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旅行記
           
ヨーロッパ
バルト三国とフィンランド(平成18年2月11日脱稿)

   欧州で『バルト三国』と一括して呼称され始めたのは、高々100年前である。バルト三国の前身地域はハンザ同盟の一翼をなす弱小都市群に過ぎず、十字軍・ロシア・スウェーデン・デンマーク・ポーランド・ドイツ等の近隣列強に、1000年以上も圧迫され続けただけではなく、時には植民地化もされていた。 

   賢人各位、驚く勿れ! イスラーム諸国から聖地エルサレムを奪還するとの口実で、キリスト教国は自らの南下侵略戦争を十字軍の名の許に隠蔽していただけではない。蛮族を改宗させるとの口実まで使って、北欧にも十字軍を派遣していたのだ! 欧州に於ける最後発のキリスト教国とは、十字軍に改宗させられたリトアニアだったのだ。                      
                        
   『バルト三国とは北欧の片隅にある、国とも言い難いほどの小国』と長い間私は思い込んでいた。ところが三国の最小国エストニア(45,215平方km)ですらも、ベネルックス三国の最大国オランダ(41,864平方km)どころか、かつての強国デンマーク(43,094平方km)よりも大きかった。しかも山は殆ど無く人口も少ないため、可住地空間のゆとり度は日本の比ではなかった。

   鬱蒼たる森と無数の湖(氷河湖)から構成された山紫水明の国土に、足を一歩踏み入れたとき、ため息が出るほどの羨ましさに襲われた。彼我の景観の格差が余りにも大きかったからだ。まるで全土が軽井沢の景観だ。その上、美しい国土に点在する美観溢れるカラフルな家並みは、おとぎの国かと見間違うほど。自然界とのバランスも熟慮しながら蓄積された無類の美しさは、軽井沢の朽ちかけた別荘群の比ではない。

   バルト三国は2004年3月29日に念願の北大西洋条約機構(NATO)に加盟、同年5月1日には欧州連合(EU)にも加盟して、積年に亘るロシアの支配とも決別。1000年にも及んだ各民族の悲願を、遂に実現させた原動力とは一体何だったのだろうか?

   イスラエルは国家のアイデンティティをユダヤ教とユダヤ人に、アラブ22ヶ国はそれをイスラームとアラビア語に求めたが、バルト三国は宗教にではなく、列強に滅ぼされかけていた各母国語にそれを求めた。彼らには母国語こそは民族の歴史・伝統・文化が埋設されている、守られるべき最大の資産・民族の象徴との深い認識があった。            

   バルト三国の人民戦線組織の努力が最後に結集されたのは、独ソ不可侵条約締結日から正に50年後の1989年8月23日だった。三国の首都タリン⇒リガ⇒ヴィリニュスを結ぶ600kmを何と200万もの人々(総人口の25%)が同時に手を繋いで出来た、『人間の鎖』から溢れ出た非暴力の輝きこそがロシア政府首脳をたじろがせ、彼らを遂に開放したのだった。               
                         
   彼らの末永い前途を祝福すべく、『人間の鎖』の南の基点(ヴィリニュスの広場の真ん中に嵌め込まれた正方形の石)の真上に立ち、目の前に聳える民族の魂の棲家となった大聖堂(主教座教会)を見上げながら、私は静かなる祈りを捧げた。                            
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はじめに

[1] 海外旅行の目標設定
   
   何時の頃だったかはすっかり忘れたが、定年退職後のあるとき暇つぶしに、海外出張と個人旅行で出掛けた国のリストを作ってみたら、40ヶ国近くになっていた。戯れに国の数を年齢で割ったら50%を超えていることにふと気付いた。海外初体験は34歳のときだった。その時以降の経過年数と比較すると、毎年1ヶ国以上のピッチで出掛けた国の数は増加していた。
   
   そうだ! 漠然と行き当たりばったりで海外へ行くよりも、数値管理できる目標を設定する方が楽しいのではないかと思うに至った。実現の可能性を高めるために友人達にも決意を表明すべく、平成13年元旦付けの年賀状から、文末に目標の達成状況を数式を使って報告開始。
   
平成12年末 41/62=66%
平成13年末 41/63=65%  米国での同時多発テロでイラン旅行は急遽催行中止
平成14年末 45/64=70% +ポーランド・チェコ・スロバキア・ハンガリー  
                 愛知県がんセンターに入院。カリブ海旅行をキャンセル
平成15年末 46/65=70%  +エジプト
平成16年末 47/66=71%  +ロシア
平成17年末 56/67=83%  +ペルー・カタール・シリア・レバノン・ヨルダン・エストニア・ラトヴィ
                  ア・リトアニア・フィンランド
     
   海外にはその後もたびたび出掛けたが、英独仏伊中など同じ国へ出掛けることが多くなり、新規国は徐々に少なくなってきた。それ以外でも『好事魔多し』の譬えの通り、人生はママならず。イラン旅行は米国の同時多発テロのため出発直前に催行中止となり、ビザ代金は自己負担させられた。平成14年末のカリブ海クルーズは、突然のがん治療のために中止。
   
   まごまごしている間に、黄信号が点滅し始めた。各社の旅行案内雑誌を再点検し、国数稼ぎと面白さが両立する計画を探した。その結果、平成17年は一挙に9ヶ国も増加した。今回のバルト三国とフィンランド旅行はその検索努力の産物だ。
   
   更に本年は、我が頭の中ではぽっかりと空白のまま残っているユーラシア大陸の中心部に焦点を定め、東(中国・日本)西(中東・地中海沿岸・西欧)南(インド)の文明の交流地帯となって栄えた、中央アジア5ヶ国、コーカサス3ヶ国、バルカン5ヶ国コースをじっくりと楽しみたい。順調に旅を終えれば、数年来の当面の目標は達成できることになる。
   
   そこで来年からは目標を、『四国88ヶ所の霊場巡り』にあやかって88ヶ国に改定し、興味尽きない下記の候補国へせっせと出掛ける積もりだ。
   
   アジア = カンボジア・ラオス・ミャンマー・ネパール・モンゴル・スリランカ
   中南米 = メキシコ・バハマ・チリ
   中東  = イラン・イラク・イスラエル・サウジアラビア
   欧州  = スペイン・アイスランド
   大洋州 = パプアニューギニア
   アフリカ = アルジェリア・エチオピア・ケニア・チュニジア・モロッコ・マダガスカル・リビ
            ア

   我が余生で海外旅行に耐えられる体力があるのは喜寿までの高々10年! しかし、焦ることなく毎年数回出掛ければ充分に達成可能な、『細々と生きている年金生活者』に相応しいささやかな目標に過ぎない。
   
   我が戒名も勝手に決めた。住職が何と言おうと『海外旅行MNヶ国満喫大居士』。MN=88が最終目標とはいえ、その前に無念にも寿命が尽きれば、そのときまでの訪問国数。
   
[2] 事前勉強

① バルト三国 パスカル・ロロ         白水社 1991-11-30 951円
② 北ヨーロッパ 土田陽介他      グラフィック社 1998- 3-25 2000円
③ 世界の地図(ロシア・北ユーラシア)    朝倉書店 1998- 5-10 7600円
④ バルト三国史 鈴木 徹   東海大学出版会 2000- 5-20 2800円
⑤ 北欧/バルト三国 黒澤明夫編        JTB 2001- 2- 1 1260円
⑥ 北欧(個人旅行) 山田真弓他        昭文社 2002- 4- 1 1667円
⑦ バルト諸国の歴史と現在 小林宏美他    東洋書店 2002-10-15 600円
⑧ バルトの国々(地球の歩き方)    ダイヤモンド社 2003- 3-28 1640円
⑨ 物語バルト三国の歴史 志摩園子      中公新書 2004- 7-25 820円
⑩ 北欧(地球の歩き方) ダイヤモンド社 2005- 5-27 1680円

[3] 事後勉強

⑪ フィンランド航空の機内誌『キートス』の特集記事『世界陸上』
⑫ タリン(日本語版)                 エストニアで購入
⑬ リガ (日本語版)                  ラトビアで購入

[4] 過疎地の中部国際空港

   海外旅行の度に、中部国際空港が如何に過疎地に立地していることか! との悲哀を思い知らされる。今回の欧州往復便は成田発着のフィンランド航空だった。

   成田発    10:55 ⇒ ヘルシンキ着 15:20 (同じ日)
   ヘルシンキ発 17:20 ⇒    成田着  8:55 (翌日)

   フィンランド航空は日本航空と連携しているため、中部=成田間往復のJALの国内線料金は正規運賃の半額(15,000円)だった。しかし、成田出発が10:55だったため、日本航空の早朝便でも成田の集合時刻の8:55に間に合わず、成田での前泊が必須となった。

   何時ものことだが、私が申込んだ時点で国内線は既にキャンセル待ちになっていた。中部=成田間の国内線の便数が少なく、発売直後に座席は完売されるからだ。この抜本対策は成田の滑走路の増設以外にはない。しかし、出発直前に『前泊が前提だが、切符が確保できた』との旅行社からの電話連絡があった。

   出発日の前日、中部 14:25 発。
   帰国日の当日、成田 16:25 発。

   前泊は無駄だし、帰国日に6時間以上も成田空港内で過ごすのも苦痛なので料金はたとい高くなっても、全日空で行けるものならば行こうと決意してインターネットで調べると、幸いシニア割引の座席が余っていた。しかも、料金は片道9,850 円。

   出発日 中部  7:20 発 ⇒ 成田着 8:25
   帰国日 成田 10:00 発 ⇒ 中部着 11:25

   名鉄豊田市駅5:29発の始発電車に乗り、2回も乗り換えて中部空港に6:44着。成田空港では第2ターミナル(全日空)から第1ターミナル(フィンランド航空)へと空港内無料バスで移動し、指定時刻には20分遅れたが集合場所には9:15着。
   
   旅行社は国際線の場合、安全を期して出発2時間前に集合と指示するが、何時も余裕がありすぎるからノンビリと移動した。出発直前に添乗員からの旅行参加有無の最終確認の電話があった時に『少し遅れる』と伝えて了解を得ていたからでもある。

   今回のミニ課題は帰国時にあった。成田で全日空へ乗り継ぐには{入国手続き+荷物の受け取り+通関+ターミナル間のバス移動+国内線の搭乗手続き}を累計すると、ほぼ2時間は掛かるからだ。大型機の欠点は機内への乗り降りだけではなく、荷物の受け取りまでにも意外に時間がかかることにある。
   
   しかし、欧州からの帰国便は偏西風のお陰で30~60分位、時刻表よりも早く着く場合が多い。『多分間に合うだろう』と楽観して、旅行社が確保してくれていた日本航空の国内線はキャンセルした。

   シニア割引は乗り遅れた場合はほぼ半額は返金されるが、後続便に空席が有っても乗り換えることはできない。今回は機体整備のためにヘルシンキで運悪く40分遅れて離陸。成田にはほぼ定刻の9時着。フィンランド航空の立場では実質的には定刻到着なので、何の落ち度も無い!

   万事窮す! 添乗員と相談の結果、機内預かりの大型鞄は着払いの宅配便で発送して貰うことにした。通関時の荷物検査に備えて添乗員には鍵を渡した。用済み後の鍵は鞄の中に入れ、数字合わせのキーでのみロックして貰うことにした。ハムなど持ち込み禁止品は買っていなかったので気楽だった。
   
   成田での通関時に係官から『旅行鞄はどうされましたか? 別送ですか?』との質問に対し『1週間程度の海外旅行では何時も着の身着のまま。別送品はありません!』と何食わぬ顔つきで答えて無事通過。大型鞄抜きなので空港内も走り回ることが出来、全日空の搭乗手続き締切時刻には悠々と間に合った。目出度し、目出度し。
   
   同行の友人(トヨタ後輩)が携帯電話で添乗員に『鞄の通関は無事だったか?』と聞くと『フリーパスだった』とのことで、こちらも一安心。旅慣れているはずの添乗員が、一人で大型鞄を3個も持つのは異常なので、詮索されるのではないかと懸念していたのだ。
   
   些細なことばかりだが、努力を惜しまなければ中部国際空港の不便さも、少しとは言え緩和されるとの体験にはなった。

[5] ベテラン添乗員
 
   団体旅行の満足度は添乗員の業務処理能力抜きには語れない。旅程は事前に設定されてはいても、詳細は現地状況で微妙に修正されるし、その時刻にならないと決まらない条件もあるのはやむをえない。
   
   ホテル到着後に添乗員が団体客全員に連絡する典型的な項目として、夕食や朝食開始時刻と場所・翌朝の荷物の持ち出し時刻・モーニングコールの時刻・翌日の出発時刻・添乗員の部屋番号・国際電話の掛け方などがある。
   
   それらの情報をざわついているロビーの中で、20~30人もの仲間に間違いなく口頭で伝えるのは困難が伴うのが常。メモの準備不足の人や聞き取れない人の質問が続くのも常。今回の添乗員はそれらの情報と一緒に翌日のコースの要点も紙に書き、ホテルの従業員にコピーさせ、全員に鍵と共に配った。
   
   一事が万事! 添乗員の客さばきの巧みさは、随所に現れた。それだけではない。観光コースで案内すべき特徴を集約したメモ帳一冊を持参。客を飽きさせない努力は添乗員の鑑!
   
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トピックス

[1] フィンランド航空
   
   数年前から国際線でのエコノミー症候群が話題になっている。その対策からか、フィンランド航空ではエコノミー席でも、座席前(前席の背部)の雑誌などの物入れに500ccのミネラルウオーターが準備されていた。乗客からの依頼の度に客室乗務員が水を配るよりは効率的だ。この程度の機内サービスですらも、私には初体験だった。
   
   帰途の機内で、トイレに出掛けようとしていた中年女性が、気分が悪くなったのか我が座席から数メートル離れた通路で倒れて仰向けになった。スチュワーデスが携帯酸素ボンベを持ち出し、女性が寝たままの状態で20分位酸素吸入させた結果、症状は消えた。
   
   この女性の場合は軽い高山病だったのではないかと思った。成層圏飛行のジェット旅客機内の気圧は海抜2,000m前後(約0.8気圧)の外気圧に調整されている。昔は3,000m(約0.7気圧)程度だったと記憶しているが、日航ジャンボ機の圧力隔壁が金属疲労破壊を起こして御巣鷹山に衝突して以来、機内圧を上げるようになったのだろうか? 機体の構造力学的な安全面からは、内外気圧差が小さい(高空ほど機内圧力を下げる)ほど望ましいにも拘わらず・・・。 

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          大学航空級友・日本航空OBのコメント

   日航機の事故はボーイング社が行った圧力隔壁の修理ミスが原因であり、通常の部分が疲労破壊を起こした訳ではない。(修理ミスの部分が強度不足で、局所的に繰り返し加重で疲労破壊を起こしたことはあったにしても)

   日航機の事故後に、機内圧を上げるようなことは無かったと思う。

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   搭乗中の水分不足から血液の粘性が増し、血液の流れが悪くなって血栓が発生し、脳梗塞などを発症した場合、エコノミー症候群と称してマスコミが喧伝した結果、皆が注意するようになった。しかし、減圧症(異常気圧症候群、高山病の一種)については、旅慣れた人でも注意を十分には払っていないようだ。
   
   機内圧力が下がると血管が膨らんで血圧が低下し、血流が不足して脳貧血に至り、軽い酸欠症状を発生すると立ち眩みを起こしやすい。私が目撃した女性の場合、酸素吸入で元気になったので、軽い高山病(減圧症)だったと推定した。
   
   ほぼ同時刻に反対側の通路でも『若い男性が倒れた』との噂が流れてきた。添乗員の体験では大型旅客機の場合、毎回数人が何らかの症状を起こしているそうだ。症状が重い場合、機内放送で乗客に呼びかけると、何人かの医師が大抵名乗り出るそうだ。
   
   海外旅行愛好者の対人口比率を50%(6,000万人)、医師の場合は100%(27万人)と仮定すると医師比率は0.5%弱となり、400人くらい搭乗している大型機に2人の医師が乗り合わせていても不思議では無い。高額所得者層に属する医師の海外旅行頻度は国民平均値よりも高いと推定できるので、搭乗員の体験談とも何ら矛盾しない。
   
   海外旅行も大衆化し、エコノミー症候群の情報もマスコミの効用で普及したのか、乗客が寝静まっている深夜の時間帯でも、まるで徘徊老人かスリかと間違われかねないような姿で、何人かが通路を何時も行ったり来たりするので、安眠も出来ず煩わしくなった!
   
