ホームページ タイトル 本文へジャンプ

健康
           
ギックリ腰初体験(平成6年12月14日脱稿)
  12月11日(日)名古屋グリーンテニスにて、6セット目のプレイ中、突然ギックリ腰が発生。急に腰の屈伸とダッシュが困難になった。

    仲間が異常な動きに即座に気が付いた。プレイ中のゲームだけは終りまでやろうと思っていたが、仲間のお勧めで中止した。
上に戻る
全身痙攣(平成7年9月18日脱稿)
   平成7年8月27日、何時ものように名古屋グリーンテニスで半日プレイをした。仲間が疲れたと言うので目標の6セットには辿り着けずに、5セット終了時点で解散した。

      その時点までの水分の摂取量は、早朝に砂糖抜きの薄い紅茶を3リットル、プレイ中には間歇的にビールを500CC+ 500CC+633CC飲んでいた。
上に戻る
味覚異常(平成8年5月31日脱稿)
   去る5月10日(金)、片山津温泉に妻と久し振りに出掛けた。北陸自動車道(これは高速道路ではない!従って多少は運転し難いが我慢した。日本の高速道路は名神と東名だけである。この事実を知っている人は物知りである!疑問ならば地図を御覧下さい)日本海側の南条サービス・エリアで休憩がてら、旅の恥は掻捨てとばかりに日頃の卑しい癖が頭をもたげ、試食品のつまみ食い三昧をした時のことである。

   “健康のためとはいえ北陸には、これほどまでに減塩食が徹底して普及しているのか!”と奇妙に感じた。カマボコ類の練り製品を初め、各種漬物類までにも全く塩分を感じなかった。しかし、これでは文字通り“過ぎたるは、なお及ばざるがごとし”なのでは無いかとの疑問もかすめた。
上に戻る
全身こむら返り(平成8年8月20日脱稿)
   さる平成8年8月13日(火)、昨年8月27日に引き続き、救急車をまたもや煩わしてしまった。

      昨年に比べ、格段に深刻な状況だった。これに懲りて、再発防止対策も立てた。以下はその反省も込めての顛末記である。
上に戻る
増血食事療法(平成9年9月24日脱稿)
   血液が相対的に少ないのか、心臓の筋肉が弱いのか、血圧はやや低く(過去10年、60〜125mmHg前後)少年時代から極端な寒がり屋だった。

      戦後ではあったが、小学生時代の冬には防空頭巾を被って通学していた。今なお、握手時に私より手の温度が低い人に出会う確率は1%もない。とは言え、体温だけは36.5度と正常だった。
上に戻る
燻製作り(平成9年10月8日脱稿)
  我が体験によれば会費1万円前後の立食パーティでは例外なく、紅鮭のスモークサーモンが出されていた。超高級品は百グラム1500円もする。丸善名古屋店の隣に位置する『明治屋』では、超高級品を必要な量だけスライスして売ってくれる。
      
   パーティの花として出されるスモークサーモンは、高価であるが故に限りなく薄くスライスされ、大量のオニオンスライスの上に広げられる。しかも豪華さを演出するかの如く特等席に配膳されている。養殖もののタイやヒラメの刺身とか、和牛のヒレステーキよりも、遥かに早く姿を消してしまうのは、恒例のことだった。
上に戻る
多重がんの闘病記(平成15年8月10日脱稿)
   平成14年11月28日、豊田地域医療センターにて胃がんの宣告を受けた。同年2回目の定期検診の結果とは言え、我が心には青天の霹靂に等しかった。更に12月14日には追い討ちをかけられるかのごとく、2個・合計10cmの食道がんをも発見。我が人生もついにこれまでか、との気絶しかねないほどの精神的な打撃を受けた。                                 

   急遽、愛知県がんセンターにて12月19日に胃の2/3を摘出。引続いて1月14日から3月18日まで食道がんへの放射線外照射を25回・同腔内照射を4回受けた。ルゴール染色法・生検・CT・PET(陽電子放射断層撮影装置)による検査の結果、幸いにも6月30日に主治医から待望久しかった寛解のご託宣。今後は定期的な検診による経過観察を受けることになった。              

   この間、日本を代表するような名医に出会い、多くの看護師や医療技師の献身的なご尽力に接しただけではない。100人を越えるメル友、友人・同室のがん先輩、親戚や家族からの励ましも受けた。この貴重な体験を『自分史のひとこま』として取りまとめ、賢人各位への感謝の気持ちを込めて、ここに謹んで奉告する。   
上に戻る
肺への転移疑惑(平成17年3月10日脱稿)
   がんの有無の検査手段は大変多い。しかし、残念ながらその精度は偽札の見分け方などに比べると大変悪い。厚生労働省の発表によれば、例えばバリウムを使った胃がんの有無検査の誤診率は40%もある。

