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随想
           
職人に感謝!(平成23年6月30日脱稿)

   人類誕生以来、連綿と続いた歴史を支えていたのは、今で言えば農林水産業(第一次産業)と職人による加工業(第二次産業)だった。夫々の時代の生活ぶりは古代遺跡の発掘から、次第に解き明かされてきている。

   人類の歴史を一変させたのは産業革命以降、不断に開発され続けてきた新商品とその量産技術による原価低減にある。先進各国では農村部でも都市部でも、職人が毎日のように廃業している。でも、人生にわくわくするような喜びを感じさせる新しい技術を、不断に創造し提供してくれる本物の職人業は、決して消滅することは無い。それどころか、ますます期待されているようだ。

   本物の職人とは人間国宝(芸術家・宮大工他・・・)のように別格視されている人達だけではない。ノーベル賞受賞者・神の手を持つと言われる外科医をはじめとするあらゆる分野のトップ層の方々だ。最先端の機械と雖も太刀打ちできない創造力を発揮するこれらの人々こそが人類の宝、不滅の職人群だ。
   
   感謝に値する職人技を思い出しつつの、我が体験を主にした僅かな例の報告に過ぎないが・・・。

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はじめに

   がんの治療で5回も入院した私は、遂に昨年(平成22年)から、冠婚葬祭や同期会・同窓会・懇親会・年賀状などは総て欠礼。メリハリの無い惰性で生きているだけのような輩の近況報告を無理やり聴かされるのに辟易し、相槌を打つのが苦痛になってきたからだけではない。私自身の心境も変化し、外出するのも億劫になってきたのも数ある理由の一つだ。一種の引き篭もり症候群に罹ってしまった。




   昨秋の姪の結婚式や今春の義母の卒壽はお祝い金を贈っただけ。今春の初孫娘の慶応大学付属中学の合格や今夏の実弟(実兄が相続した生家の庭木手入れの支援中。左奥は物置)の古希には長崎県壱岐の魚屋経由で天然鯛(姪5.4Kg,実弟75cm*6.8Kg。重さは指定できず釣り人任せ)を贈っただけだ。

   実弟には恩着せがましく調理に挑戦したら面白いぞ、と発破をかけたがギブアップ。出入りしている6km離れた筑前芦屋町の漁師に相談。その大きさに感動した漁師が只で調理してくれたとか・・・。

   各ゴルフクラブの月例などの日曜競技も参加を中止した(入賞の可能性もなくなり、たった1,000円の参加費すら無駄と感じるようになった)結果、外出は水・土の全て(雨天はキャンセル)に出かけるゴルフ(冬は中止)とテニス(真冬でも挑戦)。気のあった仲間との1〜2ヶ月置きに出かけている温泉旅行程度(車の提供や運転はしたことが無い。移動中の飲酒に勝る天国は無いと嘯いて、ビールを車中でガブガブ)になっただけではない。96ヶ国に達した海外旅行も遂に関心がなくなってしまった。

   その結果は何としたことか、僅かしか残されていないと思い込んでいた余生に、ゆとりさえ生まれてきた。新たに獲得した時間は、40年近く続けていた家庭菜園や昨年から独学を始めた自己流料理(ホームページ⇒随想⇒料理事始)をはじめ、20番組前後毎日録画しているテレビ番組の、10倍速での集中再生(作り話に過ぎない映画やドラマなどには関心が全くなく、ナレーションを省略しても理解できる映像記録番組中心)に振り向けた。

   ふと気がつけばいつの間にか私は、職人もどきの余生に全力で突進していた。人生が何と面白く感じられることか! 現役時代とは全く異なったパターンに脱皮していたのだ。





   死ぬ準備も着々と進行。昨年(平成22年)夏に設計図を纏めた我が終の棲家も去る6月14日に着工。総重量10トンに達する基礎(地中の鉄筋コンクリート製人工地盤)も完成。墓石は中国で加工中。今秋までには遅くとも完工の予定。守銭奴仏教界と訣別(ホームページ⇒随想⇒仏教界と訣別)した私は、墓誌には自作の戒名『世界百余国漫遊大居士』との隷書による刻印も注文済み。

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家庭菜園の例

   昭和49年12月7日に新築移転以来、猫の額ほどの庭の片隅20坪で所謂家庭菜園に取り組んだ。でも、だんだんと熱意が冷めてきていた。『一富士ニ鷹三茄子』と言われるほどナスは夏野菜の花形。でも、連作障害が最も現われやすい野菜だ。

   過去の記憶を頼りに毎年植える場所を変え、高価な接木苗を購入していたが年々育ちが悪くなってきた。連作障害の原因には尤もらしい各説(微量必須元素不足、お互いの成長阻害成分の放出・・・)がある。膨大な量の苦土石灰や小型ダンプカー単位(3立方メートル)で購入している完熟牛糞堆肥の投入でも解決できなかった。

   今春、我が頭に稲妻のようにある閃きが走った。畑に大きな穴を堀り、長さ75cmの標準的なプランター1個分の培養土(1袋14リットル)を投入しては一株ずつ移植した。過去の耕土との訣別だった。

   劇的な変化が現われた。同じ茄子科ではあっても連作障害が現れ難いピーマンすらも、培養土の有無で大きな成長差が現われた。来年からは全株(とは言っても、連作障害対策が必要な野菜は高々30株程度に過ぎないが・・・)に培養土(他の野菜でも使えるようにと、在庫は常時20袋確保した)を投入する計画だ。