[2] 同行者

① 親孝行息子

   80歳になられたお母様の希望を喜んで(?)受け入れた50歳代の息子が、付き添いとして参加していたのには同行者の誰もが驚いた。

   『職場の重責を担っている今、良くぞ1週間余りも会社を休めましたね!』
   『出社したら、机が撤去されているかも・・・』

と、冗談を返しつつも、常時お母様の付き添いに没頭された。観光時の手荷物運びだけではなく、観光バスの乗り降りにも細心の注意を払われていた。

   観光専用バスは一般交通機関のバスとは異なり、床下格納庫に客の大型旅行鞄を収納するため、床面が高い。狭くてしかも急傾斜の階段の昇降は高齢者には意外なほどの難関となる。同行者は危険防止のため、この親子が階段を使う時は無事に昇り降りが完了するのを確認できるまでは、階段付近に近付かない配慮をするようになった。

   『親孝行、したい時には親は無し』というのは昔話。私の周りには定年後になっても、両親の介護で疲れ果てている人が大勢いる。それどころか義母の看病に疲れ、遂には奥様がくも膜下で先に永眠された知人すらもいる。しかし、ご両親を介護しながら海外旅行にまで出掛けた、との所謂美談は噂程度でも我が耳には響かなかった。

   私の知る唯一の例はトヨタ後輩で郷里が福岡県との誼(よし)みもあって、夫婦共々お付き合いをしていた故トヨタ自動車役員(元ゴルフ仲間・東大航空原動機・残念ながら数年前にがん死)だけだ。母子家庭に育った氏は、昭和40年代の初めの身軽な独身貴族時代にお母様と香港旅行に出掛けた。

   多くの人の親孝行は『口ばっかり!』と言うのが世間の実態だ。私もその一人だった。昭和48年の春、初めての海外出張で米国に出掛けた(当時の出張はエコノミー席だった。帰途のハワイ発羽田行きのジャンボ機での隣席には、野村證券の専務夫妻! ゴールデンウィークを活かしての夫婦で初めての海外旅行だったそうだ。一般国民には海外旅行は高嶺の花の時代だった)。そのときの追憶記を22年後の平成7年に書いた。その最終章は以下のようなものだ。

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   今でこそ海外旅行は国内旅行よりも安くて手頃になったが、僅か20数年前は人生の一大事だったのだ。『井の中の蛙、大海を知らず』とか『百聞は一見にしかず』などと、海外旅行のチャンスなどあり得なかったにも拘らず、大昔の哲人はよくぞ喝破したものだ。

   昭和48年の暮れ帰省の折りに、独身時代から旅行だけが趣味だった69歳の父に、山のような資料を使って海外の魅力について語った。『人生のラストチャンスです。私は遺産は1銭も要りません。海外旅行は簡単に出来ます』

   翌年、父は母と共にハワイヘ出掛けた。一度出掛けると後は病み付きになった。最低でも年に一度は二人で出掛けるようになった。帰省の折々に父は『カナディアン・ロッキーは素晴らしかった。香港のスラムの住民は可哀そうだった』などと一頃の無口状態から一転、私にもよく喋り掛けるようになった。最後の旅行は79歳の時だった。体力と気力とは連動しているかのようだ。

   80歳代になると『海外も飽きた。国内の温泉の方が気楽でいい』と関心も変わって来た。数年前にその父も87歳で天寿を全うしたが『お金も使わずに済んだ数少ない、私の親孝行だった』と今なお確信している。

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② 78歳のお爺さんと3人の孫

   奥様に先立たれたお爺さんは海外旅行に単独で時々参加していたが、話し相手も見つからず面白くなかったそうだ。ある時、孫と一緒に参加されている方を発見! 『これだ!』と直感。爾来孫に声を掛けるようになった。

   現役時代は中学校で主として社会科、時には英語も担当。そのためか歴史や地理への関心も深まり、海外旅行を楽しまれるようになった。

   5人の孫の内、大学4年の男女及び大学1年の女子学生と一緒だった。男子学生は数学教師を目指しているとかで、元教師のお爺さんは事の外嬉しそうだった。出発直前に生まれた『ひ孫』の写真と、お爺さん宛てにひ孫の代筆で孫の女性が書いた形式の感謝状も持参して、バスの中で同行者に回覧された。

   平均寿命が延びたとはいえ晩婚化が進んでいる日本で、ひ孫の誕生に出会える人は幸運だ。67歳の私の場合、最長老の孫は小1の女児。ひ孫に出会える可能性は限りなく小さいと既に諦めている。多重がんが完治したとはいえ、後20~25年も生き延びることは有り得そうに無いからだ!

   今回の旅行中にお爺さんは78歳の誕生日を恙(つつが)無く迎えられた。パスポートで誕生日を事前に知り得る立場にある旅行社から、夕食時にお祝いのケーキが贈られた。流石は元教職! 簡潔な中にも感謝の気持ちが滲み出た、即妙の挨拶をされた。

③ 元銀行員

   滋賀県生まれ。京都大学経済学部に行きたかったが高校の先生から無理だと宣告され、大阪市立大学商学部に進学後、大手都市銀行に就職したとの自己紹介。69歳。

   『大阪市立大学とは凄い! 三商大(現在の一橋・神戸・大阪市立大学)の一角ですね。トヨタ    自動車にも三商大出身者は大勢いますよ。奥様、優秀なご主人と出会えて幸せですね』と褒    めたら、横浜育ちの奥様は、

   『私は大阪市立大学という大学があったことすら全く知りませんでした。それなのに主人ときた    ら、三商大の一つだと、何回も私に自慢したのですよ』
   『私の勤務先の上司に旧制最後の東京商大卒がいました。彼は一橋大卒とは一度も言わず、    俺は東京商大出身だと言うのが口癖だった』とご主人。

   旧制大学卒は累積修学年数が新制大学卒よりも1年長い17年間だった。旧帝大の場合は新旧とも大学名が同じになっているため、その差をことさら強調したいためか、旧制卒の人には履歴書等には『**帝国大学卒』と書く人は多かった。

   しかし、自己紹介のときのように面と向かいあっている場合には、敢えてそれを口にされる人は我が身辺には殆どいなかった。事実には違いないのだが・・・。

   『昭和30年代に金融機関に就職した人はバブルの頃までは人も羨む人生でしたね。高収入だけではなく、従業員向けに只同然の低利で会社が5,000万円くらい無担保融資をしてくれたので、投資を兼ねてゴルフの会員権やマンションなども買っていました。

   所がバブル崩壊後には会員権やマンションが暴落しただけではなく、肝心の勤め先まで経営危機を迎え、50歳以上は全員リストラ。収入は激減したのに借金だけは目減りせず、半減した退職金では借金も完済できず、との暗夜行路を聞いた事がありますが、本当ですか?』

   『全くその通りですよ。私の場合、収入も退職金も半減。退職後は友人の会社の経理を担当していましたが、半年で倒産! やっと見つけたゴルフ場の経理の仕事をしていましたが、2年半で辞めました』。

   氏は60歳になって、厚生年金が貰えるようになったので、低賃金が馬鹿馬鹿しくなって退職したのであろうか?

④ 親と娘

   このお2人には驚いたと言うよりも仰天した。朝食のときにお婆さんが『CNNでは、アメリカのハリケーン***が・・・』と気楽に話し掛けられるので

『英語に強いのですね!』と問い掛けると
『私は英字新聞を毎日読んでいます』。傍らの中年の娘は
『うちのマザーは・・・』。日本語の中に英語が混入するとは!

   日本にもバイリンガルのお婆さんがいたのだ!

⑤ トヨタ後輩

   20年間も南ア・タイ・シンガポール・フィリピンなどに駐在していた知人から、今春突然電話があった。氏と面識はあったが職場の建物も離れていたし、何かを一緒に楽しむような特別なお付き合いもしていなかった。

   『転籍先の会社を退職し帰国しました。ゴルフをしたいのですが・・・』
   『加茂ゴルフ倶楽部だったら、平日は会員1名につき同伴ビジター1名は会員料金でプレイでき    ます。毎月第4水曜日には仲間と共にプレイしていますから、良かったらどうぞ』

との経緯で氏とのお付き合いが始まった。長い間、海外駐在をしていると国内でのお付き合い仲間も少ないようだ。ゴルフの折に

   『バルト三国に一緒に行きませんか? 今までスポーツ仲間数十人に声を掛けたものの、誰も    賛同者がいない。最近は海外旅行にも飽きてしまった人が多くて・・・。家事嫌いの荊妻は外    出したくて月~金まで連日4時間の講師稼業。多重がんの経過観察中の私は余命幾ばくも     ないと覚悟し、体力のある間は海外旅行をしたいので、仲間がいなければ追加料金を払って    でも単独参加の予定ですが・・・』
   『海外駐在中に近隣のアジア各国は多少出掛けたものの、欧州には殆ど縁が無かったので、   行きます』との即答を得た。良かった、よかった。

   氏は岩手県小岩井農場の近くの出身。20年間も熱帯で生活すると体質が変わるらしく、寒がり屋になったとか。長男の氏が長女の奥様と結婚したため、自宅には宗派が異なる両家の仏壇が2個あるとか。少子化の先取り一家みたいだ。話題も多岐に渡り、退屈する暇もなかった。
   
   海外を飛び回っていた氏は、査証のページを追加したパスポートを更に長持ちさせようとして、入出国のスタンプが押される場所にボールペンで格子状の線を引かれていた。几帳面な係官は氏の意図を察し枠の中にスタンプを押してくれたが、我関せずとばかりに線上にスタンプを押す人もいる、と不満をこぼしていた。
   
   今後も氏と海外旅行が出来そうだ、と期待を膨らませていたら、『新しい職場を独力で見つけた。平成17年12月からバンコックに駐在。郊外には家までも建てた』との意気込みを聞いてがっかり、がっくり。律儀な氏は我がゴルフ仲間『加茂石(石とは石松の略)会』の年末恒例の懇親会(11月27日)にも参加して挨拶をされ、12月15日に離日。いとさびし。

[3] タオル掛け

   最近、各地のホテルで『環境汚染を避けるため、連泊の場合にバスタオルなどは再使用して欲しい』との提案書を見ることが多くなったが、私は協力したことが無かった。再使用した客への見返りをしてくれるホテルには出会わなかったからである。これでは環境汚染を口実にしたサービスの手抜きに他ならないからだ。
   
   ところが今回の旅行ではどのホテルもまるで談合したかのように、浴室のタオル掛け(どのホテルでも、タオルとバスタオルが各2枚ずつ干せるように4本のパイプで構成されていた)に温水が通されていた。タオルが一晩で完全に乾くだけではない。浴室が結果として暖房もされていたのだ。こんな快適なサービスは初体験だ。ホテルによっては浴室に床暖房(これも初体験)も導入していた。
   
   浴室に温水が来ているのならば、客室の暖房用配管にも温水が来ているのかと確認したら、こちらは冷たいままだった。タオル掛けの配管には振動もなかったし、音も発生していなかったので、温水の熱源は電気だったのかも知れない。

[4] 民家の窓

   北欧の冬は寒い。当然のことながら窓ガラスは二重になっていた。その窓ガラスが何処の家でもピカピカに磨いてあるのに驚いた。商店街やオフィスの窓ガラスは日本でも良く磨かれているが、民家はイマイチだ。

   北欧の人たちの『太陽光線を少しでも多く取り入れたい』との執念の賜物に思えてならない。日本とは丁度2ヶ月の気温差を感じた。9月下旬の日本はまだ暑かったが、北欧の9月は日本の11月にそっくりだ。

   翻って我が家の窓ガラスは年末の大掃除の時に磨くのがやっと。しかし、寒いし水も冷たいので手抜き作業に終始していた。ガラス拭きは環境の良い春秋がベストなのに、スポーツに明け暮れて今までサボり続けた。

   私には太陽の光は現状の半分で十分だが、北欧人の健気(けなげ)な努力に魂を揺さぶられた今後は、気合を入れて磨く気になった。諸道具(数年前から流行しているスティーム・クリーナーとかガラス拭き専用のワイパー等)はとっくの昔に買っていたのだから・・・。

[5]食べ物
   
   昼食と夕食には各国の伝統料理も出されたが、特に印象に残った名物はない。3年前に胃がんの手術を受けて胃が1/3になり、空腹感はあるのに胃が満杯になると食べられなくなるためか、何時も摘み食いに終わるのが情けないからでもある。

   しかし、朝食は楽しかった。どのホテルもバイキングシステムだった。ほんの一切れずつ全料理の摘み食いに明け暮れたが、好物の燻製は常に出されたので満足した。日本の観光ホテルも朝食のバイキング化が進んだが、何故か燻製は無く、物足りなかったのだ。
   
[6]バルト三国比較表(データは目安)
エストニア(北)   ラトヴィア(中)   リトアニア(南)

45,213平方km         64,589平方km       65,200平方km
135万人            232万人          343万人
エストニア語          ラトヴィア語        リトアニア
(フィン・ウゴル語)     (印欧語)         (印欧語)
6,574$/人          4,762$/人 6,486$/人
プロテスタント        プロテスタント        カトリック
フィンランド文化的      ドイツ文化的        ポーランド文化的

人口構成の変化        1935年⇒1993年

エストニア人88.2%⇒66.0%  ラトヴィア人77%⇒53.5%  リトアニア人69.2% ⇒80.6%
ロシア人 8.2%⇒32.8% ロシア人 10.3%⇒40.9%   ロシア人 2.9% ⇒11.4%
  
   バルト三国は隣接していてもその言語・宗派は微妙に異なるだけではなく、南に行くほど人口密度が高くなる。一人当たりのGNPは似通っているが、かつてのソ連邦の中では最も豊かな国々である。
   
   バルト三国はいずれも多民族国家であるがソ連に編入された後、民族の構成比率が短期間に激変した。ラトヴィアとエストニアではロシア人が激増した。リトアニアからはユダヤ人とポーランド人が激減した結果、リトアニア人の比率が増加したが、ここでもロシア人は増えた。
   
   ロシア人はかつて各国に支配階級として移住・進出した。ロシアよりも気候は温暖でしかも所得水準の高いバルト三国への移住は国家の指示とはいえ、望むところであった。しかし、バルト三国の独立により少数民族の立場に転落し、公務員として採用されるためには公用語としての各国語を学ばざるを得なくなった。
   
   兵役の義務も課せられているが、最果ての地に飛ばされるかもしれないロシア兵の場合と比べれば、任地は限られる上に快適だから、ロシアに帰国するよりはまし、と考えているそうだ。

[7] 各国間の移動

    ① 交通機関

      ヘルシンキ(フィンランド)⇒ヴィリニュス(リトアニア) 旅客機
      ヴィリニュス(リトアニア)⇒リガ(ラトヴィア)     バス
      リガ(ラトヴィア)    ⇒タリン(エストニア)    バス
      タリン(エストニア)   ⇒ヘルシンキ(フィンランド) 旅客機

    海を渡るときのみ旅客機を使い、バルト三国間の陸上での移動は総て専用バスだった。

② 出入国

   バルト三国は2004年5月1日にEUへ加盟していたのに、三国間の出入国ではパスポートが必要だった。バスは国境に到着すると一時停止した。添乗員がバス車内で全員のパスポートを集め、国境の事務所に持参。程なく国境の係官が受け取ったパスポートを鷲掴みにしてバスに乗車。一人ずつパスポートの写真と本人の顔とを一瞬の時間だが照合し、そのまま各人にパスポートを返還。

   係官が下車すると、バスはそのまま出発した。この間の全所要時間は10分程度。単なる形式的な作業に感じた。
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移動日

[1]  ヘルシンキ⇒ヴィリニュス

   ほんの半世紀前の昭和27年(1952年)にオリンピックがヘルシンキで開かれた時、日本選手団は船旅だったとかでフィンランドは最も遠い欧州だった。しかし、航空機時代では日本に近い欧州へと逆転。とは言え、まだ日本人は余り出掛けない国だろうと思っていたら、認識不足を痛感させられた。

   成田発の大型旅客機は満席に近い賑わい。一見して判ることだが殆どは観光客だ。各旅行社の団体グループが数え切れない。ヘルシンキ空港内では添乗員がツアー客の点呼確認場所の陣取り合戦に追われている。添乗員は女性が殆どだったが、中には男性もいた。

   ヘルシンキからバルト三国最南端の国リトアニアの首都ヴィリニュスへと向かった。バルト三国の国名は覚えていても首都名を知っている人は何故か少ない。それだけ日本人とは縁が薄いのだろうか? 眼下には緑に覆われた無数の小さな無人島が、バルト海の松島と名付けたくなるほどに現れた。漁業資源の豊かさを感じさせられる。

[2]  ヴィリニュス

   ヴィリニュスの空港には17:20着。小国の利点の一つは首都も小さく、空港から都心までの距離も短い点にある。荷物を部屋に置くや否や、夕食前の一瞬を活用すべく夕闇の中へ飛び出して、民度を把握すべく直ぐ近くのスーパーに駆け込んだ。

   1,000平米くらいの小さな売り場だったが、魚売り場が大変綺麗だった。ドイツ系のスーパーの魚売り場にそっくりだ。砕いた氷を分厚く敷き、その上に魚を並べていた。刺身にも出来そうな鮮度の魚だ。魚は客に触れられないように透明なプラスティックの板のカバーで客の位置から隔離されている。衛生管理には日本の肉屋並の配慮がなされている。

   商品の半分は燻製だ。ほとんどの種類の魚は燻製にされている。欧州では乳製品やハム・ソーセージ等の加工食品だけではなく、魚も調理が不要で保存も効くためか燻製の方に人気がある。お土産にどっさり買いたかったが、旅の初めだったし荷物になるので諦めた。

   傍らには水槽があり、魚が元気に泳いでいた。欧州で初めて見た店舗内の水槽である。しかし、刺身のような生魚を食べる習慣に乏しい欧州で、コストのかかる活魚を敢えて売る目的は何なのだろうか? トルコの田舎のレストランでは水槽をしばしば見かけたが、刺身用ではなく焼き物か揚げ物用だった



