(日本語から日本語への翻訳)した。ついうっかり特殊な日本語が周りから飛び出してくるのだ。

   氏は引退サラリーマン。奥様は医師。韓国でも医師は高給取りのようだ。ソウルの住まいは150平方mもの億ション。韓国の億ションは日本とは異なるようだ。バストイレ付の部屋が複数あるそうだ。日本人には来客用寝室にバストイレを取り付けると言う発想は殆ど無い。トイレが1,2階の2ヶ所にあるのが関の山。

   私が『ソウル市中心部の川を埋め立てて建設した自動車専用高架道路を撤去し、昔の清流を取り戻し、市民に憩いの場を提供した関係者の英断は素晴らしい』との話題を持ちかけたが、日本語が通じなかったのか、氏には全く関心の無い出来事なのか、その事実を全く知らないと分かった時には、些か驚いた。

⑧ 独身キャリアウーマン

   50歳代。芸能界に君臨している韓国系日本人、和田アキ子に似た170cmを優に超える長身でスタイルも抜群。世界を闊歩している旅の達人。持参の薬や旅の小道具の多さにもびっくり。沙漠での下痢時には薬やトイレットペーパーも頂いて助かった。時には札幌の名経営者と一緒に我が部屋に来られ、同室者を交えての四方山談義は楽しかった。

   下痢の原因には細菌性と水に起因するものとがあり、薬も別だなどと詳しい。女性週刊誌のニュースやテレビのワイドショー番組を初め、社会面を賑わす情報通振りから同行者(以前の旅行で一緒だった方)の人物評まで話が止まらない。

   60歳になったら恋をしたいとか。でも、どんな仕事をしているのか、何故結婚をしないのかなどのご自身については全く語らずのままだった。我が人生とは異質の世界の住人だったが、自信を持ちながら堂々と闊歩している才女に拍手喝采!
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ナイジェリア

① 国旗



   1958年の国旗コンテストで決定。緑は豊かな森と農地、白は統一と平和を象徴する。

② 地理

   面積は92.3万平方Km、人口は日本を上回りアフリカ最大の1.37億人の大国。国内を貫流するニジェール川は長さ4,200Km、アフリカではコンゴ川(流域面積では世界第2位)に次ぐ第3位の大河。デルタ地帯は世界有数の油田地帯。

   元首都ラゴス(1991年12月から首都はアブジャ)は人口1,000~1,500万人とも言われるアフリカではカイロに次ぐ大都市。ラゴスは海岸都市。港には船舶が犇(ひしめ)き合っていた。都心には鉄筋コンクリート造り、20階前後の高層建築が立ち並び、一見近代都市を連想させるが、地面を見るとゴミだらけでがっかり。いたちごっこ化している清掃が追いつかない。

③ 国民・・・インターネットから

   イスラム教が5割、キリスト教が4割、土地固有の伝統信仰が1割。北部はムスリム地区。

   ナイジェリアは西アフリカ最大の国で、アフリカの総人口の1/5~1/4がナイジェリアに居住する。250以上の民族/部族が居住する。北部のハウサ族およびフラニ族が全人口の29%、南西部のヨルバ族が21%、南東部のイボ族が18%。以下、イジョ 10%、カヌリ 4%、イビビオ 3.5%、チヴ 2.5%など。民族紛争が相次いできたため、現在では州が細分化されている。少数民族には苦難が続いている。

   ナイジェリアでは方言を含め521の言語が確認されているが、現存するのは510であると考えられている。議会や官庁で使用される公用語は旧支配者の言語である英語であり、多数派であるハウサ語、イボ語、ヨルバ語の使用のみが認められている。初等教育では各部族の母語によって授業が行われるが、高等教育においては英語のみを使用。言語の面でも少数民族の権利が侵される事態となっている。

   上記のように多民族・多言語・多宗教を内包するナイジェリアが国民国家として纏るまでには、気が遠くなるような歳月が必要なのではないか、と私には案じられてならない。

④ 経済・・・インターネットから

   ブラックアフリカで最初にOPECに加盟を果たし、経済規模はアフリカ有数である。世界有数の産油国であり、肥沃な土壌ではトロピカルフルーツや野菜の生産が盛んだったが、総歳入の71%を石油に頼る過度の石油依存により、カカオを除く在来の農業は衰退。さらに政治の腐敗、放漫財政とオイルブーム後の巨額の累積債務のため、経済は低迷を続けている。

   国内の市場そのものは大きいのだが、国民の大多数が貧困に苦しんでいるため、購買力が低く市場を生かしきれない。最大都市ラゴスはアフリカ最大級の大都市だが、集まる人口に既存の都市機能が追いつかず、渋滞によりバス・タクシーなど交通機能は麻痺寸前になっている。

[1] 1月15日・・・(関空⇒ミラノ)

   関空13:55発の便だった。自宅からの移動時間は十分にあったので、久しぶりに近鉄で名古屋から難波まで特急に乗った。在来線でも近鉄の名阪(名古屋線+大阪線)は振動の少ない国際標準軌。目まぐるしく景色が変わり疲れが溜まる新幹線とは異なり、近畿の田園風景をのんびりと眺めながら、ビールを飲み飲み旅情を満喫できるのが魅力。
   
   JRや各私鉄が乗り入れている難波駅は広すぎるのが玉に瑕。近鉄駅から南海駅までの移動だけでも老人には一仕事の感があるが、旅行鞄は宅配便で送っていたので今回は身軽。これまた久しぶりに地下街や高島屋のデパ地下をぶらつく。
   
   一人旅には無駄が少ない。添乗員探しや同行者との待ち合わせも不要。ゴールド・カードのラウンジでのんびりと時間調節。しかし、中部のラウンジは生ビールが飲み放題なのに、関空ではアルコール類がいつの間にか有料となっていた。些か腹立たしい。
   
   エールフランス&KLMグループへの身売り話が進行中のアリタリアは、団体旅行用航空券の安売りに活路を見出しているのか、満席の賑わいになっていたのに驚く。バブル崩壊後に相次いだ地方百貨店の閉店セールの大賑わいを連想しながら苦笑。
   
   ミラノには成田発便よりも10分遅く着いた(18:30)にも拘らず、一人旅の私の方が早く入国できた。団体旅行の時間効率の悪さを今回も体験。ナポリ行き鉄道(マルペンサエキスプレス)の切符売り場で約束通り待っていたら、迎えに来たイタリア人に発見された。暫くして成田発組と合流。
   
   この日はアフリカ便との接続が悪いのかミラノ泊。といっても空港からもミラノの都心からも数十キロも離れた郊外のみすぼらしい三流ホテルだった。道中の住宅街の美観はイマイチ。一戸建ちで狭いながらも庭があるのに、ラテン民族にはイギリス人や日本人のように庭を綺麗に維持する意欲に乏しいようだ。写真を撮る気も起きない。
   
[2] 1月16日・・・(ミラノ⇒ナイジェリア)

   ミラノ発は15:00だった。日本出発前に営業マンに『午前中にミラノの散策が出来ないか』と相談したら『往復のバス移動に4時間。万一の交通事故や渋滞も想定すると、散策時間も確保して13時に空港に戻るのは無理』との回答。海外旅行中は文字通り『時は金なり』と誰もが感じるのに、今回のプランには不満やるかたない。宿泊費が多少高くなっても都心のホテルを手配すべきだ。

   午前中はホテルで暇つぶしをしつつ、午後ミラノ空港着。ミラノ空港はハブ空港とはいうものの空港内には免税店も少なく、本格的なレストランも無く退屈そのもの。ナイジェリアのラゴスの空港に着いたのは21:10。

   迎えのバスを待つこと1時間。何故かバスは現れず急遽タクシーに分乗してホテルへ。タクシーが一度はホテルすら間違える始末。疲れ果ててやっと到着。西アフリカ観光が軌道に乗るまでは、この種の事件の積み重ねが未だ続きそうだ。旅の達人たちは僻地旅行のトラブルには慣れているのか、苦情を捲し立てる人が現れなかったのが、せめてもの救い。
   
[3] 1月17日・・・(ナイジェリア⇒ベナン)

① ある風景



   公団住宅に似たアパートを発見。庶民にとっては高嶺の花。洗濯物の干し方から一戸に付き窓は二つか三つと判断。でもベランダにはドラム缶大の飲料水タンクが鎮座。ところどころに数は少ないが、エアコンの室外機とテレビアンテナ。アンテナの形も様々。時たま衛星放送受信用の丸アンテナも発見。健気(けなげ)な努力がいじらしい。
   

② 国立博物館
   
   ホテルから国立博物館までの移動中、窓外に展開されるスラム・雑踏・道路に溢れる露天商・信号機不足・壁面の汚れた建物・緑地不足などに厳しい現実を直感。

   国立博物館とは名ばかり。小さな建物内にはかつての黒人王国の芸術作品などが展示されているものの、残念ながら印象に残るものは少ない。ここの博物館に限らず、西アフリカでは写真撮影が禁止されている場合が多くて残念。館内の売店で売られている書籍の販売減(誰も殆ど買わない)を怖れているのではなく、展示物がみすぼらしく恥ずかしいから禁止にしているのでは、と邪推したくなる。

   国立博物館での圧巻は展示物よりも庭に植えられていた樹木だった。高さが20mは優にあり、他の木と枝が接触しない間隔に植えられていたため、枝が360度にのびのびと広がり、見とれてしまった。木の大きさから博物館の歴史の古さを連想。雨量の少ない西アフリカだってちゃんと育てれば大木に育つのだ。

   我が見果てぬ夢とは庭に一本で十分だが、高さ20mくらいの主木がそそり立つ小さな持ち家だった。敷地が500坪無くては無理というもの。豊田家を除けばトヨタ自動車の社長と雖も僻地ならいさ知らず、豊田市内では無理!

   添乗員の提案で同行者一同博物館の周りを一周した。店舗や露天商の商品を歩きながら眺めると、移動用のバスからでは分かり難かった国力(民力)を再確認できた。その貧しさには言葉も出ない。

   ナイジェリアを午後出国すると共にベナンに入国。陸路での移動だが、国境での出入国手続きは夫々の国の事務所で実施することになり、何時ものことながらたっぷりと時間が掛かる。夕方、港町コトヌーのホテルに到着。
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ベナン



① 国旗の色

   社会主義政権崩壊とともに独立当時の汎アフリカ色の国旗を復活。黄色は北部のサバンナを、緑は南部の椰子林を、赤は祖国防衛のため死んだ勇士を表している。

② 地理

   面積11.26万平方Km。人口870万人の小国。憲法上の首都はポルトノボだが、政府(国会議事堂や最高裁判所など)の所在地は人口76万人のコトヌー。

③ 国民・・・インターネットから

   ベナンには、40以上の民族(フォン族、アジャ族、ヨルバ族など)が住んでいる。

   言語は、公用語がフランス語で、その他にフォン語などそれぞれの民族の言葉が話されている。

   宗教は、現地固有の宗教ヴォドゥン(ヴードゥー教)が50%、キリスト教が30%、イスラム教が20%である。そもそもヴードゥー教はベナンが発祥といわれ、それが奴隷貿易の広がりとともにブラジル、カリブ諸島、北米へと広がったと言われている。1992年よりヴォドゥンはベナンの国教となり、毎年1月10日は国挙げてのヴォドゥン休日となっている。

   こんな小さな国でも40種類以上の民族が住んでいるのに驚く。欧州各国や日本と異なり群雄割拠の民族の統合が進んでいないのだ。多言語からなる元植民地で安易に採用される共通語は旧宗主国の言語。インドネシア政府がジャワ語ではなくスマトラの一地方言語を共通語に選んだのは世界的な英断!