   ナスでは黒紫の太い幹、団扇のように大きな葉が育ち始めた。『一黒二赤三紫』を思い出す。魅力溢れる元気さの象徴だ。今年は糠漬け用の長ナス・生でも齧られる水ナス・煮物向きの円い形の米(べい)ナスなど8株。6月中旬に花が咲き始めただけなのに、収穫が今か今かと待ち遠しい。



   今まではオクラの栽培にも苦戦していた。アフリカ原産のオクラは低温には大変弱い。大根のような直根と僅かの細い根が付いたポット苗で売られている。ポットには2〜3本の苗が必ず植えられていた。ポットの苗を慎重に一本ずつ切り離しては移植していた。これが失敗の主因だった。僅かばかりの産毛のような細根すらも、気付かずに引きちぎっていたのだ。

   5月の連休明けは地温も高くなっているのに移植した苗は全部枯れた。再挑戦した苗も枯れた。このときにも救世主のように閃きが走った。下旬に買ったポットの苗は、分離せずにそのまま移植した。30cm程度に成長したら、細い苗は引き抜かずに根元から鋏で切り取る予定だ。オクラは移植の難しさを前提にして、ポット1個に複数本の苗が育てられていたのだとやっと解かった。

   その他、青紫蘇・イチゴ・インゲン・大葱・キュウリ・小葱・サラダ菜・シシトウ・自然薯・セロリ・チシャ・トマト・苦瓜・ニラ・人参・バジル・パセリ・ピーマン・蕗・ほうれん草・ミツバ・冥加・モロヘイヤ・ルッコラ・・・・等の夏野菜も順調に育っている。多品種少量栽培の典型だ。在宅時には朝昼晩の3回、スポーツ日は朝夕の2回だけだが、我が家庭菜園での観察が楽しくて、楽しくて・・・。

   でも、南瓜・サツマイモ・スイカ・冬瓜は決して植えない。ネット栽培が可能な苦瓜とは異なり、蔓が延びて隣の畝の野菜を攻撃するからだ。
   
   今までは運動を兼ねて作付け更新の都度、苦土石灰の散布⇒耕運・完熟牛糞堆肥⇒耕運・元肥の化成肥料⇒耕運。備中で合計3回耕していた。しかし加齢と共に、腰を前後に繰り返し折り曲げる作業では、腰部への負担が重く感じられるようになり、今年からは遂に電動ミニ耕運機を導入。たったの500ワットだが人間と比べれば15人力。いとも簡単に耕運作業は完了。

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繊維産業の例

@ 服地や縫製

   産業革命の結果、紡績・機織(はたおり)・縫製が主力だった家内工業は壊滅した。でも、超高級紳士服地の職人業はイギリスなどでは生き残った。100%カシミヤのゴルフ用セーターは英国製。我が100%カシミヤ製のジャケット生地は英国とイタリア製。夏用の正絹100%のジャケット生地は英国製。背広用のドーメルやスキャバルの生地も英国製。

   生地は全て英国の専門店で購入し、縫製は総て松坂屋名古屋本店の職人。まともな技術を持つ縫製職人は日本でもしぶとく生き残っていた。

   かつては御幸毛織に代表される日本の紳士服地メーカも、いつの間にかデパートの一等地から弾き出され、オーダーメードの高級服地は欧州製品が席捲。日本の職人は急速に減少。今や高級紳士注文服専門の職人も激減し、青山に代表される量産既製服に完敗。

   その結果、標準から外れた体形の男達は芸者首(首と襟との間に隙間があるの意)の上着、巨根自慢の若者は金嚢袋もない窮屈なズボンで我慢させられている。人間国宝クラスの仕立て職人は採寸のときに、さりげなく陰茎の向き(右利きには左向きが多いらしい。原因は自涜にあるらしい)も探り、そちら側の膨らみを大きくしていたのだ。
   
A 仕立て屋

   社会人になって二年目の昭和38年、名鉄百貨店に出かけて冬服を仕立てた。当年のトヨタの初任給は20,000円。国産最高級の生地(ミユキ・ファンシーテックス・ハイウール)は21,000円。仕立て代は15,000円。合わせて36,000円。丁度百ドルだった。
   
   同年の我が年収は50万円台。5歳上の職場先輩は80万円台。9歳上の係長は120万円台。16歳上の課長は150万円台。25歳上の部長はフロアが異なっていたのでヒアリングは中止したが、200万円強と推定した。誰もが貧しかった。今では名目で10倍になったが、インフレ分を除去すると実質は3倍程度か??
   