   バブルのころは『豊田そごう』にも水槽があったが、その跡地で営業している『松坂屋豊田店』のテナント中島水産(高島屋・三越・大丸・伊勢丹など大手百貨店のデパ地下に軒並み進出している魚屋)は水槽を撤去したまま。日本各地の百貨店やスーパーでも水槽のある活魚売り場は今や激減している、というのに。
   
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ヴィリニュス

[1]朝の散歩

   今回の旅行社(近畿日本ツーリストの子会社、クラブツーリズム)は『阪急交通社』と比べると、お土産物屋に連れ込まれる回数も少なく、時間に余裕のある日程を組んでいた。朝のゆとり時間を活かして、同室の友人とホテル周辺の散歩へと地図を片手に出発。デジタル人間と渾名される私は方向音痴。アナログ人間の友人は百万の援軍だ。一筆描きの道を選んで延べ3Kmくらいを散策。
   
   北欧各国は交通安全を目的に日中でも車の点灯は義務付けられている。バルト三国は欧州でたとい最貧国に属していようとも、さすがは文明国だ。この種のルールの遵守意識は高い。数年前に日本でも冬季での点灯が奨励されていたが、何時の間にか廃れてしまった。私は積極的に点灯していたが、対向車のドライバーが私の消し忘れと勘違いし、注意を喚起する合図をしばしば善意から送るので、とうとう根負けして点灯主義を放棄した。
   
   7時ごろなのに既に道路工事は始まっていた。石畳の調達はコストが掛かるのか、コンクリートの厚板(50*50*10cm位と推定)を敷き詰めていた。2004年の秋に目撃したケルンの中央駅前広場の舗装工事と同じやり方だ。アスファルトほどの滑らかさは得られないが、繁華街での車速は自然に下がるし、舗装の耐久性は格段に高い。日本も真似すべきだと思う。
   
   幅の広い歩道には2坪サイズのキオスク(ミニ・コンビニ)が営業中だった。新聞・雑誌・ベストセラー・タバコ・飲物などの主力販売品はJRのホームの売店にそっくりだ。街中には早朝開店の店がほとんどないためか、客が群がっている。
   
   街路樹は落葉の真っ盛りだった。夜明け前の交通量の少ない時間帯に、蛍光塗料が光るタスキを掛けた清掃人が幹線道路や公園で一斉に働いていた。お陰で日中、街は美しく維持されている。

   自家用車はまだ少なく、交通機関の主力はバスかトロリーバス。大勢の市民が停留所に集まっている姿は我が学生時代の日本(昭和30年代)を思い出させる。トロリーバスは1台ずつ独立に走行しているはずなのに、何故か半分くらいは2台がくっついた団子になって走行していた。
   
   普通のバスとは異なりトロリーパスは前のバスを追い越すことは不可能である。始発時には1台ずつ離れて運転していても、交通信号や渋滞で停車中に後から来たバスが追いつき、団子運転になるのではないかと推定したが、すっきりとした論理は思いつかなかった。
   
[2]杉原千畝氏の顕彰碑

   ヴィリニュスのホテルの前方には東のベラルーシから流れてくる国際河川ネリス川が、満々と水を湛えながら緩やかに蛇行していた。ホテルと川岸との間には幅100m位の緑豊かな公園風の緑地帯が川に沿って美しく広がっていた。その中央部に早稲田大学(杉原氏の出身大学)がリトアニアに寄贈した、赤御影石製の杉原氏の大きな顕彰碑(2*2*2m位の大きさ)が建てられた。ほんの数年前のことだ。



   ガイドが移動中のバスの中で『あれが杉原さんの顕彰碑です』と一言紹介しただけで通り過ぎようとしたので『バスを留めてください。写真を撮ったら直ぐに戻るから』と注文。私には世界遺産を見るよりも、もっと価値があると考えられたのだ。結局、全員がバスから降りて、じっくりと見学した。

   顕彰碑には杉原氏の功績を称える解説に加えて、上半身の浮き彫りも飾られていた。顕彰碑の周りには100本の桜の木も植えられ、日本とリトアニアとの交流の深まりを演出していた。誰かが『こんな寒い国で桜が咲くのでしょうか?』と呟いたので『桜は見かけによらず、南国のみかんや北国のりんごに比べ温度変化には強い木ですよ。日本では沖縄から北海道まで何処ででも花が咲きます』と、蛇足。
   
   杉原氏の功績が関係機関によって再評価されるには何と半世紀も必要だった。リトアニアの独立を機に、『スギハラ通り』がヴィリニュスの郊外に誕生した。更に日本とリトアニアとの国交樹立を機会に杉原氏の名誉も回復された。杉原氏の出身地岐阜県にも顕彰碑が建てられた。イスラエル政府も杉原氏を恩人として表彰した。今日の外務省官僚の堕落振りを、天国の杉原氏はどんな心境で受け止めているのだろうか?
   
[3]  トラカイ城

   トラカイはヴィリニュスの南西27kmにあるリトアニア公国の初期の都。道中数え切れないほどの小さな湖が点在していた。氷河時代の遺物としてリトアニアには湖が3,000ヶ所以上あるそうだ。リトアニアでは5,000平米を超える自然に出来た水溜りを湖に分類している。殆どの湖は大変小さいが、平坦な国土の単調な風景に遠近の立体感を与え、全土を公園のように美しく感じさせるだけではなく、疲れた心身を心底から癒してくれる大いなる自然の恵みだ。

   トラカイでは一番大きなガリベ湖のほとりに、トラカイ城があった。湖岸から長さ100mの木製の橋を渡ると赤レンガ造りの城(元は要塞)に辿り着く。円柱に円錐を載せた形や角柱に四角錐を載せた形の建物などデザインは様々。美しい湖の中の小島で鬱蒼たる緑の木々に取り囲まれたカラフルなお城は、おとぎの国かと見間違うほどに美しい。
   
   建物も高々20m前後なので大きく育った樹木とのバランスも取れ、見ていて心が癒される。100mもあるような高層建築だったら興ざめだ。建物内はお決まりの博物館だが、私にとってこれらは付けたしの展示物くらいにしか感じられない。ソ連から独立して間もない新観光地のためか、西欧からの観光客で溢れ、建物内の狭い階段では帰途の客とすれ違うのに、あちこちで待たされた。


   湖岸には無数のお土産物屋があり、民芸品を初め北欧名物の琥珀の装飾品も豊富。暇つぶしに眺めはしたものの、買い求めたいとの衝動はどうしても誘発されなかった。民芸品は自宅に飾るよりも、その土地にあるお土産物屋の店頭で眺めて楽しむのがベスト、と旅での心境が何時の間にか変わってしまったのだ。

   橋の袂にはアコーデオン引きのお爺さんが一人ポツンと椅子に座っていた。私と視線が合うや否や、突然日本人好みのロシア民謡(私も大好き)を弾きながら歌い始めた。無視して通り過ぎるのには余りにも心が痛む。最後まで聞き終えて1$札をプレゼントし、二人揃っての写真を通りすがりの外人観光客に撮ってもらった。お爺さんは、日本語で『ありがとう』と一言ポツリ。

  
   湖岸には数十艘もの白いヨットが停泊中だった。波の穏やかな湖でのヨット遊びは天国のスポーツに思える。貧しいはずとの先入観でリトアニア国民を評価していると予期せぬ誤解を生みそうだ。ソ連から開放され市場経済化が進んだ現在、新富裕層が着々と誕生している何にも勝る物的証拠に感じられてきた。
   
[4] ヴィリニュスの市内観光

① 十字架の丘

   市内を見下ろせる高さ50mくらいの丘に出掛けた。途中でバスを降り、徒歩で急な坂道を登った。丘の頂上には高さ10mくらいの大きな3本の十字架が聳えていたが、その不恰好なデザインにはいささか落胆。教会内で見慣れた薪(たきぎ)のような木製の十字架とは余りにも異質なため、違和感に襲われたのだ。

   50cm角くらいの断面を持つ鉄筋コンクリート製角柱の先端から1m下の位置に、角柱と同じ断面を持つ一体構造の角柱が左右に1m位飛び出している。その十字架が3本、円盤状の基礎の外周に沿って等間隔に外向きにそそり建っていた。
   
   伝説によれば、この丘の上でフランシスコ派の7人の信者が殺されたが、その内の3人は磔(はりつけ)にされた。17世紀に十字架が建てられたが、ソ連に破壊された。独立運動の高まりと共に再建され、1989年6月14日(スターリンによる流刑が始まった記念日)に除幕式が行われた。

   関係者にとってはたといどれほどの神聖な十字架であっても、部外者の私には前衛絵画を見て困惑するのに似た印象を持つだけだった。
   
② 大通りの車両進入禁止装置

   この日は何かの行事日らしく、市内見学時には大通りへの車の進入は禁止されていた。早朝の散歩時には車は自由に出入りしていたので、進入禁止時間は昼間の特定時間のようだ。そのときに目撃した車両進入禁止装置のアイディアの素晴らしさに驚く。横断歩道に並行する一直線上に特製装置が5セット並んでいた。

   直径が40cm、高さ(長さ)80cmくらいの金属製の頑丈なピストン状の円柱が道路の下に埋設されており、スイッチを押せば自動的に地上へと競り上がってくるのだ。平常時は円柱の天板(上面)は道路面と同じ位置にあり、マンホールの蓋のように見えるだけだ。



   日本ではこのような場合、赤い三角帽子を並べるか、進入禁止の携帯型スタンドを並べるか、縄を張るくらいで、不細工な応急処置の域を出ない。これらの場合、道具入れの倉庫も必要だし、使う度に持ち出したり後片付けをしたりの無駄な作業が永遠に続く。彼我の知恵(発想)や美意識の差に、私は驚愕したのだ。

   私が目撃した時刻では、2本だけピストンが道路上に飛び出して新たな車の進入を阻止し、反対側の2本と中央の1本は道路内の車が全部排出されるまで、道路の下に収納された状態だった。 
   
③ 聖ペテロ・パウロ教会

   14世紀に建てられ、1668年に修復工事が行われたカトリック教会。教会の建物そのものには、欧州各地の大聖堂のように規模を誇示するかのような威圧感は無く、外観にも特別な特徴も無いが、内部に一歩入った途端にびっくり仰天!

   イタリアの彫刻家ペレッティとガリーの指示の下に、200人以上もの彫刻家を動員して10年がかりで完成させたという、2,000体を超える彫刻が柱・壁・天井を埋め尽くしていたのだ。神話や聖書に題材を取った聖像・使徒・天使・動物などの彫刻群に取り囲まれると、『過ぎたるは、尚及ばざるが如し』とも言い難く、異次元の世界に連れ込まれた心境になった。

④ ヴィリニュス大学

   大学までもが観光資源化していた。日本では北大の時計台のようにほんの一部の歴史的な記念物が観光資源化してはいるものの、大学全体が観光地化し外国人が殺到するようなところは全く無い。

   1570年にイエズス会によって設立され、バルト三国では一番歴史があり、医学部もある総合大学(一説によれば旧ソ連圏でも最古の大学らしい)。狭い敷地には9,000人(一説では2万人)の学生がひしめいている。大学といっても日米の大規模大学のキャンパスとはまるで異なり、緑地帯やグラウンドなどの空間は殆ど無く、古い小さな建物が無秩序にひしめき合っているだけだ。

   都心の一角にあり、しかも塀の無いオープンキャンパス方式なので、此処が大学と言われなければ一見(いちげん)の観光客には、商店街や遊び場も無いのに若者がやけに多いな、と不思議に感じるだけの存在だった。

⑤ 聖アンナ教会

   バルト三国には山といえるようなものが無いために石の調達が難しいのか、レンガ造りの教会が多い。33種類もの形が異なる赤レンガを焼き、積み木のように組み立てた聖アンナ教会の造形美には、加工コストが掛かるためか曲線や曲面の少ない石造教会とは違った柔らかな美しさがある。赤レンガの輝きと緑の芝生や大木との対照が一層美しさを引き立たせる。
   
   ナポレオンがモスクワ遠征のときに立ち寄り『この教会をフランスにまで持って帰りたい』と発言したとの伝説が残っている。私は教会の内部の装飾よりもその外観の美しさに、暫く見とれた。

⑥ ゲジミノ城跡の丘

   ゲジミノ城はネリス川やヴィリニュスの市街を眼下に見下ろす丘の上に14世紀に建てられ、その後ロシア・ポーランド戦争で破壊されたが、残っていた塔が博物館として公開されている。
   
   この城は絶好の観光スポットなのに旅行社は、此処へ登るケーブルカーの信頼性に疑問がある(走行中に突然停止し、大騒ぎを起こしたことがあるそうだ)との理由で、募集時には予定されていたのに何時の間にか見学コースから削除され、前記の十字架の丘に変更されていた。
   
   ヴィリニュスの中心部で解散となり、自由行動になったので、友人と市内を2~3km散策しながら、城までの坂道を歩いて登った。塔内の螺旋階段を74段登って屋上に出ると、文字通り『絶景かな!』だった。
   
   高層ビルは殆ど無く、赤い屋根と意外に多い緑の対照が美しいだけではない。電柱や電線が殆どなく、けばけばしい広告も殆ど見当たらない。電気時代以前の中世の都市景観が今尚残っている。都市全体が世界遺産に登録されているのも、宜(むべ)なるかな!
   
   帰途は坂道と反対側に設置されていたケーブルカーで降りた。上・下の駅に切符の販売員が各1名いた。改札が自動化(切符を挿入するとゲートが開く)されているだけではなく、ケーブルカーの運転も自動化され、中に車掌はいなかった。
   
   添乗員に『ケーブルカーの信頼性は充分にありましたよ』と言ったら、『旅行社宛にその旨の簡単な報告書を書いていただけませんか? 派遣社員の私達が報告しても聞いてくれないのですよ』と頼み込まれ、一筆啓上の薮蛇。
   
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カウナス

   中世の面影が今尚残るカウナスはリトアニア第二の都市。両大戦間の22年間は、ポーランドに占領されたヴィリニュスに代わり、リトアニアの首都になった。カウナスが日本人に取って忘れられない都市になったのは、杉原氏の勇気ある歴史的な功績にある。
   
[1]杉原記念館

    第二次世界大戦前の日本の国力を象徴するかのような、当時の貧弱な領事館が杉原記念館として日本人観光客を迎え入れている。杉原記念館にはバスがすれ違えないほどの、狭いくねくねとした細道を辿ってやっとの思いで到着した。途中路肩に駐車していた車が障害となり、ドライバーが車の持ち主を探し出し怒鳴りあう事態ともなった。

    杉原記念館は閑静な住宅街の中にあり、民家とさして変わらぬ狭い敷地の中に建つ小さな2階建ての建物だった。駐車場もなく観光バスは道路に留めざるを得なかった。そのみすぼらしい外観には力が抜けていくような寂しさを感じざるを得なかった。

   旧領事館の半分が杉原記念館、半分が日本文化研究センターとして活用されていた。屋外の壁にはリトアニア語・英語・日本語で『杉原“命の外交官”財団、杉原記念館』と、3行に書かれた銘板が掲げられていた。



   杉原氏はポーランドから日本領事館へ駆け込んだユダヤ人のために、出国のためのビザを外務省の意向を無視して発給した結果、約6,000人のユダヤ人の命を救った。当時は大人1枚のビザがあればその家族は全員出国できたので、発給したビザの枚数は千数百枚である。

   日独同盟の下では外務省は公式にはビザの発給を許可することは出来なかったが、杉原氏の行動を禁止はしなかった。いわゆる黙認である。黙認が通ったのは日本を遠く離れた外国だったからだと思う。

   杉原記念館には当時の執務室や遺品・参考資料が展示され、当時の古い記録と氏の紹介がビデオ30分に収録され上映された。場所も狭いため、見学には予約が必要だった。我がグループは10:00の予約に間に合うべく15分早めに着いた。
   
   待ち時間を利用して裏庭を見学。この近くの屋敷街の庭には大抵りんごが植えられていた。裏庭にも大きなりんごの木があり、正に食べごろだった。日本のりんごよりやや小さかったが、落果したばかりの無傷のりんごを食べたら、品種改良前の本来の味がした。『此処のりんごはおいしい!』と大声で同行者に紹介したら、遠慮がちにしていた数人が、私に続いた。
   
   私は命を救われたユダヤ人達に対し『杉原さんへの恩を忘れたのか!』と、叫びたかった。『生き延びた人たちは募金を募り、杉原記念館をもう少し立派にリフォームし、周辺の土地を買い駐車場を造り、遠来の客の便を図れないのか!』と。裏寂れた記念館を眺めると、『喉もと過ぎれば熱さ忘れる』ように、『恩知らず』とは人間の本性のことかと思えて情けない。
   
[2]カウナス城址

   カウナスを貫流するネムナス川は、13世紀のドイツ騎士団領地とリトアニアとの国境だった。ドイツ騎士団の侵略を防ぐため、ネムナス川の近くに造営されたのがカウナス城である。1363年には騎士団に破壊されたが、15世紀に再建された。
   
   現在は修復された塔と城壁の一部が観光資源として公開されている。厚さも高さも5mはありそうな城壁の上には茶色の屋根が付いていた。城壁の内部は倉庫かと思って調べたら、何の空間も無かった。石か土かが詰められていたのだ。
   