④ 経済・・・インターネットから

   国民の大半が農業に従事。綿花、パームオイルなどの輸出用品目のほか、自給用のトウモロコシなどが栽培されている。世界屈指の原油埋蔵量を誇るギニア湾に面しているが、油層に恵まれないためか1980年代に小規模な海底油田が開発されて以降、開発は停滞している。なお、石油製品の国内消費量の大部分は、隣国のナイジェリアに頼っている。

[4] 1月18日・・・(ベナン⇒トーゴ)

① コトヌー

   ホテルからコトヌーを縦断。自転車が殆ど無くオートバイの多さに驚く。ハノイで1990年代に出張の折々に何度も見たオートバイ群を思い出す。二人乗りも多い。オートバイと乗用車が道路一杯になって疾走。危険極まりない。

② 小学校

   青空トイレを探していたら、日本政府の支援(ODA)で建てられた鉄筋コンクリート平屋建ての小学校を発見。臨時に訪問。側壁には大きく日の丸とベナンの国旗が描かれ、その下に『JAPON』の大きな文字。彼らの感謝の気持ちが無言で伝わる。



   運動場を挟んで寄贈校舎の反対側には壁が無い簡素な校舎があった。小学生が一斉に珍客の方を振り向くので授業は中断。やがて校長が挨拶に現れた。私は皆がバスへ向ったのを見届けてから『子供達の勉強の邪魔をして申し訳ない』と言って、校長にそっとチップを渡した。校長は早速『これがドル札だ』と子供達に説明しながら見せていた。

③ アボメー(ダホメー王国の首都)

   奴隷交易で栄えたダホメー王国の、1985年に世界遺産に登録された王宮博物館を見学。王宮といっても西欧の石造りの巨大宮殿とは大きく異なり、建築資材は土が主体。屋根も低く・・・。

   1984年に竜巻で破損したが修復。沢山あった建物は何れも貧弱だったが、流石は王宮。敷地は広大だった(10万坪と推定)。



④ ゾマホン

   私が知っていた唯一のベナン人はゾマホン。ベナン国立大学卒業。北京語文化大学(修士学位)卒業。上智大学大学院博士過程卒業(学位論文はベナンにおける職業と階層)。ヨルバ語、フォン語(アフリカ)、フランス語、英語、中国語、日本語をマスター。ベナン共和国大統領特別顧問。

   ゾマホンは時々日本のテレビに出ている。あるとき『日本のアフリカ支援は物資主義。消費すれば無くなるようなものは要らない。乞食のように物を貰っても豊かにはなれない。国民が豊かになるベストウェイは教育。学校をつくり、教師を育成し、次世代の知性を高められる支援をこそ望みたい』と述べた時、私は涙が急に溢れてきた。

   彼の話を聞いたとき、アフリカでの野生動物の保護活動の課題を思い出した。怪我をした動物や親が殺された猛獣の子供を保護して育てた後、密林に戻しても捕食能力が無く餓死する可能性が高いそうだ。アフリカ人の自活能力の強化に繋がらない単なる物資提供は、野生動物を檻の中で保護するだけの活動と何が異なるのだろうか?

   ゾマホンは日本で得た収入で祖国に学校を建てた。たけし小学校(コロボロル村)、明治小学校(キカ村)、江戸小学校(チチャク村)、たけし日本語学校(コトヌー市)を寄贈。2002年にはベナン共和国から国民栄誉賞を与えられた。
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トーゴ



① 国旗の色

   赤は独立のために流された血、緑は希望と国民、黄色は労働、白は純潔を象徴し横筋で5地方を表す。 

② 地理

   面積5.6万平方Km。人口630万人の小国。国名はトーゴ湖に由来する。

③ 国民・・・インターネットから

   住民は、アフリカ系が99%であり、主な民族はエウェ族、ミナ族、カブレ族などである。言語は、フランス語が公用語だが、エウェ語やカビエ語などが主要言語。宗教は、伝統的宗教が51%、キリスト教が29%、イスラム教が20%である。

④ 経済・・・インターネットから

   農業が国内総生産 (GDP) の約39%、労働人口の約64%を占める農業国。世界最貧国の1つ。外国からの援助に依存しているが、欧州連合 (EU) は1998年6月のニャシンベ・エヤデマ大統領当選を認めず、7月から協力停止を発表した。

   主要産業:農業(いも類、綿花)、鉱業(リン鉱石)。通貨:CFAフラン。国民総所得:13億米ドル(1人当たり290米ドル、2000年)。

   トーゴの鉱物資源はリン鉱石である。1969年時点には14万3000トンだったが、1991年には296万5000トンまで採掘量が増加し、世界シェア10位に達した。しかしながら、資源の枯渇も早く、2003年時点には53万トンまで減少している。未開発の資源として鉄鉱石が確認されている。鉄を40%含むため、最高品位ではないものの採算が取れるとされている。推定埋蔵量は9500万トン。

⑤ ビール

   最初の旧宗主国は西アフリカでは珍しくドイツ。現在では、多くの都市で生ビールが飲めるが、10数年前までは西アフリカではここトーゴでしか生ビールが飲めなかったそうだ。ドイツの影響か?

⑥ 沿線   

   ベナンのアボメーからトーゴの首都ロメまでの沿線には時々ナツメヤシの広大な栽培地を目にしただけ。残りは潅木の間に大きな木がまばらに生えているだけの原生林(サバンナ?)が続く。未舗装道路で交通量も少ないのに、路面に草が全く生えていないのが不思議。

   国境を越え首都ロメに近づくと、100坪大に小さく区切られた野菜畑が続いた。野菜畑で働いている人が意外に多い。井戸のポンプに直結したホースの先端に如雨露(ジョウロ・ポルトガル語のjorroから)を取り付け、あちこちで勢い良く水を撒いていた。緑色の葉菜中心。

⑦ ロメ 

   ロメの中心街では広大な敷地を確保し、公園のように樹木や芝生を植え、その中に30階はありそうな高層建築が点在。小国といえども流石は首都。効率優先で緑地の少ない我が丸の内や西新宿の超高層ビル街は、何と殺風景なことか。

   一歩ビル街から離れるとすれ違うのも困難なほどの雑踏。道の両側は掘っ立て小屋が隙間無く続く商店街。その一角に赤く塗られた赤レンガ造りの、小さいのに名前だけは大聖堂と呼ぶ教会があった。ミラノの総大理石造りの大聖堂には比肩すべくもない。みすぼらしい資材に胸が痛む。ミサの最中だった。

   ホテルの庭は綺麗な庭園。このホテルのシンボルなのか、玄関の真正面に扇子を広げたような珍しい木が植えられていた。



   ホテルの前は遠浅の海岸。広い綺麗な砂浜が何処までも続く。大勢の人が夕涼みを兼ねて砂浜のあちこちに散在。海水浴客は殆どいなかった。風も吹かず波が穏やかな大西洋を暫く眺めた。岩場が無いためか海草も少なく磯の香りがしない。
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ガーナ



① 国旗の色

   独立に当たって、エチオピアの国旗に由来する汎アフリカ色を初めて使用した。中央の黒い星はアフリカの自由を導く道標(みちしるべ)の星。私には星の黒い色は復権した黒人のプライドの象徴に思えてならない。

   ガーナはサハラ沙漠以南の旧植民地の中で、独立を最初に勝ち取った国としても有名。

② 地理

   面積23.8万平方Km。人口2,300万人。

③ 国民・・・インターネットから

   民族 アカン族が44%、モシ・ダゴンバ族が16%、エウェ族が13%、ガ族が8%、グルマ族が3%、ヨルバ族が 1%、ヨーロッパ人などその他が1.5%となっている。(1998年時点)

   言語 英語が公用語で、学校教育における教授言語は小学校一年生から英語である。その他にアカン語、モシ・ダゴンバ語、エウェ語、ガー語などが使われる。

   宗教 キリスト教が63%、現地固有の宗教が21%、イスラム教が16%となっている。

④ 経済・・・インターネットから

   経済は農業・鉱業等などの一次産業に依存し、特にカカオは世界有数の産出量を誇る。独立直後から債務超過に悩んでいたが、1983年以降、構造調整を実施して経済の再建に取り組んだ結果、1980年代後半から平均5%のGDP成長率を達成しアフリカにおける構造調整の優等生として評価されてきた。

   しかし近年は金やカカオの国際価格の低迷、主要輸入品である原油価格の高騰などにより経済は低迷。2001年3月、拡大HIPC(重債務貧困国)イニシアティブ適用による債務救済申請を行う政策転換を行い、経済再建へ向けた努力を行っている。その結果、マクロ経済状況は改善、安定してきている。

⑤ ヴォルタ湖

   世界最大の面積(8,482平方Km)を誇る人造湖がガーナにあったとは知らなかった。天然湖ランキング23位のチチカカ湖(8,372平方Km)よりも広い。

   人造湖の大きさの指標には湛水面積とか貯水量とか周長とかいろいろあるが、分かりやすいのは湛水面積だ。ヴォルタ湖の貯水量143立方Kmを超える天然湖は26個しかない。因みに我が愛しの琵琶湖は670平方Km、27.5立方Km。そのミニチュア振りが可愛い。

   とは言え上には上があるものだ。貯水量のランキングでは、ジンバブエのカニバ(180立方Km)、ロシアのブラーツク(169立方Km)、エジプトのナセル(162立方Km)がある。有名ではあっても意外に貯水量が少ないのは三峡ダム(39.3立方Km)、イグアスにあるヤシレタ(21立方Km)。

   残念ながら、ヴォルタ湖の見学は移動中の道路からは離れすぎていて予定されていなかった。がっくり。

[5] 1月19日・・・(トーゴ⇒ガーナ)

① トーゴからガーナへ

   トーゴのロメを出発しガーナの首都アクラへと順調に移動した。翌日からはガーナのあちこちの会場でサッカーのアフリカ大会(2ヶ月間も続くとか)が始まるため、市内には大勢の関係者が集結。自家用車の殆どがフロントミラーなどに小さな国旗を取り付けて景気を添えていた。

   国旗を取り付けていない車が信号で停車すると、国旗売りが殺到して無理やり買わされるようだ。正月にラジエータに注連(しめ)飾りを取り付けて新年を祝う日本の習慣など(自家用車を持つことが当たり前になった平成時代になると、この習慣は急に衰退した)、ガーナの徹底振りには及びも付かない。

   アフリカ大会の各国での人気ぶりは夏の高校野球以上だ。各国の街頭テレビでの放映には大人も子供も固唾を飲んで観戦。丁度50年前の昭和33年秋の日本シリーズで西鉄ライオンズが巨人に3連敗後4連勝して優勝した頃の街頭テレビの人だかりも顔負けだ。

   私は野球には今も昔も全く関心が無いが、当時九大一年生の時、熱心な西鉄ファンが教授と交渉しとうとう休講を勝ち取った。私は暇つぶしを兼ねて級友の後に付いて行き、校門前の広場に設置されていた街頭テレビで優勝決定の中継を見た。

   読者よ、誤解なさらないで下さい。テレビの普及率こそ50年前の日本と今日のガーナを初めとした西アフリカ各国とは似てはいるものの、実質的な生活水準には大差がある。テレビの実質的な価格は当時の1/10以下になっているからだ。

② ロメの都心観光

   アフリカの首都の中心部は何れも立派だ。緑溢れる公園と混在する高層建築。中心部にはガーナの初代大統領を顕彰したエンクルマ記念公園があった。博物館も併設され氏の大きな銅像が一際目立った。

③ 野口英世

   ガーナで最も有名な日本人は立志伝にも輝き千円札でも顕彰されている野口英世。丁度80年前(1928年)に亡くなっているにも拘らず、ガーナでは今尚大いに尊敬されている。当時の研究室も温存され、壁には『忍耐 大正4年10月 英世』と達筆で大きく揮毫された書や若々しい上半身の肖像写真が飾られていた。

   ノグチ・メモリアル・ガーデンの一角には胸像も建てられていた。

   

④ 黄金海岸

   漁村での散歩に出かけた。かつての黄金海岸の一部だ。そこでスラムのように密集した小さな住宅群に出会い、究極の貧しさを目にすると感想の言葉も出ない。日本のホームレスは遙かに豊かだ。

   海岸には小さな漁船が引き上げられ、その傍らでは親子総動員で網の修理と整理をしていた。メダカのような小さな魚も取れるような網だ。これではあらゆる魚が乱獲されてしまう。

   通路に面した一角では女性が魚の仕分けや内蔵の撤去作業をしていたが、長さ10cmにも満たない小魚ばかり。もっと大きくなるまで待てないほど漁師が多すぎるのだ。

[6] 1月20日・・・(ガーナ)   

① 餅つき

   ホテルからビシアセ神殿に向う途中、街頭で餅つき現場を発見。その後もあちこちで餅つきを発見。材料が何なのか聞き忘れた。あちこちでしばしば見かけたタロイモではないか、と推定している。

   臼は木製。杵は丸い太い木の棒を上から突き落とす方法だった。月世界でのウサギの餅つきの空想画にソックリだ。

② ビシアセ神殿(世界文化遺産・・1980年)

   アシャンテ族の伝統建築だそうだ。分厚い土壁の上に合掌形式の草葺の屋根が葺かれているシンプルな建築物が数棟、狭い敷地に建ち並んでいた。屋根の頂点までの高さは7m程度、一棟の面積は10坪程度の長方形の一間。