   今までに2万人の採寸をしたと豪語した老職人は『貴方は左右非対称のなで肩・鳩胸・皿尻・蟹股』と言い放った。『それを承知しているからオーダーにしたのだ。馬子にも衣装、お見合い写真撮影の準備だ!』。仮縫いのときに陰茎の向きを意図的に変更した。職人は『こっち向きではなかったはずだ』と呟いた。
   
   繊維産業の超先進国の英国では、欧州一と評価されている名門百貨店ハロッズ(売り場面積は何と92,000平米。高島屋東京店の1.5倍強)にすら、注文用の紳士服地は売られていない。既製服ばかりだ。商品は紳士服ではなく労務者服だ。しかし、本物の紳士(今尚英国に残っている二万人の貴族他・・・)には専門店が対応し、腕利きの職人が生き残っている。仮縫いは馬型の椅子に跨らせて実施。胴体が変形したときにもチョッキや上着に皺が寄らない工夫らしい。
   
B 絨毯

   シルクロードの沿線各国やアラブ諸国では、家庭内でも工場でも今尚手織りの絨毯が無数に織られている。海外に出かけるたびに記念になればと5ヶ国で買い求めた。超高級品は絨毯として床に敷くことはせず、壁掛け(タペストリー)としての飾りに使われている。これらの絨毯は機械での量産は難しく、今尚人海作戦で造られている。職人技に感謝!

   中国では天津の大型量産工場で6畳サイズの段通⇒梱包したら47Kg⇒コンテナ輸送。ベトナムの段通は中国の段通に似ているがデザインが悪かった。パキスタンの絨毯は絹と羊毛を組み合わせた色彩とイスラームの幾何学模様が美しい。トルコのヘレケの絹製絨毯の美しさは純毛中心のペルシア絨毯よりも高級⇒トルコの女性は結婚するときに、自分が織った絨毯を持参する習慣があるそうだ。
   
   エジプトの絨毯工場の織姫は指の細い少年が主力。我が買い求めた絨毯では、時代が大きく異なるクレオパトラ7世とラムセス2世が向き合ったデザインだった。エジプト史では最も有名な男女だ。アラブ諸国では工場での女性職人は見かけなかった。
   
   ペルシア絨毯を現地で買うべくイラン旅行を申し込んだ。出発直前にニューヨークで9.11事件が発生し、急遽旅行は中止された。ビザ取得代金と手数料は返還されず不愉快千万。何れアラブ諸国の政情が落ち着けば出かける予定。

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芸術の例

@ モナリザ

   モナリザはダ・ビンチの正しく創作だ。光学技術や模写技術が進歩すれば進歩するほど、本物と勘違いするような絵を複製することは可能だ。ほんの半世紀前に本物ソックリの模写が発見され、真贋の区別ができず美術界は頭を抱え込んだそうだ。
   
   でも、エックス線をはじめとした分析技術を駆使した結果、結論が出たそうだ。どんなに優れた模造品といえども所詮はコピーに過ぎない。先端技術と雖も職人の創造力抜きでは無から有を創造することは出来ない。職人の価値の真髄は創造力にある。
   
A 嘆きのピエタ

   私が最も感動した彫刻は、ヴァチカンのサンピエトロ寺院に展示されている(正面入り口の右側の壁の前)ミケランジェロの『嘆きのピエタ』である。現役時代に私も開発に寄与したと自負している、5軸の自動彫刻機を駆使すれば、この彫刻を複製することは出来る。
   
   でも、どんなに優れた複製技術も、最初の彫刻を創造することは出来ない。職人の偉大さに拍手喝采!!
   
B がっかりした合成音楽

   ある大学教授が自作の作曲システムをテレビで自慢していた。既存の名曲をフレーズに分解し、そのフレーズが表している意味と一緒にコンピュータに記憶させる。例えば悲しさを表現する音楽の作曲を依頼されると、記憶しているフレーズから注文に近いフレーズを自動的に選択しては、繋ぎ合わせて作曲するのだそうだ。一見、もっともらしい曲が編集された。でも、何処かで聴いたような曲想の繰り返しに過ぎなかった。
   
   スメタナの『我が祖国』や滝廉太郎の『荒城の月』のように、それまでの人類が聴いたこともないシンプルではあっても、誰の心をも引き付ける名曲とは月とスッポンだ。いわんやベートーベンの『第九』とは雲泥の差だ。氏がどんなに自画自賛しながら威張って聴かせても、既存の曲をパクリながらイミテーションを量産しているだけだ。こんな作曲システムを自慢するとは、何と情けない愚か極まれる似非(えせ)教授か!
   
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外食産業の例

   バブル崩壊後に爆発的に成長してきた分野の例に外食産業がある。テレビでは連日のように、うどん・カレー・餃子・ステーキ・そば・チャンポン・握り寿司・ハンバーグ・ピザ・弁当・ラーメン・・・等の量産工場での製造過程が紹介されている。関係者の努力には驚嘆するばかりだ。
   
   でも、各種料理に使われているスープの原料となる豚骨が不足している、とのニュースが報道されないのが不思議だ。業者は何処から膨大な量の豚骨を調達しているのだろうか? 中国だろうか? デパ地下の肉屋の商品の中では見たこともないが・・・。
   
   その結果、三ちゃん(爺ちゃん・父ちゃん・母ちゃん)産業を支えていた自営業の飯屋の職人は気の毒にも廃業を迫られ続けている。
   
   一方、調理界の頂点に君臨している料理長は、高級レストランのみならず高級ホテルや旅館の屋台骨を支える本物の職人として、脚光を浴びながら生き延びてきた。不断に創作メニューを開発し、リピーターの舌を飽きさせないからだ。
   
   どんなに高性能な調理機械と雖も、美しく盛り付けされた河豚の刺身を造ることはおろか、真似すらも出来ない。日本旅館の存在価値の真髄は見て美しく、食べて美味しい会席料理の提供にあるが、調理機械で量産することはいといと難しいようだ。
   