   肉眼で直接観察も出来るし手で触れることも出来る乳がんの検査ですらも、医師の五感に頼る検査では当てにならないことが判明したため、主流は『マンモグラフィ』と称されているX線撮影に変わってきた。
上に戻る
医療事故寸前だった!?(平成17年8月8日脱稿)
   去る3月1日に名古屋共立病院で最新型のPET/CT複合機による全身のがん検査を受けた。3月7日に愛知県がんセンターにて主治医から『今回も異常は発見されなかった』との検査結果の報告を受けた。
   
   7月4日に愛知県がんセンターにてその後の経過の問診と触診。その時に、主治医不破放射線治療部長と、今まで何時も指名させて頂いていた内視鏡部澤木医長の診察日に合わせて、内視鏡による総合検査の予約を、8月1日8時30分に指定していただいた。
上に戻る
生肉療法(平成18年7月30日脱稿)
   最近ゴルフ仲間が、多重がんで衰弱している筈の私の飛距離が、何故か格段に伸びてきたと一様に激賞し始めた。かつてはOB多発の谷越えの難関ホールでも、今や面白みが激減。その主因は今年から始めた『生肉喫食』にあると自己評価。

   全動物界の食生活を観察すると、総ては非加熱・未調理食材を喫食していることに嫌でも気づく。原人以降の人類(原人・旧人・新人)だけが、地球の生命史上初めて加熱処理の食材を食べ始めた。これは人類の異常な繁殖には役立ったものの、何億年もの間継続してきた生命維持手段の伝統から外れた特殊な行為に思えてきた。
上に戻る
尿線分裂(平成18年8月29日脱稿)
   ゴルフ仲間のトヨタ後輩がある時、『おしっこの時に洋式便器を汚すようになった。石松さん、そんな体験はありませんか?』、と質問した。

   横で聞いていたトヨタ同期が、『大の時と同じように、座っておしっこをしている』、と代返した。
上に戻る
痛風の再発平成18年9月9日脱稿)
  加齢が進むにつれ、希望もしていない厄介な病気が増える。とうとう、がんの次に嫌いな痛風が再発してしまった。飲食に起因しているのか、体質なのか???
上に戻る
鼠退治騒動(平成18年9月18日脱稿)
   今夏、インターネットの同軸ケーブルが鼠に噛み切られてしまった。ケーブル内の8本の細いワイヤーの結線は何とかできたものの、真因対策としての鼠の駆除は試行錯誤の連続。

   二ヶ月もの予期せぬ時間を要した。
上に戻る
がんのミニ解説(平成18年10月19日脱稿)
   毎年一回開かれるトヨタ同期の懇親会が10月19日に近くのホテルで開かれた。その前日に、今年の幹事から突然頼まれた『がんのミニ解説』を、海外旅行(10/1〜10/15)から帰国間もない時差ボケ頭で実施した。

   仲間は既にがん年齢に到達しているためか、予期せぬほどの熱心さで聴いてくれた。
上に戻る
白内障の手術(平成18年11月3日脱稿)
    20年以上も前から両眼共に白内障の自覚症状が現れ、それ以降徐々に悪化して来た。ところが数年前から左目の白内障が急速に悪化し始めた。右目の視力は0.7で安定していたが、段々と小さな文字が読み難くなってきた。数年前から老眼鏡を使い始めたら、新聞を読むのにもパソコンの操作にも支障は無かった。眼鏡なしで昨年(平成17年)も免許証を更新できた。

   ところが、本年6月、父の日のお祝いに来宅した長男にビールを注ごうとしたら、差し出されたコップの手前にビールを注いでしまった。距離の視認感覚がいつの間にか衰えていたのだ。それに加えて車の車庫入れも困難になってきた。
上に戻る
藤田保健衛生大学市民公開講座(平成19年2月11日脱稿)
   ゴルフとテニス仲間のトヨタ先輩に誘われて、藤田保健衛生大学(愛知県豊明市)の第12回市民公開講座に平成19年2月10日、初めて参加した。