   城壁の周りは深い堀になっていたが、今では水も抜かれ一面に芝生が張られていた。城内には大木が植えられ、公園化していた。小学生の一団と出会った。片言の英語を話すのに驚いただけではない。別れ際に『Have a good trip!』との挨拶をしたのには心底驚いた。幼くして彼らは国際性を身に付けていたのだ。日本の子供達が初めて出会った外国人に親しみを込めて、こんな挨拶が出来る日は何時のことやら。



[3]十字架の丘

   『所変われば品変わる』という言葉は、ここの十字架の丘にぴったりだ。5,000平米くらいの面積、中央部の盛り土の高さが15mくらいの丘全体に、網の目のように細道が作られ、道の両側に大小さまざまな十字架が飾られている。巨大なキリストの立像も見かけた。蓋無しのお賽銭箱にはコインも光っていた。

   大部分は20~40cmくらいの小さな十字架だ。大きな十字架に小さな十字架がまるで千羽鶴のように鈴なりにぶら提げられている。十字架の総数はリトアニアの人口を上回るとかで、数え切れない。

  
   見学者用の大型駐車場から丘までの100m余りの参道沿いには露店が並び、様々な形の十字架や飾り物の彫刻品を売っている。見学者はここで十字架等を買い、名前や祈りの言葉を書き込み奉納するシステムだ。大宰府天満宮の合格祈願の絵馬とか、各地の神社でおみくじを木に括り付けるのと似た行動だ。
   
   十字架の丘の歴史は比較的新しい。1831年、ロシアに対する蜂起の後、処刑・流刑された人々のために作られ、何時しか抑圧された民族・宗教の象徴と化した。ソ連時代に何度もブルドーザーで破壊されたが、そのつど復活。今ではアメリカやオーストラリアなどに移った移民の子孫も、この地を訪れては十字架を飾るようになったとか。
   
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リガ

   ラトヴィアの首都リガでの早朝、ホテルの周りを散策。大通りは舗装もされ綺麗な町だったが、一歩住宅街に入ると、無舗装の道が残っていた。今や日本では超過疎地ですらも無舗装道路は消滅しているのに。1戸建ちは殆ど見かけず、低層の集合住宅が殆どだった。しかし、これらの集合住宅は日本で昭和30年代以降に激増した直方体の無味乾燥な公団型賃貸住宅とは異なり、一つ一つが外観にも凝り、一軒の大邸宅かと思われる美観が感じられた。
   
   無数の集合住宅が静かにたたずむ姿を、垂れ下がった大木の枝の隙間から眺めると心が安らいできた。建物の入り口にある郵便ポストの数から推定すると、1家族の家は大変狭い。せいぜい2LDKか? 
   
   自家用車は大変少ないが、建物から正装した元気なサラリーマンが吐き出されてくるのを眺めると、同所得レベルのアジアの発展途上国(例えばマレーシア。4,372$)とは異質の落ち着きを感じた。人生に満足しているかのような彼らの表情に出会うと、ほっとするのだ。最早ソ連時代の暗さは払拭されている。
   
   緑の多い住宅街では、公道の落ち葉は欧州各国の例に漏れず、ここでも住民が早朝から箒と塵取りを持ち出しての清掃。我が家は愛知県営の大住宅団地に隣接している。住民の一部とはいえ、車からごみを道路に捨てる輩が後を絶たない。ゴミは蓋も無い側溝に最終的には集積している。
   
   この集合住宅の周りには庭木や生垣、子供用のミニ公園などの緑地帯もあるが、住民にはその手入れを自主的にする気は全くない。年に一回、県が業者に庭木の剪定・草刈などの発注をするだけ。この彼我の違いは何に由来するのか? 『衣食足りて礼節を知る』のは今や、わが国では死語になったようだ。
   
[1] ドム大聖堂
  
   欧州には何百年も掛けて完成させた、各国民が誇りにしている大聖堂が各地に残されているが、リガの大聖堂にもそれらの建築史に負けない歴史があった。1221年に建設を開始し、ロマネスク様式の建物が1226年に完成。15世紀にゴシック様式に改築。19世紀の改築ではステンドグラスも取り付けた。
   
   しかし、この大聖堂を有名にしたのは建物ではなく、世界最大級のパイプオルガンにあった。長さ13mm~5m、6,718本ものパイプから構成され、音域は9.5オクターブもある。二階に設置されていたため下から眺めただけで、近寄ることも出来ず失望。
   
[2] 聖ペテロ寺院
   
   リガで一番高い建造物と言われている123.25mの尖塔が有名とか。石灯籠を高くしたような形をしていた。72mの展望台に登るのは時間不足で諦めた。私には広場のお祭りや露店見物の方に、より強い関心があったからだ。

[3] 三人兄弟の家

   『三人兄弟の家』はドイツ系の古い家のように、道路に面した正面の壁が凸多角形になった中世の家だった。エストニアの『三人姉妹の家』の名前の付け方を真似たそうだ。長い間、メンテナンスし続けた努力には一目置くものの、道路から眺めただけでは何の感慨も起きない。リガでは最も古い一般住宅として、今や建築博物館に昇格!
   
   三人兄弟の家の建設時期はずれていたため、様式や大きさも異なるが、3棟が仲良く隣接していた。なお、『三人兄弟の家』とは3棟の家全体の愛称であり、兄弟3人がそれぞれの家を建てたという意味ではない。

[4] スウェーデン門
   
   1698年、スウェーデンによる占領時代に造られた、リガにある唯一最古の門。門はアーチで出来たトンネルになっており、アーチの上には住宅が載せられた。
   
   この門には伝説があるそうだ。かつてリガの娘達は外国人に会うことを禁じられていた。ある娘がスウェーデン兵と恋に落ち、この門で待っていて捕らえられ、門の内側に塗り込められてしまった。爾来、真夜中にこの門を通ると、娘のすすり泣きが聞こえるようになったとか。
   
   西欧の大国と比べれば、観光資源で見劣りするバルト三国は、ほんの些細なことでも話題に登場させ、観光客に満足してもらうべく、いじらしいほどの努力をしているようだ。
   
[5] 広場でのお祭り

   小さな広場では地元のお祭りの真っ最中だった。民族衣装で着飾った若い男女が輪になってフォークダンスを楽しげに踊っている。別の一角には楽器を持ち込み、数名での伴奏を背景にして声自慢の女性が歌い続けている。

   広場の中央部にある、丸い大小の水盤を4段、結婚式の大きなケーキのように高さ3m位雛壇状に積み上げた噴水装置には、色とりどりの野菜や花が飾られていた。秋の収穫祭だったのだろうか? 大変目立つ異様な飾りだったので、この噴水前が自由時間後の集合場所に指定された。
   
   別の一角では立ち入り禁止の紐が丸く張られた内側で、ツルツルに磨かれた丸太が垂直に立てられ、制限時間内(1分?)に約10mの頂点まで登ると景品がもらえるゲームをしていた。出場資格は子供。両親は写真撮影に懸命。回りは見物客の人垣で一杯。時々割れんばかりの歓声と拍手が聞こえてくる。
   
   ご多分に洩れず、広場の周辺には露店市が立ち、人気店には10人くらいの行列。本物の蜂蜜が売られていたので買いたかったが、万一鞄の中でビンが割れて蜂蜜が漏れたりするのを恐れて我慢一筋。その代わりにキングサーモンの燻製(5kg程度)を一尾分丸ごと買った。
   
   日本のお祭りは何故か夕方以降に開催されることが多いが、こちらは昼間(夜はどうしているのか未確認)から、日光を燦々と浴びながら地域の人総出で祭りを楽しんでいるばかりではない。私達を初め、外国人観光客が何と多い事か! 
   
   地元民は自らが祭りを楽しむだけではなく、同時に観光資源の対象としても役立っている。『一石二鳥』の典型例の一つだ。
   
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タリン

[1] トームペア城

   エストニアの首都タリンの、旧市街の中心部は小高い丘の上にある。その一角にある11世紀以来改築を繰り返したトームペア城からのタリン市街の眺めは『絶景かな!』に尽きる。様々な形をした建物の屋根は明るい赤茶色で統一されている。建物間の木々の緑が美しく光る。都市景観は一朝一夕には完成しない。木々に霊魂が宿っていると感じるようになるには少なくとも百年は必要だ。
   
   日本では新宿・東京駅前・六本木・名古屋駅前に限らず各地に高層ビルが建ち並び、都市景観が一変し始めたが、香港の安っぽい高層ビル(時々、地震もないのに自己崩落している!)を高級化したようなものに過ぎず、何処に行っても潤いが感じられない。
   
   電線の地中化や看板の付け替え程度では解決しない本質的な欠陥だ。大木や緑地帯が余りにも不足している。川や湖などの水面が見えない。住民の生活の息吹が感じられないし、見えも聞こえもしない。
   
   かつて20歳代の頃は東京への出張命令が偶に降りると、天にも上るような嬉しさを感じたが40年後の今日、東京には何の魅力も感じることが出来ず、疲れた心も癒されなくなった。今や楽しい筈の同窓会でも、東京だと出掛けるのが大変億劫になった。
   
[2] 旧市街

   タリンの旧市街には、歴史ある外観の美しい建物が所狭しと温存されている。ロシア各地の教会にそっくりな葱坊主型の複数の屋根を持つアレキサンダー・ネフスキー寺院を見ると、かつてはロシアに併合されていたタリンの悲しい歴史を思い知らされる。

   ニグリステ教会の内部は美術館兼コンサートホールになっており、入場料を取られた。ここで30分間パイプオルガンの演奏を聴いた。パイプオルガンを弾く人と楽譜を取り替える人がペアで現れた。パイプオルガンは2階にあり、演奏者の背中を見ながら聴いた。指の動きは見えなかった。パイプオルガンの膨大な数のパイプと鍵盤との関係が判ったのは、ヘルシンキのテンペリアウキオ教会(後述)に出掛けた時だった。

   自由行動の時に歴史博物館にも出掛けたが、此処に限らず小国の博物館は、私には展示物が貧弱で何時も物足りなかった。この町は建物と景色との複合化された景観を外から眺めて楽しむところだと悟る。

   レストラン街の一角には地ビールのミニ工場があった。ウィスキー工場の蒸留釜のような特殊な形をした銅製の仕込み容器があったが、容器の形状とビールの品質とにはどんな関係があるのかは判らなかった。出来たてのビールを飲んだが、少し寒くなっていたためか、特別に美味しいとも思えず・・・。

   『いら、しゃいませ』と書かれた看板を見つけた。『っ』が『、』になっていたのだが、日本人観光客の増加を象徴している。花屋が10軒くらい横一列に店を出しているのには驚いた。商品にも価格にも殆ど差が無い。それぞれが得意先を持っているのだろうか?一ヶ所にこんなに花屋が集中しているのを見たのは初体験だ。

   花を愛するのは知性の象徴に思えた。ネアンデルタール人は死者をお花で飾って埋葬したことで有名だ。日本に華道はあっても日常生活からはすっかり遊離し、一般家庭に根付いているとは言いがたい。日本人は『人間に固有の、花を楽しむと言う心のゆとり』を失ってきたように感じられて悲しい。

   広場の一角に衣料品屋が何と数十軒もテントを張って店を出していた。その品質の悪さには驚いた。エストニアの生活水準を、一瞬だが覗いたような心境になってぎくりとした。夕方、再度訪れたら商品をダンボール箱に詰め込んでいる最中だった。毎日、商品を広場に運び込み、運び出す宿命にある露天商の苦労が偲ばれ、心が痛んだ。
   
   百貨店もスーパーも見かけなかった。しかし、どうしても見たかったので、地元の人に聞いたら、近くにショッピングセンターがあると教えてくれた。やっと待望のショッピングセンターに辿り着いたと思ったら、200平米くらいの小さな食料品店兼雑貨屋だった! 言葉と現実との何たる乖離!
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ヘルシンキ

[1]フィンランド

    ① フィンランドはスカンジナビア半島?

   生まれてこの方、フィンランドはスカンジナビア半島に属しているとばかり思っていた。ところがウィキペディア百科事典によれば、

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スカンディナヴィア半島(スウェーデン語:Skandinaviska halvön, ノルウェー語: Skandinaviske halvøy)は、南側のバルト海を内海とする、ヨーロッパ北方の巨大な半島で、半島はノルウェー、スウェーデンの二国からなる。

中央にスカンディナヴィア山脈が走り、北極海側は氷河が作り出したフィヨルドと呼ばれる入り江が続く。バルト海に面した側は、湖沼の多い平坦な地形である。両側でその地形が極端に異なる二面性があり、世界的に見ても、多彩な自然環境を持つ半島であると言える。

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   つまり、フィンランドはスカンジナビア半島の国ではなかったのだ。大陸棚の資源は沿岸国に属するとの論理に従えば、スカンジナビア半島に属さないフィンランドは、ロシアに属すべき土地と帝政ロシア人も考えたくなったのだろうか?

    ② ムーミン

   日本のテレビ漫画でムーミンはアルプスの少女ハイジやサザエさんと並んで、子供向け番組の視聴率のトップ争いをするほどの人気を博していた。そのムーミンの原作者はフィンランドの女性作家ヤンソンである。
   
   ムーミンは『河馬』からの連想で生まれたのではないか、と誰もが想像しがちだが・・・。深い森の中でひっそりと暮らしている、と北欧の人たちが想像している、妖怪でもなく妖精でもない『トロール』という生き物に由来しているそうだ。
   
   今やムーミンはヘルシンキではディズニーのミッキーマウス以上の人気キャラクターとなり、ぬいぐるみやTシャツなどのお土産品の定番。ヘルシンキ大聖堂前のお土産品屋では日本人社員が大勢いるほどの賑わい! 日本の女性は何故この種のお土産品に魅力を感じるのだろうか?

   それどころでは無い! ヘルシンキの西にあるナーンタリでは、入り江に浮かぶ小さな島全体に、とうとうテーマパーク『ムーミンワールド』を建設。ムーミン谷さながらの深い森の中にムーミンやヘムレンさんの家、ムーミンパパの船などが並ぶ。森の中を散歩中にムーミン一家に出会ったり、ムーミンやヘムレンさんの家の中に入ったり、ムーミンたちの演じるショーを見たりして、物語の世界に浸ることが出来るとか。

   日本にも世界に誇れるような昔話が沢山あるのに、それらを生かしたテーマパークが無いのが寂しい。

    ③ サンタクロース村

   フィンランドの北部、北極圏の南端近くのロヴァニエミ町にはとうとうサンタクロース村が建設された。フィンランド式明治村だ。敷地内にはサンタクロース・ポスト・オフィス、ショップ、レストラン、サンタクロースがいるサンタクロース・オフィスもある。

   クリスマスシーズンに届けられるサンタメールは、オフィスに用意されている申し込み用紙に自分宛のあて先を記入すれば済む。本館にあるサンタの部屋ではサンタとの記念撮影が出来るとか。近くにはクリスマスをテーマにしたサンタパークもあり、大人も子供も楽しめるとか。

   サンタクロースは元はといえば、トルコ(当時はローマ帝国の一部)のイズミールで活躍した司教ニコラウス(AD271~342)の功績に由来。トルコがその後イスラーム国家になり、キリスト教と無縁になっている間に、欧米諸国にサンタクロースの本家本元のお株を奪われてしまった。日本もまごまごしていると、柔道・相撲・お寿司文化のお株を外国に奪われるのでは?

    ④ ヘルシンキ素描

   ヘルシンキ市内にはウイーンと同じような1周1時間弱で回れる市電(トラム)の環状線があった。環状線に乗って市内の雰囲気を味わった。東京の山手線でも同じことを感じたが、都市でも表と裏があるように感じられて面白い。

   環状線の内外に沿って官庁地区・博物館や王宮等の歴史遺産地区・商業地区・住宅地区・ターミナルの繁華街などが次々に現れるが、賑やかなところだけではなく、どうして寂れてしまったのだろうか、と疑問に思える場所が現れるのが私には面白い。同じような条件のはずなのに、地区間の優勝劣敗は必ず発生するようだ。

⑤ 2005年のフィンランドの国際競争力は何と第1位!

   世界経済フォーラムが2005年9月28日に発表した『2005年世界競争力報告』によれば、フィンランドは前年に引き続き世界第一位。日本は前年の9位から12位に後退。この順位とは、今回のダボス会議で3万人の経営者を対象としたアンケートや経済統計に基づいて、各国の競争力を指数化して決めたものである。
   
   国の競争力はマクロ経済環境・技術力・公的制度の効率性を集計して順位を付けている。次元の違う数値を足すことには物理的な意味は無い(偏差値と体重を足した数値で順位をつけても意味が無いのと同類)ので、今回の国際競争力とは、労働生産性とか価格競争力などとは意味合いが異なり、参考資料に過ぎないが、小国フィンランドのバランスの取れた状態には一目置かざるを得ない。私には『競争力』よりも『健全度』と表現した方が実態に近いと思えるが・・・。
   
   ちなみに日本は、政府債務は114位/117ヶ国、財政赤字では113位となり、順位を下げる大要因になっているそうだ。

   日本でもやっと話題になり始めた『キシリトール』を入れたガムが子供の虫歯対策に効果があるといわれているが、世界で最初にその効果に着目し、全国的に使い始めたのフィンランドである。
   
   携帯電話の雄『ノキア』はフィンランドの会社。人口は僅か519万人の小国であっても世界が注目する国だけのことはある。日本の少子化騒ぎなど馬鹿馬鹿しくて・・・。国民の幸福度と総人口とは何の関係も無いのだ。
   
⑥ 蛇足

   フィンランド人は自らの国や民族のことを、湖や池を意味する『スオミ』と呼ぶそうだ。豊田市に10年以上も前に出来たスーパー銭湯は『スオミの湯』と称している。このスーパー銭湯では2種類のサウナがあることを売り物にしている。

   経営者が『スオミの湯』と名づけたのは、サウナの本場フィンランドにあやかったのだろうか?