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鍛冶屋の例

概要


主として鉄製品を扱い、刃物・槌・鍬などの製造販売・修理を行う。

一般的には、鞴(ふいご)・金床などの設備を有しており、鉄の鍛造を行う。鍛造だけでなく鉄の溶接、切断の器具を備えているものも多い。鉄を熱する際の燃料はコークス・石炭・木炭などに別れ、鍛冶屋ごとに違う。

ただし鍛造をしなければそれは鍛冶屋ではなく、鉄工所である。また,鳶・大工・土方等と対比して,建設現場で溶接工の俗称としても使われる。

歴史

戦国時代には多くの刀鍛冶・鉄砲鍛冶が武器の生産に従事した。多くの場合城下の一角に集められ、大名や武士の注文に応じた。各地に「鍛冶町」の地名が残るのはその名残である。

一方、包丁や農具・漁具・鉈・茶道具などを手がける鍛冶屋は「野鍛冶」と呼ばれ、かつては日本各地に数多く存在していた。こうした「野鍛冶」の中には明治以降に刀鍛冶や鎧鍛冶から転業した者も多い。

しかし昭和30年以降、農業の機械化や安価な大量生産の刃物の流通によってこうした「野鍛冶」は大打撃を受け、次々に廃業していった。とはいえ現在でも伝統的な野鍛冶は日本各地に存在しており、中には松山の白鷹幸伯(薬師寺西塔の和釘で有名)や兵庫県三木の永尾駒製作所(肥後守)など、名工として全国に名が知られている職人も存在する。

これらの多くは、鉄の鍛え具合に注文を出すことが多く、個々に焼入れ具合なども異なる。現在でも、拘りのある者は器量のある鍛冶屋を探し回るほどのものである。

   世界一の刃物職人は日本刀造りの鍛冶屋だ。かつてドイツは産官学界挙げて日本刀並みの鍛造技術に挑戦したが失敗したままだ。日本では刀狩以降、日本刀の需要減と共に職人も激減したが、美術品愛好家の支えの下に鍛冶屋の職人技は今尚引き継がれている。

   平成の合併直前の旧豊田市域では、鋤や鍬を造る農機具専門の鍛冶屋は足助町の一軒になったそうだ。工場で量産される農機具とは別格。使いやすくて長持ちする製品を売り出しているが、高価すぎて家庭菜園には贅沢。この種の職人に後継者が現われないのが寂しいが、これもやむを得ない歴史か?

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工芸品の例

@ 革製品


   イタリアやフランスには世界に冠たる皮革職人が生き生きと働き、そのブランド名を付けられた製品には世界中に愛好者がいる。世界の工芸品としての製作工程の紹介番組を視聴すると、簡単には量産できない隠し技が工程の至るところにあり、感服させられる。これこそ『手造り』という言葉に相応しい。

   手造り=ハンド・メイド=超高級品との世界的に定着している言葉遣いに悪乗りして、彼方此方のマーケットで粗悪な量産品を『手造り』と称して売りつける商人が引きもきらない。本物の職人の顔に泥を塗るような行為から身を守る唯一の手段は、本物とは何かを識別する能力にあるとは言うものの、我が体験からは意外に難しい。

A 磁器や漆器

   かつての磁器の先進国は中国だった。“china”は陶磁器、“China”は中国との表記差(小文字で始まるか、大文字で始まるかの差)に象徴されている。“japan”は漆製品、“Japan”は日本を表すのと同類だ。

   これらの作品の背後には本物の職人の活躍がある。chinaの類似品は英国やドイツなどでも造られている。漆器は漆の主要産出国ベトナムでも造られ始めたが、輪島塗などの日本製品に品質で追いつくのは難しそうだ。

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がん治療の例

@ 胃がんの名医


   9年前の豊田市の老人健康診断で胃がんが発見された。福岡市中洲の飲み屋(リンドバーグ)のママの尽力で、本人とは全く接点の無かった名医の紹介を受け、平成14年12月19日に外科手術を受けた。後に日本胃がん学界会長に就任された愛知県がんセンターの山村医師だ。当時、既に1,000人を超える手術実績があった方だ。

   胃がん手術後の経過は順調に過ぎ1月8日に無事に退院した。退院できた嬉しさの余り、退院時に配布された注意書き資料は読みもしなかった。体調も回復したことだしと自己判断をして、気ままに過ごしていたら、徐々に体調が悪化。1/10には食欲が急減し、1/11の夕方から嘔吐が頻発。とうとう動けなくなり、21:00に救急車を呼び、荊妻と共にトヨタ記念病院に到着。
   
A 大腸がんの名医

   痛みで一晩中眠れず、翌朝転院を提案。当直の二人の若い内科医はしぶしぶ承知し、愛知県がんセンター当ての書類を作成した。幸い長男の独身寮は病院の隣だった。歩く気力も無く、車椅子に乗って玄関へ。朝9:00に長男の車に荊妻と共に乗り込み、自宅に立ち寄って身の回りの品を詰め込み、愛知県がんセンターに直行。日曜日であったにも拘わらず、山村主治医と助手の研修医は駆けつけてくれた。
   