   こんなものがどうして世界遺産に登録出来たのだろうかと不思議だが、伊勢神宮だって木製の構造体に茅葺の屋根を載せただけのシンプルな構造。五十歩百歩か。建物の見た目の豪華さや資材価値よりも、その神殿と先住民の信仰のかかわり方に意味があるようだ。

③ アシャンテ博物館

   クマ市に残るマニア宮殿を改装した小さな博物館。何が展示されていたのか全く思い出せない。庭には大木。その木陰のテーブルを挟んだ長椅子に男達が10人くらい。向き合った二人が闘う将棋に似たゲームを楽しんでいた。

   外野席からもいろいろ発言していたが、いずこも同じ野次馬根性。

④ カルチャーセンター

   小奇麗な民芸品等の売店が揃っていた。興味深いものもあり買おうかとも思ったが、結局止めた。日本に持ち帰った頃には関心が無くなり、何故買ったのだろうかと後悔する体験が過去何回もあったからだ。

   ガーナはカカオの世界的な産地。ガーナ産のチョコレートを発見。試食したらまずまずの味。世界的に有名なベルギーのゴディバと異なり堅かった。アフリカの高温を考慮して融点を意図的に高くしているのではないか。堅いから美味しくないと断言しているガイドブックもあるが、一面的(偏微分的)な見方しか出来ない偏見者と断定せざるを得ない。

   一角には野外劇場があり、揃いの衣装を着た数十人の男女が合唱を披露していた。シャツは共通の模様、女性はスカート、男性はズボン姿。子供や学生の制服姿にはしばしば出会ったが、大人が趣味で揃いの衣装を着ていたのには初めての出会い。珍しかっただけではなく、アフリカ人のリズム感の良さに引き込まれて暫し聞き惚れた。

⑤ 露天市

   移動途中で賑やかな露天市に遭遇し、暫し暇つぶし。日用雑貨・衣類・果物・野菜・魚肉などの売り場が幹線道路横の500坪程度の狭い場所に密集。屋根は殆ど無く、地面に布か茣蓙(ござ)を広げ商品を並べている。不潔・ゴミだらけ。でも、価格は安い。生鮮品は日本の1/10か?

   魚の売り方では何処の市場にも共通点があった。干物・塩物・揚げ物・燻製が殆ど。生物(なまもの)は殆ど見かけず。目の前で揚げながらの販売も多かった。

[7] 1月21日・・・(ガーナ)

① ケープ・コースト(世界遺産)

   海岸に作られたケーブ・コーストの要塞。1650年代にスウェーデンが建設。デンマーク・オランダを経て1664年にイギリスが獲得したそうだ。

   植民地支配の牙城。事務所・商談場所・住居を兼ねた壁も分厚い石造りの巨大な建物。建物の構造計算法が開発される前に建てられたエジプトやギリシア・ローマ時代から近世までの建物は大変強固だ。建物の強度や耐久性に対する人間の直観力には大変素晴らしいものがある。

   構造計算では均質な構成材料を前提としているだけではない。経年劣化による物性の変化は考慮していない。部材の結合部の接合効率には曖昧さが残ったままだ。構造計算の成果として材料の使用量が削減され、コストダウンに一見成功しているように見せかけているだけだ。

   私には構造計算は単なる気休めに思えてならない。構造計算で強度が保証されたはずの近代建築が風雨や地震で崩壊を繰り返すだけではなく、耐震設計法の変更もしばしば。構造計算法の究極は偽装設計。最近の建物の特徴は構造計算の名の下に強度や耐久性不足が隠されている点にある。日本の住宅寿命が30年といわれ国際的な恥にもなっている原因の一つでもある。強度計算の最適対象と思われていた鉄塔や風力発電塔が、強風でしばしば倒壊しているが笑止千万だ。

   ここの要塞は、後年アフリカの奴隷の収容所にもなった。牢屋のような狭い部屋に詰め込まれた奴隷は船が入港するまで待たされた。

   一説によれば、白人の子供を産んだ女奴隷は解放されるとの方針が発布された結果、女奴隷は女不足の欧州男に積極的に協力したとか。

② エルミナ城

   西アフリカへ最初に着いたポルトガル人が1482年に『聖ジョルジ鉱山』と呼んだ貿易の拠点。その後ケーブ・コースト同様、出航前の奴隷収容所として使われていたが、今では博物館となって保存されている。

   錆び付いた無数の大砲が海に向って並んでいた残骸から、かつての兵(つわもの)どもが夢の跡を連想。金亡者達の余生はどのようなものだったのだろうか。



② 海岸マーケット

   中央アジアや中東のバザールは程ほどに品質の良いものもあり、見ていて楽しいが、西アフリカのマーケットは日本のゴミ捨て場以下の商品も売られていることを知り、心が痛むばかりで、マーケット散策の楽しみが激減した。
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コートジボワール



① 国旗の色

   旧宗主国フランスの影響を受けて、三本の筋が国の標語「団結・規律・労働」に対応している。オレンジは北部サバンナを緑は南部処女林を白は両地域の統一を意味する。

   尚、国名は『象牙海岸』の意。

② 地理

   面積32.2万平方Km。人口1,850万人。首都は内陸部にある人口僅か10.7万人のヤムスクロだが、実質的な首都は人口288万人のアビジャン。

⑥ 国民・・・インターネットから

   言語:フランス語が公用語。他にジュラ語、バウレ語、セヌフォ語、ベテ語、ヤクバ語などの各部族語も使用。

   民族:バウレ族などのアカン系、エブリエ族などの潟湖系、ベテ族などのクル系、ダン族などの南東マンデ系、マリンケ族(ジュラ族)などのマンデ系、セヌフォ族などのボルタイック系の6大グループがあり、国内には63もの部族が住んでいる。

   宗教:アニミズムなど伝統宗教25~40%。イスラーム(北部中心)35~40%、キリスト教(南部中心)20~30%。

④ 経済・・・インターネットから

   独立後経済は順調に推移し、「西アフリカの優等生」といわれ、比較的高い経済水準を維持。1人当たり国民総所得も他のアフリカ諸国と比べて高い。主要産業はカカオ(世界一の輸出国)、コーヒー、イモ類、天然ゴムの生産を中心とする農業。

   他に鉱業(石油、ダイヤモンド)、林業、工業(食品加工、石油製品)も盛ん。カカオ、石油製品、材木の輸出が好調なことにより貿易は毎年約10億ドルの黒字を記録しているが、膨大な対外債務を抱え財政を圧迫。

[8] 1月22日・・・(コートジボワール)

① ガーナ⇒コートジボワール

   つつがなく出入国を済ませ、アビジャンに到着。

② 都心

   アフリカとはとても思えない豪華な建物にびっくり。でも、良く見ると建物の窓にエアコンの室外機がちらほら。全館冷房ではないのだ。



③ 国立博物館

   国立とは名ばかり。特記するような展示物を思い出せない。

④ カテドラル

   イタリア人建築家が設計した奇抜で巨大なモニュメントのような鉄筋コンクリートの教会が市の中心部にそそり立っていた。

   故丹下健三氏が東京オリンピック用に設計した水泳競技場のように、吊り橋のようなロープを張った釣り天井構造だ。無柱の内部には数千人が座れるだけの椅子が並んでいた。

[9] 1月23日・・・(移動日)

① 朝の散歩

   早朝にゴミ収集車を発見。中型4軸8輪車の荷台に箱を載せ、ゴミは圧縮して箱に収容するタイプだった。揃いの制服を着た若い作業員5人が車の後から歩きながら付いてくる。てきぱきと道端のゴミ袋を車に投げ込む仕事ぶりは日本人と変わらない。

   市内にある生鮮三品のマーケットを見学。吹き曝しのトタン屋根の下で1m程度の高さの粗末な台の上に商品を並べて販売。野菜や果物は形や色を揃えて売るという日本人の習慣とは異次元の世界。しかし、こちらの売り方が世界の標準。日本人が異常な売り方をする結果、食料品の価格が世界一になるのは当たり前。

② 洗濯場

   川の流れに沿って指定された一部のみ(200m位)が洗濯場として許可されている。水面が見える幅10m位・水深50cm程度の場所に密集した300人もの作業員が水浸しになりながら洗濯。午前・午後の二部制。総計600人が働いているそうだ。

   洗濯請負人は各家庭を廻って洗濯物を集め、洗濯後に配達までするそうだ。完全な出来高制なので、一心不乱に働いている。洗濯板と石鹸を使って洗った後、流水で濯(すす)いだ後、川原の草の上で乾していた。

   アフリカ人は怠惰だ、というのは本質的な間違いだと嫌でも分かる。管理者の働かせ方が悪いのだ。

③ コートジボワール⇒ブルキナファソ

   イボワール航空(象牙航空の意)でアビジャンからブルキナファソの首都ワガドゥグへ。空港での久しぶりの出入国だった。

   ワガドゥグに近づくと上空から砂塵が舞う中に住宅街が現れた。自然発生的に誕生した集落と異なり、平坦な砂漠の中に格子状に直線道路を走らせた碁盤目状の住宅街が広がる。敷地内にはいずれも緑の樹木。水の確保はどうしているのだろうか。

[10] 1月24日・・・(ブルキナファソ)
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ルキナファソ



① 国旗の色

   オートボルタとして独立したが、1983年に革命が起き国名を変更すると同時に国旗も一新。赤は革命の闘争を、緑は希望と豊かさを、黄色の星は鉱物資源を表している。

   尚、ブルキナファソとは『清廉潔白な人の国』の意。

② 地理

   面積は27.4万平方Km。人口は1,360万人。

③ 国民・・・インターネットから

   住民は、モシ族が約50%で、10%のプル族が続く。その他グルマンチェ族、グルンシ族、ボボ族、ロビ族などが暮らす。

   言語は、公用語がフランス語である。90%の国民がモシ語などスーダン系の言語を話している。

   宗教は、現地固有の宗教が60%以上、イスラム教が30%、キリスト教(主にローマ・カトリック)が10%である。

④ 経済・・・インターネットから

   農業国であり、全世界の生産量では粟(あわ)がニジェール、マリに次ぐ6位、トウモロコシが10位を占める(2002年)。14世紀ごろ豊富だった金鉱の採掘は、現代でも続いており、年産約1トンである。

⑤ 楽器博物館

   アフリカ人のリズム感の素晴らしさには以前から一目置いていたが、彼らの発明した種々の楽器の素晴らしさには驚嘆した。楽器博物館の楽器を見ると、声楽と器楽には密接な関係があると認めざるを得なかった。

   それらの中に、アイディアも素晴らしい木琴があった。木琴の下部にはひょうたんのような球形の共鳴器が取り付けてあった。これにより音が極端に大きく響いた。



   楽器博物館には舞台に各種楽器を並べた実演室があった。専門の演奏家が次から次に楽器を演奏した。私には初めて見る楽器が殆どだ。総ては所謂手作り。夫々の調律も十分。初めて聞く音なのに心が癒される。西洋音楽やアラブの旋律とも音階とも別の世界だ。

   客席の前に小さな籠が置いてあった。感動した私はチップという感覚ではなく、視聴代のつもりで5ドル入れた。その後、何人かが続いて献金した。今回の同行者は旅の達人と一目置いてはいたが、過半数は僅かのチップすら出そうともしなかった。日本人と欧米人とのチップへの感覚にある隔絶する格差が、何時ものことながら看取され寂しい。

⑥ クラフトセンター

   陶芸品・彫刻品・鋳鍛品・織物・織物に画いた絵などの大きな実演展示販売所だった。その一つ一つの造形美や色彩感覚の見事さには驚嘆。

   立体形状の商品は持ち帰るのが大変なので見送り。アフリカ人の素晴らしい素質に敬意を表したくて、織物に描かれた絵を買った。畳めばタオル一枚分だ。我が家の食堂で毎日眺めている。

⑦ ナイトクラブ探訪

   希望者だけタクシーに分乗して夜、都心のナイトクラブ探訪に出掛けた。言葉だけで実態を連想するのは誤解の元だ。ブルキナファソのナイトクラブとは屋外のオープンカフェの別称だった。

   テーブルに座り生ビールを飲み飲みのおしゃべり会で終わった。でも、この種の機会でも無いと、同行者との交友は深まり難い。昼食と夕食とは一緒に摂るものの、食べながらおしゃべりをするのは意外に難しいからだ。

[11] 1月25日・・・(ブルキナファソ⇒マリ)

① 沿線風景

   早朝のワガドゥグでは自転車の洪水。内陸部は沿岸の大都市に比べると一層貧しさが丸見えだ。時たま、4本の棒杭を立て筵(むしろ)を張って日よけとし、その下にほんの僅かの商品を並べた店も発見。