[2] 陸上競技のスーパースター、ヌルミ
   
   フィンランドで最も有名なスポーツ選手はヌルミである。私はフィンランド航空の機内雑誌で初めてその偉大な功績を知った。オリンピックで金メダルを9個取った選手は今日までに4人出現。ヌルミこそはその第1号である。
   
   ヌルミ(フィンランド・陸上・1920,1924,1928)・ラチニナ(ソ連・体操・1956,1960,1964)・スピッツ(米・水泳・1968,1972)・ルイス(米・陸上・1984,1988,1992)。

   ヌルミの金メダルの記録は次の通りである。

    ① 1920年第7回オリンピック(アントワープ)
     1万メートル・クロスカントリー個人・クロスカントリー団体
  
    ② 1924年第8回オリンピック(パリ)
     1500メートル(オリンピック新記録)・5000メートル・クロスカントリー個人・                            クロスカントリー団体・3000メートル
  
    ③ 1928年第9回オリンピック(アムステルダム)
     1万メートル

   ヌルミは1932年のロサンゼルス大会の直前になって、国際オリンピック委員会から出場資格を取り消された。ヌルミがドイツに遠征した時に多額の金銭を受け取ったから、というのがその理由だった。今日のオリンピックの商業主義と当時のアマチュア主義との差には隔世の感がある。

   国民的英雄ヌルミは1952年7月19日、第15回オリンピック(ヘルシンキ)の開会式で聖火ランナーとして再登場し、スタンドを揺るがす大歓声で迎えられた。

   客観的に見ると1932年のオリンピックにヌルミが出場していても、最早全盛期を過ぎた彼には金メダルは無理だったかもしれない。4人のうち、誰が一番偉大だったのだろうか? 競技人口の多さ、参加国数の多さの視点から比較すればカール・ルイスに軍配を揚げたくはなるが・・・。

[3] オリンピック競技場

   ヘルシンキこそは東京と並んで我が人生の記憶に鮮明に残るオリンピックである。時に中学2年生だった。最盛期を過ぎた古橋選手は無念にも金メダルが取れなかった。『前畑、頑張れ!』を真似て『古橋、頑張れ! 古橋、頑張れ!』と、全国民がラジオに向かって声援を送ったのだ。上記の金メダリストを見ると3人は3回に亘ったオリンピック、水泳のスピッツだけは2回のオリンピックでの金だった事実からも、水泳選手の寿命の短さを知る。
   
   あれから半世紀経った現在、オリンピックスタジアムは健在だろうか? 老朽化は進んでいるのだろうか? などと疑問を抱きながら、スタジアム前の広場に到着した。広場に植えられた樹木は北国と雖も今では大きく育ち、美しい公園になっていた。
   
   その一角で、石の台座の上に等身大のヌルミの全裸ブロンズ像が飾られていた。ダイナミックに大きな歩幅で走っているスリムな勇姿だったが、全裸にした理由は何だったのだろうか? ギリシア時代のオリンピア競技では選手は全裸だったとは言うものの、鍛えあげられた筋肉美を強調したかったのだろうか?
 
   
   時間不足でスタジアムの見学は出来なかった。美しく維持されていた巨大な建造物を遠望しただけでUターン。
   
[4] シベリウス公園

   オリンピック競技場の直ぐ近くに『シベリウス公園』があった。シベリウスはフィンランドが生んだ世界的に著名な作曲家である。91年間の生涯で膨大な数の交響曲や合唱曲を世に贈ったそうだ。

   公園内にはシベリウスの肖像レリーフと、パイプオルガンを連想させるような鉄製パイプを24トンも使用して作り上げた大きなモニュメントがある。

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         シベリウスの功績・インターネットからの引用
        『シベリウス:交響詩「フィンランディア」Op.26』

   音楽は、常に時代を反映するものです。しかし、ときには逆に、時代を音楽が変えてしまうという珍現象が起きたりもします。この「フィンランディア」は、シベリウスがこの曲を書かなければフィンランドという国は存在しなかったというくらい、当時の社会を大きく揺さぶった曲です。
  
   時は今からちょうど100年前、19世紀も末のことです。当時のロシア皇帝ニコライ2世によりフィンランドは自治権を取り上げられ、民衆はロシア軍の傍若無人な圧力に日々苦しんでいました。
  
   そんな中で祖国を愛する人々によりフィンランドの歴史を描いた演劇「いにしえからの歩み」上演の話が持ち上がり、この劇の付随音楽が、当時交響曲第1番の成功で一躍有名になったシベリウスに委嘱されました。そして1899年11月にこの劇と共に全6曲の付随音楽がヘルシンキで初演され、感動を呼ぶ終曲が特に大好評でした。そして観る側も演じる側も、皆祖国への熱き想いを新たにしたのです。
   
   この終曲は「スオミ」(フィン語でフィンランドのこと。そうです、オリンピックやワールドカップの応援で”Japan…”というアナウンスが入ってもなお、諸外国の前で胸を張って「ニッポン!」と叫び続ける感覚です)と名付けられ、翌1900年のパリ万国博覧会では独立した1つの交響詩として初演されました。
   
   この話がロシア皇帝の耳に入ったのだから、もう大変です。すぐさま弾圧は入りました。もちろん「スオミ」は即刻演奏禁止。そして「スオミ」の名がある演奏会には片っ端から取り締まりが始まりました。ところが今度は名前を変えて、同じ曲をまた上演。また弾圧。しばらくはこの繰り返しでした。その間、フィンランドの独立運動は収まるどころか一層盛り上がっていきます。
   
   そしてこの曲の中間部にある美しい旋律にはいつの間にか歌詞が付き、「フィンランディア(フィンランド賛歌)」として合い言葉のように歌われました。ヨーロッパ諸国においても「フィンランディア」上演が大成功したばかりか、それによりフィンランド独立運動自体も肯定され、かくしてロシアの立場は徐々に追いつめられていきました。やがて第1次世界大戦が始まり、ロシア革命が起こった1917年、遂にフィンランドは独立を宣言することができたのです。
   
   曲は低音楽器によるうめくような和音で始まり、木管楽器や弦楽器の祈りの旋律が続きます。そしてロシア軍の銃撃や爆撃を思わせる金管楽器のリズムや低弦のうねり、しかしやがて形勢はフィンランド側に好転し、As-dur(変イ長調)の軽快な主部に入ります。中間部は木管と弦のコラール。ここが歌詞のついた部分で、その歌詞を用いて合唱付きバージョンで演奏することもあるくらいです。主部が再現したのち、全員で先ほどのコラールを高らかに奏して力強く終結します。

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   蛇足。シベリウスがフィンランド人に民族の魂を覚醒させたのとよく似た直近の例として、私はふとチェコのスメタナを思い出した。『中欧の追憶』からの引用だが・・・

   スメタナ(1824~1884)が作曲した『我が祖国』はあまりにも有名だ。1989年11月、ベルリンの壁が崩壊した日、チェコ・フィルハーモニーは全てのコンサートをキャンセルし、音楽堂を公開し、一日中『我が祖国』を演奏し続けた。

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[5] マーケット広場
   
   何処の国に出掛けても、私はマーケットに駆け込むのが楽しみだったのに、バルト三国では本格的なマーケットにも大型スーパーにも出会えず、がっかりしていた。しかし、ヘルシンキはさすがに大都市。5,000平米もありそうな、待望の屋外マーケットが港の横にあった。
   
   魚・肉・野菜・果物・毛皮・屋台風飲食店・民芸品のお土産屋・衣料品・・・。北欧に特有な商品もあった。色とりどりの苔の実が大きな容器に山盛り。収穫のための努力・執念には驚くばかり。ブルーベリーのように小さな果物に似ていた。試食させてもらったが、酸っぱくて残念ながら好みに合わなかった。
   
   森と湖の国に相応しく、キノコも豊富。乾燥したキノコが主流だったが、採り立ての生キノコもちらほら。マツタケ・シイタケ・シメジ・エリンギなど日本で主流となっているキノコとは異なり、食べたことは勿論見たことも無いキノコが殆どだった。食べ方も解らないので買わなかった。
   
   傍らには本格的な屋台があった。広場には食事用のテーブルや椅子も用意されている。料理はカラー写真で表示されていたので解りやすかった。昔は文字によるリストでメニューが提示される場合が多かったが、最近は日本式に蝋細工の見本やカラー写真が増えてきた。外国人観光客が増えた影響だと思う。
   
[6] テンペリアウキオ教会

   コンペで入賞したスオマライネン兄弟の設計を基に、1969年に完成した当教会ほど奇妙な外観を持つ教会を、私はこの日まで見たことが無かった。欧州各国の大聖堂は誰が何と否定しようが、一瞬にして教会と解るが、当教会の外観を初めて見た場合は、どんな敬虔なキリスト教徒と雖も99%の人は教会とは思わない筈、と私には思えたからだ。

   国際的な業績を上げられている建築家『安藤忠雄』氏が設計されたのではないか、と勘違いするほどだった。氏が設計された関西にある寺院や教会とアイディアが余りにも良く似ていたからだが、ひょっとすると青春時代に欧州を放浪された氏が、当教会を模倣されたのかも知れない。
   
   外観の奇抜さに驚きながら、一歩内部に入ると今度は逆に、一瞬にしてその荘厳さを感じ取って再度驚く趣向が凝らされていた。今や観光客が殺到するまでに至ったフィンランドが誇る教会だ。
   
   この教会は岩盤を掘削して空間を作り、その上に銅製のドーム(直径は20m程度)を100本の木の梁で支えている。外から見ると剥き出された岩の外周上に中華なべを伏せたような低いドーム、その下には駐車場の入り口のような天井が低く横に広がった矩形状の入り口がある。
   
   内部にはガラスが円筒状に張られて淡い柔らかな光を放つ。正面にはパイプオルガンがあった。鍵盤が4列並んでいた。演奏者が椅子に座っていても、総ての鍵盤は手が届く範囲に配置されていた。1列の鍵盤は白鍵33個、黒鍵23個の合計56鍵。我が国の標準的な88鍵のピアノは白黒それぞれが52,36個なのに比べると数が少ない。

   
   鍵盤の左右には数十個のスイッチが升目状に配置されたコントロールボックスがあった。スイッチごとに何千と言うパイプのどの組み合わせを選ぶかが決まっていたのだ。足元には数え切れないほどのペダルが並んでいた。練習時にどのスイッチを作動させ、どの鍵盤を使い、どのペダルを使うかを決めるのだそうだ。
   
   結局のところ、パイプの数が如何に多かろうとも、演奏時に使う鍵盤やパイプの数はピアノと然して変わらず、楽譜も一見したところピアノ用と変わらぬものだった。
   
   パイプオルガンの魅力とはなんだろうか? 音域の広さ、柔らかな音色??・・・。
   
[7] スオメンリンナ要塞

   旅の最終日は自由行動。同室の友人と世界遺産にも登録されたスオメンリンナ要塞見物に出掛けた。屋外マーケット横の小さな桟橋からフェリーが出ていた。切符は自動販売機で売られていたが、フィンランド語だったので戸惑っているうちに現地の人が助けてくれた。
   
   我がフェリーは、船腹一杯に Viking Line とか Silja Line と大きな文字が書かれた数万トンは優にありそうな大型客船とすれ違った。最近の客船はかつてその美観でも有名だった、タイタニックやクイーンエリザベス型とはデザインがすっかり異なってきた。大きな煙突もない機能本位のずんぐりむっくりの箱型で、見栄えがしないのは時代の流れか?
   
   4島が橋で連結された元要塞は、スウェーデン・ロシア戦争、クリミア戦争、フィンランドの国内戦争で重要な役割を果たしたが、今では大砲・砲台・博物館・教会・レストランなどのある美しい公園に変わっている。
   
   島内には駐留兵の家族アパートもあり、子供のための公園にはミニチュアの家があり、中には応接室や台所もあった。子供の身長に合わせた家具類が揃えられ、子供にとっては本物の世界の主人公になれる配慮には、子供達への愛を感じた。
   
   海を見下ろす断崖の上に立つと、私は無性に放尿したくなる何時もの癖を抑えることも出来ず・・・。
   
[8] ヘルシンキ大聖堂

   都心の広場を見下ろすような一角にヘルシンキ大聖堂が聳えていた。大聖堂にお参りするためには大階段を登る仕組みだ。欧州各地の大聖堂で大階段の上に建てられているのは珍しいが、見晴らしが良くなるのが長所か?

   此処の大聖堂の建設は比較的新しい。1852年に30年の歳月をかけて完成した。フィンランドの教会の正面入り口は西側と決まっているらしい。勝手口が玄関と言われて戸惑う心境だ。南に広場があるので誰でも南側が正面と思いたくなるのに!



[9] ウスペンスキー寺院
   
   マーケット広場の近くに建つ赤レンガ造り、北欧最大のロシア正教の寺院。1866年に建てられたにもかかわらず外観に老朽化の印象が無い。今回の旅でレンガの耐久性を再発見。ローマ時代のレンガの遺跡は大抵崩れかかっているが、当時は焼成温度が低かったのだろうか?
   
   ロシア正教は何故か内部に彫刻が少なく、壁画中心主義。偶像崇拝を禁止しているモスクほどではないが、教会内部はがらんどうに近い。
   
[10] ヘルシンキのホテル

   過去10年の間に殆どの一流ホテルのキーはカード式に変わった。今回のホテルで新しいカードの利用法に接した。

① サウナ王国

   本物のサウナ体験に出掛けた。サウナへ行くための、ロビー近くの最初の入り口も部屋のキーで開けた。更衣室のドアもキーで開けた。何処のホテルでもロビーへはホテルの利用客以外の訪問者も入れる。その訪問者がサウナを無断使用するのをカードで阻止していたのだ。

   サウナはいつも使っている名古屋グリーンテニスクラブと同じ方式だった。電熱器でサウナストーンと一緒に部屋の空気も暖める乾式だ。サウナストーンに水をかけると、ほのかな香りが漂う。

   水着も用意していたが、ほぼ同時に入室したフィンランド人が全裸になりバスタオルを腰に巻くのを目撃したので、その真似をした。

② 最終日の珍事

   9月27日(火)は自由行動。午後2時にホテルのロビーに集合することになっていた。午後2時直前にホテルに戻り、ロビー階にあるトイレに出掛けた。入り口のドアがキーでは開かなかった。その瞬間に理由が推定できた。キーには正午まで、との有効時間が磁気テープに書き込まれていたのだ!

   ホテル利用客以外の来客による勝手なトイレの使用を阻止していただけではなく、チェックアウトを未だしていない宿泊客でも利用時間が制限されていたのだ。そのことに気付いた私は、受付の係員に『何たることか!』と怒鳴りつけ、代わりのキーを入手した。
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おわりに

   都市の景観美を高めるために、電線の地中化・見苦しい看板やけばけばしいネオンの規制と都市公園の拡大が叫ばれて久しいが、私は今回の旅に学んで更に二つの条件を付け加えたくなった。
   
[1] 水面の活用

   満々と水を湛えて流れる川にはやすらぎを感じる。我が青春の思い出の一つ、博多の夜景の美しさは那珂川や大濠公園の池の水面に煌くネオンの光抜きにはあり得ない。湖や池には岸辺を取り巻く美しい景色が水面に映えるだけではなく、水上には何物にも束縛されない大空間が広がり、そこを眺めるだけでも心が自然に癒されて来る。
   
   高層建築が増えれば増えるほど都心部での閉塞感や息苦しさは高まるが、その癒しの場所が直ぐ近くにあれば、どんなにか日本も住み易くなることかと思わずにはいられない。貴重な都心の川に蓋をして道路化する愚かさには、言う言葉も思いつかない。ソウルではその反省の元に川の上の道路を撤去したではないか!

   バルト三国やフィンランドには全土に天賦の氷河湖があり、努力も不要なほどの景観に恵まれている。米国人は新興住宅地を造成する場合には、その中心部に人造湖(池)を作って癒しの場を予め準備している。世界一の自動車会社、GMのテクニカルセンターの正面には大きな人造池があった。高級ゴルフコースほど美しい池だけではなく、滝や噴水すらもある。
   
   有名な日本庭園には美しい景観に囲まれた池がある。昭和天皇御在位50年を記念して作られた豊田市郊外の『昭和の森』や愛知万博会場にも景観溢れる日本庭園の真ん中には大きな池があった。庭に池も無いような豪邸を自慢されてもあほらしくて興ざめ! しかし、日本各地の大都市の中心部に、癒しの水面が何時の日に確保されるのだろうか? 各城下町のお堀の水は何時綺麗になるのだろうか? 
   