   藤田保健衛生大学に出かけたのは初めてだが、カーナビで簡単に辿り着けた。自宅から僅か15Km地点にあったが、ゴミ屋敷みたいな名大医学部とは格違いの、壮大な建物群に出会って些か驚いた。
上に戻る
がん、その2回目の挑戦(平成19年9月28日脱稿)
   胃がんと食道がんの治療後、愛知県がんセンターで予後の経過観察をしていたが、主治医の副院長不破医師から2年位前に『がんは完治しました。今後の経過観察は不要です』とのご託宣を受けた。

   しかし私は『検査費用は気にしていませんから、経過観察をしばらく続けて下さい』と無理にお願いし、以後8ヶ月置きにPET/CTと並行して内視鏡による食道と胃の目視観察及び食道のルゴール染色法による検査や血液検査(マーカー値の確認)を続けていた。
                                                                                                                   上に戻る
   
がん、その2回目の挑戦に辛勝(平成19年12月27日脱稿)

   最初の食道がんが平成15年6月に寛解した後もPET・CT・内視鏡・血液検査による経過観察は欠かさなかった。寛解後の正(まさ)しく4年後の平成19年6月に新発食道がんが一度に3個も発見された。その内の小さな2個は同月直ちに内視鏡で切除したが、頚部の大きな1個の治療には陽子線照射を選択。

   照射治療の3ヶ月後に待望の寛解のご託宣が出た。二度もの発病に懲りて遂に禁酒(正確には節酒。平均酒量は従来の1/5以下)を決意。更に10年生き永らえられれば待望の平均寿命(日本人男子は79)に辿り着ける。今後も油断せずに定期健診を主治医と相談しながら適宜受け続ける覚悟である。

                                                                                                                          上に戻る
がんの治療体験の講演(平成20年2月24日脱稿)

   平成20年2月24日に福岡市の大博多ホールで、(財団法人)脳神経疾患研究所付属総合南東北病院が主催した陽子線市民公開講座でがんの陽子線治療の体験を講演した。

   そのときに使ったスライド20枚とその説明のための原稿を転載した。

                                                                                                                      上に戻る
 
がん、その5回目の挑戦(平成20年5月27日脱稿)

   胃がんの手術(胃の2/3の摘出)から5年半が過ぎた。

   がんの世界では死亡率は使わない。(注。がんの死亡率≠1−生存率)。 がん患者ががん死したのか、その他の病気や事故で死んだのか死因の特定は難しいからである。一方、生存者の集計は簡単明瞭。

   がん患者にとっては5年経過は大きな節目。今や我が胃がんは幸いにも完治に近い。
                                                                                                                      上に戻る

南東北病院広報誌(平成20年6月11日脱稿)

   去る2月24日(福岡市)と4月27日(名古屋市)での陽子線市民公開講座でがん体験を講演した。その後、これらの講演会を主催した南東北病院の広報誌(B4版4ページの内、1〜3ページ)4月号に講演要旨が掲載された。

   
主催者の同意を得て、その全文を我がホームページに転載した。                                                                                                                                                       上に戻る

糠漬けに挑戦(平成20年7月29日脱稿)
   子供時代、夏には母手作りの糠漬けを食べて育った私は、新婚早々の丁度40年前に糠漬けを食べたくなり、新妻に糠漬けを作ってくれるように所望した。見様見真似で暫くは作っていたが、臭いが嫌だとか言って沙汰闇になった。

   荊妻に見放された私は20年位前に、浅漬け用の容器セット(容器と重石と蓋)を買い、漬物の専門書を読んでは家庭菜園で収穫した高菜・二十日大根・野沢菜等を時々漬けたが、発酵食品とは言い難く、単なる塩漬けに過ぎず、サラダを食べているような食感に留まり、長続きはしなかった

                                                                                                                                               上に戻る

連日の下血に驚愕(平成22年8月6日脱稿)
   平成22年6月11日、朝の排便時に便器一杯に広がっている鮮血を発見。さては前々から警戒していた大腸がんか?と一瞬驚いた。毎年一回の健康診断を今年は4月12日に豊田厚生病院で受けた。大腸がんの潜血反応は今年も陰性だったのに、何故だろうか? 過去9回受けたPETでも異常は発見されなかったのに!

   7年半前に胃がんが発見される以前の私だったら、即座に豊田市では関係者からは高い評価を受けている近くの家田病院(112床・名大医卒4名他合計8名の専門医・肛門科と胃腸科の専門病院)に駆け込むところだったが、がんと闘っている内に、今では冷静に行動できるようになっていた。 

                                          
                                                                                                     上に戻る