   郊外に来ると人通りも無くなり、幹線道路の周囲の住宅が一変した。殆どは日干し煉瓦造り。蟻塚の人間版だ。数坪大の長方形。壁面の高さは僅か2m強。屋根の形は水平・三角(合掌)・円錐など思い思い。屋根材はトタンや茅葺など様々。孤立した家は少なく、大抵は数十戸が肩を寄せ合った集落になっている。集落の中央に共同使用の井戸があるのではないかと推定した。電気が引かれている形跡は無い。

   サバンナのような原野には、放牧されたままの痩せこけた牛・羊・山羊などが現れる。穀物肥育とか家畜小屋などとは全く無縁。

   つつがなく、ブリキナファソからマリへと入国。
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マリ



① 国旗の色

   旧宗主国だったフランス国旗をモデルにし、汎アフリカ色を取り入れた。緑は自然と農業を、黄色は金に代表される鉱物資源を、赤は独立のために流された血を表す。

② 地理

   面積124万平方Km。人口1430万人。

③ 国民・・・インターネットから

   マンデ系 (Mande、バンバラ族 (Bambara)、マリンケ族 (Malinke)、ソニンケ族 (Soninke)) 50% プル族 17%ボルタ族 12%ソンガイ族 6% トゥアレグ族・ムーア族 10%その他(ドゴン族など) 5%

   イスラム教が90%、伝統的宗教が9%、キリスト教が1%。

④ 経済・・・インターネットから

   リン鉱石、金、ウランなどの鉱物資源が豊富。中でも、ウランは日本が独占契約を結んでいる。

   農業は、綿花とピーナツ(ラッカセイ)。

⑤ コロ村

   泥で作られた待望のモスクを発見。世界遺産に登録されているジェンネのモスクが有名だが、同じ構造のモスクはマリの各地で作られていたのだ。

   将来の補修工事に備えて壁面には長さ1mくらいの足場となる木製の棒が建設時から突き刺してある。雨期に流された壁土の上には、乾期に粘土が塗られて補修される。そのとき必要になる足場の棒が上下左右にわたり1.5m間隔位に格子状に配置されている。

   今やマリではこの足場は建物に必須な一種のデザインとしても使われている。鉄筋コンクリート製の豪邸にすら、この足場が取り付けられているのだ。この種のモスクを何回も見ていたら、足場の無い民家に出会うと、何故つけていないのだろうと不思議に思えてきた。いわんや土地の人においておやと推定。

   モスクの周辺は人が集まる場所。加工食品や日用雑貨など工業製品もあり、今やこんな僻地でも現金なしには生き難い社会になっていた。その影響は観光客目当ての押し売り行商の真剣さに現れて来る。

⑥ バンカス村

   昼食を摂ったレストランの庭にはユニークな木彫りの作品が展示されていた。2枚の大きな分厚い板に6段、その一段に6体、合計36体の男女の正面を向いた裸像だった。体の中央に大きな出臍が飛び出た彫刻だ。

   これと類似の彫刻は博物館を初めあちこちで出会った。 

⑦ バンディアガラの断崖(世界遺産)

   世界中何処にでもありそうな断崖に過ぎないのに、何故世界遺産に登録されたのか疑問を感じてインターネットで調べたら、それなりの理由を発見。

   バンディアガラの断崖は、マリ共和国のドゴン族居住地域となっている断崖。その壮観な自然環境と、マルセル・グリオールの紹介によって広く知られるようになったドゴン族の文化が保持されている地域であることから、ユネスコの世界遺産に登録されている。

   この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。

   『特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている、ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落または土地利用の際立った例。ひときわすぐれた自然美及び美的な重要性をもつ最高の自然現象または地域を含むもの』
   


  私には世界遺産としての関心は湧かなかったが、断崖の上から眺めたアフリカの大平原の雄大さには心を奪われた。海岸の高い絶壁(石廊崎とか喜望峰のケープポイントとか)に立つと遙かかなたに丸くカーブしている水平線が眺められるが、此処では海面の代わりに大平原が、その先に大陸ならではの地平線が見られたのだ。

   中央アジアの大平原では周囲と同じ高さから眺めただけなので、この感覚には遂に出会えなかった。

⑧ ジキボンボ村

   21世紀になっても、大昔の生活が維持されている究極の貧しさに出会うと、我が幸せを言葉で表すことが憚られてならない。



[12] 1月26日・・・(マリ)

① モプティ

   早朝添乗員に連れられて、モプティで宿泊したホテルの周りを散歩していたら、駱駝のように背中に大きな瘤が一つある牛を発見。瘤牛を見たのは初体験だった。瘤は駱駝の専売特許では無かったのだ。

② トンブクトゥ(1988年、世界遺産登録)

   モブティから国内線でトンブクトゥへ出かけて一泊し、同じ国内線でモブティへ戻るマリ国内の小旅行だった。

   ホテルからは四輪駆動車に分乗して市内観光。この数十年で沙漠化がどんどん進行しているらしい。その結果1990年には『危機にさらされている世界遺産リスト』に付け加えられたそうだ。金と奴隷の取引で16世紀初頭にはアフリカ最大の文化都市だったそうだが、今は見る影も無く寂れ果てていた。

   マリ名物の泥で作られたモスクが点在し、道路に座り込んで子供達がアラビア語で書かれたコーランを熱心に勉強中だった。生鮮3品の市場や日常雑貨の商店にも出かけたが、見慣れてきたのか驚きも徐々に減少。 

③ トゥアレグ族の沙漠の中の村

   一人ずつ駱駝に乗って片道2Kmくらいの道のりを移動し、サハラ沙漠の中の集落訪問。駱駝に乗ったのはパキスタン・エジプトについで三回目だった。駱駝の足はパンタグラフのように折畳まれ、急激に上下するので振り落とされないように座席の前の把手を必死で掴む。



   旅の疲れか、飲食に起因するのか原因不明のまま前日から軽い下痢を起こしていた。低い砂丘を何度も越えながら、駱駝に30分間も揺られていると消化器の蠕動運動が促進されたのか、強い便意が発生。遂に我慢しきれなくなり、紙を不用意にも持参していない旨同行者に白状したら、巻紙トイレットペーパーを旅の達人(独身女性)が『どうぞお使い下さい』と提供してくれた。

   沙漠とは言えところどころに潅木が生えていた。50mくらい移動して潅木に隠れた。最大の関心事は便の性状だった。軟便だったが食物が完全に消化され且つ異臭も無い便だったので一安心。手は砂で洗浄。

   沙漠の中にトゥアレグ族のテントが思い思いの場所に点在。一軒で2張り。一つは煙害対策なのか台所専用。中央アジアで見たパオに比べると遙かに質素。寒さ対策の違いだけではなさそうだ。家財道具が殆ど無い。しかし、共用の立派な石造りの井戸があった。

   『沙漠での生活は不便ではないか』と駱駝引きに質問すると、待ってました、とばかりに『こんな快適な生活環境はどこにも無い。空気は綺麗だし夜空は美しい。深井戸の水は冷たくて美味しい。都会では得られない静寂の世界くらい心が癒される素晴らしい場所は無い』とまくし立てた。住めば都とは蓋(けだ)し名言。

[13] 1月27日・・・(マリ)

① 移動

   早朝、空路で再びモブティへ戻った。四輪駆動車に分乗し、日本では消滅してしまったガタゴト道でサンガへと移動。人の住居とも思えないような土作りの小さな家々を見つつ移動していたら玉葱畑に出会った。

   添乗員の善意から臨時に写真ストップ。日本と当地の玉葱の違いをじっくりと観察。既にトピックスで紹介したように疑問も解けて、心も晴れ晴れ。

② サンガ

   究極の貧困の中で逞しく生き延びているドゴン族の集落を散策。小さな日干し煉瓦の家や断崖に掘られた横穴住居。唯雨露を凌ぐだけの役割の住居が続く。

   通路の両側には観光客相手の手作り民芸品の露天商が犇(ひしめ)く。この一帯には何故かバオバブの木が多い。家とバオバブの組み合わせには奇怪な印象を受ける。

   集落の中央広場で、予約していたドゴン族の観光客に見せる仮面踊りが始まった。元気な若者達23名が歩いたり踊ったり。仲間の一部は2m近い竹馬に乗って飛び跳ねながら踊る。竹馬から足が外れないように紐で縛り付けてあった。

   踊りにリズムを与えるのは楽器を演奏する黒いマントを着た十数人の中高年や老人達。



   モブティの中心街には足場付き泥造りのモスクがあちこちにあった。修復直後なのか壁面は滑らかで光沢もあり美しい。

   夕方、巨大な青空マーケットを見学。5*35*35cmくらいの板状に切り出された持ち運びも便利な岩塩とか、ひょうたんの殻で作られた生活用品、焚き木などのほか、何処のマーケットでも見かける各種食料や加工食品、衣類等の露天商が鈴なり。

[14] 1月28日・・・(マリ)

   ニジェール川の支流へと向った。途中のデルタ地帯では湿田のような直播(じかまき)の米作地帯が広がる。ニジェール川(支流)を小さなフェリーが往復する。フェリー待ち相手の商売が盛んだ。門前町さながらだ。

   ドゴン族のユニークな民族帽子を発見。待ち時間を生かして40ドルの言い値に対して10ドルまでの値下げ交渉をしたが遂に決裂。已む無く1ドル加算して購入。帰国後はゴルフ帽として愛用中。フェリーの乗船順番を待ちきれず、細長い丸木舟のようなボートで横断。

① ジェンネのモスク

   数年前からNHKを初め各テレビ局が世界遺産を競って紹介するようになった。ジェンネの泥で築かれた世界最大のモスクは今や日本でも大変有名になった。今回の旅の目玉でもある。

   モスク前の広場では月曜市が開催されていた。月曜市は足の踏み場も無いほどの混雑。観光客ではなく地域住民が相手の商売のようだ。

   西アフリカでは何処のモスクでも入り口に管理人が仁王立ち。残念ながら中に入ることも屋上に上がることもできなかった。一辺が100mくらいの正方形、高さは20m以上もありそうだ。モスクを取り巻く道からでは近すぎて写真が撮りにくい。周辺の民家が屋上を有料で開放し撮影場所を提供。旅行社が手配していた民家の屋上からは、モスクと月曜市が同時に撮れた。



   モスクの周りを一周していたら、客引きに呼び止められた。我が家の屋上からだと月曜市に遮(さえぎ)られることも無く、モスクの正面を至近距離から写せると熱弁。迷路のような階段を昇って屋上へ。言葉に嘘はなかったが、後から請求された2ユーロは些か高すぎた。事前交渉を忘れていた。

   再びニジェール川の支流に到着。哀れにもフェリーから乗用車が川に滑り落ちていた。牽引車と人力でいとも簡単に車を引き上げたが、手馴れた様子から事故多発地帯ではないかと推定。客が多すぎ乗せすぎるのが原因か?

   移動途中に素晴らしいバオバブの群生地に出会った。添乗員に頼んで写真ストップ時間を確保。地上2mまでの木の皮は痛々しくも剥ぎ取られていた。しかし、皮は再生するから心配は無いそうだ。



[15] 1月29日・・・(マリ⇒セネガル)

① ニジェール川を見た!