   今話題の六本木ヒルズには、ミニチュアの日本庭園の中に小さな汚水溜りのような池があった。ぼうふらが発生するのではないか、と私は真剣に心配した。その余りのみすぼらしさを目の当たりにすると、情けなくて、情けなくて・・・。

[2] 緑の活用 

   全土が公園のように美しい国土でありながらフィンランド政府は、首都ヘルシンキに大いなる規制を加えた。市街地ですら緑化率は30%以上、建物の建築面積比率は30%以下に留めるという大英断だった。

   その結果、市街地までもが大木が茂る緑に覆われた。公園の中に街が建設されたようなものだ。一方我が祖国では屋上緑化とか壁面緑化などが先端緑化技術として脚光を浴びているが、屋上に樹齢百年以上の大木が育つはずが無い。本末転倒とはこのこと。貧すれば貪す。その発想の貧しさが情けない。

   我が豊田市で積極的に緑を取り入れた美しい環境を作り出しているのは、あちこちのゴルフ場と僅かばかりの都市公園の他は、トヨタ自動車の各工場くらいのものだ。丹精込めてやっと美しくなったか、と思えた我が隣近所の庭の木々は、無残にも切り倒されて2,3台目の車庫へと改造される始末だ。
   
   我が祖国日本がバルト三国並に、緑豊かな住環境を実現するのは何時の日だろうか? 世界自然遺産にやっと登録された屋久島・白神山地・知床半島(私はいずれも見たことも無いが・・・)が如何に美しかろうとも、それらは総て非日常世界の存在だ。本当に私が欲しいのは、散歩圏内の日常世界の美しさだ!

[3] 今後の計画 

   NHKの2005年秋のアンケート調査によれば、日本人が行って見たい世界遺産のベスト30は以下の通りである。我が訪問済みの世界遺産には ◎ を付けたが、達成率はたったの 18/30=60% に過ぎない。
   
① マチュピチュの空中都市   ◎  
② モンサンミッシェル     ◎
③ ピラミッド         ◎  
④ 九寨溝     
⑤ アンコールワット      
⑥ ペトラ           ◎
⑦ アルハンブラ宮殿
⑧ ギアナ・落差979mの滝
⑨ ヴァチカン         ◎
⑩ フィレンツェ        ◎
⑪ ベニス           ◎
⑫ ナスカの地上絵       ◎
⑬ タージマハール       ◎
⑭ イグアスの滝        ◎
⑮ ダージリン鉄道       
⑯ イースター島
⑰ カッパドキア        ◎
⑱ エアーズロック
⑲ イスタンブール       ◎
⑳ 屋久島
21 ガラパゴス島
22 黄龍
23 ベルサイユ宮殿       ◎
24 シェーンブルン宮殿     ◎
25 ウガンダ・ルウェンゾリ山地
26 ポンペイ          ◎
27 グランドキャニオン     ◎
28 知床
29 プラハ           ◎
30 ルクソール         ◎

   2005年4月から、木曜日にNHKが世界遺産を紹介し始めた。ベスト30にはその時の放映番組が多い。最近脚光を浴びてきたばかりの『九寨溝』が4位になっているのは、その影響と思われる。万里の長城が圏外になったのは、既に出掛けた人が多いためか?
   
   私には上記世界遺産の未訪問地よりも、もっと行きたい場所がある。2006年の計画はユーラシア大陸の中心部、中央アジア・コーカサス・バルカン諸国だ。

   取り敢えず、2月10日にユーラシア旅行社主催『中央アジア5ヶ国大周遊』(5月3日~19日)を単独で申し込んだ。冬だと旅費が安くなるが、寒さに弱い私は新緑の季節を選んだ。5万円高くなるが貴重な人生の一瞬はお金には代えられない。

   賢人各位、どなたかご一緒に出掛けませんか?
     
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読後感

今回の石松さんレポートを読んで感じたことを書かせていただきます。

   子供の頃、テレビで見ていた、『兼高かおる世界の旅』を思い出しました。いやはや、色んな国へ行きますね。

   『親孝行、したい時には親は無し』というのは昔話。私の周りには定年後になっても、両親の介護で疲れ果てている人が大勢いる。それどころか義母の看病に疲れ、遂には奥様がくも膜下で先に永眠された知人すらもいる。

   昔、理想としてきた事が現実になると、さらなる欲? 文明とはそんなモンなんでしょうか?

   今でこそ海外旅行は国内旅行よりも安くて手頃になったが、僅か20数年前は人生の一大事だったのだ。『井の中の蛙、大海を知らず』とか『百聞は一見にしかず』などと、海外旅行のチャンスなどあり得なかったにも拘らず、大昔の哲人はよくぞ喝破したものだ。

   やはり、為替レートの関係でしょう。『ハンドルが壊れました、修理代はいくらでしょう?』答え半ドルで180円なんて、昔話。

   しかし、これほど海外旅行がポピュラーになっても、見聞を深める人の数は?

   『昭和30年代に金融機関に就職した人はバブルの頃までは人も羨む人生でしたね。高収入だけではなく、従業員向けに只同然の低利で会社が5,000万円くらい無担保融資をしてくれたので、投資を兼ねてゴルフの会員権やマンションなども買っていました。

   所がバブル崩壊後には会員権やマンションが暴落しただけではなく、肝心の勤め先まで経営危機を迎え、50歳以上は全員リストラ。収入は激減したのに借金だけは目減りせず、半減した退職金では借金も完済できず、との暗夜行路を聞いた事がありますが、本当ですか?』

   『全くその通りですよ。私の場合、収入も退職金も半減。退職後は友人の会社の経理を担当していましたが、半年で倒産! やっと見つけたゴルフ場の経理の仕事をしていましたが、2年半で辞めました』。

   へーそうなんだ、知りませんでしたm(_ _)m

   氏は60歳になって、厚生年金が貰えるようになったので、低賃金が馬鹿馬鹿しくなって退職したのであろうか?

   かも知れませんね。僕の年代、大学生の頃から『年金は国家が行うネズミ講』との話題も。

   傍らには水槽があり、魚が元気に泳いでいた。欧州で初めて見た店舗内の水槽である。しかし、刺身のような生魚を食べる習慣に乏しい欧州で、コストのかかる活魚を敢えて売る目的は何なのだろうか?

   生きているモノ、腐ってない!では? そもそも日本でも、高名な寿司屋には水槽が無い。死後硬直を待って食べる。生きジメてのもありです。


   大通りの車両進入禁止装置

   この日は何かの行事日らしく、市内見学時には大通りへの車の進入は禁止されていた。

   早朝の散歩時には車は自由に出入りしていたので、進入禁止時間は昼間の特定時間のようだ。そのときに目撃した車両進入禁止装置のアイディアの素晴らしさに驚く。横断歩道に並行する一直線上に特製装置が5セット並んでいた。

   コレコレ、都内の環状線や放射線は深夜以外、渋滞! カーナビや抜け道マップの影響か? 女子供も走る。そして抜け道を走れば、ポールの列。ご先祖様が供出?した道路を狭くするとは住民エゴか?

   はたまた、米国用の3ナンバーサイズをポピュラーにした自動車会社の責任か? サンデードライバーや下手なドライバーには、3ナンバーサイズ規制の免許証を! 抜け道も渋滞気味。

   私は命を救われたユダヤ人達に対し『杉原さんへの恩を忘れたのか!』と、叫びたかった。『生き延びた人たちは募金を募り、杉原記念館をもう少し立派にリフォームし、周辺の土地を買い駐車場を造り、遠来の客の便を図れないのか!』と。裏寂れた記念館を眺めると、『喉もと過ぎれば熱さ忘れる』ように、『恩知らず』とは人間の本性のことかと思えて情けない。

   僕もサイトを開いて感じています。なんと自分勝手が多いのかと。しかし、自分もタバコを吸い酒も飲んでいる。

   喉もと過ぎれば熱さ忘れる! 人間の本性なんでしょう。しかし、恩を忘れるとは犬にも劣る。
   
① 食道がんの完治先輩・ホームページ(http://yamai.org/)を開設され、全国の食道がん患者に情報を提供し、良きアドバイスも出されている・インターネットで知ったものの、未だお会いしたこともない方。


   「バルト三国とフィンランドの追憶」を拝読。旅行記を重ねるごとに内容の充実を感じます。

   同行者の紹介は、覗き趣味ではありませんが、関心があります。人間臭さとグループの雰囲気が理解でき、あらゆる記述の裏打ちになるからでしょうか。

   「団体旅行の満足度は添乗員の業務処理能力抜きには語れない」には同感です。2年程前、JTBのパック旅行(約20人)で山陰へ行った時、名古屋駅壁画前の集合場所へ添乗員だけが遅刻。

   「キャンセルした人の乗車券の払い戻しに行っておりまして・・・」言い訳と挨拶を長々とやりだした。新幹線発車時刻の数分前になってもやめない。参加者は堪らず改札口のほうへぞろぞろ歩き出した。一事が万事、添乗員の信頼は失墜。はらはらの旅行でした。

   添乗員は丁寧な言葉使いで親切、憎めない好青年でしたが、業務処理能力が無ければすべてダメ!

   移動中のバスの中で、「バスを止めてください。写真を撮ったらすぐ戻るから」の注文はさすが! 旅行客の関心事を理解してもらえるし、ガイドの実地教育にもなりますよね。見習いたい。

   日本人の誇りの「杉原記念館」がみすぼらしいたたずまいだったとのこと。命を救われたユダヤ人の気が知れないが、それにも増して、日本外務省の気配りの無さに腹が立つ。リトアニアに要請するなり、陰ながら助力してでも訪れる人に良い印象をもってもらうように仕向けるべきでないか。杉原氏の偉大な功績を通して、日本人の心意気を知ってもらうチャンスである。

   それとも、外務省の規則に反してビザを発給したことに恨みを持っているわけじゃあるまいね!

② トヨタ先輩・工・ゴルフ&テニス仲間


   すばらしいホームページの贈り物ありがとうございます。今気がつきまして、すこし見せていただきました。

   明日南アフリカに発ちます。帰ったらゆっくり見せていただきます。ずいぶん腕があがりましたね。

③ トヨタ先輩・理・定年退職後の夫婦一緒の海外旅行回数が夫婦の平均年齢を突破!


   キリスト教の十字軍が最後にリトアニアを改宗させたことは、初めて知りました。十字軍は、他の民族を征服するための名目であり、民主化のスローガンと似ているところもあるようにみえます。

   同意できると感じました。

④ トヨタ後輩・工・テニス仲間


   「バルト三国とフィンランドの追憶」を拝見し、勉強になりました。恥ずかしながら、「バルト三国」が世界地図の上でどの辺りに、どんな配置になっているのかを知りませんでした。慌てて地図帳を広げ、三国がバルト海を挟んでスエーデンとフィンランドに面している、と確認ができました。
   
   日本とはあまり経済面での交流があるとも聞かず、石松さんクラスの海外旅行通ででもなければ訪問することもないのであろう、と思い違いをしていたようです。フィンランド航空機は満席に近かったとのことで、どうやら自分は世間知らずであったようです。
   
   距離的には近くとも、バルト海の南岸に位置してハンザ同盟の一翼を形成していたとすれば、立派な“中央”なのかも知れませんが、「...鬱蒼たる森と無数の湖(氷河湖)から構成された山紫水明の国土に...」と拝見する限りでは、風土的には北欧に近いようですネ。
   
   三国合わせても東京都の人口に及ばないほどだとは言え、宗教や言語の面でフィンランド文化に近いエストニア、ドイツ文化的ラトヴィアとポーランド的リトアニアが隣接しているとは個性豊かで魅力的な国々です。大国の影響の強さからすると、物や人の交流は陸側よりもバルト海を通しての方が多かったのでしょうか。
   
   30年以上にも前になりますが、ハンブルグを訪問したときに「ハンザ同盟の中心地ハンブルグも近ごろはゲルマンの血が薄くなって...」との嘆きを聞きましたが、「三国」の人種構成も相当に変化が進んでいるようで、それも時代の流れなのでしょう。
   
   バルト三国がそのアイデンティティを、列強に滅ぼされかけていた各母国語に求めたとは実に教訓的です。欧州人を知るにつけ、引き継いだ血以上に日常使う言語こそが彼らの個性的な文化や国民性を育てていると痛感するからです。昔、日本語を捨てさせようと提案した大文学者がいたそうですが、同調する“文化人”は少なかったようで幸いなことでした。
   
   バルト三国が、大学にまで観光客を呼び込み、「ほんの些細なことでも話題に登場させ、観光客に満足してもらうべく、いじらしいほどの努力」などで観光資源化を進めている様は涙ぐましい程ですネ。それは、過去の栄光を見せつける壮大な遺跡と現状の庶民の悲惨な生活を覗かせてしまう、エジプトやインドを訪問してよりも後味の良いもののように感じられます。

   フィンランドに関しては足を踏み入れたことはないものの、隣国のスエーデンには大学に機械を入れたりして行き来をし、そこの担当教授はフィンランド出身なのでした。フィンランドから、スエーデンの大学に留学していた企業経営者の息子が、夏休み中の研修で来社したことがありました。フン族の血を濃く残し、我々に近い体系の言語を話す国からの来訪者は”東洋人に似た風貌か”と思ったら全く違っていました。
   
   髪の毛こそは黒かったのですが容貌は全くの欧州人で、英語を第二外国語としているスエーデンで学んでいるだけあって流暢な英語を話しました。思慮深い話し方や控えめな立ち居振る舞いに“東洋人”的な感じを受けたのですが、考えてみればそれは若い日本人からは失われて久しいものでした...。
   
   休日に、山道へのドライブに誘ったとき、盛んに「この辺りの山は岩(ROCK)で出来ているのか土壌(SOIL)で出来ているのか」と訪ねられました。緑濃い樹木ばかりか夏草が生い茂って地面の隠された山容が信じられないようでした。
   
   緯度からすれば似た風土と思われる夏のスエーデンは、大地は緑に覆われているものの、真っ直に続く道路両側に広がる針葉樹林に踏み込んでも中は明るく、冬にはムースを待ち伏せするのだ、と言う遠くの小さな小屋までが見通せるのでした。足元には乾燥ワカメのような地衣類がびっしりと密生し、雨が降った後には茸狩りに人が繰り出すとのことでしたが、緑でフカフカの厚い土壌に覆われた山が連なる日本列島は彼らにとっては「ファンタスチック...」なのだそうでした。
   
   スエーデンも北のルーレオ工科大学を訪問し、地方都市のルーレオとシュレフテォーの企業や施設を巡ったとき、冬はオーロラを楽しめると言う北の大地も緑に覆われていました。首都から遠いその地の住宅は木造の平屋が多く、訪問したお宅の“窓ガラスがピカピカ”であったかは思い出せないのですが、壁は厚くて二重窓になっていることは勿論、天井が低めで冬の寒さに備えた作りなのだと納得出来ました。
   
   海外旅行(出張)での楽しみの一つに、思いもかけない食物との出合いがあります。スエーデンでは社長や市長と会食をしたり、大学食堂や社員食堂で昼食の機会もありました。パンの形や焼き方こそ、細い棒状のものや煎餅様のものがあって変わっていましたが、特に美味しい料理に出会った記憶はありません。
   
   その代わり、大学や企業内の食堂での食事も金属のナイフ・フォーク付きで陶器の食器で出され、盛りつけ等も通常のレストランで出されるものと変わらないものでした。国の豊かさを感じた反面、食材を豊富に使って食事を楽しむラテン系民族に見られる習慣はないのだと実感したことです。
   
   マーケットで噂の缶詰め(ニシンの塩漬けを醗酵させたものの缶詰。シュールストレミング。臭い匂いで有名)を買ったところ、「冷蔵庫で保管せよ」「開缶するのは屋外にせよ」と呉々も注意されました。魚の発酵で缶が爆発すると聞かされ、外で開けて味を試したのですが“鮒鮨”を受け入れる舌にもきつ過ぎる塩味でした。冬季向けの保存食作りには長けたようですが、舌は琢かれなかった様だと納得したことでした。

   当時、空荷の大型トラックが二列ある後輪の一方を跳ね上げて走っているのには吃驚しました。余分なメカニズムを付加するのが、果たして浮かせたタイヤやベアリングの消耗防止と勘定が合うのか判断がつきませんでした。
   
   それに比べれば、ヘッドライトの常時点灯は理解しやすい北欧仕様だと感じました。ボルボやサーブは勿論、北欧向け仕様の車はエンジンキーをひねると同時にヘッドライトが点灯するようになっていると聞かされ、「冬の夜は長いし、昼も明るさが足りないだろうから」とガッテンしようとしたら、「否、昼の太陽も地平近くで対向車を視認し難いからだ」と言われました。
   
   欧州に数年留学していた情報通が、「夜の信号待ち交差点でヘッドライトを消すのは日本人だけだ。ランプの消耗を早めるだけで何のメリットもない」と教えられましたが、あれは日本人の「モッタイナイ」精神の発露なのでしょうか?