   山村主治医は、一通りの再検査結果とトヨタ記念病院から受け継いだ諸資料を点検した結果、原因は分からないが、軽い膵炎及び腸閉塞と診断。応援に駆けつけていただいた加藤副院長(専門は大腸がん⇒後日院長になられた)は、腸閉塞は手術後どんなに注意していても発症する時は発症する、と言いながら腹部を慎重に触診された結果、手術の必要性はまずない、絶食で直ると断言。
   
   兎角、薮な外科医は切りたがると言われているが、この方こそ名医だと感嘆。同室者(胃がんが再発)の3人のうち2人も大腸がんの手術退院後、1週間以内に腸閉塞を患い、退院直後が一番危ないと言っていた。

   退院後に散歩を心がけ、腹腔内で大腸をぶらぶらと揺することにより腸の癒着を避けるべきだった。散歩嫌いの私は注意事項を守らなかったのだ。更に加えて、調子に乗って食べ過ぎてしまった。これも原因の一つだったと、臍(ほぞ)を噛んだ。

B 放射線照射治療の名医

   山村医師の采配で胃がん手術に先駆けて内視鏡による検査を受けた。このときに食道がんが発見された。これぞ正しく名医の経験知の象徴だ。山村医師は最初に胃がんの手術、体力が回復したら食道がんの放射線照射治療に着手と提案され、放射線治療部長の不破医師(後に副院長⇒南東北病院陽子線医療センター長に転任)を紹介された。
   
C 陽子線照射治療の名医

   食道がんには次々に新発がんが出来る特徴があるそうだ。4年前(平成19年)の夏に新たに食道がんが3個も発見された。2個は面積の小さながんだった。内視鏡部河合科長による、内視鏡による剥離手術で除去したが、大きながんは不破医師の提案で、兵庫県立粒子線医療センターで陽子線照射治療を受けることになった。

   当時の副センター長村上医師(後にセンター長になられた)にとっては、食道がん患者の第一号だった。私はモルモットになる覚悟を決めた。照射範囲や照射角度・照射強度を綿密に検討された結果、今回も順調に寛解した。

D 丹羽内視鏡部長に拠る食道がんの検査

   現在は3ヶ月間隔で食道がんの経過観察のための検査を受け続けている。今年4月に河合科長が転院。近藤科長に引き継がれた。今年に入りがんセンターの職員は大きなマスクを着用するようになった。

   新主治医の診察に先立ち、6月3日の検診は、大きなマスクで顔を覆った身だしなみには無頓着な老医師(立ち会っていた男性看護師に後で確認したら、何と副院長の丹羽内視鏡部長だった)が担当した。副院長とは知らず、初対面の医師に不安を感じた私は事前注文をした。

   『河合さんから引継ぎ事項は聞かれていると思いますが、私は兵庫県立粒子線医療センター長の村上医師にセカンドオピニオンを頼んでいます。CTと造影CTの写真(これらは貸し出し)・血液検査結果の数値表・今回の検査結果に関するカルテのコピーと、内視鏡による写真50枚程度を録画したDVDを用意してください。

   また、食道がんは最初の治療の4年後に再発しました。現在、直近の手術後3年経過しています。そろそろ危ない頃と推定しています。念入りに調べて下さい』

   『DVDのコピーの作り方が分からない』。傍らの若い研修医が『先生、簡単です。私が準備します』。医療と直結しないIT機器には流石の老名医も付いてはいけないようだ。老医師は『医師間の検査だけの技量差は小さいが、手術などの技量差は大きい』と呟きながら作業開始。私はいつものようにセルシン(導眠・麻酔・鎮痛薬の混合物)の注射を受けて昏睡。

   今まで毎回のように河合科長から『疑わしいところがあるが、がんとは断定できない。今後も経過観察を続けます』と言われていた場所から生検用の細胞を採取されていた。ルゴール染色法ではがんだけではなく、ヨード反応が現われない腫瘍もあるのだそうだ。

   生検は二人の病理医による合議制で結論を出す習慣だ。6月13日の告知では新主治医近藤医師から詳細な報告を受けた。生検の結果は良性腫瘍だった。ホッとした。
   
   私は、今日まで日本を代表するような名医の診断・治療を受け続けてこられたきっかけを作ってくれた、飲み屋のママ(藤堂和子様)に、心から感謝している。ママの言葉『がんは一発勝負やからね。名医を捜すから任しとき!』との一言が、未だに脳裏に焼き付けられている。

   単なる酒飲み男の話し相手を超えた、素晴らしい飲み屋の職人だ。出会って以来、大型書店で販売されていた月刊雑誌『中州通信・・・一冊500円』が無料で送付されてきただけではない。年末にはお歳暮(八女茶・屠蘇の元・屠蘇風呂の3点セット)まで頂く今となっては、たったの3万円しか謝礼を贈っていないことに恥ずかしさを感じている。

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おわりに

@ 職人業の本質は不易流行


   62年も前の昭和24年(小5)、朝日新聞西部本社(現在の北九州市小倉北区)を見学。植字工は鉛製の活字を毎分50個拾うことが出来ると聞いたとき、プロの熟練の技に驚嘆した。でも、コンピュータの応用技術は職人としての植字工を廃業させた。