   ニジェール川の川岸に到着。流石アフリカ第三位の大河。内陸部のこの地点でも川幅が2Kmは優にあり、岸から岸まで満々と水を湛えて流れていく。干からびた乾期の大地からは夢想も出来ない水量だ。岸辺には小さな野菜畑が点在し、バケツで川から水を運んでは如雨露で細々と散水。気の遠くなるような作業を青年が黙々と実施。

② セコロ村

   川岸近くのセコロ村の村長宅を表敬訪問。究極の貧困集落でも村長宅は別格。屋敷内には立派な井戸があった。家よりも井戸が貴重な世界だ。老いてはいても村長には威厳が漂う。酋長と言う呼称の方がベターと思った。

   村長宅の庭には馬が一頭。こちらでは馬は杭に手綱で繋ぎ留める習慣はなく、前足2本を紐で繋ぎその紐を杭にくくりつけている。馬は慣れているのか静かに立ったまま。場合によっては後足2本も紐でくくり杭に繋いでいる。



   近くには立派な土作りのモスクがあり、境内には縄文杉のように立派な樹木がそそり立つ。都市部のモスクは境内が狭いためか樹木を見かけることは少ないが、立地条件にゆとりがある農村部のモスクは別格だ。

   モスクの周辺では何処でも大勢の子供達が遊んでいた。我が家の近辺では散歩している高齢者は多いものの子供は殆ど見かけなくなった。大勢の子供達に出会うと何故か心が安らいでくる。こちらの方が自然な人間社会に思えてならない。

③ バマコ(首都)

   国立博物館に出かけた。目を引くような斬新なデザインの建物こそ印象深かったが展示物には失望。庭には典型的な引越し風景を演出したモニュメントがあった。四輪小型商用車の室内に家財道具と家族、屋根には堆(うずたか)く絨毯や衣類を搭載。


   
   セネガル人が家財道具を如何に沢山持っているのかの展示をしているのだろうか。私にはゴミの運搬車にしか見えなかったが・・・。日本人の平均家庭が保有する家財道具は食器や衣類まで一点ずつ数えると1万点以上あるそうだが、どんなに工夫しても小型車一台には積めそうにもない。

   町を一望できる丘へ上った。丘の上には大学があり展望台の位置を『大学の丘』と呼称。遠くから見下ろす町には緑の樹木、貫流する川、白く輝く建物が点在。夜目・遠目・傘の中の譬え通り、視力の落ちた老眼には女性でなくても何でも美しく見える。

   夜、最終目的地のセネガルの首都ダカールへと飛行機で移動。
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セネガル



① 国旗の色

   汎アフリカ色を使用。緑は農業と希望を、黄色は富を、赤は独立のために流された血の色と苦難と努力を、中央の星は自由統一のシンボルです。

② 地理

   面積は19.7万平方Km。人口は1,220万人。

   セネガルの中に、海岸線を持ち内陸部へと鰐口のように細長く食い込んだ地形をしたガンビア共和国がある。面積は僅かに11,300平方Km、人口160万人のミニ国家だ。ガンビアはクウェートやブルネイのような資源を持つミニ国家とは異なり最貧国の一つだ。アフリカの政治問題の縮図の一つだ。

③ 国民(インターネットから)

   民族 ウォロフ族43%、セレール族15%、プル族14%、トゥクロール族10%、ジョラ族4%、マンディンカ族3%、ソニンケ族1%、ヨーロッパ人及びレバノン人1%、その他。

   言語 フランス語が公用語で公文書、公教育の場で使われる。 現地語として、ウォロフ語、セレール語、プル語、ジョラ語など各民族言語がある。

   宗教 イスラム教が多数。アニミズムなど伝統宗教6%。キリスト教2%

④ 経済(インターネットから)

   農業(ピーナッツ、トウジンビエ、綿花、米)、漁業(マグロ、タコ、イカ、かつお、えび)、鉱業(リン鉱石)、工業が主要産業。他の西アフリカ諸国と比べると工業も発達。 貿易赤字や累積対外債務に苦しむが、国際通貨基金(IMF)と世界銀行が8億ドルの対セネガル債権の免除を発表。

   西アフリカ諸国中央銀行(BCEAO)の本部がダカールにおかれる。

⑤ ダカール・ラリー(インターネットから)

   1979年から始まり毎年行われていて、例年1月1日(近年は前年の12月末)にフランスの首都・パリからスタートし、スペインのバルセロナからアフリカ大陸に渡り、セネガルの首都・ダカールまでのおよそ12,000kmを走る。1981年より国際自動車連盟(FIA)と国際モーターサイクリズム連盟(FIM)の公認レースとなっている。世界を代表するラリーレイドの大会のひとつである。

   世界一過酷な自動車レースとして知られるダカール・ラリーの主催者は2008年1月4日、治安上の問題があるとして、1月5日に始まる予定だった第30回目に当たる今年の大会を中止すると発表した。

[16] 1月30日・・・(セネガル)

① ゴレ島(1978年、世界文化遺産)・・・インターネットから

   セネガル共和国の首都ダカールの沖合い約3kmに浮かぶ。島は東西300m、南北900mと小さい。セネガルの最古のイスラム教のモスクも残っている。 1814年に統治国だったフランスが廃止するまで、奴隷貿易の拠点として栄えた。かつての奴隷収容所が島内に残っている。

   フェリーに乗ってゴレ島へ出かけた。島内の建物の壁面はアフリカ離れをしたカラフルなポルトガル色。悲しい奴隷収容所などを整備し世界遺産に登録し、観光開発に余念が無い。過去の歴史が重過ぎて息が詰まりそうになる来訪者の目を楽しませるべく、島内のあちこちに花の木が植えられている。

   丘の上へ繋がる坂道の片側にはバオバブの木を植えた異色の並木道でアフリカ色も演出。丘の上には古い砲台も温存。

② ダカール市内観光

   ダカールの古色蒼然とした欧州風の中央駅を見物。欧州の駅と同じように乗客でなくてもホームまで入れる。駅舎内外にゴミが散乱。駅舎正面に取り付けられている大時計は故障したまま。駅前広場の周りには屋台のような商店が並ぶ。首都の顔なのに何故整理整頓清掃をしないのか、全く理解できない世界だ。

   中央駅近くの大型のバザール見物に出かけた。屋根のある店や無い店が混在している。私は何か買いたいものがあればとの探索意欲はとっくに喪失し、ダカールの庶民が集まる巨大バザールにはどんな商品が売られているのか見学に来ただけだ。安かろう、悪かろうの商品をよくもまあ集めたものだ、と感心するばかりだった。

   ダカールでの移動に使ったバス会社の社長宅に突然招かれた。庶民に比べればさすがに大きな家だった。キッチンに大きな冷蔵庫が2台もあったのには驚いた。日本では大型冷蔵庫が2台ある家庭に出会ったことが無い。置き場が無いだけでは無い。不要なのだ。

   我が家では535リットルの大型冷蔵庫と酒の摘み入れの100リットルの冷凍庫があるだけだ。摘みを買うのは私の役割とは言うものの、必要な度に買い出しに出かけるのは面倒。結局、辛子明太子・馬刺し・スモークサーモン・合鴨のスモーク・生ハム・ヒレ肉等の冷凍品を通販で大量に買い込んで保存し、半年かけてちまちまと消費しているだけだ。

   更に驚いたのはこの社長一家は大の親日家。小学生の男の子が日本語で歓迎の挨拶。日本語コンテストで優勝した高校生の男の子とも歓談。居間には日本語の教材が溢れていた。

③ アルマディ(アフリカ大陸最西端)

   アフリカの東西南北の先端岬の一つ、ベルデ岬の先端のアルマディに出かけた。アルマディは岬先端の地名なのに、多くのガイドブックや旅行社が勘違いをしてアルマディ岬と呼称している。今回の旅行社『旅のデザインルーム』も誤解組の一つ。

   アフリカの最南端の岬を喜望峰と誤解している人も多い。本当の最南端は喜望峰の南東200Kmのアガリャス岬だ。でも喜望峰の景観が抜群なので観光でアガリャス岬まで行く人は殆どいないそうだ。私も喜望峰のケープポイントには登ったが、アガリャス岬には行かなかった。
 


   今回の旅の終点はベルデ岬だった。こちらもアガリャス岬同様見栄えのしない岬だ。単なる平坦な海岸に過ぎなかった。その上、私企業であるレストランの私有海岸だそうだ。少しでも岬らしさを演出すべく岩をピラミッド状に積み上げていた。



   岬を独占しているレストランで海鮮料理を食べた。レストランの窓と海岸との間には雑草が全く生えていない素晴らしい芝生を敷き詰めた小さな庭があった。此処ではODAで来ていた日本人が普及させた生牡蠣が名物だそうだが、内蔵の膨らみが乏しく危険を感じて見送った。

蛇足。

   私には現役の頃からこの岬を一度は見たいと思いつつ、当時の週刊社内報『トヨタ新聞』(平成4年8月21日発行)のコラム『しかい』欄に下記の一文を載せた。文末の(I)は石松のイニシャルを表す。我がホームページ⇒随想⇒トヨタ新聞からのコピーである。
   
▼NHKの「信長」を見るたびに視界が広がってくる。ユーラシアの極西から極東まで出張してきたポルトガル人の勇気に驚く。移動時間で換算すれば、当時の地球は太陽に匹敵する大きさ。日本は彼の地から見れば月よりも遠い最果ての地にある。

▼発展途上国民の車所有欲は同じ所得だった頃の日本人よりもはるかに強い。鉄道網も運行密度も薄く生活圏は気の毒なほど狭い。車さえあれば移動距離は徒歩の十倍以上、従って生活空間は百倍以上に広がり、人生の質まで変わる。過疎地では車が東京よりも普及しているのと同じ理由だ。

▼かつて私は2,3の発展途上国に当社が事業進出可能か否かを調査する機会に恵まれた。自動車関連の原材料・部品会社の工場視察を中心に生産技術・部品品質・経営状況を知るのが課題だった。出来るだけ大量の情報を持ち帰るべく、訪問先ではダメモト覚悟でビデオの撮影許可を申し出た。予期に反し各社とも残念ながら当社には、日本ましてやトヨタに隠す価値のある技術はない。ありのままを関係者にお伝えになり、調査目的に役立てて頂ければ望外の喜びであるとの即答を得た。

▼社長自ら熱意を込めて案内された。右肩には大型ビデオカメラをかつぎ、左手にはマイクを握り、現地現物の情報を集めた。どの国でも経営幹部の当社への信頼の厚さ・期待の大きさが目にまぶしかった。当社トップの決断の下、多くの人の努力に支えられ、幾つかの国では工場が今まさに建設中である。

▼私には日本は島国の小国との認識が身にしみ込んでいた。しかし本当は大きい国なのだ。南米南端のブランコ岬からアフリカ西端のベルデ岬に広がる大西洋に、橋がかけられる長さが北方領土から沖縄までにはある。世界には当社はもちろん日本の支援を待つ国が至る所にある。その期待に応えるには日本よりも小国であったポルトガル人ほどの勇気は必要としない。(I)

[17] 1月31日・・・(セネガル⇒ミラノ)

① ミラノへ

   ミラノ到着は9:00、出発は15:15。空港からはミラノの中心街まで電車(マルペンサエキスプレス、大聖堂まで40分)があり、添乗員の提案で希望者だけ都心に出かけた。待ち時間を入れて往復の移動に2時間かけても、2時間の自由時間が確保できる。数人の希望者と共に参加。大聖堂前での集合場所と時刻を確認後解散。

   未だ出かけたことが無かったブレラ美術館へと急いだ。駅から歩いて10分くらいの位置にあった。

② ブレラ美術館(インターネットから)

   ブレラ美術館の建物は、17世紀に建てられたイエズス会の施設であった。これを1772年、当時ロンバルディア王も兼ねていたマリア・テレジアが入手した。ここに1776年(何とアメリカ合衆国が独立した年と同じだ!)、美術アカデミーが設置され、絵画の収集が始まった。

   その後、ナポレオンによって美術館として整備され、1809年、彼の誕生日を記念して開館、一般にも公開されるようになった。1882年には国立美術館として開館した。

   巨大な建物の中に溢れるばかりの展示物。美術品を鑑賞するには絵の背景となる事前勉強が必須だが、勿論不勉強。大急ぎで掛け巡っただけで草臥れた。美術館は苦手と再確認。広場にあるレオナルドダビンチの彫像前で一服後、近くのガレリアに移動。

③ ガレリア・・・インターネットから

   1867年にイタリア統一を記念して造られた商業空間。第二次世界大戦の時に破壊されたが、1955年にもとの姿で完全に復元さた。鉄とガラスで架けられた屋根を持つアーケードは、南北に197m、東西に105mの通路からなり、これらの通路が十字形に交差している。

   交差部には八角形の広場があり、この上部に、直径38mのガラス張りの円蓋(クーポラ)が載っている。クーポラの頂部は高さ49mにも及ぶ。

   ガレリアとヴェネチアのサンマルコ広場は私が大好きなイタリアの観光スポット。重厚な建物群が美しく、都心の建物とは斯くあるべきだとの主張が伝わってくるからだ。時間さえあれば一日中でも過ごしたい場所だ。機能一点張りの日本の高層建築には未だに愛着が湧かない。

   ガレリアと大聖堂とに挟まれた広場は鳩の天国。ガレリアは鳩の糞害対策に悲鳴を上げたのか、入り口には天井から地上数メートルの位置まで網を張っていた。効果覿面。鳩の侵入防止に成功。

④ 大聖堂

   ミラノの大聖堂にもお参りをした。地下の小さな宝物館(有料)にも小さな宝が飾られていた。西欧人は、アレキサンダー大王を初め、石棺は人に誇示するために作っているのだろうか。有名な大聖堂や教会には大抵石棺が保管展示されているが、日本人には全く育たなかった発想のように思える。

[18] 2月1日・・・(ミラノ⇒関空)