   フィンランドの国際競争力が第1位とは、携帯電話の開発に携わっていた知人からノキアの実績を聞いていたので「ホホー」とは思ったのですが、『競争力』よりも『健全度』とのご見解には納得です。日本は、国民の血税を食い物にして財政赤字を積み上げた政治家や官僚の“腐敗度”が大きく、『健全度』ばかりか、広い意味での国の『競争力』をも損なっていると思っています。

   かつて共存したネアンデルタール人に感化されたのでもないでしょうが、街中を花で飾ってそれを維持する習慣はゲルマン系諸民族に強い習慣で、アジア人はその対極にあるのかなとも思ってもみます。欧州で最初に訪問したのがドイツであったため、旧市街(アルト・シュタット)のレストランや民家の窓辺を飾る赤・白の花々と鮮やかな緑に目を奪われ、市庁舎前広場の朝市で商われている品物の半分近くを切り花が占めている様に“衝撃”を受けたことを思い出します。
   
   当時、日本では未だ家の中に切り花を買って飾る余裕はかったように思います。その後、欧州でもフランスやイタリアでは道畔に塵芥の放置が目立つばかりか、ドイツやスイスほど窓辺を飾る習慣が盛んではなく、ゼラニュームを開けた窓辺に置くのは「牧場のハエが部屋に入らないようにしているのだ」との説明を受けて少々興ざめしたときもあります。
   
   それでも、原色の派手な文字が踊った看板で埋め尽くされた混沌の雑踏よりは花々に囲まれた街路の方がどれほど散策していて心が和むか知れません。アジアの混沌度を繁華街の看板で量るならば、香港の九龍に発して、ソウル、プサンを経て大阪、東京と徐々にレベルが変わっていると感じるのは私の偏見でしょうか...。

   フィンランドの首都ヘルシンキは「市街地までもが大木が茂る緑に覆われ、公園の中に街が建設されたようなものだ」そうですが、それは冬の長い彼ら北欧人が太陽と緑に大変な憧憬をもっているからのように思います。弁護する気はありませんが、都市をコンクリートの建物とアスファルトで覆ってしまうアジア人は、樹木の猛々しいほどの成長力や夏草の生命力を恐れ、それをいかに封じようかとしてきた結果のようにも思います。
   
   我が家も、町の緑化計画に賛同して新築時に生け垣として赤芽樫を巡らせ、季節を彩る白モクレン、金木犀や照葉樹の棒樫を各隅に配しました。太さ数センチの苗はアレヨアレヨと言う間に大木に育ち、モクレンは秋に団扇(うちわ)のような葉をばさばさと落とし、風に吹かれて脇の道路を連日覆うようになりました。
   
   金木犀も道路にはみ出して繁ったばかりか、上に張られた電線に届くほどに伸び、祭りの頃には“トイレの匂い”が遠くの駅にまで届くと言われました。棒樫もぐんぐん伸びて屋上を越え、土鳩が巣を作ったばかりかドロボーもそれに登って侵入できるまでになってしまいました。春の赤芽樫は古い葉をバラバラと落とし、風に吹き寄せられて隣家の玄関先に積もる始末です。
   
   リタイアしてからは、春と秋にノコギリで切った枝葉は軽トラックに山盛りとなり、焼却場に持ち込む費用もバカになりません。とうとう電動ノコギリを買い求め、白モクレンと街灯を隠してしまったモミの樹は根元から切り倒し、棒樫と金木犀も細い幹を半分の高さで伐り、太い方の幹は根元近くで伐採しました。
   
   家人には雑草が蔓延する芝面や、剪定鋏で手入れができる赤芽樫までも目の敵にされ「あなたが死んだら誰も手入れが出来ないのだから、死ぬ前に赤芽樫も含めて全部伐ってしまってね」と念を押されています。
   
   IT時代ですから、役所詣での必要を無くし、放置された国有林の斜面中に国会や官庁の建物を分散配置し、政治家と官僚は静かな環境で国政の舵取りをして貰ったら、と思います。首都移転をしながら、この緑の列島を他国には例のない林の中に街が点在する“国のかたち”にでも仕上げて貰えないかと思うのですが...。

   ところで、石松さんの未訪問国にアイスランドがあるのは分かりますが、スペインが残っているとは何としたことでしょう。先の楽しみに残してあるのでしょうネ?

   
   10年位前にトヨタ同期入社の3夫婦で一緒にスペインへ行く約束をしました。爾来手ごろなコースを見つけては友人夫妻に何度か提案したものの、その都度誰かの都合がつかず、結局出掛けないまま今日に至りました。
   
   それどころか定年退職後になっても、荊妻との都合すら合わせられないことが多く、最近は一人旅が増えました。ポーランド・チェコ・スロバキア・ハンガリー・エジプト・ロシア・カタール・シリア・レバノン・ヨルダンには一人で参加、次回の中央アジア5ヶ国への旅(5/3~19)も、結局一人旅です。
   
   
   仕事でバスク地方に足を踏み入れながら、何とはなしに掴み所が無く、中南米を“発見”してからフランコ時代までのスペインには、得体の知れない感じを持っていました。そのスペインを観光訪問しようと思わせたのが何であったのかと問われれば、ゴヤとベラスケスを見たいのと、「アランブラ宮殿の思い出」が耳に残っていたからと言って差し支えないと思います。
   
   しかし、セゴビアで呆然と見上げたローマ時代の“大水道橋”や、かつて欧州で文明の中心であったコルドバのメスキータに向かい、グアダルキビール川に掛かるローマ橋を歩いたときの感慨は今も鮮やかに甦ります。
   
   ローマ人が歩いた橋を渡り、ギリシャとローマの文明を引き継いだアラブ人のモスクに入った時、ギリシャ時代とローマ時代の列柱の森に迷い込んでアラブ人が“残そう”としたモノの一端を理解できた気がしました。
   
   前の文明を引き継ぎながら、それに繊細さを加えたグラナダのアランブラ宮殿は我々東洋人の琴線に触れる立体的な美しさで、砂漠の民の“水”に対する深い思いを理解させてくれると共に、期待以上の思い出を残してくれました。これまで訪れた名所・旧跡の中で、それらの鮮やかで色褪せない記憶は指折りのものです。

⑤ トヨタ先輩・工・1年で退職され郷里で大活躍された方・昨秋トヨタ先輩と一緒に氏をお尋ねしたときに初めてお会いしました。いつも長文の読後感を賜り感謝。
   

   追憶記を催促?しておきながら読後感が遅れて済みません。44ページも有ると取り掛かりにチョット覚悟が要ります。昨日、今日で読み終えました。

   一緒に行動していたのにやはり小生が気づかなかった点が色々有りました。フィンランド航空の飲料水、浴室の暖房、窓ガラス拭き、トラカイ城の橋の長さ、リガの集合住宅 Etc.
   
   やはり事前勉強の多さと旅なれた観察眼の差が出ますね。搭乗者のドクター比率の算出も何時もの石松流?
   
   参加者の紹介が少なかったのは、やはり小生が一緒で話すチャンスが減ったからかも。

   3度の食事の機会を活かして参加者全員と総当りし、一期一会の会話を楽しみました。その出会いの中から、印象に残った方を選んで紹介しました。

   先日タージマハルへ行ったときにはなるべくメモ書きしてきましたが、半年近く経った旅行記が蘇るのはどうして?
   
   貴台もお気付きだったと存じますが、私は旅行中にメモは何時もの習慣で一切取りませんでした。以前の旅行ではカメラも持参しませんでした。海外でのその時、その瞬間を真剣に過ごし、真剣に考え、印象を脳裏に刻み込み込むことに力点を置いています。メモ取りや撮影をすると関心が離散し、貴重なその瞬間を満喫できないからです。
   
   この行動を若干ですが変えたのは2年前のデジカメの購入からです。デジカメには旅程の順序が記録されます。追憶記を書く時に大変便利だと気付きました。デジカメによる乱撮りが言わばメモの代わりになりました。
   
   追憶記は帰国後直ぐには書かないことにしています。脳裏に刻まれた種々雑多な情報も時間が経てば些細なものほど消滅し、深く感動した価値のある情報のみが自然に残されます。半年経っても忘れられない思い出を書いてこそ、賢人各位に読んでいただける追憶記になると確信しています。

⑥ トヨタ後輩・工・今回の同行&同室者


読後感遅れて済みませんでした。

   新しく出来たホームページで読ませていただきました。とても読みやすく、写真が所々に入っているので格段に楽しい読み物になりました。

   北欧はスウェーデンに2回仕事で行っただけで、その他の国には縁がありませんでした。バルト3国なんぞ今後もまず行く機会は無いと思いますが、貴殿の巧みな描写でそこはかとなくその国の雰囲気が味わえました。

   世界中至る所に大勢の日本人が出かけているのですね。願わくば日本人の旅行者達には行儀良く振舞って欲しいものです。近隣の某国の人たちと違って日本人は今のところ評判は決して悪くない筈ですので。

   既にそのお積りでしょうが、これまでの旅行記も是非写真入でホームページに掲載してください。ライブラリーの様に何時でも気が向いたときに楽しめればいいですね。

   満5年間使ったパソコンが昨秋以来、動作に安定性を欠くようになりました。富士通の窓口担当者に質問すると、ディスプレイもパソコン本体のハードディスクも寿命が来つつあるようです。そこで新型を購入し、多重がん治療後の追憶記(デジカメ購入後のもの。エジプト・ロシア・独仏墺・インカ・大シリアの5編)に写真を挿入したものをホームページに載せる予定です。

⑦ トヨタ&大学先輩・工


いつもながらの博覧強記、感想文など書くのも恐れ多いです。

   実は先週イタリアに8日間ほど家内と行っていまして、そんなことを石松さんに言うと『何だ、今頃イタリアか!』と笑われそうですが、やはり海外はなにかと人の考え方にも示唆するところが多いようです。石松さんは私の10倍以上の国へ行っておられるので尚更のことでしょう。

   1930年代フランスの文化人類学者レヴィ・ストロースは、アマゾンの奥地の体験から構造人類学を唱え、それまでのダーウィンの進化論に影響された文明といったものに異議を申し立て、その後の哲学思想に深い影響を与えました。いわゆる先進国や未開発国といった分類について人々の生活に構造的な違いはあっても、それを価値観と結びつけることから自由になることを提唱しました。
   
   現代哲学はフランスの構造主義・ポスト構造主義などの絢爛たる知の世界を通らずして成り立ちません。フランス人が主体的に知を構築する伝統は、ヨーロッパ文明の中にあって、主体的にアメリカに異議申し立てする現在の政治的伝統となっているように思います。
   
   哲学という訳語は明治時代の西周でしたか、あまり良くない訳語のせいか、真理を求める道筋の探求としてのphilo・sophyという、特に文科系の人間にとっては必須の分野を日本では疎かにしていますが、ヨーロッパでは必須科目です。日本の政治家に馬鹿が多いのも、そのことに関係しているとも思います。

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インターネットからのコピー
   「哲学」とは何か、という問いに対して簡潔な答えを与えることは容易ではない。一つには、もろもろの学問を規定する場合のように、それが扱う対象によって説明することが難しいからである。たとえば、「経済学」といえば、「経済」に関する学問、「法学」といえば法に関する学問という具合に説明できるが、「哲学」という言葉からは、それが何を対象としているのか、推測することができない。
   「哲学」という日本語は、明治時代になる直前頃(「百学連環 二・上」1870-71年頃)に西周が英語のphilosophyの訳語として作った「希哲学」という語に由来している。
   これはphilosophyという英語の語源であるギリシア語のφιλοσοφια (philosophia<philo-[愛]+sophia[智]、智を愛し求めること)の本来の語義に則したものであったが、結局西は「希」の部分をのぞいた「哲学」をphilosophyの訳語として採用するようになり(「百一新論」1874年)、それが一般にも定着するに至ったのである(「哲」は、「物の道理をよくわきまえる意」)。
   「哲学」という日本語からはphilosophyの語義を読みとれなくなっているのであるが、「智を愛し求めること」「愛智」というphilosophyの原義にさかのぼってみても、他の学問のように対象とする領域を限定するような語を含んでおらず、それが扱う対象から哲学の内容を特定することはできず、なおその内実は不明のままである。
   知的好奇心に基づく探求と考えるにしても、それは多くの学問的探求に当てはまる面があるし、人はそれぞれ自分の関心に即して、特定の分野についてもっと多くのことを知りたいと思い探求することであろう。
   以下省略
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   前置きが長くなりましたが、石松さんの現地での感想には基本的に相手国の立場に即して感心し、翻って日本のあり方に言及されているのに(例えば緑や環境への問題)教えられることが多いです。つまり、自分の国に比べて劣っているとか、優れているという固定観念から自由であるということに共感します。
   
   私の周りにはイタリアにはスリが多いからといって馬鹿にし、中国は不潔であるといって馬鹿にする人がいますので。彼らは親が子を殺し、子が親を殺すことが頻繁に起こる日本は、優れた国と思っているんですかね。

   地図を見るとたしかにバルト三国はエストニアでさえ、オランダ・デンマーク・スイスより面積は大きいのですね。それに今度はいずれも人口が少ないのも驚きですね。全体にヨーロッパは東南アジアに比べて(フランスでさえ)人口密度が少ないのは何故でしょうね。

   同行者のなかの元銀行員氏は大手銀行に勤めていて苦労もあったんでしょうが、奥様と信頼しあった良い夫婦で結果幸せそうで良かったです。大阪市大ぐらいですと大手銀行では先が見えていますから。大手銀行は東大でないと、という雰囲気があります。20年ぐらい前、九大出の人が第一勧銀の頭取になって話題になったことがあります。
   
   支店長から先はごく少数の人以外は、リストラか派遣が待っているから厳しいですね。でもバブルで税金使った割には今でも給料が高すぎます。工学部出てメーカに勤めた人は概ね割りを食っていますね。トヨタ以外です。その点石松さんは先見の明があったわけです。久保田鉄工だとか三菱重工などもそうです。
   
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   昨年5月に45年ぶりの教養部のクラス会があった。幹事に書かされた就職先の選択理由からのコピー。
   
   大学3年と4年の夏休みでは工場実習が必須だった。当時は3年の時の実習先が就職先になる可能性が高かった。航空工学科の成績上位者は新三菱重工業に就職する伝統があったので、あれこれ考えることも無く、新三菱重工業名古屋航空機製作所で4週間『構造用接着剤の性能評価実験』をした。謝礼千円では交通費の一部は自弁となり不満大! そのときの私の相談相手、いわば職場先輩は西岡喬(現在の三菱重工業会長)さんだった。

   『西岡さん、実習ではお世話になりました。しかし、私はトヨタ自動車工業に就職します。私は飛行機に特別の関心があるわけではありません。今後30~40年間の勤務先としては、高い成長力が見込まれる産業に就職したいのです。航空関連では日本航空などの航空運輸業は伸びると思いますが、航空機製造業には夢が持てません』『私もそう思います。遠慮は要りませんよ』と、諸手を挙げて励ましてくれた西岡さんに、今でも感謝している。

更に蛇足。

   昭和39年の初出勤日、当時の所属長(後の副社長)が課員を集め、『当社の長期方針では現在の月産3万台がいずれ8万台になる!』と報告して、課員を鼓舞した。私は即座に『その計画は弱気ですね。私は日本の年間需要は400万台、トヨタの市場占拠率を30%と仮定すれば、月産10万台は見込めると思いますがね』と発言した。
   
   あれから42年が経過し、我が予想でぴったり当たったのは年間需要だけ。今日の月産台数は30万台。その半分を輸出し、海外生産が国内生産を追い越す勢いになるとは夢想だにしていなかった。当時は貿易や為替の自由化にどう対応して生き延びるかに全社員が全力を投入していたのだった。
   
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   銀行・商社・テレビ局などより、物を作っているところの給料が安いのはおかしいですね。かれらの給料を下げてバランスをとるべきでしょう。ま余計なことですが。

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   かつて、三井物産と一緒にトルコへの工場進出調査をしていた頃、戯れに『商社とは製造業に生えているヤドリギのようなものだ。製造業が枯れればヤドリギも枯れる』と言ったら、彼らがすっかり意気消沈し、絶句してしまったのを思い出します。

   農業や製造業は物の絶対価値を高めているものの、商社に代表される物流業は、物の位置を移動させて相対価値を高めているだけなので、物流技術の進歩と共に付加価値増加率はシルクロード全盛時代に比べれば激減中。

   年間売上40兆円のウォルマートを筆頭に小売業は低賃金の代表業種ですが、銀行・商社・テレビ局の不愉快な高賃金が何時まで許容され続けるのか、疑問が残ります。

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   杉原千畝については、彼のその事から外務省が戦後彼を冷遇し外交官のキャリアとしては不遇な生涯を終えた、との記事を昔雑誌で読んだことがあります。役人の世界でも、農林省、文部省、外務省が頭の固さでは突出しています。それと厚生省。となると殆どになるか。

   最後に、ホームページは確かに改善の余地がありますね。写真も大きすぎるようです。プロの業者ではないので、しょうがないかもしれませんが次を期待します。

   勝手なこと書いて失礼の段お許しください。

⑧ 高校&大学同期・経


   バルト三国は小生にとっても今最も訪ねてみたい国のひとつです。今回の旅行記の第1ページはバルト三国の歴史が簡潔にまとめられ、実に無駄のないすばらしい導入です。さぞ事前勉強と現地での実感に基づき、推敲に推敲を重ねまとめられたのではないか、と推測しています。
   
   「はじめに」と「トピックス」はいつものように話題豊富でこれは旅行記の隠し味であり、毎回楽しみにしています。今回の添乗員はまさにプロフェショナルといえる匠の技を随所に発揮されたようで、さぞ気持ちのいい旅でしたでしょう。重要な情報は口頭(音声)のみではなく“書いたもの”(文字や絵図)を添えて相手に伝えることが情報伝達の基本であり、これは社会生活には不可欠の要素ですが実行はなかなか難しいようです。
   
   外交官杉原千畝の名誉が外務省により公式に回復されたのは半世紀以上を経たつい最近のことであるのに、遠い異国の地には「スギハラ通り」があり、「顕彰碑」や「杉原記念館」が建てられている由。外務省もODA資金を充ててこれらの維持発展に尽し、大いに日本のPRをすべきでしょう。
   
   北欧はスウェーデンとフィンランドを訪れたことがありますが、落ち着き、潤い、生活の息遣い、ゆとり、足るを知るなどの言葉が思い当たり、そこからは健全な精神が見えてきます。一方交響詩「フィンランディア」のような激しい独立精神を持ち合わせている、まさに憧れの国々です。初めて演奏会で聴いた「フィンランディア」の感動を思い起こしています。

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   海外旅行者は手元のデータによると年間1700万人前後とあります。6000万人は多すぎるのでは?