   とはいえ、全く異質の分野で当時殆ど見かけなかった板金工(自動車の車体の修理工)が全国に誕生した。職人業の栄枯盛衰は永遠に続くが、全職業分野を見渡せば社会が必要としている、換言すれば社会が感謝している職人業が消滅することは決して無い、と確信している。今更ながら松尾芭蕉の『不易流行』という言葉の本質に感服。職人業種は時と共に変化するが、その存在価値は永遠に変わらない・・・。

A 知足余生を満喫

   私には二宮金次郎のような篤農家の勤勉さは欠けているとの自覚はしている。でも小さな家庭菜園で天敵と格闘しながらの余生に心を癒されている。更には、食べきれないほどの豊作に困惑しながらも、採りたてのキュウリを毎日数本塩もみし、枝豆の代わりに丸齧りしながら、心穏やかにビール(サントリーのザ・プレミアム・モルツしか飲まない)を飲みまくる日々にも満足している。

   晩秋の大根の収穫も楽しみの一つだ。ゴルフ場の茶店のおでんには失望しているが、我が家庭菜園の大根を使ったおでん作りには挑戦意欲満々。あらゆる出汁の中で最も好きな出発原料は蜆(しじみ)。圧力鍋でおでんを作ると短時間で完成するが、肝心の大根が蒸気圧で煮崩れするのが玉に瑕。電磁調理器を最弱にセットし、24時間連続加熱すれば芯まで柔らかく、出汁も浸透する筈と今から捕らぬ狸の皮算用。

B 世界に冠たる職人の養成を!

   世界遺産が日本だけでも17箇所も登録されている。これらの遺産の維持管理は職人技抜きでは不可能だ。戦後の日本では雨後のタケノコのように1,000校に近い数の大学が生まれた。でも、長い人生への離陸準備期である貴重な青春時代を、遊んで浪費している大学生が過半数を占めるようになっただけだ。在学中に勉強もしなかったボンクラがリクルートスーツと面接テクニックで就活に駆け回る姿ほど馬鹿馬鹿しい社会現象はない。世界の笑いものだ。

   文科省は全国の大学を旧帝大及び一部の難関大学(東工大・一橋・早慶くらいしか思いつかないが・・・)を中核にした研究&管理者養成大学と医歯薬学部を含む職業訓練大学に再分類し、全人類から感謝されるような本物の職人を、夫々の希望や能力に合わせて育成できるような教育体系にして欲しいと、死神に追い駆けられながらも願うや切なるものを朝(あした)に夕べに感じている。

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読後感

毎日暑い日が続きます。今日も松本市で大きな地震がありました。貴殿も充分にお気をつけ下さい。

私の今一番関心のある事は、原発の処理です。二番目は政府のごたごたです。東京電力と東北電力とも津波に遭ったのに、東京電力の貧弱さに何も言わなかった政府・官僚が悪い、人災です。政治屋は今の事が出来ないのに、日本の将来など出来る訳がない。

病人や弱者にきめ細かな政策を実行してほしいと思います。

現在の政治屋は国民のための職人ではなく、単なる守銭奴です。

@ 豊田市を代表するような縫製職人

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その1

お元気で何よりです。不死鳥のごとく生き返り、思索にスポーツに精をだしておられてご同慶の至りです。

国中を何となく不安におとしめている福島の原発処理問題に関して、貴殿のご意見がもう出てくるのではないかと期待してます。

この夏は南の国に行くのをやめて、北海道に2か月ばかり出かけることにしました。その折ゆっくり読ませてもらいコメントします。

何人かのメール仲間からも原発問題に関して何か書けとの指示を受けています。些細な問題でも書くには気合が要ります。7月末までには書きます。

A トヨタ先輩・工・男寡の貴族生活を満喫中の方。

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お元気でお暮らしのこと何よりです。

今日本人の2人に1人は癌で亡くなる時代。石松さんはやっかいな食道癌にも力強く生きて居られます。今後も発信を続けて、多くの人を激励して下さい。

石松さんを良いお手本として、私も寿命がある間を充実させます。

B 高校同期・工・千葉大学名誉教授・本物の職人

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何時もながらの技術屋魂がますますご健在で何よりです。生きている証がヒシヒシと感じて参ります。益々のご健勝をお祈り申し上げます。

お陰様で、小生も3年経過いたしましたので、徹底的なけんさをを実施しました。お陰様で全く異常がなく一安心でした。有難いことです。

ただ悩みは、食べ物が美味しく、ふとることを悩んでおります。又お会いしましょう。

C 多重がん患者・法・ゴルフ仲間⇒超名人

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久し振りに石松様のガッツのホームページが帰ってきました。日本人は特に公的な機関がお墨付きを付けると、専門家として周りが認める傾向が強い国民のようです。 

華僑やユダヤ人の特徴は本心、政府や役人を全く信用しておらず、口に出さないまでも、上手に彼らを躍らせます。 ビジネスが上手いのも本質を見極める目を何代もかけて養われているのです。このスキルも技術だし、物質的創作以上に精神的、心理的側面の創作にも今後は着目されるべきです。

今回の天災は物理的被害も膨大ですが、自分の地位や組織を守ろうとする指導者に翻弄される人々の真理を隠す隠蔽の被害は末代まで、子供や孫に国民の損失として少しずつ表面化することでしょう。

あらゆる面でも、人道的表現を駆使して、表現は確かに上手いが本質が隠され、言葉ばかりが踊っている状況は誰の目にも明らかです。次々と新しいものの発明、発見そして開発があっても果たして人類のためなのか?