   つつがなく関空着。マリの民族帽を被っての通関時に係員が物珍しそうに『何処に行かれたのですか、お一人の旅ですか』と質問。西アフリカへの旅行者は日本全体でも少ない。いわんや関空では・・・。

   荷物は宅配便。身軽になって南海⇒近鉄⇒地下鉄と相互乗り入れの名鉄経由で無事帰宅。帰宅した時には下痢も完全に治癒。でも体重は3Kg減少していた。アフリカ料理を目にすると残念ながら食欲が減退したのだ。
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おわりに

[1] 我が余生に悔いなし
  
   定年退職した還暦時に、元気に過ごせる人生は残り20年だと強く意識していた。その前半の10年間は我が意志とは無関係に光陰のように過ぎ去った。しかもその内の5年間は嫌でも『がん死』を意識しながら過ごさざるを得なかった。

   だが、還暦時に意識し始めた海外旅行の目標『訪問国数>年齢』は、余生の前半に繰り上げ達成でき、積年の趣味であるテニスやゴルフも友人と共に毎年合計約100回満喫でき、3人の子供達夫々から孫にも恵まれ、また、がんも遂に寛解するに至った。総括すれば我が余生に深い満足感を感じることはあっても後悔するほどのことは無く、つつがなくも嬉しかった。

[2] 余生は残り10年になった

   今回の海外旅行は人生の何回目かの節目でもあり、最後の余生10年の出発点にもなった。ひめくりカレンダーを毎日破り捨てるように、余生が少なくなっていくことを悲しむ暇もない。『春の海 ひねもすのたりのたりかな』の心境には程遠い。それどころか日々を満ち足りて過ごすべく、何処からともなく新たな目標が生まれてくるのが嬉しい。

① 海外旅行はエコノミークラス上限の20Kgの鞄を下げて階段を上れる限り続ける。
② 永久幹事を務めているゴルフとテニスは仲間が集まる限り続ける。
③ 家庭菜園は耕運機を買って省力化を計りながらも腕力ある限り続ける。
④ 頭の活性度を維持するためにも財テクを続ける。
⑤ 80歳代の過ごし方は考えない! 考え始めると気が滅入るからだ。

賢人各位は如何お過ごしでしょうか??

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読後感

その1。

旅行記を拝見しました。

巨木の生命力を写真から感じました。実際に巨木を前にした時の感動はすごいものがあったんだろうなと思いました。

そして、西アフリカに出かけていく石松様のパワーに私は感動しました。どうぞお元気でお過ごしください。

その2。

ご返信ありがとうございました。

私は石松様にはお目にかかったことはございません。たまたま石松様のHPに辿り着き、その内容に感動し、失礼かと思いましたがメールを差し上げました。

何をどうして石松様のHPに辿り着いたのかは思い出せません。健康か医療関係を検索していて見つけたのか…思い出せません。私は名古屋での単身赴任生活が間もなく2年になります。石松様のお住まいが近くということも親近感があり、面識も無いのにメールを差し上げました。以上が私と石松様のご縁でございます。

何卒よろしくお願い申し上げます。

① お会いしたこともない方から読後感を真っ先に賜り感激!

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今まで頂戴した旅行記の中で最も長文だったような気がします。執筆の気力と体力に敬意を表します。

12名の団体旅行だが石松さん一人が関空発で、ミラノで成田発の一行に合流されたとのこと。さすがは「旅の達人」!私みたいに皆の後を付いて行く気性のものには真似が出来ません。前日に一泊してでも成田へ参集したと思います。

アフリカ内部の国境線について興味のある実態を拝読しました。緯度か子午線による区分が最大多数で、地形による区分が四分の一に過ぎないとのこと。現地に立てば緯度や経度は何の手掛かりにもならず地形あるのみと思えるのですが?机の上で決めるとこうなるのでしょうか?「欧州列強の国際会議」と掛けて「お役所仕事」と解く、心は「現地を見ず、鉛筆を舐め舐め・・・」

「奴隷海岸」や「奴隷収容所」の話を聞いて胸が締め付けられました。「後期高齢者」や「裁判員参上」のネーミングは何でもよいと思うほうですが、「奴隷海岸」などは嫌悪を感じます。北京オリンピックがチベットの人権問題で揺れているが、聖火リレーの出発地を「奴隷海岸」にしたらどうだろうか、人権の原点を見直すために。

最近の日本の子供は無表情だとの指摘がありました。同感です。テレビのおかげで、囲碁・将棋の対戦を間近にみることが出来るようになりました。若い棋士に無表情の人が多く、終局してもどちらが勝ったか映像だけでは判らないことがあります。勝者も敗者も無表情を装っていると思いますが、これとても賛成しかねます。

「余生の目標」に感銘を受けました。石松さんの生き様を見て何時も元気付けられております。

② トヨタ先輩・ゴルフ&テニス仲間・囲碁の実力はトヨタ自動車OBのトップ・奥様は絵手紙を数千枚も画かれた才媛・お孫さんが公立高校全国一の岡崎高校に今春合格。

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制覇された国の面積は、ローマ帝国・チンギスハーンを超えていますね。

③ 40年以上も前にお世話になった外資系コンピュータ会社OB。

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地球が「まっか」になってしまいますね。お元気で何よりです。

④ 私にがんの体験講演を依頼された脳神経疾患研究所理事長。

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西アフリカへ元気で旅行された、とメールを見て嬉しく思っています。

石松さんは不治の病といわれている癌との戦いに勝利、完治され健康を取り戻され、喜ばしいことです。これからもますます元気で、まだ行ってみえない国々へ旅行して楽しんでください。

⑤ 荊妻の知人。

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西アフリカ8ヶ国の旅行記を拝読いたしました。

更に洗練された紀行文が生まれたとの思いを強くしました。同行者とガイドに対する筆者の目が温かく感じられ、楽しく読ませてもらいました。

名古屋国際会議場での健康講演を成功裏に終えられた事と思います。誠にお疲れ様でした。

⑥ トヨタ同期・工・いつも読後感をいただける方。

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ピカイチの添乗員にも恵まれ、アフリカ菌による下痢にも負けず西アフリカ旅行を果たされたようで何よりです。テレビ番組では窺い知れない人類誕生の地がおかれている現状を丁寧にレポートしていただけ、お陰と知見が広がりました。

カントリーハンターを自認する青春真っ只中の同行者達とも濃密な交流をもたれた様で、痛ましい情景を目にする機会の多かった中にも、旅の興趣を高められたご様子がうかがえます。

我々は、テレビ番組で野生動物の群れる“豊かな”アフリカの様子を見せられており、サハラ以南でアフリカの地に降り立てば、空港を出てバスの外には象やライオンを眺められるものと錯覚していました。今のアフリカには、昆虫すらが少なくて人間を含む動植物が痩せこけてしまっており、瀕死の大陸になってしまっていたとは実に悲惨なことです。

産業革命に成功した欧州人が武力でアフリカ大陸を蹂躙し、奴隷として狩り出したばかりか、勝手に植民地としての国境線をひいて今日に続く民族紛争の種を作った蛮行は“神”をも恐れぬ所業でした。

かっての“黄金海岸”にはスラムのような漁村があり、女性達が漁獲とは名ばかりの小魚ばかりを仕分けをしているとは無残な光景です。ビクトリア湖では巨大化する肉食のナイルパーチが放流され、湖の生態系が破壊されたばかりか欧州資本の魚肉加工所が出来て、現地人社会や生活基盤が無残に破壊されているのを「ダーウィンの悪夢」で知りました。加工された魚肉は全て業者によって欧州に持ち出され、現地のアフリカ人達は捨てられた魚の頭と骨だけを拾って食べている映像には吐き気を催したことです。

西アフリカだけでも数十の民族が共存しているとは驚きです。ゲルマン系民族同様、アフリカの人々は自民族への誇りが強くて混血が進まなかったのでしょう。アフリカの現地女性が皆颯爽としているとはこれもまた実に愉快です。ひところ、ファッションの世界でマサイ族の女性がもて囃されたのを思い出しました。飽食で心身の弛緩した人間は“美”とは無縁ということでしょう。

混血に関しては、出アフリカ後にユーラシア大陸からアメリカ大陸へと、長い旅路を経た人々ほど混血することに抵抗感を無くしてきたように感じます。南北アメリカ大陸の先住民同様、日本人も多くの人種が良く混血して擬似「単一民族」化したのだと思います。江戸末期に来た欧州人が日本人の多様さに驚いたそうですから、廃藩置県後に一層の混血が促進されたのかもしれません。

最近読んだ書物に、日本語のルーツは古代エジプト語、ヘブライ語やメソポタミア語にあり、インドネシアや中央アジアを経由して列島に伝わったとの説がありました。当然、縄文末期から弥生時代にかけての日本列島は、それら文明発祥の地での権力闘争からはみ出し逃れて来た人々の終着地であり、多民族が同居していたに違いありません。

古墳時代ですら、大和朝廷を支えた秦(はた)氏は応神天皇の頃に10万人規模で百済から渡来した一族とされ、その祖は秦の始皇帝縁のユダヤ系とも言われています。それと前後して、半島に進出した倭軍を迎え撃った高句麗の好太王が南下し、相当数のツングース系の高句麗軍が海峡を越えて列島に侵攻し、列島各地に定住したとも言われます。

私はかねてから、多民族の割拠していた中国の西端にあった“秦”が俄かに全国統一できた事跡に興味を持ち、それを可能にしたのは何であったかと思いを巡らせてきました。

ユダヤの12氏族がバビロンの幽囚となり、ペルシャに新バビロニアが滅ぼされてから許されてイスラエルに帰ったのは2氏族だけで、ユダヤ10氏族は歴史上での消息が途絶えました。シルクロード上各地の遺跡発掘では、どこにもシナゴーグ跡が確認される様になってきています。

どうやら、幽囚となった彼等はメソポタミアから東に向かい、中国までのシルクロード上の拠点に分布定住して巧みな言語能力を駆使し、絹を中心にした東西の交易を支えたようです。

アケメネス朝ペルシャの兵がマケドニアのアレキサンダーに追われたとき、逃れ着いた先にはまさしく“秦”がありました。「東に向かった敗残のペルシャ兵がユダヤ人の手引きで秦の傭兵となり、当時最新の武器や戦術を秦軍に伝えてその後の中国統一に繋がった」とするのが私の立てている仮説です。

我々人類発祥の地が不毛な大陸となってしまっては、人類に将来があるとも思われません。最果ての列島人として今も続く欧米人の愚行にだけは組したくないものです。

⑦ トヨタ先輩・工・知る人ぞ知る発明王

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旅行記拝見しました。

いつも新しい見解を披瀝され、さすが石松さんと感じいっています。今回もいくつかの視点から鋭く本質を突いている中に「国境」の問題があります。なんと自然境界が3割にも満たないとは驚きでした。

嘗ての先進諸国の理不尽な植民地政策により、その負の遺産をアフリカ諸国が現在も引きずっていることを思い、今は人権と自由を振りかざす西欧諸国の身勝手さに蛇蝎(だかつ。へびとさそり)の如き嫌悪感を覚えます。

西アフリカ諸国の搾取された歴史を今に伝える象牙海岸、黄金海岸などなど、そしてその極みとして奴隷海岸なる名前が堂々と世界地図に残っている実情を考え、極東の島国日本からみると肉食人種の業を見る思いです。

ところで「同行者」の描写はいつも楽しみにしているのですが、今回の③の御仁・元国家公務員の「・・・・関連団体を渡り歩き70歳まで働いた」は「国民の税金で70歳まで関連団体を渡り歩き、お蔭で奇数月は海外旅行、偶数月は国内旅行をしています」と聞こえました。ここは舌鋒鋭く石松さんが切り込んで、自慢の鼻柱をへし折って欲しかったのですが・・・。

最後に、あつかましいお願いを二つ。

①小生は貴兄の労作を一字一句読まねばとハードコピーしています。今回は使用フォントが白黒ではなく薄い色が掛っているため印刷したらグレイになり老眼には読み辛いものになっています。出来ましたらクリアな白黒フォントにしていただければ幸甚です。

②アフリカの地図は大変鮮明でした。欲をいえば旅のルートも添付されていれば、さらに読み手までが旅行気分を味わえます。

「何処からともなく新たな目標が生まれてくるのが嬉しい」石松さんの益々のご健勝を切に願って読後感想とします。   

⑧ 教養部級友・工・いつも的確な読後感を拝受している方

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最近は石松様のサイトには、ご無沙汰しておりました。本日ひさしぶりに旅行記を拝読いたし、いつもながら石松様の知力と体力の凄さに、圧倒されました。

アフリカの国境は列強が定規で引いたので直線だとのこと再認識させられました。でも、たしか朝鮮半島の38度線は直線では無かったですよね。

中央線の電車が真っ直ぐ走っているのとは訳が違うんですねぇ。そう言えばつい最近テレビの「動物番組」で、アフリカの野生動物を守るために、国境のフェンスを切り取る試みを始めているそうです。

ところで私、世界一周クルーズに関心を持ち始めました。また良きアドバイスを、よろしくお願いします。

注。流石は天下の秀才。軍事分界線は地図に示されるように曲線だった。私は気がつかなかった。



⑨ トヨタ後輩・工・テニス仲間・兄弟全員が東大(機械・航空・航空)卒・DNAの勝ち!?