   此処での数値は年間の延べ海外旅行者数ではなく、海外旅行を楽しんでいる総人数を意味しています。海外旅行が大衆化したとはいえ、一度も海外へ出掛けたことの無い人が総人口の半分(子供や高齢者など)はいると思いました。
   
   海外旅行を楽しんでいる人と雖もその頻度は、高々数年に1回(6000万/1700万=3年半に1回/人)と思います。
   
   一方医師は既に成人しているし高額所得者なので、全員海外旅行の体験者であるだけではなく、その頻度は一般国民よりも高いと推定しました。

⑨ 大学教養部級友・工


追憶記有難うございました。

   小生2月は避寒目的でマニラ西方のバターン半島にあるリゾート地SUBICへ行っており、拝読するのが遅れ申し訳ありませんでした。
   
   海外旅行の新目標も定まり、益々種々の観察眼とその筆も冴え渡り感心して拝読しました。個々の感想は省かせていただきますが、山本紘一さんとご一緒だったとは吃驚。自分も第3技術部時代に短期間一緒に仕事をし、懐かしく感じました。
   
   最近昔の職場仲間がネパールへ行き、ヒマラヤの写真を添付して紹介してくれました。景観の素晴らしさを少しは実感することができました。貴兄のホームページで写真も拝見し分かりましたが、更に沢山紹介していただけるのを期待しています。
   
⑩ トヨタ先輩・工・ゴルフ仲間・奥様と毎年2回海外(米国・オーストラリア・フィリピンなど)で各3週間ゴルフ三昧を楽しまれている、財テクの名指南役


お早うございます。

   実は貴殿の追憶記を今月初めころ送ってもらっていましたが、その時は忙しくしかも長そうだから後でゆっくりと思っているうちに、メールの下のほうに入ってしまい忘れてしまいました。

   今回この催促メールが来て思い出し、昨日は終日雨でテニスも行けず、改めて探し出し読ませてもらいました。相変わらずの力作ですね。読むのもじっくり腰を落ち着けて読まないといけないですね。

   今回は添乗員泣かせの貴殿でも満足の行く添乗員で良かったですね。毎度、ツアー同行者の人品骨柄ウオッチング楽しく読ませてもらいました。小生のような一人旅ではこのような楽しみはないですね。
   
   こうして見るとツアーグループの中でも全くの単独者というのは殆どいないようですね。小生が2年前に一人でクルージングに行ったような気分になるのでしょう。グループ内で仲むつまじくしているのを見るのは余計淋しさを感じるものです。これは愛妻を亡くした者にしか解らない感情でしょうが・・・・・・

   同伴者に山本さんが一緒とは意外でした。彼はかつて南アにも駐在したことがあり、時期は同じではないが南ア駐在員OBで作る『ジャカランダ会』(ジャカランダは南米原産・紫色の花の木。ブラジルから南アに持ち込まれ、ヨハネスブルク等で大量に植えられ今や南アの象徴になりかけている花)のメンバーで、故山本ブーさんの良き部下の一人でしたので知っております。今はまたタイに行っておられるのですね、今度バンコックに行った折訪ねてみたい。コンタクト先を教えてもらえれば幸いです。

   貴殿の今後行きたい候補国で小生がまだ行っていないのは中南米のバハマ、欧州ではアイスランドです。逆にアジアではカンボジャだけ行っているだけです。アフリカと中近東は総て行っています。世界遺産ベスト30の内小生の行っているのはたったの7つです、貴殿は18個で、さすが好いところを回っておられます。

   フィンランドは3年前に長女と一緒に故愛妻の写真を携えて行ったところであり、懐かしく読ませていただきました。というのも退職記念旅行に北欧の旅に行くことにしておりましたので。小生たちはスエーデンのストックホルムから貴殿の見られたSILJA LINEに乗ってヘルシンキに行きました。丁度貴殿たちと同じ9月でしたので快適な船旅でした。

   ところで次回のナントカスタン国(ウズベキスタン・カザフスタン・キリギス・タジキスタン・トルクメニスタン)のツアー仲間は見つかりましたか。(メール仲間300余人に誘いかけたにも拘わらず、未だに同行者は見つかりません。遅かれ早かれどうせ100%死ぬ筈なのに、命が大切だとか何とかいろいろ重大な理由があるのだそうです! 私は昨年ウズベキスタンのサマルカンドに行く予定でしたが、政情不安で催行中止の憂き目に遭いました)
   
   こういう変なところに行くのは余ほどの旅をし尽くした人たちでしょうね。酒も食い物もあまり美味いもの無さそうですし、何よりも現地に知人も居そうもないので行く積りになれません。

   今は来月16日から行く中欧の旅の支度で忙しくしています。貴殿に倣い図書館に行き沢山あの辺りの本を借り出してきました。なかなか勉強が大変ですね。知人探しもすでにポーランド、チェッコと連絡つきました。もっとも今のところトヨタの現地駐在員のみです。今回の旅のテーマは『ユダヤとナチス』にしようかと思っているところです。

   また帰ったらお互いに旅の自慢話をやりましょう。お元気に。

⑪ トヨタ先輩・工・死ぬまでの介護・温泉・3食付きの終の棲家1LDKを買われた方。


   バルト3国とフィンランドの追憶興味深く拝読いたしました。 遅くなりましたが「読後感」をお送りいたします。

   鬱蒼たる森と無数の湖(氷河湖)から構成された山紫水明の国土に、足を一歩踏み入れたとき、ため息が出るほどの羨ましさに襲われた。彼我の景観の格差が余りにも大きかったからだ。まるで全土が軽井沢の景観だ。その上、美しい国土に点在する美観溢れるカラフルな家並みは、おとぎの国かと見間違うほど。自然界とのバランスも熟慮しながら蓄積された無類の美しさは、軽井沢の朽ちかけた別荘群の比ではない。

   私はバルト3国は知りませんが、確かに欧州ではこの点で我々がカルチャーショックを受けるし、又それが海外旅行の醍醐味の一つでしょうね。

   10年程前の出張の時にドイツでこの話題になったとき、現地駐在の商社マン曰く「こちらの景色(家並み)は遠目に綺麗なんですよ、近くで見ると結構ぼろが出ますよ」と負け惜しみみたいなことを言っていましたが。 

   世界第2位の経済大国の、わが日本の街の景観は極めてアジア的ですね。すなわち無秩序、猥雑等の言葉がぴったりの。但し盆栽を愛でたり、床柱に凝ったりとか、私的な又部分への拘りは結構有るのに、街全体の景観には関心が薄いようですね。

   欧州人に、『日本人は個人も法人も協調性を欠く、究極のエゴイスト』と言われても残念ながら反論できないですね。
   
海外旅行MNヶ国満喫大居士

   88が目標ならMNは88でも良いとも思えます、88で多くのと言うことも表していますので。ただこの戒名は字余りで語呂が良くないので、大居士の場合によく頭につける○○院殿を付け加えて中を4文字に出来たら、戒名らしくなると思いますが。例えば○○院殿八八○○大居士。失礼しました。

   数年前から国際線でのエコノミー症候群が話題になっている。その対策からか、フィンランド航空ではエコノミー席でも、座席前(前席の背部)の雑誌などの物入れに500ccのミネラルウオーターが準備されていた。乗客からの依頼の度に客室乗務員が水を配るよりは効率的だ。この程度の機内サービスですらも、私には初体験だった。

   確かにこのサービスはいいですね、フィンランドへ行くならフィンランド航空がよさそうですね。

   ところでオーストラリア航空では、免税店で買ったスコッチを機内で飲めませんでした。オーダーすれば何時でもサービスするので止めて欲しいとのことです。サービスも各社様々ですね。

   私はオーストラリア航空の上記の主張には納得できません。劣悪サービスの押し売りに過ぎません。機内サービスのスコッチは通常ジョニ赤程度のスタンダード品。私はプレミアム品を飲みたいので成田で買った『山崎』とか、『オールドパー』を機内で飲んでいました。
   
   押し付け機内食にも不満があります。原価を同じにした小食者用の『量は少ないが質は高い』物と、大食者用の『量は多いが質は悪い』物を用意すべきだと思います。多重がん患者の私は、学校給食にも劣るような機内食は、最初は摘み食い、到着直前の物は殆ど食べず酒を飲むだけです。

   機内圧力が下がると血管が膨らんで血圧が低下し、血流が不足して脳貧血に至り、軽い酸欠症状を発生すると立ち眩みを起こしやすい。

   なるほどそういうことですか。エコノミー症候群というのはこれも絡んでいるのでしょうね。

   北欧各国は交通安全を目的に日中でも車の点灯は義務付けられている。バルト三国は欧州でたとい最貧国に属していようとも、さすがは文明国だ。この種のルールの遵守意識は高い。数年前に日本でも冬季での点灯が奨励されていたが、何時の間にか廃れてしまった。私は積極的に点灯していたが、対向車のドライバーが私の消し忘れと勘違いし、注意を喚起する合図をしばしば善意から送るので、とうとう根負けして点灯主義を放棄した。

   私は10年来の点灯励行者です。基準は夕方は誰より早く点灯する。降雨時や薄暗く感じる時も点灯です(スモールランプでなく前照灯)。確かに相手から善意と思われる合図は最近は減ってきたので、日本でも昼間点灯の理解は以前よりは進んで来たと思われます。

   杉原氏の功績が関係機関によって再評価されるには何と半世紀も必要だった。リトアニアの独立を機に、『スギハラ通り』がヴィリニュスの郊外に誕生した。更に日本とリトアニアとの国交樹立を機会に杉原氏の名誉も快復された。杉原氏の出身地岐阜県にも顕彰碑が建てられた。イスラエル政府も杉原氏を恩人として表彰した。今日の外務省官僚の堕落振りを、天国の杉原氏はどんな心境で受け止めているのだろうか?

   台湾の李登輝が昔の日本人は信義に厚かったと言っていますね。言外に今の日本人は違う、と言っているみたいですが。

   携帯電話の雄『ノキア』はフィンランドの会社。人口は僅か519万人の小国であっても世界が注目する国だけのことはある。日本の少子化騒ぎなど馬鹿馬鹿しくて・・・。国民の幸福度と総人口とは何の関係も無いのだ。

   同感です。小国でも国民が幸福そうな国は多いですね。スイスもその一つだと思いますが。逆に大国でも国民が不幸な国がいくらもありますね。

⑫ トヨタ後輩・工


   いつも貴重なる旅行記を送っていただき、感謝しています。今後の旅行計画も決まって、いよいよ人生の花を着々と咲かせる道が見えてきましたね。
 
   さて、バルト3国の歴史等から感じることの一つは、日本は島国で良かったと思いました。もし日本が朝鮮と陸続きであったならば、蒙古等の大陸の戦力に侵略され、今の美しい日本はなかった、とつくづく感謝しています。
 
   バルト3国はロシア(ソ連)におびえながら苦難な人生を送り、ソ連の崩壊を期して大きく自由を満喫している様子が分かります。シベリュースのフィンランデアは私の大好きな曲です。
   
   私は外国の様子をテレビや写真、音楽等によって色々と情報を得ますが、やはり外国の地に立つ意味(意義)は言葉には表現出来ない価値あるもの、と私は思います。今後とも肌で感じた貴殿の体験レポートに期待しています。
   
   くれぐれも健康に留意され、いつまでも元気で目標の達成を期待しています。                  

⑬ 中学同期・工・新日鉄のコーラス部で活躍した方


   おひさしぶりです。貴旅行記「バルト三国とフィンランドの追憶」をありがとうございました。

   バルト三国には行ったことがないので目新しいことが多く、また、名調子の文に写真が加わり、ますます面白かったです。

   遅くなりましたが、取り急ぎお礼まで。

⑭ トヨタ同期・工

         
   今回の世界紀行バルト三国とフィンランドの追憶は、写真付きで内容が実感として感じとれ、今までとは又一味違った素晴らしい紀行文で興味深く拝読いたしました。

   バルト三国が世界地図のどの位置にあるのか、おぼろげながら認識してはいたもののその殆どが承知していなかった事ばかりで、斯様な国のツアーが催行されるとは予想だにしていませんでした。
   
   10冊にもおよぶ書物で事前勉強してツアーに臨み、実際に現物に接すると一段と興味深い感触を持たれるでしょうね。知り尽くした貴台がする一寸意地の悪い質問 にガイドが窮した場面が、今までの紀行文に掲載されており納得です。

   トラカイ城周辺の橋の袂でのアコーデオン引きのお爺さんとの写真、満足したような笑顔で、そして一寸得意げなポーズで最高ですね。

   平成18年末の海外旅行目標 69/68 100%達成をクリアーして、更に88ヶ国に上方修正された貴台のひたすら前向きな情熱に敬意を表します。

⑮ 高校同期・65歳で役員退任後一念発起、韓国語をマスターした方


久しくご無沙汰いたしております。

   1月末頃から風邪を患い、この2週くらいは肺炎と診断されて安静を言いわたされてしまいました。石松さんの大作を読ませてもらう気力も無く、返信が遅れ恐縮しております。

   ひと月以上 風邪を長引かせ、その上肺炎にまでなるとはーーー。いつまでも若いと自負していた我が身の実力を知らされ、情けない心境です。

   今回の作品の中で『海を見下ろす断崖の上に立つと、私は無性に云々ーーー』とあり、我が身の今と引き比べ石松さんの若さに脱帽しております。(石松さんが自分のズボンを汚さぬくらいに勢い良く出来たとすれば)

   しかしながら、これまでの作品と比べて、著者は旅行中に何を見ても今の日本の現状を憤慨する種(タネ)とするようなところが目立ち、敢えて申せばこの点が気になるところです。これも一種の老化現象ではないでしょうか?

   まだ全快でない状態での読後感ゆえ、とんでもない事を言っているようにも思います。

⑯ トヨタ同期・工・サウナ愛好者・サウナに入れば風邪等吹き飛ぶと思っていましたが・・・


   読後感が大変遅れて申し訳ありませんでした。先にご連絡しましたように内容が膨大な力作の為、今回もまず印刷してじっくり時間を掛けて拝読させて頂きました。

   私がバルト三国と聞くとまず思い浮かぶのは、“昔は多くの都市がハンザ同盟に属し、その船団が内海として活躍した、バルト海に面したドイツ騎士団の植民地?の国々。第二次大戦時では杉原氏の独断で、避難ユダヤ人へのビザ発給により日本経由米国亡命の人道的手助けした場所。そしてドイツの敗戦後、多くのドイツ系住民が処刑され、ロシア人が移住。近年では人間の鎖と、2000年?の大晦日の日に、米国亡命者の一時帰国によるベートーベンの歓喜の大合唱の中継。そして、米国の後押しによる念願のEU加盟・・・”等ですが、石松さんの資料の中でバルト三国比較表も興味深く拝見しました。
   
   その中でやはり、ロシア人の人口比率の増加が具体的な数字となって現れており、米国の後押しがあったとは言え、よくぞロシアから独立し、EUに加盟できたものだと感心しました。
   
   石松さんの旅行記では自然の豊かさが述べられていますが、私も4年前にロシア~チェコ~オーストリア~ハンガリーのツアーに参加した時、サンクトペテルブルグからプラハへの移動時に見たバルト海の美しい海岸の光景は、今でも脳裏に浮かびます。
   
   又、バルト三国は他のそれと違い、都市全体も中世の都市そのままに世界遺産として保存されているようですね。私も是非いつかは訪問したいと思うようになりました。
   
   さて同行された山本さんとは11月の加茂石会の後の入浴中にバンコクでのゴルフプレーを約束して、お互いに連絡をとり、私と会社(再就職先)の相棒と12月の社内旅行(注:1.5万円の補助があるだけ)でバンコク旅行して、約束通りプレーを楽しみました。
   
   今度は中央アジアに出かけられるそうですが又、面白い話を聞かせて下さい。では健康には気を付けてお出かけ下さい。

⑰ トヨタ後輩・工・ゴルフ仲間

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