疑問の残ることも多いなか、選択の目が試されております。

D 大学後輩・法・一度お会いしてご馳走になった方

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随想に触発され感じたことを書きます。

私も本物の職人芸は人類の宝物と思い長く続いてほしいと願ってますが、残念ながら不滅とは言いがたい状況ですね。

好きな落語によく左甚五郎や狩野派の絵師の話が出てきます。人柄もあるのでしょうが、実に生き生きと愛される存在として表現されています。それに比し最近は親近感、尊敬感のある存在が、減りつつあるあるように思います。

せんじつNHKの「美の壷」を見ていました。湘南の別宅の建物を紹介していましたが、たとえば大倉喜八郎の共寿亭は天井は蝶と千鳥の透かし彫り、欄間の豪華な彫り物、床は寄木細工模様と全館匠の技であふれていました。いまはそのような凝った建物にはなかなかお目にかかれません。

戦後日本は豊かになったはずですが、建物は合理化が進んだのか、大正前後の建築物のような遊びとゆうか、ゆとりがなく寂しいかぎりです。

E トヨタ先輩・経・テニス仲間・囲碁の大家・バードウォッチングでは世界を駆け巡るとか。

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石松さん、こんにちは! 岡崎市の北島です。いつも崇高なる見識を持ってのメール送付をいただき、ありがとう御座います。

癌を克服され、一病息災と言っていいでしょうか、健筆発信を継続されていて敬服しています。この暑さの候、どのように対暑されお過ごしでしょうか?

私事ですが、3月末を以って期間3年の愛知県職の嘱託を退職して、失業保険を受給の間にパソコン学校へ月〜金曜日まで通学しています。我流でうる覚えのPC能力に対して、Word, Excel,Power pointを基礎から教わっています。

その場では理解しても、次の日には忘れる事が多いので私独自の編集マニゥアル(手順・要領書)を作成。略記号を駆使して、5ステップで1つの作業を完成できるようにしています。 覚える事が多くて大変です。

何事に於いても云えることですが、特にPCと英語会話は“使わないと忘れる”と云う事に対する老人としての対策、及び“ボケ防止”には良いかなと思い挑戦しています。

ところで、今次の東日本の震災に際しましては、私どもの次男が福島市の北東に隣接している伊達市に住んでいて震災に遭ったので、それからが大変でした。幸いにも、2才の男子を含めた家族3人には怪我もなく無事であったことが不幸中の幸いでした。

この度の大震災に関しては筆舌では伝え切れないですが、こんな時だからこそ、持ち場立場でやれる事を実践する、一個人としてはたいそうな事をしなくとも、日常生活の中で、家族や地域として成すべき事をすることが大切だと思います。

F トヨタ後輩・未だお会いした事もない方・頑張り屋

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変わらぬ健筆に感激。 こちらにも無名だが職人(名人、陶芸、金型)は色々いるみたいです。 

小生 今度の東北地震に関連して、津波の事を調査しています。明治以来 日本人ですごい研究をしている人が多数いるようです。知らないことの方が多い、と改めて実感している所です。

今年も暑い夏になりそうです。互いに 熱中症に注意したい。

G 大学級友・工・今尚しぶとく現役で活躍中

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「職人に感謝!」を拝読。忘れていたものを思い出させてもらいました。

50余年前、配属された職場の近くに車体部の板金工場があった。まっ平らな鉄板素材をハンマーで叩いているうちに立体的な曲面になるので不思議で且つ面白かったので飽きずに眺めていた。

「試作など一個だけ造る時はプレス型を使わずこんなふうに造るんだ」
「こんな技術をどのようにして身につけたのですか?」
「アンビル(
鍛冶や金属加工を行う際に用いる作業台)の上で鉄板の伸ばしたいところをハンマーで叩く。チンチンと軽い音がする。角度や打ちどころを誤るとボワーンと響く。シマッタと思ってももう遅い。離れたところにいた親父さん(工長⇒トヨタ独自の職名。作業員出身の係長。現場の神様との異名で尊敬されてい.る)がやってきてハンマーの柄で頭をたたかれる。繰り返しているうちにコツが判ってきた」

ゴルフを始めた時、ゴルフ教室に入った。
グリップ、スタンス、体重移動、ねじり方などこと細かく教わった。指導してくれた元プロが云うには「自分たちの頃は誰も教えてくれなかった。上手な人のやり方を見て技術を盗んだ。今の人は頭を下げなくても教えてもらえるので欲が無く身につかないのではないか?」

最後の職場で、中間管理者の人事査定の打ち合わせの席で。私が高く評価している人間を、ある役員が「彼は管理能力が無い、頭も良くなくいわゆる職人だよ」と切り捨てた。

「職人」が育ちにくくなってきている!