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西アフリカ8ヶ国の旅行記を拝読させて頂きました。

西アフリカ旅行記と伺って、最初は懐かしい映画の舞台となったエキゾチックな情景を連想させるモロッコ等の、一部の地中海の北アフリカの諸国も含まれてと思っていました。が、ナイジェリアをスタートに8ヶ国を廻られたとのことですが、恥ずかしい話ですが私が8カ国の中で世界地図上でその位置を正確に特定できる国は、カカオ豆のガーナと象牙海岸のコートジボアールぐらいでした。

それだけ私にとって殆ど歴史的にも地理的にも空白の国々で、今回の旅行記は今までのそれと違ってやや驚きをもって拝読しました。ガーナでは野口英世の業績を偲ぶ研究所や胸像が残されているようですが、当時の日本人にとって地の果てのような国で、現地の人に今でも尊敬される業績を残されたことに大変感銘を受けました。

石松さんも今回の旅行は衛生面等で相当苦労されたようですね。78ヶ国も済むと残りは私にとって、今回のように初めて耳にするような国々も対象になってくるのですね。

今回の同行者諸氏の経歴も国際色豊ですね。わざわざ韓国から参加された方も見えるとのことで、それらの方々は100カ国以上の旅行を体験された超ベテランの、いわゆるカントリーハンターを自認されるとのこと、今回はそれらの人物素描も興味深く拝読させて頂きました。

石松さんも今後は年齢訪問国率100%超に満足せず、100カ国以上訪問のカントリーハンターの仲間入りを目指すよう、新たな目標に向けて是非頑張ってほしいと思っています。

今後の旅行記続編を待っています。

⑩ トヨタ後輩・工・ゴルフ仲間・元仕事仲間

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ようやく旅行記「西アフリカ8ヶ国」を拝読しました。以下断片的に印象に残ったことを報告させていただきます。

貴兄の独自性が先ず飛行機で成田径由でなく関空で実現されたこと、自分には思いも及ばないことでした。

アフリカの地下資源関係は投資の視点での関心ごと、「アフリカ株投資信託」と「南アランド債」に少し賭けていますが貴旅行記を拝読したらゴミになりそうな気がして・・・。

子供観は全く同感ですし、乞食に関しては自分が子供の頃よく見たものですが、今はホームレスでしょうか。世は弱者救済等と騒ぎますが日本は物質的に豊か、飽食の国とつくづく思いました。

ゴミ問題が随所に出てきますが、昔の日本はどうだったのかと思うようになりました。日本人の美意識等が優れていて綺麗であったのか、アフリカ諸国と同じようにゴミで溢れていたが問題にならず記録にも残っていないのか、事前調査された本に記載はありませんでしたでしょうか。(日本のゴミ問題に触れた本は有りませんでした)

同行者観は何時も興味あるテーマ。本当に海外旅行好きの玄人集団、各位が個性溢れる方々で観察のし甲斐もあったでしょうね。

こうした玄人の方々しか行かないガーナでの野口英世、旅行記を呼んでも尊敬すべき偉人と感じましたが、直に見聞された感慨は深いものでしょうね。

ダカールでの親日家会社社長の件、どうして親日に?と興味が湧きましたが案外三菱のダカールラリーかアラコのランクルラリーかと想像中。

植民地、奴隷問題は歴史上の大きい問題でしょう。この負の遺産を現代の人権観で論じる事は簡単でしょうが・・・。日本人のように謝罪補償する国ばかりなら多少よくなるかもと思いつつ、一方で誰か空想小説でよいから現代感覚で世界史を作り変えたら、今はどんな世界になっていたかとの愚問も湧きました。

人間の性が変わらない限り大差ないのでは、と我が愚人の結論で締めくくりさせていただきます。

⑪ トヨタ先輩・工・ゴルフ仲間・財テクの神様との評判

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西アフリカ旅行記を読ませて頂きました。読み終えるのに忍耐力が必要な大作ですね。

一番面白かったのは、同行者8名の人物評でした。よくこれだけ色々なことを聞き取ることが出来たものだと感心しました。

感銘を受けたのは、トーゴの人(注。正しくはベナンの人)でしたか、ゾマホンの次の言葉と、それに接したとき石松さんが涙したと言うことです。

『日本のアフリカ支援は物資主義。消費すれば無くなるようなものは要らない。乞食のように物を貰っても豊かにはなれない。国民が豊かになるベストウェイは教育。学校をつくり、教師を育成し、次世代の知性を高められる支援をこそ望みたい』と述べた時、私は涙が急に溢れてきた。

一昨年、授業でブラジルの教育学者パウロ・フレイレが、教育の目的は“貧困と抑圧からの開放である”と言ったことを聞き、感動したことを思い出しました。教育とは?と、教師が問いかけたとき、“教え育てること”だと、咄嗟に答えを心の中でつぶやいた自分に恥ずかしくなりました。

世界遺産についての認識を少し変えさせられました。今回、石松さんが“何だこれ”はというのも世界遺産に指定されているということについてです。世界遺産とは、息を呑むとか、一大スペクタクルとか、表現できるものだけではないのですね。

下痢の話は、身につまされるというか、後進国を旅行する時には脅威ですよね。5月1~5日中国を旅行、帰ってきた途端激しい下痢に悩まされました、近くの胃腸科に行ったら、先回かかったのも中国旅行の後でしたね、と言われました(昨年8月九塞溝に行った後でした)。

後進国の旅行には二の足を踏みたくなりそうです。(注。中華料理の特徴は、鮮度第一主義の日本料理とは異なり、全て熱処理されており、細菌性の下痢には掛かり難いのに、不思議な体験ですね)

⑫ トヨタ&大学後輩・工・テニス仲間・奥様は医学博士・平成18年4月名古屋大学教育学部3年に学士入学⇒今春無事に卒業・未だに向学心溢れる伊能忠敬のような方も遂に古希を今年迎える老人になった。

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貴兄の旅行記は全て読ませて戴いておりますが、忘却力が良い方なので、自信を持っていうことは出来ませんが、確か今までの旅行記は
「○○の追憶」というタイトルが付けられていたように記憶します。今回のタイトルは「西アフリカ旅行記」であって「西アフリカの追憶」とは名付けられなかったのは何故でしょうか。

それはともかくとして、貴兄の崇高な目標であった『訪問国数>年齢』を昨年達成され、『百ケ国』を新しい目標に立てられたこと、まずもって素晴らしいこととお慶び申し上げます。貴兄が次々と尽きない情熱とファイトを持って日々を充実して過ごして居られることにつきまして、感動と感銘をせずには居られません。

今回の旅行記につきましては、大分遅くなってから読み始めさせて戴いた次第ですが、読み出しましたら、やはりぐんぐんと惹きこまれてしまいまして、一気に読み終えてしまいました。個々の感想をアット・ランダムに申し上げますと

① 以前の旅行のような、例えば「イグアスの滝」をボートで疾走したときのようなスリルに富んだエピソードや、食事中の帽子を脱ぐ脱がないでツアーの参加者と反目したエピソードや、知識が不足しているガイドへの失望や、ツアーの会社の1割値上げ要求への貴兄の機知に富んだ対応の話などが影を潜めていることです。

ツアー参加者の質の良さやガイドのレベルの高さや貴兄の年齢によるものも恐らく有るには有るでしょうが、一番の理由は、貴兄が円熟度を更に増して、「海外旅行の達人」(「カリスマ・トラべラー」)になられたことによるのではないかと、勝手に想像致しました。

② いつもながらの貴兄の観察力の鋭さと深い歴史・地理・政治・経済等々の知識に裏付けられて、アフリカをただ見て感じたことを記述するのではなく、高い文明評論になっていることは、まことに素晴らしく、前述のように読み出したら止められずに一気に読破してしまったのでした。

西アフリカの国々の国旗が三色旗となっていることそして、それぞれの色に意味があることを初めて知りました。また、アフリカの最南端の岬を「喜望峰」かと誤解している人が多いと書かれて居られますが、私もまさにその一人でした。「アガリャス岬」という岬名も初めて知りました。

③ 貴兄の「西アフリカ」においての観察の中で特に、印象深く感じました点は、ⅰ)女性の姿勢の良さ ⅱ)子供たちの目の輝き ⅲ)乞食がいないです。

私の親戚の老人たちは皆農業に従事していたこともあり、歳を取ってから極めて強く腰が曲がってしまっております。私も姿勢が良くありません。欧米人が何故あれほど姿勢が良いのか不思議に思っておりました。子供のときから、欧米では親が姿勢について煩く言うという話を聞いたこともあります。しかし、アフリカの女性がそれほどに姿勢が良いとは知りませんでした。

しかるに、幕末に「咸臨丸」で勝海舟や福沢諭吉たちが遣米使節として渡米した折り、彼らを目にした米国各地の人が、日本人が如何に姿勢が良く毅然としていたかに驚いた、という記事を新聞で報じたという話を聞いたことがありますので、農耕民族だからだとか、座る生活環境のせいだ、とかいうことでは説明が付かないかも知れません。精神的なものに関係している面もあるのではないかと思います。貴兄の姿勢の良さも貴兄の人柄や精神の表れのような気もしてきます。

④ 貴兄の参加されるツアーの同行者についての描写は、いつもながら大変面白く読ませて戴いております。一人ひとりの方々が個性的で興味深い性格であったり、それだけで小説になりそうな経歴を有しておられます。

ただ、いつも思いますのは、これらの方々は決して日本人の平均像ではなく、恐らく3σどころかそれ以上の平均値を大きく外れた方々ではないかと思うのです。

それは、元々貴兄の参加されるツアーは一般的な海外観光ではなく、まさに貴兄の言われる「カントリーハンター」のような人たちであり、海外旅行に行き尽くしてしまって、本当に珍しい国への旅行を目指した特殊な人たちであり、貴兄に取ってはそれほど変わった人とは思えないかも知れませんが、普通人にはめったに会うこともないような特殊な人たちであろうからです。

「体力(健康)」「財力(資産)」「時間的ゆとり」「家族の理解」等々のどれか一つでも備わっていないと参加できない訳で、参加できることが可能な人というのは、日本中で何百万分の一かの方々であろうから、同行者の方々がユニークであるのは、頷けるというものでしょう。

⑤ そうした同行者の人が往々にして、チップを惜しんだり、意外にケチであったりすることが、貴兄の今までの旅行記に描写されております。私はこれを極めて不思議に思います。

確かにそこまで辿り着くまでに、随分と苦労をしてこられたとは思いますが、少なくとも現時点の自らの幸せに思いを致し、寄付行為を喜んでする人が何故日本人には少ないのであろうかと思います。四川大地震やミャンマーのサイクロン被害に対して、支援金寄付など、どうしてもっともっと集まらないのか不思議でなりません。

私もささやかながら、早速に募金に応じてきましたが、自分の寄付の額が少ないことを恥じておりますが、特殊法人の人たちや天下りした人たちが自分の働き分を謙虚に反省し、報酬の中からほんの少しでも良いから寄付することを是非して戴きたいと思っております。

⑥ ガーナで最も有名な日本人は「野口英世」であるとのこと、貴兄が氏の胸像の横で写っておられます。小泉元首相がガーナ大統領との会談で創設された「野口英世アフリカ賞」の第1回医療活動部門受賞者である「ミリアム・ウェレ」はこのほど授賞式の為に来日し「ノグチはヒュマニズム溢れる人」と述べていることが先日の新聞に載っておりました。

野口英世はノーベル賞候補に何度も挙げられた人ですし、偉人伝の筆頭のような人ですが、確かに私も子供の時に氏の伝記を読んで感動したものでした。猪苗代の氏の生家を学生時代に見学した折り、あの貧農の小さな家の柱に氏が彫り刻んだ「人間至る所青山有り、成功せずんば二度と故郷に戻らず」というような言葉を見て、また母親のひらがなだけの字で書いた米国に住む息子への手紙が展示されていたことに強い感動を覚えたものでした。息子へ手紙を書きたい一心で歳を取ってからひらがなを学んだそうです。