H トヨタ先輩・工・ゴルフ&テニス&温泉旅行仲間

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石松さんの名医の方々との出会いは素晴らしいですね。名医の方々も石松さんのような論理的思考をきちんとなさる患者さんとは話がしやすいと思いますね。

・・・すべて医師任せで質問は一切しないという患者さんや、突拍子もない非論理的なことを要求する患者さんもいらっしゃるようですから。

私は臨床医ではないので、自分で経験はしていませんが。
 
I 慶応大学病院準教授・宇宙飛行士向井さんのご主人・病理医・未だお会いした事も無いのに、素早く読後感を賜る方

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とうとう、こうしたお叱りを受ける無精者になりました。
(いつもは直ぐに読後感を頂ける方なのに、今回は何故か返信が無く、職人嫌いなのかと問い合わせた結果・・・)

全て感心することばかりで、頭・知識知恵の石松大尽と思っていたのが、職人芸に挑戦される心境変化にこれまた吃驚で言葉も出なかった次第。

元々自分は次元の低い所で生きている人間。今の悩み・課題は或るきっかけで園長より聞いた「近くのトヨタこども園の土手に、数年前から毎週ごみを不法投棄している悪い奴が居る」事を知り、これが我が水源自治区民らしく、これを止めさせられなかった自治区も幼稚園もどうかしていると思う。

では如何する策があるのか(区の副区長している立場なので)、お互いの監視活動で防ごうと考え、PR回覧するも効果なく経過しており、我が賢人諸氏ならどうされるかな、と今は犯人に対し負け犬の心境になっている様で、高邁な生活をされている諸氏とは生きている世界が違います。

世の中悪い奴がいるのは承知していますが、身近に居ると嫌なものですね。大臣の失言位なら笑って済ませれますが。詰まらぬ返事になった点はお許しを。

J トヨタ先輩・工・ゴルフ&温泉旅行仲間・ゴルフは年間100ラウンド目標・別荘用地として購入された山に自生していたタラの芽泥棒退治にも苦労された方

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“職人”という言葉から、伝統工芸の職人しか思い浮かばない私とは大違いで、石松さんは神の手を持つと称される手術の達人など、広範囲の分野で特殊技能を発揮する方々に畏敬の念をこめた賞賛を綴っておられます。

私自身は農業と兼業の七宝焼窯元(後、親戚筋の業者の一職人となった親父)の息子として育ちながら、その継承者となることには全く無関心でした。

七宝焼は古代ペルシャを起源として世界各地で生産されてきましたが、我が出生地である愛知県海部郡七宝村は最も後発の生産地ながら、明治、大正から昭和10年代までに飛躍的な進歩を遂げ、まさに世界一のレベルにまで達していました。

我が家にも米国フィラデルフィアの万国博で受章した銀メダルと銅メダルがありましたが、同級生の実家 代々林小伝治を継ぐ邸には数多くの賞状やメダルが飾られていました。

林小伝治 はやし-こでんじ。1831−1915明治時代の工芸家。

天保(てんぽう)2年生まれ。尾張(おわり)(愛知県)海東郡遠島(とおしま)村の人。文久元年(1861)林庄五郎から七宝焼の技法をまなぶ。開港まもない横浜で外国人に製品を販売し,明治政府の七宝焼輸出のさきがけとなった。明治20年名古屋七宝組合を設立,27年七宝補習学校をひらいた。大正4年11月死去。85歳。

父は85歳で亡くなる数ヶ月前まで模様の輪郭となる銀線付けの仕事をしていて、NHKや民放のTV番組に出演したことがあり、とくに『銀線と老人』という番組では一日の生活ぶりを追いかけ取材した内容でした。

寡黙な父から七宝焼にまつわる話を聞く機会はほとんどありませんでしたが、番組の中で「日本は七宝焼の一番の輸出先になった国とつぎつぎ戦争をしてお客様を失っていった」という言葉が出たりして、「そういう事情だったのか!」と思い知ったりしたものです。中国によく売れ出したときに日清戦争、ロシアが次にメインの輸出先になったら日露戦争、そして米国への輸出が軌道に載った途端に太平洋戦争と……。

昭和20年敗戦と同時に進駐軍の兵隊が日曜ごとにジープで七宝村へ来るようになりました。彼らは実用一点張りで、七宝焼といえば従来桐の箱に絹でくるんで収めていたものでしたがダンボール箱にオガクズかわらを緩衝材に使えば十分、それさえ目の前で捨てて裸の七宝を持ち帰る兵隊も少なくありませんでした。

彼らの多くは緻密な技巧を駆使した高級な品より派手で手軽に買えるものを求めたので、次第に粗雑な花柄の模様で真っ赤な地色の縁飾りもつけない七宝焼が主流になっていきました。





先日、「開運!なんでも鑑定団」というTV番組で昔欧州に輸出された七宝焼が里帰りしたのが出ていて、相当高価な鑑定額が付けられていましたが、戦後に進駐軍が持ち帰ったような品はそれこそ二束三文、これから先どれだけ年月を経ても値上がりは期待できそうもありません。

七宝焼業界の現況について、私は何も知りませんが、技巧を極めた往時のような作品はもはや再現できる職人がいないでしょう。主婦の趣味としての七宝焼つくりは結構盛んなようですが、一人前の職人を育てていける地力がこの業界には残っていないと思われます。

テレビ朝日で平日に「ちい散歩」という番組が放送されていて、東京の下町がよく取り上げられています。民家の片隅のような場所にすごい腕前の職人がいて、世界を相手にした商売をしているような例を見るにつけ、石松さんと一緒に応援したいと思う今日この頃です。

J トヨタ先輩・工・資産は動産が使いやすいと考え、豊田市内の家屋敷を売り払い横浜に移住⇒中古マンションの借家で余生を満喫中。