しかるに、その後氏の実像を知るにつけ、氏の業績の多くが現在の医学では否定されているそうですし、余りに身勝手な生き様に、身近にいた、氏が少なくとも感謝せねばならない人たちがそろって大変な非難をしていることに衝撃を受けました。

村の資産家から借りられるだけの借金をして踏み倒して、なんとも思わない態度、渡米に当り金の工面をすべく婚約して、米国へ渡ってしまって、婚約を履行せず、米国の女性と結婚してしまったこと、大酒飲み、浪費家等々、自らの目的の為なら誰でも利用し尽くす生き方は、人間としてどうなのか、しかし外国で名を挙げた氏に日本政府がびっくりして慌てて恩賜賞などのいろいろの賞を授与したりした為に、マスコミも氏の中傷的な記事は一切書けなかったし、裏切られたり、利用され尽くして酷い目に会った人たちも非難の声を挙げられなくなってしまったようです。

しかし、私は年齢を経たこともあるのですが、野口英世に対する見方がまた少し変わってきました。あれだけの貧しさ、焼けどによる左手の不具のハンディ、医学の世界にあってあの程度しか学歴が無かった不利を背負って生きて行かねばならなかった氏と、その世の中のしくみさえ知らない無学の母親が相携えて無我夢中で世に出ようとすれば、あれくらいの無理を覚悟の遮二無二な生き様をせざるを得なかったのであろうと、ガーナの人たちが尊敬してくれ感謝してくれているのだから、氏に対し、もっと温かい目で見て上げるべきなのかも知れないと思うようになってきました。

⑦ 貴兄は今回の旅行記でも、欧米人の身勝手であった過去に鋭い目を向けて居られます。この点に私も全く同感です。1488年のディアスの喜望峰到達、1492年のコロンブスのアメリカ大陸発見、ヴァスコ・ダ・ガマの印度航路発見後マジェラン一行の世界一周等々全て西欧人で世界の各地を発見して行ったように歴史が記されておりますが、これなどまさに彼らの見方に過ぎず、アジア人がその前に発見していたり、元々住んでいた人たちにしてみれば、何を言っているのだということではないでしょうか。

1519年のコルテスのメキシコ征服や1532年のピサロのペルー征服で、虐殺のそして略奪の限りを尽くしたことを考えると、500年経った現在でも、余りの残虐さに私は現在のスペイン人まで許す気持ちが起こりません。

彼らがキリスト教の信者だったということを考えるとき、以前から「キリスト教」とは何なのかがずっと私の頭の一角に重く圧し掛かって、どうしても解き明かさねばならないように思えてなりません。( ヴェトナムを攻め、イラクを攻めた現代のアメリカ合衆国の指導者もキリスト教信者です。ブッシュ大統領たるや、まさに敬虔なる信者そのものです)

⑧ こうした残酷な行為は元々人間という存在の潜在的な業のなせるものかも知れません。欧米人だからということではないのでしょうが、それにしても、前述の先住民征服といい、ナチスのホロコーストといい、トルーマンの広島・長崎の原爆投下といい、スターリンの自国民への粛清といい、ラテン系やゲルマン系やアングロサクソン系(石松注。アングロサクソンはゲルマン民族の中の一種族)やスラブ系に多いことは、考えさせられます。

そうした民族の血を引く連中があたかも博愛主義者の如き顔をして、現在後進国を強制的に米国流の民主主義にさせようとする態度は、まことに僭越至極ではないのでしょうか。

⑨ 傑作「ローマ人の物語」を著述した塩野七生氏は「キリスト教」の根源にある「一神教」がさまざまな後々の歴史上の出来事に影響を与えてきたと述べておりますが、私もそれは基本的に頷けることと思います。

但し、これだけ2000年の歴史において、キリスト教の信者による残虐な行為が何故起こってきたかを考えると、大きな原因は紀元313年に「コンスタンチヌス大帝」が「キリスト教」を公認して、実質ローマ帝国の国教にしてしまったことではないかと思います。

大帝は本当のキリストの精神を理解していたのではなく、「ローマ帝国」の運営、繁栄のための政治的な道具に「キリスト教」を利用したのだと私は理解しております。イエス・キリストの真に目指した精神を歪曲したのは、その後の世俗の皇帝や王であり、ローマ法王ではなかったかと思うのですが、独断に過ぎるでしょうか。

生前さしたる影響力のある存在ではなかったイエス・キリストの唱えた教えが、死後になって弟子たちの命懸けの布教活動や殉教により「キリスト教」として何故あれほどまでに広まって行ったかの原点は「イエスの復活」にあるとの認識に至りました、それらについての意見は、貴兄の旅行記への感想から逸脱し過ぎますので、ここでは差し控えたいと存じます。

⑩ 最後に簡単に述べたいと思いますが、アフリカの最南端(に近い)喜望峰を発見したり、印度航路発見、アメリカ大陸発見とかが15世紀末に次々となされて行ったというのが、世界史の定説になっておりますが、これは前述の如く西欧人の独断にしか過ぎず、真実ではないことをもっと強く主張し、日本の歴史教育でもしっかり継承して行かねばならないと思います。

既に70年ほど前になる1421年を皮切りにして、中国の明の時代、時の永楽帝の命令の下、「鄭和」自ら率いる大艦隊の遠征隊が世界各地に行き、西欧の国に知られていない新大陸を発見しております。アフリカの喜望峰を廻り、貴兄の行かれた西アフリカの南海岸沿いを西へ航海し、南アメリカの東海岸に沿って南極に近い場所まで到達しているとのことです。

ふと気が付くと、大分書いてきてしまいました。今回の感想文では、私に取りまして、余りに遠い地のことで、まるで知識がないものですから、ついつい日頃の私の考えていることに筆が走ってしまいましたこと、お詫び申し上げます。

⑫ トヨタ後輩・工・いつも長文の読後感を賜る方・毎週末に埼玉県のご母堂の介護に帰省されていた方⇒昨秋ご母堂永眠⇒合掌

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読後感をお送りするのが遅くなり申しわけありません。

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石松さんの長文にわたる旅行記を読ませていただきました。事前準備から、自然、国など諸情報を満載し、読み応えがありました。また、西アフリカの現状を切り取り参考になりました。

1. アフリカの歴史、特に近代に欧州列強が踏み込み奴隷として人々を北米大陸に労働力として連れ去り、また、植民地として支配した歴史を私たちは忘れてはいけないと思います。似たようなことを再び起こさないよう肝に銘じなければと思います。

2. ベナンのゾマホンさんの話で、「真の支援とは何か」との記事に同感しました。

3. 小さなことですが、バオバブの実を取ってくれた青年が1ドルを最初受け取らなかった件ですが、石松さんのお願いにただ好意で実を取ったので、対価のチップを期待していなかったのではと思いましたが、違うでしょうか?

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明日から入院とのことですが、またコートに戻ってきて下さい。お待ちしています。

⑬ トヨタ後輩・工・テニス仲間・米国駐在中に購入していた大邸宅をサブプライム問題勃発初期に、日本から不動産屋に指値指示して売りぬけた国際的な情報通・日本企業との取引のある米国企業への経営コンサルタントとして活躍中

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すっかり『西アフリカ旅行記』に関するコメントが遅くなって申し訳ない。何しろ貴殿の旅行記は長大で短時間では読みきれない。ある程度まとまった時間がないとどうにもならない。

7月18日に100日の世界一周船旅から帰り滅法暑い夏に少々バテ気味でも、貴殿と違い独り者が生きていくためには家事をしなければなりません。その間にお盆もあり3年ぶりに日本に居たので子供・孫にお盆行事もやって見せてやらねばならず、やっと今日少しまとまった時間があったので見せてもらいました。読むだけでも3時間ほどかかってしまいました。以下気付くままにコメントします。

まず、こんな大変な国国に旅行する気になったもんだと驚いてしまいます。訪問国を増やすカントリーハンターかもしれないが、もっと他に良さそうな国がありそうだと思います。 西アフリカは白人の墓場と言って、我々が回っていた頃は碌な欧米人はきていませんでした。確かに訪問国を増やすにはアフリカはいいかもしれないが・・・・・・

それにしても日本から往復を含めて2週間そこらで7~8ヶ国を回るなんて、さすが日本人ツアーの典型的なスタイルですね。僻地大好き旅行者の集団かもしれないが、本当にその地を知るにはあまりにも短い時間です。例えばナイジェリアでもラゴスの飛行場に夜9時過ぎに着き、翌日午後にはラゴス出発ではラゴスに小便をしに行ったようなものです。アフリカの大国の一つです。折角そこまでいったら、フデリック・フォーサイスの代表作『戦争の犬ども』ビアフラ戦争1967年など見てもらいたかった。

西アフリカの辺りは一つ置きに英仏の植民地です。公用語は今もそうなっています。我々が回っていた時は、陸路で隣の国に行くことはまず考えたことはありませんでした。ラゴスからバスでアビジャンまで行かれたことは小生には驚きです。今トヨタ自動車のフィールド業務はどうしているか知りませんが、あの頃はアビジャンが一つのベースでした。アビジャンに戻って中華料理(実際はヴェトナム)を食べるのが楽しみでした。

貴殿が今回行かれた国で小生、マリとガーナだけは行っていません。ガーナは英語圏でもあったし行きたがったが、丁度そのころ政治混乱があり入国できなかった。小生のかつての部下でやはりアフリカ野郎の一人が、今年の春まで現地代理店の要請で2年ばかり指導にいってました。

西アフリカの国々のヴィザ取得は今も大変ですね。我々の時代も大変で、ナイロビとかアビジャンで次にいくヴィサを取るのに、大使館めぐりしたことを思い出します。今度世界一周旅で気がついたのは世界2大大国USAとロシアが、入国には一番時間かかる発展途上国並であることです。

アフリカに行くにはまだ野口英世が見つけた黄熱病の予防注射必要なのですね。あれは10年の有効期間があるので、今度アフリカに行かれる時は少し楽ですね。小生はこれを2回も打ったのですから、20年近くもアフリカに関わったトヨタでも珍しい男です。

マラリヤも煩わしいが、蚊に刺されないように蚊取り線香を焚いておられたようですが、我々は仕事で車の下を見る関係でピットに入らなければならないので、最初の頃はマラリヤの予防薬を飲んでいきました。その内に面倒くさくなって飲まなくなり、その代わりトニックにはキニーネが入っている事を聞き、毎晩ジントニックを沢山飲んでました。

バオバオの木は本当に滑稽な格好をした木です。貴殿の写真にあるのはあまり徳利型をしてませんが、アンゴラあたりで見るバオバオは『星の王子さま』の絵本に出てくるのと全くよく似てました。小生は実は食べたことはことはありません。狸の金玉のようにぶら下がった実は、木の形と同様笑わせます。

ツアーガイドを含めて13人ツアーメイトのプロファイル面白く読ませてもらいました。船でも同じで人間ウオッチングは面白いですね。全く知らないもの同士が、何日間も一緒に行動するといろいろその人間性がわかってきて興味がつきない。女性は特に身分というか過去をふくめて本性を隠すが、会話の中で推量していき最後に判明すると愉快です。

西アフリカの女性礼讃、見るだけでなく味わわなかったのですか。もう年だと言わずにぜひ次のアフリカ行きでは最後までは無理でも、肌を合わせてその感触を試してみてください。『寝巻き着ていても、モナリザが美しく感じるのと同じ原理』という意味がわかりません。

アフリカには乞食が居ないのは、施す人がいないので乞食は商売にならない。施す余裕がないか、気の毒ということを感じないか、宗教的にその習慣がないか(モスレムもキリスト教もあるが)のいずれかでしょう。石松さんにはツアーコンダクターは絶対に勤まらないことはたしかでしょう。同感です。

旅行中の便意には本当にこまりますね。誰でも多かれ少なかれ同じような経験はあるものですね。

もう次の南部アフリカ行きの準備で忙しいことでしょう。小生も5年も駐在した南アにはもう一度死ぬまでに行ってみたいと思っています。貴殿も出張で行かれたことがあるのですね。どんなに変わったかよく見てきてください。気をつけて行ってきてください、そしてまた楽しい旅行記を書いてください。期待してます。

⑭ トヨタ先輩・工・アフリカ&中東通・奥様に先立たれた独身貴族翁・温泉&医療介護付き老人ホームは購入済み・訪問国数80ヶ国突破